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天覧に浴した井上の喜びと教科書構想が破れた芳川の落胆 ──井上哲次郎『教育勅語衍義釈明』を読む 3 [教育勅語]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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天覧に浴した井上の喜びと教科書構想が破れた芳川の落胆
──井上哲次郎『教育勅語衍義釈明』を読む 3
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 井上哲次郎の『勅語衍義』(明治24.9)に関するふたつ目の疑問は、私著なのか、それとも教科書なのか、である。

『明治天皇紀』巻7には「私著として上梓」されたと記録されている。ところが、文部省が編集・監修した『学制百年史』(昭和56.9)はそうではなくて、「師範学校・中学校の修身教科書として使用された」と記述する。

 いったいいずれが正しいのか。もし前者が正しいなら、なぜ教科書にならなかったのか、その間、何があったのか。

 それで、ひきつづき『教育勅語衍義釈明』(昭和17)の「釈明」第二節「草案完成」を読むことにする。


▽「私著として公刊して可なり」

 井上によると、書名は『勅語衍義』と決まったが、草案作成がはかどらず、数か月を要した。ようやくできあがった稿本は多くの知識人の校閲を受けた。

 井上は中村正直(啓蒙思想家)、加藤弘之(政治学者)、井上毅(法制局長官)、島田重礼(儒学者)らのほか、西村茂樹(啓蒙思想家)、重野安繹(やすつぐ。漢学者)、小中村清矩(きよのり。国学者)らにも意見を求めたらしい。芳川顕正文相や文部官僚の江木千之(えぎ・かずゆき。のちの文相)らは稿本を見て、付箋を貼り、意見を述べたという。

 とくに意見が合わなかったのが井上毅らしい。

「なおここに付け加へておきたいことは、井上毅氏は自分ならばもっと簡単な註釈にするであらうといって約10枚ばかりの見本を作ってみせたが、どうもそれは形式的なもので、いっこう精神の躍動してゐない文章であったから、自分一見して顧みなかったが、芳川文相もこれではならぬといって撥ね付けた。さういふこともあった」

 井上哲次郎の『衍義』はやたらと長いから、井上毅が「もっと簡単」にと意見したとしても十分、理解できる。けれども、哲次郎がわざわざ毅の固有名詞を出して回想するからには、よほど腹に据えかねるところがあったのかも知れない。だが、文相をも巻き込んだこの一件は、「撥ね付けた」では済まなかっただろうと想像される。

 井上哲次郎によれば、『衍義』の文義が定まったあと、内務大臣を経て、天覧の栄誉に浴することになった。お手許に留め置かれること一週間か10日、そして下賜された。天皇が目通しされたことは、哲次郎にとって喜びはひとしおだったろう。

「『教育勅語』の解釈は600余種にものぼってゐるやうであるけれども、天覧をかたじけなくしたのはひとりこの『勅語衍義』のみであった」

 しかし、である。手柄話では済まなかったのである。

「文相吉川氏より自分に、この書は私著として公刊して可なりと申し渡された。それでいくばくもなく自分の私著としてこれを公刊した次第である」

 結局、芳川文相が目的とした教科書とはならず、『衍義』は私著として公刊された。要するに、芳川文相の教科書構想は日の目を見なかったのである。天覧にあずかった哲次郎の喜ぶ顔と芳川文相の落胆の顔が同時に浮かんでくるのは皮肉である。


▽二人の井上の呉越同舟

 なぜ教科書ではなく、私著となったのか。『明治天皇紀』は「この書、修正の如くせば可ならん。しかれどもなお簡にして意を尽くさざらんものあらば、また毅と熟議してさらに修正せよと」という明治天皇の言葉を記録している。

 しかし井上哲次郎は「毅と熟議」どころか、「撥ね付けた」のであった。

 井上毅と井上哲次郎。二人の井上は求めるものが違っていた。毅が勅語の非宗教性、非哲学性、非政治性どころか、良心の自由をも追求したのに対して、哲次郎はドイツ風の愛国心の高揚を心に秘めていた。二人の呉越同舟が教科書への道を阻んだのではないか。

 結局、哲次郎は明治天皇の叡慮にも従わなかったことになるのだが、哲次郎自身がそのことを自覚していたように見えないのは不思議である。哲次郎には他者の批評が「たいていみなこれを削除したがよからうといふやうな消極的の意見」としか映らず、それでいて「いったんこの書を公刊したところが、部数はずいぶんたくさん発行され、幾万部幾十万部にか及んだ」と逆に勝ち誇っている。

 愛国主義的な解釈本が売れれば売れるほど、明治天皇の叡慮の実現は遠ざかっていったのかも知れない。解釈本は何百種とあるのに、芳川文相が構想した標準的な教科書は作れなかった。だとしたら、それだけで混乱は必至だろう。

 しかも教科書になり損ねた愛国主義的解釈の『衍義』がベストセラーになれば、ますます混乱に拍車がかかる。さらに、一方では勅語の捧読、奉安殿の設置と神格化が促進された。勅語の作成では宗教性が排されたのに、むしろ勅語それ自体が宗教的対象と化していくのである。

 戦後、教育勅語がきびしく批判される原因はここにあるのかも知れない。とすれば、井上の書はまさに『釈明』と題されるのに相応しい。だが、当の井上はどこまで自覚していたのだろうか。

 蛇足ながら、最後にもうひとつ付け加えたい。『勅語衍義』の著者自身が「私著」と断言しているのに、文部省がまとめた『学制百年史』はなぜ「師範学校・中学校の修身教科書として使用された」と記述しているのだろうか。新たな疑問である。
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「文相より相談」と明かした50年後の「釈明」 ──井上哲次郎『教育勅語衍義釈明』を読む 2 [教育勅語]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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「文相より相談」と明かした50年後の「釈明」
──井上哲次郎『教育勅語衍義釈明』を読む 2
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 教育勅語を解説した井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』に関して、当面の疑問はふたつある。

 1つは、『明治天皇紀』に記録されているように、芳川顕正文相が知識人に教育勅語の解説本を著述発行させ、教科書に使用する目的をもって、井上に委嘱した結果としての出版なのか、それともそうではないのか。

 すでに指摘したように、井上の『勅語衍義』(明治24.9)にも『勅語衍義、増訂24版』(明治32.3)にも、芳川文相の依頼について触れられていない。それどころか、まるで井上個人の私的な出版企画であるかのように説明されている。

