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理性の回復を信じたい──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 7 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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理性の回復を信じたい
──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 7
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


まえがきにかえて

宮中祭祀にも「女性宮家」にも言及しない前侍従長インタビュー


▽7 理性の回復を信じたい

 いま2年の時を経て(一般に、「女性宮家」創設論議の発端は平成23年11月の読売新聞のスクープが発端とされています。それからもう5年半になります)、あらためて、前侍従長ら側近たちが火を付けた「女性宮家」論議の検証を試みるのは、より多くの方々に、さらに真剣に考えてほしいと願うからです。

 70年前、未曾有の惨禍を招いた戦争が終結したあと、戦勝国は勝利におごり、敗戦国は憔悴し、新たな無法が吹き荒れていました。そのときインドのラダビノード・パール判事は、

「時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう」

 と判決文(反対意見書)の最後を締めくくりました。感情の動物である人間が冷静さを取り戻すには、時が必要です。

 以下の文章は、国民的大議論が燃えさかった平成24年当時、書きためた「斎藤吉久の『誤解だらけの天皇・皇室』メールマガジン」の記事を元にしています。

 その後、新たに得られた知見と考察を加えるなど、大幅に加筆修正し、電子書籍として再構成したのは、時の経過による理性の回復を信じたいからです。

 結論的にいえば、いわゆる「女性宮家」創設論議には、以下のような5つの実態と問題点が、少なくとも指摘されるでしょう。

(1)歴史的天皇像の喪失。天皇論といえば、社会一般に、現行憲法第一主義が浸透し、古来、「祭り主」「祭祀王」とされてきた歴史的な天皇のあり方に対する知識や理解が失われ、関心も払われなくなっていること。

(2)いびつな政教分離論。天皇を「祭り主」と位置づける皇室の伝統と、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(日本国憲法第20条第3項)と規定する、憲法の政教分離原則を対立的にとらえ、天皇の祭祀を「特定の宗教」とみなして、不当に干渉することが一貫して続いていること。

(3)官僚たちの暴走。昭和の祭祀簡略化も、平成の祭祀簡略化も、側近たちの独断専行で進められたこと。女性天皇・女系継承容認へと踏み出したのも、有能なはずの官僚たちだったこと。「女性宮家」創設論はその延長線上にあるが、その目的とされた、陛下の御公務ご負担軽減を阻むカベもまた官僚社会だったこと。

(4)官僚と政治家と知識人とメディアの四角関係。皇室の伝統におよそ造詣のない政治家の発言をきっかけに、官僚たちの非公式検討が始まり、やがていわゆる御用学者と呼ばれるような知識人が参加し、さらに不正確な報道が加わって、混乱が増していくという実態があること。

(5)学問研究の未熟。天皇統治の本質は祭祀にあるが、天皇論を語るべき学問研究のレベルが時代のニーズに追いついていないために、バランスに欠けた論議が続いていること。とりわけ宗教学、神道学、祭祀学の深化、進展が急務と思われること。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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「象徴」天皇論の宣教師 ──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 6 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「象徴」天皇論の宣教師
──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 6
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


まえがきにかえて

宮中祭祀にも「女性宮家」にも言及しない前侍従長インタビュー


▽6 「象徴」天皇論の宣教師


 渡邉前侍従長(いまは元職)は、日経ビジネスの連載企画の趣旨に沿って、「陛下のメッセージ」に言及しています。

「僕が推測するに、天皇陛下がもし仮にここで次の世代に伝えたいことがあったら何かという質問があったら、先の大戦のことをおっしゃると思うんです。80歳のお誕生日のときに、80年で一番印象に残っていることは何かという質問に対して、やっぱりそれは大戦のことだとおっしゃっていますから」

「絶対に戦争のことが忘れられないように語り継がれてほしいと。これは陛下が後世に伝えたい非常に大事なメッセージだと思います」

 編集部の注釈によると、インタビューは平成26年12月1日に行われました。陛下はひと月後、「戦後70年」となる翌年の新年に当たっての「ご感想」で、こう述べられました。

「(終戦から70年の)この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」〈http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gokanso/shinnen-h27.html

 前侍従長がインタビューで語った推察どおりということでしょうか。けれども、私は違うと考えています。

 前侍従長はインタビューのなかで、「終戦のとき小学校3年」だったという戦争の「体験」「記憶」を強調しています。しかし陛下の場合は、けっして個人的な「体験」だけではないと私は思うのです。

「私」的な「体験」からは「私」を離れた「無私の心」は生まれないし、社会的なご活動を重ねることで「無私の心」が生じるなら、明治以前、近代以前の天皇は「無私の心」をお持ちでなかったということなのでしょうか。そんなことはあり得ません。

 陛下が「戦争の歴史」を重視なさるのは、歴代天皇と同様、国と民のために祈られる祭祀王だからでしょう。いつの世も平和だとは限りません。遠く神代の時代に、

「豊葦原(とよあしはら)の中国(なかつくに)は、是(これ)、吾(わ)が児(みこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」(「日本書紀巻第二」)

