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ヨーロッパ王室とは異なる ──なぜレーヴェンシュタインを引用するのか 3 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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ヨーロッパ王室とは異なる
──なぜレーヴェンシュタインを引用するのか 3
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 やむにやまれぬ思いから、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンをネット上で始めました。まだまだ賛同者が必要です。ご協力をお願いします。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

 それと先般、チャンネル桜で、「女性宮家」創設についての討論会に参加しました。どうぞご覧ください。国民的関心の高さからか、YouTubeでは試聴回数が4万回を超えているようです。
https://www.youtube.com/watch?v=ZsI0wpXNppQ&t=209s

 さて、以下、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第2章 有識者ヒアリングおよび「論点整理」を読む

第4節 なぜレーヴェンシュタインを引用するのか──市村眞一京大名誉教授の賛成論

▽3 ヨーロッパ王室とは異なる
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 天皇は古来、公正かつ無私なる祈りの存在として知られてきました。そして、国民の天皇意識は神話や伝承、地名、年号、年中行事、文学、音楽などによって、広く、深く培われてきました。

 したがって、宮家が減少し、皇室の御活動が困難を来すことによって、ただちに立憲君主制の根幹が揺るがされる、というような論理は、まことに僭越ながら、一面的といわざるを得ないように思います。

 先生は「国民の敬仰・信頼の根源」として、真っ先に宮中祭祀を数え上げていますが、なぜ天皇の祭祀が国民との信頼関係の根源となり得るのか、とくに説明はありません。

 極端にいえば、生身の肉体を持った天皇がおられない空位の時代でさえ、天皇の制度は続いてきました。信頼関係の根源は御活動ではないはずです。とすれば、「皇室の御活動」の維持を目的とする、政府の「女性宮家」創設案は意味をなさないことになります。

 天皇が古代から125代の長きにわたって続いてきた、歴史的な役割と意義について、レーヴェンシュタイン流ではない説明が求められます。

 市村先生には釈迦に説法ですが、戦前・戦後を通じてもっとも偉大な神道思想家といわれる今泉定助(いまいずみ・さだすけ。神宮奉斎会会長。日本大学皇道学院長)によれば、「天皇統治の本質」は、遠く天壌無窮の神勅に

「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、これ、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。いまし皇孫(すめみま)、就(い)でまして治(しら)せ。さきくませ。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、まさに天壌(あめつち)と窮(きわま)りむけむ」

 とあるように、この国を「しらす」ことであり、また大祓詞(おおはらえのことば)に

「我が皇御孫命(すめみまのみこと)は、豊葦原瑞穂國を安国と平(たい)らけく知(し)ろし食(め)せと、事依(ことよ)さし奉りき」

 とあるように、「安国と平らけくしろしめす」ことだと説明されています。

「しらす」政治は「知る」政治であり、国民の自性を知り、万物の自性を知って、これを生成化育する、政治同化統一する神人不二、祭政一致の政治であり、「うしはく」政治つまり領有の政治、私有の政治とは異なる、と説明されています(『今泉定助先生研究全集2』)。

 今泉のいう「祭政一致の政治」とは、いかなる意味なのか、カビの生えたアナクロニズムではない、現代的な説明が必要です。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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読者からいただいたお叱り ──「女性宮家」創設の本当の提案理由 1 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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読者からいただいたお叱り
──「女性宮家」創設の本当の提案理由 1
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 以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの転載です。一部に加筆修正があります。


第1章 いつ、だれが、何のために言い出したのか?

第5節 「女性宮家」創設の本当の提案理由──政府関係者はきちんと説明すべきだ


▽1 読者からいただいたお叱り
koukyo01.gif
 メルマガの読者お二人からメールをいただきました。

 お一方は、

「個人攻撃のような口調や策謀は慎むべきだ」

 というお叱りでした。

 もし渡邉允前侍従長(いまは元職)や敬愛する所功先生に対する個人攻撃のように受け取られたのでしたら、私の本意ではありません。

 いみじくも所先生が「WiLL」平成23年10月号掲載の論考の冒頭で、

「近年は、皇室を敬愛する人々の間で、激しい論争がエスカレートしている。しかし、どんなに立場が違っても、議論の内容と直接に関係のないことで相手を非難するようなことは、厳に慎むべきであろう。まして本質的に理念を共有すると思うならば、多少見解を異にしても、相手への常識的な配慮を忘れてはならない」

 と書いておられますが、まったく同感です。

 私の文章が皇室論とは別次元の、特定の個人に対する論難だと理解されたとすれば、それは私の筆力のなさであり、心から恥じるほかはありません。

 私が訴えたいのは、「女性宮家」創設をめぐる議論の異様さです。誰が、いつ、何を目的として、創設論を言い出したのか、杳(よう)として知れない。提案理由も中味も分からないから、当然のことに、議論は混迷する。甲論乙駁をよそに、事態は確実にある方向に向かって進んでいきました。

 私は、当代随一の皇室ジャーナリスト、岩井克己朝日新聞記者の記事を材料に、渡邉允前侍従長が平成23年秋ごろから、「女性宮家」創設を明確に主張していることを突き止めました。目的は「皇室のご活動」を確保するためです。

 けれども、朝日新聞のデータベースによると、提案者は所功京都産業大学教授であるという結論に達します。平成17年6月の第7回皇室典範有識者会議に有識者として招かれた先生は、これまた明確に「女性宮家」創設を訴えています。しかしこちらは、前侍従長とは異なり、「安定的で望ましい皇位継承」が目的で、両者は意味が異なります。

 つまり、中味の異なる「女性宮家」創設論が世の中に存在するわけで、これでは混乱は必至です。

 もうお一方からのメールは、「女性宮家」創設論は、もっと遡ることができるのではないか、という指摘でした。

 そうなのです。さらに何年も前から、国民の知らないところで、「女性宮家」創設は密かに進んできた。しかし、提案者たちはいっこうに名乗り出ようとせず、当然、その中味を明らかにしようともしない。それでいて、まるでアリバイ証明のように、野田政権下で有識者と称される人たちのヒアリングが始まりました。

 これでは混乱するのは必然です。皇位の継承、天皇のお務めは国の基本に関わる重要事なのに、なにやら陰謀めいた臭いさえします。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


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廃仏毀釈の嵐を鎮め、キリスト教文化を受け入れた皇室 ──天皇・皇室の宗教観 その2 [天皇・皇室]

以下は「月刊住職」平成27年10月号からの転載です


 皇室の仏教信仰について、歴史的検証を試みている。前回は仏教公伝から江戸時代までを振り返った。今号では引き続き、明治・大正期、いわゆる「国家神道」時代を考える。

▽1 「泉涌寺を護る会」総裁

 今年(平成27年)5月12日、秋篠宮文仁親王殿下は妃殿下を伴われ、中世以来、皇室唯一の香華院(菩提所)として知られる真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)派総本山・東山泉涌寺を訪れられ、霊明殿に参拝された。

 霊明殿の内陣中央御扉内には第87代四条天皇(在位1332~42)の御尊像(木像)と御尊牌(ごそんぱい)をはじめ、第122代明治天皇(同1867~1912)、昭憲皇太后、第123代大正天皇(同1912~26)、貞明皇后、第124代昭和天皇(同1926~89)、香淳皇后の御真影、御尊牌が奉安され、それ以前の歴代天皇、皇妃、親王方の御尊牌は左右の御扉内に奉安されている。内部の荘厳具は、明治以後の皇族方から寄進されたものといわれる。

 この日は、殿下が総裁をお務めになる「御寺(みてら)泉涌寺を護る会」の定期総会であった。関係者によれば、殿下は平成8年の総裁ご就任以来、毎年欠かさず参拝されている。

 泉涌寺は御寺と呼ばれるほど、歴史的に皇室との関わりが深い。それは第86代後堀河天皇(在位1221~32)が綸旨(りんじ)によって御願寺とされたことに始まるといわれる。

  第82代後鳥羽天皇(同1183~93)、順徳上皇(第84代天皇。同1210~21)、後高倉院(守貞親王)は、開山と仰がれる月輪(がちりん)大師俊芿(しゅんじょう)によって受戒されるなど、深く帰依されたが、四条天皇の御葬地となったことがさらなる縁を刻んだ。

 承久の乱から約20年後の仁治3(1242)年のことだった。天皇は御年12歳でにわかに崩御された。時の執権北条泰時は皇位継承者に、順徳上皇の第5皇子忠成王ではなく、土御門上皇(第83代天皇。在位1198~1210)の第2皇子邦仁王(第88代後嵯峨天皇。在位1442~46)を選んだ。上皇が乱に反対のお立場だったというのが理由らしい。乱の失敗で公武関係は完全に逆転していた。

 御尊骸はその間、放置され、御葬送は崩御から16日後、混乱のなかで執り行われた。なぜ泉涌寺が御葬地となり、御陵月輪陵(つきのわのみささぎ)が境内に造営されたのか、直接的な史料は残されていないが、他寺他山が政争に巻き込まれるのを恐れたなかで、唯一、仏教者本来の姿を保った。四条天皇は俊芿律師の再誕だとする説も生まれたという(『泉涌寺史』など)。

 こうして皇室との縁が結ばれ、その後、北朝第4代後光厳天皇(在位1352~71)から第100代(北朝第6代)後小松天皇(同1382~1412)までの葬場となった。後小松天皇は俊芿に「大興正法国師」の諡号(しごう)を贈られた。

