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主食用にならないアメリカ産主食用米──冷めたらパラパラで、おにぎりにも炊き込みご飯にも向かない [米]

以下は、斎藤吉久メールマガジン(平成27年8月26日)からの転載です。

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 主食用にならないアメリカ産主食用米
 ──冷めたらパラパラで、おにぎりにも炊き込みご飯にも向かない
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 やっぱりである。おにぎりにならないのである。

 TPP交渉の主要テーマのひとつはアメリカ産主食用米の輸入拡大だが、いったいどんなコメなのかと思って、ネットで購入し、食べてみた。

 よくいわれるように、安くて、美味しいのなら、消費者は歓迎する。ところがそうではない。


▽ 晩ご飯のメニューを変えなければならない

 そもそも安くない。

 アマゾンで探すと、5キロ2180円、2600円などの価格でカリフォルニア産米が売られている。ところが、いずれもプライムの設定がないので、送料は別になるから、国産米よりはるかに高い。

 2キロ950円というのを買ってみた。関東なら配送料が600円かかる。

 数日後、届いた商品には、「複数原料米」「米国カリフォルニア産10割」「輸入25年8月1日」と表示されている。要するに、ブレンドされた古米であった。

 さっそく炊いてみた。

 精米のときは単粒種に見えたが、炊きあがると、面白いことに、ご飯粒が伸びて、長粒種のようになる。

 まずくはない。ただ、粘りがない。冷めるとポロポロになる。

 あらためて商品の袋をながめると、シールが貼られていて、「カリフォルニア産カルローズ。炒飯、ピラフ、カレー、ドリア、リゾット、パエリア、サラダ、スープなどに最適なお米です」と書いてある。

 焼き魚定食や刺身定食、天ぷら定食には向かないということらしい。

 炊き込みご飯にしてみた。粘りがないから、箸では食べられない。ふたたびシールを読んでみると、「べたつかないお米」とあった。より正確にいえば、パサパサなのである。

 ダメ元でおにぎりにしてみた。案の定、握るさきから、米粒がポロポロとこぼれていく。

 おにぎりでこれなら、お寿司も同様だろう。

 アメリカは主食用米として、日本に輸出攻勢をかけている。けれども、少なくとも私が食べてみたコメは、日本人の「主食」には向かない。

 インディカ米とジャポニカ米とでは、種(species)が異なるといわれるほど、遺伝形質が異なるが、カリフォルニア産米と日本米とは明らかに性質が異なるのに、「主食用米」としてひとくくりにして、TPP交渉の議題にすることに無理があるのではないか?

 すき焼き用牛肉とステーキ用牛肉をいっしょに論ずるのと同じである。

 あえて輸入拡大するのなら、日本人は「主食」を変えなければならない。

 米を主食とする「米食民族」といわれたのも今や昔、もはや日本人は1日に1食程度しかコメを食べないらしいのだが、アメリカ産主食用米の輸入が増える分、日本人は晩ご飯のおかずの焼き魚をやめ、ピラフに変更しなければならなくなる。

「主食用米」の輸入拡大は「主食」の変更なのである。


▽ 米食からパン食に変えさせられた歴史

 そういえば、日本人にとって、コメが「主食」でなくなったのも、アメリカの圧力によるものだった。

 第2次大戦中、連合国の食料生産を一手に引き受けていたアメリカは、戦後、一転して、膨大な余剰小麦の在庫を抱えることになった。死活的な余剰対策のハケ口にされたのが敗戦国の日本で、再開された学校給食にはアメリカ産小麦が充てられた。

 その結果、日本の小麦生産は安楽死させられ、日本人のパン食が増え、一方、コメの消費は減り、歴史的な減反政策も始まった。

 その挙げ句に、今度はアメリカのコメを食べろという。煮魚定食ではなくて、ピラフを食べろというのである。

 ずいぶんと身勝手な話ではないのか? アメリカはむしろ生産調整を進めるべきではないのか?

