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キリシタン26人はなぜ処刑されたのか──「殉教の地」長崎に異論あり [キリスト教史]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です

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 キリシタン26人はなぜ処刑されたのか
 ──「殉教の地」長崎に異論あり
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 前回は、「東洋の使徒」ザビエルがなぜ来日したのか、がテーマでした。

 イエス・キリストは弟子たちに「全世界に出て行って、すべての造られたものに、福音を述べ伝えなさい」と語ったといわれます。

 大航海時代のカトリックの世界宣教は、教皇アレキサンドル6世が1493年の勅書で、ポルトガル、スペイン両国王に対して、新たに領有した地方に宣教師を送り、カトリック信仰の弘布を勧告したことに始まります。

 けれども、それはスペイン、ポルトガルによる武力征服の隠れた目的がありました。

 キリスト教の布教は、航海、征服、植民、貿易という世俗的な事業の一環として進められた。イベリア2国による「世界2分割征服論」という荒々しい野望とカトリックの勢力拡大という宗教活動が、教皇の名のもとに一体化して推進された、と研究者は説明しています。

 ザビエルの来日もその一環であり、実際、1575年には教皇グレゴリウス13世の大勅書によって、日本は知らぬ間に「ポルトガル領」と認められています。

 今回のテーマは、なぜキリシタンは殉教したのか、です。

 ザビエル来日から40年足らずで、日本は迫害、殉教の時代に入ります。日本人にとって、異民族はしばしば新しい海外文化をもたらしてくれる恩人で、ザビエルの布教も当初は仏僧たちに大歓迎されたといわれます。

 それがなぜ、時代は変わっていったのか?

 というわけで、平成11年9月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。なお、一部に加筆修正があります。

 それでは本文です。



 ポルトガル人宣教師フロイスが430年前、日本に伝えたのが最初といわれる南蛮菓子の金平糖が、いまでは靖国神社の神饌(しんせん)になり、非命にも戦陣に散り、戦禍に斃れた英霊たちの良き慰めになっている、と前回、ご紹介したら、「カステラはどうなんだ」と読者から指摘を受けた。

 春と秋の例大祭などに同社で授与される、桜の枝と白鳩と鳥居があしらわれ、独得の真四角の形をしたカステラが、記者の脳裏に浮かんできた。

 同社の説明では、「神饌ではなくて、みやげ物として社頭でお頒(わ)けしている」とのことだが、今年も終戦記念日には頭が割れそうになるほど蝉時雨がさんざめき、5万人の参拝者で埋め尽くされた境内の片隅で、文明堂が出張販売していた。

 こうなれば、とことん追究するしかない。

 カステラの元祖といったら、どうしたって長崎丸山遊郭の入り口、思案橋と見返り松がある、粋な「山ノ口」の、店構えも古風な福砂屋だろう。

 というわけで、さっそく長崎に飛んだ。


◇貿易と信仰とをめぐる駆け引き
◇キリシタンが破壊した神社仏閣

 長崎は、カトリックにとって、忘れがたい「殉教の地」である。

 いま記念館と記念碑が建つ、JR長崎駅正面の西坂の丘で、26人のキリシタンが処刑されたのは、慶長元(1597)年のことである。

 一昨年2月には、長崎県立体育館に教皇特使を迎え、6千人が参列する「殉教400年」のミサが行われた。

 分からないことがいくつかある。

 たとえば、「殉教」の経緯だが、カトリック修道会イエズス会によって開設された上智大学の中世思想研究所が編集に関わる『キリスト教史5』は、次のように説明する。

 日本でのカトリック布教は、ポルトガルの「布教保護権」(教皇がスペイン・ポルトガル諸侯に与えた、異教世界を植民地化し、支配し、交易するための独占的権限)のもとに進められたのだが、ポルトガルとスペインとの境界線は確定していなかった。

 1494年のトルデシリャス条約で決まった境界線は、日本列島の四国を通過することから、その後、スペインの日本進出の気運が高まった。

 そこで宣教師ヴァリニャーノは従来通り日本宣教がイエズス会に委ねられるのが妥当として上申した結果、1585年のグレゴリウス13世の勅書で、イエズス会にのみ布教が託されることが明確になった。

 ところが、フランシスコ会が進出して、禁教下の日本で公然と活動し、目立った活動を控えていたイエズス会との協調を欠いた。

 さらに、文禄5(1596)年、四国に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員のことばから誤算が生じ、事態を悪化させた。

 秀吉は、宣教師がスペイン国王の手先として日本征服を目論むと非難し、6人のフランシスコ会士、3人のイエズス会士ほかが長崎で十字架刑に処せられた──というのである。

 これでは事実関係がよく分からないから、もう少し詳しく時代状況を眺めてみることにする。

 近代の代表的キリスト者(プロテスタント)で、新聞記者でもあった徳富蘇峰によれば、当時、九州の大名にとって重要なのは貿易であった。

 大名たちはキリスト教をエサに貿易を釣ろうとし、宣教師は貿易をエサにキリスト教を釣ろうとした。駆け引きがもっとも赤裸々に展開された舞台が平戸である。

 何しろ種子島に漂着したポルトガル船は、中国で2500両をもって仕入れた品物を日本で売りさばき、12倍の利益を上げた。それを聞いたポルトガル船が先を争って日本に来港した。

 やがて天然の良港である平戸が知られるようになる。

 イエズス会の宣教師ヴィレラは「神社やお寺は天狗だ」と笑い、「改宗すれば珍しいものを進呈しよう」と誘った。無知な民衆は欲に任せて改宗し、平戸に教会が建てられた。

 永禄4(1561)年、ささいなことでポルトガル船員と平戸の町民とが仲違いし、刃傷沙汰に発展、船長ら14人が殺害された。

 平戸の領主松浦隆信は貿易の利が失われることを恐れ、キリスト教保護をあらためて表明したが、宣教師トレーは本心でないことを見抜いて、容易には応じなかった。

 そのとき現れたのが、松浦氏のライバル・大村の領主大村純忠である。

 純忠は、教会建設、税金免除などの好条件を示し、領内の横瀬浦にポルトガル船の入港を求めた。トレーが快諾したのはいうまでもない。

 純忠の目的はもちろん貿易で、6万石の小大名はたちまち九州屈指の富裕大名となる。だが、朱に交われば、で永禄6年、重臣26名とともに受洗する。

 その日、兄有馬義真の出陣の門出に摩利支天堂の神像の首をはね、神社に放火して、そのあとに十字架を建て、戦勝を祈った。

 戦に勝つと、神社仏閣をことごとく破壊し、祖先の位牌さえ火中に投ずるにいたる。

 宣教師は満足したが、領民は驚愕し、内乱となる。

 この内乱を煽ったのが、ライバルの松浦氏で、その結果、ふたたび平戸が貿易で潤うことになる。

 隆信は平戸にフロイスを招いたが、隆信の目的があくまで貿易にあることを知るフロイスはあえて船を港外に停泊させる。隆信はそれまでの冷淡な態度を陳謝するが、フロイスはなお荷揚げを拒む。

