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関東大震災90年 その2 御内帑金1千万円を下賜 [関東大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 関東大震災90年 その2 御内帑金1千万円を下賜
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▽1 久しぶりの新聞に「摂政宮の御沙汰書」

 震災当日、父帝大正天皇のお見舞いのため日光に滞在されていた秩父宮(ちちぶのみや)親王は直ちに帰京され、第一師団の戒厳勤務となり、都内を巡視、皇族の総代として被災者を慰問された。

 9月4日、被災した街の辻々に、活字のほかにガリ版、手書きを含む新聞の号外が張り出された。地震発生当日から東京の新聞は発行不能に陥っていたから、号外とはいえ久しぶりの新聞である。そこには、被災者を思いやって御内帑金(おないどきん)(天皇のお手元金)が1千万円、下賜されたことが記され、左記の「摂政宮の御沙汰書」が掲載されていた。

「今回、希有の大地震、東京および近県を襲い、これに加うるに大火をもってして、その惨害はなはだ大なるはじつに国家生民の不幸なり。予はその実情を見聞して、日夜憂戚(ゆうせき)し、ことに罹災者の境遇に対して心深くこれを傷む。ここに内帑をわかちてその苦痛の情を慰めんと欲す。官民それ協力して適宜応急の処置をなし、もって遺憾なきを期せよ」


▽2 牧野宮内大臣の日記

 大震災の惨劇に直面して、その復興のため、皇室はよほどの御覚悟をされたものと思われる。牧野宮内大臣の『日記』は「九月十一日」にこう記している。

「皇族職員召集。各殿下この際における御態度如何は皇室の御徳に影響するにつき、細心の注意を要し、進んで救恤(きゅうじゅつ)、各御殿公用その他に提供等のことを訓辞す。
 総理へ面談。大詔(おおみことのり)煥発(かんぱつ)後につき協議あり。内容につき多少意見ありたるも、政府の処置に関するをもって一通り所見開陳(かいちん)、引き取る」

「御態度如何は皇室の御徳に影響する」──大震災をどう乗り切るかは、政府はもちろんのこと、皇室にとっても一大事であったろう。

 それは牧野のような側近の発想というだけにとどまらない。『古事記』に描かれている仁徳天皇の「民の竈(かまど)」の故事に代表されるように、「国平らかに、民安かれ」とひたすら祈られるのが古(いにしえ)から連綿と続く天皇のお勤めである。


▽3 首都復興への強い意志

 実際、天皇の御不例という状況下で、とくに摂政と皇后がとられた行動は獅子奮迅ともいうべきものであった。

 首都復興の強い意志を示す詔書が摂政名で発せられたのは、翌9月12日である。

「……そもそも東京は、帝国の首都にして、政治経済の枢軸となり、国民文化の源泉となりて、民衆一般の瞻仰(せんぎょう)するところなり。一朝不慮の災害に罹(かか)りて、今やその旧形を留めずといえども、依然として我が国都たる地位を失わず。これをもって、その善後策は、ひとり旧態を回復するにとどまらず、進んで将来の発展を図り、もって巷衢(こうく)の面目を新たにせるべからず。
 惟(おも)うに、我が忠良なる国民は義勇奉公、朕(ちん)と共にその慶に頼らんことを切望すべし。これを慮(おもんぱか)りて、朕は宰臣に命じ、速(すみや)かに特殊の機関を設定して、帝都復興のことを審議調査せしめ、その成案は、あるいはこれを至高顧問の府に諮(と)い、あるいはこれを立法の府に謀り、籌画(ちゅうが)経営万遺算なきを期せんとす。
 在朝有司、能く朕が心を心とし、迅に災民の救護に従事し、厳に流言を禁遏(きんあつ)し、民心を安定し、一般国民、また能く政府の施設を翼けて、奉公の誠悃(せいこん)を致し、もって興国の基を固むべし。朕、前古無比の天殃(てんおう)に際会して、〓(じゅつ)(「血」に「卩」)民の心愈々(いよいよ)切に、寝食為(ため)に安からず、爾(なんじ)臣民それ克(よ)く朕が意を体せよ」(原文は漢字カタカナ混じり)

 きわめて深刻な被害に直面して、人心は動揺し、遷都論さえ浮上していたが、摂政たる若き皇太子は、あくまで東京が首都であることを確認し、東京の復興・再建を国民に強く呼びかけた。「寝食為に安からず」という表現からは悲壮感さえただよってくる。


つづく
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関東大震災90年 その1 首都壊滅 [関東大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 関東大震災90年 その1 首都壊滅
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 関東大震災が発生して、今日でちょうど90年になります。

 犠牲者の遺骨が安置される東京都慰霊堂では、遺族などが参列し、仏式の法要が営まれました〈http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130901/k10014194321000.html〉。


▽1 340万人が罹災

 90年前の大正12(1923)年9月1日午前11時58分、相模湾沖を震源地とするマグニチュード7・9の大地震が関東・東海地方を襲いました。その直後、100数十カ所から同時に火災が発生し、東京の下町や横浜は火の海となり、壊滅します。

 関東の1府6県中(当時、東京都は東京「府」でした)、被害がもっとも大きかったのは東京府と神奈川県で、とくに神奈川の被害がはるかに大きかったそうです。損害を被らなかった家屋はなかったほどだといいます。

