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「大東亜戦争」勃発の経緯──「誤解と認識のズレ」か、それとも「謀略」か [日米開戦]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 「大東亜戦争」勃発の経緯
 ──「誤解と認識のズレ」か、それとも「謀略」か
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「大東亜戦争」勃発の経緯──「誤解と認識のズレ」か、それとも「謀略」か


 先週の日曜日は日米開戦の日でした。あれから72年が経ちました。平和を満喫できた、長い「戦後」がいよいよ終わり、ふたたびキナ臭さが立ち込めている昨今です。

 かつては太平洋に荒波が立っていましたが、いまは東シナ海が荒れています。

 そんなわけで、10数年前、ちょうど日米開戦60年の年に書いた記事を転載することにします。

 国土が焦土と化し、多くの国民の命が失われた歴史が繰り返されることがないように、なぜ戦争が始まったのか、なぜ戦争は始まるのか、を考えてみたいからです。

 なお、若干の加筆修正があります。



 太平洋が不気味な波の高まりを予感させている。

 宇和島水産高校の漁業実習船が、ハワイ沖でアメリカの原子力潜水艦に衝突されて沈没し、9人が行方不明のままだ。

 事故は荒馬の代わりに原潜を使った「ロデオ・ショー」の最中に起きた。「観客」16人が司令室にひしめき、操舵桿はその一人が握っていた。ソナーは練習船を探知していたというから、信じがたい事故だ。

 大統領、国務長官、駐日大使が異例の早さで謝罪したのは、日米間の重大な政治問題となりかねないからである。

 最大の疑問点は、軍用艦船が年間6万5千隻も往来する超過密海域でなぜ危険なデモンストレーションが実施されたのか。

 場所はよりによって「パールハーバー沖」である。真珠湾は太平洋艦隊の司令部があり、第2次大戦以来の潜水艦の主要基地で、60年前、日米の戦端が開かれた因縁の地だ。

「歴史は繰り返す」といい、干支は60年で一巡する。不幸な歴史が繰り返されないために、なぜ日米は開戦したのか、振り返る。


▽「民間人」が始めた日米交渉
▽アメリカ側の目的は関係回復なのか

 日米開戦にいたる詳細な経緯は案外、知られていない。

 なぜ日米は激突しなければならなかったのか。なぜ1年に及ぶ日米交渉は実らなかったのか。なぜ「ハル・ノート」が開戦の引き金となったのか。

 ここでは京都産業大学須藤眞志教授の『日米開戦外交の研究』『ハル・ノートを書いた男』と在野研究者島田和繁(故人)の「世界大戦を誘発したルーズベルトの外交戦略」(『抹殺された日本人の現代史』所収)とを比較対照させながら、日米交渉開始から日米了解案作成、松岡外交挫折までをたどってみる。

 須藤によれば、日米外交の幕開けは、昭和15(1940)年11月のウォルシュ司教とドラウト神父の来日に始まる。ヨーロッパでは第2次世界大戦が勃発し、1年以上が経過していた。

 2人は「両国間の友好関係回復を希望する」というアメリカ金融界の大物シュトラウスの紹介状を持ち、松岡洋右外相ら要人と面談した。

 2人には何ら公式の権限はなかったが、背後にはルーズベルト大統領の選挙参謀を務めたこともあるウォーカー郵政長官がいた。

 帰米した2人は、松岡らとの会談ででき上がった覚書を、「日本側提案」として大統領に提出する。

「日本陸軍を漸進的に中国から撤収することを条件に日米間で話し合う」という内容は、正式な日本提案ではなかったのに、である。

 須藤は「2人の勇み足がアメリカ政府の誤解を招いた。正式な日米交渉のまえに、すでに誤解があった」と、開戦の遠因を指摘します。

 同年2月、井川忠雄元大蔵次官(産業組合中央金庫理事)が渡米する。

 ウォーカーは井川を「公式交渉権を与えられた人物」として大統領に紹介するのだが、実態は「全権代表」でも何でもなかった。

 それでも井川とドラウトは日米関係改善のための原則的協定案を作成し、ウォーカーは3月中旬、三国同盟からの日本の脱退、太平洋の平和の保障、中国の門戸開放などを内容とするメモランダムをハルに提出する。

