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「退位と即位の分離」実現のための印象操作? ──第2回式典準備委員会資料を読む 7 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成30年5月4日)からの転載です

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「退位と即位の分離」実現のための印象操作?
──第2回式典準備委員会資料を読む 7
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 宮内庁のリポート「歴史上の実例」を批判的に読む作業を続けます。リポートは最後に「『貞観儀式』による譲位の儀式次第」を解説していますが、前回、指摘したように、「貞観儀式」の訓読・解釈の上で大きな相違点が見受けられます。

 1年後に迫った今上陛下の退位(譲位)では、退位と即位(践祚)の儀式が分離・実施されますが、これがけっして過去の例からみて、異例ではないことを印象づけるために、宮内庁は無理な解釈をしているように私には見えます。

 つまり、平安期に成立したといわれる「貞観儀式」の「譲国儀」も、200年前の光格天皇の事例でも、退位(譲位)と即位(践祚)が空間的、時間的に別に行われていたかのように印象操作しているのではないかと疑われれるのです。

 いや、そう簡単に断定してはいけないかも知れません。なぜなら、「貞観儀式」の儀式次第を説明するに当たって、リポートは「なお『譲国儀』では、譲位と践祚を一連の儀式とする次第が定められている」と正確に註釈を加えているからです。

 光格天皇から仁孝天皇への御代替わりも同様であり、というより、諒闇践祚であれ、受禅践祚であれ、御代替わり儀礼が一連の儀式として行われるのは当然ですが、だとしたらなぜ、今回、退位(譲位)と即位(践祚)の儀式は分離して、別の日に行われなければならないのでしょうか。

 先帝崩御の場合は医学的に御代替わりの日時が決まります。譲位なら譲位の宣命ののち皇太子は皇位に登られると解されました。今回は立法と行政が定めた法令によって、退位の期日は決められたのですが、だとしても退位と践祚の儀式を、先例に従って同じ日に連続して行うことは可能だろうし、そうすべきではないでしょうか。それでこそ「皇室の伝統の尊重」といえるのではないでしょうか。

 宮内庁の歴史的検証も当然ながら譲位即践祚の原則を裏付けるものになるはずなのに、実際はそうはなっていません。なぜでしょうか。


▽1 「御在所」は仙洞御所か

 ということで、宮内庁レポートを具体的に読んでみることにします。

 宮内庁が解説する「譲国儀」は、天皇の行幸から剣璽の渡御まで19の段階で説明されていますので、これに沿って、以下、検討していくことにします。


1、天皇は、譲位に先立って、あらかじめ内裏(お住まいの御殿)から出られ、臣下を従えて、新たな上皇のお住まいにお移りになる。

 前回、訓読を試みたように、「譲国儀」の冒頭は、「天皇、予め本宮を去りたまふ。百官、従ひて、御在所に遷る」です。「本宮」は「内裏」ですが、「御在所」は仙洞御所と断定していいものでしょうか。

 というのも、たとえば、藤森健太郎群馬大教授(日本史)は『古代天皇の即位儀礼』(2000年)の「第三章 平安期即位儀礼の論理と特質」のなかで、「譲国儀」冒頭の「御在所」は「平安初期の実例では大体別院」と注記し、さらに「ただし、光仁天皇から平常天皇までの譲位の際には、内裏で挙行されたものと思われる」と補足しています。

 また、佐野真人皇學館大助教(神道史)の「『譲国儀』儀式文の成立と変遷」(「神道史研究」平成29年10月)は、より明確に、「儀礼の会場が『儀式』では、事前に天皇は本宮(内裏)から御在所に遷御される。清和天皇以前の譲位の儀式は内裏以外で行われており、『儀式』の規定でも内裏以外で行うことを想定している」と説明し、ただ、『西宮記』(源高明撰述)では内裏が儀場とされていたことが考えられると記しています。

 つまり、「御在所」は仙洞御所とは断定できないことになります。宮内庁のリポートは、過去の譲位の儀式が連続して行われていたことを熟知しながらも、今回の退位と即位の分離を実現したいがために、しかも「皇室の伝統の尊重」という基本方針に合致しているかのように演出するため、白を黒と言いくるめているのではありませんか。

2、譲位の3日前に三関[伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、近江国逢坂関]を閉鎖するための使者を遣わされる。

3、譲位当日、大臣は、詔勅・宣命(勅命が書かれた文書)の起草を担当する書記官(内記)に譲位の宣命を作るよう指示する。

4、儀式担当の官人が、譲国儀に参列する者を率いて、儀場となる上皇のお住まいの南門の内外に、待機する。


▽2 「皇帝、南殿に御す」もまた仙洞御所か

5、天皇が、儀場となる上皇のお住まいの正殿の殿上にお出ましになる。殿上にしつらえた南側を向かれる御席に御着席になる。

 宮内庁リポートは、またしても仙洞御所が儀場であると断定していますが、正しい理解でしょうか。

 前回、不正確な点がありましたので、訂正しますが、国立公文書館がネット上に公開している2種類の内務省旧蔵本のうち、五冊本では「皇帝、南面に御す」ですが、荷田在満校訂本(11冊本)は明確に「皇帝、南殿に御す」と記しています。

 つまり、「南殿」なら紫宸殿に還御され、譲位の儀式が行われる意味になります。ただ、藤森先生の著書では、「『儀式』の場合は内裏の紫宸殿ではなく、『御在所』の正殿を想定しているはず」と説明されています。

 より正確にいえば、「皇帝、南面に御す」「皇帝、南殿に御す」の場所を特定することは難しいということになりませんか。実際、歴代天皇の譲位儀はどこで行われたのでしょう。

 宮内庁が今回、今上陛下の「退位の礼」を皇太子殿下の践祚の式と区別して挙行したい意図は理解できなくもないですが、光格天皇の譲位の儀式と同様、貞観儀式「譲国儀」が仙洞御所を儀場と定めていたと断定する根拠は何でしょうか。

6、皇太子が、東宮の御所から議場に入られ、殿上にしつらえた皇太子の席に御着席になる。

7、儀場の南側にある門を開き、親王以下が儀場に参入し、所定の位置に立つ。(親王以下五位以上の参列者は門内の所定の位置に立ち並び、六位以下の参列者は門外で列立する)

8、大臣が、宣命を読み上げる宣命の大夫(宣命使)に、宣命文を殿上で授ける。宣命の大夫、続いて大臣が殿上から降り、庭上の参列者の列に加わる。宣命の大夫が進み出て、所定の位置に着く。

9、殿上におられる皇太子は、席から起立される。

10、宣命使が、譲位の宣命を読み上げる。

11、親王以下の参列者が、宣命文の段落の切れ目ごとに「おお」と声を出して応答(称唯)し拝礼する。

12、宣命を読み終えると、参列者が、宣命に対して「おお」と声を出して応答(称唯)し、拝舞を行う。(拝舞とは、まず2度拝礼し、立ったまま上体を前屈して左右を見、これにあわせて袖に手をそえて左右に振り、次にひざまずいて左右を見、そのまま一揖(おじぎ)し、さらに立って2度拝礼する所作。最高級の拝礼の所作)

13、宣命の大夫が、列内の元の位置に戻る。

14、次に、親王以下の参列者が儀場から退出する。

15、近衛が南側の門を閉じる。


▽3 宣命の意義を説明しない宮内庁

16、譲位の儀が終わり、践祚された新天皇が、殿上から南側にある階段をお降りになる。降りられた階段から一丈(約3メートル)ほど南側に離れた位置で、殿上にいらっしゃる前天皇に対して拝舞を行われる。[新天皇の拝舞が終わられたところで、前天皇は殿上から御退出になる]

 藤森先生は「『譲国儀』の中でもっとも重要なのは、譲位の宣命が読まれる時点である」と書いていますが、宣命の宣読によって新帝が践祚されたことを、宮内庁リポートが正確に理解していることは指摘されなければならないと思います。

 しかし今回の御代替わりでは宣制は行われません。天皇の意思に基づく譲位ではなく、立法と行政が決めた退位と考えられているからでしょう。

 崩御に基づかない受禅践祚で大きな意味を持つ宣制ですが、現憲法下でこれを執り行うことはどうしても無理なのでしょうか。今回は「総理の奉謝と陛下のお言葉」が「退位の礼」で述べられることになっていますが、「伝統の尊重」が基本方針なら、新帝が践祚される日に、剣璽等承継の儀(剣璽渡御)の前に、連続して行われるべきではないでしょうか。

 宮内庁はむしろ宣制の格別な意義をこそ、「歴史上の事例」としてリポートすべきなのではありませんか。

17、拝舞を終えられた新天皇が、新天皇のお住まい(御所)に徒歩で向かわれる(新天皇には輿をお勧めするが、辞退される)。内侍は節剣(譲位の儀挙行に伴い、前天皇から継承される宝剣)を持ち、新天皇の後を追い従う。

18、少納言一人が、大舎人(天皇に供奉し、宮中の宿営等を奉仕する者)等を率いて伝国璽の櫃(譲位の儀挙行に伴って前天皇から新天皇に継承されるものであり、神璽を指す。神璽が櫃に納められていた)を持ち、新天皇の後を追い従う。

 ここは皇位を継承した新帝に剣璽が渡御する重要場面ですが、リポートの説明はことのほかあっさりしています。剣璽の渡御は触れたくない、触れられたくないタブーなのでしょうか。

19、次に、少納言一人が、大舎人・闈(門がまえに韋)司(宮中の門の鍵を預かり、その出納を掌る者)等を率い、鈴印鑰等を持ち、新天皇の御所に奉る。 (鈴印鑰は「駅鈴」「内印」「管鑰」の3者を合わせた言い方。「駅鈴」は駅使に国家が支給する鈴で、それにより駅馬を利用することができる。「内印」は天皇御璽の印で、公文書作成に不可欠のもの。また「管鑰」は中央官司が管理する蔵の鍵のこと。これら3者を新天皇のもとに進めることは、すなわち、新天皇による国家統治が開始されたことを意味する)

