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宮中祭祀をめぐる今上陛下と政府・宮内庁とのズレ──天皇・皇室の宗教観 その4(「月刊住職」平成27年11月号) [宮中祭祀]

「月刊住職」平成27年9月号から、皇室の信仰、昭和天皇の仏教観について、歴史的検証を試みた。すでに筆者の任務は終わっているようにも思うが、引き続き現代編を書くよう編集部から要請されたのを受けて、再び押っ取り刀を手にとることにする。


▽1 現行憲法を起点とする非宗教主義

 天皇・皇室の宗教観を考えることは、〈天皇とは何か〉を考えることにほかならない。皇統は神代にまで遡り、「葦原千五百秋(ちいほあきの)瑞穂の国は、是、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾皇孫(いましすめみま)、就(い)でまして治(し)らせ」(日本書紀)と皇祖神より国家の統治を委任されたというお立場なら、そもそも宗教性は否定できない。

 さらに順徳天皇(第84代。在位1210~21)の『禁秘抄』に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあるように、歴代天皇は祭祀をなさることが第一のお務めと信じられ、仏教に帰依された多くの天皇もまた祭祀を厳修されたのだからなおさらだ。

 ところが、世俗化が進んだ現代では、天皇の宗教的側面が否定され、現代人の天皇観は歴史と伝統から切り離れたものとなり、祭祀は驚くべきことに宮内庁当局にすら軽視されている。

 たとえば、御即位10年を記念して宮内庁が編集した記録集『道』には、即位礼当日、祭服を召され、賢所大前の儀に臨まれた両陛下のお写真こそ口絵の冒頭に載っているが、本文には宮中祭祀に関する記述らしいものが見当たらない。公式記録から外されているのである。

 その代わり、繰り返されているのが「日本国憲法」である。

 憲法上、天皇の祭祀はあくまで「私的行為」である。17年になって、宮内庁のHPに宮中祭祀が載るようになったが、平成の祭祀簡略化やいわゆる「女性宮家」創設の主導者と目される渡邉允元侍従長などは雑誌インタビューで「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』ということにならざるを得ません」と言い切っている(「諸君!」2008年7月号)。

 政府も同様で、小泉内閣時代に皇位継承制度を検討し、「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」と結論づけた皇室典範有識者会議の報告書は、さまざまな天皇観があるから、さまざまな観点で検討したと説明しているが、皇室自身の天皇観、つまり天皇=祭り主という観点は完全に無視された。

 皇室の歴史と伝統ではなく、70年に満たない現行憲法を出発点とする非宗教主義が社会を席巻し、その結果、何が起きたのかといえば、宮中祭祀の改変であり、歴史に例を見ない女系継承容認論、いわゆる「女性宮家」創設論、つまり悠久なる皇室の制度を日本国憲法流に変革する革命的というべき試みであった。

 今上陛下は即位礼正殿の儀で「(先帝の)御心を心として」「日本国憲法を遵守し」と述べられた。伝統と憲法の両立を、陛下は折に触れて何度も繰り返し表明されているが、政府・宮内庁当局はそうではなく、「憲法の遵守」だけをつまみ食いしている。このズレは何だろうか。そこには皇室の祭祀について、じつに厄介な誤解と偏見以上のものがある。


▽2 稲と粟の祭りは国民統合の儀礼

 日本の皇室を考える際、最大のキーワードは価値多元主義である。それは亜熱帯から亜寒帯まで気候の幅が広く、四季折々に美しさと厳しさとを見せてくれる日本列島の自然の多様さと通じているだろう。自然と共存する人々の暮らしも多様であり、山の民には山の民の、海の民には海の民の信仰が息づいてきた。

 そのような多様なる民を多様なるままに統合し、争いのない平和な社会を保つためには統治者は何をすべきなのか。天皇が祭り主であり、祭祀が第一のお務めであるなら、天皇の祈りは多神教的、多宗教的でなければならない。

 キリスト教世界に君臨するローマ教皇なら一神教の典礼で十分であろう。世界を創造した絶対神以外に神は存在しないのだから、当然である。天帝の息子=天子たる中国皇帝は、ただひとり天を祀る。天壇に登ることが正統性の証明である。けれども日本の天皇は皇祖神を祀るだけではない。「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(養老令)とされたのだ。

 カトリックは第二次大戦後になって、ようやく諸宗教容認に踏み出した。第二バチカン公会議は「諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない」と宣言し、教皇ベネディクト16世はトルコのブルー・モスクで祈り、今秋(平成27年秋)、訪米した教皇フランシスコはグランド・ゼロで、諸宗教の代表者たちとともに祈りを捧げた。

