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神社建築発生の謎──高床式穀倉から生まれた!? [神社神道]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 神社建築発生の謎──高床式穀倉から生まれた!?
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 60年に一度の御遷宮が行われる出雲大社で、今月10日、本殿遷座祭が斎行され、大神様が新しい本殿に鎮まられました。

 また、伊勢の神宮では、20年に一度、社殿を作り替える式年遷宮が行われており、今年秋には遷御(せんぎょ)が執り行われ、大神様が新殿に遷られます。

 お伊勢さんと出雲大社のお引っ越しが同じ年に重なるのは、じつにおめでたい限りです。

 ところで、なぜ、どのようにして、神社建築というのは生まれたのでしょうか?

 というわけで、平成8年5月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。



 昨年(平成7年)6月、タイ北部を取材旅行した際、ぶらりと1軒の農家を訪ねた。若夫婦がバイクに麻袋入りの米1俵を積み、二人乗りで外出しようとしている。猛暑の日で、主人は上半身裸だ。

 驚いたのは、農家の母屋は神社の本殿を思わせるような高床式の木造家屋で、納屋の屋根には千木(ちぎ)のようなものが突き出し、棟(むね)には勝男木(かつおぎ)のようなものが乗っている。「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」といわれる神宮の洗練された建築美にはほど遠いが、基本構造は似ている。

 いや驚くのはまだ早い。北部タイでは民家のほか、都市部にある博物館やバス停の屋根にも千木があしらわれている。千木や勝男木といえば、日本の神社だけの特徴かと思っていたら、とんでもない。

 それにしても、よりによって祭祀施設であるはずの日本の神社と、タイの納屋の構造が似ているというのはどういうわけだろう。社殿の発生や神社の起源と関係があるのだろうか?


◇高床遺構が江南から出土
◇稲作農耕とともに伝来か

 神社建築には、正面の位置の違いから、妻入(つまいり)と平入(ひらいり)の2系統があることは知られている。

 妻入を代表する出雲大社、住吉大社、大島神社の本殿は2室構造で、他方、伊勢の内宮(ないくう)・外宮(げくう)正殿(しょうでん)の神明造に代表される平入は1室である(林野全孝・桜井敏雄『神社の建築』)。

 したがって妻入と平入の社殿では発生の歴史が異なると考えるのは当然で、神宮司庁営繕部長を務めた山内泰明氏は、大社造は古代住居が社殿に変化した大陸的構造で、神明造は切妻造の高床穀倉から転化した南洋的建築だと説明している(『神社建築』)。

 ただ、京都産業大学の所功先生は、神宮正殿も元来は妻入だったとみている(『伊勢神宮』)。

 神々の住居と考えれば、神殿が古代人の住居から発生したというのは理解しやすい。けれども妻入であれ平入であれ、古代住居から高床式神殿の発生を説明するのは案外、厄介である。古代住居は平地・半地下式の高床式住居だからだ。

 高床建築や掘立柱の建築が数多く見られるのは弥生時代になってからだという。北九州から瀬戸内の弥生期の遺跡から高床式建築の遺構や柱などが発見されている(平井聖『住生活史』)。

 海外に目を向けると、20数年前に発見され、「世界最古の稲作遺跡」として話題になった中国・浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡(前5000─4000年)から、稲籾のほか大型高床式建築の遺構が出土している。

 揚子江流域以南の華南、東南アジア、朝鮮半島南部などにも高床が広く分布する。

 家屋も倉庫もある。棟持柱(むなもちばしら)や千木の存在を裏づける考古資料も出土しているようだ。

 ジャポニカ稲の起源地とされる揚子江中下流域に高床建築のセンターがあるらしいことは稲作農耕との関係が想定されるが、京都大学の浅川滋男先生は必ずしも明確には結びつかないと指摘する。農耕段階以前の園耕段階にむしろ高床遺構が多く見られるからだ(『住まいの民族建築学』)。

 浅川先生は高床建築の発生を、次のように大胆に推理する。

(1)高床建築は新石器時代初期かそれ以前、稲作とは無関係に低湿地の家屋として生まれた。

(2)起源地は揚子江中下流域から東南地域。

(3)漢代までに南方のほぼ全域、さらに東南アジア、朝鮮半島南部、弥生期の製なん日本に伝播した。

(4)発生期は稲作と無関係だったが、周辺地域に伝播する過程では稲作と複合関係にあった。

 このほか別系統とみられる高床倉庫が北方ユーラシアに広がっている。中国東北部、樺太、シベリア、アラスカ、さらにスイス、スウェーデンにも見られる。こちらは狩猟採集民族の文化らしい。

 校倉造で、棟持柱もみられるため、神明造の源流との見方もある。


◇神概念の変化と社殿の発生
◇高倉で斎行される民俗儀礼

 古代日本人は神籬(ひもろぎ)や磐境(いわさか)などに自然の神霊を迎え、祭祀を執行したとされる。素朴な自然崇拝の時代は山や滝、巨石を御神体とし、神殿を必要としなかった。

 やがて神殿が発生し、神々は降臨せずに常住すると認識され、同時に自然神から人格神へと変身する。人間と同じように名前を持ち、食事をし、舞楽を愛でる存在となり、神々の体系も成立したのだろう。

 こうした神概念の変化、神殿の発生はいつ、どのようにして起こったのか?

 所先生は「神宮に代表される『神明造』の原型は、古代の高床穀倉建築である」(前掲書)とする。だとしたら、神殿の発生はいつの時点と考えるべきだろうか?

 稲作とともに高倉が伝来したことは間違いなかろうが、伝来後、日本列島で神殿に転化したのだろうか?

