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廃仏毀釈の嵐を鎮め、キリスト教文化を受け入れた皇室 ──天皇・皇室の宗教観 その2 [天皇・皇室]

以下は「月刊住職」平成27年10月号からの転載です


 皇室の仏教信仰について、歴史的検証を試みている。前回は仏教公伝から江戸時代までを振り返った。今号では引き続き、明治・大正期、いわゆる「国家神道」時代を考える。

▽1 「泉涌寺を護る会」総裁

 今年(平成27年)5月12日、秋篠宮文仁親王殿下は妃殿下を伴われ、中世以来、皇室唯一の香華院(菩提所)として知られる真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)派総本山・東山泉涌寺を訪れられ、霊明殿に参拝された。

 霊明殿の内陣中央御扉内には第87代四条天皇(在位1332~42)の御尊像(木像)と御尊牌(ごそんぱい)をはじめ、第122代明治天皇(同1867~1912)、昭憲皇太后、第123代大正天皇(同1912~26)、貞明皇后、第124代昭和天皇(同1926~89)、香淳皇后の御真影、御尊牌が奉安され、それ以前の歴代天皇、皇妃、親王方の御尊牌は左右の御扉内に奉安されている。内部の荘厳具は、明治以後の皇族方から寄進されたものといわれる。

 この日は、殿下が総裁をお務めになる「御寺(みてら)泉涌寺を護る会」の定期総会であった。関係者によれば、殿下は平成8年の総裁ご就任以来、毎年欠かさず参拝されている。

 泉涌寺は御寺と呼ばれるほど、歴史的に皇室との関わりが深い。それは第86代後堀河天皇(在位1221~32)が綸旨(りんじ)によって御願寺とされたことに始まるといわれる。

  第82代後鳥羽天皇(同1183~93)、順徳上皇(第84代天皇。同1210~21)、後高倉院(守貞親王)は、開山と仰がれる月輪(がちりん)大師俊芿(しゅんじょう)によって受戒されるなど、深く帰依されたが、四条天皇の御葬地となったことがさらなる縁を刻んだ。

 承久の乱から約20年後の仁治3(1242)年のことだった。天皇は御年12歳でにわかに崩御された。時の執権北条泰時は皇位継承者に、順徳上皇の第5皇子忠成王ではなく、土御門上皇(第83代天皇。在位1198~1210)の第2皇子邦仁王(第88代後嵯峨天皇。在位1442~46)を選んだ。上皇が乱に反対のお立場だったというのが理由らしい。乱の失敗で公武関係は完全に逆転していた。

 御尊骸はその間、放置され、御葬送は崩御から16日後、混乱のなかで執り行われた。なぜ泉涌寺が御葬地となり、御陵月輪陵(つきのわのみささぎ)が境内に造営されたのか、直接的な史料は残されていないが、他寺他山が政争に巻き込まれるのを恐れたなかで、唯一、仏教者本来の姿を保った。四条天皇は俊芿律師の再誕だとする説も生まれたという(『泉涌寺史』など)。

 こうして皇室との縁が結ばれ、その後、北朝第4代後光厳天皇(在位1352~71)から第100代(北朝第6代)後小松天皇(同1382~1412)までの葬場となった。後小松天皇は俊芿に「大興正法国師」の諡号(しごう)を贈られた。

 中世末の戦乱で荒廃した伽藍を現在地に再興されたのは第108代後水尾天皇(同1611~29)で、その御葬礼は泉山で執行され、山内に御廟所が設けられた。以後、第121代孝明天皇(同1846~67)まで御陵が寺内に築かれた。また、後光厳天皇が創建された別院雲龍院や、第51代平城天皇(同806~09)の勅願寺とされ、第105代後奈良天皇(同1526~57)の叡慮によって山内に移築された善能寺など、皇室ゆかりの山内寺院が少なくない。

▽2 神仏分離令と廃仏毀釈

 幕末・明治維新期に到り、泉涌寺のみならず、仏教界は大きな混乱の坩堝に陥れられた。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)である。

 幕府廃絶、新政府樹立を宣言する、慶応3年の王政復古の大号令には「諸事、神武創業の始めに原(もとづ)き」とあった。翌年には祭政一致、神祇官再興が表明され、諸神社、神官らは神祇官に付属されるべきことが布告された。明治天皇は紫宸殿(ししんでん)に神座を設え、天神地祇を祀り、五事の誓約(五箇条御誓文)を行われた。

 僧形の別当・社僧の復飾が通達され、さらに「権現(ごんげん)」「牛頭(ごず)天王」など仏語を神号とする神社の改称、仏像の御神体、鰐口、梵鐘、仏具の撤去が布告された(『明治天皇紀』など)。