 と皇祖天照大神(あまてらすおおかみ)から国の統治を委任されたというお立場であれば、「無私の心」で真剣な祈りを捧げざるを得ません。それが天皇の祭りです。

 曾祖父は宮内大臣、父は「昭和天皇のご学友」、それほどご立派なお血筋の前侍従長に、それが理解されないのか、そんなことはないでしょう。実際、前侍従長は伊勢神宮での講演(平成21年6月)でこう語っています。

「陛下は宮中祭祀にあたって、天皇としての務めを果たすことを誓われ、国民の幸せ、国家の平安、五穀豊穣を祈られるのですが、陛下は祭祀のときだけ突然、そういうことをなさるわけではなくて、私の実感としまして、むしろつねに自然にそういう御心でいらっしゃるということです」(伊勢神宮広報誌「瑞垣」平成21年7月)

 一見、天皇が古来、祭り主とされてきた歴史と伝統を十分に理解しているようにも見えます。けれども、それなら、陛下のご高齢を名目に御公務ご負担軽減に取り組み、実際はご負担軽減どころか、天皇の聖域である祭祀に不当に介入し、さらに皇室の歴史にはない「女性宮家」創設まで提唱し、そして、いままた現行憲法論的「象徴」天皇論の宣教師を演じているのは、なぜでしょうか?

 側近が陛下より憲法に忠誠を誓うことは、謀叛ではないでしょうか。皇室制度改革に名を借りて、皇室の歴史と伝統を否定する革命ではないのでしょうか?


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります
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社会的弱者のための天皇ではない ──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 5 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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社会的弱者のための天皇ではない
──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 5
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


まえがきにかえて
宮中祭祀にも「女性宮家」にも言及しない前侍従長インタビュー


▽5 社会的弱者のための天皇ではない

 渡邉前侍従長(いまは元職)が仰せの現行憲法的「象徴」天皇論を、百歩譲って認めたとして、国民に寄り添う「象徴」としての行為と、

「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行う」

 と定める憲法(第4条)の規定は、いかなる関係になるのか、少なくとも私にはほとんど理解不能です。

 前侍従長は「象徴」について、こう語ります。少し長いですが、引用します。

「『象徴』とは何か、と聞かれると答えにくいですよね。でも陛下がされていることというのは、要は求心力を働かせるということではないでしょうか。これは非常に嫌なことではありますけど、社会から遠心力が働いて外周部に追いやられてしまいがちな方々が実際にはいらっしゃる。もうずっと以前からハンセン病や障害者スポーツなどに関わる方と陛下は親交をもってこられましたが、そういう方々に求心力を働かせて、遠心力ではじき飛ばされることがないようにする。それがまさに『日本国民統合の象徴』として、陛下がされていることなんじゃないでしょうか」

 これも間違いだと思います。社会的弱者のため、社会的にご活動なさるのが天皇という存在ではないし、為政者の不始末を尻ぬぐいするのがお役目ではないからです。

 古来、国と民をひとつに統合するのが天皇の第一のお務めであり、それが祭祀です。天皇の「求心力」は「遠心力」を前提にしているのでもないでしょう。

 前侍従長は、「もう1つ印象に残ったこと」として、日銀総裁によるご進講の逸話を紹介しています。陛下は

「この頃、格差ということを聞くようになりましたけど、それについてはどうですか?」

 とお尋ねになったというのです。

 そのときの総裁の答えがピントはずれと感じた前侍従長は、ご進講のあと、総裁に

「陛下がああいうことをおっしゃっていたのは、要するに格差で落ちこぼれる人が出てきているというふうに自分は理解していると。その人たちのことはどうするんですかということだったんだと私は思いますよ」

 と申し上げたというのです。

 前侍従長の理解では、「遠心力」ではじかれた「弱者」を救済し、「求心力」を働かせるのが天皇のお役目だということになるのでしょうか。そうではなくて、もっともっと高い次元にあるのが皇位というものはないでしょうか?

 たとえば、近代を代表する啓蒙思想家の福沢諭吉は『帝室論』に

「帝室は政治社外のものなり」

 と書きました。福沢は、皇室の任務は民心融和の中心たる点にあると理解し、政治圏外の高い次元での国民統合の役割を期待したといわれます(小泉信三『ジョオジ五世伝と帝室論』)。

 天皇にとっては、強者であれ、弱者であれ、すべての民が「赤子(せきし)」のはずだし、国民に寄り添う天皇のお出ましが、社会的不満のガス抜きに利用されてはなりません。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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社会的に活動なさるのが天皇ではない ──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 4 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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社会的に活動なさるのが天皇ではない
──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 4
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


まえがきにかえて

宮中祭祀にも「女性宮家」にも言及しない前侍従長インタビュー


▽4 社会的に活動なさるのが天皇ではない

 渡邉前侍従長(いまは元職)はインタビュー記事のなかで、「無私の心」の現れとして、陛下のご活動に言及しています。

 若いころに親族と離ればなれになったハンセン病患者の療養所を訪ねられ、老後を心配され、1人1人に親しく声をかけられ、そのお姿に看護師たちがもらい泣きするというエピソードは、じつに感動的です。

