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関係者各位へネット署名のお願い [御代替わり]

関係者各位

平成29年夏



▽1 オンライン署名にご協力ください
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 オンライン署名のウェブサイト「change.org」を利用して、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」というネット上の署名活動を始めました。

 歴史が始まって以来、天皇は一貫してわが国の統治者であられます。当然、御代替わりの諸儀礼は国家行事であるべきだと思いますが、現在はそうはなっておりません。「践祚(せんそ。皇位継承)」「即位の礼」「大嘗祭」と続く一連の皇位継承儀礼はすべて「国の行事」と位置づけられるべきだと考えますが、いかがでしょうか。

 今上陛下の御譲位による、次の御代替わりが目前に迫っています。御代替わり諸儀礼のあり方の見直しを、政府・宮内庁に強く求めたいと思いませんか。

 お手元にパソコンやスマホがあれば、世界中どこからでも賛意を表明することが可能です。ぜひ皆様のご理解、ご協力をお願いします。

 URLは以下の通りです。「change」「御代替わり諸儀礼」などをキーワードに、検索していただければ、ページにアクセスすることができるはずです。
https://www.change.org/p/政府-宮内庁-御代替わり諸儀礼を-国の行事-に 〉

 あるいは「ネット署名には法的効力がない」とお考えの方もおられるかもしれませんが、正規の署名活動に手間暇をかけられる余裕がないというのが現実です。ご理解のほどよろしくお願いします。

 キャンペーンを始めて約3か月、賛同者が200人を超えましたが、行政の重い腰を動かすにはまたまだ力が足りません。同憂の士のご協力を切にお願い申し上げます。

 サイトには賛同者のコメント欄もあります。応援のメッセージを心からお待ちします。


▽2 与えられた時間は限られている

 今春の「問題提起」でも申し上げましたように、いよいよ次の御代替わりが差し迫ってまいりました。

 報道によれば、陛下の退位と改元の期日には、いまのところ来年末か来年度末の2案があり、政府は9月に、この期日を決定・公表するようです。

 来年暮れに「退位」「新天皇即位」、翌年元日に「改元」というスケジュールか、再来年3月末に「退位」「新天皇即位」、4月1日に「改元」となるのか、いずれにしても皇位継承の関係予算は来年度(平成30年度)予算に計上されることになります。

 したがってその概算要求はこの夏に行われます。期日が未定であるため、宮内庁は金額を示さない事項要求とする方針であると過日、伝えられました。

 昭和から平成への御代替わりでは、諸儀礼が「国の行事」と「皇室行事」とに二分されました。「国の行事」なら宮廷費、「皇室行事」なら内廷費扱いとなります。

 御代替わり諸儀礼をすべて「国の行事」とするのなら、関係する経費はすべて宮廷費から支弁されるべきです。

 法律と先例、予算に縛られる行政を突き動かし、皇室行事の正常化を図るために、私たちに残された時間はきわめて限られているということになります。


▽3 どうなる剣璽渡御の儀

 また、報道によると、政府部内では、「退位の儀式」をどのように行うのか、が目下の検討課題とされているようです。儀式の形式と法的位置づけについて検討する委員会が設置されるとも伝えられます。

 室町時代の古典学者で、「日本無双の才人」と評された一条兼良の『代始和抄(だいはじめわしょう)』には、「御譲位のときは、警固、固関(こげん)、節会(せちえ)、宣制、剣璽渡御(けんじとぎょ)、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」とあります。

 200年前に譲位された史上最後の天皇・光格天皇の場合、宮内省編『光格天皇実録』によると、譲位・受禅の前日、警固・固関の儀が行われ、当日はまず天皇が仙洞御所(桜町殿)へ行幸されました。その際、剣璽渡御が伴われ、総勢数百人の行列が組まれました。午後には、剣璽が桜町殿から清涼殿に渡御し、新帝の前で宣命(せんみょう)が読み上げられたのち、剣璽が新帝・仁孝天皇の御所へと遷られました。

 譲位の儀式の中心は、皇位の御印である剣璽の渡御のように見えます。

 次の御代替わりで、皇室伝統の儀式が採用されるとすれば、とりわけ剣璽渡御をどのように法的に処理するのか、が最大の問題となりそうです。

 明治42年の登極令(とうきょくれい)では、大行天皇崩御ののち、新帝は皇位継承のため、(1)賢所の儀、(2)皇霊殿、神殿に奉告の儀、(3)剣璽渡御の儀、(4)践祚後朝見の儀、の4儀式からなる践祚の式を行うこととされ、これらは「国務」と位置づけられました。

 けれども、新憲法下の平成の御代替わりでは、一連の儀式が2つに区分され、非宗教的と見る、(3)(4)だけが「国の儀式」とされ、「剣璽渡御の儀」は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称されました。

 さらに践祚後朝見の儀は、「即位後朝見の儀」と改められ、平安以来の「践祚」と「即位」の区別が失われたうえに、本来あるべき剣璽の御動座が行われませんでした。

 次の御代替わりでも、いまのままでは、悪しき前例が踏襲され、「国の行事」と「皇室行事」の二分方式、儀式の非宗教化が採用されることでしょう。その背景にはいうまでもなく、いびつな政教分離主義、克服されざる国家神道論の存在があります。

 関係者各位のご理解とご協力、そして行動が、いまこそ必要なときはありません。

タグ:御代替わり
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3段階で進められた御譲位の儀式? ──所功「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」を読む [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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3段階で進められた御譲位の儀式?
──所功「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」を読む
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 敬愛する所功先生(京都産業大学名誉教授)が、「〈資料紹介〉光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」と題して、光格天皇の御譲位の儀式の具体的な中身について、「藝林」4月号(財団法人日本学協会藝林会)に執筆されていますので、ご紹介します。

