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強硬な日本批判の背後にちらつく北朝鮮の影──キリストの教えに背き、暴走する司教たち [キリスト教現代史]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 強硬な日本批判の背後にちらつく北朝鮮の影
 ──キリストの教えに背き、暴走する司教たち
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 前回、慰安婦問題で日本を厳しく批判するキリスト教人脈について書きました。

 キリストの教えに背き、日本を悪魔視する一方で、他国に存在する同様の制度については存在すら認めようとしない姿勢は、日本の核保有を危険視する一方で、中国や北朝鮮の核については口をつぐむのと似ています。

 いや、そうではなくて、じつに驚くべきことに、日本を批判するキリスト教人脈は北の人脈と重なり合うと指摘されています。

「赦し合いなさい」「敵を愛しなさい」という、キリストの教えに反する日本糾弾が厳しく展開されているのも道理です。

 というわけで、雑誌「正論」平成19年2月号に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。

 それでは本文です。



◇1 ブログを開設した元教区長の胸中

 生きることに疲れ果て、神の声を求めて教会の門をたたいたとき、そこが神の館どころか、教会を隠れ蓑にした無神論者の巣窟であり、「宗教弾圧国家」に連なる政治活動家の秘密アジトだったとしたらあなたはどうしますか?

 もしかすると、それは冗談でも、仮定の話でもなく、日本のカトリック教会の現実かも知れません。

 教育基本法改正をめぐる国会での攻防戦が最後のヤマ場を迎えようとしていた平成19年11月中旬、1人のカトリック聖職者によるブログが静かにスタートしました。糸永真一司教の「カトリック時評」。

 初回のテーマはまさに「教育基本法改正案」で、「本来の人格教育は、両親の宗教的信念のもとにまず家庭において行われなければならない。家庭の再生なくして教育の再生はありえない」と訴えています。

 家庭教育が重要だ、との主張はきわめてオーソドックスです。奇を衒(てら)わない、正統派の主張こそ、このブログの本領です。

 ネット時代のいま、司教のブログはけっして珍しくはありません。糸永司教自身はブログの狙いを「個人的に自由な立場で、福音宣教の使命を継続するため」と簡単に説明しています。

 けれども、キリシタンゆかりの地、長崎・平戸のクリスチャン・ホームに生まれ、幼児洗礼を受けたボーン・クリスチャンである糸永司教が、450年前、「東洋の使徒」フランシスコ・ザビエルが最初に上陸した鹿児島で35年の長きにわたって教区長を務めあげ、平成18年1月に引退したあともなお「世の中の問題や現象を取り上げ、カトリックの立場から論評しよう」とネットで語りはじめたのは、それだけ強固な「宣教の使命」をその身に負っているからでしょう。

 ある信徒は「異端化する教会を見るに見かねた」と胸中を代弁します。つまり横暴をきわめる異端者に対する正統派の戦いだというのです。正統がアンチテーゼとなる。それほどに教会は左傾化、異端化しているのです。


◇2 左傾化する司教団の20年

 教会の左傾化はもうここ20年近くも指摘されてきました。

 たとえば澤田昭夫・筑波大学教授(当時)は、雑誌「諸君」平成元(1989)年4月号に「カトリシズムの荒廃」を書いています。

 教会が世俗的な「解放」「自由」のスローガンに躍らされ、世界的に荒廃、衰退し始めていること、日本でも横浜の名門ミッションスクールが修道院と学校とが同居・一体化した古き佳き「修学共同体制」を突如として解消し、騒動を巻き起こしたのはその一環であることなどを指摘し、伝統否定、天皇制攻撃を始めた教会の前途に警鐘を鳴らしたのです。

 そのころはちょうど昭和天皇の崩御から今上天皇の即位に至る御代替わりのときで、懸念は現実そのものでした。

 たとえば、国民が悲しみに暮れた崩御の当日、司教たちの全国組織である司教協議会は聖職者向けに文書を発表し、「明治以降の天皇制と結びついた国家神道」をあげつらい、「過去の忌まわしい時代に逆戻りする危険を絶えずはらんでいる」と主張したうえで、「追悼ミサをあげたり、政府行事に教会の名を連ねたりしないことが望ましい」と呼びかけました。