 結局、隆信は宣教師の平戸居住、教会建設を承諾し、ようやく貿易の果実を得る。

 しかしその後も隆信の冷淡は変わらなかった。家臣は反抗的で、しばしば宣教師と衝突した。やがて宣教師はポルトガル商船を大村領内に移動させた。隆信は軍艦50隻で追跡し、力ずくで引き戻そうとするが、逆に撃退される。

 宣教師の妨害で平戸は敬遠され、元亀元(1570)年に純忠が長崎を開港するに及んで、長崎が南蛮貿易とキリスト教布教の中心地となる(徳富蘇峰『近代日本国民史』)。


◇「20日以内に退去せよ」
◇きっかけはスペイン船漂着

 天正8(1580)年、大村純忠は長崎・茂木をイエズス会に寄進する。同会は長崎に本部を置き、長崎は軍事力を伴う自治都市となった。住民はすべてキリシタンであった。

 京都外国語大学の松田毅一教授によると、天正10年の本能寺の変のあと天下人となり、13年に関白となった秀吉は、大阪城でバテレン一行を引見する。

 おりから島津氏が九州の全域を掌握しようとしていた。キリシタン大名の大友は崩壊寸前で、長崎は島津氏が支配していた。大村、有馬は島津の敵ではなかった。島津氏の九州制覇はキリシタンにとって、死活の問題であったという。

 大阪城の秀吉のもとに伺候したバテレンたちを、秀吉は歓待し、布教を許可する允許状を2通も与えた。

 翌14年12月、秀吉は九州に軍旗を進める。

 そして、この九州征伐の帰途、秀吉は「20日以内に国外に退去せよ」とバテレン追放を命じるのである。

 何が秀吉にそうさせたのか?

 15年6月19日付の文書には、「日本は神国であり、邪法をもたらしたのはよくない」「神社仏閣を破壊したのは前代未聞」などとある。

 じつは、九州のキリシタン大名の領内では、領民の多くが事実上、強制的に改宗させられ、神社仏閣のほとんどが破壊されていたのだ。

 天正16年、秀吉は長崎・茂木・浦上のイエズス会領を接収し、直轄地とする。

 さて、26人の処刑である。きっかけは文禄5(1596)年に起きたスペインの豪華船サン・フェリペ号の四国漂着であった。

 このとき1人の船員は世界地図を示し、奉行にスペインの強大さを誇る。奉行が多くの領土を得た経緯を問うと、船員は「バテレンを派遣し、キリスト教徒を作り、その後、スペイン軍が攻め込む」というような発言をする。

 秀吉はこの直後、積み荷の没収を命じ、2カ月後には大阪・京都の宣教師とキリシタンの死刑を命じる。

 26人の処刑後、船の積み荷の返還と処刑囚の遺骸引き取りを求めてきたフィリピン総督への返書に、秀吉はこう書いている。

「往年、バテレンが当国に来て異国の宗教を説き、国風を乱し、国政を害したので、予はそれを禁じた。しかるに貴国よりきた僧侶は帰国せず、異国の法を説いてやまぬので誅戮(ちゅうりく)せしめたのである。聞くところによれば、貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲しているという……」

 カトリック布教の危険性を、秀吉は確信していたものらしい(松田『南蛮のバテレン』など)。


◇諏訪神社のキリシタン合祀説
◇小説『沈黙』の舞台に鎮まる神社

 長崎・諏訪神社の松本亘禰宜(ねぎ)の10数年にわたる研究によると、じつに面白いことに、秀吉によるバテレン追放、キリシタン処刑ののち、長崎ではキリスト教はかえって盛んになった。

 開港後に建てられた「岬の教会」は慶長6(1601)年に改修され、「被昇天のサンタマリア教会」と改称される。東洋一の規模を誇り、日本宣教の中心に位置づけられたという。

 慶長10年、全国の信徒数は75万を数えた。キリスト教隆盛のなかで、慶長14年、長崎の諏訪・森崎・住吉の3祠が破却される。

 しかしふたたび時代は変わる。

 徳川幕府は慶長17年、禁教令を発令し、キリシタン弾圧が始まる。慶長19年秋、長崎の諸教会は破壊され、キリシタンは破滅的打撃を受ける。元和8(1622)年にはキリシタン55人が西坂で処刑される。

 諏訪神社がのちに初代宮司となる青木賢清によって再興するのは、寛永2(1625)年である。

 興味深いのは森崎神社である。

 諏訪神社は、かつてキリシタンに破却された森崎神社と住吉神社を、相殿にまつっているが、森崎神社はいま県庁がある森崎の地に、以前、まつられていたということ以外、ほとんど不明の、謎に包まれた神社だ。

 地元、純心女子短期大学の越中哲也教授は、森崎の地にあった「被昇天のサンタマリア教会」が破壊され、その跡地に創建された社祠だとする説を、12年前に発表している。

 越中教授は、(1)教会の破壊後、たたりを恐れて同社が創建された、(2)かつての教会を偲んで、信徒が社祠形式に改めて祀った、(3)諏訪・住吉の2社が勧請されたとき、すでに教会跡に祀られていた祠を長崎の氏神と解釈して合祀した──と推測するのである。

 キリシタンたちが教会の代わりに創建したという説だが、異論もある。ほかならぬ諏訪神社宮司による反論である。

 越中説は、長崎岬の突端の森崎は、人の住まない森で、開港以前に神社はなかったとするのに対して、上杉千郷諏訪神社宮司は、神社創建は人家の有無とは無関係だと批判している。

 実際に漁師が信仰する森崎社が渚に鎮まっていたとする記録もあるという(「神道文化」創刊号など)。

 それ以上に関心を引くのは、上杉宮司の体験談である。

 昭和57年、御鎮座360年の社殿改修で、遷座祭が斎行されたとき、御船台に納められた森崎神社の御霊代(みたましろ)は諏訪・住吉両社とは異なり、宮司1人では捧持できないほど大きく、重かったというのである。

