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中国にとって日本人「戦犯」とは何か──一貫して政治利用する中国共産党 [戦犯]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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中国にとって日本人「戦犯」とは何か──一貫して政治利用する中国共産党
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 報道によれば、共産党の小池晃副委員長は、昨日、放送されたNHKの討論番組で、靖国神社参拝の必要性を主張する自民党の高市早苗政調会長に対して、次のように語りました〈http://www.asahi.com/politics/update/0512/TKY201305120104.html〉。

「アメリカのアーリントン墓地とは違うんですよ。靖国神社は単なる戦没者の慰霊施設ではない。あの侵略戦争を正統な戦争だと認める軍事博物館まで持っているんですよ。

 そういうところに、あなた先頭に168人も参拝するが、あれは参拝でも何でもない。デモンストレーションですよ。あれが周辺諸国からどう見られるか、ってことを考えるべきだ。まさに日本の政治が、あの戦後の出発点を否定するんだと世界にアピールしているようなことになるわけですよ」

 これは曲解です。

 まず、靖国神社の性格ですが、中国の人民英雄記念碑や韓国の国立墓地・顕忠院とは異なり、特定の歴史観や思想に基づくものではありません。かけがえのない命を国に捧げたという1点において、合祀されています。

 日本の政治家の靖国神社参拝が中国や韓国からどう見られるか、に配慮する前に、中国、韓国が靖国神社をどう見ているのか、あの戦争をどう理解しているのか、それは正当なのか、を考える必要があります。

 というわけで、平成17年7月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。この年は「戦後60年」で、中国、韓国では靖国批判が激しさを増していました。

 それでは本文です。記事は同紙の編集方針に従い、歴史的仮名遣いで書かれています。一部に加筆修正があります。



「戦後六十年」の今年、中国や韓国で「A級戦犯」(昭和殉難者)を祀る靖国神社への風当たりがいよいよ強まり、小泉首相の参拝を阻止する外交攻勢は、日本の政治家をも巻き込んで激しさを増してゐる。

 しかし中国共産軍が「八路軍」と称して蒋介石の国府軍の指揮下にあったとはいへ、交戦国はあくまで国民党政府であったし、東京裁判後に政権を樹立した共産中国は「A級戦犯」との直接的接点はない。

 にもかかはらず多年にわたって多数の「戦犯」を拘束し、政治的に利用し、いまも政治的な批判を加へてゐる。

 中国にとって「戦犯」とは何なのか。あの戦争とは何だったのか。三人の「戦犯」を通して考へてみたい。


◇「山西独立軍」を創設した城野宏
◇共産党軍と戦って「禁固十八年」

 北京の西南、山西省。面積は日本とほぼ同じだが、石炭、石灰石、石膏など地下資源の埋蔵量は桁違ひで、採鉱、製鉄、軍事産業から軽工業まであり、独立した経済が可能だった。

 日本の敗戦まで三十年間、ここを支配してゐた、日本陸軍士官学校卒の知日派軍閥・閻錫山は、蒋介石とは対等で、共産党とは相容れなかった。

 終戦とほぼ同時に、国民党政府と共産党軍との内戦が始まった。このとき閻錫山軍と提携し、毛沢東軍と戦った多数の日本人たちがゐた。


▽日本復興をにらみ

 中心人物の城野宏は大正二年、長崎の生まれ、東京帝国大学で中国語を学んだ。東大で中国語を学んだ第一号といふ。

 日中対立が激化してゐた当時、驚くべきことに、文官養成の最高機関たる東大法学部に中国語のできる中国研究者はゐなかった。日本人の中国観は偏り、ときに正確な知識もなしに蔑視してゐた。

