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「生前退位」は陛下の「ご意向」ではなかった!? ──NHKではなく「週刊現代」のスクープだった [退位問題]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2016.7.24)からの転載です


 陛下の「生前退位」報道は、「ご意向」の真偽が確認されることもなく、リークした「宮内庁関係者」が表舞台に出ることもなく、どんどん独り歩きしています。

 とりわけ女系継承容認の改革派は意気軒昂で、まるで錦の御旗を得たかのようなハイテンションです。

 けれども、NHKのスクープ以前に「生前退位」を報道したメディアがあり、その内容が今回の「ご意向」報道とはまったく別物だったとしたら、話は完全に変わります。

 特ダネに逐一反応し、振り回されるのは考え物です。むしろその背後に何があるのかを冷静に考えるべきです。


▽1 「宮内庁関係者による」報道

 今月13日の夜7時のNHKニュースでは、

(1)陛下が「生前退位」の「ご意向」を宮内庁関係者に示されていることが分かった、

(2)陛下は数年内の譲位を望まれている、

(3)陛下ご自身が内外にお気持ちを表す方向で調整が進められている、

 と伝えられました。

 その背景には、

(4)「憲法上の象徴としての務めを十分に果たせる者が行為にあるべきだ」というお考えがあり、

(5)皇后陛下や皇太子殿下、秋篠宮殿下なども受け入れられている、

 とされています。

 また、

(6)陛下がこうした「ご意向」を示されたのは5年ほど前である

 とも伝えられました。

 しかし「宮内庁関係者による」報道はどこまで事実か、分かりません。匿名の「宮内庁関係者」が「ご意向」とされるものをNHKにリークしたというのが考えられる最低の事実です。陛下に直接、事実関係を確認できないのですから、それが皇室報道の限界です。


▽2 今年5月半ばに始まった

 後追いしたメディア報道で、面白いのは毎日新聞です。

 翌日の報道では、陛下の「ご意向」を受けて、宮内庁の幹部5人が今年5月半ばから会合を重ね、検討が本格化させてきたと伝えています。

 5人というのは、風岡典之長官ら宮内庁トップ2人と侍従職トップの2人、そして皇室制度に詳しいOBで、「4+1」会合と呼ばれ、早朝に会合を開き、杉田和博内閣官房副長官とすり合わせし、両陛下には河相周夫侍従長らが報告してきたとされています。

 陛下は7年前から皇太子殿下、秋篠宮殿下と3者会談を設けられていて、それを受けて、「4+1」会合が開かれることもあり、皇室典範改正、元号、退位後の呼称などが検討されたとされています。

 きわめて具体的ですが、なぜ「今年5月」なのかは説明されていません。


▽3 「5年ほど前」ではなく「7年前」

 その謎に迫っているのが「週刊新潮」です。

 同誌は、「ご意向」が示されたのは、NHKニュースが伝えた「5年ほど前」ではなくて、「さらに1、2年遡る」と伝えています。

 平成20年2月、羽毛田長官が「愛子さまのご参内が少ない」と皇太子殿下に異例の「苦言」を呈するほど、御所と東宮との間にすき間風が生じていたころ、皇后陛下の発案で翌21年、3者会談が実現します。毎日新聞も伝える「7年前」でした。

 折しも同年には国体でのお言葉廃止などご公務削減が始まり、23年には東日本大震災が起こり、これが「ご意向」の遠因となりました。被災者に寄り添おうとなさる陛下のお体は悲鳴を上げていたのです。

 ブータン国王歓迎行事は陛下ご欠席のまま行われ、その年の秋には秋篠宮殿下がお誕生日会見で「陛下の定年制」に言及されました。

 翌24年、心臓手術を受けられ、手術は成功したものの、陛下は「天皇としての任を果たせないのならば」と「ご意向」を3者会談の場で漏らされるようになりました。

 同年6月に風岡長官が就任すると3者会談は定例化し、長官もオブザーバーとして同席し、当然、「ご意向」を聞き及ぶことになり、やがて侍従らにも伝わりました。

 けれども実現性は疑問視され、遅々として進みません。ところが今年5月、宮内庁による大幅なご公務軽減策をめぐって、陛下は強い難色を示されました。
「ご公務削減案を出すのなら、なぜ退位できないのか」

 原案を突き返された官僚たちは、遅まきながら仕組み作りに走り出したというのです。

 つまり、陛下の強い「ご意向」が宮内庁を走らせたということになりますが、だとすると「生前退位」なる新語は陛下ご自身の創作なのでしょうか。


▽4 小泉時代に検討されていた

 どうも違うのです。

 陛下の「生前退位」は「ご意向」ではなくて、ほかならぬ宮内庁の「計画」であり、「5年ほど前」でも「7年前」でもなく、十数年前に遡れると報道されているのです。

 それが「宮内庁『天皇生前退位』“計画”の背景」と題する「週刊現代」2005年5月21日号の3ページの記事です。

 サイパン御訪問が閣議決定されたが、強行スケジュールは71歳の陛下にはかなりのご負担で、「生前退位」検討の動きが庁内に出ていると職員の証言を伝えています。

 折しも小泉内閣時代で、皇室典範有識者会議が開かれているから、「即位」条項だけでなく、「退位」についても詳しく明記すべきではないかという声が出ているというのです。

 しかも、退位後のお住まいは京都迎賓館とするという、皇族方の京都移住を提案する「双京」構想論者が泣いて喜びそうなプランまで検討されているとされています。

 とすると、「退位」でも「譲位」でもない「生前退位」なる新語の創作者は「宮内庁関係者」なのか。当時、「宮内庁関係者」が提案したという「生前退位」と7年来の陛下の「ご意向」とされる「生前退位」とはいかなる関係にあるのでしょうか。