 もしかしたら、ヨーロッパのキリスト教史と同様に、まず森のなかの神社があり、それが破却されたあとに教会が建てられたのではないか。その教会が禁教で破壊され、こんどはキリシタンが追憶、慰霊、鎮魂の目的で祠を置き、やがて諏訪神社再興のときに相殿に祀られたとも考えられる、というのである。

 キリシタンによって神社が祀られる──それはけっして突拍子もないことではない。

 上杉宮司、松本禰宜の両氏に案内され、訪れた、遠藤周作の小説『沈黙』の舞台といわれる外海町黒崎には、海を望む山中に枯松神社がひっそりと鎮まっていた。

 宣教師ジワンを祀るとされ、殿内には「サン・ジワン神社」と刻まれた石祠がある。周辺には「祈りの岩」と呼ばれる磐座(いわくら)があり、キリシタン時代以前からの聖地であることをうかがわせる。

 上杉宮司は、「神仏習合により栄えてきた神社が、キリシタンをも内包するふところの大きさ」を強調している。

 キリスト教は自分たちの信仰を唯一絶対と信じて、異教の神々を冒涜し、信仰を踏みにじったが、日本人はキリシタンの信仰を神道形式で400年間、守ってきた。

 森崎神社はその歴史を暗黙裏に語っているのかも知れない。

 さて、忘れてはいけない。肝心のカステラだが、キリシタンの取材に夢中になっているうちにとうとう食べ損ね、念願の福砂屋のカステラを手にしたのは、福岡空港の売店であった。

 創業は奇しくも諏訪神社再興と時を同じくするというだけに、昔懐かしい味がした。


◇26人「列聖」の理由と経緯
◇プロテスタントに対抗するため

 最後に蛇足ながら、キリシタン26人の「殉教」「列聖」について考えてみたい。

 26人が「聖人」となるのは、処刑から265年後の1862年だが、なぜ「列聖」することになったのだろう。

 不思議なことに、「殉教」を書きつづった文献はたくさんあるのだが、「列聖」の理由と経緯についての資料はほとんど見当たらない。

 唯一の資料と思われるのは、昭和6年に翻訳発行されたレオン・パジェスの『日本廿六聖人殉教記』である。

 これによれば、「殉教」には、(1)迫害による死か、(2)宗門のための死か、(3)自分の意思による死か──の条件があるが、「殉教者」が「聖人」かどうかは神自身が「奇蹟」によって証明する。教会は慎重な態度でこの証明を待つのだ、と説明されている。

 26人の場合、処刑のとき、十字架上に火の柱が出現し、夜なのに周囲が明るくなった。星々に囲まれた女性が現れた。処刑者の遺体が腐敗しなかった。刑場で死んだはずの宣教師が教会でミサを挙げているのが目撃された、とされる。

 26人は、「奇蹟」によって、「殉教者」とされた。

 処刑から7年後の慶長8(1603)年、京阪地域のキリシタンから「列聖」の嘆願書が提出され、1616年には教皇庁の調査が始まった。10数年後、教皇は26人について「殉教者」のためのミサを挙げることを許可し、「列聖」の前段階としての「列福」の栄誉を授けた。

 だが、その後、「列聖」の本調査が許可されながら、「積極的な措置が執られなかった」。

 それはなぜなのか。『殉教記』は理由らしい理由を記述していない。

 フランシスコ会トマス・オイテンブロク神父の『16─17世紀の日本におけるフランシスコ会士たち』によれば、17世紀初頭の教皇庁は多くの列福訴訟を審議中で、多忙をきわめていた。

 けれども二百数十年を経て、日本は安政元(1854)年に外国人に門戸を開き、同6年には宣教師の再入国を許可した。その結果、「殉教者」の「列聖」が促進されたという。

 しかし、日本側の鎖国から開国への転換だけが「列聖」促進の理由かどうか、は疑問がある。

『キリスト教史』などによると、19世紀初頭、ヨーロッパで、フランス革命の熱狂とナポレオン戦争の殺戮が収まると、18世紀の啓蒙思想が疑われ、カトリック教会は復興のときを迎えた。

 ガラガラの修道院と神学校にふたたび人材が集まり、解散させられていたイエズス会は再建される。

 1846年、ローマ教皇ピウス9世が登位する。教皇は第1バチカン公会議を開き、「教皇の不謬権」の教義を確立させた人として知られ、反自由主義的な態度で教皇権を強化した。

 32年間の在位中、世界宣教が奨励され、ヨーロッパの植民地拡大と並行して、カトリック教会は海外に向かって発展する。

 日本宣教に関しては、プロテスタント宣教師が日本の「お雇い教師」として入国し、教師や医師として日本人と直接接触して布教活動を展開したのに対して、カトリックの宣教師は在留フランス人のためにフランス国家から派遣されていて、日本社会との直接的関係を持たなかったという。

 プロテスタントに対抗するため、カトリックはまず、ゴシック様式の荘厳な大天主堂を建設した。

 文久2(1862)年には横浜に天主堂が建ち、同4年には長崎・大浦に「26聖人」記念の天主堂が竣工する。

 アジアで唯一の「聖人」である26人が日本宣教のため大いに利用されたであろうことは十分、推測されるのだが、どうであろうか。
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ザビエル来日450年と靖国神社創立130年──神饌になった南蛮菓子「金平糖」 [キリスト教史]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 ザビエル来日450年と靖国神社創立130年
 ──神饌になった南蛮菓子「金平糖」
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 日本スペイン交流400年事業が今月、スタートします〈http://www.esja400.com/jp/index-jp.shtml〉。

 興味深いことに、同事業は「友好400年」といわずに、「交流400年」と表現されています。

 公式サイトの「交流の歴史」はその筆頭に「1549年、ザビエルによるキリスト教布教」が掲げられ、「1584年、天正遣欧使節がフェリペ2世に謁見」と続いているのに、さらにそのあとに続く「1613年、支倉常長の慶長遣欧使節が出航」が「交流」の起点とされています。

 なるほど「東洋の使徒」ザビエルはスペイン人というよりバスク人でしたが、「交流400年」は大航海時代の荒々しいキリスト教世界宣教をめぐる議論を避け、あくまで「交流」の側面に注目しようという姿勢と見るのは、うがち過ぎでしょうか?