 要するに「関わるな」というのです。

 キリストの弟子の後継者と位置づけられ、教皇に直結する司教ですが、「天皇の葬儀」などの敬語敬称を略した公文書には、宗教者とは思えない、突き放した冷たさが感じられます。

 皇太子時代の昭和天皇の御外遊に随行したカトリック信徒の海軍少将が「御日常」をカトリック・タイムズ(今日のカトリック新聞の前身)に連載し、昭和3年の即位大嘗祭当日にはシャンポン東京大司教奉献の大ミサを挙行したのとは、大違いです。

 皇室は明治以来、カトリックの社会事業を支援してきた最大のパトロンであり、05年春に亡くなった教皇ヨハネ・パウロ2世の追悼ミサに今上(きんじょう)天皇の名代として皇太子殿下が参列されたことからすれば、政府行事への参加を禁じる教会の対応は礼儀を欠いています。

 左傾化、異端化はそればかりではありません。

 国旗・国歌法の制定に関しては、司教協議会、社会司教協議会のもとで社会問題に取り組んでいる正義と平和協議会(正平協)が、「日の丸は侵略のシンボル」「天皇制軍国主義が犯した過ちを忘れてはならない」と反対を表明しています。

 むろん、いわゆる靖国問題には大反対で、80年代から司教団もしくは正平協が首相宛に文書を発表し、「信教の自由」「政教分離」の原則をかかげて、「靖国神社の国営化」「中曽根首相の公式参拝」「小泉首相の靖国参拝」に反対してきました。

 さらに有事法制や自衛隊のイラク派遣に反対し、差別や慰安婦問題を告発し続ける日本のカトリック教会は、まるで左翼反体制運動の巣窟の観があります。


◇3 戦前の「過ち」と絶対的平和主義

 そして、今回の教育改革です。

 5月下旬、正平協は教育基本法改定案を「とうてい受け入れられない」と真っ向から批判する小泉首相宛の書簡を発表しました。

 主張の内容は以下のようなものです。

(1)現行の教育基本法は「平和憲法」と一体で、「個人の尊厳」「真理と平和を希求する人間の育成」を目指している。現行法の精神を誠実に実行してこなかったことを反省すべきだ。教育基本法の改定を「平和憲法」廃棄の布石とする目論見が明らかになっており、改定案の奥にある意図に危惧を持つ。

(2)改定案の「伝統」の文言は意味があいまいで、思想・良心・信教の自由が侵される危険もある。戦前は神社拝礼が国民的儀礼としてキリスト教徒にも強要された。歴史の反省から生まれた戦後の政教分離原則を緩和しようとする動きがあることを考え合わせると、「伝統」の文言は神社参拝強要の危険性をはらんでいる。

(3)同じく「公共の精神」の文言には個人より国を上位に置く意図が現れており、「我が国と郷土を愛する」にも同じ危惧を持たざるを得ない。人格のあるべき姿を国家が規範として法律で定めることは法の任務を逸脱している。

 教育が国家権力に利用されることに歯止めをかけた現行法の精神を貫くべきで、法律の改定ではなく、再評価を要請する──。

 護憲、戦前史批判、個人主義擁護、反国家主義──書簡は宗教家が書いたとは思えないほど、政治的文言に終始しています。「改悪」という表現は使わないまでも、「改定」にこだわっているところにも政治的姿勢が感じられます。

 そしてさらに、安倍首相が教育基本改正案の早期成立を表明し、法改正がいよいよヤマ場を迎えるのを前にして、今度は司教協議会、社会司教委員会が「教育基本法改定への懸念」と題する書簡を首相および文相宛に発表しました。

