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神社建築発生の謎──高床式穀倉から生まれた!? [神社神道]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 神社建築発生の謎──高床式穀倉から生まれた!?
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 60年に一度の御遷宮が行われる出雲大社で、今月10日、本殿遷座祭が斎行され、大神様が新しい本殿に鎮まられました。

 また、伊勢の神宮では、20年に一度、社殿を作り替える式年遷宮が行われており、今年秋には遷御(せんぎょ)が執り行われ、大神様が新殿に遷られます。

 お伊勢さんと出雲大社のお引っ越しが同じ年に重なるのは、じつにおめでたい限りです。

 ところで、なぜ、どのようにして、神社建築というのは生まれたのでしょうか?

 というわけで、平成8年5月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。



 昨年(平成7年)6月、タイ北部を取材旅行した際、ぶらりと1軒の農家を訪ねた。若夫婦がバイクに麻袋入りの米1俵を積み、二人乗りで外出しようとしている。猛暑の日で、主人は上半身裸だ。

 驚いたのは、農家の母屋は神社の本殿を思わせるような高床式の木造家屋で、納屋の屋根には千木(ちぎ)のようなものが突き出し、棟(むね)には勝男木(かつおぎ)のようなものが乗っている。「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」といわれる神宮の洗練された建築美にはほど遠いが、基本構造は似ている。

 いや驚くのはまだ早い。北部タイでは民家のほか、都市部にある博物館やバス停の屋根にも千木があしらわれている。千木や勝男木といえば、日本の神社だけの特徴かと思っていたら、とんでもない。

 それにしても、よりによって祭祀施設であるはずの日本の神社と、タイの納屋の構造が似ているというのはどういうわけだろう。社殿の発生や神社の起源と関係があるのだろうか?


◇高床遺構が江南から出土
◇稲作農耕とともに伝来か

 神社建築には、正面の位置の違いから、妻入(つまいり)と平入(ひらいり)の2系統があることは知られている。

 妻入を代表する出雲大社、住吉大社、大島神社の本殿は2室構造で、他方、伊勢の内宮(ないくう)・外宮(げくう)正殿(しょうでん)の神明造に代表される平入は1室である(林野全孝・桜井敏雄『神社の建築』)。

 したがって妻入と平入の社殿では発生の歴史が異なると考えるのは当然で、神宮司庁営繕部長を務めた山内泰明氏は、大社造は古代住居が社殿に変化した大陸的構造で、神明造は切妻造の高床穀倉から転化した南洋的建築だと説明している(『神社建築』)。

 ただ、京都産業大学の所功先生は、神宮正殿も元来は妻入だったとみている(『伊勢神宮』)。

 神々の住居と考えれば、神殿が古代人の住居から発生したというのは理解しやすい。けれども妻入であれ平入であれ、古代住居から高床式神殿の発生を説明するのは案外、厄介である。古代住居は平地・半地下式の高床式住居だからだ。

 高床建築や掘立柱の建築が数多く見られるのは弥生時代になってからだという。北九州から瀬戸内の弥生期の遺跡から高床式建築の遺構や柱などが発見されている(平井聖『住生活史』)。

 海外に目を向けると、20数年前に発見され、「世界最古の稲作遺跡」として話題になった中国・浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡(前5000─4000年)から、稲籾のほか大型高床式建築の遺構が出土している。

 揚子江流域以南の華南、東南アジア、朝鮮半島南部などにも高床が広く分布する。

 家屋も倉庫もある。棟持柱(むなもちばしら)や千木の存在を裏づける考古資料も出土しているようだ。

 ジャポニカ稲の起源地とされる揚子江中下流域に高床建築のセンターがあるらしいことは稲作農耕との関係が想定されるが、京都大学の浅川滋男先生は必ずしも明確には結びつかないと指摘する。農耕段階以前の園耕段階にむしろ高床遺構が多く見られるからだ(『住まいの民族建築学』)。

 浅川先生は高床建築の発生を、次のように大胆に推理する。

(1)高床建築は新石器時代初期かそれ以前、稲作とは無関係に低湿地の家屋として生まれた。

(2)起源地は揚子江中下流域から東南地域。

(3)漢代までに南方のほぼ全域、さらに東南アジア、朝鮮半島南部、弥生期の製なん日本に伝播した。

(4)発生期は稲作と無関係だったが、周辺地域に伝播する過程では稲作と複合関係にあった。

 このほか別系統とみられる高床倉庫が北方ユーラシアに広がっている。中国東北部、樺太、シベリア、アラスカ、さらにスイス、スウェーデンにも見られる。こちらは狩猟採集民族の文化らしい。

 校倉造で、棟持柱もみられるため、神明造の源流との見方もある。


◇神概念の変化と社殿の発生
◇高倉で斎行される民俗儀礼

 古代日本人は神籬(ひもろぎ)や磐境(いわさか)などに自然の神霊を迎え、祭祀を執行したとされる。素朴な自然崇拝の時代は山や滝、巨石を御神体とし、神殿を必要としなかった。

 やがて神殿が発生し、神々は降臨せずに常住すると認識され、同時に自然神から人格神へと変身する。人間と同じように名前を持ち、食事をし、舞楽を愛でる存在となり、神々の体系も成立したのだろう。

 こうした神概念の変化、神殿の発生はいつ、どのようにして起こったのか?

 所先生は「神宮に代表される『神明造』の原型は、古代の高床穀倉建築である」(前掲書)とする。だとしたら、神殿の発生はいつの時点と考えるべきだろうか?

 稲作とともに高倉が伝来したことは間違いなかろうが、伝来後、日本列島で神殿に転化したのだろうか?

