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政府予算案で大嘗祭の準備は万全か ──宮廷費は6割増しだが、内廷費は増えず [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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政府予算案で大嘗祭の準備は万全か
──宮廷費は6割増しだが、内廷費は増えず
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 今上陛下の譲位を再来年平成31年の春に控え、先週の22日、関連予算を含む、来年度(30年度)宮内庁予算の政府案が閣議決定されたと伝えられます。
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 その概要は宮内庁のサイトに公開されており、誰でも見ることができますが、スムーズに御代替わりを迎えることができるのか、不安はないのでしょうか?


▽1 儀典関係費は2倍以上に

 政府予算案では、皇室の費用すなわち皇室費98億6000万円(前年度比36億4200億円増)と宮内庁の組織を運営するための114億6600万円(同2億4800億円増)を合わせて、213億2500万円(同38億9000万円増)が歳出予算として計上されています。

 皇室費の内訳は、天皇陛下ならびに内廷皇族(皇后、皇太子、皇太子妃)の御手元金である内廷費が3億2400万円(同増減なし)、各宮家の皇族に支出される皇族費が3億6400万円(同1億4900万円増)、皇室の御活動や皇室用財産の維持管理のため、内廷費以外の宮廷諸費に充てられる宮廷費91億7100万円(同34億9300万円増)となっています。

 誰が見ても明らかなのは、皇室費が前年度比で6割近くも急増していることです。増額分のほとんどは宮廷費で、いわゆる退位特例法の施行に向けた準備に必要な経費と説明されています。

 その内訳は、新侍従職・皇嗣職の準備に従事する職員等の人件費など「お支え関係」が1億7800万円、東宮御所や御仮寓所、秋篠宮邸の工事費など「お住まい関係」が17億3000万円、そして即位礼に用いられる高御座等の輸送・修理、装束、儀式用具など「儀式関係」が16億5300万円、計35億6000万円となっています。

 前年度比で6割方増加した宮廷費のうち、とくに増えたのは儀典関係費23億6500万円で、前年度より金額で16億1200万円、比率ではじつに214%増と、文字通り倍増しています。

 それだけ御代替わりに伴う重要な儀式が執り行われるということでしょうが、絶対に忘れてならないのは、この儀典関係費には御代替わりに関わる宮中祭祀の予算はまったく含まれないということです。


▽2 内廷費は定額制

 天皇の祭祀は「皇室の私事」であるという法解釈によって、関係する予算、すなわち掌典職の予算は、宮廷費ではなく、内廷費に含まれます。ところが、内廷費は平成8年度以来、3億2400万円に据え置かれたままです。

 それは、皇室経済法で、内廷費は「定額を毎年支出する」と定められているからです。

 以前、書いたように、天皇の祭祀に関わる掌典職の人たちが心配するのは、天皇一世一度の大嘗祭です。毎年、神嘉殿で行われる新嘗祭とは異なり、新たに大嘗宮を建て、大規模に斎行される大嘗祭はそれだけ人員も必要です。

 大嘗祭そのものについては、前回の先例を踏襲するのなら、関係予算は宮廷費から支出されますが、それ以外は別です。前回は、大嘗祭の前年の新嘗祭に7人を臨時に雇いあげ、本番に向けた予行練習を体験してもらうことになったようです。そのためには当然、予算が費用です。

 仮に1人月30万円として、9月から11月まで雇った場合、月210万円、3か月で630万円、ざっと1000万円弱の予算がかかる計算になります。けれども、内廷費定額制のもとでは、宮廷費のように臨機応変に予算を増やすことができません。

 前回の場合は、何しろ大嘗祭自体が内廷費で賄わなければならない最悪の事態も想定されていたぐらいでしたから、皇室では万が一に備え、以前からやり繰りをして、少しずつ積み立てを行っていたそうですが、いまはどうなのか。

 かといって、皇室経済法第4条第3項に基づき、皇室経済会議を開いて、「定額について変更」するというレベルの問題ともいいがたいのですが、それにしても20年以上も内廷費が据え置きなのは理解に苦しむところです。

 来年の新嘗祭に臨時祭員を参加させる予算がまったく確保できないとなれば、再来年の秋に予定される大嘗祭はぶっつけ本番で執り行わなければならないことになりますが、それで大丈夫なのか、とOBは心配するのです。


▽4 「退位の翌日に即位」の意味

 さて、蛇足ながら、以上のことに関連して、気になる情報を得ましたので、書き添えることにします。当メルマガで何度も言及している「退位の翌日に即位」とされている譲位の日程のことです。

 前々回も書きましたように、明治の皇室典範も、現行の皇室典範も、「天皇が崩じたときは、皇嗣が直ちに即位」というように規定し、空位を認めないことを明文化しています。当然のことです。

 この基本原則に基づけば、再来年4月30日に退位の儀式が行われ、この儀式をもって今上天皇が「退位」され、翌5月1日になにがしかの皇位継承の儀式をなさることにおいて「即位」されるという解釈なら、24時間の空位が生まれることになります。

 これは、崩御という事実の瞬間を皇位継承の区切りとする代わりに、譲位に関する儀式が行われる時間を「退位」「即位」の発生する日時と解しているわけですが、別の考え方もあり得ます。

 つまり、空位あるべからずという法の原則を遵守するなら、退位の儀式は行われるとしても、その事実にかかわらず、法的には今上天皇の「退位」は4月30日の午後11時59分59秒99をもってし、翌5月1日午前0時の瞬間に皇太子殿下が践祚(皇位継承)すなわち「即位」されると解釈するということです。

 法的な解釈としてはそれも可能なのですが、厄介なのは祭祀です。掌典職のOBがこれを指摘しています。


▽5 5月1日午前0時に賢所で御拝?

 旧登極令では、第1条に「天皇践祚の時は、すなわち掌典長をして賢所に祭典を行わしめ、かつ践祚の旨を皇霊殿・神殿に奉告せしむ」とあり、附式の第一編に、「賢所の儀」「皇霊殿神殿に奉告の儀」「剣璽渡御の儀」「践祚後朝見の儀」からなる「践祚の式」を掲げています。

 このうち「賢所の儀」は、神饌を供したのち、掌典長が祝詞を奏し、掌典長が天皇の御代拝を務め、御告文を奏し、掌典が皇后の御代拝を務めることとされています。「三日間これを行う。ただし第2日、第3日の儀は御告文なし」とされます。

 昭和天皇崩御に基づく平成の御代替わりでは、諒闇中であり、当然、天皇、皇后の御代拝でしたが、譲位に基づく今回の御代替わりでは御拝とされるのかどうか。そして、5月1日の午前0時をもって践祚とするのなら、このときをもって賢所の儀が執り行われることになるのかどうか。