 400年という長期にわたる日本とスペインとの交流史ですから、さまざまな事柄があることは当然です。であればこそ、明るい未来に向けた「交流」が求められているのだと思います。

 名誉総裁となられた皇太子殿下は、スペイン政府の招待による同国御訪問を前にして、先日、記者会見に臨まれ、抱負などを述べられました〈http://www.asahi.com/national/update/0606/TKY201306060464.html〉。

 歴史を詳しく勉強されていることに感銘を深くしたのは私だけではないと思いますが、私としてはあえて、当時のキリスト教史の暗部に斬り込みたいと考えます。

 つまり、なぜザビエルは日本にやって来たのか、なぜキリシタンたちは殉教することになったのか、なぜ禁教政策が採られるようになったのか、です。

 およそ「友好」とは似ても似つかない、その歴史を探ることは、内外の批判が集中する、現代の、いわゆる国家神道問題や靖国問題とも深く関わると思うからです。

 というわけで、今回は、平成11年8月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。なぜザビエルは来日したのか、がテーマです。

 折しもこのとき全国各地で「ザビエル来日450年」のイベントが開催されていました。他方、靖国神社は「創立130年」の佳節でした。両者を結びつける、意外なお菓子を通じて、歴史を振り返ってみました。

 それでは本文です。なお一部に加筆修正があります。



 先月上旬、2万灯を超える燈籠の飾り付けなど、「みたままつり」の準備で大わらわの靖国神社を訪ねたら、拝殿脇で1人作業をする、青い目の青年と出会った。白衣姿がなかなかどうして決まっている。

 アメリカ・メリーランド州出身の大学3年生。専攻が宗教学だそうで、留学のかたわら、日本の宗教を体験的に学ぼうと、同社に通っていた。その後、「いろんなことを研修し、楽しかった。ふつうの日本人と知り合えたし、日本の文化がよく分かった」と受け入れ先の留学センターに感想を話していたという。

 さて、記者が足を運んだのは、同社では金平糖(こんぺいとう)が神饌(しんせん)として供され、参拝者に授与されると聞いたからだ。

 はて、金平糖といえば、もともとポルトガル語で、たしかキリスト教の宣教師が織田信長の時代に日本に伝えたのではなかったか。それがなぜ、悲運にも戦陣に散った英霊をまつる同社で献饌されるようになったのか?

 記者の頭の中で、知りたがりのムシがうずき出した。


◇ザビエル来日から450年
◇日本宣教はなぜ企てられたか

 南蛮菓子の金平糖が日本に伝わったのは、いうまでもなくキリスト教の伝来と関わっている。そこでまず「最初の宣教師」フランシスコ・ザビエルの来日を振り返ってみる。

 折しもいま、全国6都市を巡回して、「来日450周年」を記念する「大ザビエル展」が開催されている。先月は東京・池袋の美術館が会場となった。展覧会は残る3都市で12月まで開かれるという。

 展覧会のほか記念行事は各地で催されている。日本のカトリックにとって、450年前のザビエル来日の意味は大きい。来たる西暦2000年の「大聖年」とも関わるからだ。

 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は5年前、「使徒的書簡」を発表し、イエス・キリスト生誕から2000年目に当たる西暦2000年を「大聖年」と位置づけた。「すべての人が救いの力に預かることができる」ような「解放」の年とすべく、準備が進められているのだ。

 キリスト教やイスラム教、東方教会やプロテスタントとの関係改善または和解、さらには6月のケルン・サミットで決まった低開発途上国の「債務帳消し」のためのキャンペーンなどはその一環らしい。

 日本国内でも「大聖年」に向けた記念行事が目白押しで、その幕開けは、平成9年の「二十六聖人殉教400年」のミサであった。

 天正15(1587)年に豊臣秀吉がバテレン追放令を出して以後、日本はキリスト教禁教、鎖国へと導かれた。

 9人の宣教師を含む26人のキリシタンが長崎で処刑されるのは慶長元(1597)年で、それから400年後、「殉教の地」に教皇特使を迎え、記念のミサが行われたのだ。

 それなら、わずか38年後に迫害と殉教の悲しい結末を招くことになる、ザビエルの日本宣教はなぜ企図されたのか?

 ザビエルは「東洋の使徒」とも呼ばれ、最果ての地に神の福音と西洋の新しい文化をもたらした「平和の使者」として描かれるのが常だが、そうした理解だけで十分なのか?

 生い立ちから振り返ってみると、ザビエルは1506年、フランスとスペインにまたがるバスク地方のナバラ王国に、貴族の末っ子として生まれた。

 パリ大学に留学中、イグナチウス・ロヨラと運命的な出会いをし、修道士への道を選ぶ。34年8月15日、ロヨラら同志7名がパリのモン・マルトルの聖堂で、「清貧」「貞節」「聖地巡礼」の誓いを立て、これがのちの修道会イエズス会に発展する。

 40年、ポルトガル国王ジョアン3世の要請によって、イエズス会のインド宣教が企てられる。国王は東洋の国々をキリスト教に改宗させることが自分の義務と考えていた。

 ザビエルがインド西海岸のゴアに到着したのは、42年。ゴアは1510年にポルトガル第2代総督アルブルケに攻略されたあと、教皇パウロ5世によってカトリックのアジア伝道の中心地と定められていた。

 その後、ザビエルはマレー半島のマラッカに渡り、「アンジロウ」という名前の日本人と出会う。知識欲が旺盛で、理解力に優れたアンジロウとの巡り合いは、ザビエルに日本行きを決意させた。

 ザビエルはジャンク船に乗り、ちょうど450年前の天文18(1549)年8月15日、鹿児島に上陸する(『聖フランシスコ・ザビエル全生涯』など)。


◇ザビエルの日本人評価は高い
◇武力征服が宣教の隠れた目的

 フロイス「日本史」(ザビエルの同志ルイス・フロイスが書き残した克明な記録)の完訳者として名高い京都外国語大学の松田毅一教授によると、ザビエルは鋭く日本人を観察し、じつに高い評価を与えていた。

 来日の翌年、鹿児島からゴアに出された長い手紙に、ザビエルは、「私たちが知り得た限りでは、この国の人々はいままでに発見された国民のなかで最高で、日本人より優れた人々は異教徒のなかでは見出せないだろう」と述べ、富よりも名誉を重んじる「キリスト教の諸地方の人々がけっして持っていないと思われる特質」を指摘している。