 中世末の戦乱で荒廃した伽藍を現在地に再興されたのは第108代後水尾天皇(同1611~29)で、その御葬礼は泉山で執行され、山内に御廟所が設けられた。以後、第121代孝明天皇(同1846~67)まで御陵が寺内に築かれた。また、後光厳天皇が創建された別院雲龍院や、第51代平城天皇(同806~09)の勅願寺とされ、第105代後奈良天皇(同1526~57)の叡慮によって山内に移築された善能寺など、皇室ゆかりの山内寺院が少なくない。

▽2 神仏分離令と廃仏毀釈

 幕末・明治維新期に到り、泉涌寺のみならず、仏教界は大きな混乱の坩堝に陥れられた。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)である。

 幕府廃絶、新政府樹立を宣言する、慶応3年の王政復古の大号令には「諸事、神武創業の始めに原(もとづ)き」とあった。翌年には祭政一致、神祇官再興が表明され、諸神社、神官らは神祇官に付属されるべきことが布告された。明治天皇は紫宸殿(ししんでん)に神座を設え、天神地祇を祀り、五事の誓約(五箇条御誓文)を行われた。

 僧形の別当・社僧の復飾が通達され、さらに「権現(ごんげん)」「牛頭(ごず)天王」など仏語を神号とする神社の改称、仏像の御神体、鰐口、梵鐘、仏具の撤去が布告された(『明治天皇紀』など)。

 年来の神仏習合の清算は神仏分離にとどまらず、激しい廃仏毀釈へと転化した。いち早く嵐にさらされたのが比叡山延暦寺・日吉社(山王権現社)だった。

『新修大津市史』などによると、青蓮院、妙法院、梶井(三千院)の宮門跡は還俗を命じられていた。宮門跡は多くの場合、天台座主を兼ねていたから、延暦寺は皇室との関係を断ち切られることになった。戊辰戦争の最中で、輪王寺宮の処遇も微妙になった。

 他方、従来、延暦寺の支配下にあった日吉社の社司樹下(じゅげ)茂国は神祇事務局の事務掛に任命された。樹下は分離令後、「年来の宿憤を晴らすべきときが来た」と勇み立った。多年、社僧の下役に甘んじていたのを悲憤慷慨していたのだ。

 生源寺希徳(しょうげんじ・きとく)ら日吉社司は樹下に実力行使の加勢を迫り、樹下は京都吉田社に集合していた神官たちを動員した。4年4月、武装した神威隊と村人らが社殿に乱入し、本地仏や仏器、仏具、経巻などを散々に破壊し、焼き捨てたうえ、鰐口など金具類を持ち去るなど狼藉の限りを尽くし、快哉を叫んだ。

 過激な廃仏毀釈の原因は何だったのだろうか、辻善之助東京帝国大学名誉教授(日本仏教史)は、復古的革命的な気運と明治政府の方針とを挙げ、さらに遠因として、国学の勃興、排仏論の影響、僧侶の堕落を指摘している。

 本来、神仏判然は仏教排撃を意味しない。明治元年の本願寺、興正寺などへの達(たっし)には朝廷の本意は廃仏毀釈ではないと明示され、行政官布告にも神仏混淆禁止は破仏の意味ではないと弁明され、みだりに復飾を願い出ることが牽制された。他方でトラブルもなく、神仏分離がスムーズに実施されたケースもあるという(『明治維新神仏分離史料』など)。

 だが改革は神仏分離に留まらず、引き続いて社寺領の上知(じょうち)が布告された。神社は国家の宗旨とされ、神宮・神社の神官・社家の世襲が廃された。宗門人別帳が廃止され、氏子取調に代わった。新生児は産土社で守札を受け、死亡後は返納された。天社神道(陰陽道)の布教が禁じられ、虚無僧の一派や修験宗が廃止された。托鉢が禁止され、女人結界が廃され、僧侶の蓄髪・妻帯は自由になった(『明治維新神道百年史』など)。

▽3 皇室と泉涌寺

 宮中の年中行事も激変した。

 年始の金光明会、後七日御修法、正月8日の大元帥法、18日の観音供、2月と8月の季御読経(きのみどきょう)、3月と7月の仁王会、4月8日の灌仏会、5月の最勝講、7月の盂蘭盆供、12月の仏名会など、皇室の仏事は明治4年をもってすべて廃止された。幕末の宮中では仏教や陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたのである。

 この一方で、以前は神嘗祭、新嘗祭、歳旦祭、祈年祭、賢所御神楽のほか四方拝、節折、大祓が定められていたが、天長節、紀元節、春秋の皇霊祭など、新たな祭祀が生まれ、石灰壇御拝は毎朝御代拝に代わった。端午、七夕など五節句は廃され、やがて宮中三殿が成立し、皇室祭祀が整備、確立されていった。

 京都御所には歴代天皇の御霊牌や念持仏を祀る御黒戸(おくろど)があり、女官が日々、奉仕していたが、神仏分離後、これらは撤去され、恭明宮に遷座され、さらに泉涌寺舎利殿に遷され、安置された。その後、御黒戸を移築した海会堂に、歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られることとなった。

 泉涌寺について、孝明天皇は「四条帝以来御代々御陵守護の官寺、皇祖御尊敬の訳をもって諸寺の上席となすべし」と詔された。けれども神仏分離の影響を免れることはできなかった。

 泉涌寺の財政は、新政府に5000両の借用を申し入れたほど、御一新の混乱で逼迫した。即位の大礼を前に、明治天皇は泉涌寺内にある孝明天皇の御陵に参拝されたが、歴代の御尊牌に参詣されることはなかった。天皇は史上はじめて伊勢神宮に親拝された。孝明天皇3年忌(3年祭)も、第120代仁孝天皇(在位1817~46)の25回御忌も神式で斎行された。泉涌寺山内の御陵は寺門から切り離され、宮内省所管となった。

 もはや御寺の地位は失われたのか? しかし皇室の支援が途絶えたわけではなかった。孝明天皇御3回忌には大宮御所から銀1000枚の下賜があり、翌年からは年間100石の増禄を賜った。菊の御紋章の使用も例外的に許された。

 ようやく再興の見通しが見えてきた明治15年、泉涌寺は火災に見舞われた。このとき再建の資金を提供したのは宮内省だった。戦後の新憲法公布まで、修理費用はすべて宮内省が支出した。翌16年には明治天皇から俊芿に「月輪大師」の号が贈られた。明治天皇の行幸は元年以来、11回におよんだ。

 仏教の外護者としてのお立場に変更はなかった。

▽4 皇室の仏教信仰

 信仰もまた同様である。

 親王門跡が残らず還俗し、門跡制度自体が廃止されるなか、復飾を拒否した女性皇族方がおられる。伏見宮邦家親王の3姉妹、誓圓尼(善光寺大本願)、文秀女王(円照寺門跡)、日榮尼(村雲瑞龍寺門跡)である。

 なかでも誓圓尼は、「一度、仏教に固く誓った身であるから、たとえ如何なる迫害を受けようとも、このたびの仰せには従い得ない。わが身は終生、仏弟子として念仏弘通のために捧げよう」と断言され、廃仏毀釈の嵐から善光寺を守り抜いた、中興の祖とされる。

 むろんお三方ばかりではない。明治10年、宮内省は孝明天皇の御念持仏を差し出すよう泉涌寺に通達した。仏教に帰依し、供養なさりたいとの英照皇太后の御意向と指摘される。昭憲皇太后もまた光格天皇(第119代。在位1780~17)の勅作とされる阿弥陀如来像を召されたという。

 英照皇太后は昭憲皇太后に諭されたといわれる。

「神仏の教へは、みな正しきにより人の心を導くなれば、けっして疎かに思ふべからず。…(中略)…神を信ずる心は、これやがて仏を尊む心なり。仏を信ずる心は、やがてこれ神を尊む心ともなれ。ただ誠の心もていづれの道をも信ぜよかし」

 明治の皇室の仏教信仰がもっとも色濃く伝えられているのは、日蓮宗大本山小湊山誕生寺である。皇室との関係は、第123代大正天皇(在位1912~26)が皇太子時代に百日咳を患われたとき、誕生寺第61世貫首豊永日良上人が病気平癒を御祈祷し、快癒されたことに始まるという。

 明治天皇の御肌守(おんはだまもり)紺紙金泥細字法華経八巻を奉納されたのは、生母中山慶子典侍であった。有栖川宮熾仁親王は同宮家の御廟所龍王殿を山内に建立された。昭憲皇太后は明治天皇崩御ののち「自我偈(じがげ)」を写経され、納経された。

 この時代はしばしば「神道国教化」と表現されるが、その中心であったはずの神祇官は早くも明治4年には神祇省に降格され、翌年には廃止され、教部省となった。さらに教部省は廃止され、やがて大教宣布の担い手であった神官が教導職を兼務することも禁止された。神社を国家の宗旨とする姿勢は変わらなかった(文部省『学制百年史』)が、天皇の側近には啓蒙主義者が登用されるようになり、宮中の生活様式は急速に洋風化していった。

 他方、神仏分離令後、中絶した後七日御修法はその後、釈雲照の提唱と真言宗をあげての復興運動により、明治16年、真言宗総本山教王護国寺(東寺)の灌頂院で再興され、今日に至っている。真言宗では日清戦争勃発後、大元帥法が修せられ、大正天皇即位礼、昭和天皇即位礼のときにも修せられた。