 宮崎県の西都原(さいとばる)古墳群では、あるとき住民が通りかかったところ、突然、地面が陥没し、新たな古墳が発見された、という県知事の説明を受けられた陛下は、

「通りかかった方に、ケガはありませんでしたか?」

 と質問なさいました。ふつうの人なら古墳についてもっと知ろうとするだろうけれども、陛下は違っていたというわけです。前侍従長は、

「とても小さいことだけど、だからこそ、普段からそういう発想をしていなければ出てこない言葉だと思う」

 と解説し、

「この方はこういうものの考え方なんだな」

 と納得しています。

 けれども、これはまったく間違っています。感動的な話だけに、逆に困るのです。

 第一に、古来、社会的に活動なさることが、天皇の天皇たるゆえんではないからです。第二に、国民に心を寄せられるのを、今上陛下個人の人間性と見るべきでもありません。

 天皇が各地に行幸され、国民と親しく交わられるようになったのは近代以後のきわめて新しい現象ですが、陛下が国民1人1人に寄り添おうとなさるのは、祭祀王としてのご自覚がおありだからでしょう。

 古くから、天皇統治とは「しらす」政治、すなわち「知る」政治といわれ、歴代の天皇は、多様なる民の多様なる声に耳を傾け、多様な心を知り、喜びや栄光のみならず、悲しみや憂いを分かち合おうされます。その王者の伝統は、神々に食を捧げ、みずから召し上がり、神々と民と命を共有する祭祀を厳修なさることと軌を一にしています。

 中川記者によると、前侍従長は退任後、「畏れ多いことながら」としつつ、両陛下の普段の姿を広く知ってもらうために、講演活動を重ねているとのことですが、祭祀の伝統を語らず、かえって

「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』ということにならざるを得ません」(前掲「諸君」平成20年7月号インタビュー)

 と明言してはばからないのは、皇室を敬愛する国民をむしろ混乱させるものです。

 天皇は祭祀王だと位置づけられるなら、拝謁やお茶でご多忙になることはありません。側近は陛下の祈りのお姿を国民に知らせればいいのです。そうではなくて、社会的活動家だとすれば、陛下はますますご多忙を極めることになります。陛下をご多忙にしているのは側近たちであって、皇室制度ではありません。

 陛下が祭り主ではなくて、社会活動家であり、護憲派であるかのような現行憲法を起点とする「1.5代」象徴天皇論を宣伝する、元側近の情報発信は、国民のあいだに誤解を拡大させることにならないか、と心から心配します。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります
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前侍従長の「象徴」と陛下の「象徴」 ──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 3 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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前侍従長の「象徴」と陛下の「象徴」
──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 3
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


まえがきにかえて

宮中祭祀にも「女性宮家」にも言及しない前侍従長インタビュー


▽3 前侍従長の「象徴」と陛下の「象徴」


 渡邉允前侍従長(いまは元職)は、インタビュー記事の冒頭、こう語っています。

「10年半で私が感じたことというと、やっぱり一番は天皇陛下の無私の心です。一言で言ってしまえば、そういうことなんだと思うんですよ」

「天皇に私なし」とは古来、いわれてきたことです。天皇には姓も名もありません。たとえば、今上陛下の弟宮・常陸宮様は「正仁親王殿下」とお呼び申し上げますが、陛下はあくまで「天皇陛下」です。現に皇位にある天皇はお名前では呼ばれないのです。天皇が固有名詞で呼ばれるのは、崩御(ほうぎょ)ののちのことです。

 それにしても、不可解です、

「10年半、侍従長を務めました」

「一般の方々に比べて、普段の陛下のお姿を拝見する機会が多かったわけです」

 とみずから語る「天皇家の執事」は、もっぱら今上陛下個人について語っています。

 しかも、今上陛下の「無私の心」が何に由来するのか、深く追究されていないようなのです。

 前侍従長はまず日本国憲法を引用します。

「陛下は日本国の象徴であり、国民統合の象徴であるというお立場でいらっしゃいます。これは寝ても覚めてもそうで、一時たりともそのお立場でない時間は無いわけですね」

 前侍従長の説明は、陛下の「無私の心」があたかも現行憲法の「象徴天皇」制度に基づいているかのような錯覚を覚えさせます。けれども、そんなことはあり得ません。

 すでに書いたように、天皇とは古来、公正かつ無私なる祭り主なのです。

 たとえば、後鳥羽上皇の日記「後鳥羽院宸記」の建暦2(1212)年10月25日条には、大嘗祭で新帝が神前に捧げる、天皇直伝で一般には知られない「申詞(もうしことば)」について、弱冠14歳で即位された、第3皇子の順徳天皇に教えられたことが記録されています。

「伊勢の五十鈴(いすず)の河上にます天照大神(あまてらすおおかみ)、また天神地祇(てんじんちぎ)、諸神明にもうさく。朕(ちん)、皇神の広き護りによりて、国中平らかに安らけく、年穀豊かに稔り、上下を覆寿(おお)いて、諸民を救済(すく)わん。よりて今年新たに得るところの新飯を供え奉ること、かくのごとし」(原文は白文)