 中国・前漢時代の石寨山(せきさいざん)墓(雲南省)から出土した貯貝器(ちょばいき)には、高床倉庫に稲を収納する場面のほかに、祭祀施設としての高床が描かれているらしい。高倉は伝来以前、すでに祭祀施設だったとも考えられる。

 昭和18年に発見された静岡・登呂遺跡は弥生後期初めのものという。いま遺跡公園で目をひくのは、東京大学の関野克先生が復元した板倉造の高床倉庫2棟だが、高床倉庫とされた根拠は鼠返しの出土らしい。

 面白いのは、まるで氏神を中心に集落が形成されるように、米倉らしい倉庫を中心に登呂の集落が構成されていることだ。人々は倉庫を共有し、共同生活を送っていたかに見える。

 登呂では祭器具として剣や琴、高杯(たかつき)形木器などが発見されているが、神殿はない。けれども、高床倉庫がじつは祭祀施設だったとしたらどうだろう。

 というのも、数年前、大阪・前期難波宮下層遺跡や和歌山・鳴滝遺跡(いずれも古墳時代)から高床倉庫を1カ所に集めた遺構が発見され、話題を呼んだことがあったからだ。

 それどころか、南西諸島ではいまも高倉や群倉が見受けられ、沖縄・名護では神田で収穫された初穂をウタキ(御嶽)の傍らの高倉に奉納し、初穂でつくった神酒は豊年祭に用いられる。同様の民俗儀礼は、かつては奄美にもあったという。

 さらに、ボルネオのダヤク族の葬祭には仮設の高床家屋が登場するという。高床は天上世界の雛形とされている。死者に捧げる脱穀も斎行されるようだ。

 このように穀倉は富と権力の象徴であると同時に、穀霊・死霊・祖霊を祀る祭場でもある(浅川前掲書)。

 古代の日本人は穀倉の床下を集合場所とし、ときに神籬を立て、祭祀を執行したとの説もある。床下の祭祀は、伊勢神宮の正殿中央の床下に建てられた「心の御柱(しんのみはしら)」を思い起こさせるのに十分だ。

◇御饌殿に伝えられる古式
◇宇賀之御魂を祀る御稲御倉

 その伊勢神宮だが、外宮に御饌殿(みけでん)がある。

 数ある殿舎のなかで、奈良以前の古い形式をいまも伝え、1年365日、朝夕欠かさずに行われる日毎朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)になくてはならない、大神様の食堂である

 建物の四隅に柱はなく、横板壁で囲んだ、井楼造(せいろうづくり)ともいわれる特殊な板倉造である。

 皇學館大学の桜井勝之進先生は「御饌殿における祭儀そのものの中にきわめて根強い伝統性が潜んでいたからこそ、建物の様式をも頑固に守り続けたのではなかったろうか」(『伊勢神宮』)と指摘する。

 天照大神の託宣で御饌津神(みけつかみ)が迎えられ、大御饌の祭儀が始まった(外宮に伝わる『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』)とする信仰の原点が殿舎の改造を阻み、仏教伝来の影響を拒んできたようだ。

 戦国時代以前はほとんどが御饌殿と同じ形式だったというが、「人間の理性に反発するような気紛れな要素を一つも含んでいない」(『日本美の再発見』)とブルーノ・タウトが絶賛した神宮の簡素な建築様式の原型が、大神の住まいではなくて食堂に、より濃厚に残されているというのは興味深い。

 もうひとつ注目されるのは、内宮にある御稲御倉(みしねのみくら)と呼ばれる殿舎である。

 神田で収穫された稲の抜穂(ぬいぼ)を納める穀倉で、この抜穂が神宮でもっとも重要視される神嘗祭と6月、12月の月次祭(つきなみさい)の三節祭(さんせつさい)に供される御料となる。

 御稲御倉は単なる穀倉ではない。御稲御倉神をまつる歴とした社殿でもある。

 神宮皇學館教授だった阪本広太郎先生は、「御稲そのものを尊崇することは非常なものであって、かの『建久年中行事』にこれを神田より捧持して納入するにあたって警蹕(けいひつ)を行ったことが見えているように、まったくこれを神格化したのであった。かようなわけで、この御倉にも古くからその守護神を鎮祭した」(『神宮祭祀概説』)と解説している。

 興味深いのは、御稲御倉の祭神・御稲御倉神はじつは宇賀之御魂(うかのみたま)で、豊受大神の御霊だということである。何のことはない、穀霊信仰そのものだ。

 宇賀之御魂を倉稲魂と書くのも、うなずける。穀霊は穀倉に宿る、という信仰が派生して穀倉は社殿に転化していった、と考えるよりも、高倉が最初から穀霊に関わる祭場だったとすれば、理解しやすい。

 春に蒔いた一粒の籾種が芽を出して生長し、秋には黄金色の穂に数十もの実が稔る。人々はこれを食し、命をつなぐ。自然の力、生命の不思議は古代人の驚異であったに違いない。必ずしも米作適地ではない日本列島では十分な収穫が得られない分、米作民の豊穣への祈りが深まっていったことは想像に難くない。

 稲霊ほか神々の降臨を願い、春は豊作を祈願し、秋には新嘗(にいなめ)の祭りを執行する祭場が穀倉であり、それがやがて神殿の発生を促した。素朴であるがゆえに普遍的な稲霊への祈りを原点として、ときに新たな信仰を加味し、あるいは変容させながら古代人が各地に神社を創建させていったのだとしたら、その祈りのなんと切なることであったろうか。


▽タイの穀霊信仰

 さて、タイに話をもどす。

 タイにも穀霊信仰は根付いている。首都バンコクを歩くと、ホテルの入り口やオフィスビルの庭の片隅に地神をまつる精霊祠をよく見かける。石柱のうえに寺院のミニチュアが置かれ、供物や花が捧げられ、香が焚かれている。