 しかしその内容は、日本の立場とはかなり食い違っていた。

 そもそもウォルシュとドラウトの来日に、大統領はどう関わっていたのか。

 記者の取材に対して、須藤は「ウォーカーの背後にルーズベルトがいたことは確実」としながらも、「大統領がどんな指示を与えていたか、は資料的には分からない。日米衝突を当面避けたいという思惑はあったと思う」と語る。

 これに対して島田は、次のように考える。

──ナチスとその同盟者を憎悪し、アメリカはナチス打倒の世界大戦を決行しなければならない、と信じたのがルーズベルトであり、大統領選挙戦中は「反戦中立」を絶叫し、大げさに公約したが、権力を手にしたあとは態度を急変させた。日米交渉は戦争回避のための行動ではない。逆に「民主主義擁護」のために、戦争を世界的に拡大したのがルーズベルトである。

 そして、2人の来日は、ハルの回想から、大統領らが2人に個人的資格で日本大使館と連絡を取らせ、日本側の考え方をまとめさせたのだと理解する。

 須藤の研究には、「誤解と認識のズレが日米両国をよりいっそう対立的にさせた」という考え方が底流にある。他方、島田の理解は、ルーズベルト一党の謀略、仲介者の誤解、それに基づく日本政府の錯覚で日米交渉は展開されたとの論理で貫かれている。

▽アメリカは了解案に同意の意思なし
▽アメリカ案と思い込み糠喜びの日本

 野村吉三郎大使(海軍大将)がワシントンに赴任したのは同年1月である。前年夏以来、駐米大使は空席であった。

 3月中旬にはルーズベルトと野村の正式会談が開かれた。須藤によれば、大統領は会談の席で、日独伊三国同盟に強い懸念を示し、日本を追及した。

 前年9月に締結された日独伊三国同盟は、英米を仮想敵国とする内容を含み、日米関係を悪化させる原因であった。ドイツを第1の敵ととらえ、ヒトラーを悪魔のごとく罵るルーズベルトやハルは、日本を「打倒すべきファシズムの一員」と規定した、と須藤は理解する。

 須藤はまた、日本とアメリカでは三国同盟の持つ意味が異なっていた、と指摘する。日本にとっての三国同盟は現実的な外交手段であったが、アメリカにとってはイデオロギー的な意味が強かった。

 ここにも埋めがたい認識のズレがあったと須藤はいう。

 他方、島田は、日独伊三国同盟はアメリカの参戦を防止するための純然たる防御同盟であったことを強調する。

 日本は対外戦争への準備というより、ドイツと友好関係にあったソ連に接近する足がかりとして期待した。ソ連を加えた四国連合勢力の威力を背景に日米間の調整を進めれば、泥沼の支那事変から脱出する道を探れるのではないか、という期待である。

 そして、そのことはアメリカも正当に理解し、アメリカは同盟それ自体に脅威を感じてはいなかったという。

 3月末には陸軍軍事課長岩畔豪雄が渡米し、井川・ドラウトの協定案づくりに加わる。作業の過程で、ドラウトは「もし日本が三国同盟から脱退するなら、日ソ戦争が起こったとき、アメリカは日本を援助するという一文を入れてもいい」という驚くべき提案をしたともいう。

 第一次試案、第二次試案を経て、4月16日には「日米了解案」の最終案ができあがる。

「何らの拘束力はない」という断り書きが付された了解案だが、日本に送付される段階で、ハルは野村に念を押した。

(1)すべての国家の領土と主権の尊重、(2)他国の内政不干渉、(3)通商の平等を含めた平等の原則の遵守、(4)太平洋の現状維持──いわゆる「ハルの4原則」。

 しかし、須藤によると、野村は添付の約束を守らなかった。

 了解案が東京に届いたのは、閣議中であった。松岡は訪欧の旅に出ていて、不在だった。

 須藤によると、ここにまた重大な「誤解」が生じる。近衛は了解案を「アメリカ案」と思い込み、夜の閣議でそのように紹介してしまう。そこには「満州国の承認」「ハワイでの首脳会談」という内容も含まれていた。もちろん閣僚たちは驚いた。

 日米双方にとって、了解案の持つ意味とは何だったのか。なぜ日本側は「アメリカ案」と思い込んだのか?

