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キリスト者に育てられ、キリスト教国の影響を受けられた昭和天皇  ──天皇・皇室の宗教観 その3(「月刊住職」平成27年10月号) [昭和天皇]

 中国や朝鮮では、王朝が交替するたびに国の宗教が代わった。だが日本では、万世一系の天皇を中心に、諸宗教が平和共存する多元的宗教空間が保たれた。

「およそ禁中の作法は神事を先にす」(順徳天皇『禁秘抄』)を原則とする皇室では、仏教に帰依された天皇もまた神道祭祀を厳修された。「私をおいてほかに神があってはならない」(十戒)とする一神教世界ではあり得ない現象だ。近代になると、皇室はキリスト教文化を積極的に受容され、無宗教主義さえ受け入れられた。

 ならば、いわゆる「国家神道」時代と「信教の自由」の時代を、ともに生きられた昭和天皇はいかなる信仰をお持ちだったのだろうか、「戦後70年」の節目に当たり、あらためて考える。


▽1 キリスト者による教育

 明治34年4月、明治天皇の皇太子嘉仁(よしひと)親王(のちの大正天皇)に第1男子が誕生された。迪宮(みちのみや)裕仁親王、のちの昭和天皇である。親王は古来の乳人(めのと)制度により、生後70日で枢密顧問官川村純義伯爵に預けられ、ひとつ違いの弟君淳宮(あつのみや)雍仁(やすひと)親王(秩父宮)とともに、3年あまり養育された。

 川村は戊辰戦争、西南戦争を戦った明治海軍の創始者で、明治天皇の信頼が篤かったらしい。

 迪宮・淳宮両親王は毎月、釈雲照から無病息災の加持祈祷を受けられた。川村の依頼によるものという。雲照は明治の元勲たちが一様に帰依した真言宗の名僧である。明治初年の諸山勅会廃止によって中絶した宮中後七日御修法を、東寺灌頂院にて再興させた人物でもある。

 川村邸での養育が川村の死去で幕を閉じ、最後の加持が行われたあと、祀られていた虚空蔵菩薩は肌守として両親王に献上された(『昭和天皇実録』など)。

 東宮御所に御帰還後、両親王は今度はキリスト者による養育を受けられることになる。

 名前は足立タカ。東京府女子師範学校(いまの東京学芸大学)を卒業したばかりで、附属幼稚園の保母だった。タカの父元太郎は札幌農学校の二期生、内村鑑三や新渡戸稲造らの同期生で、父娘はプロテスタントだった。タカは両親王に母親のように接し、昔話などを話したらしい。タカはのちに終戦時の宰相鈴木貫太郎の後妻となった(若林滋『昭和天皇の親代わり』など)

 第一次世界大戦終結から3年後の大正10年、皇太子裕仁親王はヨーロッパ歴訪の旅に出られた。大正天皇の御健康が憂慮され、宮中祭祀のお務めを見合わせざるを得ないような状況下での御訪欧は、皇太子教育という、より重要な目的を持っていた(波多野勝『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』)。

 随員には、珍田捨己(宮内省御用掛、供奉長、メソジスト)以下、山本信次郎(海軍大佐、カトリック)、澤田節蔵(外交官、クエーカー)など、名だたるキリスト者が従っていた。

 珍田は日露戦争後の講和条約交渉、パリ講和会議などに関わった外交官で、御訪欧当時は伯爵、枢密顧問官の地位にあった。のちに東宮太夫、侍従長を歴任した。

 山本は日本海海戦時は旗艦「三笠」の分隊長、当時は東宮御学問所御用掛。御訪欧中はテーブル・マナーやフランス語をきびしくお教えした。ローマ教皇との謁見実現は山本の尽力によるという。

 澤田は国際連盟日本代表などを歴任し、連盟脱退に反対した。第2次大戦末期、鈴木貫太郎内閣顧問となり、和平工作のためバチカンに働きかけた(澤田壽夫編『澤田節蔵回想録』など)。

 最初の公式訪問国はイギリスで、その最初の公式行事は戦没者追悼記念碑セノタフへの御拝礼、次がウェストミンスター寺院にある無名戦士の墓への参詣だった。お名前が金字で押され、紅白のリボンのついた花環を捧げられ、深々と拝礼されると、沿道から歓声と拍手がわき上がるなど、皇太子が大歓迎を受けたことを「タイムズ」などが報道している。


▽2 教科書とされたジョージ5世

 昭和天皇にとって、大英帝国は帝王学の生きた教科書だった。

 イギリス御到着の夜、バッキンガム宮殿で催された晩餐会で、国王ジョージ5世は第1次大戦中の日本軍の行動に謝意を率直に表明し、皇太子を「われわれの友人」と呼んだ。

 イギリス御訪問に続き、西部戦線を指揮したフランスのペタン元帥の案内で訪れた大戦の激戦地の傷跡は皇太子に深い印象を与えた。広漠たるヴェルダンの戦跡には死臭が漂っていた。

