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即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない ──平成の御代替わり「2つの不都合」 5 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない
──平成の御代替わり「2つの不都合」 6
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 即位の礼と大嘗祭の日程について、続けます。

 平成の御代替わりでは、平成2年11月12日に即位礼正殿の儀が行われ、その10日後、22日から23日にかけて、大嘗祭が挙行されました。

 昭和の御代替わりもそうでした。昭和3年11月10日に即位の大礼が行われ、その4日後、14日夕刻から大嘗祭が行われました(『昭和大礼要録』昭和6年)。

 なぜ「10日後」あるいは「4日後」なのでしょうか。

「昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐(せいひつ)が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです」

 昭和から平成の御代替わりに携わった永田忠興元掌典補が問題点を指摘するのは道理です。

 即位の礼・大嘗祭の「期日」に関する赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)の解説を読んでみます。

「つつしみて按ずるに、大礼を行はるる期日は、宮内大臣・国務大臣の連署をもって中外に公告し、かつ同時に賢所、皇霊殿、神殿ならびに神宮、神武天皇等の山陵にこれを告げたてまつらるるなり。
 さて、このたびの大礼の期日は、いまだ公告なければ、いづれの日に行はるるやを知らず、民間に伝ふるところにては11月23日、例年新嘗祭の日に大嘗祭を行はれ、その数日後前に即位の礼を行はるべしとも、また11月3日、今上天皇立太子の日に即位の礼を行はれ、13日の卯の日に大嘗祭を行はるべし、などとも伝ふ。
 そのいづれの日に決せらるるやを知らねど、記して参考に備ふ」

 赤堀は本文にはそう書いていますが、実際に本が刊行される段階では期日は定まっていました。巻頭に期日が定まったことを知らせる官報号外が引用されています。

 じつは赤堀の『御即位及大嘗祭』は少なくとも大正3年版と翌年の再版とがあるようで、前者には大正3年1月17日官報号外が次のように引用されています。(原文は漢字片仮名交じり。以下同じ)

 即位の礼および大嘗祭の期日、左の通り定めらる
即位の礼 大正3年11月10日
大嘗祭  同  年同 月13日
 大正3年1月17日  国務各大臣宮内大臣連署

 しかし実際にはこの期日には行われませんでした。すでに申し上げましたように、昭憲皇太后が3年3月に崩御され、大正の即位礼・大嘗祭が延期されたからです。

 4年5月に再販された赤堀の本には、あらためて定められた期日を告知する大正4年4月19日官報(号外)が引用されています。

即位の礼および大嘗祭の期日、左の通り定めらる
  即位の礼 大正4年11月10日
  大嘗祭  同  年同 月14日
 大正4年4月19日 内閣各大臣連署

 大正天皇の大嘗祭は即位の礼の、じつに4日後でした。なぜ相次いで執り行う必要があったのでしょうか。

 かつてはどうだったのでしょう。赤堀の解説を読んでみましょう。

「古例、即位の礼を行はるる日は、定まれることなし。ただし、中古以来は、陰陽道の説をこれらのことに採用せられたれば、陰陽頭に命じて、これを勘(かんが)へ申さしめらるる例なり。
 寛永7年中御門天皇、即位の礼を行はれしときには、陰陽頭安倍泰連、その年の『11月11日巳の時』をもって大礼を行はるるに宜しき吉日、吉時と選定して上申し、これを採用ありし類いなり」

 大嘗祭はどうでしょうか。

「大嘗祭を行はれし日、往古のことは詳らかならず。
 中古以来、11月下の卯の日を例とす。もし11月中に3か度、卯の日あれば、中の卯の日を用ひられし例なり。新嘗祭も卯の日に行はれたり。卯の日と定められし理由はこれを知らず」

 明治の皇室典範は第11条に

「即位の礼および大嘗祭は京都において、これを行ふ」

 と定め、登極令の第4条は

「即位の礼および大嘗祭は秋冬の間において、これを行ふ。大嘗祭は即位の礼を訖(おは)りたるのち、続いてこれを行ふ」

 と規定していました。これには今日とは異なる、交通機関の未発達が背景にあるものと想像されます。明治末年なら新橋・神戸間が13時間かかりました。即位の礼・大嘗祭を引き続いて執り行わざるを得ない事情があったということでしょう。

 しかし京都で挙行するという規定もない今日では、もっと時間的余裕をもって挙行してよろしいのではないでしょうか。

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即位の礼と大嘗祭が相次いで挙行されるのは新例 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 5 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位の礼と大嘗祭が相次いで挙行されるのは新例
──平成の御代替わり「2つの不都合」 5
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 さて、もうひとつの不都合、つまり、即位の礼と大嘗祭の日程について、です。

 永田忠興元掌典補は問題点を、次のように指摘しています。

「即位礼の10日後に大嘗祭が行われるという日程も、再考する必要がありそうです。
 昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐(せいひつ)が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです。
 即位礼と大嘗祭とを、もっと期間を空けるべきだ、と民俗学者の柳田国男が書いているのを読んだことがあります」

 赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)が、即位の礼および大嘗祭が行われる「時期」と「期日」について解説していますので、ご紹介します。

 まず「時期」です。

「つつしみて按ずるに、登極令によれば、即位の礼と大嘗祭とは同時に相次いで挙行せられ、相離るべからざるものと定められたり。しかして大嘗祭には新穀を用ゐらるる例なれば、そのために秋冬のあいだに行はるることとなれるなり」

 ご承知の通り、登極令は、即位の礼・大嘗祭について。以下のように定めています。

第4条 即位の礼および大嘗祭は秋冬の間において、これを行ふ。大嘗祭は即位の礼を訖(おは)りたるのち続いてこれを行ふ。

 けれども、これは新例だったようです。

「古例は、即位の礼と大嘗祭とを必ずしも相続いて行はれしにはあらず。即位にはもとより定まれる時なく、大嘗祭は、新穀供進の関係よりして、7月以前に即位あれば、その年に大嘗祭を行はれ、8月以後に即位のときには、翌年、大嘗祭を行はれし例なり」

 すでに平安前期の儀式書にそのことが記されています。

「貞観儀式に、『7月以前の即位には当年ことを行ひ、8月以後には明年ことを行ふ。諒闇の登極を謂ふにはあらず』といへる、これなり」

 大行天皇の服喪期間に即位の礼・大嘗祭が行われないのはいうまでもありません。

「諒闇は凶事にして上下謹慎のなかにあり。その間に神事は行はざることなり。登極令第18条に、『諒闇中は、即位の礼および大嘗祭を行はず』と載せられしは、貞観儀式に伝へるところと同義なり」

 それなら譲位の場合はどうなのか。

「いにしへは譲位の例ありしかば、諒闇登極ならぬ例あれど、いまはその慣例を改められて、天皇崩ずるときは皇嗣すなはち践祚あることに規定せられたれば、こののちはすべて諒闇登極のみとなりたり。ゆゑに践祚ののち1カ年以上を経たる秋冬のあいだに、即位の礼および大嘗祭は挙行せらるるなり」

 こうして登極令のもとで行われた大正天皇の即位の礼、大嘗祭は大正4年の秋冬に行われることとなりました。明治天皇が崩御されたのは7月でしたから、当初は3年の予定でしたが、3年3月に昭憲皇太后が亡くなられ、一年延期されたのでした。

 昭和天皇の場合は、大正天皇が崩御されたのが12月で、1年の服喪を経て、昭和3年秋に即位の大礼が行われました。

 今上天皇の場合は、昭和天皇が崩御されたのが1月で、即位の礼・大嘗祭は翌2年秋に行われました。登極令も皇室服喪令も日本国憲法施行とともに廃止されましたが、これらの規定に準じて、挙行されたということでしょう。