 いまや諸宗教協力を積極的に推進しているバチカンだが、その祈りはあくまで唯一神に捧げられる。

 だが天皇の祈りには世界に稀な多神教性、多宗教性がある。それは皇室第一の重儀とされる新嘗祭を見れば分かる。

 毎年11月23日の夕刻から翌日にかけ、天皇は特別の祭服を召され、宮中の聖域の奥深く、宮中三殿の西隣に位置する神嘉殿で、古来の作法に従って、あまたの神饌を皇祖天照大神ほか天神地祇に供され、みずから召し上がる。

 なかでも重要とされる神饌は、その年に収穫された新米・新粟を炊いた米の御飯(おんいい)・御粥(おんかゆ)、粟の御飯・御粥、および新米をもって醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の神酒である。神人共食の儀礼は夕(よい)の儀と暁の儀の2回、繰り返される。

 なぜ米と粟なのであろうか。新嘗祭といえば、しばしば稲の祭りと考えられているが、誤りである。

 新嘗祭は古くから民間でも行われている。最古の記録は元明天皇(第43代。707~715)の詔を受けて編纂された風土記のひとつ、『常陸国風土記』のなかの筑波郡の物語だが、稲の新嘗ではない。粟の新嘗の晩に人々が忌籠もりし、神々と交流したと記されている。

 粟の新嘗に関する学術研究はきわめて少ないが、東南アジア島嶼地域に連なる焼き畑農耕文化と指摘される。たとえば台湾の先住民にとって、粟は儀礼文化には欠かせない、とくに重要な作物で、人々は粟の神霊を最重要視し、粟の酒と粟の餅とを神々に供えたという(吉田集而ら『酒づくりの民族誌』)。

 当然だが畑作民は粟の新嘗を行い、水田稲作民は稲の新嘗を行う。けれども天皇は稲と粟の複合儀礼を行われる。

 天皇一世一度の新嘗祭が大嘗祭で、古い記録には神事の作法が生々しく記述されているが、米と粟に軽重の差はない。つまり稲の儀礼ではなく、稲と粟の儀礼なのだが、案外、理解されていない。

 大嘗祭について、政府や宮内庁は「稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」(宮内庁『平成大礼記録』など)と定義している。しかしこの理解では稲作以前の歴史や非稲作民とは無関係な儀礼ということになる。

 稲作民による稲作信仰が源流なら、特定の宗教儀式であり、憲法の政教分離原則に反するし、したがって国の行事としては行えないという論理になる。実際、真田秀夫内閣法制局長官が「大嘗祭は神式のようだから、憲法上、国が行うことは許されない」と国会答弁している。

 だが逆に天照大神から稲穂を授けられたという神話に基づく稲作儀礼なら、稲の新穀を大神に捧げれば十分で、粟を供する必要も、天神地祇に供する必要もない。

 つまり稲と粟の多神教的祭りは特定の宗教儀礼ではなく、国民統合の国家儀礼であり、だからこそ多神教的、多宗教的なのであろう。教義も牧師も信徒もいない宮中祭祀は特定の宗教とはいえないはずだし、宗教儀礼でないなら憲法の規定を侵すことにはならない。

 バチカンは1936年の指針で、「国家神道の神社」の儀式も「愛国心のしるし」で「社会的な意味しか持っていない」なら「信徒が参加することが許される」と認めている。それかあらぬか、実際、カトリック信徒の女性が天皇の祭祀に奉仕していると聞く。唯一神の信仰を侵さないとの確信があってのことだろう。

 多宗教性の痕跡はほかにもある。明治の神仏分離で仏教的要素が排除されたいまなお、神道以外の要素が指摘される。

 新嘗祭に登場する白酒・黒酒のうち、黒酒は米を醸し、久佐木(くさぎ)という植物の根の焼灰を加えて造る。詳しい製法が延喜式に記述されているが、「易と五行説を援用して、精緻なまでの配慮のもとに構想された神酒」との指摘がある。

 延喜式には「その年の星と天皇の御生年の星との関係から、吉とする方角に生える木を採れ」とあり、久佐木は「恒山」とも表現されている。中国の名嶽・北嶽である。北は神の座すところである。

 原料は米の総量1石(10斗)に対して、加える水の量は5斗。現在の醸造法なら総米100に対して汲水130だから、あまりにも少ない。だが易学的には「土気成数10」と「土気生数5」を合わせ、酒が造られ、土気完成を見ると理解できる。