▽5 無視される祭祀のお務め

 私にはやはり、現行憲法が定める「象徴」天皇制度の下でのご公務ご負担軽減問題ではなくて、もうひとつの問題としての宮中祭祀簡略化が背景にあるように思えてなりませんが、報道からは完全に無視されています。

 21年には祭祀簡略化が始まり、23年には古来、皇室第一の重儀とされてきた新嘗祭が夕の儀、暁の儀とも簡略化されました。「ご意向」を漏らされた時期と重なります。

 陛下は即位以来、皇室の伝統と憲法の規定の両方を「追い求める」と仰せです。ご公務だけが「ご意向」の原因であるはずはありません。むしろ主因は祭祀かも知れません。

 平成の祭祀簡略化は昭和の先例に基づいていますが、昭和天皇は側近による祭祀簡略化に抵抗され、「退位」「譲位」を口にされたと側近の日誌に記録されています。

 今上陛下は「憲法上の象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」とお考えなのではなくて、「祭祀を十分に行い、ご公務を十分に果たせる者が」と仰せなのではありませんか。

 その「ご意向」が曲げてリークされ、さらに曲げられて報道されているのではないでしょうか。宮中祭祀とご公務のうち、前者を軽視し、後者ばかりを重視してきたのが当局であり、メディアです。まして皇室典範改正、女系継承容認論が消えたわけではありません。

 陛下の「ご意向」は改革派に利用されているのでしょう。

タグ:退位問題
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「ご意向」を操る大胆不敵な「宮内庁関係者」!? ──陛下の「生前退位」表明報道を考える [退位問題]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2016.7.12)からの転載です


 どう考えてもおかしい。女系継承容認論、「女性宮家」創設論がなりを潜めたいまなお、蠢き続ける何かがあるようです。


▽1 「生前退位」という用語はない

 発端はNHKのスクープでした。

 陛下が「生前退位」のご意向を宮内庁関係者に示されていることが分かった。数年内の譲位を望まれている。陛下ご自身がお気持ちを表明する方向で調整が進められている、と伝えられました。

 そもそも「生前退位」という皇室用語など聞きません。

 試しに国会図書館の検索エンジンで「生前退位」を調べると、3件の雑誌記事がヒットします。いずれもごく最近のもので、うち2件は2013年2月に、ローマ教皇ベネディクト16世の「生前退位」に関して、相前後して発表された記事です。

 そして、残る1件がもっとも古く、といっても、十数年前に書かれた「宮内庁『天皇生前退位』“計画”の背景」(「週刊現代」2005年5月21日号)でした。

 タイトルから見ると、すでにこのころ宮内庁内では「生前退位」計画が持ち上がっていたということでしょうか。とすると、なぜいま一気に議論が沸騰したのでしょう。

 興味深いことに、A.N.ウイルソンがベネディクト16世について書いた「Newsweek」の記事は、日本版では「生前退位」ですが、原文では単に「retire」のようです。なぜ「生前退位」と翻訳されなければならないのでしょう。

 ちなみに今回も海外メディアは「retire」と伝えているようです。それなら、なぜ日本のメディアは「譲位」「退位」と素直に表現しないのか。歴史上の「退位」とは別だととくに強調したい意図でもあるのでしょうか。


▽2 なぜリークなのか

 NHKニュースが意味するのは、「宮内庁関係者」が匿名を前提に、陛下の「ご意向」、および庁内の対応について、NHK記者にリークし、その結果、特ダネとして報道されたということでしょう。なぜリークなのでしょうか。

 知られているように、譲位は光格天皇が最後で、明治以後はありません。明治の皇室典範も現行の皇室典範も規定はありません。となると、当然、制度改革のための法改正が必要になります。天皇のご発意から法改正の議論が開始されるとすれば、前代未聞です。

 首相や宮内庁長官はコメントを差し控え、官房長官は「検討していない」と報道を否定しているのは、さもありなんです。といって、名指しされたはずの宮内庁は「スクープ」したメディアを批判し、抗議するわけでもありません。

 皇位継承という国家の最重要案件について、宮内庁トップが公式発表するのならまだしも、それどころか、匿名の「宮内庁関係者」が「ご意向」をメディアにもらすという手法が用いられたのは、法制度上の問題を自覚するからでしょうか。

 けれども、それはどう考えてもおかしいのではありませんか。

 後追いした大新聞は、「ご意向」が宮内庁関係者への取材で分かったと伝えていますから、「ご意向」をほかの媒体にももらし続ける「宮内庁関係者」は特定できるのでしょう。それなら、なぜみずから名乗り出て、説明しないのか。匿名の理由は何でしょうか。

 陛下に直接、確認できるはずもない「ご意向」は、改革派にとって切り札なのでしょう。情報の精度をどこまで把握しているのか、軽率な政治家は国民的議論が必要だなどと記者に答え、女系継承容認派の有識者もさっそく反応し、議論の本格化に向けて既成事実ばかりが積み重ねられています。


▽3 表に出ない関係者

 平成の皇室制度改革は、20年前に始まったといわれています。平成7年、自民党総裁選に立候補した小泉純一郎議員(のちの首相)が女性天皇容認を打ち出したのを受けて、翌年、鎌倉節宮内庁長官の指示で、皇位継承に関する基礎資料づくりが非公式に始まったといわれます。

 やがて水面下の動きは表面化していくことになりますが、その場合、メディアを選び、記者を選び、小出しに情報を漏らし、世論の動向を見極めながら、関係者は黒幕に徹して、「改革」を進めていったのです。