 上座部仏教の信仰の篤い国だから、仏教と関係があるのかというと、そうではない。7世紀に仏教が伝来する以前の精霊信仰が息づいているのだ。

 タイだけではなく、東南アジアの人々は森羅万象すべてに霊(ピー)が宿っていると信じている(阿部利夫『タイ国理解のキーワード』)。

 タイでは交通事故が起きても、風邪をひいて、ピーの仕業だと考えられる。北部タイの人々が村の呪術師(モー)から授与されたお守り(クルアン・ラーン)を首に下げているのも精霊信仰である。

 農民たちは収穫後の水田で落ち穂拾いの儀礼を斎行する。祈りの言葉はこうだ。

「稲の神様、どうぞ米倉までおいでください。野や道や、田や畑に迷って、野ネズミに噛まれたり、鳥についばまれたりしないでください。どうぞ、どうぞおいでになって、楽しく愉快にやってください。あなた様の息子や孫を育てられるように、弥栄をお与えください」

 さらに、阿部先生は日本との共通点を指摘する。

「稲のカミを信じ、早乙女(さおとめ)、種籾信奉などまったく同じですし、農事の余暇の楽しみの踊りは、タイは『ラム・ウォン』(男女相対の輪の踊り)、日本は昔の歌垣あるいは嬥歌(かがい)、現在の盆踊りと対比できます。そしてまた、精霊への信仰と奉仕のもとに農民は強く結び合う共同体を作り上げております」(前掲書)

 タイの人々は、日本の稲荷信仰のように、稲には穀母(メーポソップ)が宿ると信じている。村祭りも日本と同様、村人が協力して斎行されるという。

 日本に似た北部タイの農村風景は、私たち日本人に親近感を感じさせずにはおかない。けれども、タイの精霊信仰が日本人の信仰と決定的に異なるのは、伊勢の神宮も出雲大社も生み出さなかったことである。金色に輝く、荘厳かつ巨大な宗教建築を、タイに建造させたのは仏教である。

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津軽のお山参詣始まる [神社神道]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年9月10日月曜日)からの転載です


 青森の陸奥新報が岩木山神社の祭りで、津軽最大の秋祭りである「お山参詣」が9日に始まったことを伝えています。
http://www.mutusinpou.co.jp/news/07091006.html

 津軽地方の人々の信仰を集めてきた岩木山は津軽のシンボルで、親しみをこめて「お山」と呼ばれます。お山参詣は稲刈りを前に、旧歴8月1日に霊峰・岩木山へ登り、感謝をささげる祭りです。

 この祭りをテーマにした石坂洋次郎の短編小説「お山」は、

「陰暦八月朔日(ついたち)の前後をかけて、一対隊をなし、岩木山に山かけをして、今年の祈願と感謝を酒好きで怒りっぽい陽気な山の神様に奉納する」のだと説明しています。

 参詣する人たち(参詣人、さんけいと)はまるで稲穂の波を泳ぐ魚群のように近郷五郡から押し寄せるのだといいます。

「山麓に通う沿道筋は、各郡各村の参詣団体が絡えきとして往来し、素朴な、好ましい『サイギサイギ』の唱え言葉の合唱が秋空高くこだまして、絣のように群がり光る赤とんぼどもを脅かす」

「参詣の行列もまた目覚ましい見物」で、

「子連れ」「子供」「年寄り」「若勢(わかせ)」「囃子方」と続きます。白装束に身を固め、紅白金銀の幣束をうやうやしく捧げ持ち、ほかに十尺以上もある大きな御幣が何十本と林立するさまは

「うれしくって吐息がもれるようなものだ」

 と石坂は表現しています。

 最後尾で晴れ着を着た馬が荷車を引き、お歯黒の女性が赤子に乳房を含ませている。そうした集団が各村からいっせいにお山を目指す光景は

「そのまま錦絵にでもなりそうに印象が深い」

 と津軽生まれの石坂はいささか興奮気味です。

「サイギサイギ(懺悔懺悔)、ドッコイサイギ(六根懺悔)、オヤマサハチダイ(御山八大)、コウゴウドウサ(金剛道者)、イチニナノハイ(一々礼拝)、ナムキンミョウチョウライ(南無帰命頂来)」

 笛や太鼓、手平鉦の囃子にあわせて、胸からほとばしり出るように唱え文が唱えられます。それを聞く石坂は、

「何か腸(はらわた)へしみ込むような切ない感激にむち打たれ」るのでした。

 それはお山が津軽人の底知れぬエネルギーの源泉だからでしょう。

 遠いところでは、津軽半島の方からもやってきます。途中で一泊し、辻々の祠(ほこら)に詣でながら、といいますから、2日がかりです。

 神社に到着した人々は、まず麓の本社にお詣りし、深夜、松明(たいまつ)をかざし、いよいよ山頂の奥宮を目指します。そして山頂で行われることがまた想像を超えています。

「参詣人が頂上をきわめて第一にする行いは、岩の上に建てられた小さな祠から一尺二、三寸の赤銅(しゃくどう)づくりの御神体をかかえ出し、頭から瓠(ひさご)の酒をドクドク浴びせて全身をなでさすり、『神様あ、いま来たであ〜』と叫んで、堂内の四壁に御神体をむやみにゴツンゴツンぶち当てることだ」