 協議会は表現こそ正平協よりは宗教的であるものの、今日、「教育の再生」は焦眉の課題だが、「だから教育基本法を改定する」というのは短絡的に過ぎる。むしろ現行法の精神を根本的に咀嚼し直すことが求められている──などとして、正平協と同様の論理を展開し、「受け入れられない」と拒絶しています。

 2つの文書に共通する主張の核心は、侵略戦争史観、絶対的平和主義、平和憲法擁護の3つで、平和理念と史的体験が司教たちを護憲運動に駆り立てる車の両輪となっています。絶対的平和主義の宗教的信念があり、一方で忌まわしい歴史的体験がある。司教たちの政治行動はそこから当然の論理的帰結として導かれています。いわば信念と体験と行動の三位一体(さんみいったい)です。

 それならば、司教たちの絶対的平和主義がカトリックの教義に照らして正統なのか、司教たちの戦前史理解が事実に基づく実証的なものなのか。じつは、そこに根本的な疑義を持つ信徒が少なくないのです。


◇4 9割の信徒は司教たちに懐疑的!?

 全国を16に区分する司教区の最高責任者である司教たちが、教会法に基づいて協議会を組織し、連名で繰り広げる政治活動は、「9割方は反対している」といわれるほど、信徒の賛同を得ていません。

 反天皇、反靖国、反「日の丸」の立場に立つ司教たちとは異なり、戦前も戦後も皇室を敬愛するカトリック信徒は数多く、皇族のおそばに仕える侍従職にも信徒はいます。皇室とバチカンの友好関係には長い歴史があります。

 また、敗戦後、靖国神社の「焼却」計画が持ち上がり、占領軍のなかで「神道、神社は撲滅せよ」という強硬論が燃え上がっていたとき、「殉国者はすべて靖国神社にまつられるべきだ」とマッカーサーに進言したのは上智大学のビッテル神父です。

 現在も靖国神社に参拝し、讃美歌を歌う信徒は少なくありません。

 さらに、昭和天皇の地方巡幸のときカトリック系の社会施設は日の丸で飾られていたし、25年前にヨハネ・パウロ2世が来日したとき、広島や長崎の信徒たちは日の丸を振って歓迎しました。

 信徒たちは、司教たちこそ教会の教えに背いている、と疑っています。多くは良識を保って沈黙していますが、なかには再三、質問状を提出した信徒さえいます。

 戦前、関西のクリスチャン・ホームに生まれ、幼児洗礼を受け、カトリック学校で学んだこの信徒は、これまでも正統的カトリック信仰を追求する立場から、司教らの護憲運動や靖国参拝抗議に対して異議を申し立ててきました。

 今回の教育改革論議では、基本法改正に真っ向から反対する司教たちに対して、バチカンが編纂した信仰と教理の解説書『教会のカテキズム』などに基づいて、次のような疑問を投げかけています。

(1)平和憲法改正反対の主張は、教会の考えに照らして無理がある。教会は、政府の正当防衛権を拒否できない、兵役は平和維持に反しない、と教えている。憲法を改正し、国防の義務を明文化したとしても、教義上、反対する根拠はない。

(2)現行教育基本法は田中耕太郎ほかキリスト教の第一級の知性が中心的に作成したもので、その理念はキリスト教的普遍主義に合致している、改正は不要である、という主張もあるが、現行法は教育勅語を前提に制定され、教育勅語には欠けていた「個人の尊厳」「平和の希求」を盛り込み、憲法を補完しようとした、との見方もある。当初の要綱案には「伝統尊重」の文言があったが、GHQの反対で削除されたという経緯からすれば、キリスト者の知性による現行法は立法者の意思が曲げられている。

(3)国民は国や為政者の権威を尊重すべきであるというのが教会の基本的立場ではないか。また「伝統の尊重」こそ教会の基本概念であり、共通善のため物的・人格的に国家に奉仕すること、国を愛することは国民の義務である、と教会は教えてきた。

(4)法律改正論議で宗教教育の導入が焦点になったが、正平協がまったく関心を示していないのは宗教家として恥ずべきことではないか。偏った政治イデオロギーにとらわれ、宗教家本来の任務を忘れているのではないか。公立学校での宗教教育がタブー視され、結果的に宗教音痴の日本人を大量に創り出してしまったことに、キリスト者は責任を感じるべきだ。

 仏教界は改正試案を提案し、民主党がこれを取り上げた。教会も改正案を提案すべきではないか──と信徒は真摯に訴えています。

 しかし、司教たちからの応答はほとんどないといわれます。答えたくないのか、答えられないのか?