 発酵ののち、ひとつの甕から1斗7升8合5勺、二つの甕を合わせれば3斗5升7合の酒が得られる。これも3+5+7=15で、やはり「土気成数10」と「土気生数5」の組み合わせによって土気が完成するのである。

 土気は四季を支配する。生命は土気の作用で生育する。豊穣を祈り、収穫を感謝する祭りは強く土気を意識した祭りとなる。神酒もまた土気を意識して造られなければならないのだ(岩瀬平「山口県神道史研究」所収論文)。

 それなら、陰陽五行説や麹が伝わる前の神酒はどうだったのか。私は粟の酒が黒酒の原形ではなかったか、胚芽の糖化力を利用した酒ではなかったかと想像している。畑作地域には大正期まで粟酒があったようだし、平安期の伊勢神宮には麹を使わない火無浄酒(ほなしのきよさけ)があったという記録が残っている。

 皇居内の水田で稲作を始められたのは昭和天皇だが、今上陛下はその精神を引き継がれ、粟も栽培される。けれども宮中祭祀の多神教的、多宗教的理念はいよいよ危機に瀕しているように見える。


▽3 無神論者長官が破壊した皇室の伝統

 本誌が読者のもとに届くころには、今年(平成27年)の宮中新嘗祭は終わっている。宮内庁のHPには「両陛下は宮中の祭祀を大切に受け継がれきた」とあるが、今年も「お出ましの時間を短縮」(平成23年11月宮内庁発表)という簡略新嘗祭が行われていることだろう。

 数年来の簡略化は「ご健康問題」が理由とされ、「担当医師の判断に沿い」と説明されているが正確ではない。

 平成20年暮れの御不例を受けて、宮内庁は翌年1月、具体的なご公務ご負担軽減策を打ち出したが、じつのところご公務は逆に増え、一方、文字通り激減したのが祭祀へのお出ましだった。

 天皇の祭りは昭和40年、50年代以降、側近たちによって、密室のなかで、一方的に改変された。それは現代の官僚たちが日本古来の多神教的、多宗教的原理を見誤った結果ではなかったか。

 明治維新以来、皇室が先頭に立って推進された日本の近代化は、価値多元主義を否定する、キリスト教世界由来の一元主義を国家的に受け入れることだった。軍隊、官僚制、学校、税制、憲法、議会制度などなど、そして「文明の衝突」が起こるべくして起きたのだ。

 アインシュタインは「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいる」(日本印象期)と近代日本を賞賛する一方、伝統的美意識の喪失に警鐘を鳴らしたが、その警告は現実化し、やがて日本はほとんど世界を相手に戦争し、未曾有の敗戦という歴史的屈辱を味わった。天皇制の敗北であり、昭和天皇に戦争責任ありと考える人も少なくない。

 天皇の祭祀が近代法として整備されたのは明治41年の皇室祭祀令で、大日本帝国憲法および皇室典範(旧)の制定からさらに約20年後のことだった。

 最大の転機は70年前の敗戦である。日本国憲法の公布・施行に伴い、すべての皇室令は廃止された。しかし宮中祭祀の形式はかろうじて守られた。「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理」とする宮内府長官官房文書課長の依命通牒が発せられたからである。

 ところが敗戦にも勝る転機が訪れた。昭和43年、侍従次長に昇格した入江相政は独断で、新嘗祭の「簡素化工作」に着手し、翌秋、侍従長に駆け上がると「四方拝は御洋服、テラスで」と祭祀改変に躍起となった。慣例を完全に無視し、依命通牒を反故にしたのである。

 さらに無神論者を自任する富田朝彦次長(のちの長官)が登場すると、祭祀の改変はいよいよ本格化した。側近の記録によれば、50年8月15日の長官室会議以降、平安期以来の石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)に連なる毎朝御代拝は形式が非宗教的に変更された。その基準は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法の政教分離原則で、側近の侍従は祭祀に関わるべきではないとされた。

 価値多元主義の核心である天皇の祭祀を無理解なまま「宗教」と決めつけ、宗教の価値を尊重しているはずの憲法を根拠にこれを否定する。無神論者長官の登場は、信教の自由を保障する憲法の目的を大きく外れて、あたかも宗教を信じない自由を国家が援助、助長、促進する効果を生むという最大の矛盾をもたらし、皇室の原理を崩壊させたのである。

 その後、事態が表面化し、社会的批判を浴びてもなお、宮内庁の態度は頑なだった。神社本庁は抗議の質問書を突きつけ、宮中祭祀を担当する掌典長は神社関係者の主張を明確に認めたが、その後、入江はさらなる簡略化を進めた。