 芳川文相が井上に委嘱したという『明治天皇紀』の記述はもしや誤りなのか。

 真実に迫るべく、前回から、意味ありげなタイトルに惹かれて、米寿を迎えた井上が書いた『教育勅語衍義釈明』(昭和17)をひもといているのだが、はたせるかな、50年前の『勅語衍義』を再録したあとに続く「釈明」の章に、答えがずばり用意されている。


▽「解釈を作るようにといふ相談」

 第一節のタイトルは、ほかならぬ「『勅語衍義』述作の由来」である。

 井上はドイツから帰朝したころの回想から説き起こしている。井上は明治23年10月13日に帰国した。帝国大学文科大学教授に任命されたのは23日だった。そして教育勅語の解説文作成を依頼されるのである。むろん芳川文相その人からである

「その後いくばくもなく、ときの文相芳川顕正氏より、その年の10月30日に渙発された『教育勅語』の解釈を作るようにといふ相談を受けた」

 米寿を迎えた井上がいまさらウソを言うわけはないだろう。むしろ、なぜ最初からそう説明しなかったのか、なぜ50年も経ったいまごろになって「文相より相談」という事実を明かしたのか、である。

『明治天皇紀』は教科書にする目的だったが、結局、「私著として上梓」されたと記録している。芳川の教科書構想はいわば頓挫したわけだが、井上はその事実を一般に知られたくなくて、『衍義』では文相の委嘱話を隠してきたということだろうか。

 井上は50年後の『釈明』でさえ、芳川が「教科書として」と相談をもちかけたかどうか、言及していない。「解釈を作るように」という相談だったとされているだけである。井上にはまだ隠し続けていることがあるようだ。

 ともかく、文相から話を持ちかけられた井上は、慎重に考慮し、「かねて『教育勅語』の御趣旨のまことにありがたいことを深く感銘してゐる際であったからして、ついにその任にあたることに決心した」のだった。

 そう述べて、井上は自分のキャリアを振り返っている。幼少から漢学を学んだこと、東大では哲学を専攻したこと、その間、英語で諸学科を修めたこと、卒業後は東洋哲学史を編纂したこと、ドイツ留学は6年10か月に及んだこと、などである。


▽ドイツ仕込みの愛国主義

 当時のドイツは国運勃興の時代で、井上は、ドイツ国民のきわめて旺盛な愛国心をしみじみと体験した。ところが帰国した日本は、外国崇拝の念がはるかに多大で、井上は「忠君愛国の精神の大いに振起せられざるべからざることを痛感」していた。

 勅語渙発後、11月3日の天長節(明治天皇誕生日)に、帝国大学では加藤弘之総長のもと、はじめての「教育勅語」捧読式が行われ、井上も参列した。さまざまの縁があり、教育勅語の解釈には皇漢学者の立場だけでは不十分で、西洋の知識も必要であり、それで自分が解釈者に選ばれたものと推察したと井上は回顧している。

 これで1つの謎は解けたことになるのだが、同時に、芳川文相が目的とした教科書づくりの限界も見えてくるのである。それが公的な解釈を確立することができず、『衍義』が教科書になれなかった理由かも知れない。

 明治天皇から勅語作成を命じられた芳川が考えていたのは「わが国忠孝仁義の道」であり、最初に文部省案を作成したのは啓蒙思想家の中村正直であった。井上毅が登場し、別稿を作る際には宗教性、哲学性、政治性が避けられたのはきわめて重要である。

 しかしできあがった教育勅語の注釈者として芳川が選んだのは井上哲次郎で、漢学と西洋哲学の両方に通じてはいたが、ドイツ帰りの興奮が冷めやらず、むしろドイツ仕込みの愛国主義に燃えていた。

 このことが勅語解釈に大きく影響していることは容易に想像される。教育勅語が「国家神道」の聖典だとして、戦後、そしていまも批判され続ける原因は、勅語の中身より、井上哲次郎流の愛国主義的解釈にあるのかも知れないと疑われるのである。

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「絶版」になっていた『勅語衍義』 ──井上哲次郎『教育勅語衍義釈明』を読む [教育勅語]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


 井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』は私書だったのか、それとも師範学校や中学校の教科書して使用されたのか。明治天皇はこの本にどう関わられたのか。謎解きのヒントを求めて、井上の著書『教育勅語衍義:釈明』を読むことにする。

 国会図書館の検索エンジンでヒットする著書のタイトルは『教育勅語衍義:釈明』(昭和17年)だが、実際、同図書館のデジタルコレクションで見ると、正確には『釈明 教育勅語衍義』である。

 いずれにしても不思議なタイトルである。何をなぜ「釈明」しようというのか。


▽米寿記念の再版

 目次の前に置かれた序文「『釈明教育勅語衍義』の序」に、同書出版の経緯が説明されている。『勅語衍義』や『増訂勅語衍義』のような漢字片仮名交じりではなく、漢字ひらがな交じりなので、だいぶ読みやすい。

 これによると発端は米寿記念だという。すでに日米戦争が始まっていたからだろうか、祝賀会の開催を井上はいったん辞退するが、やがて出版話にまで発展したらしい。

「今回、自分が米寿の齢に達したので、自分のために組織された巽軒会の方で祝賀会を開催することになったのである。自分は時節がらぜんぜんこれを辞退したいといふ考へであったけれども、当番幹事の切なる要求によって再考のうへ、もしも質素なる祝賀会ならばといふことでついに開催することになった」

 序文によると、明治24年9月に出版され、32年3月に増訂された『勅語衍義』はいつかしら「絶版」になっていたらしいことが分かる。

「ところが、かねて関係のある書肆(しょし。書店)廣文堂主人からぜひこの際、久しく絶版になってゐる貴著『勅語衍義』を再版されてはどうかといふ申し出があったので、このことについて一応考へてみたところが、これはなるほどこの際、再版の必要が大いにあると考へた」

 こうして再版が決まったようだが、どこにも「教科書」とは書かれていない。やはり『明治天皇紀』に記述されているように、『衍義』は「私書として上梓」が正しいようだ。文部省の『学制百年史』は間違いということになる。

『学制百年史』にあるように「勅語衍義は師範学校・中学校の修身教科書として使用された」のなら、絶版・再版はどう見ても不自然である。なにしろ芳川顕正、中村正直、井上毅らが原稿の作成に加わり、明治天皇までが原稿をご覧になったうえでの出版なのだから。

 それにしても、「絶版」になっていたとは驚きである。勅語渙発以来、そして日米開戦のころ、学校では何を教科書にして教育勅語を学んでいたのか、新たな疑問が湧いてくる。


▽謎解きのヒントは?

