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国を治むるに正法をもってせよ──古代の天皇が重んじた仏典の中身 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

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 国を治むるに正法をもってせよ
 ──古代の天皇が重んじた仏典の中身
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 前回、歴代の天皇が自然災害に苦しむ民に心を寄せられ、御仁慈を示されたこと、それが皇室の伝統であること、について書きました。それなら、歴代天皇はなぜそうされたのか、何がそうさせたのか、について、考えてみます。

 伝統的な考え方からすると、天皇統治は、皇祖天照大神の委任を受け、その血統を受け継いだ、万世一系の天皇による統治です。天皇のお役目は、「しらす」(民意を知って統合を図ること)であり、天皇は神々と民と命を共有する神人共食の儀礼を第一のお務めとされてきました。

 天皇は民の喜びや悲しみのみならず、命をも共有しようとされます。その精神は神人共食の祭祀によって磨かれます。天皇=祭祀王というのが伝統的な考え方なのでした。第八十四代順徳天皇は「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(『禁秘抄』)と書き記されています。

 けれども、神道的な祭祀をなさるのだけが天皇ではありません。それどころか、歴代の天皇はしばしば仏教に帰依されました。

 興味深いのは、その帰依のあり方です。


▽ とくに重んじられた天武・持統天皇の時代

 なかでも重んじられたのが金光明経(こんこうみょうきょう)でした。金光明経は、仁王経、法華経とともに、国家安泰を願って用いられる護国三部経のひとつとされています。

 たとえば、『日本書紀』によれば、金光明経が最初に用いられたのは、天武天皇5年11月20日のことで、「使いを四方の国に遣わして、金光明経・仁王経を説かしむ」とあります。

 天武・持統期には、金光明経がとりわけ重視されたようです(松本信道「天武・持統朝の護国経典の受容について」)。

 それはなぜなのでしょうか?

 国を揺るがす壬申の乱後に即位された第四十代天武天皇は、神道儀礼を整備され、伊勢神宮の斎宮制度を確立され、式年遷宮を定められたほか、一世一度の大嘗祭を斎行されました。

 その一方で、仏教を推進され、百済大寺を遷立して、高市大寺と改称され、皇后(第四十一代持統天皇)の病気平癒祈願のために薬師寺建立を発願され、さらに金光明経を宮中などで講説・読誦させたのでした。病気平癒祈願がその目的のひとつとされます。

 つづく持統天皇は薬師寺を完成させて、勅願寺とされました。そして先帝のために内裏で営まれたのが金光明経斎会(さいえ)でした。金光明最勝王経(唐の義浄による金光明経の漢訳)を講ずる法会(ほうえ)です。

 みずから出家され、僧形となられた最初の天皇は第四十五代聖武天皇ですが、聖武天皇もまた金光明経に注目された天皇でした。

 聖武天皇の治世は、自然災害が多発し、疫病が流行した時代でした。天皇は諸社に奉幣されて神々に祈り、大赦を実施されて罪人を放免しました。

 他方、深く仏教に帰依され、盂蘭盆(うらぼん)供養を宮中行事とされ、金光明経を写経して全国に弘通し、国分寺建立、東大寺盧遮那仏(るしゃなぶつ)建立の詔を発せられました。

 つづく第四十六代孝謙天皇(重祚して第四十八代称徳天皇)の場合は、たいへん興味深いことに、その宣命(せんみょう)において、神祇と三宝の順位が逆転し、とくに金光明経が重んじられていることが指摘されています。内親王時代から何度も写経され、座右の経典とされていたというのです(勝浦令子『日本古代の僧尼と社会』)。

 政治的な転換期、災害が多発する混乱期に、天皇が金光明経に重きを置き、みずからの指針とされていたことが理解されるのですが、それならどのような内容の経典なのでしょうか?