 司教たちの主張が教義に反している、と疑っているのは、どうやら信徒ばかりではないようです。

 カトリック新聞平成18年11月5日号の「意見異見私見」欄には、冒頭の糸永司教の投稿が載りました。

 両親こそ教育の第一の責任者である、国の教育は補完的なもので、絶対化してはならない、個人主義や全体主義を排して共同体とともに意識・使命感を育てる必要がある──という訴えは、正平協や司教協議会とは明らかに一線を画すものです。

「共同体」の発想は正平協らの文書には見当たりません。

「異見」の存在は、「教会の立場」を語る司教たちの公的かつ組織的な政治行動が教会をあげての反対運動でないばかりか、司教たちの総意ともいいがたいことを示しています。

 つまり、一部の司教たちが「暴走している」(信徒)のです。


◇5 バチカンは絶対的平和主義をとらず

 司教たちの暴走をもう少し分析してみます。論点は3つ、第1は司教たちが政治的行動をすることの資格性、第2は絶対的平和主義の主張は教義に即しているのか否か、第3は戦前史を迫害史と見る歴史理解の正否です。

 まず第1点です。

 じつは先述した信徒は、教育改革に関する質問書の冒頭で、正平協の書簡はどのような手続を経て作成され、教会の公文書として政府に提出されているのか、その権限は何に由来するのか、と司教たちにただしています。「教義上、聖職者は政治に関わる資格があるのか」というわけです。

 一般に、教会の説明では、司教協議会はバチカンの「新教会法」によって定められた司教たちによる常設機関です。

 左傾化の本丸と目されている正平協は、司教協議会が設けた常設の司教委員会の1つで、1967年に教皇パウロ6世の呼びかけでバチカンに「正義と平和委員会」が設立され、世界の司教協議会にも同じ趣旨の委員会を設けるよう要請されたのを受けて、70年に発足し、とくにアジアにおいて社会正義と平和を実現する活動に取り組んでいる──と説明されています。

 しかし『教会のカテキズム』には、政治に直接介入することは聖職者ではなく、信徒の任務である、と明記されています。

 そのため先述した信徒は、教育基本法改正反対には信徒の任務が反映されているのか。文書の存在さえ信徒の大多数は知らないのが実態だろう。改正を提案している閣僚や議員には信徒もいる──と問いただしているのです。

 この信徒の主張によれば、司教たちの政治活動それ自体が教義に反することになります。

 第2は、絶対的平和主義の問題ですが、この信徒は、たとえば司教協議会監修『教会の教え』には「祖国防衛のために兵役に従事することは必ずしも平和維持に反するとはいえない」と書いてある、などと指摘し、みずから教えを破る自己矛盾をついています。

 むろんバチカンは絶対的平和主義の立場には立っていません。

 たとえば、教皇ベネディクト16世は06年6月、イラクで死亡したイタリア兵を慰めるメッセージを送り、聖パウロ大聖堂で行われた兵士の葬儀では教皇のメッセージが読まれました。

 教皇は「イラク人民の秩序、安全、正義、そして平和的回復のための軍務を大いに成し遂げる途上で倒れた息子」と称えたと伝えられます。

 日本の教会もかつては「戦争は悪」などという観念的平和論を振りかざしませんでした。昭和7年にカトリック中央出版部から出版された田口芳五郎の『カトリック的国家観』には「戦争はその本質上、罪悪ではなく、また愛の掟にも背馳しない」とあります。