 私が知るかぎり、利用された最初のメディアは総合情報誌「選択」で、10年6月号に掲載された「『皇室典範』改定のすすめ──女帝や養子を可能にするために」は女帝容認を問題提起するとともに、「女性宮家」にも言及していました。

 というより、女系継承容認は「女性宮家」創設論と一体のものとして進められたのです。であればこそ、女系継承容認に踏み込んだ皇室典範有識者会議の報告書には「女性宮家」創設が内容的に含まれていたし、悠仁親王殿下ご誕生で女系継承容認論が一気に沈静化したあと、こんどは「女性宮家」創設論に姿を変え、復活したのです。

 先般の「女性宮家」創設論もリークで火を噴きました。23年11月、読売は「『女性宮家』の創設検討 宮内庁が首相に要請」と伝えました。

 世間では羽毛田長官が野田総理に要請したかのように受け止められましたが、記事はそのようには書いていません。長官本人も否定しています。実際に提案した「宮内庁関係者」はほかにいたのですが、ついに表舞台には現れませんでした。

 今回はどうでしょうか。


▽4 問われない当局の責任

 NHKの報道では、陛下が「ご意向」を示されたのは「5年ほど前」で、背景にあるのは陛下の「ご高齢」であって、「象徴としての務めを果たせるものが天皇の位にあるべきで、十分に務めが果たせなくなれば譲位すべきだ」というお考えを一貫して示されてきたと説明されています。

「ご高齢」という理由は理解できないわけではありません。実際、善意の国民はご高齢になった陛下のご健康を心配しています。

 しかし、そうだとすればなおのこと、まず「宮内庁関係者」にとって必要なことは、「ご意向」をリークして世論を煽ることではなくて、宮内庁自身のご公務ご負担策の失敗をみずから認め、原因を謙虚に見定めることではないでしょうか。

 いみじくも「5年ほど前」といえば、陛下の「ご高齢」「ご健康」を理由に、昭和天皇の先例に基づいて、宮内庁がご公務ご負担軽減策に踏み出したときですが、その結果、何が起きたでしょう。

 天皇第一のお務めとされる宮中祭祀ばかりが標的にされ、逆にご公務は増えたのではないですか。当時、宮内庁がもっとも気にかけていたのは拝謁の多さですが、のべ約一週間にわたって続く春秋の勲章受章者の拝謁のご負担はどれほど軽減されたでしょうか。

 宮内庁は失敗したのです。その責任を問わないまま、情報リークという手法が繰り返され、世論を誘導しようとしているのは、陛下の「ご意向」に沿うのでしょうか。


▽5 昭和天皇の苦悩

 NHKの解説は、「象徴」天皇制を定める現行憲法下にあって、護憲派の陛下が「象徴」としてのお務めを十分に果たせなくなることをいたくお気になさっているかのように読めますが、事実は違うと思います。

 第一に陛下は単純な護憲派ではありません。陛下は即位以来、皇室の伝統と憲法の規定の両方を「求め続ける」と仰せなのに、メディアは後者ばかりを伝え、護憲派の「象徴」に祭り上げてきたという経緯があります。

 今回の「ご意向」も、憲法に関連するご公務ではなくて、皇室の伝統である宮中祭祀のお務めを気にかけておられるのではないのでしょうか。

 思えば、昭和天皇も同様でした。まだご高齢というほどでもなかった昭和40年代に、入江相政侍従長の登場で、祭祀の簡略化が急速かつ大胆不敵に決行され、皇室第一の重儀とされる新嘗祭のお出ましが夕(よい)の儀のみで、暁の儀は御代拝となったとき、昭和天皇は神嘉殿からのお帰りのお車の中で、

「これなら何ともないから、急にも行くまいが、暁(の儀)をやってもいい」

 と仰せになったと『入江日記』(46年11月23日)に書かれています。入江は続けて、「ご満足でよかった」と述べていますが、逆でしょう。

 それどころか、その後、なおも祭祀簡略化を断行する入江に、昭和天皇は「退位」「譲位」を口にされたと入江自身が記録しています。

 今上陛下は昭和天皇の当時の苦悩が身にしみておられるのではないかと拝察します。今回の「退位」報道が正しいなら、陛下は昭和天皇と同様、平成の祭祀簡略化へのご不満を、数年来、表明し続けてこられたのではないかと推測されます。

 とすると、ご不満を逆手にとって、独善的な皇室制度改革に三度、火を付けようとする、よほど大胆きわまる知恵者がいるということでしょうか。まるで伏魔殿です。


▽6 メディアへのお願い

 さて、蛇足ながら、マスコミ関係者にお願いします。

 もともと皇位継承は皇家の家法であり、国民的議論には相応しくありません。宮務法は国務法とは別に定められるべきだと私は思いますが、議論の出発点であるご公務問題に関して、国民的議論が必要だと本気でお考えなら、むしろメディア主催のご公務にメスを入れていただけないでしょうか。

 先月、天皇陛下は皇后陛下とともにラグビーの国際試合を観戦されました。夜8時を回ってからのお出ましは、ご高齢の陛下に相応しいご公務とは思えませんが、親善試合の後援者は大手全国紙で、みずから首を絞めるような議論の余地はありません。

 天皇・皇族方がお出ましになるイベントを主催するメディアはこの一社に限りません。それどころか、新聞ビジネスのご公務利用は常態化し、その結果、ご負担はますます増えているように見えます。

 7年前、習近平・中国国家副主席の特例会見は「政治利用」との批判を浴びましたが、メディアの皇室利用は話題にもなりません。

 みずから身を削る見直しを提起することなくして国民的議論は始まらないと、少なくとも私は考えますが、スネに傷があることを十分に知る政府関係者は、であればこそメディアを利用するのでしょう。