 城野は徴兵で中国に渡り、昭和十六年、中華民国山西省政府の顧問補佐官として民政・警察・軍隊を主管、日本軍とともに共産軍と戦った。

 一緒に戦ふ中国人は敵の砲撃から身をもってかばひ、「俺たちは友人なのに、なぜ戦はねばならないのか」といって泣いた。

 大東亜戦争終結。部隊幹部に日本の降伏を告げると、彼らは涙を流し、「いつまでもともに行動してくれ」と手を握った。

「祖国復興・山西独立」をスローガンに、山西独立軍が創設された。

 目的は、来るべき日本国家復興をにらみ、三国志よろしく蒋介石と毛沢東を競はせて、その中を絶ち、省内の重工業をおさへ、同省を日本の供給基地として確保することだった。

 共鳴した日本軍残留部隊一万五千に中国人兵士が結集、さらに閻錫山の軍隊六万と合作、毛沢東軍と対峙した。

 最終的には五十万の兵力を誇ったが、蒋介石軍が共産党軍の勢ひに押され、しかも降参するたびにそのまま共産党軍に変貌する。三国志の構想は崩れた。

 当時の読売新聞が、省都・太原を死守する日本人中将今村方策との会見記事(米シカゴ・トリビューン紙)の翻訳を載せてゐる。今村は、共産軍の包囲下にあること四カ月、和平か抗戦かの岐路に立ってゐた。

「飛行機が数百機あれば敵の交通線を遮断できるが、残念ながらそれがない」

「中国共産軍が全中国を占領すれば、日本も必ず同じ運命をたどる」

 そばにゐた城野少将が強くうなづいた──と記事にある。


▽国交正常化の模索

 やがて共産軍との直接対決、半年以上の攻防戦、市街戦の末、山西独立軍は二十四年四月に降参、四千人が「捕虜」になり、うち百四十人が太原監獄に収容された。

 最後まで刃向かった城野らは「罪が重い」(周恩来)とされ、監獄の待遇は悪かった。六畳ほどの部屋に二十人ばかりが詰め込まれた。

 三十一年、城野は太原特別軍事法廷で「禁固十八年」の刑を受ける。

 中国側は「反革命分子」として裁くか、「日本帝国主義の侵略分子」として裁くか、迷ったのではないか、と城野は推理する。「反革命分子」なら銃殺刑は免れない。

 けれども当時、中ソ対立から日本との国交正常化を模索してゐた中国は、「国民党に協力し、共産党・人民解放軍に銃を向けた」「日本帝国主義の侵略分子」と見なす「寛大な処理」をする。

「戦犯」の政治利用である。


◇「思想改造」された藤田茂師団長
◇供述書で「反天皇」闘争を宣言

 終戦間際、ソ連は突如、満洲に攻め込んだ。

 日本の降伏後、さらに中共軍、国府軍が進駐、両軍による内戦が展開され、ふたたび満洲は戦場と化し、暴行・略奪の悪夢が横行する。

 にはか作りの「偽八路軍」は日本人を襲撃し、中共軍は在留邦人を一網打尽に検挙、民衆裁判で多数の日本人を処刑した。その犠牲者は三千五百人ともいはれる。

 朝鮮戦争勃発直後の五〇(昭和二十五)年七月、スターリンの提案で、シベリアに抑留されてゐた満洲国政府指導者ら九百六十九人が毛沢東に引き渡された。「北京政府の主権が国際的に認められ、国連に承認されるため」(ソ連外相)の道具とされた。

 満洲の日本軍は陛下の御命令に従って自発的に武装解除したのであり、「捕虜」ではない。ところがソ連は「軍事捕虜」と位置づけ、抑留した。そして今度は「戦犯」の烙印が押された。


▽周恩来の深謀遠慮

「戦犯」は遼寧省・撫順戦犯管理所に収容された。

「民族協和」「王道楽土」のスローガンに従ひ、満洲では治外法権が撤廃され、日本人にも適用される法体系が整備され、日本人が入れる監獄も作られた。

 皮肉にも作った本人らが収容され、「思想改造」をうけた。のちに「天皇制軍国主義思想から抜け出し、新しい人間に生まれ変はった」と評価された。

「戦犯」管理は周恩来が指揮した。「戦犯の人格を尊重し、侮辱したり、殴ったりしてはいけない。死亡者、逃亡者を出してはならない」。

 過酷なシベリア抑留とは天と地。国際法に基づいて処遇され、城野の太原監獄とは違って、日本式の食事が一日三食与へられた。「一人ひとりの人格を尊重する。思想面から教育と改造をおこなふ」が政策だった。

