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リアリティなき御代替わり。日本人は変わった!? ──式典準備委員会決定「基本方針」の「案の定」 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年4月1日)からの転載です

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リアリティなき御代替わり。日本人は変わった!?
──式典準備委員会決定「基本方針」の「案の定」
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 3月半ばにまとめられると伝えられていた陛下の退位(譲位)等に関する政府の基本方針が、半月遅れでようやく発表されました。3月に開かれる予定とされていた第3回式典準備委員会は、ギリギリの30日金曜日に開かれました。朝の7時45分から、という慌ただしさでした。
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 森友騒動の対応に追われ、官邸は退位どころではなかったということでしょうか。御代替わりは国家の最重要案件であり、したがって、その検討は「静かな環境」で進められることが重要だと何度も強調されてきたはずですが、現実は正反対です。


▽1 名ばかりの伝統尊重

 しかも、委員会が決定した基本方針の中身は案の定というべきもので、「皇室の伝統の尊重」は名ばかりです。

 公表された資料によると、平成の御代替わりの考え方、内容が基本的に踏襲されます。事務は、式典委員会(内閣)および式典準備連絡本部(内閣府)が統括します。「退位の礼」と剣璽渡御の儀(剣璽等承継の儀)は分離して行われ、践祚(即位)後朝見の儀は「剣璽等承継の儀後、同日に」行われます。

 つまり、悪しき先例が踏襲され、かつての大礼使のような特別組織は設置されません。「譲位即践祚」が儀式の上で表現されることはなく、3日間におよぶ賢所の儀のあとに朝見の儀が行われるという昭和、平成までの方式は破られることになります。天皇第一のお務めとされてきた祭祀については、政府は関知しないという頑なな姿勢が現れています。

 長期保守政権下において、このような非宗教主義、非伝統主義が採用されることは何にもまして、事態の深刻さを示しています。

 125代続く「祭り主」天皇の考え方は顧みられず、日本国憲法を最高法規とし、とりわけ政教分離原則を厳守する、1・5代象徴天皇論に基づく御代替わりの方式が確定することになります。次の次の御代替わりも、そのまた次もこの形式が続くことでしょう。

 唯一の救いは、御代替わりに伴う祭祀が皇室行事とされるため、政治的な介入、干渉、圧迫を受けずに済むことですが、私の目には敗北主義としか映りません。

 守られるのは、宗教性があるとされ、「国家神道」のカゲがちらつく天皇の祭祀であり、米と粟による国民統合儀礼ではなく、稲の祭りとされる大嘗祭だからです。無理解はいっこうに正されず、「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇「禁秘抄」)と歴代天皇が信じ、実践された皇室の歴史と伝統への偏見を是認するものだからです。


▽2 生々しさを失った天皇意識

 なぜそうなるのか、結局のところ、およそこの半世紀の間に、日本人が変わってしまったということではないでしょうか。

 メディアは「憲法の理念に忠実に」と訴え、式典準備委員会に呼ばれた有識者は1人として天皇の祭祀に言及せず、それどころか、憲法の理念に反する宗教性の否定を要求しています。他方、「祭祀重視」を訴える国民の声がとくに聞こえてくるわけでもありません。

 天皇の祭祀は、宗教関係者は別にして、国民にとってはリアリティを失っています。日本人の天皇意識から生々しさが消えてしまっています。

 かつて日本人の天皇意識は、皇室が建築技術や養蚕・機織りなどを教えてくださったというような古代に連なる祖先の記憶や郷土の物語とともに、暮らしに密着したものでした。その名残を留める神社が各地に残されていますが、いまや現代人にとって、郷土や祖先とのつながりは、きわめて希薄です。

 現代の日本人にとって、天皇とは憲法上の抽象的で観念的な存在です。生々しいリアリティは新たに創造されたのであり、今上陛下が皇后陛下とともに、国民と親しく交わられる、憲法の規定にもない、地方行幸やご訪問、お見舞いなどによるものです。陛下が「全身全霊で」ご公務に打ち込んでこられた結果、天皇意識に現実感が与えられたのです。

 そのことは逆に、現代日本人の天皇観がバーチャルで不安定であることの何よりの証拠ともなります。

 大正時代、明治神宮創建の指揮を執った伊東忠太は、モダンな時代にふさわしい斬新な建築様式を望む革新的な意見に抗して、日本人の精神はいささかも変わっていないと反論し、流れ造による伝統形式の社殿が建てられました。

 しかし、いまの時代はどうでしょうか。側近中の側近までが天皇の祭祀を敬遠し、歴史にない女系継承容認=「女性宮家」創設を推進し、宮中祭祀=「皇室の私事」論を各地で講演して回り、そして今日の事態を招いたのです。

 日本人が変わってしまったのだとして、あらためて考えていただけないものでしょうか。私たちの祖先が編み出した、価値多元主義に基づく、天皇を祭り主とする国家制度は、世界的に争いの絶えない現代において、価値の低い過去の遺物というべきものなのかどうか。
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御代替わり諸儀礼は皇室の伝統と憲法の理念を大切に ──朝日新聞の社説「憲法の理念に忠実に」を批判する [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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御代替わり諸儀礼は皇室の伝統と憲法の理念を大切に
──朝日新聞の社説「憲法の理念に忠実に」を批判する
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 朝日新聞は今月16日、「天皇即位儀式、憲法の理念に忠実に」と題する社説を掲げ、「危うい空気が漂うなかで進む代替わりに対し、憲法の原則や理念からの逸脱がないよう、目をこらし続ける必要がある」と訴えました。

 しかし、じつのところ、危ういのは、古来、125代続いてきた天皇の価値を理解できない、もしくは理解しようとしないジャーナリズムの方ではないのでしょうか。ジャーナリズムが歩むべき道を踏み外さないよう、私たちは監視し続ける必要がありそうです。


▽1 なぜ憲法重視なのか

 朝日新聞の社説が問題にしているのは、政府が検討を進めている御代替わりの儀式と憲法との関係です。「最も重視すべきは憲法との関係である。改めて言うまでもない」と述べ、政教分離問題に言及しています。

 しかし、なぜ憲法重視なのでしょうか。なぜ皇室の伝統ではなくて、憲法の理念なのか。なぜ皇室の伝統と憲法の理念を対立化させ、一方を選択するのではなく、同時に追求することを求めようとしないのでしょうか。

 少なくとも今上陛下は、皇位継承後の朝見の儀で仰せになったように、「大行天皇の御威徳に深く思いを致し」「憲法を守り」と両方の価値を求めておられます。皇室の伝統と憲法の規定の重視は、その後もことあるごとに明言されています。当然のことです。

 社説を書いた論説委員は、歴史的天皇の存在にもともと関心がないのか、もしくは価値を認めないのか、考えようという意思がさらさらないのでしょうか。千数百年以上続いてきた天皇の伝統的価値とはそれほどに低いものなのでしょうか。

 おそらくや政治部出身であろう論説委員には、思いもおよばぬことなのかも知れません。縦割りジャーナリズムの限界でしょうか。

 社説は、大嘗祭訴訟の合憲判断に言及しつつも、「安易に踏襲することなく、一つ一つ点検する姿勢が肝要だ」と訴えるのですが、憲法は宗教の価値を否定しているわけではまったくありません。むしろその逆です。