 島田によると、井川は「世界歴史上、特筆大書に値すべき大事件の礎石が置かるる運びと相成りし候」(近衛宛書簡)と手放しで喜び、岩畔は東條らへの電報で「大統領の同意を得た」と説明するのだが、ハルや国務省当局者は逆の見解を持っていた。

 了解案は「日本側からの提案」で、「アメリカは同意する意思が最初からなかった」とのちにハルは回想しているのだ。

 にもかかわらず、野村の報告に総統の誤訳(潤色)があり、そのために日本政府に錯覚を与えることになった。そして、野村の「誤解」は「アメリカの巧妙な罠にかかった」と島田とあくまで陰謀論的に理解する。


▽「四国協商」の見果てぬ夢
▽閣外追放で松岡外交の挫折

 松岡は満州にいた。

 近衛は「アメリカから重要な提案が届いた」と電話で伝え、早期帰国を促す。

「もう来たか」。松岡もまた「勘違い」していた。モスクワでのスタインハート駐ソ大使との会談についての返事と早合点したのだという。

 松岡が訪欧の旅に出たのは3月中旬。須藤によれば、狙いは日ソ関係の調整にあった。松岡には三国同盟にソ連を加えて四国協商にする、という大構想があった。松岡はベルリンでリッベントロップ独外相から「独ソ関係は破綻しつつある」と告げられたが、信じなかった。

 難航の末、日ソ中立条約が締結される。

 須藤によると、松岡訪欧には、日米国交調整についてスタインハートにルーズベルトへの伝言を依頼する、というもうひとつの目的があった。やがてみずから渡米して日米の諸案件を一挙に解決しようという思惑であった。

 果たせるかな、帰国後、松岡は自分の「勘違い」を知り、機嫌を損ねる。

 島田によると、陸海軍も近衛も楽観的な期待をいだいた日米了解案だが、松岡以下外務省当局者は露骨に反感を示した。井川や岩畔、野村らの工作はまったく信用されていなかったという。

 5月上旬の連絡会議で、支那事変に貢献する、三国条約に抵触しない、国際信義を貫く──を内容とする「松岡3原則」が提議される。

 松岡は、三国同盟をアメリカが承認すること、同時にアメリカが蒋介石に圧力をかけることによって日中間の紛争解決に貢献すること、を期待したという。だが、須藤が指摘するように、ドイツとの協調はアメリカの立場とまっ向から対立していた。

 須藤によれば、松岡は少年時代の在米体験から、「アメリカ人は力の信奉者であり、力には力で対応する必要がある」と信じ切っていたが、アメリカはアメリカで、あくまで強硬な原則外交を展開した。

 先の了解案を、5月12日、野村はハルに手渡した。しかし了解案の目玉であったはずの日米首脳会談の提唱は松岡の反対で削除されていた。

 島田によれば、松岡修正案は、三国同盟離脱を要件とする日米了解案の趣旨を根本から否定するものであった。アメリカは日本を三国同盟から離脱させ、日支関係を満州事変以前に戻そうとしたが、それは松岡にはとうてい受け入れられなかったという。

 6月22日になって、アメリカから正式な回答があったが、同じ日、独ソ戦が勃発し、松岡の四国協商構想は頓挫する。

 それよりも、アメリカの回答に添付されたハルの口頭文書に松岡批判が含まれていたことが、松岡の怒りを爆発させる。

 7月中旬、撤回要求にハルは応じるのだが、同じ日に内閣改造があり、松岡は閣外に放り出される。こうして松岡外交は挫折する。

 松岡外交破綻の要因として、須藤は、松岡の自己過信をあげる。

 四国協商にこだわり、独ソ離反の情報に耳を貸そうとしなかった。もうひとつは、ドイツ軍の破竹の勢いに目を奪われ、ヒトラーに魅了されていた反面、アメリカの孤立主義に望みをかけ、「民主主義の兵器庫」になると言明するルーズベルトの演説に耳をふさいでいたことだ。

 一方、島田は、アメリカは日米交渉で妥協する意思はなく、ただ時間稼ぎのために会談を繰り返した。しかし交渉妥結を焦る近衛・東條らがアメリカの意を迎えるために松岡を追放した、と理解する。

 第3次近衛内閣発足後の7月23日、仏印の日本軍がいっせいに南下する。すぐさまアメリカは日本資産の凍結、石油・くず鉄の禁輸を明らかにし、日米交渉は暗礁に乗り上げる。

 10月中旬に近衛は内閣を投げ出し、代わって東條内閣が登場する。その後の経緯については、稿を改める。
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