So-net無料ブログ作成
検索選択
靖国神社 ブログトップ

靖国神社「遊就館」見学を止める宝塚市──「侵略戦争を美化」と共産党市議に批判されて [靖国神社]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 靖国神社「遊就館」見学を止める宝塚市
 ──「侵略戦争を美化」と共産党市議に批判されて
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「政教関係を正す会」から「はがき通信」が届きました。

 テーマは、5月末に宝塚市議会で共産党議員が、市内中学校が修学旅行で「過去の侵略戦争を美化している」靖国神社の遊就館を見学していることについて問いただし、結局、「今後は利用しない」と同市学校教育部長が答弁、「屈服」したというものです。

「はがき通信」は、児童生徒による宗教施設の訪問に関して、戦後の歴史を振り返り、以下のような3つのポイントから、批判を加えています。

(1)占領時代、昭和24年の文部事務次官通達で、「文化上の目的」「強制、命令しない」という条件なら許されるとされていた。

(2)もっとも、「靖国神社、護国神社および主として戦没者をまつった神社を訪問してはならない」という留保がつけられていたが、平成19年になり、この禁止条項が失効している旨、文部科学省が回答している。

(3)平成20年に、平沼赳夫議員の質問主意書に対して、福田康夫首相が「靖国神社についても参拝してよい」と答弁している。

 国政レベルで明確な見解が示されているのだから、「参拝を続けるべきではないか」というわけです。「政教関係を正す会」の「はがき通信」としては、じつにそつのない主張です。

 けれども、政府見解を解説することが根本的な解決につながるのかどうか、私は疑問を感じています。

 もっとも核心的な問題は戦後の日本政府の見解ではなく、過去の戦争そのもののはずですが、共産党議員が指摘した「過去の侵略戦争を美化している」云々について、「はがき通信」には反論が見当たりません。

「はがき通信」は、近代の戦争が「侵略戦争」であるとも、靖国神社が「侵略戦争を美化している」とも、認めていないはずです。靖国神社は「侵略戦争を美化している」けれども、「参拝してかまわない」ということではありません。

 それなら、「美化していない」から「参拝」は許される、ということなのでしょうか? それもヘンです。


▽1 なぜ「軍国主義」の中心施設とされたのか

 靖国神社の歴史は明治2(1869)年に東京招魂社が創建されたことに始まります。同7年に行幸になった明治天皇は「我国乃為をつくせる人々の名もむさし野に止むる玉かき」と詠まれ、同12年、「靖国神社」と改称されました。

 イタリアの古城を模した遊就館が落成したのは同14年、お雇い外国人カペレッティの設計でした。

 国に一命を捧げたという一点において殉国者を祀るのが靖国神社であり、遊就館は古来の武器陳列場でした。靖国神社に特定の歴史観はありません。

 靖国神社に最大の転機が訪れたのは、敗戦直後です。

 アメリカは戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉であり、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと理解していたようです。

 ボツダム宣言には、「軍国主義」が世界から駆逐されるべきことが明記され、日本政府はこれを受諾し、戦争は終わりました。

 アメリカ国務省は「国教としての神道、国家神道の廃止」を占領政策に掲げ、占領軍は「神道、神社は撲滅せよ」と叫び、靖国神社の「焼却」がもっぱら噂されました。

 20年暮れにいわゆる神道指令が発令され、靖国神社は国家との関係が絶たれ、翌年の宗教法人令の改正で一宗教法人となりました。

 しかし、靖国神社の歴史は続いています。

 靖国神社が侵略戦争を推進し、世界の平和を脅かす中心的施設だというのなら、ポツダム宣言を受諾した以上、爆破焼却されても文句は言えません。

 ところが、靖国神社は「廃止」「焼却」を免れたのです。

 それだけではありません。

 小林健三、照沼好文『招魂社成立史の研究』錦正社、昭和44年)によると、20年11月の臨時招魂祭・合祀祭に参列したCIE(民間情報教育局)部長のダイク准将は「たいへん荘厳でよかった」と感激したことが伝えられています。

 この落差は何でしょうか?

 靖国神社は何をもって、「軍国主義・超国家主義」の中心施設とされたのか、が事実に基づいて、解明されるべきです。同時に、占領軍はなぜ、靖国神社を「焼却」しなかったのか、を実証的に究明すべきです。


▽2 靖国神社に優る施設があるのか

 くだんの宝塚市議の活動報告には、「市内の中学校が修学旅行の平和学習として靖国神社の軍事博物館『遊就館』を見学した。過去の侵略戦争を『アジア解放の戦争』と美化する特殊な施設をこれからも平和学習として利用するのか」と質問し、「遊就館は適切ではなかった。今後は利用しない」との答弁を得たことが記されています〈http://tanakakou.exblog.jp/19648655/

 今後、宝塚市は「平和学習」のため、中学生たちにどこの施設を見学させるつもりなのでしょうか?

 戦前、30年の長きにわたって靖国神社宮司の地位にあった賀茂百樹は、「侵略戦争の美化」どころか、平和を訴え続けました。

 晩年、病床で口述した「私の安心立命」(昭和9年)には「神ながらの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未然に防止し、平和を保障するのが最上である」とあります。

 靖国神社の宮司が命を振り絞って「平和」を訴えながら、それでも戦争の惨禍は止められませんでした。それが歴史です。

「平和」を願い、死者たちに静かな祈りを捧げようとしても、「軍国主義」「侵略戦争」と指弾されるのが、世界の現実です。

 この厳しい歴史と現実を教えてくれるのが靖国神社です。共産党市議も宝塚市も、これにまさる「平和教育」があるとお考えでしょうか?
タグ:靖国神社
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国  第8回 おわりに [靖国神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
    第8回 おわりに
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


[1]「不参拝」明言の首相に期待する中国

 このシリーズを書いているさなかに特別国会が開かれて、政権は長年続いてきた自民・公明両党から、民主党が国民新党、社民党と参議院工作のために連立を組んだかたちに交代した。

 新しく首相の座に就いた鳩山党首に対し、中国新華社通信はただちに歓迎のメッセージを発した。そのなかには、次のような文面があった。

 「中国政府は、鳩山新首相が『自分は首相になっても靖国神社には参拝しない』とかねてから明言している首相だから期待が持てる。彼の指導のもとに、新しい日本に生まれ変わることが出来ることを期待している」

 中国が、まるで靖国神社の英霊たちが中国侵略の主導者であったかのような論理を作り出し、靖国神社を日本軍国主義の拠点であるかのように批判していることを、日本人はよく知っている。

 そしてこれは中国政府が本気でそう思っているから発言しているのではなく、国内をまとめ、中国国内の指導部や国内情勢に不満が集中するのを避けるため、国内宣伝用に靖国神社を仮想敵に擬しての発言であることをも、我々も知っているつもりだ。

 国内に大きな不満を抱える大衆を擁する中国政府は、大衆の不満をぶつける目標物の一つに日本を利用している。これは韓国など近隣のアジア諸国がよくやる手段である。


[2]もっとも安心できる攻撃対象

 だがその中国も、これから自国が経済的に発展をしていくために、日本とのより深い交渉も必要である。大衆が攻撃する相手であっても、その対象は選ばなければならない。そこで靖国神社がその対象として選び出されたのだろう。

 彼らとて、日本の過去の軍事脅威を本気で恐れ、非難をするつもりなら、命令されて現地に駆り出され、国の手足となって戦闘をして戦死した兵士たちよりも、生きて帰還した兵士、いや、彼らを徴兵して戦地に向かわせて攻撃するように戦略を練り、彼らを差し向けた日本の国およびその責任者を責めなければならないことぐらいは知っている。