 いうまでもなく、光格天皇は200年前に譲位された歴史上最後の天皇です。報道によれば、今上天皇の御譲位が来年末もしくは来年度末に予定され、政府・宮内庁は譲位の儀式の内容について検討を進めているとのことですから、光格天皇の御譲位の儀式に関心が集まるのは当然でしょう。

 タイムリーな〈資料紹介〉を書かれた所先生に、心から敬意を表したいと思います。


▽1 『貞観儀式』と『光格天皇実録』

 リポートの冒頭、所先生は、史上、譲位された天皇は皇極天皇から光格天皇まで64代(全90代の7割)に上ると指摘したうえで、平安初期以降になって、その詳しい儀式次第や実施記録が見られると解説しています。

 所先生がまず取り上げるのは、『貞観儀式』(9世紀)の「譲国の儀」です。リポートをなぞってみます。

 ──まず譲位予定の3日前、平安京から関所の置かれていた伊勢・近江・美濃の3国に、関契などを持った勅使を遣わし、万一に備えて警備を堅固にする「固関(こげん)」が行われる。
 ついで、譲位される天皇が、内裏を去って仙洞御所に遷られる。
 そのうえで当日、天皇が紫宸殿出御され、皇太子が春宮坊を出て、紫宸殿の殿上の座に就き、親王以下文武官人が南庭に列立する。
 そして「宣命使」が「譲位の宣命」を読み上げると、皇太子は皇位を譲り受け、「新帝」となられたことになる。
 そこで「新帝」は紫宸殿の南階を下りて、いったん春宮坊に戻られる。その際、内侍(女官)が「節剣」を、また少納言(男官)が「伝国璽の櫃」と「鈴印・鑰等」を、さらに近衛少将が「供御の雑器」を、「今上の御所」へ持参する。
 ただ10世紀以降は節剣ではなく、「神璽」と「宝剣」を内侍が持参するようになったものとみられる。

 以上のようにまずは説明し、「固関」「行幸」「宣命」「節剣などの持参」という儀式の流れが「中世から近世までほとんど変わりがない」と指摘して、さらに先生は、光格天皇の事例を「詳しく検討」しようと試みるのでした。

 その場合、先生が取り上げるのは、『光格天皇実録』(宮内省編)です。

 すでにこのメルマガでご紹介したように、『光格天皇実録』は「禁裏執次詰所日記」「山科忠言卿伝奏記」「御系譜」「日次案」の資料が引用されています。先生は漢文で書かれた資料を読み下し、突き合わせて、儀式の展開を詳しく説明したうえで、次のように、3段階の儀式があったと結論づけています。

 ──「譲位・受禅」の儀式は、
 まず午前(辰の刻)、光格天皇が内裏から剣璽などとともに桜町殿(仙洞御所)へ行幸された。
 ついで午後(未の刻)、剣璽が下御所(桜町殿)から清涼殿に渡御すると、新主の仁孝天皇が御帳の椅子に着かれ、宣命使が宣命を読み上げ、剣璽が新主の御所へ運ばれた。
 さらに真夜中(子半刻)、内裏で「折紙」を給わった院司が、祝意を表して退出し(桜町殿へ参向)、関白以下が新主に祝賀を申し上げた
 というだいたい3段階があった。


▽2 『代始和抄』に言及がない

 3つのことを、指摘させていただきます。

 まず1点目。

 所先生は素人の私などとは比較にならないほど古今の資料に通じているでしょうが、どういうわけか、少なくともこのリポートでは、室町時代の古典学者で、「博洽第一の人」「日本無双の才人」(福井久蔵『一条兼良』昭和18年)と評されたらしい一条兼良の『代始和抄』への言及がありません。

 当メルマガの読者ならご存じのように、赤堀又次郎は『御即位及大嘗祭』(大正3年)の巻末に、「御即位および大嘗祭の儀を記したる古書のなか、その詳らかなることは貞観儀式に超えたるものなく、簡にして要を得たるはこの代始和抄におよぶものなし」として『代始和抄』の全文を引用しているほどです。

 その『代始和抄』の冒頭に記されているのが、「御譲位の事」であり、次のように記述されています。

「父子にあらずして受禅のときは、皇太子参上して、椅子(いし)につきて上表の礼あり」

「父子譲国のときは、義譲のこと、なし」

「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」

 所先生は、譲位の儀式には、(1)天皇行幸、(2)宣命、(3)御所の儀式、の3段階があると解説していますが、一条兼良は、(1)警固、固関、(2)節会、(3)宣制、(4)剣璽渡御、(5)新主の御所の儀式、の5段階と説明しています。

 指摘したい2点目は、依拠すべき資料です。

 すでに『代始和抄』のことは申しましたが、所先生はもっぱら『光格天皇実録』に引用された資料を参照し、『光仁天皇実録』が引用する資料については、「寛宮(ゆたのみや)御用雑記」のみを「注」で言及しているだけで、「野宮定祥日記」「公卿補任」に関しては取り上げていません。

 なお、「寛宮」は、所先生によれば、仁孝天皇の幼名ではなく、光格天皇の「同母兄妹」と説明されています。

 先生のリポートには、『国書総目録』(第3巻)によると、光格天皇御譲位に関して、『光格天皇御譲位一会』『光格天皇御譲位一会文書』『光格天皇御譲位一会催方願書留』など、全部で25種の記録と絵図があることが知られていると記述されています。

 それならば、それらを「資料紹介」しても良さそうなものですが、先生は『光格天皇実録』が引用する資料を「紹介」するばかりで、しかもリポートの後半のほとんどは、『国書総目録』には記載がない、国立公文書館が所蔵する『桜町殿行幸図』2巻の「紹介」に費やされています。

 できれば、『国書総目録』の資料もくわしくリポートしていただけないでしょうか。


▽3 光格天皇を描いた『桜町殿行幸図』!?
桜町殿行幸図.png

 3点目は、ほかならぬ、この『桜町殿行幸図』です。ご指摘のように国立公文書館デジタルアーカイブで、いつでも誰でも見られます。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2010020818324946818