 また天台宗では、大正9年に御修法の復興を願い出、「聴許相成り候」との回答を得、翌年には御衣の下付が認められ、今日のように毎年、比叡山延暦寺の根本中堂で行われるようになった。

▽5 明治憲法とキリスト教

 宮中三殿が現在地に遷座された明治22年1月からひと月後、信教の自由を明記する大日本帝国憲法が発布された。アジアで最初の近代憲法だった。

 キリシタン禁制の高札撤去から12年後のことで、とりわけキリスト者の喜びはひとしおだった。時事新報に「憲法発布式における市中の賑わい」のひとつとして、こんな記事が載っている。

「基督教信者は今度の盛典を祝せんとて、当日午前8時を期し、各町部の会堂に参集して讃美歌を唱へ、祈祷をなし、皇帝の万歳を祝し奉らんとの手筈なるが、前代未聞の大典なればとて、更に新詠の讃美歌を作らんとの計画もありといふ」

 翌年には長崎で日本・朝鮮両管区長の宗教会議と浦上の信徒発見25年祭が開かれ、聖体行列が行われたが、警察は「わずかの敵意さえ示さなかった」。

 東京・霊南坂教会の設立者で、同志社の総長・小崎弘道の『日本基督教史』(昭和13年)によれば、キリスト者の最大の関心事は信教の自由だった。

「思想、集会、信教の自由を保障せられたことは、大いに慶賀すべく、ことに信教の自由においては、枢密院においてすこぶる強硬なる反対論があったにもかかわらず、伊藤(博文)公らの尽力により、この一項の掲げられたことは、吾人キリスト信徒の大いに感謝せねばならぬところである」

 それだけではない。有史以来、漢字や仏教、雅楽など海外文化受容のセンターとして機能してきた皇室は、近代以後は文明開化の先頭に立たれ、キリスト教文化をもっとも積極的に受け入れられた。古代、仏教の外護者だった皇室は、近代においてはキリスト教の社会事業を物心両面から支援された。

 たとえば赤十字である。ヨーロッパのキリスト教精神に基づくナイチンゲールの活動やデュナンによる赤十字運動は日本に完全に受容されているが、その中心は皇室である。

 日本の赤十字運動は西南戦争時の明治10年に設立された博愛社に始まる。禁教が解かれてから4年後だった。ヨーロッパの赤十字事業を視察していた元老院議官・佐野常民が大給恒らを誘って、博愛社を開設しようとしたのは、皇室の御仁慈に啓発され、日本の武士道精神に合致すると考えたからだった。

 事実、明治政府は当初、敵味方の区別なく救護活動を行なうという博愛社の精神を理解しなかったが、佐野らは征討総督の立場にあった有栖川宮熾仁(たるひと)親王に博愛社設立を願い出て許可され、明治天皇は特旨をもって金1000円を賜った。

 設立願書には「この輩のごとき大義を誤り、王師に敵すといえども、また皇国の人民たり。皇家の赤子たり」と記され、佐野の伝記には、敵味方の区別なく救うという赤十字の精神は一視同仁という天皇精神と通じる、と説明されている。

 やがて博愛社は日本赤十字社と改称され、ヨーロッパの王室にならって、皇室が赤十字運動の指導的立場に立たれた(『日本赤十字社発達史』など)。

 いまも日本赤十字の名誉総裁は皇后陛下であられ、日赤大会は明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮の杜で開かれる。皇太后の寄付金をもとに創設された昭憲皇太后基金は、世紀を超えて、世界の赤十字活動を支えている。

▽6 関東大震災の御黙祷

 いつの時代も日本の多元的宗教空間の中心に位置してきた皇室は、近代になると非宗教をも飲み込んでいった。

 大正12年10月、関東大震災の犠牲者を悼む「四十九日」の追悼式が東京府市合同で行われた。式は「国家神道」どころか無宗教で行われ、宗教者は排除され、既成の宗教儀礼も採用されなかった。仏教各派連合の追悼会や全国神道連合会の五十日祭は府市連合の追悼式とは別個に開催された。

「国家が宗教に干渉するのは世界の大勢にもとる」というのが行政の基本姿勢であったから、神道も仏教も一律に排除され、そのため啓蒙主義的、反宗教的な行政と、その姿勢を「宗教に無理解」と反発する宗教者との抜き差しならない対立が表面化し、事件が起きたことを、当時の新聞は伝えている。

 翌年の震災1周年に登場したのが、無宗教儀礼としての黙祷であった。

 東京府市と経済団体とで組織される震災記念事業協議会が協議を重ね、震災発生時刻に社寺教会などは鼓鐘、工場船舶は汽笛を鳴らし、市電は1分間停車、市民は「黙想反省」することなどが決められた。新聞はこれを「祈念黙想」と言い換えて報道した。

 ところが1周年当日を数日後に控え、東宮殿下(昭和天皇)が追悼式に「2分間の御黙祷」を捧げることになったと伝えられると、協議会が決めた非宗教的儀礼に宗教的な命が吹き込まれたかのように、「祈念黙想」は「黙祷」に一変した。

 死者を追悼する黙祷儀礼は皇室に源を発し、一般に広がっていった。皇室と国民の沈黙の祈りは切なるものであったけれども、既成の宗教儀礼によらない黙祷は宗教宗派への絶対的不干渉・中立主義をとる行政にとっても好都合で、以後、無宗教儀礼として浸透していった。

 宗教者たちはこの年も東京市主催の震災一周年追悼式を宗教儀礼によって行うことを強く迫った。けれども当局はこれを拒否し、無宗教の式典が催された。これが一般に「国家神道」の時代といわれる近代日本の実態だった。

 次号ではいよいよ昭和期の皇室と仏教について迫る。

(一部敬語敬称略。参考文献=安丸良夫『神々の明治維新』1979年、石川泰志『近代皇室と仏教』平成20年、「大法輪」平成24年12月号など)
タグ:天皇・皇室
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天皇は仏教の外護者であり、信仰者でもあった──天皇・皇室の宗教観 その1(「月刊住職」平成27年9月号) [天皇・皇室]

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 天皇は仏教の外護者であり、信仰者でもあった
 ──天皇・皇室の宗教観 その1(「月刊住職」平成27年9月号)
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 今年は「戦後70年」の歴史の節目で、昭和史をめぐる「反省」「謝罪」に内外の注目が集まっている。おりしも今上陛下は年頭所感で「満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学び」と述べられた。春に公刊が開始された『昭和天皇実録』は、予想を上回る大きな反響を呼んでいる。

 昭和天皇は、戦前は「現人神」と神聖視され、「国家神道」の時代に君臨された。戦後は「信教の自由」「政教分離」の時代の「象徴」となられたが、ご自身はどのような信仰をお持ちだったのだろうか?

 皇室の宗教観とはいかなるものなのか。歴代天皇にとって仏教とは何だったのか。今号より数回に分けて考えてみたい。今回は江戸時代までを振り返る。


▽1 天台宗・真言宗の国家的仏事

 70年前の昭和20年元旦、警戒警報のサイレンが闇を引き裂き、サーチライトが幾筋も空を射る非常事態のなか、昭和天皇は御文庫の庭に急造された祭場で四方拝をお務めになった(藤田尚徳『侍従長の回想』)。日本にとっても、皇室にとっても、大波乱を予感せざるを得ない一年の幕開けであった。

 当時は一般に国家神道の時代とされるが、国家的な仏事も同時に行われている。

 真言宗総本山の東寺〔教王護国寺〕では、この一週間後、天皇と国家の守護を目的に、真言宗最高の秘儀とされる後七日御修法(ごしちにちみしほ)が執行された。同年1月15日づけ朝日新聞にわずか数行の短い記事が載っている。

「真言宗最高の厳儀、京都東寺の宮中後七日御修法は十四日結願となり、日下大僧正は御衣を捧持して随員一行とともに同日午後八時五十二分京都発列車で上京した(京都)」。

 だが、これと相並ぶ、天台宗総本山・比叡山延暦寺の御修法(みしほ。御衣加持御修法)についての記事は、わずか二面しかない当時の紙面には見当たらない。

 延暦寺では古来、毎年4月4日から7日間、御修法と呼ばれる大法要が営まれてきた。根本中堂の内陣に天皇の御衣を安置し、国家安泰、玉体安穏、万民豊楽などを、天台座主ほか高僧たちが一週間詰めきりで加持祈祷する。天台密教最高の秘法とされる。

 その始まりは、古くから山岳信仰の対象とされてきた比叡山(日枝山)に伝教大師最澄が堂塔を建て、天台宗を開いてから35年後の弘仁14(823)年といわれる。第50代桓武天皇の招請により、宮中の紫宸殿で、最澄の弟子・円澄が五仏頂法を修念したのが起源とされる(渡邉守順ら『比叡山』)。

 宮中では承和元(834)年、元日から七日まで神事として行われる宮中前七日節会に対応して、八日から十四日まで、後七日御修法が勤修された。

 第54代仁明天皇の勅を奉じて、弘法大師空海が大内裏で勤めたのが最初とされ、翌年には空海の奏請によって宮中に真言院が造立され、大極殿で護国経典の金光明最勝王経を転読講讃する宮中御斎会と並行し、顕密相対して営まれることとなった。導師は東寺の長者が務めた。