▽ 世の悪業を黙視してはならない

 壬生台舜大正大学名誉教授が翻訳された『金光明経』を読んでみます。

 冒頭の「序品(じょほん)」以下、31の「品」から構成されるなかで、もっとも注目されるのは「王法正論(おうぼうしょうろん)品・第二十」です。

 人王たるものが国を治め、衆生を安養し、長く王位にとどまるためには、治国の要諦たる王法正論が必要だから、説いてほしいという求めに応じて、世尊(お釈迦様)が説明していくという内容になっています。

 壬生先生の解説を参考にすると、世尊は次のように説明しています。

 なぜ天子というのか、なぜ人間に生まれて人主となり、天上では天王となりうるのか、それは先の善業の力によって天に生じて王となることができ、人中においては人主となるのである。人世にあっても尊勝のゆえに天と名付けられ、諸天が護持するから天子と名付けられる。悲報悪業を滅除すれば天上に生ずることもできる。

 だから人王たるものは世の悪業を黙視してはならない。もし悪を放置すれば、国内は乱れ、怨敵に侵入され、国土は破壊され、富は失われ、天災地変が頻発し、日食・月食が起こり、五穀は実らず、飢饉となり、戦乱が起こり、疫病が流行する。

 そして、国を治むるに正法をもってし、たとい王位を失っても、生命に危害が及ぼうとも、悪法を行ずるなかれ、善をもって衆生を教化せよ、そうすれば国土は安寧を得る、と世尊は説いています。

 善をなせと教えるだけではなく、悪を認めてはならないと世尊は教え、悪政には天罰が下り、悲惨な結末を迎えると警告したのです。

 古来、「天皇に私なし」とされ、天皇は天変地異や乱世で人々が苦しむのを憂い、あまつさえ日食・月食をも災いとし、ひたすら民に心を寄せられ、しばしばご自身の不徳を責められました。なぜそうされたのか、仏教的にも説明できることが理解されます。

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安保法案の議論はなぜ深まらないのか──朝日新聞の社説を読んで思うこと [朝日新聞]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 安保法案の議論はなぜ深まらないのか
 ──朝日新聞の社説を読んで思うこと
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 安全保障関連法案(平和安全法制関連法案)の国会審議が最終段階を迎えた。野党は激しく抵抗しているが、よほどのことがない限り、法案は今日中に成立するだろう。

 日本の安全保障政策をめぐる、歴史的な転換点だが、それに見合う、十分な審議が尽くされたのかどうか、大いに疑問が残る。

 試みに朝日新聞の社説を読んでみると、その理由が浮かび上がってくる。

 この数か月、何度も社説のテーマとしてきた朝日だが、この15日からは、以下のように、連日、欠かさず取り上げている。

 15日 安保法案 民意無視の採決やめよ
 16日 安保公聴会 国会は国民の声を聴け
 17日 「違憲立法」採決へ 憲法を憲法でなくするのか
 18日 安保法案、採決強行 日本の安全に資するのか

 今日の社説では、法案の違憲性だけではないとし、「新たな法制で日本はより安全になるのか」と踏み込み、「そこに深刻な疑問がある」と指摘している。

 まさに仰せの通り、問題の核心はそこなのだが、一読者としては、社説が展開する論理にもまた「深刻な疑問がある」と感じざるを得ないのである。


▽ 国際的環境の劇的な変化

 世間のおおかたの議論は、いみじくも朝日新聞が「違憲立法」と呼んでいるように、違憲性の議論にとどまっているから、「それだけではない」と、より深く本質に切り込もうとする朝日の姿勢はさすがである。

 憲法を字面通りに解釈するなら、自衛隊の存在はむろんのこと、法案に反対する憲法学者たちが所属する大学に、もし私学だとすれば、公費を支出することもまた違憲なのだが、実際は違憲論者は一部にとどまる。現実を見定めることによって、あるいは周辺環境の大きな変化に伴って、法的解釈と運用は当然、変わってくる。

 重要なことは、憲法解釈・運用の前提となる、日本の平和と安全をめぐる、「戦後」と呼ばれてきた時代の国際環境の劇的な変化であり、したがって、それに呼応した軍事的・外交的対応の的確性こそが議論されるべきだと思う。ところが、社説の議論は、前提となる環境の変化を見定めていないように見える。

 社説は軍事的な抑止力だけでは不十分で、地域の緊張を緩和させる外交的努力が欠かせないと訴えている。そんなことは当たり前のことで、問題は、社説が指摘しているように、「中国の軍拡や海洋進出」という現実的な環境の変化に対して、日本が「どう向き合うか」である。

 社説は「抑止偏重の法案だけで対応できない」「南シナ海に自衛隊を派遣したとしても解決しない」「日中関係のカギは『共生』だ」「協力の好循環だ」と訴えるだけで、現実離れした青っぽさを禁じ得ない。


▽ 憲法9条ではなく前文

 与野党の対立もそうだが、メディアも含めて、議論が深まらないのは、問題意識が共有されていないからではないか?