 2巻とも20メートルを超える大作で、色彩鮮やかに、光格天皇が乗っておられるとおぼしき鳳輦ほか、色彩鮮やかに描かれ、役名・人名まで書き込まれた絵図に、所先生がいたくこだわっているらしいのは、この行幸図が御譲位と関連があるとお考えだからです。

 先生によれば、『光格天皇御譲位行列図』(5巻。尊経閣文庫)のうち「行幸図」上下2巻は『桜町殿行幸図』とほぼ完全に一致するそうです。しかも『行列図』には「行啓図」「剣璽渡御節会図」「武家警衛供奉図」までそろっている。

 そうしたことから類推すると、『桜町殿行幸図』は、「光格天皇が(文化14年3月22日の御譲位のとき)、内裏から仙洞御所に行幸された行列を丁寧に描いた絵巻」に違いない。御用絵師の原在明が描き写し、幕府に進呈された、と所先生は解釈するのです。

 公文書館のサイトには「作成年月日 文化14年3月」「写本」とありますが、「光格天皇」との説明はとくにありません。

 ついでながら、アメリカのボストン美術館には明治のお雇い教師フェノロサが収集した吉村周圭筆「行幸図」が秘蔵されています(藤田覚『幕末の天皇』)。

 藤田東大名誉教授はこう解説しています。

「(光格天皇が)寛政2年の仮御所から新御所に移る遷幸の行列を描いたものとされ、人物の表情や装束などがきわめて精密に描かれた盛大な行幸図はたいへんに貴重で、歴史資料としても価値が高いとの解説があった」

 ボストン美術館の説明では、「Emperor Kokaku Returning to the Capital over the Sanjo Bridge, Japanese, Edo period, late 18th?early 19th century, Yoshimura Sh!)kei (Japanese, 1736 - 1795)」とされています。
http://www.mfa.org/collections/object/emperor-kokaku-returning-to-the-capital-over-the-sanjo-bridge-24991

 さて、御譲位の儀式の中身についても触れるつもりでしたが、長くなりましたので、次回にします。



☆ひきつづき「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンへのご協力をお願いいたします。このままでは悪しき先例がそのまま踏襲されるでしょう。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を求めます。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

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「寛宮御用雑記」に記録された光格天皇の御譲位 ──諸儀式の詳細はうかがい知れず [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「寛宮御用雑記」に記録された光格天皇の御譲位
──諸儀式の詳細はうかがい知れず
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 すでにご紹介したように、宮内省図書寮が編修した『光格天皇実録』(昭和6〜22年)は、200年前の文化14年3月22日、「(光格天皇には)桜町殿において受禅あらせられ、皇太子恵仁親王に譲位あらせらる」(原文は漢字片仮名交じり)と記述しています。

 また同じく『仁孝天皇実録』(同)には、「二十二日、清涼殿に於いて受禅あらせらる、是より先、光格天皇、桜町殿に行幸あらせられ、同殿より剣璽渡御の儀あり、是日、詔して一条忠良をして、旧の如く万機を関白せしむ」とあります。

 この光格天皇から光仁天皇への御譲位は実際、どのように行われたのか、もう少し詳しく見てみましょう。

『光格天皇実録』には「禁裏執次詰所日記」「山科忠言卿伝奏記」「御系譜」「日次案」が、『光仁天皇実録』には「寛宮(ゆたのみや)御用雑記」「禁裏執次詰所日記」「山科忠言卿伝奏記」「野宮定祥日記」「公卿補任」の資料がそれぞれ引用されています。

 これらはほとんど漢字だらけで、読みやすいものではありません。しかし唯一、「寛宮御用雑記」だけは若干、ひらがなが交じり、いくらか理解できそうなので、以下、ご参考までに、原文を忠実に抜き出してみることにします。

 なお寛宮は仁孝天皇の幼名です。


「寛宮御用雑記」
文化十四年三月廿二日、
一桜町殿え(ママ)行幸、御譲位御璽渡御御受禅也、
一所司代大久保加賀守丑半刻衣冠ニテ参内、御内玄関より伺公之間へ被通菓酒出ル、御両伝面会無之、卯半刻過行幸御催、唐門腋門より御門外南方ニテ御見送リ行啓後引続供奉、
一行幸辰刻過、御道筋南殿より宜秋門代より南へ建礼門前ヲ東へ、桜町殿唐門より入御、行啓同刻朔平門より西へ、東門通リ南へ南門通東へ新御殿へ御入、
一行幸被写済恐悦執次御賄頭奥ヘ申上ル
一所司代於桜町御所節会拝見、相済御祝同粥御酒吸物出恐悦被申上、夫より中宮新御殿へ被参恐悦被申上退出、再禁中へ被参伝奏衆御面会恐悦被申上、御酒吸物出ル、次ニ大御乳人出会口祝有之、伝奏衆再会御返答相済退出、
一町奉行御付院御付御目付等各再参ニ而恐悦申上有之、
一未半刻前
剣璽清涼殿ヘ渡御、右御道筋桜町殿唐御門より北へ、建春門より渡御、但人留之義下御所より御下知有之、
一御譲位御受禅御祝義御使
  長橋殿 右京大夫
院御所へ
 御太刀一腰 御馬代金六枚 綸子十反
 昆布鯣鶴一箱宛 御樽三荷
 御移徒ニ付
 御棚一箱 白銀五十枚 昆布一箱 鯣一箱 生鯛一折 御樽三荷
    中略
一今日より三箇日内侍所神饌供進、大床子御膳、朝餉、
一今日乾御門 蛤御門 清和院口御門より雑人往来、
一子半刻前御受禅御作法被為済、
廿三日、
一御譲位御受禅御祝義
 一条関白殿へ
勅使梅渓中将殿添使下川辺外記
 御太刀一腰 御馬代金一枚 紗綾十巻 昆布鯣塩鯛一箱宛 御樽一荷
一今度院御所へ御料一万石被進候旨所司代より伝奏衆へ御達有之、
一御譲位御受禅御祝義献上
 御太刀一腰   所司代大久保加賀守
 御馬代金一枚  使筑馬源三左衛門
右献上之品勘使所へ預置、追而関東使参内之節御披露也、