 論説委員は大嘗祭を単なる宗教儀礼だとお考えなのでしょうか。「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定める憲法に抵触する特定の宗教であるとお思いなのでしょうか。そのような儀礼が千年を超えて引き継がれると信じておられるのでしょうか。


▽2 30年間、進歩がみられない

 聞くところによると、カトリックの信仰篤き女性が何十年も前から天皇の祭祀に携わっていると聞きます。「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」という絶対神の戒律を固く守るカトリック信徒が宮中祭祀を奉仕している事実があるとすれば、天皇の祭祀は信教の自由を侵さないことの何よりの証明ではないでしょうか。

 それどころか、バチカンは300年以上も前から、たとえ異教的儀礼であっても、信仰心や道徳に反しないかぎり、変更を求めてはならないという指針を示しています。

 むろん、宗教性が否定されない儀式などに国はいっさい関われないとするほど、日本国憲法は完全中立主義、非宗教主義を採用してはいません。

 朝日の社説は御代替わり諸儀礼を、無慈悲にもバラバラに分解して点検せよと要求していますが、むしろ逆に、全体として国の行事とされるべきでしょう。ごく当たり前のことです。

 そして本来なら、皇室の歴史と伝統、同時に憲法の理念に照らし合わせて、どのような儀礼が相応しいのか、英知を集め、時間をかけて、整備し直すべきなのではありませんか。日本国憲法施行以来、政府が宮務法の整備を怠ってきたことこそ、批判されるべきでしょう。

 朝日新聞は昭和天皇崩御の3日後、やがて国の儀式として行われる大喪の礼が政教分離原則に反しないないようにするよう政府に要求する社説を載せましたが、あれから30年、ジャーナリズムとしての進歩がまったく見られません。


▽3 なぜ宗教性否定なのか

 今回の社説は、践祚後の剣璽渡御(剣璽等承継の儀)についても噛みついています。

 三種の神器に含まれる剣璽の継承儀式は、神話に由来し、宗教的色彩が濃いのだから、国事行為には相応しくないという主張ですが、なぜ宗教性を否定しなければならないのでしょうか。

 宮中の祭祀は、教義もなく、宣教師も信者もいません。憲法の政教分離原則に抵触する特定宗教ではありません。

 憲法が定める国事行為は天皇の政治的権能を否定しているのであり、他方、政教分離規定は国民の信教の自由確保が最大の目的でしょう。

 今上陛下の御成婚のとき、賢所大前での結婚の儀は「国の行事」(天皇の国事行為)と閣議決定されましたが、朝日新聞は反対運動を展開したのでしょうか。

 社説はまた、剣璽等承継の儀に女性皇族が立ち会わなかったことを「排除」と表現し、問題視していますが、皇位継承資格者が参列すれば足りるのではないのでしょうか。

 それとも論説委員は、皇位継承権を男系男子に限定する現行憲法を改めよと主張されるのでしょうか。もしそうなら、この社説のタイトルに「憲法の理念に忠実に」は相応しくありません。

 社説は、時代に相応しい御代替わりのあり方を再検討し、国民に説明すべきだと政府に求めていますが、ジャーナリズムこそ天皇の歴史と伝統の価値を学び直すべきではありませんか。


▽4 皇室の歴史と伝統の意味

 社説はまた、自民党内に旧憲法を懐かしみ、天皇を神格化する空気が根強いことに懸念を示していますが、思想・良心の自由は現行憲法で認められています。

 もっとも後者についていえば、戦後唯一の神道思想家と言われた葦津珍彦が書いているように、天皇は古来、祀られる神ではなくて、みずから神々を祀るお立場なのです。古代の律令には「およそ天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」と明記されています。昭和天皇は現人神とされることに否定的でした。

 懸念されるのは、天皇の神格化ではなくて、天皇が多神教的祭祀を行われることの歴史的意義が十分に理解されず、価値多元主義的意味が見失われていることではないでしょうか。朝日新聞の社説はまさにその典型です。

 今日、天皇・皇室のあり方をめぐって議論が混乱する理由のひとつは、そうした皇室の歴史と伝統が理解されず、その一方で、憲法の国民主権主義との衝突が過度に強調されるからです。この社説はその一例に過ぎません。

 社説は明治憲法にノスタルジアを感じる保守派を牽制しますが、日本国憲法とてけっして「不磨の大典」ではあり得ません。

 明治人は国務法と宮務法を別体系としましたが、現行憲法では両者が一元化され、皇室典範は下位法と位置づけられています。それでいて、日本国憲法施行とともに全廃された皇室令に代わる明文法は、70年経ったいまなお整備されていません。これでは混乱した議論が収束するはずはありません。

 国のあるべき姿を、先入観ぬきで、歴史的に、多角的に、謙虚に検討し直していただくことはできないでしょうか。
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国事行為しか認めない憲法にこそ問題がある ──朝日新聞発行月刊誌掲載の横田耕一論考を読む [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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国事行為しか認めない憲法にこそ問題がある
──朝日新聞発行月刊誌掲載の横田耕一論考を読む
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 明けましておめでとうございます。
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 陛下の譲位(退位)がいよいよ来春に迫りました。政府は来週にも、今上陛下の退位と皇太子殿下の即位に向けて準備組織を発足させると伝えられます。即位の礼・大嘗祭の日程も具体的に聞かれるようになりました。

 事態は先へ先へと進んでいますが、年の初めに当たり、改めて、今回のご譲位問題を振り返り、検証することは意味のないことではないでしょう。少なくとも千数百年におよぶ天皇の歴史に何が起きているのでしょうか。


▽1 「憲法の原点に立ち返れ」

 今回は考える材料として、朝日新聞社が発行する月刊誌「Journalism」一昨年11月号(特集「いまこそ考える天皇制」)に載った横田耕一九大名誉教授(憲法学)の「務め過多の象徴天皇像を前提とせず──憲法の原点に、いま一度立ち返ろう」を取り上げます。

 一昨年夏の陛下のビデオ・メッセージのあと、そのご真意を探り、象徴天皇のあり方を根本的に考えようとする企画で、寄稿を求められた4人の筆者の論考の1つです。

 横田先生は私とは異なる思想的お立場なのでしょうが、それゆえに、より根源的に考えるヒントを与えてくれそうです。

 先生のご主張は、要するに、日本国憲法は国事行為以外の公的行為を認めていないにもかかわらず、天皇は能動的な活動を行い、政府も国民もこれを容認し、受け入れてきた。それで公務が多すぎるというのなら、憲法の原点に帰り、憲法に反する天皇の行為を見直すべきだ、ということのようです。

 天皇の「お気持ち」には、憲法上、説明しがたい「務め」が多すぎること、天皇ご自身の「あるべき象徴天皇像」がそれをもたらしていることがうかがえる。したがって、「生前退位」問題を考えるには、その是非は別にして、それらの「務め」が必要不可欠なのか、憲法の原点に立ち返るべきではないか、と訴えておいでです。


▽2 国民は知っている

 先生の論考はWEBRONZAで全文を読むことができますので、ご興味のある方はそちらにアクセスしていただきたいと思います。URLは以下の通りです。
http://webronza.asahi.com/journalism/articles/2016102800006.html

 指摘したいことはいくつかありますが、1点だけ申し上げます。それは、先生は「憲法上の疑念」を指摘されますが、むしろ憲法にこそ問題があるのではないか、ということです。天皇に国事行為「のみ」を認め、政治的権能を認めない、日本国憲法の限界です。