 酒好きの神様はこのようにすることでお喜びになると信じられているというのです。

「お山参詣は八月朔日に山頂からご来迎を拝するをもって理想とする」

 と石坂は書いています。夜が明け、明るくなれば、太平洋も日本海も、北海道まで見渡せる大パノラマが広がります。

 けれども残念なことに、神社の神職によると

「戦後、祭りはすっかり様変わりした」そうです。

 それはそうでしょう。沿道を踊り狂うような無数の行列を警察が許可するはずはありません。いまは神社までバスやトラックで参詣人はやってくるといいます。

 それでも民謡大会やカラオケ大会、綱引き大会が今年も熱く、賑やかに行われることでしょう。

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健康神社を広めたい [神社神道]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年8月12日日曜日)からの転載です


 久しぶりに(財)生涯学習開発財団理事長の松田妙子さんにお会いしました。いつもながら溌剌として、全身にオーラがみなぎっています。

 松田さんは昭和2年、東京に生まれました。

 大叔父の大森兵蔵氏は若くしてアメリカに渡り、バスケットボールとバレーボールを日本に紹介した人で、日本にとって最初のオリンピック参加となった1912年のストックホルム・オリンピックのときには監督を務めています。

 父君の松田竹千代氏は、14歳で渡米し、帰国後、政治家となり、戦後は郵政大臣、文部大臣、衆院議長を歴任しました。社会事業家としても知られています。

 そんな周囲の影響を受け、松田さんは女学生のとき

「アメリカに行きたい」

 と母君に話されたといいます。すると返ってきた答えは、

「英語だけ上手になっても意味がない。社会の役に立つことを学ぶのなら」。

 そこで考えたのが「テレビ」でした。街頭テレビがようやく出始めたころでしたが、その影響力がいずれ日本の家庭を大きく変えると確信した松田さんは、テレビの演出家になるという夢をいだき、ハリウッドに近い南カリフォルニア大学に留学しました。

 大学でテレビと映画の勉強をしたあと、NBCで5年間、演出の仕事をし、昭和34年、日本に帰国。渡米時とは比較にならないほど日本経済は発展していました。日本のことが誤解されていたアメリカに日本の姿を正確に知らせたい、と考えた松田さんは、PRという言葉さえ知られていなかった時代に、PR会社を設立し、「アメリカでナンバー・ワンの写真家」ユージン・スミスを呼びました。

「日本の経済成長を撮らないか」と。

 スミスは日本が大好きでした。日米が戦った南方戦線の戦後を撮り歩いていたとき、スミスは思わぬ発見をします。かつて写真誌「ライフ」に載ったスミスの写真が日本兵の塹壕(ざんごう)に貼られていたのです。

〈たとえ敵国同士でも、人間として理解し合える〉。

 それ以来、スミスは日本に関心を持つようになったのでした。3カ月の約束が1年半の滞在に延び、「東洋の巨人」と題する15頁の特集記事が「ライフ」誌を飾りました。

 会社が軌道に乗ったとき、またしても人生の転機が訪れました。結婚して、子供も二人。マイホームを建てようと思ったのでした。共稼ぎで何とか家は買えたのですが、良質な家が安く供給されているアメリカとは大違いでした。

 それで支援者の協力を得て、ずぶの素人ながら注文住宅会社を設立します。日本の一般住宅に2×4(ツー・バイ・フォー)工法を初めて導入し、安価な住宅づくりの普及に努めました。

 石油ショックが起きたのはその10年後でした。輸入材の価格がまたたく間に6~7倍に跳ね上がりました。しかしすでに契約した分を値上げすることはできません。会社は赤字に転落し、責任を取って経営から退きました。

 そのころ、松田さんは都心の閑静な住宅街で、塾帰りらしい小学校低学年の少年と行き会いました。半ズボンの「社会の窓」が開いていました。

「坊や、ジッパーが開いてるわよ」。

 少年は恥ずかしがるでもなく、お礼するでもなく、逆ににらみ返し、

「スケベ婆ア」

 と悪態をつきました。衝撃でした。裕福な育ちのようですが、年長者に対する態度や言葉遣いをしつけられていません。どんな日常生活を過ごしているのか。この少年の20年後はどんなだらう。松田さんは考えたといいます。

 子供の非行は住まいのあり方と関係があるのではないか。そんな仮説を立てて、凶悪犯罪で補導された少年少女700人の家庭環境を調べました。すると案の定、ほぼ全員が自室を持ち、50人に一人は何と冷蔵庫まで子供部屋に備えていました。

 いま国民の三分の二以上が持ち家に住んでいる。中流以上で両親は高学歴、母親は専業主婦。そんな家庭で引きこもりや家庭内暴力、果ては少女監禁事件などが起きている。かつては予想もしなかったような事件が、密室の子供部屋で起きている。家を建て、子供に個室と鍵を与えたが、親子は会話を失い、しつけができず、断絶している。

「家をつくって子を失う」。

 戦後の子供本位の住まひ方は誤りだ。家庭教育や家族のきづなを取り戻すためには、子供部屋の見直しが必要だ。

「子供部屋は文明の凶器」

 と松田さんは警鐘を鳴らし始めました。

 昭和52年、松田さんは財団法人住宅産業研修財団を設立し、理事長に就任します。住宅産業が興隆した反面、工務店の地位が低下していました。「よい住まい」作りのため、優秀な工務店を元気づけようと、組織化に着手したのです。
http://www.hic.or.jp/jho/

 戦後の住宅政策は間違っている、と松田さんはいいます。住まいの主役は本来、作り手ではなく、住人であり、住まいは家族の幸せの容れ物のはず。伝統的な木の文化を活かした、自然に順応し、地域に密着した住まいづくりをしたい、というのが松田さんの考えで、

「日本の伝統美を生かした住まい」と

「家族の幸せの容器としての住居」

 を追求する過程で生まれたのが、平成15年秋に開塾した大工育成塾です。
http://www.hic.or.jp/daiku/

 日本建築を学ぼうにも、明治34年(1901)以来、日本には教えてくれる大学がありません。明治の宮大工・木子清敬(きこ・きよよし)が12年間、帝国大学(東大)で講義を担当していましたが、西欧建築のうねりで教壇を去らざるを得なかったのです。