 世尊は金光明最勝王経の「王法正論品第二十」で、「先の善業の力によって天に生まれ、王となった」「諸天の護持によって天子と名づけられた」とし、「国を治むるに正法をもってすべし」と教えている。悪政には天罰が下り、悲惨な結末を迎えると警告している。

 皇祖天照大神からこの国の統治を委任され、公正かつ無私なるお立場で、「国中平らかに安らけく」とひたすら祈り、国と民の統合を第一のお務めとする祭祀王が天皇であるという考えと共通するものがある。

 天皇みずから宮中で神道儀式を斎行される一方で、皇室ゆかりの名刹では勅命によって国家的な大法要が営まれる。皇室あるいは天皇の信仰、宗教観は、国民の多様なる価値観を同等に認める、日本古来の価値多元主義に支えられていることが分かる。

 歴史を振り返れば、歴代天皇の宗教的お立場はさらに明らかになる。


▽2 仏教の国家的受容

 北インドで生まれ、西域、中国南朝、百済を経由してきた大乗仏教は、一切衆生の救済を図る教えだった。中国南朝の梁では仏教文化が最盛期を迎え、国家儀礼は儒教ではなくて、仏教形式だった。三国時代の朝鮮では、仏教は律令制度の整備と関連して、国家建設の理念として機能したといわれる。

 百済から日本に伝えられたのは第29代欽明天皇の時代で、『日本書紀』には聖明王(聖王)が使者を遣わし、釈迦仏金銅像一体のほか、幡蓋、経論を献上したとある。

 公伝後、神道儀式に関わる物部・中臣両氏と渡来人との関わりの深い蘇我氏とのあいだで、廃仏か崇仏か、激論が交わされた。

「西蕃の諸国は礼拝している」

「天地社稷を祀るのが天皇だ」

 天皇は蘇我稲目に仏像を授けられ、礼拝を許されたが、やがて疫病流行の責任を負わされ、仏像は廃棄された。すると風もないのに大殿に火災が発生した(書紀)。

 仏教が国家的に受容されたのは、最初の女帝、第33代推古天皇の時代である。蘇我馬子の姪に当たられる天皇は、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とされ、仏教を興隆された。天皇は仏教の外護者となられた。

 太子は四天王像を彫られ、崇仏派の戦勝を誓願し、勝利ののち、四天王寺を建立された。他方、物部氏は没落した。

 天皇は氏姓制からの脱皮を図られ、中央集権化を推進され、仏教思想に基づく十七条憲法を制定され、官人や貴族の道徳的規範が示された。しかし第一条には「和を以て貴しと為し」と、儒教もしくは日本古来の「和」の思想が宣言されていた。中国、朝鮮とは異なり、既成宗教が排除されず、共存した。

 冒頭に取り上げた宮中祭祀の四方拝は、第35代皇極天皇の時代に始まった。『書紀』では雨乞いとされている。道教由来の儀式とも指摘される。皇室第一の重儀とされる新嘗祭(大嘗祭)の儀式は、この時代に定まったといわれる。新嘗祭は一般に稲作儀礼と理解されるが、宮中では米と粟の新穀が皇祖神ほか天神地祇に捧げられる。天皇の祭祀は特定の信仰に偏しない複合儀礼といえる。

 皇極天皇は「古の道に従って政治を行った」(書紀)とされる。だが、他方では最初の国家寺院、百済大寺の建立が命じられた。

 壬申の乱後、即位された第40代天武天皇は有力豪族を排除した皇親政治を開始され、神道儀礼を整備され、仏教を推進された。

 天皇が皇女大来皇女を伊勢神宮に捧げられたのが斎宮制度の確立とされ、式年遷宮はこの時代に定められた。また、毎年の新嘗祭と区別して、格別の祭儀として一世一度の大嘗祭が斎行された。

 他方、川原寺(弘福寺)で写経がはじめて行われた。百済大寺が遷立され、高市大寺と改称された。皇后(のちの持統天皇)の病気平癒のため薬師寺建立が発願され、100人の僧侶が得度された。

 第41代持統天皇は薬師寺を完成させて勅願寺とされ、先帝のため金光明経斎会を内裏で営まれたとされる。崩御ののち火葬された最初の天皇でもある。

 第42代文武天皇の時代には大宝律令が完成した。宮中祭祀と仏教儀礼を宗教的基盤とし、律令に基づく制度が整備されていった。

 第44代元明天皇の時代に完成した『日本書紀』は、天地開闢に始まり、天孫降臨を経て、国つ神の娘たちとの婚姻が重ねられたのち、初代神武天皇が生誕されたと説明する一方、欽明天皇以後の仏教伝来と受容、定着を詳述している。各氏族の神々が国家的神として体系化される半面、仏教の国家的地位は揺るぎないものとなった。


▽3 仏式の即位儀礼

 みずから出家され、僧形となられた最初の天皇は、第45代聖武天皇である。

 天皇は災害の多発、疫病の流行をまえに、諸社に奉幣され、大赦を実施され、また深く仏教に帰依され、大膳職に盂蘭盆供養を行わせ、宮中行事とされたという。国分寺建立、東大寺盧舎那大仏造立の詔を発せられた。

 さらに東大寺に行幸され、大仏に北面され、「三宝の奴と仕え奉る天皇」と奏上された。大僧正行基を請じて受戒・出家され、皇女の孝謙天皇(第46代)に譲位されたのち、「太上天皇沙弥勝満」と称された。

 以前の仏教は国家鎮護が目的で、民衆への布教は禁止された。禁を破って各地に寺を建て、社会事業を展開した行基は当初、弾圧されたが、聖武天皇は行基を日本初の大僧正に任じられ、東大寺造立の責任者とされた。

 東大寺大仏の開眼供養は仏教公伝200年の年、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇ほか万余の要人たちが参列した。またお三方は唐僧鑑真によって菩薩戒を授けられた。

 孝謙天皇は皇位継承後、一代一度の大仁王会を営まれ、即位式、大嘗祭とともに御代替わり儀式として位置づけられた。やがて出家ののち、藤原仲麻呂の乱を経て重祚され、第48代称徳天皇となられた。

 注目すべきことに、宣命を見ると、出家の前後で、神祇と三宝の順位が逆転している。とりわけ最勝王経が重んじられた。天皇は国家第一の仏弟子となられた観がある。

 称徳天皇は、看病僧の弓削道鏡を太政大臣禅師に、さらに法王に任じられた。また「皇位にある者は菩薩の浄戒を受けよ」と宣言され、仏教は皇位の正統性にもっとも重要な役割を果たすこととなった。皇祖天照大神を祀る、皇室の祖廟・伊勢神宮に神宮寺が造立され、仏像が建てられた(続紀)。

 しかしその一方で、孝謙天皇の治世に施行された養老律令は、官僚機構に宮中祭祀を司る神祇官と国政を統括する最高機関の太政官が並立する二官八省が採用された。令には「神祇令」と「僧尼令」が並んでいるが、「神祇令」には「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」と記されている。

 第50代桓武天皇によって平安京が開かれた延暦年間、宮中で天皇の安穏を祈願し、正月の御斎会で読師を務める内供奉十禅師のお役目を賜った最澄は以来、毎日、天下太平、万民豊楽を祈り続けることとなった。長日御修法と呼ばれる。

 とくに国家の大事や特別の異変が起きたときに、宮中で修されたのが「四箇の大法」と称される特別の修法で、青蓮院、三千院、妙法院、延暦寺で執り行われた。これが現在の御修法の源流とされる。

 第52代嵯峨天皇は空海に、高野山に加えて東寺を給預された。東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場と位置づけられた。延暦寺の寺号は嵯峨天皇の勅によって許された。


▽4 仏門に帰依する

 仏の教えは歴代天皇の内心に深く刻み込まれていくこととなった。

 第54代仁明天皇、第56代清和天皇、第57代陽成天皇は譲位後、出家された。なかでも清和天皇は第一皇子の陽成天皇に譲位ののち出家され、仏門に帰依された。畿内を巡幸され、絶食を伴う苦行を重ねられ、その地を隠棲の地と定められて、寺院建立中に病没された。

 清和天皇は最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」の諡号を贈られた。空海は第60代醍醐天皇から「弘法大師」の諡号を贈られた。

 法皇と称された先駆けは第59代宇多天皇で、いったんは臣籍降下されたが、父君光孝天皇が病を得られたことから親王に復され、皇位を継承された。朝廷の実権は関白藤原基経の手にあり、親政開始はその死後である。

 天皇は先帝の御遺志を受け継がれ、勅願寺として仁和寺を造立された。その一方で、宮中祭祀の四方拝は宇多天皇のときに定着したとされる。毎朝御拝もまた宇多天皇の時代に始まった。

 その後、突然、皇太子を元服させ、即日、譲位された天皇は落飾、受戒されたのち、仁和寺に入られ、さらに伝法灌頂を受けられ、法王となられた。御室門跡の始まりである。仁和寺は門跡寺院の筆頭として仏教各派を統括した。法王は比叡山や熊野三山にたびたび参詣された。

 第65代花山天皇もまた突如、宮中を出られて退位され、仏門に入られ、法王となられた。法王は西国三十三の観音霊場を巡礼、修行された。これが西国三十三所巡礼の歴史の始まりとされる。

