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「伝統」とは何かを、まず伝統主義者が理解すること ──あらためて女性差別撤廃委員会騒動について [女帝論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 今回の国連女性差別撤廃委勧告騒動をめぐる日本側の反応について、あらためて考えたいと思う。


▽1 小林よしのり氏「差別に決まっている」

 漫画家の小林よしのり氏は、「(皇位継承の)男系男子限定は女性差別に決まっている」と決めつけている。

 小林氏はその根拠を説明し、明治の典憲体制づくりに深く関わった井上毅を引き合いに出し、井上が女系論を潰したと解説している。

 なるほど明治の典範制定過程では女帝容認論が少なくなかったのは事実だし、それが井上らによって最終的に否定されたのも事実であろう。

 けれども、その事実は今回の問題とは無関係である。

 国連機関の見解案は旧典範ではなくて、現行の皇室典範を問題にしているからである。小林氏の論点はずれている。

 ただ、所詮は原稿用紙数枚程度のブログである。小林氏にとってみれば、言い尽くせないところがあるのかも知れない。


▽2 茂木健一郎氏「典範改正は将来、必要かも」

 脳学者の茂木健一郎氏は、皇室典範の男系継承主義と男女平等原則は「論理的に独立である」とさすがに冷静である。

 しかし、「皇室の安泰の視点から、女性宮家を認め、そこでお生まれになった男子に皇位継承を認める皇室典範の改正は、近い将来に必要になるかもしれないと私は考える」というご主張は何の説明もなく、意味が分からない。

「皇室の安泰」はもっともであるが、そのことを誰よりも強く願ってきたはずの皇室自身が「皇家の家法」として古来、固持されてきたのが男系継承なのであろう。

 むろん「近い将来」を考えることも重要である。だが、その前に、なぜ男系継承が守られてきたのか、をまず探求すべきではないのだろうか。

 単に「皇室の安泰」が目的なら、明治人は「皇男子孫の継承」を憲法に明記することはなかっただろう。ましてや過去の歴史にない「女性宮家」を創設し、皇室の伝統を破る目的は何だろうか。

 茂木氏は何をもって天皇のお役目だとお考えなのだろう。憲法の国事行為をなさり、ご公務をお務めになる立憲君主が天皇だというのであれば、男性だろうが女性だろうが問題はないだろうけれど、そのようにお考えなのだろうか。


▽3 中田宏氏「余計なお世話」

 前衆議院議員の中田宏氏は、やはりみずからのブログで、「余計なお世話」と突き放している。

 いわく、「男系男子に皇位継承されることは日本の歴史や伝統が背景にあって、差別を目的とするものではありません」。小林氏とは異なり、安倍総理の姿勢を支持している。

 そのうえで、安倍総理に対して、「女系・女性天皇について……日本国内でもおかしな方向に行かないように、いまだからこそこの議論にも手を付けるべきだ」と勧めている。

 中田氏は一夫多妻の国があることやローマ教皇が男性であることをあげて、「きちんとした見識もないまま人の国の文化・歴史・伝統に勝手に踏み込むと余計なお世話だと言われざるを得ません」と断じている。

 もともと、古代の日本から歴史的に形成されてきた皇位継承の男系主義を、現代人類社会の普遍的原理としての男女同権主義をもって、云々するところに無理があると私は思う。中田氏の意見はもっともであり、いまこそ議論すべきだという主張も同意できる。

 だが、であればなおのこと、「余計なお世話」では済まないのではないか。


▽4 竹田恒泰氏「理由などどうでもよい」

 その点、竹田恒泰氏に私は期待したのである。

 竹田氏の場合、お三方とは少し異なり、天皇=「祭り主」と理解する伝統的立場に立っている。皇室の歴史と伝統を十分に踏まえたうえで、なぜ男系男子継承なのか、を説明しうる立場におられると思う。

 それで見つけたのが前回、取り上げたコラムだった。

 ところが、期待に反して、竹田氏は「理由などどうでもよい」と回答を拒否している。これでは中田氏のように「余計なお世話」と反発するのと大差がない。

「歴史と伝統」を楯に突き放し、「文句を言うのは文句を言う相手に非がある」と言わんばかりに原因を転嫁するなら、開き直りとしか見えないだろう。

 きちんとした説明がなければ、正しい理解に導き、納得させ、批判者を理解者に転換することはできない。逆に「差別」を認めたと受け止められ、さらなる反発を呼び、敵を増やすことにならないか。

 こちらの「歴史と伝統」を相手が「きちんとした見識」(中田氏)をもって理解してくれるとは限らないし、現代の普遍的原理にどっぷりと浸かっている人たちの方がはるかに多いのである。

 他者を理解させるには、自分がより深く理解することが先決である。伝統主義者たちは、何が「伝統」なのか、わが祖先たちが何を「伝統」として選択してきたのか、を読み直す必要があるのではないか。

タグ:女帝論
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深まらない皇室論議 ──国連女子差別撤廃委員会騒動をめぐって [女帝論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 皇位継承をめぐる議論が、いつまで経っても深まらないように見える。なぜだろうか?


▽1 突如、盛り込まれた見直し勧告

 報道によると、国連女子差別撤廃委員会なる機関が、「皇位は男系の男子が継承する」と定め、女子の継承を認めていない皇室典範について、見直しを求める内容の最終見解を今月7日に発表しようとしていたという。

 2月に行われた委員会の審査会合では、皇室典範は議題にもならなかった。ところが、3月上旬に示された見解案で、突如、盛り込まれたらしい。

 最終見解案は、「委員会は既存の差別的な規定に関するこれまでの勧告に対応がされていないことを遺憾に思う」と前置きしたうえで、「とくに懸念を有している」ポイントとして、「皇室典範に男系男子の皇族のみに皇位継承権が継承されるとの規定を有している」ことを挙げた。

 そしてさらに、母方の系統に天皇を持つ女系の女子にも「皇位継承が可能となるよう皇室典範を改正すべきだ」と女系継承容認までも勧告していたというのである。

 これに対して、日本政府はジュネーブ代表部公使が同委員会副委員長に面会し、「女子差別を目的としていない」「審査で取り上げられていない内容を最終見解に盛り込むのは手続き上、問題がある」などと抗議し、最終的に該当部分は削除されたと伝えられる。

 反論しなければ、そのまま掲載されるという切羽詰まった状況だったらしい。

 その一両日後、メディアは、外務省関係者への取材で事実関係が判明した、と報道したのだった。


▽2 リークしたのは誰か?

 国連の一機関が文明の根幹に関わる、わが国固有の皇位継承問題に口を挟むこと自体異様で、その経緯も怪しげだ。政府の対応は当然だが、所詮、終わった話である。

 それがなぜ明るみに出ることになったのだろう。

 ニュースになれば、議論はぶり返される。最終見解に盛り込めず唇をかんだ人たちには、逆転打となり得る。逆転を狙ってリークした人物がいるということだろうか?

 国連の委員会は、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(1981年発効。85年に日本批准)の履行を監視するため、国連人権委員会が設置する組織らしい。

 同委員会委員長は、2008年1月から委員に就任してきた林陽子弁護士で、2015年2月から2年間、委員長の職にあるという。

 林氏は、長年、女性問題に取り組み、『女性差別撤廃条約と私たち』などの著作もある。夫婦別姓制度導入にも熱心らしい。

 まさか委員長直々の情報提供だろうか?


▽3 さっそく反応した小林よしのり氏

 邪推はほどほどにしよう。問題は、男系男子による皇位継承制度と両性の平等に関する議論である。

 案の定、さっそく女帝容認論者が反応した。

 漫画家の小林よしのり氏は自身のブログで、「女性差別ではない」という安倍首相の主張は「無知ゆえの弁解」と一刀両断にしている。

 小林氏の「男系男子限定は女性差別に決まっている。日本の伝統でも何でもない」という批判は単純明快だが、冷静な検討を要する。

 小林氏はまず、明治の典憲体制づくりに深く関わった井上毅を引用している。

「井上毅が『男を尊び、女を卑しむの慣習、人民の脳髄を支配する我国において、女帝を立て皇婿を置くの不可なるは、多弁を費やすを要せざるべし』と主張して、女系論を潰した」というのである。

 これは私が理解するのと事実関係が異なる。

 明治の憲法制定作業に伴って、「不文の大法」とされた「皇位継承」が明文化されることになったとき、女系容認論も根強かったが、井上は猛反対し、反対意見書「?具意見」を書いた。

 反対意見書には井上の政敵であるはずの嚶鳴社の島田三郎と沼間守一の女帝反対論が引用され、女系継承否認の論拠とされた。

 小林氏のいうように「井上が主張」ではなくて、嚶鳴社の論客の主張ということではなかろうか。もし私に間違いがあるなら、「無知」だと切り捨てずに、ご指摘いただきたい。


▽4 女性差別なのか

 一般に、女帝問題には大きな誤解があると思う。

 歴史を顧みれば、8人10代の女性天皇が存在したことは多くの人は知っている。けれども、すべて独身または寡婦であって、皇配がおられる女性天皇、皇子を子育て中の女性天皇は日本の歴史には存在しない。

 女性が皇位を継承できなかったのではなく、夫や乳幼児のいる女性による皇位継承が認められなかったのである。

 それは直ちに女性差別というべきなのだろうか?

 明治の典範制定過程において、島田三郎は論じている。男女同権の時代に男系に固執するのは時代に反するという議論があるのに対して、島田は、日本の皇統史に存在する女帝と海外の女帝とは異なる。古来、日本の女帝は登極ののち、独身を保たれたが、道理人情にかなう制度ではない。採用すべきではない、と主張したのだが、これは女性差別であろうか?


▽5 戦後憲法が抱える矛盾か

 戦後の憲法では、明治の時代とは異なり、皇室典範は1法律という立場になった。そして、憲法の規定は「皇位は皇男子が継承」から「世襲」と変わったが、典範第1条は旧皇室典範と同様、男系男子による皇位継承を定めている。

 現行憲法は第24条で両性の本質的平等を定めているが、小林氏が主張するように、「男系男子限定は女性差別に決まっている」とすれば、憲法は最初から大きな矛盾を内部に抱えていることになるだろう。

 しかし、むろんそうではない。

 小嶋和司東北大学教授(憲法学。故人)が指摘しているように、およそ天皇制や皇位の世襲制は平等原則の例外であって、そもそも平等原則を持ち出すのは合理的ではないからだ。平等原則を第一に追求するのなら、憲法第一章は破棄されなければならないだろう。


▽6 茂木健一郎氏が指摘した「危険」

 その意味では、脳科学者の茂木健一郎氏が、Facebookで「皇室典範と、男女の平等は、関係ない」「論理的に独立」であり、「1つの認知的錯誤だと考える」と主張するのはまったく正しいと思う。

 しかし、茂木氏の主張が注目されるのはそこではない。茂木氏によれば、国連の動きに反発する日本人のなかにも「認知的錯誤」があるというのである。

 つまり、皇室典範擁護者には男女平等推進に消極的な人がいる。

「『皇室典範は人権などの普遍的価値とは無関係』であると特に言及せずに無視することであり、国連のあり方や国際的な情勢に対する反発に結びつけることは危険である」というのである。

 たしかに、そういう人たちはいるだろう。だから、誤解されるのである。

 けれども、もっと「危険」なのは、なぜ皇位が男系男子によって継承されてきたのか、を合理的に説明する努力を、保守派の人々が怠ってきたことではないのか?