『勅語衍義』はもともと教科書に使用する目的があり、井上哲次郎が筆者に選ばれ、原稿が作られたのである。にもかかわらず、教科書とはならなかった。なぜ「私書として上梓」されたのか、井上哲次郎は何も説明してこなかった。

 もしかして『釈明』にはこれらの謎を解くヒントが隠されているかも知れない。

 序文はこのあと本の構成について説明している。

 井上は『衍義』発行当時を振り返り、精神上未曾有の危機の時代だったことを強調し、それがための勅語渙発だったと指摘したうえで、『釈明』では、「緒言」に当時の時代状況を解説し、『衍義』初版の全文を再録したあと、『衍義』に対するさまざまな誤解について弁明する「釈明」を載せるというのである。

 目次を見ると、「緒言」には「明治初年の状況」「教育勅語渙発前の準備的経過」など、「釈明」には「『勅語衍義』述策の由来」「『勅語衍義』の草案完成」「『勅語衍義』の訂正」「『勅語衍義』に関する誤伝」などの項目が並んでいる。

 謎解きのヒントが隠れているとすれば、「釈明」だろうか。はたして謎は解明できるのか、次回、いよいよ読んでみることにする。
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自分の企画であったかのような説明 ──井上哲次郎『勅語衍義』を読む [教育勅語]

以下は「斎藤吉久メールマガジン」(2017.4.17)からの転載です


 教育勅語渙発後の歴史をひきつづき追いかける。

 前回のメルマガ(4月13日号)では、教育勅語の解説本編纂をめぐって、宮内省の『明治天皇紀』と文部省の『学制百年史』では記述の内容が食い違っていると指摘した。

『明治天皇紀』では、勅語発布後、芳川文相は教科書に使用する目的で、帝大教授井上哲次郎に解説本の起草を依頼した。できあがった原稿は文相らの修正を経て、明治天皇がご覧になったが、天皇はなおも修正を求められ、井上毅と相談せよと述べられた。結局、教科書ではなくて私書として出版された、と説明されている。

 ところが『学制百年史』では、井上哲次郎の草案について明治天皇が修正を求められたことについて言及がないばかりでなく、解説本が師範学校・中学校の修身教科書として使用された、と正反対の記述をしている。どちらが本当なのか。

 ならばということで、井上哲次郎の原文を読んでみることにする。


▽帰国したばかりの興奮

 戦前、出版され、国会図書館に納められている井上哲次郎の教育勅語関連の図書は約10冊ある。(1)『勅語衍義』井上哲次郎著、明治24.9、(2)『勅語衍義、増訂24版』井上著、明治32.3、(3)『教育勅語述義』井上、藤井健次郎著、明治45.3、(4)『教育勅語衍義、釈明』井上著、昭和17年などである。

 このうち(3)以外はデジタル化されており、図書館に行ってマイクロリーダを覗き込まなくても、ネット上で誰でもいつでも閲覧できるようになっている。

(1)と(2)は和装本である。それぞれ上下2冊で、内容もあまり変わらない、

(1)の『勅語衍義上』は41丁、約80ページ。表紙をめくると、まず「文科大学教授井上哲次郎著、文学博士中村正直閲。勅語衍義」と書かれたページがあり、芳川文相の文相が続く。完全な漢文体でとても読み下せない。

 続いて、勅語を一句ごとにくわしく解説した本文の前に、井上による前書き(叙文)が10数ページにわたって載っている。原文は漢字片仮名交じりだが、読みやすく適宜編集すると次のようになる。

「勅語衍義叙

 庚寅の年(明治23年)、余、欧州より帰り来たり。久しく燦然(さんぜん)たる文物を観たるの眼をもって、たちまち故国の現状を観るに、彼我の軒輊(けんち。優劣)甚だしきを覚え、悽然わが心を傷ましむるもの少なしとせず。ここにおいて百般の感慨、胸中に集まり、わが邦社会上の改良につき、論弁せんと欲するところきわめて多し」

 明治17年からドイツに留学し、この年に帰国したばかりの興奮が伝わってくる。このヨーロッパ体験が勅語解説に影響がなかったはずはないものと思う。つまり、徳育という人づくりより欧米諸国に追いつくための国づくりが優先されているのではないかという疑いである。


▽文相が委嘱した経緯に言及せず

「ことに教育に関し、わが至仁至慈なる(平出)
天皇陛下、軫念(しんねん)せらるるところありて、勅語を下したまふ。文部大臣承けてこれを全国の学校に頒(わか)ち、もって学生生徒に矜式(きょうしょく。謹んで手本にする)するところを知らしむ。余、謹んでこれを捧読するに、孝悌忠信の徳行を修め、共同愛国の義心を培養せざるべからざるゆえんをもって懇々諭示せられたまふ。その衆庶に裨益(ひえき。役立つ)あることきわめて広大にして、民心を結合するにおいてもっとも適切なり。わが邦人は、今日より以往、永くこれをもって国民的教育の基礎とせざるべからざるなり」

 井上はこのあと世界情勢を眺め渡しつつ、勅語をめぐる教育論を延々と展開している。それはそれで興味深いところがないわけではないのだが、要するに、教育勅語渙発の成立過程も『勅語衍義』がたどった経緯もほとんどまったく説明がない。

 というより、この文章では、『明治天皇紀』に記されているような、芳川文相が衍義著述発行を企画し、井上に委嘱したという経緯がまったく抜けていて、あたかも自分の企画であるかのような説明になっている。なぜなのか。


▽『増訂』の説明も『明治天皇紀』と異なる

 8年後に刊行された(2)の『増訂勅語衍義』にはもう少しくわしい説明が見られる。明治24年の旧本とは異なり、芳川文相の叙文のあとに「増訂勅語衍義序」が加えられ、わずか3ページだが、衍義作成の経緯などが説明されている。

 けれども、やはり、どういうわけか、『明治天皇紀』とは異なり、もともと井上個人の企画であるかのような説明になっている。

「教育に関する(闕字)勅語は、わが邦における国民教育の大方針にして、下臣民の依るべき綱常(こうじょう。人の守るべき道)の存するところなり。余、竊(ひそか)にその関するところの重かつ大なるものあるを慮り、おのれの不敬を顧みず、あえてこれが衍義を作り、その旨意を拡充せり。しかれどもこと(闕字)勅語に関するをもって、稿本を中村正直、加藤弘之、井上毅、島田重礼などの諸氏に示し、その意見を問ひ、いささかその順正にして瑕疵なからんことを期し、その文義ようやく定まるに及んで、かたじけなくも内大臣を経て、(平出)
天覧に供し、しかしてのちはじめて世に公にするに至れり」