 中国・前漢時代の石寨山(せきさいざん)墓(雲南省)から出土した貯貝器(ちょばいき)には、高床倉庫に稲を収納する場面のほかに、祭祀施設としての高床が描かれているらしい。高倉は伝来以前、すでに祭祀施設だったとも考えられる。

 昭和18年に発見された静岡・登呂遺跡は弥生後期初めのものという。いま遺跡公園で目をひくのは、東京大学の関野克先生が復元した板倉造の高床倉庫2棟だが、高床倉庫とされた根拠は鼠返しの出土らしい。

 面白いのは、まるで氏神を中心に集落が形成されるように、米倉らしい倉庫を中心に登呂の集落が構成されていることだ。人々は倉庫を共有し、共同生活を送っていたかに見える。

 登呂では祭器具として剣や琴、高杯(たかつき)形木器などが発見されているが、神殿はない。けれども、高床倉庫がじつは祭祀施設だったとしたらどうだろう。

 というのも、数年前、大阪・前期難波宮下層遺跡や和歌山・鳴滝遺跡(いずれも古墳時代)から高床倉庫を1カ所に集めた遺構が発見され、話題を呼んだことがあったからだ。

 それどころか、南西諸島ではいまも高倉や群倉が見受けられ、沖縄・名護では神田で収穫された初穂をウタキ(御嶽)の傍らの高倉に奉納し、初穂でつくった神酒は豊年祭に用いられる。同様の民俗儀礼は、かつては奄美にもあったという。

 さらに、ボルネオのダヤク族の葬祭には仮設の高床家屋が登場するという。高床は天上世界の雛形とされている。死者に捧げる脱穀も斎行されるようだ。

 このように穀倉は富と権力の象徴であると同時に、穀霊・死霊・祖霊を祀る祭場でもある(浅川前掲書)。

 古代の日本人は穀倉の床下を集合場所とし、ときに神籬を立て、祭祀を執行したとの説もある。床下の祭祀は、伊勢神宮の正殿中央の床下に建てられた「心の御柱(しんのみはしら)」を思い起こさせるのに十分だ。

◇御饌殿に伝えられる古式
◇宇賀之御魂を祀る御稲御倉

 その伊勢神宮だが、外宮に御饌殿(みけでん)がある。

 数ある殿舎のなかで、奈良以前の古い形式をいまも伝え、1年365日、朝夕欠かさずに行われる日毎朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)になくてはならない、大神様の食堂である

 建物の四隅に柱はなく、横板壁で囲んだ、井楼造(せいろうづくり)ともいわれる特殊な板倉造である。

 皇學館大学の桜井勝之進先生は「御饌殿における祭儀そのものの中にきわめて根強い伝統性が潜んでいたからこそ、建物の様式をも頑固に守り続けたのではなかったろうか」(『伊勢神宮』)と指摘する。

 天照大神の託宣で御饌津神(みけつかみ)が迎えられ、大御饌の祭儀が始まった(外宮に伝わる『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』)とする信仰の原点が殿舎の改造を阻み、仏教伝来の影響を拒んできたようだ。

 戦国時代以前はほとんどが御饌殿と同じ形式だったというが、「人間の理性に反発するような気紛れな要素を一つも含んでいない」(『日本美の再発見』)とブルーノ・タウトが絶賛した神宮の簡素な建築様式の原型が、大神の住まいではなくて食堂に、より濃厚に残されているというのは興味深い。

 もうひとつ注目されるのは、内宮にある御稲御倉(みしねのみくら)と呼ばれる殿舎である。

 神田で収穫された稲の抜穂(ぬいぼ)を納める穀倉で、この抜穂が神宮でもっとも重要視される神嘗祭と6月、12月の月次祭(つきなみさい)の三節祭(さんせつさい)に供される御料となる。

 御稲御倉は単なる穀倉ではない。御稲御倉神をまつる歴とした社殿でもある。

 神宮皇學館教授だった阪本広太郎先生は、「御稲そのものを尊崇することは非常なものであって、かの『建久年中行事』にこれを神田より捧持して納入するにあたって警蹕(けいひつ)を行ったことが見えているように、まったくこれを神格化したのであった。かようなわけで、この御倉にも古くからその守護神を鎮祭した」(『神宮祭祀概説』)と解説している。

 興味深いのは、御稲御倉の祭神・御稲御倉神はじつは宇賀之御魂(うかのみたま)で、豊受大神の御霊だということである。何のことはない、穀霊信仰そのものだ。

 宇賀之御魂を倉稲魂と書くのも、うなずける。穀霊は穀倉に宿る、という信仰が派生して穀倉は社殿に転化していった、と考えるよりも、高倉が最初から穀霊に関わる祭場だったとすれば、理解しやすい。

 春に蒔いた一粒の籾種が芽を出して生長し、秋には黄金色の穂に数十もの実が稔る。人々はこれを食し、命をつなぐ。自然の力、生命の不思議は古代人の驚異であったに違いない。必ずしも米作適地ではない日本列島では十分な収穫が得られない分、米作民の豊穣への祈りが深まっていったことは想像に難くない。

 稲霊ほか神々の降臨を願い、春は豊作を祈願し、秋には新嘗(にいなめ)の祭りを執行する祭場が穀倉であり、それがやがて神殿の発生を促した。素朴であるがゆえに普遍的な稲霊への祈りを原点として、ときに新たな信仰を加味し、あるいは変容させながら古代人が各地に神社を創建させていったのだとしたら、その祈りのなんと切なることであったろうか。


▽タイの穀霊信仰

 さて、タイに話をもどす。

 タイにも穀霊信仰は根付いている。首都バンコクを歩くと、ホテルの入り口やオフィスビルの庭の片隅に地神をまつる精霊祠をよく見かける。石柱のうえに寺院のミニチュアが置かれ、供物や花が捧げられ、香が焚かれている。