 以上、これまでの検証をごく簡単にまとめると、宮内庁のリポートは、200年前の光格天皇の譲位の儀式が仙洞御所の桜町殿で行われ、皇太子恵仁親王はお出ましにならなかったと説明していますが、明らかに間違いです。

 また、リポートは、平安時代の儀式書「貞観儀式」の「譲国儀」も同様に、仙洞御所が譲位の儀式の儀場となったと断定していますが、これも正確とはいえません。譲位即践祚であって、譲位の儀が単独で行われるはずもありません。

 私のような素人でも簡単に分かる誤りを、宮内庁がリポートにまとめ、政府に提出したのは、もしや「忖度」の結果でしょうか。

 過去にない、歴史的な御代替わりとされる今回の「退位」が、虚構の歴史をつづった信用度の低い官製リポートを根拠とし、あまつさえ「皇室の伝統の尊重」と喧伝され、実現されようとしているとは、私にはやはり悪い冗談にしか聞こえません。

 今回、引用した藤森、佐野両先生はいかがお考えでしょうか。

 最後にもう1点、宮内庁のリポートは、一条兼良「代始和抄」について、まったく言及がありません。譲位儀が仙洞御所で行われるとは書かれていないからでしょうか。

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「貞観儀式」の「譲国儀」を訓読する ──第2回式典準備委員会資料を読む 6 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年4月30日)からの転載です

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「貞観儀式」の「譲国儀」を訓読する
──第2回式典準備委員会資料を読む 6
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 宮内庁が第2回式典準備委員会に提出したリポート「歴史上の実例」の批判を続けます。

 リポートは、(1)光格天皇譲位の実例、(2)今回の「退位」との比較に続いて、(3)「『貞観儀式』による譲位の儀式次第」の3つについて説明しています。これから(3)の妥当性を公正に吟味したいのですが、今回は手始めに、譲位の儀式について説明する「譲国儀」の訓読を試みることにします。

『貞観儀式』は、宮内庁のリポートに説明されているように、譲位の次第を既述した最古の儀式書です。赤堀又次郎の『御即位及大嘗祭』(御即位記念協会、大正4年)に「御即位及大嘗祭の儀式を記したる古書の中、其詳なることは、貞観儀式に超えたるものなく」と解説されていることはすでにお話ししました。それだけ重要な史料です。

 いまでは国立公文書館のデジタルアーカイブで、インターネットによって誰でもいつでも、オリジナルの資料に触れることができます。同館に所蔵されている『貞観儀式』は紅葉山文庫旧蔵本、内務省旧蔵本など何種類かあるようですが、ここではネットで公開され、10巻がそろった荷田在満校訂、内務省旧蔵のものを読むことにします。

「譲国儀」は巻5にあり、6ページにわたっています。宮内庁のリポートは、この記述に基づいて、「譲位の儀式次第の大綱」を説明しているのですが、原文は漢字だらけで、私のような素人には歯が立ちそうにありません。

 幸い、内田順子「『譲国儀』の検討」(岡田精司編『古代祭祀の歴史と文学』所収。1997年)や藤森健太郎『古代天皇の即位儀礼』(2000年)、佐野真人「『譲国儀』儀式文の成立と変遷──新帝の上表を中心に」(「神道史研究」平成29年10月)など優れた研究業績がありますので、参考にさせていただくことにします。

 概観すると、一条兼良「代始和抄」に「毎度のこと」として書かれている「警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀」のうち、宣制を中心に記述されていることが、すぐに理解されます。

 もう1点、気づかされるのは、藤森先生が指摘しているように、「『儀式』では、譲位の宣命が読み上げられる時点を境にして、それまで皇太子として扱われていた新君主の表記が天皇としての表記に変わる」ことです。それだけ宣制が重要だということでしょう。

 宣制ののち皇太子は「今帝」「皇帝」「今上」となられ、そして剣璽が渡御するのです。

 しかし今回は、「宣命および宣命使による宣読は行われない」(宮内庁リポート)とされています。これが「皇室の伝統の尊重」を基本方針の柱とする御代替わりの実態なのです。そのことを最初に指摘しておきます。

 さて、以下が訓読です。[ ]はオリジナルの割り注、( )内は私の註釈です。


「譲国の儀」

 天皇、予め本宮(内裏)を去りたまふ。百官、従ひて、御在所に遷る(行幸)。
 先立つこと3日、諸関(鈴鹿関、逢坂関、不破関)を固める使ひを遣はす[勅符、官符、木契(ぼくけい)を造る。および緘(糸篇に咸。かん)封等別にその儀あり](警固・固関)。
 当日平旦(夜明けごろ)、太政官、式部省を召し、刀禰(とね。六位以上を指す)を集会(会集)せしむべきの状を仰す。大臣、内記(書記官)を召し、譲位の宣命を作らしむ。
 訖(お)はりて、まづ草案をもって内侍(ないし)に就け、奏覧し[もし損益すべきものあらば、勅の処分によって筆す]、返したまふ。大臣、本の所に復(かへ)りて、黄紙(おうし)に書かしめ、書杖(文ばさみ)に挿して、祗候(伺候)す。
(節会については言及がない)
 式部、親王以下、行立の版を置く。中務、宣命の版を尋常の版の北に置く。諸衛、中儀を服す。主殿寮、御輿、便所(びんしょ)に候す。式部、百官の人を南門の外に計列(列立)す[参議以上、門内に候す]。
 皇帝(天皇)、南殿(紫宸殿)に御す(国立公文書館のサイトに公開されている内務省旧蔵の「貞観儀式」巻4「譲国儀」では、紅葉山文庫旧蔵本と異なり、「皇帝、南面に御す」と記されている)。
 内侍、檻に臨み、大臣を喚(め)す。大臣、称唯(いしょう)して、宣命の文を執る。および、宣命に堪ふる参議已上(以上)を定む。内侍に付けて、これを執り、奏覧す。大臣、立ちて、階下に候す。
 皇太子、坊を出で、入りて、殿上の座に就く。次に大臣、また升(昇)りて、座に就く。左右の近衛の将曹各一人、近衛各二人を率ゐて、南門を開く。大臣、舎人(とねり)を喚す。および親王已下、参入等の儀、常の如し[親王已下五位以上、門内に列す。六位以下は門外に列す]。
 立ちて定む。大臣、宣命の大夫を喚し、宣命の文を授く。これを受けて(宣命の大夫は)殿を下り、暫く便所に立つ[大臣、殿を下りて、庭中の列に就くを侍つ]。大臣、同じく階を下りて、庭中の列に就く。ここに宣命の大夫、進みて版に就く。
 皇太子、座を起ち、而立したまふ。宣命の大夫、宣制して、いはく、明神(あらみかみ)と大八洲(おおやしま)の国知らす天皇が御命らまと詔(の)たまふ。大命を親王ら王ら臣ら百官の人ら天下の公民衆聞食と宣(の)る。親王已下、称唯して再拝す(ときに臨みて宣命定詞あることなし)。大臣已下、称唯・拝舞す。訖はりて宣命の大夫、還りて本列に就く(以上、宣制について詳述されている)。
 次に親王已下、退出す。次に中務の丞、参入して版を取りて退出す。近衛、門を閉づ。
 訖はりて今帝(新帝)、南階より下りて、階を去ること一許丈(約3メートル)、拝舞したまふ。訖はりて歩行す。列に帰りたまふ。内侍、節剣(宝剣)を持ち、追従す。所司、御輿を供奉す。皇帝(新帝)、辞して駕したまはず。
 衛の陣、警蹕す。少納言一人、大舎人らを率ゐて、(神璽が納められた)伝国璽の櫃を持ちて、追従す。次に少納言一人、大舎人・闈(門がまえに韋)司(いし)らを率ゐて、鈴印鎰(金偏に益。れいいんやく。駅鈴、内印、関鎰の総称)を持ちて、今上(新帝)の御所に進づる。次に近衛の少将、近衛らを率ゐて、供御の雑器を持ちて、同所に進づる(剣璽渡御)。
 訖はりて今上、春宮坊に御す。諸衛、警蹕・侍衛は常の如し(新主の御所の儀については詳しくない)。

 以上ですが、宮内庁のリポートは読み方の上で重大な相違があることが分かります。そのことが今回の御代替わり儀式のあり方にも大きな影響を与えているものと思われますが、詳しくは次回、お話しします。
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宮内庁は混乱している。これが「伝統の尊重」か ──第2回式典準備委員会資料を読む 5 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成30年4月22日)からの転載です

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宮内庁は混乱している。これが「伝統の尊重」か
──第2回式典準備委員会資料を読む 5
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 宮内庁が作成したリポート「歴史上の実例」は、光格天皇譲位の実例を振り返ったあとで、今回の「退位」の儀式とを比較していますが、宮内庁による歴史的検討の混乱ぶりはいよいよ明らかです。
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 政府は「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したものとする」を御代替わり儀式の「基本的な考え方」とすることを4月3日に閣議決定していますが、不正確な歴史理解の上に「伝統の尊重」などあり得ないでしょう。

 具体的に見ると、宮内庁による比較のポイントは、「場所」「内裏から仙洞御所への行幸」「参列者」「皇太子の参列」「御退位事実の公表」「剣璽」の6点です。以下、それぞれについて検討してみることにします。


1、場所

 宮内庁のリポートでは、光格天皇の譲位の儀式が行われた場所は仙洞御所(桜町殿)で、今回の御譲位の儀式(案)では宮殿松の間になると説明されています。「仙洞御所未整備」と括弧付きで書き添えられているのは、その理由と読めます。

 しかし不正確です。

 前回、指摘したように、ほかならぬ宮内省がまとめた「仁孝天皇実録」には「清涼殿に於いて受禅あらせらる」と記録されています。光格天皇の譲位すなわち仁孝天皇の践祚の儀は仙洞御所ではなく、清涼殿で行われたのです。