 田口は長崎生まれ、69年に大阪教区が大司教区に昇格したのにともない、管区内の最初の大司教となり、のちには教皇に次ぐ身分である枢機卿に信任された人物です。

 けれども日本の教会はいまや『教え』に反して絶対的平和主義をかかげ、イラクへの自衛隊「派兵」反対、即時撤退を政府に要求し、「人命は重く、殺人は聖書の掟からかけ離れている」と主張しています。


◇6 「憲法精神を実現した教基法」ではない

 第3は、歴史理解の問題です。

 ここでは現行教育基本法制定の経緯と戦前の神社参拝「強要」の2つについて考えてみます。

 まず教育基本法ですが、先述した信徒は、正平協の抗議文書に記述されている「教育勅語に基づく画一的教育が軍国主義一色に染められ、戦争に巻き込まれた反省から新憲法および教育基本法が制定された」という歴史理解は正しいのか、と問いかけています。

 時代背景を見てみると、現行教育基本法が制定されたのは昭和22年春、GHQが教育改革を断行していたときです。

 帝国議会は憲法改正と併行して教育基本法の制定を進めていましたが、日本政府の要綱案にあった「伝統の尊重」「宗教的情操の涵養」はGHQの削除勧告を受けました。日本国憲法も公教育における宗教教育の禁止を規定し、教壇から宗教が追放されました。

 同じ敗戦国であるイタリアが、公立学校での宗教教育を存続させたのとは対照的です。

 戦時国際法は占領軍が被占領国の宗教を尊重すべきことを規定しています。ポツダム宣言には「宗教・思想の自由は確立せらるべし」の項目がありました。GHQがこれらを無視して日本の宗教に干渉したのは、「国家神道」に対する誤解と偏見があったからです。

 アメリカは戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の源泉で、これが「侵略」戦争を導いた、と理解し、国務省は「国家神道の廃止」を方針としていました。

 昭和20年の暮れには、いわゆる神道指令が発布されました。「宗教を国家より分離する」と規定しつつ、実際は「国家と教会の分離」が拡大解釈され、日本の民族宗教である神道に対する差別的圧迫が加えられ、多くの神道的宗教慣例が禁止されました。

 けれども占領後期になると、GHQは神道指令の「宗教と国家の分離」を「宗教教団と国家の分離」に条文解釈を変更します(ウッダード「宗教と教育」)。であればこそ、26年の貞明皇后の御大喪はおおむね皇室の伝統形式に沿って国家的に挙行されました。

 GHQの占領政策は前期と後期では異なっています。

 教育勅語についても、その否定の上に現行基本法があるという考えは、少なくとも当初の日本政府は持ち合わせていません。政府は国会で、「教育勅語が今後も倫理教育の根本原理として維持せられなければならない」(田中耕太郎文相)、「教育基本法の法案は教育勅語のよき精神が引き継がれております」(高橋誠一郎文相)と答弁しています。

 ところが、基本法の制定後、GHQの命令によって、衆議院の教育勅語排除決議、参議院の失効確認決議が行われ、教育勅語は歴史的に抹殺され、「教育勅語体制から教育基本法体制への転換がなされた」という解釈が広がったのです。

 つまり、正平協が主張するように、教育勅語の否定の上に現行基本法があるわけではないし、日本国憲法の精神を実現するために制定されたのが現行法でもない。正平協の歴史理解は正しくないことになります。


◇7 「迫害」にほど遠い上智大学生事件

 次に、戦前、神社参拝を「強要」されたという歴史について検証してみます。

 司教たちは、今回の教育改革に限らず、政教分離、靖国問題でも繰り返し、神社参拝「強要」の歴史を強調し、反対運動の歴史的論拠としています。具体的にはどんな「歴史」があったのか、というと、それは昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件です。