 だが、日本国やいま生きている日本国民は、これから中国が自国のために利用したいと思う相手なのだ。理屈から思えば、靖国神社の英霊などよりはるかに警戒しなければならない対象なのだが、敵にしては中国自身も困るのだ。

 だとすれば、大衆の現状に対する不満のガス抜きのため、攻撃すべき対象として、日本でもっとも安心なのは、もうすでに、死んでしまって、物理的には反撃しない日本の英霊たちである。

 幸いなことに、日本国内には、マスコミや進歩的文化人といわれる者などを中心に、国のために亡くなった人に対して、理屈がわかっているのかいないのか、同じようなことを平然という人がいる。

 敗戦直後にアメリカ占領軍の権力と強力な圧力や洗脳教育を利用して力を得て、それ以来、占領開始直後のアメリカ軍の主張であった靖国神社を軍国主義の中心だ、との主張を続けているグループである。


[3]マスコミに乗せられる首相

 もっともこんな環境を作った張本人のアメリカは、とうの昔に前言を翻して、靖国神社批判などは一切しない。靖国神社に参拝して表敬する外国の軍隊のなかでも、もっとも多いのは、国別にみるとアメリカ軍なのだ。

 靖国神社を批判する勢力は、敗戦までは率先して日本軍事拡張論の先棒をかつぎ、日本を戦争へ誘い込む大きな「功績」をあげたマスコミである。

 彼らはつねに流れる時流の先端に立って、とんでもない方向に社会を引っ張っても平気な顔で、時流が変わるとまた新しい勢力の先棒をかつぐ。

 鳩山首相はこれまで、そんなマスコミなどの宣伝に乗せられて、自分が国の首相になって日本国の長い権利や義務を引き継ぐ立場になってからも、「靖国神社の英霊に対して敬意を表さない。そんな国の首相としての行為はしない」と発言した。

 またあるときは、靖国神社に代わる、無宗教式の戦没者追悼施設を作るなどと、たとえ作っても、ほとんど誰も参拝しないような国立施設建設構想を述べたこともある。

 我々にとってははなはだ困った首相であるが、中国は、そんな首相なら、大いに利用してやろうじゃないか、と思っているのだろう。

 どうしてこんな歪(ゆが)みが出たのか?


[4]独立国としてのプライド

 戦後の自民党政治の最大の欠陥は、敗戦でゆがみ、卑屈になった国内の状況を、健全にすっきりさせ、発展させていくという解決法を避け、問題点を国の立場で明確化せずに、あいまいのまま放置し、目先の世俗の利権のみを追い続けるところにあった。

 占領中に押し付けられたさまざまな変革は、わずかではあるが従来のやり方に付け加えた方がよい知恵も混ざっていたとは思う。

 だが、日本は長い歴史を誇る独立国である。

 みずからの生き方を、占領軍の命令によって変えさせら、甘んじて屈辱の中に生きることはプライドが許さない。たとえば法律なども、条文の中身は同じでも、日本国民の代表者が日本の国会の場で、再度決め直すぐらいの決断があってほしかった。

 いわんや、英文を和訳したような憲法という基本法をどうするのか?

 日本弱体化のため、国民が国民として互いに協力し合う共同体意識を否定し、個人のわがまま勝手ばかりを助長する、占領行政の精神姿勢のもとになったのがこの憲法だ。

 憲法問題、教育問題、日本文化への誇りを回復させる問題、家族や家庭の見直し、国を愛する心、義務を果たす心、教育の在り方など、見直しすべき点は多いが、少しも手をつけられないで、60年になろうとしている。


[5]日本自身の仕事

 今回は靖国神社の問題に的を絞ったのでそれらの点には触れないが、さまざまな解決すべき課題があるのに、そんな問題解決には消極的で、日本の国は烏合(うごう)の衆のような状態で独立回復後も歩んできてしまった。そのために、日本はいつまでたっても戦後体制から抜けきれない。

 独立国としての誇りを取り戻すことに手を抜いて、あらゆる問題をあいまいのままに先送りした政治姿勢。そんな空気が日本の国から活力を抜き去った。それをしようとしなかったために、政治は惰性に陥って、政権交代に追い込まれてしまったのだとも言えるのではないか。

 今回、私が取り上げた靖国神社への対応にしても、国家護持そのものへ真剣に取り組もうとしないから、無用な混乱ばかりをいつまでも引きずって、国はまとまりの大切さも、先輩たちの苦労も知らぬ国民で、その社会としてのまとまりのなさで、日本自身が苦しむ結果が次々に積み重ねられてきた。

 日本は大東亜戦争を起こしてそれに敗戦した。それは紛れもない現実である。だが、日本国はそこから何を学ぶべきなのか? なぜ負けたのか? どうしてこんなに大きな犠牲が出てしまったのか?

 過去の日本の姿勢のどこが欠陥で、変えねばならないものだったのか? どこが変えてはならないものだったのか? それらをしっかり学んで、そこから新生日本の道を目指す、そんな努力をどこまで冷静にしたのだろうか?

 これは日本自身がやらねばならないものであり、日本自身の仕事なのである。

 世界の国々は、長い歴史の中に幾度かの敗戦の悲劇を経験し、それを機会によりしたたかな国、より知恵のある国に生まれ変わっている。だが有史以来、初めての敗戦を経験した日本は、検討すればどれだけ大きな成果が得られるのかわからないのに、それもせずに今までだらだらやってきてしまった。


[6]日本国の行うべきこと

 日本には建国以来の長い一貫してきた歴史がある。そこには世界に比較する相手がないほどの長い文化の蓄積がある。そんな国の蓄積してきたものは大切にしなければならない。

 歴史のなかには、この国のために命を失わざるを得ない人もたくさんあった。靖国神社はそんな人々を、忘れることのないようにまつる日本独特の組織であった。

 国は靖国神社を維持することにより、国自身の軽率な行動で、悲劇の祭神を増やすことがないようにいつも心し、安らかなる国「靖国」を目指し、国の責任者は、靖国神社で英霊たちの御霊に接して、神社の祝詞にも必ず出てくる「平(たいら)けく安らけき」浦安(うらやす)の国を目指す誓いを思い出し、国民は、いまある自分らの生活の基礎には、英霊たちの尊い犠牲の積み重ねがあることを自覚してきた。

 天皇陛下は靖国神社に行幸されて、悲しくも国のために死なねばならなかった彼らに対して慈しみの情をいよいよ深め、国民にこの種の犠牲者が出ることのないように祈られた。こんな機能を靖国神社は果たしてきた。

 私は靖国神社の英霊たちこそ、身をもって靖国=平和の尊さを実感された方々だと思っている。

 世間には靖国神社が、まるで「かたき討ち」を誓うような場所であり、参拝者は英霊を死に至らしめた相手に対して報復を誓いに集まる場所であるかのように宣伝に努めている者もいる。

 だが、靖国神社へ参拝する人の姿を見れば、それがまったくの偏見であり、日本人の国民性とはまったく違うことははっきりしている。

 靖国神社の英霊たちは、厳しくも悲壮な最期を迎えるにあたって、靖国神社に祀られて、そこから一本の将来が明るく伸びていく姿を見ようと亡くなられた。一日も早く靖国神社がそんな聖なる国の施設に立ち返ることを待っておられると思う。


[7]最後にお断り

 この文章は、5年前、それまで30年以上奉職していた仕事を後輩たちに譲って退職し、自由な立場に立つことになった私が、かつては奉仕していた仕事の関係で、発言を控えていた私の意見を、率直かつ勝手に書き並べたものです。

 たとえば、神社界や靖国神社などに奉仕をされる方々のご意見と、私の勝手なこの説とはおのずから違う主張を含むものであり、必ずしも重なるものではありません。したがって、この文章の責任はすべて私個人にあることをお断りしておきます。


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

3 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第6回 国家護持運動後の歪(ゆが)み [靖国神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 3 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
    第6回 国家護持運動後の歪(ゆが)み
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


[1]祭神を決めるのは誰か?

