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即位礼と大嘗祭を同じ月に行う理由 ──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 4 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位礼と大嘗祭を同じ月に行う理由
──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 4
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 大嘗祭は即位の礼のあとに、「続いてこれを行う」と、旧・登極令(明治42年)の第4条に定められていました。

 実際、大正の御代替わりでは、即位の礼は大正4年11月10日、大嘗祭は同月14日に行われ、昭和の御代替わりでは、即位の礼は昭和3年11月10日、大嘗祭は14日でした。

 そのため、御大典が行われた京都では、即位の礼のあと、市内はどんちゃん騒ぎとなり、静謐さとは無縁の喧噪のなかで、大嘗祭が挙行されることとなったと批判されています。

 日本国憲法の施行とともに登極令は廃止され、期日に関する定めは失われましたが、平成の御代替わりでは、即位礼正殿の儀は平成2年11月12日に、大嘗祭は10日後の22日に行われました。

 つまり、同月内に引き続いて行うと規定する旧・登極令に準じたことになりますが、なぜ同月に行われなければならないのでしょうか。


▽1 「京都においてこれを行う」

 以前、当メルマガに書いたように、赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)はこれを「新例」と説明しています(「即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない──平成の御代替わり『2つの不都合』 6」2017年7月18日号)。

 関根正直によれば、赤堀も解説していたように、即位の礼が7月以前なら大嘗祭は同年冬に行われ、即位の礼が8月以後の場合は翌年冬に大嘗祭を行うというのが、中古以来のならいでした。

 ところが、明治になって天皇が住まわれる宮城が東京におかれることとなり、しかも皇室典範(明治22年)には「即位の礼および大嘗祭は京都においてこれを行う」(第11条)と定められました。

 なぜそのようになったのか、関根は、先帝・明治天皇の聖慮によるものだと、次のように説明しています。

 ──明治13年、明治天皇は伊勢路御巡幸の折、京都に滞在された。当時の世相は、古風=旧弊とされ、破壊の対象とされており、殺風景没趣味に陥っていたのは京都も例外ではなかった。そのさまを御覧になった明治天皇はお嘆きになった。
 その後、ロシア皇帝(アレクサンドル3世)の戴冠式(1883年)が新都ペテルスベルグではなくて、旧都モスクワの旧殿で行われることを知り、一国の大礼は古風を存し、旧儀のままに行い、衆庶をしてその本を崇尚し、その始を忘れないようにするのがいいのだとお思いになり、皇室の大典も京都で行われるべきだとお考えになった。
 のちに岩倉具視贈太政大臣が京都御所の保存を政府に建言し、帝国憲法起草の準備として皇室の儀制調査を建議したのも、明治天皇の聖旨を奉じてのことだった。
 こうして明文規定ができた。


▽2 古例を復活させてはどうか

 しかし、御大典を京都で行うとして、旧例のように即位の礼が7月以前なら大嘗祭は同年冬に行い、即位の礼が8月以降なら大嘗祭は翌年冬に行うとした場合、どうなるのか、関根はまたこう説明しています。

 ──1年も経たないうちに2度も、車駕を移動することになり、儀鑾張行の繁に堪えない。供奉用度の費用も多額になるだろうから、古式に反しないかぎり、繁を避け簡に就くべきだと、明治天皇はお考えになり、即位の礼と大嘗祭はひきつづき行われる旨、登極令に定められることとなった。
 これらは憲法義解に註釈として書かれている。

 このように説明したうえで、関根は

「このたびの慶事は邦家の大典、国民の盛儀であり、国民みな感激狂喜するところであるが、熱情のあまり喧噪狼藉におよぶことが往々にしてあり、忌み慎むべきである」

 と警鐘を鳴らすのですが、現実は冒頭に述べたごとくでした。

 ところで、関根が指摘していないもうひとつの「理由」がありそうです。

 それは以前にも指摘した、今日とは異なる、交通機関の未発達です。明治末年なら新橋・神戸間が13時間かかりました。これでは「儀鑾張行の繁」もむべなるかな、です。即位の礼・大嘗祭を引き続いて執り行わざるを得ない事情がたしかにあったわけです。

 しかし今日では、東京から京都まで新幹線でわずか2時間余りです。しかも御大典を京都で挙行する法規定はもはやありません。即位の礼と大嘗祭を引き続いて執り行うべき理由はありません。

 だとすれば、むしろ古例を復活させてはいかがでしょうか。明治天皇ならば、どのようにお考えになったでしょうか。



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即位式、3度の変遷。仏式が神式化したのではない ──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位式、3度の変遷。仏式が神式化したのではない
──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 3
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 明治になって神仏分離が行われたことは誰でも知っています。神仏習合の清算から激しい廃仏毀釈へと転化した地域もあります。宮中行事も激変し、仏事は全廃され、歴代天皇の御霊牌などを祀るお黒戸は撤去されました。

 そのため、皇室行事は仏式から神式に変わったとか、宮中祭祀は明治の創作だなどと断定する研究者もなかにはいるようです。けれども、正確には、幕末の宮中では仏教のほか、陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたというのが、真相のようです(『明治維新神仏分離史料』など)。

 陰陽道が排除され、石灰壇御拝は毎朝御代拝に代わり、端午、七夕などの五節句が廃されたという歴史は、仏教から神道への変換という単純な図式では捉えきれないでしょう。


▽1 「神武創業の始めに原き」

 関根正直は、天皇の即位式には歴史上、3度の変遷がある、太古以来の国風が、古代に唐制風に改められ、そして明治になって神武天皇ご創業の古(いにしえ)に復したのだ、と説明しています。

 関根によれば、即位式は神武天皇の時代から行われており、その内容は『古語拾遺』(斎部広成。807年)によってうかがい知ることができるといいます。

 これによると、神籬(ひもろぎ)を立て、神々をまつり、宮門を守り、矛盾(ほこたて)を造り備えて、天璽鏡剣を正殿に奉安し、瓊玉(けいぎょく)を懸け、幣物をつらねて、祝詞(のりと)を申し、云々とあります。

 関根は、こうした即位の神事は奈良時代までひきつづき行われたであろうと推測しています。持統天皇の即位礼の場合も、同様に神璽鏡剣を奉り、寿詞(よごと)を奏する国風儀式が行われたと記録されています。

 ところが、その後、いまでいう国際化に伴う唐風化が起こりました。

 関根の説明では、古代朝鮮や支那政府との交流が始まり、時勢の影響や政治上、国交上の必要から、御即位の盛儀をもっぱら内外に示す方向に進み、服飾旌旗(せいき)などもすべて唐制に改まり、大極殿という唐風の宮殿で挙行されるようこととなりました。