 今上陛下は、歴代天皇と同様、皇位継承以来、この申詞にあるように、国と民のため、皇祖神のみならず天神地祇にひたすら祈る宮中祭祀を重ねられることによって、「無私の心」を磨いてこられたのです。

 陛下はまた、けっして単純な護憲派ではありません。占領軍による「押しつけ憲法」と卑下され、せいぜい70年弱の歴史しかない日本国憲法が、悠久の歴史を紡いできた天皇の精神の根拠となるはずはありません。

 たとえば、御即位20年の記者会見で、憲法が定める「象徴」という地位についての質問を受けられた陛下は、

「長い天皇の歴史に思いを致し、国民の上を思い、象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ、今日まで過ごしてきました」

 とお答えになりました〈http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gosokui20.html〉。

 陛下にとっては、「長い天皇の歴史」すなわち祭祀王としての歴史と、現行憲法上の「象徴」というあり方の2つが同時に重要なのです。

 10年以上もお側に仕えた側近中の側近なら、そんなことは容易に理解できるでしょうに、前侍従長の「象徴」はあくまで現行憲法的「象徴」なのです。

 前侍従長は、ほかの雑誌インタビューでは、こう述べています。

「昭和天皇は、新憲法下の天皇として戦後を生きられましたが、やはりそれ以前に大日本帝国憲法下の天皇として在位されたことは否めないことでした。一方、今上陛下はご即位のはじめから、現憲法下の象徴天皇であられた」(インタビュー「慈愛と祈りの歳月にお伴して」=「諸君!」平成20年7月号所収)

 昭和天皇は在位の途中から、なのに対して、今上天皇は最初から、「象徴天皇」制度の下での「象徴天皇」だという理解です。まるで皇室の伝統、天皇の祭祀を避けるかのような姿勢は、「1.5代」象徴天皇論に取り憑かれた結果でしょうか?


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります
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渡邉允元侍従長の「遺言」──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 2 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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渡邉允元侍従長の「遺言」
──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 2
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


まえがきにかえて

宮中祭祀にも「女性宮家」にも言及しない前侍従長インタビュー


▽2 前侍従長の「遺言」


 歴史的天皇像の喪失は陛下の側近にまでおよんでいます。というより、側近たちこそ、震源地なのでした。

 たとえば、日経ビジネスオンラインは特別企画として、戦後のリーダーたちが未来に託す「遺言」を連載していますが、2月4日の第10回目に登場したのは、今上天皇の側近中の側近である渡邉允(わたなべ・まこと)前侍従長でした(この文章を書いた当時は前職でしたが、現在では元職です)。

 記事をまとめた中川雅之記者によるプロフィール紹介では、前侍従長の曾祖父・渡邉千秋氏は明治天皇崩御時の宮内大臣で、父は「昭和天皇最後のご学友」として知られる渡邉昭氏。現役の川島裕侍従長をのぞけば、唯一存命の侍従長経験者、と説明されています。

 今上陛下に個人として近侍しただけでなく、家柄としても皇室ときわめて関係の深いキーパーソンだというわけです。

 けれども、そうであるなら、いや、そうであるだけに、じつに不可思議です。

 記事には、古来、天皇第一のお務めとされてきたはずの宮中祭祀も、ついこの間、国民的な大議論を巻き起こしたばかりの、いわゆる「女性宮家」創設問題も、すっぽりと抜け落ちているからです。

 渡邉前侍従長ら側近たちは御在位20年をひかえて、ご高齢になった陛下のご健康をおもんぱかり、ご負担軽減に取り組みました。けれども、いわゆる御公務はいっこうに減らず、それどころか逆に増え、それとは対照的に、簡略化され、お出ましが激減したのが、天皇第一のお務めである祭祀でした。

 これが平成の祭祀簡略化です。つまり、側近たちによる御公務ご負担軽減策は大失敗したのです(拙文「天皇陛下をご多忙にしているのは誰か」=「文藝春秋」平成23年4月号)。

 しかしそれなら、御公務そのものをあらためて大胆に見直し、削減策を早急に講じるべきなのに、民主党政権は、皇室のご活動を安定的に維持し、両陛下のご負担を軽減するため、女性皇族にご分担を求めたいという理屈で、無謀にも皇室制度の検討に着手し、いわゆる「女性宮家」創設に関する有識者ヒアリングを開始させました。

 かまびすしい論議の発端は、後述するように、御在位20年を機に、ほかならぬ前侍従長らが提案したことで、メデイアの初出はこれまたほかならぬ日経本紙の連載でした。ただし、このときの問題意識は「皇統の悩み」であり、「『このままでは宮家がゼロになる』との危機感」と伝えられました。

 しかし国家の基本に関わる大テーマについて、あれだけの大論争を呼び起こしながら、結果的に何がどう変わったのか、嵐が過ぎ去ると、まるで何事もなかったかのように、元側近は黙して語らない、責任も問われない、メディアも報道しようとしない。これは、いったい、どういうことなのでしょうか?