 靖国神社が昭和53(1978)年10月、東京裁判での刑死者など14人を新たに祭神に加えて合祀したことが、いま、靖国神社を論ずる上で大きな話題になっている。

 この問題に関しては、それを正しいとする者と問題だとする者が対立して、どちらも譲らず、それは解決への糸口も見えぬところにはまり込んで、不毛な対立が続いている。

 私は、東京裁判はもちろん認められるものではない、と信じている。日本をミスリードしてしまった者への責任追及は、外国などのするべきことではないからだ。主権を持つ日本自身が、どう解決するかを判断すべき唯一の権利者である。

 だが、彼らを新しい靖国の英霊と認めるのは新しい判断に属するので、日本に権利があるとしても、しっかり判断する当事者は国民であり国であって、靖国神社の祭神にするか否かも、これまで祭神決定権を行使したことのない靖国神社が独自に判断しうる問題なのか否かには、異論も持っている。

 もちろん、宗教法人であるいまの神社には、合法的にそれを決める法的自由はあるのだが、それを決める権利の実行は、靖国神社に宗教性を付け加え、国家護持への道を遠くすることになりかねない。

 戦後の靖国神社をどうするか、この大切な問題に関して、合祀はのどに刺さった骨のような問題となってしまった。


[2]祭祀制度委員会の委員だった父・珍彦

 少し脱線を許されたい。

 じつは当時、私は全国神社を対象に出している週刊新聞である「神社新報」の編集長をしていて、この問題にも深いかかわりがあり、思い出もある。

 そんなところから、その前後の状況、なぜこんな事態になってしまったのか、に関して解説し、私なりにどう解決を考えたらよいかを、国民にまじめに考えてもらいたい、と考えている。

 前章まででもちょっと触れたが、靖国神社は明治12年に招魂社から「神社」と改称された。戦前は陸海軍省に属する機関で、同じく戦前は旧内務省系の管轄に属した全国神社とは異なるのだが、戦後は神道指令によって宗教法人として存続の道を求めねばならなくなった事情があり、全国神社の集まる「神社本庁」とは仲の良い付き合いもある。

 靖国神社は「全国神社と靖国神社の違いを明瞭にして、一日も早く独立回復後は国家護持を果たしたい」との思いから、神社本庁に参加はせずに、法的には一社独立した存在としてやりながらも、日常においては、いつも連絡を取り合っていた。

 両者はきわめて親しい関係にあり、ときにはお互いに神職の人事の交流も行って、共通の問題などに共に取り組むこともある。

 神社本庁の報道機関として戦後すぐに発足した神社新報も、そんな関係で靖国神社とはきわめて近い間柄にあり、終戦直後に占領政策を先読みして神社本庁を設立、全国神社の存続を図った私の父・葦津珍彦(あしづ・うずひこ。神社新報創立者の一人で元主筆。明治42[1909]年生、平成4年没)は、もう一人の神社本庁からの派遣されたO役員とともに、靖国神社の祭祀制度委員会の委員をも兼ねていた。


[3]手探りの組織運営

 この祭祀制度委員会とはどんな組織だったのか、を説明すると……。

 国家の施設であった時代の靖国神社には、国が定めた英霊をまつり、儀式を行うが、祭神決定権は持っていなかった。戦後、やむなく宗教法人として独立はしたが、独立をしたのちになっても、その軍の施設であった最後のときに行った臨時大招魂祭により、従来の国の祭祀基準に合致する祭神は合祀できる道だけは確保していた。けれども、その他の祭神合祀に関しては決まりも持たなかった。

 そんなままで、外見は独立した宗教法人に法制度上は移ったのだが、その後の新しい事態が起こるたびに、どう対応するか、祭式、催事などの運営にどう対応するかなども、模索しながら進む状況にあった。

 しかも将来は、速やかに国の機関に復古をしたいという思いもある。そんな条件付きでの運営だったのだが、そんな神社の活動していく基本方針を審議するためにはかなりの配慮が必要になる。

 そこで宮司直轄の機関として設けられたのが、この祭祀制度委員会であった。

 靖国神社には宗教法人になってからも、厚生省から新たな祭神名簿は次々に送られてきていた。そのたびに神社では新しく祀る英霊を宮中に報告、陛下の御内覧の後に合祀をしていた。

 それらはかつての管轄であった陸海軍省が、官房の審議室で審査し決定した英霊の条件に従っていた。政府は20年11月の臨時大招魂祭で、調べ残した英霊があることを予想して、それらの霊も合わせて霊を招く祭りを末に実施していた。

 これがあるから、当時の基準を満たすかぎり、祭神のお名前を付け加えることが、いままでとまったく変わらぬ、という解釈の下に、できたのである。


[4]国家護持回復が先決

 だが、昭和41年、厚生省からは先の東京裁判の刑死者並びに拘禁中の刑死者の名簿が届けられた。

 東京裁判が国際法にも違反する裁判の名を借りた報復劇であることは、日本の国会でも認めている。したがって、厚生省では彼らに対して、すでに恩給や年金を支給しているし、少なくとも厚生省の判断からみれば、彼らは先の大東亜戦争により、戦死した殉職者ということになるのだろう。

 厚生省から通知があったことを知り、靖国神社の総代会は、彼らを新たに祭神に合祀すべきだと決議を行った。

 靖国神社が一般の宗教法人なら、ここで合祀の検討に入るところだろう。だが、祭詞制度委員会で合祀延期を提案したのが、葦津珍彦と神社本庁の委員O氏だった。

 その理由はこうである。

 「宗教法人であるいまの靖国神社には、法的には祭神決定の権利がある。しかし、それまでの靖国神社にはそれはなかった。それを取り入れることは、靖国神社の姿を靖国神社の方で以前と変わったものにすることになる。しかも、東京裁判に関してはそれを肯定するような理屈のわからぬ勢力もあり、大きな波紋を招く事態も考えられる。いまの靖国神社は総力を挙げて国家護持を回復し、英霊たちの御霊を慰めるべき時期なのだ。まずは国家護持を実現する運動に取り組み、余計な批判の種になると予想される問題は避けるべきだ」

 これは葦津の意見だった。


[5]前例のない処理をすべきでない

「靖国神社の関係者が、彼らを祭神に加えてほしいと思う気持ちは理解する。しかし彼らは日本国の兵士ではなく、指導者であった。いま、神社は国家護持回復を最大の目標に運動している最中だ。靖国神社に祀られている部下の英霊たちは、一日も早い国の慰霊追悼を受ける日が来るのを待っている。その日が来るまで、あなた方は指導者なのだから待ってください、と東京裁判殉難者に言えば、これらの祭神も我慢してくれるはずだと思う」

 このように葦津は力説して、この件は宮司預かりにして、直ちに合祀はしないことを主張した。

 かくしてこの問題は、葦津らの提案を受けて、宮司預かりとなり、合祀は先送りされることになった。

 葦津珍彦は私の父である。父は、国から預かっている靖国神社は、できるだけそのままの形で国に戻したい、と考えていた。

 祭神決定権は宗教法人の最も大切な基本である。しかし東京裁判のようなケースは、負けたことのない日本の過去の歴史で、経験したことがなかったケースだった。前例はもちろんない。