 安倍首相は国会で、「今回のような事案が二度と発生しないよう、日本の歴史や文化について正しい認識を持つよう(各機関に)あらゆる機会を捉えて働きかけていく」と述べたが、「日本の歴史や文化」だけでは「差別の歴史や文化」と誤解されかねない。

 妻であり、母である女性天皇はなぜ認められないできたのか、を解明し、説明されるべきだと思う。そうでないと「認知的錯誤」は続くだろう。


▽7 明治人が女帝を否認した理由

 さて、小林氏がこう指摘している。

「(安倍首相は)今後、世界に『男系継承は女性差別ではない、日本の伝統だ』と説得して回るという。そんなことをしたら実は女系継承を認めるしか、皇室の弥栄はないと判明した時に、大変なことになる。日本は伝統を壊したと誤解されてしまう」

 つまり、皇統の危機を迎えて、男系男子継承に固執することは得策ではないし、逆効果だとの主張であろう。

 だとすると、明治人はまことに愚かな選択をしたことにならないか?

 小嶋教授が指摘したように、憲法草案起草当時、女帝認否問題は「火急の件」だった。明治天皇に皇男子はなく、皇族男子は遠系の4親王家にしかおられなかったからだ。しかも、4親王家の存続も問われていた。

 もし4親王家の皇族性が否認されれば、女帝を認めるほかはない。そこまでいかなくても、遠系男子と近系女子のいずれを選ぶのか、迫られていた。

 しかし結局、女帝は否認された。いや女帝が否認されたのではない。女系継承が容認されれば、王朝が交替し、万世一系の皇統が保てないと判断されたのだ。

 この明治人の判断は誤りだったのだろうか?


▽8 天皇とは何か

 そもそも天皇とは何をなさる方なのだろうか?

 首相を任命し、国会を召集するという国事行為をなさる方なのか。被災地に出かけ、国民と親しく交わり、励まされることだろうか。諸外国を訪問され、国際親善を深められることだろうか?

 もしそうだとしたら、皇族女子が皇位を継承しても、夫がいても、子育て中でも、べつに問題はないだろう。

 女帝が認められないとしたのは、天皇のお役目が別のところにあると考えられてきたからだろう。

 それなら、天皇のお務めとは何か、天皇とは何か、がいまこそ究明されるべきなのではないか?

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女系は「万世一系」を侵す───「神道思想家」葦津珍彦の女帝論 [女帝論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 女系は「万世一系」を侵す───「神道思想家」葦津珍彦の女帝論
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 この一週間、気になることが立て続けにおきました。

 1つは、天皇陛下の「私的なご旅行」です。あんずの花を観賞する目的とされます。ご静養のため、側近らが企画したと伝えられています。

 古来、「天皇に私なし」といわれます。古くは、「公」とは皇室を意味したと聞きます。「私的なご旅行」とはどういうことなのでしょうか?

 宮内庁の説明では、公式行事も慰問もない。随従の人数も抑制されている。昭和の時代にも行われたとされているようですが、公務員が随行していることに変わりはありません。「ご静養」との違いも明確ではありません。

 御公務がご多忙だから、という理由も十分ではないように思います。当メルマガが指摘してきたように、急務であるはずの御公務の軽減を阻んでいる最たるものは官僚社会のカベだからです。

 叙勲に伴う拝謁、離任大使のご引見、帰朝大使のお茶などは、宮内庁当局がもっとも気にしているはずなのに、軽減策が採られているようには見えません。なぜなのでしょうか?

 2つ目は、悠仁親王殿下の御入学です。宮内庁によると、入学式で「秋篠宮悠仁」と名前を呼ばれ、元気よくお返事された、とメディアは伝えていますが、宮号の誤用ではないでしょうか? 「秋篠宮」は父君文仁親王殿下の宮号であって、悠仁親王殿下の宮号ではありません。

 寛仁親王殿下は生前、「三笠宮寛仁親王」と呼ばれることにつねづね不快感を示されていたといわれますが、宮内庁は殿下の呼び方について、学校側と事前に交渉することはなかったのでしょうか?

 3つ目は、皇太子殿下のオランダ新国王即位式ご出席に関することです。「両殿下のご出席がまだ決まっていない。早く決めていただきたい」と宮内庁長官が定例記者会見で語ったというのです。

 記者の質問に答えたものと想像されますが、なぜ「只今検討中」としなかったのでしょうか? メディアを利用して皇族に圧力をかけるような言動は、宮内庁トップとしては相応しくありません。

 4つ目は「京都の未来を考える懇話会」が提唱する「双京構想」に関して、旧皇族の血筋を継ぐ講師が「天皇の玉座が存在するのは東京と京都だけだ。宮家の一つか二つが京都にお住まいになるのが本来の姿では」と賛同の意を示したと報道されています。

 マスメディアの報道ですから、実際にどのような発言なのかは正確には分かりませんが、「玉座が東京と京都にある」というのはどういうことなのでしょう? 即位礼に使用される高御座(たかみくら)が京都御所にあるから、皇族の一部が京都に住まわれるべきだというような議論なら、乱暴すぎないでしょうか?

 古来、天皇とは公正かつ無私なる祭り主であって、神勅を重んじ、天皇が神器とともにあって、祭りをなさるところが都(みやこ)のはずです。旧皇室祭祀令は、「大祭ニハ天皇皇族及官僚ヲ率ヰテ親ラ祭典ヲ行フ」と定めています。いまも、たとえば1月3日の元始祭にはすべての成年皇族が参列されますが、皇族方の一部が京都にうつられたとき、祭祀のたびに上京なされるということでしょうか?

 政治的色彩を帯びかねない、慎重を要するテーマです。旧皇族に連なる方が表立って行動されるのは差し控えられた方がいいのではないかと私は考えます。

 歴史的天皇のあり方がずいぶんと崩れていることがあらためて実感されます。憂うべき時代です。

 ということで、朝日新聞社が発行した月刊「論座」1998年12月号(特集「女性天皇への道」)に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。

 この記事は天皇・皇室問題について、私が書いた最初の記事です。

 月刊「正論」に連載した「朝日新聞と神道人」をお読みになった、当時の清水建宇「論座」編集長(いまはスペインのバルセロナで豆腐店を営んでおられるようです)が「会いたい」と連絡してこられ、「女性天皇の特集を組むので、神道人の女帝論を書いてほしい」と依頼してこられたのでした。

 当時の私は、知識も不十分で、書く自信はありません。「私の女帝論ではなく、葦津珍彦の女帝論なら」と答えると、「むしろ望むところです」と仰いました。特集には鈴木正幸神戸大学教授の論考も載るということでしたので、意識しながら書きました。

 その後、「論座」には何本か記事を書きました。「朝日本紙には本紙のスタンスがあるが、雑誌は別。載せるべき価値のある記事を載せる」という考えには共鳴できましたが、残念なことに休刊になりました。

 蛇足ながら、産経の「正論」と朝日の「論座」に記事が載るのは私ぐらいかと思います。事実を追求するジャーナリズムの価値を理解する編集者がいればこそ、です。



▽ 天皇は祭り主

 毎年10月下旬、皇室の祖神・天照大神(あまてらすおおかみ)をまつる伊勢の神宮で、伊勢の市民たちが「大祭り」と呼ぶ、一年でもっとも重要な神嘗祭(かんなめさい)が行われます。

 3日間にわたって、外宮(げくう)、内宮(ないくう)の順に、それぞれ夕刻と深夜の2回、今年、神田でとれた新穀の大御饌(おおみけ)が供えられます。最終日には、天皇が皇居内の水田で育てられた稲の初穂が、両宮の内玉垣に懸税(かけちから)として捧げられ、正午には天皇のお使いである勅使(ちょくし)が両宮に天皇からの幣帛(へいはく)を奉ります。

 皇居では、この日の午前、神嘉殿(しんかでん)南庇で天皇が神宮の方角に向かって遙拝(ようはい)になります。

 日本最古の歴史書である『日本書紀』は大神が保食神(うけもちのかみ)から五穀の種子を与えられたと書いていますが、神嘗祭の起源はこの神話にあるといわれます。また、第11代垂仁(すいにん)天皇の時代に皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢国を巡幸されたおり、鶴がくわえていた霊稲を大神に捧げたのが神嘗祭の始まり、とも伝えられます。

 神宮の祭りは天皇の祭りであり、稲の祭りなのです。

 神嘗祭からほぼ一月後、全国津々浦々にまで稲穂が成熟するころ、今度は宮中神嘉殿で皇室第一の重儀である新嘗祭(にいなめさい)が行われます。

 11月23日の夕刻から深夜(翌日)にかけて、2回、陛下がお育てになった稲と、各県から献上された米と粟の新穀の御饌と御酒(みけ)が、皇祖神以下天神地祇に捧げられ、御自身も召し上がります。また当日、天皇は伊勢の神宮に勅使を遣わされ、両宮に奉幣(ほうべい)されるほか、全国の神社でやはり新嘗の祭りが行われます。

『日本書紀』は天孫降臨に際し、大神が「高天原(たかまがはら)にある斎庭(ゆにわ)の穂をわが子に与えなさい」と命じられたと記述しています。天孫降臨はわが国の稲作の始まりでもありますが、新嘗祭は斎庭の稲穂の神勅に基づいた国家と国民の統合を象徴する食儀礼とされます(八束清貫〈やつか・きよつら〉『祭日祝日謹話』、阪本廣太郎『神宮祭祀概説』など)。

 天皇の祭りと神宮を中心とする神社の祭りは深く結びついています。天皇は祭り主であり、祈る王です。いまは亡き昭和天皇は病魔との最後の苦闘のなかで、宮内庁長官を呼んで「今年の稲はどうか」と聞かれ、作柄を心配されたといいます。最期の最期まで、「国安らかに、民安かれ」と祈り続けるお務めを果たされたということでしょうか。


▽ 皇位継承資格者は6人おられるが

 さて、いまその皇室に、重大な危機が訪れているといわれます。皇太子殿下の次の代の皇位継承者の候補がおられないのです。

 皇位の継承などについて定めた法律である「皇室典範」によれば、皇位継承資格者は皇太子以下、桂宮親王まで、6人おられますが、その次の代がおられません。

 皇太子殿下と雅子妃殿下の間には男のお子様がお生まれにならず、各親王家も女子ばかりで、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定める現行の皇室典範からすると、継承者が絶えてしまいかねないと主張されています。