 もともと個人企画だが、ほかならぬ勅語に関する解説本なので、関係者に意見を求め、陛下にもご覧いただいて出版の運びとなったというのが、井上哲次郎の説明だが、これは『明治天皇紀』の記述とはまるで異なる。加藤弘之の名前も新たに登場している。旧本と異なり、闕字が多いのも特徴である。8年の間に社会が変わったということか。

 ということで、次回は『教育勅語衍義釈明』を読んでみる。謎解きのヒントが見えてくるかも知れない。

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文部省編集・監修『学制百年史』と異なる記述 ──『明治天皇紀』で読む教育勅語成立後の歴史 2 [教育勅語]

 明治23年10月の教育勅語渙発のあと、芳川文相が訓令を発し、謄本を全国に頒布し、神聖化が進められていった経過を振り返り、これらの動きについて、「明治政府はなぜ教師や生徒たちに教育勅語の趣旨を浸透させる方策を第一に考えようとしなかったのか」「当時の文部省は勅語の中身を正しく伝え広め、そのことによって知育偏重を改めるのではなく、教育勅語の権威付けを優先させていたように私には見える」と批判的に書いたが、じつは必ずしもそうではないらしい。

 というのも、翌年5月のくだりに、芳川文相が直後渙発の前に、くわしい解説本を有識者に著述発行させ、検定の上、教科書として使用するプランを考えていたと記録されているからである。

「これより先、明治23年9月、文部大臣芳川顕正、徳義に関する勅諭の議を閣議に諮るや、碩学の士を選びて勅諭衍義(えんぎ)を著述発行せしめ、文部大臣これを検定して教科書と為し、倫理修身の正課に充てんとす」

 文部省が編集・監修した『学制百年史』には、同年9月26日に芳川文相が山縣首相に提出した閣議を請う文が引用されている。ここに勅語奉体の方法が説明され、「耆徳(きとく)碩学の士を選び、勅諭衍義の著述発行せしめ本大臣これを検定して教科書となし、倫理修身の正課に充てんとす」(原文は漢字片仮名交じり。闕字[欠字]あり)とある。

 白羽の矢が立てられたのが、哲学者の井上哲次郎東京帝国大学教授だった。ドイツ留学から帰国したばかりだったらしい。

「ついで10月、教育勅語発布せらるるに及び、顕正は帝国大学文科大学教授井上哲次郎に嘱するに勅語衍義の起草をもってす。すでにして稿なる」

 原稿ができあがると、芳川文相らの修正を経て、明治天皇がご覧になるのだが、天皇はなおも修正を求められた。すでに半年が過ぎていた。文相はすでに式日に生徒たちを集め、教育勅語を奉読することを訓令しており、結果として、勅語の神聖化が先行することになったのである。

「顕正および文学博士中村正直、枢密顧問官井上毅らこれを校閲修正し、この年(24年)4月、奏して乙夜(いつや)の覧を請ひ、旨を候す。この日、天皇、侍従職幹事公爵岩倉具定を鎌倉に遣はして顕正にこれを下付し、かつ告げしめて曰く、この書、修正の如くせば可ならん。しかれどもなお簡にして意を尽くさざらんものあらば、また毅と熟議してさらに修正せよと」

 明治天皇は何にご不満でどう修正させようとお考えだったのだろう。「井上毅と相談して」とのご発言にはどのようなご真意が含まれていたのだろうか。『明治天皇紀』は何も説明していない。そして、結局、芳川文相としては大臣検定の教科書とするはずだったのに、私書として出版されるのである。

「ついでこの月31日、顕正、同書を哲次?の私書として上梓せんとする旨を奏す。9月、その初版を発行す」

 ところが、である。不思議なこともあるもので、『学制百年史』はこれとは異なる記述をしている。

「教育勅語が発布されると、直ちに『勅語衍義』すなわち解説書の編纂を企画し、井上哲次?が選ばれて執筆にあたった。その草案ができると、これを多くの学者・有識者に回覧して意見を求め、24年9月に刊行した。その後、勅語衍義は師範学校・中学校の修身教科書として使用された。このほか民間でも多数の解説書を出版している」

『明治天皇紀』は天皇が修正の必要を指摘されたとしているが、『学制百年史』はこれに言及していない。宮内省編集の公式記録は私書として出版されたと説明し、文部省編集の記録は教科書として使用されたと記述している。内容が正反対なのである。

 どちらが正しいのであろうか。

 翌月になると、教育勅語の神聖化が一段と進められる。御真影とともに勅語の謄本を納める奉安殿の設置が全国的に展開されるのである。『明治天皇紀』には次のように記録されている。数か月前、文相は芳川から大木喬任に交替していた。

「文部大臣伯爵大木喬任、文部省訓令をもって北海道庁および各府県に令し、管内学校に下賜せられたる天皇・皇后の御真影並びに教育勅語の謄本を校内一定の場所を選び、もっとも丁重に奉安せしむ」

 このあと『明治天皇紀』には教育勅語に関する目立った記述は現れない。

 結局、文部省は当初の目的と構想からはずれて、教育勅語を教師や生徒たちに「意を加へて諄々誡告」(芳川文相訓戒)することを怠り、むしろ勅語の神格化に走ったのではないかとの疑いがどうしても晴れないのである。
タグ:教育勅語
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下賜直後に始まった神聖化は「聖慮」なのか ──『明治天皇紀』で読む教育勅語成立後の歴史 1 [教育勅語]

 前回まで、『明治天皇紀』巻7をテキストにして、教育勅語成立に至るまでの課程をトレースしてきた。今日からは成立後を考える。

 明治23年10月にできあがった教育勅語は、その後、天皇が師範学校にお出ましになり、そこで文相に下賜されるという手続きを踏み、国民に浸透させるというのが山縣有朋首相や芳川顕正文相のアイデアだったらしい。

 ところが、明治天皇はこれを受け入れられず、二人を宮中に呼び、御前で内々に下賜されるといういたって地味な方法が採られた。

 しかも、日付と御名・御璽の記載だけで、大臣たちの副書はなかった。明治天皇にとっては10数年来の悲願であり、待望の勅語渙発のはずで、きわめて異例だが、それは「親しく国民に」が「叡慮」だからと説明されている。