 それとも退位の儀式と同時進行で、もしくは先行して賢所の儀が行われるのかどうか。

 5月1日は旬祭の親拝が行われる日でもあります。昭和40年代に入江相政侍従長の腕力で、毎月1日の旬祭の親拝は年2回に縮減され、平成の祭祀簡略化でも踏襲されましたが、それでも5月と10月の旬祭は御代拝とはなりませんでした。今回は、践祚の式で御拝が行われるとすると、旬祭はどうなるのか、掌典職のみならず注目せざるを得ません。

 もう1点、改元についていえば、登極令第2条には「践祚の後は直ちに元号を改む」とあり、大正、昭和とも即日改元が行われましたが、平成の御代替わりでは翌日改元でした。元号法には「直ちに」の定めはありません。

 昭和天皇崩御ののち、賢所では直ちに賢所の儀が行われ、宮殿では剣璽等承継の儀、朝見の儀が行われて、皇位は継承されたのですが、元号の「昭和」はこの日の午後12時まで続いたのです。

 それにしても「退位の翌日に即位」とする政府の説明は絶対的に不足していませんか。これを伝えるメディアの報道も同様でしょう。平成の御代替わりを踏襲するのなら、「翌日改元」という説明で十分です。それを「翌日即位」といえば混乱します。践祚を「即位」と無理に言い換えるから混乱するのです。

 退位の儀式すなわち践祚の式をもって皇位の継承とし、翌日の午前0時をもって改元するという説明では、なにか差し障りがあるのでしょうか。



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政府は何を根拠に「翌日即位」を決めたのか? [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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政府は何を根拠に「翌日即位」を決めたのか?
──皇室典範も特例法も「直ちに即位」なのに
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 先週金曜日の閣議で、陛下が再来年4月30日に退位(譲位)されることが決まりました。メディアは、翌日、皇太子殿下が即位される日程が正式に決まったとも伝えていますが、なぜ「退位の翌日に即位」なのか、そのように決めた根拠は何なのか、いうところの「即位」とは何を意味するのか、私にはまったく理解できません。


▽1 「翌日即位」を会見で明言した官房長官
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 今月1日に皇室会議が開かれたのは、陛下の「退位等」について定める、いわゆる退位特例法に定めがあるからです。特例法施行の期日、すなわち退位日を政令で定めるに当たっては、「内閣総理大臣は、あらかじめ、皇室会議の意見を聞かなければならない」とされているからです。

 そして、「特例法の施行日」を議案とした皇室会議で、「平成31年4月30日とすべきである」との意見がまとめられ、これを受けて8日の定例閣議で退位の期日が決定されました。

 菅官房長官は閣議後の会見で、「特例法の施行期日を定める政令を閣議決定した」「陛下の御退位と皇太子殿下の御即位がつつがなく行われるよう、最善を尽くす」と述べました。

 ここまでは「翌日即位」はありませんが、記者の質問を受けて、菅長官は、「翌5月1日に皇太子殿下が御即位されることになった」「こうした内容を総理から閣僚懇談会の中で発言をされた」と述べたのでした。

 また、改元については、元号法は「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と規定しているので、皇太子殿下の御即位後に速やかに改元は行われるという観点から、5月1日を軸に検討したい、と述べています。改元に関する初めての言及と伝えられます。

 どうやら「翌日即位」「翌日改元」は、特例法でも、皇室会議でもなくて、政府自身が決めたことのようですが、なぜそうするのか、政府として説明が不足していないでしょうか。菅長官の説明は法的根拠があるかのようにも聞こえますが、皇室典範も特例法も「翌日即位」を定めているわけではありません。


▽2 皇室典範も特例法も「空位」を認めていない

 むしろ法は「翌日即位」ではなく「即日即位」を定めていると解釈されます。退位の「翌日」に即位なら、1日の空位を認めることになると考えられるからです。

 明治の皇室典範は「天皇崩ずるときは皇嗣すなわち践祚(皇位継承)し」と定め、現行典範もまた「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と定めています。「すなわち」「直ちに」は空位を一時たりとも認めないことを明文化したものでしょう。

 いわゆる退位特例法も同様で、「天皇は、この法律の施行の日かぎり、退位し、皇嗣が直ちに即位する」とされています。

 皇室典範も特例法も「直ちに即位」と定めているのに、なぜ政府は「翌日即位」と決めたのでしょうか。政府はいかなる法的基準に基づいて、これを決めたのか。政府のいう「即位」とは何でしょうか。

 まして新元号は、「直ちに改元」と定められているわけではないのに、なぜ「速やかに」なのでしょう。

 この20年、政府・宮内庁は、女帝容認ならいざ知らず、過去の歴史にない女系継承容認=「女性宮家」創設に道を開き、今回は特例法で「上皇」という略称を正式な法律用語と定めるなど、国民主権主義に基づく日本国憲法下での象徴天皇制はもはや何でもありの観があります。

 空位を認めないのは、むろん皇室のルールといえます。

 200年前の光格天皇の場合は、文化14(1816)年3月22日、皇太子恵仁親王(仁孝天皇)に譲位されました。清涼殿で受禅され、剣璽渡御が行われました。こうして践祚(皇位継承)すなわち御代替わりが行われたのです。

 仁孝天皇の即位の礼は9月21日、光格天皇の譲位から半年後でした。文政への改元は翌年4月で、大嘗祭はこの年に行われました。


▽3 政権交代したら何が起きるのか

 報道では、陛下が退位(譲位)される再来年の秋に即位の礼、大嘗祭(大嘗宮の儀)が行われるとも伝えられますが、皇室の伝統に則り、法に基づいて、4月30日に「退位(譲位)ののち、直ちに即位(践祚)」とできない理由は何でしょうか。

 1つは践祚と即位の混同です。法律用語が消えたことによる歴史の喪失です。国民主権主義が招いた皇室の伝統の軽視です。

 平安期以来、事実としての践祚と内外に宣言する即位は区別され、践祚から日を隔てて即位式は行われてきました。その伝統に基づいて、明治の皇室典範は「天皇崩ずるときは皇嗣すなわち践祚」と定めていましたが、敗戦後の混乱は皇室典範改正、一般法律化に当たって、この区別を反映できず、「皇嗣が直ちに即位」としました。

 それでも、皇室典範改正時の帝国議会の議論を見ると、改正案に「践祚」という用語が用いられないことについて、金森徳次郎国務大臣は「践祚」の文字は消えても御代替わりの中身に変更はないと答弁しており、皇室行事の体系は不変と少なくとも当時は認識されていたようです。

 ところがその後、戦後政府は正常化への努力を怠り、ついに平成の御代替わりでは「践祚」の用語と概念が完全に喪失させられ、「践祚と即位は同意語」「皇室典範制定の際、践祚を即位に改めた」(宮内庁『平成大礼記録』平成6年)との詭弁が弄され、「践祚後朝見の儀」は「即位後朝見の儀」と改められました。