 上座部仏教の信仰の篤い国だから、仏教と関係があるのかというと、そうではない。7世紀に仏教が伝来する以前の精霊信仰が息づいているのだ。

 タイだけではなく、東南アジアの人々は森羅万象すべてに霊(ピー)が宿っていると信じている(阿部利夫『タイ国理解のキーワード』)。

 タイでは交通事故が起きても、風邪をひいて、ピーの仕業だと考えられる。北部タイの人々が村の呪術師(モー)から授与されたお守り(クルアン・ラーン)を首に下げているのも精霊信仰である。

 農民たちは収穫後の水田で落ち穂拾いの儀礼を斎行する。祈りの言葉はこうだ。

「稲の神様、どうぞ米倉までおいでください。野や道や、田や畑に迷って、野ネズミに噛まれたり、鳥についばまれたりしないでください。どうぞ、どうぞおいでになって、楽しく愉快にやってください。あなた様の息子や孫を育てられるように、弥栄をお与えください」

 さらに、阿部先生は日本との共通点を指摘する。

「稲のカミを信じ、早乙女(さおとめ)、種籾信奉などまったく同じですし、農事の余暇の楽しみの踊りは、タイは『ラム・ウォン』(男女相対の輪の踊り)、日本は昔の歌垣あるいは嬥歌(かがい)、現在の盆踊りと対比できます。そしてまた、精霊への信仰と奉仕のもとに農民は強く結び合う共同体を作り上げております」(前掲書)

 タイの人々は、日本の稲荷信仰のように、稲には穀母(メーポソップ)が宿ると信じている。村祭りも日本と同様、村人が協力して斎行されるという。

 日本に似た北部タイの農村風景は、私たち日本人に親近感を感じさせずにはおかない。けれども、タイの精霊信仰が日本人の信仰と決定的に異なるのは、伊勢の神宮も出雲大社も生み出さなかったことである。金色に輝く、荘厳かつ巨大な宗教建築を、タイに建造させたのは仏教である。

タグ:神社神道
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古今東西の文明を包み込む京都「祇園祭」──禁教時代に「聖書物語」を飾った函谷鉾 [神社神道]

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古今東西の文明を包み込む京都「祇園祭」
──禁教時代に「聖書物語」を飾った函谷鉾
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 日本三大祭りのひとつ、京都・八坂神社の祇園祭について書かうと思います。
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 昨年(平成13年)9月11日のアメリカでの同時多発テロ事件に端を発するアフガニスタン戦争はすでに最終局面を迎え、今度は他のイスラム諸国を標的とする第二段階に進みそうな気配です。「文明の衝突」という表現を否定する人は多いのですが、そうした側面は否定しても否定し切れないようにも思います。

 テロ事件の容疑者にはアフガン人はひとりもいません。それでもアフガンが戦場となったことに、私は歴史の因縁を感じています。アフガンが位置する中央アジアは、シルクロードの交通の要衝であり、古来から東西の文明がときに激突し、ときには融合する文明の十字路です。ギリシア文明とインドの仏教がこの地で衝撃的に出会い、生まれたのが、ガンダーラの仏像であり、大乗仏教でした。

 起源地の異なる文明の交わりは、シルクロードの終着駅である日本でも起きました。京都・祇園祭の山鉾にそれがうかがえます。


□□旧約聖書「イサクの嫁選び」を□□
■■デザインした「函谷鉾」の前掛■■

 祇園祭は、7月1日の「吉符入」で準備が始まり、31日の疫神社夏越祭まで、じつに1カ月の長きにわたって繰り広げられる壮大な祭礼絵巻です。

 ハイライトはいわずもがな山鉾巡行です。長刀鉾(なぎなたぼこ)を先頭に、30数基の山鉾が各山鉾町から京の町の中心・四条烏丸に集結し、「コンコンチキチン、コンチキチン」と太鼓、鉦、笛からなる祇園囃子もにぎやかに、華麗さを競ひながら、猛暑の都大路をしずしずと進むのです。

 同社の職員20人でまとめられた『八坂神社』によると、祇園祭の成立は9世紀にさかのぼるそうです。清和天皇の時代、貞観11年(869)にすさまじい疫病が流行したので、「宝祚隆永、人民安全、疫病消除鎮護」のため、卜部日良麻呂が勅を奉じて、高さ2丈(6メートル)の「矛」66本を建てて御霊会(ごりょうえ)を執行し、あるいは神輿を神泉苑に送り、祭りました。以後、これが恒例となります。
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 そのころ疫病の流行は怨霊(おんりょう)の祟りが原因と考えられ、その消除を祈る鎮魂行事が「祇園御霊会」の始まりでした。そして、このときの「矛」が今日、「動く世界の博物館・美術館」「動く正倉院」と呼ばれる山鉾の「鉾」の原型です。

 私がもっとも注目するのは、「函谷鉾(かんこぼこ)」です。

 山鉾にはそれぞれ中国や日本の故事、説話、能・狂言からモチーフを得た固有のテーマがあるのですが、函谷鉾の場合は古代中国・戦国時代の故事を主題としています。

 斉の宰相孟嘗君(もうしょうくん)が、対立する秦の昭王に使いしました。讒言(ざんげん)する者があり、昭王は殺害をはかります。間一髪のところで、孟嘗君は都・咸陽を脱出します。函谷関まで逃げ延びたものの、いまだ夜、無情にも関は閉じられていました。関は鶏鳴なき夜間は開かれません。追っ手が背後に迫ります。万事休すか。そのとき鶏の鳴き声の真似がうまい従者がいました。「コケコッコー」。はたして関が開かれます。こうして孟嘗君は無事、帰国することができたといいます。