 じつのところ、そのことを、多くの国民は百も承知なのでしょう。今回の一連の経緯を振り返ると、私にはそのように思えます。

 先生は、議論の出発点を一昨年8月8日のビデオ・メッセージに置いています。しかし、陛下が「譲位」のご意向を最初に示されたのは、8年も前の平成22年7月の参与会議といわれます。

 近代以降、終身在位制度が採られ、譲位は認められていません。しかも、憲法は天皇の政治的権能を認めておらず、天皇のご発意に基づいて、政府や国会が皇室制度の改革を進めることは憲法に抵触します。

 したがって側近たちは、職を賭してでも、陛下を説得し、思い留まっていただくべきだったと思いますが、逆に、退位の仕組み作りに走り出しました。そして、ご意向が物語の始まりだった事実関係を逆転させ、憲法の国民主権主義が出発点となるように、無理矢理ストーリーを書き換える荒技に打って出たのでした。

 関係者によるリークと思われるNHKのスクープは、メディアを利用して世論を喚起する仕掛けであり、さらにテレビを通じた「お気持ち」の表明は、国民の総意に基づく退位の気運を創出するための世論工作だったことが容易に想像されます。


▽3 放置してきた為政者の不作為

 宮内庁は陛下の「お気持ち」を国民に対して、正式に説明することさえしませんでした。あくまで起点は「国民の総意」でなければならないからでしょう。「生前退位のお気持ちを強くにじませた」という枕言葉付きで「お言葉」を伝えたのは、宮内庁ではなくて、メディアでした。

 現実を憲法に力尽くで整合させた不自然な運用のあり方は、そのようにしなければならない憲法の規定にこそ、むしろ問題があることを示しています。けれども国民はみな知り尽くしています。

 多くの国民にとっての天皇は、先生が仰せの、国事行為しか認められないという日本国憲法的な存在ではなく、たとえば王朝文学に親しみ、雛祭りを祝ってきたというような、憲法だけでは語れない多面的な存在です。先生は「(日本国憲法上)明仁天皇は2代目の天皇である」と仰せですが、国民にはあくまで125代続く歴史的な天皇なのです。

 国民が支持している象徴天皇とは、日本国憲法が定める象徴天皇ではなくて、歴史に基づく象徴天皇なのです。

 国と民のために祈られ、国民と親しく接せられる天皇像は、横田先生には憲法違反と映るかも知れませんが、多くの国民が圧倒的賛意を示していることは、古来、さまざまな形で天皇と民の間に深い絆が築かれてきた日本の歴史の反映です。

 そのような関係性に目を向けない、日本国憲法原理主義こそ改められるべきでしょう。ご譲位問題をめぐって疑念の対象とされるべきなのは、国事行為以外を認めないとする憲法のあり方でしょう。

 さらなる問題は、より望ましい憲法体制もしくは天皇制度が模索されてしかるべきなのに、戦後70余年、放置してきた政治の不作為です。これが陛下のお悩みの真因だろうと私は思います。

 とくに、「皇室の私事」とされている宮中祭祀の位置づけは、見直されるべきでしょう。

 先生は、憲法上、天皇は「国民統合の象徴」と規定されているけれども、「国民統合」を積極的に果たすことを期待されるわけではないと解説しておられますが、「国中平らかに、安らけく」と祈られ、国と民をまとめ上げてきたのが、古来の天皇です。


▽4 たちの悪い官僚社会

 横田先生の論考には、お言葉にある「何よりも国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて」という陛下の祭祀への言及が抜け落ちています。先生が「私事」と切り捨てる祭祀こそ、皇室の伝統からすれば、皇室第一のお務めです。

 敗戦後の神道指令で、宮中祭祀=「皇室の私事」とされたことに、占領期の政府は不満で、「いずれは法整備を図る」という方針だったようですが、独立回復後も実現への動きはなく、それどころか、いまや側近たちは「私事」説に先祖返りしているようです。

 そして、陛下のご高齢とご健康問題を理由として、ご公務ご負担軽減が求められ、その結果、昭和の悪しき先例を踏襲する祭祀簡略化が敢行され、一方でいわゆるご公務は減るどころか、逆に増えました。

 先生は日本国憲法が求める「象徴天皇像」が脅かされることを危惧しておられますが、祭り主たる伝統的天皇像の否定こそ、むしろ憂慮されます。

 先生は、限界が不明確なまま「公的行為」が大幅に拡大していることを問題視しています。まさにその通りですが、具体的には何が増えているのか、ご存じですか。

 宮内庁がもっとも気にしていたのは「拝謁」の多さでした。春秋の勲章受章者の拝謁などはほぼ延べ1週間にもわたって続きます。宮内庁といえば外務省OBが幅を効かせる組織ですが、ご負担軽減策にもかかわらず、外務省関連の「お茶」はいっこうに減りません。

 先生は「過多であれば制限すればよい」と簡単に仰せですが、たちの悪い官僚社会の現実と問題提起すらままならない政治の不作為を打ち砕くのは容易ではありません。

 法的基準の不明確な拝謁やお茶を削減できるなら、「生前退位」だ、皇室典範改正だと騒ぎ立て、国民的議論をあおる必要はありません。ところが、ご多忙なご公務を婚姻後の女性皇族にも分担していただくためと称して、皇室の歴史にない「女性宮家」創設論さえ飛び出しています。議論すべきテーマはほかにあります。
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「退位」翌日に「即位の礼」を行う根拠は何か? [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「退位」翌日に「即位の礼」を行う根拠は何か?
──どこへ行く125代続く皇室の歴史と伝統
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 御代替わりの日程について、私は大きな勘違いをしていたようです。しかしそうなると、政府が進める日程は、125代続く歴史的天皇の制度からさらに乖離していく印象をますます強くします。

 前回、当メルマガは、メディアが伝える、「退位」の翌日に「即位」「改元」する日程について、違和感を禁じ得ないと書きました。この「即位」とは皇位の継承を意味する践祚(せんそ)のことだと思っていたら、政府は大胆にも「即位の礼」を行うという考えのようです。

 しかしこれでは、桓武天皇の時代に践祚から日を隔てて即位式を行うようになり、貞観儀式の制定によって践祚と即位を区別するようになった皇室の伝統を完全に裏切ることになりませんか。

 旧皇室典範には

「天皇崩ずるときは、皇嗣、すなはち践祚し、祖宗の神器を承く」

「即位の礼および大嘗祭は京都においてこれを行ふ」

 とありましたが、戦後の混乱期に行われた皇室典範の改正では践祚と即位の区別を反映できず、現行の皇室典範では

「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」

「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」

 と定められ、「践祚」が消えています。このため平成の御代替わりではさまざまな不都合が生じましたが、混乱はさらに拡大しそうです。


▽1 皇室会議で固まった日程

 先週、開かれた皇室会議によって、今上陛下は平成31年4月30日に「退位」され、翌5月1日に皇太子殿下が「即位」され、新元号に「改元」されるという日程が固まりました。

 報道によれば、政府は、過去の例を調査し、「退位」「即位」の儀式の中身を決めるとも、宮殿「松の間」で行われる「退位」の新儀式は「退位の礼」と呼ばれるとも、伝えられています。

