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画一化する稲の品種──背後に経済至上主義あり [稲作]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 画一化する稲の品種──背後に経済至上主義あり
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 先日、日経新聞(電子版)に興味深い記事が載りました。

 昨年産の魚沼産コシヒカリの値段が下がっているというのです。大震災以降、高値が続いたことから、需要がしぼみ、生産者や流通業者は在庫の安値放出を迫られていると記事は説明しています。

 その一方で、お手頃価格の北海道産のきらら397、青森のつがるロマンやまっしぐらなどが業務用として引き合いが強いのだそうです。

 記事には書かれていませんが、コシヒカリ時代の終わりを実感させられました。


▽もう種籾がない

 7年前のちょうどいまごろ、朝日新聞は、一面トップにじつに面白い記事を掲載しました。「新潟コシヒカリ」に「銘柄騒動」が起きているという内容でした。

 というのも、新潟では前年産米から「新潟コシヒカリ」をいっせいに、新しい品種「コシヒカリBL」に切り替えたのですが、消費者から「味が違う」という声が出始めたというのです。

 もともと「コシヒカリ」という品種は、昭和19年に、福井の農業試験場で、農林22号と農林1号との交配によって生まれました。品種登録はそれから10年以上も経った31年でした。登録番号はキリ番の100番、「越国に光り輝く」という願いをこめて「コシヒカリ」と命名されたといわれます。

 それからすでに60年近くになります。ということは、種籾はもうない、ということになります。

 どういうことかというと、稲の品種は新しく品種として認められた元種(もとだね)が何百キロか冷蔵保存され、そこから毎年、少しずつ取り分けられ、何段階かを経て、種籾がつくられ、その種籾をつかって各農家がお米を生産するという体制になっているからです。

 何十年か後には元種はなくなります。

 コシヒカリの場合は、冷蔵庫のない時代の品種ですから、福井県から分かたれた元種から、各県で昔ながらの自家受粉によって種籾の生産がなされ、その後、各県の元種が冷蔵保存されるようになり、その元種も何世代目かに切り替わっているものと思われます。


▽別品種なのに

 新潟の「コシヒカリBL」は、朝日の記事によると、病害に弱い「コシヒカリ」の欠点を克服するため15年かけて開発されたようです。産地偽装に対する切り札とも伝えられています。

「BL」というのは「Blast resistance Line」の略で、「いもち病に強い系統」という意味のようです。「コシヒカリ」をつかって、いもち病に強い新しい品種を新潟県が総力をつかって育成したということです。

 簡単にいうと、新しい品種なのですが、なぜ「コシヒカリ」の名前が認められたのでしょう。朝日の記事では、農水省が「特徴や味が変わらないという県の報告と、見た目にも区別しがたいことから判断」し、「コシヒカリ」の表示が認められた、と説明されています。

 しかし「コシヒカリ」の形質を引き継ぎ、性質の優れた新品種なら山ほどあるし、それでいて、新潟の「コシヒカリBL」以外、「コシヒカリ」の名前を踏襲したものはありません。そのため、稲作の専門家は「なぜ農水省は認めたのか?」と首をひねっています。

 そして、「新潟コシヒカリ」の将来について、こう語ります。

 ──結局、「コシヒカリ」から出た新品種は「コシヒカリ」というブランドを超えられないということだ。「新潟コシヒカリ」のブランドをつくり、そのブランドで生き残りを図ろうとしている新潟の稲作がその現実を認めてしまった。しかし、消費者が「味が違う」と反発しているとすれば、「新潟コシヒカリ」のブランドの将来はどうなるのか。

 倒れやすく、病害虫にも弱いコシヒカリは生産者にとってはつくりづらい品種ですが、「美味しくて売れる」ことから、作付面積は圧倒的で、コシヒカリ一辺倒といわれる状況が生まれました。消費者もコシヒカリといえば「美味しい」と思い込んでいます。コシヒカリが米の代名詞になっています。