 この危機を打開するには、法改正によって女子にも継承権を認め、「女帝」を認めるほか道はない、と公然と主張する人もいます。数年前の自民党総裁選では、公開討論で、「女性が天皇になるのは悪くない。皇室典範はいつ改正してもいい。必ずしも男子直系にはこだわらない」との意見が飛び出しました。

 また、平成10年春に行われた共同通信社とその加盟社による世論調査では、「女子が天皇になってもよい」とする回答者が49.7%(前回の平成4年は32.5%)にのぼり、「男子に限るべきだ」の30.6%(前回は46.8%)を上回り、順位が逆転しました。その背景には、「女性の社会進出や男女の雇用機会均等化」という時代の流れが指摘されています。

 皇位継承の根幹に関わる「女帝容認論」に対して、人一倍、敬神尊皇の念が強いと思われる神道人はどう考えるのでしょうか。「神道の社会的防衛者」を自認し、「戦後唯一の神道思想家」といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)の論に耳を傾けてみましょう。


▽ 戦後唯一の神道思想家

 その前に葦津の略歴を見てみましょう。

 葦津は明治42(1909)年、福岡・筥崎宮(はこざきぐう)の社家の家系に生まれました。

 父・耕次郎は熱烈な信仰家でしたが、神職として一生を送らずに事業家となり、満州軍閥の張作霖(ちょうさくりん)を説いて鉱山業を興し、あるいは工務店経営者となり、全国数百カ所の社寺を建設しました。一方で、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく天照大神をまつることに強く抵抗し、韓国併合には猛反対、日華事変(日中戦争)勃発以後は日本軍占領地内の中国難民救済のために奔走しました。

 珍彦はその長男で、はじめは左翼的青年でしたが、父の姿を見て回心し、戦前は神社建築に携わる一方、俗に「右翼の総帥」といわれる玄洋社の頭山満、当時随一といわれた神道思想家の今泉定助、朝日新聞主筆でのちに自由党総裁となる緒方竹虎などと交わり、中国大陸での日本軍の行動や東条内閣の思想統制政策などを強烈に批判しました。

 敗戦を機に、「皇朝防衛、神社護持」への献身を決意し、神社本庁の設立、剣璽(けんじ)御動座復古、元号法制定などに中心的役割を果たしました。昭和天皇が極東裁判に出廷する事態になれば特別弁護を買って出ようと準備していた、といわれます。

 昭和36年末の「思想の科学」事件の渦中の人でもあります。著作は『神道的日本民族論』『神国の民の心』『国家神道とは何だったのか』など50冊を超えます。一介の野人を貫いて、平成4年春、82歳でこの世を去りました。

 昭和29年暮れに発行された『天皇・神道・憲法』という本があります。葦津が書いた「はしがき」によれぱ、葦津が主筆をつとめる神社新報社の政教研究室で、この年の春から青年たちと憲法問題について自由に討議した私的な報告書とされます。討論の中心にいたのはもちろん葦津です。


▽ 断じて承認しがたい

「皇位継承法」についての1章では、次のような批判が展開されています。

 戦後、憲法学者の間でわき起こった女帝容認論に対して、皇室の「万世一系」とは「男系子孫一系」の意味であることは論をまたないとし、女系の子孫(男子であれ、女子であれ)に皇位が継承されるとすれば、それは「万世一系の根本的改革」を意味し、断じて承認しがたい、といいきっています。

 しかも、明治の皇室典範は帝国憲法と相併立し、憲法と対等の権威を有する重い法典であったのに対して、日本国憲法下の皇室典範は国会がいつでも改廃し得る一般の法律と同様のものに過ぎなくなった。国史のなかで重要な位置を占めてきた皇位継承は、厳格に固守されるべきであって、一時的な政党や党派の消長や学説の推移によって軽々に動揺させるべきではない。現行憲法は「皇位の世襲」を規定しているだけで、女系を認めるという根本的改革でさえ国会の多数決で可能になったのは「軽率のそしりを免れぬ」と強く批判しています。

 20数年後の昭和52年、明治神宮は御鎮座60年祭を前にして、「大日本帝国憲法制定史調査会」(会長・伊達巽宮司)を発足させました。帝国憲法は、祭神の明治天皇が治世中に皇祖皇宗の遺訓を体して欽定された、日本で初めての成文憲法であり、明治維新の大業を法的に総括した記念碑、と位置づけ、その制定史を編纂発行するために、原案執筆者として調査会が一致して委嘱したのが葦津でした。

 900ページ近い大作『大日本帝国憲法制定史』は主観が抑制された重厚な学術的論文となっています。旧知の憲法学者で、調査会の委員長を務めた京都大学名誉教授・大石義雄が原案すべてに目を通し、脱稿されたと聞きます。

 稲田正次の先駆的な業績『明治憲法制定史』は別にして、小嶋和司の本格的な研究『憲法論集』がまとまって刊行される前に、憲法研究の専門家ではない神道人による帝国憲法制定史が発表されたことは高く評価されていいでしょう。


▽ 「万世一系」に抵触する

『制定史』は前半の「大日本帝国憲法制定史」と後半の「皇室典範制定史」の2部構成になっています。以下、女帝問題に関連のある部分を拾っていくことにします。

 明治8年4月、明治天皇は元老院を設けて国憲を草することを詔(みことのり)されました。憲法典作成とともに、それまで「不文の大法」とされた「皇位継承」の重大事が憲法上の明文をもって示される必要があるという議論が起こります。

 一般には「皇室典範」の立法が考えられるようになったのは明治14年の岩倉具視の「憲法綱領」以後といわれますが、「皇位継承」の条文作成の準備は元老院の「国憲案」に始まっている、と『制定史』は理解しています。

 また、国憲起案の勅語には「海外各国の成法」をも参考にすべきことが示されており、皇位継承についてはオランダ憲法などの法理が参考にされました。最終案で論争となる元老院の「女統女帝」肯定論が準拠したのは、国憲案作成過程でまとめられた日本史の「皇位継承篇」ではなく、イギリス流のオランダ憲法であると推察してほぼ間違いあるまい、と推測しています。

 元老院の国憲案は男系男子の継承を原則とし、嫡出優先主義に立ちつつ、「もしやむことを得ざるときは」として女統継承を認めました。

 しかし、この案は元老院で正式に決議したものではなく、多くの異論があり、とくに女統継承に対して、東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)以下が削除を要求しました。仁孝天皇の皇女和宮将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁したように、皇女といえども姓が変わり、王氏、王族ではなくなる。「万世一系の皇統」に抵触する、というのがその理由でした。

 結局、元老院案は立憲を尚早とする岩倉具視らによって葬られます。


▽ 井上毅の反対

 明治14年の政変後、国会開設、憲法制定の勅諭が渙発(かんぱつ)され、在野でも憲法試案作成の機運が生じます。皇室典範起草者のなかには女統女帝説に固執するものがあったようだが、井上毅が強く反対します。

 井上の後年の反対意見書には、反政府政党人で、政敵でもある嚶鳴社(おうめいしゃ)の島田三郎の7、8年も前の「女統女帝を否とするの説」が掲げられ、全面的同意を示しているのは注目されるとし、『制定史』は井上意見書「謹具意見」の冒頭部分をそっくり引用しています。

 女帝容認論はヨーロッパの女系相続と日本史上の女帝とを混同しているというのが井上の論だが、島田は皇位は男系に限るとしたうえで、予想されるふたつの反対論(女帝容認論)に対して反駁を加えています。

 第一は、「歴史上に女帝が存在するのにいなさら男統に慣習を破壊することだ」とする反対論で、島田では「この論は古来の女帝即位の実態がまるで今日とは異なることを理解していないといわざるを得ない」と批判します。

 歴史上の女帝は推古天皇から後桜町天皇まで8人、10代だが、このうち独身のまま皇位を継承されたのは孝謙以下4帝だけで、そのほかはいったん結婚されています。しかも大位に就いたのち皇太子を立て、時を待って譲位することを前提としています。天皇というよりは「摂位」に近いといわれます。

 独身で帝位に登られたのは元正帝、孝謙帝と続くが、元正天皇の時代には首(おびと)皇子があり、孝謙帝のときは皇太子に道祖(ふなど)王、大炊(おおい)王がおかれました。近世には父後水尾帝の譲位でわずか7歳で皇位を継いだ明正帝がおられますが、皇太子はおられません。これが唯一の例外で、後桜町帝は幼少の英仁(ひでひと)親王が成長するまでの皇位でした。


▽ 外国の女王とは異なる

 第二の女帝容認論は、「男女同権の時代に男女が等しく皇位を継承するようになるのは各国共通で、日本だけ男系に固執するのは時代に反する」というものです。しかし、古来、わが国に存在する女帝と外国の今日の女帝とが同じでないことを見るべきである、と島田は反論します。

 女帝を立て、しかも独身を保たれるのは天理人情に反する。また、皇婿を立てるにしても、海外から皇親を迎えることはできないであろうし、国内に皇婿を求めるとすれば、臣民にして至尊に配することは皇帝の尊厳を害することになる。男女同権といっても、政治は時世や人情に左右されるべきではない。わが国の現状は男尊女卑であり、皇婿を立てれば女帝の上に一の尊位を占める人があるかのような誤解を招く。皇婿が間接的に政治に干渉する弊害も生まれかねない。

 古来、わが国の女帝は登極ののち、独身を守り、至尊の地位を保ったため威徳を損なうことがなかったが、これは道理人情にかなう制度ではなく、今日、採用すべきではない。

 以上が、わが国では、たとえ遠い皇親であっても男統に限って皇位を継承することとし、いたずらに近きにとって女帝を立つべきではないとする理由である──というのが島田の論です。

 井上意見書はこのあと同じく嚶鳴社の沼間守一(ぬま・もりかず)による女帝反対論が続き、そのうえで井上は、イギリスでは女帝が継承すれば王朝が変わる。ヨーロッパの女系説を採用すれば「姓」が変わることを承認しなければならない。もっとも恐るべきことである。皇位継承は祖宗の大憲がある。けっして女系異姓の即位を認めるような欧州の制度をまねるべきではない。また、欧州においても、サリカ法の国は女子が王位に就くことを認めていない。婦女に選挙権を認めないで最高政権を握ることを許すことは矛盾である──と反対論を展開しているのですが、『制定史』は議論の重複と考えてか、これらを省略しています。

 憲法制定、国会開設の勅諭に従い、明治政府は制憲の準備を急いもぎました。明治15年には岩倉具視の権限に基づいて大方針の原則が立てられ、憲法と皇室の憲則(のちの皇室典範)が分離して立案されることになります。

▽ 男統の絶えない制度を

 明治18年の歳末にはじめて内閣制度が成立し、翌年正月から憲政準備が進みます。指導に当たったのは伊藤博文首相兼宮内大臣です。井上毅が明治19年から帝国憲法の起案を始めたことは知られていますが、相前後して皇室典範の試案も作成されました。

「皇室典範」の最初の試案と目される「皇室制規」は皇位継承を主たる内容とし、元老院の国憲案と同じく、男統男子の皇位継承者なきときは皇女に伝え、皇女なきときは皇族中のほかの女系に伝える、という明文があります。