 故事にならって、函谷鉾の鉾頭には山中の闇を表す三日月と山形、真木の上端近くには孟嘗君、その下に雌雄二羽の鶏が祀られています。

 函谷鉾のテーマ設定それ自体が異文明の受容を示しているのですが、もっと興味を引くのは、鉾の正面を飾る前掛の織物タピストリー(毛と絹の綴織の壁掛)です。
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 16世紀半ばにいまのベルギー・フランドル地方で製作されたもので、何とそのデザインは旧約聖書の「イサクの嫁選び」です。アブラハムの老僕エリアザルが泉で美しい乙女リベカから水を飲ませてもらい、やがてアブラハムの子イサクはこの娘をめとるという「創世記」の有名な物語が、一枚に織り出してあります。中央にはエリアザルとリベカ。右上にはラクダにまたがったイサクの姿もあります。

 まさに古今東西、異文明・異宗教の共存です。それにしても、神社の祭礼にキリスト教までが関係しているとは珍しい。けれども、驚くのはまだ早いのです。


□□禁教時代に都大路を公然と巡行□□
■■オランダから家光への献上品か■■

「イサク」が登場するのは、江戸時代になってからのようです。

 天正2年(1574)に織田信長が狩野永徳に描かせ、上杉謙信に贈ったと伝えられる「上杉本洛中洛外図屏風」に、函谷鉾が描かれています。

 鉾の形態は現在とほぼ同じですが、残念ながら裏面の見送しかうかがえません。しかも、大きな虎皮が掛けられています。現在とはだいぶ違うということです。

 ついでに申し添えますと、函谷鉾の見送はつい最近までは、弘法大師真蹟の模写を織りなしたとされる「繻子(しゅす)地金剛界礼懺文(らいさんもん)」でした。そして現在は「エジプト天空図」です。前掛がキリスト教なら、見送は仏教そしてエジプト文明。世界の精神文明が凝縮されているのです。

「イサク」の前掛が確認できるのは、宝暦7年(1757)に刊行された、当時のベストセラー『祇園御霊会細記』です。木版画で細部は鮮明ではありませんが、「イサク」らしき函谷鉾の前掛が見て取れます。

 読み進むと、「函谷鉾」の説明に「天竺(てんじく)の綴錦を使用。天竺人が酒宴を催し、ジャンケンをしている風情。水瓶や馬、そのほか樹木・山岳などが描かれている」とあります。「天竺」「ジャンケン」というのが気になりますが、図柄からいって「イサク」のようです。

 さらに動かぬ証拠として、タピストリーの裏布に「享保3年(1718)再興」と墨書されています。「宝永の大火」後に函谷鉾が再興されたという意味で、このときから「イサク」が飾られたようです。

 18世紀といえば、祇園御霊会が最大のピークを迎えた時代ですが、同時に鎖国政策、禁教政策がとられた時代でもあります。徳川幕府は社寺の祭礼を厳しく統制したともいわれますが、それならなおのこと、京都最大の祭りに、聖書物語をデザインした舶来の錦が堂々と繰り出していたとは、耳を疑わざるを得ません。そんなことがあり得るのでしょうか。函谷鉾の前掛け

 だいぶ資料を読みあさったのですが、役に立ちそうなものはほとんど見当たりません。五里霧中で困り果てた末に、やっと光が見えてきたのは、祇園祭に関する著書もある山鉾連合会の吉田孝次郎副理事長のお話を聞いてからでした。

 吉田氏によると、函谷鉾の前掛けが「イサクの嫁選び」であることが学問的に確定されたのは、じつは昭和60年代のことだといいます。メトロポリタン美術館の梶谷宣子氏らアメリカの染織品研究者たちの科学的研究によって、数々の新事実が判明したのです。それ以前は聖書物語をデザインしてあるとはほとんど知られていませんでした。

 だとすると、江戸時代の人たちは何も知らなかったということなのでしょうか。どうもそうではありません。

 まず、「イサク」はどこから入手されたものなのか、を考えてみましょう。

 吉田氏は、驚くべきことに、もともとは対日貿易拡大をもくろむオランダ商館長から三代将軍家光に贈られた献上品ではないか、と推理します。

 根拠となる記録はオランダ・ハーグの国立中央文書館に残されています。『平戸オランダ商館の日記』の1633(寛永10)年9月11日のくだりです。新任の商館長クーケバッケルから家光に贈られた献上の品々が列挙され、そのなかに「オランダ産絨毯一枚。リベカ物語の模様入り」とあります。これが函谷鉾の「イサクの嫁選び」らしいのです。梶谷氏らの研究では、リベカ物語のタピストリーが滅多にあるものではないことが分かっているからです。

 もし家光への献上品だとして、どのような経路で函谷鉾町へと渡ったのでしょうか。

 吉田氏は「外交に長けた平戸藩が何らかの働きかけをしたのではないか」と語ります。そもそも家光への献上を仲介したのは平戸藩であり、同藩京屋敷は蟷螂山町と南観音山町のあいだにありました。


□□鉾町の町衆は「知ってゐた」□□
■■異文明の価値を認める日本人■■

 それにしても、家光の時代といえば、「キリシタン迫害」が過酷さを増した時期です。島原の乱が起こったのは寛永14年、このあと鎖国体制は完成します。

 この禁教・鎖国のプロセスには、プロテスタント国オランダの世界戦略が深く関わっていることが指摘されています。

 当時、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントとの血で血を洗う戦乱が続いていました。三十年戦争です。カトリック国ポルトガル、スペイン両国の「日本侵略」「世界征服」の野望を吹き込み、両国との貿易停止を盛んに幕府に働きかけたのはオランダです。