 年来の神仏習合の清算は神仏分離にとどまらず、激しい廃仏毀釈へと転化した。いち早く嵐にさらされたのが比叡山延暦寺・日吉社(山王権現社)だった。

『新修大津市史』などによると、青蓮院、妙法院、梶井(三千院)の宮門跡は還俗を命じられていた。宮門跡は多くの場合、天台座主を兼ねていたから、延暦寺は皇室との関係を断ち切られることになった。戊辰戦争の最中で、輪王寺宮の処遇も微妙になった。

 他方、従来、延暦寺の支配下にあった日吉社の社司樹下(じゅげ)茂国は神祇事務局の事務掛に任命された。樹下は分離令後、「年来の宿憤を晴らすべきときが来た」と勇み立った。多年、社僧の下役に甘んじていたのを悲憤慷慨していたのだ。

 生源寺希徳(しょうげんじ・きとく)ら日吉社司は樹下に実力行使の加勢を迫り、樹下は京都吉田社に集合していた神官たちを動員した。4年4月、武装した神威隊と村人らが社殿に乱入し、本地仏や仏器、仏具、経巻などを散々に破壊し、焼き捨てたうえ、鰐口など金具類を持ち去るなど狼藉の限りを尽くし、快哉を叫んだ。

 過激な廃仏毀釈の原因は何だったのだろうか、辻善之助東京帝国大学名誉教授(日本仏教史)は、復古的革命的な気運と明治政府の方針とを挙げ、さらに遠因として、国学の勃興、排仏論の影響、僧侶の堕落を指摘している。

 本来、神仏判然は仏教排撃を意味しない。明治元年の本願寺、興正寺などへの達(たっし)には朝廷の本意は廃仏毀釈ではないと明示され、行政官布告にも神仏混淆禁止は破仏の意味ではないと弁明され、みだりに復飾を願い出ることが牽制された。他方でトラブルもなく、神仏分離がスムーズに実施されたケースもあるという(『明治維新神仏分離史料』など)。

 だが改革は神仏分離に留まらず、引き続いて社寺領の上知(じょうち)が布告された。神社は国家の宗旨とされ、神宮・神社の神官・社家の世襲が廃された。宗門人別帳が廃止され、氏子取調に代わった。新生児は産土社で守札を受け、死亡後は返納された。天社神道(陰陽道)の布教が禁じられ、虚無僧の一派や修験宗が廃止された。托鉢が禁止され、女人結界が廃され、僧侶の蓄髪・妻帯は自由になった(『明治維新神道百年史』など)。

▽3 皇室と泉涌寺

 宮中の年中行事も激変した。

 年始の金光明会、後七日御修法、正月8日の大元帥法、18日の観音供、2月と8月の季御読経(きのみどきょう)、3月と7月の仁王会、4月8日の灌仏会、5月の最勝講、7月の盂蘭盆供、12月の仏名会など、皇室の仏事は明治4年をもってすべて廃止された。幕末の宮中では仏教や陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたのである。

 この一方で、以前は神嘗祭、新嘗祭、歳旦祭、祈年祭、賢所御神楽のほか四方拝、節折、大祓が定められていたが、天長節、紀元節、春秋の皇霊祭など、新たな祭祀が生まれ、石灰壇御拝は毎朝御代拝に代わった。端午、七夕など五節句は廃され、やがて宮中三殿が成立し、皇室祭祀が整備、確立されていった。

 京都御所には歴代天皇の御霊牌や念持仏を祀る御黒戸(おくろど)があり、女官が日々、奉仕していたが、神仏分離後、これらは撤去され、恭明宮に遷座され、さらに泉涌寺舎利殿に遷され、安置された。その後、御黒戸を移築した海会堂に、歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られることとなった。

 泉涌寺について、孝明天皇は「四条帝以来御代々御陵守護の官寺、皇祖御尊敬の訳をもって諸寺の上席となすべし」と詔された。けれども神仏分離の影響を免れることはできなかった。

 泉涌寺の財政は、新政府に5000両の借用を申し入れたほど、御一新の混乱で逼迫した。即位の大礼を前に、明治天皇は泉涌寺内にある孝明天皇の御陵に参拝されたが、歴代の御尊牌に参詣されることはなかった。天皇は史上はじめて伊勢神宮に親拝された。孝明天皇3年忌(3年祭)も、第120代仁孝天皇(在位1817~46)の25回御忌も神式で斎行された。泉涌寺山内の御陵は寺門から切り離され、宮内省所管となった。