 さて、となると、次の御代替わりはどうでしょうか。伝えられるように、今上陛下の譲位にもとづく皇位継承が来年暮れだとすれば、即位の礼および大嘗祭は再来年の秋という日程になるのでしょうか。

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臨時職員が任命された大嘗祭の古例 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 4 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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臨時職員が任命された大嘗祭の古例
──平成の御代替わり「2つの不都合」 4
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 赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)は、大礼使官制を掲載したあと、古例について説明しています。
昭和の大嘗宮.png
 以下、これを全文引用します。(漢字を開くなど、適宜編集しています)

「古例、即位の礼は、臨時のことなれども、その儀式だいたい正月元日の恒例の朝賀と同じければ、とくに職員を任命せらるること少なく、大臣、叡旨を承りて、殿上に侍する侍従4人と少納言2人とを定め、その当日、門外のことは外弁1名、閤外(こうげ)大臣、門内のことは内弁1名閤内大臣これを掌り、百官の進退は典儀これを令し、賛者ありてこれをたすく。
 事務は式部省その他に掌る。これ中古のさまなり。
 近世は即位も大嘗祭も、摂政関白にてこれを総裁し、伝奏(てんそう)にて事務を統括し、行事官等をもって調度を備へしものの由なり。即位の礼に内弁典儀等をもって式場を整理せられしは、中古と同じかりしなり。
 大嘗祭は、臨時の儀式にして、かつその事務、即位よりもなほ繁雑なれば職員を任命せらるることも夥しかりき。
 中古には大納言、中納言のなかにて2人と、参議1人とを悠紀所、主基所の検校に補せらるるは大礼使長官の如く、四位五位のなかにて4人の行事をおかるるは事務官、典礼官等のごとし。
 その神事に親しく仕ふるものは、みな卜(うらなひ)をもって定められしは、今日と大いに事情の異なるところ、悠紀、主基の両国に重きをおかれしは費用支出の関係より起こりたるなり。
 しかして徳川時代、武人は、表面にはけっして大礼に関係なかりしものなり。その由は前の条に述べしがごとし」

 以上、赤堀によれば、歴史的にみると、即位の礼では特別の機関が置かれなかったが、大嘗祭では職員が臨時に採用されたようです。

 このような歴史に倣い、大正の御代替わりでは大礼使が置かれることになったということでしょうか。

 大正の大礼では、大礼使官制に基づき、大礼使総裁に貞愛親王殿下(伏見宮)が、長官には原敬が勅命されました。

 昭和の御代替わりも同様で、総裁には閑院宮載仁親王、長官は近衛文麿が就任し、ある書物によると、大礼使職員は総裁以下510人を数えたとのことですが、日本国憲法下で初めてとなる平成の御代替わりでは、大礼使は置かれませんでした。

 憲法と同格の法的地位にあった明治の皇室典範には「第11条 即位の礼および大嘗祭は京都において、これを行ふ」と定められていましたが、一法律に過ぎない戦後の皇室典範には「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と規定するのみで、大嘗祭への言及すらありません。

 そして職員はひたすら眠い目をこすり、長時間勤務に耐えつつ、御代替わりに携わることになったのです。

 東京・横網の都慰霊堂は、都の外郭団体によって管理され、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を悼む春秋年2回の慰霊法要には、都の職員が多数協力しているようです。また、阪神淡路大震災の被災地・兵庫県では、県知事を会長とする県民会議が組織され、官民合同で「安全の日のつどい」などが行われています。

 前者は仏式の法要で、都内の5つの仏教寺院の持ち回りで行われています。皇族代表や都知事も焼香に訪れます。後者の追悼式典ではキリスト教音楽が奏でられ、一昨年の20式典は天皇陛下が皇后陛下を伴い、ご臨席になりました。

 だとしたら、即位の礼・大嘗祭を「国の行事」とし、官民を挙げてお祝いする現代的な方法が見出せないものでしょうか。

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赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』掲載の大礼使官制 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』掲載の大礼使官制
──平成の御代替わり「2つの不都合」 3
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 大正天皇の即位の礼・大嘗祭について解説を試みた赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)に、大礼使について、数ページにわたって説明しているので、紹介します。
koukyo01.gif
 赤堀はまず「大礼使」の概略を次のように説明しています。

「つつしみて按ずるに、即位の礼および大嘗祭の事務を掌るために大礼使をおかるる由は、登極令に見え、一昨年践祚のことありてのち大礼準備委員をおかれしが、昨年11月22日に大礼使の官制を公布せられ、即日任命ありたり。その官制によれば、総裁、長官、次官、参与官、事務官、典礼官などをおかるるなり。大礼使の任命とともに準備委員は罷(や)められたり」(漢字を開くなど適宜編集した。以下同じ)

 すでに述べましたように、登極令(明治42年2月)には、「大礼使」の規定がありました。

第5条 即位の礼および大嘗祭を行ふときは、その事務を掌理せしむるため、宮中に大礼使を置く

 大礼使官制は勅令第303号として、大正2年11月22日に公布されています。赤堀は下記のように、その全文を掲げています。

 長くなりますが、全文を引用します。

第1条 大礼使は、内閣総理大臣の管理に属し、即位の礼および大嘗祭に関する事務を掌る。
第2条 大礼使に、総裁1人を置く。
 総裁は、皇族のなかより、これを勅命す。
第3条 大礼使に、左の職員を置く。
 長官1人。次官2人。参与官若干人。事務官若干人。典礼官若干人。書記若干人。典礼官補若干人。
 前項職員のほか、必要あるときは、御用掛を置くことを得。
第4条 長官は、これを勅命す。
 次官、参与官、事務官および典礼官は、内閣総理大臣の奏請に依り、内閣において、これを命ず。御用掛を命ずるとき、また同じ。
 書記および典礼官補は、長官、これを命ず。
第5条 長官は、書部の職員を統括し、使務を総理す。
 長官事故あるときは、内閣総理大臣の指名したる次官、その事務を代理す。
第6条 次官は、長官を輔(たす)け、長官の定むるところにより、その分任の使務を掌理す。
第7条 参与官は、長官の命を承け、使務を輔く。
第8条 事務官は、上官の命を承け、事務を掌る。
 典礼官は、上官の命を承け、典式を掌る。
第9条 書記および典礼官補は、上官の指揮を承け、庶務および典式に関する事務に従事す。
第10条 長官は、親任官、次官および参与官は勅官任(ママ)、事務官および典礼官は奏任官、書記および典礼官補は判任官の待遇を受け、御用掛の待遇は各別にこれを定む。ただし、他の官職を有する者の待遇は、その官職につき受くる待遇に依る。
第11条 他の官職を有するに依り、大礼使職員を命ぜられたる者、その官職を退きたるときは退職す。
第12条 使務の処理に関する規定は、長官これを定む。

 附 則
 本令は、公布の日よりこれを施行す。

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皇室喪儀令と登極令の規定 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 2 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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皇室喪儀令と登極令の規定
──平成の御代替わり「2つの不都合」 2
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 平成の御代替わりでは、制度が整備されず、特別の組織もありませんでした。そのため官僚たちは、御代替わりという国家の重大事にもかかわらず、ひたすら眠い目をこすりつつ、毎日午前様の状態にならざるを得ませんでした。

 なぜそうなったのか。

 それは戦後70年間、皇室に関わる法制度が整備されなかったツケですが、それなら「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」(依命通牒第3項。昭和22年5月)に基づき、戦前の皇室喪儀令および登極令に準じて「大喪使」「大礼使」を設置すればいいものを、政府はそうはしなかったのです。