 オランダは島原の乱のとき、自分たちがキリシタンではないことを証明するために、人々が籠城する原城をめがけて艦砲射撃を加えています。島原の乱をテコにして、オランダは宿敵ポルトガルを追ひ落とし、そして鎖国体制下で対日貿易をまんまと独占するのです。

「イサクの嫁選び」がオランダからの舶来品だとして、禁教下の京の町衆はこれをどう認識していたのでしょうか。前出の『祇園会細記』は、「天竺」とあるばかりで、「キリスト教」の認識はうかがえません。

 実際に「イサク」が巡行するのは献上から80年後ですが、その直前にはイタリア人神父シドッチが屋久島に潜入するといふ事件が起きています。新井白石が審問して『西洋紀聞』を書いたのは有名ですが、シドッチ自身は江戸・小石川のキリシタン屋敷で牢死します。けっしてキリスト教信仰に寛容な時代ではありません。


 山鉾巡行に登場する鯉山、鶏鉾などには、ギリシャ神話を題材とした、16世紀後半にやはりベルギーのフランドル地方で製作されたタピストリーが用いられていますが、これらの使用は函谷鉾よりはるかに遅れます。

 異彩を放つ西洋の綴織「イサク」がはじめて都大路を巡行したとき、都人がどれほど度肝を抜かれたことかは想像にあまりあります。しかも禁制のキリスト教美術です。まかり間違えば、保管していることだけでも厳しい罪に問われたでしょう。それが京の町に公然と繰り出したのです。

 町衆は知らなかったのでしょうか。吉田氏は「そうではない」と考えます。年に一度の祇園祭に豪華な山鉾を巡行させた山鉾町の豪商たちは、昔も今も、最高の知性と徳を兼ね備えた教養人であり、同時に知っていても知らないフリのできる成熟した市民だった--と吉田氏はいいます。

 先述の『細記』は「イサク」の入手経緯について、「函谷鉾町の沼津宇右衛門家が繁栄を謳歌していたころ、異国船から買い求め、保管してあった」と説明していますが、「誰にも迷惑のかからない表現をした」というのが吉田氏の見方です。先述したように、『細記』は「イサク」の絵柄を「天竺」「ジャンケン」と説明していますが、吉田氏の説にしたがえば、納得がいきます。


 それにしても、禁制のキリスト教美術品と知っていながら、あえて危険を冒してまで、「イサク」を巡行させた山鉾町の町衆に底知れぬ力を感じるのは、私だけでしょうか。

 幕府が置かれている江戸に対して天皇の御所を擁する京都の政治・社会的な地位、幕府という政治権力者と対等に取り引きしていたらしい山鉾町の豪商たちの政治力・経済力などなど、に私は思いをめぐらすのですが、どうでしょうか。また逆に、「キリシタン迫害」「弾圧」の悲惨さが強調される傾向にあった近世のキリスト教禁教の実態というものを歴史的に見直すべきなのかも知れませんが、これ以上はいまのところ私の能力を超えています。

 しかし、少なくともキリスト教禁制の時代にさえ、禁じられた異宗教の価値を認められる日本人がたしかにいたことだけは間違いありません。異文明が激突する「波乱の21世紀」に生きる現代人への鋭いメッセージといえませんか。

 追伸 この記事は「神社新報」平成14年1月14日号に掲載された拙文「古今東西の文明を包み込む京都祇園祭」に若干の修正を加えたものです。執筆に当たっては、文中の資料のほかに、参考文献として『祇園祭染織名品集』祇園祭染織研究会編、『祇園祭』祇園祭編纂委員会、祇園祭山鉾連合会、『祇園祭山鉾懸装品調査報告書--渡来染織品の部』梶谷宣子、吉田孝次郎などを参照しました。また、八坂神社のパンフレットから画像を引用させていただきました。この場をお借りして、お礼を申し上げます。(H14.2.19)
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キリシタンを祀る!? 「長崎くんち」の諏訪神社 [神社神道]

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キリシタンを祀る!? 「長崎くんち」の諏訪神社
(「産経新聞」平成11年11月2日夕刊から)
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 長崎の総鎮守(ちんじゅ)社・諏訪(すわ)神社では毎年10月上旬、「日本三大祭」のひとつとされる「長崎くんち」が行われ、全国から訪れる数十万人の拝観者・観光客の目を楽しませる。

 祭りの見物(みもの)は奉納踊りで、77ある「踊り町」ごとに伝統の芸能が奉納される。日本風の獅子舞もあれば、中国情緒たっぷりの龍踊(じゃおど)りもある。爆竹も鳴る。オランダ服やオランダ語のかけ声もある--という具合に、街の歴史そのままに日本と中国とオランダのチャンポンだ。

 しかし、その諏訪神社が「キリシタンを祀(まつ)る神社」といわれていることは、案外、知られていない。

 長崎はいうまでもなく、カトリックにとっては忘れがたい「殉教(じゅんきょう)の地」である。JR長崎駅前の歩道橋に立つと、正面のビルの谷間に隠れるようにして丘の上の「日本二十六聖人殉教記念碑」の巨大レリーフがのぞく。ここ西坂の丘で26人のキリシタンが秀吉の命令で処刑されたのは、400年前の慶長元年(1596)のことである。
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 処刑後、長崎のキリスト教信仰の灯は消えたのかと思いきや、郷土史に詳しい諏訪神社の神職、松本亘史氏によると、意外なことに「かえって盛んになった」という。

 16世紀後半の長崎開港後に建てられた「岬の教会」は慶長6年には改修されて、「被昇天のサンタマリア教会」と名前を改める。当時、東洋一の規模を誇る教会で、日本宣教の中心であった。キリスト教が隆盛するかげで、諏訪・森崎・住吉の三神社が打ち壊された、と古い文献に記されているという。