 光格天皇は、「貞観儀式」の定めに従い、御譲位に先立って、仙洞御所に行幸になったのでした。誤った歴史理解との比較検討自体、無意味です。

 リポートには、「日本無双の才人」と呼ばれた一条兼良の「代始和抄」に「毎度のことなり」と解説されている、御代替わりに先立って行われる「警固・固関」についての言及もありません。光格天皇御譲位の日から「三箇日」にわたって行われたと記録されている「内侍所御神楽供進」すなわち賢所の儀も無視されています。

 御代替わりに際して、皇宮警察がいにしえの装束を身にまとい、皇居の各御門を固めたら、日本の歴史の深さを内外に示せるでしょうに。


2、内裏から仙洞御所への行幸

 リポートは、光格天皇のときの行幸は「あり」とし、「パレードではない」と注意書きしています。これに対して、今回は、「御所から宮殿へ御移動」になると説明しています。

 宮内庁の説明は、既述したように、仙洞御所が未整備で、行幸のしようがないということなのでしょう。

 しかし、「貞観儀式」の「譲国儀」の冒頭に、「天皇予去本宮、百官従、遷於御在所」と仙洞御所への行幸について記述されているのは軽視すべきことでしょうか。むろん「パレード」ではありませんが、剣璽とともに仙洞御所に遷られることは意味があるのだろうと私は思います。

 今回、仙洞御所が未整備なのは事実ですが、「退位」までまだ1年以上もあるのです。工事を急げば、行幸を200年ぶりに復活させることはけっして不可能ではないでしょう。


3、参列者

 リポートでは、光格天皇の際には、「関白、左大臣ほか」が参列したとし、「儀式書『貞観儀式』においては、親王以下五位以上の参列者は門内に列立し、六位以下の参列者は門外で列立した」と説明しています。

 これに対して、今回は、供奉の皇族方のほか、三権の長らが配偶者を含め、約300人が参列するとされています。

 すでに指摘したことですが、ここでいう参列とは、光格天皇の譲位が行われたとする仙洞御所での儀式なのでしょうか。譲位の儀は仙洞御所ではなくて、清涼殿で行われたのであり、比較はまったく意味がありません。

 また、服装についての説明がありませんが、今回はモーニングでしょうか。


4、皇太子の参列

 宮内庁のリポートは、光格天皇の事例では「皇太子(恵仁親王)は譲位儀に参列しない」「内裏内の東宮御在所から清涼殿にお出まし」と解説し、今回は「皇太子殿下は、他の皇族方とともに、天皇陛下に供奉して松の間に入られる」と説明しています。

 一方で、「『貞観儀式』では、天皇と皇太子がそろって儀場の上皇御所にお出ましになり、譲位が執り行われることとされていた。光格天皇の以前に行われた譲位儀(後桜町天皇から後桃園天皇へ。47年前)においても、譲位は天皇と皇太子がおそろいで行われた(場所は紫宸殿)」と注意書きを加えています。

 すでに申し上げたように、光格天皇から仁孝天皇への譲国の儀は、仙洞御所ではなくて清涼殿で行われたのであり、皇太子恵仁親王も当然、お出ましになっています。

 宮内庁の説明はまったく間違っています。

 今回、陛下は退位後、皇太子殿下の即位の儀式に出席(参列)なさらないご意向だとの報道が伝えられていますが、剣璽渡御の儀(剣璽等承継の儀)にお出ましにならないということなら、皇位継承の本質からみて、あり得ません。


5、御退位事実の公表

 宮内庁のリポートは、光格天皇のときには宣命使に譲位の宣命を宣読させたが、今回は宣命および宣命使による宣読は行われず、総理の奉謝と陛下のお言葉によって、御退位が内外に明らかにされる、と説明しています。

 一条兼良の「代始和抄」に、「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」と書かれてあるように、宣命は重要ですが、今回の場合、そもそも天皇の発意による「譲位」ではなく、国民の意思に基づく「退位」だとされるのなら、「宣命」は認められないことにもなります。

 また、リポートには節会についての言及がありません。はじめから想定していないということでしょうか。これが「皇室の伝統の尊重」でしょうか。


6、剣璽

 リポートには、光格天皇の際は「譲位儀に引き続いて、剣璽が新天皇の下に移される(桜町殿→内裏清涼殿)」とされ、今回は「剣璽は、御退位の儀式当日(平成31年4月30日)には承継されない。剣璽等承継の儀は、新天皇陛下が御即位になる5月1日に行われる」と説明しています。

 しかし、これも完全に間違いです。

 光格天皇の譲位の儀が仙洞御所で行われたのではなくて、仙洞御所から清涼殿ヘ剣璽渡御が行われたのち、清涼殿で光格天皇から仁孝天皇への譲位即践祚の儀礼が行われ、剣璽が新帝に遷られたのです。

 200年前の事例にならうなら、今上陛下の退位の礼と皇太子殿下の践祚の式、すなわち剣璽等承継の儀は、5月1日に連続して、一連の儀式として、行われるべきではないでしょうか。

 政府は、退位と即位とを何が何でも分離したい意向のようですが、そのこと自体、譲位即践祚という伝統に反していると私は思います。

 それにしても、私のような素人でも分かるような間違いを、宮内庁はなぜ犯しているのでしょうか。200年ぶりの譲位とも、憲政史上初めてともいわれる譲位に基づく御代替わりに、こんな瑕疵があっていいものでしょうか。

 それとも私がとんでもない読み違いをしているのでしょうか。できれば、そうあってほしいとさえ思います。私はタチの悪い冗談を聞かされているような気がしてなりません。
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宮内庁は史実のつまみ食いをしている!? ──第2回式典準備委員会資料を読む 4 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成30年4月9日)からの転載です

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宮内庁は史実のつまみ食いをしている!?
──第2回式典準備委員会資料を読む 4
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 式典準備委員会による検討を踏まえて、陛下の譲位等に関する基本方針が決まりましたが、政府・宮内庁は退位(譲位)と即位(践祚)の分離という、皇室の歴史と伝統に反する重大な過ちを犯していないかと心から心配しています。
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 政府は「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重」を基本的な考え方としていますが、陛下の「御退位に伴う式典」と皇太子殿下の「御即位に伴う式典」を別立てとすることは「皇室の伝統」とはいえないでしょう。

 宮内庁はじつのところ、そのことを知っています。宮内庁が2月の式典準備委員会に提出した「歴史上の実例」と題する6ページのリポートには、「(貞観儀式の)『譲国儀』では、譲位と践祚を一連の儀式とする次第が定められている」と明記されているからです。

 古来の慣例をふり返り、とくに200年前の光格天皇の事例に学び、その上で今回の退位(譲位)のあり方を考えるのは当然であり、重要です。そして宮内庁は当然、平安期の儀式書も、200年前の光格天皇の事例でも「譲位即践祚」の原則が貫かれていることを認識しているのですが、それでも結局、「皇室の伝統」は尊重されていません。

 陛下のご意向とされる退位の実現に重点が置かれてきた結果、退位と即位の分離は既定路線とならざるを得なかったのでしょうか。辻褄合わせの史実のつまみ食いさえ行われています。「皇室の伝統尊重」は画餅に過ぎません。


▽1 宮内庁による皇室用語の乱れ

 宮内庁がまとめた「歴史上の実例」、とりわけ「光格天皇の例」は、宮内庁作成とは思えない不思議な内容でした。

 第1に、皇室用語の乱れです。「旧天皇」「新天皇」「前天皇」と、およそ「歴史」的ではない新語が並んでいます。歴史用語と新語の混在はまるでキメラのようで、異様です。

 一般的には、宮内庁こそは皇室の歴史と伝統を守る砦と考えられているでしょうが、現実はそうではありません。

 用語の乱れが注目されるのは、皇室制度の基本に関わるからです。

 たとえば、宮内庁のサイトには「ご日程」が公表されていますが、「天皇陛下のご日程」ではなく「両陛下のご日程」とされています。本来、「陛下」は天皇のみの敬称であり、民間から入られた皇后は「見なし皇族」というお立場ですが、もはや「上御一人」から「一夫一婦」天皇制に変質したかのようです。

 そして譲位と践祚の分離です。


▽2 譲位儀が仙洞御所で行われた?

 2月の会合には宮内庁作成のリポートが2本提出されています。「歴史上の実例」と「両陛下の平成御大礼時の御日程について」です。

 まず前者ですが、御退位と御即位に伴う式典準備委員会に提出されたリポートですから、古来の譲位に伴う御代替わりについてまとめられたのかといえばそうではありません。200年前についていえば、もっぱら光格天皇の譲位のみが取り上げられています。

 即位に関する史的考察は後者で、「即位礼・大嘗祭関係」「地方行幸啓等」の日程がまとめられています。即位のあり方は平成の前例踏襲で足りるのであり、譲位に伴う歴史上の即位のあり方を検証する必要はないという姿勢でしょうか。

 しかしほんとうにそれで済むのでしょうか。ここでは、宮内庁が『光格天皇実録』『仁孝天皇実録』(書陵部蔵)をもとに表にまとめた、200年前の御代替わりについて考えてみます。「 」内が引用です。少しだけ、表現を読みやすく編集してあります。


1、譲位までの経緯

「文化13(1816)年5月16日、光格天皇が翌年3月に譲位なさることを仰せ出される」

 10か月前の表明ということになります。今上陛下の場合、「退位のご意向を強くにじませた」とメディアが伝えたビデオ・メッセージは、平成28年8月8日でした。

「文化14年2月14日、譲位の日時を広く通達される」

 約40日前の通達でした。今回、政府が退位特例法の施行日を「平成31年4月30日」と閣議決定したのは、29年12月8日です。

2、賢所の儀

「文化14年2月20日、光格天皇が内侍所臨時御神楽の儀に出御される」

 譲位の1か月前に賢所の儀が臨時で行われ、天皇がお出ましになりました。宮内庁はこの史実を認識していますが、今回、少なくとも政府、宮内庁が賢所の儀を行うことについて検討している気配がありません。