 もはや御寺の地位は失われたのか? しかし皇室の支援が途絶えたわけではなかった。孝明天皇御3回忌には大宮御所から銀1000枚の下賜があり、翌年からは年間100石の増禄を賜った。菊の御紋章の使用も例外的に許された。

 ようやく再興の見通しが見えてきた明治15年、泉涌寺は火災に見舞われた。このとき再建の資金を提供したのは宮内省だった。戦後の新憲法公布まで、修理費用はすべて宮内省が支出した。翌16年には明治天皇から俊芿に「月輪大師」の号が贈られた。明治天皇の行幸は元年以来、11回におよんだ。

 仏教の外護者としてのお立場に変更はなかった。

▽4 皇室の仏教信仰

 信仰もまた同様である。

 親王門跡が残らず還俗し、門跡制度自体が廃止されるなか、復飾を拒否した女性皇族方がおられる。伏見宮邦家親王の3姉妹、誓圓尼(善光寺大本願)、文秀女王(円照寺門跡)、日榮尼(村雲瑞龍寺門跡)である。

 なかでも誓圓尼は、「一度、仏教に固く誓った身であるから、たとえ如何なる迫害を受けようとも、このたびの仰せには従い得ない。わが身は終生、仏弟子として念仏弘通のために捧げよう」と断言され、廃仏毀釈の嵐から善光寺を守り抜いた、中興の祖とされる。

 むろんお三方ばかりではない。明治10年、宮内省は孝明天皇の御念持仏を差し出すよう泉涌寺に通達した。仏教に帰依し、供養なさりたいとの英照皇太后の御意向と指摘される。昭憲皇太后もまた光格天皇(第119代。在位1780~17)の勅作とされる阿弥陀如来像を召されたという。

 英照皇太后は昭憲皇太后に諭されたといわれる。

「神仏の教へは、みな正しきにより人の心を導くなれば、けっして疎かに思ふべからず。…(中略)…神を信ずる心は、これやがて仏を尊む心なり。仏を信ずる心は、やがてこれ神を尊む心ともなれ。ただ誠の心もていづれの道をも信ぜよかし」

 明治の皇室の仏教信仰がもっとも色濃く伝えられているのは、日蓮宗大本山小湊山誕生寺である。皇室との関係は、第123代大正天皇(在位1912~26)が皇太子時代に百日咳を患われたとき、誕生寺第61世貫首豊永日良上人が病気平癒を御祈祷し、快癒されたことに始まるという。

 明治天皇の御肌守(おんはだまもり)紺紙金泥細字法華経八巻を奉納されたのは、生母中山慶子典侍であった。有栖川宮熾仁親王は同宮家の御廟所龍王殿を山内に建立された。昭憲皇太后は明治天皇崩御ののち「自我偈(じがげ)」を写経され、納経された。

 この時代はしばしば「神道国教化」と表現されるが、その中心であったはずの神祇官は早くも明治4年には神祇省に降格され、翌年には廃止され、教部省となった。さらに教部省は廃止され、やがて大教宣布の担い手であった神官が教導職を兼務することも禁止された。神社を国家の宗旨とする姿勢は変わらなかった(文部省『学制百年史』)が、天皇の側近には啓蒙主義者が登用されるようになり、宮中の生活様式は急速に洋風化していった。

 他方、神仏分離令後、中絶した後七日御修法はその後、釈雲照の提唱と真言宗をあげての復興運動により、明治16年、真言宗総本山教王護国寺(東寺)の灌頂院で再興され、今日に至っている。真言宗では日清戦争勃発後、大元帥法が修せられ、大正天皇即位礼、昭和天皇即位礼のときにも修せられた。

 また天台宗では、大正9年に御修法の復興を願い出、「聴許相成り候」との回答を得、翌年には御衣の下付が認められ、今日のように毎年、比叡山延暦寺の根本中堂で行われるようになった。

▽5 明治憲法とキリスト教

 宮中三殿が現在地に遷座された明治22年1月からひと月後、信教の自由を明記する大日本帝国憲法が発布された。アジアで最初の近代憲法だった。

 キリシタン禁制の高札撤去から12年後のことで、とりわけキリスト者の喜びはひとしおだった。時事新報に「憲法発布式における市中の賑わい」のひとつとして、こんな記事が載っている。

「基督教信者は今度の盛典を祝せんとて、当日午前8時を期し、各町部の会堂に参集して讃美歌を唱へ、祈祷をなし、皇帝の万歳を祝し奉らんとの手筈なるが、前代未聞の大典なればとて、更に新詠の讃美歌を作らんとの計画もありといふ」