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります
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歴史的天皇像の喪失 ──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 1 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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歴史的天皇像の喪失
──『検証「女性宮家」論議』の「まえがきにかえて」 1
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「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の座長代理を務めた御厨貴東大名誉教授が新聞各社のインタビューで、「女性宮家」創設への施策を進めるよう安倍政権に要求している。新聞記事によると、その目的は「皇族数の減少への対応」とされている。

 消化剤をかけられて鎮火されたはずの「女性宮家」創設論がふたたびメラメラと火勢を盛り返そうとしている。見かけの目的をふたたび衣替えしたうえで、である。

 もともと、過去の歴史にない「女性宮家」創設論は、平成8年に政府部内で皇室制度改革に関する非公式検討が始まって以降、女性天皇・女系継承容認論と一体のかたちで生まれたものと考えられる。野田内閣のときには陛下のご公務ご負担軽減を目的として、「女性宮家」創設について検討する有識者会議が設けられたこともあった。

 そして今度は、「皇族数の確保」のための「女性宮家」創設だという。

 以前、私はこの議論はけっして終わらないと指摘したが、案の定である。最終目的が女系継承容認論にあることは無論のことだと思われる。手を変え、品を変え、容認論者たちの並々ならぬ執念を感じさせずにはおかない。

 けれども、なぜそこまでしないといけないのか。何のための執念なのか。

 ということで、数年前に書いた『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』を、加筆修正のうえ、転載したいと思う。あの議論は何だったのか、あらためて検証してみる必要性を感じるからである。


まえがきにかえて

宮中祭祀にも「女性宮家」にも言及しない前侍従長インタビュー


▽1 歴史的天皇像の喪失

 125代の長きにわたって続く天皇の歴史の重みを顧みずに、公布からたかだか70年の現行憲法を起点に考える、いわば「1.5代」象徴天皇論が社会の各要所を支配し、皇室の伝統を脅かしています。

 古来、国の中心に天皇が一貫して存在してきた意味と価値が自覚されることなく、あるいは自覚できずに、いつの間にか本来的なお役目が否認され、まったく異質なものへと変質させられようとしているようです。

 天皇の変質は文明の揺らぎそのものです。文明の危機ともいうべき、きわめて重大な歴史の転換点を迎えているように思えてなりません。

 昨年(平成26年)来、「戦後70年」という言葉を聞くようになりました。歴史の大きな節目とされ、安倍内閣は「総理大臣談話」の取りまとめに向け、有識者による懇談会を立ち上げました。

 未曾有の敗戦から70年、大戦の反省と戦後の平和的歩みを踏まえて、21世紀の新たなビジョンを模索することは大きな意味があり、政府の意気込みは評価されます。それだけ20世紀において国の内外にもたらされた戦争の惨禍は筆舌に尽くしがたく、今日に至るまで尾を引いていることが分かります。

 けれども、それ以上に深刻なのは、文明の根幹に関わる地殻変動です。

 1200年以上前の古代律令に、

「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇を祭れ」(「神祇令」の「即位条」)

 と定められ、鎌倉時代に順徳天皇が宮中の有職故実などについて記録された「禁秘抄(きんぴしょう)」の冒頭に、

「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」

 と明記されているように、天皇とは国と民のため、皇祖神ほか天神地祇にひたすら祈る存在です。むかしもいまも、天皇は1年365日、祈りの日々を過ごしておられます。けれども、その事実すら、現代人の多くは知りません。戦後のメディアはほとんど報道しないからです。

 祈りの存在であることが天皇の天皇たるゆえんであり、天皇が国の頂点に位置する統治者であることを意味してきたのですが、その意味を現代的に説明してくれる人も見当たりません。それどころか、天皇の祭祀は、まるで過去の遺物でもあるかのように誤解され、側近たちからさえ敬遠されています。

 占領期に憲法は変わり、天皇は国および国民統合の「象徴」と位置づけられ、古代から天皇第一のお務めとされてきた宮中祭祀は「皇室の私事」に貶められたままで、昭和40、50年代には、無原則な祭祀の簡略化が進められました。

 平成に入ると、政府は、御代替わりの諸儀式を「憲法の趣旨」に反するとみなし、歴史的変更を加えました。ごく最近では、過去の歴史にない、女性天皇・女系継承容認の認否論議や、いわゆる「女性宮家」創設論議が、立て続けに起きました。その発信元は、後述するように、世界に冠たる、有能な日本の官僚たちでした。

 国民的議論が盛んなのは悪いことではありませんが、議論の中身を見ていくと、歴史的天皇像の喪失という憂慮すべき現実が浮かび上がってきます。それは天皇制度の改革ではなく、終焉なのです。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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もっぱら「退位」を検討した「負担軽減」会議の矛盾──有識者会議の最終報告書を読んで [退位問題]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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もっぱら「退位」を検討した「負担軽減」会議の矛盾
──有識者会議の最終報告書を読んで
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 おととい、天皇の公務の軽減等に関する有識者会議の最終報告書が安倍総理に提出された。昨秋以来、短期間の間によくぞここまでまとめられたものだと思う。関係者各位のご努力にまず敬意を表したいと思う。