タグ:退位問題
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宮中祭祀を改変させた「ラスプーチン」を代弁!? ──星野甲子久『天皇陛下356日』を読む [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 前回、昭和の宮中祭祀簡略化について、最初に公にしたのは、私が知るかぎり、読売新聞の皇室記者だった星野甲子久(ほしのかねひさ)さんによる『天皇陛下の356日──ものがたり皇室事典』(1982年)だとお話ししました。

 ただ、この本は上中下三巻のデラックス本で、図書館でもなかなかお目にかかれないようです。けれども、2年後の昭和59年に新書版で出版された『天皇陛下356日──いま、新しい素顔、魅力を知る百問百答』なら、うまくすれば古書で手に入るかも知れません。

 そんなわけで、前回、言及したついでに、久しぶりにページをめくってみたのですが、私は思わず吹き出してしまいました。

 というのも、本を推選しているのが、ほかならぬ昭和の祭祀簡略化を決行した、「昭和のラスプーチン」その人だったからです。


▽1 祭式変更の理由が不明

 この本には2カ所、昭和の宮中祭祀簡略化について説明されています。

 最初は、「皇居の朝の日課」(「第一章 陛下のプロフィール)所収)です。

 まず宮中三殿についてで、賢所と皇霊殿は内掌典が、神殿は掌典が奉仕していること、毎朝、日供(にっく)が行われ、当直の侍従が天皇に代わり、拝礼すること(毎朝御代拝)、毎月1日、11日、21日は掌典長が奉仕すること(旬祭)が、解説されています。

 さらに、毎朝御代拝は明治4年に始まったと伝えられること、以前は上直(じょうちょく)侍従が馬車で三殿に向かったが、戦時中は自動車にかわり、服装も浄衣から供奉服となったが、戦後、馬車、浄衣にもどったことなど、簡単に歴史を振り返ったあと、

「昭和50年の9月からは、白い浄衣がモーニングコートに、馬車は自動車にかわり、拝礼の形式もそれまでのような殿上拝礼ではなく、木階の下の拝座で行われるようになった」

 と昭和の祭祀改変について述べています。

 しかし残念ながら、なぜ祭式が変わったのか、については説明されていません。

 この解説では、明治以降、毎朝御代拝のあり方は、とくに戦前、戦中、戦後にかけて変遷があり、時代の状況に応じて変わり得るものだったのであり、昭和の簡略化も同様である、というようにも読めます。


▽2 祭式には法的根拠がある

 つまり、昭和の祭祀簡略化はワン・オブ・ゼムにすぎないということになります。

 しかしそうなのでしょうか。

 当メルマガの読者ならすでにご存じのように、祭式には法的根拠があります。

 近代以後は明治41年制定の皇室祭祀令があり、その附式に祭式が定められていました。祭祀令は昭和2年、20年に改正され、日本国憲法の施行に伴い、廃止されましたが、宮内府長官官房文書課長の依命通牒で「従前の例に準じて、事務を処理すること」とされ、祭祀令および附式が準用され存続してきたのです。

 皇居の奥深くにある聖域で、公務員が関わり、国の予算が多少とも支出される事柄について、法的根拠がないことなどあり得ません。

 戦時中の変更は、戦時中であるがゆえの非常措置であり、当時は三殿ではなく、仮殿で行われていたと私は聞いています。

 それなら昭和50年、宇佐美毅長官、富田朝彦次長、入江相政侍従長、永積寅彦掌典長のもとで行われた毎朝御代拝の変更はいかなる法的根拠に基づいていたのでしょうか。その説明がないのです。

 蛇足ながら、記述の誤りを指摘すると、星野さんは侍従が三殿の内陣で拝礼したと書いていますが、正しくは外陣です。


▽3 「ご高齢の陛下のご健康」

 2番目は「皇居の新年はどのように始まるか」(「第四章 陛下とセレモニー」所収)で、元旦未明の四方拝について説明されています。

 その起源は第10代崇神天皇、あるいは第11代垂仁天皇のときとする諸説があるが、年頭第1の行事とされるようになったのは第59代宇多天皇からであること、京都時代は清涼殿の庭上で行われていたが、明治5年から賢所の庭上で行われるようになり、さらに神嘉殿前庭で行われることになったことなど、歴史を概観し、そのあと、昭和の改変に触れています。

 つまり、「昭和52年の元旦からは場所を神嘉殿前庭から吹上御所のベランダに移し、さらに陛下が80歳におなりになった56年からは、吹上御所の回廊に移して、そこで四方拝が行われるようになった」というのである。

 その理由については、星野さんは続けて、

「場所の変更はご高齢の陛下のご健康を考慮してのことで、吹上御所に移ってからはご服装も黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)ではなく、モーニングコートのままということにかわったのである」

 と説明しています。


▽4 事実関係が異なる

 これも毎朝御代拝の変更と同様で、歴史的変遷については説明しながら、祭式の法的根拠については説明がありません。

 それよりなにより、事実関係が、少なくとも私の理解とは異なります。

 入江相政が、昭和天皇のご学友である永積寅彦に代わって侍従次長となったのは昭和43年4月、5か月後、永積は掌典長となりました。入江の『日記』によると、入江が新嘗祭を始め祭祀改変に動き出したのはそのあとです。

 そして翌44年9月、侍従長に昇格した入江は、年末年始の祭祀簡略化を断行します。

『入江日記』の同年12月26日には、

「お上に歳末年始のお行事のことにつき申し上げる。四方拝はテラス、御洋服。歳旦祭、元始祭は御代拝。他は室内につきすべて例年通りということでお許しを得、皇后様にも申し上げる」

