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「答礼」として始まった!?天皇の外国御訪問 ──高橋紘『人間 昭和天皇』を読む [皇室外交]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「答礼」として始まった!?天皇の外国御訪問
──高橋紘『人間 昭和天皇』を読む
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 戦後随一の皇室ジャーナリストと思われる、といっても、皇室ジャーナリズムなどというのは、戦後にしか存在しないのだが、共同通信の皇室担当記者だった高橋紘さんの著書に、総ページ1千ページを超える『人間 昭和天皇』上下2巻(2011年)がある。

 高橋さんは私を皇室報道の世界に導いてくれた恩人の1人で、この本は「昭和天皇の語り部」ともいわれた高橋さんが、最晩年、ガンと闘いながらまとめ上げた、記者人生の集大成というべき一冊である。
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▽1 臨時代行法の成立

 下巻の第11章に「皇室外交」が取り上げられている。

 それによると、始まりは1960年代だった。

 当時、皇太子殿下(今上陛下)はアメリカや中東、アフリカ、南アジアを、昭和天皇のご名代として、また国賓来日の答礼として訪問され、大歓迎された。

 けれども、天皇は憲法上、外国には行けない仕組みになっている。ご不在中、たとえば首相任命、国会召集の事態が持ち上がっても、対応できないからだ。

 そこで昭和39年になって臨時代行法がつくられた。代行法は天皇の外国御訪問を視野につくられたと高橋さんは書いている。


▽2 高松宮妃の働きかけ

 しかし、実際のご外遊はずっと遅れる。観光目的の海外旅行が庶民にも開かれたのは44年だが、その翌年、歯車が動き出した。

 最初に天皇ご外遊を働きかけたのは、高松宮妃殿下だという。

 昭和45年4月、大阪万博を機に来日したベルギー国王の弟アルベール殿下に、愛知揆一外相主催の晩餐会の席上、妃殿下がこう語りかけたというのである。

「天皇陛下は皇太子時代に欧州訪問されたが、皇后陛下は海外にお出かけになったことがない。ベルギーの国王陛下は6年前、来日されたが、その答礼という形で、国王陛下からの招待状を天皇陛下に送っていただけないか」

 あくまで「答礼」としての天皇ご外遊なのだった。

 妃殿下は吉田茂元首相にも働きかけられ、佐藤栄作首相の周辺で話は進んでいき、翌年2月23日、ご外遊が閣議決定された。9月27日から18日間のご日程で、ベルギー、イギリス、西ドイツを公式訪問し、非公式にデンマーク、スイス、フランス、オランダを訪問されることとなった。


▽3 閣僚にも極秘扱い

 計画は極秘に進められた。そのことは『佐藤栄作日記』に明らかだと高橋さんは指摘する。

 福田赳夫蔵相が佐藤首相から知らされたのは閣議決定のじつに5日前、昭和46年2月18日だった。宮内庁を所管する山中貞則総務庁長官にはその翌日で、「極秘を守ること」が条件だった。

 実際、『佐藤日記』を読んでみよう。

「2月18日 木 (二木会の)帰途、福田蔵相と同車し、陛下の御外遊をはじめて話する。二十三日発表の予定だからひと言一般より早く話しておく必要があるので話したが、山中総務長官にはまだ話さない。明日耳打ちするするつもり」

「2月19日 金 山中総務長官に両陛下の御外遊の件をもらす。しかし極秘を守ることと閣議前に話する」

「2月23日 火 閣議で両陛下の御外遊を決めたので、保利官房長官が各党へ挨拶に回り、各党ともいい感じを持ってくれた様子」

 政府内でも極秘扱いだったのだ。


▽4 「答礼」が大義名分

 さすがに宮内庁へは早くから相談があったらしい。

 高橋さんは入江相政侍従長の『日記』を引用している。前年45年12月の日記によると、長官室で会議がもたれたという。

 これも『日記』を読んでみると、次のように書かれている。

「12月2日(水) 曇 頗寒……1時から長官室で(式部)官長、(宮内庁)次長、予の4人で会議。御外遊についてのもの。イギリスから明年10月4日から21日までの間よしとのこと。あとベルギー、ドイツ、フランス、オランダなどをどう入れるかでいろいろ話し会う。2時まで」

 主要閣僚にも知らされないまま、計画は数か月前に決まっていったのである。

 そして、御訪欧の大義名分は、繰り返しになるが、「答礼」だった。


▽5 御訪欧先行の理由

 高橋さんは、「天地開闢以来」(宇佐美長官)の御外遊がアメリカぬきの御訪欧が先行したことについて、なぜかと問いかけ、三つの理由を挙げている。

 1つは「答礼」御訪問を名目としたことだった。

 昭和38年には西ドイツの大統領夫妻が来日し、翌39年にはベルギー国王夫妻が、国賓として来日していたが、日本側の答礼はなかった。イギリス女王の来日も予定されているという情報もあった。

 もうひとつは、答礼が名目なら天皇の政治利用ができないと考えられたからだという。

 宇佐美毅長官は皇太子御訪米の際、岸信介首相の政治利用にはめられたという苦い経験があるというのである。それで国会答弁でも「答礼」で押し通された。

 3つ目は、アメリカとの戦争の記憶が重く、時期尚早と考えられたからだという。


▽6 なぜ天皇の御外遊なのか

 高橋さんはなぜ御訪欧先行なのかと問いかけたのだが、どういうわけか、なぜ外国御訪問なのかとは問いかけていない。

 論理的に考えれば、「答礼」としての外国御訪問なら、皇太子殿下のご名代でも不足はないはずである。なぜ天皇の御外遊なのか。

 問題は憲法である。

 高橋さんが指摘しているように、「天皇は外国に行けない仕組みになっている」だけでない。憲法が規定する国事行為はすべて内向きであって、皇室外交を予定していないのである。憲法7条が規定するのは、日本大使の認証、外国大使の接受にとどまる。