 皇太子は戦死者の墳墓に花環を供えられ、破壊された砲台やいわゆる銃剣塹壕、焼失した森林などを視察されて、「戦争というものはじつにひどいものだ」ときわめて真剣に語られた(二荒芳徳・澤田節蔵『御外遊記』)。

 皇太子は2年後、今度は日本で、関東大震災で焦土と化し、死臭ただよう東京の街を目の当たりにされた。翌年、大震災1周年に「2分間の黙祷」が捧げられたが、それは第1次大戦休戦1周年にジョージ5世がイギリス国民に呼びかけ、実施された「2分間の停止(沈黙)」に酷似していた。

 昭和54年の会見で、昭和天皇はジョージ5世との交流に言及されている。

「イギリスの王室はちょうど私の年頃の前後の人が多くって、じつに私の第2の家庭ともいうべきような状況であったせいもあって、イギリスのキング・ジョージ5世がご親切に私に話をした。その題目は、いわゆるイギリスの立憲政治のあり方というものについてであった。そのうかがったことが、そのとき以来、ずっと私の頭にあり、つねに立憲君主制の君主はどうなくちゃならないかを始終考えていた」(高橋紘『昭和天皇発言録』)

 御訪欧から7年後の昭和3年、張作霖爆殺事件の首謀者の処罰をめぐって、昭和天皇が田中義一首相にきびしく辞職を迫り、内閣が総辞職したことがあった。このときイギリス式の「君臨すれども統治せず」を理想とする元老西園寺公望は「ご自分の意見を直接、表明すべきでない」と陛下を諫(いさ)め、それ以後、天皇は内閣に対して拒否権を行使なさらなくなったとされる(『昭和天皇独白録』)。

 キリスト教文化やイギリス型立憲君主主義は今上陛下にも引き継がれている。皇太子時代の家庭教師、東宮御教育参与、彼らを抜擢した宮内庁長官、海外御訪問に随行した侍従長らはすべてキリスト者であり、皇后陛下もカトリックの学校教育を受けられ、皇室に入られた。


▽3 戦時中、存続したキリスト教儀礼

 今日、日本のキリスト教指導者たちは戦前の「国家神道」時代に「弾圧と迫害」があったという歴史批判を展開しているが、事実はまったく異なる。

 きっかけとされるのは昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件で、配属将校の引率で学生たちが靖国神社まで行軍したとき、カトリック信者の学生が参拝しなかったことから、マスコミを巻き込んで大騒動に発展したとされている。

 ところが渦中にいた学長補佐は、このとき陸軍当局者と次のような会話を交わしたと回想しているのだ(『上智大学創立60周年──未来に向かって』)。

「陛下が参拝する靖国神社にカトリック信徒が参拝しないのは不都合ではないか?」
「閣下の宗旨は?」
「日蓮宗です」
「それなら本願寺や永平寺に参拝しますか?」
「他宗の本山には参りません」
「しかし陛下は参拝されます」
「僕の書生論は取り消します」

 これは迫害とはいえない。けれどもカトリック信徒にとっては、唯一神信仰に反する異教崇拝は許されず、深刻な信仰問題を提起した。しかしバチカンは信徒の靖国参拝を愛国的行為として容認し、戦後も追認している。事件それ自体も宮様師団長の「どうなっているのか?」の一声で急速に解決したという。

 当時のカトリック新聞は、弾圧・迫害どころか、皇室がいかにキリスト教の社会事業を物心両面で支えていたかを伝えている。開院したばかりの病院を支援するために開かれたチャリティーコンサートに、朝香宮など皇族4殿下がご出席になり、盛況をきわめたというニュースが載り、貞明皇后は御殿場のハンセン病療養施設にたびたび下賜されたことが伝えられている。

 やがて時代は戦時体制下に入っていくのだが、教会がおかれていた現実を考える上で注目される記事が16年元日の朝日新聞に載っている。前年秋に設立された神祇院が「国礼の統一」の一環で「黙祷廃止」を検討し始めたのである。

「黙祷はキリスト教の形式で、震災記念日に東京市民が始めた1分間の黙祷が全国に広がったらしいことから、神祇院は西洋思想の流れをくむ黙祷を廃し、日本古来の最敬礼と2拝2拍手1拝の礼式を国礼として制定する意向」だった。

 国民儀礼としての黙祷は、先述したように、第1次世界大戦休戦1周年にイギリスのジョージ5世が呼びかけ、世界に広まり、日本では皇室が大震災1周年に黙祷を捧げられ、浸透していったという経緯がある。このため黙祷が外来文化に由来するという歴史的理解は波紋を呼び、とくに仏教界は心中穏やかではなかった。インド・中国から伝来した仏事も、同様の論理で排除されかねないからだ。

 しかし結局、黙祷は継続した。関係機関が協議し、「黙祷は日本人の日常生活に融合、慣習化されている。国民全体が敬神感謝の意を表する適切な形式である」との見解がまとまり、従来通り靖国神社の祭典などで捧げられた。