▽佐藤先生の警告

 しかし、コシヒカリが独り勝ちしているような時代は、いつまでも続くとは限りません。

 以前、伊勢神宮神田で発見されたイセヒカリの取材でお世話になった、総合地球環境学研究所(京都)の佐藤洋一郎教授は、次のような警鐘を鳴らしていました。

 ──品種改良の現場にいる人たちまでがコシヒカリ以外の稲を知らない。コシヒカリが現れてからすでに50年、あと50年後には確実に消えている。それなのに、いまだにコシヒカリが品種改良の物差しで、これを越えるものがイメージできない。コシヒカリを超える稲は生まれてこない。

 そしていま、魚沼産コシヒカリの、いやコシヒカリBLの値崩れが現実になりました。

 ただ、今後、多様な品種の時代がやってくるのかどうか。日経新聞の記事にある青森の品種も、コシヒカリの血を引き継いでいますから、コシヒカリの時代を生産者も消費者もまだまだ引きずっていることになります。

 というわけで、平成9年5月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。

 それでは本文です。



 2年前、バングラデシュのモンゴル系少数民族ラカイン族の村を訪ねた。ミャンマーとの国境に近く、村人はみなビルマ系仏教徒で、高床式の家が並ぶ。服装もベンガル人とは違う。

 自家製のモドゥ(焼酎)がある、というので出かけたのだが、原料の米にも興味があった。

 というのも、タイ北部・東北部、ラオスとその周辺は「モチ稲栽培圏」で、モチ米が主食とされる。ラカインの村はその西端に近いから、モドゥの原料もモチ米に違いないと踏んだのだ。

 ところが、村人から分けてもらった白米はモチ米どころか、雑多な品種の寄せ集めのようだった。

 村では小さな田んぼで粗放的な稲作が慎ましく行われる。品種を選抜して栽培する「進んだ技術」はないのだろう。無意識のうちに近代的農業の常識にとらわれている自分を、そのとき私は恥じた。

 けれども、彼らの農業が「遅れている」と決めつけることはできない。遺伝的に多様な稲を無差別に栽培する彼らの農業の方が自然で、かえって「科学的」だとする見方さえあるからだ。


◇古代人は品種を特定せず
◇画一的でもろい現代稲作

 古代、日本に伝わった水田稲作は、またたく間に北部日本にまで展開した。

 青森県田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡は弥生中期、約2000年前の稲作遺構といわれる。秋冷の早い津軽地方で米が稔るためには、早稲(わせ)の品種でなければならない。古代東北の人々は早稲種を選抜し、栽培していたのだろうか?

 宮崎大学の藤原宏志先生によると、どうもそうではない。「垂柳では遺伝的に多様な稲が栽培されていた。古代人には品種という概念はなく、栽培種を1つに特定使用とはしなかった」

 そして意外にも、「それはむしろ『科学的な態度』ともいえる」と先生は指摘している。

 どういうことなのか?

 米の品種は数え切れないほどある。実際に栽培されている水稲ウルチ米だけでも、160品種以上あるという。

 ところが、シェアでは、上位十傑で作付面積は6割近くになる。1番人気のコシヒカリは、味の良さや収穫の安定性に加えて、広い地域で栽培できるから、じつに30府県で銘柄に指定され、全国の作付面積は3割に及び、県によっては7割、市町村によっては8割を超えるらしい。

 驚くほどの寡占化だが、なぜこれほどモノカルチャー化が進んだのだろうか?

 かつて米は「近江米」「讃岐米」というように国銘柄で呼ばれ、土地に特有の米や農家独自の品種があり、農家はそれぞれに誇りを持っていた。同じに見えても田んぼは1枚1枚が微妙に違うそうで、多様な品種が栽培されていたのだ。

 ところが戦後、栽培指導や種子供給の簡便さという、もっぱら政府側の論理で、品種の多様性は切り捨てられ、「奨励品種」に統一される。

 供給過剰時代になると、「指導」はいちだんと強化され、販売する側の都合に合わせて、画一的な「売れる品種」が広範囲に作られるようになった。

「ササ・コシ」神話はその過程で生まれたようだ。

 消費者は「美味しい米」と思い込み、生産者は「高く売れる」と期待する。実際に「魚沼産コシヒカリ」は茨城・栃木産の1・7倍もの売値で取引される。標準米に比べれば、2倍以上の高値となる。