 日本の皇統史に例のない法であり、日本人の皇統に対する君臣の意識を根底から混乱させるものがあるにもかかわらず、しかも元老院国憲案のときから反対のあった女帝説が根強く残っていたのはなぜか、と『制定史』の著者は問いかけ、女統継承論者も男統の優先順位は認めるが、法理を抽象的に考えて、男統がまったく絶えたとき、女統が存在するとすれば女統でも存在した方がいいではないか、と考えている。この論を強めたのには外国法の影響が見逃し得ない──と指摘します。

「皇室制規」は女帝を容認する一方、「皇族庶出の子」を排除している。しかも、「親王、諸王の二男以下」の臣籍降下を急ぐかのような思想が垣間見える。これでは、男統の断絶も架空の論とすることはできない。これは容易ならざる大事である。女統継承論を掲げ、伝統的な日本人の君臣の意識を動揺させるよりも、まず男統の絶えない制度を優先的に慎重に考えるべきではないか──と『制定史』は主張するのです。

 伊藤博文、井上毅など多数の強力な反対があって、女統女帝の皇位継承肯定説はこの「皇室制規」を最後にまったく消え去ったかに見えます。「帝室法則綱要修正案」では、皇位継承は男統男子に限る、と明記され、明治19年後半から始まる柳原前光(やなぎわら・さきみつ)による本格的な起案では、女統論はまったく顧みられなくなる。大宝令以来の古法古制が詳細に検討・採用され、伊藤宮相に提出された柳原案の最終稿「皇室典範再稿」は、第二条で「皇位は男系の男子これを継承す」と定めている。

 柳原案がさらに修正削除推敲された「皇室典範諮詢(しじゅん)案」では、第一章「皇位継承」第一条で、「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子これを継承す」となっている。諮詢案は明治21年5月から枢密院会議で、明治天皇の御前で審議されたが、第一章「皇位継承」に関しては、議論らしい議論はなかった。明治22年2月11日、純白の雪に清められた皇居で、明治天皇は皇祖皇宗の神前で皇室典範ならびに帝国憲法制定のよしを奉告され、全国の神宮神社で国家の大事が奉告された──と『制定史』は書いています。


▽ ほんとうの危機とは何か

『制定史』から10年後、晩年の葦津が草案をまとめた昭和62年発行の皇室法研究会編『共同研究現行皇室法の批判的研究』では、「女帝の認否」についてこう言い切っています。「われわれは、女帝は国史に前例があっても、これを認める必要がないと確信している」。

 その理由については、「明治神宮編『大日本帝国憲法制定史』中の論と重複するので略す」とあるだけで、ほかにはいっさい言及されていません。明治の制憲過程において議論は十分に尽くされているということでしょうか。あるいは、議論の余地のない神武以来の「祖宗の遺範」だということなのでしょうか。

 葦津の論でもっとも重要なことは、天皇は万世一系の祭り主であるという一点に尽きるでしょう。女帝は認められないとする結論は、そこから必然的に導かれています。ただ、万策尽きた場合に、それでも皇統の連続性を保つための女帝をも、葦津が頑迷固陋(がんめいころう)に否定し去っていたのかどうか、は分かりません。

 しかしながら、ここまでは法制度論です。法制度をいくら議論したところで目前の「危機」は消えません。危機とは何でしょうか。それは、皇位を継承する資格者がおられない、という「危機」ではない、と葦津ならば論じるのではないでしょうか。

 ほんとうの危機とは、「女性の社会進出」というような表層的ともいうべき時代状況に幻惑され、あるいは外国の例を引き、悠久なる皇室の神聖と固有の伝統が侵されることの「危機」なのでしょう。


▽ 天皇の本質

 葦津はくりかえし強調します。天皇は世界に類(たぐい)まれなる公正無私を第一義とする祭り主です。祭りこそが天皇第一のお務めであり、祭りをなさることが同時に国の統治者であることを意味しています。

 明治時代に廃れてしまいましたが、それまで千年にわたって続いた「さば」とよばれる宮中行事があります。天皇は毎食ごとに食膳でかたわらの皿に一品ずつ料理をお分かちになり、そのあとはじめて召し上がりました。皇祖の神意を重んじて、「わが知ろしめす国に飢えた民が一人あっても申し訳ない」と祈る思いで、名もない民草のためにこの行事を淡々と続けられたのです。

 ここに祭り主たる天皇の本質がうかがえます。

 平成7年の阪神大震災のとき、ワシントン・ポスト紙は、今上天皇が被災者を見舞われたことを大きく取り上げ、村山首相が震災2日後に被災地を訪れたときに「あざけりと不平に迎えられた」のとは対照的に、「あたたかい気持ちが芽生えた」と書きました。

 天皇には「民の声を聞き」「民の心を知る」王者の伝統がある、と葦津はいいます。悲しみや憂いを共有され、「民安かれ」と祈られるのが天皇であり、今上天皇は万世一系の伝統に従って、祭り主の大任を果たしておられるということでしょうか。

 天皇統治の神話的起源は天照大神に求められるが、大神は全知全能の無謬なる神ではありません。神話では唯一絶対神にはほど遠く、むしろ弱々しくさえ見える大神を、至高至貴なる皇祖神として信奉されるところに、天皇の高雅の清風が生じる、と葦津はいいます。

 天皇統治は「知らす」(民意を知って統合を図ること)であって、「うしはく」(権力支配)ではないというのです。帝国憲法が規定する「天皇統治」は「知らす」の意味でした。唯一絶対神に支配の根拠をおくヨーロッパの王制との違いは明らかですが、現代人には分かりづらいものとなっているのでしょう。


▽ 「一君万民」の祈り

 天皇が祈る王なら、国民もまた皇室の弥栄(いやさか)と国家の繁栄とを祈らねばならないでしょう。新しい生命が生まれる根底には神霊の働きがあり、皇嗣の誕生は皇祖神の神意に導かれます。危機は「一君万民」の祈りによって克服される。葦津ならば、そう論じたのではないでしょうか。

 しかし、葦津亡き後、皇室の神聖と高貴なる伝統の保持のために、一日も早い皇嗣の誕生を願って、国民的な真摯な祈りを呼びかけるような精神的指導者はいるのでしょうか。(文中敬称略)
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参考にならないヨーロッパの「女帝論議」──女王・女系継承容認の前提が異なる [女帝論]

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参考にならないヨーロッパの「女帝論議」
──女王・女系継承容認の前提が異なる
(「神社新報」平成18年12月18日号から)
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 スペイン王室は(平成18年)11月末、レティシア王太子妃が来春に出産する予定の第2子が「女子である」と発表しました。もし男子なら、「男子優先」を定める憲法の規定により、第1子のレオノール王女の王位継承権を「飛び越す」ことになるため、懐妊発表後から女帝論議が白熱化していた。そこで論議の加熱を防ぐため、誕生前の性別発表に踏み切った、と伝えられます。

 新聞報道によると、世界中で女帝容認論議が起きていて、まるで女帝容認・女系継承容認が世界的な当然の流れであるかのように見え、ひるがえって日本の女帝容認を促す思惑さえ感じられます。

 しかし王位継承はそれぞれ各国固有の歴史・伝統と不可分な個性があって、その違いを見定めずに表面的事実を伝える報道は公正ではありません。結論からいえば、ヨーロッパの女帝論議は日本にとって参考になるとは限りません。女子およびその子孫に王位継承を認めてきた前提、あるいは認めるようになった前提が日本の皇室の歴史・伝統と相容れないからです。


▢ 父母の同等婚

 ヨーロッパの王室の歴史をひもとくと、古来、女王容認かつ男子優先の継承制度を採用してきた国ともっぱら男子の継承を固守している国の二つのタイプがあります。

 イギリスやスペインは前者に属しますが、女子に継承する場合には、二つの大原則があります。すなわち父母の同等婚と王朝の交代です。

 たとえば、イギリスでは20世紀初頭、ヴィクトリア女王のあと長男のエドワード7世が即位しました。このとき18世紀から続くハノーヴァー朝は幕を閉じ、女王の王配(配偶者)であるザクセン=コーブルク=ゴータ家のアルバート公にちなみ、ハノーヴァー=サクス・コバータ・ゴータ朝に王朝は交替しました。

 このように王朝を交替しながらも、女系子孫に王位を継承していくことを可能にしているのは、父母がともに王族だからです。つまり女系継承というよりも新たな父系継承の始まりです。

 ここが日本の皇室とは決定的に異なります。

 日本は父母の同等婚を要求しないかわりに、父系の皇族性を厳格に求めてきました。歴史上の女帝は皇太子の存在を前提とし、寡婦または独身を貫かれ、その子孫に皇位が継承されることはありませんでした。

 天皇は万世一系の祭り主で、悠久なる古代から永遠の未来へ続く生命観が信じられてきました。一方、ヨーロッパの王室は地上の支配者です。複数の王族を前提とする継承制度は参考になりようがありません。

 スペインの事例はさらに参考にできません。

 イギリスと同様、女子の継承が伝統的に認められてきたこの国は、いま男子優先を改め、男女同等の王位継承制度への移行が論議されています。それが日本にとって参考にならないのは、イギリスのように同等婚と王朝交替の原則を前提としていることに加えて、20世紀にスペイン王室が経験した波乱の歴史に伴って、王位継承の原則がいまや崩れているからです。

 現国王ファン・カルロス1世の祖父アルフォンソ13世は第2王制の国王でしたが、第一次世界大戦後の混乱のなかで1931年に退位し、王家一族はローマに亡命しました。スペインは共和制、内戦を経て、39年にはフランコ独裁政権が成立します。

 13世の死の直前、王位継承権は3男のバルセロナ伯爵ファン王に譲られました。ファン王の子として生まれたファン・カルロスは第二次大戦後、スペインに帰国し、フランコの庇護を受けました。

 75年にフランコが死去すると、その遺言に従って即位し、王制が復活しましたが、国王はフランコ体制を継承することはなく、民主化を進め、77年に41年ぶりの総選挙が実施され、翌年には新憲法が制定され、立憲君主制が布かれました。

 78年憲法では、王位はブルボン家カルロス1世の後継者が世襲すると明記され、長子相続、代襲相続、男子優先の原則が定められています。フランコ時代の国家元首継承法は女子の継承権を認めませんでしたが、78年憲法は「男子が女子に優先する」と規定し、女子の継承容認を明記しています。

 それは女王容認に踏み出したのではなく、伝統への回帰といえますが、女系継承の前提である同等婚原則はその後、崩れようとしています。

 つまりスペイン第2王制最後の王アルフォンソ13世の王妃はイギリス・ヴィクトリア女王の孫娘で、現国王ファン・カルロス1世の王妃はギリシャ王パウロス1世の王女。けれどもレティシア王太子妃はテレビキャスター出身であり、王族ではありません。