 つまり、再来年4月末日に「退位の礼」が行われ、翌5月1日に「剣璽等承継の儀」「即位後朝見の儀」「即位礼正殿の儀」などが行われ、新元号が施行されるようなのです。これは少なくとも千年を超える皇室の伝統に沿うものといえるでしょうか。

 室町時代に一条兼良が書いた『代始和抄』には「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」とありますが、今回はどんな退位の儀式が行われるのでしょうか。

 200年前の光格天皇のときには、「日次案」という史料によると、まず光格天皇は桜町殿(仙洞御所)に行幸され、天皇が乗られる鳳輦はふたたび御所に至ります。

 このとき天皇は、剣璽、鈴鎰、大刀契とともに、数百人からなる絢爛豪華な行列を組んで進まれました。この路頭の儀は華麗な極彩色の絵巻物となって記録されており、「桜町殿行幸図」と呼ばれ、ネット上で公開されています。

 光格天皇の行幸ののち、新帝となる仁孝天皇が御簾の中の椅子(いし)に着され、宣命使が版に就いて専制一段、群臣が再拝します。節会が終わり、剣璽が新主の御所に渡され、近衛二人が剣璽を取り、新主の御所に至ったのでした。

 こうして文化14年3月22日、光格天皇から仁孝天皇への譲位は行われたようです。

 2日後、光格天皇に太上天皇の尊号が贈られ、9月21日に即位の礼が行われ、「文政」への改元は翌年4月でした。


▽2 剣璽の継承はいつ、どのように行われるのか

 今回、行われる「退位の礼」はどのように行われるのでしょうか。

 1つは皇位とともにある剣璽の渡御です。これこそが皇位継承の核心です。

 光格天皇の場合は、剣璽とともに、いったん仙洞御所に移られ、そこから紫宸殿に行幸になり、新帝に継承されました。平成の御代替わりでは、先帝崩御の当日、「剣璽等承継の儀」が松の間で行われました。

 今上天皇の譲位後のお住まいについて検討がなされているようですが、今回はおそらく、仙洞御所への行幸も路頭の儀も行われないのでしょう。「剣璽等承継の儀」は再来年4月末日なのか、それとも翌日なのか。

 2つ目は、上表の礼(揖譲の儀)です。

 一条兼良の「代始和抄」では、「父子にあらずして受禅のときは、皇太子参上して、椅子(いし。平安期、宮廷の座具)につきて上表の礼あり」と記されています。

 父子譲国の場合は揖譲の儀は行われないのが習いですが、後朱雀院から後冷泉院への受禅では行われました。光格天皇の場合も仁孝天皇が椅子に着されたことが、既述したように記録されています。

 今回の「退位の礼」ではどうなるのでしょう。

 3つ目は、即位の礼の日程です。

 平安時代以来、践祚(皇位継承)から日を隔てて、新帝の即位は行われました。平成の御代替わりでは「践祚」が消えましたが、皇位継承から一年の服喪を経て、即位の礼が行われました。

 今回は、「退位」の翌日に「即位の礼」が行われる模様です。その根拠はなんでしょうか。皇室典範は「皇位の継承があったときには、直ちに即位の礼を行う」と定めているわけではないのです。125代続いてきた皇室の歴史と伝統はどこに行ってしまうのでしょうか。



☆ひきつづき「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンへのご協力をお願いいたします。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

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異教の拝礼を国家に要求されたら ──コンクラーベで思い出した白柳枢機卿の信仰 3 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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異教の拝礼を国家に要求されたら
──コンクラーベで思い出した白柳枢機卿の信仰 3
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 拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第4章 百地章日大教授の拙文批判に答える

第6節 コンクラーベで思い出した白柳枢機卿の信仰


▽3 異教の拝礼を国家に要求されたら

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 唯一の神を信じるキリスト教徒にとって、それ以外のものに「拝礼」することは信仰上、不可能です。もし「拝礼」を要求されたとしたら、熱心な信徒であればあるほど、深刻な信仰上の悩みを抱えることになるでしょう。唯一神への信仰を捨てることと同じだからです。

 亡き友人の葬儀でも、戦没者追悼でも同じことがいえます。キリスト者は、友人や戦没者の御霊(みたま)に祈るのではありません。祈りの対象は唯一神以外にないからです。キリスト者は唯一神に対して、死者の魂の安寧を祈るのです。

 宮中祭祀も同じことがいえるでしょう。大嘗祭が神道の神に祈りを捧げる宗教儀式だとするなら、キリスト教徒は身もだえするほどの抵抗を感じ、苦悩するに違いありません。

 もしそのようなキリスト者に対して、信仰に抵触するような祈りを、国家が要求したとしたら、どうすべきなのか、ということが、キリスト者には大きな問題となります。キリスト者にとっての国家と宗教をめぐる政教問題です。

 これは、同じ神社の境内に八幡様もお稲荷さんも神明社も祀られるというような日本的な多神教世界では分かりづらいところですが、一神教の信仰者なればこそ、異教の存在を意識し、他者による圧迫を意識し、信教の自由を確保するため、国家に宗教的中立性を要求するのです。

 信教の自由を制度的に保障するために、厳格な政教分離が要求されると考えるのは、間違いなく、一神教的な発想が背景にあります。政教分離問題とは、つまるところキリスト教問題といえます。

 日本の歴史のなかで、国家と宗教のあり方が問われた大きな事件として、まっ先に昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件が取り上げられるのは、きわめて象徴的です。カトリック信徒が戦没者を祀る靖国神社に参拝すべきかどうか、は信仰上の大問題でした。

 結局、バチカンは画期的なことに、靖国神社での国家的儀礼と神社での宗教的礼拝とを区別したうえで、靖国神社で行われる儀式の意味が歴史的に変化していることを認め、国民儀礼として行われる靖国神社の儀礼に、信徒が参加することを許したのでした。

 これが1936年の指針「祖国に対する信者のつとめ」でした。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


☆ひきつづき「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンへのご協力をお願いいたします。
 このままでは悪しき先例がそのまま踏襲されるでしょう。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を求めます。
 おかげさまで賛同者が300人を超えました。
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神社人こそ最後の防波堤だった ──オウンゴールに気づかない百地先生の「大嘗祭」論 4 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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神社人こそ最後の防波堤だった
──オウンゴールに気づかない百地先生の「大嘗祭」論 4
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 拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第4章 百地章日大教授の拙文批判に答える

第4節 オウンゴールに気づかない百地先生の「大嘗祭」論


▽4 神社人こそ最後の防波堤だった

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1、神道指令は天皇の神道的儀式を私事として以外、認めなかった。しかし独立後、神道指令は失効した。宮内庁当局は「憲法の認める限度」で皇室の伝統的慣例を守ろうと考えており、昭和34年の東宮御成婚の際、賢所で行われた神式儀礼は国事行為として行われた。

2、神事を専門とする掌典は占領下では公務員ではないとされ、今日もそのまま続いているが、占領中であっても、侍従の毎朝御代拝は認められたし、掌典を補佐する掌典補は公務員が奉仕してきた。神道指令失効後は、社会党内閣時代も、当然のこととされた。

3、とくに重大な臨時の祭事は、内閣の助言と承認を得て「国事」として執行されるが、憲法20条(信教の自由)を守って参加を強制するかのような誤解が生じないようにする。