 さて、以前、ご紹介したように、博学で知られた一条兼良の『代始和抄』には、御譲位による皇位継承では、「警固、固関(こげん)、節会、宣制、剣璽渡御(けんじとぎょ)、新主の御所の儀式など」が行われ、とくに父子継承でない場合は「上表、揖譲の儀」が行われることが解説されています。

 とすると、光格天皇から第六皇子・仁孝天皇への御譲位では、「上表の儀」はないにしても、「警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式など」はあったであろうことが推測されます。

 けれども、少なくとも『仁孝天皇実録』に引用された「寛宮御用雑記」からは、仙洞御所への行幸、節会、剣璽渡御などがあったことは分かりますが、それらの詳細を十分にうかがい知ることはできません。
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「光格天皇実録」に記録された「御譲位」「改元」──「待ったなし」となった次の御代替わりだが…… [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「光格天皇実録」に記録された「御譲位」「改元」
──「待ったなし」となった次の御代替わりだが……
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 報道によれば、政府は、「退位と改元の期日」を「9月」に決定・公表する方向で検討に入ったようです。

 時事通信が伝えたところでは、来年暮れに「退位」「新天皇即位」、翌年元日に「改元」というスケジュールが有力とされていて、他方、宮内庁内には、再来年3月末に「退位・新天皇即位」、4月1日に「改元」という案もあるそうです。

 いずれにしても、いよいよ御代替わりが現実となってきました。

 記事が指摘するように、「退位の儀式」をどのように行うかが検討課題とされています。他紙の報道では、「退位と改元」の期日が正式決定したのち、政府内に「皇位継承」儀式の形式および法的位置づけについて検討する委員会が設置されると伝えられています。

 今上陛下から皇太子殿下に皇位が継承されれば、皇位の御印である剣璽が渡御(とぎょ)になりますが、当メルマガ2011年9月25日号に書きましたように、前回の御代替わりでは、「践祚(せんそ)」という伝統用語が使われなくなり、平安以来の「践祚」と「即位」との区別が失われ、さらに「剣璽渡御の儀」は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称されたうえ、即位後朝見の儀では伴われるべき剣璽御動座がありませんでした。

 この背景には、やれ国民主権だ、やれ政教分離だ、やれ国家神道だ、という不毛な議論があります。今回も同様の議論が政府内で再燃しているのでしょうか。そのことが国務たるべき御代替わりにモヤモヤ感をもたらしている最大の要因かと思われます。


▽1 仙洞御所から大がかりな剣璽渡御

画像は光格天皇の「桜町殿行幸図」(部分。国立公文書館デジタルアーカイブから)
桜町殿行幸図.png

 ちなみに、歴史上、最後の譲位をなさった江戸後期の光格天皇の場合はどうだったのでしょうか。『光格天皇実録』『仁孝天皇実録』(宮内省図書寮編修)から、以下、主だった綱文を抜き出してみます。

 抜粋に当たっては、『光格天皇実録』からの引用を「 」内に記し、[ ]内に『仁孝天皇実録』からの引用および私のコメントを載せます。『実録』の綱文は原文では漢字片仮名交じりですが、適宜、編集してあります。