 それから百年、日本の伝統木造建築をになう匠の育成が、日本政府の支援の下で始まりました。松田さんは85歳までに1000人の若い大工職人を育成したいと意気込んでいます。

 松田さんは昭和61年には(財)生涯学習開発財団を設立し、理事長に就任しました。
http://www.gllc.or.jp/index.html

「人間は感動する心を失わず、何ごとかを学び続けるかぎり、年齢にとらわれない生き方をすることができる」

 というのが松田さんの考えで、財団は「エイジレス・ソサエティ」への貢献を目指しています。松田さん自身、71歳で東大の学位(工学博士)を取得したのでした。

 財団は昨年春、河口湖畔に研修施設「有隣園」(3000坪)をオープンしました。もともと父君の別荘があった場所で、霊峰富士がリビングはもちろん、風呂場からも見えます。

 庭には、富士山をのぞんで、木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)をまつる健康神社が鎮まっています。

「ワシの夢はなあ、神社を造りたいんぢゃ」

 という父君の遺志を継ぎ、父君や夫君、そして戦争で亡くなったたった一人の亡兄など、亡き家族の慰霊の意味をこめて建てられたのでした。

 松田さんが書いた健康神社の縁起には、こう記されています。

「この富士の麓の美しきところに、霊峰富士の大神と称える木花之開耶姫をまつる。大神の高き恩頼(みたまのふゆ)により、その名を健康神社と名づく。
 古来、多くの宗教が、哲学が、その真理を説き、神々が、預言者がその道徳を示し、人間の幸福を求めてきた。
 人間の本質は魂にあり。魂は現世のみならず、永遠に生くるものである。しかし、弱き人々にとって、この現世における健康を謳歌することの歓び、健康を失うことの悲しみ、これこそ誰に教わることなく、みずから知ることのできる明らかなものである。
 人生を大らかなうちに過ごし、その糧たる健康の何にもかえがたく尊きことを覚知したる松田竹千代は、つねに心身の健やかなることを祈願して止まなかった。
 その志を継ぎ、松田妙子は、世の人々の健康たらんことを祈願し、この神社を創祀した」

 虎ノ門のオフィスには分霊をいただいた神棚があり、すべての訪問者に拝礼を求めています。

「神社って、いいわよね。父は、神社ほど大らかなものはない、寛大なんやなあ、ともいってました。どこのお宮でも空気がきれいで、神々しさをものすごく感じますね。娘の主人はアメリカ人だけど、ちゃんと二礼二拍手一礼しますよ。神道を世界に知らせるべきですね。いちばん大切なのは健康。ね、健康神社って、いいでしょ。健康神社を広めたい」

 健康神社のお祭りは今月、行われます。

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本州最北端で行われる日台融和の祭 [神社神道]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年8月2日木曜日)からの転載です


 昨日づけのメールマガジン「台湾の声」が、先月の「海の日」に青森県大間町の稲荷神社で行われた「日台融和の祭典・天妃祭」についてリポートしています。
http://www.emaga.com/info/3407.html

 大間町といえば、本州最北端に位置し、グルメたちにとっては知らぬ者のいない「大間マグロ」の産地です。その大間町に、NHKのテレビ小説「私の青空」の舞台にもなった大間稲荷神社があり、同じ社殿に「天妃(てんぴ)様」がお祀りされています。天妃様は航海安全・漁業の神様で、台湾でもよく知られた神様であることから、お祭りには台湾の日台交流会や李登輝友の会のメンバーも参列し、日台の民間交流の場となっているのだそうです。

 天妃様は台湾や福建省、広東省では媽祖(まそ)とよばれる道教の神です。もともと中国の宋代、福建省に実在した女性で、神通力に優れ、生前から生き神様のように崇敬されたようです。父親をさがしに船出して遭難し、媽祖島に遺体が打ち上げられたことが、媽祖島の由来ともいわれます。また、マカオの地名は媽祖を祀る媽閣廟に由来しているようです。

 天理大学の藤田明良教授によると、沖縄では琉球王朝時代に天妃宮などが創建され、鎖国後の長崎にも中国人によって天后堂が建てられました。東日本の茨城県那珂湊や青森・大間に天妃神社が建てられたのは徳川光圀が招いた中国僧の影響といわれているようです。

 大間に天妃様が祀られるようになったは、江戸初期、大間の名主・伊藤五右衛門が海で遭難したとき、天妃様に助けられたことから、那珂湊から分霊を勧請し、屋敷神として祀ったのが始まりといいます。五右衛門の海難事故は江戸後期の博物学者・菅江真澄の紀行文にも載っているそうです。

 遷座三百年の平成8年から大間町では大漁祈願祭・天妃様行列がにぎやかに執り行われています。

 日本の神社には人霊を祀る神社が少なくありません。そのなかで外国人の祭神を祀る神社も各地に知られていますが、その多くは朝鮮半島に由来しており、中国人女性で道教の神様を祀る神社はかなり珍しいものと思われます。

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70年前の神社の棟札が見つかった [神社神道]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年6月20日水曜日)からの転載です


 京都・福知山の地方紙「両丹日日新聞」が、国の重要文化財とされている市内の島田神社の棟札が見つかった、という記事を書いています。
http://www.ryoutan.co.jp/news/2007/06/19/001932.html

 福知山といえば、明智光永の居城・福知山城で知られますが、島田神社はそれより古く、室町後期、文亀2(1502)年の創建と伝えられ、いまはちょうど平成の大改修が進んでいます。