 1府6県の被害世帯数64万4000世帯のうち、57パーセントにあたる39万7000世帯は東京府の被害世帯で、そのほとんどは東京市内に集中していました。

 神奈川県の被害世帯数は23万7000世帯で、1府6県全体の35パーセントを占めていました。

 罹災者の総数は340万4900人、うち死者・行方不明者は10万4619人に上ったと記録されています。

 物的損害は国家予算の3倍以上に上る45億円、あるいはそれ以上ともいわれ、経済活動が1カ月間、停止するという未曾有(みぞう)の被害がもたらされました(『大正震災志 上』内務省社会局、大正15年など)。


▽2 大正天皇は日光でご静養中

 震災当時、大正天皇(明治12[1879]~大正15[1926])と貞明皇后(1884~1951)は栃木県日光の田母沢(たもざわ)御用邸で御静養中であした。

「震災記念号」と銘打たれた全国神職会の機関誌『皇国』大正12年10月号や『大正震災志 下』(内務省社会局、大正15年)、および秩父宮、高松宮、三笠宮の三妃殿下の協力で戦後、まとめられた伝記『貞明皇后』(主婦の友社、昭和46年)を読むと、この年の夏は海辺の暑気と湿気が異常なほどで、病を得られた大正天皇は不快に感じておられました。

 毎年、夏は葉山の御用邸でお過ごしになるのが恒例でしたが、さわやかな山の冷気がお体にはよろしかろうという皇后のお考えから、この年は日光にお出かけだったのでした。

 地震発生時、日光の御用邸も激しい振動に見舞われ、側近の者たちからも大きな悲鳴が上がりました。皇后はひとり落ち着き、うち騒ぐ女官たちを制し、天皇のお体に手を添えられて、庭先の広い芝生に導かれようと努められました。

「ひどい地震ですね。急いで東京に電話して、こちらは無事でいることを知らせ、また東京の様子をうかがうようにしてください」

 皇后は侍従に命じられましたが、すでに電話は不通でした。重ねての命令で、御用邸を警備する近衛部隊の伝書鳩により、天皇の御無事が東京に伝えられました。伝書鳩とはいかにも時代を感じさせます。


▽3 加藤首相急死のあとの政局混乱時

 折しも東京では、加藤友三郎首相(1861~1923)が在任中の8月25日に死去したあと、鹿児島生まれで、加藤同様に海軍軍人出身の山本権兵衛(ごんのひょうえ。1852~1933)が、大命を拝して第二次内閣の組閣に取り組んでいましたが、その作業は困難をきわめました。軍備拡張に伴って軍部、ことに陸軍の政治介入が目立つようになり、政党側は強く反発していたからです。

「維新の三傑」の一人、大久保利通の次男で、文部大臣、外相などを歴任し、この年の2月に宮内大臣に任命された牧野伸顕(のぶあき。1862~1949)の日記(『牧野伸顕日記』1990年)や、日露戦争や第一次大戦で輝かしい武勲をあげた名将で、その後、大正天皇の侍従武官となった四竈(しかま)孝輔(こうすけ)の日記(『侍従武官日記』昭和55年)、同じく大正天皇の侍従武官長奈良武次の日記(『侍従武官長奈良武次日記・回顧録』平成12年)などによると、加藤首相が亡くなったあと、外交官出の内田康哉(やすや)外相(1865~1936)が臨時首相を兼務することになるのですが、あくまで暫定措置でした。

 数日前には神戸で潜水艦が沈没し、80名が殉職する事故もありました。25日に摂政(皇太子)が軽井沢から帰還されると、直ちに内田内相の首相兼任の親任式が行われ、潜水艦事故の報告もなされました。

 次期首相をめぐって、元老、侍従長などがあわただしい動きをみせ、28日、山本に大命が下ります。摂政は赤坂離宮に山本を召して、

「内外多難の際、はなはだ苦労ながら、内閣組織のことを卿にわずらわさんと思う。切にこの大任にあたらんことを望む」

 という趣旨のお言葉をたまわりました。山本は熟考し、時勢の容易でないこととお召しに対する謝意を申し上げたのち退出します。山本が大命拝受を決意したのは、2日後の30日でした。

 31日は天長節(てんちょうせつ。大正天皇の御誕生日)。東京では特別の行事はありませんでしたが、日光では天皇が秩父宮、澄宮(三笠宮)両殿下と御対面になり、宮内大臣はじめ側近高等官らに酒肴をたまわりました。夜には小学校の子供たちや青年団員らによる提灯行列が行われました。


▽4 新内閣親任式は赤坂離宮の四阿で

 9月1日は土曜日で、いつもなら摂政は午前中は赤坂離宮から参内され、政務をこなされたあと、昼過ぎに還啓の予定でしたが、正午前に大地震が起こります。四竈は地震発生時のようすをその日の日記にこう書き記しています。

〈このとき自分は倉賀野武官とともに侍従武官府にありしが、地震は最初上下動に始まり、しばらく継続し、次いで水平動となる。三十秒もたちたるころならんか、隣接する小使室の、瓦屋根より延長されたる仮造ひさしはメリメリと音して落ち始め、瓦がポツポツ落ち始めたれば、いまは一刻も猶予すべくもあらず。〉

 四竈は摂政の御座所である西一の間に駆けつけようとしましたが、地面が揺れて、途中、満足に走ることができません。皇太子は侍従次長らとともに正殿前の御庭に避難されていましたが、大地震にもかかわらず、動じられている御様子はいささかもなかったといいます。最初の3分は激震、さらに強震が3分間継続し、その後も余震が続きました。