4、皇室の祭儀は法的に複雑だが、ときによっては「国事」と解される儀式もあるし、ことによっては国事と相関連する公的儀式と解されるものがあり、あるいは「内廷」限りの場合もあろう。

5、風説には「内廷限りのもの」と解されるものが多いが、宮内庁当局者が「皇室の祭事は陛下の私事以外のこととしては扱えない」と放言しているのは黙過できない。富田長官以下、新任者が前任者たちの言動を誤り、不法と思うのなら新見解を明示すべきだ。

 宮内官僚などによる揉み消し工作などもあったようですが、紆余曲折の末、宮内庁は

「皇族親王殿下以下の御結婚の諸儀が国事で行われ、また公事として執り行われたことはご承知の通り。今後も国事たり得る場合もあり、公事として行われることもあると考えている」

 とする、神道人の言い分を完全に認める「公式見解」を発表したと伝えられます(「神社新報」5月23日号)。

 尊皇意識において人後に落ちぬ神社人こそ、宮中祭祀=「皇室の私事」説を阻む、最後の防波堤でした。

 百地先生のいう

「葦津珍彦先生や大石義雄教授たちの驥尾(きび)に付し」

 はおよそ正確な表現とはいえません。

 ついでながら、このときの神社本庁と宮内庁のやりとりについて、昭和59年4月17日の参院内閣委員会で取り上げられています。共産党の内藤功議員が、側近の侍従にも信教の自由はあるから、侍従による御代拝は憲法違反の疑いが濃厚だ、と指摘したのに対して、山本悟宮内庁次長は、こう答えています。

「宮中三殿は、通俗的に言えば、家にある神棚みたいなものだろうと思う。おそばにお仕えする者に、かわって毎日先祖の霊に拝礼をさせられるということは、侍従というものの職務から見ても、憲法違反であるというようなことまで、私どもとしては考えていない」

 違憲ではないというのなら、侍従による毎朝御代拝を洋装とし、拝礼場所を変える必要はないわけで、説明になっていませんが、ともかく宮内庁は、宮中祭祀は祖先崇拝である、御代拝は侍従による宗教的行為である、と理解しているわけです。であればこそ、「私事」説が生まれるのです。

 百地先生の「私事」説も同様です。

 蛇足ながら、つけ加えますが、宮中祭祀は皇祖神が祀られる賢所、歴代天皇および皇族方の御霊(みたま)が祀られる皇霊殿だけで行われるのではありません。祖先崇拝でないことは明らかです。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


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歴史的天皇像の命綱 ──百地先生にとって「国家神道」とは何だったのか? 2 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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歴史的天皇像の命綱
──百地先生にとって「国家神道」とは何だったのか? 2
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 拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第4章 百地章日大教授の拙文批判に答える

第3節 百地先生にとって「国家神道」とは何だったのか?


▽2 歴史的天皇像の命綱

koukyo01.gif
 敗戦後、天皇の祭祀は歴史的変革を迫られました。

 アメリカ政府は戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉であると考え、

「国教としての神道、国家神道の廃止」

 を占領政策の基本に置きました。

 ハーグ陸戦協定は占領軍が被占領国の宗教を尊重すべきことを規定し、ポツダム宣言には

「宗教・思想の自由は確立せられるべし」

 の項目があったにもかかわらず、です。

「国家神道」の中心施設とされた靖国神社は、アメリカ軍の東京進駐後、「焼却」の噂が持ちきりでした。上智大学のビッテル神父(法王使節代行)が

「国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言する」

 と最高司令官マッカーサーに答申し、免れたという経緯があります。

 しかし昭和20年暮れになって、いわゆる神道指令が発せられます。「神道国家主義の根絶」が目標とされました。翌21年には「国家神道」の教義とされた教育勅語の奉読や神聖的取り扱いが禁止されました。

 22年5月に日本国憲法が施行され、これに伴って皇室令は廃止され、宮中祭祀の明文法的根拠は失われました。

 それでも

「従前の条規が廃止となり、新しい規定ができないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)

 とする、宮内府長官官房文書課長高尾亮一名による依命通牒、いまでいう審議官通達によって、祭祀の伝統は辛うじて守られました。

 何しろ占領期ですから、皇室の伝統を守るため、当面、

「宮中祭祀は皇室の私事」

 という解釈で凌がざるを得なかったといわれます。「皇室の私事」として祭祀を存続することについては、占領軍は干渉しませんでした。

 繰り返しになりますが、依命通牒第3項こそ、戦後の皇室祭祀の、したがって祭祀王たる歴史的天皇像の命綱でした。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


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ヨーロッパ王室とは異なる ──なぜレーヴェンシュタインを引用するのか 3 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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ヨーロッパ王室とは異なる
──なぜレーヴェンシュタインを引用するのか 3
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 やむにやまれぬ思いから、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンをネット上で始めました。まだまだ賛同者が必要です。ご協力をお願いします。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

 それと先般、チャンネル桜で、「女性宮家」創設についての討論会に参加しました。どうぞご覧ください。国民的関心の高さからか、YouTubeでは試聴回数が4万回を超えているようです。
https://www.youtube.com/watch?v=ZsI0wpXNppQ&t=209s

 さて、以下、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第2章 有識者ヒアリングおよび「論点整理」を読む

第4節 なぜレーヴェンシュタインを引用するのか──市村眞一京大名誉教授の賛成論

▽3 ヨーロッパ王室とは異なる
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 天皇は古来、公正かつ無私なる祈りの存在として知られてきました。そして、国民の天皇意識は神話や伝承、地名、年号、年中行事、文学、音楽などによって、広く、深く培われてきました。

 したがって、宮家が減少し、皇室の御活動が困難を来すことによって、ただちに立憲君主制の根幹が揺るがされる、というような論理は、まことに僭越ながら、一面的といわざるを得ないように思います。

 先生は「国民の敬仰・信頼の根源」として、真っ先に宮中祭祀を数え上げていますが、なぜ天皇の祭祀が国民との信頼関係の根源となり得るのか、とくに説明はありません。

 極端にいえば、生身の肉体を持った天皇がおられない空位の時代でさえ、天皇の制度は続いてきました。信頼関係の根源は御活動ではないはずです。とすれば、「皇室の御活動」の維持を目的とする、政府の「女性宮家」創設案は意味をなさないことになります。

 天皇が古代から125代の長きにわたって続いてきた、歴史的な役割と意義について、レーヴェンシュタイン流ではない説明が求められます。

 市村先生には釈迦に説法ですが、戦前・戦後を通じてもっとも偉大な神道思想家といわれる今泉定助(いまいずみ・さだすけ。神宮奉斎会会長。日本大学皇道学院長)によれば、「天皇統治の本質」は、遠く天壌無窮の神勅に

「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、これ、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。いまし皇孫(すめみま)、就(い)でまして治(しら)せ。さきくませ。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、まさに天壌(あめつち)と窮(きわま)りむけむ」

 とあるように、この国を「しらす」ことであり、また大祓詞(おおはらえのことば)に

「我が皇御孫命(すめみまのみこと)は、豊葦原瑞穂國を安国と平(たい)らけく知(し)ろし食(め)せと、事依(ことよ)さし奉りき」

 とあるように、「安国と平らけくしろしめす」ことだと説明されています。

「しらす」政治は「知る」政治であり、国民の自性を知り、万物の自性を知って、これを生成化育する、政治同化統一する神人不二、祭政一致の政治であり、「うしはく」政治つまり領有の政治、私有の政治とは異なる、と説明されています(『今泉定助先生研究全集2』)。

 今泉のいう「祭政一致の政治」とは、いかなる意味なのか、カビの生えたアナクロニズムではない、現代的な説明が必要です。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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読者からいただいたお叱り ──「女性宮家」創設の本当の提案理由 1 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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読者からいただいたお叱り
──「女性宮家」創設の本当の提案理由 1
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


第1章 いつ、だれが、何のために言い出したのか?