 戦時中には、今まででも、各地で軍事裁判によりさまざまなケースがあった。いわゆるB、C級とされる裁判の処刑者などは、前例に従ってそれで処理ができた。だが、従来の日本になかった種類の死亡者を靖国神社にまつるのは、神社がいままでの方針を変更して、宗教的機能を発揮することに繋がるものだ。

 この種のものはやはり、祀りたいと思っても、国に神社をお返しして、国が国の方針として決めるのが妥当だ、と考えたのだ。


[6]松平宮司を問い糾したが

 だが、こんな葦津の主張の意図する肝心なところは、靖国神社に充分に伝えることができなかったようだ。それで靖国神社は、その後、混乱に巻き込まれることになった。

 祭神合祀を預かっていた筑波宮司が死亡して、新任宮司に松平永芳氏が就任した。

 宮司が死亡しても、審議のときに同席していた権宮司(ごんぐうじ)は残っている。祭詞制度委員会も存続していた。神社は新任宮司に、どこまで細かく説明し、松平宮司に説明したのかはわからない。

 昭和53年、松平宮司は東京裁判関係者を合祀してしまった。

 私はこのことを知って、父の代理として何度か松平宮司を訪問し、今回の判断が軽率であり、しかも提案者には何の報告もなく実施された。今後に大きな禍根を残す恐れがあると抗議し、あえて判断を変更して合祀に踏み切ったその動機を問うた。

 松平氏は、理屈はよくわかる人だが、父の代理で訪れた私に、どんなに私が説明しても「失敗だった」とは言われなかった。

「なぜこんなことになったのか」との問いに対しても、「すでにお上(陛下)にもご報告して合祀してしまったことだ」と、それ以外は口をつぐんだままだった。

「部下にミスがあった」「引き継ぎのミスだった」などとは、あの人の性格である。口が曲がっても言えないのだろう、と思った。男子がひとたび行った行為の結果は、たとえどんなミスがあろうとも甘んじて受けて責任をとる。そんな頑なな姿勢に、私は何度か訪問の末に諦めた。

 その後、松平宮司は、国家護持の活動よりも、国民護持を旗印に、宗教法人のままで独立して経営力を高めていく、との方針を打ち出して、私どもの考える方針とはやや違った方向に神社を強力に引っ張って行こうとされた。

 私とはあのときかなり強引な言い争いを展開したが、その後も格別に親しいお付き合いをいただいた。


[7]奥までたるみ果てた宮中

 東京裁判をめぐる祭神合祀に関しては、いくつもの誤解や誤認が積み重なっていると思う。それからはまた10年以上も後の話になるが、元宮内庁長官の「富田メモ」などが伝える昭和天皇のお怒り騒動なども、混乱をいよいよ大きくした。

 昭和天皇がご高齢になられてからの、それも宮中内部においての晩年の私的なご発言とされるメモが、こともあろうに前長官の筋からスクープのように発表されるという、あってはならない事件があった。

 国民の個人個人に対する批判などは、公ではとくに気にされて慎んでこられた陛下である。しかも松平宮司が合祀に当たっては宮中に名簿は提出し、ご覧になったのは、かなり以前にはなるが、間違いない問題だ。

 それにも関わらず、かなりの時間が経過した陛下の晩年に、きわめてご不満であったと洩らされたとのご発言メモが表に出されたのだ。

 いくら御不快に感じられても、それをいくらお歳を召されたとはいえ、表に出されるような陛下ではないはずだ。しかも陛下は明治天皇を誰よりも崇拝され、その御心を継いでいくことを生涯のお役目と信じて終始された。靖国神社に対してのお気持ちも、変わるところがなかった、と私は拝察申し上げる。

 それにもし、万一に、迂闊(うかつ)にもそんなご発言があったのなら、忠義な臣下であったなら、なぜその場で陛下をお諫(いさ)めしなかったのか?

 日本伝統の忠義の道は、西欧などの絶対君主に接するように、「イエスマン」に徹することではない。

 一億国民一人一人のことを思ってお祭りをされる陛下は、民の声、批評や意見をつねに御歌に託して、聞きたい、とお洩らしになっておられる。そんな陛下に対しては、間違いは間違いだ、と真正面からお諫めしながら接してこそ、日本における忠義者である。

 似たような陛下もお気持ちというものが、侍従長はじめ陛下の側近からいくつか漏らされて、国民を不安に陥れた。困ったものである。宮中のもっとも奥までがたるみ果てている。

 こんな無神経な陛下との応対をし、そのうえ不用意なメモなどを残したり、自分の回顧録などを芸能人のエピソードでも書くような気軽さで後に残す軽率な側近などが出るから、歴代の天皇がもっとも御心を寄せられた靖国神社の英霊たちまでが、さびしい思いをすることになる。

 だが、それよりも重要なのは、日本の主権が回復した講和条約が締結されて60年近く、靖国神社に祀られている英霊を放置し、歯を食いしばってお守りしてきた留守を預かる関係者にねぎらいの言葉も掛けず、逃げ回ってばかりいる政府や国会議員の無責任だろう。


[8]問題を放置してきた為政者たちの責任

 護持をしてきた連中にも、もうあれから60年を超えている。疲れも見え、ときには思わぬことが起こるのも人間だから当然ではないか。

靖国神社の問題は、これは前にも第2回「宗教的儀式に対する憲法の立場」〈http://www.melma.com/backnumber_170937_4750317/〉で述べたように、まともに憲法を見て解釈をすれば、直ちに解決しうる問題である。

 だが、それでもこんな難問が次々に出てくるのは、日本が戦争に負けたという重い現実があるからなのだろう。

 憲法をひねくりまわして解釈し、憲法条文を骨抜きにしてやっと可能にしている防衛問題などより、取り組もうとすれば素直で簡単な問題でも、解決しない背後には、復古させたくない力もまたあるからなのだろう。

 それに、日本には、政府にも国会議員にもマスコミにも、国のために自分の意志ではなく命まで失い、単純に国の命ずるために死んだのに、何かの意図をもって彼らが動いたかのように、曲げて解釈する気風もある。

 軍国主義のレッテルまで、現場のものに押し付けて、真の命令責任はどこにあったのかなどには、頬(ほお)かむりして平然としている、いまの無責任な体質も問題である。何とかしなければならない問題は山ほどある。

 英霊たちは国の主権行為である戦争の指導者ではない。責任があるとすれば、それは日本国を引き継いだ指導者たち、国や日本を導いてきたマスコミなどが負うべき問題なのだ。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。

タグ:靖国神社
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第5回 戦後の靖国神社 [靖国神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
    第5回 戦後の靖国神社
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


[1]爆破焼却してしまえ

 神道指令という全国の神社に大きな改革を迫る占領軍命令で、米国からもっとも厳しい圧力を加えられた靖国神社は、廃絶するか、あるいはどんな形をとってでも英霊追悼の施設として占領中を生き残るか、の厳しい選択を迫られることになった。

 全国の神社は神社本庁というまとまった組織を新設し、その下に「宗教団体」として国の手から離れて生き残る方策を模索する道を着々と進んでいるのを見て、靖国神社もこれにならって暫時、生き残りを図ることになる。