 結果として、不適地にまで栽培されるわけだから、凶作の悲劇が生じるのも当然であろう。コシヒカリの欠点はいもち病に弱いことと草丈が高く倒伏しやすいことだが、画一化がここまで進むと、冷害や病害などによる大凶作を懸念する専門家は少なくない。

 実際、過去に例があるからだ。アイルランドでは、目を覆うようなモノカルチャーの悲劇が起きている。

 1845年夏、長雨と冷害が主食のジャガイモを襲ったうえに、ウイルス病が蔓延した。遺伝的に単一の品種に依存したことが病害を急拡大させ、大飢饉を招いたのだ。

 被害は3年間に及び、200万人が餓死し、それ以上の人々が国外に脱出、人口は半分以下に激減したと伝えられる。

 日本でも、4年前の大凶作は記憶に新しい。青森では「皆無作」の地域すら伝えられたことを思えば、けっして対岸の火事ではない。

 それなら古代人はどんな備えをしていたのか、というと、多様な稲を同じ水田にいっしょに植えることで、危険の分散を図っていた。品種を選抜せずに多様性を放任する方が多収性などは期待できなくとも、安全なのである。

「今後は古代の農業を学ぶべきではないか」と藤原先生はいう。


◇安定性を生む自然の多様性
◇植林の理想は明治神宮の森

 戦後の「経済至上主義」は日本の稲作農業を画一化させた。農薬や化学肥料の多用、大規模な圃場整備で、ドジョウもメダカもトンボも姿を消し、水田はまるで生命感のない米の製造工場と化している。

 水田ばかりではない。資本の論理は日本の自然を画一的な空間に変えてしまった。

 広葉樹は皆伐されて、もっぱら人間にとって利用価値の高い針葉樹の人工林に一律に置き換えられ、豊かな照葉樹林に覆われていたはずの日本列島はいまや見る影もない。都市部では緑そのものが失われ、砂漠のような無機物的世界に変質してしまった。

 しかも国内ばかりか、東南アジアや南米にまで自然破壊を輸出したとして、批判を浴びている。自然と対決し、大森林を消滅させたヨーロッパ人と同じ愚行を、私たち戦後の日本人は繰り返している。四季折々の花鳥風月を愛し、多様な自然と共存してきた古き良き日本人とはまったく別人のようだ。

「経済学の時間はあまりに短い」と指摘するのは、生態学者の宮脇昭先生である。経済の刹那的打算が、経済学が扱う時間の物差しでは計算不可能な生態系の破壊をもたらしたとみる。

 宮脇先生は、興味深い自然の仕組みについて語る。自然は多様性の固まりで、絶えず変化しながらダイナミックな安定性を維持している。多様性こそが安定した姿であり、もっとも強い自然の条件だという。

 したがって災害時には、高木や低木が雑多に混じり合う天然の雑木林が強さを発揮する。一見、雑然とした多様性が安定性を生むのだ。自然林に近いほど安定性は高まり、手入れは不要になる。

 ところが、画一的な人工林は台風や集中豪雨にきわめてもろく、つねに人手を加えないと荒れてしまう。多様性を失い、画一化するとき、自然は生命力や抵抗力を低下させてしまうのだ(『緑の証言』)。

 それなら、どうすればいいのか?

 植林の理想として、よく引き合いに出されるのは、明治神宮の森だ。人工林でありながら、人工林であることを忘れさせるほど、自然に近い多種多様な森の表情が見える。宮脇先生は、「都会の中の見事な立体的なオアシス」と表現する。

 オアシスを実現させたのは、経済の論理を超えた信仰的な力であろうか。

 明治神宮の森に学ぼうとする人たちが海外にいる。

 バングラ南東部の海岸地域で、乱伐で消滅したマングローブ林の再生に数年前から取り組んでいる日本の援助団体オイスカの代表者は、「明治神宮の森のような植林が目標なんですよ」と語る。多様な自然、本物の自然を蘇らせたいというのだ。

 ここにもカネの論理とは異なる強固な信念がある。

 多様な自然を回復するには、経済よりも「生」を優先させなければならない。そのため経済学と生態学は歩み寄るべきだと宮脇先生は主張するのだが、近年、その兆しが見えてきた。

 それは「21世紀の科学」として注目される「複雑系」の研究成果である。


◇次世紀の科学が示唆する
◇「クローン人間」の愚昧

「複雑系」とは何か?