「これを公布するに年月日と御名および御璽を記するにとどめ、大臣の副書を欠くはまったく他の詔勅と異なり、まことに叡慮に出で、天皇親しく国民に訓じせられたるものなるによる」

 しかしその後、事態は急展開する。芳川文相は次の日、訓令を発したうえで、コピーを全国の学校に頒布し、教師たちに周知徹底させようとしたのである。

「翌日、顕正、文部省直轄学校および北海道庁、各府県管内の公私立学校にその謄本を頒(わか)たんとし、左の訓令を発し、およそ教育の職にあるものをして奉体服膺(ふくよう)するを知らしむ」

 文部省がまとめた『学制百年史』(昭和56年)によると、明治政府は以前から教育勅語の発布、精神徹底の方法について慎重に検討していたのだという。訓令とコピーの頒布はその結果だった。

 それにしても文相の訓令はいかにも時代がかっている。「天皇」「勅語」「聖意」の用語を、敬意を表すため、必ず行頭におく、古代からある平出(へいしゅつ。平頭抄出)という書式法が用いられている。明治5年に欠字、欠画などとともに廃されたはずなのにである。

「天皇陛下、深く臣民の教育に軫念(しんねん)したまひ、ここにかたじけなく

勅語を下したまふ。顕正、職を文部に奉じ、躬、重任を荷なひ、日夕省思して、嚮(むか)ふところを愆(あやま)らんことを恐る。いま

勅語を奉承して感奮措(お)くあたはず。謹みて

勅語の謄本を作り、あまねくこれを全国の学校に頒(わか)つ。および教育の職にあるもの、すべからくつねに

聖意を奉体して研磨薫陶の務めを怠らざるべく、ことに学校の式日およびその他便宜日時を定め、生徒を会集して

勅語を奉読し、かつ意を加へて諄々誡告(かいこく)し、生徒をして夙夜(しゅくや。朝夕の意味)に佩服(はいふく。心に留めて忘れないこと)するところあらしむべし」

 文相は式日などに、生徒を集めて奉読することをも訓令している。その結果、「教育勅語は教育の大本を明示する神聖な勅諭として厳粛な雰囲気のもとで取り扱われることになった」(『学制百年史』)のだが、それは師範学校に行幸されたうえで勅語を下賜するという演出に同意されなかった明治天皇の「聖慮」に沿うものだったのかどうか。

 ともかくも、ここに教育勅語の神聖化が始まったのである。『明治天皇紀』は、

「これより諸学校ことごとくこれを遵奉し、教育の大本まったく定まる」

 と記録している。

 しかし、もともと西欧型の知識偏重教育を正すことが勅語渙発の目的だったはずである。内容においては、成立過程で宗教臭さや政治臭さが避けられたのみならず、「帝王の訓戒はすべからく汪洋たる大海の水のごとくなるべく」(『明治天皇紀』)、つまり君主は臣民の良心の自由に干渉してはならないとされたのに、発布後は教育勅語自体が神聖化し、宗教的扱いを受けることになったのは、大きな矛盾にほかならず、当初の構想からの逸脱ではなかったのか。

「父母に孝に」に始まり、教育勅語が謳い揚げる徳目は、むしろ常識的で、ありふれたものだろう。けれども、そのありふれた道徳さえ危ういような現代にあって、道徳教育強化の必要性とともに、教育勅語の積極的肯定論が顔をのぞかせるのは理解できる。

 他方、今国会での論議がそうであるように、教育勅語が厳しい批判にさらされ続けているのは、その徳育論的内容ではなくて、渙発直後からすでに始まったらしい国体論的な神聖化に根本的原因があるように思われる。

 明治政府はなぜ教師や生徒たちに教育勅語の趣旨を浸透させる方策を第一に考えようとしなかったのか。

『明治天皇紀』巻7はこのあと、翌23年12月に、芳川文相の奏請で、御名を親書し、御璽を鈐(けん。金偏に今。押印の意味)した教育勅語を帝国大学以下、文部省直轄学校24校に下賜されたこと、さらに24年2月には1万3072枚のコピーが作られ、全国の学校に配布されたことを記録している。

 当時の文部省は勅語の中身を正しく伝え広め、そのことによって知育偏重を改めるのではなく、教育勅語の権威付けを優先させていたように私には見える。

 その後、ようやく勅語の解説文が編集され、奉安殿が各学校に建てられていくのだが、それについては稿を改める。(斎藤吉久メールマガジン2017.4.12)
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一言一句にこだわられた明治天皇 ──『明治天皇紀』で読む教育勅語渙発までの経緯 3 [教育勅語]

 今日も『明治天皇紀』巻7を読み進める。

 文部省が編集・監修した『学制百年史』(昭和56年9月)に説明されているように、明治22年2月に発布された大日本帝国憲法には、教育に関する規定は設けられなかった。小学校令をはじめ、教育に関する基本法令は勅令をもって定められることとされた。

 明治維新以来、欧化思想が社会を席巻し、これに対抗して従来の徳育の必要性が叫ばれ、議論百出で「徳育の混乱」が社会現象化するなか、徳育の基本方針の国家的確立が求められ、明治天皇から榎本武揚文相に徳育の基礎となる箴言の編纂が命じられ、やがて芳川文相時代に教育勅語の成立へと導かれていった。

 明治23年9月、教育勅語の内閣上奏案ができあがり、天覧に供することとなった。明治天皇みずから筆を入れられたらしい。並々ならぬ熱意の表れといえる。

「この月21日、顕正、有朋とともに参内してこれを上る。

 天皇親しくこの内閣上奏案を批正し、翌日、侍従長侯爵徳大寺実則を勅使として、これを永孚に示してその意を問はしめたまふ。

 永孚命を奉じておもへらく、勅語案中『これを古今に通じて謬らず、これを中外に施して悖(もと)らざるべし』とあるも、『悖らざるべし』の句、弛緩にして堅確ならず、中庸の語を採りてこれを『悖らず』と改むるにしかずと。

 すなはち典拠を示し、24日、実則によりて奏対す。天皇頷可し、即日顕正に命じてこれを訂正しめたまふ。

 かくのごとくしてその一言一句ことごとく宸慮をもって決したまはざるはなく、同日ついに御裁可を見るにいたれり」

 勅語が完成すると、今度は下賜の方法が検討され、宮中に山縣首相、芳川文相を召し、下賜するというかたちが採られることに決した。一般的な下賜方法とは異なる手法が採られた。