 他方、古来の国風儀式は廃止されたというのではなくて、神璽鏡剣を奉上し、天神(あまつかみ)の寿詞を奏する儀式などは、ほとんどが大嘗祭の方に移され、行われ、伝えられることとなったのでした。

 そしてようやく明治になり、唐風が廃せられ、神武天皇の祭典式に復された、と関根は説明しています。王政復古の大号令には「諸事、神武創業の始めに原き」とありました。


▽2 平成の御代替わりは何だったのか

 関根によれば、御代替わり諸儀礼は、明治維新期に仏式から神式に変わったのではなくて、唐風から国風に復されたということになります。

 とすれば、「即位の礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」からなる、新「即位の礼」を「国の行事」(国事行為)として行い、他方、神武天皇即位にまで遡れる大嘗祭は憲法上の国事行為として行うことは困難とされ、「皇室行事」として挙行した先の御代替わりは、いったい何だったのでしょうか。

 関根の表現を借りれば、「4度目の変遷」となった、日本国憲法風の平成の御代替わりの功罪を、あらためて検証しなければならないと私は考えますが、いかがでしょうか。いまのままでは悪しき先例が繰り返されるだけでしょう。



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平安期以来の践祚と即位の区別 ──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 2 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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平安期以来の践祚と即位の区別
──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 2
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 関根は「第1章 総論」の冒頭で、即位礼・大嘗祭の国家的、公的性格について明言し、「皇室の御私事」ではないと断言しています。

「謹んでおもんみるに、御即位礼・大嘗祭の御大典は、天皇御一代にただ一度執り行はせらるる御儀式にして、じつにこれわが邦家の大典、国民の盛儀なり。単に皇室の御私事・宮中の御嘉例なるがごとく思ひ奉るべきにあらず」(漢字を開くなど、読みやすいように、原文を適宜編修しています)

 とすれば、平成の御代替わりで政府が行ったように、諸儀礼を「国の行事」と「皇室行事」に二分するとか、大嘗祭を「国の行事」としては行えないとか、まったくあり得ないことです。

 さらにあり得ないのが、皇室の歴史と伝統の喪失です。


▽1 用語と概念の喪失

 明治42年に定められた登極令の附式は、最初に「践祚の式」をあげ、「賢所の儀」「皇霊殿神殿に奉告の儀」「剣璽渡御の儀」「践祚後朝見の儀」の4儀式について、細かい祭式を規定していました。けれども、日本国憲法下で最初の事例となった平成の御代替わりでは、歴史的な一大変革が行われました。

 宮中三殿の聖域で行われる「賢所の儀」「皇霊殿神殿に奉告の儀」については、憲法の政教分離原則に照らして、「国の儀式」として挙行することが困難とされ、内廷の皇室行事となりました。

 一方、宮中三殿を舞台としない「剣璽渡御の儀」「践祚後朝見の儀」については、前者は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称され、後者は「践祚」という平安期以来の用語が消え、「即位後朝見の儀」と改められたほか、新帝の出御に際して伴われるべき剣璽御動座がありませんでした。

 なぜそんなことが起きたのか、それは、戦後40年あまり、政府は御代替わりに関して、具体的な準備を怠ってきたからです。日本国憲法施行に伴って全廃された、登極令など関連する皇室令に代わる法体系を整備できずに来たからです。

 戦後の新しい皇室典範は

「第4条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」

 などと定めていますが、具体的な法規定はありません。

 そして、政府は、神代にまで連なるとされる皇室の、したがって宗教性を否定できるはずもない伝統儀礼を、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法の政教分離原則を基準に、「国の行事」と「皇室行事」とに二分し、あまつさえ、皇室典範に「践祚」の用語がないことから、「践祚」を「即位」に改め、平安期以来の「践祚」と「即位」の概念の区別を失わせたのです。


▽2 正確でない宮内庁の説明

 関根が解説するように、皇位の継承とは皇位の徴表(しるし)である三種の神器の継承にほかなりません。上代においては践祚すなわち即位であり、両者の区別はありませんでしたが、時代がくだり、制度が整うと、先帝の受禅による場合と崩御による場合とにかかわらず、神器が新帝に渡御することをもって践祚と称することとなりました。

 神器のうち神鏡は神殿に安置されて、移動のことはなく、剣璽のみが先帝から新帝に渡御になる践祚の例が定まりました。政治の空白は許されませんから、諒闇中であっても、まずは剣璽の渡御が行われ、その後、皇位の継承を皇祖皇宗に告げ、百官万民に宣布する即位の大礼が定められました。

 桓武天皇の時代に践祚から日を隔てて即位式が挙行され、貞観儀式の制定で践祚と即位の区別が定まったといわれます。

 明治の皇室典範は

「第10条 天皇崩ずるときは皇嗣すなはち践祚し、祖宗の神器を承く」

「第11条 即位の礼および大嘗祭は京都においてこれを行ふ」

 と定め、この歴史的な両者の区別を踏襲していました。

 ところが、戦後の混乱期に行われた皇室典範の改正はこれを反映できず、その後、政府は正常化の努力を怠ったのみならず、平成の御代替わりで「践祚」の用語と概念を完全に喪失させたのです。

 宮内庁の記録は

「もともと践祚は即位と同義語であり、また、皇室典範制定の際、践祚を即位に改めた経緯があるので」(『平成大礼記録』平成6年)

 と説明していますが、まったく正しくありません。それどころではありません、平成の御代替わりでは、践祚の式の一部はあろうことか、皇室典範第24条に定められる「即位の礼」の一環として執り行われたのです。

 政府は憲法を第一に優先するあまり、皇室の歴史と伝統を踏みにじり続けているのです。

 私たち国民が抗議の声を上げなければ、悪しき先例は次の御代替わりでも、その次の御代替わりでも踏襲されることでしょう。



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御代替わりを前に考える皇室の歴史と伝統 ──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 1 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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御代替わりを前に考える皇室の歴史と伝統
──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 1
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 御代替わりが刻々と迫りつつあります。いまのままでは前回の悪しき先例が繰り返され、国の行事と皇室行事の二分化、諸儀礼の非宗教化で押し切られることでしょう。

 そのことは、昭和40年代以降の宮中祭祀簡略化、さまざまな不都合が重なった前回の御代替わり、ここ20年におよぶ女性天皇・女系継承容認=「女性宮家」創設への一連の経緯を振り返れば、火を見るよりも明らかです。