 古代ギリシャの時代から人間は世界を小さな要素に還元し、基本的法則を発見して理解しようとした。本来的に「自然は単純」で、「単純さの総和」が世界の秩序だとする楽観主義が、科学の前提であった。

 その発想は近代にも受け継がれ、20世紀初頭には原子の実在が証明された。ニュートンによる「万有引力の法則」の発見で、私たちは今日、古代人が宇宙の神秘と考えた日食や月食、彗星の接近を正確に予知することができる。宇宙飛行も可能になった。

 ところが一方、明日の天気予報が当たらない。なぜか? 気象現象は「複雑系」だからである。わずか5000分の1の「誤差」が温度や気圧変化の予測を不可能にさせているらしいのだ。

 お天気のみならず、動物の個体数、伝染病の流行、経済予測、社会動向、国際政治など、近代科学が解明できない複雑な「謎」は枚挙に暇がない。

 DNA遺伝子の発見と構造解明は分子レベルにまで分解して解明したはずなのに、私たちはいまだに生命の本質を理解することができない。物理学者は6種類のクオークにまで物質世界を分解してみせたが、自然はなお神秘のベールに包まれている。

 それは自然あるいは生命が「単純さの総和」ではなく、「複雑」だからだ。

 それなら、複雑なものを複雑なものとして把握できないか? それが「複雑系」の研究である(米沢富美子『複雑さを科学する』ほか)。


▽「人の智は限りありて」

「複雑系」の科学は経済学に大変革をもたらしつつあるらしい。

 大阪市立大学の塩沢由典先生は、「人は利潤を最大化しようと理性的に判断し、行動する」という従来の経済学の前提を見直すべきだと主張する。消費者も企業も、効率や利潤の最大化を目的として行動してはいないというのだ。

 人間の「目的関数」の計算能力には限界がある。複雑な経済状況に柔軟に対応させているのは習慣や慣習などの「定型行動」であり、人間はそれに「満足」しているという(『複雑性の海へ』)。

 経済至上主義が招いた農の崩壊、自然の破壊による経済的損失はそれ自体、私たちが紅葉や利潤の複雑な計算ができないことの証明だが、複雑系は人間観、組織論にも大きな影響を与えそうだ。

 戦後の偏差値教育は人間を、米の品種のように選別してきた。子供たちはいい学校、いい会社を目指す。企業は人材を選び、優秀な「企業戦士」を求める。しかし画一的な会社人間を集めても無駄なばかりか、危険だと複雑系の経済学は教えている。

 バブル崩壊など不測の事態になれば、画一的な針葉樹林のように、企業は一気に脆弱さを露呈する。むしろ多様な社員を抱えた企業の方が、さまざまなストレスに柔軟に対応できる。天然の雑木林のような多様性が長期的には安定性を示すのだ。

 本居宣長は「凡て人の智(さとり)は限りありて、まことの理はえしらぬものなれば」(『古事記伝』)と書いたが、世界を複雑なままに理解しようとする複雑系の手法は、唯一神にまで遡って世界を単純化して解くのではなく、あるがままの世界をあるがままに「ありがたい」と受け入れる多神教的信仰に似ていないか?

 一神教世界から生まれた近代科学には「理性」への限りなき信頼がある。しかし「複雑系」の科学は一神教的な近代科学、近代思想からの脱却を私たちに迫っているように見える。

 近代科学は今日、「クローン人間」の技術をも開発した。人類の古代からの夢である不老不死を可能にしたわけで、死後の甦りや復活を説いてきた宗教への挑戦でもあるが、じつは20世紀の科学が犯した最後の愚昧といえるかも知れない。

 というのも、「米にはそれぞれの美味しさがあり、この世はいろんな人がいるから楽しい」はずだからである。

タグ:稲作
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系譜が異なる2つの稲作起源神話──大気津比売殺害と斎庭の稲穂の神勅 [稲作]

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系譜が異なる2つの稲作起源神話
──大気津比売殺害と斎庭の稲穂の神勅
(「神社新報」平成10年11月16日号から)
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 日本人が主食とするだけでなく、神々への第一の捧げ物とされる米、つまり稲は帰化植物である。日本列島からは野生の稲が発見されていないから、そう断言できる。