「これより先、勅語下賜の手続き等につきて議あり。はじめ有朋、顕正ら請ふに車駕高等師範学校に幸し、これを文部大臣に下賜あらせられんことをもってせしが、別に聖慮あらせられ、その請を聴したまはず、宮中において下賜することとなしたまふ。

 しかして天皇近衛小機動演習親閲のため26日より茨城県下に行幸あり。昨29日、還幸あらせらる。よりてこの日、たまたまお風邪により静養あらせられしが、とくに有朋、顕正を御内儀に召し、御前において親しくこれを授けたまふ」

『明治天皇紀』によれば、この日、天皇は大山巌陸軍大臣邸へお出かけの予定だったが、お風邪のためお取りやめになっていた。翌月6日まで出御されなかったとあるから、よほどの重症だったらしい。

『明治天皇紀』はこのあと「勅語にいはく」と続き、教育勅語全文を掲載している。

「朕(ちん)惟(おも)ふに、わが皇祖皇宗、国を肇(はじ)むること宏遠に、徳を樹(た)つること深厚なり。わが臣民、克(よ)く忠に克く孝に、億兆心を一にして、世々その美をなせるはこれわが国体の精華にして、教育の淵源またじつにここに存す。

 なんじ臣民、父母に孝に、兄弟(けいてい)に友(ゆう)に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、学を修め、業を習ひて、もって智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、世務を開き、つねに国憲を重んじ、国法に遵ひ、いったん緩急あれば義勇公に奉じ、もって天壌無窮の皇運を扶翼(ふよく)すべし。かくのごときはひとり朕が忠良の臣民たるのみならず、またもってなんじ祖先の遺風を顕彰するに足らん。

 この道はじつにわが皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民のともに遵守すべきところ、これを古今に通じて謬(あやま)らず、これを中外に施して悖(もと)らず、朕なんじ臣民とともに拳々服膺(けんけんふくよう)してみなその徳を一にせんことを庶幾(こひねが)ふ」(原文は漢字片仮名交じり)

 苦心の末にできあがった勅語は、勅語だからといえばそれまでだが、漢文調で、難解な漢語がちりばめられ、とくに現代人にとっては読みやすいものではない。

 また欧化主義に対抗する保守主義的な道徳教育の要請が勅語渙発の契機となっていたはずなのに、従来の儒教的徳目のほかに、「博愛」などのキリスト教的要素、「国憲を重んじ、国法に遵ひ」というような近代主義的表現が盛り込まれていることが注目される。

 教育勅語を全国に普及させる方法が検討課題となり、これがのちにさまざまな問題を招くこととなったようだ。とくに難解さゆえに解説が求められ、その解説文の作成が新たな混乱の火種を生んだらしい。そのことは稿を改めて考えることにする。(斎藤吉久メールマガジン2017.4.11)
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宗教臭さ、哲学臭さ、政治臭さを排除 ──『明治天皇紀』で読む教育勅語渙発までの経緯 2 [教育勅語]

 前回に続き、『明治天皇紀』巻7を読み進めることにする。索引によると、「教育勅語」関連の記述は巻7、巻8、巻10に渡っているが、ほとんどは巻7に集中している。

 明治23年5月、天皇の命を受けて、芳川顕正文相は勅語作成に取りかかった。

「顕正感激命を拝し、徳教に関する勅諭を稿して聖旨を成就せんとす。

 おもへらく、わが国忠孝仁義の道あり、知りやすく行ひがたし。これじつに国体の精華にして教育の本源なり。いまわが国のために教育の方針を定めんとせば、これをおいてほかに求むべからずと」(読みやすくするために、適宜、編集した)

 このとき顕正の脳裏を支配していたのは儒教的徳目だったらしい。西洋の知識に対抗するものとして、東洋の伝統思想が採用された。「国体の精華」といいながら、依拠するのは神道ではなく、むろん仏教でもなかった。

 そして文部省案づくりが始まり、井上毅法制局長官が登場する。井上は案作りの難しさを指摘し、勅諭が供えるべきいくつかの条件を提示し、原案を作成する。

「すなわち元老院議官中村正直に委嘱して文部省案を作成せしむ。すでにして稿案成り、有朋、顕正と議し、これを法制局長官井上毅に送りて意見を徴し、かつ嘱して別稿を起こさしむ。

 毅すこぶるその起稿を難しとし、6月20日、有朋に書を致してそのことを語る。

 いわく、この勅諭たる、政治上の勅語と等しかるべからず。

 また軍事教育における軍令とも同一なるべからず。

 敬天尊神等の語を用ゐて宗教上の争端となるを避けざるべからず。

 幽遠深邃(しんすい)なる哲学上の言論にわたるべからず。

 政治的臭味を帯ぶべからず。

 漢学者の口吻あるいは洋学者の気習に偏すべからず。

 帝王の訓戒はすべからく汪洋たる大海の水のごとくなるべく、砭(へん。石偏に乏)愚戒悪の語を用ゐ、消極的教訓となすべからず。

 一宗派のみを喜ばしめ、他を怒らしむるの語気あるべからず。

 これらの困難を避けて真誠なる玉言をまったくするは、じつに十二楼台を架するよりも難事なりと」

 ここでとくに宗教臭、哲学臭、政治臭の排除を指摘しているのはとくに注目される。開明派の井上は儒教思想を教育の根本におくことを嫌っていたらしい。井上毅、山縣有朋、芳川顕正、元田永孚などの間を何度も往復し、さらに天皇の意見を交え、文部省案、内閣上奏案ができあがっていった。

「しかして文部省案をもってその体を得ざるものと評し、かりに稿を作りてこれを有朋に呈し、有朋、これを顕正に回付す。

 毅はまたべつにこれを永孚に内示して修正を求め、7月下旬にいたり、永孚の意見を参酌して次稿を起草し、提出す。

 有朋および顕正すなわち文部省案を措きて、毅起草の次稿を取ることを決し、顕正、さらに正直および文科大学教授島田重礼らに諮りてこれに若干の修正を加へて仮稿を作成し、もって聖旨を候す。

 天皇熟覧したまひ、なお意に満たざるところあり、これを永孚に示してのたまはく、この稿首尾の文不可なしといえども、その中間徳目の条項を掲ぐるところなお足らざるを覚ゆと。