 皇室喪儀令は、永田忠興元掌典補が指摘しているように、「大正天皇が崩御になる2カ月前の大正15年10月に公布された、大正天皇の御大喪に合わせたようなものでしたが、当時の頭脳を結集して制度が作られました。けれども平成の御代替わりにはそれがありませんでした」。

 明治の皇室典範(明治22年2月)は「第二章 践祚即位」で、

第10条 天皇崩ずるときは皇嗣すなはち践祚し、祖宗の神器を承く
第11条 即位の礼および大嘗祭は京都において、これを行ふ

 と定め、さらに皇室喪儀令(大正15年10月)には、「大喪使」について、こう定められていました。

第5条 天皇、太皇太后、皇太后、皇后崩御したるときは大喪儀に関する事務を掌理せしむるため、宮中に大喪使を置く
 大喪使の官制は別にこれを定む

 登極令(明治42年2月)も同様に、次のように「大礼使」について定めています。

第5条 即位の礼および大嘗祭を行ふときは、その事務を掌理せしむるため、宮中に大礼使を置く
 大礼使の官制は別にこれを定む
(原文は漢字片仮名交じりだが、適宜編集した)

 けれども、昭和から平成の御代替わりでは、「国の行事」とされ、内閣が主催した「大喪の礼」については、「大喪の礼委員会」(委員長は竹下登首相)が置かれましたが、即位礼・大嘗祭の事務を取り仕切る「大礼使」は設置されなかったのです。

 もとより昭和天皇の御大葬では、葬場殿の儀などは「国の行事」とされず、今上陛下の即位の礼・大嘗祭のうち、大嘗祭は「皇室行事」とされたのです。

 したがって、一貫して事務を掌握する「大喪使」「大礼使」が設置されるはずはなかったということでしょう。そのしわ寄せを職員たちは被ることになったというわけです。明治・大正の日本人の方が合理的、現実的ではなかったでしょうか。

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特別な組織の不設置と即位礼・大嘗祭の日程 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 1 [御代替わり]

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特別な組織の不設置と即位礼・大嘗祭の日程
──平成の御代替わり「2つの不都合」 1
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 昭和から平成への御代替わりには、さまざまな不都合が指摘されています。直接、携わった宮内庁職員OBの証言もあります(「昭和天皇の忠臣」が語る「昭和の終わり」の不備──永田忠興元掌典補に聞く)=「文藝春秋」2012年2月号。聞き手は私です)。

 そのなかでとくに納得しがたいものとして、私の印象に残っているのは、特別の組織が設置されず、政府職員が日常業務と併行して、御代替わり諸儀礼に取り組んだこと、それと、即位礼の10日後に大嘗祭が行われるという日程について、元掌典補の永田氏が批判したことでした。

 前者については、永田氏はこう語っています。

「総体的に見ると、国および国民統合の象徴である天皇の御位が継承されるという歴史の節目にあって、諸行事が無原則に、場当たり的に、ご都合主義で行われたことです。
 戦前は皇室喪儀令という成文法がありました。大正天皇が崩御になる2カ月前の大正15年10月に公布された、大正天皇の御大喪に合わせたようなものでしたが、当時の頭脳を結集して制度が作られました。けれども平成の御代替わりにはそれがありませんでした。
 特別の組織も設けられず、宮内庁の職員は日常の業務をこなしながら、併行して御代替わりに関する仕事に従事することになりました。詳細な記録が作られなかったのはそのためです。職員は正直、ひたすら眠りたいという思いをこらえつつ、毎日午前様の状態が続きました」

 制度も作られず、特別の組織もない。そのため官僚たちは、御代替わりという国家の重大事について、眠い目をこすりつつ、関わらざるを得なかったのでした。

 どうしてそういうことになったのでしょうか。

 後者については、こうです。

「即位礼の10日後に大嘗祭が行われるという日程も、再考する必要がありそうです。
 昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐(せいひつ)が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです。
 即位礼と大嘗祭とを、もっと期間を空けるべきだ、と民俗学者の柳田国男が書いているのを読んだことがあります」

 なぜ「10日後」なのでしょうか。何か、決まりがあるのでしょうか。以前はどうだったのでしょうか。

 いずれも改めるべき点があるのなら、大胆に改めるべきです。過去はどうだったのか、少し考えてみたいと思います。
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父子にあらざれば「上表の儀」あり──一条兼良『代始和抄』で読む譲位の儀礼 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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父子にあらざれば「上表の儀」あり
──一条兼良『代始和抄』で読む譲位の儀礼
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 報道によれば、政府は今上陛下の退位に伴って、退位の儀式を執り行うことを検討しているようです。近代以前の古式を研究しているとも伝えられます。

 その一方では、退位の儀式で声明文が読み上げられることについて、内閣法制局が難色を示しているとの報道もあります。天皇の地位は国民の総意に基づくこと、天皇は国政に関する権能を有しないことを、憲法が定めているからです。

 もともと陛下の御発案から法制度を変えることは違憲の疑いがぬぐえず、今更の感がありますが、それはともかくとして、過去にはどのような儀礼が行われたのでしょうか。

 ここでは一条兼良の『代始和抄(だいはじめわしょう)』を読んでみたいと思います。兼良は博識で知られる室町時代の公卿で、『代始和抄』は即位大嘗祭に関する解説書です。

 国会図書館には『代始和抄』(写)が所蔵されており、デジタルコレクションで見ることができます。「渡邊千秋蔵書」の朱印が押されていることからすると、宮内大臣渡辺千秋の関係者が寄贈したのでしょうか。

 渡辺千秋は代々、諏訪高島藩主に仕えた散居武士、つまり城下ではなくて在郷の村に住んだ下級藩士の出のようで、生家は「現存する武家住宅」として、岡谷市に保存されています。当メルマガで何度も取り上げてきた渡邉允元侍従長は千秋の曾孫だそうです。

 以下は『代始和抄』の冒頭、「御譲位事」「父子譲国」の引用です。本文は国文学者の赤堀又次郎が大正の即位大嘗祭について詳述した『御即位及大嘗祭』(大正3年)の巻末に添えられたものに依拠し、適宜、編集し、読みやすくしました。

 赤堀によれば「御即位および大嘗祭の儀式を記したる古書のなか、その詳なることは貞観儀式に超えたるものなく、簡にして要を得たるはこの代始和抄に及ぶものなし」とのことです。

 国会図書館所蔵『代始和抄』(写)と赤堀『御即位及大嘗祭』では、文章の細部に何点か相違があり、その場合は国会図書館所蔵本を採りました。

 要点をいえば、父子継承の場合とそうでない場合では異なり、父子継承でない場合は「上表の礼」が行われ、父子継承の場合は儀式が行われなかった。ただ、後冷泉天皇の場合は儀式が行われた、と兼良は書いています。

 原文をお読みになりたい方は、国会図書館デジタルコレクションでどうぞ。両方ともネット上で読めます。


『代始和抄』

御譲位の事

 父子にあらずして受禅のときは、皇太子参上して、椅子(いし。平安期、宮廷の座具)につきて上表の礼あり。

 天慶9(946)年、村上天皇の、御兄・朱雀院の御譲位を受けたまふとき、上表、揖譲(ゆうじょう)の儀あり。その後、安和2(969)年に、円融院は、冷泉院の御譲を受けたまひ、寛弘8年に三条院の、一条院の御譲を受けて位につきたまふとき、みなこの礼ありしなり。