 だが、そんな道を靖国神社が求めだしたのは、昭和20(1945)年の末からのことであった。

 当初、靖国神社は、みずからがどの国にもある無名戦士の慰霊施設のようなもので、軍がなくなっても、施設そのものが国から切り離されるという切迫感はなかったようだ。

 しかし占領軍の総司令部(GHQ)の中には、占領以前から、「靖国神社は日本国の精神的な団結の象徴的な施設であり、在来の国家の戦う機能を完全に破壊するためには、爆破焼却してなくしてしまえ」という意見が出るほど敵対の意識は強かった。

 それは戦時中に練られた対日占領方針にも濃厚に出されて、とても所轄が代わって残れるような条件にはなかったのだった。

 幸い靖国神社の爆破は、当時カトリックの教皇使節代行をしていたビッテル神父などによって救われた。マッカーサー総司令部総統は爆破の可否を彼に質したのだが、彼は強く軍の靖国神社破砕方針をいさめた。


[2]後手に回る日本の対応

「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。
 もし靖国神社を焼き払ったとすれば、米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残る。神社の焼却、廃止は米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。
 靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源だというなら、排除すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを進言する」

 こんなことなどもあって、神社は破壊からは救われたのだが、神社の前には厳しい難問が控えることになった。

 戦争というものの実体験がない戦後の日本人の間には、最近の戦争は、国際法で決められた条件さえも無視して、あらゆる戦争やその後の占領行政が行われやすいという現状を、実感するのが難しいかもしれない。

「話し合いで戦争が防げる」などという信仰が、現実のものと思われている思考からは、戦争というものの恐るべきエネルギーと従事する者の感情などは、なかなか想像できないからである。

 一種の平和ボケの状態でいるからだ。

 だが、そんな人たちのことはさておいて、あの大戦ののちの日本政府もまた、降伏しても、占領支配が国際法の原則の下に行われるだろうと勝手に信ずるような空気が強く、日本側の対応は占領軍の後手後手を、あわててついていくような状態だった。


[3]国の施設でなくなる

 戦いが終わった直後だ。

 戦地からは続々復員する兵士たちが戻ってくるが、それとともに遺骨も戻り、戦没兵士たちの新しい名簿もどんどんこれからは増える。

 降伏条件により、祭神を決定する管轄である軍はなくなることになっている。

 そこで陸海軍省では、軍がなくなる前に、その後に別の部署に靖国神社の管轄が移ってもよいように、靖国神社で、これから判明する英霊を含めて、満洲事変以降の未合祀者で将来、靖国神社に合祀されるべき英霊を一度に招魂する臨時大招魂祭を開かせた。

 これは今後の大東亜戦争での戦没英霊合祀への筋道をつけ、所轄が変わっても、来るべき軍が不在の時代に同じ条件で連続的に祭神を加える道を講じ、占領時代に備えようとしたものだった。

 たが、その祭典実施の直後に「神道指令」が出され、それどころではなくなった。

 指令によって靖国神社が、国の施設でいられなくなってしまったのだ。

 軍による祭神の決定が軍でできなくなっても、祭神の決定権はこの祭典によって、以後は政府の新機関などから従来の合祀基準に照らした名簿の提供が有れば何とかいける、靖国神社の連続性は確保された、と神社がホッとした直後のことだった。


[4]「宗教」として生き残りを図る

「神道指令」は、神社などの組織は国など公共の設備としては存続が許されず、国が今後は靖国神社の行事に参加することさえも制約され、しかも国とつながったままでは存続を許さない、という占領中の絶対命令であった。

 こんな動きが出るだろうことを事前に察知した全国の神社界は、早くから動いていた。

 全国の神社は、これもすべて国の機関とされていたが、すでに財団法人的な存続策を図って神社本庁を設けて存続する道を、終戦以来、探っていたのだ。

 しかしこの指令で、GHQが「宗教団体」としての存続を図る以外に、神社の存続は許さないという方針だと知ると、直ちに「宗教団体」として生き残る道を模索しはじめた。

 靖国神社にも旧軍関係者や遺族や英霊の戦友、一般の国民などから、指令が出ても「何としても神社の存続の道を求めてほしい」との声が強かった。

 そこで神社界などの話も聞いて、全国の神社にならい、靖国神社も21年の4月、民間の宗教団体として独立することを決定した。

 何でこんなことをくどくど書いているのか、と思われる読者がいるかもしれない。

 だがこれからの靖国神社を考えるとき、これはきわめて重要な分岐点なのである。


[5]当面の留守番役

〈1〉国は靖国神社を、できれば軍が解体した後も、国の一施設として残したかった。だがそれは神道指令で占領軍の認めるところでなくなったと知った。

〈2〉他方、占領軍は、全国の神社などが在野の団体であっても、宗教団体以外になる道は認めない、との方針でいた。

〈3〉靖国神社は国民に対して、布教などの宗教活動をする組織ではなかった。祭神の決定という宗教団体にとってはもっとも重要なことにも、従来は関わってはいなかった。

 軍の決めた祭神を合祀するだけの機能しか持っていなかった。だから公機関から離れても、祭祀だけをする民法法人になるのが望ましいと思った。

 だが、情勢は宗教法人になる以外、存続の道がないことを知らされた。

〈4〉加えて、靖国神社は神社より、厳しい環境の下に発足せざるを得なかった。

 宗教団体はそののち憲法が代わり法人として存続することになるが、米軍は、全国の神社に認める境内地の払い下げなども、靖国神社には認めなかった。

 米軍がつぶそうと思ったら、その土地から出ていけ、といえば、それだけで神社は成り立たない。米軍は靖国神社をいつでもつぶせる状況の下に続けさせて、占領が終わるときまで監視をし続けたのだった。

 このような状況下に宗教団体として発足した靖国神社は、あくまでも米軍の占領中、日本国が自主的に政治をおこなう権限がないという特殊の条件の下で生き残ろうとする暫定組織であり、独立を回復したその後には、ふたたび国の機関に復活しようという含みを持った暫定組織であった。

 靖国神社は宗教団体として発足したが、その決定機関である責任役員も総代も奉仕者も、規則にどう謳われているかにかかわらず、極論すれば、国という機関が手をつけられないでいる間の留守番人ともいえる存在だった。


[6]独立回復後の新たな難題

 そんな靖国神社だったので、講和条約もでき、日本がふたたび独立を回復する前からも、靖国神社をふたたび国の施設に戻したいという声は、国民の間に広く盛り上がるようになってきた。

 靖国神社を支える人たち、さらに英霊の遺族たちの間には、「お国のために死んだ人は国が祀るのが当然だ」という意識は強い。

 昭和26年秋、講和条約を締結して帰国した吉田茂首相は、まず第一に靖国神社に正式参拝、英霊たちに不自由をわびるとともに独立をふたたび回復したことを報告した。

 当時の大多数の国民たちは、靖国神社をふたたび国家護持することを熱望していた。

 占領軍命令の神道指令は、独立回復の時点で失効する。これからは憲法がすべての基本法になる時代になった。その憲法には、この連載の2回目〈http://www.melma.com/backnumber_170937_4750317/〉で記したように、障害になる条項は見当たらない。

 国家護持を求める声は、講和条約の締結前から各地でわきあがり、国会などにも請願が相次いでいた。靖国神社法も国会に提出された。

 だが、占領の時代は日本に、それまでにはなかった新たな難題を作り出していた。

 占領軍が政府や国会の上に君臨する時代は、占領軍の意のままに動き、その方針や解釈を国民生活以上に重視する政府や国会議員、マスコミ、学者、文化人などを生みだして、彼らが国のあらゆる機関を維持運営する要職に就いていた。

 彼らにとって、彼らが国内で力を得ることができるようになった源泉は、占領政策そのものの権威であった。彼らは靖国神社の再護持について、まるで神道指令が出された初期の米軍のように、神社という宗教の儀式を、国の制度に持ち込むことはできないと反対した。