 本殿修理事務所に聞いてみたところ、今回、「発見」されたのは、昭和9年に本殿を覆う覆屋(おおいや)の改修が行われたときの棟札なのだそうです。工事に関わった宮大工の名前を記した棟札はたいていは屋根裏に納められますが、この神社の場合、社務所に保管され、今回、その存在が確認されたのでした。

 神様が鎮まる神社の本殿ですから、棟梁たちは持てる技術を十二分に発揮して工事に携わります。その名前を記録した棟札は人の目に触れないところに納められ、したがって、今回がそうであるように何十年も、あるいは何百年も経ったあとでないと職人の名が分からないことがしばしばです。大工たちがいい仕事をすればするほど、社殿は長持ちするからです。

 仰々しく名前を残すのではなく、寡黙に仕事を残すのが職人の心意気であり、古き佳き日本人の感性なのでしょう。

 何百年もの時を経て、発見される棟札ですから、期せずして歴史を塗り替える場合もあり得ます。

 鹿児島県・大口市の八幡神社は12世紀の創建と伝えられる古社で、国指定の重要文化財ですが、それ以上にこの神社が知られるのは、昭和30年の本殿解体修理中に発見された墨痕鮮やかな棟木札の落書きです。

 そこには

「ドケチの施工主が焼酎を呑ませてくれなかった」

 という宮大工のグチが書いてあったのでしたが、神聖な神社の棟木札としてはじつにありがたくない内容ながら、「永禄2年(1559)」の日付から室町後期に日本に焼酎が存在していたことを立証することとなりました。

 従来の通説は、文献上、「焼酎」が使われ出したのは江戸初期とされていましたから、八幡神社の棟木札は俄然、関心を集め、歴史を塗り替えたのです。

 もっとも宮大工たちには歴史を書き換えるつもりなどなかったでしょう。ケチであることが後世の人にまで知られてしまった施主にとっては、落書きの発見は災難でした。

 大口市といえば、「幻の焼酎」伊佐美の蔵元があることで知られます。今夜は美味しい焼酎でも一献、いかがでしょうか。

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女性神職の時代 [神社神道]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年6月13日水曜日)からの転載です


 日経ネット関西版に、「主婦から神主、気配り上手」と題する、ホッとさせられる記事が載っています。地域社会のつながりがどんどん稀薄になる今日、古き佳き人間関係を取り戻そうと地道な地域活動を続けている、大阪・堺市の方違(ほうちがい)神社の女性神職・神山さんらのお話です。
http://www.nikkei.co.jp/kansai/women/40446.html

 神職の家に二人姉妹の長女として生まれた神山さんですが、サラリーマンと結婚し、神社とは無縁の主婦の生活を始めていました。そんなとき、父親の病気で人生の転機が訪れました。

「私がやるしかない」。

 神職の資格を持っていた神山さんは一念発起します。代々、神社をお守りしてきた血がそうさせたのでしょうか。

「女性神職ならではのやり方があるはずだ」

 と神山さんは考えます。境内に四季折々の花を植えたり、トイレなどに匂い袋をおいたりなど、参拝者たちが気持ちよくお詣りできるよう細やかな気配りに努めてきました。氏子の家に出向いて神事を行うときは、男性神職より、かえって女性神職の方が歓迎される場合もあるようです。

 記事を書いた木寺記者は、もう1人の例をあげ、女性の社会進出とともに戦後、いち早く女性神職が登場したけれども、その存在はあまり知られていない、しかし地道な活動で存在感を示せれば、女性神職が当たり前になる時代がやってくるかも知れない、と書いています。

 この記事に付け加えないといけないと思うことが一つだけあります。記事を読むと、男性中心の神職の世界もいよいよ女性が進出する時代になったのか、と読めそうですが、じつは逆なのです。

 もっとも保守的に見える神職の世界こそ、男女平等運動の先駆けでした。山口・二所山田神社の宮本重胤宮司をリーダーとするその活動は、女性神職登用ばかりでなく、女性参政権獲得、神前結婚式の普及にもおよび、かの平塚雷鳥らよりも早く、しかも国内のみならず世界的に、そして長期間にわたって繰り広げられました。近代日本の女性運動は日本の伝統の中から生まれたのでした。

 記事にあるように、終戦直後に女性神職の制度が生まれたのはその成果であり、全国約二万人といわれる神職のうち、女性神職が1割以上を占めているのはその結果といえます。宮司の数でいえば、25人の1人は女性という数字もあります。

 世界的に見れば女性聖職者の存在を認めない宗教もあり、日本の神道がいかに進んでいるかが分かります。女性神職の時代は、これからではなく、すでに始まっているのです。


※方違神社の公式サイトはこちらです。
 http://www.hochigai-jinja.or.jp/

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過疎と高齢化で浜入れできない神輿 [神社神道]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年5月31日木曜日)からの転載です


 徳島新聞によると、県内のトップを切って、大漁と航海の安全を祈願して行われる海洋町・竹島神社の夏祭りで、呼び物となってきた神輿の浜入れが今年は中止されるそうです。
http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2=&NB=CORENEWS&GI=Kennai&G=&ns=news_118048924055&v=&vm=all

 理由は過疎と高齢化。独身の漁師14人で行われるのが習わしの勇壮な浜入れ神事ですが、肝心の独身男性が激減し、このため島外出身者にまで対象を広げ、担ぎ手の確保に苦労してきたけれども、今年はそれでも人数が足りなかったというのです。

