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中曽根「A級戦犯分祀」の顛末──失政の因は誤った歴史認識にあり [A級戦犯分祀]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 中曽根「A級戦犯分祀」の顛末──失政の因は誤った歴史認識にあり
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 今年も残すところ10日余りとなりました。何かとせわしい年末です。

 しかし、忘れるわけにはいかないのが、安倍総理の靖国神社参拝です。果たして、あるのか、ないのか?

 国会はすでに閉会していますから、国会論議に忙殺されるという状況ではありません。秋の例大祭に参拝を「見送った」総理はどう判断するのでしょうか?

 菅官房長官の説明からすれば、「私人」としての参拝なら許されるというのが政府の法解釈のようですが、私の考えからすれば、公人としての参拝、ひいては例大祭参列も、憲法上、可能であると考えます。

 国に一命を捧げた国民を慰霊することは国の責務であり、政府の長たる総理大臣が国民を代表し、国民的儀礼として、慰霊の誠を尽くすことは当然だと思うからです。信教の自由の保障とは別問題です。

 それはともかくとして、平成16年3月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。当時もまた、首相参拝をめぐって、混乱した議論がわき起こっていました。

 なお、記事は、同紙の編集方針に従い、歴史的仮名遣いで書かれています。若干の加筆修正があります。



▽中国国内の権力闘争

「A級戦犯分祀」論が再びうごめき始めた。震源はまたも中曽根康弘元首相である。日中関係改善のために分祀を促したい意向らしいが、靖國神社首相参拝をめぐって国際的混乱の火種が生まれたのはほかならぬ中曽根内閣時であった。

「戦後政治の総決算」を掲げる中曽根内閣は、「戦後四十年」の節目に当たる昭和六十年の前年夏に藤波孝生内閣官房長官の諮問機関いはゆる靖國懇を発足させた。

「民主主義の岩盤を作るのは健全なナショナリズムである」と考へる首相にとって、参拝は「総決算」の核心であった。「靖國神社は戦歿者追悼の中心的施設。国民や遺族の多くは首相や閣僚の参拝を望んでゐる」とする懇談会の提言に基づいて、首相は翌年八月十五日に参拝する。

「公式参拝」は戦後政治に大きな足跡を残すはずだったが、その後、事態は一転した。

 中国外務省は「日本軍国主義により被害を受けた中日両国人民を含むアジア各国人民の感情を傷つける」と批判、首相は「軍国主義や超国家主義の復活、戦前の国家神道にもどることは絶対にない」と反論したが、中国の視点はもとより別のところにあった。

 中国国内の権力闘争である。

 対日関係を重視する胡耀邦、鄧小平両首脳は事態の深刻化を望まなかったが、時あたかも「抗日戦争四十周年」、過去の記憶を呼び覚まされた長老たちは違ってゐた。

 保守派の対日批判はやがて胡総書記の「対日柔軟外交」への攻撃に発展し、親日派の総書記は追ひつめられたといふ。

 中曽根首相の言ひ分では中国の反撥を考慮し、六十年秋の例大祭時の参拝を中止したとされる。首相は翌年の正月も春の例大祭にも参拝しなかった。ダブル選圧勝といふ追ひ風にもかかはらず、終戦記念日の参拝を見送った。

 個人的にも肝胆相照らす仲となった胡総書記の立場が悪化しかねないといふ情報が首相を動かしたといふのだが、ほんとうの理由はほかにあったのではないか。


▽参拝見送りの経緯

 ブレーンであった香山健一・学習院大学教授の首相宛、同年七月の手紙が残されてゐる。

「参拝は如何なる形にせよおこなはないと決断」することが「唯一の上策」と結論する進言書だが、「国家神道は古来の惟神道を大きく踏み外したもので、戦争責任がある」「明治以降、神道は欧米の一神教に似たものに変質した」などとする近代神道史に関する認識は正しいとはいへまい。

 誤った歴史認識が誤った政治行動を導いたのではないか。

 首相は同じ頃、訪中する稲山嘉寛経団連会長に中国首脳部の本音を探ってほしい、と依頼してゐる。

 首相は稲山人脈をもっとも信頼してゐた。中国では参拝への拒絶反応が全般的に強かったが、稲山氏の感触を決定づけたのは、帰国前日の早朝にホテルに訪ねてきた胡耀邦側近の話だった。

 側近はかう語ったといふ。

〈重要なのは「戦犯」が祀ってあることだ。内政問題ではない。一国の首脳が世界公認の「戦犯」を公式参拝すれば、中国人民の感情を傷つけると同時に、日本政府の国際的イメージを損なふ。多くの国が日本軍国主義の復活を警戒してゐる。もっと強烈な反応が出てくれば、総書記といへども困った立場に立つ──〉

「稲山メモ」が極秘扱ひで官邸に届けられた。首相は後藤田正晴官房長官と相談、「開放・改革路線の総書記の立場を悪くすることはできない」との理由で、参拝見送りを決めたとされる。

 終戦記念日の当日、十六人の閣僚が参拝したが、首相は参拝せず、その理由を「日本は中国を侵略するなど、アジア諸国へ多大の被害を与へた。靖國神社にその責任者が祀られてゐるのを知らなかった。中国などの現政権は日本に友好的だが、必ずしも安定してゐない。公式参拝で内部抗争が激化し、日本との友好が損なはれれば、利を得るのは北の方だらう」と語る。

 東條英機元首相らの合祀を「知らなかった」とは信じがたい。「外圧に屈し、国益を軽んじた」との批判を、ソ連脅威論でかはしたといふことか。


▽政府の協力で合祀

 中曽根首相は、いはゆるA級戦犯の「分祀」にも動く。

 A級戦犯(昭和殉難者)十四柱が合祀されたのは昭和五十三年秋である。日本国民の感情と日本政府の政策に依拠し、十余年にわたる社内検討の末におこなはれた。

 講和条約発効を機に日弁連など民間団体は戦犯赦免運動を展開、一千万を超える署名を集めた。戦争裁判の受刑者に同情的な国民感情に後押しされて、政府は重い腰を上げ、講和条約や関係各国との合意に基づき減刑・赦免がおこなはれた。

 その結果、A級戦犯は三十一年三月までに、B・C級は三十三年五月までにすべて釈放された。

 一方でポツダム宣言受諾後、停止されてゐた軍人恩給が二十八年に復活する。

 当初は「戦犯」は対象外とされたが、「一般戦歿者と同様に取り扱ふべきだ」といふ世論の高まりを受け、翌年の恩給法改正で戦犯の家族にも恩給が支給されるやうになった。

 また戦犯の刑死・獄死を「在職中の公務死」と見なし、政府は戦犯者に対する援護措置を充実させていった。これがやがて昭和殉難者合祀へとつながっていく。

 マスコミが合祀を大々的に報道したのは五十四年だが、野党やマスコミの批判は六十年の中曽根参拝後、中国など近隣諸国に飛び火した。

 首相はA級戦犯「分祀」のために、「陰の首相指南役」四元義隆氏や金丸信自民党幹事長らを動かして松平永芳宮司を説得し、一方では板垣正参議院議員に遺族の説得を依頼したといふ。

 結局、神社側の反対と、「『A級戦犯が祀られてゐるから、首相が参拝することが妥当ではない』といふのは戦勝国の論理。同調できない」とする遺族の声が「合祀取り下げ」を阻んだ。

 中曽根首相の参拝見送り、「分祀」画策は「戦後政治の総決算」どころか、靖國神社問題の複雑化を招き、混乱はいまも続いてゐる。(参考文献=『中曽根内閣史』、「Voice」平成十五年八月号など)
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