 戦前・戦中期に、宗教的受難を経験したのは、むしろ皇室であり、神道人ではなかったか? 天皇機関説を軍部などが猛攻撃するのに昭和天皇は異を唱えられていたし、もっとも代表的神道人である神宮奉斎会長今泉定助は、天照大神信仰に統一する合理主義的神道論を正統とする東條内閣によって発禁処分を受けた。


▽4 神格化を嫌われた昭和天皇

 敗戦の翌年、昭和21年元日に「新日本建設に関する詔書」が発せられた。昭和天皇は、天皇を現御神(あらみかみ)とするのは架空の観念だと述べられ、ご自身の神性を否定された「人間宣言」と一般に理解されているが、どうもそうではない。

 天皇は昭和52年の会見で「(冒頭に五箇条の御誓文を引用したことが)じつは、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした」「民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった」と述べられている。

 そもそも天皇=現人神(あらひとがみ)という考え方自体、正統的とはいいがたい。

 詔書作成に関わった当時の侍従次長木下道雄は「予はむしろ進んで天皇を現御神とする事を架空なる事に改めようと思った。陛下も此の点は御賛成である」と記録している(『側近日誌』)。戦前、文部省が編纂した『国体の本義』は「天皇は現御神であらせられる」と明記したが、昭和天皇は神格化を嫌っておられた。

 遠く第42代文武天皇即位の宣命には「現御神と大八嶋国(おおやしまのくに)しろしめす天皇」とあり、公文書の形式を示す公式令(養老律令)は「明つ神(あきつかみ)と御宇(あめのした)しらす日本の天皇」などと例示しているが、「現御神と」は「しろしめす」にかかる連用修飾語であり、本来は本居宣長らが解説したように「現御神のお立場で」の意味と解される。

 ところが近代の知識人は一様に、現御神=天皇と解釈するようになった(佐藤雉鳴『神道指令・日米の錯誤』)。絶対神に正統性の根拠を置き、国王を地上の支配者と考えるヨーロッパ王室の影響ではなかったか?

 今日、反天皇制の立場に立つキリスト者は少なくないが終戦直後は逆だった。賀川豊彦はマッカーサーに面会し、天皇制存続を進言した。上智大学のビッテル神父は極東裁判のキーナン検事に何度も面談して昭和天皇訴追の断念、天皇制の存続を認めさせたといわれる(『マッカーサーの涙』など)。

 昭和天皇とキリスト者たちとの心温まるエピソードも伝えられている。

 大金益次郎侍従長の『巡幸余芳』などによると、戦後の御巡幸で神戸女学院にお立ち寄りになり、昼食をとられたあと陛下がご出発のため玄関に姿を現されると、生徒たちが「祖国」と題する讃美歌を歌った。「わが大和の国をまもり あらぶる風をしずめ 代々やすけくおさめ給え わが神」

 清らかな歌声は心を打たずにはおかなかった。陛下はポーチにお立ちになったまま動かれない。讃美歌は2度、3度と繰り返され、そのうち歌声はくもり、生徒たちの頬に涙が伝わりはじめた。陛下の目にも光るものが浮かんできた。大金は「この親和、この平和の境地」と書き記している。

 大正期、貞明皇后が九州行啓の途中、職員一同に「菓子料」金200円を下賜され、学校ではこれを受けて、懸賞論文「地久節論文」の基金を設立した。学校を創設したアメリカ人女性は西洋かぶれを排し、「キリスト教魂をもつ日本風の女性」を育てることを教育目標としていたといわれ、それだけ生徒たちの皇室崇敬の気持ちは強かったと伝えられる。


▽5 日蓮宗開宗700年への思召し

 ならば仏教の外護者(げごしゃ)としてのお立場は失われたのか、といえばそうではない。

 たとえば、昭和27年は日蓮宗開宗700年に当たっていた。特別の法要が大本山清澄寺と総本山身延山久遠寺で営まれることをお聞きになった昭和天皇は、きわめて異例なことに、久遠寺に御香華料として金一封を賜り、勅使を開闢会(かいびゃくえ)に差遣された。

 勅使は思召しを日蓮宗総監に伝えたという。「今回、とくに香華料を賜ったのは宗祖立正大師の『立正安国』の精神に対してである。安国の基はまったく立正である。立正なくして安国はない。当時も国家乱れて綱紀麻のごとく、朝威地に墜ちて有史以来の暗黒時代であったが、今日はそれ以上であるというも過言ではない。立正安国の精神の発揚を待つやじつに切なるものがある」(石川泰司『近代皇室と仏教』)

 皇室唯一の菩提寺たる泉涌寺(せんにゅうじ)は戦後、政教分離を定める日本国憲法の施行によって、従来のように宮内庁から国費を受けられなくなり、経済的困難に陥った。けれども一山のみで御寺の尊厳を保持することには限界があった。