 幼主のときは、揖譲の礼なし。長和5(1016)年、後一条院の、三条院の御譲を受けたまふときは、後一条院9歳なり。幼主たるにより、この礼なし。

 そもそも承元4(1210)年、順徳院の、土御門院の御譲を受け践祚(せんそ。皇位の継承)ありしとき、順徳院14歳にてましまししかば、上表の儀式あるべきに、上皇・後鳥羽院の仰せによりて、その儀なかりしをば、後世もって難じはべりしことなり。

 父子譲国のときは、子たる道、よろづ父の命を背くべき理なきによりて、義譲のこと、無し。幼主、成人によらざるなり。

 しかるに、寛徳2(1045)年に、後冷泉院の受禅は、父帝・御朱雀院より伝へたまひしかば、揖譲の義(儀)あるべからざるに、上表の義ありし。これまたしかるべからざる由、その沙汰ありけり。

 御譲位のときは、警固、固関(こげん)、節会、宣制、剣璽渡御(けんじとぎょ)、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり。

 御譲国は天子の重事、世の変わり目たるによって、非常を戒めんために、警固、固関といふことをまづ最前におこなはるるなり。

 警固といふは、あるいは兼日(前日までに)、あるいは当日に、上卿、座に着きて、六府(左右近衛、左右兵衛、左右衛門)の将佐を召して、「司々固め守りてまつれ」と仰すれば、将佐、称唯(ををとまを。いしょう)して退く。これを警固と名づくなり。警固は譲位に限らず、毎年の賀茂祭以下、…(脱字)…とあるとき行はるることなり。

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《再掲》 大嘗祭は「稲作中心」社会の収穫儀礼か?  ──検証・平成の御代替わり 第7回 [御代替わり]

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《再掲》 大嘗祭は「稲作中心」社会の収穫儀礼か?
 ──検証・平成の御代替わり 第7回
(「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン2011年10月8日号から)
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 政府関係者の著書や政府・宮内庁の公式記録をもとに、平成の御代替わりを検証しています。今日は最終回、大嘗祭について、です。


▽1 宮内庁内で本格化した検討

 宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)をもとに、昭和天皇崩御後の政府・宮内庁内の出来事をあらためて、時系列で追ってみます。

平成元年2月24日、葬場殿の儀、大喪の礼が終了しました。宮内庁の記録にはどういうわけか、言及されていませんが、もちろん陵所の儀も行われました。

同年4月16日、山陵百日祭の儀。

同年4月17日、山陵起工奉告の儀。このあと、宮内庁内で大礼に関する検討が本格化しました。

同年6月29日、内閣に即位の礼検討委員会が設置されました。委員長は内閣官房副長官(事務)でした。検討の過程で、内閣官房、内閣法制局、宮内庁の三者による実務レベルの協議が随時行われました。

同年7月3日、内閣の即位の礼検討委員会設置に伴い、宮内庁内に大礼検討委員会が設置されました。委員長は宮内庁長官、副委員長は宮内庁次長、侍従長、皇太后宮大夫、東宮大夫、式部官長でした。7月に2回、8月、9月に各1回開かれました。

 即位の礼は平成2年度に予定されています。そのため、平成元年8月末の平成2年度予算概算要求段階で、予算措置をどう講ずるかが問題となりました。(今上天皇の退位は来年暮れと伝えられます。即位の礼は再来年秋と考えられます)


▽2 年末の予算編成までに方向付けが必要だった

同年9月26日、内閣に即位の礼準備委員会が設置されました。委員長は内閣官房長官、委員は内閣法制局長官、内閣官房副長官(政務と事務)、宮内庁長官でした。検討委員会は廃止されました。

 即位の礼準備委員会は9月に1回、11月に4回、12月に2回、開かれました。11月の会議では、15人の参考人から意見が聴取されました。

同年9月26日、内閣の即位の礼準備委員会設置に伴い、宮内庁に大礼準備委員会が設置されました。委員長は宮内庁長官、副委員長は宮内庁次長、侍従長、皇太后宮大夫、東宮大夫、式部官長でした。大礼検討委員会は廃止されました。

 宮内庁の大礼準備委員会は12月に3回開かれました。

同年12月21日、内閣の第7回即位の礼準備委員会で、「即位の礼」、大嘗祭の挙行などについて、検討結果がまとめられ、臨時閣議で内閣官房長官から報告され、口頭了解されました。

 即位の礼正殿の儀、祝賀御列の儀、饗宴の儀が、平成2年秋に、国事行為として行われる。大嘗祭については、国事行為として行うことは困難であり、皇室の行事として行われる。その場合、大嘗祭は公的性格があり、費用は宮廷費から支出することが相当と考える、ことなどがその内容でした。

同年12月21日、宮内庁の大礼準備委員会は、即位の礼、大嘗祭、そのほか関連の儀式行事について、検討結果をとりまとめました。

 大嘗祭については、内閣の即位の礼準備委員会が検討した結果、大嘗祭は国事行為として行うことが困難とされているため、皇室行事として皇室の伝統に従い、先例などを斟酌して行うことが適当だとされました。

 こうして平成元年末に即位礼・大嘗祭に関する骨格ができあがりました。平成元年末の予算編成までに、内閣で一定の方向付けをすることが必要だった、と『平成大礼記録』は説明しています。(報道では、今上陛下の退位に伴う次の御代替わりは来年12月と伝えられています。即位の礼・大嘗祭の執行は再来年の秋ということであり、おそくとも来年末の予算編成までに即位大嘗祭正常化の議論を確定させておく必要があります。践祚を含めての議論なら今年末までに議論を進めなければなりません)


▽3 稲作中心社会に伝えられてきた収穫儀礼

 大嘗祭について、宮内庁の『平成大礼記録』は次のように説明しています。

「大嘗祭は、稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇陛下が即位の後、はじめて、大嘗宮において、悠紀主基両地方の斎田から収穫した新穀を、皇祖および天神地祇にお供えになって、みずからもお召し上がりになり、皇祖および天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である」

 前回、ご紹介した内閣の『平成即位の礼記録』に記録されている、内閣の即位の礼準備委員会がとりまとめ、平成元年12月21日に閣議口頭了解された検討結果の説明とほとんど同じです。

 違いは「天皇」が「天皇陛下」に、「新穀を」が「悠紀主基両地方の斎田から収穫した新穀を」に変わり、末尾の「それは、皇位の継承があったときは、かならず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世一度の重要な儀式である」がけずられた程度です。

 このような説明は、平成の大礼に掌典職掌典、祭事課長として奉仕したという皇學館大学名誉教授で神道史学者の著書にも共通します。

 つまり、大嘗祭を「稲作農業を中心としたわが国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」というとらえ方です。


▽4 粟の存在に言及せず

 宮内庁の『平成大礼記録』は、大嘗祭で陛下がいつ、どこで何をなさるのか、なさったのか、じつに克明に、分刻みで記録しています。折口信夫風のオカルトチックな通俗論を払拭したかったのかも知れませんが、秘儀とされる大嘗宮内陣での儀礼については、さすがに「次に神饌を御親供になる。次に御拝礼の上、御告文をお奏しになる。次に御直会」としか書いていません。

 一方、名誉教授の著書では、御飯筥の米御飯(おんいい)、粟御飯などの神饌を、御親(おんみずか)ら竹製の御箸でとられ、供せられる。次に御告文を奏され、御直会(なおらい)で天皇が御親ら、米御飯、粟御飯をおとりになり、聞こし召される、というふうに、一歩踏み込んで説明しています。

 注目したいのは、粟御飯の存在です。稲作中心社会の収穫儀礼なら、米だけで十分です。実際、伊勢神宮では1年365日、稲の祭りが行われています。けれども陛下の祭りには粟が登場し、大嘗祭では粟の新穀が米とともに供えられ、陛下が食されます。ところが、宮内庁は言及せず、神道史学者の著書には十分な説明がありません。