 ただ、報告書の中身を眺めていると、結局のところ、「天皇の公務の軽減等に関する」という会議の名称とは完全に相違し、もっぱら「退位」問題の検討に終始したのだとあらためて感じ入っている。


▽「退位ファースト」になった理由

 報告書は以下のように6章立てになっている。1はいわば序章だから、6章以外本論はすべて「退位」問題だということになる。

 1 最終報告のとりまとめに至る経緯
 2 退位後のお立場等
 3 退位後の天皇およびその后の事務をつかさる組織
 4 退位後の天皇およびその后に係る費用等
 5 退位後の天皇のご活動のあり方
 6 皇子ではない皇位継承順位第一位の皇族の称号等

 なぜ「退位ファースト」の会議になったのか。報告書がいちおう説明するところによれば、こうである。

 まずご負担軽減について検討するようにという安倍総理の要請を出発点として、有識者会議は議論を重ねてきた。軽減策にはさまざまな方策があることがわかったが、今年3月、衆参正副議長による「『退位等についての立法府の対応』に関する議論のとりまとめ」が政府に伝えられ、安倍総理が直ちに特例法立案に取り組む発言があったのを踏まえ、関連する課題について議論を進めてきた、というのである。

 ここにはメディアが伝えてきた、陛下による「生前退位」の御意向表明や昨年8月のお言葉がない。一連の動きは陛下のお気持ちが出発点であることは誰の目にも明らかなのに、その事実にはフタをするかたちで議論が進められ、報告書がまとめられている。

 それはなぜかといえば、天皇は「国政に関する権能を有しない」とする憲法上の制約があるからだろう。天皇の発議によって新たな法制度をつくるなどということは憲法上あり得ない。あえて行うというなら、皇室典範どころか、まずは憲法を改正するのが筋である。

 この法的な制約を打開しつつ、陛下の御意向に添うにはどうすればいいのか、関係者にとっては最大の苦心だったろう。会議の名称が「退位」でなかったのもその結果だろう。

 逆にいえば、なぜそこまで手の込んだ援護を必要とするむずかしい事態に立ち至ったのか、である。


▽翻意を促すべきだった

 おとといの日経新聞は、その辺の事情を浮かび上がらせていて、おもしろい。

 退位のご意向が宮内庁から官邸に伝えられたのは平成27年10月ごろだったが、「即位と退位の自由は憲法上、認められない」が官邸側の結論で、同年暮れの誕生日のお言葉での表明も見送られた。官邸サイドは風岡宮内庁長官に「摂政ではダメか」と繰り返し陛下の翻意を促したが、否定的な返答しか返ってこなかった。

 そこへ昨年7月、NHKのスクープ報道があり、官邸は方針転換を余儀なくされていった、と伝えている。とすると、あのスクープは誰が何の目的でリークした結果だったのか。日経によれば、情報提供者は長官でも次長でもないらしい。

 さらに日経は、8月8日のお言葉の作成段階に、異例にも安倍総理が関与したことを伝えている。「宮内庁の初稿は海外の退位事例を紹介するなど、陛下の退位の意向があらわになる文面だった」から、官邸は削除を要求した。

 なるほど陛下ご自身が発表されたメッセージは、メディアが「退位の意向をにじませた」といくら報道しても、「退位」表明と素直に読めないのは道理である。文章のつながりが不自然に感じられるところがあるのは、削除の結果だったろうと想像される。

 ここでどうしても指摘しなければならないのは、宮内庁トップの役割である。退位の否認は官邸のみならず、宮内庁の方針でもあり、国会でもそのように何度も答弁してきたはずである。長官は職を賭してでも翻意を促すべきではなかったか。

 もうひとつ、なぜ陛下は憲法や皇室典範の規定に基づく、従来の政府の方針にまっこうから抵抗なさるような「譲位」表明をなさることになったのだろうか。皇位継承以来、何度も「憲法を守る」と表明されてきたはずなのにである。最大の謎といえる。


▽もう時間がない

 ともかく来年12月には御代替わりがやってくることは確実らしい。即位の礼・大嘗祭は再来年の秋という日程になるだろう。ある宮内庁OBによると、御代替わり儀礼を瑕疵なく執行するには、祭儀を担当する職員の人数を増やす必要があるし、練習も必要で、来年の新嘗祭を経験させる必要があるという。

 そのことは当然、来年度の予算にも関わってくる。宮廷費、内廷費の増額が必至である。だとすると、今年夏に来年度予算の概算要求があり、12月に財務省原案が策定され、政府案が閣議決定されるというタイムスケジュールにあわせて、作業を急ぐ必要がある。

 ましてや御代替わり諸儀礼の正常化を願うなら、実質的にはほとんど時間的余裕はない。

タグ:退位問題
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天覧に浴した井上の喜びと教科書構想が破れた芳川の落胆 ──井上哲次郎『教育勅語衍義釈明』を読む 3 [教育勅語]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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天覧に浴した井上の喜びと教科書構想が破れた芳川の落胆
──井上哲次郎『教育勅語衍義釈明』を読む 3
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 井上哲次郎の『勅語衍義』(明治24.9)に関するふたつ目の疑問は、私著なのか、それとも教科書なのか、である。