 そしていま、安倍長期政権は125代続く皇室の伝統を回復できずにいます。

 保守政権下でさえ、政治主導によって、このようなハチャメチャが生じるのなら、皇室の歴史と伝統を一顧だにしないような政権へ交代した暁には、いったい何が起こるのでしょうか。鳩山内閣時のごり押し天皇会見程度では済まされない、と国民は覚悟しなければならないのでしょうか。



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タグ:御代替わり
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譲位の翌日に即位、改元でいいのか? [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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譲位の翌日に即位、改元でいいのか?
──いよいよ迫ってきた御代替わりの不思議な日程
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 いよいよ御代替わりが迫ってきました。

 先週21日にNHKが伝えたところによると、今上陛下が退位(譲位)される日程の決定に関する皇室会議が来月1日、つまり今週金曜日に開かれる模様です。

 政府案としては、再来年31年4月30日に退位、翌日5月1日即位とする案と、同年3月31日退位、翌4月1日即位の2案があり、皇室会議の意見を考慮して最終的に決められるとも伝えられました。

 再来年4月末退位という新たに伝えられた案は、同年4月に統一地方選挙が予定されていることから、これが終わったあとに皇位継承を設定するという趣旨のようです。これまで伝えられてきた来年30年末に譲位、再来年31年元日に改元という政府案は消えたことになります。

 年明けには菅官房長官を長とする委員会が設置されるようですが、いくつかの問題点が指摘されます。


▽1 改元には準備期間が必要

 まず選挙優先の日程です。

 先月、朝日新聞は、皇后陛下のお誕生日に合わせて、今上陛下の退位(譲位)と改元について、退位日は再来年31年の3月末日で、翌4月1日に新帝の即位、改元することで政府が最終調整に入ったという情報を伝えました。

 この日の会見で、菅官房長官は「そうした事実はない」と強く否定しましたが、4月1日即位なら、4月14日もしくは28日に投票が予想される統一選と完全に重なります。

 となると、政治家たちはどうしても選挙優先にならざるをえないでしょうが、文明の根幹に関わる皇位継承より選挙を優先すべきことなのかどうか。

 2つ目は改元のタイミングです。

 改元の期日が問題となるのは、社会的、経済的な影響がそれだけ大きいからです。とくに前回の御代替わりとは比べものにならないほど、コンピュータ社会が進展している現実があります。プログラムの変更には一定の準備期間が必要です。

 たとえば、国の機関紙である官報はいまやネット上で閲覧できる時代ですが、皇位継承のあと、政令で定められる新しい元号を官房長官が発表したとして、即座に官報を新元号で発行配信するようプログラムを変更することは不可能でしょう。

 しかし、在外公館も含めて、いっせいにコンピュータの設定が切り替えられないと、出生届や婚姻届、免許証の書き換えなど、行政の業務にたいへんな支障をきたします。巷間伝えられるようなカレンダー業界など一部に混乱を与えるという程度ではすみません。

 つまり元号の切り替えには一定の準備時間がどうしても必要です。とすれば、譲位・践祚(皇位継承)と改元の期日をずらし、たとえば改元は数か月あるいは半年後の即位の礼に合わせるとか、それなりの工夫があってしかるべきなのに、「譲位、翌日改元」というワンパターンの情報しか聞こえてこないのはどうしてでしょうか。

 元号法は「皇位継承後、直ちに(あるいは翌日に)改元」と定めているわけではないのです。践祚後直ちに改元された大正、昭和、翌日改元された平成の御代替わりとは事情が異なると説明すれば十分ではないでしょうか。

 前例をそのまま踏襲する必要はありません。ちなみに200年前の光格天皇から仁孝天皇への御譲位では、1年以上、経ったあとに、「文化」から「文政」に改められています。一世一元の制が始まった明治の御代替わりも同様です。


▽2 即日践祚とすべきではないのか


 3点目は、退位(譲位)の翌日に即位(践祚)というスケジュールが当たり前のように伝えられていることへの違和感です。

 旧皇室典範は「天皇、崩ずるときは、皇嗣すわはち践祚し」と定め、現行皇室典範もまた、「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とされています。

 先帝が譲位された時点で、直ちに新帝が践祚、すなわち皇位継承するのでなければ、空位が生じてしまいます。

 たとえば、31年4月30日に退位(譲位)、翌5月1日に即位(践祚)とした場合、退位に関する儀式が予定されているということですので、前日に退位の儀式を行い、剣璽の継承が行われたとしたとしても、法的には翌日までは皇位は継承されていないとみなされるということなのでしょうか。

 それともいかなる儀式が行われようとも、退位は前日午後12時に発効し、翌日午前零時をもって皇位継承が行われたと法的に解釈するということでしょうか。

 先述したように、大正、昭和の御代替わりでは、先帝の崩御後、直ちに新帝が践祚し、元号が改まり、平成の御代替わりでは、先帝崩御後、直ちに剣璽等承継の儀が行われ、皇位が継承され、翌日に改元されました。

 こうした過去の歴史に照らせば、譲位の儀式を明確な区切りとし、「翌日即位」ではなくて「即日即位」とされるべきではないでしょうか。即位(践祚)と改元を無理に関連付けようとすれば、かえって混乱を招くことにならないでしょうか。



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即位礼と大嘗祭を同じ月に行う理由 ──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 4 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位礼と大嘗祭を同じ月に行う理由
──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 4
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 大嘗祭は即位の礼のあとに、「続いてこれを行う」と、旧・登極令(明治42年)の第4条に定められていました。

 実際、大正の御代替わりでは、即位の礼は大正4年11月10日、大嘗祭は同月14日に行われ、昭和の御代替わりでは、即位の礼は昭和3年11月10日、大嘗祭は14日でした。

 そのため、御大典が行われた京都では、即位の礼のあと、市内はどんちゃん騒ぎとなり、静謐さとは無縁の喧噪のなかで、大嘗祭が挙行されることとなったと批判されています。

 日本国憲法の施行とともに登極令は廃止され、期日に関する定めは失われましたが、平成の御代替わりでは、即位礼正殿の儀は平成2年11月12日に、大嘗祭は10日後の22日に行われました。

 つまり、同月内に引き続いて行うと規定する旧・登極令に準じたことになりますが、なぜ同月に行われなければならないのでしょうか。


▽1 「京都においてこれを行う」

 以前、当メルマガに書いたように、赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)はこれを「新例」と説明しています(「即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない──平成の御代替わり『2つの不都合』 6」2017年7月18日号)。

 関根正直によれば、赤堀も解説していたように、即位の礼が7月以前なら大嘗祭は同年冬に行われ、即位の礼が8月以後の場合は翌年冬に大嘗祭を行うというのが、中古以来のならいでした。

 ところが、明治になって天皇が住まわれる宮城が東京におかれることとなり、しかも皇室典範(明治22年)には「即位の礼および大嘗祭は京都においてこれを行う」(第11条)と定められました。