 粟の神饌による共食儀礼は重要です。大嘗祭は天皇が即位後に行われる一世一度の大がかりな新嘗祭ですが、昭和天皇の祭祀に携わった元宮内省掌典・八束清貫(やつか・きよつら)氏によれば、「このお祭り(新嘗祭)にもっとも大切なのは神饌である。なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊いた米の御飯および御粥、粟の御飯および御粥と、新米をもって1か月余を費やして醸造した白酒・黒酒(しろき・くろき)の新酒である」と書いています(八束「皇室祭祀百年史」)。

 実際の神事において、米と粟の位置づけに優劣はないようです。ところが、政府も宮内庁も「稲作中心社会の収穫儀礼」としか説明していません。政府も宮内庁も、大嘗祭の本質に関する議論を欠いたまま、平成の即位礼、大嘗祭を挙行したのではないのでしょうか。


▽5 畑作民と稲作民を統合する象徴的儀礼

 天皇は神々の前に米と粟を捧げ、ひたすら国と民のために祈り、みずから食されます。なぜこの米と粟の神事が、国家と国民の安寧を祈ることになるのでしょうか。

 日本の宗教伝統では、食を神に捧げるだけでなく、食事をともにします。神の前でへりくだり、身を清め、神に接近し、神人共食の儀礼によって命を共有し、一体化し、神意を受け継ぎ、衰えた命を新たな再生させる、という考えです。命の儀礼です。

 人間は誰しも食によって命をつなぎます。自然の恵みを摂取し、エネルギーに変え、血肉とします。ものを食べなければ人はかならず死を迎えます。しかし単純に「自然のものすべてが体にいい」というわけではありません。自然界で命をつなぐことは案外、容易ではありません。感謝と同時に畏れの感情も伴う日本人の自然観には、深い知恵の蓄積が感じられます。

 神から与えられた主食の穀物。その初穂を神に捧げるのが新嘗祭ですが、日本にはかつて粟の新嘗祭もありました。「常陸国風土記」に「新粟の新嘗」「新粟嘗」という言葉が登場します。

 神戸女学院大学の松澤員子先生(文化人類学)によると、台湾の先住民にとって、粟は大切な作物だったようです。彼らは畑作民族で、粟のほかに稗や稲、芋を栽培していた。粟は儀礼文化には欠かせない、とくに重要な作物だった。人々は粟の神霊を最重要視し、粟の酒と粟の餅とを神々に供えた。酒は処女や巫女が噛んでつくった、とリポートしています(松澤「台湾原住民の酒」=山本紀夫、吉田集而編著『酒づくりの民族誌』所収)。

 日本列島に暮らす畑作民たちには、南方の国々に連なる粟の食儀礼が伝えられていたのではないかと想像されます。

 それならなぜ、天皇は米のみならず、粟の神事を行うのか。

 現代を代表する民俗学者で、稲作民俗、畑作民俗の両方を研究する野本寛一・近畿大学名誉教授は、私の取材に対して、「米の民である稲作民と粟の民である畑作民をひとつに統合する象徴的儀礼として理解できるのではないか」と指摘しています。

 日本は「稲作中心社会」どころではありません。稲作民もいれば、畑作民もいた。山の民も海の民もいたのです。人々の暮らしは多様で、それぞれに独自の文化があった。そのような国民を、多様なるままに統合し、社会の平和を保ち、暮らしを安定させるのが天皇の役割であり、歴代天皇は政治権力や軍事力によらず、公正かつ無私なる祈りによって実現しようとしてきた。そのための米と粟の食儀礼ではないでしょうか。


▽6 天皇の祭祀は「宗教的行為」なのか

 天皇の祈りは皇祖神のみならず、国民が信じる多様な神々に対して捧げられます。価値の多様性を認め、多様性のなかの国と民の統一を図る多宗教的、多神教的文明の中心が天皇であり、天皇の祭りなのでしょう。実際、世界には民族や宗教の違いから対立し、分裂する国が多いなかで、日本の社会は世界に類例がないほど長く、平和的、共生的に続いてきたのです。

「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」(モーセの十戒)と教える一神教世界では、神は絶対です。神の教えは生活すべてを律します。異端を排斥し、異教徒を殺戮し、血で血を洗う壮絶な内部的抗争が繰り広げられるのはそのためであり、その悲劇が近代の政教分離原則を生んだ要因です。

 けれども日本では、天皇の祭祀こそが信教の自由を保障しています。古代において仏教導入に積極的な役割を果たしたのが皇室であり、近代の皇室はキリスト教の社会事業を深く理解され、支援されました。宗教的共存こそ、古来、天皇の原理です。

 ところが、平成の御代替わりでは、政府も宮内庁も、天皇の祭祀が逆に国民の信教の自由を侵すと信じ込み、皇室の伝統に介入し、国家の無宗教儀礼と皇室の宗教的行事とを分離するなど、一連の儀礼を非宗教的に改変させました。

 憲法学者の小嶋和司・東北大学教授(故人)が指摘したように、現行憲法は宗教の価値を敵視するのではなくて、尊重しているはずです(小嶋『憲法解釈の諸問題』木鐸社、昭和60年)が、政教分離原則に字義通りにこだわった平成の御代替わりは、国民の信教の自由を保障する目的を外れて、まるで宗教を信じない自由を国家が援助、助長、促進する効果を生むという最大の矛盾を侵したのではないでしょうか?

 そもそも「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と憲法第20条が規定する「宗教的行為」に、天皇の祭祀は該当するのでしょうか?

 皇室典範を立案した井出成三・元法制局次長は、「皇位の世襲と宮中祭祀」(昭和42年)で、「いわゆる布教伝道と切り離された祭祀が、果たして憲法いうところの宗教であるのであろうか。……宮中においては、ほとんど純粋に祭祀に限定せられているといってもよいであろう」と疑問を投げかけ、さらに概要、次のように述べています。

 ──宮中祭祀が憲法に規定される宗教ではない、という解釈が一般的に納得されるなら、国の行事と皇室行事との、事実に即しない両分論に陥らず、古来の宮中祭祀の形式による大嘗祭その他を国の行事として行い、国費を支出し、総理大臣以下が参与参列することについて、憲法上の疑点を検討する必要がないことは当然である。

 宮中祭祀が一般宗教と同列だと考えるとしても、皇位の世襲は古来、一定の形式を採ってきた。憲法はそのあり方をそのまま内包して、天皇制を確言しているのであって、宗教的色彩があるとしても、政教分離の特例として解されるべきである。国の行事として行う場合、祭祀形式を一掃しなければならないと考えることは、憲法の真意を究めないものである。

 読者の皆さまはどうお考えですか。(この項、終わり。引用は適宜編集しています)


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《再掲》政府は戦後の重大な歴史にフタをしている  ──検証・平成の御代替わり 第6回 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン2011年10月5日号の再掲です
新たな知見を補足しています


 政府の公式記録をもとに、平成の御代替わりを検証しています。前々回は踐祚(せんそ)、前回は大喪儀を振り返りました。今回は「即位の礼」です。

▽1 皇室典範第25条が法的根拠

 内閣総理大臣官房が編集・発行した『平成即位の礼記録』(平成3年)は、「即位の礼」が国の儀式として行われた法的根拠を、皇室典範第24条「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」にあると説明しています。