 法王となられた天皇は、第102代霊元天皇まで、45代に及ぶ。

 ときは移り、武家が支配する時代を迎える。

 第81代安徳天皇が三種の神器とともに都落ちされたのち、仏教を篤く信仰され、平清盛とともに東大寺で受戒された後白河法皇(第77代天皇)の院宣を受け、第82代後鳥羽天皇が践祚された。神器なき即位で、日本史上初めてお二方の天皇が並立される事態となった。安徳天皇は伊勢神宮を遥拝され、念仏を唱えられて入水されたといわれる。

 第84代順徳天皇は宮中のしきたりに通じ、『禁秘抄』を著された。その冒頭には「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とある。父君後鳥羽上皇による承久の乱の前夜、皇室存亡の危機のまっただ中にあって、天皇第一のお務めは敬神、崇祖であり、神祭りであると明言されたのである。

 倒幕失敗後は後鳥羽上皇、兄君の土御門上皇とともに配流の身となられた。後鳥羽上皇は隠岐で法華経の功徳を詠まれた。

わが頼む御法の花の光あらば暗きに入らぬ道しるべせよ

 南北朝時代になると、三種の神器を持たない北朝では真言宗の秘法によって皇位の継承が執り行われた。やがて即位大嘗祭に即位灌頂と呼ばれる仏教儀礼がつけ加えられ、江戸末期まで行われた。大嘗祭が中絶した時代には、皇位継承の唯一の儀式だった。天皇は印相と真言を伝授され、即位式で実修され、高御座に登られたのである。


▽5 宮中儀礼の復興

 元亀2(1571)年、信長は比叡山を焼き討ちにした。堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰し、比叡山の地主神で、延暦寺の守護神とされた日吉大社も消滅した。

 ときの天台座主は第105代後奈良天皇の第三皇子で、第106代正親町天皇の弟君・覚恕法親王であられた。記録によれば、正親町天皇が比叡山百八社再興の綸旨を出されたが、信長が押さえた。比叡山を再興させたのは秀吉で、造営費用に青銅一万貫を寄進した。

 応仁の乱後、中絶していた宮中の後七日御修法は元和9(1623)年、第108代後水尾天皇の尽力などにより、170年ぶりに復興した。

 後水尾天皇といえば、前半生において徳川三代との激しいつばぜり合いを強いられた。下剋上の最終段階において、武断の雄は朝廷をも従えようとしたからだ。「公家衆法度」「勅許紫衣法度」が制定され、「禁中並公家諸法度」が公布された。一方的に立法したうえ、天皇に法の遵守を強要し、栄誉権を取り上げた。耐えかねた天皇は内親王(第109代明正天皇)に譲位され、やがて落飾された。

 他方、家康公を、釈迦如来の化身、東照大権現として祀る日光東照宮は、朝廷から神号と正一位の位階、さらに宮号が贈られ、法親王が入寺され、日光山輪王寺の貫主となられた。例祭には勅使が参向し、奉幣が恒例となった。陽明門などには後水尾天皇御宸筆の扁額が掲げられた。

 当時、天台宗の本山は、将軍家菩提寺でもある東叡山寛永寺で、法親王が歴代、門主となられ、日光山、比叡山をも管轄された。

 一方で、後水尾院は第四皇子・第110代後光明天皇への宸翰に「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事」と認められた。天皇第一のお務めは神事であることが明記されている。

 後水尾天皇の時代にはもうひとつ、仏教史上特筆すべき大変革が起きた。

 幕府は禁教令を発し、バテレンを国外追放し、さらに切支丹奉行をおき、宗門改と寺請・檀家制度を発足させた。隠れキリシタン探索のための制度が全国化し、身分を問わず、特定の寺院を菩提寺とし、檀家として所属することが義務づけられた。

 けれども天皇のお膝元、京都・祇園社(八坂神社)の祇園祭では、フランドル地方で製作され、旧約聖書の物語をテーマとするタピストリーに飾られた山鉾が都大路を巡行していた。

 後水尾院は昭和天皇に次ぐ歴代二位のご長寿で崩御され、御陵は泉涌寺内に築かれた。


▽6 昭和天皇最晩年の御製

 昭和天皇は晩年、後水尾天皇に心を寄せられた。昭和55年は崩御300年に当たり、式年祭の前日、ご進講が行われた。陛下は後水尾天皇の譲位にいたく関心を寄せられ、資料を集めるよう側近らに指示された(入江日記など)。

 何がそうさせたかは歴史の謎である。

 昭和40年代、陛下はしばしば「退位」を漏らされた。ご高齢を口実に、入江侍従長は宮中祭祀の「簡素化」「工作」を開始した。陛下はご不満で、最大限、抵抗されていたらしい。50年以降は憲法の政教分離原則を法的根拠に、祭祀の改変が一段と進んだ。

 徳川三代による積年の非礼に耐えかねて譲位・落飾され、苦難のなかで中絶していた宮中祭祀を再興された後水尾天皇に、陛下はご自身を投影されていたのではなかったか。

 昭和天皇はとくに祭祀に熱心だったといわれる。けれども他方で、仏教を詠み込まれた最晩年の御製が残されている。陛下は外護者のお立場をお捨てになってはいない。

夏たけて堀のはちすの花みつつ仏のをしへおもふ朝かな

 それなら陛下ご自身の信仰はいかなるものだったのか。次回は神仏分離後の近代史を振り返りつつ、考える。

(参考文献=勝浦令子『日本古代の僧尼と社会』2000年、『日本仏教編年大鑑』2009年、「大法輪」2012年12月号など)


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国を治むるに正法をもってせよ──古代の天皇が重んじた仏典の中身 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

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 国を治むるに正法をもってせよ
 ──古代の天皇が重んじた仏典の中身
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 前回、歴代の天皇が自然災害に苦しむ民に心を寄せられ、御仁慈を示されたこと、それが皇室の伝統であること、について書きました。それなら、歴代天皇はなぜそうされたのか、何がそうさせたのか、について、考えてみます。

 伝統的な考え方からすると、天皇統治は、皇祖天照大神の委任を受け、その血統を受け継いだ、万世一系の天皇による統治です。天皇のお役目は、「しらす」(民意を知って統合を図ること)であり、天皇は神々と民と命を共有する神人共食の儀礼を第一のお務めとされてきました。

 天皇は民の喜びや悲しみのみならず、命をも共有しようとされます。その精神は神人共食の祭祀によって磨かれます。天皇=祭祀王というのが伝統的な考え方なのでした。第八十四代順徳天皇は「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(『禁秘抄』)と書き記されています。

 けれども、神道的な祭祀をなさるのだけが天皇ではありません。それどころか、歴代の天皇はしばしば仏教に帰依されました。

 興味深いのは、その帰依のあり方です。


▽ とくに重んじられた天武・持統天皇の時代

 なかでも重んじられたのが金光明経(こんこうみょうきょう)でした。金光明経は、仁王経、法華経とともに、国家安泰を願って用いられる護国三部経のひとつとされています。

 たとえば、『日本書紀』によれば、金光明経が最初に用いられたのは、天武天皇5年11月20日のことで、「使いを四方の国に遣わして、金光明経・仁王経を説かしむ」とあります。

 天武・持統期には、金光明経がとりわけ重視されたようです(松本信道「天武・持統朝の護国経典の受容について」)。

 それはなぜなのでしょうか?

 国を揺るがす壬申の乱後に即位された第四十代天武天皇は、神道儀礼を整備され、伊勢神宮の斎宮制度を確立され、式年遷宮を定められたほか、一世一度の大嘗祭を斎行されました。

 その一方で、仏教を推進され、百済大寺を遷立して、高市大寺と改称され、皇后(第四十一代持統天皇)の病気平癒祈願のために薬師寺建立を発願され、さらに金光明経を宮中などで講説・読誦させたのでした。病気平癒祈願がその目的のひとつとされます。

 つづく持統天皇は薬師寺を完成させて、勅願寺とされました。そして先帝のために内裏で営まれたのが金光明経斎会(さいえ)でした。金光明最勝王経(唐の義浄による金光明経の漢訳)を講ずる法会(ほうえ)です。

 みずから出家され、僧形となられた最初の天皇は第四十五代聖武天皇ですが、聖武天皇もまた金光明経に注目された天皇でした。

 聖武天皇の治世は、自然災害が多発し、疫病が流行した時代でした。天皇は諸社に奉幣されて神々に祈り、大赦を実施されて罪人を放免しました。

 他方、深く仏教に帰依され、盂蘭盆(うらぼん)供養を宮中行事とされ、金光明経を写経して全国に弘通し、国分寺建立、東大寺盧遮那仏(るしゃなぶつ)建立の詔を発せられました。

 つづく第四十六代孝謙天皇(重祚して第四十八代称徳天皇)の場合は、たいへん興味深いことに、その宣命(せんみょう)において、神祇と三宝の順位が逆転し、とくに金光明経が重んじられていることが指摘されています。内親王時代から何度も写経され、座右の経典とされていたというのです(勝浦令子『日本古代の僧尼と社会』)。

 政治的な転換期、災害が多発する混乱期に、天皇が金光明経に重きを置き、みずからの指針とされていたことが理解されるのですが、それならどのような内容の経典なのでしょうか?