 スペインのマスコミは男子優先主義の見直しを話題にしています。王太子妃が昨年(2005)10月に長女レオノール王女を出産したときも、今年9月に妊娠が発表されたときも、女帝論議が沸騰し、政権与党の社会労働党は「男女平等」の観点から性別に関係なく、第1子に王位を継承する憲法改正を優先課題に取り上げています。

 しかし同等婚原則が崩れたままに、王位が王女からその子孫へと継承されるなら、王位継承の根本的変革になることは間違いありません。歴史と伝統を重視する立場としては、参考にしようがありません。


▢ 選挙君主制

 ヨーロッパの女帝論議が日本の参考にならないのは、もう一つの理由があります。ヨーロッパの王制改革には国民の意思が強く働いています。それは日本とは異なり、国民が継承者を決める独自の伝統が底流にあるからです。

 イギリスやスペインとは異なり、北欧では王位の男子継承が長い間、固守されてきました。女子の継承が認められたのは20世紀後半であって、一般には民主主義が成熟した結果と見られています。けれどもそれだけではありません。

 たとえば前世紀、最初に女子の王位継承容認に踏み切ったスウェーデンでは、世襲的絶対王制が成立する16世紀以前、自由民が前国王の王子のなかから新国王を選挙で選ぶ「選挙君主制」が定着していました。

 その長い伝統の上に立って、国民みずからの意思により、女子の継承を容認する王制改革が敢行され、75年の統治法典および王位継承法の改正で女子の継承が認められ、さらに79年の王位継承法改正で男女にかかわらず第一子が継承すると改められたのです。

 これは伝統を脱ぎ捨てたのではなく、伝統に従ったのです。

 その後塵を拝して、オランダは83年に、ノルウェーは90年に、ベルギーは91年に憲法を改正し、男女同等の継承制度へと移行しました。

 しかし日本には選挙君主制の伝統はありません。皇位は皇祖神の神意に基づき、御代替わりを重ねつつ、地上に蘇り、継承されると信じられてきたのであり、皇位の継承は本来、国民が口を差しはさむべきことではありません。

 ヨーロッパの女帝論議が参考にならないのは明らかです。(参考文献=『小嶋和司憲法論集2』、参議院憲法調査会事務局編「君主制に関する主要国の制度」、下條芳明『象徴君主制憲法の二十世紀的展開』など)

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参考にならないスペインの女帝論議 [女帝論]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成18年11月29日水曜日)からの転載です

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 朝日新聞が伝えるところによると、スペイン王室はレテイシア皇太子妃が来春に出産される予定の第2子が「女児である」と発表しました。

 もし第2子が男子だった場合、第1子のレオノール王女の王位継承権を飛び越すことになるため、9月の懐妊発表後から女帝論議が活発していた。論議の加熱を防ぐため、今回の性別発表に踏み切った、と記事は伝えています。
http://www.asahi.com/international/update/1128/021.html

 記事を読むと、世界のどこの王室でも、日本と同じような女帝論議が起きているように見えますが、同じような議論と簡単に考えるのは危険です。それぞれの国にはそれぞれ固有の歴史があり、王位継承はその固有の歴史と不可分だからです。単純に一般化するわけにはいかないのです。参考にする場合は、その違いを明確に認識する必要があります。

 ヨーロッパの王室が女子の継承を容認しているのは、父母の同等婚が前提となっているからです。ヨーロッパでは国王もその配偶者も王族であることが継承の資格とされてきました。しかし日本の皇室は、父母の同等婚を要求しないかわりに、父系の皇族性を厳格に求めてきたのです。

 このため、ヨーロッパの王室では、ひとつの王統が途絶えれば、王権は女系の王統に移行することが認められました。そしてその場合は王朝の名前も代わりました。しかし父系にのみ皇族性を要求する日本の場合は、女子の皇位継承を認めた場合にも、配偶者の存在を認めず、女系子孫の皇族身分も認めませんでした。もし女系子孫の皇位継承、いわゆる女系天皇を容認するということは、歴史的に認められてきた皇位継承資格というものを根本的に変革することになるでしょう。

 したがってヨーロッパの事例がまったく参考にはならないのです。この記事のように、制度上の違いを蔑ろにして、単純に報道することは、正確な事実報道とはいえず、逆に読者の誤解を招くことになります。

 その点、もうひとつ強調しなければならないのは、天皇の皇位継承は本来、国民が口をはさむべきことではないということです。

 前世紀、ヨーロッパの王室で最初に最初に女子の王位継承容認に踏み切ったのはスウェーデンですが、その背景にはこの国の「選挙君主制」の伝統があります。世襲的絶対王制が成立する16世紀以前、自由民が前国王の王子のなかから新国王を選挙で選ぶ制度がスウェーデンでは定着していたのでした。国民の意思による王制改革はその伝統に基づくものといえます。

 皇位典範を「皇家の家法」としてきた日本は、このようなヨーロッパの事例を模倣する必要はまったくありません。

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伝統主義者たちの女性天皇論──危機感と歴史のはざまで分かれる見解 [女帝論]

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伝統主義者たちの女性天皇論
──危機感と歴史のはざまで分かれる見解
(「論座」平成16年10月号から)
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▢ 報道されなかった意見陳述

 今年(2004年)5月、衆院憲法調査会は「天皇」をテーマに、参考人の意見陳述と質疑、自由討議を行いました。新聞各紙は「女性天皇容認論相次ぐ」などの見出しで、参考人や出席議員から

「早く皇室典範を改正して、女性天皇を認めるべきだ」

 との容認論が相次いだ、と報じました。参考人の笹川紀勝・国際基督教大学教授は

「女性天皇容認は平等原則の拡大につながる」

 と指摘し、園部逸夫・元最高裁判事は

「女性天皇を容認していくべきだ」

 と強調したといいます。

 同調査会が「天皇」について議論したのはこの日が初めてでした。外国御訪問を前に皇太子殿下が

「それまでの雅子(妃殿下)のキャリアや人格を否定するような動きがあったことも事実です」

 との異例の発言をされ、衝撃が走った直後でもあり、少なからぬ関心が集まりましたが、新聞報道は調査会の議論をどこまで正確に伝えたのでしょうか。

 参考人として招かれたのはじつは2人ではなく3人であり、もう1人、民主党の推薦で招致された近代神道史の研究者、国学院大学教授の阪本是丸氏が歴史と伝統を重視する立場から、ひと味違う慎重論を述べたのですが、そのことを報道した一般紙は見当たりませんでした。

 阪本氏はこのとき、概要、次のように語りました。

「日本国民は天皇の存在を所与のものとして、歴史的、文化的あるいは政治的背景として確認してきた。天皇の地位あるいは権威の源泉は、皇室祭祀が古来一貫して続いているということにある。皇室祭祀の制度的、法的位置づけはどうあるべきか、皇室関係法の見直しも含めて、天皇条項を総合的かつ慎重に調査していただかなければならないとご提言申し上げる」

 意見陳述のあと、公明党議員から「女性天皇の継承」の是非について質問されると、阪本氏は

「言論は自由だが、まったく個人的な意見をいえば、そのようなことが、皇太子様や皇族の方々、ひいては天皇・皇后両陛下のお悩みをむしろ増すことになりはしまいかと考えている。仮定の問題として考えるところもあるが、法改正の具体案などについて、いま申し上げる立場になく、回答は差し控えさせていただきたい」

 と述べ、あくまで慎重さをつらぬく1つの見識を示しました。

 神道学者が国会で意見を述べることは滅多にありません。皇太子妃殿下の御懐妊、愛子内親王殿下の御生誕、さらに妃殿下の御不調という流れの中にあって、マスコミ先行で盛り上がりムードを見せる女性天皇容認論に対して、性急さと軽々しさを憂える伝統擁護派の懸念が語られるのも初めてですが、その声は議員や報道陣の耳にどこまで届いたのでしょうか。


▢ 加速する女帝容認論

 女性天皇容認論はむしろ伝統擁護派の間で加速しています。もっとも積極的な容認論を展開しているのは拓殖大学客員教授・高森明勅氏です。雑誌「正論」7月号(2004年)の論攷「改めて問う、『女帝』は是か非か」では、「男系」主義に代わる「双系」主義を打ち出し、9月号の「男系主義の伝統を超えて──わが皇室典範改正論」では具体的法改正を提案しています。

 積極論の背景にあるのは、

「皇太子殿下の次の世代の皇位継承候補者が1人もおられない。宮家を継承すべき方もおられない。このままではいずれ天皇という地位が失われ、皇室という存在そのものも消滅してしまう」

 とする「皇統断絶」に対する強い危機感です。高森氏はその認識に立って、危機打開にはどうすればいいのか、と問いかけ、男系主義から双系主義への転換、いや歴史的復帰を主張します。古代史研究者の高森氏は、皇統史の転換ではなく、古代への回帰による打開策を模索しようとしています。

「皇室典範」は皇位継承資格者を「皇統に属する男系の男子」と限定している。女帝を認めるように法改正すればいいという考えもあるが、これまでの皇位継承は例外なく「男系」による継承であった。過去十代八方の女帝はすべて「男系」の女子であり、女帝の系統で即位された例はない。この事実は十分に尊重されなければならない──と天皇の歴史と伝統を正しく見つめつつも、

「いつまでも拘泥していては皇位継承そのものが不可能になりかねない局面が目に見える近さに迫りつつある」

 として法改正を訴えています。

 男系主義の制度的限界も指摘されています。

「これまで男系継承を可能にしてきた最大の条件は庶系継承であろう。だが、いまやその選択肢はほぼ消え去った。現行典範では庶系継承は否認されている。皇室のお考えとしても、国民感情の面でも、この選択肢はしばらくあり得ないだろう。したがって男系主義を維持することがきわめて困難な局面に立ち入ることは火を見るよりも明らかだ」

 そもそもなぜ、これまでは男系主義が貫かれてきたのか。なぜ女系は排除されてきたのか、と高森氏は歴史を振り返り、「古代シナの族の観念」の影響と見ます。

「男系主義維持の理由は案外簡単で、『姓』が男系によって受け継がれてきたからにほかならない。父系によって継承される『姓』の観念を前提とするかぎり、男系の断絶はそのまま皇統の断絶と考えられたはずで、その条件下では女系継承の可能性など夢想だにできなかったに違いない。

 そうした観念は、直接には大化元年の『男女の法』に淵源があるだろうとされているが、それ以前に父系的な親族構造が首長層に広まっていたようだ。その動きを引き起こしたのは、古代シナの『族』の観念の影響によることは明らかだろう。シナの伝統的考え方では、生命(気)は父からその息子たちに伝わっていくものとされた」

 しかしいまや男系主義を墨守する理由はなくなった、と高森氏は主張します。

「明治4年に政府は公文書に姓を用いることを停止せしめた。制度上、父系によって継承されるウジの名としての姓は否定され、『姓』の観念は社会的な影響力をまったく失った。『姓』の歴史はすでに幕を下ろしたのであり、男系主義を何としても守り抜かなければならない必要性は大きく後退したのではあるまいか」