 そして平成の御代替わりでは、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」を対立的にとらえ、従来通り行うことが憲法の趣旨に反すると考える儀式については国の行事ではなくて、皇室行事として挙行することとされ、皇室の伝統が破壊された(拙文「宮中祭祀を『法匪』から救え」=「文藝春秋」2012年2月号)。

 皇位継承後、今上陛下は皇后陛下とともに、祭祀の正常化に努められたといわれる。しかし御在位20年を迎えて、側近たち主導の祭祀改変が再び始まった。陛下のご高齢とご健康を名目に、昭和の先例を根拠とする、悪夢の再来である。

 争わずに受け入れるのが天皇の至難の帝王学だが、昭和天皇がそうだったように、今上陛下もまた最大の抵抗をなさったらしい。

 渡邉元侍従長の説明では、18年春から宮中三殿の耐震改修が行われるのに伴って祭祀の簡略化が図られた。工事完了後も側近は、ご負担に配慮し、簡略化を継続しようとしたが、陛下は「筋が違う」と認められなかった。ただ、「在位二十年になったら考えてもよい」と仰せになったことから見直しが行われたとされる(渡邉『天皇家の執事』)。けれどもご負担軽減は名ばかりだった。


▽4 憂慮される次の御代替わり

 心配されるのは、やがて訪れる御代替わりである。いまのままでは悪しき先例が踏襲されるだろう。

 懸念は早くも現実化している。宮内庁は2年前(平成25年)、「御陵および御葬儀のあり方」について、御陵の規模の縮小、御火葬の導入など、検討結果を公表した。

 指摘すべき問題点は3つある。

 1点目は、宮内庁の検討が「皇室の行事である御葬儀」についてであり、「国事行為たる大喪の礼について検討したのではない」と明言されていること。つまり、政教分離の厳格主義に基づく、国の行事と皇室行事との分離挙行という昭和の先例踏襲が宣言されているのだ。

 2点目は、皇室典範有識者会議も皇室制度有識者ヒアリングも検討過程が公開されたのに、今回は非公開であること。3点目は「両陛下の御意向を踏まえ」と説明する当局の姿勢である。

 有識者会議は皇族方の意見に耳を傾けず、羽毛田信吾長官は議論の行方を憂慮された寛仁親王に向かって「皇室の方々は発言を控えていただくのが妥当」と口封じに及んだ。それなのに今度はなぜ「御意向」なのか。

 本誌読者は土葬から火葬への転換を神道的御葬儀の仏式化などと単純に考えるべきではない。本質は皇室制度に関する明文法的基準の喪失である。

 明治人は長い年月をかけて宮務法の体系を構築した。敗戦後、苛烈な神道指令下にあって皇室令は廃止されたが、依命通牒によって祭祀の伝統は「皇室の私事」の名目で守られた。

 独立回復後、きちんとした法整備を図るというのが当時の政府の方針だったが、その後、政府はその努力を怠り、宮内庁は法的基準を破棄し、非宗教化させたのである。

 入江侍従長は「東宮様(今上陛下)御発議で、皇族の総意」による昭和天皇の祭祀の簡素化を画策したらしい。側近らの責任追及を回避し、法的基準に代わって祭式改変を正当化するものが「御意向」であり、「医師の判断」なのである。次の御代替わりも同じご都合主義が採用されることは間違いない。

 鎌倉節長官の指示で、宮内庁内で皇位継承に関する非公式検討が開始されたのは平成8年のようだが、明治人のように時間をかけ、慎重に新しい法的基準を作成するまでには至っていない。

 陛下の側近といえば傑出した人格者揃いと世の人々は考えるだろうが、実態はまるで異なる。今上陛下は皇后陛下以外、支援者のいない困難な現実のなかで、おひとりで皇室の伝統と尊厳を守ろうとされているかに見える。

 今上陛下は平成2年11月、大嘗祭をお務めになり、歌を詠まれた。

父君のにひなめまつりしのびつつ我がおほにへのまつり行なふ

 陛下は宮中祭祀の重要性を片時もお忘れではない。だが当局は現行憲法第一主義に固まり、祭祀は蹂躙されている。だとして政府・官僚批判で解決できるかといえば、そうもいきそうにない。

 皇后陛下にはイスラム過激派による石仏破壊を詠まれた厳しい御歌がある。

知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず

 異教文化否定の蛮行を非難することはたやすい。だが、同様の非道を私たち自身が冒していることはないか。近代主義にどっぷり浸かり、長い皇室の歴史と伝統を深く理解しようとしないのは、われわれ国民も同じかも知れない。

(一部敬語敬称略。参考文献=拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』、私家版電子書籍『検証「女性宮家」創設論議』など)