 翌年には長崎で日本・朝鮮両管区長の宗教会議と浦上の信徒発見25年祭が開かれ、聖体行列が行われたが、警察は「わずかの敵意さえ示さなかった」。

 東京・霊南坂教会の設立者で、同志社の総長・小崎弘道の『日本基督教史』(昭和13年)によれば、キリスト者の最大の関心事は信教の自由だった。

「思想、集会、信教の自由を保障せられたことは、大いに慶賀すべく、ことに信教の自由においては、枢密院においてすこぶる強硬なる反対論があったにもかかわらず、伊藤(博文)公らの尽力により、この一項の掲げられたことは、吾人キリスト信徒の大いに感謝せねばならぬところである」

 それだけではない。有史以来、漢字や仏教、雅楽など海外文化受容のセンターとして機能してきた皇室は、近代以後は文明開化の先頭に立たれ、キリスト教文化をもっとも積極的に受け入れられた。古代、仏教の外護者だった皇室は、近代においてはキリスト教の社会事業を物心両面から支援された。

 たとえば赤十字である。ヨーロッパのキリスト教精神に基づくナイチンゲールの活動やデュナンによる赤十字運動は日本に完全に受容されているが、その中心は皇室である。

 日本の赤十字運動は西南戦争時の明治10年に設立された博愛社に始まる。禁教が解かれてから4年後だった。ヨーロッパの赤十字事業を視察していた元老院議官・佐野常民が大給恒らを誘って、博愛社を開設しようとしたのは、皇室の御仁慈に啓発され、日本の武士道精神に合致すると考えたからだった。

 事実、明治政府は当初、敵味方の区別なく救護活動を行なうという博愛社の精神を理解しなかったが、佐野らは征討総督の立場にあった有栖川宮熾仁(たるひと)親王に博愛社設立を願い出て許可され、明治天皇は特旨をもって金1000円を賜った。

 設立願書には「この輩のごとき大義を誤り、王師に敵すといえども、また皇国の人民たり。皇家の赤子たり」と記され、佐野の伝記には、敵味方の区別なく救うという赤十字の精神は一視同仁という天皇精神と通じる、と説明されている。

 やがて博愛社は日本赤十字社と改称され、ヨーロッパの王室にならって、皇室が赤十字運動の指導的立場に立たれた(『日本赤十字社発達史』など)。

 いまも日本赤十字の名誉総裁は皇后陛下であられ、日赤大会は明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮の杜で開かれる。皇太后の寄付金をもとに創設された昭憲皇太后基金は、世紀を超えて、世界の赤十字活動を支えている。

▽6 関東大震災の御黙祷

 いつの時代も日本の多元的宗教空間の中心に位置してきた皇室は、近代になると非宗教をも飲み込んでいった。

 大正12年10月、関東大震災の犠牲者を悼む「四十九日」の追悼式が東京府市合同で行われた。式は「国家神道」どころか無宗教で行われ、宗教者は排除され、既成の宗教儀礼も採用されなかった。仏教各派連合の追悼会や全国神道連合会の五十日祭は府市連合の追悼式とは別個に開催された。

「国家が宗教に干渉するのは世界の大勢にもとる」というのが行政の基本姿勢であったから、神道も仏教も一律に排除され、そのため啓蒙主義的、反宗教的な行政と、その姿勢を「宗教に無理解」と反発する宗教者との抜き差しならない対立が表面化し、事件が起きたことを、当時の新聞は伝えている。

 翌年の震災1周年に登場したのが、無宗教儀礼としての黙祷であった。

 東京府市と経済団体とで組織される震災記念事業協議会が協議を重ね、震災発生時刻に社寺教会などは鼓鐘、工場船舶は汽笛を鳴らし、市電は1分間停車、市民は「黙想反省」することなどが決められた。新聞はこれを「祈念黙想」と言い換えて報道した。

 ところが1周年当日を数日後に控え、東宮殿下(昭和天皇)が追悼式に「2分間の御黙祷」を捧げることになったと伝えられると、協議会が決めた非宗教的儀礼に宗教的な命が吹き込まれたかのように、「祈念黙想」は「黙祷」に一変した。

 死者を追悼する黙祷儀礼は皇室に源を発し、一般に広がっていった。皇室と国民の沈黙の祈りは切なるものであったけれども、既成の宗教儀礼によらない黙祷は宗教宗派への絶対的不干渉・中立主義をとる行政にとっても好都合で、以後、無宗教儀礼として浸透していった。

 宗教者たちはこの年も東京市主催の震災一周年追悼式を宗教儀礼によって行うことを強く迫った。けれども当局はこれを拒否し、無宗教の式典が催された。これが一般に「国家神道」の時代といわれる近代日本の実態だった。