 また、フロイスに対しては、「日本人は、文化・風俗および習慣において、多くの点ではるかにスペイン人に優る」とまで褒めちぎっているという。

 ザビエルは天文19(1550)年に上洛する。

 日本宣教の勅許を願い、学僧と法論を交わしたいというのが前々からの希望であったが、後奈良天皇との謁見は果たせず、比叡山では門前払いを受ける。都は戦乱で荒れ果て、天皇は史上、もっとも悲惨な境遇にあられた。

 翌年、ザビエルは日本でもっとも繁栄する山口の領主14代大内義隆に拝謁する。インド総督の使節として絹の衣をまとい、総督の親書を携え、望遠鏡やオルゴールなどの珍しい品々を奉呈した。

 義隆は布教を許可し、廃寺となっていた大道寺を宿舎として与えた。この大道寺が日本で最初のキリスト教会とされる。

 天文20年、日本をあとにしたザビエルは翌年、中国・華南沖の孤島サンシャン島で病没する(松田『南蛮のバテレン』など)。

 ところで、カトリックの世界宣教は、教皇アレキサンドル6世が1493年の勅書で、ポルトガル、スペイン両国王に対して、新たに領有した地方に宣教師を送り、カトリック信仰の弘布を勧告したことに始まる。

 キリシタン史研究の第一人者、慶応大学の高瀬弘一郎教授によれば、カトリックの世界布教はスペイン、ポルトガルによる武力征服の隠れた目的があった。

 キリスト教の布教は、航海、征服、植民、貿易という世俗的な事業の一環として進められた。イベリア2国による「世界2分割征服論」という荒々しい野望とカトリックの勢力拡大という宗教活動が、教皇の名のもとに一体化して推進された、と高瀬教授は説明する。

 とくにマゼランの世界一周達成以後は、両国のあいだで、香料を産する東南アジアのモルッカ諸島をめぐって争奪戦が展開された。

 日本に対する両国の関心は銀であったらしい。その点、ザビエルが離日後、両国王に対して、日本の征服は不可能だから断念するように進言する手紙を書いていることは注目される。

 しかし1575年、教皇グレゴリウス13世の大勅書によって、日本はじつに「ポルトガル領」と認められている(高瀬『キリシタン時代の研究』など)。

 松田教授によれば、かつてイエズス会の本部があったローマのジェズ教会には、ザビエルの切断された右腕とロヨラの遺骸が安置されている。聖堂の左側には天使が悪魔を踏みつけている大理石の彫像があり、悪魔には「カミ、仏、阿弥陀、釈迦」とラテン語で刻まれているという。

 カトリックは異教の神々を「悪魔」と同一視した。そして、たとい武力によって異教徒を改宗させ、領土を奪い取ったとしても、それは神の御旨にかなったことと信じられたのだ。

 ジェズ教会のせめて写真でも「ザビエル展」に出品されていないかと期待して出かけたが、どこにも見当たらなかった。その代わりに、「二十六聖人殉教図」や踏み絵はある。過酷な迫害は正視に耐えないが、禁教・迫害を導いた背景の説明はこれまたほとんどない。

「ヨーロッパとの出会い」「異文化交流」は説明されているが、「侵略」も「征服」も語られていない。


◇最初はフロイスが信長に献上
◇靖国献饌は昭和50年代から

 金平糖に話を転じたい。

 最初に文献に現れるのは織田信長の時代らしい。

 フロイスは永禄12(1569)年、6、7千人が働く、建設中の京都・二条城で、といっても、堀橋の上という如才ない場所で、工事を監督している信長に謁見し、布教許可を願い出た。

 このときガラス瓶入りの金平糖1瓶とロウソク数本を贈った、とフロイスは手紙に書き残している。

「これなるは南蛮菓子にござりまする」

「何と申すものか」

「コンフェイトと申しまする」

 ──という会話が交わされたかどうか、は分からないが、金平糖の語源は、ポルトガル語で「砂糖菓子」を意味する「コンフェイト」だという。

 金平糖は「日本侵略」の文字通りの「アメ」だったのか。

 時代はくだり、江戸時代の文学者井原西鶴が書いた『日本永代蔵』という浮世草子(小説)がある。今風にいえば、「こうすればあなたも百万長者になれる」といったたぐいの事例集で、その巻之五に、金平糖を作った男の話が載っている。

 製法が知られないために、人々は輸入品を「唐目(とうめ)1斤(きん)銀5匁(もんめ)」(重さ600グラムの金平糖が銀5匁に相当した)で買い求めていた。ところが、近年、値下がりし、広く出回るようになった。

 それは、この男がゴマ粒を種とする製造法を編み出したからだ。男は長崎の町人で、2年間の苦労の末、製法を見出し、たちまち大金持ちとなった、というのである。

 その後、家庭でも作られるようになったようだが、近代を経て、昭和初期には逆に忘れられた存在となる。というのも、寺田寅彦の随筆に、最近はキャラメルやチョコレートに押されて、駄菓子屋でも見かけなくなったとあるからだ。

 ところが数年ののち、金平糖は兵隊の携帯食として再浮上する。考案したのは、陸軍糧秣本廠に勤務していた川島四郎主計大尉(のちに少将)という。

 経緯はこうだ。昭和10年前後、日本はソ連が日露戦争の雪辱を期して満蒙奪回のために侵攻することを予想し、防衛のためにモンゴル砂漠を突破し、シベリア鉄道を寸断する作戦を立てた。

 このために新しく考案されたのが、金平糖入りの乾パンで会った。

 それまでの軍用乾パンは歌ガルタほどの大きさで、固くて食べにくかった。それを麻雀パイほどに小さくし、甘みをつけるために金平糖が加えられたのだ。

 そっけない乾パンの袋から懐かしい金平糖が出てくる。荒涼たる砂漠を行軍するおっちゃん兵もインテリも歓喜の涙を流した──と川島は書いている(『食糧研究余話』)。

 さて、「創立130年」を迎えた靖国神社によると、春と秋の例大祭に50台の神饌に混じって、金平糖が献饌されるようになったのは、意外にも新しく昭和50年代で、菓子の1つとして、せんべいやおこしなどとともに三方に積み上げられ、神饌撤下後、参列者に頒かたれる。

 もしかしたら、それ以前に供されていたかも知れない、ともいうが、はっきりしたことは分からない。とはいえ、十分な糧秣もなく、病や飢えのため、悲運にも斃れていった英霊たちの良き慰めであろうことは間違いないだろう。