 朝日の社説は、戦後日本の安全と地域の安定は「憲法9条がもたらした安全保障」と言い切っている。しかし、そうではないと思う。現実を見定めない「9条」第一主義は、同時に現実への対応を誤らせることになると思う。

 問題は「9条」ではなく、日本国憲法前文である。

 前文は、「日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳っている。戦後日本の「安全と生存」は「諸国民の公正と信義」に立脚してきた。

 実際、この70年、世界のどこかで戦争の狂気はつねに繰り返されてきたが、東西の冷戦構造の狭間で、奇跡的に、日本は悲惨な戦争を直接、体験することを免れてきた。朝日の社説が主張するように、9条によって守られてきたのではない。

 ところがいまや、憲法前文の「諸国民の公正と信義」という、平和の大前提が崩れている。社説が取り上げる「中国の軍拡や海洋進出」だけではない。要するに、ヤルタ・ポツダム体制が崩壊したのである。

 けれども、その時代認識が共有されていない。混乱の原因はそこにあるのだと思う。

 政府も、なぜいま安保法制なのかをきちんと説明していない。他方、集団的自衛権行使に賛成していたはずの民主党議員は議論の輪に加わろうとしない。

 当然、国会審議は迷走し、理性ぬきの政局化は免れない。これで平和と安全は保てるだろうか?


▽ 覇権主義国家との「共生」は可能か

 朝日の社説は中国との「共生」を強調している。大賛成である。しかし、それなら相手国は日本との「共生」を求めているのだろうか? 相手が望まないのに、一方的な「共生」はあり得ない。逆に世界的な覇権を追求する国との「共生」は可能だろうか? 国際関係は関係論であって、1カ国の政策では決まりようがない。

 社説は、イラク戦争への自衛隊派遣について、日本政府が検証していないと指摘している。まったくその通りだと思う。しかしそれなら、議論を喚起すればいい。それがメディアの責任というものではないだろうか?

 社説は、「貧困、教育、感染症対策、紛争調整・仲介など、日本が役割を果たすべき地球的規模の課題は多い」と指摘している。これもその通りだと思う。しかしそれなら、そのように提言すればいいのである。

 ただ、そうした非軍事的な戦略によって「日本はより安全になるのか」どうかは、まさに社説が「新たな法制で日本はより安全になるのか」と問いかけ、「深刻な疑問がある」と疑いを示しているように、「深刻な疑問がある」。

 日本が敵対視せず、友好を呼びかけても、安保法制が成立したわけでもないのに、「抗日」戦争を戦い続けている国があるくらいである。

 首相が強調する「日本が戦争に巻き込まれることはあり得ない」「自衛隊のリスクは高まらない」を、社説が「新たな『安全神話』」と決めつけるのは自由だが、非軍事的な貢献が「安全」だと考えるのもまた「神話」ではないか?

 国の平和と安全は相手国次第なのであり、戦後日本の平和をもたらしてきた「諸国民の公正と信義」がすでに崩壊している以上、どうすれば国が保てるのか、国民の代表者たちにはそこを真剣に議論してほしかった。
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陛下のお見舞い──皇室の伝統がここにある [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

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 陛下のお見舞い──皇室の伝統がここにある
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 今日も雨である。先週、記録的豪雨の被害を受けたばかりの被災地の人たちには、さぞ恨めしいことだろうと思う。

 大雨が東北・北海道を襲った翌日、陛下は、多数の行方不明者が発生していることに心を痛められ、以前から楽しみにされていたであろう、今日(17日)からの予定だった栃木県へのお出かけをお取りやめになった。関係機関が災害対策に専念できるようにとのお考えだった。