 難航していた組閣交渉は地震発生後、急速にまとまります。

 宮内省御用掛で海軍少将の山本信次郎の談話をまとめた『摂政宮殿下の御日常を拝して』(日本警察新聞社、大正14年)によると、新内閣の親任式は翌2日夜、摂政宮台臨(たいりん)のもと、赤坂離宮の庭の小さな四阿(あずまや)で、ろうそくの光に照らされて行われました。

 不気味に余震が続き、停電で電灯が消えたなかでの親任式を、山本は「日本開闢以来」と表現しています。日露戦争後の日比谷焼き討ち事件以来という戒厳令が、すでに関東南部全域に布告されていました。


▽5 犠牲となった皇族お三方

 当時、テレビはもちろん、ラジオ放送さえありませんでした。東京の新聞は発行不能に陥り、情報は途絶え、代わりに根も葉もない流言飛語が飛び交うという始末で、被害状況を正確に把握できません。

 想像を超える大惨事に至っていることが日光の御静養先で理解されるようになったのは、震災から一週間も過ぎたあとだったといいます。

 被害は皇室とて例外ではありません。皇太子のお住まいであった高輪御所が全焼し、夏の御静養先だった葉山御用邸も大きな被害をこうむっていました。この年、天皇は例年の葉山ではなく日光で御静養されていて、難を逃れることができたのです。

 震災発生時、政務のため皇居におられた皇太子は、

「ああ、よかった。両陛下が日光にいらしって、ここにおいでにならないで」

 と洩らされたといいます(前記『御日常を拝して』)。

 しかしながら山階宮(やましなのみや)武彦王妃佐紀子女王は鎌倉・由比ヶ浜の御用邸で、閑院宮(かんいんのみや)姫宮寛子女王は小田原の御別邸で、東久邇宮(ひがしくにのみや)師正(もろまさ)王は藤沢・鵠沼(くげぬま)の御別邸で遭難され、犠牲となっていました。


つづく

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関東大震災と東日本大震災、それぞれの「四十九日」──なぜ国は大震災犠牲者を悼まないのか [関東大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 関東大震災と東日本大震災、それぞれの「四十九日」
 ──なぜ国は大震災犠牲者を悼まないのか
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 連休初日の先月29日、来日中のダライ・ラマが、東京・文京区の護国寺で、日本の僧侶や4千人の参列者とともに、宗派を超えて、東日本大震災の犠牲者を追悼する四十九日の慰霊法要を営みました。ネパールのカトマンズでもチベット人たちの四十九日法要の祈りが捧げられたと伝えられます。

 大震災発生以来、その犠牲者を悼む世界の祈りが日本に集中しています。

 北上川の川岸、河口のすぐそばにあって、校舎の高さを超える津波にまるごと呑み込まれ、襲児童・教職員の死者・行方不明者が全体の七割にあたる80人を超えるという悲劇に見舞われた宮城県石巻市立大川小学校では、28日に、四十九日の合同供養式典が行われました。遺族のほか、市長など、300人が参列したと伝えられます。

 しかし式典は、学校の主催ではなく、市の主催でもなく、PTA主催によって行われました。憲法の政教分離原則に配慮したということでしょうか。とすれば、PTA会長が涙ながらに読み上げた弔辞で提案された慰霊碑の建立は今後、どのように実現されるのでしょうか。


▽1 関東大震災の「四十九日」追悼式

 戦前および戦後の政教関係を歴史的に考えるうえで重要な材料を提供してくるのは、90年前、大正12(1923)年の関東大震災です。

 今回の大震災では、全国のお寺が全日本仏教会の呼びかけで、四十九日に当たる4月28日、巨大地震発生の時刻に、犠牲者への鎮魂と復興への意思を込めて、鐘が撞かれましたが、公共団体が追悼行事を行ったとは聞きません。それどころか、たびたび国民への談話を発表している菅首相のメッセージには、驚くなかれ、犠牲者へのお悔やみの言葉がほとんどありません。

 一方、関東大震災では、震災後の混乱が収まりかけた10月下旬に官民の「四十九日」の祈りが捧げられました。しかし、行政の祈りは、今日の常識論的な理解とは異なり、戦後以上に非宗教的なものでした。

 震災時に約4万人の死者を出した悲劇の現場である本所区被服廠跡広場では、10月19日午後1時から、行政機関による府市合同大追悼式が催されました。

 この慰霊行事でもっとも注目されるのは、(1)東京府と東京市が合同で主催する「追悼式」と宗教団体が主催する「追悼会(ついとうえ)」「慰霊祭」とが別々に行われたこと、(2)仏教、神道団体の慰霊行事がそれぞれ別の日に執り行われていること、の2点です。

 翌20日付「東京朝日新聞」朝刊は、2面に「十万人の涙新たに。四十九日の大法要。昨日被服廠跡で府市連合のもとに……」という記事と、祭壇の前で首相の弔辞を代読する礼服姿の後藤新平内相の大きな写真を載せています。

 記事の書き出しはこうです。

「……東京府市の合同追悼会は午後一時から本所の被服廠跡で懇(ねんご)ろに営まれた。

 広場の中央に設けたバラックの納骨堂正面には「大震災遭難者霊」と大書した碑を囲んで、御下賜の菊花、各宮家の花輪をはじめ、各国務大臣、府市その他から供えられた白菊の花輪、果物などを、縷々(るる)と立ち上る香煙がめぐる。