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キリスト者に育てられ、キリスト教国の影響を受けられた昭和天皇  ──天皇・皇室の宗教観 その3(「月刊住職」平成27年10月号) [昭和天皇]

 中国や朝鮮では、王朝が交替するたびに国の宗教が代わった。だが日本では、万世一系の天皇を中心に、諸宗教が平和共存する多元的宗教空間が保たれた。

「およそ禁中の作法は神事を先にす」(順徳天皇『禁秘抄』)を原則とする皇室では、仏教に帰依された天皇もまた神道祭祀を厳修された。「私をおいてほかに神があってはならない」(十戒)とする一神教世界ではあり得ない現象だ。近代になると、皇室はキリスト教文化を積極的に受容され、無宗教主義さえ受け入れられた。

 ならば、いわゆる「国家神道」時代と「信教の自由」の時代を、ともに生きられた昭和天皇はいかなる信仰をお持ちだったのだろうか、「戦後70年」の節目に当たり、あらためて考える。


▽1 キリスト者による教育

 明治34年4月、明治天皇の皇太子嘉仁(よしひと)親王(のちの大正天皇)に第1男子が誕生された。迪宮(みちのみや)裕仁親王、のちの昭和天皇である。親王は古来の乳人(めのと)制度により、生後70日で枢密顧問官川村純義伯爵に預けられ、ひとつ違いの弟君淳宮(あつのみや)雍仁(やすひと)親王(秩父宮)とともに、3年あまり養育された。

 川村は戊辰戦争、西南戦争を戦った明治海軍の創始者で、明治天皇の信頼が篤かったらしい。

 迪宮・淳宮両親王は毎月、釈雲照から無病息災の加持祈祷を受けられた。川村の依頼によるものという。雲照は明治の元勲たちが一様に帰依した真言宗の名僧である。明治初年の諸山勅会廃止によって中絶した宮中後七日御修法を、東寺灌頂院にて再興させた人物でもある。

 川村邸での養育が川村の死去で幕を閉じ、最後の加持が行われたあと、祀られていた虚空蔵菩薩は肌守として両親王に献上された(『昭和天皇実録』など)。

 東宮御所に御帰還後、両親王は今度はキリスト者による養育を受けられることになる。

 名前は足立タカ。東京府女子師範学校(いまの東京学芸大学)を卒業したばかりで、附属幼稚園の保母だった。タカの父元太郎は札幌農学校の二期生、内村鑑三や新渡戸稲造らの同期生で、父娘はプロテスタントだった。タカは両親王に母親のように接し、昔話などを話したらしい。タカはのちに終戦時の宰相鈴木貫太郎の後妻となった(若林滋『昭和天皇の親代わり』など)

 第一次世界大戦終結から3年後の大正10年、皇太子裕仁親王はヨーロッパ歴訪の旅に出られた。大正天皇の御健康が憂慮され、宮中祭祀のお務めを見合わせざるを得ないような状況下での御訪欧は、皇太子教育という、より重要な目的を持っていた(波多野勝『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』)。

 随員には、珍田捨己(宮内省御用掛、供奉長、メソジスト)以下、山本信次郎(海軍大佐、カトリック)、澤田節蔵(外交官、クエーカー)など、名だたるキリスト者が従っていた。

 珍田は日露戦争後の講和条約交渉、パリ講和会議などに関わった外交官で、御訪欧当時は伯爵、枢密顧問官の地位にあった。のちに東宮太夫、侍従長を歴任した。

 山本は日本海海戦時は旗艦「三笠」の分隊長、当時は東宮御学問所御用掛。御訪欧中はテーブル・マナーやフランス語をきびしくお教えした。ローマ教皇との謁見実現は山本の尽力によるという。

 澤田は国際連盟日本代表などを歴任し、連盟脱退に反対した。第2次大戦末期、鈴木貫太郎内閣顧問となり、和平工作のためバチカンに働きかけた(澤田壽夫編『澤田節蔵回想録』など)。

 最初の公式訪問国はイギリスで、その最初の公式行事は戦没者追悼記念碑セノタフへの御拝礼、次がウェストミンスター寺院にある無名戦士の墓への参詣だった。お名前が金字で押され、紅白のリボンのついた花環を捧げられ、深々と拝礼されると、沿道から歓声と拍手がわき上がるなど、皇太子が大歓迎を受けたことを「タイムズ」などが報道している。