 よりて永孚をしてその稿を全うせしめんとし、旨を授けてさらに修補するところあらしむ。永孚すなわち旨を拝し、8月26日、書を毅に与えてこのことを告げ、相共にこのことに当たらんことを勤め、顕正の奏上せる仮稿を補修して毅に送り、さらにその修訂を求む。

 これより2人推敲に勉め、いくどか互ひに修訂す。一句を削り、一字を加ふるも、数次往復を費やす。かくてようやく稿成り、永孚よりこれを上呈す。

 顕正これが下付を得て、有朋および毅と討議し、字句その他になお若干の修正を加ふ。その『国憲を重んじ国法に遵ひ』の一句、さきの顕正の上奏案にありて、永孚の修訂案にこれを削りしが、ここにいたりてこれを復活せしがごときはその修正の一例にして、また聖旨を候してこれを決せるなり。

 このごとくにして顕正ようやく定稿を得、9月26日、これを閣議に諮りて閣臣の同意を得るにいたる。ついでさらに推敲改訂を重ねるところありしが、すでにして稿まったく成る」

 上程案作成の過程で、宗教臭さや政治臭さが排除されたはずなのに、教育勅語はのちに「国家神道の聖典」とみなされるようになった。なぜだろうか。成立過程ではなくて、その後の取り扱いに原因があったのか、それとも宗教性・政治性を指摘し批判する側にむしろ原因があるのだろうか。

 前者だとすれば、いや後者であればなおのこと、敗戦後、国会で排除・失効確認したのは何だったのか、その意味が問われるのではないか。道徳的徳目の列挙をもって教育勅語を肯定することが不十分なら、占領期の国会決議の一事をもって否定するのも不十分に思われる。(斎藤吉久メールマガジン2017.4.10)
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欧米型の知識偏重教育を憂慮された明治天皇 ──『明治天皇紀』で読む教育勅語渙発までの経緯 1 [教育勅語]

 教育勅語は何を目的に、どのような経過をたどり成立したのだろうか。

 成立過程史をテーマとした研究には、海後宗臣『教育勅語成立史の研究』(1965年)、稲田正次『教育勅語成立過程の研究』(1971年)などがある。けれども、いちばん手っ取り早いのは『明治天皇紀』をひもとくことだろうと思う。

 巻7を開くと、「教育勅語の下賜。明治23年10月30日、教育勅語を賜い、教育の大本を示したまふ」とあり、続いて下賜に至るまでの経緯がくわしく説明されている。

 まず当時の問題意識である。明治5年の学制頒布以後、学校教育は急速に普及したが、知識教育偏重への危機意識が深まっていたらしい。勅語渙発の目的は天皇制の強化というようなものではなかった。したがって、国体論批判としての教育勅語批判は、少なくともこの成立過程の時期については当たらないことになる。

「これよりさき、学制すでに頒布せられ、諸種の学校設立せられ、教育大いに進歩して諸科の学芸日に進むといえども、知識を開き芸術を長ずるに偏し、身を修め徳を樹つるを後にし、あるいは内外本末の別を忘れていたずらに模倣に陥り、教育の大旨に違ふものあり」(読みやすいように原文を適宜、編集した。以下同じ)

 事態をいち早く憂えておられたのが、ほかならぬ明治天皇だった。

「天皇つとにこれを憂慮したまふところありしが、明治11年、北陸・東海両道巡幸に際して、親しく諸学校教育の実際を覧たまふにおよび、さらにその感を深くしたまふ」

 問題を深く実感された明治天皇はすぐさま行動を起こされた。「忠孝」「仁義」という儒教的価値観に基づく道徳教育の前史であった。

「よりて還幸ののち、侍講元田永孚に聖旨のあるところを諭し、教学大旨・小学条目の2篇を草して上らしめたまひ、これを文部卿に下し、この趣旨を体して力を道徳の教育に用ゐしめたまふ。またさらに永孚に勅して幼学綱要を撰ばしめ、あまねくこれを海内(かいだい。「国内」の意味)に頒賜し、年少就学者をして、忠孝を本とし仁義を先にすべきことを知らしめたまふ」

 元田永孚は儒学者だったから、永孚が執筆編纂した「教学大旨」「小学条目二件」「幼学綱要」が儒教的内容となったのは当然であったろう。

 けれども道徳教育の推進は容易ではなかった。日本を取り巻く国際環境が日本の欧米化を要求していたからである。とくに不平等条約改正問題が眼前に立ちはだかっており、きわめて悩ましい問題だった。国のアイデンティティが問われていたということだろう。

「聖旨このごとく炳焉(へいえん。「明白」の意味)たりといえども、時運方に進むに急にして、かつ条約改正の急務は、ひたすら泰西(西洋)の制度文物を模倣するを必要とし、甚だしきはわが国を化して欧米たらんとす。挙国滔々としてこの風に趨(はし)り、茫乎(ぼうこ)として国体の精華、教育の淵源を顧みず、ますます聖旨に遠ざからんとするの傾向あり。識者竊(ひそ)かにこれを憾(うら)む」

 ここで「国体の精華」という表現が現れているのは注目される。アメリカナイズ、グローバル化の大波に洗われる戦後の保守化現象と相通じるものがあるようにも見える。教育勅語をめぐる問題はけっして過去の問題ではない。福澤諭吉は反儒教的な徳育を主張したという。宗教主義、倫理学などに基づくさまざまな徳育論が現れ、互いに論争し、混乱を極めたらしい。

 側近の元田永孚は宮内卿の伊藤博文に対応を促した。

「永孚またこれを慨(なげ)き、明治17年8月、書を宮内卿伯爵伊藤博文に呈し、国教を闡明(せんめい)し、もって教育を拡張するの議を進む。その意国体によりて教育の主義を彰明し、確立せんとするにあり」

 ここには言及がないが、永孚は数年来、欧米の新知識普及を急ぎ、天皇親政を拒否する博文との間で論争を繰り広げていたらしい。

 ほかの側近たちにも動きが出てきた。道徳教育の根元は皇室にあるのだから、詔勅の渙発が望ましいという国体論的な考え方も現れた。

「宮中顧問官西村茂樹また教育界の現状を慨嘆し、徳育の振興につきて意を用いるところありしが、22年2月、宮内大臣子爵土方久元に建言していわく、国民道徳の根元はつねに皇室にあり、ゆえに国民の道徳を維持せんとするは、皇室を措きて他にこれを求むべからず、仰ぎ願わくば断然大詔を渙発し、国民の道徳教育は帝室においてまったくその基礎を定め、その施行の方法は他の知体二育とともにこれを文部省に委任すべしと」