 次号ではいよいよ昭和期の皇室と仏教について迫る。

(一部敬語敬称略。参考文献=安丸良夫『神々の明治維新』1979年、石川泰志『近代皇室と仏教』平成20年、「大法輪」平成24年12月号など)
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天皇は仏教の外護者であり、信仰者でもあった──天皇・皇室の宗教観 その1(「月刊住職」平成27年9月号) [天皇・皇室]

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 天皇は仏教の外護者であり、信仰者でもあった
 ──天皇・皇室の宗教観 その1(「月刊住職」平成27年9月号)
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 今年は「戦後70年」の歴史の節目で、昭和史をめぐる「反省」「謝罪」に内外の注目が集まっている。おりしも今上陛下は年頭所感で「満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学び」と述べられた。春に公刊が開始された『昭和天皇実録』は、予想を上回る大きな反響を呼んでいる。

 昭和天皇は、戦前は「現人神」と神聖視され、「国家神道」の時代に君臨された。戦後は「信教の自由」「政教分離」の時代の「象徴」となられたが、ご自身はどのような信仰をお持ちだったのだろうか?

 皇室の宗教観とはいかなるものなのか。歴代天皇にとって仏教とは何だったのか。今号より数回に分けて考えてみたい。今回は江戸時代までを振り返る。


▽1 天台宗・真言宗の国家的仏事

 70年前の昭和20年元旦、警戒警報のサイレンが闇を引き裂き、サーチライトが幾筋も空を射る非常事態のなか、昭和天皇は御文庫の庭に急造された祭場で四方拝をお務めになった(藤田尚徳『侍従長の回想』)。日本にとっても、皇室にとっても、大波乱を予感せざるを得ない一年の幕開けであった。

 当時は一般に国家神道の時代とされるが、国家的な仏事も同時に行われている。

 真言宗総本山の東寺〔教王護国寺〕では、この一週間後、天皇と国家の守護を目的に、真言宗最高の秘儀とされる後七日御修法(ごしちにちみしほ)が執行された。同年1月15日づけ朝日新聞にわずか数行の短い記事が載っている。

「真言宗最高の厳儀、京都東寺の宮中後七日御修法は十四日結願となり、日下大僧正は御衣を捧持して随員一行とともに同日午後八時五十二分京都発列車で上京した(京都)」。

 だが、これと相並ぶ、天台宗総本山・比叡山延暦寺の御修法(みしほ。御衣加持御修法)についての記事は、わずか二面しかない当時の紙面には見当たらない。

 延暦寺では古来、毎年4月4日から7日間、御修法と呼ばれる大法要が営まれてきた。根本中堂の内陣に天皇の御衣を安置し、国家安泰、玉体安穏、万民豊楽などを、天台座主ほか高僧たちが一週間詰めきりで加持祈祷する。天台密教最高の秘法とされる。

 その始まりは、古くから山岳信仰の対象とされてきた比叡山(日枝山)に伝教大師最澄が堂塔を建て、天台宗を開いてから35年後の弘仁14(823)年といわれる。第50代桓武天皇の招請により、宮中の紫宸殿で、最澄の弟子・円澄が五仏頂法を修念したのが起源とされる(渡邉守順ら『比叡山』)。

 宮中では承和元(834)年、元日から七日まで神事として行われる宮中前七日節会に対応して、八日から十四日まで、後七日御修法が勤修された。

 第54代仁明天皇の勅を奉じて、弘法大師空海が大内裏で勤めたのが最初とされ、翌年には空海の奏請によって宮中に真言院が造立され、大極殿で護国経典の金光明最勝王経を転読講讃する宮中御斎会と並行し、顕密相対して営まれることとなった。導師は東寺の長者が務めた。

 世尊は金光明最勝王経の「王法正論品第二十」で、「先の善業の力によって天に生まれ、王となった」「諸天の護持によって天子と名づけられた」とし、「国を治むるに正法をもってすべし」と教えている。悪政には天罰が下り、悲惨な結末を迎えると警告している。

 皇祖天照大神からこの国の統治を委任され、公正かつ無私なるお立場で、「国中平らかに安らけく」とひたすら祈り、国と民の統合を第一のお務めとする祭祀王が天皇であるという考えと共通するものがある。

 天皇みずから宮中で神道儀式を斎行される一方で、皇室ゆかりの名刹では勅命によって国家的な大法要が営まれる。皇室あるいは天皇の信仰、宗教観は、国民の多様なる価値観を同等に認める、日本古来の価値多元主義に支えられていることが分かる。