第5節 「女性宮家」創設の本当の提案理由──政府関係者はきちんと説明すべきだ


▽1 読者からいただいたお叱り
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 メルマガの読者お二人からメールをいただきました。

 お一方は、

「個人攻撃のような口調や策謀は慎むべきだ」

 というお叱りでした。

 もし渡邉允前侍従長(いまは元職)や敬愛する所功先生に対する個人攻撃のように受け取られたのでしたら、私の本意ではありません。

 いみじくも所先生が「WiLL」平成23年10月号掲載の論考の冒頭で、

「近年は、皇室を敬愛する人々の間で、激しい論争がエスカレートしている。しかし、どんなに立場が違っても、議論の内容と直接に関係のないことで相手を非難するようなことは、厳に慎むべきであろう。まして本質的に理念を共有すると思うならば、多少見解を異にしても、相手への常識的な配慮を忘れてはならない」

 と書いておられますが、まったく同感です。

 私の文章が皇室論とは別次元の、特定の個人に対する論難だと理解されたとすれば、それは私の筆力のなさであり、心から恥じるほかはありません。

 私が訴えたいのは、「女性宮家」創設をめぐる議論の異様さです。誰が、いつ、何を目的として、創設論を言い出したのか、杳(よう)として知れない。提案理由も中味も分からないから、当然のことに、議論は混迷する。甲論乙駁をよそに、事態は確実にある方向に向かって進んでいきました。

 私は、当代随一の皇室ジャーナリスト、岩井克己朝日新聞記者の記事を材料に、渡邉允前侍従長が平成23年秋ごろから、「女性宮家」創設を明確に主張していることを突き止めました。目的は「皇室のご活動」を確保するためです。

 けれども、朝日新聞のデータベースによると、提案者は所功京都産業大学教授であるという結論に達します。平成17年6月の第7回皇室典範有識者会議に有識者として招かれた先生は、これまた明確に「女性宮家」創設を訴えています。しかしこちらは、前侍従長とは異なり、「安定的で望ましい皇位継承」が目的で、両者は意味が異なります。

 つまり、中味の異なる「女性宮家」創設論が世の中に存在するわけで、これでは混乱は必至です。

 もうお一方からのメールは、「女性宮家」創設論は、もっと遡ることができるのではないか、という指摘でした。

 そうなのです。さらに何年も前から、国民の知らないところで、「女性宮家」創設は密かに進んできた。しかし、提案者たちはいっこうに名乗り出ようとせず、当然、その中味を明らかにしようともしない。それでいて、まるでアリバイ証明のように、野田政権下で有識者と称される人たちのヒアリングが始まりました。

 これでは混乱するのは必然です。皇位の継承、天皇のお務めは国の基本に関わる重要事なのに、なにやら陰謀めいた臭いさえします。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


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廃仏毀釈の嵐を鎮め、キリスト教文化を受け入れた皇室 ──天皇・皇室の宗教観 その2 [天皇・皇室]

以下は「月刊住職」平成27年10月号からの転載です

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廃仏毀釈の嵐を鎮め、キリスト教文化を受け入れた皇室
──天皇・皇室の宗教観 その2
(「月刊住職」平成27年10月号)
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 皇室の仏教信仰について、歴史的検証を試みている。前回は仏教公伝から江戸時代までを振り返った。今号では引き続き、明治・大正期、いわゆる「国家神道」時代を考える。

▽1 「泉涌寺を護る会」総裁

 今年(平成27年)5月12日、秋篠宮文仁親王殿下は妃殿下を伴われ、中世以来、皇室唯一の香華院(菩提所)として知られる真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)派総本山・東山泉涌寺を訪れられ、霊明殿に参拝された。

 霊明殿の内陣中央御扉内には第87代四条天皇(在位1332~42)の御尊像(木像)と御尊牌(ごそんぱい)をはじめ、第122代明治天皇(同1867~1912)、昭憲皇太后、第123代大正天皇(同1912~26)、貞明皇后、第124代昭和天皇(同1926~89)、香淳皇后の御真影、御尊牌が奉安され、それ以前の歴代天皇、皇妃、親王方の御尊牌は左右の御扉内に奉安されている。内部の荘厳具は、明治以後の皇族方から寄進されたものといわれる。

 この日は、殿下が総裁をお務めになる「御寺(みてら)泉涌寺を護る会」の定期総会であった。関係者によれば、殿下は平成8年の総裁ご就任以来、毎年欠かさず参拝されている。

 泉涌寺は御寺と呼ばれるほど、歴史的に皇室との関わりが深い。それは第86代後堀河天皇(在位1221~32)が綸旨(りんじ)によって御願寺とされたことに始まるといわれる。

  第82代後鳥羽天皇(同1183~93)、順徳上皇(第84代天皇。同1210~21)、後高倉院(守貞親王)は、開山と仰がれる月輪(がちりん)大師俊芿(しゅんじょう)によって受戒されるなど、深く帰依されたが、四条天皇の御葬地となったことがさらなる縁を刻んだ。

 承久の乱から約20年後の仁治3(1242)年のことだった。天皇は御年12歳でにわかに崩御された。時の執権北条泰時は皇位継承者に、順徳上皇の第5皇子忠成王ではなく、土御門上皇(第83代天皇。在位1198~1210)の第2皇子邦仁王(第88代後嵯峨天皇。在位1442~46)を選んだ。上皇が乱に反対のお立場だったというのが理由らしい。乱の失敗で公武関係は完全に逆転していた。

 御尊骸はその間、放置され、御葬送は崩御から16日後、混乱のなかで執り行われた。なぜ泉涌寺が御葬地となり、御陵月輪陵(つきのわのみささぎ)が境内に造営されたのか、直接的な史料は残されていないが、他寺他山が政争に巻き込まれるのを恐れたなかで、唯一、仏教者本来の姿を保った。四条天皇は俊芿律師の再誕だとする説も生まれたという(『泉涌寺史』など)。

 こうして皇室との縁が結ばれ、その後、北朝第4代後光厳天皇(在位1352~71)から第100代(北朝第6代)後小松天皇(同1382~1412)までの葬場となった。後小松天皇は俊芿に「大興正法国師」の諡号(しごう)を贈られた。

 中世末の戦乱で荒廃した伽藍を現在地に再興されたのは第108代後水尾天皇(同1611~29)で、その御葬礼は泉山で執行され、山内に御廟所が設けられた。以後、第121代孝明天皇(同1846~67)まで御陵が寺内に築かれた。また、後光厳天皇が創建された別院雲龍院や、第51代平城天皇(同806~09)の勅願寺とされ、第105代後奈良天皇(同1526~57)の叡慮によって山内に移築された善能寺など、皇室ゆかりの山内寺院が少なくない。

▽2 神仏分離令と廃仏毀釈

 幕末・明治維新期に到り、泉涌寺のみならず、仏教界は大きな混乱の坩堝に陥れられた。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)である。