 なぜそのようになったのか、関根は、先帝・明治天皇の聖慮によるものだと、次のように説明しています。

 ──明治13年、明治天皇は伊勢路御巡幸の折、京都に滞在された。当時の世相は、古風=旧弊とされ、破壊の対象とされており、殺風景没趣味に陥っていたのは京都も例外ではなかった。そのさまを御覧になった明治天皇はお嘆きになった。
 その後、ロシア皇帝(アレクサンドル3世)の戴冠式(1883年)が新都ペテルスベルグではなくて、旧都モスクワの旧殿で行われることを知り、一国の大礼は古風を存し、旧儀のままに行い、衆庶をしてその本を崇尚し、その始を忘れないようにするのがいいのだとお思いになり、皇室の大典も京都で行われるべきだとお考えになった。
 のちに岩倉具視贈太政大臣が京都御所の保存を政府に建言し、帝国憲法起草の準備として皇室の儀制調査を建議したのも、明治天皇の聖旨を奉じてのことだった。
 こうして明文規定ができた。


▽2 古例を復活させてはどうか

 しかし、御大典を京都で行うとして、旧例のように即位の礼が7月以前なら大嘗祭は同年冬に行い、即位の礼が8月以降なら大嘗祭は翌年冬に行うとした場合、どうなるのか、関根はまたこう説明しています。

 ──1年も経たないうちに2度も、車駕を移動することになり、儀鑾張行の繁に堪えない。供奉用度の費用も多額になるだろうから、古式に反しないかぎり、繁を避け簡に就くべきだと、明治天皇はお考えになり、即位の礼と大嘗祭はひきつづき行われる旨、登極令に定められることとなった。
 これらは憲法義解に註釈として書かれている。

 このように説明したうえで、関根は

「このたびの慶事は邦家の大典、国民の盛儀であり、国民みな感激狂喜するところであるが、熱情のあまり喧噪狼藉におよぶことが往々にしてあり、忌み慎むべきである」

 と警鐘を鳴らすのですが、現実は冒頭に述べたごとくでした。

 ところで、関根が指摘していないもうひとつの「理由」がありそうです。

 それは以前にも指摘した、今日とは異なる、交通機関の未発達です。明治末年なら新橋・神戸間が13時間かかりました。これでは「儀鑾張行の繁」もむべなるかな、です。即位の礼・大嘗祭を引き続いて執り行わざるを得ない事情がたしかにあったわけです。

 しかし今日では、東京から京都まで新幹線でわずか2時間余りです。しかも御大典を京都で挙行する法規定はもはやありません。即位の礼と大嘗祭を引き続いて執り行うべき理由はありません。

 だとすれば、むしろ古例を復活させてはいかがでしょうか。明治天皇ならば、どのようにお考えになったでしょうか。



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即位式、3度の変遷。仏式が神式化したのではない ──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位式、3度の変遷。仏式が神式化したのではない
──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 3
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 明治になって神仏分離が行われたことは誰でも知っています。神仏習合の清算から激しい廃仏毀釈へと転化した地域もあります。宮中行事も激変し、仏事は全廃され、歴代天皇の御霊牌などを祀るお黒戸は撤去されました。

 そのため、皇室行事は仏式から神式に変わったとか、宮中祭祀は明治の創作だなどと断定する研究者もなかにはいるようです。けれども、正確には、幕末の宮中では仏教のほか、陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたというのが、真相のようです(『明治維新神仏分離史料』など)。

 陰陽道が排除され、石灰壇御拝は毎朝御代拝に代わり、端午、七夕などの五節句が廃されたという歴史は、仏教から神道への変換という単純な図式では捉えきれないでしょう。


▽1 「神武創業の始めに原き」

 関根正直は、天皇の即位式には歴史上、3度の変遷がある、太古以来の国風が、古代に唐制風に改められ、そして明治になって神武天皇ご創業の古(いにしえ)に復したのだ、と説明しています。

 関根によれば、即位式は神武天皇の時代から行われており、その内容は『古語拾遺』(斎部広成。807年)によってうかがい知ることができるといいます。

 これによると、神籬(ひもろぎ)を立て、神々をまつり、宮門を守り、矛盾(ほこたて)を造り備えて、天璽鏡剣を正殿に奉安し、瓊玉(けいぎょく)を懸け、幣物をつらねて、祝詞(のりと)を申し、云々とあります。

 関根は、こうした即位の神事は奈良時代までひきつづき行われたであろうと推測しています。持統天皇の即位礼の場合も、同様に神璽鏡剣を奉り、寿詞(よごと)を奏する国風儀式が行われたと記録されています。

 ところが、その後、いまでいう国際化に伴う唐風化が起こりました。

 関根の説明では、古代朝鮮や支那政府との交流が始まり、時勢の影響や政治上、国交上の必要から、御即位の盛儀をもっぱら内外に示す方向に進み、服飾旌旗(せいき)などもすべて唐制に改まり、大極殿という唐風の宮殿で挙行されるようこととなりました。

 他方、古来の国風儀式は廃止されたというのではなくて、神璽鏡剣を奉上し、天神(あまつかみ)の寿詞を奏する儀式などは、ほとんどが大嘗祭の方に移され、行われ、伝えられることとなったのでした。

 そしてようやく明治になり、唐風が廃せられ、神武天皇の祭典式に復された、と関根は説明しています。王政復古の大号令には「諸事、神武創業の始めに原き」とありました。


▽2 平成の御代替わりは何だったのか

 関根によれば、御代替わり諸儀礼は、明治維新期に仏式から神式に変わったのではなくて、唐風から国風に復されたということになります。

 とすれば、「即位の礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」からなる、新「即位の礼」を「国の行事」(国事行為)として行い、他方、神武天皇即位にまで遡れる大嘗祭は憲法上の国事行為として行うことは困難とされ、「皇室行事」として挙行した先の御代替わりは、いったい何だったのでしょうか。

 関根の表現を借りれば、「4度目の変遷」となった、日本国憲法風の平成の御代替わりの功罪を、あらためて検証しなければならないと私は考えますが、いかがでしょうか。いまのままでは悪しき先例が繰り返されるだけでしょう。



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平安期以来の践祚と即位の区別 ──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 2 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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平安期以来の践祚と即位の区別
──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 2
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 関根は「第1章 総論」の冒頭で、即位礼・大嘗祭の国家的、公的性格について明言し、「皇室の御私事」ではないと断言しています。

「謹んでおもんみるに、御即位礼・大嘗祭の御大典は、天皇御一代にただ一度執り行はせらるる御儀式にして、じつにこれわが邦家の大典、国民の盛儀なり。単に皇室の御私事・宮中の御嘉例なるがごとく思ひ奉るべきにあらず」(漢字を開くなど、読みやすいように、原文を適宜編修しています)