 それにしても、金平糖はよくよく戦争と縁がある。

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植民地支配を生んだキリスト教の責任──謝罪し、償うなうのは日本なのか [キリスト教史]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 植民地支配を生んだキリスト教の責任
 ──謝罪し、償うのは日本なのか
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 日本維新の会の橋本共同代表が記者会見で慰安婦制度について発言したことが、大きな波紋を広げています。

 来日した2人のハルモニが日本各地で講演しているほか、アムネスティ・インターナショナルが日本政府の対応を批判し、一方、国連の委員会が慰安婦への誹謗中傷を防ぐ対策を採るよう求める報告書を発表しました。

 どんな人たちが活動を展開しているのか、といえば、日韓のキリスト教人脈が浮かび上がります。

 今年4月に安倍首相宛に抗議文を提出したのは、「日本軍『慰安婦』被害者59人」のほか、ソウルの韓国大使館前で毎週、抗議活動を展開している韓国挺身隊問題対策協議会を筆頭に、以下のような韓国のキリスト教団体などの名前が並んでいます。

 基督教大韓メソジスト会女宣教会全国連合会、 基督教大韓メソジスト会全国女教役者会、基督女民会、大韓イェス教長老会全国女役者連合会、新しい世界を開く天主教女性共同体、女性教会、円仏教女性会、梨花民主同友会、全国女性連帯、平和を作る女性会、韓国教会女性連合会、韓国基督教長老会、女信徒会全国連合会、韓国女性団体連合、韓国女性民友会、韓国女性ホットライン、韓国女神学者協議会、韓国天主教女子修道会長上連合会、韓国挺身隊研究所、KNCC両性平等委員会

 なぜ韓国のキリスト者たちは、慰安婦問題、歴史問題にこれほど強硬な姿勢を示さなければならないのでしょうか?

 いまや韓国国民の3人に1人はキリスト者だそうですが、不思議なのは第一に、彼らにはキリストが「互いに赦し合いなさい」と教えている「赦し」が見えてこないことです。

 戦後、日本の「戦犯」たちがまっ先に減刑・赦免されたのはフィリピンで、キリノ大統領が恩讐を超えて踏み切ったのは「敵を愛せ」というキリストの教えであり、モンティンルパの「戦犯」たちと東京都内のキリスト教系病院の看護婦たちとの交流が盛んに行われていたのとは正反対です。

 キリスト者として知られる金大中元大統領はドイツと日本を比較し、「欧州の特徴は、西ドイツが周辺の国々の信頼を得たことだ。過去を徹底的に反省し、謝罪した。若い世代にナチスの罪悪を教え、ユダヤ人虐殺の場所を保存した」と述べていますが、じつのところ、ドイツは謝罪したのに日本は謝罪しない」のではなく、「フランスはドイツに和解を呼びかけたのに、韓国は日本の謝罪を拒絶している」のです。

 さらにいえば、植民地主義そのものがキリスト教世界から生まれた歴史を、韓国のキリスト者たちは考えようとしないようです。

 というわけで、平成11年8月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。

 それでは本文です。



 カトリック中央協議会が編集に関与する『歴史から何を学ぶか──カトリック教会の戦争協力・神社参拝』という資料集が今春、出版され、「売れている」という。

 白柳誠一枢機卿の「推薦のことば」によれば、教皇ヨハネ・パウロ2世は、「使徒的書簡」を発表し、「教会は、過去の誤りと不信仰、一貫性のなさ、必要な行動を起こすときの緩慢さなどを悔い改めてみずからを清めるよう、その子らに勧めることなくして、新しい千年期の敷居をまたぐことはできない」と語った。

 この資料集はその線に沿って、日本のカトリック教会がかつて戦時体制下にどのように組み込まれ、協力させられていったのかを検証するため、重要文書を収録したのだという。

「使徒的書簡」によれば、モーゼの時代に畑が休閑になり、奴隷が解放される「安息の年」が7年ごとにめぐってきた。すべての人が救いに預かることができるのが「聖年」だと説明されている。

「大聖年」を迎える準備として、「より深い悔い改めと回心」が必要だとする教皇の指摘は十分理解できるし、個人的には共鳴もするが、それなら新しい千年期を前にして、過去の何を、誰が、悔い改めるべきなのか?

 昭和61年に発表された白柳日本司教協議会会長による「戦争責任の告白」には、「日本の司教は、日本が第2次世界大戦中にもたらした悲劇について、神とアジア・太平洋地域の兄妹たちに赦しを願う」「私たちは、この戦争に関わった者として、アジア・太平洋地域の2千万を超える人々の死に責任を持っている」という表現がある。

 平成7年の「戦後50年」を機に、日本カトリック司教団が発表した「平和への決意」では、過去の何が過ちであったかを確認し、日本軍による破壊と殺戮のほかに、朝鮮人の強制連行や「従軍慰安婦」を取り上げ、日本人として謝罪と償いの責任があると表明された。

 さらに4年前、日本カトリック正義と平和協議会は「新しい出発のために」を公表し、「天皇制国家主義」が支配した日本がアジア・太平洋地域で侵略戦争を推し進め、2千万人以上の兄弟姉妹を殺し、労働と性労働に強制連行した。教会は「見張り役」を果たさずに侵略戦争に手を貸した、として「謝罪と償いの決意」を明らかにしている。

 そして今回の資料集は、「日本が引き起こした戦争で苦難と死を余儀なくされたアジア・太平洋地域の人々」に捧げられている。

 しかし、まことに不思議なことに、一連の文書には、なぜあの戦争が引き起こされたのか、というもっとも肝心な実証的史観が完全に抜け落ちている。

 あの戦争は「日本が引き起こした侵略戦争」と言い切れるのか。アジア・太平洋地域の2千万の犠牲がすべて日本の責任に帰せられるべきものなのか?