 この追悼会を機に、参拝の人たちが秋草の花や卒塔婆(そとば)、線香などを携えて、会場へと流れ寄るので、須田町から両国あたりまでは身動きもならぬ雑踏を呈し、開会前の参拝者を係員も阻みきれず、午前十一時から礼拝を許すと、祭壇の前はたちまち花束と銀貨銅貨の賽銭(さいせん)でいっぱいになる。

 先着の永田市長と宇佐見知事がかれこれ準備しているうちに、後藤、犬養、田、山之内各国務大臣が顔を現し、……定刻、陸軍軍楽隊の奏楽裡に開会」

 新聞報道は仏教的な表現による「大法要」「追悼会」で、実際、花や線香などが犠牲者に手向けられたのですが、行政の姿勢はけっして宗教的ではありません。国民はまだしも、政治家たちの関心はほかにあることを記事は臭わせています。当時、国政は現代と同様、あるいはそれ以上に混乱の極にありました。政党と軍部の対立で組閣もままならないという政治的混乱のただ中にあったのです。


▽2 既成宗教を排除

 今日、被服廠跡に建つ東京都慰霊堂では年2回、仏式による、その名も仏教的な「慰霊法要」が行われていますが、関東大震災当時の行政機関ははるかに非宗教的な響きのある「追悼式」と表現しています。

 東京市役所が発行した公式記録『東京震災録 中輯』(大正15年3月)には、前日の式場の模様から「追悼式」の式次第までが概要、次のように描かれています。

「府市合同の追悼式の式場は、天幕にて三百四十五坪、納骨堂は五十六坪のバラック建てで、正門が新設され、大震災死亡者追悼式場の額が掲げられていた。式場納骨堂には黒白だんだら幕の装飾が行われ、式場正面には「大震火災死亡者之霊位」と書いた大木牌を安置し、前面に祭壇を設け、供物や生花などが供えられた。犠牲者の遺骨は前夜、仏教連合会の僧侶が読経する中、徹夜で大甕(おおがめ)七十に移され、各区行政順に併納、府下の分は位牌(いはい)を納めた」

 僧侶の読経が登場しますが、宗教者の関与はここまでです。

 式次第については、次のようなものでした。

一、開式(振鈴)
一、奏楽(陸軍戸山学校軍楽隊)
一、東京府知事追悼文
一、東京市長追悼文
一、総理大臣追悼文
一、東京府会議長追悼文
一、東京市会議長追悼文
一、一同礼拝(奏楽)
一、閉式(振鈴)
一、退場(奏楽)

 このように追悼式は、仏教形式ではなく、神式でもなく、振鈴とともに始まり、軍楽隊の奏楽につづいて、東京府知事、東京市長、総理大臣(内相の代読)、東京府会議長、東京市会議長の追悼文が読み上げられるという、既成宗教を排除した形式で行われました。


▽3 皇室が祭祀料を下賜

『東京府大正震災誌』(東京府、大正十四年)には、追悼式での東京府知事・宇佐見勝夫の追悼辞全文が載っています。

「……府市相謀(あいはか)り、この日、災禍の後第四十有九日の忌辰(きしん)にあたり、惨害最劇の地屍山骨獄いまに戦慄を禁ぜざる当被服廠跡において、恭(うやうや)しく祭壇を築き、虔(つつし)みて香華(こうげ)を供え、遺族各位の列席を煩(わずら)わし、朝野の名流を会し、府下遭難諸霊位追悼の式典を行うこと、恭(うやうや)しくも天聴に達し、聖恩至仁祭祀の資を下し玉い、東宮殿下また恩賜あり、これに加えて懿徳(いとく)深長とくに禁苑の菊花を賜う、これじつに民間の祭祀かつて例なきところ、各宮殿下また生花および供菓下賜の恩命あり。優渥(ゆうあく)まことにかつて聞かざるところなり。遭難惨死の寃魂(えんこん)すでに未曾有の劇苦に亡ぶといえども、何の幸いぞ、この未曾有の恩典を拝して、仁沢枯骨におよび、光栄残骸に輝き、泉下定めて感泣するところあらん。いま挙ぐるところの式はなはだ薄く、捧ぐるところ乏しといえども、海嶽の聖旨に頼りて祭式の栄やもって千古に伝うべし。府民またこの至仁至慈の聖恩を奉戴(ほうたい)して奮闘努力速やかに帝都復興の大業をなし、もって遭難諸霊の遺志を継承恢拡し、かつその遺族を撫育保全して必ず憂いなきを期せん。諸霊位、希(ねが)わくは来たりて薄(いささ)か薦(すす)むるところを享(う)けよ」

 宗教的な用語が散りばめられた宇佐見府知事の追悼辞によれば、災害の遭難者を対象とする追悼式に皇室が祭祀料を下賜され、禁裏に咲く菊花を手向けられるというのは初めてのことだったようです。

 ちなみに、東京市役所が編纂発行した『東京大正震災誌』(大正14年)によれば、両陛下からの花束一対は、とくに思召しによって、新宿御苑で栽培された花で作られたとあります。新宿御苑は当時、宮内省の所管で、皇室の御料地・農園として運営されていました。