 いまの政府は、125代続いてきた皇室の歴史と伝統、すなわち祭り主天皇論ではなくて、憲法の規定を第一と考え、ご公務をなさる、天皇=名目的国家機関論の立場で、現行憲法下で2度目となる御代替わりを迎えようとしています。

「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とは相反し、皇室の伝統行事を伝統のままに行うことは憲法の規定に抵触するというのが、政府の考え方です。

「国および国民統合の象徴」である天皇の御代替わりが、それゆえ国家的、公的性格が明々白々なのにもかかわらず、全体的に「国の行事」として、当たり前に挙行できないのはそのためです。

 御代替わりの正常化のためには、誤った天皇観、憲法論を克服しなければなりません。私たち日本人にとって、天皇とは歴史的にいかなる存在だったのか、何をなさるのが天皇のお立場なのか、が本質的に問われています。

 何をどうすればいいのか、具体的に考えるヒントを得るために、しばらくのあいだ、明治の国文学者で、学習院の教壇にも立ち、のちに宮内省御用掛ともなった関根正直(1860-1932)の『即位礼大嘗祭大典講話』を読んで見ようと思います。


▽1 順徳天皇『禁秘抄』の解説

 関根正直といえば、忘れもしません、30年ほど前、渋谷にある神道系大学の図書館に毎日のように通いつめ、夕方から閉館となる夜遅くまで、薄暗く、カビ臭い書庫に入り浸り、手当たり次第に古今の書物を読みあさっていたことがありました。

 空調がないため、夏は蒸し暑く、冬は底冷えのする最悪の環境で、おそらくここにしかないだろう古書をじかに手にする興奮に、私は身も心も震えました。

 20代の編集記者時代には予想だにしなかった奥深い世界が、そこには広がっていました。足下のぐらつく踏み台に上って、手に取った1冊が、ほかならぬ関根正直の『禁秘抄釈義』(明治34年)でした。

 関根の『禁秘抄釈義』は順徳天皇が著した『禁秘抄』(1221年)の解説です。『禁秘抄』の冒頭には、

「およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にす。旦暮(あさゆう)敬神の叡慮、懈怠なし、白地(あからさまにも)神宮ならびに内侍所の方をもって御跡となしたまはず」(原文は漢文)

 とあり、関根はこれに

「万機の中に神事を重くせらるること、わが国の規模にして」

 などと説明を加えていました。

 天皇は古来、祭り主であるという天皇観は、今日、まともに教えてくれる人などいるはずもなく、じつに新鮮ですが、戦後の教育を受けて育ってきたものには、簡単に受け入れられるわけもありませんでした。

 ともあれ、こうして私の天皇研究はゆっくりと始まったのでした。


▽2 いまはデジタルコレクションで

 ところで、即位大嘗祭をテーマとする関根正直の著書には、『即位礼大嘗祭大典講話』(大正4年)と『御即位大嘗祭大礼要話』(昭和3年)の2冊があります。

 いずれもいまは国会図書館のデジタルコレクションに収められています。30年前ならマイクロフィッシュを覗き込むしか術がありませんでしたが、いつでもどこでも誰でもネット上で読むことが可能になりました。便利な世の中です。

 これから拾い読みする『即位礼大嘗祭大典講話』は、奥付によると、大正4年4月に発行され、何度か版を重ねています。「緒言」によると、関根が、大礼の起源、沿革などをテーマに各地で講演したものを「倉卒」にとりまとめたということです。

 発行を急いだのは、いうまでもなく同年秋に御大典が予定されていたからでしょう。

 蛇足ながら、大正天皇の即位の礼および大嘗祭は当初、前年の3年11月に京都で行われるはずでした(3年1月17日官報号外)。けれども、昭憲皇太后が同年4月に薨去されたことから、皇室服喪令(明治42年)に従い、1年の喪が明けるのを待って、翌4年秋に執り行われることとなりました(4年4月19日官報号外)。

 明治45年7月の践祚から3年後に御大典が行われたのはそのためです。


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関係者各位へネット署名のお願い [御代替わり]

関係者各位

平成29年夏



▽1 オンライン署名にご協力ください
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 オンライン署名のウェブサイト「change.org」を利用して、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」というネット上の署名活動を始めました。

 歴史が始まって以来、天皇は一貫してわが国の統治者であられます。当然、御代替わりの諸儀礼は国家行事であるべきだと思いますが、現在はそうはなっておりません。「践祚(せんそ。皇位継承)」「即位の礼」「大嘗祭」と続く一連の皇位継承儀礼はすべて「国の行事」と位置づけられるべきだと考えますが、いかがでしょうか。

 今上陛下の御譲位による、次の御代替わりが目前に迫っています。御代替わり諸儀礼のあり方の見直しを、政府・宮内庁に強く求めたいと思いませんか。

 お手元にパソコンやスマホがあれば、世界中どこからでも賛意を表明することが可能です。ぜひ皆様のご理解、ご協力をお願いします。

 URLは以下の通りです。「change」「御代替わり諸儀礼」などをキーワードに、検索していただければ、ページにアクセスすることができるはずです。
https://www.change.org/p/政府-宮内庁-御代替わり諸儀礼を-国の行事-に 〉

 あるいは「ネット署名には法的効力がない」とお考えの方もおられるかもしれませんが、正規の署名活動に手間暇をかけられる余裕がないというのが現実です。ご理解のほどよろしくお願いします。

 キャンペーンを始めて約3か月、賛同者が200人を超えましたが、行政の重い腰を動かすにはまたまだ力が足りません。同憂の士のご協力を切にお願い申し上げます。

 サイトには賛同者のコメント欄もあります。応援のメッセージを心からお待ちします。


▽2 与えられた時間は限られている

 今春の「問題提起」でも申し上げましたように、いよいよ次の御代替わりが差し迫ってまいりました。

 報道によれば、陛下の退位と改元の期日には、いまのところ来年末か来年度末の2案があり、政府は9月に、この期日を決定・公表するようです。

 来年暮れに「退位」「新天皇即位」、翌年元日に「改元」というスケジュールか、再来年3月末に「退位」「新天皇即位」、4月1日に「改元」となるのか、いずれにしても皇位継承の関係予算は来年度(平成30年度)予算に計上されることになります。