 憲法の規定を重視するなら、もともと外国御訪問の計画を議論する余地はない。

 政府が「答礼」という受け身の行為にこだわったのは、国事行為に何ら規定がないことの裏返しである。

 それでも、御外遊が実施され、いまや国民もメディアも相手国も受け入れ、歓迎している。

 つまり、当時から「天皇は大使100人分の働きをなさる」といわれ、それは今回のフィリピン御訪問でも立証されたのだが、制度的に万全とは言いがたい。


▽7 象徴天皇制の変質

 外国御訪問に意義を認めるのならなおのこと、そもそも陛下のご公務、お務めとは何かを整理し直すとともに、憲法の法的不備をただすことが求められているのではあるまいか。

 国事行為臨時代行法があるから、天皇の御外遊が認められるという論理はどう見ても本末転倒であろう。

 高橋さんは、戦争・敗戦を経て、日本国憲法の施行によって、天皇は「大元帥から象徴」に変わったというお考えだが、憲法の国事行為ではない外国御訪問をなさる天皇はもはや現行憲法的な象徴天皇とは言いがたい。

 むろん、神功皇后の三韓征伐は別として、「空飛ぶ天皇」は近代以前にはなかったことであり、御外遊は皇室の伝統でもない。

 現行憲法下で、現行憲法が規定する象徴天皇制それ自体がすでに変質しているということではないのか。

 憲法9条に関しては一歩たりとも譲らないという論理を展開している憲法学者たちは、憲法第1章の変容をどう考えるのだろうか。

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あえて考える天皇陛下のフィリピン御訪問 ──法的根拠はない!? [皇室外交]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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あえて考える天皇陛下のフィリピン御訪問
──法的根拠はない!?
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 今上陛下は皇后陛下を伴われ、1月下旬、フィリピンを公式御訪問された。

 今回のご旅行は、公式にはフィリピン大統領の招請を受け、国交正常化60年を機会として、友好親善を目的とするものとされている(昨年12月閣議決定)。


▽1 公式御訪問というより「慰霊の旅」
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 けれども一般には、むしろ陛下の御意思にもとづく、戦後70年を契機とする「慰霊の旅」と受け止められている。

 陛下はマニラ英雄墓地にある「無名戦士の墓」やカラリアの「比島戦没者の碑」で供花、黙祷され、日本人遺族と親しく交流されたが、いずれも陛下ご自身のご希望によるものと伝えられている。

 陛下はご出発前、空港で、「フィリピンでは,先の戦争において,フィリピン人,米国人,日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き,この度の訪問を果たしていきたい」と語られた(宮内庁HP)。

 マラカニアン宮殿での晩餐会でも、「昨年、私どもは,先の大戦が終わって70年の年を迎えました。この戦争においては,貴国の国内において日米両国間の熾烈しれつな戦闘が行われ,このことにより貴国の多くの人が命を失い,傷つきました。このことは,私ども日本人が決して忘れてはならないことであり,この度の訪問においても,私どもはこのことを深く心に置き,旅の日々を過ごすつもりでいます」とスピーチされた(同)。


▽2 一様に好意的な報道

 フィリピン政府は5日間の陛下の旅が「歴史的快挙」だとする声明を発表している。多くのフィリピン人の胸に響いたことは間違いないだろう。

 陛下の慰霊の旅は、サイパン、パラオに次ぐものだが、陛下が海外にお出かけになり、諸外国と友好親善を深めるのみならず、戦争の歴史を記憶に留め、自国のみならず旧敵国の戦没者を慰霊されることについて、メディアの反応もきわめて好意的である。

 皇位継承問題やいわゆる「女性宮家」創設問題で、メディアの論調が二分されたのとは大きく異なっている。

 したがって、そこには一点の曇りもないかのように見えるのだが、はたしてそうなのであろうか。むしろ皇室の伝統と憲法の規定をめぐる、避けてはならない重要な課題が隠されているのではないだろうか。

 昨年来の安保法案論議に見られるように、憲法9条をめぐっては、1ミリたりとも逸脱してはならないという嵐のような議論が巻き起こるのに、天皇の外国御訪問については寂として声無しというのは健全とはいえないのではないか。


▽3 憲法は予定していない

 つまり、憲法は天皇の国事行為について規定しているものの、すべて内向きであって、「慰霊の旅」はむろんのこと、「国際親善」を目的とする外国御訪問についてすら、規定はいっさいない。憲法は天皇の外国御訪問を予定していないのである。

 とすれば、陛下のご公務として行われている「慰霊の旅」はいかなる法的根拠を持つものなのか。

 女系継承容認問題にしても、「女性宮家」創設問題にしても、有識者による諮問会議が設けられ、ヒアリングが行われながら、じつのところ、天皇のご公務とは何か、という根本的な議論がすっぽりと抜け落ちていたと私は考えている。

 もし法的な根拠はないけれども、天皇による外国御訪問が、あるいは「慰霊の旅」が、ご公務の1つとして、外交上、必要だと国民が理解し、求めるのならば、明文規定のない現行憲法は改正されるべきではないだろうか。

 ということで、しばらく天皇の外国御訪問について、検討してみたい。歴史的に最初のケースとなった、昭和46(1971)年の昭和天皇のヨーロッパ御訪問にさかのぼって検証してみようと思う。
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