▽ 世の悪業を黙視してはならない

 壬生台舜大正大学名誉教授が翻訳された『金光明経』を読んでみます。

 冒頭の「序品(じょほん)」以下、31の「品」から構成されるなかで、もっとも注目されるのは「王法正論(おうぼうしょうろん)品・第二十」です。

 人王たるものが国を治め、衆生を安養し、長く王位にとどまるためには、治国の要諦たる王法正論が必要だから、説いてほしいという求めに応じて、世尊(お釈迦様)が説明していくという内容になっています。

 壬生先生の解説を参考にすると、世尊は次のように説明しています。

 なぜ天子というのか、なぜ人間に生まれて人主となり、天上では天王となりうるのか、それは先の善業の力によって天に生じて王となることができ、人中においては人主となるのである。人世にあっても尊勝のゆえに天と名付けられ、諸天が護持するから天子と名付けられる。悲報悪業を滅除すれば天上に生ずることもできる。

 だから人王たるものは世の悪業を黙視してはならない。もし悪を放置すれば、国内は乱れ、怨敵に侵入され、国土は破壊され、富は失われ、天災地変が頻発し、日食・月食が起こり、五穀は実らず、飢饉となり、戦乱が起こり、疫病が流行する。

 そして、国を治むるに正法をもってし、たとい王位を失っても、生命に危害が及ぼうとも、悪法を行ずるなかれ、善をもって衆生を教化せよ、そうすれば国土は安寧を得る、と世尊は説いています。

 善をなせと教えるだけではなく、悪を認めてはならないと世尊は教え、悪政には天罰が下り、悲惨な結末を迎えると警告したのです。

 古来、「天皇に私なし」とされ、天皇は天変地異や乱世で人々が苦しむのを憂い、あまつさえ日食・月食をも災いとし、ひたすら民に心を寄せられ、しばしばご自身の不徳を責められました。なぜそうされたのか、仏教的にも説明できることが理解されます。

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陛下のお見舞い──皇室の伝統がここにある [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

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 陛下のお見舞い──皇室の伝統がここにある
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 今日も雨である。先週、記録的豪雨の被害を受けたばかりの被災地の人たちには、さぞ恨めしいことだろうと思う。

 大雨が東北・北海道を襲った翌日、陛下は、多数の行方不明者が発生していることに心を痛められ、以前から楽しみにされていたであろう、今日(17日)からの予定だった栃木県へのお出かけをお取りやめになった。関係機関が災害対策に専念できるようにとのお考えだった。

 また、側近を通じて、茨城・栃木両県の知事に対してお見舞いのお気持ちなどをお伝えになった。

 被災地へのお見舞いといえば、平成23年3月の東日本大震災でのビデオ・メッセージが思い出される。

 陛下は犠牲者へのお悔やみ、被災者などへのお見舞いとともに、災害対策に取り組んでいる関係者へのねぎらいのお気持ちを、宮内庁長官を通じて総理大臣にお伝えになり、数日後には国民に直接、語りかけられ、「分かち合い」の精神を訴えられるとともに、復興の先頭に立たれた。各県に金一封を賜り、幾度となく被災者のもとを訪れられ、直接、励まされた。

 しかし、それはけっして大震災だけにとどまるものではない。


▽ 頻発する自然災害

 宮内庁のHPには、陛下の「災害等へのお見舞い」が載っている。21年以後だけを見ても、以下のように、毎年、台風、地震、大雪、噴火のたびに繰り返されている。

 21年7月 中国・九州北部豪雨
 21年8月 台風9号
 23年3月 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)
 23年11月 前年11月からの大雪等
 23年8月 前月の新潟・福島豪雨
 23年9月 台風12号
 24年3月 前年11月からの大雪等
 24年5月 竜巻
 24年7月 九州北部豪雨
 25年3月 大雪等
 25年10月 台風26号
 26年4月 大雪等
 26年8月 広島県の大雨等
 26年10月 御嶽山の噴火
 26年11月 長野県神城断層地震
 27年3月 大雪等
 27年5月 口永良部島からの島民の避難
 27年9月 台風18号


▽ 民の苦しみはわが苦しみ

 22年以外、毎年、お見舞いがあり、23年、26年は4回を数えた。今年は早くも三度のお見舞いを賜っている。それだけ日本列島は自然災害が多いうえに、近年、とくに頻発しているということであろう。

 現代では防災技術が進歩しているから、災害の規模は以前ほどではないかもしれないが、たとえ被災者が1人であったとしても、陛下のご心痛は変わらないだろう。

 災害に苦しむ民にご仁慈を示されるのは今上陛下だけではない。つねに民に心を寄せられてきたのが古来、皇室の伝統なのである。

 その伝統は、宗教的な精神ともいうべきものである。民の命はわが命であり、民の苦しみはわが苦しみとお考えになり、民が苦しむのは自分に徳がないからだと歴代の天皇はご自身を責められたのである。

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陛下の「無私の心」は何に由来するのか?──宮中祭祀にも「女性宮家」にも言及しない前侍従長インタビュー [天皇・皇室]

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 陛下の「無私の心」は何に由来するのか?
 ──宮中祭祀にも「女性宮家」にも言及しない前侍従長インタビュー
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▽1 「戦後70年」の「遺言」

 今年は戦後70年。日経ビジネスオンラインは特別企画として、戦後のリーダーたちが未来に託す「遺言」を連載しています。〈http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20141212/275083/

 2月4日、第10回目に登場したのは、渡辺允・前侍従長でした。〈http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150203/277071/?P=1

 記事をまとめた中川記者によるプロフィール紹介では、前侍従長の曾祖父・渡辺千秋氏は明治天皇崩御時の宮内大臣で、父は「昭和天皇最後のご学友」として知られる渡辺昭氏。現役の川島裕侍従長をのぞけば、唯一存命の侍従長経験者とされています。

 皇室ときわめて関係の深いキーパーソンだというわけです。

 けれども、もしそうだとすると、じつに不思議です。記事には天皇第一のお務めであるはずの祭祀も、ついこの間、国民的な大議論を巻き起こした、いわゆる「女性宮家」問題も、すっぽりと抜け落ちているからです。

 前侍従長ら側近はご在位20年をひかえて、ご高齢になった陛下のご健康をおもんぱかり、ご負担軽減に取り組み、その結果、簡略化され、お出ましが激減したのが祭祀でした。

 ご公務のご負担が大きいから、ご負担軽減のために、女性皇族にもご公務のご分担を求めたいということが、「女性宮家」創設の趣旨で、ご在位20年を機に前侍従長が提案したことが、激論の発端だったはずです。

 あれだけの嵐を呼び起こしながら、嵐が過ぎ去ると、何事もなかったかのように、黙して語らないのは、なぜなのか。それとも聞き手の側に、問題関心がないのか?


▽2 前侍従長の「象徴」と陛下の「象徴」の違い

 前侍従長は、冒頭、こう語ります。

「10年半で私が感じたことというと、やっぱり一番は天皇陛下の無私の心です。一言で言ってしまえば、そういうことなんだと思うんですよ」

「天皇に私なし」とは古来、いわれてきたことですが、不思議ですね、

「10年半、侍従長を務めました」

「一般の方々に比べて、普段の陛下のお姿を拝見する機会が多かったわけです」

 とみずから語る「天皇家の執事」が、陛下の「無私の心」が何に由来するのか、を深く追究していないようなのです。

 前侍従長はまず日本国憲法を引用します。

「陛下は日本国の象徴であり、国民統合の象徴であるというお立場でいらっしゃいます。これは寝ても覚めてもそうで、一時たりともそのお立場でない時間は無いわけですね」

 前侍従長の説明は、陛下の「無私の心」が現行憲法の「象徴天皇」制度に基づいているかのような錯覚を覚えさせます。けれども、そんなことはあり得ません。

 当メルマガの読者なら、先刻ご承知のように、天皇とは古来、公正かつ無私なる祭り主なのであって、今上陛下は、歴代天皇と同様、国と民のため、天神地祇にひたすら祈る宮中祭祀を重ねられることによって、「無私の心」を磨いてこられたのです。

 陛下はけっして単純な護憲派ではありません。70年弱の歴史しかない日本国憲法が、悠久の歴史を重ねてきた天皇の精神の根拠となるはずはありません。

 たとえば御即位20年の記者会見で、憲法が定める「象徴」という地位についての質問を受けた陛下は、

「長い天皇の歴史に思いを致し,国民の上を思い,象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ,今日まで過ごしてきました」

 とお答えになっていることからも明らかです〈http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gosokui20.html〉。

 前侍従長の「象徴」はあくまで現行憲法的「象徴」ですが、陛下はこれとは異なります。「長い天皇の歴史」すなわち祭祀王としての歴史が重要なのです。

 長年、お側に仕えた側近中の側近なら、そんなことは容易に理解できるだろうと思いますが、現実は違うようです。なぜなのか。なぜ祭祀を避けようとするのでしょうか?