 やがて徳川幕府が禁教令を発し、キリシタン弾圧が始まると、今度は長崎の諸教会が破壊され、宣教師は追放になった。他方、キリシタンに破壊された諏訪神社は寛永2年(1625)に再興する。

「キリシタン合祀説」があるのは、諏訪神社の合殿神(あいどののかみ)の森崎神社である。諏訪神社は同じ社殿にいわば同居するかたちで、森崎神社と住吉神社を祀っているのだが、森崎神社の方は謎の神社で、いま県庁がある森崎の地にかつて独立して鎮まっていた--ということ以外はよく分からない。

 その森崎神社について、元長崎市立博物館館長で、純心女子短大の越中哲也(えっちゅう・てつや)教授は、森崎の地にあった「被昇天のサンタマリア教会」が破壊され、その跡地に建てられた祠(ほこら)であった、とする注目すべき説を唱えている。

 つまり、教会の破壊後、祟(たた)りを恐れて神社が創建された、かつての教会をしのんで、信徒が神道的な社祠形式に改めて祀った、諏訪・住吉の2社が勧請された際、すでに教会跡に祀られていた祠を長崎の氏神と解釈して合祀した--というのだ。

 森崎神社の歴史はキリスト教会の破壊後に始まった、と理解するのが越中氏だが、この点に関してはどうもそうではない。古い記録によれば、森崎神社が開校以前に県庁の場所に鎮まっていたことは、どうやら間違いないからである。

 けれども、「キリシタン合祀説」の方はまた別で、諏訪神社の上杉千郷宮司の体験談は、むしろ「合祀説」を裏付ける証言とも聞こえる。つまり、上杉氏によれば、昭和57年に諏訪神社御鎮座三百六十年の社殿改修で本殿の遷座祭(せんざさい)が行われたとき、御船台におさめられた森崎神社の御霊代(みたましろ=御神体)は、諏訪・住吉両社とは異なって、「宮司一人では持ち上げられないほど大きく、重かった」というのだ。森崎神社とほかの2社とは明らかに違うのである。

 キリスト教はヨーロッパ大陸に浸透していく過程で、「邪教の巣窟」である森を破壊し、ゲルマンの聖樹を伐採したあとに教会を建てたといわれるが、森崎神社もまず最初に岬に鎮まる森のなかの神社として存在していて、それがキリシタンによって破壊され、その跡地に教会が建てられたのではないか。

 そのあと教会が禁教で破壊され、今度はキリシタンが追憶・慰霊などの目的で祠をおき、やがて諏訪神社再興のときに隠れキリシタンの信仰の隠れ蓑としての意味もふくめて、同じ社殿に祀られたのではないか、と考えられる。

 あくまで推測だが、もしこれが事実とすれば、当時、ほとんどキリシタンばかりだったといわれる長崎の住民は、禁教後も、亡き人々の慰霊・鎮魂の思いを神道形式でずっと守り続けてきたことにもなる。

 推測といっても、「キリシタンの神社」は突拍子もないものではない。

 遠藤周作の小説『沈黙』の舞台といわれる長崎県西彼杵郡外海(そとめ)町黒崎の海を臨む山中には、枯松神社がひっそりと鎮まっている。宣教師のジワンを祀る神社とされ、殿内には「サン・ジワン神社」と刻まれた石祠がある。
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 注目したいのは、すぐそばにある「祈りの岩」だ。上杉氏は「磐座(いわくら)ではないか」と推測する。古代の日本人は巨岩をしばしば神の依代(よりしろ)と考えた。キリスト教伝来以前の聖地ということになる。
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 神仏混淆(こんこう)どころか、日本の神道はキリスト教とも習合したということなのか。恐るべき日本人の宗教的包容力といえるのではなかろうか。

 追伸 この記事は平成11年11月2日づけ「産経新聞」夕刊の宗教欄に掲載された拙文「『長崎くんち』の諏訪神社 キリシタン祀る? 宗教的な包容力示す」に若干の修正を加えたものです。

 ひとこと加えるなら、森崎神社の祭神はイザナギ・イザナミの男女2柱の神です。住吉神社はもちろん表筒之男、中筒之男、底筒之男の3柱の神です。簡単に想像でものをいうべきではないのですが、私には前者は聖母マリアとイエス、後者は父と子と精霊という三位一体の神、というように見えます。

 なにしろ長崎の住人はほとんどすべてがキリシタンでした。長崎を治める代官でさえ、かつては熱心なキリシタンのひとりだったそうです。もともと強制的にキリスト教に改宗させられた人たちだとしても、禁教後は、神道形式に代えてキリスト教信仰を守る、というような方便が使われたことは容易に想像されます。いかがでしょうか。

高句麗の王を祀り、小麦を献饌する──古代朝鮮の遺民が建てた埼玉・高麗神社 [神社神道]

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高句麗の王を祀り、小麦を献饌する
──古代朝鮮の遺民が建てた埼玉・高麗神社
(「神社新報」平成11年3月8日号から)
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 昨年(平成10年)の暮れも暮れ、12月30日に埼玉県日高市の高麗(こま)神社を訪ねた。

 高麗川のほとり、自然豊かな高麗丘陵に同社は鎮まっている。8年前(平成3年)、市制以降で日高市になったが、明治29年までは高麗郡であり、近世は高麗郷といった。

『日本書紀』につぐ第2の勅撰史書である『続日本紀』には、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国の高麗人1799人を武蔵国に移住させ、はじめて高麗郡を置いたとの記述がある。元正天皇の時代、霊亀2(716)年5月16日、いまから約1300年前である。

 祖国滅亡という悲劇のあと、朝鮮半島から亡命してきた高句麗の遺民によって、神社は建てられた。祭神は高麗王若光。現宮司の高麗澄雄氏は若光の末裔で、59代目という。古代から現在まで幾多の歴史を秘めながら、直系子孫によって祭りが連綿として続けられ、多くの人々の尽きない信仰を集めているのは驚きだ。

 ちょっと興味をひかれるのは、神饌に麦が供えられることである。なぜ麦なのか?