 役人も占領時代の空気にすっかり馴染んでいて、それ以外の解釈をかたくなに否定する。靖国神社法案はそんな占領時代の空気の中に、法案さえも骨抜きにされ、しかも国会ではたなざらしにされ、そのうち国会に出されることもなくなってしまった。


[7]首相の公式参拝要求に後退

 靖国神社法案が多くの国民の支持を受け、強い国民の熱意があったのにかかわらず、いつの間にか消えていってしまった背景には、とくに熱心であった人々、英霊の家族や英霊の戦友、かつての軍の関係者など、運動の前線にいた人が長い運動が続く間に命が尽きて、相次いで去ってしまったことが大きい。

 国民の要望を受けて靖国神社法の成立を約束して票を得て当選した国会議員たちも、占領軍の解釈そのままに筋道を立てることのみを考えて、国民の心を無視した役人たちの「国家護持には条件がある」と宗教性排除を根拠に反対する動きの前に、はなはだ熱意が乏しく、そのうち議員側の提案により、この運動は首相の公式参拝を求める運動に後退させられた。

 首相の正式参拝などは、すでに占領中の吉田首相以来、何人もの首相によって行われているごく当たり前のことだった。それで充分に首相の参拝として成り立っていた。

 公式参拝という言葉は「非公式な参拝」に対する造語であり、正式参拝と略式参拝に参拝方式を分類するこの種の施設に関する慣習に馴染むものではない。

 国会では参拝の作法や玉ぐし料の出どころなどを根拠に論じているようだが、それでは靖国神社に公的に敬意を表するために参拝する諸外国の軍隊や外国公人の参拝は、個人の立場ということになってしまうのか。奇妙な話である。

 それは三木首相が参拝を「個人の立場で参拝する」と発言して以来、日本だけでの珍妙な問答として8月15日の新聞用の言葉としてクローズアップされたに過ぎなかった。

 三木首相はお忍びで、英霊たちに「おれはこの国の首相ではないよ」と隠れて参拝しなければならない理由でもあったのだろうか?


[8]昭和40年代以後、冬の時代に

 この言葉に、マスコミがまるで鬼の首でも取ったように飛びついた。

 これ以来、「公的参拝ですか? 私的参拝ですか?」などという珍妙なやり取りが、8月15日だけ、しかも靖国神社だけで、マスコミとの間で交わされるという奇妙な風景が、ほかの施設ではまったくないのに、ここだけで繰り返されるようになった。

 運動は一度つまずくと、際限もなく混乱し、やがて何を目標に運動していたのかさえも見えなくなって、いつの間にやら挫折する。靖国神社の国家護持は、かくして戦時中の時代を知る国民の旧態回復の運動としては頓挫(とんざ)して、のちの世代の課題に引き継がれた形となった。

 さらに戦後の靖国神社の地位復活に関する運動に関しては、それを成し遂げようとする情熱が、だんだん弱くなった事情もある。

 敗戦までの時代を生き、戦後の無念さが忘れていない人が、年月の経過とともにだんだん数を減らしてくるのとともに、占領中の米占領軍の行った占領政策、とくにマスコミなどのメディアや教育などを通して徹底的に行った洗脳工作が徐々に効果を発揮してきた。日本の独立回復後もその洗脳工作を強く受けた昭和生まれの連中が国民の中の比率を高めてくるにつれて、年を追うごとに運動が難しくなったことがあげられる。

 そんな傾向は、当時義務教育を受けていた昭和ふたケタ生まれの連中が、社会の中心で活躍する時代になる昭和40年代あたりから、急速に感ぜられるようになってきた。

 しかも日本の最高学府である東大の法学部では、戦時中は日本の大東亜戦争に進む時代に、軍や政府の理論的支持者であった宮沢俊義氏が説を180度転回して、日本はあの昭和20年に革命を経験してそれまでの時代とは断絶したのだとして、占領軍のまだ先を行くような日本の伝統を無視する教育を行い、その影響を受けたものが日本の官界などの中枢を占める時代にもなってきた。

 独立を経験したのちに、いよいよ戦後体制への傾斜が見られる。歴史上でも特異な傾向かもしれないが、日本の歴史にとって、こんな冬の時期も訪れてきて、靖国神社の国家護持運動は、ちょうどそのころ盛り上がりつつあった自主憲法の制定運動とともに、いよいよ厳しい時期を迎えることになった。


[9]混乱が長引いたために

 靖国神社は、国の機関から離れる際、民間の一宗教法人として施設を維持管理するのは占領という一時期であり、独立が回復されたらやがては国の施設に回復したい、と考えて、その暫定期間と思っての歩みを続けてきた。

 ただ、その間は国からの維持管理費の負担は期待できない。

 そこで法人格を取得した翌年には、7月の盆の時期に提灯を境内に飾って英霊の霊を慰める「みたま祭り」を開始し、民間の人々に支えてもらっての存続方策を図ったり、一般の神社と同様に年中行事の特別参拝を始めたり、七五三、結婚式、さまざまの規格を取り入れてきた。

 いま、靖国神社を訪れる人には「靖国神社は他の神社とは違うといわれるけれども、その姿を見れば、ほとんど同じものではないか」との感想を持つ人も多いだろう。

 だがそれは、ほとんどが戦後の時代を生き残ろうとした靖国神社の新しいものなのである。

 また、戦後の混乱が長引いたために、政治的な環境など、国家護持の運動や靖国神社の運営に関して、いろいろと問題を生んできた面も大きかった。

 そんな時代がはじまり、国家護持がなかなか実現しない空気の中で、いま、騒がれている東京裁判殉難者の霊の合祀問題なども起こるのだが、これについては次回以降に触れる。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。

タグ:靖国神社
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第3回 問われる国家の責任 [靖国神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
    第3回 問われる国家の責任
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


[1]国が英霊を作り、神社に祀った

 国の戦没者追悼式は、国が祖国のために命をささげた靖国神社の英霊をことさらに避けるように見え、さらに戦没者追悼式を見ると、英霊を祭る方式では、憲法を60年前の敵国だった戦勝アメリカ進駐軍の日本を立ち上がれなくしようという占領指令を、いまも忠実に守り続けることによって、二重の逃げをしている行事に見えることを、多少怒りの感情とともに述べてきた。

 表現はきついが、おそらく同じような思いを持って眺める国民も多いだろう。

 靖国神社には、国の条件で審査して祭神を決定し、選ばれた約250万柱の英霊が眠っている。

 靖国神社に祀られている英霊は、先の大東亜戦争における戦没英霊のみではない。

 明治維新の戊辰戦争以来、日本は数々の戦争を経験してきた。

 それらの戦いに、国の命令に従って従軍して亡くなった英霊たちが祭神なのだ。その内訳は(明治維新の活動者など内戦での合祀者は近代国に脱皮する前の祭神だから別としても)日清戦争1万3000、日露戦争8万8000、満州事変1万7000、支那事変19万1000など、国際紛争でなくなった英霊たちが30万柱近くにも達している。

 これらの御霊(みたま)は、明治維新によって創立初期の時代に祀られた祭神以外は、すべて明治以来の日本国が従軍させた武力衝突で、日本政府の方針に従って軍事衝突により戦死した人たちであり、日本政府の戦死者の審査、手続きによって祭神とされ、宮中にその名簿をお見せしたのちに、国の意思によって靖国神社に祀られた。