 また、側近を通じて、茨城・栃木両県の知事に対してお見舞いのお気持ちなどをお伝えになった。

 被災地へのお見舞いといえば、平成23年3月の東日本大震災でのビデオ・メッセージが思い出される。

 陛下は犠牲者へのお悔やみ、被災者などへのお見舞いとともに、災害対策に取り組んでいる関係者へのねぎらいのお気持ちを、宮内庁長官を通じて総理大臣にお伝えになり、数日後には国民に直接、語りかけられ、「分かち合い」の精神を訴えられるとともに、復興の先頭に立たれた。各県に金一封を賜り、幾度となく被災者のもとを訪れられ、直接、励まされた。

 しかし、それはけっして大震災だけにとどまるものではない。


▽ 頻発する自然災害

 宮内庁のHPには、陛下の「災害等へのお見舞い」が載っている。21年以後だけを見ても、以下のように、毎年、台風、地震、大雪、噴火のたびに繰り返されている。

 21年7月 中国・九州北部豪雨
 21年8月 台風9号
 23年3月 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)
 23年11月 前年11月からの大雪等
 23年8月 前月の新潟・福島豪雨
 23年9月 台風12号
 24年3月 前年11月からの大雪等
 24年5月 竜巻
 24年7月 九州北部豪雨
 25年3月 大雪等
 25年10月 台風26号
 26年4月 大雪等
 26年8月 広島県の大雨等
 26年10月 御嶽山の噴火
 26年11月 長野県神城断層地震
 27年3月 大雪等
 27年5月 口永良部島からの島民の避難
 27年9月 台風18号


▽ 民の苦しみはわが苦しみ

 22年以外、毎年、お見舞いがあり、23年、26年は4回を数えた。今年は早くも三度のお見舞いを賜っている。それだけ日本列島は自然災害が多いうえに、近年、とくに頻発しているということであろう。

 現代では防災技術が進歩しているから、災害の規模は以前ほどではないかもしれないが、たとえ被災者が1人であったとしても、陛下のご心痛は変わらないだろう。

 災害に苦しむ民にご仁慈を示されるのは今上陛下だけではない。つねに民に心を寄せられてきたのが古来、皇室の伝統なのである。

 その伝統は、宗教的な精神ともいうべきものである。民の命はわが命であり、民の苦しみはわが苦しみとお考えになり、民が苦しむのは自分に徳がないからだと歴代の天皇はご自身を責められたのである。

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天皇・皇室の宗教観 その1 天皇は仏教の外護者であり、信仰者でもあった [天皇・皇室]

天皇・皇室の宗教観 その1
天皇は仏教の外護者であり、信仰者でもあった
(「月刊住職」平成27年9月号)


 今年は「戦後70年」の歴史の節目で、昭和史をめぐる「反省」「謝罪」に内外の注目が集まっている。おりしも今上陛下は年頭所感で「満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学び」と述べられた。春に公刊が開始された『昭和天皇実録』は、予想を上回る大きな反響を呼んでいる。

 昭和天皇は、戦前は「現人神」と神聖視され、「国家神道」の時代に君臨された。戦後は「信教の自由」「政教分離」の時代の「象徴」となられたが、ご自身はどのような信仰をお持ちだったのだろうか?

 皇室の宗教観とはいかなるものなのか。歴代天皇にとって仏教とは何だったのか。今号より数回に分けて考えてみたい。今回は江戸時代までを振り返る。


▽1 天台宗・真言宗の国家的仏事

 70年前の昭和20年元旦、警戒警報のサイレンが闇を引き裂き、サーチライトが幾筋も空を射る非常事態のなか、昭和天皇は御文庫の庭に急造された祭場で四方拝をお務めになった(藤田尚徳『侍従長の回想』)。日本にとっても、皇室にとっても、大波乱を予感せざるを得ない一年の幕開けであった。

 当時は一般に国家神道の時代とされるが、国家的な仏事も同時に行われている。

 真言宗総本山の東寺では、この一週間後、天皇と国家の守護を目的に、真言宗最高の秘儀とされる後七日御修法(ごしちにちみしほ)が執行された。同年一月十五日づけ朝日新聞にわずか数行の短い記事が載っている。