 他国の食文化を変更させてまで、押し売りする権利は誰にもないはずだ。
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お米の食べ方教えます──現代の「食と農」に異議を唱えるイセヒカリ [米]

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お米の食べ方教えます
──現代の「食と農」に異議を唱えるイセヒカリ
(「神社新報」平成10年12月14日)
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 先月(11月)下旬、宮中神嘉殿で皇室第1の重儀である新嘗祭(にいなめさい)が親祭になった。

 興味深いのは、供進される御酒(みき)に白酒(しろき)と黒酒(くろき)の2種があるように、御饌(みけ)にも御飯(おんいい)と御粥(おんかゆ)の2種があることだ。御飯は米と粟をそれぞれ蒸した強飯、御粥は炊いた煮飯である。

 昭和天皇に長くお仕えした元宮内庁掌典によると、11月上旬、陛下は賢所で各県から献上された米と粟の新穀をたっぷり時間をかけてご覧になる。

 御飯と御粥の調理は祭典当日の早朝、賢所の御饌殿で畳半畳ほどの大きな火鉢に炭で火をおこし、蒸籠(せいろ)で蒸し、あるいは釜で炊く。

 神事の御作法は秘儀中の秘儀であるから、安易に語ることははばかれるが、御飯は米、粟いずれも窪手(くぼて)に盛り御飯筥(おものばこ)に納められるのに対して、御粥は窪器(くぼつき)に盛って土堝(どかい)に納められる。

 お直会されるのは、御飯だけらしい。

 御粥が記録に表れるのは12世紀からで、歴史は比較的新しいようだ(川出清彦『祭祀概説』など)。

 そこで、今回はお米の調理法について、考えてみたい。


▢平安中期、煮飯が主流に
▢重湯を捨てる「湯取り法」

 食物史家の篠田統先生によると、古代人はお米をもっぱら甑(こしき)で蒸して食べていた(篠田『米の文化史』)。

 というのも、素焼きの土器では組織が粗くて柔らかいため、水を入れて沸騰させると胎土が崩れ、ドロドロに溶けてしまうのだ。これでは煮炊きはできない。

 宮廷や大寺院で鉄鍋や鉄釜が姿を見せるようになるのは奈良時代だが、一般に今風の煮飯が主流になるのは平安中期からで、これは釉薬のかかった陶鍋や陶釜が普及したことによる。それ以前は足踏みの唐臼がまた輸入されておらず、精白の技術が十分ではなかったこともあって、ボロボロの強飯を食べていた。

(斎藤註。この記事を書いてからずいぶん後になって、篠田先生の誤りについて、食物史研究者から指摘を受けました。素焼きの土器でも十分調理が可能だったことを実験で確認した研究者もいるそうです)

 滋賀県犬上郡の多賀大社の授与品に、有名な「お多賀杓子」がある。

 養老年間というから8世紀初頭、元正天皇がご病気になり、食事もなされない。同社に祈願されたとき、祠官らが斎火で強飯を炊き、神山のシデ(シは木偏に夫、デは木偏に多)の木で杓子をつくり、これに強飯を添えて奉ったところ、たちまち快復された、というのがその由来である(『多賀神社史』)。

 元正天皇に奉られたのが、煮飯ではなくて強飯であったとするのは注目される。

 その後、硬くて男性的な強飯に対して、「姫飯(ひめいい)」と呼ばれる、柔らかい煮飯が普及して、院政期には「飯(いい)」といえば煮飯を指すようになる。

「病草子」や「餓鬼草子」など、平安末期の絵巻にお椀に高盛りしたご飯が描かれているのは、煮飯らしい。硬めに煮た堅粥(かたがゆ)、つまりいまのご飯を「飯(いい)」と呼ぶようになるのは、さらに時代が下るという。