 とすれば、平成の御代替わりで政府が行ったように、諸儀礼を「国の行事」と「皇室行事」に二分するとか、大嘗祭を「国の行事」としては行えないとか、まったくあり得ないことです。

 さらにあり得ないのが、皇室の歴史と伝統の喪失です。


▽1 用語と概念の喪失

 明治42年に定められた登極令の附式は、最初に「践祚の式」をあげ、「賢所の儀」「皇霊殿神殿に奉告の儀」「剣璽渡御の儀」「践祚後朝見の儀」の4儀式について、細かい祭式を規定していました。けれども、日本国憲法下で最初の事例となった平成の御代替わりでは、歴史的な一大変革が行われました。

 宮中三殿の聖域で行われる「賢所の儀」「皇霊殿神殿に奉告の儀」については、憲法の政教分離原則に照らして、「国の儀式」として挙行することが困難とされ、内廷の皇室行事となりました。

 一方、宮中三殿を舞台としない「剣璽渡御の儀」「践祚後朝見の儀」については、前者は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称され、後者は「践祚」という平安期以来の用語が消え、「即位後朝見の儀」と改められたほか、新帝の出御に際して伴われるべき剣璽御動座がありませんでした。

 なぜそんなことが起きたのか、それは、戦後40年あまり、政府は御代替わりに関して、具体的な準備を怠ってきたからです。日本国憲法施行に伴って全廃された、登極令など関連する皇室令に代わる法体系を整備できずに来たからです。

 戦後の新しい皇室典範は

「第4条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」

 などと定めていますが、具体的な法規定はありません。

 そして、政府は、神代にまで連なるとされる皇室の、したがって宗教性を否定できるはずもない伝統儀礼を、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法の政教分離原則を基準に、「国の行事」と「皇室行事」とに二分し、あまつさえ、皇室典範に「践祚」の用語がないことから、「践祚」を「即位」に改め、平安期以来の「践祚」と「即位」の概念の区別を失わせたのです。


▽2 正確でない宮内庁の説明

 関根が解説するように、皇位の継承とは皇位の徴表(しるし)である三種の神器の継承にほかなりません。上代においては践祚すなわち即位であり、両者の区別はありませんでしたが、時代がくだり、制度が整うと、先帝の受禅による場合と崩御による場合とにかかわらず、神器が新帝に渡御することをもって践祚と称することとなりました。

 神器のうち神鏡は神殿に安置されて、移動のことはなく、剣璽のみが先帝から新帝に渡御になる践祚の例が定まりました。政治の空白は許されませんから、諒闇中であっても、まずは剣璽の渡御が行われ、その後、皇位の継承を皇祖皇宗に告げ、百官万民に宣布する即位の大礼が定められました。

 桓武天皇の時代に践祚から日を隔てて即位式が挙行され、貞観儀式の制定で践祚と即位の区別が定まったといわれます。

 明治の皇室典範は

「第10条 天皇崩ずるときは皇嗣すなはち践祚し、祖宗の神器を承く」

「第11条 即位の礼および大嘗祭は京都においてこれを行ふ」

 と定め、この歴史的な両者の区別を踏襲していました。

 ところが、戦後の混乱期に行われた皇室典範の改正はこれを反映できず、その後、政府は正常化の努力を怠ったのみならず、平成の御代替わりで「践祚」の用語と概念を完全に喪失させたのです。

 宮内庁の記録は

「もともと践祚は即位と同義語であり、また、皇室典範制定の際、践祚を即位に改めた経緯があるので」(『平成大礼記録』平成6年)

 と説明していますが、まったく正しくありません。それどころではありません、平成の御代替わりでは、践祚の式の一部はあろうことか、皇室典範第24条に定められる「即位の礼」の一環として執り行われたのです。

 政府は憲法を第一に優先するあまり、皇室の歴史と伝統を踏みにじり続けているのです。

 私たち国民が抗議の声を上げなければ、悪しき先例は次の御代替わりでも、その次の御代替わりでも踏襲されることでしょう。



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御代替わりを前に考える皇室の歴史と伝統 ──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 1 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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御代替わりを前に考える皇室の歴史と伝統
──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 1
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 御代替わりが刻々と迫りつつあります。いまのままでは前回の悪しき先例が繰り返され、国の行事と皇室行事の二分化、諸儀礼の非宗教化で押し切られることでしょう。

 そのことは、昭和40年代以降の宮中祭祀簡略化、さまざまな不都合が重なった前回の御代替わり、ここ20年におよぶ女性天皇・女系継承容認=「女性宮家」創設への一連の経緯を振り返れば、火を見るよりも明らかです。

 いまの政府は、125代続いてきた皇室の歴史と伝統、すなわち祭り主天皇論ではなくて、憲法の規定を第一と考え、ご公務をなさる、天皇=名目的国家機関論の立場で、現行憲法下で2度目となる御代替わりを迎えようとしています。

「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とは相反し、皇室の伝統行事を伝統のままに行うことは憲法の規定に抵触するというのが、政府の考え方です。

「国および国民統合の象徴」である天皇の御代替わりが、それゆえ国家的、公的性格が明々白々なのにもかかわらず、全体的に「国の行事」として、当たり前に挙行できないのはそのためです。

 御代替わりの正常化のためには、誤った天皇観、憲法論を克服しなければなりません。私たち日本人にとって、天皇とは歴史的にいかなる存在だったのか、何をなさるのが天皇のお立場なのか、が本質的に問われています。

 何をどうすればいいのか、具体的に考えるヒントを得るために、しばらくのあいだ、明治の国文学者で、学習院の教壇にも立ち、のちに宮内省御用掛ともなった関根正直(1860-1932)の『即位礼大嘗祭大典講話』を読んで見ようと思います。


▽1 順徳天皇『禁秘抄』の解説

 関根正直といえば、忘れもしません、30年ほど前、渋谷にある神道系大学の図書館に毎日のように通いつめ、夕方から閉館となる夜遅くまで、薄暗く、カビ臭い書庫に入り浸り、手当たり次第に古今の書物を読みあさっていたことがありました。

 空調がないため、夏は蒸し暑く、冬は底冷えのする最悪の環境で、おそらくここにしかないだろう古書をじかに手にする興奮に、私は身も心も震えました。

 20代の編集記者時代には予想だにしなかった奥深い世界が、そこには広がっていました。足下のぐらつく踏み台に上って、手に取った1冊が、ほかならぬ関根正直の『禁秘抄釈義』(明治34年)でした。

 関根の『禁秘抄釈義』は順徳天皇が著した『禁秘抄』(1221年)の解説です。『禁秘抄』の冒頭には、

「およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にす。旦暮(あさゆう)敬神の叡慮、懈怠なし、白地(あからさまにも)神宮ならびに内侍所の方をもって御跡となしたまはず」(原文は漢文)