 稲はどこからやって来たのか、稲作はどのように伝わってきたのか、を探ることは、同時に日本人のルーツを突き詰めることでもある。

 ここでは神話学の成果をもとに、考えることにする。

『古事記』『日本書紀』には、2つの稲作起源神話が描かれている。

 1つは天照大神が保食(うけもち)神から五穀の種子を得たとする神話であり、もう1つは天孫降臨に際して大神が稲穂をお授けになった斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅である。

 先月中旬、伊勢の神宮では1年でもっとも重要な神嘗祭が斎行され、今月下旬には宮中神嘉殿で皇室第一の重儀といわれる新嘗祭が親祭になる。

 いずれも神話の時代に連なる稲の祭りだが、元宮内省掌典の八束清貫氏は、神嘗祭の淵源は、保食神の神話で、その起源は倭姫(やまとひめ)命の巡幸に始まるとし、他方、新嘗祭は遠く天照大神の時代に起源し、大神が保食神から得られた稲穂を天孫降臨に際して瓊瓊杵(ににぎ)尊に授けられたことにそれぞれ由来する、というふうに書いている(『祭日祝日謹話』)。

 祭りの神話的由来がそれぞれ異なるようにも読める書きぶりだが、じつのところ、2つの神話は系譜が異なるらしい。東京大学教授・大林太良氏(民族学)の研究を中心に考えてみたい。


▢『記』と『紀』で内容が異なる
▢死体化生神話と稲穂の神勅

 まず記紀神話を読み直してみよう。

『古事記』では、高天原を追放された須佐之男(すさのお)命が出雲国の肥河(ひのかわ)の川上に下られる途中、食物を大気津比売(おおげつひめ)神に乞う。

 神は鼻や口や尻からさまざまなご馳走を出して奉った。命は汚いと思い、殺害する。

 すると死体の頭部に蚕、両目に稲穂、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生(な)った。

 神産巣日御祖(かみむすびのみおや)命はこれを五穀の種とした、と記述されている。

「死体化生型神話」と呼ばれるこの物語は、興味深いことに、『日本書紀』の本文にはない。記載があるのは、国生み神話のあとの日神、月神、素戔鳴(すさのお)尊出生のくだりの一書である。

 一書の二では、簡単に、伊弉冉(いざなみ)尊が生んだ火神軻遇突智(かぐつち)が土神埴山(はにやま)姫を娶り、そこで生まれた稚産霊(わくむすび)の頭部に蚕と桑が、臍(ほぞ)に五穀が生った、と記している。

 詳しいのは一書の十一だが、『記』では須佐之男命による大気津比売神の殺害だったのが、ここでは月夜見(つくよみ)尊による保食神の殺害に変わっている。

「葦原中国に保食神がいるから見てきなさい」と天照大神から命じられた月夜見尊が降りてみると、保食神の口から米の飯や魚などが出てくる。尊は憤然となって殺害する。大神は非常に怒り、大神と月夜見尊とは昼と夜に分かれて住まわれるようになる。

 死体の頭部から牛馬が、額に粟、眉に蚕、目に稗(ひえ)、腹に稲、陰部に麦と大豆、小豆が生じる。大神は「民が生きていくのに必要な食物だ」と喜ばれ、粟、稗、麦、豆を畑の種とし、稲を水田の種とされた。

『記』と『紀』では、神話全体のなかに占める物語の位置づけや殺害される神がおられる場所、稲が生じる死体の部位、種を採用される神がそれぞれ異なるのが注目される。

 死を生の前提に置く観念や、農耕の開始が宇宙の秩序設定と関連して語られていることも見逃せない。

 もう1つの稲作起源神話は三大神勅の1つ、斎庭の稲穂の神勅で、『紀』の天孫降臨の場面に登場するのだが、本文にはない。

 一書の二によれば、天照大神は天忍穂耳(あまのおしほみみ)尊の降臨に際して、手に宝鏡(たからのかがみ)を持ち、これを尊に授けられて「同床共殿して斎鏡(いわいのかがみ)とせよ」と語られる。いわゆる宝鏡奉斎の神勅である。