 新嘗祭の神饌の御飯(おんいい)が強飯で、御粥(おんかゆ)が煮飯なのは、平安貴族の遺風を伝えているということになる。

 記者は数年前まで東インドのバングラデシュという国に通っていたが、日本と同じようにお米を主食とするこの国では、お米を調理するのに、炊くというより煮ていた。

 驚いたのは、たっぷりの水で煮て、煮上がると、ザルにあけてしまうことである。

 ある孤児院を訪ねたとき、調理場ではちょうど炊事の最中で、目前で余分のお湯が捨てられていた。滞日20年になる友人のバングラ人が

「ネバネバの重湯を捨ててはいけない。栄養価が下がる」

 と口髭をたくわえた、屈強な調理人の男に注意するのだが、男はまったくの上の空であった。

 日本は米の粘りを出すように、適量の水で煮込み、水分がなくなるまで加熱して蒸し込んでしまう「炊き干し法」という調理法だが、パサパサ感のあるインディカ米が食されるインド世界では、大量の水で煮て、重湯は余計なものとして捨てられる。「湯取り法」と呼ばれる。

 日本人には「もったいない」ことだが、バングラ人にはこれが「当たり前」なのである。文化が異なるのである。

 インディカ米にもモチ米があるし、珍しい赤米のモチ米料理を食べさせてもらったこともあるが、ふだん食べるトルカリ(カレー料理)はたいていインディカ米のウルチ米に限られる。

 粘りがあって、腹持ちがいいジャポニカ米は、「肉体労働者の食べる米」という偏見があって、とくにお金持ちは食べたがらないと聞いた。援助米として入ってくるカリフォルニア産のジャポニカは横流しされ、市場でバングラ産米より安値で売られるという。


▢インドの粉食、タイの麺
▢インドネシアの「二度飯」

 南インドのケララ州を旅したときには、いろいろなお米の食べ方を見た。インド料理というと、カレー料理しか思い浮かばない記者には、目から鱗が落ちる思いであった。

 とくに粉にひいて利用する粉食メニューの豊かさには舌を巻いた。

 民家で食べたドサやイッデリは美味しかった。パンケーキのようなもので、朝食の定番という。記者が稲作文化に興味があることを知って、わざわざ作ってくれたのだ。

 丘陵地域にあるシュリ・マハビシュヌル寺という3000年前のヒンドゥー寺院の門前で店を開く食堂では、プトゥを食べた。

 薄暗い厨房をのぞいたら、上半身裸の男が、米粉をココナッツミルクで練った材料を筒状の容器に入れ、竈で蒸しているところだった。

 やはりカレーといっしょに手で食べる。

 ケララでは家庭でも粉食がふつうに行われているようで、街道筋のバザールでも持ち運びできる自動製粉器が売られていた。

 そのあと、記者は北部タイに飛んだ。

 以前、この連載で「東アジアのモチ文化」をとり上げたが、タイ北部はモチ米を焼き畑耕作する「モチ稲栽培圏」に属していることで知られる。

 ラオスとの国境に近いチェンライ県のある村に、一泊した。

 翌朝、友人の母親が庭先で七輪のような竈を使って、一晩水につけたモチ米を蒸していた。昔ながらの朝の風景らしい。

 手で食べるのだが、香りが豊かで、粘りがあり、ほっぺたが落ちるほど美味しかった。

 幸か不幸か、最近は経済の発展とともに、電気釜が普及し、同時にウルチ米が好まれるようになり、逆にモチ米は生産も消費も激減していると聞いた。

 現金収入の増えた勤労世帯では、手間のかかるモチ米の強飯より、簡便な電気釜を選ぶのは当然なのだろう。タイではウルチ米の方が高くて高級感がある。モチ米は「貧乏人の食べ物」というイメージがあるのかも知れない。

 タイにもいろんなお米料理があった。

 北部第1の都市で、バンコクに次ぐ観光都市・古都チェンマイでもっとも有名なワット・プラタート・ドイ・ステープという古刹を訪ねた。

 境内は市街地を一望できる山頂にある。その参道で、拳よりも大きい、モチ米のちまきが売られていた。

 街道沿いのみやげ物屋で竹飯も食べた。竹筒にモチ米と小豆、ココナッツミルクを入れ、火中で蒸し焼きにするという。

 材料はインドのプトゥと同じだが、違うのはモチ米を粒のまま調理することと、竹筒を使うこと、それから蒸し焼きにすることだ。インドでは金属製の容器を使っていたが、もしかして以前は竹製だったかも知れない。