「文化14年正月18日、この日、御譲位御受禅の御祝儀として、関東に賜物あり。」
[→『光格天皇実録』に引用される「山科忠言卿伝奏記」など、当時の一次資料では、「退位」ではなく、まして「生前退位」ではなくて、「御譲位」「御受禅」と表現されています]
「2月14日、来月22日卯刻に御譲位の儀、御治定あり。」
「3月11日、御譲位後の御幸始御祝儀のことを仰せ出さる。」
「13日、稲荷、梅宮両社において御譲位、御受禅行幸の御祈祷を修せしむ。」
「19日、御譲位行幸御受禅剣璽渡御の御内見あり。」
[→光格天皇から仁孝天皇への「御譲位」の儀式は剣璽渡御を伴っていました]
「21日、警固・固関(こげん)の儀あり。」
[→当メルマガ本年5月6日号に書きましたように、一条兼良『代始和抄』の「御譲位の事」の項には、「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり。御譲国は天子の重事、世の変わり目たるによって、非常を戒めんために、警固、固関といふことをまづ最前におこなはるるなり」とあります]
「22日、桜町殿に行幸あらせられ、皇太子恵仁親王に譲位あらせらる。」
[22日、清涼殿において受禅あらせらる。これより先、光格天皇、桜町殿に行幸あらせられ、同殿より剣璽渡御の儀あり。この日、詔して、一条忠良をして、旧のごとく万機を関白せしむ。]
[→「桜町殿」は太上天皇の御所たる仙洞御所で、もともと徳川幕府が後水尾天皇のために造営したものでした。譲位の儀式の前に光格天皇は仙洞御所に行幸になり、仙洞御所から清涼殿へ剣璽が渡御されたのは注目されます。「日次案(ひなみあん)」には、大がかりな行幸の様子が詳細に記録されています。
 平成の御譲位ではどんな儀式になるのでしょう。上皇のお住まいを京都にという提案がありますが、もし京都から数百人の行列を組んで剣璽渡御が行われたらすごいことです]
「23日、布衣始の儀あり。」
「24日、太上天皇の尊号を受けさせらる。この日、吉書御覧あり。」
[24日、先帝に太上天皇の尊号を上らる。→尊厳宣下は「太上天皇」です。「上皇」ではありません。御譲位の2日後という点も注目されます]
「26日、御幸始あらせらる。」
[26日、御父光格上皇の御幸始により、御祝儀を献ぜらる。]
「4月28日、尊号御報書の儀。」
「5月7日、尊号御報書の勅答を受けさせらる。昼御座に出御あらせらる。」
「5月18日、御譲位後の和歌御会始を行はる。出御あらせらる。」
「8月7日、御譲位後の和歌当座御会始を行はる。小御所に出御あらせらる。」
「9月21日、仁孝天皇、即位の礼を行はる。よって禁裏に御幸あらせらる。」
[21日、紫宸殿において即位の礼を行はせらる。→3月の御譲位から半年後でした]
[文化14年11月16日、新嘗祭を行はる。出御あらせられず。→新帝の親祭はなかったということのようです。『光格天皇実録』にも記載がありませんから、同様にお出ましはなかったようです。即位の礼が行われても、まだ改元は行われていません]
[17日、豊明節会を行はる。出御あらせられず。→新帝のお出ましはありませんでした]
文化15年正月1日、四方拝、出御あらせらる。[→四方拝に太上天皇がお出ましになっているのは注目されます]
「4月22日、改元定院奏あり、弘御所に出御あらせらる。」
[→改元について上皇に奏聞が行われたようです。前年3月の御譲位から1年以上が過ぎています。
 今日の元号法(昭和54年)は「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」と規定するだけです。したがって厳密にいえば、皇位継承の期日と改元の期日の関係については何も定めていません。譲位の日と改元の日をずらすことも可能のように見えます。国民生活の混乱を避けたいのなら、践祚から一定の準備期間を置いて改元したらどうでしょう]
[文政元年11月17日、大嘗会御習礼あり。光格上皇、これに御幸あらせらる。→習礼とは予行練習です]
「文政元年11月21日、大嘗祭なり。よって禁裏に御幸あらせられ、悠紀殿に渡御あらせらる。」
[21日、大嘗祭を行はる。この日、光格上皇、内々、これに御幸あらせらる。→先帝が内々に、悠紀殿の儀にお出ましになったということでしょうか。即位の礼は前年9月、大嘗祭はその翌年の秋でした。明治42年の登極令で、「大嘗祭は即位の礼を訖(おわ)りたるのち、続いてこれを行ふ」とされたのです。前回の御代替わりでは10日後でした]


▽2 予算編成上、ギリギリのスケジュール

 さて、来年末もしくは来年度末に予定される「退位と改元」について、この9月に「期日」を決定・公表するのは、伝えられるように、「来夏の公表」を「前倒しした」というより、予算編成上、ギリギリの選択だということではないでしょうか。

 来年度に御代替わりが実施されるのなら、「国の行事」とするか否か、宮廷費とするか否かはともかく、30年度予算の概算要求は来月8月末まで、政府予算案は年末までに閣議決定されますから、「9月」ではむしろ遅いはずです。

 言い換えれば、御譲位の儀式をどのような形式で行い、どのように法的に位置づけるか、したがって「国の行事」とするか、皇室行事とするか、宮廷費か内廷費か、は「期日の正式決定のあと」ではなくて、その前に、政府部内で決定してしまうということでしょうか。

 御代替わり諸儀礼を「国の行事」にすべきだと考える立場からすれば、文字通り、待ったなしの状況といえます。どうか皆様、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンにご協力ください。同憂の士のご協力を切にお願いします。
https://www.change.org/p/政府-宮内庁-御代替わり諸儀礼を-国の行事-に 〉
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即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない ──平成の御代替わり「2つの不都合」 5 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない
──平成の御代替わり「2つの不都合」 6
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 即位の礼と大嘗祭の日程について、続けます。

 平成の御代替わりでは、平成2年11月12日に即位礼正殿の儀が行われ、その10日後、22日から23日にかけて、大嘗祭が挙行されました。

 昭和の御代替わりもそうでした。昭和3年11月10日に即位の大礼が行われ、その4日後、14日夕刻から大嘗祭が行われました(『昭和大礼要録』昭和6年)。

 なぜ「10日後」あるいは「4日後」なのでしょうか。

「昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐(せいひつ)が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです」

 昭和から平成の御代替わりに携わった永田忠興元掌典補が問題点を指摘するのは道理です。

 即位の礼・大嘗祭の「期日」に関する赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)の解説を読んでみます。

「つつしみて按ずるに、大礼を行はるる期日は、宮内大臣・国務大臣の連署をもって中外に公告し、かつ同時に賢所、皇霊殿、神殿ならびに神宮、神武天皇等の山陵にこれを告げたてまつらるるなり。
 さて、このたびの大礼の期日は、いまだ公告なければ、いづれの日に行はるるやを知らず、民間に伝ふるところにては11月23日、例年新嘗祭の日に大嘗祭を行はれ、その数日後前に即位の礼を行はるべしとも、また11月3日、今上天皇立太子の日に即位の礼を行はれ、13日の卯の日に大嘗祭を行はるべし、などとも伝ふ。
 そのいづれの日に決せらるるやを知らねど、記して参考に備ふ」

 赤堀は本文にはそう書いていますが、実際に本が刊行される段階では期日は定まっていました。巻頭に期日が定まったことを知らせる官報号外が引用されています。

 じつは赤堀の『御即位及大嘗祭』は少なくとも大正3年版と翌年の再版とがあるようで、前者には大正3年1月17日官報号外が次のように引用されています。(原文は漢字片仮名交じり。以下同じ)