 したがってその概算要求はこの夏に行われます。期日が未定であるため、宮内庁は金額を示さない事項要求とする方針であると過日、伝えられました。

 昭和から平成への御代替わりでは、諸儀礼が「国の行事」と「皇室行事」とに二分されました。「国の行事」なら宮廷費、「皇室行事」なら内廷費扱いとなります。

 御代替わり諸儀礼をすべて「国の行事」とするのなら、関係する経費はすべて宮廷費から支弁されるべきです。

 法律と先例、予算に縛られる行政を突き動かし、皇室行事の正常化を図るために、私たちに残された時間はきわめて限られているということになります。


▽3 どうなる剣璽渡御の儀

 また、報道によると、政府部内では、「退位の儀式」をどのように行うのか、が目下の検討課題とされているようです。儀式の形式と法的位置づけについて検討する委員会が設置されるとも伝えられます。

 室町時代の古典学者で、「日本無双の才人」と評された一条兼良の『代始和抄(だいはじめわしょう)』には、「御譲位のときは、警固、固関(こげん)、節会(せちえ)、宣制、剣璽渡御(けんじとぎょ)、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」とあります。

 200年前に譲位された史上最後の天皇・光格天皇の場合、宮内省編『光格天皇実録』によると、譲位・受禅の前日、警固・固関の儀が行われ、当日はまず天皇が仙洞御所(桜町殿)へ行幸されました。その際、剣璽渡御が伴われ、総勢数百人の行列が組まれました。午後には、剣璽が桜町殿から清涼殿に渡御し、新帝の前で宣命(せんみょう)が読み上げられたのち、剣璽が新帝・仁孝天皇の御所へと遷られました。

 譲位の儀式の中心は、皇位の御印である剣璽の渡御のように見えます。

 次の御代替わりで、皇室伝統の儀式が採用されるとすれば、とりわけ剣璽渡御をどのように法的に処理するのか、が最大の問題となりそうです。

 明治42年の登極令(とうきょくれい)では、大行天皇崩御ののち、新帝は皇位継承のため、(1)賢所の儀、(2)皇霊殿、神殿に奉告の儀、(3)剣璽渡御の儀、(4)践祚後朝見の儀、の4儀式からなる践祚の式を行うこととされ、これらは「国務」と位置づけられました。

 けれども、新憲法下の平成の御代替わりでは、一連の儀式が2つに区分され、非宗教的と見る、(3)(4)だけが「国の儀式」とされ、「剣璽渡御の儀」は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称されました。

 さらに践祚後朝見の儀は、「即位後朝見の儀」と改められ、平安以来の「践祚」と「即位」の区別が失われたうえに、本来あるべき剣璽の御動座が行われませんでした。

 次の御代替わりでも、いまのままでは、悪しき前例が踏襲され、「国の行事」と「皇室行事」の二分方式、儀式の非宗教化が採用されることでしょう。その背景にはいうまでもなく、いびつな政教分離主義、克服されざる国家神道論の存在があります。

 関係者各位のご理解とご協力、そして行動が、いまこそ必要なときはありません。

タグ:御代替わり
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3段階で進められた御譲位の儀式? ──所功「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」を読む [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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3段階で進められた御譲位の儀式?
──所功「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」を読む
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 敬愛する所功先生(京都産業大学名誉教授)が、「〈資料紹介〉光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」と題して、光格天皇の御譲位の儀式の具体的な中身について、「藝林」4月号(財団法人日本学協会藝林会)に執筆されていますので、ご紹介します。

 いうまでもなく、光格天皇は200年前に譲位された歴史上最後の天皇です。報道によれば、今上天皇の御譲位が来年末もしくは来年度末に予定され、政府・宮内庁は譲位の儀式の内容について検討を進めているとのことですから、光格天皇の御譲位の儀式に関心が集まるのは当然でしょう。

 タイムリーな〈資料紹介〉を書かれた所先生に、心から敬意を表したいと思います。


▽1 『貞観儀式』と『光格天皇実録』

 リポートの冒頭、所先生は、史上、譲位された天皇は皇極天皇から光格天皇まで64代(全90代の7割)に上ると指摘したうえで、平安初期以降になって、その詳しい儀式次第や実施記録が見られると解説しています。

 所先生がまず取り上げるのは、『貞観儀式』(9世紀)の「譲国の儀」です。リポートをなぞってみます。

 ──まず譲位予定の3日前、平安京から関所の置かれていた伊勢・近江・美濃の3国に、関契などを持った勅使を遣わし、万一に備えて警備を堅固にする「固関(こげん)」が行われる。
 ついで、譲位される天皇が、内裏を去って仙洞御所に遷られる。
 そのうえで当日、天皇が紫宸殿出御され、皇太子が春宮坊を出て、紫宸殿の殿上の座に就き、親王以下文武官人が南庭に列立する。
 そして「宣命使」が「譲位の宣命」を読み上げると、皇太子は皇位を譲り受け、「新帝」となられたことになる。
 そこで「新帝」は紫宸殿の南階を下りて、いったん春宮坊に戻られる。その際、内侍(女官)が「節剣」を、また少納言(男官)が「伝国璽の櫃」と「鈴印・鑰等」を、さらに近衛少将が「供御の雑器」を、「今上の御所」へ持参する。
 ただ10世紀以降は節剣ではなく、「神璽」と「宝剣」を内侍が持参するようになったものとみられる。

 以上のようにまずは説明し、「固関」「行幸」「宣命」「節剣などの持参」という儀式の流れが「中世から近世までほとんど変わりがない」と指摘して、さらに先生は、光格天皇の事例を「詳しく検討」しようと試みるのでした。

 その場合、先生が取り上げるのは、『光格天皇実録』(宮内省編)です。

 すでにこのメルマガでご紹介したように、『光格天皇実録』は「禁裏執次詰所日記」「山科忠言卿伝奏記」「御系譜」「日次案」の資料が引用されています。先生は漢文で書かれた資料を読み下し、突き合わせて、儀式の展開を詳しく説明したうえで、次のように、3段階の儀式があったと結論づけています。

 ──「譲位・受禅」の儀式は、
 まず午前(辰の刻)、光格天皇が内裏から剣璽などとともに桜町殿(仙洞御所)へ行幸された。
 ついで午後(未の刻)、剣璽が下御所(桜町殿)から清涼殿に渡御すると、新主の仁孝天皇が御帳の椅子に着かれ、宣命使が宣命を読み上げ、剣璽が新主の御所へ運ばれた。
 さらに真夜中(子半刻)、内裏で「折紙」を給わった院司が、祝意を表して退出し(桜町殿へ参向)、関白以下が新主に祝賀を申し上げた
 というだいたい3段階があった。