▽2 教科書とされたジョージ5世

 昭和天皇にとって、大英帝国は帝王学の生きた教科書だった。

 イギリス御到着の夜、バッキンガム宮殿で催された晩餐会で、国王ジョージ5世は第1次大戦中の日本軍の行動に謝意を率直に表明し、皇太子を「われわれの友人」と呼んだ。

 イギリス御訪問に続き、西部戦線を指揮したフランスのペタン元帥の案内で訪れた大戦の激戦地の傷跡は皇太子に深い印象を与えた。広漠たるヴェルダンの戦跡には死臭が漂っていた。

 皇太子は戦死者の墳墓に花環を供えられ、破壊された砲台やいわゆる銃剣塹壕、焼失した森林などを視察されて、「戦争というものはじつにひどいものだ」ときわめて真剣に語られた(二荒芳徳・澤田節蔵『御外遊記』)。

 皇太子は2年後、今度は日本で、関東大震災で焦土と化し、死臭ただよう東京の街を目の当たりにされた。翌年、大震災1周年に「2分間の黙祷」が捧げられたが、それは第1次大戦休戦1周年にジョージ5世がイギリス国民に呼びかけ、実施された「2分間の停止(沈黙)」に酷似していた。

 昭和54年の会見で、昭和天皇はジョージ5世との交流に言及されている。

「イギリスの王室はちょうど私の年頃の前後の人が多くって、じつに私の第2の家庭ともいうべきような状況であったせいもあって、イギリスのキング・ジョージ5世がご親切に私に話をした。その題目は、いわゆるイギリスの立憲政治のあり方というものについてであった。そのうかがったことが、そのとき以来、ずっと私の頭にあり、つねに立憲君主制の君主はどうなくちゃならないかを始終考えていた」(高橋紘『昭和天皇発言録』)

 御訪欧から7年後の昭和3年、張作霖爆殺事件の首謀者の処罰をめぐって、昭和天皇が田中義一首相にきびしく辞職を迫り、内閣が総辞職したことがあった。このときイギリス式の「君臨すれども統治せず」を理想とする元老西園寺公望は「ご自分の意見を直接、表明すべきでない」と陛下を諫(いさ)め、それ以後、天皇は内閣に対して拒否権を行使なさらなくなったとされる(『昭和天皇独白録』)。

 キリスト教文化やイギリス型立憲君主主義は今上陛下にも引き継がれている。皇太子時代の家庭教師、東宮御教育参与、彼らを抜擢した宮内庁長官、海外御訪問に随行した侍従長らはすべてキリスト者であり、皇后陛下もカトリックの学校教育を受けられ、皇室に入られた。


▽3 戦時中、存続したキリスト教儀礼

 今日、日本のキリスト教指導者たちは戦前の「国家神道」時代に「弾圧と迫害」があったという歴史批判を展開しているが、事実はまったく異なる。

 きっかけとされるのは昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件で、配属将校の引率で学生たちが靖国神社まで行軍したとき、カトリック信者の学生が参拝しなかったことから、マスコミを巻き込んで大騒動に発展したとされている。

 ところが渦中にいた学長補佐は、このとき陸軍当局者と次のような会話を交わしたと回想しているのだ(『上智大学創立60周年──未来に向かって』)。

「陛下が参拝する靖国神社にカトリック信徒が参拝しないのは不都合ではないか?」
「閣下の宗旨は?」
「日蓮宗です」
「それなら本願寺や永平寺に参拝しますか?」
「他宗の本山には参りません」
「しかし陛下は参拝されます」
「僕の書生論は取り消します」

 これは迫害とはいえない。けれどもカトリック信徒にとっては、唯一神信仰に反する異教崇拝は許されず、深刻な信仰問題を提起した。しかしバチカンは信徒の靖国参拝を愛国的行為として容認し、戦後も追認している。事件それ自体も宮様師団長の「どうなっているのか?」の一声で急速に解決したという。

 当時のカトリック新聞は、弾圧・迫害どころか、皇室がいかにキリスト教の社会事業を物心両面で支えていたかを伝えている。開院したばかりの病院を支援するために開かれたチャリティーコンサートに、朝香宮など皇族4殿下がご出席になり、盛況をきわめたというニュースが載り、貞明皇后は御殿場のハンセン病療養施設にたびたび下賜されたことが伝えられている。

 やがて時代は戦時体制下に入っていくのだが、教会がおかれていた現実を考える上で注目される記事が16年元日の朝日新聞に載っている。前年秋に設立された神祇院が「国礼の統一」の一環で「黙祷廃止」を検討し始めたのである。

「黙祷はキリスト教の形式で、震災記念日に東京市民が始めた1分間の黙祷が全国に広がったらしいことから、神祇院は西洋思想の流れをくむ黙祷を廃し、日本古来の最敬礼と2拝2拍手1拝の礼式を国礼として制定する意向」だった。