 歴史を振り返れば、歴代天皇の宗教的お立場はさらに明らかになる。


▽2 仏教の国家的受容

 北インドで生まれ、西域、中国南朝、百済を経由してきた大乗仏教は、一切衆生の救済を図る教えだった。中国南朝の梁では仏教文化が最盛期を迎え、国家儀礼は儒教ではなくて、仏教形式だった。三国時代の朝鮮では、仏教は律令制度の整備と関連して、国家建設の理念として機能したといわれる。

 百済から日本に伝えられたのは第29代欽明天皇の時代で、『日本書紀』には聖明王(聖王)が使者を遣わし、釈迦仏金銅像一体のほか、幡蓋、経論を献上したとある。

 公伝後、神道儀式に関わる物部・中臣両氏と渡来人との関わりの深い蘇我氏とのあいだで、廃仏か崇仏か、激論が交わされた。

「西蕃の諸国は礼拝している」

「天地社稷を祀るのが天皇だ」

 天皇は蘇我稲目に仏像を授けられ、礼拝を許されたが、やがて疫病流行の責任を負わされ、仏像は廃棄された。すると風もないのに大殿に火災が発生した(書紀)。

 仏教が国家的に受容されたのは、最初の女帝、第33代推古天皇の時代である。蘇我馬子の姪に当たられる天皇は、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とされ、仏教を興隆された。天皇は仏教の外護者となられた。

 太子は四天王像を彫られ、崇仏派の戦勝を誓願し、勝利ののち、四天王寺を建立された。他方、物部氏は没落した。

 天皇は氏姓制からの脱皮を図られ、中央集権化を推進され、仏教思想に基づく十七条憲法を制定され、官人や貴族の道徳的規範が示された。しかし第一条には「和を以て貴しと為し」と、儒教もしくは日本古来の「和」の思想が宣言されていた。中国、朝鮮とは異なり、既成宗教が排除されず、共存した。

 冒頭に取り上げた宮中祭祀の四方拝は、第35代皇極天皇の時代に始まった。『書紀』では雨乞いとされている。道教由来の儀式とも指摘される。皇室第一の重儀とされる新嘗祭(大嘗祭)の儀式は、この時代に定まったといわれる。新嘗祭は一般に稲作儀礼と理解されるが、宮中では米と粟の新穀が皇祖神ほか天神地祇に捧げられる。天皇の祭祀は特定の信仰に偏しない複合儀礼といえる。

 皇極天皇は「古の道に従って政治を行った」(書紀)とされる。だが、他方では最初の国家寺院、百済大寺の建立が命じられた。

 壬申の乱後、即位された第40代天武天皇は有力豪族を排除した皇親政治を開始され、神道儀礼を整備され、仏教を推進された。

 天皇が皇女大来皇女を伊勢神宮に捧げられたのが斎宮制度の確立とされ、式年遷宮はこの時代に定められた。また、毎年の新嘗祭と区別して、格別の祭儀として一世一度の大嘗祭が斎行された。

 他方、川原寺(弘福寺)で写経がはじめて行われた。百済大寺が遷立され、高市大寺と改称された。皇后(のちの持統天皇)の病気平癒のため薬師寺建立が発願され、100人の僧侶が得度された。

 第41代持統天皇は薬師寺を完成させて勅願寺とされ、先帝のため金光明経斎会を内裏で営まれたとされる。崩御ののち火葬された最初の天皇でもある。

 第42代文武天皇の時代には大宝律令が完成した。宮中祭祀と仏教儀礼を宗教的基盤とし、律令に基づく制度が整備されていった。

 第44代元明天皇の時代に完成した『日本書紀』は、天地開闢に始まり、天孫降臨を経て、国つ神の娘たちとの婚姻が重ねられたのち、初代神武天皇が生誕されたと説明する一方、欽明天皇以後の仏教伝来と受容、定着を詳述している。各氏族の神々が国家的神として体系化される半面、仏教の国家的地位は揺るぎないものとなった。


▽3 仏式の即位儀礼

 みずから出家され、僧形となられた最初の天皇は、第45代聖武天皇である。

 天皇は災害の多発、疫病の流行をまえに、諸社に奉幣され、大赦を実施され、また深く仏教に帰依され、大膳職に盂蘭盆供養を行わせ、宮中行事とされたという。国分寺建立、東大寺盧舎那大仏造立の詔を発せられた。

 さらに東大寺に行幸され、大仏に北面され、「三宝の奴と仕え奉る天皇」と奏上された。大僧正行基を請じて受戒・出家され、皇女の孝謙天皇(第46代)に譲位されたのち、「太上天皇沙弥勝満」と称された。

 以前の仏教は国家鎮護が目的で、民衆への布教は禁止された。禁を破って各地に寺を建て、社会事業を展開した行基は当初、弾圧されたが、聖武天皇は行基を日本初の大僧正に任じられ、東大寺造立の責任者とされた。