 タイにあって、インドで見かけなかったものは、米麺である

 チェンマイの南隣ランプーン県にある名刹ワット・パラパートタックパーの広い境内の茶店で食べたクイティウ(かけそば)は素朴な味がした。

 インドネシアのジャワ島中部で驚いたのは、お米を調理するのに、ゆでるのと蒸すのとを併用することだ。

 前の晩に釜ゆでし、米の芯が残っている状態で火を止め、余分な水気と重湯を捨てる。翌朝、アルミの蒸籠に移し換えて蒸し上げる。「二度飯」ととも呼ばれる。

 きわめてパサパサしたご飯になるのだが、

「面倒じゃないか?」

 と知人に聞いたら、

「水分があるとすぐに悪くなる。こうすると長持ちする、とここの人はいうんですよ」

 と答えた。赤道直下の熱帯の国ならではの智恵かも知れない。

 実際に調理法を見たかったが、残念ながら「男子禁制」の調理場に立ち入ることが許されなかった。

 インドネシアは世界最大のイスラム国家で、首都ジャカルタには「東南アジア最大」のモスク(イスラム教の礼拝堂)もある。イスラムでは男女の世界がはっきりと区別されている。

 同じイスラムの国でも、バングラではしばしば男が家庭で料理を作るのだが、インドネシアは「男子厨房に入らず」のお国柄らしい。


▢伊勢の神宮神田で生まれた
▢イセヒカリの正しい調理法

 平成の御代替わりに時を合わせたかのように、神宮神田で「イセヒカリ」という新種のお米が誕生したのはご承知のとおりだが、「御神米」とも呼ばれるイセヒカリの「正しい食べ方」はご存じだろうか?

「米の炊き方に、正しいも正しくないもあるか?」

 といぶかる読者もおられるだろうが、じつは安直に炊飯器で炊いてはいけないのである。

 神田で生まれた神聖なお米だけに不思議な話題に事欠かないイセヒカリだが、数年前の秋、あるお宮で開かれた試食会では、意外にも年配者から

「硬くて食べられない」

 という苦言が呈された。稲の研究に半生を捧げてきた農業試験場のOBたちが

「コシヒカリをしのぐ」

 と太鼓判を押すお米なのに、どうしたことか?

 原因は炊き方にあった。

 新米は少なめの水加減で炊くのが常識だが、イセヒカリはもともと水分含量が少ないという性質を持つため、炊くときにはかなり多めの吸水が求められる。できれば一晩、水につけると

「抜群の味を発揮する」

 と稲の専門家は語る。さっとといで、すぐに炊飯器で炊いたとすれば、御神米が本来の味を現さなかったのは当然である。

 今春(平成10年春)には、ある試験場で食味検査が行われた。複数のパネラーによる試食の結果、なんと

「味ではコシヒカリにはとてもおよばない」

 という評価が下された。

「粘りがなく、硬く、光沢に乏しい」

 というのだ。

 イセヒカリが世に出るのに貢献してきた“育ての親”が俄然、色めき立ったのはいうまでもない。というのも、試験に用いられたサンプルというのが、食味系による別の分析では最高点を付けたお墨付きの米だったからである。

「お伊勢さんのお米を一粒でもいいから分けてほしい」

 といって種籾を乞い、

「神様にお仕えするつもりで育て上げた」

 という農家は秋祭りに氏子一同で食し、その味に驚嘆している。米どころのコシヒカリを食べ慣れた消費者も

「香り、艶、腰がある。神々しいお米」

 と絶賛する。それなのになぜ

「不味い」

 というのか?

 機械がおかしいのか、人間の舌が麻痺しているのか?