『明治天皇紀』巻7には「私著として上梓」されたと記録されている。ところが、文部省が編集・監修した『学制百年史』(昭和56.9)はそうではなくて、「師範学校・中学校の修身教科書として使用された」と記述する。

 いったいいずれが正しいのか。もし前者が正しいなら、なぜ教科書にならなかったのか、その間、何があったのか。

 それで、ひきつづき『教育勅語衍義釈明』(昭和17)の「釈明」第二節「草案完成」を読むことにする。


▽「私著として公刊して可なり」

 井上によると、書名は『勅語衍義』と決まったが、草案作成がはかどらず、数か月を要した。ようやくできあがった稿本は多くの知識人の校閲を受けた。

 井上は中村正直(啓蒙思想家)、加藤弘之(政治学者)、井上毅(法制局長官)、島田重礼(儒学者)らのほか、西村茂樹(啓蒙思想家)、重野安繹(やすつぐ。漢学者)、小中村清矩(きよのり。国学者)らにも意見を求めたらしい。芳川顕正文相や文部官僚の江木千之(えぎ・かずゆき。のちの文相)らは稿本を見て、付箋を貼り、意見を述べたという。

 とくに意見が合わなかったのが井上毅らしい。

「なおここに付け加へておきたいことは、井上毅氏は自分ならばもっと簡単な註釈にするであらうといって約10枚ばかりの見本を作ってみせたが、どうもそれは形式的なもので、いっこう精神の躍動してゐない文章であったから、自分一見して顧みなかったが、芳川文相もこれではならぬといって撥ね付けた。さういふこともあった」

 井上哲次郎の『衍義』はやたらと長いから、井上毅が「もっと簡単」にと意見したとしても十分、理解できる。けれども、哲次郎がわざわざ毅の固有名詞を出して回想するからには、よほど腹に据えかねるところがあったのかも知れない。だが、文相をも巻き込んだこの一件は、「撥ね付けた」では済まなかっただろうと想像される。

 井上哲次郎によれば、『衍義』の文義が定まったあと、内務大臣を経て、天覧の栄誉に浴することになった。お手許に留め置かれること一週間か10日、そして下賜された。天皇が目通しされたことは、哲次郎にとって喜びはひとしおだったろう。

「『教育勅語』の解釈は600余種にものぼってゐるやうであるけれども、天覧をかたじけなくしたのはひとりこの『勅語衍義』のみであった」

 しかし、である。手柄話では済まなかったのである。

「文相吉川氏より自分に、この書は私著として公刊して可なりと申し渡された。それでいくばくもなく自分の私著としてこれを公刊した次第である」

 結局、芳川文相が目的とした教科書とはならず、『衍義』は私著として公刊された。要するに、芳川文相の教科書構想は日の目を見なかったのである。天覧にあずかった哲次郎の喜ぶ顔と芳川文相の落胆の顔が同時に浮かんでくるのは皮肉である。


▽二人の井上の呉越同舟

 なぜ教科書ではなく、私著となったのか。『明治天皇紀』は「この書、修正の如くせば可ならん。しかれどもなお簡にして意を尽くさざらんものあらば、また毅と熟議してさらに修正せよと」という明治天皇の言葉を記録している。

 しかし井上哲次郎は「毅と熟議」どころか、「撥ね付けた」のであった。

 井上毅と井上哲次郎。二人の井上は求めるものが違っていた。毅が勅語の非宗教性、非哲学性、非政治性どころか、良心の自由をも追求したのに対して、哲次郎はドイツ風の愛国心の高揚を心に秘めていた。二人の呉越同舟が教科書への道を阻んだのではないか。

 結局、哲次郎は明治天皇の叡慮にも従わなかったことになるのだが、哲次郎自身がそのことを自覚していたように見えないのは不思議である。哲次郎には他者の批評が「たいていみなこれを削除したがよからうといふやうな消極的の意見」としか映らず、それでいて「いったんこの書を公刊したところが、部数はずいぶんたくさん発行され、幾万部幾十万部にか及んだ」と逆に勝ち誇っている。

 愛国主義的な解釈本が売れれば売れるほど、明治天皇の叡慮の実現は遠ざかっていったのかも知れない。解釈本は何百種とあるのに、芳川文相が構想した標準的な教科書は作れなかった。だとしたら、それだけで混乱は必至だろう。

 しかも教科書になり損ねた愛国主義的解釈の『衍義』がベストセラーになれば、ますます混乱に拍車がかかる。さらに、一方では勅語の捧読、奉安殿の設置と神格化が促進された。勅語の作成では宗教性が排されたのに、むしろ勅語それ自体が宗教的対象と化していくのである。

 戦後、教育勅語がきびしく批判される原因はここにあるのかも知れない。とすれば、井上の書はまさに『釈明』と題されるのに相応しい。だが、当の井上はどこまで自覚していたのだろうか。