 そこで昭和41年になって、国民による護持が呼びかけられ、三笠宮崇仁親王を総裁に戴き、佐藤喜一郎三井銀行社長を会長として、「御寺(みてら)泉涌寺を護る会」が結成された。顧問には石坂泰三経団連会長、筑波藤麿靖国神社宮司、宇佐見毅宮内庁長官、三崎良泉妙法院門跡らが名を連ねた。

 設立総会で総裁宮は「皇室の代表としてお引き受けした。陛下に申し上げたところ、引き受けたら良かろうとのお言葉があった」と挨拶された(『三笠宮殿下米寿記念論集』など)。

 皇室の女性たちはとりわけ篤い信仰の持ち主だったらしい。法華経を「信仰より最上のものとして考へをりたる」と語られた貞明皇后の柩には、皇族方が半紙に「南無妙法蓮華経」「南無阿弥陀仏」と浄書され、紙縒りにして納められた。

 秩父宮雍仁親王の場合は、南無妙法蓮華経の7字が半紙に認められ、柩に納められた。親王は遺書に「遺体を解剖に伏す」「火葬にする」「葬儀は無宗教で」と綴られた。「遺志を尊重するように」との昭和天皇の勅許を得て、一般告別式は無宗教で執行された。

 高松宮宣仁(のぶひと)親王が薨去されたときは皇族方が写経された般若心経が納棺された(前掲石川著書)。


▽6 「無神論者」長官による祭祀改変

 歴代天皇と同様、宮中祭祀を重んじられた昭和天皇であるが、昭和40~50年代、天皇の祭祀は藩屏(はんぺい)たるべき側近によって蹂躙された。決定的だったのは50年8月15日、宮内庁長官室会議での一方的な改変決定であった。

 最大の変更は、平安時代に始まる石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)に連なるとされる毎朝御代拝である。以前は天皇に代わって側近たる侍従に潔斎のうえ、烏帽子・浄衣に身を正させ、宮中三殿に遣わし、外陣(げじん)で拝礼させていたのだが、「庭上からモーニングで」(入江日記)と変更された。「侍従は公務員だから宗教に関与すべきでない」とする政教分離原則への配慮とされる。

 改変の中心人物は富田朝彦次長(のちの長官)だった。いわゆる「富田メモ」で知られる元警察官僚だが、無神論者を自認していたといわれ、側近ながら祭祀に不参のことが多かったという。富田による変更はいまに尾を引いている。

 世間では「皇室はキリスト教化されているのではないか」「新興宗教の信者が側近に登用されている」との危惧の声があるが、現実ははるかに先を進んでいる。

 古来、多元的宗教空間の中心に位置してきた皇室は、近代になって一神教世界の文化を受け入れて以降、多元主義と一元主義との抜き差しならない相克に身もだえしている。挙げ句の果てが政教分離主義による宮中祭祀の改変である。

 さて、本論のテーマ、昭和天皇ご自身の信仰である。

 会見で「どんなテレビ番組をご覧になりますか?」と質問された陛下は、「放送会社の競争がはなはだ激しいので」とユーモアでかわされた。贔屓(ひいき)の力士の名を聞かれても、明らかにされなかった。とすれば「どんな信仰をお持ちですか?」とお尋ねしてもお答えにはなるまい。

 そもそも「天皇に私なし」である。だとすると、歴代天皇が仏教に帰依されたのはなぜなのか、天皇が信仰された仏教とは何だったのか、を問い直す必要がある。

(一部敬称略。参考文献=拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』など)

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陛下に謝罪を要求した新華社通信──どぎつい評論は中国国内向けか? [昭和天皇]

以下は、斎藤吉久メールマガジンからの転載です。

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 陛下に謝罪を要求した新華社通信
 ──どぎつい評論は中国国内向けか?
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「日本の侵略戦争の犯罪行為を謝罪すべきなのは誰か」。中国国営通信・新華社は25日、今上陛下に謝罪と懺悔を要求する評論を配信し、翌日、光明日報が掲載した。

「天皇裕仁は日本が侵略した被害国と人民に、死ぬまで謝罪の意を表したことはない。その後継者は、謝罪を以て氷解を得て、懺悔を以て信頼を得て、誠実を以て調和を得るべきだ。」〈http://jp.xinhuanet.com/2015-08/26/c_134557257.htm

 昭和天皇が謝罪したことはないという指摘は中国共産党お得意の歴史改竄だし、そもそも中国共産党と日本が戦争したこともない。今上陛下に謝罪要求を突きつけるのは異例だが、ともかく、いくつか気になる点を指摘したい。


1、人民日報に載らないのはなぜか

 第一に注目されるのは、昭和天皇を「張本人」と名指しし、「後継者」である今上陛下の責任を追及していることだ。過去にない強烈さだが、日本向けではないのではないか? それなら誰が、誰に向けて、何の目的で、書かせたものなのか?