 過去千年間、人類は幾多の悲惨な戦争を経験したが、そもそも日本のカトリック教会がなぜ第2次大戦を特別視するのかが、まったくもって分からない。

 カトリック教会こそ、もっと血生臭い歴史を引きずっているからである。

 カトリックの世界宣教は、教皇アレキサンデル6世が1493年の勅書でポルトガル、スペイン両国王に対して、新たに領有した地方に宣教師を送り、カトリック信仰の弘布を勧告したことに始まる。

 キリシタン研究の第一人者、慶応大学の高瀬弘一郎教授によると、カトリックの世界布教はスペイン、ポルトガルによる武力征服の隠れた目的があった。世界を2分割しようというような野望に手を貸し、スペイン、ポルトガルの植民地主義のいわば尻馬に乗って世界布教を展開したのが、カトリック教会であった。

 そしてさまざまな悲劇が生まれた。カトリックは異教の神々を「悪魔」と同一視し、たとい武力によって異教徒を改宗させ、領土を奪い取ったとしても、神の御旨にかなったことと考えられたからだ。

 カトリックの後押しで推進された植民地支配がいまもなお途上国に暗い影を落としているのは、カトリックが途上国の債務取り消しキャンペーンを熱心に繰り広げていることからも明らかだ。

 ところが、植民地支配の悲劇を生んだことへの責任論も悔い改めも、カトリックの側からはまったく聞こえてこない。これはどうしたことなのか?

 十分な歴史の検証もせずに、実体のよく分からないような「天皇制」や「国家主義」を持ち出して、責任を転嫁するのは、あまりにも無責任ではないか。それが新しい千年期を希望あふれるものとすることができるのだろうか?

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世界が伝えた法王の「懺悔」──「異教文明破壊」の「告白」は十分か [キリスト教史]

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 世界が伝えた法王の「懺悔」
 ──「異教文明破壊」の「告白」は十分か
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 平成12年3月12日、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世がバチカンの聖ペテロ大聖堂で特別のミサを行い、過去2000年にわたる教会の過ちを認め、神に赦しを求めた--というニュースが世界を駆けめぐった。

 法王はキリスト生誕から2000年目に当たる昨年を特別に宗教的意義の深い「大聖年」と位置づけ、新しい「解放」の時を迎えるため、ここ数年、病める老躯にむち打って世界を飛び回り、不信と対立の関係が続いてきたユダヤ教やイスラム、東方正教会やプロテスタントとの歴史的和解あるいは関係改善に努めてきた。
 
 今回の「ゆるしを願うミサ」はこれまでの努力の集大成というべきもので、21年間の在位期間中、もっとも重要な出来事ともいわれる。また、ローマ・カトリックが過去の間違いを包括的に認めるのは歴史上、先例がないとされる。

 法王はいったい何を懺悔(ざんげ)したのか。そして、世界や日本のメディアはこれをどのように伝えたのか。

▢「神との和解」を呼びかける
▢ユダヤ人虐殺には言及せず

 バチカンのホームページ(http://www.vatican.va/)には、法王の説教がドイツ語、英語、スペイン語など6カ国語で掲載されている。英語では約1300語。けっして長文ではない。

 3月12日は「四旬節」(英語で「レント」)の最初の「主の日」つまり日曜日であった。四旬節の40日間は古来、キリストの復活を祝う復活祭を迎えるために断食し祈る回心の期間で、昨年はこの日が「回心と和解の日」「ゆるしを願う日」とされた。

 ミサは午前9時半(日本時間で午後5時半)に始まった。法王はレントの色である紫の祭服を着て臨み、1万人の信徒を前にしてイタリア語で語った。

 冒頭に新約聖書のなかのパウロの言葉が引用された説教は、キリスト教信仰の核心に関わるきわめて神学的な内容であった。

 法王は、聖そのものである神が「罪と何の関わりもない」独り子を罪人としてこの世に送られたのはどういうことか、と問いかけ、キリストは自分は罪科がないにもかかわらず、人々の罪を背負った。それは人々の罪をあがなうため、父なる神の使命を全うするためであった、と説明する。

 愛ゆえに人々の不義を見に背負ったキリストの前に、私たちは「良心の深い糾明」をするよう招かれている。大聖年の特徴のひとつは「記憶の聖化」である。きょうは、教会がすべての信者の罪のゆるしを神に誓願する嘆願する絶好の機会である。「私はゆるし、そして、ゆるしを願う」。

 ──法王はそう語り、大聖年にふさわしい「神との和解」を10億人を超える世界のカトリック信徒に呼びかけたのである。

 日本のカトリック中央協議会のホームページ(http://www02.so-net.ne.jp/~catholic/)などによると、法王の説教のあとに5人の枢機卿と2人の 大司教による共同祈願が続いた。

 7人はそれぞれ「一般的な罪」「真理への奉仕において犯した罪」「『キリストの体(教会)』の一致を傷つけた罪」「イスラエルの民に対して犯した罪」「愛と平和、諸民族の権利と文化・宗教の尊厳を犯した罪」「女性の尊厳・人類の一致を犯した罪」「基本的人権に関する罪」を順番に告白し、それぞれの罪の告白について法王は神に赦しを求めた。

 筆者が知る限り、法王の「謝罪」をもっとも詳しく報道したのは、ニューヨーク・タイムズである。

 3月13日付には、1面に十字架のキリスト像を抱擁するヨハネ・パウロ2世の大きなカラー写真入りで、「法王、2000年にわたる教会の誤りについて赦しを求める」と題するアレッサンドラ・スタンレー記者の記事が載っている。

 記事は1面から10面に飛び、計240行におよぶ。10面にも大聖堂入り口にあるミケランジェロ作「ピエタ」像の前で祈る法王や枢機卿たちの大きな写真がある。そのほか、法王の説教の抜粋や関連記事で10面のほとんどが埋められている。

 スタンレー記者は、「ローマ・カトリック教会の歴史上、先例のない瞬間」などと評価したあと、「ユダヤ人問題」をとりあげている。

 法王は1960年代の第二バチカン公会議で始まった「和解」の動きを押し進め、1998年の文書では第二次大戦中に法王ピウス12世ら教会指導者がホロコースト(ナチスによるユダヤ人虐殺)に対して沈黙し、救いの手をさしのべることができなかったことを反省したのだが、多くのユダヤ人を「失望させた」。反省が十分ではない、というのである。

 今回のミサでも、ユダヤ人の「失望」は変わらなかった。法王の謝罪を「勇気のある重要な前身」と称える一方で、「教会はいまなお第二次大戦中のバチカンの役割を論議することを避けようとしている」と語るユダヤ人指導者M・ハイア師の声を、スタンレー記者は伝えている。

 ワシントン・ポストはやはり13日付1面に、「法王、教会の罪の赦しを乞う--特別の罪とされなかったホロコースト」と題するサラ・デラニー記者の記事を載せている。1面から14面に飛び、合計約200行におよんでいる。