▢ 高句麗、新羅・唐連合軍に滅ぶ
▢ 朝鮮半島も日本も激動の時代

 いまの北朝鮮から旧満州・中国東北部を広く支配していた強国・高句麗が滅亡したのは、668年である。

『日本書紀』には、天智天皇7年の冬10月に唐の将軍英公が高麗を滅ぼした。高麗の仲牟王は建国のとき、1000年にわたって治め続けることを誓ったが、母夫人(いろはのおりくく)は

「よく治めたとしても700年ぐらいだろう」

 と語った。実際、高麗は700年で滅んだ──とある。

 このころ朝鮮半島は混乱のさなかにあった。韓国の高校用歴史教科書には次のように書いてある。

 6世紀末、中国が隋によって統一されると、高句麗はその圧迫を受ける。煬帝の軍隊113万が侵攻したが、高句麗はこれを撃破して危険を回避、他方、隋は国力を消耗して滅亡する。

 唐がおこると、高句麗は侵略に備えて千里の長城を築いたが、唐の太宗は兵を率いて侵入した。

 それ以前、百済、新羅、高句麗の3国間の関係に変化をもたらしたのは、6世紀の新羅の飛躍的な領土拡張であった。百済と新羅の同盟関係は壊れ、百済と高句麗が連合して新羅を圧迫するようになる。危機に瀕した新羅は、隋、唐との連合を図る。660年、百済の王城は新羅・唐連合軍の攻撃によって陥落する。

 百済、高句麗の崩壊後、唐は朝鮮半島全体に支配権を確保しようとしたが、新羅は百済、高句麗の流移民を糾合して全面対決し、唐の勢力を完全に駆逐して三国統一を達成した(『韓国の歴史』)。

 6〜7世紀は、日本もまた大混乱期であった。年表風に振り返ると──。

 552年、仏教が百済から伝わる。

 562年、新羅が任那日本府を滅ぼす。

 587年、蘇我馬子が物部守屋を討つ。

 592年、馬子を排除しようとした崇峻天皇が逆に暗殺される。

 593年、最初の女帝・推古天皇が即位、甥の聖徳太子が摂政となる。

 604年、十七条憲法制定。最初の成文法。

 607年、小野妹子を隋に派遣。最初の遣隋使。法隆寺建立。

 622年、聖徳太子薨去。

 630年、犬上御田鍬らを唐に派遣。最初の遣唐使。

 643年、蘇我入鹿、山背大兄王を攻め滅ぼす。

 645年、大化改新。蘇我本宗家が滅ぶ。中大兄皇子(天智天皇)、皇太子となる。難波遷都。

 646年、改新の詔。

 663年、白村江の戦で日本軍が敗北。

 664年、対馬、壱岐、筑紫に防人とのろし台を置き、筑紫に水城を築く。

 668年、大津遷都。

 671年、天智天皇崩御。

 672年、壬申の乱。大海人皇子(天武天皇)の前に、大友皇子(弘文天皇)の近江朝が滅ぶ。

 673年、天武天皇即位。飛鳥浄御原遷都。

 百済、高句麗の滅亡から新羅統一にいたる時代は、東アジアの激動のときであった。その激動のなかで、日本では古代律令制国家が完成されていく。


▢ 麦の初穂を奉納する氏子
▢ 建国の祖が与えた命の糧

 高句麗滅亡後、王族や重臣たちが日本に亡命した。かつて貢進使の副使として来朝したことのある若光王の姿もあったらしい。

『続日本紀』に、大宝3(703)年4月4日、従五位下の高麗若光に「王(こきし)」という姓を賜ったと書かれているが、それは祖国を失った高句麗の遺民をよく導いた功績を評価されたためだという(『埼玉の神社』埼玉県神社庁発行)。

 高句麗の遺民たちは見知らぬ土地でどのように暮らし、どのような祭祀を行ったのだろう。

『三国志』魏書東夷伝は、邪馬台国の卑弥呼に関する記述があることで有名だが、高句麗に関するくだりもある。

 人々は居住地の左右に大きな建物を建て、そこで鬼神に供え物をし、また星祭りや社稷(しゃしょく。土地神と穀神)の祭礼を執行したという。鬼神とは祖先神らしい。

 また、10月には、天を祭る「東盟祭」が都で行われる、とある。

 神話学者で古代史家の三品彰英氏は、この東盟祭は岩屋の穀母神(地母神)と建国の祖・東明王(朱蒙)の降誕を祝う収穫時の穀神儀礼だと理解している(『古代祭祀と穀霊信仰』)。

 国王みずからが親祭する国家的大祭で、貴族大官は錦の着物、金銀の装飾品で着飾って、一大行列に参列した。岩屋の地母神をお迎えし、都の郊外の水辺にお遷しして、祭祀を行うのだが、このとき歳神の聖標として神座に据えられたのは、木でかたどった穀穂もしくは木に穀穂を結びつけたものであったらしい。

 若光らもこうした祭祀を行ったのであろうか。

 若光が亡くなると、人々は現在の高麗神社社殿の裏手にある小高い「後山(うしろやま)」の頂上に、若光王の御霊(みたま)をまつる霊廟を建て、「高麗明神」あるいは「白鬚明神」と呼んだ。いまは水天宮が鎮まる。