「真言宗最高の厳儀、京都東寺の宮中後七日御修法は十四日結願となり、日下大僧正は御衣を捧持して随員一行とともに同日午後八時五十二分京都発列車で上京した(京都)」。

 だが、これと相並ぶ、天台宗総本山・比叡山延暦寺の御修法(みしほ。御衣加持御修法)についての記事は、わずか二面しかない当時の紙面には見当たらない。

 延暦寺では古来、毎年4月4日から7日間、御修法と呼ばれる大法要が営まれてきた。根本中堂の内陣に天皇の御衣を安置し、国家安泰、玉体安穏、万民豊楽などを、天台座主ほか高僧たちが一週間詰めきりで加持祈祷する。天台密教最高の秘法とされる。

 その始まりは、古くから山岳信仰の対象とされてきた比叡山(日枝山)に伝教大師最澄が堂塔を建て、天台宗を開いてから35年後の弘仁14(823)年といわれる。第50代桓武天皇の招請により、宮中の紫宸殿で、最澄の弟子・円澄が五仏頂法を修念したのが起源とされる(渡邉守順ら『比叡山』)。

 宮中では承和元(834)年、元日から七日まで神事として行われる宮中前七日節会に対応して、八日から十四日まで、後七日御修法が勤修された。

 第54代仁明天皇の勅を奉じて、弘法大師空海が大内裏で勤めたのが最初とされ、翌年には空海の奏請によって宮中に真言院が造立され、大極殿で護国経典の金光明最勝王経を転読講讃する宮中御斎会と並行し、顕密相対して営まれることとなった。導師は東寺の長者が務めた。

 世尊は金光明最勝王経の「王法正論品第二十」で、「先の善業の力によって天に生まれ、王となった」「諸天の護持によって天子と名づけられた」とし、「国を治むるに正法をもってすべし」と教えている。悪政には天罰が下り、悲惨な結末を迎えると警告している。

 皇祖天照大神からこの国の統治を委任され、公正かつ無私なるお立場で、「国中平らかに安らけく」とひたすら祈り、国と民の統合を第一のお務めとする祭祀王が天皇であるという考えと共通するものがある。

 天皇みずから宮中で神道儀式を斎行される一方で、皇室ゆかりの名刹では勅命によって国家的な大法要が営まれる。皇室あるいは天皇の信仰、宗教観は、国民の多様なる価値観を同等に認める、日本古来の価値多元主義に支えられていることが分かる。

 歴史を振り返れば、歴代天皇の宗教的お立場はさらに明らかになる。


▽2 仏教の国家的受容

 北インドで生まれ、西域、中国南朝、百済を経由してきた大乗仏教は、一切衆生の救済を図る教えだった。中国南朝の梁では仏教文化が最盛期を迎え、国家儀礼は儒教ではなくて、仏教形式だった。三国時代の朝鮮では、仏教は律令制度の整備と関連して、国家建設の理念として機能したといわれる。

 百済から日本に伝えられたのは第29代欽明天皇の時代で、『日本書紀』には聖明王(聖王)が使者を遣わし、釈迦仏金銅像一体のほか、幡蓋、経論を献上したとある。

 公伝後、神道儀式に関わる物部・中臣両氏と渡来人との関わりの深い蘇我氏とのあいだで、廃仏か崇仏か、激論が交わされた。

「西蕃の諸国は礼拝している」

「天地社稷を祀るのが天皇だ」

 天皇は蘇我稲目に仏像を授けられ、礼拝を許されたが、やがて疫病流行の責任を負わされ、仏像は廃棄された。すると風もないのに大殿に火災が発生した(書紀)。

 仏教が国家的に受容されたのは、最初の女帝、第33代推古天皇の時代である。蘇我馬子の姪に当たられる天皇は、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とされ、仏教を興隆された。天皇は仏教の外護者となられた。

 太子は四天王像を彫られ、崇仏派の戦勝を誓願し、勝利ののち、四天王寺を建立された。他方、物部氏は没落した。

 天皇は氏姓制からの脱皮を図られ、中央集権化を推進され、仏教思想に基づく十七条憲法を制定され、官人や貴族の道徳的規範が示された。しかし第一条には「和を以て貴しと為し」と、儒教もしくは日本古来の「和」の思想が宣言されていた。中国、朝鮮とは異なり、既成宗教が排除されず、共存した。