 こうして「四十九日」の追悼式は、最後に奏楽のなかを参列者一同が礼拝し、振鈴をもって幕を閉じました。


▽4 府市追悼式直後に仏教連合「追悼会」

 今回の東日本大震災では、各地の寺院などで仏式の四十九日法要が営まれたものの、宗派を超えた合同の慰霊法要は聞きませんが、関東大震災では、府市連合主催の「追悼式」のあと、仏教連合会が主催する「追悼会」が営まれました。

 もう一度、20日付「東京朝日」朝刊を読んでみましょう。

「……(府市合同の追悼)式を閉じ、軍楽隊のマーチ「慰安する」の弔曲吹奏裡に来賓一同は退出した。続いて、仏教各宗連合の追悼会があり、各管長読経の中を一般参拝者はなおも続々と詰めかけ、「これで、みなが成仏できましょう」と涙とともに合掌していく者の数は無慮十万余人と註され、日の暮れるまで念仏の声は納骨堂に響いていた」

「朝日」の記事はごく簡単に仏教教団合同の追悼会があったと伝えていますが、仏教関係者に幅広い読者をもつ宗教専門紙「中外日報」は、10月30日付に「未だ死臭ただよう被服廠跡の四十九日祭(二)。地には団扇(うちわ)太鼓の音、空には鴉(からす)鳴く声」と題する記事を載せ、追悼会についてもう少し詳しく報道しています。

「……(府市合同の追悼式が)閉会するや、祭壇めがけて群衆が突撃する。それを押し分け押し分け、ようやく仏教連合会が椅子(いす)を並べて、各派の紫赤青白いろいろと美装した代表者を着席させる。

 すると参詣者の後ろの方で、ドンドン、ツク、ドンツクツクと盛んな団扇太鼓の音が始まって、日蓮法華の連中が耳も聾するばかりにはやし立てる。見ると、祭壇の周囲に立ててある旗、幟(のぼり)の類はことごとく「南無妙法蓮華経」の鬚(ひげ)文字である。

 すると開会の五常楽(ごしょうらく)が、ピーピーヒューヒューと鳴る。そうして次のような番組で各宗の高徳がそれぞれいろいろな芸当をやって、遺霊を慰めた」

 宗教専門紙が高僧たちのお勤めを「いろいろな芸当」と表現するのは、端的に言って、不謹慎に聞こえますが、雰囲気は手に取るように伝わってきます。


▽5 「第二法要」と位置づけた仏教者たち

 記事には、さらに次のような「東京府市主催追悼会差定」、つまり追悼会の式次第が続いています。まことに申し訳ないのですが、マイクロフィルムに収められた記事のため、鮮明さに欠け、判読不能の部分などがあり、#で示しました。

午後一時、第一追悼式 東京府知事および東京市長挙行
午後二時、第二仏式四十九日法要 仏教連合弔祭本部執行
一、奏楽入場(五常楽)
二、道場洒水(どうじょうしゃすい) 上野輪王寺門跡大照円朗師
三、奉請散華(ほうせいさんげ) 智山派管長 武藤範秀師
              豊山派管長 広瀬賢信師
四、奠湯奠茶 芝増上寺法主道重信教師
 (越天楽(えてんらく))
五、三帰三竟(さんきさんきょう) 高輪東漸寺住職#(「雨」冠に「少」と書いて、その下に「月」)絶学師
六、拈香法語(ねんこうほうご) 曹洞宗総務伊藤覚典師
七、声明念誦(しょうみょうねんじゅ) 本願寺輪番本多恵隆師
八、司読(しどく)合# 日蓮宗管長磯野日筵師
九、追悼弔# 仏教連合会代表岡本貫玉師
十、開経偈文(かいきょうげぶん) 真言宗代表松崎祐誉師
十一、読誦大乗 維那口頭(大衆同音)
 この間、施主来賓および遺族総代焼香
十二、総回向文 維那独唱
十三、奏楽退場(鶏徳)

 府市合同の追悼式とは比較できないほど仏教的な宗教儀礼が行われたことが分かりますが、同時に、府市合同追悼式を「第一追悼式」、仏教連合会の法要を「第二仏式四十九日法要」と表現するこの「差定」を見ると、各宗派が参加する仏式法要を、府市合同の「追悼式」とは別の行事であるにもかかわらず、あたかも連続する行事であるかのように、仏教関係者が位置づけていたことが推測されます。

 その背後には、後述するような知られざる歴史があります。


▽6 神道連合「五十日祭」に高松宮御拝礼

 府市合同追悼式の翌日には、全国神道連合会主催の遭難者追悼五十日祭が行われました。仏式では死後、七日ごとに四十九日まで法要を行い、四十九日で忌明けとなるという考えですが、神式では10日ごとに斎日が設定され、五十日祭で忌明けになります。

 神式の五十日祭には高松宮殿下が参列、拝礼されました。10月21日付「東京朝日」朝刊は3面で、「畏くも高松宮、親しく御礼拝。御下賜の榊(さかき)そのままに。きのう神道の追悼大会」と題し、20日午後1時から同じ被服廠跡で祭典が執り行われたことを伝えています。

「……「純国式祭場参拝者入り口」と大書した奥に、前日と同じく、両陛下、摂政宮および各宮家、御下賜の榊をそのままに、祭主宮西・日枝神社宮司が参拝者一人ひとり祓(はらい)を行い、切麻(きりぬさ)をわかち、玉串(たまぐし)を各自に捧げさせ、遺族には御霊代(みたましろ)および御供物(おくもつ)をわかった。畏(かしこ)くも高松宮殿下の御礼拝あり、府知事代理、および永田市長も参拝した」