 五〇年秋、朝鮮戦争が激しさを増し、撫順が戦火にさらされた。「戦犯」たちは米国の勝利を確信してゐたが、中国人民解放軍の参戦で米軍は後退、やがて停戦。

「戦犯」たちは衝撃を受けた。「日本が勝てなかった米国に中国は事実上、勝利した」。

 このときから「戦犯」の態度が変はる。「献身的に世話する職員を尊敬するやうにさへなった」といふのだが、むしろ「あきらめと受容の心境」ではなかったか。

 翌五一年九月、四十九カ国がサンフランシスコ平和条約に調印。翌年から連合国関係戦犯の赦免・減刑が具体的に動き出す。

 けれども冷戦まっただ中、条約に調印しなかったソ連との戦犯赦免交渉は遅れ、「竹のカーテン」を隔てた中国との交渉はさらに遅れた。

 朝鮮戦争の休戦後、撫順では「学習」が始まった。「ダモイ(帰国)」の夢は破れ、米軍による解放の希望も消えて、嵐のやうな「認罪」運動が起こった。「自白すれば罪は軽く」のチラシが貼られて、「逃げ場」はなくなった。

 明治二十二年広島生まれ、四十四年陸軍士官学校卒の第五十九師団長、藤田茂・陸軍中将は社会主義経済、マルクス経済学の勉強を始めた。

「日清・日露、第一次大戦は結局、自分の欲望を満たす侵略戦争だと知った」

「大東亜戦争の八紘一宇、聖戦にも疑問を持ち始めた」

「捕虜を殺し、過酷に使役した自分たちの軍国主義思想には良心のかけらもなかった」

「満洲事変は中国侵略戦争であることは明らかである」。

 五四年一月、「戦犯」の罪状調査が本格的に始まった。審問と調査に基づいて起訴状が作られた。死刑七十名、無期以下百十名。

 しかし周恩来は命じた。「一人も死刑にしてはならない」。

 周恩来は未来を見据へ、「侵略戦争で罪を犯した者が反省し、その体験を日本人に話すことは、中国共産党員が話すより効果的」と考へてゐた。

 五六年四月、中国政府は寛大な「戦犯」処理の方針を発表した。「数年来の中日両国人民の友好発展を考慮する」「戦犯の大多数が改悛の情を示してゐることを考慮する」。

 同年六月、柳条湖に近い劇場を改修し、最高人民法院特別軍事法廷が開かれた。傍聴席が連日、千四百人の中国人で埋まった。


▽人民を納得させる

 住民「屠殺」、糧食略奪、強姦など七件の罪状で起訴された藤田は、すべての「罪」を認め、最終陳述では天皇の「戦争責任」に言及し、供述書に「自分に罪行を犯させた裕仁に対し、心よりの憎悪と闘争を宣言する」と記した。

「極刑は免れない」と腹を決めてゐた藤田だが、判決は「禁固十八年」。

 日本に帰れる。「不幸のどん底から幸福の先端まで走った」。

 裁判長に促されて、「感謝してゐます。被害者の方々は納得されないでせう」と感想を述べ、絶句した。

 しかし本当に「感謝」したのは中国側だった。「極刑」を望む人民を納得させるには「思想改造」の成果が必要だった。

 帰国した「戦犯」たちは「中国帰還者連絡会」を組織した。目的は「中国侵略に参加し、幾多のに罪業を犯した者が人道的反省の上に立って侵略戦争に反対し、平和と日中友好に貢献する」ことだった。

 中帰連初代会長は藤田で、終生、その地位にあり、「中国が期待したとほりの後半生」を送ったといはれる。


◇満洲国最高官吏だった古海忠之
◇日本政府とのパイプ役を期待され釈放

 撫順に収容され、「財政金融面で中国人民を搾取した」などと「認罪」しながらも、藤田とは異なる後半生を送ったのは満洲国の高級官僚だった古海忠之である。

 明治三十三年、京都生まれ。三高、東大法学部を卒業後、大正十三年、大蔵省に入省。昭和七年、満州国の財政・金融を日本の大蔵省で引き受けてほしいといふ要請を受け、十人ほどの官僚が同国政府に派遣されたうちの一人だった。

 満洲国の予算や政策は国務院総務庁次長の古海が立案した。事実上の総理だったといふ。


▽「池田さんによろしく」

 終戦直後の二十年九月、新京でGPUに逮捕され、十カ所のラーゲリを転々とした。中国に身柄が引き渡されたのは、中国の意向が強く働いてゐた、と古海は見てゐる。

 日本と手を握っていかないと国の発展はない、と中国は考へてゐた。その点、蒋介石も毛沢東も同じで、そのため早々と日本総軍や関東軍の幹部たちを日本に帰した。

 ところが中国の一般大衆は納得しない。とくに関東軍が無謀を働いた華北では、日本の軍国主義者を建前として罰する必要が生じた。すでに日本軍の幹部は帰国してゐたため、ソ連抑留者から戦犯容疑者が引き渡された──といふのである。