 冒頭に取り上げた宮中祭祀の四方拝は、第35代皇極天皇の時代に始まった。『書紀』では雨乞いとされている。道教由来の儀式とも指摘される。皇室第一の重儀とされる新嘗祭(大嘗祭)の儀式は、この時代に定まったといわれる。新嘗祭は一般に稲作儀礼と理解されるが、宮中では米と粟の新穀が皇祖神ほか天神地祇に捧げられる。天皇の祭祀は特定の信仰に偏しない複合儀礼といえる。

 皇極天皇は「古の道に従って政治を行った」(書紀)とされる。だが、他方では最初の国家寺院、百済大寺の建立が命じられた。

 壬申の乱後、即位された第40代天武天皇は有力豪族を排除した皇親政治を開始され、神道儀礼を整備され、仏教を推進された。

 天皇が皇女大来皇女を伊勢神宮に捧げられたのが斎宮制度の確立とされ、式年遷宮はこの時代に定められた。また、毎年の新嘗祭と区別して、格別の祭儀として一世一度の大嘗祭が斎行された。

 他方、川原寺(弘福寺)で写経がはじめて行われた。百済大寺が遷立され、高市大寺と改称された。皇后(のちの持統天皇)の病気平癒のため薬師寺建立が発願され、100人の僧侶が得度された。

 第41代持統天皇は薬師寺を完成させて勅願寺とされ、先帝のため金光明経斎会を内裏で営まれたとされる。崩御ののち火葬された最初の天皇でもある。

 第42代文武天皇の時代には大宝律令が完成した。宮中祭祀と仏教儀礼を宗教的基盤とし、律令に基づく制度が整備されていった。

 第44代元明天皇の時代に完成した『日本書紀』は、天地開闢に始まり、天孫降臨を経て、国つ神の娘たちとの婚姻が重ねられたのち、初代神武天皇が生誕されたと説明する一方、欽明天皇以後の仏教伝来と受容、定着を詳述している。各氏族の神々が国家的神として体系化される半面、仏教の国家的地位は揺るぎないものとなった。


▽3 仏式の即位儀礼

 みずから出家され、僧形となられた最初の天皇は、第45代聖武天皇である。

 天皇は災害の多発、疫病の流行をまえに、諸社に奉幣され、大赦を実施され、また深く仏教に帰依され、大膳職に盂蘭盆供養を行わせ、宮中行事とされたという。国分寺建立、東大寺盧舎那大仏造立の詔を発せられた。

 さらに東大寺に行幸され、大仏に北面され、「三宝の奴と仕え奉る天皇」と奏上された。大僧正行基を請じて受戒・出家され、皇女の孝謙天皇(第46代)に譲位されたのち、「太上天皇沙弥勝満」と称された。

 以前の仏教は国家鎮護が目的で、民衆への布教は禁止された。禁を破って各地に寺を建て、社会事業を展開した行基は当初、弾圧されたが、聖武天皇は行基を日本初の大僧正に任じられ、東大寺造立の責任者とされた。

 東大寺大仏の開眼供養は仏教公伝200年の年、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇ほか万余の要人たちが参列した。またお三方は唐僧鑑真によって菩薩戒を授けられた。

 孝謙天皇は皇位継承後、一代一度の大仁王会を営まれ、即位式、大嘗祭とともに御代替わり儀式として位置づけられた。やがて出家ののち、藤原仲麻呂の乱を経て重祚され、第48代称徳天皇となられた。

 注目すべきことに、宣命を見ると、出家の前後で、神祇と三宝の順位が逆転している。とりわけ最勝王経が重んじられた。天皇は国家第一の仏弟子となられた観がある。

 称徳天皇は、看病僧の弓削道鏡を太政大臣禅師に、さらに法王に任じられた。また「皇位にある者は菩薩の浄戒を受けよ」と宣言され、仏教は皇位の正統性にもっとも重要な役割を果たすこととなった。皇祖天照大神を祀る、皇室の祖廟・伊勢神宮に神宮寺が造立され、仏像が建てられた(続紀)。