 国民儀礼としての黙祷は、先述したように、第1次世界大戦休戦1周年にイギリスのジョージ5世が呼びかけ、世界に広まり、日本では皇室が大震災1周年に黙祷を捧げられ、浸透していったという経緯がある。このため黙祷が外来文化に由来するという歴史的理解は波紋を呼び、とくに仏教界は心中穏やかではなかった。インド・中国から伝来した仏事も、同様の論理で排除されかねないからだ。

 しかし結局、黙祷は継続した。関係機関が協議し、「黙祷は日本人の日常生活に融合、慣習化されている。国民全体が敬神感謝の意を表する適切な形式である」との見解がまとまり、従来通り靖国神社の祭典などで捧げられた。

 戦前・戦中期に、宗教的受難を経験したのは、むしろ皇室であり、神道人ではなかったか? 天皇機関説を軍部などが猛攻撃するのに昭和天皇は異を唱えられていたし、もっとも代表的神道人である神宮奉斎会長今泉定助は、天照大神信仰に統一する合理主義的神道論を正統とする東條内閣によって発禁処分を受けた。


▽4 神格化を嫌われた昭和天皇

 敗戦の翌年、昭和21年元日に「新日本建設に関する詔書」が発せられた。昭和天皇は、天皇を現御神(あらみかみ)とするのは架空の観念だと述べられ、ご自身の神性を否定された「人間宣言」と一般に理解されているが、どうもそうではない。

 天皇は昭和52年の会見で「(冒頭に五箇条の御誓文を引用したことが)じつは、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした」「民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった」と述べられている。

 そもそも天皇=現人神(あらひとがみ)という考え方自体、正統的とはいいがたい。

 詔書作成に関わった当時の侍従次長木下道雄は「予はむしろ進んで天皇を現御神とする事を架空なる事に改めようと思った。陛下も此の点は御賛成である」と記録している(『側近日誌』)。戦前、文部省が編纂した『国体の本義』は「天皇は現御神であらせられる」と明記したが、昭和天皇は神格化を嫌っておられた。

 遠く第42代文武天皇即位の宣命には「現御神と大八嶋国(おおやしまのくに)しろしめす天皇」とあり、公文書の形式を示す公式令(養老律令)は「明つ神(あきつかみ)と御宇(あめのした)しらす日本の天皇」などと例示しているが、「現御神と」は「しろしめす」にかかる連用修飾語であり、本来は本居宣長らが解説したように「現御神のお立場で」の意味と解される。

 ところが近代の知識人は一様に、現御神=天皇と解釈するようになった(佐藤雉鳴『神道指令・日米の錯誤』)。絶対神に正統性の根拠を置き、国王を地上の支配者と考えるヨーロッパ王室の影響ではなかったか?

 今日、反天皇制の立場に立つキリスト者は少なくないが終戦直後は逆だった。賀川豊彦はマッカーサーに面会し、天皇制存続を進言した。上智大学のビッテル神父は極東裁判のキーナン検事に何度も面談して昭和天皇訴追の断念、天皇制の存続を認めさせたといわれる(『マッカーサーの涙』など)。

 昭和天皇とキリスト者たちとの心温まるエピソードも伝えられている。

 大金益次郎侍従長の『巡幸余芳』などによると、戦後の御巡幸で神戸女学院にお立ち寄りになり、昼食をとられたあと陛下がご出発のため玄関に姿を現されると、生徒たちが「祖国」と題する讃美歌を歌った。「わが大和の国をまもり あらぶる風をしずめ 代々やすけくおさめ給え わが神」

 清らかな歌声は心を打たずにはおかなかった。陛下はポーチにお立ちになったまま動かれない。讃美歌は2度、3度と繰り返され、そのうち歌声はくもり、生徒たちの頬に涙が伝わりはじめた。陛下の目にも光るものが浮かんできた。大金は「この親和、この平和の境地」と書き記している。

 大正期、貞明皇后が九州行啓の途中、職員一同に「菓子料」金200円を下賜され、学校ではこれを受けて、懸賞論文「地久節論文」の基金を設立した。学校を創設したアメリカ人女性は西洋かぶれを排し、「キリスト教魂をもつ日本風の女性」を育てることを教育目標としていたといわれ、それだけ生徒たちの皇室崇敬の気持ちは強かったと伝えられる。