 そんな事情があるので、靖国神社では国家としての祭りを丁重に行ってきたが、その靖国神社の祭りは、国として英霊たちを顕彰し、彼らに栄誉を与えるものであった(靖国神社では、このほか参拝を希望する遺族や国民の拝礼なども受け付けて行ってきた。それは数においては、国(軍など)の行う行事より、その回数はむしろ多かったが、それは、公の祭りとは別の、靖国神社という祭祀施設が中心で行ってきたものと解釈される)。


[2]祭儀を放棄したままの60年

 国の行う行事には、公的に英霊に捧げる表敬の儀式であるとともに、その裏側に、戦乱がなければ、平凡な国民として、穏やかな生涯を終えたであろう人生を、自らの命令によって死に至らしめてしまった英霊に対する、死なせた責任を強く感ずる国の、責任を痛感し、哀悼と慰霊をする思いも含まれていたと解すべきものでもあった。

 靖国神社は、諸外国の無名戦士の墓のような側面も持っていたのである。

 国家には、国民の前にあからさまには示されなかったが、彼らを生きてふたたび郷里へ復員させることができず、戦没英霊にしてしまった重大な責任意識があり、国がそれを強く自覚し、英霊の前に頭を下げなければならぬ関係もある面は見落としてはならない。

 そんな大切な御霊を祀る靖国神社を、日本国は敗戦時の有無を言わせぬ戦勝占領国の命令によって、国の大切な祭祀施設から切り離さなければならなくなった。

 これについては後に詳しく触れるが、そこでせめて占領終結までの間、民間でしばらく預かってくれる占領中の留守番役にまかせなければならない事態が生じ、その役目を進んで引き受けたのが、いまの宗教法人の靖国神社であった。

 国から離れた当時の靖国神社の関係者や国は、日本国が、ふたたび独立して、自由を回復したあかつきには、ふたたび国の機関に回復させようという点で一致していた。だが、いろいろの問題が重なって、国がその祭儀を、放棄したままに60年、長い時間がいままでの間にすぎてしまっている。

 いま、遺族や国民の間に、靖国神社の公式参拝を求める声が強く、熱心にそのために運動をしている人も多い。

 私自身は公式参拝という概念はあいまいであまり好きではないが、靖国神社にはぜひ首相はじめ政府の責任者に、公式に敬意を表してもらいたい、と切望する英霊の遺族や国民には深い共感を覚える。

 このような政府の戦没英霊を作り出してしまった責任を、いつまでも国としてはっきりさせず、国家護持も放棄したままで平然としているような態度が残念で、国家護持の回復には時間がかかっても、せめて英霊たちに国で責任もって慰霊のできない状況を公式参拝して英霊に詫びろ、と求めているものと見なければなるまい。


[3]第三者的に憐れみ悼むのではなく

 政府は全国戦没者追悼式を行い、先の大東亜戦争の英霊を含む全犠牲者を追悼する式典を主催している。

 政府はこんな式典をしているのだから、靖国神社にこのほかに国としての敬意を表する必要がないように思う人もいるだろう。

 だが、これに関しては、私はそれで充分とは決して言えないと思っている。戦没者追悼式は、単にこの前の戦争だけの、巻き添えで亡くなった、戦争被害者を含む追悼の式典であるに過ぎない。

 だが靖国神社には、軍や政府の主権活動として行った戦闘行為で命を失う羽目に追い込まれた英霊がまつられている。彼らは、戦争による犠牲者でもあるが、それとともに、国によって直接的に命を失う戦闘行為に従事して戦死した国の犠牲者でもある。召集令状の赤紙が来なかったら、穏やかな生涯を家族や隣人とともに暮らしたであろう人がたくさん含まれているのだ。国は彼らを第三者のような形で追悼する以上の深い責任がある。

 政府の自ら彼らを戦死に至らしめた責任を痛感して、彼らにこれから、同じような被害者が出ないように国としても精いっぱいに努力すると誓う儀式は、国が単なる憐み悼む追悼式を行うのとは別に、はっきり行うべき義務があると思う。

 日本政府は、明治の開国以来の日本国のすべての権利義務、領土や国民を引き継いでいる。

 数々の国際的な戦闘行為を行ったことに対する、従事した戦死者への慰霊の儀式は、大切な日本国の引き継ぎ事項としていまの政府にもあるはずである。


[4]新追悼施設建設のナンセンス

 この問題に関してガンとなっているのが、前回も記した日本国の公務員たちが、占領軍の占領当初に出した神道指令の命令通りの頭のままで、憲法解釈上、国が靖国神社にかかわるのは一宗教法人に手を貸すことになり、許されないという主張をいまでも繰り返し、政治家や国会議員たちの行動を牽制(けんせい)し続ける現状である。

 それが常識的な憲法の見方ではないことは先に述べた。だが、そんな状況を見て、「いままで靖国神社に祀ってきた行為を国が詫びて、英霊に謝罪して、新しく無宗教式の施設を作り、英霊をまつりなおせばよい」などと、こともなげにいう説も、一部の国会議員などにある。

 無宗教方式なら許されるという発想は、役人のレクチャーを受け、同じくおかしな判決を出し続ける裁判所の姿勢にも合わせようとしたものなのだろうが、そんな国の将来への逃げ腰の姿勢に、どんな効果があると思っているのか。

 表面だけをちょっといじって、無宗教という政府の作りだした宗教が、靖国神社の行き方とどれだけ違うものなのか、前章で書いたように、まったく屁理屈にもならないと私は思う。それは日本中にある伝統的な宗教に違和感を感じさせる宗教的効果のあることを政府がすることにもつながってくる。

 心のこもっていないいまの政府や役人が、表面だけを取り繕おうとこんな発想を持ちだして、施設に膨大な費用をかけて作ってみても、それは愚かな予算の無駄遣いに過ぎぬ。

 その上、いったい国民心理にその施設はどんな効果があるというのだろう。

 国民はそんなものには満足しない。まるで郵政省か厚生労働省が、役にも立たない箱モノを作ったのと、同じようなものに見える。

 それにこれは最も大切なことであるが、思い出しても見るがよい。

 英霊たちが、はたしてそれを認め満足するというのだろうか。

 靖国神社に祀られている英霊たちが、まだ存命ででもあるのなら、国が正式に陳謝して、慰謝料でも支払って事態をやり直すこともできるだろう。

 だが英霊たち、とくに近時の英霊たちは、「万一のときは靖国神社で会おう」との別れの挨拶をし、死ねば国によって丁重に靖国神社という特別の施設に祀られることを信じて戦地におもむいた。

 死者との約束、しかも死者は国が責任のある国権の発動である戦争に、好むと好まざるとにかかわらず従事して、命を散らした人々なのだ。国は誠意を尽くして対応しなければならない重さを持っている。死んだ人の霊などは相手にしようがないというのなら、もともと新追悼施設などの構想はナンセンスである。


[5]占領軍に抵抗できなかった

 靖国神社切り捨て当時の責任は問うまい。

 細かい事情はのちに譲るが、敗戦後の日本政府には、靖国神社を放棄せざるを得ない事情があった。

 敗戦とともに日本は、進駐してきた米国など連合国の支配のもとに入り、政府はその命令を拒否できないという占領下におかれた。

 占領軍は日本の国が戦力や資源は米国などに比べてはるかに劣るのに、それまで頑強に抵抗した力は、日本が、国のためだということになると全国民が一つにまとまる国であり、その精神的な柱となっているのは靖国神社への国民の一致した崇敬心と神社への信仰によるまとまり、そしてそれらの基礎にある皇室への忠誠の心にあるとみた米軍は、それを徹底して破砕しようとした。