▽2 『代始和抄』に言及がない

 3つのことを、指摘させていただきます。

 まず1点目。

 所先生は素人の私などとは比較にならないほど古今の資料に通じているでしょうが、どういうわけか、少なくともこのリポートでは、室町時代の古典学者で、「博洽第一の人」「日本無双の才人」(福井久蔵『一条兼良』昭和18年)と評されたらしい一条兼良の『代始和抄』への言及がありません。

 当メルマガの読者ならご存じのように、赤堀又次郎は『御即位及大嘗祭』(大正3年)の巻末に、「御即位および大嘗祭の儀を記したる古書のなか、その詳らかなることは貞観儀式に超えたるものなく、簡にして要を得たるはこの代始和抄におよぶものなし」として『代始和抄』の全文を引用しているほどです。

 その『代始和抄』の冒頭に記されているのが、「御譲位の事」であり、次のように記述されています。

「父子にあらずして受禅のときは、皇太子参上して、椅子(いし)につきて上表の礼あり」

「父子譲国のときは、義譲のこと、なし」

「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」

 所先生は、譲位の儀式には、(1)天皇行幸、(2)宣命、(3)御所の儀式、の3段階があると解説していますが、一条兼良は、(1)警固、固関、(2)節会、(3)宣制、(4)剣璽渡御、(5)新主の御所の儀式、の5段階と説明しています。

 指摘したい2点目は、依拠すべき資料です。

 すでに『代始和抄』のことは申しましたが、所先生はもっぱら『光格天皇実録』に引用された資料を参照し、『光仁天皇実録』が引用する資料については、「寛宮(ゆたのみや)御用雑記」のみを「注」で言及しているだけで、「野宮定祥日記」「公卿補任」に関しては取り上げていません。

 なお、「寛宮」は、所先生によれば、仁孝天皇の幼名ではなく、光格天皇の「同母兄妹」と説明されています。

 先生のリポートには、『国書総目録』(第3巻)によると、光格天皇御譲位に関して、『光格天皇御譲位一会』『光格天皇御譲位一会文書』『光格天皇御譲位一会催方願書留』など、全部で25種の記録と絵図があることが知られていると記述されています。

 それならば、それらを「資料紹介」しても良さそうなものですが、先生は『光格天皇実録』が引用する資料を「紹介」するばかりで、しかもリポートの後半のほとんどは、『国書総目録』には記載がない、国立公文書館が所蔵する『桜町殿行幸図』2巻の「紹介」に費やされています。

 できれば、『国書総目録』の資料もくわしくリポートしていただけないでしょうか。


▽3 光格天皇を描いた『桜町殿行幸図』!?
桜町殿行幸図.png

 3点目は、ほかならぬ、この『桜町殿行幸図』です。ご指摘のように国立公文書館デジタルアーカイブで、いつでも誰でも見られます。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2010020818324946818

 2巻とも20メートルを超える大作で、色彩鮮やかに、光格天皇が乗っておられるとおぼしき鳳輦ほか、色彩鮮やかに描かれ、役名・人名まで書き込まれた絵図に、所先生がいたくこだわっているらしいのは、この行幸図が御譲位と関連があるとお考えだからです。

 先生によれば、『光格天皇御譲位行列図』(5巻。尊経閣文庫)のうち「行幸図」上下2巻は『桜町殿行幸図』とほぼ完全に一致するそうです。しかも『行列図』には「行啓図」「剣璽渡御節会図」「武家警衛供奉図」までそろっている。

 そうしたことから類推すると、『桜町殿行幸図』は、「光格天皇が(文化14年3月22日の御譲位のとき)、内裏から仙洞御所に行幸された行列を丁寧に描いた絵巻」に違いない。御用絵師の原在明が描き写し、幕府に進呈された、と所先生は解釈するのです。

 公文書館のサイトには「作成年月日 文化14年3月」「写本」とありますが、「光格天皇」との説明はとくにありません。

 ついでながら、アメリカのボストン美術館には明治のお雇い教師フェノロサが収集した吉村周圭筆「行幸図」が秘蔵されています(藤田覚『幕末の天皇』)。

 藤田東大名誉教授はこう解説しています。

「(光格天皇が)寛政2年の仮御所から新御所に移る遷幸の行列を描いたものとされ、人物の表情や装束などがきわめて精密に描かれた盛大な行幸図はたいへんに貴重で、歴史資料としても価値が高いとの解説があった」

 ボストン美術館の説明では、「Emperor Kokaku Returning to the Capital over the Sanjo Bridge, Japanese, Edo period, late 18th?early 19th century, Yoshimura Sh!)kei (Japanese, 1736 - 1795)」とされています。
http://www.mfa.org/collections/object/emperor-kokaku-returning-to-the-capital-over-the-sanjo-bridge-24991

 さて、御譲位の儀式の中身についても触れるつもりでしたが、長くなりましたので、次回にします。



☆ひきつづき「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンへのご協力をお願いいたします。このままでは悪しき先例がそのまま踏襲されるでしょう。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を求めます。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

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「寛宮御用雑記」に記録された光格天皇の御譲位 ──諸儀式の詳細はうかがい知れず [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「寛宮御用雑記」に記録された光格天皇の御譲位
──諸儀式の詳細はうかがい知れず
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koukyo01.gif
 すでにご紹介したように、宮内省図書寮が編修した『光格天皇実録』(昭和6〜22年)は、200年前の文化14年3月22日、「(光格天皇には)桜町殿において受禅あらせられ、皇太子恵仁親王に譲位あらせらる」(原文は漢字片仮名交じり)と記述しています。

 また同じく『仁孝天皇実録』(同)には、「二十二日、清涼殿に於いて受禅あらせらる、是より先、光格天皇、桜町殿に行幸あらせられ、同殿より剣璽渡御の儀あり、是日、詔して一条忠良をして、旧の如く万機を関白せしむ」とあります。

 この光格天皇から光仁天皇への御譲位は実際、どのように行われたのか、もう少し詳しく見てみましょう。

『光格天皇実録』には「禁裏執次詰所日記」「山科忠言卿伝奏記」「御系譜」「日次案」が、『光仁天皇実録』には「寛宮(ゆたのみや)御用雑記」「禁裏執次詰所日記」「山科忠言卿伝奏記」「野宮定祥日記」「公卿補任」の資料がそれぞれ引用されています。