 しかしその一方で、孝謙天皇の治世に施行された養老律令は、官僚機構に宮中祭祀を司る神祇官と国政を統括する最高機関の太政官が並立する二官八省が採用された。令には「神祇令」と「僧尼令」が並んでいるが、「神祇令」には「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」と記されている。

 第50代桓武天皇によって平安京が開かれた延暦年間、宮中で天皇の安穏を祈願し、正月の御斎会で読師を務める内供奉十禅師のお役目を賜った最澄は以来、毎日、天下太平、万民豊楽を祈り続けることとなった。長日御修法と呼ばれる。

 とくに国家の大事や特別の異変が起きたときに、宮中で修されたのが「四箇の大法」と称される特別の修法で、青蓮院、三千院、妙法院、延暦寺で執り行われた。これが現在の御修法の源流とされる。

 第52代嵯峨天皇は空海に、高野山に加えて東寺を給預された。東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場と位置づけられた。延暦寺の寺号は嵯峨天皇の勅によって許された。


▽4 仏門に帰依する

 仏の教えは歴代天皇の内心に深く刻み込まれていくこととなった。

 第54代仁明天皇、第56代清和天皇、第57代陽成天皇は譲位後、出家された。なかでも清和天皇は第一皇子の陽成天皇に譲位ののち出家され、仏門に帰依された。畿内を巡幸され、絶食を伴う苦行を重ねられ、その地を隠棲の地と定められて、寺院建立中に病没された。

 清和天皇は最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」の諡号を贈られた。空海は第60代醍醐天皇から「弘法大師」の諡号を贈られた。

 法皇と称された先駆けは第59代宇多天皇で、いったんは臣籍降下されたが、父君光孝天皇が病を得られたことから親王に復され、皇位を継承された。朝廷の実権は関白藤原基経の手にあり、親政開始はその死後である。

 天皇は先帝の御遺志を受け継がれ、勅願寺として仁和寺を造立された。その一方で、宮中祭祀の四方拝は宇多天皇のときに定着したとされる。毎朝御拝もまた宇多天皇の時代に始まった。

 その後、突然、皇太子を元服させ、即日、譲位された天皇は落飾、受戒されたのち、仁和寺に入られ、さらに伝法灌頂を受けられ、法王となられた。御室門跡の始まりである。仁和寺は門跡寺院の筆頭として仏教各派を統括した。法王は比叡山や熊野三山にたびたび参詣された。

 第65代花山天皇もまた突如、宮中を出られて退位され、仏門に入られ、法王となられた。法王は西国三十三の観音霊場を巡礼、修行された。これが西国三十三所巡礼の歴史の始まりとされる。

 法王となられた天皇は、第102代霊元天皇まで、45代に及ぶ。

 ときは移り、武家が支配する時代を迎える。

 第81代安徳天皇が三種の神器とともに都落ちされたのち、仏教を篤く信仰され、平清盛とともに東大寺で受戒された後白河法皇(第77代天皇)の院宣を受け、第82代後鳥羽天皇が践祚された。神器なき即位で、日本史上初めてお二方の天皇が並立される事態となった。安徳天皇は伊勢神宮を遥拝され、念仏を唱えられて入水されたといわれる。

 第84代順徳天皇は宮中のしきたりに通じ、『禁秘抄』を著された。その冒頭には「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とある。父君後鳥羽上皇による承久の乱の前夜、皇室存亡の危機のまっただ中にあって、天皇第一のお務めは敬神、崇祖であり、神祭りであると明言されたのである。

 倒幕失敗後は後鳥羽上皇、兄君の土御門上皇とともに配流の身となられた。後鳥羽上皇は隠岐で法華経の功徳を詠まれた。

わが頼む御法の花の光あらば暗きに入らぬ道しるべせよ

 南北朝時代になると、三種の神器を持たない北朝では真言宗の秘法によって皇位の継承が執り行われた。やがて即位大嘗祭に即位灌頂と呼ばれる仏教儀礼がつけ加えられ、江戸末期まで行われた。大嘗祭が中絶した時代には、皇位継承の唯一の儀式だった。天皇は印相と真言を伝授され、即位式で実修され、高御座に登られたのである。