「これでは伝統が廃れてしまう」
「これから祭りはどうなるのか」

 と人々は頭を抱えています。

 農業については就業者の高齢化と後継者不足が指摘されて久しいですが、漁業の場合はもっと深刻で、伝統の祭りが十分にできないという竹島神社の悩みは全国に共通します。

 少し古いデータですが、農水省の調査によれば、漁業就業者の数は平成15年現在で23万8371人。高齢化の進展でこの5年間に14%減少しました。7人のうち1人が辞めていった計算で、男性の就業者を年齢別で見ると、60歳以下では減少している反面、70歳以上の増加が目立ちます。

 総務省発表の長期データと照らし合わせて見ると、漁業就業者の数は昭和28年には72万人でしたが、いまはその3分の1弱に激減し、昭和60年の45万人からすると、わずか20年足らずの間に半減したことになります。

 こうした状況が、漁業関係者の崇敬を集めてきた神社と祭りの維持に大きな影響を与えないはずはありません。

 たとえば、豊漁守護神などとして全国に知られる、西日本のある神社では、

「かつては遠洋漁業関係者が全国から団体で参拝にこられたが、いまは見られなくなりました。漁幸祭は地元の漁師がこぞって奉仕する祭りだが、ほとんどが高齢者です。漁業後継者不足は神事に欠かせない制度の維持を困難にしています。農業・漁業がさらに衰退するようになれば、神社の存立そのものに深刻な影響を与えかねません」

 と、じつにきびしい見方をしています。

 平家の没落とともに衰微した神社など、個々の神社にとって栄枯盛衰は世のならいですが、今日の問題は日本の宗教伝統が全体的に大きな波にさらわれていることでしょう。

 反ヤスクニ運動と称して組織的な神道撲滅運動を展開する仏教徒やキリスト教徒がいる一方で、過疎や少子高齢化によって祭りの担い手が減っています。神社は地域のものであるという観念も稀薄になっています。日本の宗教伝統は足下から大きく揺らいでいるのですが、これに対して警鐘を鳴らす宗教者の姿も見当たりません。
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神への畏れがない [神社神道]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年5月22日火曜日)からの転載です


 東京・浅草神社の三社祭は先日の日曜日が最終日で、三基の本社神輿が五月晴れの町に繰り出し、浅草は人々の熱気と興奮に包まれましたが、神社と奉賛会が呼びかけていた「神輿乗り禁止」が徹底されず、担ぎ手の1人が迷惑条例違反で現行犯逮捕されるという異常事態となりました。

 神輿は神様の乗り物であって、人が乗るべきものではないのですが、以前から再三の注意にもかかわらず「神霊を汚す行為」が繰り返されてきました。そして昨年、十数人の大勢の担ぎ手が神輿(二之宮)に乗り、担ぎ棒が折れるという「前代未聞の不祥事」が起きたことから、神社側は同好会などに対して

「神聖な神輿には絶対に乗らない」

 などの遵守事項を示し、神輿乗りが行われれば次年度の宮出しはしないという重大な決意で望むことになったのでした。
http://www.sanjasama.jp/tsutatsu0705.html

 しかし注意は守られませんでした。なぜこのようなことになったのか。原因として指摘されるのは、1つは神社側と担ぎ手の感覚のズレ、もう1つは神社や祭りの社会的変質、3つ目は現代人の神観念の稀薄さでしょうか。

 祭りを主催する神社側は祭りや神輿を神聖なものと考えています。神様に失礼があってはならないというのが宗教的な基本的姿勢ですが、同好会などの担ぎ手は、神輿が壊れない程度なら乗ってもかまわないだろう、という解釈です。神社や祭り、神輿に対する神聖な感覚がともすると失われています。

 その背景には社会の変化があります。神社も祭りも本来は地域のものですが、現代社会は国民の半数が給与所得者というサラリーマン社会であり、10年前の古い数字でいえば、1人平均2.75回の転勤を経験します。一生を同じ土地で過ごす日本人は4人に1人もいません(伊達達也『生活の中の人口学』など)。その結果、氏神信仰の前提となる地域共同体意識が風前の灯火となり、神社は宗教法人法の所有であり、祭りは主催であるという感覚が一般化しています。

 祭りの神輿の担ぎ手は地域内ではなく、地域外から集まります。氏子ではない外部の担ぎ手の存在なくして祭りが成り立たない状況が生まれて、すでに久しく、こうしてかつては神聖だった氏子地域の祭りが、やややもするとお祭り騒ぎのイベントと化します。

 これに拍車をかけているのは、啓蒙主義的な教育の普及です。家庭でも学校でも宗教的情操教育はおろか、知識教育も行われず、その結果、基本的な知識が欠け、神への感覚は稀薄になり、知識人ほど神への畏れを失っています。たとえば、祭りの様子を伝えるマスメディアの画像はしばしば神輿を見下ろしています。神輿の神聖を侵しているのはけっして神輿乗りの担ぎ手ばかりではありません。

 ある神社の神職が

「神様っていうのは怖いものなんですよ」

 と、1つの神体験を語ってくれたことがありますが、宗教的な体験や感覚は現代人にとってはおよそ縁遠いものとなっています。日本人が日本人である限り、神社の祭りに血が騒ぐけれども、神への立ち居振る舞いを教えてくれる人がないとなれば、ときに暴走や逸脱が起きるのは当然でしょう。

 三社祭のケースでは神社側は盛んに祭りの神聖さを語っていますが、これはむしろ希有な例で、宗教家自身が日本人の精神史に関して多くを知らないということもあり得ます。ときには不十分な理解のままに、俗受けする歴史批判などに血道を上げる宗教家さえいます。

 聞くところによると、最近、ある国の大使が伊勢神宮をお詣りされたそうです。大使はイスラム教徒のようですが、日本の神社に敬意を表し、神道の作法にのっとってお詣りされました。大使は記紀神話の英語訳を熟読し、神々の名前をそらんじ、イスラム化される前のアラブ世界の神話と日本神話との共通性を語り、懇談の場に居合わせた神社関係者を驚かせたといいます。