 というのです。

 このように高森氏は歴史の再検討から、「双系主義」採用に危機打開の糸口を見出そうとします。

「皇位継承にとって本質的な条件は、皇統に属する方によって皇位が受け継がれるという一点である。『皇統』こそ最大の条件にほかならない。皇統には男系のほかに女系も含まれ得る。男系主義を見直すことも、皇統の伝統に照らして絶対に許されないことではない。しかし、直ちに女系主義への転換を図るべきかは微妙だ。『女系』という観念がいささか曖昧だからだ。

 そこで『双系主義』という考え方が必要ではないか。それこそシナ流の父系継承観が伝わる以前の日本列島の基層的な血縁原理であったのであろう。男系主義の原理的な行き詰まりがはっきりと浮上しているのであるから、場合によっては女系による継承も可能となる双系主義的な方向性を目指すべきではあるまいか」

 古代の双系主義に帰るべきではないか、という論は筋が通っています。けれども、古代日本社会に双系主義があり、中国思想の影響で男系主義に変更されたという高森説の前提はどこまで正しいのでしょうか。

 古代の双系主義が認められるとして、天皇制度は歴史の所産であり、制度の確立後、長きにわたって男系主義が維持されてきた事実は重いでしょう。庶系が認められていた時代でさえ、皇位継承は「綱渡り」でしたが、それにもかかわらず、男系継承が固守されたのはなぜでしょうか。男系による血のつながりで、何が重視されてきたのでしょう。

 高森氏は、男系維持のための努力と双系主義の採用とは二律背反的ではないのいうのですが、女性天皇容認、女系天皇容認に突き進む前に、探究されるべき歴史の課題はまだありそうです。


▢ 孤軍奮闘の女帝否認論

 勢いを増す女帝容認論に異議を唱え、ほとんど孤軍奮闘しているのが、高崎経済大学助教授の八木秀次氏です。雑誌「Voice」9月号の「女性天皇容認論を排す」で、八木氏は歴史を重視する立場から、以下のような女帝否認論を展開しています。「皇統断絶の危機」を八木氏が認めない、ということではありません。危機を直視した上で、

「感情論や歴史軽視の選挙向けパフォーマンスで皇位継承が左右されていいはずはない。むしろ先人の知恵に学ぶべきである」

 と主張するのです。

「女性天皇容認論台頭の理由として、過去に8人10代の女性天皇がいらっしゃったことがあげられるが、過去の女性天皇はいずれも『男系の女子』で、本命の『男系男子』が成長するまでの『中継ぎ役』であった。女性天皇が近江になったお子様が天皇になられた例は一例としてなく、きびしく排除されている。血筋が女系に移るからである。過去125代の天皇は、一筋に男系で継承されており、この原則に外れたことは一例もない。

 歴史を振り返れば、今日と同様、天皇の近親者に『男系の男子』が恵まれず、皇位継承の危機を迎えたことがあるが、先人は、皇統が女系に移ることをきびしく排斥し、男系で継承できる方法をとった。それが傍系による継承である。たとえ先代の天皇との血縁関係が希薄でも、男系の傍系から皇位継承者を得たのである」

 八木氏は、継体天皇、後花園天皇、光格天皇のお三方について過去に例がある傍系継承の選択を提起します。

「女性天皇容認論の中に、これまでの男系継承は庶系によって支えられていた、男系継承と側室制度とはワンセットであって、側室制度のない今日では男系継承は不可能である、だから女性天皇も女系も不可避である、との意見があるが、これは直系による継承が困難な場合は傍系によって継承されてきたという厳然たる事実を見ていない発想である」

 と、歴史に例のない女系継承への飛躍を戒めています。

 八木氏によると、男系継承を支えてきたのは、側室制度と傍系継承論の二段階の「安全装置」である。しかし

「今日、国民感情からして側室制度の復活が望めないのは事実であるから、過去にならって傍系継承という第二の安全装置を作動させる必要があるのではないか。私の主張はそれに尽きる。その道を検討せずに一気に『皇統』の変質を意味する女性天皇や女系天皇へと移行させるというのは早計ではないか」

 というのです。

 先人がなぜここまでして男系継承にこだわったのか、について、八木氏が遺伝学の観点から言及しているのは興味深いものがあります。

「初代の男性のY染色体は、男系でなければ継承できない。初代の男性のY染色体は、どんなに直系から遠くなっても男系の男子にはかならず継承されているが、女系の男子は双ではない。天皇は完全なる血統原理で成り立っているものであり、この血統原理の本質は初代・神武天皇の血筋を受け継いでいるということにほかならない」

 結論として、八木氏は

「男系継承を続けていくための具体策としては、人為的に宮家の数を増やすことが必要となってくる。論者の中には女性宮家を創設してはどうかという意見もあるが、女性宮家は女性天皇と同様、女系であり、お生まれになった男子が皇位を継承されることになれば、その方は女系の天皇になってしまう。結局、GHQの指導によって皇籍離脱を余儀なくされた旧11宮家の系統の方々に皇籍に戻っていただく以外に方法はない」

 と旧宮家の復活を提案します。旧11宮家には賛同者もおられるといいます。

 けれども、ひとたび皇族の地位を去られた方々の復籍を認めないのもまた皇室の不文の法です。臣籍降下されたのち皇位を継承した例は平安期の宇多天皇のみであり、臣籍降下の期間はわずか3年でした。また、男系継承の本質を遺伝学的に説明しようとする意欲は注目されますが、日本の天皇はむしろすぐれて精神文明論的な存在のはずで、より納得のいく皇位の本質の説明が求められます。


▢ はじめに女帝容認ありきではなく

 以上、伝統擁護派による代表的な女性天皇容認論および否定論を取り上げましたが、それなら人一倍、敬神尊皇の観念が強いと思われる神道人は現状をどのように考えるのでしょうか。

 公の場での議論がきわめて少ない中、先述した国学院大学の阪本氏が平成14年1月、都内の神社の広報紙に「内親王殿下の御誕生と皇位継承論議」と題する一文を寄せています。その中で阪本氏は、愛子さまの御誕生に祝意を表した上で、

「女の子が誕生したことで、皇位継承を男系男子のみに限っている皇室典範の改正論議が活発化しそうだ」

 という朝日新聞の解説記事を引用しながら、

「御誕生を契機に、『女帝』の可否をふくむ皇位継承問題をめぐる皇室典範の改正論議が『あらぬ』方向・思惑で突出するのでは」

 という「危惧」を表明するとともに、

「雅子さまの懐妊をきっかけに一時高まった改正論議はいかにも上滑りだった感が強い」(朝日解説記事)

 との思いが払拭できない。この風潮に拍車をかけるような議論は当分慎むべきではないか──と訴えています。

「重要なことは、われわれ国民が『皇位継承』問題を含めて真摯に『皇室典範』について考えることだと思う。その意味で、マスコミなどで表明されている女帝容認論は真摯な論と評価するが、反面、短絡的な『女帝容認論』へと容易に転化することを懸念する。

 そもそも『男系』『女系』が法律用語として正規に存在するのはひとり『皇室典範』のみである。皇位継承を定めた『皇室典範』がいかに重要か。それゆえ国会の議決でいかようにも制定・改廃される一法律であっていいのかどうか、これこそが根本問題であろう。

『はじめに皇室典範の改正ありき、女帝容認ありき』ではなく、皇室と国民との紐帯の歴史への、より深い理解と認識こそが必要なのではないか」

 しかしこうした声は一般社会にはなかなか届きません。というより、日本の歴史の中で重要な位置を占めてきた皇位継承に関する「深い理解と認識」が尊皇家の中からさえ案外、聞こえてきません。その一方で、いまやジャーナリズムは皇位継承問題で花盛りの観があり、その議論はときには女性天皇と女系天皇との違いさえ理解されないほどに軽佻浮薄に流れていきます。

 そして参院憲法調査会では(2004年の)秋以降、最終報告書のとりまとめに向けた審議に移るといわれます。皇位とは何か、皇統とは何か、という議論が深まらないまま、いよいよ皇室典範改正が政治日程に上ってくるのでしょうか。

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「御懐妊騒動」が問いかけたこと──天皇統治の本質とは何か [女帝論]

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「御懐妊騒動」が問いかけたこと
──天皇統治の本質とは何か
(「神社新報」平成12年2月14日)
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 会員制情報誌の「選択」が(平成12年)2月号に、「かくも罪深きご懐妊報道──皇太子の怒りはいかばかりか」と題する記事を載せている。

 朝日新聞の「スクープ」に始まった後味の悪い騒動の真相について、記事は、侍従や女官、侍医など限られた人たちの中の誰かが第三者(朝日新聞記者とは限らない)に情報を漏らした、と常識的な推理を働かせているばかりで、肩すかしの感が否めないが、宮内庁の情報管理にも批判の矛先を向けている点では新味がある。

 侍従職が「兆候」を知ったら、最悪の事態を回避するため、オモテと相談の上、宮内記者会に申し入れて報道協定を結び、御懐妊が確実になった段階で公表するという方針がなぜ採れなかったのか、と指摘するのだ。

 一方で、記事はマスコミの「横並び」報道の背後に「天皇のタブー化」があると見る。40年前の『風流夢譚』事件などを契機として、マスコミ内には右翼テロを恐れる「天皇のタブー化」が始まった。それがいまなお「金太郎飴」報道を生んでいるという。

 しかし、さしたる根拠もない「横並び」記事が氾濫するのは、むしろ皇室報道をビジネスにするマスコミの「商魂」に真因がありはしないか。今回も、朝日は「スクープ」を紹介したPR版を460万部印刷して販売店に配り、その後、慌てて回収したという。

 より深刻なのは、天皇統治の本質が見えにくくなっていることかも知れない。

「御懐妊」が注目される最大の理由は、「女帝」問題と同様、日本の皇室が重大な危機を迎えているといわれることと関係する。

 現在、皇位継承有資格者は皇太子殿下から高円宮親王殿下まで、7方おられるが、次の代の皇位継承者の候補者がおられない。

「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」

 と定める現行の皇室典範に従えば、皇統が途絶えかねない。「危機」打開のために皇室典範を改正し、女子にも継承権を認めるべきだという考えも現れた。

 昨年(平成11年)末に発刊された、國學院大学講師・高森明勅氏による『この国の生い立ち』も、

「制度上、皇位世襲の基礎を固めるためには積極的にその可能性を保障する措置を講ずべきだ」

 と女帝容認論を展開している。

 女系も皇統に属するのは当然で、女系継承は皇統の断絶を意味しない。皇族女子が御結婚後、臣籍降下せず、また女帝の配偶者が臣籍を離れ、皇統に入る制度があれば、その嗣子の系統は皇統をはずれることはないと主張し、小社(神社新報社)刊『天皇・神道・憲法』の女帝否認論にも批判を加えている。

 難問に果敢に挑戦する姿勢は敬意を表するが、皇位を

「国民統合の中心として国政上、天皇という独自の高貴な地位」

 と認識するのは、やや世俗的に聞こえる。女帝認否の違いは、ここに由来するのではないか。

『天皇・神道・憲法』の「はしがき」を書いた葦津珍彦の女帝否認論は、天皇が日本国家の最高祭祀者であり、万世一系の祭り主である、と認めるところから必然的に導かれている。