 なお、光格天皇のときは御神楽の儀ですが、先帝崩御を前提とする明治42年の登極令では、諒闇践祚ゆえ、掌典長によって天皇の御代拝が奉仕され、賢所の儀が3日間、行われることと定められていました。平成の御代替わりでも、賢所の儀は行われました。

 さらに蛇足ながら、「実録」によれば、3月13日、光格天皇は稲荷、梅宮両社において、御譲位・御受禅行幸の御祈祷を修せしめたのでした。「神事を先にす」が皇室の伝統ですが、リポートには言及がありません。

3、警固固関(けいごこげん)

「文化14年3月21日、警護担当等に命じて宮城の警護を行わせ、また三関(伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、近江国逢坂関)の閉鎖を命じる儀式を行う」

 警固固関という歴史用語がありますが、リポートでは使われていません。なお警固固関は登極令にはありません。今回、検討された気配はまったくありませんが、このようにリポートには登場しています。

4、行幸

「文化14年3月22日、光格天皇は卯刻(午前5〜7時)過ぎに装束を召され、内裏の紫宸殿より御退出になり、上皇の御在所(仙洞御所)となる桜町殿に行幸になる。辰半刻(午前8時)過ぎ、桜町殿御着」

「同日(時刻は不明)、皇太子(恵仁(あやひと)親王)は東宮御在所(内裏御涼所(おすずみどころ)北)から新天皇の御所(清涼殿)に行啓になる。皇太子は、譲位儀には参列されていない」

 ご承知の通り、光格天皇が剣璽とともに仙洞御所に移られるときの模様を描いたとされる「桜町殿行幸図」が残されており、ネットで公開されています。

 この行幸について、リポートは、「光格天皇は、譲位儀当日、内裏から鳳輦により、上級官人約80人の供奉で仙洞御所に移られ、このとき、各上級官人の従者や警護の武士など大勢のものもいっしょに動いた。この際、築地の内の公家や所司代の関係者からお見送りを受けたもので、公衆に披露する御列(パレード)ではない」と註釈しています。

 行幸図が残されているほど大がかりなものなのに、国民主権主義的な性格はないというような理由で否定的なのには違和感があります。国民主権主義とは次元が異なりますが、皇室行事はけっして閉鎖的ではないからです。最近の研究では、近世、即位礼の拝観が庶民に許され、チケットが配られていたことが明らかになっているほどです。

 リポートは行幸時の装束について言及していますが、今回の退位の儀で陛下は装束を召されるのでしょうか。検討はされたのでしょうか。

 また、「新主」「新帝」という用語がありますが、宮内庁の資料では「新天皇」です。

5、譲位儀

「同日、光格天皇は桜町殿弘御所(ひろごしょ)御帳内にお出ましになり、皇太子への譲位儀を行われる」

 リポートでは仙洞御所で譲位儀が行われたことになっています。また、皇太子が参列されなかったことについて、異例とされています。

 リポートは、「『貞観儀式』では、天皇と皇太子がそろって儀場の上皇御所にお出ましになり、譲位が執り行われることとされていた。光格天皇の以前に行われた譲位儀(後桜町天皇から後桃園天皇へ。47年前)においても、譲位は天皇と皇太子がおそろいで行われた(場所は紫宸殿)」と注記しています。

 しかし資料の誤読ではありませんか。譲位儀の儀場は仙洞御所(リポートでは上皇御所)ではないはずです。

「貞観儀式」は、天皇が紫宸殿に出御され、皇太子が紫宸殿の座に就き、宣命使が譲位の宣命を読み上げ、皇太子が新帝となられると記していますし、何よりも宮内省がまとめた「仁孝天皇実録」が明確に、「清涼殿に於いて受禅あらせらる」と記録しています。

 宮内庁はあろうことか、宮内省作成の記録を内容的に否定しています。退位と践祚を分離したい一心で、仙洞御所での譲位儀があったかのように、歴史の捏造におよんだのでしょうか。そんなことがあり得るのでしょうか。

6、宣命と節会

「巳半刻(午前10時)、宣命使に譲位の宣命を宣読させる。庭上の参列者は、宣命文の段落の切れ目ごとに「おお」と声を出して応答(称唯。いしょう)し、拝礼する。宣命が読み終えられたら、称唯し拝舞する」

 仙洞御所では節会も行われましたが、宮内庁の資料ではどういうわけか、抜けています。史実を客観的に、正確に検証する姿勢ではないとの疑いが晴れません。

 室町期の一条兼良『代始和抄』には「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」とありますから、節会は重要なはずです。「実録」に引用されいる「寛宮御用雑記」などにも、「所司代於桜町殿節会拝見」とありますが、宮内庁は無視しています。

 そもそも宮内庁は、「簡にして要を得たる」(赤堀又次郎)と評される「代始和抄」を、史的検討のうえで参考にしていません。

7、剣璽渡御

「同日、未刻(午後1時)ごろ、前天皇が桜町殿弘御所昼御座(ひのおまし)にお出ましになる。
 関白が御前に候し、公卿は南の庭に列立する。
 内侍2人が剣璽を執り、南庇に出る。中将2人がそれぞれ剣・璽を受け取り、捧持して桜町殿弘御所南庇より筵道を進み、新天皇の御所(清涼殿)に向かう。
 公卿らが供奉する[桜町殿→陽明門代→建春門→日華門→(紫宸殿の西側)→清涼殿]」

「未半刻(午後2時)前、剣璽が清涼殿の東階前にお着きになる。
 供奉の公卿は紫宸殿西側の弓場(ゆば)付近に西面して列立する。
 新天皇が清涼殿昼御座(ひのおまし)にお出ましになる。
 中将2人が剣璽を捧持して東階を昇り、内侍に授ける。
 関白も東階を昇り、広庇(ひろびさし)で控える。供奉の公卿らは退出する。
 未後刻(午後3時)頃、内侍は剣璽を清涼殿の夜御殿(よんのおとど)に奉安する」

 ほかの項目と比較すると異常なほど、宮内庁は剣璽渡御について詳細にリポートしています。他方、剣璽渡御の開始時に、すでにして「前天皇」と表現されているのは不自然さを禁じ得ません。むろん剣璽が継承されるのは清涼殿でのことでした。

 結局、御代替わりに先帝から新帝に皇位の印である剣璽が継承されるのではなくて、譲位と即位とを分離し、先帝が剣璽を「手放す」のが退位だという発想が原因なのでしょう。しかし桜町殿では剣璽を「手放す」ことは行われていません。

 宮内庁による光格天皇譲位の事例研究はここで終わっています。肝心要の譲位即践祚について、宮内庁のリポートはまったく解説していません。歴史を検証する政府・宮内庁の目的は、退位であって、即位ではないのでしょう。したがって、リポートは「代始和抄」に「毎度のことなり」とされている「新主の御所の儀式」に言及していません。


▽3 桜町殿で行われたのは宣命の作成

 それなら、あらためて桜町殿で、そして新主の御所で何がどのように行われたのでしょうか。宮内庁のリポートは具体的に、何にフタをしたのでしょうか。

 参考にすべきはむろん「実録」で、この日の出来事を詳細に記録した「日次案」(日誌)が10ページほど引用されていますが、漢字だらけでとても歯が立ちません。幸い、所功先生が訓読されたものがありますので、以下、感謝の意を込めつつ、引用させていただきます(「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』=「藝林」昨年4月号)。

 まず、仙洞御所での儀式です。

 宮内庁のリポートにあるように、この日、光格天皇は桜町殿に行幸になりました。日次案は、80名におよぶ参加者の役職と名前を克明に記録したあと、桜町殿での様子を次のように伝えています。

「左大臣・権大納言・右衛門督、萬里小路中納言・左衛門督等、仗座に着く。大臣、官人をして膝突を敷かしむ。
次に職事来りて勅使のことを仰す。大臣、官人をして弁を召し仰せしむ。
次に内記、宣命草を進り、大臣披見し、弓場代に就きて奏聞す。畢りて返し賜ひ、清書すべき由を内記に仰す。
次に内記、清書を進り、大臣披見し、弓場代に就きて奏聞す。畢りて返し賜ひ、次に大臣、還り仗座に着き、宣命を賜ふ。
天皇、御帳の中の椅子に着きたまふ。近仗、階下に陣し、内侍、檻に臨む。
次に大臣、宣命に御笏を取り副へ、昇殿して兀子に着く。
次に門を開き、#(門がまえに韋)司、座に着く。
次に内弁、舎人を召して版に就く。
次に内弁、刀祢を召し、少納言、称唯して出し召す。
次に外弁、標の下に参列す。
次に内弁、宣命使を召す。授る(ママ)宣命使、これを賜り、殿を降りて軒廊に立つ。
次に内弁、殿を降りて列に加はる。
次に宣命使、版に就き、宣制一段、群臣再拝す。
次に宣命使、本列に復す。諸卿、退出す。
入御したまふ。近仗退出す」

 桜町殿での儀式の中心は宣命ではなくて、宣命の作成であり、このあと節会が行われたようですが、これらは宮内庁のリポートにいうような退位の儀式と理解すべきなのでしょうか。


▽4 政府の説明は当を得ていない

 節会が終わったあと、天皇は新主の御所に移られ、剣璽渡御が行われました。

「節会訖りて、剣璽を新主の御所に渡さる。昼御所を出御したまふ。
関白、御簾を#(ウ冠に寒の下が衣。ふさ)ぎ、御前の円座に着く。
次に公卿以下、簾中に立つ。内侍二人、剣璽を執りて南庇に出づ。あらかじめ筵道を敷く。左右の大将、簀子に候す。
次に近衛二人、参進し、南階より昇りて当間に入り、剣璽を取りて階を降り、筵道を歩き、新主の御所に到る。公卿以下、前後に供奉す。
次に殿上の侍臣、昇りて御衣の案を御前に立つ。五位蔵人、仰せを奉りて、新主の御所に持参す。
この間、御帳以下の調度を渡し、入御したまふ」