 奉天の軍事裁判では、古海をよく知りもしない満洲国皇帝の溥儀が古海の罪状を証言した。「軍国主義者」「帝国主義者」を処罰する裁判は映画「寛大なる裁判」に記録され、中国各地で放映された。

 古海は「禁固十八年」の刑を受け、古海が満洲国国務院総務院主計処長時代に建てた撫順監獄に入れられた。

 あと半年の刑期を残して釈放後、三カ月間、中国国内の見学旅行に招待された。最高級のラシャの新品を着せられ、山西から長安、上海、蘇州、江州、北京へ。ホテルは最上の部屋。国賓待遇の大名旅行だった。

 撫順監獄での釈放式典のあとには周恩来との対面が待ってゐた。周恩来は日中関係改善を考へ、中国の政策を詳細に説明した。

「池田(勇人)さんによろしく伝へてください。岸(信介)さんはちょっと困ります」

 古海にとって、岸は通産省と満洲時代の先輩、池田は後輩だった。

 帰国を前に、中国政府と日本関係者が送別会を開いた。その席で古海は表明した。

「刑期中、一所懸命、左翼の勉強して、帰国したら共産党に入党し、左翼革命を起こす使命を感じたこともあったが、いま帰国するに際して、その意思はサラサラございません」

 嫌な顔の一つも見せるだらう、と期待してゐたのだが、反応は違ってゐた。

 中国は日本政府や財界などとのパイプ役を期待してゐたのだ。それまで中国は日本の左翼との付き合ひしかなかった。それでは日中友好は促進できない。中国は現実を理解してゐた。

 古海は満洲の民族協和は「見果てぬ夢」だと回顧する。

 相手の民族性を理解せずして協和はあり得ないが、日本人は他民族に対する感覚が鈍感で、ひとりよがり。しかも民族的な優越感と相まって裏目に出た。民族共和に努力しながら、善意がかへって理解されず、実を結ばなかった。

 満洲国の歴史は、侵略的事績と理想国家建設の事績との矛盾する事績が、縄のやうに絡み合ってゐた。しかし世界の列強が侵略的に植民地獲得に専念してゐたとき、満洲に理想国家をあへて創らうとし、短期間であるにしても近代的国家の形を整へ、急発展したことは、日本民族の誇りである──。


▽犯罪者といへない

 中国の「戦犯」裁判は正当とはいひがたい。シベリアの強制労働のやうな過酷さはないが、心理的な脅迫や暴力の中で、撫順の「戦犯」たちが針小棒大に「認罪」したことは想像に難くない。

 あの戦争をファシズム戦争と断ずるのは一方的すぎる。イタリア語の「ファッショ」は「結束」、「ファシスト」は「結束した同盟者の集まり」を意味するが、当時の日本は逆に「結束」を失ひ、戦争の泥沼にはまっていった。

 資本主義の最終段階に到達した日本帝国の指導者がファッショ化し、資本主義の矛盾を解決するために、中国「侵略」を始めたといふやうな事実はない。満洲事変は日本政府の意思に反して、関東軍が引き起こしたのであった。

 日本の指導者は無能で、情勢を展開できなかったが、犯罪者ではない。侵略主義者でもない。好戦国が平和国に襲ひかかったといふ一方的な見方はできない。

 天皇の名において「侵略」が正当化されたわけでもない。逆に天皇の精神的権威は「征服」の野望を許さなかった。

 しかし撫順の「戦犯」たちによる玉石混淆の供述書は、日本人自身による「侵略」戦争の重要な証言として北京に保管されてゐる。

 中国「侵略」を日本の当事者が認め、中国が「寛大」に対処したとする「歴史」の証拠は、共産中国の対内的・対外的な歴史カードの「武器」となってゐる。

(参考文献=城野宏『祖国復興に戦った男たち』、古海忠之『忘れ得ぬ満州国』、新井利男、藤原彰編『侵略の証言』、満蒙同胞援護会編『満蒙終戦史』、葦津珍彦『明治維新と東洋の解放』など)
タグ:戦犯
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