 即位の礼および大嘗祭の期日、左の通り定めらる
即位の礼 大正3年11月10日
大嘗祭  同  年同 月13日
 大正3年1月17日  国務各大臣宮内大臣連署

 しかし実際にはこの期日には行われませんでした。すでに申し上げましたように、昭憲皇太后が3年3月に崩御され、大正の即位礼・大嘗祭が延期されたからです。

 4年5月に再販された赤堀の本には、あらためて定められた期日を告知する大正4年4月19日官報(号外)が引用されています。

即位の礼および大嘗祭の期日、左の通り定めらる
  即位の礼 大正4年11月10日
  大嘗祭  同  年同 月14日
 大正4年4月19日 内閣各大臣連署

 大正天皇の大嘗祭は即位の礼の、じつに4日後でした。なぜ相次いで執り行う必要があったのでしょうか。

 かつてはどうだったのでしょう。赤堀の解説を読んでみましょう。

「古例、即位の礼を行はるる日は、定まれることなし。ただし、中古以来は、陰陽道の説をこれらのことに採用せられたれば、陰陽頭に命じて、これを勘(かんが)へ申さしめらるる例なり。
 寛永7年中御門天皇、即位の礼を行はれしときには、陰陽頭安倍泰連、その年の『11月11日巳の時』をもって大礼を行はるるに宜しき吉日、吉時と選定して上申し、これを採用ありし類いなり」

 大嘗祭はどうでしょうか。

「大嘗祭を行はれし日、往古のことは詳らかならず。
 中古以来、11月下の卯の日を例とす。もし11月中に3か度、卯の日あれば、中の卯の日を用ひられし例なり。新嘗祭も卯の日に行はれたり。卯の日と定められし理由はこれを知らず」

 明治の皇室典範は第11条に

「即位の礼および大嘗祭は京都において、これを行ふ」

 と定め、登極令の第4条は

「即位の礼および大嘗祭は秋冬の間において、これを行ふ。大嘗祭は即位の礼を訖(おは)りたるのち、続いてこれを行ふ」

 と規定していました。これには今日とは異なる、交通機関の未発達が背景にあるものと想像されます。明治末年なら新橋・神戸間が13時間かかりました。即位の礼・大嘗祭を引き続いて執り行わざるを得ない事情があったということでしょう。

 しかし京都で挙行するという規定もない今日では、もっと時間的余裕をもって挙行してよろしいのではないでしょうか。

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即位の礼と大嘗祭が相次いで挙行されるのは新例 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 5 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位の礼と大嘗祭が相次いで挙行されるのは新例
──平成の御代替わり「2つの不都合」 5
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 さて、もうひとつの不都合、つまり、即位の礼と大嘗祭の日程について、です。

 永田忠興元掌典補は問題点を、次のように指摘しています。

「即位礼の10日後に大嘗祭が行われるという日程も、再考する必要がありそうです。
 昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐(せいひつ)が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです。
 即位礼と大嘗祭とを、もっと期間を空けるべきだ、と民俗学者の柳田国男が書いているのを読んだことがあります」

 赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)が、即位の礼および大嘗祭が行われる「時期」と「期日」について解説していますので、ご紹介します。

 まず「時期」です。

「つつしみて按ずるに、登極令によれば、即位の礼と大嘗祭とは同時に相次いで挙行せられ、相離るべからざるものと定められたり。しかして大嘗祭には新穀を用ゐらるる例なれば、そのために秋冬のあいだに行はるることとなれるなり」

 ご承知の通り、登極令は、即位の礼・大嘗祭について。以下のように定めています。

第4条 即位の礼および大嘗祭は秋冬の間において、これを行ふ。大嘗祭は即位の礼を訖(おは)りたるのち続いてこれを行ふ。

 けれども、これは新例だったようです。

「古例は、即位の礼と大嘗祭とを必ずしも相続いて行はれしにはあらず。即位にはもとより定まれる時なく、大嘗祭は、新穀供進の関係よりして、7月以前に即位あれば、その年に大嘗祭を行はれ、8月以後に即位のときには、翌年、大嘗祭を行はれし例なり」

 すでに平安前期の儀式書にそのことが記されています。

「貞観儀式に、『7月以前の即位には当年ことを行ひ、8月以後には明年ことを行ふ。諒闇の登極を謂ふにはあらず』といへる、これなり」

 大行天皇の服喪期間に即位の礼・大嘗祭が行われないのはいうまでもありません。

「諒闇は凶事にして上下謹慎のなかにあり。その間に神事は行はざることなり。登極令第18条に、『諒闇中は、即位の礼および大嘗祭を行はず』と載せられしは、貞観儀式に伝へるところと同義なり」

 それなら譲位の場合はどうなのか。

「いにしへは譲位の例ありしかば、諒闇登極ならぬ例あれど、いまはその慣例を改められて、天皇崩ずるときは皇嗣すなはち践祚あることに規定せられたれば、こののちはすべて諒闇登極のみとなりたり。ゆゑに践祚ののち1カ年以上を経たる秋冬のあいだに、即位の礼および大嘗祭は挙行せらるるなり」

 こうして登極令のもとで行われた大正天皇の即位の礼、大嘗祭は大正4年の秋冬に行われることとなりました。明治天皇が崩御されたのは7月でしたから、当初は3年の予定でしたが、3年3月に昭憲皇太后が亡くなられ、一年延期されたのでした。

 昭和天皇の場合は、大正天皇が崩御されたのが12月で、1年の服喪を経て、昭和3年秋に即位の大礼が行われました。

 今上天皇の場合は、昭和天皇が崩御されたのが1月で、即位の礼・大嘗祭は翌2年秋に行われました。登極令も皇室服喪令も日本国憲法施行とともに廃止されましたが、これらの規定に準じて、挙行されたということでしょう。

 さて、となると、次の御代替わりはどうでしょうか。伝えられるように、今上陛下の譲位にもとづく皇位継承が来年暮れだとすれば、即位の礼および大嘗祭は再来年の秋という日程になるのでしょうか。