 幕府廃絶、新政府樹立を宣言する、慶応3年の王政復古の大号令には「諸事、神武創業の始めに原(もとづ)き」とあった。翌年には祭政一致、神祇官再興が表明され、諸神社、神官らは神祇官に付属されるべきことが布告された。明治天皇は紫宸殿(ししんでん)に神座を設え、天神地祇を祀り、五事の誓約(五箇条御誓文)を行われた。

 僧形の別当・社僧の復飾が通達され、さらに「権現(ごんげん)」「牛頭(ごず)天王」など仏語を神号とする神社の改称、仏像の御神体、鰐口、梵鐘、仏具の撤去が布告された(『明治天皇紀』など)。

 年来の神仏習合の清算は神仏分離にとどまらず、激しい廃仏毀釈へと転化した。いち早く嵐にさらされたのが比叡山延暦寺・日吉社(山王権現社)だった。

『新修大津市史』などによると、青蓮院、妙法院、梶井(三千院)の宮門跡は還俗を命じられていた。宮門跡は多くの場合、天台座主を兼ねていたから、延暦寺は皇室との関係を断ち切られることになった。戊辰戦争の最中で、輪王寺宮の処遇も微妙になった。

 他方、従来、延暦寺の支配下にあった日吉社の社司樹下(じゅげ)茂国は神祇事務局の事務掛に任命された。樹下は分離令後、「年来の宿憤を晴らすべきときが来た」と勇み立った。多年、社僧の下役に甘んじていたのを悲憤慷慨していたのだ。

 生源寺希徳(しょうげんじ・きとく)ら日吉社司は樹下に実力行使の加勢を迫り、樹下は京都吉田社に集合していた神官たちを動員した。4年4月、武装した神威隊と村人らが社殿に乱入し、本地仏や仏器、仏具、経巻などを散々に破壊し、焼き捨てたうえ、鰐口など金具類を持ち去るなど狼藉の限りを尽くし、快哉を叫んだ。

 過激な廃仏毀釈の原因は何だったのだろうか、辻善之助東京帝国大学名誉教授(日本仏教史)は、復古的革命的な気運と明治政府の方針とを挙げ、さらに遠因として、国学の勃興、排仏論の影響、僧侶の堕落を指摘している。

 本来、神仏判然は仏教排撃を意味しない。明治元年の本願寺、興正寺などへの達(たっし)には朝廷の本意は廃仏毀釈ではないと明示され、行政官布告にも神仏混淆禁止は破仏の意味ではないと弁明され、みだりに復飾を願い出ることが牽制された。他方でトラブルもなく、神仏分離がスムーズに実施されたケースもあるという(『明治維新神仏分離史料』など)。

 だが改革は神仏分離に留まらず、引き続いて社寺領の上知(じょうち)が布告された。神社は国家の宗旨とされ、神宮・神社の神官・社家の世襲が廃された。宗門人別帳が廃止され、氏子取調に代わった。新生児は産土社で守札を受け、死亡後は返納された。天社神道(陰陽道)の布教が禁じられ、虚無僧の一派や修験宗が廃止された。托鉢が禁止され、女人結界が廃され、僧侶の蓄髪・妻帯は自由になった(『明治維新神道百年史』など)。

▽3 皇室と泉涌寺

 宮中の年中行事も激変した。

 年始の金光明会、後七日御修法、正月8日の大元帥法、18日の観音供、2月と8月の季御読経(きのみどきょう)、3月と7月の仁王会、4月8日の灌仏会、5月の最勝講、7月の盂蘭盆供、12月の仏名会など、皇室の仏事は明治4年をもってすべて廃止された。幕末の宮中では仏教や陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたのである。

 この一方で、以前は神嘗祭、新嘗祭、歳旦祭、祈年祭、賢所御神楽のほか四方拝、節折、大祓が定められていたが、天長節、紀元節、春秋の皇霊祭など、新たな祭祀が生まれ、石灰壇御拝は毎朝御代拝に代わった。端午、七夕など五節句は廃され、やがて宮中三殿が成立し、皇室祭祀が整備、確立されていった。

 京都御所には歴代天皇の御霊牌や念持仏を祀る御黒戸(おくろど)があり、女官が日々、奉仕していたが、神仏分離後、これらは撤去され、恭明宮に遷座され、さらに泉涌寺舎利殿に遷され、安置された。その後、御黒戸を移築した海会堂に、歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られることとなった。

 泉涌寺について、孝明天皇は「四条帝以来御代々御陵守護の官寺、皇祖御尊敬の訳をもって諸寺の上席となすべし」と詔された。けれども神仏分離の影響を免れることはできなかった。

 泉涌寺の財政は、新政府に5000両の借用を申し入れたほど、御一新の混乱で逼迫した。即位の大礼を前に、明治天皇は泉涌寺内にある孝明天皇の御陵に参拝されたが、歴代の御尊牌に参詣されることはなかった。天皇は史上はじめて伊勢神宮に親拝された。孝明天皇3年忌(3年祭)も、第120代仁孝天皇(在位1817~46)の25回御忌も神式で斎行された。泉涌寺山内の御陵は寺門から切り離され、宮内省所管となった。

 もはや御寺の地位は失われたのか? しかし皇室の支援が途絶えたわけではなかった。孝明天皇御3回忌には大宮御所から銀1000枚の下賜があり、翌年からは年間100石の増禄を賜った。菊の御紋章の使用も例外的に許された。

 ようやく再興の見通しが見えてきた明治15年、泉涌寺は火災に見舞われた。このとき再建の資金を提供したのは宮内省だった。戦後の新憲法公布まで、修理費用はすべて宮内省が支出した。翌16年には明治天皇から俊芿に「月輪大師」の号が贈られた。明治天皇の行幸は元年以来、11回におよんだ。

 仏教の外護者としてのお立場に変更はなかった。

▽4 皇室の仏教信仰

 信仰もまた同様である。

 親王門跡が残らず還俗し、門跡制度自体が廃止されるなか、復飾を拒否した女性皇族方がおられる。伏見宮邦家親王の3姉妹、誓圓尼(善光寺大本願)、文秀女王(円照寺門跡)、日榮尼(村雲瑞龍寺門跡)である。

 なかでも誓圓尼は、「一度、仏教に固く誓った身であるから、たとえ如何なる迫害を受けようとも、このたびの仰せには従い得ない。わが身は終生、仏弟子として念仏弘通のために捧げよう」と断言され、廃仏毀釈の嵐から善光寺を守り抜いた、中興の祖とされる。

 むろんお三方ばかりではない。明治10年、宮内省は孝明天皇の御念持仏を差し出すよう泉涌寺に通達した。仏教に帰依し、供養なさりたいとの英照皇太后の御意向と指摘される。昭憲皇太后もまた光格天皇(第119代。在位1780~17)の勅作とされる阿弥陀如来像を召されたという。

 英照皇太后は昭憲皇太后に諭されたといわれる。

「神仏の教へは、みな正しきにより人の心を導くなれば、けっして疎かに思ふべからず。…(中略)…神を信ずる心は、これやがて仏を尊む心なり。仏を信ずる心は、やがてこれ神を尊む心ともなれ。ただ誠の心もていづれの道をも信ぜよかし」