 憲法第7条に列挙された天皇の国事行為の最後、10番目に「儀式を行うこと」とあり、法体系の整合性からいって、そのように考えられたということでしょう。

 けれども「即位の礼」の中身についての明文的規定はありません。そこで、憲法の趣旨に沿い、皇室の伝統を尊重して、内閣の責任において、決定された、と説明されています。

 そのため、内閣では段階的に委員会が設けられ、「即位の礼」の中身について、検討がなされたのですが、既述したように、昭和天皇崩御の当日に行われた「剣璽(けんじ)等承継の儀」、二日後に行われた「即位後朝見の儀」については、「即位の礼」の一環として、すでに行われていました。2つの儀式は内閣の独自の判断で行われたわけです。

 昭和天皇崩御から半年を経た、諒闇中の平成元年6月29日、「即位の礼」について、事務レベルで調査・検討する「即位の礼検討委員会」が設置されました。委員長は石原信雄内閣官房副長官(事務)、副委員長は工藤敦夫内閣法制局長官、宮尾盤宮内庁次長でした。

 同じ日に、宮内庁では藤森昭一宮内庁長官を委員長とする「大礼検討委員会」が発足しました。

 約3カ月後、9月26日に「即位の礼準備委員会」が内閣に設置され、「即位の礼」に関する協議が始まりました。委員長は森山眞弓内閣官房長官で、工藤内閣法制局長官、藤本孝雄内閣官房副長官(政務)、石原内閣官房副長官(事務)、藤森宮内庁長官が委員となりました。

 同じ日に宮内庁では、宮内庁長官を委員長とする「大礼準備委員会」が設置されています。

「即位の礼準備委員会」は11月から4回にわたり、儀式のあり方などについて、大嘗祭(だいじょうさい)も含めて、曾野綾子氏、岡田精司氏、上山春平氏など15人の参考人の意見を聴取しました。

▽2 興味深い反対派の意見

『平成即位の礼記録』には、聴取された意見が10ページにわたり、事務局によるメモ書きで収録されています。

 とくに反対派と目される意見には興味深いものが多々あります。実証的に、あるいは理論的に克服すべきヒントが示されているからです。いくつかを拾ってみます。

「戦前は神話に天皇の根拠があったが、現在の憲法は社会契約的発想に立っており、天皇の存在根拠は憲法にしかない。憲法に定められた以外の役割、機能をいっさい持つわけにはいかない」

「登極令(とうきょくれい)は本来の即位儀礼の姿を復元したというが、儀場を皇居から遠隔地とし、即位礼と大嘗祭を連続の行事とし、中国風を純神道様式にし、御帳台(みちょうだい)が立てられ、総理が祝詞(のりと)を奏上し、萬歳の大声を上げ、御禊は復活させず、大饗は分立して別の行事となり、親祭(しんさい)が加わるなど、伝統の継承ではなく、古来の儀礼や場所を材料に用いながら、新しい儀礼を創造したもので、伝統行事ではなく、大正・昭和の2回しか実施されていない」

「大嘗祭は中断されたこともあり、きちんと行われたのは近々190年のことであるので、皇位継承に伴う不可欠の儀式であるとはいえない」

「現行憲法下においては、皇室典範第24条で『即位の礼』についてのみ定め、明治憲法下の旧皇室典範、旧登極令による踐祚と大嘗祭に関する規定はすべて廃止されたものであるから、大嘗祭は『即位の礼』には含まれない。また、現行の皇室典範制定に際して、当時の金森徳次郎国務大臣が『即位の礼』の予定しているところは信仰に関係のない部分であり、大嘗祭は含まれない旨、答弁している」

「諸外国の国家と教会の関係が緩やかなのに対して、日本の政教分離原則が厳格なのは、人々を弾圧する側に荷担したのが神道の流れだという歴史的認識による」

「即位礼は旧登極令などに準拠して行われるべきではなく、高御座(たかみくら)の使用、剣璽の奉安、大饗は憲法の主権在民原則、政教分離原則から避けるべきであり、また、天皇のお言葉、それに対する内閣総理大臣の奉答などについても、憲法にふさわしい内容のものでなければならない」

「『賢所大前の儀』は宗教の問題だから、国はまったく関知すべきではない」

「大嘗祭は宗教的儀式であるから、公務員がこれに参列することは国の宗教的活動に当たり、違憲である」

 日本の歴史の実証的研究の深まり、天皇統治に関するより深い探究などが必要なことが、あらためて分かります。

▽3 閣議で了解された3つの儀式

 平成元年12月21日、即位の礼準備委員会は約3か月間の検討結果をまとめ、「即位の礼」および大嘗祭の挙行について、閣議に報告し、了解されました。

「即位の礼」については、喪明け(諒闇(りょうあん)明け)後、(1)「即位礼正殿の儀」=即位を公に宣明し、内外の代表が即位を寿ぐ儀式、参列者は約2500名、(2)「祝賀御列の儀」=即位礼正殿の儀のあと、広く国民に即位を披露され、祝福を受けられるためのお列、宮殿から赤坂御所まで(3)「饗宴の儀」=即位を披露され、祝福を受けられるための饗宴、出席者は約3400名、4日間──が行われ、総理府本府が担当することになりました。

 このうち(2)のパレードは新例でしたが、多くの国民から歓迎されました。

 準備委員会は大嘗祭について、意義と位置づけなどを検討しています。

 意義については、次のようにまとめられています。

「大嘗祭は、稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇が即位の後、はじめて、大嘗祭において、深刻を皇祖および天神地祇にお供えになって、みずからお召し上がりになり、皇祖および天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。それは、皇位の継承があったときは、かならず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世一度の重要な儀式である」

 したがって、「趣旨・形式などからして、宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定することができず、また、その態様においても、国がその内容に立ち入ることは馴染まない性格の儀式であるから、大嘗祭を国事行為として行うことは困難である」として、皇室の行事として位置づけられることになりました。

 この大嘗祭の意義と位置づけに関する理解には大きな問題がある、と私は考えていますが、それは次回、触れることにします。

▽4 歴史から消えた文書課長の依命通牒

 さて、政府は「即位の礼」を行うことの根拠を皇室典範第25条に置いています。そして、その中身については、明文的規定がないということで、内閣に委員会が段階的に設置され、検討されたのでした。

 けれども、これには大きな歴史の見落としがあります。政府は重大な史実にフタをしています。

 当メルマガの読者ならすでにお気づきのように、昭和22年5月、日本国憲法が施行されたのに伴い、戦前の皇室令が「廃止」されましたが、宮内府長官官房文書課長名の依命通牒、いまでいう審議官通達で、「従前の例に準じて事務を処理すること」とされました。

 18か条の本則のほかに、附式の第1編で「践祚の式」を、第2編で「即位礼および大嘗祭の式」を事細かに定めていた登極令の「中身」は、少なくともこの時点で生きていたことになります。

『平成即位の礼記録』は、準備委員会に参考人として呼ばれた反対派の識者が皇室典範改正当時の議論に言及したことについて、記述していますが、皇室典範改正の議論が行われたのは依命通牒の前年でした。このときの議論はさらに興味深いものです。

『皇室典範』(日本立法資料全集1、平成2年)によると、21年12月5日、第91帝国議会では皇室典範案について、第一読会が行われました。議事速記録には即位踐祚に関する議論がなされたことが記録されています。

 吉田茂首相の提案理由説明のあと、発言したのは吉田安議員で、皇位継承資格、女帝問題などに続いて、現行典範には踐祚即位の章が設けられているのに、改正典範案はあっけない規定しかない、これで完全といえるか、質問し、これに対して金森徳次郎国務大臣が、次のように答えています。長くなりますが、関係箇所をすべて引用します。

「踐祚即位につきましての特別なる章を設けなかったのはどういうのであるか、というお尋ねでありましたが、踐祚および即位に関します規定は、現行の皇室典範には御説のごとく、3か条、規定があるわけであります。