 そこで米軍は靖国神社を日本国が保持し、維持するのを厳しく禁止した。日本政府などは無視した占領軍の命令であった。

 敗戦に伴う降伏条件には、日本国政府はすべての権限を占領軍総司令部(GHQ)に従属することを定めていた。

 こんな中で靖国神社は国の施設から放り出されてしまった。

 このことを指して、国は無責任だったと責める声も多い。

 現にあの靖国神社を国の施設から切断させ、焼却しようとの声が占領軍内部に起こったとき、国民の間にも一命をかけてでも靖国神社を奉護しようと決断した人も多かった。

 靖国神社の切り捨てを、国としてあってはならないミスだったという声もある。

 しかし、まだ幼かったがこの目で戦後の時代を現実に眺めてきた私は、故意に犯した無責任だと国を責める気にはなれない。

 主権も奪われた日本国政府は、それに抵抗する手段もなかったのだ。


[6]厄介なことは先送り

 しかし、日本が講和条約を締結し、再び独立を回復し、自分の責任で国の運営ができるようになった7年後から、この国家として国のために死んだ人たち(厳しい言い方をすれば、国の方針によって生命を断たれた人たち)への責任にもまったく触れようとせず、ただただ死者の尊厳を無視して生きている者への言い逃れのような応対に明け暮れてきたその後の50年以上は、明らかに無責任であった。

 靖国神社の再国家護持への道には、この上に占領軍の出した神道指令に基づく政教分離の問題の下手な取り扱いの後遺症も重なっていた。

 それらに対して、国はあれだけ膨大な損失をあえて犯した行為への戦後処理である。真正面から正攻法で取り組むべきであった。

 だが戦後の日本国は、あらゆる面で厄介な面は先送りして、その場を過ぎればよいとのみ思って難問を回避する基本的な性格を持ってしまっていた。

 靖国神社の再国家護持には、逃げばかりではない取り組みが必要なのだが。

 政府は、やればできることも、反対する少数者がいるという理由だけで、説得が厄介だからしようとはしない。

 そんな疑いが積み重ねられるような現状は無視できない。

 靖国神社の問題のあいまいな対応が及んで、千鳥が淵戦没者墓苑もまた、同様に正常な施設としての説明があいまいなままになっている。

 日本は戦後64年を経ているが、8月15日の光景を見ると、日本はまだ、占領時代に歪められ、それに手もつけないでいるのだと言わなければならない現状のようである。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。

タグ:靖国神社
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

「やすくにの四季」を読む by 湯澤貞(前・靖国神社宮司) [靖国神社]

以下はインターネット新聞「お友達タイムズ」平成18(2006)年5月3日号(第2号)からの転載です

y_shinmon.gif
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢
 「やすくにの四季」を読む
 by 湯澤貞(前・靖国神社宮司)
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢


 所属の俳句結社・若葉の月刊誌の四月号に特別作品二十句を発表した。それは「やすくにの四季」と題するもので、五十年になんなんとする神職の経験から、神域の風情を俳句に託したものである。

 その二十句の中からさらに拾い出し、自註を試みたものが本稿である。


 斎館に新年祭の御装束

 神社の一年は元旦の祭典から始まる。すでに午前零時の号鼓と同時に、いままでじっと時の来るのを待っていた多くの参拝者はいっせいに大歓声をあげ、行動を開始した。

 一方、夜明けを待って始める新年祭にはまだ少し間があり、白々と夜の明けてきた斎館の大広間には、早々と用意された白無垢の斎服が整然と並べられ、下臈(下位の者)より参着して着装を始める。その参着までの静寂な空間を句として捉えた。


 神に侍す寒の禊に身を浄め

 神職にはつねに清浄なることが要求される。神社界では「浄明正直」を神社奉祀の根本に置いている。したがって神前に出仕するには、まず心身を浄めることを第一とし、寒中に水を被いて身を浄めることもするのである。


 母子像気高く愛し若桜

 戦場に華々しく散っていった勇士がいる。その勇士には年老いた両親も、兄弟もいるが、さらには最愛の妻や幼子もいる。残された妻や子をいとおしむ勇士の心。

 残された妻は、悲しみに浸ってばかりいられない。母として夫亡き後、気丈に生きて子供たちを立派な人間に育てなければならない。そのような凛々しい心が結集して母子の像となった。戦争とは悲しいものである。


 力士来て奉納相撲八重桜

 相撲協会は、靖国神社御創建(明治二年)以来、毎年春の八重桜の咲く頃、協会役員、横綱以下、そろって参拝の後、境内の相撲場で戦没者慰霊の奉納相撲を行っている。

 戦後六十年を過ぎても忘れることなく毎年の奉納で、ただただ頭が下がる。


 夜店の灯金魚掬ひの子ら照らす

 毎年七月のみたままつりに、大鳥居から始まる参道の左右の慰霊の大提灯数万灯のその下に何百軒の露店が並び、昔懐かしいラムネ売りや焼きそば、金魚掬いの店も開いている。浴衣に身を包んだ子供たちが夢中で金魚掬いをしている。この心和む風景は、日本が平和であるこその風景だと実感する。


 花嫁人形亡き子に捧ぐたままつり

 靖国神社には二百四十六万余柱の英霊が祀られている。その多くは未婚の青年たちであった。国の危急存亡に際し、私情を捨て、大義のために戦場に赴き、無言の凱旋となった。

 その家族たち、とくに母親は不憫にも未婚のまま神となられた息子に、せめて人形なりとも花嫁を添わしてやりたいという心情を、誰が笑うことができようか。こうして花嫁人形が多く神社に寄せられた。遺族にとって英霊は何年経っても戦没した年齢のままの青年である。


 たままつり煙草サイダー神饌に

 英霊をお慰めするために、新暦のお盆の七月十三日から十六日まで、毎晩慰霊の祭典を行う。

 境内の大鳥居から神門にいたる参道の両側に何段もの提灯が設えられ、その下に三百余の夜店が並び、神垣の奥には有名人の揮毫による雪洞が下げられ、その他地方の有名灯籠なども飾られ、夕刻それらに灯が入ると、さながら光の祭典となる。

 毎夜六時から本殿にてみたままつりが執り行われ、生者に差し上げるように、煙草やサイダー、そしてご遺族御奉納の品々をもお供えして、懇ろなまつりが繰り広げられる。

 境内の能楽堂では奉納芸能が、外苑の大村益次郎の銅像の周りでは盆踊りが奉納され、夏の夜は刻々と過ぎていく。


 蔀戸を挙げて涼風たてまつる

 神社の建物はどちらかといえば夏型にできているが、神々の御前も相当な暑さである。そんなときに境内の樹の間を潜ってきた涼風にほっと救われた思いがする。神様にも涼しい風をどうぞといった気持ちが句になった。


 木枯や益荒男海に征きしまま

 山口誓子に「海に出て木枯帰るところなし」という名句があるが、この句は特攻戦死された縁者の青年を惜しんで詠まれた句だという。木枯が吹くとどうしてもこの句が思い出され、今次の大戦で海に散華された多くの英霊に対し心から哀悼と感謝の誠を捧げたい。


 御神楽は佳境其駒声高く

 御神楽は宮中の賢所の前庭などで夜間奏される雅楽の一つだが、神社仏間などでも奉奏することがある。

 御神楽のなかの其駒という曲を奏者も舞人も一生懸命学んで演じ、神々の御嘉納を戴こうと励む姿は美しい。それには一にも二にも弛みない稽古が欠かせない。

 誠心誠意が大切である。


タグ:靖国神社
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース
靖国神社 ブログトップ