 これらはほとんど漢字だらけで、読みやすいものではありません。しかし唯一、「寛宮御用雑記」だけは若干、ひらがなが交じり、いくらか理解できそうなので、以下、ご参考までに、原文を忠実に抜き出してみることにします。

 なお寛宮は仁孝天皇の幼名です。


「寛宮御用雑記」
文化十四年三月廿二日、
一桜町殿え(ママ)行幸、御譲位御璽渡御御受禅也、
一所司代大久保加賀守丑半刻衣冠ニテ参内、御内玄関より伺公之間へ被通菓酒出ル、御両伝面会無之、卯半刻過行幸御催、唐門腋門より御門外南方ニテ御見送リ行啓後引続供奉、
一行幸辰刻過、御道筋南殿より宜秋門代より南へ建礼門前ヲ東へ、桜町殿唐門より入御、行啓同刻朔平門より西へ、東門通リ南へ南門通東へ新御殿へ御入、
一行幸被写済恐悦執次御賄頭奥ヘ申上ル
一所司代於桜町御所節会拝見、相済御祝同粥御酒吸物出恐悦被申上、夫より中宮新御殿へ被参恐悦被申上退出、再禁中へ被参伝奏衆御面会恐悦被申上、御酒吸物出ル、次ニ大御乳人出会口祝有之、伝奏衆再会御返答相済退出、
一町奉行御付院御付御目付等各再参ニ而恐悦申上有之、
一未半刻前
剣璽清涼殿ヘ渡御、右御道筋桜町殿唐御門より北へ、建春門より渡御、但人留之義下御所より御下知有之、
一御譲位御受禅御祝義御使
  長橋殿 右京大夫
院御所へ
 御太刀一腰 御馬代金六枚 綸子十反
 昆布鯣鶴一箱宛 御樽三荷
 御移徒ニ付
 御棚一箱 白銀五十枚 昆布一箱 鯣一箱 生鯛一折 御樽三荷
    中略
一今日より三箇日内侍所神饌供進、大床子御膳、朝餉、
一今日乾御門 蛤御門 清和院口御門より雑人往来、
一子半刻前御受禅御作法被為済、
廿三日、
一御譲位御受禅御祝義
 一条関白殿へ
勅使梅渓中将殿添使下川辺外記
 御太刀一腰 御馬代金一枚 紗綾十巻 昆布鯣塩鯛一箱宛 御樽一荷
一今度院御所へ御料一万石被進候旨所司代より伝奏衆へ御達有之、
一御譲位御受禅御祝義献上
 御太刀一腰   所司代大久保加賀守
 御馬代金一枚  使筑馬源三左衛門
右献上之品勘使所へ預置、追而関東使参内之節御披露也、


 さて、以前、ご紹介したように、博学で知られた一条兼良の『代始和抄』には、御譲位による皇位継承では、「警固、固関(こげん)、節会、宣制、剣璽渡御(けんじとぎょ)、新主の御所の儀式など」が行われ、とくに父子継承でない場合は「上表、揖譲の儀」が行われることが解説されています。

 とすると、光格天皇から第六皇子・仁孝天皇への御譲位では、「上表の儀」はないにしても、「警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式など」はあったであろうことが推測されます。

 けれども、少なくとも『仁孝天皇実録』に引用された「寛宮御用雑記」からは、仙洞御所への行幸、節会、剣璽渡御などがあったことは分かりますが、それらの詳細を十分にうかがい知ることはできません。
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「光格天皇実録」に記録された「御譲位」「改元」──「待ったなし」となった次の御代替わりだが…… [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「光格天皇実録」に記録された「御譲位」「改元」
──「待ったなし」となった次の御代替わりだが……
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 報道によれば、政府は、「退位と改元の期日」を「9月」に決定・公表する方向で検討に入ったようです。

 時事通信が伝えたところでは、来年暮れに「退位」「新天皇即位」、翌年元日に「改元」というスケジュールが有力とされていて、他方、宮内庁内には、再来年3月末に「退位・新天皇即位」、4月1日に「改元」という案もあるそうです。

 いずれにしても、いよいよ御代替わりが現実となってきました。

 記事が指摘するように、「退位の儀式」をどのように行うかが検討課題とされています。他紙の報道では、「退位と改元」の期日が正式決定したのち、政府内に「皇位継承」儀式の形式および法的位置づけについて検討する委員会が設置されると伝えられています。

 今上陛下から皇太子殿下に皇位が継承されれば、皇位の御印である剣璽が渡御(とぎょ)になりますが、当メルマガ2011年9月25日号に書きましたように、前回の御代替わりでは、「践祚(せんそ)」という伝統用語が使われなくなり、平安以来の「践祚」と「即位」との区別が失われ、さらに「剣璽渡御の儀」は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称されたうえ、即位後朝見の儀では伴われるべき剣璽御動座がありませんでした。

 この背景には、やれ国民主権だ、やれ政教分離だ、やれ国家神道だ、という不毛な議論があります。今回も同様の議論が政府内で再燃しているのでしょうか。そのことが国務たるべき御代替わりにモヤモヤ感をもたらしている最大の要因かと思われます。


▽1 仙洞御所から大がかりな剣璽渡御

画像は光格天皇の「桜町殿行幸図」(部分。国立公文書館デジタルアーカイブから)
桜町殿行幸図.png

 ちなみに、歴史上、最後の譲位をなさった江戸後期の光格天皇の場合はどうだったのでしょうか。『光格天皇実録』『仁孝天皇実録』(宮内省図書寮編修)から、以下、主だった綱文を抜き出してみます。

 抜粋に当たっては、『光格天皇実録』からの引用を「 」内に記し、[ ]内に『仁孝天皇実録』からの引用および私のコメントを載せます。『実録』の綱文は原文では漢字片仮名交じりですが、適宜、編集してあります。