 記事中には「御霊代」をわかった、とありますが、そのようなことは神道的にはあり得ませんから、無病息災を願う日枝神社のお守りを参拝者にお分かちしたということかと思われます。


▽7 「宗教色」を嫌った戦前の行政

 東京市の公式記録に『東京震災録』があります。中身は当然、東京府と東京市合同の「追悼式」について記述するだけで、全体の状況はつかめません。他方、「東京朝日新聞」など当時の報道を見ると、同じ日に仏教各宗連合の「追悼会(ついとうえ)」が営まれ、翌日は全国神道連合会主催の遭難者追悼「五十日祭」が執り行われたことが分かります。

 また、宗教団体が主催する「追悼会」「五十日祭」は同じ会場を使用しながら、宗教的考えの違いから、別の日に開催されています。また、府市合同の「追悼式」は「四十九日」に行われているにもかかわらず、「四十九日」とは説明していません。

「黒白だんだら」の鯨幕(くじらまく)や木牌、祭壇、位牌など日本の伝統的葬送儀礼の手法が用いられると同時に、振鈴に始まって振鈴に終わるという宮中祭祀を思わせるような形式や軍楽隊の奏楽を採用し、宗教的な言葉が盛り込まれた追悼の言葉が捧げられている半面、式それ自体には宗教者の姿はなく、既成の特定宗教団体や宗教者の関与が排除された、無宗教的な儀礼となっています。

 この点は戦後、東京都慰霊堂で行われている、仏教団体が参加する、仏教形式による追悼儀礼とは大きく異なります。

 つまり、これらの事実は、明治維新以来、戦前の日本では政治と宗教が一体化していたと考えるような、戦前の政教関係に関する常識論的な歴史認識を完全にくつがえします。当時の行政は宗教との一体化どころか、宗教を毛嫌いし、神道も仏教も既成宗教を一律的に排除しようと努めていたことが明らかです。


▽8 行政担当者の近代合理主義

 10月21日付「東京朝日新聞」朝刊は、先述したように、神道団体が主催する「遭難者追悼五十日祭」の模様を伝えていますが、同じ紙面には、当時の政教関係の粗末な実態をにおわせる神道関係者の談話が掲載されています。海外神社に関する貴重な研究で知られる神道連合会の小笠原省三のコメントです。

「我々ははじめ純国式によって追悼会をすべきことを建白した。そこで府市でも十九日、宗教儀礼を抜きにした追悼会を行い、また同日、仏教の四十九日祭も行われた。我々が五十日に行ったことについて、神仏の衝突を口にする向きがあるが、我々は古来の例によったまでで、衝突でも何でもなかった。我々は神仏混淆(しんぶつこんこう)でやることには反対したので、府市でもむしろ国例に従って国家の儀式として五十日に行ってもらいたかったのである」

 既述したように、仏式と神式とでは法要・葬祭の日取りが、片や「四十九日の法要」、片や「五十日祭」というように微妙に異なりますが、犠牲者の慰霊のあり方をめぐって宗教界内には、あるいは宗教界と行政機関との間には、不協和音があったようです。

 その背後には、今日の政教問題にもつながる、より本質的な意味が含まれていたのでしょう。というのも小笠原のコメントにあるように、府市合同の追悼式は「宗教的儀礼を抜きにした」ものだったからです。

 つまり、より端的にいえば、当時の、そして今日でもそうですが、行政担当者たちには抜きがたい近代合理主義的な反宗教的姿勢があって、だからこそ追悼式をことさら無宗教的に執り行おうとしていたのではないかと疑われます。

 反宗教的な行政とこれに反発する宗教者との軋轢(あつれき)は、とくに仏教関係者と東京市との間で、その後、表面化し、先鋭化します。


▽9 納骨堂内での宗教儀礼を禁止

 10月31日付「中外日報」に掲載された、「市は被服廠跡で宗教的弔祭を拒絶。市納骨堂から仏式を撤廃」と題する記事からは、当時の行政の反宗教的姿勢がはっきりと見えます。東京市の助役は木で鼻をくくったような態度だったというのです。

「仏教五十八派の連合機関である仏教連合会本部は、震災直後の九月五日、会を代表して増上寺の本多浄厳、神林周道の二人が内務大臣を訪ね、遺体の取り片付け、惨死者の弔祭とその管理を申し出た。その後、内務省衛生局の紹介で、東京市の澄田衛生課長に面会したところ、市は承諾し、さらに、

 「一宗派、本山で行われては管理上、困るので、各宗連合で施行されることを望む」

 と注意があった。そこで連合会では公式に嘱託されたものと理解し、以来、仮設のバラック祭場で各宗派が交代で追弔法要を行ってきた。関係者は常勤で弔祭にあたり、参拝者の賽銭、塔婆料などはすべて区役所に保管を依頼していた。