 とあり、関根はこれに

「万機の中に神事を重くせらるること、わが国の規模にして」

 などと説明を加えていました。

 天皇は古来、祭り主であるという天皇観は、今日、まともに教えてくれる人などいるはずもなく、じつに新鮮ですが、戦後の教育を受けて育ってきたものには、簡単に受け入れられるわけもありませんでした。

 ともあれ、こうして私の天皇研究はゆっくりと始まったのでした。


▽2 いまはデジタルコレクションで

 ところで、即位大嘗祭をテーマとする関根正直の著書には、『即位礼大嘗祭大典講話』(大正4年)と『御即位大嘗祭大礼要話』(昭和3年)の2冊があります。

 いずれもいまは国会図書館のデジタルコレクションに収められています。30年前ならマイクロフィッシュを覗き込むしか術がありませんでしたが、いつでもどこでも誰でもネット上で読むことが可能になりました。便利な世の中です。

 これから拾い読みする『即位礼大嘗祭大典講話』は、奥付によると、大正4年4月に発行され、何度か版を重ねています。「緒言」によると、関根が、大礼の起源、沿革などをテーマに各地で講演したものを「倉卒」にとりまとめたということです。

 発行を急いだのは、いうまでもなく同年秋に御大典が予定されていたからでしょう。

 蛇足ながら、大正天皇の即位の礼および大嘗祭は当初、前年の3年11月に京都で行われるはずでした(3年1月17日官報号外)。けれども、昭憲皇太后が同年4月に薨去されたことから、皇室服喪令(明治42年)に従い、1年の喪が明けるのを待って、翌4年秋に執り行われることとなりました(4年4月19日官報号外)。

 明治45年7月の践祚から3年後に御大典が行われたのはそのためです。


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関係者各位へネット署名のお願い [御代替わり]

関係者各位

平成29年夏



▽1 オンライン署名にご協力ください
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 オンライン署名のウェブサイト「change.org」を利用して、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」というネット上の署名活動を始めました。

 歴史が始まって以来、天皇は一貫してわが国の統治者であられます。当然、御代替わりの諸儀礼は国家行事であるべきだと思いますが、現在はそうはなっておりません。「践祚(せんそ。皇位継承)」「即位の礼」「大嘗祭」と続く一連の皇位継承儀礼はすべて「国の行事」と位置づけられるべきだと考えますが、いかがでしょうか。

 今上陛下の御譲位による、次の御代替わりが目前に迫っています。御代替わり諸儀礼のあり方の見直しを、政府・宮内庁に強く求めたいと思いませんか。

 お手元にパソコンやスマホがあれば、世界中どこからでも賛意を表明することが可能です。ぜひ皆様のご理解、ご協力をお願いします。

 URLは以下の通りです。「change」「御代替わり諸儀礼」などをキーワードに、検索していただければ、ページにアクセスすることができるはずです。
https://www.change.org/p/政府-宮内庁-御代替わり諸儀礼を-国の行事-に 〉

 あるいは「ネット署名には法的効力がない」とお考えの方もおられるかもしれませんが、正規の署名活動に手間暇をかけられる余裕がないというのが現実です。ご理解のほどよろしくお願いします。

 キャンペーンを始めて約3か月、賛同者が200人を超えましたが、行政の重い腰を動かすにはまたまだ力が足りません。同憂の士のご協力を切にお願い申し上げます。

 サイトには賛同者のコメント欄もあります。応援のメッセージを心からお待ちします。


▽2 与えられた時間は限られている

 今春の「問題提起」でも申し上げましたように、いよいよ次の御代替わりが差し迫ってまいりました。

 報道によれば、陛下の退位と改元の期日には、いまのところ来年末か来年度末の2案があり、政府は9月に、この期日を決定・公表するようです。

 来年暮れに「退位」「新天皇即位」、翌年元日に「改元」というスケジュールか、再来年3月末に「退位」「新天皇即位」、4月1日に「改元」となるのか、いずれにしても皇位継承の関係予算は来年度(平成30年度)予算に計上されることになります。

 したがってその概算要求はこの夏に行われます。期日が未定であるため、宮内庁は金額を示さない事項要求とする方針であると過日、伝えられました。

 昭和から平成への御代替わりでは、諸儀礼が「国の行事」と「皇室行事」とに二分されました。「国の行事」なら宮廷費、「皇室行事」なら内廷費扱いとなります。

 御代替わり諸儀礼をすべて「国の行事」とするのなら、関係する経費はすべて宮廷費から支弁されるべきです。

 法律と先例、予算に縛られる行政を突き動かし、皇室行事の正常化を図るために、私たちに残された時間はきわめて限られているということになります。


▽3 どうなる剣璽渡御の儀

 また、報道によると、政府部内では、「退位の儀式」をどのように行うのか、が目下の検討課題とされているようです。儀式の形式と法的位置づけについて検討する委員会が設置されるとも伝えられます。

 室町時代の古典学者で、「日本無双の才人」と評された一条兼良の『代始和抄(だいはじめわしょう)』には、「御譲位のときは、警固、固関(こげん)、節会(せちえ)、宣制、剣璽渡御(けんじとぎょ)、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」とあります。

 200年前に譲位された史上最後の天皇・光格天皇の場合、宮内省編『光格天皇実録』によると、譲位・受禅の前日、警固・固関の儀が行われ、当日はまず天皇が仙洞御所(桜町殿)へ行幸されました。その際、剣璽渡御が伴われ、総勢数百人の行列が組まれました。午後には、剣璽が桜町殿から清涼殿に渡御し、新帝の前で宣命(せんみょう)が読み上げられたのち、剣璽が新帝・仁孝天皇の御所へと遷られました。

 譲位の儀式の中心は、皇位の御印である剣璽の渡御のように見えます。

 次の御代替わりで、皇室伝統の儀式が採用されるとすれば、とりわけ剣璽渡御をどのように法的に処理するのか、が最大の問題となりそうです。

 明治42年の登極令(とうきょくれい)では、大行天皇崩御ののち、新帝は皇位継承のため、(1)賢所の儀、(2)皇霊殿、神殿に奉告の儀、(3)剣璽渡御の儀、(4)践祚後朝見の儀、の4儀式からなる践祚の式を行うこととされ、これらは「国務」と位置づけられました。

 けれども、新憲法下の平成の御代替わりでは、一連の儀式が2つに区分され、非宗教的と見る、(3)(4)だけが「国の儀式」とされ、「剣璽渡御の儀」は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称されました。

 さらに践祚後朝見の儀は、「即位後朝見の儀」と改められ、平安以来の「践祚」と「即位」の区別が失われたうえに、本来あるべき剣璽の御動座が行われませんでした。

 次の御代替わりでも、いまのままでは、悪しき前例が踏襲され、「国の行事」と「皇室行事」の二分方式、儀式の非宗教化が採用されることでしょう。その背景にはいうまでもなく、いびつな政教分離主義、克服されざる国家神道論の存在があります。