 そうしてこれに基づきまする諸般の制度は、登極令という皇室令のなかに定まっておりまするが、これを分解してひとつひとつに考えてみますると、踐祚に関する規定、すなわち天皇崩御になりますれば、皇嗣すなわち踐祚を遊ばされる、という規定が1つでありまして、これは先にもご指摘になりましたように、文字こそ違っておりまするけれども、ほとんどそのままに今回の改正案の中に入っておるのであります。

 また、即位の礼を行わせられ、大嘗祭を行わせられるというふうの規定は、これは即位の礼に関しましては、今回制定せられまする典範のなかに、やはり規定が設けられてありまして、事実において異なるところがございませんので、大嘗祭などのことを細かに書くことが一面の理がないわけではありませんが、これはやはり信仰に関する点を多分に含んでおりますがゆえに、皇室典範のなかに姿を現すことは、あるいは不適当であろうと考えておるのであります」

▽5 これは立法者が予定した「即位の礼」ではない

 金森答弁から浮かび上がるのは、次の3点です。

(1)改正案には「踐祚」という文字は消えたが、中身に変更はない、と少なくとも金森大臣は考えていた。したがって平成の御代替わりに行われたような、「即位の礼」に「踐祚」の式の一部を含める考えはなかったこと

(2)少なくとも即位礼について、中身について変更はない、と考えられていたこと

(3)大嘗祭についての記述がないのは、信仰面を含むことから明文化は不適当と考えられたこと。つまり、大嘗祭の挙行が不適当だと考えられたわけではないこと

 こうした国会審議を経て、皇室の法律である皇室令ではなくて、国会が定める法律としての皇室典範は、22年5月3日、日本国憲法とともに施行されました。

 前日に皇室令は廃止されましたが、このとき宮内府長官官房文書課長名で出された依命通牒では、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」とされました。

 50年8月の宮内庁長官室会議でこの依命通牒が人知れず反故にされるまで、この通牒が生きていたのであり、踐祚、即位礼、大嘗祭に関する皇室の伝統は続いていたのです。(その後の国会での質疑によると、依命通牒を廃止する手続きが取られた事実はないという。第4項「前項の場合において、従前の例によれないものは、当分の内の案を立てて、伺いをしたうえ、事務を処理する」をあわせ読んだ結果、前例を踏襲しないことが長官室会議で判断され、祭祀その他の大幅な変更が行われるようになったものらしい。なぜこのときにわかに変更が行われたのかは歴史の謎といえる)

 平成2年1月19日の閣議は、皇室典範を法的根拠として、同年11月に「即位の礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」の3つの儀式を「即位の礼」として挙行することを決定しましたが、皇室典範の立法者たちはそのような「即位の礼」を予定していなかったといえます。

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検証・平成の御代替わり ──石原信雄内閣官房副長官の証言を読む その1 [御代替わり]

 朝日新聞電子版は4月11日、「政府は、天皇陛下の退位と皇太子さまの新天皇即位を、2018年12月中に行う方向で検討に入った」と伝えました。この記事のテーマは改元で、皇位継承と改元の日程をずらし、翌年元旦に元号が改まるという日程が目下、検討されているというのです。

 となると、記事が伝える改元ばかりでなく、皇位継承(古来の用語では「践祚(せんそ)」)に始まる一連の御代替わりの諸儀礼の日程も固まりつつあるいうことになります。日程に関してはこれまでも伝えられてきましたが、報道が正しいとすれば、践祚は来年の暮れ、即位の礼・大嘗祭は再来年秋というスケジュールになりそうです。

 いまのままではさまざまな不都合が指摘された前回の御代替わりがそのまま踏襲されることでしょう。これに対して少しでも改善を求めるのなら、私たちに与えられた時間はきわめて限られています。

 来年度予算の財務省原案が策定され、閣議決定されるのは今年12月です。遅くともそれまでに、問題意識の共有を進め、正常化の気運を巻き起こし、議論を高め、国民的合意を得る必要があるでしょう。ということは、時間的猶予はせいぜい半年ほどしかないということになります。まさに切羽詰まっています。

 ということで、前回の御代替わりで何が問題だったのか、あらためて考えたいと思います。そのため6年前2011年秋に掲載したメルマガの本論部分を若干の補足を加えつつ、再掲したいと思います。


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 検証・平成の御代替わり
   ──石原信雄内閣官房副長官の証言を読む その1
(「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン2011年9月25日)
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 平成の御代替わりは徹底して政教分離問題がメインテーマだったように思います。政府は憲法の政教分離原則を字義通りに解釈し、徹頭徹尾、国の儀式から宗教性を排除しようとしていました。


▽1 キーマンは石原信雄官房副長官

 キーパーソンのひとりは石原信雄官房副長官でした。

 当時の竹下登内閣の内閣官房副長官(事務方)が前任の藤森昭一氏から、前自治事務次官の石原氏に代わったのは、昭和天皇がガン治療のために開腹手術を受けられた昭和62(1987)年です。

 一方、藤森氏は翌年、宮内庁次長となり、さらに長官に昇格し、宮内庁トップとして御代替わりを指揮しました。

 石原氏の著書『官邸2668日──政策決定の舞台裏』(1995年)によれば、事務引き継ぎの最優先事項は、御代替わりの際の元号問題と諸行事の円滑な執行について、あらかじめ準備しておくことでした。

 藤森氏は石原氏に「もろもろの行事を手順よく滞りなく行うための準備がもっとも重要だ」と語りましたが、このときはまだ過去の先例を元にして、現行憲法下でどの程度のことが可能で適当かという第一次試案程度の準備しかありませんでした。

 63年春から陛下は食欲が落ち、体重の減少が見られるようになりました。8月15日の全国戦没者追悼式で、昭和天皇は式台の前まで手すりを伝って進まれました。その状況を見て、石原氏は御体調のきわめて厳しいことを実感したといいます。

 9月19日、陛下は突然、吐血されました。石原氏はただちに的場内政審議室長、古川貞二郎・首席参事官を呼び、元号問題などの準備に取りかかりました。官邸内では竹下首相、小渕恵三官房長官、的場、古川各氏らが御代替わり関連の諸行事について、夜中に協議していました。

 石原氏は1年間かけて準備してきたさまざまなシミュレーションの総点検を行いました。そのころ石原氏の相談相手は「先輩」の後藤田正晴氏だった、と石原氏は振り返っています。石原氏は後藤田氏を「今の憲法理念を、あまり右にも左にも寄らず、適正に理解し、それを現実に政治・行政のうえで実行している人」と最大級に評価しています。

 64年1月7日朝、111日間の壮絶な闘病の末、昭和天皇は崩御されました。竹下内閣は昭和天皇の崩御と皇太子殿下の皇位継承、元号を「平成」と改めることなどを告示し、また剣璽等承継の儀、即位後朝見の儀を国の儀式として行うことなどを閣議決定しました。

 石原氏にとって、元号制定に次いで、苦慮したのが、政教分離問題でした。とくに大喪の礼について、宗教儀式と国事行為とをどのように線引きするか、意見調整することが石原氏に課せられたのでした。


▽2 非宗教的に改称された践祚(せんそ)の式

 石原氏が著書のなかで、政教分離問題に関して例示しているのは、(1)皇位継承後の践祚の儀式、とりわけ剣璽渡御の儀(剣璽等承継の儀)について、(2)御大喪における葬場殿の儀の、とりわけ鳥居の設置について、(3)大嘗祭の挙行について、の3点です。