 東大寺大仏の開眼供養は仏教公伝200年の年、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇ほか万余の要人たちが参列した。またお三方は唐僧鑑真によって菩薩戒を授けられた。

 孝謙天皇は皇位継承後、一代一度の大仁王会を営まれ、即位式、大嘗祭とともに御代替わり儀式として位置づけられた。やがて出家ののち、藤原仲麻呂の乱を経て重祚され、第48代称徳天皇となられた。

 注目すべきことに、宣命を見ると、出家の前後で、神祇と三宝の順位が逆転している。とりわけ最勝王経が重んじられた。天皇は国家第一の仏弟子となられた観がある。

 称徳天皇は、看病僧の弓削道鏡を太政大臣禅師に、さらに法王に任じられた。また「皇位にある者は菩薩の浄戒を受けよ」と宣言され、仏教は皇位の正統性にもっとも重要な役割を果たすこととなった。皇祖天照大神を祀る、皇室の祖廟・伊勢神宮に神宮寺が造立され、仏像が建てられた(続紀)。

 しかしその一方で、孝謙天皇の治世に施行された養老律令は、官僚機構に宮中祭祀を司る神祇官と国政を統括する最高機関の太政官が並立する二官八省が採用された。令には「神祇令」と「僧尼令」が並んでいるが、「神祇令」には「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」と記されている。

 第50代桓武天皇によって平安京が開かれた延暦年間、宮中で天皇の安穏を祈願し、正月の御斎会で読師を務める内供奉十禅師のお役目を賜った最澄は以来、毎日、天下太平、万民豊楽を祈り続けることとなった。長日御修法と呼ばれる。

 とくに国家の大事や特別の異変が起きたときに、宮中で修されたのが「四箇の大法」と称される特別の修法で、青蓮院、三千院、妙法院、延暦寺で執り行われた。これが現在の御修法の源流とされる。

 第52代嵯峨天皇は空海に、高野山に加えて東寺を給預された。東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場と位置づけられた。延暦寺の寺号は嵯峨天皇の勅によって許された。


▽4 仏門に帰依する

 仏の教えは歴代天皇の内心に深く刻み込まれていくこととなった。

 第54代仁明天皇、第56代清和天皇、第57代陽成天皇は譲位後、出家された。なかでも清和天皇は第一皇子の陽成天皇に譲位ののち出家され、仏門に帰依された。畿内を巡幸され、絶食を伴う苦行を重ねられ、その地を隠棲の地と定められて、寺院建立中に病没された。

 清和天皇は最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」の諡号を贈られた。空海は第60代醍醐天皇から「弘法大師」の諡号を贈られた。

 法皇と称された先駆けは第59代宇多天皇で、いったんは臣籍降下されたが、父君光孝天皇が病を得られたことから親王に復され、皇位を継承された。朝廷の実権は関白藤原基経の手にあり、親政開始はその死後である。

 天皇は先帝の御遺志を受け継がれ、勅願寺として仁和寺を造立された。その一方で、宮中祭祀の四方拝は宇多天皇のときに定着したとされる。毎朝御拝もまた宇多天皇の時代に始まった。

 その後、突然、皇太子を元服させ、即日、譲位された天皇は落飾、受戒されたのち、仁和寺に入られ、さらに伝法灌頂を受けられ、法王となられた。御室門跡の始まりである。仁和寺は門跡寺院の筆頭として仏教各派を統括した。法王は比叡山や熊野三山にたびたび参詣された。

 第65代花山天皇もまた突如、宮中を出られて退位され、仏門に入られ、法王となられた。法王は西国三十三の観音霊場を巡礼、修行された。これが西国三十三所巡礼の歴史の始まりとされる。

 法王となられた天皇は、第102代霊元天皇まで、45代に及ぶ。

 ときは移り、武家が支配する時代を迎える。

 第81代安徳天皇が三種の神器とともに都落ちされたのち、仏教を篤く信仰され、平清盛とともに東大寺で受戒された後白河法皇(第77代天皇)の院宣を受け、第82代後鳥羽天皇が践祚された。神器なき即位で、日本史上初めてお二方の天皇が並立される事態となった。安徳天皇は伊勢神宮を遥拝され、念仏を唱えられて入水されたといわれる。

 第84代順徳天皇は宮中のしきたりに通じ、『禁秘抄』を著された。その冒頭には「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とある。父君後鳥羽上皇による承久の乱の前夜、皇室存亡の危機のまっただ中にあって、天皇第一のお務めは敬神、崇祖であり、神祭りであると明言されたのである。