 原因は、同一条件で比較する食味試験の方法にあったらしい。

 いま人気のお米は忙しい現代人の生活スタイルに合わせて、手軽に炊いて簡単に食べられることが前提になっている。

 食味試験も人気の軟質米に沿った調理法で一律に比較されるらしい。炊飯器という機械を基準にして、「味」が決められているのだ。

 しかし、イセヒカリは現代の食と農に異議を唱えている。楽に作れる米、手間がかからない画一的な食べ方に対して、である。

 当然、食味試験では持ち前の味を示してはくれなかった。

 育ての親の1人、山口県農業試験場の元場長・岩瀬平氏は語る。

「私も経験があることですが、安易に“科学的”なメスを入れようとすると嫌われるのです。一筋縄ではいかない、恐ろしい米です」

 天候不順に見舞われた今年(平成10年)は「平成の大凶作」以来5年ぶりの不作であった。けれどもコシヒカリの水田が台風で軒並み倒れても、イセヒカリだけは

「王者のごとく直立して、不気味なほどだった」

 とある栽培農家は笑いながら話した。

 ある県では今秋、イセヒカリが店頭売りされるようになった。10キロ5200円。問題は炊き方である。

「米離れ」を呼び起こしたのは誰か──恐るべしアメリカの世界戦略 [米]

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「米離れ」を呼び起こしたのは誰か
──恐るべしアメリカの世界戦略
(「神社新報」平成10年4月13日)
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 昭和40年代──それは日本の稲作の歴史にとって、そして同時に日本人の精神史にとって最大のターニング・ポイントであったといえるだろう。

 米の生産がピークに達した一方で、消費は一転して下降する。「米離れ」は「米余り」を加速させ、政府はついに歴史的な「減反」政策を開始させる。

「米離れ」の原因は、国民所得が増えて消費構造が変化したからだ、と一般には理解されているが、はたして豊かさの代償であろうか?

 米の消費量が減ったのとは逆に、小麦の消費量が増えた。ところが国内産小麦は「安楽死」させられ、実際に増えるのは輸入小麦であり、とくにアメリカ産である。子供たちにパン食を定着させた学校給食はマッカーサーの置き土産であり、小麦食奨励のパンフレットを何十万部とばらまいたのは小麦業界であった。

 日本の米は輸入小麦に喰われたのであり、「米離れ」はアメリカの食糧戦略の果実なのではなかったか。その結果が日本人の稲作信仰の衰退ではなかったのか?


▢「走る台所」に出費した狙い
▢米食民族の食習慣を変える

 ここに、20年前(昭和54年)に出版された1冊の名著がある。『日本侵攻 アメリカ小麦戦略』。著者はNHKの高嶋光雪氏である。

 著者は最初の章で、「キッチンカー」を取り上げている。年輩の読者ならご記憶かも知れないが、冷蔵庫や調理台を備えた大型バスが昭和31年から、軽快な音楽を奏でながら田舎道を走り、山村や離島に至るまで、くまなく巡回した。

 神社の境内などに駐車すると、野良着姿の主婦などが集まり、ホットケーキなど、ハイカラな料理の実演に見入り、舌鼓を打った。「走る料理教室」はどこでも人気の的だった。栄養士は「米偏重」の粒食をやめて。もっと小麦中心の「粉食」を採るよう奨励した。

「動く台所」は厚生省の外郭団体日本食生活協会が主催し、厚生省が後援した。当初は8台、その後は12台に増え、36年までに沖縄をのぞいて、ほとんど全国を回り、2万回を超える講習会を開いた。参加者の数は200万人。走行距離はのべ57万5千キロで、地球を14周したことになるというからすごい。

 じつは、この事業の資金を支出したのは、日本政府ではない。1億円を超える資金はすべて、何とアメリカ農務省が支出した。

 事業は31年5月、アメリカ農務省の代行機関であるオレゴン小麦栽培者連盟と食生活協会との契約で始まり、協会はまさにこの事業のために創設されたのだという。

 アメリカの狙いは何だったのか? ずばり言って、米食民族の食習慣を小麦に変えることだったという。

 大戦中、アメリカ小麦の生産は飛躍的に伸び、連合国の兵糧をまかなった。戦後は生産が回復しない各国から援助の要請や商談が殺到した。その後、朝鮮戦争でふたたび需要が膨らんだが、1953(昭和28)年の休戦で需要は一気に冷え込む。

 ちょうど1953〜54年は小麦の大豊作で、倉庫からあふれた小麦は港に野ざらしにされ、余剰問題は深刻化した。政府の在庫は小麦、綿花、乳製品など計55億ドル(2兆円=当時)にのぼった。