 ところが「四十九日」がすんで間もない二十四日に、突然、市の官吏が今度建てられた納骨堂にやってきて、飾られてあった荘厳仏具の撤去を迫り、

 「納骨堂では宗教の色彩がある弔祭は断じて行うことを禁止する」

 と短兵急な態度に出た。

 居合わせた僧侶が理由を聞くと、

 「我々は市長の命令でやってきたので、命令を実行すればいいのだ。理由が聞きたいなら、市と交渉するがよい」

 という剣幕で、供物や仏具は納骨堂から取り去られた。ただし、

 「納骨堂を中心とした一定の区画以外で宗教的弔祭をやるのは勝手」

 ということになった。

 服部、長田の二人が吉田助役を訪ね、理由をただしたところ、吉田は、

 「宗教団体が弔祭を行うのは感謝するが、それは納骨堂以外で随意にやってもらう方針で、市で必要な場合には取り払ってもらいたい」

 と木で鼻をくくったような態度であったから、仏教関係者は憤慨した。

 市の衛生課長が弔祭に関する管理を委任したにもかかわらず、いまになって方針を翻し、宗教の弔祭は勝手だが、納骨堂で行うことを拒絶する、というのは食言である。のみならず、市は十万の惨死者に対して、最善の方法をもって弔慰し、遺族の心を慰め、市民の精神復興に努めるべきなのに、宗教の弔祭に利便を与えず、勝手に行えという態度はすこぶる了解に苦しむ。宗教の待遇とか、教宗派の平等云々の問題ではない。惨死者および遺族の多数が仏教の信徒であるから、納骨堂で仏教各宗に弔祭を行わせるのに何の遠慮気兼ねが要るだろうか。市当局がこんな無謀なことをするのは、宗教に対する無理解が原因だ」


▽10 吉田東京市助役の啓蒙主義

 この記事に出てくる「吉田助役」とは、大正6年から明治神宮造営局書記官、総務課長を歴任し、造営を指揮した内務官僚の吉田茂(1885~1955)です。のちに米内内閣では厚生大臣、小磯内閣では軍需大臣などを務めました。牧野宮内大臣の女婿、外交官出身で、戦後、自由党総裁、首相となった吉田茂とは別人です。

 伝記『吉田茂』(吉田茂伝記刊行編輯委員会、1969年)によると、明治神宮造営は吉田を熱心な敬神家に変えたといいます。また終戦直後、「自分は天皇のお守りか神様のお守りのどちらかをやりたい」と語っていたとおり、戦後は公職追放が解除されたあと、宗教法人神社本庁の事務総長や財団法人日本宗教連盟の理事長となりました。

 けれども、この伝記の記述では、震災当時の東京市側の非宗教的姿勢を説明できません。熱心な敬神家となったはずの吉田がどうして「木で鼻をくくったような態度」をとるでしょうか。

 生前の吉田を知る人によると、彼が神道家の風格を身につけたのは明治神宮造営に関わっていたときではなく、その後、もう一度、内務省神社局にもどり、当時随一といわれた神道思想家・今泉定助ほか土着的な神道人と深く接触するようになってからだといいます。

 東京市助役時代の吉田はむしろエリート官僚ならではの近代合理主義的な発想を抜け出せなかったのです。逆にいえば、助役時代の吉田の姿勢に代表される啓蒙主義的で反宗教的な性格、「中外」の記事でいう「宗教に対する無理解」こそが当時の宗教行政の本質だったのであり、宗教者との摩擦が生じたのも当然だったのでしょう。

 戦後の宮中祭祀簡略化に関わったエリート官僚たちと通じるものがあります。戦後の政教関係における最大の問題点は、選良たちを感化できる宗教家の不在かも知れません。

 話をもとに戻すと、関東大震災「四十九日」の追悼会の段階で、すでに事件は起きていました。法要のまっ最中に、作業員がバラック作りの祭場を取り払おうとしたため、日蓮宗の講社やそこに居合わせた関係者が怒り出し、一騒動が起きかけた、と同じ「中外」の記事が伝えています。


▽11 新宗教法の制定を目指す政府

 被服廠跡での慰霊・追悼から既成宗教の色彩を排除しようとする行政とこれに反発する宗教界との衝突は、東京市と神道団体との間でも起きています。

「中外日報」11月2日付の記事「神道側でも市と衝突。被服廠跡の弔祭の件で」には次のような記事が載っています。

「市では、市の納骨堂でいずれの教宗派にも宗教儀式の弔祭を許さないという方針で、納骨堂の前面で弔祭を行っていた神道に対し、祭壇の移転方を市の公園課に申し渡し、その際、神道側との間に押し問答があったが、とにかく十月二十六日の午後二時までに移転するという約束であったが、約束の時間になっても取り払わなかったというので、公園課がお堂を取り壊しにかかった。すると神道側から抗議を申し込み、公園課の吏員との間に激論が始まり、果てはつかみ合いをするに至ったそうで、今日までまだごたついている」

 市の職員と神道人との間でつかみ合いまで起きたというのは穏やかではありません。いわゆる国家神道時代の、今日の常識論的理解をくつがえす実態といえます。

 これに対して、「中外」が伝えるところによると、仏教連合会、あるいは東京仏教護国団などは、「市の今回の措置は、宗教に対する無理解の行動である。本所深川をはじめ、各区惨死者の遺族および市民の大多数が仏教信徒であり、仏教によって懇ろに弔祭が行われることを希望しているのに、その期待を無視しているのは黙過することができない」と市会議員を動かし、署名活動に取りかかったのでした。

 しかし政府は「無理解」どころか、すでにこの数年前から、宗教法の制定、そしていわゆる「政教分離」政策を推し進めていたのです。

 さかのぼること2年前、大正10年の、全国神職会の機関誌『皇国』5月号は、4月6日付「大阪新報」の記事を転載するかたちで、文部省の粟屋宗教局長の談話を伝えています。