 明治の皇室の仏教信仰がもっとも色濃く伝えられているのは、日蓮宗大本山小湊山誕生寺である。皇室との関係は、第123代大正天皇(在位1912~26)が皇太子時代に百日咳を患われたとき、誕生寺第61世貫首豊永日良上人が病気平癒を御祈祷し、快癒されたことに始まるという。

 明治天皇の御肌守(おんはだまもり)紺紙金泥細字法華経八巻を奉納されたのは、生母中山慶子典侍であった。有栖川宮熾仁親王は同宮家の御廟所龍王殿を山内に建立された。昭憲皇太后は明治天皇崩御ののち「自我偈(じがげ)」を写経され、納経された。

 この時代はしばしば「神道国教化」と表現されるが、その中心であったはずの神祇官は早くも明治4年には神祇省に降格され、翌年には廃止され、教部省となった。さらに教部省は廃止され、やがて大教宣布の担い手であった神官が教導職を兼務することも禁止された。神社を国家の宗旨とする姿勢は変わらなかった(文部省『学制百年史』)が、天皇の側近には啓蒙主義者が登用されるようになり、宮中の生活様式は急速に洋風化していった。

 他方、神仏分離令後、中絶した後七日御修法はその後、釈雲照の提唱と真言宗をあげての復興運動により、明治16年、真言宗総本山教王護国寺(東寺)の灌頂院で再興され、今日に至っている。真言宗では日清戦争勃発後、大元帥法が修せられ、大正天皇即位礼、昭和天皇即位礼のときにも修せられた。

 また天台宗では、大正9年に御修法の復興を願い出、「聴許相成り候」との回答を得、翌年には御衣の下付が認められ、今日のように毎年、比叡山延暦寺の根本中堂で行われるようになった。

▽5 明治憲法とキリスト教

 宮中三殿が現在地に遷座された明治22年1月からひと月後、信教の自由を明記する大日本帝国憲法が発布された。アジアで最初の近代憲法だった。

 キリシタン禁制の高札撤去から12年後のことで、とりわけキリスト者の喜びはひとしおだった。時事新報に「憲法発布式における市中の賑わい」のひとつとして、こんな記事が載っている。

「基督教信者は今度の盛典を祝せんとて、当日午前8時を期し、各町部の会堂に参集して讃美歌を唱へ、祈祷をなし、皇帝の万歳を祝し奉らんとの手筈なるが、前代未聞の大典なればとて、更に新詠の讃美歌を作らんとの計画もありといふ」

 翌年には長崎で日本・朝鮮両管区長の宗教会議と浦上の信徒発見25年祭が開かれ、聖体行列が行われたが、警察は「わずかの敵意さえ示さなかった」。

 東京・霊南坂教会の設立者で、同志社の総長・小崎弘道の『日本基督教史』(昭和13年)によれば、キリスト者の最大の関心事は信教の自由だった。

「思想、集会、信教の自由を保障せられたことは、大いに慶賀すべく、ことに信教の自由においては、枢密院においてすこぶる強硬なる反対論があったにもかかわらず、伊藤(博文)公らの尽力により、この一項の掲げられたことは、吾人キリスト信徒の大いに感謝せねばならぬところである」

 それだけではない。有史以来、漢字や仏教、雅楽など海外文化受容のセンターとして機能してきた皇室は、近代以後は文明開化の先頭に立たれ、キリスト教文化をもっとも積極的に受け入れられた。古代、仏教の外護者だった皇室は、近代においてはキリスト教の社会事業を物心両面から支援された。

 たとえば赤十字である。ヨーロッパのキリスト教精神に基づくナイチンゲールの活動やデュナンによる赤十字運動は日本に完全に受容されているが、その中心は皇室である。

 日本の赤十字運動は西南戦争時の明治10年に設立された博愛社に始まる。禁教が解かれてから4年後だった。ヨーロッパの赤十字事業を視察していた元老院議官・佐野常民が大給恒らを誘って、博愛社を開設しようとしたのは、皇室の御仁慈に啓発され、日本の武士道精神に合致すると考えたからだった。

 事実、明治政府は当初、敵味方の区別なく救護活動を行なうという博愛社の精神を理解しなかったが、佐野らは征討総督の立場にあった有栖川宮熾仁(たるひと)親王に博愛社設立を願い出て許可され、明治天皇は特旨をもって金1000円を賜った。

 設立願書には「この輩のごとき大義を誤り、王師に敵すといえども、また皇国の人民たり。皇家の赤子たり」と記され、佐野の伝記には、敵味方の区別なく救うという赤十字の精神は一視同仁という天皇精神と通じる、と説明されている。

 やがて博愛社は日本赤十字社と改称され、ヨーロッパの王室にならって、皇室が赤十字運動の指導的立場に立たれた(『日本赤十字社発達史』など)。

 いまも日本赤十字の名誉総裁は皇后陛下であられ、日赤大会は明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮の杜で開かれる。皇太后の寄付金をもとに創設された昭憲皇太后基金は、世紀を超えて、世界の赤十字活動を支えている。

▽6 関東大震災の御黙祷

 いつの時代も日本の多元的宗教空間の中心に位置してきた皇室は、近代になると非宗教をも飲み込んでいった。

 大正12年10月、関東大震災の犠牲者を悼む「四十九日」の追悼式が東京府市合同で行われた。式は「国家神道」どころか無宗教で行われ、宗教者は排除され、既成の宗教儀礼も採用されなかった。仏教各派連合の追悼会や全国神道連合会の五十日祭は府市連合の追悼式とは別個に開催された。

「国家が宗教に干渉するのは世界の大勢にもとる」というのが行政の基本姿勢であったから、神道も仏教も一律に排除され、そのため啓蒙主義的、反宗教的な行政と、その姿勢を「宗教に無理解」と反発する宗教者との抜き差しならない対立が表面化し、事件が起きたことを、当時の新聞は伝えている。

 翌年の震災1周年に登場したのが、無宗教儀礼としての黙祷であった。

 東京府市と経済団体とで組織される震災記念事業協議会が協議を重ね、震災発生時刻に社寺教会などは鼓鐘、工場船舶は汽笛を鳴らし、市電は1分間停車、市民は「黙想反省」することなどが決められた。新聞はこれを「祈念黙想」と言い換えて報道した。

 ところが1周年当日を数日後に控え、東宮殿下(昭和天皇)が追悼式に「2分間の御黙祷」を捧げることになったと伝えられると、協議会が決めた非宗教的儀礼に宗教的な命が吹き込まれたかのように、「祈念黙想」は「黙祷」に一変した。

 死者を追悼する黙祷儀礼は皇室に源を発し、一般に広がっていった。皇室と国民の沈黙の祈りは切なるものであったけれども、既成の宗教儀礼によらない黙祷は宗教宗派への絶対的不干渉・中立主義をとる行政にとっても好都合で、以後、無宗教儀礼として浸透していった。

 宗教者たちはこの年も東京市主催の震災一周年追悼式を宗教儀礼によって行うことを強く迫った。けれども当局はこれを拒否し、無宗教の式典が催された。これが一般に「国家神道」の時代といわれる近代日本の実態だった。

 次号ではいよいよ昭和期の皇室と仏教について迫る。

(一部敬語敬称略。参考文献=安丸良夫『神々の明治維新』1979年、石川泰志『近代皇室と仏教』平成20年、「大法輪」平成24年12月号など)
タグ:天皇・皇室
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