 そして大神は「わが高天原にある斎庭の穂をわが子に与えよ」と斎庭の稲穂の神勅を勅される。

 高皇産霊(たかみむすび)尊の娘万幡(よろづばた)姫を天忍穂耳尊にめあわせ、尊が降臨される途中、大空で生誕されたのが天孫瓊瓊杵尊で、天忍穂耳尊の代理として降臨された、と記されている。

 天照大神お一人で瓊瓊杵尊を降臨させたとするのは『紀』の一書一のみで、『記』と『紀』の一書の二は大神と高皇産霊尊(高木神)が、『紀』本文および一書四、六では高皇産霊尊お一人が降臨を指令している。

 天孫降臨神話全体のなかで、意外にも天照大神の影は薄い。

 このため、高天原神話の主神は高皇産霊尊であり、高皇産霊尊の神話と天照大神の神話とは本来、系統が異なる、ともいわれる。


▢焼畑農耕文化複合とともに
▢伝来した大気津比売型神話

 大林太良氏によると、女神の死体から作物が出現するという神話は、きわめて広い地域に分布するという(『稲作の神話』『東アジアの王権神話』など)。

 そのなかで日本の大気津比売型神話は粟など雑穀を栽培する焼畑耕作の文化に属し、その源郷は東南アジアの大陸北部から華南にかけてで、縄文末期に中国・江南から西日本地域に伝えられた、と推理されている。

 根拠のひとつは大気津比売の神名で、『記』の国生みの条には「粟(阿波)の国は大宜都比売という」と記されている。大気津比売は粟の女神であった。

 また、『紀』の一書の十一に、月夜見尊による保食神殺害として描かれているのは、この神話が太陽と稲作を中核とする古典神話体系の片隅に生き残った古い月と粟の神話の断片であることを示す、と解釈されている。

 一書の二では、火の起源神話と農耕起源神話が密接に結びついている。火神の軻遇突智から農耕神の稚産霊が生まれ、さらに五穀が化生するのは、焼畑農耕の有力な手がかりといわれる。

 実際、作物起源神話に登場する、保食神の死体に化生する作物は稲を除けば、すべて焼畑の作物である。

 今日、大気津比売型神話は民間伝承には見出すことができない。もしこの神話が水稲の起源神話だったなら、いまなお伝えられる稲作の伝説や儀礼に痕跡が多く残っているはずだが、そうでないのは水稲栽培に圧迫された焼畑穀物と結びついているからだろう、と大林氏は推測している。

 記紀では水稲の起源説話と焼畑作物の起源説話が同居しているが、焼畑が水稲耕作に圧倒されるのに従って、水稲起源神話が盛んになり、大気津比売型神話は凋落していくと理解される。

 海外では、大気津比売型神話は中国南部から東南アジア北部の焼畑農耕地域に点々と分布している。

 中国の古典『山海経(せんがいきょう)』には、いまの四川省成都のあたりに都広の野があり、そこに中国の農耕神后稷の墓がある、そこには膏菽(豆)、膏稲、膏黍、膏稷(粟)という美味しい作物があり、百穀が自生している、と書かれている。

 大林氏は、この物語は后稷の死体から作物が発生したとする大気津比売型神話が崩れた痕跡と考えている。

 面白いのは、朝鮮地域からは大気津比売型神話の手がかりがほとんど見つかっていないらしいことだ。


▢天孫降臨神話に結合する
▢内陸アジアと東南アジア

 もうひとつの稲作起源神話で興味深いのは、天孫降臨とともに語られていることである。前述の保食神から得られた作物が葦原中国に起源するのに対して、この物語では高天原から稲がもたらされる。

 天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせるという神話は朝鮮半島から内陸アジアに分布する。

 たとえば、13世紀の『三国遺事』に描かれた古朝鮮の檀君(だんくん)神話では、天神が子神に三種の宝器を持たせ、風師、雨師、雲師という三職能神を随伴させて、山上の檀という木の傍らに降臨させ、朝鮮を開いた、と伝えられている。