 それによると、新宗教法の制定はかなり前からの懸案であったにもかかわらず、手つかずのままに放置されていたのでした。明治初年の「太政官達(たっし)」を援用して、何とか問題点を糊塗し弥縫するというのが実態でした。

 日々、変化し、発展する宗教を、古色蒼然たる太政官時代の慣例、もしくは残骸とも称されるような規定で対処しようというのですから、無理が生じるのは当然です。

 そこで、ようやく明治30年代になって、政府が宗教法を議会に提出したのですが、上院が猛反対し、不成立となったばかりでなく、少なからず痛手を負わされ、以来、政府は宗教法案を鬼門として遠ざけてきた、というのです。

 新たに宗教局長に任じられた粟屋は、神道・仏教・キリスト教その他、多数の宗教を統括する新宗教法の確立に全力を傾けたい、と記事のなかで決意を表明しています。


▽12 国家は宗教に干渉せず

 つまり、この時代、いわゆる国家神道体制どころか、まともな宗教行政の枠組みすらなかった。枠組みをつくろうとする努力すら欠けていた。そのため行政の立ち後れを改善しようと、新宗教法の制定が急がれたのです。

 それなら法制化の中身は、といえば、今日、一般常識化している「国家神道」のイメージとはほど遠い、「国際基準としての不干渉の原則」が基本とされました。

 8月12日付「中外日報」に掲載された「国家が宗教に干渉するは世界の大勢に悖(もと)る、と文部当局は語る」と題された記事は、その事実を端的にうかがわせます。

「目下、宗教制度の研究調査を進めている。いかなる宗教制度を作るべきかの結論には到着していないが、とにかく国家が宗教に対して干渉するということは世界の大勢に反するものであるから、干渉方針を避けなければならぬ。欧米諸国の対宗教方針がますます自由解放主義となり、信教の自由ということがほとんど世界の通則で、わが日本においても明治維新後はだいたいにおいて不干渉主義であるが、今後はこの方針を徹底していくことが必要である。

 思想上のことは思想上から互いに陶冶(とうや)していくべきもので、宗教においてもその時代や国民に不適当な宗教がありとすれば、宗教相互の切磋琢磨(せっさたくま)によって淘汰(とうた)されていくべきもので、国家がこれに対して甲の宗教を保護し、これを助けて、乙の宗教を抑えたり、ないし宗教の改良発達を企画したりすることはよろしくない。

 西洋諸国でも、過去の我が国においても、宗教に干渉した跡は失敗の歴史を語っている。大本教のごときも国家がこれを改善せしめんと、その教義や儀式の変更を強いたり、あるいは仮に神道の教派に属せしめて、改良を促したりするようなことは、けっして国家としてなすべきことでないと思う。

 また、仮に現在の既成宗教に対して、一つの新宗教をつくってみようと思ったとて、いかんともすることができぬ。宗教の興廃消長は宗教自体、宗教相互の関係に待つべきもので、国家がこれに手を下すべきでない。

 もちろんその宗教の行動が社会にあらわれて、国家の治安を妨げ、秩序を紊(みだ)す場合には、寸毫(すんごう)も仮借することなく、国家として取り締まるべきはいうまでもない」


▽13 国家神道時代という誤ったイメージの弊害

 このように宗教法制定が進められていた大正10年といえば、いみじくもこの文部官僚が言及している神道系の宗教団体、大本教に対する「弾圧事件」が起きた年です。けれども、まさにちょうど同じころに当局者が「政教分離」政策の断固たる推進を宗教紙上で語っていることは大いに注目されなければなりません。

 ただ、ここで語られている「政教分離」は、あくまで特定宗教に対する保護政策の否定・禁止であり、宗教一般の全面的否定ではありません。ところが、現実の政策は言に反して、宗教性の排除が推進されています。関東大震災当時の行政機関は、「追悼式」という非宗教的な名称を用い、僧侶の読経も神職の祝詞奏上もないというように、宗教者の参加や宗教儀式の採用を排しています。

 国家の宗教的中立性のみならず、無色中立性が追求されていたのです。

 いつの時代であれ、死者を慰霊・追悼することは、広い意味では宗教的行為のはずで、関東大震災「四十九日」の追悼式は、前述したように、安置された大木牌を御下賜の菊花などが囲み、卒塔婆や線香、軍楽隊の奏楽などが手向けられるというように、宗教的シンボルに彩られた宗教空間で行われる、広い意味では宗教的なものでした。

 しかも「東京朝日」が「四十九日の大法要」という仏教用語で表現し、報道しているように、一般国民からは全体的には宗教的な行事として認識されていたことをにおわせます。

 また、行政機関が主催する公的追悼行事では宗教団体の関与が排除される一方で、翌日に神道の全国組織が主催して行われた慰霊祭には高松宮殿下が参拝され、府知事代理、市長が参拝しています。

 にもかかわらず、関東大震災当時の行政機関は、宗教的名称の不採用、宗教者や宗教団体の不関与、宗教儀式の排除という意味で、公的な追悼行事を非宗教的に推進しています。その姿勢は、戦後の日本政府以上に厳格とさえいえます。

 今日、私たちが常識論的に思い込んでいる、いわゆる国家神道時代のイメージは一新されなければならないと強く思います。目の前で進行している宮中祭祀簡略化もしかり、東日本大震災で行政が慰霊追悼行事さえ行わないという現実もしかり、その背景には、近代史理解の誤りがあるからです。


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