 天皇の祭祀の重要性を理解していたのなら、このインタビューでも言及するでしょうが、どこにも触れられていません。もっとも、少しでも理解しているのなら、ご健康問題、ご負担軽減を名目に、祭祀が簡略化されるということもなかったでしょう。


▽3 社会的に活動なさるのが天皇ではない

 前侍従長はインタビュー記事のなかで、「無私の心」の現れとして、陛下のご活動に言及しています。

 若いころに親族と離ればなれになったハンセン病患者の療養所を訪ねられ、老後を心配され、1人1人に親しく声をかけられ、そのお姿に看護師たちがもらい泣きするというエピソードは、じつに感動的です。

 宮崎県の西都原古墳群では、あるとき住民が通りかかったところ、突然、地面が陥没し、新たな古墳が発見された、という県知事の説明を受けた陛下は、

「通りかかった方に、ケガはありませんでしたか?」

 と質問されました。ふつうの人なら古墳についてもっと知ろうとするだろうけれども、陛下は違っていました。前侍従長は、

「とても小さいことだけど、だからこそ、普段からそういう発想をしていなければ出てこない言葉だと思う」

 と解説し、

「この方はこういうものの考え方なんだな」と納得しています。

 けれども、これはまったく間違っています。

 第一に、古来、社会的に活動なさることが、天皇の天皇たるゆえんではないからです。天皇が各地に行幸され、国民と親しく交わるようになったのは近代以後のきわめて新しい現象です。陛下が国民1人1人に寄り添おうとなさるのは、むしろ祭祀王だからです。

 古来、天皇統治とは「しらす」政治、すなわち「知る」政治といわれ、歴代の天皇は、多様なる民の多様なる声に耳を傾け、多様な心を知り、喜びや栄光のみならず、悲しみや憂いを分かち合おうと、神々に食を捧げ、みずから召し上がり、神々と民と命を共有する祭祀を厳修されたのです。今上陛下の人間的個性ではないのです。

 中川記者によると、前侍従長は退任後、「畏れ多いことながら」としつつ、両陛下の普段の姿を広く知ってもらうために、講演活動を重ねているとのことですが、天皇の祭祀について語らない情報発信は誤解を拡大させることにならないか、と心から心配します。


▽4 天皇は社会的弱者のための存在ではない

 前侍従長が仰せの現行憲法的「象徴」天皇論を、百歩譲って認めたとして、国民に寄り添う陛下の行動と、「憲法の定める国事に関する行為のみを行う」と規定する現行憲法とは、いかなる関係にあるのか、少なくとも私にはほとんど理解不能です。

 前侍従長は「象徴」について、こう語ります。少し長いですが、引用します。

「『象徴』とは何かと聞かれると答えにくいですよね。でも陛下がされていることというのは、要は求心力を働かせるということではないでしょうか。これは非常に嫌なことではありますけど、社会から遠心力が働いて外周部に追いやられてしまいがちな方々が実際にはいらっしゃる。もうずっと以前からハンセン病や障害者スポーツなどに関わる方と陛下は親交をもってこられましたが、そういう方々に求心力を働かせて、遠心力ではじき飛ばされることがないようにする。それがまさに『日本国民統合の象徴』として、陛下がされていることなんじゃないでしょうか」

 これも間違いだと思います。天皇は社会的弱者のために活動する存在ではないし、為政者の不始末を尻ぬぐいするのがお役目ではないからです。

 古来、国と民をひとつに統合するのが天皇の第一のお役目であり、それが祭祀です。天皇の「求心力」は「遠心力」を前提にしているのでもないでしょう。

 前侍従長は、「もう1つ印象に残ったこと」として、日銀総裁によるご進講の逸話を紹介しています。陛下は

「この頃、格差ということを聞くようになりましたけど、それについてはどうですか?」

 とお尋ねになったというのです。

 そのときの総裁の答えがピントはずれと感じた前侍従長は、ご進講のあと、総裁に

「陛下がああいうことをおっしゃっていたのは、要するに格差で落ちこぼれる人が出てきているというふうに自分は理解していると。その人たちのことはどうするんですかということだったんだと私は思いますよ」

 と申し上げたというのです。

 前侍従長の理解では、「遠心力」ではじかれた「弱者」を救済し、「求心力」を働かせるのが天皇のお役目だということになるのでしょうか。そうではなくて、もっと高い次元にあるのが皇位というものはないでしょうか? 

 天皇にとっては、強者であれ、弱者であれ、すべての民が「赤子」のはずだし、国民に寄り添う天皇のお出ましが、社会的不満のガス抜きに利用されてはなりません。


▽5 「国平らかに安らけく」

 前侍従長はこの連載企画の趣旨に沿って、「陛下のメッセージ」に言及しています。

「僕が推測するに、天皇陛下がもし仮にここで次の世代に伝えたいことがあったら何かという質問があったら、先の大戦のことをおっしゃると思うんです。80歳のお誕生日のときに、80年で一番印象に残っていることは何かという質問に対して、やっぱりそれは大戦のことだとおっしゃっていますから」

「絶対に戦争のことが忘れられないように語り継がれてほしいと。これは陛下が後世に伝えたい非常に大事なメッセージだと思います」

 編集部の注釈によると、インタビューは昨年12月1日に行われたそうです。陛下はひと月後、「戦後70年」となる今年の年頭の感想文で、こう述べられました。

「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」

 前侍従長がインタビューで語った推察どおりだということでしょうか。けれども、私は違うと思います。

 前侍従長はインタビューのなかで、「終戦のとき小学校3年」だったという戦争の「体験」「記憶」を強調しています。しかし陛下の場合は、けっして個人的な「体験」だけではないと私は思うのです。

 陛下が「戦争の歴史」を重視なさるのは、歴代天皇と同様に、

「国平らかに安らけく」

 と祈る祭祀王だからでしょう。

 いつの世も平和だとは限りません。遠く神代の時代に、皇祖天照大神から国の統治を委任されたというお立場であれば、天皇は国と民のために、真剣な祈りを捧げざるを得ない。それが天皇の祭りです。

 曾祖父は宮内大臣、父は「昭和天皇のご学友」、それほどご立派なお血筋の前侍従長に、なぜそれが理解できないのでしょうか?

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「天皇論」として何を論ずるべきなのか──月刊「正論」連載の渡部昇一論文を読む [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 「天皇論」として何を論ずるべきなのか
 ──月刊「正論」連載の渡部昇一論文を読む
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 月刊「正論」5月号に渡部昇一先生の天皇論が載っているというので、たいへん興味を持ちました。

 先生は今日、押しも押されぬ日本の保守派の重鎮ですが、同時に、私個人にとっても大切な方です。高校生のころ、先生のお書きになった『知的生活の方法』という大ベストセラーを読んだことが、私が物書きの端くれとなったきっかけのひとつだったように思うからです。

 その先生がどのような天皇論を展開されるのか、関心を持たずにはいられませんでした。しかし、正直、期待を裏切られるところがありました。

 私たちはいまどのような天皇論を論ずるべきなのか、私との大きな違いを痛感したからです。つまり、視点の相違です。


▽1 国民の側から見た天皇論

 先生は何を書いておられるのか、まず論考を拾い読みしてみます。

「初めから天皇とともにあるのが日本の国なのですから、『天皇制』という言葉はナンセンスなのです」

「日本の天皇は、国の起源にさかのぼる神話とつながっていて、そんな王朝を持つ国は、世界中、ほかにない」

「日本は、まず島ができた神話から始まるのです」

「日本が農業国であり、瑞穂の国であるということです。このことは皇室が、男系で続いてきたということとも深く関係があると思われます」

「天照大神は女系ではなく、男系を重んじています」

「日本では天皇が神道の儀式を尊ばれるからです。天皇の神事というのは、国民とともにある祈りなのです」

 さらに先生は、神道論を展開し、「国体の変化」を歴史的に論じ、天皇の「帝王教育」に言及されています。

 先生がお書きになったことは、保守派が考える天皇論としては最大公約数的なもので、とくに目新しい内容ではないと思われます。

 しかし私が指摘したいのは、記事の内容に新鮮味がないということではありません。そうではなくて、先生が国民から見た天皇・皇室を論じているということです。先生個人の天皇・皇室論であって、皇室の側から見た天皇論ではないということです。


▽2 さまざまな天皇観が共存する理由

 先生の論考は、タイトルを見ると、「教育提言 私が伝えたい天皇・皇室のこと」とされています。テーマは天皇論というより、教育論のようです。しかも連載の第1回で、今後の展開があるでしょうから、私の批判は当たらないかも知れません。

 むしろそのように願いたいところですが、「私が伝えたい」という天皇・皇室論の視点には、私はどうしても違和感をぬぐいきれないのです。

 先生は教育者ですから、天皇・皇室が「世界に類を見ないものである」ことを強調し、次世代に「伝えたい」とお考えになるのは理解できるし、保守派の最大公約数的な天皇観を伝える努力をなさることには敬意を表したいと思います。

 けれども、そのような天皇・皇室を論ずることが、いま私たち国民に求められていることなのでしょうか?

 じつのところ、国民の天皇論・天皇観はさまざまです。神様だとありがたく考える人もいれば、逆に絶対的専制君主と信じて疑わない反天皇論者もいます。きわめて自由です。

「私が伝えたい天皇・皇室」は百人百様です。それは国民の天皇論だからです。

 現代だけではありません。各地域に、各職能集団に、特徴ある天皇観が古来、伝えられています。

 たとえば、私の故郷では、崇峻天皇の妃が養蚕と機織りを教えてくれたことになっています。生活の基盤が皇室と直結しているのです。先生の故郷・山形では、出羽三山を開かれ、五穀の種子を伝えたのが、崇峻天皇の第3皇子・蜂子皇子とされています。大工さんたちにとっては、法隆寺を創建された聖徳太子は信仰の対象です。


▽3 女系容認論者と同じ視点

 なぜそのような自由で、さまざまな天皇観、天皇論が存在し、共存し得たのでしょうか?