 と書かれています。調べればすぐに分かるものを、50年以降と強弁しなければならない理由があるのでしょうか。

 入江はなぜか急に変更を言い出しました。星野さんはその理由を「ご高齢の陛下のご健康を考慮して」と説明していますが、『日記』には正当化できる記述は見当たりません。昭和天皇はこのときまだ60代、48年9月には半月に及ぶヨーロッパ御訪問もなさいました。これが「ご高齢」でしょうか。


▽5 カバーに添えられた編集部注

 星野さんの本が昭和の祭祀簡略化について、ほかに先んじて記録しているのは、さすがだと思います。長年、読売の皇室記者を務め、その後、日テレの皇室解説委員になっただけのことはあると思います。

 しかし、祭祀簡略化問題についていえば、星野さんの独自取材に基づいて解説されているというより、私は祭祀簡略化を敢行した入江自身の説明を聞かされているように気がしてなりません。

 この本が出版されたのは59年6月です。昭和50年から本格化した祭祀簡略化について、58年の正月来、週刊誌報道をめぐって社会問題化していた最中でした。それなのに、それらしい気配がまったく感じられないのは、なぜでしょうか。

 それで何気なく、新書のカバーに書き添えられた編集部の言葉を読み、私は爆笑したのです。いわく「なお、本書作成にあたり、入江相政侍従長よりご助言、著書の推選をいただきました。編集部」。

 私は思いたくありませんが、星野さんは入江の代弁者を演じさせられたのではありませんか。もしそうだとすると、昭和の祭祀簡略化に関して、ラスプーチンの意に反する説明が書き込まれているはずもないのです。

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入江侍従長の祭祀簡略化工作と戦い敗れた女官 ──河原敏明「宮中『魔女追放事件』の真実」を読む [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 古い記事ですが、久しぶりに重量感のある皇室ジャーナリズムの記事を読んだという満足感がありました。河原敏明氏の「昭和天皇を苦悩させた宮中『魔女追放事件』の真実」(月刊「現代」1999年1月号)です。

 ただ、この記事は結局、歴史の真相に迫り切っていないのではないか、という疑いが晴れません。というのも、河原さんは、入江相政侍従長が「魔女」と痛罵した女官の追放劇の最中に、宮中で進行していた大事件にほとんど言及していないからです。

 私はむしろ、戦後の皇室のあり方と直結する、この大事件こそが「魔女」追放の真因であり、真相だと考えていますが、河原さんはまるで関心がないかのようです。


▽1 『入江日記』が唯一の記録

 平成3年に刊行された入江相政侍従長の『日記』に、「魔女」追放劇が綴られています。

 河原さんの説明によれば、「魔女」とは昭和27年から46年まで香淳皇后に仕えた女官で、皇后の絶大な信任を得たものの、やがて入江の怒りを買うところとなり、皇室全体を巻き込むほどの大問題となった末に、宮中から追われたとされています。

 河原さんによると、「魔女退治」の顛末を唯一、後世に伝える勝利の記録が『入江日記』なのですが、『日記』には「魔女」としか記されず、本名は明かされていません。「魔女」が新興宗教を香淳皇后に勧めていると疑い、探っていたという記述はあるものの、追放の理由も具体的には説明されていません。

 まるで雲をつかむような話です。


▽2 凜とした声の主

 河原さんが記事を書こうと思い立ったのは、以前、わずかに言葉を交わした元女官の声が忘れられなかったからでした。名前は今城誼子(いまきよしこ)といいます。

 昭和55年、河原さんは、貞明皇后と香淳皇后の2代に仕えた久保八重子さんという大ベテランの女官を取材したことがありました。

〈同じく2代の皇后に仕えたのはもう1人だけだった。まじめで、地味で、陰日向のない人で、絶大な信頼を得ていた。けれども、香淳皇后に新興宗教を勧めたという疑いをかけられ、気の毒にも罷免された。最後のお務めの日、香淳皇后は泣いておられた……〉

 それが今城さんでした。

 興味を覚えて面会を試みたものの、固辞されて果たせず、忘れかけていたころ、『入江日記』が刊行され、河原さんは仰天します。入江が「魔女」と誹謗する女官こそ、今城さんその人に違いありません。

 しかし、以前、電話で聞いた穏やかながら凜とした声の主が奸佞な「魔女」とは、河原さんにはどうしても思えませんでした。特別の事情が隠されているのではないか。取材が始まりました。そしてその勘は当たっていたというのです。


▽3 御訪欧決定を契機に

 河原さんによると、今城さんは明治40(1907)年、子爵・今城定政の娘として生まれました。女子学習院高等科に学んだあと、昭和4(1929)年、伯爵・甘露寺受長侍従の推薦で、貞明皇后(皇太后)の女官となりました。貞明皇后が26年に崩御になると、ふたたび甘露寺の推薦でこんどは香淳皇后に仕えることとなりました。

 入江の『日記』には昭和天皇・香淳皇后の御訪欧決定を契機に「皇后・魔女」対「入江・宮内庁」の暗闘が激化していったことが生々しく記録されており、河原さんはこれを「魔女騒動」と呼んでいます。

 けれども河原さんは、真実は別だとみています。『日記』には、「魔女」という先入観で書かれた記述が目立つ半面、その根拠となる具体的な事実が皆無だからです。御訪欧随行問題は最終局面での「魔女」追放の口実に過ぎないことになります。

 しかし、河原さんが見る「真実」も違うと私は考えます。


▽4 誤解と濡れ衣?