 以下は略しますが、所先生の解説によれば、こうです。

「未刻ころ、剣璽が下御所(桜町殿)を出てから、建春門を入って清涼殿ヘ渡御される。左大臣以下は紫宸殿脇の仗座に就き、宣命が出来上がると奏聞する。そこで天皇は御帳の椅子に着かれ、内弁から宣命を受け取った宣命使が、版位に就いて『宣制』すると、いったん入御された。
 さらに節会のあと、剣璽を『新主』(仁孝天皇)へ渡すため、天皇が清涼殿の昼御所を出られると、内侍が剣璽を執って新主の御所(御常御殿か)に到った。
 その後、子半刻ころ、関白が殿上の座に就き、御前で仁孝天皇の『仰せ』を奉り、『折紙』を院司に給ると、院司は中門の外で『賀』を奏してから退出した。ついで、あらためて関白以下が参入して『賀』を申し、『御祝儀』を進めている」

 所先生の説明では、宣命が読み上げられたのは、宮内庁のリポートが譲位儀が行われたとする仙洞御所ではなくて、清涼殿なのでした。剣璽渡御も同様で、むろん新帝もお出ましになっています。

 とすれば、光格天皇の譲位儀は仙洞御所で宣命使に宣命を宣読させたが、今回の退位の礼では宮殿松の間で総理大臣の奉謝、陛下のお言葉によって退位が内外に明らかにされるという政府の説明はまったく当を得ていないことになりませんか。

 ほかならぬ保守長期政権下で、皇室の歴史と伝統がねじ曲げられ、御代替わりの儀礼が歪められるのは、なにか悪い夢でも見ているような気分です。できれば思い過ごしであることを願うばかりですが、たとえば今回、有識者のヒアリングに応じた1人でもある所先生は、この現実をいかがお考えでしょうか。それでも、譲位(退位)と践祚(即位)は分離されるべきでしょうか。
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天皇の祭祀について提言する有識者がいない!? ──新儀を提案し、新語を多用する歴史家たち [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成30年3月21日)からの転載です


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天皇の祭祀について提言する有識者がいない!?
──新儀を提案し、新語を多用する歴史家たち
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 第2回式典準備委員会はたったの40分しか時間がありませんでした。政府の会合は所詮、そんなものなのかも知れませんが、そうなると実質的な検討が根回しの段階で行われるのは必定です。したがって有識者のヒアリングはきわめて重要です。
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 けれども残念なことに、機能を十分に果たしていないのではありませんか。皇室の伝統である祭祀について深く語れる適任者が見当たらないからです。以前、石原信雄元内閣官房副長官のヒアリングの中身について検討しましたが、ほかのお3方とて大同小異です。


▽1 江戸歌舞伎役者を装う新作歌舞伎俳優

 園部逸夫元最高裁判事は法律家ですから、そもそも期待できません。「皇室の伝統等という観点からは、光格天皇の例などを参考にすることが大切であると考える」と述べた程度にすぎません。

 所功京都産業大学名誉教授は、女系継承容認、「女性宮家」創設、「生前退位」、いずれも過去の歴史にない新例の開拓に積極的にコミットしてきたパイオニアですが、今回もまたフロントランナーの面目躍如たるものがあります。

 今回の御代替わりについて、「約200年前まで行われていた伝統的な『譲位』『践祚』の儀式を参考にしながら、戦後の現行憲法と諸法令に適合し、当今の国内外における通年とも調和しうるようなあり方を工夫して、形作る必要がある」と自信たっぷりです。

 つまり、皇室の歴史と伝統を重んじ、そのうえで現在の憲法との整合性を図るという発想とはだいぶ違うようです。退位の式典については、明治の登極令に定められた宮中三殿での賢所の儀や皇霊殿神殿に奉告の儀のことは私などよりはるかに詳しいはずですが、不思議にもおよそ言及がありません。

 したがって、というべきか、昭和、平成の御代替わりで、3日間にわたる賢所の儀のあとに朝見の儀が行われたことなどまるで念頭にないかのように、「朝見の儀は5月2日の昼間がふさわしい」と仰せになっています。一方では、お得意の「新儀」の提案もなさっておいでです。

 史料を縦横無尽に駆使する大歴史家と思いきや、まるで江戸歌舞伎の名優を装う新作歌舞伎俳優のようです。


▽2 事務局が口止めしたのか

 本郷恵子東大史料編纂所教授もまた歴史家のはずですが、公表された資料には、「現天皇」「新天皇」「天皇位」「新皇嗣」など、聞き慣れない、非歴史的な用語が勢揃いしています。

 その一方で、「伝統の継承」についての説明では、「過去の儀礼をそっくりそのまま繰り返すことではなく、歴史と先例を踏まえたうえで、時勢にあわせて最適にして実現可能な方法を採用すること」と仰せです。

 皇室の原理は「伝統」オンリーではなくて、「伝統と革新」なのですから、至極当然ですが、その場合、旧例を捨て、新例を開く判断基準は何だとお考えなのでしょうか。「歴史上初めての事例」とする今回の御代替わりで、皇室伝統の祭祀はどうあるべきなのでしょう。

 たとえば、千数百年の歴史を持つという大嘗祭は、稲作民の米と畑作民の粟を捧げて祈る複合儀礼であり、価値多元主義に基づく国民統合の儀礼だと私には理解されますが、現代的意義の見出せない、したがって現憲法下では国の儀式として挙行するのはふさわしくない古儀だと先生はお考えなのかどうか。

 教授は、なぜか祭祀との関連について多くを語ろうとしません。「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇「禁秘抄」)が皇室の伝統的精神であることなど百も承知でしょうに、事務方から口止めでもされているのでしょうか。

 式典準備委員会ではヒアリングの結果の説明のあと、退位の式典についての考え方が事務局より説明され、日時は「4月30日」とされました。式典は「御退位の事実を広く国民に明らかにするとともに、天皇陛下が御退位前に最後に国民の代表に会われる」のが趣旨とされています。

 しかし、期日についていえば、すでに退位は特例法および施行令によって既定の事実とされているのであり、退位の表明が目的ならば前日である必要はないのではありませんか。「最後に会う」にこだわるなら別ですが、退位の式の挙行が退位の法的効果を生むわけではありません。とすれば、「4月30日」でなければならない理由はありません。

 むしろ「5月1日」の践祚の式と連続して行うのは無理なのでしょうか。「譲位、即践祚」なら、むしろ同じ日に連続して挙行されるべきではないでしょうか。200年前の光格天皇から仁孝天皇への御代替わりでは、むろん譲位の儀が1日で行われています。

 退位と践祚を、どうしても分離しなければならない特別の理由があるのでしょうか。
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皇室問題正常化に必要な3つのこと──御代替わりのためのささやかな提案 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成30年3月18日)からの転載です。


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皇室問題正常化に必要な3つのこと
──御代替わりのためのささやかな提案
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 先週、チャンネル桜の討論番組に出演させていただきました〈 https://www.youtube.com/watch?v=T0NCzePNLmU 〉。同憂の士と過ごす時間は楽しく、意義のあるものでした。お誘いいただきありがとうございました。この場をお借りして、感謝申し上げます。

 ただ、3時間の長丁場とはいえ、なにしろ9人の出演者ですから、1人あたり20分しか持ち時間がありません。私などは生来の口下手ゆえ、言いたいこと、言うべきことの半分も言えないだろうと覚悟していましたが、案の定でした。

 そこで、言い足りなかった結論的なことを、あらためて書いてみようと思います。これから将来に向けての展望についてです。小堀先生が仰せになっていたように、事態がここまで来た以上、いまさら何をか言わんやですが、ほんの少しでも改善を望みたいがゆえに、書いてみたいと思います。


▽1 退位と践祚を分離させる「無理」

 短期的に言うならば、践祚の儀式のあり方です。
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 いまのところ、政府の考えでは、来年4月30日(午前10時か?)に正殿松の間で「退位の礼」が行われ、首相の謝意に続いて、陛下が退位の表明をなさいます。5月1日(午前10時?)には剣璽等承継の儀が行われ、同日もしくは翌5月2日に即位後朝見の儀が行われることになりそうです。
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 しかし、前回申し上げたように、ここには皇室伝統の祭祀への配慮が皆無です。今上並びに新帝はまず宮中三殿にお詣りするのが筋なのに、検討されている気配が見えません。もっとも掌典職では当然、検討がなされているのでしょう。かなり苦労されているものと推測しますが、宮内庁高官たちは見て見ぬ振りなのでしょうか。

 4月30日には宮殿で退位の礼を行う前に、まず今上による御拝があってしかるべきかと思います。そして5月1日午前0時の新帝の践祚(皇位継承)ののち、新帝ご自身による賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀が斎行されるべきではないかと思います。ただ、その時刻については検討の余地があるでしょう。

 いわゆる退位の礼は、5月1日午前10時から正殿松の間で行われるであろう剣璽等承継の儀に先立ち、連続して行ってはいかがでしょうか。

 そうすれば、『貞観儀式』や一条兼良『代始和抄』などの古典に記されているような、践祚関連の儀式が連続して行われた古例に準ずることができるし、万世一系の皇位の連続性が誰の目にも明らかになるでしょう。

 ぜひ再検討していただけないでしょうか。

 石原信雄元内閣官房副長官は、公表された資料によると、有識者ヒアリングで、今上の退位の礼と新帝の即位(践祚)の式を「法的に同日というのは無理だ」と語ったようですが、退位(譲位)と即位(践祚)の儀式を分離させる方が「無理」というものでしょう。「譲位、即践祚」なのですから。

 4月30日に政府が予定する退位の礼は今上陛下による退位(譲位)の表明ですが、5月1日に剣璽渡御に先立って行われるとすれば、その場合は国民への事後的表明と位置づけられるでしょう。「無理」ではありません。