 日本の皇室が世界に類を見ないほどに続いている理由、と同時に、多様な天皇・皇室観が共存し続けている理由を、問わなければなりません。

 その答えは、国民の視点で、外部から天皇・皇室を論じても見出せないでしょう。

 天皇ご自身が古来、何をなさってきたのか、端的にいえば、天皇がみずから祭りをなさり、祭祀を第一のお務めとされてきたこと、天皇が皇祖神のみならず天神地祇を祀る祭祀王であること、について、深く探究するところが出発点でなければならないはずです。

 古代律令制の定めには、「およそ天皇、位に即きたまわば、すべて天神地祇を祭れ」と記されています。順徳天皇は「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」と書き残されました。

 先生は「日本は稲穂の国である」と書いておられますが、天皇の祭祀は稲の祭りではありません。稲と粟の祭りです。伊勢神宮の祭祀は稲の祭りですが、天皇の祭祀はそうではありません。なぜ稲と粟なのか、です。

 以前、このメルマガで皇室典範有識者会議を批判したことがあります。

 報告書には、(1)さまざまな天皇観があるから、さまざまな観点で検討した。(2)世論の動向に合わせて検討した、という2つのことが説明されていますが、もっとも肝心な、皇室自身の天皇観、皇室にとっての継承制度という視点が抜けていました。

 先生は、論考のなかで、天皇と神道の関係、男系継承について言及されていますが、皇室を論じる視点では、女系容認をも認めた有識者会議報告書と変わらないことなります。


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えっ、皇太子殿下と安倍総理が対立?──朝鮮日報・車特派員の驚愕記事 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 えっ、皇太子殿下と安倍総理が対立?
 ──朝鮮日報・車特派員の驚愕記事
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 皇太子殿下のお誕生日会見について、前回のメルマガでは、日本のメディアを代表する朝日新聞が、あながち誤報とまではいわないまでも、全体の事実を歪める記事を載せているとお話しましたが、完全に客観的事実から逸脱しているのが韓国で最大部数を誇るという朝鮮日報の記事です。

 刺激的な記事を書くことで知られる車学峰特派員が、安倍総理が進める憲法改正の動きに、天皇陛下と皇太子殿下が不満をお持ちだ、と伝えているのですから、驚きです〈http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/02/24/2014022400882.html〉。


▽ 護憲派に仕立て上げる

 記事によると、殿下は「日本は戦後、憲法を基礎として平和と繁栄を享有してきた。憲法は順守しなければならない」と述べたとされています。

 最初の前提からして、トンチンカンです。

 正確には、宮内庁の発表では、殿下は「日本国憲法には『天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。』と規定されております。今日の日本は,戦後,日本国憲法を基礎として築き上げられ,現在,我が国は,平和と繁栄を享受しております。今後とも,憲法を遵守する立場に立って,必要な助言を得ながら,事に当たっていくことが大切だと考えております」と語られています〈http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h26az.html〉。

 これは、皇室のご活動と政治の関わりについての質問(問4)に対してのお答えで、現行憲法では天皇は国事行為のみを行うと規定されていることを確認されたのですが、車記者の手にかかると、護憲か改憲かに問題がすり替えられています。

 記者会見の問3では、陛下のご公務を引き継がれることについて、「殿下は過去の天皇が歩んでこられた道と,天皇は日本国,そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して」と述べられていますから、もっぱら憲法遵守のみを表明されているわけでもありません。


▽ 陛下もまた平和憲法擁護?

 けれども、車記者によると、じつは陛下もまた護憲派だというのですから、開いた口がふさがりません。

「今上天皇も昨年12月の記者会見で『戦後、連合軍の占領下に置かれた日本が、平和と民主主義を重要な価値と位置付け、新たな憲法を制定し、さまざまな改革を通じて現在の日本を築き上げてきた』とし、現在の平和憲法を高く評価している」というわけです。

 しかし、宮内庁の発表はかなりニュアンスが異なります。

 陛下は、記者会から問1として、80年の道のりを振り返ってのご感想を求められ、戦争と戦後の歴史を回顧されて、「戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,様々な改革を行って,今日の日本を築きました」と述べられました。

 さらに、問3で皇室のご活動と政治との関わりについてお考えを聞かれて、「日本国憲法には『天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。』と規定されています。この条項を遵守することを念頭において,私は天皇としての活動を律しています」と述べられたのでした。

 車記者の記事にある「平和憲法を高く評価」はどこにもありません。


▽ 憲法改正にご不満?

 ところが、車記者は、ありもしない事実に基づいて、「天皇と皇太子が相次いで憲法の順守を強調したことは、安倍首相による憲法改正の動きに対し不満をあらわにしたものとも解釈できる」と論理を飛躍させています。

「平和憲法」遵守の立場を強調する陛下と殿下は、憲法改正を推進する安倍総理とまっ向から対立するという構図です。

 韓国歴史ドラマ風で、お話としては楽しそうですが、まったくの見当違いでしょう。

 たとえば、陛下は御即位20年の記者会見で、憲法が定める「象徴」という地位についての質問を受けて、「長い天皇の歴史に思いを致し,国民の上を思い,象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ,今日まで過ごしてきました」とお答えになっています〈http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gosokui20.html〉。

 当メルマガで何度も言及してきたように、陛下にとっての「象徴」天皇とは、日本国憲法が定める「象徴」のみならず、長い歴史のなかで培われてきた「象徴」でもあります。

 殿下が「過去の天皇が歩んでこられた道と,天皇は日本国,そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して」とおっしゃったことと、同じ意味でしょう。


▽ ジャーナリズムが育たない

 一方、自民党は「日本を取り戻す」をキャッチコピーとしています。日本の長い歴史を重視し、伝統的価値を回復するという意味でしょう。とすれば、陛下や殿下と対立することはあり得ません。

 車特派員の記事はまったくの的外れです。

 ある韓国・朝鮮研究者は「韓国には資料や事実に基づいて、実証的に考察する文化がない」と指摘します。韓国文化専門家の友人は、「儒教文化が根強い韓国社会では形式が尊重され、現実が軽視される。あらまほしき幻影の正当化に全精力が傾注され、人々は気分だけで突っ走る」と分析します。

 客観的事実が軽視される社会では、まともなジャーナリズムは育ちません。

 しかし、車特派員の記事を笑うことはできません。皇室を現行憲法の枠組みに押し込めようとする人たちは、前回、お話ししたような日本のメディアのみならず、いまや陛下のお側近くにまでいるからです。

 それかあらぬか、宮内当局者からの抗議の声は、聞こえて来そうもありません。


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護憲派の「象徴」に祭り上げられる皇室──部分のみ報道するメディア [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 護憲派の「象徴」に祭り上げられる皇室
 ──部分のみ報道するメディア
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 皇太子殿下が御歳54歳になられ、これに先だって記者会見が東宮御所で開かれました〈http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h26az.html〉。

 興味深いのは、メディアの報道です。

 たとえば、朝日新聞(電子版)は「皇太子さま54歳 『今後とも憲法遵守』」と伝えています。

「皇室の活動と政治との関わりについての質問に『天皇は国政に関する権能を有しない』とする日本国憲法の規定に言及。戦後の日本は憲法を基礎に築き上げられ、平和と繁栄を享受しているとして、『今後とも憲法を順守する立場で事に当たっていくことが大切』と語った」というのです。〈http://www.asahi.com/articles/ASG2G51V2G2GUTIL02D.html〉。

 殿下がまるで護憲派政党のシンパでおられるかのような報道で、驚くばかりですが、むろん正確さを欠いています。

 記者会の質問は4つ、それと関連質問で、同紙の島康彦、中田絢子両記者が着目したのは第3問でした。

 両陛下とも80代になられる。一部のご公務は皇太子殿下、秋篠宮殿下に引き継がれるが、「新しい公務に対するお考えをお聞かせください」という質問で、これに対して、宮内庁発表の会見全文によれば、殿下は次のようにお答えになったのです。

「公務についての考えにつきましては,以前にも申しましたけれども,過去の天皇が歩んでこられた道と,天皇は日本国,そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して,国民の幸せを願い,国民と苦楽を共にしながら,象徴とはどうあるべきか,その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。同時に,これまで行われてきている公務を踏まえつつ,将来にわたり生じる日本社会の変化に応じて,公務に対する社会の要請に応えていくことが,重要であると考えております」

 殿下は、朝日新聞の記事が伝えているような「憲法遵守」だけではなくて、「過去の天皇が歩んでこられた道」、つまり皇室の伝統と、日本国憲法に「象徴」と定められた規定との両方を「求め続ける」と仰せなのです。

 これはきわめて重要なポイントです。

 ところが、島・中田両記者の記事には、皇室の伝統の保持がすっぽりと抜けています。

 たしかに殿下は「憲法の規定に思いを致して」と仰せですから、「憲法遵守」の記事はあながち誤報とはいえません。けれども、部分に注目するのがメディアの常とはいえ、部分にのみ着目して、全体性を見失っては、正しい報道からはずれます。

 島・中田両記者は、殿下が思いを馳せる歴代天皇の道を、なぜ無視しようとするのでしょう。護憲派の「象徴」に祭り上げたい意図でもあるのでしょうか?

 とはいいながら、朝日の報道はまだしもです。もっとひどいのは韓国メディアです。

(つづく)
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