 高句麗の伝統的祭祀は、残念ながら現在ではうかがい知れない。

「鎌倉時代に本山派の修験になった。江戸時代には護摩を焚いていた。明治になると、明治式の祭式に変えられた」(高麗宮司)からだ。

 それでも注目されるのは、「氏子がムギバツ(麦の初穂)を上げる」(宮司)ことである。氏子は祭りに1軒あたり1升の精白した小麦を奉納するという。

 明治初年に著された『高麗神社年中行事』『高麗神社祭祀古典録』『高麗大宮神饌帳』によると、明治以前、6月1日および15日の朝に小麦粉餅が、24日には氏子の各組から小麦が供えられた。とくに神社のお膝元の「宮本の大宮組」は各自が小麦をもって参詣した。

 7月には1日、7日、15日の朝に小麦粉餅が供えられ、8月は1日の朝に小麦粉餅を供えた。粉を練り、沸騰したお湯にちぎって入れ、ゆで上げたものらしい(『埼玉の神社』)。

 高句麗の建国神話に、次のような麦の物語が描かれている。

 母国・扶余を立ち去る朱蒙に、母・柳花が五穀の種を与えるのだが、別れの悲しみのあまり、朱蒙はこのうち麦を忘れてしまう。大樹のかげで休んでいると、2羽の鳩が飛んできた。母が麦を届けてくれたのだと思い、弓の名手であった朱蒙は、1矢で2羽を射落とす。喉を切り裂くと、果たして麦の種が見つかった。水を吹きかけると、鳩は蘇生した。

 その後、朱蒙は高句麗を建国する。

 高句麗には良田はなく、田を作っても口腹を満たすほどの収穫はない、と魏書に書かれているが、高麗郡も同様で、古くから畑作と養蚕が盛んに営まれた。

 高句麗の遺民たちは畑作の民であり、故国の祖神から与えられた小麦で命をつなぎ、神に初穂を供えてきたのだ。


▢ 戦時中は特高警察が監視
▢ いまは日韓交流の架け橋

 高麗宮司が「親父のころ」の、思い出深い話を聞かせてくれた。

「親父は2つ、イヤだと思ったことがある、と言っていた。1つは、村の駐在所に特高警察がいたことだ」

 お詣りする人たちを警戒していたらしい。前宮司はよほど気に入らなかったと見えて、戦後は「戦争に負けたのはともかく、特高警察がなくなったのは気持ちがよかった、と親父が言っていた」。

 もうひとつは「朝鮮人は各警察署ごとに『共和会』に入らされ、警察署長が引率して参拝にやってきた」ことだ。

「警察は親父に、『立派な日本人になるように言ってくれ』と頼んだ。そう言われるのが親父はイヤでイヤで仕方がなかった」

 戦時中の高麗神社は「一方では監視され、一方では(民族政策に)利用される対象だった」らしい。

 そのころ警察に連れてこられた在日の人たちが、いまも参拝にやってくる。

「むかしはイヤだったが、いまはここに来るとホッとする、と言うんだ」

 時代が変わり、いまや神社は在日の人たちの心のふる里であるらしい。

「それは(ご祭神の高麗王若光と)血がつながっているヤツがここにいるからだ。よく覚えておけよ、と息子にも言ってある」

「彼ら(在日の人たち)からすると、俺は朝鮮人だと思うんだな。だから韓国の国旗を贈られたことがある。社務所に飾ってくれ、って言うんだ」

 参拝する韓国系の人たちは朝鮮半島の史跡よりも、この神社に深い郷愁を感じているのかも知れない。

 韓国本国からの青年は、留学生のほか技術研修の若者など、年間1000人にも上るという。

「ここに来るのがうれしいらしい」

 外交官や経済人もやってくる。

 神社といえば、戦時体制下の「強制参拝」という暗い過去ばかりが語られがちだが、神社を架け橋にして、日韓の民間交流が進められ、成功している。そんな例がほかにあるだろうか?

「薩摩焼の沈寿官さん(秀吉の朝鮮出兵の際に捕らえられ、来日した朝鮮陶工の14代目)が韓国名誉総領事なら、俺は名誉大使かな」

「韓国人が日本人の悪口を言うのも腹が立つが、俺は日本人が韓国の悪口を言うのも腹が立つんだ」

 こんなことを平気で語れる日本人はいまい。まして神職では高麗宮司だけだろう。とかくぎくしゃくする日韓関係を思えば、この人の存在意義はまことに大きいといわねばならない。

「俺は日本人なんていねえと思うんだ。みんな渡来人だと思うんだ」

 と断定されると困ってしまうが、少なくともアジアという多元的な国際環境のなかで、日本民族が歴史的に形成されてきた事実は無視できまい。

 明日は大晦日。神楽殿ではここ数年、近隣の青年が始めた創作芸能の練習が続いていた。今回はシンセサイザーやパーカッションなどとのセッション。朝鮮音楽風のリズムがうきうきさせるほど心地いい。

「初詣には10万人がやってくる。ほとんどがクルマだから、3キロの渋滞ができる」(宮司)そうで、空き地という空き地が臨時駐車場に早変わりしていた。

 渡来人の聖地が、いまや日本の聖地として、日本の社会に溶け込んでいる。こんな例がほかにあるだろうか?

 高麗宮司に別れを告げたあと、境内から数百メートル離れたところにある若光の墓を訪ねた。ハングル文字で願い事を書いた祈願の絵馬が覆屋のとびらにたくさん懸けられている。

「あと18年すると、高麗郡がおかれてちょうど1300年になる。俺は88歳。それまで長生きして、神社主催で盛大に祝おうと思うんだ」

 高麗宮司の言葉が蘇ってきた。

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