▽2 このままでは正常化に200年かかる

 中長期的にいえば、3つのことが指摘されます。

 1つは、番組の出席者からお話があった憲法改正に関することですが、私は憲法改正では済まないと考えています。

 小堀先生がおっしゃっているように、今回のことが超憲法的に進められているのは、換言すれば、日本国憲法の限界がはっきりと露呈したということでしょう。

 国民主権主義にこだわれば議論の混乱は必至です。陛下のご意向を受け入れた国民の天皇意識が、天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づくと規定する日本国憲法とは、もともとが明らかに異質なのです。

 遠くから聞こえてくる改憲案は、天皇を元首とし、祭祀を国事行為とするというような内容ですが、てにをはを手直しする程度の赤ペン先生改憲論では不十分です。

 日本国憲法を最高法規とする一元的憲法体制に問題があるのであり、明治人がそうしたように、国務法と宮務法を分ける典憲体制に変革しないと、皇位の安定、国家体制の安定は保てないではないしょうか。改革には、先人たちのように、広く海外の制度に謙虚に学ぶことも必要かと思います。

 宮内庁も独立させるべきではないですか。長官や侍従長は首相経験者を起用したらどうでしょう。

 2つ目は、シンクタンクの設立です。祭祀学、歴史学、法律学を総合する「天皇学」研究のメッカが求められると思います。

 米と粟が捧げられる宮中新嘗祭・大嘗祭を、稲の祭りだなどと決め付けているようでは、話になりません。戦前・戦中のアメリカが何を軍国主義・超国家主義の源流と誤って理解したのかを見極めずに、いつまで経っても明治神道史をほじくり返しているようでは、仕方がないではありませんか。

 時代のニーズに応えられる学問の深化が望まれます。そのために天皇研究を深化させる卓越したプロデューサーの登場を切に願うばかりです。

 3つ目に、大嘗祭訴訟、政教分離訴訟のやり直しを求めたいと思います。

 御代替わり問題に訴訟問題が大きく影を落としていることは目に見えています。これまでの訴訟では合憲判決が出されていますが、被告とされた国などがほんとうに裁判に勝ったのかといえば、そうではないと私は思います。

 大嘗祭訴訟の被告勝訴の理由は、被告側までが天皇の祭祀を皇室の私事だと認めているところにあります。これは敗北主義以外の何ものでもありません。被告側がみずからオウンゴールを蹴っている事実に気づかないとしたら愚かです。

 そもそも祭祀の中身がどのようなものかが、正確に理解されていないのではありませんか。事実の認定がないがしろにされて、合憲か違憲かを争っているのは、裁判の基本に完全に反します。事実の探求の不足が司法判断の誤りを招いていると思います。

 いま改革への問題意識を共有できないとすれば、どうなるのか。皇室問題の正常化には、過去の大嘗祭復活と同様、200年の時間を要することになるのではないかと怖れます。
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どこが皇室の伝統の尊重なのか──賢所の儀の途中で朝見の儀が行われる!? [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成30年3月15日)からの転載です


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どこが皇室の伝統の尊重なのか
──賢所の儀の途中で朝見の儀が行われる!?
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 前回、言い尽くせなかったこと、正確でないことがありましたので、補足します。

 まず、陛下の退位(譲位)の式典に関する政府の基本的な姿勢です。


▽1 「何らかの儀式」を行う法的根拠

 陛下の退位の日取りが二転三転したのは、何らかの儀式が想定されていたからです。昨年12月の皇室会議で「国民生活への影響等を考慮」「静かな環境の中で、こぞって寿ぐにふさわしい日」「慌ただしい時期は避ける」などという意見が示されたのは、改元のためだけではあり得ません。
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 元日は日程がたて込むとか、4月は人事異動や統一地方選挙があるとか、いっても、単に年号が変わるだけなら何の支障もありません。国民の代表者たちが参加する御代替わりの儀式が想定されるからこそ、「4月30日」が選ばれたはずです。

 そして「関連する式典の準備を総合的かつ計画的に進めるための基本方針を検討するため」(1月9日閣議決定)に、準備委員会が設置されたのです。

 ところが、政府の説明では、「何らかの儀式」の検討は、「政府の検討の当初から」が「式典準備委員会設置以後」に「書き換え」られています。ちょうど今回の退位(譲位)が「陛下のご意向で」から「国民の総意に基づいて」に、日本国憲法の国民主権主義的にリセットされたように、です。「書き換え」の悪癖は行政全体に蔓延しているのでしょうか。

 論より証拠、第2回式典準備委員会の冒頭、菅官房長官は次のように挨拶しています。

「(第1回の会議で)何らかの儀式を行うことが望ましいとの意見があったことなどを踏まえ、天皇陛下の御退位に伴う式典、天皇陛下御在位三十年記念式典、文仁親王殿下が皇嗣となられることに伴う式典について議論を行い、委員会としての考え方をまとめていきたい」

 なぜこんな矛盾した説明がなされなければならないのか、要するに、退位の式典を挙行するための法的根拠がないということのようです。皇室典範と一体のものとされる退位特例法は、陛下の退位と皇太子殿下の即位を実現し、その日付の法的根拠とはなり得ても、儀式の法源とはなり得ないのでしょう。

 なぜそうなのか。突き詰めていえば、明治人たちが作り上げた旧皇室典範を頂点とする宮務法の体系が日本国憲法施行とともに全廃されたのち、それらに代わる法体系がこの70年間、整備されてこなかった、そのツケがここに現れたということかと思われます。まして、退位(譲位)は近代以降、法的に認められてこなかったのです。

 とくに宮中祭祀は、敗戦後の占領期、いわゆる神道指令下ゆえに、日本政府は祭祀が「皇室の私事」とされることに強い疑義を覚えながらも、占領者に抵抗することができず、いずれきちんとした法整備を図るという方針を胸に秘めつつも、ついに実現することはできませんでした。

 それどころか、混乱期の一時凌ぎであったはずの依命通牒第3項「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理する」(昭和22年5月3日)が、昭和50年の夏、あろうことか側近中の側近たちによって人知れず解釈変更され、空文化されたのでした。

 依命通牒は「現在まで廃止の手続はとっておりません」(平成3年4月25日、宮尾盤次長国会答弁)とのことですから、第3項を法的根拠とし、旧皇室令に準じて事務処理することも可能のはずですが、堂々と掲げるのはいまさらということでしょうか。

 依命通牒を「破棄」した宮内官僚たちがつくづく恨めしく思われます。無神論者を自任したという、のちの宮内庁長官はいったい何をしたかったのでしょうか。


▽2 賢所での儀式は3日間続く

 もう1点は、践祚の日程です。前回、私は、5月1日に退位の礼から剣璽等承継の儀(剣璽渡御)、即位(践祚)後朝見の儀まで、連続して挙行したらどうかという提案を試みましたが、じつはそうはいかないのです。

 それには御代替わりに伴う祭祀が関係しています。今回の政府・宮内庁による検討は、有識者のヒアリングも含めて、天皇の祭祀に対する配慮が皆無といえます。これで皇室の伝統の尊重などと胸を張れるでしょうか。

 旧登極令(明治42年2月11日)は附式に、践祚の式として、賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀、剣璽渡御の儀、践祚後朝見の儀を定め、このうち宝鏡が祀られる賢所での儀式は「3日間」とされています。

 過去の例では、前回、書いたように、昭和の御代替わりでは、『昭和天皇実録』によると、大正天皇が葉山御用邸で崩御されたのち、直ちに皇太子(昭和天皇)が践祚になり、その約2時間後、宮中三殿では賢所の儀が行われ、同じ時刻に葉山では剣璽渡御の儀が行われました。

 宮中三殿では続いて、皇霊殿神殿に奉告の儀があり、また賢所の儀は翌日、またその翌日と続き、践祚後朝見の儀は賢所の儀が終了した翌日でした。皇祖神ほか天神地祇へのご挨拶が優先されるのは「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇「禁秘抄」)とする皇室の伝統精神ゆえでしょう。

 平成の御代替わりでは、『平成大礼記録』(宮内庁。平成6年9月)によると、昭和天皇崩御の1時間半後、賢所の儀、続いて皇霊殿神殿に奉告の儀が行われ、さらにその2時間後に、宮殿で剣璽等承継の儀が行われました。即位後朝見の儀は3日間の賢所の儀が終わったその当日でした。

 今回はどうなるのか、官邸も宮内庁も宮中祭祀を敬遠しているのか、関連する情報はまったく聞こえてきません。

 4月30日の午後12時をもって践祚とされるのなら、ひとつの考えとしては、それからなるべく早い時間に賢所の儀は行われるべきでしょう。その場合、諒闇中ではないのですから、親祭が望ましいということにもなります。

 というより、賢所でのご挨拶が済んでいない前日の4月30日に、人間の世界で退位の礼を挙行するのは「神事を先にす」の原則に反しませんか。退位の表明は5月1日に剣璽渡御の儀と合わせて行う方が、皇室の伝統に沿うのではないでしょうか。

 3日間の賢所の儀のあとに設定されるべき朝見の儀も同様ですが、今回の式典準備委員会のヒアリングでは、公表された資料によると、じつに驚くべきことに、「平成の式典は中1日を空けたが、今回は必要ない」(石原信雄氏)、「同日に行われることがふさわしい」(園部逸夫氏)、「5月2日の昼間がふさわしい」(所功氏)という意見が出されたようなのです。

 東大史料編纂所の本郷恵子教授だけが、「平成の儀式は、基本的に踏襲してよいものと思われる」と何とか踏ん張っています。

 有識者たちでさえこんなお寒い状況なのに、政府が皇室の伝統を尊重することなどあり得るでしょうか。保守長期政権よ、頑張れ、と謹んで申し上げます。
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石原信雄元内閣官房副長官の意見への3つの疑問 ──宗教性の否定、退位と即位の分離、賢所の儀 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン」(平成30年3月5日号)からの転載です