 新華社は国務院直属の機関で、ふつうなら政府と党の公式見解と考えられるが、だとすると、どうも不自然だ。

 朝日新聞の報道によると、27日、記者が「評論は共産党や中国政府の立場を示すものなのか?」と質問したのに対して、「メディアが報道した観点について、我々は評論する立場にない」と述べるにとどまったという〈http://www.asahi.com/articles/ASH8W66R4H8WUHBI01J.html〉。これも胡散臭い。

 新華社の配信を載せたのは光明日報で、党機関紙の人民日報でも、その国際版である環球時報でもなかった。光明日報は中国の知識人・文化人を対象とする新聞であり、今回の評論は、日本に向けたものではなくて、中国国内の知識人層を対象にしていると思われる。

 それなら、どぎつい評論の目的は何か?

「冤有頭,債有主(悪事を働く者は責任を取るべきで、関係ない人に累を及ぼしてはいけない)」

「後人哀之,而不鑑之,亦使後人而復哀後人也(後人これを哀れむも、これを鑑みずんば、また後人をして復た後人を哀れましめん)。」

 評論には、中国古典からのものと思われる引用文が、冒頭と末尾に配されているが、かの「反日」江沢民の常套句「歴史を鑑とし、未来に向かう」は見当たらない。

 というより、江沢民派は熾烈な党内権力闘争の結果、すでに息の根を止められているらしい。中国ウオッチャーの福島香織氏によると、今月6日から16日まで開かれた北戴河会議に江沢民の参加はなかったという〈http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20130328/245823/?rt=nocnt〉。

 今回の評論は、長老を排除し、権力をますます集中化させている習近平政権が、知識人たちに向けて発せられたもので、彼らを束ねようという狙いを持っているのではないかと想像するのだが、どうだろうか?


2、電気にかかったトウ小平

 中国共産党が歴史問題で「反日」攻勢を募らせるようになったのは「戦後50年」を経たころからで、けっして古いことではない。毛沢東主席、周恩来首相が指導した時代は「日本軍国主義の復活」を警戒したものの、国民の反日感情を煽ることは避けられた(清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』)。

 毛沢東は、訪中した佐々木更三社会党委員長の謝罪に対して、「日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらした。皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だった」と、かえって皇軍を称えている。

 毛沢東には「侵略」の文字はなく、したがって「謝罪」要求もない。もともと日本が戦争したのは国民党の中国であって、中国共産党ではない。

 昭和天皇が謝罪していないというのも誤りだ。逆に、いわゆる戦争責任を高い次元で痛感され、終生、ご自身を責められたのが昭和天皇だった。

 毎日新聞の岩見隆夫(故人。政治ジャーナリスト)によると、昭和53年10月に来日したトウ小平副首相に対して、昭和天皇は「我が国はお国に対して、数々の不都合な事をして迷惑を掛け、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です」と語りかけたという。この瞬間、鄧は立ちつくし、一部始終を見ていた入江侍従長は後に周辺に語ったらしい。

「トウ小平さんはとたんに電気にかけられたようになって、言葉がでなかった」

 入江日記(10月23日)には、次のように書き記されている。

「竹の間で『不幸な時代もありましたが』と御発言。トウ氏は『いまのお言葉には感動いたしました』と。これは一種のハプニング」

 陛下の御発言は「簡単なあいさつ程度で過去に触れない」という日中外交当局と宮内庁の事前了解とは異なるものだった。だからこそ、「ハプニング」であり、トウ小平には驚きだったのだが、率直な語りかけが心を打ったのだろうと岩見は解説している(「近聞遠見」)。

 2日後、日本記者クラブで、トウ小平は陛下との会見について、こう語っている。

「今回、私たちは天皇陛下と皇后陛下から、非常に丁重なご歓待をいただきました。それに感謝の意を表します。
 天皇陛下との会見の時間も短くはありませんでした。午餐会も入れて2時間以上でした。そしてお互いに過去についてお話ししました。しかし天皇陛下は、過去よりも未来に目を向けられているということに私たちはよく注意いたしました。天皇陛下は中日平和友好条約の調印に、非常に関心を寄せられていました」

 ここには「反日」はうかがえない。むしろ陛下への敬意すら感じられる。

 昭和天皇は立憲君主であって、具体的な政策に直接、関わっているわけではない。閣議決定に拒否権を行使なさることはなく、御前会議の空気を支配する決定権もなかった(『昭和天皇独白録』)。それでも陛下は統治者としての責任を感じておられた。

 トウ小平はよく知っていたのではないか?