 河原さんはまず推理しました。入江が今城さんを「魔女」と決め付け、憎悪した理由は何か、最大の理由は今城さんが香淳皇后に新興宗教を勧めたことにあるらしい。入江は昭和41年2月の『日記』に、「魔女の行くのは『誠の道』(正しくは「真の道」)といふ宗団の由」と記しています。

 けれども、入江の誤解でした。教団は皇室関係者との接触はなかったからです。

 とすると、香淳皇后と接触した教団はほかにあることになる。それは「大真協会」ではないか、と河原さんは考えました。河原さんはかつて教団婦人部幹部の久邇正子さんに直接取材したことがありました。

 正子さんは元皇族で、香淳皇后の姪に当たります。香淳皇后に教団を紹介し、昭和天皇の顔面痙攣を治してあげようと考えたようです。正子さんと香淳皇后とを取り持つ女官もいました。しかし今城さんではありません。

 つまり、今城さんは無関係です。完全に濡れ衣を着せられていたと河原さんは結論づけます。入江ほか宮内庁幹部は確たる証拠もなく、今城さんを「魔女」扱いし、糾弾していたのです。

 それなら、なぜそこまで今城さんは憎悪されたのか。


▽5 感情的な確執か?

 河原さんは、その理由について

(1)貞明皇后に仕えたのち、あとから移ってきたよそ者なのに、香淳皇后から依怙贔屓とも見られるほどに重用されたことへの嫉妬

(2)厳格な大宮御所と比べて、馴れ馴れしいほどに緩い皇居との落差を言葉にして指摘したことで買った無用の反発

 ──の2つとみています。

 そして、やがて宮中全体を敵に回すことになり、罷免された、と河原さんは理解するのでした。

 しかし私はそうではないだろうと考えてます。個人レベルの感情的な確執が宮中全体に関係するほどの大騒動となり得るでしょうか。私が職員OBたちに取材したところでは、今城さんは職員たちによる評価も高く、「魔女」と呼ばれるような人物ではありません。逆に入江の評判の方が良くないのです。

 誤解でも濡れ衣でもない、憎悪されるに足る確たる根拠が、今城さんではなくて、入江の側にあったのだと私は考えます。それはこの時期、入江が宮中全体を巻き込んで展開していた宮中祭祀の改変です。

 目の前に立ちはだかって抵抗する厳格派の今城さんが、入江には端的に目障りだったのでしょう。入江の祭祀改変工作が宮中全体を巻き込んで、陰に陽に展開されたとすれば、罷免工作もまた宮中全体に及ぶのは必至だったと私は想像します。


▽6 香淳皇后の夢だった?

 河原さんの記事によれば、入江と今城さんとの確執は、昭和46(1971)年9月に実施された御訪欧をきっかけにのっぴきならない局面を迎えたとされています。随行要員に今城さんを含めるかどうかで、入江侍従長や徳川義寛次長と香淳皇后との間で騒動が持ち上がり、入江は「また『魔女』に焚き付けられたか」と緊張したというわけです。

 河原さんによると、もともと外国御訪問は香淳皇后の夢だったとされます。前年の45年、大阪万博で来日したベルギーのボールドウィン国王が両陛下を招待したのが史上初となる天皇・皇后両陛下の外国御訪問の始まりとされています。

 けれども、高橋紘・元共同通信記者の『人間昭和天皇』によると、事実関係がかなり違います。

 高橋元記者によると、キーマンは高松宮妃殿下でした。同年4月に来日したのはベルギー国王ではなくて弟のアルベール殿下で、このとき晩餐会の席上、高松宮妃殿下がこう語りかけたのです。

「天皇陛下は皇太子殿下時代に欧州を訪問されたが、皇后陛下は海外にお出かけになったことがない。ベルギー国王は6年前、来日されたが、その答礼という形で、国王陛下から天皇陛下をご招待いただけないか」

 妃殿下は吉田茂元首相にも働きかけをし、佐藤首相周辺で秘密裏に御外遊計画は進み、翌46年2月、閣議決定されました。


▽7 法的制約を顧みない

 高橋元記者が指摘するように、外国御訪問計画はもっと遡れそうです。入江が昭和35年、『日記』の「年末所感」にこう書いているからです。

「東宮様も方々へおいでになり、一生懸命やっていらっしゃる。お上の御風格も世界の人に見せてやりたいが、早くしないとだんだんお年を召してしまう」

 高橋元記者は「入江1人の感想でもなかろう」と書いています。香淳皇后が秩父宮妃、高松宮妃に「一度、外国に行きたい」と話したこともあったようです(『高松宮宣仁親王』)。

 入江の願望と香淳皇后の夢、高松宮妃殿下の提案とがどういう関係にあるのか、分かりませんが、いずれにしても、日本国憲法はいわゆる皇室外交を予定していません。憲法7条が規定するのは日本大使の認証、外国大使の接受にとどまります。

 39年5月に国事行為臨時代行法が公布・施行され、御外遊は現実化するのですが、入江は法的制約をどこまで理解していたのでしょう。情緒的に天皇の御外遊を構想した発想は法的ルールを顧みない祭祀改変と共通します。


▽8 追放劇の背景

 河原さんが指摘するように、『入江日記』に「魔女」が最初に登場するのは昭和41年1月3日でした。大晦日に男子禁制であるべき「剣璽の間」に侍従が無断で入ったことを、今城さんが「えらい剣幕」で詰問したというのです。

 河原さんが書いているように、今城さんが最初に仕えた貞明皇后は皇室の伝統・慣習に厳しく、女官には源氏名を付け、御所言葉を半ば強制したようです。けれども貞明皇后崩御のあと、27年に香淳皇后に仕えるようになったとき、今城さんが強烈に感じたのは、まるで異なる御所の雰囲気で、その馴れ馴れしさに驚いたそうです。