▽5 宮中儀礼の復興

 元亀2(1571)年、信長は比叡山を焼き討ちにした。堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰し、比叡山の地主神で、延暦寺の守護神とされた日吉大社も消滅した。

 ときの天台座主は第105代後奈良天皇の第三皇子で、第106代正親町天皇の弟君・覚恕法親王であられた。記録によれば、正親町天皇が比叡山百八社再興の綸旨を出されたが、信長が押さえた。比叡山を再興させたのは秀吉で、造営費用に青銅一万貫を寄進した。

 応仁の乱後、中絶していた宮中の後七日御修法は元和9(1623)年、第108代後水尾天皇の尽力などにより、170年ぶりに復興した。

 後水尾天皇といえば、前半生において徳川三代との激しいつばぜり合いを強いられた。下剋上の最終段階において、武断の雄は朝廷をも従えようとしたからだ。「公家衆法度」「勅許紫衣法度」が制定され、「禁中並公家諸法度」が公布された。一方的に立法したうえ、天皇に法の遵守を強要し、栄誉権を取り上げた。耐えかねた天皇は内親王(第109代明正天皇)に譲位され、やがて落飾された。

 他方、家康公を、釈迦如来の化身、東照大権現として祀る日光東照宮は、朝廷から神号と正一位の位階、さらに宮号が贈られ、法親王が入寺され、日光山輪王寺の貫主となられた。例祭には勅使が参向し、奉幣が恒例となった。陽明門などには後水尾天皇御宸筆の扁額が掲げられた。

 当時、天台宗の本山は、将軍家菩提寺でもある東叡山寛永寺で、法親王が歴代、門主となられ、日光山、比叡山をも管轄された。

 一方で、後水尾院は第四皇子・第110代後光明天皇への宸翰に「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事」と認められた。天皇第一のお務めは神事であることが明記されている。

 後水尾天皇の時代にはもうひとつ、仏教史上特筆すべき大変革が起きた。

 幕府は禁教令を発し、バテレンを国外追放し、さらに切支丹奉行をおき、宗門改と寺請・檀家制度を発足させた。隠れキリシタン探索のための制度が全国化し、身分を問わず、特定の寺院を菩提寺とし、檀家として所属することが義務づけられた。

 けれども天皇のお膝元、京都・祇園社(八坂神社)の祇園祭では、フランドル地方で製作され、旧約聖書の物語をテーマとするタピストリーに飾られた山鉾が都大路を巡行していた。

 後水尾院は昭和天皇に次ぐ歴代二位のご長寿で崩御され、御陵は泉涌寺内に築かれた。


▽6 昭和天皇最晩年の御製

 昭和天皇は晩年、後水尾天皇に心を寄せられた。昭和55年は崩御300年に当たり、式年祭の前日、ご進講が行われた。陛下は後水尾天皇の譲位にいたく関心を寄せられ、資料を集めるよう側近らに指示された(入江日記など)。

 何がそうさせたかは歴史の謎である。

 昭和40年代、陛下はしばしば「退位」を漏らされた。ご高齢を口実に、入江侍従長は宮中祭祀の「簡素化」「工作」を開始した。陛下はご不満で、最大限、抵抗されていたらしい。50年以降は憲法の政教分離原則を法的根拠に、祭祀の改変が一段と進んだ。

 徳川三代による積年の非礼に耐えかねて譲位・落飾され、苦難のなかで中絶していた宮中祭祀を再興された後水尾天皇に、陛下はご自身を投影されていたのではなかったか。

 昭和天皇はとくに祭祀に熱心だったといわれる。けれども他方で、仏教を詠み込まれた最晩年の御製が残されている。陛下は外護者のお立場をお捨てになってはいない。

夏たけて堀のはちすの花みつつ仏のをしへおもふ朝かな

 それなら陛下ご自身の信仰はいかなるものだったのか。次回は神仏分離後の近代史を振り返りつつ、考える。

(参考文献=勝浦令子『日本古代の僧尼と社会』2000年、『日本仏教編年大鑑』2009年、「大法輪」2012年12月号など)
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