3、対日強硬派との権力闘争

 けれども、江沢民国家主席の時代になって、状況は激変する。「天安門事件で共産主義の理想が色あせ、党の威信が揺らいだことで、共産党は支配の正当性を強調するために、抗日戦争の記憶を呼び起こすことが必要になった」(清水)のである。

 一党独裁体制を維持するには教育の立て直しこそが急務とされ、翌90年から全国の大学では軍事訓練が義務づけられ、愛国「反日」教育が各地で展開されるようになった。つまり、「反日」は中国の国内問題なのだ。

 平和友好条約締結20周年の1998年11月、江沢民は中国の国家元首として初来日する。来日は、日中外交当局にとって、「過去を終結させ、未来を切り開く」はずだった。

 ところが、来日した江沢民は、「平和と発展のための友好協力パートナーシップ」を謳う共同宣言の内容に激怒する。「過去を直視し、歴史を正しく認識する」「日本側は中国への侵略によって災難と損害を与えた責任を痛感し、深い反省を表明した」とはあるが、「謝罪」が明記されていなかったからだ。

 共同宣言作成の過程で、「歴史認識をきちんと書いてもらえば謝罪の表現はなくても構わない。今後、2度と歴史問題を提起するつもりはない」とまで語る中国外務省の高官もいたようだが、江沢民は違っていた。そして「平和」「友好」どころか、首脳会談で「日本は中国にもっとも重い被害を加えた」と噛みつき、宮中晩餐会でも日本を無遠慮に批判したのだった。

 江沢民時代が終わり、胡錦濤・温家宝体制が発足したころ、中国では対日関係重視の「新思考外交」が台頭していた。ロシアで実現した小泉・胡錦濤会談では、胡主席は異例なことに、初対面の小泉首相にいきなり「日本のSARS支援に感謝する」と謝意を示し、外交関係者を驚かせた。小泉首相の靖国神社参拝にもかかわらず、歴史問題は後景化した。

 しかし新外交は挫折する。大きな原因のひとつは、いわずもがな、いつの時代も繰り広げられている、中国共産党内部での熾烈な権力闘争だった。


4、終わりなき階級闘争

 新華社の評論は冒頭に「悪事を働く者は責任を取るべきだ」とある。悪いことをしたら謝罪し、償うのは、日本人の倫理と共通するが、中国共産党の主張する謝罪はかなり意味が異なるのではないか? 今上陛下への謝罪要求こそはその違いを際立たせている。

 評論は、侵略戦争なるものが、軍国主義の天皇や政府、軍隊、財閥などの勢力が発動し、中国やアジア、世界の人民に対して犯罪を行ったと主張している。軍国主義者が悪で、人民は正しいという理解は、中国共産党ならではの階級闘争史観にほかならない。

 国際法が認める戦争なら、むろん善も悪もない。弱肉強食の非情の論理だけである。雌雄が決すれば、講和条約を結び、敗戦国が賠償することで、戦争を終結させ、平和の時代が再開される。しかし階級闘争なら終わりはない。昭和天皇の「後継者」にまで謝罪を要求するのは、終わりなき階級闘争だからだろう。

 もし今上天皇が謝罪したなら、侵略した日本を悪とし、侵略された中国は正しいという階級関係を永遠に固定化するものとなるだろう。少なくとも中国共産党はそう主張するだろう。過去の日本政府による謝罪が両国関係を好転させることがなかったように、これからもあり得ないだろう。

 もしかすると、陛下への謝罪要求は、「深い反省」を盛り込まれた全国戦没者追悼式での陛下のお言葉が勢いづかせたのかも知れない。習近平は副主席時代に天皇会見をごり押しし、それをテコに数年後、権力を手にしたようだが、今度もまた陛下を利用しているのかも知れない。

 日中政府間の合意文書に「侵略」が明記されたのは、小渕・江沢民の共同宣言だった。「過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。」とある〈http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_sengen.html〉。

「侵略」は「aggression」と英訳されている〈http://www.mofa.go.jp/region/asia-paci/china/visit98/joint.html〉。英単語の語義からいって「挑発もないのに謂われなき侵略を敢行した」という意味に受け取れるが、「日本は挑発がないのに中国を攻撃した」のだろうか? 戦争政策を推進した日本人は軍国主義者だけなのだろうか? 昭和天皇の終戦の詔書には「東亜の解放」の文言もあるが、まやかしなのであろうか?

 今年8月、新華社は「特別取材、日本右翼勢力の中国侵略戦争に関する五大謬論を論駁する」と題する評論を配信した〈http://jp.xinhuanet.com/2015-08/17/c_134525220.htm〉。

 そのなかで、「日本の対外戦争の発動は『大アジア主義』を励行し、アジア諸国が西側の植民者を追い払い、イギリス、米国といった国々の植民地体制の破壊を支援した」という歴史論を次のように批判している。

「日本の侵略者がアジア諸国の『支援』という旗印を掲げて、アジアを独占し、災いをもたらす行為をし、他国の領土で焼殺や略奪を行ったことのどこが『解放戦争』だというのか。どこがアジアの隣国を『支援』したというのか。」

 けれども、そうではない。


5、中国共産党自身の罪

 たとえば、東京裁判で死刑判決を受け、絞首台に消えた松井石根は、中国革命の父・孫文を敬愛し、中国文学に親しみ、「アジア人のアジア」を信条とした。その松井が戦争の指揮を執らなければならなかったのは、歴史の皮肉といわねばならない。