 アイゼンハワー大統領は海外にハケ口を求めることを決め、ベンソン農務長官は「10億ドル相当の余剰農産物を大統領権限で処分する法律案」を発表する。翌54(昭和29)年春には大統領特命の使節団が日本にもやってきた。

 そのころの日本は食糧不足に悩まされていたから、割安のアメリカ小麦はノドから手が出るほどほしかった。だが、慢性的な外貨不足で買うことができない。

 同年夏、ドル不足の隘路を克服する画期的な法律がアメリカ議会を通過する。「PL480」、正式には「農業貿易促進援助法」、一般には端的に「余剰農産物処理法」と呼ばれた。

 画期的なのは、たとえば日本ならドルではなく、日本円でアメリカ小麦が買えることである。しかも代金の一部はアメリカが日本国内の現地調達などに使ってくれる。残りは後払いで、さしあたり日本の経済開発に使えるのがミソである。

 こんな美味しい話はない。


▢外貨節約は好機と飛びつく
▢農業は工業発展の捨て石に

 農産物の余剰問題を解決する大統領の切り札は同時に、余剰処理で生まれた資金をアメリカの世界政策に利用するという狙いを持っていた。時代は冷戦下、借款は自由陣営の経済強化という目的があった。

 そして、もうひとつ。販売代金の一部はアメリカ農産物の海外市場開拓に運用されることになる。日本をアメリカ農産物のお得意さんにするための種が蒔かれたのだ。

 吉田首相は大いに乗り気だった。

 なにせ前年の昭和28(1953)年は不作だった。しかもワンマン政権は崩壊寸前、首相は小麦輸入に延命を賭けた。

 東畑四郎農林事務次官が呼び出され、極秘のプロジェクト・チームが組まれる。

「アメリカの小麦を入れれば、日本の農業がつぶされる」

 という厳しい指摘もあったが、

「外貨を節約できるならチャンス」

 とする現実論がまさったらしい。

 受け入れ推進派の東畑次官らは、愛知用水、八郎潟干拓など推進中の巨大農業プロジェクトに、見返り資金が使えることに注目した。

 29年秋、愛知揆一通産相を団長とする政府使節団がワシントンに乗り込んだ。難航の末、11月13日に日米交渉が妥結し、翌年5月、「余剰農産物協定」が正式調印される。

 日本は2250万ドル相当の小麦(35万トン)のほか、綿花、米、葉タバコの計1億ドル(360億円)を受け入れることになった。

 1億ドルのうち15%の55億円相当は学校給食用の小麦などの現物贈与で、残る85%の306億円が円貨買い付け分、そのうち7割が電源開発や愛知用水などに、3割が在日米軍用住宅建設、そしてアメリカ農産物の日本市場開拓などに運用される。

 日本の1億ドルは他国に比べて、ずば抜けて多かった。市場開拓の最大の標的とされたのだ。日本はPL480の見返り資金で産業開発を推進し、工業先進国への道を驀進する。その一方で農業は捨て石にされた。

 けれども東畑氏は責任を認めず、のちに次のように述懐している。

「PL480は願ってもない外貨導入になると思った。日本の農業を圧迫したとは思っていない。いまでも誇りに思っている。米離れの責任の一端はあるが、ここまで農産物の輸入依存を野放しにしたのはその後の農政の誤りにある」

 しかし高嶋氏が指摘するように、外貨導入で愛知用水や八郎潟の干拓は完成するが、愛知用水はその後、工業用水と化し、八郎潟は減反政策をまともにかぶることになる。「責任の一端」では済まされまい。

 余剰問題に悩むオレゴン州の小麦農民はPL480の成立に小躍りした。小麦栽培者連盟は弱冠31歳の市場アナリスト、のちに「小麦のキッシンジャー」の異名を取る、リチャード・バウムを1954(昭和29)年に来日させ、アメリカ小麦の売り込みに当たらせる。