▢予告記事を載せた参詣と毎日
▢大きくない日本の新聞の扱い

 共同祈願でユダヤ人迫害の罪を告白したのは、E・キャシディ枢機卿である。

「歴史を通してイスラエルの民が受けた苦しみを思い起こしながら、少なからざるキリスト者が『契約の民』『祝福された民』に対して罪を犯してきたことをキリスト者が認め、このようにして自分たちの心を清いものとしていくことができるよう、祈りましょう」

 枢機卿の告白はこれがすべてで、そのあと法王が、「父なる神よ、あなたはアブラハムとその子孫をあなたの名前を世界にもたらすために選ばれました。歴史を通して、あなたの子らを苦しめてきた人々の行為を深く悲しみ、あなたのゆるしを願い求め、『契約の民』と真の兄弟愛を築くために働くことができますよう。主キリストによって」と祈りを捧げたにすぎない。

 確かにホロコーストへの具体的言及はない。

 日本の新聞の扱いは大きくないが、産経新聞が9日(木曜日)夕刊2面でローマ特派員・坂本鉄男記者の、毎日新聞が11日(土曜日)の夕刊2面でロンドン特派員・岸本卓也記者の予告記事を載せているのが目を引いた。

 坂本記者による「1000年の謝罪 ローマ法王『罪』を告白」は3段見出し、写真入りで、カトリックの「偏向」の歴史を振り返り、「謝罪」が「イスラム教との平和共存の話し合いの場につなげる意味がある」と報じ、他方、岸本記者の「ローマ法王 過去の過ち 初のざんげ」は4段見出しで、欧州での歴史の見直しや異人種・異宗教世界との融和の動きとの関連について伝えている。

 時間的には13日(月曜日)朝刊に間に合うニュースだが、5大紙は休刊で、他紙は夕刊での報道となった。

 朝日新聞は2面で、「教会の過ち 許し請う ローマ法王、特別ミサ」の4段見出しを掲げ、写真入りでとりあげているものの、記事自体は計50行程度。ただ、パリ特派員・藤谷健記者による簡単な報告のほかに、エルサレム特派員・村上宏一記者による、ユダヤ人虐殺の責任にふれなかったことに対するイスラエルの「不満」の声を載せている。

 読売新聞は夕刊2面にカリアリ(イタリア)特派員・西田和也記者の記事「大聖年 過去の過ち すべて清算」を5段見出し、写真入りで載せた。「法王は機会あるごとに過ちを認めてきたが、総括して『赦し』を求めたのは歴代法王のなかで初めて」とある。

 日本経済新聞は夕刊2面に、ミラノ特派員・小林明記者の記事「教会の過去の過ち謝罪」を3段見出し、写真入りで掲載した。「『大聖年』の主要テーマの一つで、教会として包括して謝罪するのは史上初めて」と書いている。

▢「謝罪」し続けるローマ法王
▢欠落する「異教文明」の視点

「史上初めて」と伝えられる法王の懺悔だが、平成10年に出版された竹下節子氏『ローマ法王』によると、ヨハネ・パウロ2世は「公式の文章で何と94回もカトリック教会の非を認めている」。謝罪のテーマは多岐にわたり、とくに1994(平成6)年春以来、反省の姿勢が強くなった、という。

 いまのカトリックは「驚くべき熱心さ」で、「古くは十字軍による侵略の反省やルネサンスのガリレオ・ガリレイに対する糾弾の取り下げから、宗教改革のルターの破門の取り下げ、聖バルテルミーの新教徒虐殺の謝罪、再征服(レコンキスタ)当時のスペインのイスラム教徒への謝罪、アメリカ・インディアンの虐殺や黒人奴隷の売買、異端審問の専横にいたるまで、あらゆる機会に謝罪している」というのだ。

 しかし、謝罪のテーマはこれで十分なのか。

 今回の「謝罪のミサ」に関して、欧米のメディアがホロコーストに力点を置いて報道するのは理解できる。日本の新聞はたぶんに欧米の報道に引きずられる形でこの問題をとりあげている。

 だが、過去の悔い改めなしに「新しい千年期の敷居をまたぐことはできない」(「使徒的書簡」)と語る法王の真摯な姿勢に立つとき、過去1000年間でもっとも反省すべき過ちはほかにあるのではないか。

 たとえば、アジアなど異教世界の視点でいえば、むしろ世界布教の過程で異教の神々を冒涜し、異教徒を殺戮し、異教文明を破壊してきたキリスト教・カトリックの歴史にこそ目を向けるべきではないのか。

 その点、ミサの共同祈願で、5番目に「愛と平和、諸民族の人々の権利と、彼らの文化と宗教に対する尊厳に反する行為の中で犯した罪」を告白したのが、98年に現法王によって任命され大司教となった濱尾文郎・前横浜教区長であることは象徴的といえる。

「私たちキリスト者がその高慢さ、嫌悪、他者を支配しようとする欲望、また、他宗教の人や移民や移住者のように社会で最も力無い人々に対して向けられる敵意から出た、言葉と行いを悔い改めることができるよう、祈りましょう」

 濱尾氏の告白のあと、法王は、「キリスト者はしばしば福音を否定し、権力というメンタリティに傾倒し、諸民族の権利を侵し、彼らの文化と宗教的伝統を侮辱してきました。どうか、私たちに対し寛容で、慈しみを示し、あなたのゆるしをお与えください」と祈っている。

 しかし、欧米のマスメディアがユダヤ迫害への謝罪を「不十分」と採点したように、「異教文明を破壊した罪」に対する懺悔は「抽象的で不十分」といわざるを得ないだろう。

 大航海時代、カトリックの世界宣教にはスペイン、ポルトガルによる武力征服の隠れた目的があった。両国の「世界二分割征服論」という荒々しい野望を推進させたのは、1493年の法王アレキサンデル6世の勅書である。異教文明の征服と破壊はここに始まり、多くの悲劇が生まれた。

 日本ではキリシタン迫害ばかりが語られがちだが、強制的改宗や社寺破壊などがあったのも事実である。それどころか1575年のグレゴリウス13世大勅書で、日本はじつに「ポルトガル領」と認められている(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』)。

「謝罪のミサ」に続いて、法王は2000年3月下旬、エルサレムを訪問した。法王による史上初のエルサレム訪問を日本の新聞各紙は一面、写真入りで大きく伝えたが、日本のメディアが取り上げるべきテーマはもっとほかにあるのではないか。


追伸 この記事は宗教専門紙「神社新報」平成12年4月10日号に掲載された拙文「世界が伝えた法王の『懺悔』──『異教文明破壊』の『告白』は十分か」に若干の修正を加えたものです。
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