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臨時職員が任命された大嘗祭の古例 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 4 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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臨時職員が任命された大嘗祭の古例
──平成の御代替わり「2つの不都合」 4
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 赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)は、大礼使官制を掲載したあと、古例について説明しています。
昭和の大嘗宮.png
 以下、これを全文引用します。(漢字を開くなど、適宜編集しています)

「古例、即位の礼は、臨時のことなれども、その儀式だいたい正月元日の恒例の朝賀と同じければ、とくに職員を任命せらるること少なく、大臣、叡旨を承りて、殿上に侍する侍従4人と少納言2人とを定め、その当日、門外のことは外弁1名、閤外(こうげ)大臣、門内のことは内弁1名閤内大臣これを掌り、百官の進退は典儀これを令し、賛者ありてこれをたすく。
 事務は式部省その他に掌る。これ中古のさまなり。
 近世は即位も大嘗祭も、摂政関白にてこれを総裁し、伝奏(てんそう)にて事務を統括し、行事官等をもって調度を備へしものの由なり。即位の礼に内弁典儀等をもって式場を整理せられしは、中古と同じかりしなり。
 大嘗祭は、臨時の儀式にして、かつその事務、即位よりもなほ繁雑なれば職員を任命せらるることも夥しかりき。
 中古には大納言、中納言のなかにて2人と、参議1人とを悠紀所、主基所の検校に補せらるるは大礼使長官の如く、四位五位のなかにて4人の行事をおかるるは事務官、典礼官等のごとし。
 その神事に親しく仕ふるものは、みな卜(うらなひ)をもって定められしは、今日と大いに事情の異なるところ、悠紀、主基の両国に重きをおかれしは費用支出の関係より起こりたるなり。
 しかして徳川時代、武人は、表面にはけっして大礼に関係なかりしものなり。その由は前の条に述べしがごとし」

 以上、赤堀によれば、歴史的にみると、即位の礼では特別の機関が置かれなかったが、大嘗祭では職員が臨時に採用されたようです。

 このような歴史に倣い、大正の御代替わりでは大礼使が置かれることになったということでしょうか。

 大正の大礼では、大礼使官制に基づき、大礼使総裁に貞愛親王殿下(伏見宮)が、長官には原敬が勅命されました。

 昭和の御代替わりも同様で、総裁には閑院宮載仁親王、長官は近衛文麿が就任し、ある書物によると、大礼使職員は総裁以下510人を数えたとのことですが、日本国憲法下で初めてとなる平成の御代替わりでは、大礼使は置かれませんでした。

 憲法と同格の法的地位にあった明治の皇室典範には「第11条 即位の礼および大嘗祭は京都において、これを行ふ」と定められていましたが、一法律に過ぎない戦後の皇室典範には「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と規定するのみで、大嘗祭への言及すらありません。

 そして職員はひたすら眠い目をこすり、長時間勤務に耐えつつ、御代替わりに携わることになったのです。

 東京・横網の都慰霊堂は、都の外郭団体によって管理され、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を悼む春秋年2回の慰霊法要には、都の職員が多数協力しているようです。また、阪神淡路大震災の被災地・兵庫県では、県知事を会長とする県民会議が組織され、官民合同で「安全の日のつどい」などが行われています。

 前者は仏式の法要で、都内の5つの仏教寺院の持ち回りで行われています。皇族代表や都知事も焼香に訪れます。後者の追悼式典ではキリスト教音楽が奏でられ、一昨年の20式典は天皇陛下が皇后陛下を伴い、ご臨席になりました。

 だとしたら、即位の礼・大嘗祭を「国の行事」とし、官民を挙げてお祝いする現代的な方法が見出せないものでしょうか。

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赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』掲載の大礼使官制 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』掲載の大礼使官制
──平成の御代替わり「2つの不都合」 3
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 大正天皇の即位の礼・大嘗祭について解説を試みた赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)に、大礼使について、数ページにわたって説明しているので、紹介します。
koukyo01.gif
 赤堀はまず「大礼使」の概略を次のように説明しています。

「つつしみて按ずるに、即位の礼および大嘗祭の事務を掌るために大礼使をおかるる由は、登極令に見え、一昨年践祚のことありてのち大礼準備委員をおかれしが、昨年11月22日に大礼使の官制を公布せられ、即日任命ありたり。その官制によれば、総裁、長官、次官、参与官、事務官、典礼官などをおかるるなり。大礼使の任命とともに準備委員は罷(や)められたり」(漢字を開くなど適宜編集した。以下同じ)

 すでに述べましたように、登極令(明治42年2月)には、「大礼使」の規定がありました。

第5条 即位の礼および大嘗祭を行ふときは、その事務を掌理せしむるため、宮中に大礼使を置く

 大礼使官制は勅令第303号として、大正2年11月22日に公布されています。赤堀は下記のように、その全文を掲げています。

 長くなりますが、全文を引用します。

第1条 大礼使は、内閣総理大臣の管理に属し、即位の礼および大嘗祭に関する事務を掌る。
第2条 大礼使に、総裁1人を置く。
 総裁は、皇族のなかより、これを勅命す。
第3条 大礼使に、左の職員を置く。
 長官1人。次官2人。参与官若干人。事務官若干人。典礼官若干人。書記若干人。典礼官補若干人。
 前項職員のほか、必要あるときは、御用掛を置くことを得。
第4条 長官は、これを勅命す。
 次官、参与官、事務官および典礼官は、内閣総理大臣の奏請に依り、内閣において、これを命ず。御用掛を命ずるとき、また同じ。
 書記および典礼官補は、長官、これを命ず。
第5条 長官は、書部の職員を統括し、使務を総理す。
 長官事故あるときは、内閣総理大臣の指名したる次官、その事務を代理す。
第6条 次官は、長官を輔(たす)け、長官の定むるところにより、その分任の使務を掌理す。
第7条 参与官は、長官の命を承け、使務を輔く。
第8条 事務官は、上官の命を承け、事務を掌る。
 典礼官は、上官の命を承け、典式を掌る。
第9条 書記および典礼官補は、上官の指揮を承け、庶務および典式に関する事務に従事す。
第10条 長官は、親任官、次官および参与官は勅官任(ママ)、事務官および典礼官は奏任官、書記および典礼官補は判任官の待遇を受け、御用掛の待遇は各別にこれを定む。ただし、他の官職を有する者の待遇は、その官職につき受くる待遇に依る。
第11条 他の官職を有するに依り、大礼使職員を命ぜられたる者、その官職を退きたるときは退職す。
第12条 使務の処理に関する規定は、長官これを定む。