 そしてバウムは東京で、キッチンカー作戦を思いつく。

 だが、「動く調理台」はなかなか動き出さなかった。農林官僚が頑強に抵抗したからだ。30年は空前の豊作であった。抵抗を抑えたのは河野農相だという。

 昭和31年春、バウムはアメリカ農務省との事業契約に調印する。初年度分として40万ドルの使用が認められた。同年秋、キッチンカーの出陣式が厚生大臣、農林政務次官などが出席して、東京・日比谷公園で行われた。

 アメリカは資金は出したが、口は出さなかった。注文はただひとつ。

「献立に一品だけ小麦料理を入れてほしい」

 ということだけだった。日本人に小麦の味を覚えさせることが売り込みの第一歩という考えで、アメリカは陰に回った。

 外国資金で推進される事業だと知る国民はほとんどいなかった。食生活協会では資金の出所に触れることはタブーに近かったらしい。

 農林省はパン食推進の後押しのために製パン技術者の講習会を開き、文部省は学校のパン給食を推進した。


▢日本人の胃袋に翻る星条旗
▢イセヒカリに大神の御神慮

 PL480は3年間の時限立法だった。農産物の余剰を解決するために考えられた法律だが、3年後には皮肉にも余剰は増えていた。

 法律の見直しが検討されたのは当然だが、1957年6月の上院農業委員会の公聴会で、バウムはこう証言する。

「日本は伝統的な米の国で、パン屋すらなかった。しかしいまや1200万人の小学生の半分がパン給食を食べている。一人当たり米消費量は戦前の149キロが119キロに減り、小麦は14キロから都市部では41キロに増えた」

 日本はアメリカ戦略の成功のお手本なのだった。高嶋氏がいみじくも指摘するように、知らぬ間に日本人の胃袋に勝利の星条旗が高々と掲げられていた。

 振り返ってみると、アメリカの世界戦略は深刻な余剰が発端である。余剰小麦を世界市場に売るために、アメリカはじつに戦略的に用意周到に行動している。恐るべき世界戦略である。

 これに対して、日本はどうだろうか?

 ときあたかも今年(平成10年)は史上最大の減反が実施されるが、96万ヘクタールにおよぶ減反の発端は、4年連続の豊作によって官民の在庫が500万トンを超えると予想されたことである。食糧庁は昨夏(平成9年夏)、6億円をかけて備蓄米「たくわえくん」の販売キャンペーンを展開したが、効果は薄かった。

 結局のところ、日本政府は生産調整を農家に押しつけるしか策がない。余剰問題を世界的視野で解決しようというような発想はまるで出てきそうにない。海外に日本の米を売りさばく食糧戦略もなければ、マーケティングのプロもいないようだ。その結果、民族の命を支え、信仰を育んできた稲作農業の未来は暗澹としている。

 アメリカの小麦戦略に、日本の米がかろうどて完敗を免れたのは、以前、この連載で取り上げた、民間人による電気釜の発明のおかげではなかったか?

 台所に電化革命をもたらした「戦後最大のヒット商品」が売り出されたのは、昭和30年12月で、キッチンカーが走り出す前年であった。電気釜の開発がもしあと1年でも遅れていたら、日本の米はアメリカの小麦に完全に駆逐されていたかも知れない。

 同時に思うのは、日本人の宗教観の行方である。

 海を望む佐渡の棚田では、田植えの日に、村人は神饌を供え、水田を開いた先祖の名を、声を限りに叫ぶという(渡部忠世『稲の大地』)。稲作は日本人の祖先崇拝と深く結びついている。小麦が米に取って代わることは、単に食生活が変わることにとどまらない。米を失ったとき、日本人は日本人でなくなってしまうだろう。

 さて、こうした稲作農業の危機、稲作信仰の危機の時代に、伊勢の神宮で発見されたのが、イセヒカリであった。

 昨年(平成9年)に続き、今年(平成10年)も、神宮ではイセヒカリの種籾が23県、50社に下賜された。栽培は篤農家を中心に、確実に拡大している。

 とくに指摘したいなのは、この米が腰、粘り、香りにすぐれ、「若者向き」と評価されることである。パン食に慣らされた若い世代の嗜好を呼び戻す効果は、十分に期待できるといわれる。この時代に「御神米」が神宮神田で生まれたことの意味をあらためて噛みしめたい。

タグ: 農水省
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