 とりわけ今城さんにとって我慢がならなかったのは、宮中でもっとも神聖視されるべき「剣璽」への軽視であり、固守されるべき祭祀の改変だったのではないでしょうか。それが追放劇の背景なのだろうと私は考えます。

 河原さんは1点だけ、祭祀の改変問題に触れています。

「老境に入ってさすがに従来どおりの神事出席は難しくなったと、入江たちは懸念した。毎月1日、11日、21日の3回、天皇は祭服を着て宮中三殿に親拝される慣例(旬祭)だが、ご親拝は陽気のよい5月と10月だけにし、あとは当直侍従による毎日のご代拝にした旨、入江は皇后に申し上げるのだが──」

 旬祭の改変に関する河原さんのこの記述は不正確です。それはともかく香淳皇后は入江に対して「もっとお祭を大事に度数を増やした方がいい」と反論なさったものの、結局、押し切られます。入江は背後に「魔女」の存在をはっきりと見ています。


▽9 為政者の不作為

 祭祀改変に関する河原さんの記述は、昭和45年の大晦日に書かれた『入江日記』の「補遺」に基づいていますが、改変工作はすでに2年前から進められていました。

 当メルマガの読者ならご承知のように、戦前は皇室祭祀令があり、祭式はその附式で明文法的に定められていました。戦後、昭和20年暮れの、いわゆる神道指令が指令されましたが、宮中祭祀は「皇室の私事」として存続しました。掌典職は公機関ではなくなり、予算は内廷費から支出されることになりました。

 22年5月の新憲法施行に伴い、皇室令はすべて廃止され、祭祀は明文法的根拠を失いました。しかし同日付の宮内府長官官房文書課長の依命通牒で「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされ、祭祀の伝統は守られました。講和条約が発効すると神道指令は失効しました。

 関係者の証言によると、伝統の祭祀を守るため、当面は「皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、というのが当時の政府の方針でしたが、残念ながら実現されませんでした。為政者の不作為の罪です。

 そして事態が急変します。43年に入江が侍従次長となり、法整備どころか、祭祀「簡素化」の工作を始めたのです。


▽10 侍従長の上り詰める

『入江日記』には次のように記されています。

「10月25日 (宇佐美毅)長官の所へ行き、新嘗のことなど報告。皇后様(香淳皇后)に拝謁。新嘗の簡素化について申し上げたが、お気に遊ばすからとのこと、もう少し練ることになる。永積(寅彦。この年9月に掌典長就任。半年前までは侍従次長だった)さんと相談。夕方、掌典職の案というのを聞かせてもらう。これで行くことになろう」

「10月28日 魔女に会い、新嘗のこと頼む」

 歌道を本業とする冷泉家の末裔ながら、入江は装束より洋装、燕尾服よりモーニングを好んだようです。そして根っからの祭祀嫌いだったらしい入江は、翌年9月に侍従長を拝命するや、皇室の伝統も法制度も無視して、祭祀改変へと驀進します。

 このとき目前に立ちはだかったのが、皇室の伝統に忠実たらんとする今城さんであり、香淳皇后だったのでしょう。入江が憎悪を深め、「魔女」と呼ぶのは当然です。

 今城さんも入江も堂上家の出身です。今城さんの祖父中山孝麿は東宮大夫、宮中顧問官、東宮侍従長を歴任し、入江の父為守は東宮侍従長、侍従次長、皇太后宮大夫を歴任しています。今城さんの曾祖父中山忠愛の妹慶子は明治天皇の生母であり、入江の母方の祖父柳原前光の妹愛子は大正天皇の生母という関係です。

 似通った出自の2人ですが、昭和4年から二代の皇后に仕えてきたとはいえ、一介の女官に過ぎない今城さんと、2歳年上ながら、5年遅れて、侍従職となったとはいえ、いまや侍従長の地位に上り詰めた入江との勝負は、すでについていたのでしょう。

 河原さんが理解するような「誤解」でも「濡れ衣」でもないと思います。目の上のたんこぶに対して、入江は対抗心を爆発させ、そして表面化したのが御外遊随行問題であり、その背景には確信的に進められる祭祀簡略化問題があったのだと私は思います。


▽11 抵抗者はいなかったのか

 それにしても、いくつかの疑問があります。

 第1に、なぜ入江は、廃止されたわけでもない依命通牒の規定に反してまで、天皇の聖域である祭祀に介入し、簡略化に突き進んだのでしょうか。

 入江の『日記』では、祭祀簡略化は昭和天皇の「ご高齢」が理由であるかのように記録されていますが、その一方、御外遊計画は進められました。半月にも及ぶ海外旅行に耐えられる陛下は「ご高齢」でしょうか。

 入江は自身の祭祀嫌いを、昭和天皇の「ご高齢」に転嫁させ、説明したのでしょう。リーガル・マインドなど最初から欠けているのはむろんです。

 第2に、そうだとして、法的根拠に基づいて、占領中も、社会党政権時代も、守られてきた祭祀を、個人的な思惑から変更させるのは、暴走以外の何ものでもありません。宇佐美長官ら側近、あるいは天皇・皇族方はなぜ止められなかったのか。今城さん以外に抵抗者はいなかったのでしょうか。

 入江の『日記』によると、44年には旬祭の御親拝は5月と10月のみとなりました。河原さんの記事の説明は不正確だと申しましたが、正確にいえば、毎月1日、11日、21日に行われるのが旬祭で、このうち1日の旬祭は御親拝とされていました。それが入江の工作で、年2回に「簡素化」されたのです。御親拝がないなら、侍従のお供も不要です。