 蛇足ながら、最後にもうひとつ付け加えたい。『勅語衍義』の著者自身が「私著」と断言しているのに、文部省がまとめた『学制百年史』はなぜ「師範学校・中学校の修身教科書として使用された」と記述しているのだろうか。新たな疑問である。
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「文相より相談」と明かした50年後の「釈明」 ──井上哲次郎『教育勅語衍義釈明』を読む 2 [教育勅語]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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「文相より相談」と明かした50年後の「釈明」
──井上哲次郎『教育勅語衍義釈明』を読む 2
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 教育勅語を解説した井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』に関して、当面の疑問はふたつある。

 1つは、『明治天皇紀』に記録されているように、芳川顕正文相が知識人に教育勅語の解説本を著述発行させ、教科書に使用する目的をもって、井上に委嘱した結果としての出版なのか、それともそうではないのか。

 すでに指摘したように、井上の『勅語衍義』(明治24.9)にも『勅語衍義、増訂24版』(明治32.3)にも、芳川文相の依頼について触れられていない。それどころか、まるで井上個人の私的な出版企画であるかのように説明されている。

 芳川文相が井上に委嘱したという『明治天皇紀』の記述はもしや誤りなのか。

 真実に迫るべく、前回から、意味ありげなタイトルに惹かれて、米寿を迎えた井上が書いた『教育勅語衍義釈明』(昭和17)をひもといているのだが、はたせるかな、50年前の『勅語衍義』を再録したあとに続く「釈明」の章に、答えがずばり用意されている。


▽「解釈を作るようにといふ相談」

 第一節のタイトルは、ほかならぬ「『勅語衍義』述作の由来」である。

 井上はドイツから帰朝したころの回想から説き起こしている。井上は明治23年10月13日に帰国した。帝国大学文科大学教授に任命されたのは23日だった。そして教育勅語の解説文作成を依頼されるのである。むろん芳川文相その人からである

「その後いくばくもなく、ときの文相芳川顕正氏より、その年の10月30日に渙発された『教育勅語』の解釈を作るようにといふ相談を受けた」

 米寿を迎えた井上がいまさらウソを言うわけはないだろう。むしろ、なぜ最初からそう説明しなかったのか、なぜ50年も経ったいまごろになって「文相より相談」という事実を明かしたのか、である。

『明治天皇紀』は教科書にする目的だったが、結局、「私著として上梓」されたと記録している。芳川の教科書構想はいわば頓挫したわけだが、井上はその事実を一般に知られたくなくて、『衍義』では文相の委嘱話を隠してきたということだろうか。

 井上は50年後の『釈明』でさえ、芳川が「教科書として」と相談をもちかけたかどうか、言及していない。「解釈を作るように」という相談だったとされているだけである。井上にはまだ隠し続けていることがあるようだ。

 ともかく、文相から話を持ちかけられた井上は、慎重に考慮し、「かねて『教育勅語』の御趣旨のまことにありがたいことを深く感銘してゐる際であったからして、ついにその任にあたることに決心した」のだった。

 そう述べて、井上は自分のキャリアを振り返っている。幼少から漢学を学んだこと、東大では哲学を専攻したこと、その間、英語で諸学科を修めたこと、卒業後は東洋哲学史を編纂したこと、ドイツ留学は6年10か月に及んだこと、などである。


▽ドイツ仕込みの愛国主義

 当時のドイツは国運勃興の時代で、井上は、ドイツ国民のきわめて旺盛な愛国心をしみじみと体験した。ところが帰国した日本は、外国崇拝の念がはるかに多大で、井上は「忠君愛国の精神の大いに振起せられざるべからざることを痛感」していた。

 勅語渙発後、11月3日の天長節(明治天皇誕生日)に、帝国大学では加藤弘之総長のもと、はじめての「教育勅語」捧読式が行われ、井上も参列した。さまざまの縁があり、教育勅語の解釈には皇漢学者の立場だけでは不十分で、西洋の知識も必要であり、それで自分が解釈者に選ばれたものと推察したと井上は回顧している。

 これで1つの謎は解けたことになるのだが、同時に、芳川文相が目的とした教科書づくりの限界も見えてくるのである。それが公的な解釈を確立することができず、『衍義』が教科書になれなかった理由かも知れない。

 明治天皇から勅語作成を命じられた芳川が考えていたのは「わが国忠孝仁義の道」であり、最初に文部省案を作成したのは啓蒙思想家の中村正直であった。井上毅が登場し、別稿を作る際には宗教性、哲学性、政治性が避けられたのはきわめて重要である。

 しかしできあがった教育勅語の注釈者として芳川が選んだのは井上哲次郎で、漢学と西洋哲学の両方に通じてはいたが、ドイツ帰りの興奮が冷めやらず、むしろドイツ仕込みの愛国主義に燃えていた。

 このことが勅語解釈に大きく影響していることは容易に想像される。教育勅語が「国家神道」の聖典だとして、戦後、そしていまも批判され続ける原因は、勅語の中身より、井上哲次郎流の愛国主義的解釈にあるのかも知れないと疑われるのである。

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