 附 則
 本令は、公布の日よりこれを施行す。

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皇室喪儀令と登極令の規定 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 2 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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皇室喪儀令と登極令の規定
──平成の御代替わり「2つの不都合」 2
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 平成の御代替わりでは、制度が整備されず、特別の組織もありませんでした。そのため官僚たちは、御代替わりという国家の重大事にもかかわらず、ひたすら眠い目をこすりつつ、毎日午前様の状態にならざるを得ませんでした。

 なぜそうなったのか。

 それは戦後70年間、皇室に関わる法制度が整備されなかったツケですが、それなら「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」(依命通牒第3項。昭和22年5月)に基づき、戦前の皇室喪儀令および登極令に準じて「大喪使」「大礼使」を設置すればいいものを、政府はそうはしなかったのです。

 皇室喪儀令は、永田忠興元掌典補が指摘しているように、「大正天皇が崩御になる2カ月前の大正15年10月に公布された、大正天皇の御大喪に合わせたようなものでしたが、当時の頭脳を結集して制度が作られました。けれども平成の御代替わりにはそれがありませんでした」。

 明治の皇室典範(明治22年2月)は「第二章 践祚即位」で、

第10条 天皇崩ずるときは皇嗣すなはち践祚し、祖宗の神器を承く
第11条 即位の礼および大嘗祭は京都において、これを行ふ

 と定め、さらに皇室喪儀令(大正15年10月)には、「大喪使」について、こう定められていました。

第5条 天皇、太皇太后、皇太后、皇后崩御したるときは大喪儀に関する事務を掌理せしむるため、宮中に大喪使を置く
 大喪使の官制は別にこれを定む

 登極令(明治42年2月)も同様に、次のように「大礼使」について定めています。

第5条 即位の礼および大嘗祭を行ふときは、その事務を掌理せしむるため、宮中に大礼使を置く
 大礼使の官制は別にこれを定む
(原文は漢字片仮名交じりだが、適宜編集した)

 けれども、昭和から平成の御代替わりでは、「国の行事」とされ、内閣が主催した「大喪の礼」については、「大喪の礼委員会」(委員長は竹下登首相)が置かれましたが、即位礼・大嘗祭の事務を取り仕切る「大礼使」は設置されなかったのです。

 もとより昭和天皇の御大葬では、葬場殿の儀などは「国の行事」とされず、今上陛下の即位の礼・大嘗祭のうち、大嘗祭は「皇室行事」とされたのです。

 したがって、一貫して事務を掌握する「大喪使」「大礼使」が設置されるはずはなかったということでしょう。そのしわ寄せを職員たちは被ることになったというわけです。明治・大正の日本人の方が合理的、現実的ではなかったでしょうか。

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特別な組織の不設置と即位礼・大嘗祭の日程 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 1 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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特別な組織の不設置と即位礼・大嘗祭の日程
──平成の御代替わり「2つの不都合」 1
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 昭和から平成への御代替わりには、さまざまな不都合が指摘されています。直接、携わった宮内庁職員OBの証言もあります(「昭和天皇の忠臣」が語る「昭和の終わり」の不備──永田忠興元掌典補に聞く)=「文藝春秋」2012年2月号。聞き手は私です)。

 そのなかでとくに納得しがたいものとして、私の印象に残っているのは、特別の組織が設置されず、政府職員が日常業務と併行して、御代替わり諸儀礼に取り組んだこと、それと、即位礼の10日後に大嘗祭が行われるという日程について、元掌典補の永田氏が批判したことでした。

 前者については、永田氏はこう語っています。

「総体的に見ると、国および国民統合の象徴である天皇の御位が継承されるという歴史の節目にあって、諸行事が無原則に、場当たり的に、ご都合主義で行われたことです。
 戦前は皇室喪儀令という成文法がありました。大正天皇が崩御になる2カ月前の大正15年10月に公布された、大正天皇の御大喪に合わせたようなものでしたが、当時の頭脳を結集して制度が作られました。けれども平成の御代替わりにはそれがありませんでした。
 特別の組織も設けられず、宮内庁の職員は日常の業務をこなしながら、併行して御代替わりに関する仕事に従事することになりました。詳細な記録が作られなかったのはそのためです。職員は正直、ひたすら眠りたいという思いをこらえつつ、毎日午前様の状態が続きました」

 制度も作られず、特別の組織もない。そのため官僚たちは、御代替わりという国家の重大事について、眠い目をこすりつつ、関わらざるを得なかったのでした。

 どうしてそういうことになったのでしょうか。

 後者については、こうです。

「即位礼の10日後に大嘗祭が行われるという日程も、再考する必要がありそうです。
 昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐(せいひつ)が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです。
 即位礼と大嘗祭とを、もっと期間を空けるべきだ、と民俗学者の柳田国男が書いているのを読んだことがあります」

 なぜ「10日後」なのでしょうか。何か、決まりがあるのでしょうか。以前はどうだったのでしょうか。

 いずれも改めるべき点があるのなら、大胆に改めるべきです。過去はどうだったのか、少し考えてみたいと思います。
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