 明治政府は靖国神社への崇敬を国民に「強制」しようとしたが、学生が拒否したことから、軍部らの迫害を受け、教会は危機に陥った。これを回避するために神社参拝は教育上の理由で行われ、敬礼を愛国心と忠誠の表現と公式に理解し、靖国神社の本質的な宗教性にふれず、宗教的参拝を儀礼として容認するという過ちを犯した。これをきっかけに教会は参拝を奨励することになり、戦争協力への道を歩んだ(小冊子「非暴力による平和への道」)──と司教たちは主張します。

 ところが、当事者たちの回想などによれば、事件は「強制」「迫害」とはほど遠いものでした。

『上智大学50年史』(昭和38年)や渦中の人であった上智大学の丹羽孝三幹事(学長補佐)の回想(『上智大学創立60周年─未来に向かって』昭和48年)、ビッテル神父の『マッカーサーの涙』(同年)には概要、次のように描かれています。

──第一次大戦後、軍縮の時代が到来し、軍は将校の失業対策として学校の軍事教練のために配属した。上智大学の配属将校は、昭和7年5月、課外授業は学長の許可を要するという規則を破って、学生を靖国神社に参拝させた。面白半分の個人プレーである。

 カトリック信者の学生が非キリスト教形式の拝礼を拒否し、将校が憤激したのを、翌日の新聞は「参拝拒否」「軍部激怒」と書き立てた。しかし文部省は軍に批判的だったし、丹羽幹事と陸相との面談で事態は収拾した。

 ところが10月になって事件はぶり返され、「邪教」「売国奴」「スパイ」という批判が教会に対して浴びせられる。じつは軍部による政党打倒運動に事件が利用されたのであった。

 そもそも濡れ衣だったから、支援者は少なくなかった。不穏な動きがあれば、在校生の父兄でカトリック信徒の麹町警察署長から情報が伝えられたし、神道や仏教関係の大学の学長が見舞いにやってきた。軍内部の同情者からも関係する極秘資料が届けられた。そして宮様師団長のお耳に達するところとなり、事件は急速に解決する──。

 これが「迫害」でしょうか。上智大学に日本初の新聞学科が認められ、創設されたのはこのときですが、新聞記者が取材時には軍の横暴をなじりながら、記事では上智の悪口ばかり書いていたという「嵐」のただ中での学科新設は、関係者の誇りでもあるはずです。

「迫害」なら学科の新設はあり得ません。「事件」を歴史的根拠とする司教たちの政治運動は事実を無視した、ためにする議論といえます。

 教義面から補足すれば、靖国神社参拝に関して、当時の教会と文部省とが交わした往復書簡には、「行事参列を要求する理由は愛国心に関するものにして、宗教に関するものにあらず」「敬礼は愛国心と忠誠とを表すものにほかならない」と記されています(田川大吉郎『国家と宗教』)。

 いまの教会は、神社参拝=宗教行為と原理主義的に断定していますが、教会の見解はいつ変わったのでしょうか。

 政治行動の任務を認められていない司教たちが、教義を逸脱した絶対的平和主義をかかげ、歴史の事実をねじ曲げ、政治運動に走っているのだとすれば、これは暴走以外の何ものでもありません。


◇8 暴走する司教たちと北朝鮮とのパイプ

 なぜ司教たちは暴走するのでしょう。

 冒頭にご紹介した澤田教授は、教会が聖性を追求せず、魂の救済を蔑ろにし、社会奉仕団体に成り下がった結果だと分析します。その背後には、魂の永遠の救いよりも現世的解放を重視する「解放の神学」の影響があり、それを指導したのはキリスト教的マルキストであることを澤田教授は臭わせています。

 論攷の指摘は次のようにまとめられます。

(1)第2バチカン公会議(1962─65年)以後、「開かれた教会」が世界的に標榜された。しかし「解放の神学」の妖気に当てられ、会議の精神をかたって冒険主義に走り、改革ではなく革命的変革を試みる勢力が世界に広まった。これが諸悪の根源である。カトリックの神髄である典礼、礼拝が非神聖化され、俗化され、秘跡の意義は見失われ、畏敬の念が失われた。