 天皇は世界に類まれなる公正無私を第一義とする祭り主であり、祭りをなさることが同時に国の統治者であることを意味する、というのが葦津天皇論の核心である。

 高森案は皇統存続への強い願いが高じて、女帝の配偶者に皇族に殉じた地位を与えるなど、伝統的な君臣の意識に重大な動揺をもたらす危険性が否めない。男統の断絶は容易ならざることであるが、葦津が原案を執筆した明治神宮編『大日本帝国憲法制定史』が主張するように、男統の絶えない制度をこそ慎重に模索すべきではなかろうか。

 女帝は認められないとする歴史の事実は重い。それは天皇のお務めの重さでもある。その意味で、ことのほか重い使命を受け継いでくださっている皇室、とりわけ皇太子殿下・同妃殿下のために、心からなる祈りを捧げざるを得ない。

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女系は「万世一系」を侵す──「神道思想家」葦津珍彦の女帝論 [女帝論]

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女系は「万世一系」を侵す
──「神道思想家」葦津珍彦の女帝論
(「論座」1998年12月号特集「女性天皇への道」から)
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▽ 天皇は祭り主

 毎年10月下旬、皇室の祖神・天照大神(あまてらすおおかみ)をまつる伊勢の神宮で、伊勢の市民たちが「大祭り」と呼ぶ、一年でもっとも重要な神嘗祭(かんなめさい)が行われます。

 3日間にわたって、外宮(げくう)、内宮(ないくう)の順に、それぞれ夕刻と深夜の2回、今年、神田でとれた新穀の大御饌(おおみけ)が供えられます。最終日には、天皇が皇居内の水田で育てられた稲の初穂が、両宮の内玉垣に懸税(かけちから)として捧げられ、正午には天皇のお使いである勅使(ちょくし)が両宮に天皇からの幣帛(へいはく)を奉ります。

 皇居では、この日の午前、神嘉殿(しんかでん)南庇で天皇が神宮の方角に向かって遙拝(ようはい)になります。

 日本最古の歴史書である『日本書紀』は大神が保食神(うけもちのかみ)から五穀の種子を与えられたと書いていますが、神嘗祭の起源はこの神話にあるといわれます。また、第11代垂仁(すいにん)天皇の時代に皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢国を巡幸されたおり、鶴がくわえていた霊稲を大神に捧げたのが神嘗祭の始まり、とも伝えられます。

 神宮の祭りは天皇の祭りであり、稲の祭りなのです。

 神嘗祭からほぼ一月後、全国津々浦々にまで稲穂が成熟するころ、今度は宮中神嘉殿で皇室第一の重儀である新嘗祭(にいなめさい)が行われます。

 11月23日の夕刻から深夜(翌日)にかけて、2回、陛下がお育てになった稲と、各県から献上された米と粟の新穀の御饌と御酒(みけ)が、皇祖神以下天神地祇に捧げられ、御自身も召し上がります。また当日、天皇は伊勢の神宮に勅使を遣わされ、両宮に奉幣(ほうべい)されるほか、全国の神社でやはり新嘗の祭りが行われます。

『日本書紀』は天孫降臨に際し、大神が「高天原(たかまがはら)にある斎庭(ゆにわ)の穂をわが子に与えなさい」と命じられたと記述しています。天孫降臨はわが国の稲作の始まりでもありますが、新嘗祭は斎庭の稲穂の神勅に基づいた国家と国民の統合を象徴する食儀礼とされます(八束清貫〈やつか・きよつら〉『祭日祝日謹話』、阪本廣太郎『神宮祭祀概説』など)。

 天皇の祭りと神宮を中心とする神社の祭りは深く結びついています。天皇は祭り主であり、祈る王です。いまは亡き昭和天皇は病魔との最後の苦闘のなかで、宮内庁長官を呼んで「今年の稲はどうか」と聞かれ、作柄を心配されたといいます。最期の最期まで、「国安らかに、民安かれ」と祈り続けるお務めを果たされたということでしょうか。


▽ 皇位継承資格者は6人おられるが

 さて、いまその皇室に、重大な危機が訪れているといわれます。皇太子殿下の次の代の皇位継承者の候補がおられないのです。

 皇位の継承などについて定めた法律である「皇室典範」によれば、皇位継承資格者は皇太子以下、桂宮親王まで、6人おられますが、その次の代がおられません。

 皇太子殿下と雅子妃殿下の間には男のお子様がお生まれにならず、各親王家も女子ばかりで、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定める現行の皇室典範からすると、継承者が絶えてしまいかねないと主張されています。

 この危機を打開するには、法改正によって女子にも継承権を認め、「女帝」を認めるほか道はない、と公然と主張する人もいます。数年前の自民党総裁選では、公開討論で、「女性が天皇になるのは悪くない。皇室典範はいつ改正してもいい。必ずしも男子直系にはこだわらない」との意見が飛び出しました。

 また、平成10年春に行われた共同通信社とその加盟社による世論調査では、「女子が天皇になってもよい」とする回答者が49.7%(前回の平成4年は32.5%)にのぼり、「男子に限るべきだ」の30.6%(前回は46.8%)を上回り、順位が逆転しました。その背景には、「女性の社会進出や男女の雇用機会均等化」という時代の流れが指摘されています。

 皇位継承の根幹に関わる「女帝容認論」に対して、人一倍、敬神尊皇の念が強いと思われる神道人はどう考えるのでしょうか。「神道の社会的防衛者」を自認し、「戦後唯一の神道思想家」といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)の論に耳を傾けてみましょう。

▽ 戦後唯一の神道思想家

 その前に葦津の略歴を見てみましょう。

 葦津は明治42(1909)年、福岡・筥崎宮(はこざきぐう)の社家の家系に生まれました。

 父・耕次郎は熱烈な信仰家でしたが、神職として一生を送らずに事業家となり、満州軍閥の張作霖(ちょうさくりん)を説いて鉱山業を興し、あるいは工務店経営者となり、全国数百カ所の社寺を建設しました。一方で、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく天照大神をまつることに強く抵抗し、韓国併合には猛反対、日華事変(日中戦争)勃発以後は日本軍占領地内の中国難民救済のために奔走しました。

 珍彦はその長男で、はじめは左翼的青年でしたが、父の姿を見て回心し、戦前は神社建築に携わる一方、俗に「右翼の総帥」といわれる玄洋社の頭山満、当時随一といわれた神道思想家の今泉定助、朝日新聞主筆でのちに自由党総裁となる緒方竹虎などと交わり、中国大陸での日本軍の行動や東条内閣の思想統制政策などを強烈に批判しました。

 敗戦を機に、「皇朝防衛、神社護持」への献身を決意し、神社本庁の設立、剣璽(けんじ)御動座復古、元号法制定などに中心的役割を果たしました。昭和天皇が極東裁判に出廷する事態になれば特別弁護を買って出ようと準備していた、といわれます。

 昭和36年末の「思想の科学」事件の渦中の人でもあります。著作は『神道的日本民族論』『神国の民の心』『国家神道とは何だったのか』など50冊を超えます。一介の野人を貫いて、平成4年春、82歳でこの世を去りました。

 昭和29年暮れに発行された『天皇・神道・憲法』という本があります。葦津が書いた「はしがき」によれぱ、葦津が主筆をつとめる神社新報社の政教研究室で、この年の春から青年たちと憲法問題について自由に討議した私的な報告書とされます。討論の中心にいたのはもちろん葦津です。


▽ 断じて承認しがたい

「皇位継承法」についての1章では、次のような批判が展開されています。

 戦後、憲法学者の間でわき起こった女帝容認論に対して、皇室の「万世一系」とは「男系子孫一系」の意味であることは論をまたないとし、女系の子孫(男子であれ、女子であれ)に皇位が継承されるとすれば、それは「万世一系の根本的改革」を意味し、断じて承認しがたい、といいきっています。

 しかも、明治の皇室典範は帝国憲法と相併立し、憲法と対等の権威を有する重い法典であったのに対して、日本国憲法下の皇室典範は国会がいつでも改廃し得る一般の法律と同様のものに過ぎなくなった。国史のなかで重要な位置を占めてきた皇位継承は、厳格に固守されるべきであって、一時的な政党や党派の消長や学説の推移によって軽々に動揺させるべきではない。現行憲法は「皇位の世襲」を規定しているだけで、女系を認めるという根本的改革でさえ国会の多数決で可能になったのは「軽率のそしりを免れぬ」と強く批判しています。

 20数年後の昭和52年、明治神宮は御鎮座60年祭を前にして、「大日本帝国憲法制定史調査会」(会長・伊達巽宮司)を発足させました。帝国憲法は、祭神の明治天皇が治世中に皇祖皇宗の遺訓を体して欽定された、日本で初めての成文憲法であり、明治維新の大業を法的に総括した記念碑、と位置づけ、その制定史を編纂発行するために、原案執筆者として調査会が一致して委嘱したのが葦津でした。

 900ページ近い大作『大日本帝国憲法制定史』は主観が抑制された重厚な学術的論文となっています。旧知の憲法学者で、調査会の委員長を務めた京都大学名誉教授・大石義雄が原案すべてに目を通し、脱稿されたと聞きます。

 稲田正次の先駆的な業績『明治憲法制定史』は別にして、小嶋和司の本格的な研究『憲法論集』がまとまって刊行される前に、憲法研究の専門家ではない神道人による帝国憲法制定史が発表されたことは高く評価されていいでしょう。


▽ 「万世一系」に抵触する

『制定史』は前半の「大日本帝国憲法制定史」と後半の「皇室典範制定史」の2部構成になっています。以下、女帝問題に関連のある部分を拾っていくことにします。

 明治8年4月、明治天皇は元老院を設けて国憲を草することを詔(みことのり)されました。憲法典作成とともに、それまで「不文の大法」とされた「皇位継承」の重大事が憲法上の明文をもって示される必要があるという議論が起こります。

 一般には「皇室典範」の立法が考えられるようになったのは明治14年の岩倉具視の「憲法綱領」以後といわれますが、「皇位継承」の条文作成の準備は元老院の「国憲案」に始まっている、と『制定史』は理解しています。

 また、国憲起案の勅語には「海外各国の成法」をも参考にすべきことが示されており、皇位継承についてはオランダ憲法などの法理が参考にされました。最終案で論争となる元老院の「女統女帝」肯定論が準拠したのは、国憲案作成過程でまとめられた日本史の「皇位継承篇」ではなく、イギリス流のオランダ憲法であると推察してほぼ間違いあるまい、と推測しています。

 元老院の国憲案は男系男子の継承を原則とし、嫡出優先主義に立ちつつ、「もしやむことを得ざるときは」として女統継承を認めました。

 しかし、この案は元老院で正式に決議したものではなく、多くの異論があり、とくに女統継承に対して、東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)以下が削除を要求しました。仁孝天皇の皇女和宮将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁したように、皇女といえども姓が変わり、王氏、王族ではなくなる。「万世一系の皇統」に抵触する、というのがその理由でした。