▽5 日蓮宗開宗700年への思召し

 ならば仏教の外護者(げごしゃ)としてのお立場は失われたのか、といえばそうではない。

 たとえば、昭和27年は日蓮宗開宗700年に当たっていた。特別の法要が大本山清澄寺と総本山身延山久遠寺で営まれることをお聞きになった昭和天皇は、きわめて異例なことに、久遠寺に御香華料として金一封を賜り、勅使を開闢会(かいびゃくえ)に差遣された。

 勅使は思召しを日蓮宗総監に伝えたという。「今回、とくに香華料を賜ったのは宗祖立正大師の『立正安国』の精神に対してである。安国の基はまったく立正である。立正なくして安国はない。当時も国家乱れて綱紀麻のごとく、朝威地に墜ちて有史以来の暗黒時代であったが、今日はそれ以上であるというも過言ではない。立正安国の精神の発揚を待つやじつに切なるものがある」(石川泰司『近代皇室と仏教』)

 皇室唯一の菩提寺たる泉涌寺(せんにゅうじ)は戦後、政教分離を定める日本国憲法の施行によって、従来のように宮内庁から国費を受けられなくなり、経済的困難に陥った。けれども一山のみで御寺の尊厳を保持することには限界があった。

 そこで昭和41年になって、国民による護持が呼びかけられ、三笠宮崇仁親王を総裁に戴き、佐藤喜一郎三井銀行社長を会長として、「御寺(みてら)泉涌寺を護る会」が結成された。顧問には石坂泰三経団連会長、筑波藤麿靖国神社宮司、宇佐見毅宮内庁長官、三崎良泉妙法院門跡らが名を連ねた。

 設立総会で総裁宮は「皇室の代表としてお引き受けした。陛下に申し上げたところ、引き受けたら良かろうとのお言葉があった」と挨拶された(『三笠宮殿下米寿記念論集』など)。

 皇室の女性たちはとりわけ篤い信仰の持ち主だったらしい。法華経を「信仰より最上のものとして考へをりたる」と語られた貞明皇后の柩には、皇族方が半紙に「南無妙法蓮華経」「南無阿弥陀仏」と浄書され、紙縒りにして納められた。

 秩父宮雍仁親王の場合は、南無妙法蓮華経の7字が半紙に認められ、柩に納められた。親王は遺書に「遺体を解剖に伏す」「火葬にする」「葬儀は無宗教で」と綴られた。「遺志を尊重するように」との昭和天皇の勅許を得て、一般告別式は無宗教で執行された。

 高松宮宣仁(のぶひと)親王が薨去されたときは皇族方が写経された般若心経が納棺された(前掲石川著書)。


▽6 「無神論者」長官による祭祀改変

 歴代天皇と同様、宮中祭祀を重んじられた昭和天皇であるが、昭和40~50年代、天皇の祭祀は藩屏(はんぺい)たるべき側近によって蹂躙された。決定的だったのは50年8月15日、宮内庁長官室会議での一方的な改変決定であった。

 最大の変更は、平安時代に始まる石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)に連なるとされる毎朝御代拝である。以前は天皇に代わって側近たる侍従に潔斎のうえ、烏帽子・浄衣に身を正させ、宮中三殿に遣わし、外陣(げじん)で拝礼させていたのだが、「庭上からモーニングで」(入江日記)と変更された。「侍従は公務員だから宗教に関与すべきでない」とする政教分離原則への配慮とされる。

 改変の中心人物は富田朝彦次長(のちの長官)だった。いわゆる「富田メモ」で知られる元警察官僚だが、無神論者を自認していたといわれ、側近ながら祭祀に不参のことが多かったという。富田による変更はいまに尾を引いている。

 世間では「皇室はキリスト教化されているのではないか」「新興宗教の信者が側近に登用されている」との危惧の声があるが、現実ははるかに先を進んでいる。

 古来、多元的宗教空間の中心に位置してきた皇室は、近代になって一神教世界の文化を受け入れて以降、多元主義と一元主義との抜き差しならない相克に身もだえしている。挙げ句の果てが政教分離主義による宮中祭祀の改変である。

 さて、本論のテーマ、昭和天皇ご自身の信仰である。

 会見で「どんなテレビ番組をご覧になりますか?」と質問された陛下は、「放送会社の競争がはなはだ激しいので」とユーモアでかわされた。贔屓(ひいき)の力士の名を聞かれても、明らかにされなかった。とすれば「どんな信仰をお持ちですか?」とお尋ねしてもお答えにはなるまい。

 そもそも「天皇に私なし」である。だとすると、歴代天皇が仏教に帰依されたのはなぜなのか、天皇が信仰された仏教とは何だったのか、を問い直す必要がある。

(一部敬称略。参考文献=拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』など)

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