 同年暮れから翌45年にかけての年末年始の祭儀も簡略化され、「四方拝(元旦)はテラス、御洋服。歳旦祭(元日)、元始祭(1月3日)は御代拝」(『入江日記』)とされました。

 御外遊は翌年46年秋でした。祭祀簡略化工作と御外遊計画は同時進行しています。

 入江はいみじくも46年暮れ、『日記』の「年末所感」に、「今年は実にさまざまなことがあったが、大別すると、魔女の追放と御外遊の2つになり、さらにもう1つを加えるとなると新嘗の簡単化ということになる」と記しています。


▽12 昭和天皇の顔面痙攣

 河原さんは昭和天皇の顔面痙攣について触れています。香淳皇后の姪・久邇正子さんが治して差し上げようとしたとあります。

 入江の『日記』では「お口のお癖」と説明されています。45年大晦日の「補遺」には、なぜ祭祀の「簡素化」が始まったのか、長々とした説明が載っていますが、入江が気にしていたのは、6月ごろ始まったという昭和天皇の「お口のお癖」でした。しかし記述には矛盾があります。

 入江によると、新嘗祭を簡素化すると、昭和天皇は「すっかりご安心」になり、「不思議なことにお癖はすっかり止んでしまった」と入江は書いています。そのまま読めば、祭祀のお務めがご高齢の昭和天皇には肉体的・精神的なストレスになり、「お癖」を招いた、と解釈されます。

 ところが、違うのです。いったん止んだものの、翌46年秋には「お癖」は再発したとほかならぬ『日記』に記されています。


▽13 「暁をやってもいい」

 それでは真相は何か。

『日記』によれば、「お癖」が始まったのは45年6月。とすると、香淳皇后が「旬祭はいつから年2回になったか」と猛抗議された直後です。再発したのは46年9月で、今城さんの退官から2か月後、御外遊から帰国された直後でした。

 同年11月には皇室第一の重儀である新嘗祭が簡略化され、出御は夕の儀のみとなります。入江は「お帰りのお車の中で、『これなら何ともないから急にも行くまいが暁(の儀)をやってもいい』との仰せご満足でよかった」と『日記』に書いていますが、昭和天皇が「ご満足」のはずはありません。逆でしょう。

 昭和天皇は入江の工作にご不満で、最大の抵抗を示されていたに違いありません。だから「やってもいい」と仰せになったのです。

 河原さんの取材によると、「お癖」の始まりは時期が少し異なります。しかし久邇正子さんが香淳皇后を訪ねたのが43年11月だということは、入江が祭祀簡略化を開始させた時期とピッタリ重なります。

 祭祀のご負担が昭和天皇の「お癖」を招いたのではなくて、それとはまったく反対に、入江の祭祀簡略化工作が「お癖」の原因なのでしょう。祭祀が天皇第1のお務めだとすれば、昭和天皇にとって祭祀簡略化工作はどれほど耐えがたかったでしょうか。


▽14 ほんとうのラスプーチンは

 河原さんの記事にあるように、「入江日記」には「魔女罷免」に関して、「(香淳皇后が)たいへん御機嫌だった」「すっかり御機嫌」などと記述されています。つまり、同僚の女官が「お部屋で泣いていらっしゃった」と証言するのとは真反対です。

 入江は後世の人が『日記』を読むことを前提に、白を黒と記述しているのではないでしょうか。香淳皇后には無念以外の何ものでもなかったはずで、入江の前ではことさら気丈に振る舞っておられたのかも知れません。

 いちばん納得していなかったのは今城さんご自身でしょう。河原さんによれば、今城さんは同僚の久保さんに、「私、どうして辞めさせられるの?」と尋ねたそうです。

 今城さんの退職は46年7月。職員OBによると、それ以前もそうだったけれども、それ以降、入江に楯突くものは完全にいなくなったようです。もはややりたい放題。今城さんは格好の見せしめとされたのです。今城さんは「ラスプーチン」とも喩えられたそうですが、ほんとうのラスプーチンは入江でした。

 昭和49年に「無神論者」を自任したという富田朝彦次長が登場すると、祭祀簡略化は憲法の政教分離原則を楯に本格化します。55年になると、入江は、昭和天皇の親祭を春秋皇霊祭と略式新嘗祭に限定することを皇太子殿下の発議、皇族方の総意で進めようと工作します。「魔女」追放劇でも行われたであろう、用意周到な根回しが垣間見えます。


▽15 見ざる・聞かざる・いわざる

 祭祀簡略化が最初に明るみに出たのは、私が知るかぎり、昭和57年秋に刊行された、星野甲子久・読売新聞記者が書いた『天皇陛下の365日』です。同年暮れには勇気ある宮内庁職員が学会で問題提起し、週刊誌などをも巻き込んで社会問題化します。

 今城さんの退職後、「見ざる・聞かざる・言わざる」の風潮が宮内庁内に浸透していたのでしょうか。あるいは、そのあとも。

 さて、問題は現代です。

 平成20年以降、祭祀簡略化が陛下のご負担軽減を目的に、昭和の先例を根拠として、進められています。しかし、ご負担軽減といいつつ、ご公務は逆に増えました。悪しき先例が根拠とされるべきでもありません。

 けれども、宮中から疑問の声はいっこうに聞こえてきません。今城さんがご存命なら、どう思うでしょうか。

 最後に蛇足ですが、河原さんはなぜ祭祀簡略化問題に注目されないのでしょうか。

 既述したように、入江の『日記』には、「魔女追放」「御外遊」「新嘗簡単化」の3つが46年のテーマだったと書かれています。58年の年初から祭祀簡略化がマスコミの大きなテーマとなったことはご記憶のはずでしょうに。

(一部敬語敬称略)

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