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石原信雄元内閣官房副長官の意見への3つの疑問
──宗教性の否定、退位と即位の分離、賢所の儀
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 遅ればせながら、2月20日に開かれた、第2回目式典準備委員会について書きます。案の定というべきか、悪しき前例の踏襲が行われることとなりそうです。
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 指摘したいことは何点かありますが、公表されている議事概要に沿って、ここでは有識者ヒアリングについて、とくに石原信雄元内閣官房副長官の意見について、考えてみることにします。

 政府の説明によると、前回、1月の初会合で、何らかの儀式を行うことが望ましいとの意見があったことから、この日、今上陛下の退位に伴う式典など、3つの式典について議論が行われました。

 これに先立って、有識者4人のヒアリングが実施され、その1人が、平成の御代替わり当時、内閣官房副長官として諸行事を取り仕切った石原信雄氏でした。


▽1 宗教否定主義と政治的妥協主義路線

 まずは基本的な考え方に関する意見です。

 石原氏は、前回は各式典が憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統を尊重したものとなるよう検討したと振り返っています。30年後のいま、政府はまさにこれと同じ考え方を踏襲していることが分かります。

 つまり、御代替わりの諸儀礼を全体的に1つと考えるのではなく、ひとつひとつ分解し、政教分離のふるいにかけ、国の行事(天皇の国事行為)と皇室行事とに分離させる二分方式、他方、大嘗祭については皇室行事としつつ、費用を国費から支出する現実的妥協です。

 今回もこの方式を採用することになったわけです。宗教否定主義と政治的妥協主義路線のキーパーソンこそ石原氏ということでしょうか。

 しかし天皇の祭祀は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法上の宗教的活動なのでしょうか。教義もなく、聖職者も信者もいない宮中祭祀が国民の信教の自由を侵すのでしょうか。皇祖神ほか天神地祇を祀る天皇の祭祀は逆に、古来、日本の価値多元主義の要として機能してきたのではないのでしょうか。

 皇統が神代にまで連なると信じられてきたのなら、宗教性を排除するのは不可能です。それを逆に、非宗教主義を皇室に押しつけるのは新手の国家宗教のように私には見えます。そもそも宗教的価値を認めないのは、憲法に違反しませんか。


▽2 退位と践祚をなぜ分けるのか

 2点目は、退位の翌日に即位するという日程について、です。退位と即位(践祚)をなぜ分けなければならないのでしょうか。

 石原氏は、退位の礼と即位(践祚)の式を同日に行うという考えを否定し、皇室典範特例法上、4月30日の24時に陛下が退位され、皇太子殿下が翌日の0時に即位されることが決まっている、皇位継承に空白もない、と仰せです。

 つまり、特例法に従って4月30日の退位が閣議決定され、同時に翌日の即位が政府決定されたことの意味は、石原氏の解説によれば、各儀式の挙行時間と法的効力の発生時間はまったく別だということです。

 それならそれで理解できるのですが、閣議決定後に官房長官がそのように説明したとは聞かないし、記者会見でそのような質疑応答があったとは寡聞にして知りません。

 それに、儀式挙行の時刻の如何にかかわらず、5月1日午前0時をもって、今上天皇が退位(譲位)され、新帝が即位(践祚)されるというのなら、仰せのように、退位の礼を4月30日とし、剣璽等承継の儀(剣璽渡御)、即位(践祚)後朝見の儀を翌5月1日に挙行しなくてもいいことになりませんか。

 たとえば5月1日午前10時から連続して一連の儀式を行い、その法的効力は午前0時にさかのぼることとすれば十分であり、むしろその方が皇位の連続性を視覚化できるし、合理的かつ現実的かと思われます。

 皇位継承は新帝の即位が中心テーマであるはずなのに、今回の御代替わりはNHKの「生前退位」報道が発端となったことから、もっぱら今上天皇の退位が主題となり、しかも前回以来、践祚(皇位継承)の概念が失われているうえに、改元の期日問題が加わって、議論がまったく混乱してしまっているように見えるのは、じつに残念です。


▽3 賢所の儀はいつ、誰が

 もうひとつの問題は、御代替わりに伴う祭祀です。

 石原氏が仰せのように5月1日午前0時をもって新帝が即位(践祚)するというのなら、関連する祭祀はいつ、誰によって行われるべきでしょうか。

 大正から昭和への御代替わりでは、大正天皇が葉山御用邸で崩御されたのが大正15年(昭和元年)12月25日午前1時25分で、直ちに皇太子(昭和天皇)が践祚になり、登極令に従って、3時15分に宮中三殿で賢所の儀が行われ、掌典長が奉仕し、同時に葉山では剣璽渡御の儀が行われました。「昭和」への改元は即日でした。

 前回、平成の御代替わりでは、昭和64年1月7日午前6時33分に昭和天皇が崩御になると、直ちに今上天皇が即位(践祚)され、賢所の儀が行われ、10時1分に正殿松の間で剣璽等承継の儀が行われました。「平成」はその翌日からでした。

 旧登極令は「第1条 天皇践祚のときは、すなわち掌典長をして賢所に祭典を行わしめ」と定め、附式に践祚の式として、賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀、剣璽渡御の儀、践祚後朝見の儀の祭式を挙げています。

 先帝崩御に伴う践祚なら、一年の服喪期間中、親祭、親拝はありませんが、今回のように譲位に伴う践祚で、3日間におよぶ賢所の儀などは掌典長に行わせて済むのでしょうか。掌典長が代わって奉仕するにしても、執行の日時はどのようになるのでしょうか。まさか午前0時でしょうか。

 当然ながらというべきか、石原氏のヒアリングにはその言及がまったくありません。それどころか、信じがたいことに、剣璽は神器ではない、という発言すら飛び出しています。

「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇)が皇室の基本原則ですが、石原氏にとっての皇室とは何でしょうか。宗教性を否定するなら皇室の伝統を尊重することにはなりません。
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保守政権にして平成の悪しき前例が踏襲される!? ──式典準備委員会の配付資料・議事概要を読む [御代替わり]

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保守政権にして平成の悪しき前例が踏襲される!?
──式典準備委員会の配付資料・議事概要を読む
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 1月9日、天皇陛下の御退位および皇太子殿下の御即位に伴う式典準備委員会を内閣に設置することが閣議決定され、その初会合が同日、開催されました。
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 公表された資料を読むと、案の定、さまざまな不都合が指摘された、平成の悪しき前例が繰り返されるのではないかと強く懸念されます。


▽1 前回指摘の不都合に目をつぶる?

 メディアの報道によると、菅内閣官房長官を委員長とする同委員会は、月1回程度、非公開で開催され、陛下の譲位(退位)に伴う皇位継承の儀式のあり方、日程、規模などを検討し、3月中旬には基本方針をとりまとめると伝えられます。

 テーマは御代替わりに関する重要事項ですが、たった3回程度の会合で、何を根拠に検討するのでしょうか。本格的検討には遠くおよばず、125代続く皇室の伝統はほとんど顧みられず、もっぱら平成の先例ばかりが根拠とされるのではないかと憂慮されます。

 そのように予測されるのは、初会合で配付された資料を読めば十分です。

 官邸のサイトに公表された配付資料「陛下の御即位に伴う式典等の実例」をみると、「御在位20年記念式典」「平成の御代替わり時の式典一覧」「御即位関係」「立太子の礼関係」がそれぞれカラー画像付きで説明されています。

 一目瞭然、初回に配付された資料は、今上陛下の御即位に関するものばかりで、皇室の長い歴史を感じさせるものはありません。即位大嘗祭を説明した貞観儀式も一条兼良の「代始和抄」も、光格天皇のご譲位に関する歴史資料もありません。

 となれば、政府は平成の前例を踏襲することしか念頭にないということではありませんか。安倍長期保守政権にして、皇室の歴史の軽視、厳格すぎる政教分離原則への執着という不都合が繰り返され、悪しき先例が日本国憲法様式として確定されることは目に見えています。

 日本の保守主義とは何かが問われます。同時に、今日、天皇・皇室問題の正常化がいかに困難かがあらためて理解されます。

 実際、初会合の1週間後に公開された議事概要には、「平成の式典は、現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたのだから、今回も基本的な考えや内容は踏襲されるべきだ」という発言が記録されています。

 前回、指摘されたさまざまな不都合には目をつぶるということでしょうか。それとも事なかれ主義なのか。


▽2 今回も「国の行事」と「皇室行事」の二分方式で?

 2つ目は、「国の行事」と「皇室行事」の二分方式の踏襲です。

 配付資料の中の、前回の御代替わり時に行われた式典の一覧表をみると、興味深い点がいくつか指摘されます。

 1つは、「賢所に期日奉告の儀」など、宮中三殿で行われた祭儀にいたるまで細かく言及されていること、しかもそれらが「国事行為」「総理主催行事」「皇室の行事」とに区分され、見やすいように色分けされていることです。

 しかしその一方で、旧登極令の附式に定められていた「践祚の式」のうち、前回、今上天皇が皇位を継承された当日にも行われたはずの「賢所の儀」「皇霊殿神殿に奉告の儀」は取り上げられていません。大嘗祭の諸儀については詳細が列挙されているのに、です。

 つまり、政府は最初から「国の行事」と「皇室行事」とを分けて考えており、宮中三殿で行われる祭祀などは「国の行事」ではなくて「皇室行事」として挙行されることが当然視され、そのため準備委員会の検討事項には想定されていないということでしょうか。

 天皇の祭祀について、その本質を深く探求せずに「皇室の私事」と決め付け、宗教性があるから憲法が定める政教分離の原則から国は関与できないとする、占領後期にはGHQでさえうち捨てた古くさい厳格主義から、政府は一歩も脱せずにいるようです。

 けれども他方では、大嘗祭は公的性格があるから公金を支出することは憲法上、許されるとする、一連の大嘗祭訴訟を踏まえた、私にいわせれば誤った憲法判断に基づき、国の一定の関与を認めて、今回の御代替わりが進められているということでしょう。