 今日は(1)について、見てみます。

 石原氏の著書には言及されていませんが、皇位継承の諸儀式について規定する旧登極令(明治42年)によると、大行天皇崩御のあと、新帝は皇位の継承のため、(一)賢所の儀、(二)皇霊殿、神殿に奉告の儀、(三)剣璽渡御の儀、(四)践祚後朝見の儀、の四儀式からなる、践祚(せんそ)の式を行うことになっていて、これらは国務とされました。

 しかし、平成の御代替わりでは、一連の儀式が2つに区分され、非宗教的と見る、(三)(四)だけが国の儀式として行うこととされ、とくに「剣璽渡御の儀」は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称されました。

 石原氏によれば、この剣璽等承継の儀は、「実行段階で、ずいぶん意見があった」ことの1つのようです。

 石原氏の著書にはまったく言及がありませんが、そもそも剣璽には、三種神器という呼び名が端的に示しているように、神話的ルーツがあります。

 古来、天皇は天照大神の血統を受け継いだ子孫であり、大神が地上に現れた姿と信じられました。「日本」「天皇」を古代、はじめて制度的に確定した「大宝律令」の「公式令(くじきりょう)」は、「明神(あらみかみ)と御宇(あめのしたし)らす日本(ひのもと)の天皇(すべら)」と規定していますが、こうした日本の律令的君主制の由来を説くのが、神々の系譜を描いた、古事記・日本書紀の神代巻のテーマなのだ、と哲学者の上山春平先生は説明しています。

 記紀神話では、天照大神が天孫降臨に際して、日本は大神の子孫が統治する国であること、三種神器の1つである神鏡を祀るべきこと、などを命じられたと述べています。

 三種神器のうち、宮中三殿の賢所に祀られる神鏡以外の剣と勾玉を剣璽と称し、皇位継承に際して行われる剣璽渡御の儀は、神社の祭礼で御輿が渡御するのと同様、剣璽は天皇とともにみずから動かれる、という伝統的な考え方に基づいています。平安時代以降、皇位継承の儀式とされた、千年の歴史を有する伝統儀礼を、石原氏らはまさに非宗教的に換骨奪胎したのです。

 その理由として、石原氏は、この儀礼を「剣と勾玉と御璽を引き継ぐ儀式」と非宗教的に解説し、「御璽(斎藤吉久註記。国璽も?)についてはあまり異論がなかった」が、「剣と勾玉を承継する儀式を国事行為で行うのは、政教分離の原則からおかしいじゃないか」と意見があった、として、そのうえで、「新天皇の即位のもっとも大事な行事だから、名称を今風に改め、きちんと行った」と自賛しています。

 けれども、「大事な行事」だというのなら、一連の儀式をバラバラに解体し、「名称を今風に改める」べきでしょうか? 宗教性を抜いた代わりに、御璽、国璽の承継を加えたことが、「きちんと行った」ことになるのでしょうか?


▽3 失われた「践祚」と「即位」の区別

 石原氏によると、朝見の儀についても、反対意見が出たといいます。

 朝見の儀というのは、石原氏の説明では、「新天皇の即位後すぐに総理大臣がご挨拶する儀式」と、総理大臣が行う儀式のようになっていますが、不正確です。宮内庁がまとめた公式記録『平成大礼記録』(平成6年)では、「即位された天皇陛下が、皇后陛下とともに御即位後初めて公式に三権の長をはじめ国民を代表する人々と会われる儀式」と説明されています。

 ここにも名称の問題、というより概念上の問題が発生しています。つまり「践祚」と「朝見」です。

 まず、「践祚」について、です。旧登極令では「践祚後朝見の儀」でしたが、「即位後朝見の儀」と改められました。石原氏によれば、「昔通り践祚の儀式でやれ」という「強い意見もあった」ようです。

 改称の理由について、石原氏の著書には言及がありませんが、前記した宮内庁の『大礼記録』は「もともと践祚は即位と同義語であり、また、皇室典範制定の際、践祚を即位に改めた経緯がある」ので、と説明しています。

 しかし、この説明は正確とはいえないと思います。

 旧皇室典範は第2章に「即位践祚」の章がありましたが、敗戦直後の改正ではこれが無くなりました。(旧皇室典範では「第二章践祚即位 第十条天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」でしたが、現行の皇室典範は第四条「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と規定し、「践祚」が消えました)

 帝国議会での審議過程では、これに関する議論が行われています(『皇室典範』日本立法資料全集1、平成2年)。

 法制局次長などとして憲法制定、皇室典範改正などに関わった井出成三は、皇室典範の改正過程で、GHQは日本側の原案をほとんど無修正で「アプルーブ」した、「原案そのものがかなり、GHQの態度を予測して、強い摩擦をよけて作成されていた」からだと証言しています(井出『皇位の世襲と宮中祭祀──皇室典範立案者の手記』)。

 践祚とは皇位を継承することを意味します。桓武天皇の時代、践祚から日を隔てて即位式を行うようになり、貞観儀式の制定で両者は区別されるようになったといわれます。しかし戦後の混乱期に行われた皇室典範の改正はこの区別を反映できず、その後、日本政府は正常化を怠り、そして平成の御代替わりは践祚という用語と概念を完全に喪失させてしまったのです。


▽4 剣璽御動座が行われなかった

 次に「朝見」です。石原氏によれば、「天皇と臣下という感じで、主権在民の新憲法のもとでおかしいのではないか」という意見がずいぶんあったそうですが、「朝見の『朝』という字は、会う、顔を合わせるという意味なのだから、問題はないのではないか」ということで「予定通り行われた」とされています。

 君主主権か国民主権か、明治憲法か新憲法か、戦前か戦後か、とことさら議論を煽り立てるところに、むしろ混乱の原因がありそうです。

 朝見の儀ではより重大な変更がありました。かつては剣璽の御動座を伴っていたのですが、平成の即位後朝見の儀では行われなかったのです。石原氏の著書にはこれまた言及がありません。

 前掲の『平成大礼記録』は、剣璽御動座がなかったことの理由を、「昭和21年6月の(昭和天皇の)千葉県下の御巡幸以降、剣璽は御動座しないことが原則になっている」ことなどを勘案したためと説明しています。

 しかし、これはまったく理由になっていません。昭和21年以来、久しく行われていなかった剣璽御動座が、49年の伊勢神宮行幸に際して、28年ぶりに復活した歴史が無視されているからです。

 剣璽等承継の儀に剣璽御動座が伴わなかったのは、神代の時代、天孫降臨のときに皇祖天照大神から授けられたと信じられ、歴代天皇が継承してきた三種神器の持つ宗教性を、政府が忌避したのが真相ではないかと疑われます。

 石原氏は、次のように振り返ります。

「私がいちばん苦慮したことは、『新憲法の趣旨に反しない形で、いかにして伝統的な儀式というものを残すか』でした。政府部内でも『そんな伝統行事というものにこだわらずに、新憲法下の行事なのだから、憲法論争が起こるような儀式はぜんぶ省略してやったらいいのではないか』という意見もありました。しかし、竹下総理、小渕官房長官、そして私自身も、わが国の伝統を、憲法の許容する範囲でなるべく残したいと取り組んだ。当時、私は右からも左からもずいぶん批判を受けましたが、いま振り返ってみますと、新憲法のもとでそれなりにわが国の伝統儀式を残せたという意味で、『それなりにバランスのとれた葬場殿の儀であり、大喪の礼であった』と思っています」

 践祚の一連の儀式を解体し、概念も名称も中身も変えながら、「伝統を残した」といえるのか、「それなりにバランスがとれた」といえるのかどうか、私には残念ながら、強弁にしか聞こえないのですが、読者の皆さんはどう思われますか?(つづく)
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