 関係者各位のご理解とご協力、そして行動が、いまこそ必要なときはありません。

タグ:御代替わり
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3段階で進められた御譲位の儀式? ──所功「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」を読む [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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3段階で進められた御譲位の儀式?
──所功「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」を読む
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 敬愛する所功先生(京都産業大学名誉教授)が、「〈資料紹介〉光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」と題して、光格天皇の御譲位の儀式の具体的な中身について、「藝林」4月号(財団法人日本学協会藝林会)に執筆されていますので、ご紹介します。

 いうまでもなく、光格天皇は200年前に譲位された歴史上最後の天皇です。報道によれば、今上天皇の御譲位が来年末もしくは来年度末に予定され、政府・宮内庁は譲位の儀式の内容について検討を進めているとのことですから、光格天皇の御譲位の儀式に関心が集まるのは当然でしょう。

 タイムリーな〈資料紹介〉を書かれた所先生に、心から敬意を表したいと思います。


▽1 『貞観儀式』と『光格天皇実録』

 リポートの冒頭、所先生は、史上、譲位された天皇は皇極天皇から光格天皇まで64代(全90代の7割)に上ると指摘したうえで、平安初期以降になって、その詳しい儀式次第や実施記録が見られると解説しています。

 所先生がまず取り上げるのは、『貞観儀式』(9世紀)の「譲国の儀」です。リポートをなぞってみます。

 ──まず譲位予定の3日前、平安京から関所の置かれていた伊勢・近江・美濃の3国に、関契などを持った勅使を遣わし、万一に備えて警備を堅固にする「固関(こげん)」が行われる。
 ついで、譲位される天皇が、内裏を去って仙洞御所に遷られる。
 そのうえで当日、天皇が紫宸殿出御され、皇太子が春宮坊を出て、紫宸殿の殿上の座に就き、親王以下文武官人が南庭に列立する。
 そして「宣命使」が「譲位の宣命」を読み上げると、皇太子は皇位を譲り受け、「新帝」となられたことになる。
 そこで「新帝」は紫宸殿の南階を下りて、いったん春宮坊に戻られる。その際、内侍(女官)が「節剣」を、また少納言(男官)が「伝国璽の櫃」と「鈴印・鑰等」を、さらに近衛少将が「供御の雑器」を、「今上の御所」へ持参する。
 ただ10世紀以降は節剣ではなく、「神璽」と「宝剣」を内侍が持参するようになったものとみられる。

 以上のようにまずは説明し、「固関」「行幸」「宣命」「節剣などの持参」という儀式の流れが「中世から近世までほとんど変わりがない」と指摘して、さらに先生は、光格天皇の事例を「詳しく検討」しようと試みるのでした。

 その場合、先生が取り上げるのは、『光格天皇実録』(宮内省編)です。

 すでにこのメルマガでご紹介したように、『光格天皇実録』は「禁裏執次詰所日記」「山科忠言卿伝奏記」「御系譜」「日次案」の資料が引用されています。先生は漢文で書かれた資料を読み下し、突き合わせて、儀式の展開を詳しく説明したうえで、次のように、3段階の儀式があったと結論づけています。

 ──「譲位・受禅」の儀式は、
 まず午前(辰の刻)、光格天皇が内裏から剣璽などとともに桜町殿(仙洞御所)へ行幸された。
 ついで午後(未の刻)、剣璽が下御所(桜町殿)から清涼殿に渡御すると、新主の仁孝天皇が御帳の椅子に着かれ、宣命使が宣命を読み上げ、剣璽が新主の御所へ運ばれた。
 さらに真夜中(子半刻)、内裏で「折紙」を給わった院司が、祝意を表して退出し(桜町殿へ参向)、関白以下が新主に祝賀を申し上げた
 というだいたい3段階があった。


▽2 『代始和抄』に言及がない

 3つのことを、指摘させていただきます。

 まず1点目。

 所先生は素人の私などとは比較にならないほど古今の資料に通じているでしょうが、どういうわけか、少なくともこのリポートでは、室町時代の古典学者で、「博洽第一の人」「日本無双の才人」(福井久蔵『一条兼良』昭和18年)と評されたらしい一条兼良の『代始和抄』への言及がありません。

 当メルマガの読者ならご存じのように、赤堀又次郎は『御即位及大嘗祭』(大正3年)の巻末に、「御即位および大嘗祭の儀を記したる古書のなか、その詳らかなることは貞観儀式に超えたるものなく、簡にして要を得たるはこの代始和抄におよぶものなし」として『代始和抄』の全文を引用しているほどです。

 その『代始和抄』の冒頭に記されているのが、「御譲位の事」であり、次のように記述されています。

「父子にあらずして受禅のときは、皇太子参上して、椅子(いし)につきて上表の礼あり」

「父子譲国のときは、義譲のこと、なし」

「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」

 所先生は、譲位の儀式には、(1)天皇行幸、(2)宣命、(3)御所の儀式、の3段階があると解説していますが、一条兼良は、(1)警固、固関、(2)節会、(3)宣制、(4)剣璽渡御、(5)新主の御所の儀式、の5段階と説明しています。

 指摘したい2点目は、依拠すべき資料です。

 すでに『代始和抄』のことは申しましたが、所先生はもっぱら『光格天皇実録』に引用された資料を参照し、『光仁天皇実録』が引用する資料については、「寛宮(ゆたのみや)御用雑記」のみを「注」で言及しているだけで、「野宮定祥日記」「公卿補任」に関しては取り上げていません。

 なお、「寛宮」は、所先生によれば、仁孝天皇の幼名ではなく、光格天皇の「同母兄妹」と説明されています。

 先生のリポートには、『国書総目録』(第3巻)によると、光格天皇御譲位に関して、『光格天皇御譲位一会』『光格天皇御譲位一会文書』『光格天皇御譲位一会催方願書留』など、全部で25種の記録と絵図があることが知られていると記述されています。

 それならば、それらを「資料紹介」しても良さそうなものですが、先生は『光格天皇実録』が引用する資料を「紹介」するばかりで、しかもリポートの後半のほとんどは、『国書総目録』には記載がない、国立公文書館が所蔵する『桜町殿行幸図』2巻の「紹介」に費やされています。

 できれば、『国書総目録』の資料もくわしくリポートしていただけないでしょうか。


▽3 光格天皇を描いた『桜町殿行幸図』!?
桜町殿行幸図.png

 3点目は、ほかならぬ、この『桜町殿行幸図』です。ご指摘のように国立公文書館デジタルアーカイブで、いつでも誰でも見られます。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2010020818324946818