 天孫降臨神話ときわめてよく似ている。

 また、高皇産霊尊の別名は高木神であり、檀君の名が木と関連することも類似する。

 瓊瓊杵尊が降臨された地が『紀』の一書六では日向の高千穂の「添(そほり)」と呼ばれたとあるのは、朝鮮語の「都」の意味の「蘇伐」または「折夫里(ソウル)」と通じ、高千穂の「槵日(くしひ)」(『紀』の本文および一書二、四)あるいは「槵触峯(くしふるのみね)」(一書の一)という地名は六加羅(駕羅)の首露神話で始祖王首露が天降る聖峯「亀旨(クイムリ)」と同じという。

 もうひとつ、『紀』本文は瓊瓊杵尊は真床追衾に包まれて天降ったと記されているが、駕羅の首露神話では首露は金の卵に入って降り、衾のうえに置かれたとある。

 新羅の初代王赫居世(かくきょせい)や金氏の始祖閼智(あち)も嬰児の形で天降る。

 朝鮮だけではない。ブリヤート・モンゴル族のゲセル神話では、至高神デルグエン・サガンの子カン・チュルマス神を下すとき、カン・チュルマス神は老齢を理由に固辞し、末子で4歳のゲセル・ポグドゥが6種の所望品を手にして代わりに天降る。

 これまた記紀神話と似ている。

 息子が建国の旅に出る門出に母神が穂を授けるという神話も、朝鮮にある。

『旧三国史』に記される高句麗の朱蒙神話では、扶余を去る朱蒙に母が五穀の種を与えるのだが、別れの悲しみのあまり、朱蒙はこのうち麦を忘れる。

 大樹の陰で休んでいると2羽の鳩が飛んでくる。母が麦を届けてくれたのだと思い、朱蒙は鳩を射落とし、喉から麦を取り出す。その後、朱蒙は高句麗を建国する。

 天忍穂耳尊が母である天照大神から稲穂を授けられるのと似ている。

 驚いたことには、遠くギリシア神話とも類似する。

 ギリシアの大母神デメテルは、聖婚によって穀物の豊かな稔りをもたらす神子ブルトスを生み、また寵愛する神子トリプレトモスに麦の穂を与えて、天から地上に広めさせた。

 インド・ヨーロッパ語族の神話がアルタイ語族を媒介として、朝鮮半島経由で日本に渡来した可能性があると大林氏はいう。

 ギリシア神話と天孫降臨神話をつなぐ環として朝鮮の朱蒙神話が存在するというのだ。

 ただ、母神が授けるのは朱蒙神話やデメテル神話では麦であって、稲ではない。

 天照大神から稲穂が授けられるとする要素は、高皇産霊尊を中心とする天孫降臨神話と元来は無関係で、東南アジアの稲作文化に連なる、と大林氏はいう。

 倭姫命が御巡幸の折、鶴がくわえていた霊稲を大神に奉ったのが神嘗祭の始まりともいわれる(『倭姫命世紀』)が、こうした鳥が稲穂をもたらしたとする「穂落神」の伝承は、焼畑農耕、粟栽培と結びつき、東南アジアで比較的よく保存されている。

 朝鮮半島から内陸アジアに連なるアルタイ系遊牧民文化に属する高皇産霊尊の天降り神話と東南アジアに連なる天照大神の稲の神話が接触融合して、天孫神話ができあがった、と大林氏は推理する。


▽ 朝鮮文化の亜流ではない

 記紀の編纂には百済系、新羅系の渡来人が関わっていたといわれるが、だからといって記紀神話は朝鮮文化の亜流ではない。

 記紀は創世神話から農耕の起源、王朝の創立まで神話が体系化されているが、中国や朝鮮には神話を体系化した古典はない。

『三国史記』『三国遺事』に描かれた朝鮮の神話は、あくまで王朝起源神話に過ぎない。

 記紀には系統の異なる神話の統合が図られ、壮大な神話体系が形成されている。

 それはなぜか。

 哲学者の上山春平氏は、記紀神話は古代日本の律令的君主制の由来を説く国家哲学と理解している(『天皇制の深層』)が、わが祖先たちは古代国家の建設に当たって神々の壮大なドラマを作り上げ、多元社会の宗教的統合を追求したのかも知れない。

 あらためて思いを致すべきなのは、万世一系の天皇の祭りが南北アジアどころか、遠くヨーロッパに連なる起源と系譜のうえに続いてきたということだろう。

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