(2)先駆けはオランダである。以前から「開かれた教会」を目指していた教会は、66年に開催された全国司教会議以降、ローマの指示とはお構いなしに典礼、教理教育、司牧を自由に進めた。真理は個人が世俗の奉仕のなかで体験するものとされ、正統教義の追究より、実践が重視された。バチカン会議の精神をかかげつつ、まったく別物の教会と信仰が生まれてきた。

(3)アメリカでは76年にデトロイトで全国大会が開かれ、教皇にはアメリカへの介入権はないとし、教会は伝統と手を切り、大衆運動団体に変質せよ、体制に抵抗せよ、人間化された社会主義的ユートピアを建設せよ、というスローガンを採択した。大会を運営したのは進歩派神父と修道女、反体制派のインテリで、支持組織には社会主義者やマルキストがいた。まさに革命大会であった。

(4)やがて「開かれた教会」は魅力を失い、ミサの参加率が低下し、多くの司祭が還俗した。教会は取り壊され、レストランや映画館などに代わった。修道会もまた没落の運命を歩んだ。過去を無定見に否定して未来を漠然と夢見る修道会に若者は魅力を感じず、修道者の「召命」は減った。修道者が万単位で退会した。規律が破壊されたからだ。ローマの警告文を修道会は無視した。

(5)日本では88年、アメリカに遅れること10年、「開かれた教会」「刷新」を実現するための福音宣教全国会議(NICE)が京都で催された。教会史上初の大規模会議は俗を聖化するより、聖を俗化し、教会を革命的に変革する役割を果たした。たとえばフォーク・ミサは神不在のイベントで、若者たちが司祭に聖体を授けた。「神の業」は「人間の業」に変換されたのだった。

 この論攷で澤田教授が正しい改革の流れと教会崩壊に連なる革命的変革の流れの結節点と見なしたNICEが開かれたのは、ちょうど御代替わりのときでした。

 その後、日本の教会がどちらの方向に進んだかは明らかでしょう。そして、どのような人々が教会を革命的変革へと導いたかも想像がつきます。

 ある信徒が興味深い指摘をしています。教育改革は焦眉の急といいながら、緊急対策の提言もない。逆にまるで現状維持を望むかのような教会の論理矛盾の文書は、共産党や社民党、日教組、はたまた過激派と文章の構造が似ている。それ以上に、北朝鮮の労働党と「声紋」が似ている──というのです。

 旧日本軍の行為、とりわけ慰安婦問題を断罪した「女性国際戦犯法廷」の主催団体は発足当初、連絡先をカトリック中央協議会や正平協と同じ住所に置いていた。団体の発起人の一人は正平協のメンバーである。正平協こそ、この団体の揺りかごだった。また、「戦犯法廷」に対する冒涜・誹謗中傷を許さない日朝女性の緊急集会は朝鮮総連傘下の組織に実行委員会を置いていた。この組織のトップは北朝鮮の国会議員である──。

 じつに驚くべき情報ですが、さらには司教たちの側近に、すなわち教会組織の中枢に、北朝鮮との深いつながりをもつ人物がいるとも噂されています。

 それかあらぬか、司教協議会は11月に北朝鮮の核実験に対する抗議声明を発表しましたが、その中身は、北朝鮮への抗議に名を借りて、世界のあらゆる核の廃絶を求め、日本の核保有論議を牽制するものでした。

 それでいて、それほど平和の希求に熱心な司教たちが北朝鮮の拉致問題を批判したとは聞きません。

 終戦直後のカトリック新聞には、中国大陸で展開されている血なまぐさいキリスト教迫害を告発する記事が毎号のように掲載されていました。宗教を阿片と断じる無神論者たちと、教会は文字通り命がけで戦っていたのです。

 それがいまや「宗教弾圧国」のお先棒を担いでいるのだとしたら、それでもあなたは神の声を求めて教会の門をたたくでしょうか。
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