「文化14年正月18日、この日、御譲位御受禅の御祝儀として、関東に賜物あり。」
[→『光格天皇実録』に引用される「山科忠言卿伝奏記」など、当時の一次資料では、「退位」ではなく、まして「生前退位」ではなくて、「御譲位」「御受禅」と表現されています]
「2月14日、来月22日卯刻に御譲位の儀、御治定あり。」
「3月11日、御譲位後の御幸始御祝儀のことを仰せ出さる。」
「13日、稲荷、梅宮両社において御譲位、御受禅行幸の御祈祷を修せしむ。」
「19日、御譲位行幸御受禅剣璽渡御の御内見あり。」
[→光格天皇から仁孝天皇への「御譲位」の儀式は剣璽渡御を伴っていました]
「21日、警固・固関(こげん)の儀あり。」
[→当メルマガ本年5月6日号に書きましたように、一条兼良『代始和抄』の「御譲位の事」の項には、「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり。御譲国は天子の重事、世の変わり目たるによって、非常を戒めんために、警固、固関といふことをまづ最前におこなはるるなり」とあります]
「22日、桜町殿に行幸あらせられ、皇太子恵仁親王に譲位あらせらる。」
[22日、清涼殿において受禅あらせらる。これより先、光格天皇、桜町殿に行幸あらせられ、同殿より剣璽渡御の儀あり。この日、詔して、一条忠良をして、旧のごとく万機を関白せしむ。]
[→「桜町殿」は太上天皇の御所たる仙洞御所で、もともと徳川幕府が後水尾天皇のために造営したものでした。譲位の儀式の前に光格天皇は仙洞御所に行幸になり、仙洞御所から清涼殿へ剣璽が渡御されたのは注目されます。「日次案(ひなみあん)」には、大がかりな行幸の様子が詳細に記録されています。
 平成の御譲位ではどんな儀式になるのでしょう。上皇のお住まいを京都にという提案がありますが、もし京都から数百人の行列を組んで剣璽渡御が行われたらすごいことです]
「23日、布衣始の儀あり。」
「24日、太上天皇の尊号を受けさせらる。この日、吉書御覧あり。」
[24日、先帝に太上天皇の尊号を上らる。→尊厳宣下は「太上天皇」です。「上皇」ではありません。御譲位の2日後という点も注目されます]
「26日、御幸始あらせらる。」
[26日、御父光格上皇の御幸始により、御祝儀を献ぜらる。]
「4月28日、尊号御報書の儀。」
「5月7日、尊号御報書の勅答を受けさせらる。昼御座に出御あらせらる。」
「5月18日、御譲位後の和歌御会始を行はる。出御あらせらる。」
「8月7日、御譲位後の和歌当座御会始を行はる。小御所に出御あらせらる。」
「9月21日、仁孝天皇、即位の礼を行はる。よって禁裏に御幸あらせらる。」
[21日、紫宸殿において即位の礼を行はせらる。→3月の御譲位から半年後でした]
[文化14年11月16日、新嘗祭を行はる。出御あらせられず。→新帝の親祭はなかったということのようです。『光格天皇実録』にも記載がありませんから、同様にお出ましはなかったようです。即位の礼が行われても、まだ改元は行われていません]
[17日、豊明節会を行はる。出御あらせられず。→新帝のお出ましはありませんでした]
文化15年正月1日、四方拝、出御あらせらる。[→四方拝に太上天皇がお出ましになっているのは注目されます]
「4月22日、改元定院奏あり、弘御所に出御あらせらる。」
[→改元について上皇に奏聞が行われたようです。前年3月の御譲位から1年以上が過ぎています。
 今日の元号法(昭和54年)は「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」と規定するだけです。したがって厳密にいえば、皇位継承の期日と改元の期日の関係については何も定めていません。譲位の日と改元の日をずらすことも可能のように見えます。国民生活の混乱を避けたいのなら、践祚から一定の準備期間を置いて改元したらどうでしょう]
[文政元年11月17日、大嘗会御習礼あり。光格上皇、これに御幸あらせらる。→習礼とは予行練習です]
「文政元年11月21日、大嘗祭なり。よって禁裏に御幸あらせられ、悠紀殿に渡御あらせらる。」
[21日、大嘗祭を行はる。この日、光格上皇、内々、これに御幸あらせらる。→先帝が内々に、悠紀殿の儀にお出ましになったということでしょうか。即位の礼は前年9月、大嘗祭はその翌年の秋でした。明治42年の登極令で、「大嘗祭は即位の礼を訖(おわ)りたるのち、続いてこれを行ふ」とされたのです。前回の御代替わりでは10日後でした]


▽2 予算編成上、ギリギリのスケジュール

 さて、来年末もしくは来年度末に予定される「退位と改元」について、この9月に「期日」を決定・公表するのは、伝えられるように、「来夏の公表」を「前倒しした」というより、予算編成上、ギリギリの選択だということではないでしょうか。

 来年度に御代替わりが実施されるのなら、「国の行事」とするか否か、宮廷費とするか否かはともかく、30年度予算の概算要求は来月8月末まで、政府予算案は年末までに閣議決定されますから、「9月」ではむしろ遅いはずです。

 言い換えれば、御譲位の儀式をどのような形式で行い、どのように法的に位置づけるか、したがって「国の行事」とするか、皇室行事とするか、宮廷費か内廷費か、は「期日の正式決定のあと」ではなくて、その前に、政府部内で決定してしまうということでしょうか。

 御代替わり諸儀礼を「国の行事」にすべきだと考える立場からすれば、文字通り、待ったなしの状況といえます。どうか皆様、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンにご協力ください。同憂の士のご協力を切にお願いします。
https://www.change.org/p/政府-宮内庁-御代替わり諸儀礼を-国の行事-に 〉
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即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない ──平成の御代替わり「2つの不都合」 5 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない
──平成の御代替わり「2つの不都合」 6
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 即位の礼と大嘗祭の日程について、続けます。

 平成の御代替わりでは、平成2年11月12日に即位礼正殿の儀が行われ、その10日後、22日から23日にかけて、大嘗祭が挙行されました。

 昭和の御代替わりもそうでした。昭和3年11月10日に即位の大礼が行われ、その4日後、14日夕刻から大嘗祭が行われました(『昭和大礼要録』昭和6年)。

 なぜ「10日後」あるいは「4日後」なのでしょうか。

「昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐(せいひつ)が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです」

 昭和から平成の御代替わりに携わった永田忠興元掌典補が問題点を指摘するのは道理です。

 即位の礼・大嘗祭の「期日」に関する赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)の解説を読んでみます。

「つつしみて按ずるに、大礼を行はるる期日は、宮内大臣・国務大臣の連署をもって中外に公告し、かつ同時に賢所、皇霊殿、神殿ならびに神宮、神武天皇等の山陵にこれを告げたてまつらるるなり。
 さて、このたびの大礼の期日は、いまだ公告なければ、いづれの日に行はるるやを知らず、民間に伝ふるところにては11月23日、例年新嘗祭の日に大嘗祭を行はれ、その数日後前に即位の礼を行はるべしとも、また11月3日、今上天皇立太子の日に即位の礼を行はれ、13日の卯の日に大嘗祭を行はるべし、などとも伝ふ。
 そのいづれの日に決せらるるやを知らねど、記して参考に備ふ」