 南京陥落後、松井は戦陣に散った日中双方の将兵の御霊(みたま)を慰めたいと祈念し、血潮に染まった激戦地の土を集めさせ、これを持ち帰り、瀬戸焼にして高さ1丈の観音像を建立した。熱海・伊豆山の興亜観音である。

 松井自身の筆になる「縁起」には、「支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す。じつに千載の悲惨事なり。……観音菩薩の像を建立し、この功徳をもって永く怨親平等(おんしんびょうどう)に回向し、諸人とともにかの観音力を念じ、東亜の大光明を仰がんことを祈る」と書かれている。

 友人同士が敵味方に分かれ、殺戮し合う。そんな歴史の悲劇を、単純に図式化し、断罪することに無理がある。

 もし侵略は永遠に断罪されるべき不正義だというのなら、中国共産党自身の行為はどうなのか? 前世紀の歴史ではない。21世紀の今日なお、チベット、ウイグルへの侵略は続き、あまつさえ南シナ海、東シナ海に軍事力を拡大させている。

 軍国主義者とは誰のことなのか? 誰が罪を負っているのか?

「(日本の)軍国主義の天皇や政府、軍隊、財閥などが、中国やアジア、世界の人民に対し書き尽くせぬほど多くの犯罪を犯し、侵略戦争に対して逃れられない罪を負っている。」とするなら、同様にして、中国共産党の周辺地域に対する軍国主義の発動は、「アジア、世界の人民に対し書き尽くせぬほど多くの犯罪を犯し、侵略に対して逃れられない罪を負っている」のではないか?

 日本の「東亜の解放」がイカサマなら、人民解放軍の軍事行動は何だったのか?

 やがて世界は、中国共産党自身の論理によって、中国共産党に対して、謝罪を永遠に要求することになるだろう。

 新華社の評論が、共産党政権による国内の知識人向けのプロパガンダだとするなら、中国の知識人たちは、香港の知識人も含めて、どう答えるのだろうか?
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「私が悪いのだ」と嘆かれた昭和天皇 [昭和天皇]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です


 じつに総額17億円にも達する岐阜県庁の裏金問題で、弁護士で組織する「プール資金問題検討委員会」が調査結果と提言をまとめ、知事に提出しました。
 http://www.pref.gifu.lg.jp/contents/news/release/H18/z00000650/index.html

 ぜんぶで55ページにおよぶ報告書によると、平成6年度以前は県組織のほぼ全体で不正な経理が行われ、資金の捻出が行われていたようです。その背景には、官官接待費や備品購入など、正規の予算には計上できないけれども、どうしても必要と考えられる費用があり、捻出が求められた、とされています。予算使い切り主義のシステム上の問題も指摘されています。

 報告書は「再発防止に向けての提言」で、「不適正資金づくりを担っていた一般職員のみならず、これを隠そうとした幹部職員の倫理意識は非常に大きな問題である」「職員全体に遵法意識、税金が県民の血と汗の結晶であるとの意識が希薄であることをうかがわせる」と指摘しています。

 倫理観が地に墜ちた岐阜県庁のスキャンダルから、私は昭和天皇の逸話を思い出しました。戦前と戦後、侍従長として仕えた木下道雄が『新編宮中見聞録』に紹介している戦前の逸話です。

 昭和の初め、汚職事件の渦中にある高官の起訴について天皇の裁可を求める上奏書を持って内閣書記官があわただしく駆けつけてきました。一刻を争う首相からの上奏書でしたが、昭和天皇は司法大臣の起訴理由書をくり返しご覧になるばかりで、裁可されません。

 しばらくしてようやく天皇は裁可の印を捺されました。書類を受け取り、部屋を辞する木下に天皇は語られたのでした。「私が悪いのだよ」。

 のちに昭和天皇はよく晴れた夕暮れ、天を仰ぎつつ、木下にたずねられました。「どうすれば政治家の堕落を防げるであろうか。結局、私の徳が足りないから、こんなことになるのだ」。

 昭和天皇は罪を犯した官僚を憎むのではありません。汚職がはびこる世の中を憂い、悲しみ、ご自身を責めておられていたというのです。

 そのような昭和天皇であればこそ、「戦争責任」を誰よりも強く意識されていました。生涯、身を引き裂かれるほどの責任を痛感され、ご自身を責め続けられたようです。昭和天皇が最後まで推敲を重ねてやまなかったのは、「身はいかになるともいくさとどめたりただ倒れゆく民をおもひて」だといわれます。

 絶対権力を振るうヨーロッパの王とは異なり、天皇は祭祀王といわれます。みずからの穢れ(けがれ)を祓いに祓って、祭祀を厳修し、皇祖のご神意を聞き、神に近づこうとする、それが天皇の政治だとされます。昭和天皇はつねに国のため、民のために祈る天皇のおつとめを生涯、貫かれたのでしょう。 