 結局、元老院案は立憲を尚早とする岩倉具視らによって葬られます。


▽ 井上毅の反対

 明治14年の政変後、国会開設、憲法制定の勅諭が渙発(かんぱつ)され、在野でも憲法試案作成の機運が生じます。皇室典範起草者のなかには女統女帝説に固執するものがあったようだが、井上毅が強く反対します。

 井上の後年の反対意見書には、反政府政党人で、政敵でもある嚶鳴社(おうめいしゃ)の島田三郎の7、8年も前の「女統女帝を否とするの説」が掲げられ、全面的同意を示しているのは注目されるとし、『制定史』は井上意見書「謹具意見」の冒頭部分をそっくり引用しています。

 女帝容認論はヨーロッパの女系相続と日本史上の女帝とを混同しているというのが井上の論だが、島田は皇位は男系に限るとしたうえで、予想されるふたつの反対論(女帝容認論)に対して反駁を加えています。

 第一は、「歴史上に女帝が存在するのにいなさら男統に慣習を破壊することだ」とする反対論で、島田では「この論は古来の女帝即位の実態がまるで今日とは異なることを理解していないといわざるを得ない」と批判します。

 歴史上の女帝は推古天皇から後桜町天皇まで8人、10代だが、このうち独身のまま皇位を継承されたのは孝謙以下4帝だけで、そのほかはいったん結婚されています。しかも大位に就いたのち皇太子を立て、時を待って譲位することを前提としています。天皇というよりは「摂位」に近いといわれます。

 独身で帝位に登られたのは元正帝、孝謙帝と続くが、元正天皇の時代には首(おびと)皇子があり、孝謙帝のときは皇太子に道祖(ふなど)王、大炊(おおい)王がおかれました。近世には父後水尾帝の譲位でわずか7歳で皇位を継いだ明正帝がおられますが、皇太子はおられません。これが唯一の例外で、後桜町帝は幼少の英仁(ひでひと)親王が成長するまでの皇位でした。


▽ 外国の女王とは異なる

 第二の女帝容認論は、「男女同権の時代に男女が等しく皇位を継承するようになるのは各国共通で、日本だけ男系に固執するのは時代に反する」というものです。しかし、古来、わが国に存在する女帝と外国の今日の女帝とが同じでないことを見るべきである、と島田は反論します。

 女帝を立て、しかも独身を保たれるのは天理人情に反する。また、皇婿を立てるにしても、海外から皇親を迎えることはできないであろうし、国内に皇婿を求めるとすれば、臣民にして至尊に配することは皇帝の尊厳を害することになる。男女同権といっても、政治は時世や人情に左右されるべきではない。わが国の現状は男尊女卑であり、皇婿を立てれば女帝の上に一の尊位を占める人があるかのような誤解を招く。皇婿が間接的に政治に干渉する弊害も生まれかねない。

 古来、わが国の女帝は登極ののち、独身を守り、至尊の地位を保ったため威徳を損なうことがなかったが、これは道理人情にかなう制度ではなく、今日、採用すべきではない。

 以上が、わが国では、たとえ遠い皇親であっても男統に限って皇位を継承することとし、いたずらに近きにとって女帝を立つべきではないとする理由である──というのが島田の論です。

 井上意見書はこのあと同じく嚶鳴社の沼間守一(ぬま・もりかず)による女帝反対論が続き、そのうえで井上は、イギリスでは女帝が継承すれば王朝が変わる。ヨーロッパの女系説を採用すれば「姓」が変わることを承認しなければならない。もっとも恐るべきことである。皇位継承は祖宗の大憲がある。けっして女系異姓の即位を認めるような欧州の制度をまねるべきではない。また、欧州においても、サリカ法の国は女子が王位に就くことを認めていない。婦女に選挙権を認めないで最高政権を握ることを許すことは矛盾である──と反対論を展開しているのですが、『制定史』は議論の重複と考えてか、これらを省略しています。

 憲法制定、国会開設の勅諭に従い、明治政府は制憲の準備を急いもぎました。明治15年には岩倉具視の権限に基づいて大方針の原則が立てられ、憲法と皇室の憲則(のちの皇室典範)が分離して立案されることになります。


▽ 男統の絶えない制度を

 明治18年の歳末にはじめて内閣制度が成立し、翌年正月から憲政準備が進みます。指導に当たったのは伊藤博文首相兼宮内大臣です。井上毅が明治19年から帝国憲法の起案を始めたことは知られていますが、相前後して皇室典範の試案も作成されました。

「皇室典範」の最初の試案と目される「皇室制規」は皇位継承を主たる内容とし、元老院の国憲案と同じく、男統男子の皇位継承者なきときは皇女に伝え、皇女なきときは皇族中のほかの女系に伝える、という明文があります。

 日本の皇統史に例のない法であり、日本人の皇統に対する君臣の意識を根底から混乱させるものがあるにもかかわらず、しかも元老院国憲案のときから反対のあった女帝説が根強く残っていたのはなぜか、と『制定史』の著者は問いかけ、女統継承論者も男統の優先順位は認めるが、法理を抽象的に考えて、男統がまったく絶えたとき、女統が存在するとすれば女統でも存在した方がいいではないか、と考えている。この論を強めたのには外国法の影響が見逃し得ない──と指摘します。

「皇室制規」は女帝を容認する一方、「皇族庶出の子」を排除している。しかも、「親王、諸王の二男以下」の臣籍降下を急ぐかのような思想が垣間見える。これでは、男統の断絶も架空の論とすることはできない。これは容易ならざる大事である。女統継承論を掲げ、伝統的な日本人の君臣の意識を動揺させるよりも、まず男統の絶えない制度を優先的に慎重に考えるべきではないか──と『制定史』は主張するのです。

 伊藤博文、井上毅など多数の強力な反対があって、女統女帝の皇位継承肯定説はこの「皇室制規」を最後にまったく消え去ったかに見えます。「帝室法則綱要修正案」では、皇位継承は男統男子に限る、と明記され、明治19年後半から始まる柳原前光(やなぎわら・さきみつ)による本格的な起案では、女統論はまったく顧みられなくなる。大宝令以来の古法古制が詳細に検討・採用され、伊藤宮相に提出された柳原案の最終稿「皇室典範再稿」は、第二条で「皇位は男系の男子これを継承す」と定めている。

 柳原案がさらに修正削除推敲された「皇室典範諮詢(しじゅん)案」では、第一章「皇位継承」第一条で、「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子これを継承す」となっている。諮詢案は明治21年5月から枢密院会議で、明治天皇の御前で審議されたが、第一章「皇位継承」に関しては、議論らしい議論はなかった。明治22年2月11日、純白の雪に清められた皇居で、明治天皇は皇祖皇宗の神前で皇室典範ならびに帝国憲法制定のよしを奉告され、全国の神宮神社で国家の大事が奉告された──と『制定史』は書いています。


▽ ほんとうの危機とは何か

『制定史』から10年後、晩年の葦津が草案をまとめた昭和62年発行の皇室法研究会編『共同研究現行皇室法の批判的研究』では、「女帝の認否」についてこう言い切っています。「われわれは、女帝は国史に前例があっても、これを認める必要がないと確信している」。

 その理由については、「明治神宮編『大日本帝国憲法制定史』中の論と重複するので略す」とあるだけで、ほかにはいっさい言及されていません。明治の制憲過程において議論は十分に尽くされているということでしょうか。あるいは、議論の余地のない神武以来の「祖宗の遺範」だということなのでしょうか。

 葦津の論でもっとも重要なことは、天皇は万世一系の祭り主であるという一点に尽きるでしょう。女帝は認められないとする結論は、そこから必然的に導かれています。ただ、万策尽きた場合に、それでも皇統の連続性を保つための女帝をも、葦津が頑迷固陋(がんめいころう)に否定し去っていたのかどうか、は分かりません。

 しかしながら、ここまでは法制度論です。法制度をいくら議論したところで目前の「危機」は消えません。危機とは何でしょうか。それは、皇位を継承する資格者がおられない、という「危機」ではない、と葦津ならば論じるのではないでしょうか。

 ほんとうの危機とは、「女性の社会進出」というような表層的ともいうべき時代状況に幻惑され、あるいは外国の例を引き、悠久なる皇室の神聖と固有の伝統が侵されることの「危機」なのでしょう。


▽ 天皇の本質

 葦津はくりかえし強調します。天皇は世界に類(たぐい)まれなる公正無私を第一義とする祭り主です。祭りこそが天皇第一のお務めであり、祭りをなさることが同時に国の統治者であることを意味しています。

 明治時代に廃れてしまいましたが、それまで千年にわたって続いた「さば」とよばれる宮中行事があります。天皇は毎食ごとに食膳でかたわらの皿に一品ずつ料理をお分かちになり、そのあとはじめて召し上がりました。皇祖の神意を重んじて、「わが知ろしめす国に飢えた民が一人あっても申し訳ない」と祈る思いで、名もない民草のためにこの行事を淡々と続けられたのです。

 ここに祭り主たる天皇の本質がうかがえます。

 平成7年の阪神大震災のとき、ワシントン・ポスト紙は、今上天皇が被災者を見舞われたことを大きく取り上げ、村山首相が震災2日後に被災地を訪れたときに「あざけりと不平に迎えられた」のとは対照的に、「あたたかい気持ちが芽生えた」と書きました。

 天皇には「民の声を聞き」「民の心を知る」王者の伝統がある、と葦津はいいます。悲しみや憂いを共有され、「民安かれ」と祈られるのが天皇であり、今上天皇は万世一系の伝統に従って、祭り主の大任を果たしておられるということでしょうか。

 天皇統治の神話的起源は天照大神に求められるが、大神は全知全能の無謬なる神ではありません。神話では唯一絶対神にはほど遠く、むしろ弱々しくさえ見える大神を、至高至貴なる皇祖神として信奉されるところに、天皇の高雅の清風が生じる、と葦津はいいます。

 天皇統治は「知らす」(民意を知って統合を図ること)であって、「うしはく」(権力支配)ではないというのです。帝国憲法が規定する「天皇統治」は「知らす」の意味でした。唯一絶対神に支配の根拠をおくヨーロッパの王制との違いは明らかですが、現代人には分かりづらいものとなっているのでしょう。


▽ 「一君万民」の祈り

 天皇が祈る王なら、国民もまた皇室の弥栄(いやさか)と国家の繁栄とを祈らねばならないでしょう。新しい生命が生まれる根底には神霊の働きがあり、皇嗣の誕生は皇祖神の神意に導かれます。危機は「一君万民」の祈りによって克服される。葦津ならば、そう論じたのではないでしょうか。

 しかし、葦津亡き後、皇室の神聖と高貴なる伝統の保持のために、一日も早い皇嗣の誕生を願って、国民的な真摯な祈りを呼びかけるような精神的指導者はいるのでしょうか。(文中敬称略)

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