 欧米型の知識教育から日本的な徳育への変換が必要だとする認識は地方にも広がり、地方長官は榎本武揚文部大臣に要求することとなった。

「この年2月、地方長官会議の開かるるや、長官らまた徳育の要を論じ、相謀りて文部大臣子爵榎本武揚に対し、方今教育の弊を指摘し、欧米偏重の教育を排して本邦固有の道徳を奨励し、もって速やかに教育の方針を確立せんことを建言す」

 明治天皇ご自身も榎本文相に要求することとなったが、事態は進まなかった。

「天皇時事を深慨し、教育のことを軫念(しんねん)したまふこと深し。これらの議を聞きたまふや、これを善とし、武揚に命ずるに速やかに教育の方針を一定し、かつ教育に関する一部の箴言を撰述してこれを学生に授け、出入つねにこれを誦読せしめたまはんとす。武揚命を拝して数閲月、いまだ果たさず」

 事態が急速に進んだのは、芳川顕正の文相就任後からだった。天皇の御憂慮からすでに10年以上が経過していた。

「5月17日、内務次官芳川顕正代わりて文部大臣に任ぜらるるや、信任式後親しく内閣総理大臣山縣有朋に勅して顕正にその命を申(かさ)ねしめたまふ」

 こうして実際に教育勅語づくりがスタートするのだった。

 さて、蛇足ながら、最後にひと言、加えたい。教育勅語渙発の目的は欧米の知識を学ぶことに偏重した教育からの脱却であり、道徳教育の必要性を痛感されたからだと思うが、とすると翻って戦後の教育勅語批判はどう考えるべきだろうか。

 閣僚の教育勅語肯定発言を批判するのは自由だろうし、敗戦後の教育勅語排除・失効確認決議を再確認するのもかまわないだろうが、それで十分だろうか。不十分だからこそ、教育勅語評価の声が聞こえてくるのではないのだろうか。(斎藤吉久メールマガジン2017.4.9)
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教育勅語の「道徳」論と「国体」論 ──初鹿博明議員の質問主意書をめぐって [教育勅語]

 森友学園事件を契機として教育勅語が一気に話題になり、賛否両論噛み合わない議論が続いている。なぜ議論は噛み合わないのか、問題点をしばらく私なりに考えてみたい。

 今国会では通常の審議に加えて、質問主意書による場外バトルが展開されている。衆議院で提出された質問書は以下の4本である。参院では提出されていないらしい。

1、教育基本法の理念と教育勅語の整合性に関する質問主意書(2月27日民進党逢坂誠二議員提出。3月7日答弁書受領)

2、稲田大臣の「教育勅語の精神は取り戻すべき」発言に関する質問主意書(3月9日同逢坂議員提出。3月17日答弁書受領)

3、教育勅語の根本理念に関する質問主意書(3月21日民進党初鹿明博議員提出。3月31日答弁書受領)

4、「教育ニ関スル勅語」の教育現場における使用に関する質問主意書(4月6日民進党宮崎岳志議員提出。現時点では答弁書受領に至っていない)

 このうち初鹿議員の質問書は、稲田防衛相が教育勅語を肯定する国会答弁をしたことを受けてのものらしい。初鹿議員は、教育勅語が昭和23年6月に衆参両院でそれぞれ「排除」「失効確認」が決議され、「教育の指導原理性が否定された」と前置きした上で、次の5点を質問した。

1、衆院の排除決議は、教育勅語が「主権在君」「神話的国体観」に基づいているという考えからだったが、政府は是を踏襲しているのか?

2、教育勅語は基本的人権を損ない、国際信義に疑点を残すものであり、そのまま教育に用いることは憲法上、認められないのではないか?

3、国会決議を徹底するために、学校での使用を禁止すべきではないか?

4、稲田防衛相は教育勅語に共感する答弁をしているが、衆院決議で指摘した国際信義に疑点を残すことにつながらないか?

5、稲田防衛相を罷免すべきではないか?

 初鹿議員の問題意識は、国会決議で「排除」されたはずの教育勅語が「主権在民」の現行憲法下で復活することへの疑念を提起しているらしい。

 教育勅語が「民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」などの現在でも守るべき徳目が記載されていると指摘して、一定の評価を示しつつ、「根本理念」が現代には合わないと断定している。議員が道徳論としては肯定していることに注目すべきだろう。

 他方、稲田大臣の場合は、初鹿議員の質問書に引用されているように、「教育勅語の核である、たとえば道徳、それから日本が道議国家を目指すべきであるという、その核について、私は変えておりません」と述べていて、教育勅語の「核」はもっぱら「道徳」論なのであり、初鹿議員の国体論批判的な見方とは異なる。議論が噛み合うはずがない。

 この捉え方の違いはどこから来るのか。教育勅語の「核」「根本理念」とはもともと何だったのか。敗戦・占領期の「排除」の歴史とどう関わるのだろうか。「道徳」が「核」だというのなら、新憲法は国民主権の下に「道徳」を「排除」した、あるいは「排除」させられたということなのか。「排除」すべきようなものを明治人は作りあげ、その後ずっと敗戦まで引きずってきたのか。

 さて、質問書提出の十日後に示された政府答弁書は、質問1については、昭和23年6月に森戸文相が「教育勅語その他の詔勅に対しましては、教育上の指導原理たる性格を否定してきたのであります。このことは、新憲法の制定、それに基づく教育基本法並びに学校教育法の制定によって、法制上明確にされました」と答弁したとおりと答えている。

 政府答弁の立場は占領期といささかの変わりはないという説明で、これは稲田大臣よりむしろ初鹿議員に近い、国体論批判的理解ということになるだろう。

 けれども3については、「教育勅語を教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切だが、憲法や教育基本法等に反しないかたちで教材として用いることまでは否定されない」と答え、これが批判を浴びることになった。

 メディアの批判は「過去の遺物が教材か」(4月2日朝日社説)、「看過できない」(4月5日毎日新聞社説)という具合で、やはり国体論批判の匂いがする。だが、そもそも教育勅語とはどのようなものだったのか、なぜここまで批判の対象とされるようになったのか、もっと深い考察が必要な気がする。(斎藤吉久メールマガジン2017.4.8)
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