 赤堀は本文にはそう書いていますが、実際に本が刊行される段階では期日は定まっていました。巻頭に期日が定まったことを知らせる官報号外が引用されています。

 じつは赤堀の『御即位及大嘗祭』は少なくとも大正3年版と翌年の再版とがあるようで、前者には大正3年1月17日官報号外が次のように引用されています。(原文は漢字片仮名交じり。以下同じ)

 即位の礼および大嘗祭の期日、左の通り定めらる
即位の礼 大正3年11月10日
大嘗祭  同  年同 月13日
 大正3年1月17日  国務各大臣宮内大臣連署

 しかし実際にはこの期日には行われませんでした。すでに申し上げましたように、昭憲皇太后が3年3月に崩御され、大正の即位礼・大嘗祭が延期されたからです。

 4年5月に再販された赤堀の本には、あらためて定められた期日を告知する大正4年4月19日官報(号外)が引用されています。

即位の礼および大嘗祭の期日、左の通り定めらる
  即位の礼 大正4年11月10日
  大嘗祭  同  年同 月14日
 大正4年4月19日 内閣各大臣連署

 大正天皇の大嘗祭は即位の礼の、じつに4日後でした。なぜ相次いで執り行う必要があったのでしょうか。

 かつてはどうだったのでしょう。赤堀の解説を読んでみましょう。

「古例、即位の礼を行はるる日は、定まれることなし。ただし、中古以来は、陰陽道の説をこれらのことに採用せられたれば、陰陽頭に命じて、これを勘(かんが)へ申さしめらるる例なり。
 寛永7年中御門天皇、即位の礼を行はれしときには、陰陽頭安倍泰連、その年の『11月11日巳の時』をもって大礼を行はるるに宜しき吉日、吉時と選定して上申し、これを採用ありし類いなり」

 大嘗祭はどうでしょうか。

「大嘗祭を行はれし日、往古のことは詳らかならず。
 中古以来、11月下の卯の日を例とす。もし11月中に3か度、卯の日あれば、中の卯の日を用ひられし例なり。新嘗祭も卯の日に行はれたり。卯の日と定められし理由はこれを知らず」

 明治の皇室典範は第11条に

「即位の礼および大嘗祭は京都において、これを行ふ」

 と定め、登極令の第4条は

「即位の礼および大嘗祭は秋冬の間において、これを行ふ。大嘗祭は即位の礼を訖(おは)りたるのち、続いてこれを行ふ」

 と規定していました。これには今日とは異なる、交通機関の未発達が背景にあるものと想像されます。明治末年なら新橋・神戸間が13時間かかりました。即位の礼・大嘗祭を引き続いて執り行わざるを得ない事情があったということでしょう。

 しかし京都で挙行するという規定もない今日では、もっと時間的余裕をもって挙行してよろしいのではないでしょうか。

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即位の礼と大嘗祭が相次いで挙行されるのは新例 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 5 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位の礼と大嘗祭が相次いで挙行されるのは新例
──平成の御代替わり「2つの不都合」 5
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 さて、もうひとつの不都合、つまり、即位の礼と大嘗祭の日程について、です。

 永田忠興元掌典補は問題点を、次のように指摘しています。

「即位礼の10日後に大嘗祭が行われるという日程も、再考する必要がありそうです。
 昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐(せいひつ)が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです。
 即位礼と大嘗祭とを、もっと期間を空けるべきだ、と民俗学者の柳田国男が書いているのを読んだことがあります」

 赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)が、即位の礼および大嘗祭が行われる「時期」と「期日」について解説していますので、ご紹介します。

 まず「時期」です。

「つつしみて按ずるに、登極令によれば、即位の礼と大嘗祭とは同時に相次いで挙行せられ、相離るべからざるものと定められたり。しかして大嘗祭には新穀を用ゐらるる例なれば、そのために秋冬のあいだに行はるることとなれるなり」

 ご承知の通り、登極令は、即位の礼・大嘗祭について。以下のように定めています。

第4条 即位の礼および大嘗祭は秋冬の間において、これを行ふ。大嘗祭は即位の礼を訖(おは)りたるのち続いてこれを行ふ。

 けれども、これは新例だったようです。

「古例は、即位の礼と大嘗祭とを必ずしも相続いて行はれしにはあらず。即位にはもとより定まれる時なく、大嘗祭は、新穀供進の関係よりして、7月以前に即位あれば、その年に大嘗祭を行はれ、8月以後に即位のときには、翌年、大嘗祭を行はれし例なり」

 すでに平安前期の儀式書にそのことが記されています。

「貞観儀式に、『7月以前の即位には当年ことを行ひ、8月以後には明年ことを行ふ。諒闇の登極を謂ふにはあらず』といへる、これなり」

 大行天皇の服喪期間に即位の礼・大嘗祭が行われないのはいうまでもありません。

「諒闇は凶事にして上下謹慎のなかにあり。その間に神事は行はざることなり。登極令第18条に、『諒闇中は、即位の礼および大嘗祭を行はず』と載せられしは、貞観儀式に伝へるところと同義なり」

 それなら譲位の場合はどうなのか。

「いにしへは譲位の例ありしかば、諒闇登極ならぬ例あれど、いまはその慣例を改められて、天皇崩ずるときは皇嗣すなはち践祚あることに規定せられたれば、こののちはすべて諒闇登極のみとなりたり。ゆゑに践祚ののち1カ年以上を経たる秋冬のあいだに、即位の礼および大嘗祭は挙行せらるるなり」

 こうして登極令のもとで行われた大正天皇の即位の礼、大嘗祭は大正4年の秋冬に行われることとなりました。明治天皇が崩御されたのは7月でしたから、当初は3年の予定でしたが、3年3月に昭憲皇太后が亡くなられ、一年延期されたのでした。

 昭和天皇の場合は、大正天皇が崩御されたのが12月で、1年の服喪を経て、昭和3年秋に即位の大礼が行われました。

 今上天皇の場合は、昭和天皇が崩御されたのが1月で、即位の礼・大嘗祭は翌2年秋に行われました。登極令も皇室服喪令も日本国憲法施行とともに廃止されましたが、これらの規定に準じて、挙行されたということでしょう。

 さて、となると、次の御代替わりはどうでしょうか。伝えられるように、今上陛下の譲位にもとづく皇位継承が来年暮れだとすれば、即位の礼および大嘗祭は再来年の秋という日程になるのでしょうか。

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