 2巻とも20メートルを超える大作で、色彩鮮やかに、光格天皇が乗っておられるとおぼしき鳳輦ほか、色彩鮮やかに描かれ、役名・人名まで書き込まれた絵図に、所先生がいたくこだわっているらしいのは、この行幸図が御譲位と関連があるとお考えだからです。

 先生によれば、『光格天皇御譲位行列図』(5巻。尊経閣文庫)のうち「行幸図」上下2巻は『桜町殿行幸図』とほぼ完全に一致するそうです。しかも『行列図』には「行啓図」「剣璽渡御節会図」「武家警衛供奉図」までそろっている。

 そうしたことから類推すると、『桜町殿行幸図』は、「光格天皇が(文化14年3月22日の御譲位のとき)、内裏から仙洞御所に行幸された行列を丁寧に描いた絵巻」に違いない。御用絵師の原在明が描き写し、幕府に進呈された、と所先生は解釈するのです。

 公文書館のサイトには「作成年月日 文化14年3月」「写本」とありますが、「光格天皇」との説明はとくにありません。

 ついでながら、アメリカのボストン美術館には明治のお雇い教師フェノロサが収集した吉村周圭筆「行幸図」が秘蔵されています(藤田覚『幕末の天皇』)。

 藤田東大名誉教授はこう解説しています。

「(光格天皇が)寛政2年の仮御所から新御所に移る遷幸の行列を描いたものとされ、人物の表情や装束などがきわめて精密に描かれた盛大な行幸図はたいへんに貴重で、歴史資料としても価値が高いとの解説があった」

 ボストン美術館の説明では、「Emperor Kokaku Returning to the Capital over the Sanjo Bridge, Japanese, Edo period, late 18th?early 19th century, Yoshimura Sh!)kei (Japanese, 1736 - 1795)」とされています。
http://www.mfa.org/collections/object/emperor-kokaku-returning-to-the-capital-over-the-sanjo-bridge-24991

 さて、御譲位の儀式の中身についても触れるつもりでしたが、長くなりましたので、次回にします。



☆ひきつづき「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンへのご協力をお願いいたします。このままでは悪しき先例がそのまま踏襲されるでしょう。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を求めます。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

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「寛宮御用雑記」に記録された光格天皇の御譲位 ──諸儀式の詳細はうかがい知れず [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「寛宮御用雑記」に記録された光格天皇の御譲位
──諸儀式の詳細はうかがい知れず
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 すでにご紹介したように、宮内省図書寮が編修した『光格天皇実録』(昭和6〜22年)は、200年前の文化14年3月22日、「(光格天皇には)桜町殿において受禅あらせられ、皇太子恵仁親王に譲位あらせらる」(原文は漢字片仮名交じり)と記述しています。

 また同じく『仁孝天皇実録』(同)には、「二十二日、清涼殿に於いて受禅あらせらる、是より先、光格天皇、桜町殿に行幸あらせられ、同殿より剣璽渡御の儀あり、是日、詔して一条忠良をして、旧の如く万機を関白せしむ」とあります。

 この光格天皇から光仁天皇への御譲位は実際、どのように行われたのか、もう少し詳しく見てみましょう。

『光格天皇実録』には「禁裏執次詰所日記」「山科忠言卿伝奏記」「御系譜」「日次案」が、『光仁天皇実録』には「寛宮(ゆたのみや)御用雑記」「禁裏執次詰所日記」「山科忠言卿伝奏記」「野宮定祥日記」「公卿補任」の資料がそれぞれ引用されています。

 これらはほとんど漢字だらけで、読みやすいものではありません。しかし唯一、「寛宮御用雑記」だけは若干、ひらがなが交じり、いくらか理解できそうなので、以下、ご参考までに、原文を忠実に抜き出してみることにします。

 なお寛宮は仁孝天皇の幼名です。


「寛宮御用雑記」
文化十四年三月廿二日、
一桜町殿え(ママ)行幸、御譲位御璽渡御御受禅也、
一所司代大久保加賀守丑半刻衣冠ニテ参内、御内玄関より伺公之間へ被通菓酒出ル、御両伝面会無之、卯半刻過行幸御催、唐門腋門より御門外南方ニテ御見送リ行啓後引続供奉、
一行幸辰刻過、御道筋南殿より宜秋門代より南へ建礼門前ヲ東へ、桜町殿唐門より入御、行啓同刻朔平門より西へ、東門通リ南へ南門通東へ新御殿へ御入、
一行幸被写済恐悦執次御賄頭奥ヘ申上ル
一所司代於桜町御所節会拝見、相済御祝同粥御酒吸物出恐悦被申上、夫より中宮新御殿へ被参恐悦被申上退出、再禁中へ被参伝奏衆御面会恐悦被申上、御酒吸物出ル、次ニ大御乳人出会口祝有之、伝奏衆再会御返答相済退出、
一町奉行御付院御付御目付等各再参ニ而恐悦申上有之、
一未半刻前
剣璽清涼殿ヘ渡御、右御道筋桜町殿唐御門より北へ、建春門より渡御、但人留之義下御所より御下知有之、
一御譲位御受禅御祝義御使
  長橋殿 右京大夫
院御所へ
 御太刀一腰 御馬代金六枚 綸子十反
 昆布鯣鶴一箱宛 御樽三荷
 御移徒ニ付
 御棚一箱 白銀五十枚 昆布一箱 鯣一箱 生鯛一折 御樽三荷
    中略
一今日より三箇日内侍所神饌供進、大床子御膳、朝餉、
一今日乾御門 蛤御門 清和院口御門より雑人往来、
一子半刻前御受禅御作法被為済、
廿三日、
一御譲位御受禅御祝義
 一条関白殿へ
勅使梅渓中将殿添使下川辺外記
 御太刀一腰 御馬代金一枚 紗綾十巻 昆布鯣塩鯛一箱宛 御樽一荷
一今度院御所へ御料一万石被進候旨所司代より伝奏衆へ御達有之、
一御譲位御受禅御祝義献上
 御太刀一腰   所司代大久保加賀守
 御馬代金一枚  使筑馬源三左衛門
右献上之品勘使所へ預置、追而関東使参内之節御披露也、


 さて、以前、ご紹介したように、博学で知られた一条兼良の『代始和抄』には、御譲位による皇位継承では、「警固、固関(こげん)、節会、宣制、剣璽渡御(けんじとぎょ)、新主の御所の儀式など」が行われ、とくに父子継承でない場合は「上表、揖譲の儀」が行われることが解説されています。

 とすると、光格天皇から第六皇子・仁孝天皇への御譲位では、「上表の儀」はないにしても、「警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式など」はあったであろうことが推測されます。

 けれども、少なくとも『仁孝天皇実録』に引用された「寛宮御用雑記」からは、仙洞御所への行幸、節会、剣璽渡御などがあったことは分かりますが、それらの詳細を十分にうかがい知ることはできません。
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