 倒幕失敗後は後鳥羽上皇、兄君の土御門上皇とともに配流の身となられた。後鳥羽上皇は隠岐で法華経の功徳を詠まれた。

わが頼む御法の花の光あらば暗きに入らぬ道しるべせよ

 南北朝時代になると、三種の神器を持たない北朝では真言宗の秘法によって皇位の継承が執り行われた。やがて即位大嘗祭に即位灌頂と呼ばれる仏教儀礼がつけ加えられ、江戸末期まで行われた。大嘗祭が中絶した時代には、皇位継承の唯一の儀式だった。天皇は印相と真言を伝授され、即位式で実修され、高御座に登られたのである。


▽5 宮中儀礼の復興

 元亀2(1571)年、信長は比叡山を焼き討ちにした。堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰し、比叡山の地主神で、延暦寺の守護神とされた日吉大社も消滅した。

 ときの天台座主は第105代後奈良天皇の第三皇子で、第106代正親町天皇の弟君・覚恕法親王であられた。記録によれば、正親町天皇が比叡山百八社再興の綸旨を出されたが、信長が押さえた。比叡山を再興させたのは秀吉で、造営費用に青銅一万貫を寄進した。

 応仁の乱後、中絶していた宮中の後七日御修法は元和9(1623)年、第108代後水尾天皇の尽力などにより、170年ぶりに復興した。

 後水尾天皇といえば、前半生において徳川三代との激しいつばぜり合いを強いられた。下剋上の最終段階において、武断の雄は朝廷をも従えようとしたからだ。「公家衆法度」「勅許紫衣法度」が制定され、「禁中並公家諸法度」が公布された。一方的に立法したうえ、天皇に法の遵守を強要し、栄誉権を取り上げた。耐えかねた天皇は内親王(第109代明正天皇)に譲位され、やがて落飾された。

 他方、家康公を、釈迦如来の化身、東照大権現として祀る日光東照宮は、朝廷から神号と正一位の位階、さらに宮号が贈られ、法親王が入寺され、日光山輪王寺の貫主となられた。例祭には勅使が参向し、奉幣が恒例となった。陽明門などには後水尾天皇御宸筆の扁額が掲げられた。

 当時、天台宗の本山は、将軍家菩提寺でもある東叡山寛永寺で、法親王が歴代、門主となられ、日光山、比叡山をも管轄された。

 一方で、後水尾院は第四皇子・第110代後光明天皇への宸翰に「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事」と認められた。天皇第一のお務めは神事であることが明記されている。

 後水尾天皇の時代にはもうひとつ、仏教史上特筆すべき大変革が起きた。

 幕府は禁教令を発し、バテレンを国外追放し、さらに切支丹奉行をおき、宗門改と寺請・檀家制度を発足させた。隠れキリシタン探索のための制度が全国化し、身分を問わず、特定の寺院を菩提寺とし、檀家として所属することが義務づけられた。

 けれども天皇のお膝元、京都・祇園社(八坂神社)の祇園祭では、フランドル地方で製作され、旧約聖書の物語をテーマとするタピストリーに飾られた山鉾が都大路を巡行していた。

 後水尾院は昭和天皇に次ぐ歴代二位のご長寿で崩御され、御陵は泉涌寺内に築かれた。


▽6 昭和天皇最晩年の御製

 昭和天皇は晩年、後水尾天皇に心を寄せられた。昭和55年は崩御300年に当たり、式年祭の前日、ご進講が行われた。陛下は後水尾天皇の譲位にいたく関心を寄せられ、資料を集めるよう側近らに指示された(入江日記など)。

 何がそうさせたかは歴史の謎である。

 昭和40年代、陛下はしばしば「退位」を漏らされた。ご高齢を口実に、入江侍従長は宮中祭祀の「簡素化」「工作」を開始した。陛下はご不満で、最大限、抵抗されていたらしい。50年以降は憲法の政教分離原則を法的根拠に、祭祀の改変が一段と進んだ。

 徳川三代による積年の非礼に耐えかねて譲位・落飾され、苦難のなかで中絶していた宮中祭祀を再興された後水尾天皇に、陛下はご自身を投影されていたのではなかったか。

 昭和天皇はとくに祭祀に熱心だったといわれる。けれども他方で、仏教を詠み込まれた最晩年の御製が残されている。陛下は外護者のお立場をお捨てになってはいない。

夏たけて堀のはちすの花みつつ仏のをしへおもふ朝かな

 それなら陛下ご自身の信仰はいかなるものだったのか。次回は神仏分離後の近代史を振り返りつつ、考える。

(参考文献=勝浦令子『日本古代の僧尼と社会』2000年、『日本仏教編年大鑑』2009年、「大法輪」2012年12月号など)


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