 大嘗祭は古来、宗教儀式というより国民統合の儀礼であって、国民の信教の自由を侵すものではありません。信仰篤きキリスト者が祭祀に携わっているとされるのは何よりの証明です。祭祀を「皇室の私事」と断定する法解釈を前提とする大嘗祭訴訟はやり直すべきだと私は考えます。

 それはともかく、準備委員会の議事概要をみると、ある出席者は「諸儀式の検討に当たっては、日本国憲法に整合的であること、皇室の伝統に即したものであること、の2つの観点を踏まえてほしい」と発言しています。

 じつのところ前回は、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とが対立的に捉えられ、皇室の伝統行事が伝統のままに行うことは憲法の趣旨に反するとされ、「国の行事」と「皇室行事」との二分方式が採られたのです。

「2つの観点」を両立させるのは容易ではありません。大嘗祭のみならず天皇の祭祀とは何かが問われています。それなくして、二分方式の正常化はあり得ないでしょう。


▽3 日程調整だけでは済まされない

 もう1点は、昭和の御代替わりのような特別の機関の設置はまったく想定されていないらしいということです。

 議事概要には次のような発言が記録されています。

「即位の礼については、平成度の考え方を踏襲していくことが基本である。日程については、即位礼正殿の儀と大嘗祭の間は、連日儀式や行事が行われ、参加する方々にはかなりの負担がかかったと聞く。大嘗祭は11月中頃となっているので、即位礼正殿の儀をもう少し早めに行い、日程に余裕を持つようにしていただきたい」

 けれどもこれは日程の問題なのでしょうか。

 大正、昭和の御代替わりでは登極令第4条に基づき、即位の礼と大嘗祭は引き続き行われ、前回の平成の御代替わりでは10日の間をおいて行われました。それでも関係者はひたすら眠い目をこすって、長時間勤務に耐えました。

 さらに日程に余裕を持たせれば参加者の負担が軽減できるのか、といえば、そうではないでしょう。抜本的解決は特別の機関を置くこと以外にはないのではありませんか。

 以前、書いたように、大正の御代替わりについて解説した赤堀又次郎によれば、古代の即位の礼は臨時のことながら儀式は元日恒例の朝賀と同じで、とくに職員の任命はなく、事務は式部省などが掌りました。近世には摂政関白が総裁し、伝奏が事務を統括しました。ただ大嘗祭についてはより繁雑なことから職員が任命されたとされます。

 大正、昭和の御代替わりでは大礼使という機関が臨時に置かれましたが、前回の平成の御代替わりでは特別機関は設置されず、日常業務と併行して作業することとなり、その結果、関係者の負担はいや増しに増したのです。

 前回の反省に基づき、臨時機関、あるいは第三者機関の設置を提言する有識者はいないのでしょうか。長時間労働が社会的に許されないご時世に、平成の悪しき先例踏襲はまったくあり得ません。

 御代替わりを全体的に国事とし、国を挙げて、あるいは国と民がこぞってお祝いできる方法を本格的に模索するわけにはいかないのでしょうか。保守政権の真価が問われます。
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皇位継承儀礼の「伝統」とは何か ──小堀桂一郎先生の「正論」を読んで [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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皇位継承儀礼の「伝統」とは何か
──小堀桂一郎先生の「正論」を読んで
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 1月8日、「皇位継承儀礼は伝統に則して」と訴える小堀桂一郎先生の文章が、産経「正論」欄に載ったのを拝読した。次の御代替わりが来春に迫ったいまになって、ようやくまともな意見が現れたのかと感慨深かった。
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 そして、守られるべき皇位継承の「伝統」とは何か、なぜ「伝統」なのか、をあらためて考えさせられた。


▽1 いかなる理由で何を重視するのか

 先生が訴えておいでなのは、次の御代替わりの諸儀礼を、平成から昭和への前例を踏襲するのではなく、むしろ200年前の光格天皇から仁孝天皇への先例にならうべきだ。今回こそ古来の宗教的な伝統を再生させる重要な機会だ、ということだ。

 今回のご譲位は超憲法的に行われており、もはや平成の前例を固定的に踏襲する必要はなく、前回は顧みられなかった「践祚」の概念を復活させるべきだと仰せなのはさすがの卓見だと思う。

 超憲法的措置の結果としての「国事」なのだから、憲法の政教分離原則(20条3項)にびくびくと気兼ねせず、むしろ克服すべきだ。伝統儀礼が復活すれば、20条が改憲できたのも同然で、全文改訂への足がかりになろうとも仰せだ。

 保守の論客として面目躍如たるものがあり、おおむね同意できるが、あえていくつかの問題点を指摘することにしたい。

 1点目は「伝統」である。なぜ「伝統」重視なのか。何が「伝統」なのか。

 先生が「皇室の祭祀儀礼に於ける古来の伝統」と仰せであるからには、ならうべき先例が光格天皇のご譲位の例にとどまらないことは文意上、明らかだが、私たち現代人にとって、長い皇室の伝統を踏襲することの意義とは何であろうか。

 現代の日本人はけっして、「伝統」を無条件で後世に守り伝えるべきものとは考えていない。であればこそ、前回の御代替わりでは「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とが対立的に捉えられ、さまざまな不都合が生じた。宮内庁関係者が装束を着ることさえ、猛烈な反対があったといわれる。


▽2 厳格主義は占領政策の結果か

 それどころか、何が「伝統」かさえ、私たちは見失っている。その日本人に対して、「伝統に則して」と訴えても、無条件の賛意は得られないだろう。

 室町期の才人・一条兼良は「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」(『代始和抄』)と書き、光格天皇はまず内裏から桜町殿(仙洞御所)に、剣璽とともに行幸になり、このため数百人規模の行列が組まれたことを克明に記録した極彩色の絵巻2巻が伝えられている。

 だが、そのような王朝絵巻が今回、再現されるべきだとは、おそらく先生もお考えではないはずだ。とすれば、何が「伝統」として回復されるべきなのか。

 日本人が「伝統」の価値を忘れているのは、けっして占領政策の結果ではない。

「目的は宗教を国家より分離すること」とした、いわゆる神道指令の解釈運用は、占領後期になると「国家と教会の分離」すなわち限定主義に変更されている。

 宮中祭祀の形式は神道指令下でも守られてきた。現行憲法施行に際して、「従前の例に準じて、事務を処理すること」(依命通牒第3項)と定められ、祭祀は旧皇室祭祀令に準じて、ひきつづき励行された。

 つまり、宮中祭祀については格別に、神社神道と同様、厳格主義がしばしば採られるのは、占領政策とは別の要素からである。

 政教分離原則に抵触するとして、側近らによって祭式が変更されたのは、昭和50年9月からである。側近らが占領前期の法解釈に、無用の先祖返りを図った結果である。なぜそんなことが起きなければならなかったのか。

 ちなみに、昭和22年5月の依命通牒は廃止されてはいない。したがって旧登極令に準じて粛々と、御代替わりの事務を処理することは法的に可能である。


▽3 祭祀は「宗教」なのか

 皇室はしばしば「伝統」の世界だと考えられているが、けっして「伝統」オンリーではない。「伝統と革新」こそが古来、皇室の原理なのであって、一連の皇位継承儀礼を伝統精神に則り、毅然として遂行すべきだというのなら、「伝統」というだけではなくて、たとえば大嘗祭の現代的意義が見いだされ、説明されるべきではなかろうか。

 つまり、天皇の祭祀とは何か、である。先生は御代替わりの諸儀礼を「宗教」とお考えのようだが、そうなのであろうか。

 もし「宗教」だということになると、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定める憲法20条3項が立ちはだかる。御代替わり諸儀礼は「国事」とはなりづらい。

 けれども、たとえば大嘗祭が、政府や宮内庁が理解するような「稲の祭り」という宗教的儀礼ではなくて、米と粟の新穀を皇祖神ほか天神地祇に捧げて祈る多神教的、多宗教的な、国民統合のための国家的儀礼だと理解されるなら、どうだろうか。

 それでも、国民の信教の自由を侵す「宗教的活動」と解釈しなければならないだろうか。

 聞くところによると、何十年も前から、カトリック信徒の女性が内掌典として陛下の祭祀に携わっているようにも聞くが、もしそうだとしたら、その事実こそは宮中祭祀が信教の自由の原則に抵触しないことの何よりの証明ではないか。


▽4 憲法の改正より憲法体制の変革を

 バチカンは350年以上も前に、宣教先の国々の儀礼や習慣の尊重を謳う指針を、海外宣教団に対して与えている。その結果、中国では国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝が認められ、1692年にはキリスト教は公許されている。

 1659年の古い指針は現代にも引き継がれている。つまり、20条3項問題はすでにして解決済みなのであり、したがって、先生が仰せのように、「政教分離原則への恟々たる気兼ねは不要」なのである。

 もう1点は憲法改正である。先生は伝統回帰を憲法改正へのワン・ステップともお考えだが、必要なのは憲法の改正だろうか。それで十分なのか。

 先生が仰せのように、今回のご譲位はまさに超憲法的措置で進められた。陛下のご意向が出発点である紛れもない事実を、国民の総意が出発点であったかのように再起動させなければならなかったのは、天皇に国政上の権能を認めない、国民主権主義を基本原則とする現行憲法の限界を露呈させた。

 というより、憲法を最高法規とする一元的憲法体制の限界が明らかになったのだと私は思う。皇室の「伝統」など歯牙にもかけぬような国民的なる議論の大混乱を避けるためには、皇室は皇室独自の法によって自立すべきではなかろうか。

 憲法と皇室典範を同格とし、それぞれを頂点に置く国務法と宮務法が並立する法体系に再編成すること、そして宮内庁は内閣府の外局、あるいは独自機関というのではなくて、一般の行政機関とは別の独立機関とすることが、本来あるべき姿ではないかと私は思う。

 先生はいかがお考えだろうか。
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