 日本人が何を信じてきたのか、もはや外国人から教えてもらう時代になったのかも知れません。
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異文明を受容する京都・祇園祭 [神社神道]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です


 日本三大祭りのひとつ、京都の祇園祭が佳境を迎えつつあります。クライマックスはいわずとしれた17日の山鉾巡行で、「コンコンチキチン、コンチキチン」と祇園囃子もにぎやかに、32基の山鉾が猛暑の都大路を進みます。
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 山鉾のなかでもっとも注目されるのは、函谷鉾(かんこぼこ)です。日本の神社といえば、やれ軍国主義だ、侵略だと、決めつけるお歴々がいるようですが、そんなことはありません。たとえば、この函谷鉾には、中国ばかりでなく、ユダヤ・キリスト教文化圏の異文明を平和的に受け入れる日本文化の特徴がはっきりとうかがえます。

 函谷鉾は、そもそも名前から分かるように、古代中国の故事がテーマになっています。

 秦の昭王は、使いとしてやってきた斉の宰相・孟嘗君の殺害をはかるのですが、間一髪のところで孟嘗君は脱出し、険しいことで知られる国境の函谷関(かんこくかん)まで逃げ延びるのですが、夜明けまで間があり、関は閉じられたままでした。追っ手が背後に迫り、万事休すと思われたとき、従者が鶏の鳴き真似をし、関が開かれ、孟嘗君は無事に帰国することができたと伝えられています。

 この故事にならって、函谷鉾のてっぺんには三日月があしらわれ、その他、孟嘗君や鶏などのデザインが施されています。

 もっと注目されるのは、鉾の正面をかざる前掛けのタピストリーです。16世紀、いまのベルギー・フランドル地方で制作された羊毛と絹の綴織の壁掛けで、そのデザインは旧約聖書の有名な「イサクの嫁選び」の場面といわれます。

 面白いのは、この前掛けが登場したのは、江戸期のキリスト教禁教の時代らしいということです。ご禁制のキリスト教美術品は、平戸のオランダ商館長から三代将軍家光に献上されたもので、やがて函谷鉾町へとわたり、人々は山鉾に用い、巡幸させていたというのです。

 函谷鉾のほかにも、鯉山、鶏鉾などには、ギリシア神話を題材としたタピストリーが用いられています。

 さて、京都では祇園祭が最高潮に達するころ、東京では戦没者を慰める「光の祭典」、靖国神社のみたままつりが行われていますが、マスメディアがほとんど報道しないのはどうしてでしょうか。
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大らかな日本人の神観念 [神社神道]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です。


 北海道新聞によると、旭川のラーメン店が集まる人気スポット「あさひかわラーメン村」に、オープン10周年を記念して、「ラーメン村神社」が開設されたそうです。
 http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20060521&j=0025&k=200605219645

 経済評論家で、旭川観光大使をつとめる日下公人さんの奥さんが「村には神社が必要。ラーメンのように細く長くご縁がつづくように」と提案されて、神社が建てられることになったと伝えられます。

 きのうは市内の神社の宮司さんがお見えになって、神事をなさったそうです。夫婦円満、恋愛成就の神社とされ、おみくじやオリジナルのグッズもあって、楽しそうです。
 http://www.eolas.co.jp/hokkaido/kitashin/digest/2006/0509_05.html

 ご興味がおありの方、行ってみたい方は、ラーメン村のサイトをどうぞご覧ください。
 http://www.ramenmura.com/index.html
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 日本各地に千年の歴史を超えるような古社がたくさんありますが、新しい神社が建てられることも珍しくはありません。たとえば、サクランボの産地・山形県河北町には昨年、農協内に「さくらんぼ神社」が建てられました。これなどは町おこしの効果を願うまじめな発想ですが、遊び心いっぱいの神社もたくさんあります。

 以前、横浜駅東口の地下街にはプロ野球の佐々木投手にちなんだ「ハマの大魔神社」がありましたが、大阪・吹田市の大型スーパーにはサッカーの「ガンバ大阪神社」があります。3年前に千葉県松戸市に開館したバンダイ・ミュージアムにはおもちゃの供養をする萬代神社がありますし、東京・汐留の日本テレビには「ズームイン!!汐留神社」(旧・ごくせん神社)があります。

 日本人にとっての神さまは非情に身近な存在です。神社を建てる側も、お詣りする側もじつに自由で、大らかで、そして多様です。それが日本の神社であり、それらを失ってしまったら、神社は神社でなくなってしまうかもしれません。

 今年2月、宮崎でキャンプするプロ野球チームがリーグ優勝を祈願する恒例の神社参拝をしたとき、1人の韓国人選手は参加しませんでした。韓国メディアは「軍国主義の象徴である神社に訪問することはあり得ない」と伝えています。

 野球チームが毎年、参拝している神社は、海幸彦・山幸彦の物語で広く知られる神社であり、「武の神」をまつっているわけではありません。なぜ「軍国主義」呼ばわれされなければならないのでしょうか。なぜ堅苦しく考えないといえないんでしょうか。

 靖国神社にしても同様です。同社は戦没者の慰霊の祭場ですが、参拝者の思いは多様です。拝殿の横には祈願の絵馬がたくさんかけられ、なかにはキリスト教系の大学への合格を祈願するものさえあります。授与所では、学業成就や縁結びのお守りも並んでいます。結婚式を挙げるカップルもいます。

 1つの教義にはまらないのが日本人の神観の特徴なのではありませんか。けっして原理主義的ではない大らかさが、いわゆる靖国問題にも求められているのではないでしょうか。
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