 そのような昭和天皇像からすると、A級戦犯合祀に不快感をいだき、参拝をやめた、と解釈されている先の富田長官メモは、信憑性を疑わざるを得ないのです。

 もしメモに書かれている発言が本物だとして、その場に居合わせたのが富田長官ではなく、木下侍従長だったら、どうだったでしょう。最晩年のお言葉を耳で聞いて、ただメモを書きとどめるだけだったのか、それとも「陛下のお言葉とは思えません」と諫言申し上げたでしょうか。

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大切にすべき昭和天皇の思いとは [昭和天皇]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です


 昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示されていたことを裏付ける、富田朝彦・もと宮内庁長官(故人)のメモをめぐって、波紋が広がっています。
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 メモを発掘した日経の昨日の社説は、信頼性の高い資料によって、昭和天皇の意向が明確になった、A級戦犯合祀に強い不快感を示したのは、戦争への痛切な反省と平和への思い、諸外国との真義を重んずる信念があったためであろう、天皇の思いを大切にしたい、と訴えています。

 同じく日経の昨日の「春秋」は、天皇の発言からは当事者としての深く激しい思いが伝わってくる、靖国神社に参拝していないのは熟慮の末の判断だ、と指摘し、つづいて今日の「春秋」は、崩御の前年に戦争への感想を聞かれて積年の思いが噴出したのだろう、と述べています。

 メモが「信頼性の高い資料」かどうか、については疑問の声も上がっています。A級戦犯合祀に対する昭和天皇の不快感については以前からもいわれてきたことですが、メモの信憑性が実証的に明らかにされる、あるいは逆に否定される日は、いずれやって来るのでしょう。

 昭和20年8月の敗戦は、日本がいまだかつて経験したことのない屈辱でした。数百万の国民が命を失い、国土は焦土と化しました。外国の軍隊が進駐し、「国体」はおかされることになりました。

 そのような事態を招いたことについて、昭和天皇のご心中はいかばかりであったでしょう。終戦の詔書には、腸(はらわた)が引き裂かれるほどであるという意味の表現がとられています。

 9月下旬になって、昭和天皇はみずからアメリカ大使館にマッカーサーをお訪ねになりました。会見の内容は秘密になっていますが、『マッカーサー回想録』によれば、

「私は、国民が戦争遂行に当たって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」

 と語られたのでした。

 マッカーサーは、昭和天皇が戦犯として起訴されないよう、命乞いをするのではないか、と予想していたのですが、実際は逆でした。

「死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度」

 は、マッカーサーをして「骨の髄までも揺り動かした」のでした。

 戦争責任を誰よりも深く感じ、終生、みずからを責められたのが昭和天皇でした。昭和天皇は

「戦争を防止できず、国民をその惨禍に陥らしめたのはまことに申し訳ない」

 という思いを生涯、持ち続けられたといわれます。

 そのような昭和天皇像は今回、発掘されたメモの内容とは矛盾します。どちらが正しいのか、あるいはそうではなくて、どちらも正しいのか。いまのところ判断はつきません。

「現人神(あらひとがみ)」と称えられる天皇も生身の人間である、という前提に立てば、ときの政治指導者に対する個人的な好悪の感情もおありだったかもしれません。もしそうだとすると、日経の社説が主張するように、

「天皇の思いを大切にしたい」

 と簡単にいいきることわけにはいかない、ということにもなります。

 そもそも天皇のご意思とは、生身の天皇個人の意思とは必ずしも同じではないでしょう。日本人が天皇を尊いご存在と考えてきたのは、個人崇拝ではありません。ご人徳が立派だから天皇を敬愛するというのではありません。日本の天皇制度における天皇とは、天皇個人ではなく、

「国平らかに、民安かれ」

 という絶対無私の祈りを連綿として続けてこられた歴史的存在としての天皇なのではありませんか。

 考えても見てください。天皇個人の意思に合わせて、国家の政策をそのつど変更していたら、立憲君主制の根幹が揺らいでしまいます。日本人の多くがいまは亡き昭和天皇を敬愛し、その思いを大切にしたいと思うことはすばらしいことですが、個々の天皇のご意思がそのまま政治に反映されるべきかどうかは別問題でしょう。

 富田メモに関連して、指摘すべきもう一つの点は、何度もこのブログに書いてきたことですが、靖国神社はA級戦犯を神格化し、神とあがめているのではない、ということです。

 合祀手続きはあくまで人間の行為にすぎないのであって、間違いもあり得ます。そして、靖国の神はあくまで靖国の神であり、それは、国家の非常時に私を去って、公に殉ずる精神なのでしょう。いうところの「分祀」は日本人の伝統的神観念上、あり得ませんが、もし仮に「分祀」できたとしても、神の世界ではなんの意味も持たないでしょう。神の領域に人間が立ち入ることはできないからです。

 いまはそんなことを考えています。
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