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黙祷──死者に捧げる「無宗教」儀礼の一考察 [国家神道]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 黙祷──死者に捧げる「無宗教」儀礼の一考察
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 本日、発行した斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン〈http://melma.com/backnumber_170937_5817954/〉で、宮中祭祀の法的位置づけが敗戦後、単純に様変わりしたのではなくて、占領期を挟んで段階的な変遷があったこと、について、お話ししました。

 そのなかで書き漏らしたことがありますので、当メルマガで補足することにします。

 昭和26年5月に貞明皇后が崩御になり、大喪儀が行われましたが、斂葬当日に黙祷が捧げられたのを、アメリカ人宣教師たちは「戦前の国家宗教への忌まわしい回帰」と猛反発しました。

 けれども、この黙祷こそ、「戦前の国家宗教」の強制どころか、日本では大正時代からすでに、そして良くも悪しくも、無宗教の国民的儀礼が社会に浸透していたという何よりの証拠なのでした。

 というわけで、雑誌「正論」平成18年2月号に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。

 それでは本文です。



 平成17年の秋、小泉首相の5度目の靖国神社参拝に対して、激しい抗議と批判が内外からわき起こりました。

 日本の一部政治家や官僚、知識人が「首相参拝は憲法が定める政教分離原則に違反する」「戦没者を慰霊・追悼する公的施設は無宗教でなければならない」などと主張しました。

 挙げ句に「戦犯」の「刑死」を「公務死」と認定した政府自身の過去の判断を忘れ、「戦犯分祀が無理なら参拝自粛か新施設建設を」と追悼施設議連を立ち上げたのは、偽善的ともいうべきであって、日本人一般の国民感情からも、世界の常識からもかけ離れているのではないかと思います。

 不慮の死者たちに対して、とりわけ国に一命を捧げた国民に対して礼節を尽くすことは間違いなく文明国の責務であり、国に殉じた戦没者を慰霊・追悼する公的施設を一国の首相が国を代表して表敬するのは当然であって、その祈りが絶対的無宗教であり得るはずもないからです。

 首相参拝が「違憲」だというなら、そのような憲法こそ逆に人倫にもとるのではないでしょうか?

 イギリスを見てください。日本とは対照的なほど、きわめて宗教的に戦没者の公的慰霊が国を挙げて行われています。


▽1 日本とは対照的なイギリスの戦没者追悼

 2005(平成17)年は11月13日の日曜日、午前11時から2分間、イギリスは国中が戦没者に謝意を表する沈黙の祈りに包まれました。

 第1次世界大戦の休戦協定発効が1918(大正7)年11月11日の午前11時だったことから、毎年この日に近い日曜日が「戦没者追悼記念日」(Remembrance Sunday)と定められています。

 そして、ロンドンの官庁街ホワイト・ホールにそびえる記念碑セノタフ(Cenotaph)周辺を会場に、国家元首たるエリザベス2世や政府首脳、数千人の退役軍人、宗教関係者が真っ赤なポピー(ひなげし)の造花を胸に参列し、二度の大戦とフォークランド紛争や湾岸戦争などで落命した戦没者を追悼する式典が開かれます。

 国会議事堂の時計台ビッグ・ベンの鐘の音と騎馬隊の一斉射撃を合図に、「2分間の沈黙」(the two minute silence)が国を挙げて捧げられ、そのあと、女王は碑前に大きな花環を捧げます。

 これに対して日本では、8月15日の終戦記念日に、東京の日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が行われ、天皇皇后両陛下は正午を期して、国民とともに戦没者に対して「1分間の黙祷」を捧げられ、菊花を手向けられます。

 また、震災記念日の9月1日と東京大空襲のあった3月10日には、東京・横網(よこあみ)の東京都慰霊堂で、皇族の御臨席のもと、震災犠牲者と戦災遭難者を悼む慰霊法要が、都の主催で行われ、関東大震災発生時刻の午前11時58分に「1分間の黙祷」が捧げられます。

 日本とイギリス、いずれも追悼儀礼の中心は、一定の時刻に人々が集まり、あるいはそれぞれの場所で、鐘の音などを合図に、沈黙の祈りを共有する黙祷ですが、両者は決定的に異なります。

 イギリスではキリスト教をベースとする自国の宗教伝統に基づき、さらに最近では他宗教をも取り込んで、多宗教的・多文化的に国家的慰霊・追悼の伝統が一貫して受け継がれているのに対して、日本では後述するように、戦前も戦後も、多神教的・多宗教的伝統が斥けられ、無宗教を前提として公的追悼が行われてきました。

 英国の黙祷は宗教的祈りですが、日本の黙祷は戦前・戦中から無宗教儀礼とされています。日本政府は戦前も戦後も宗教色を嫌い、無宗教儀礼をもっぱらとし、あまつさえ近年は公的追悼施設・式典の異教化が進められています。宗教的無色中立を求めるあまり、無味乾燥な国家宗教の創設に猛進しているのです。

 日本の公的追悼がイギリスと真反対なのは、宗教的価値や日本の歴史と伝統を深く理解しようとしない知識人たちの啓蒙主義的性癖にこそ原因があるのではないでしょうか? 日本の政教分離問題、とりわけ靖国問題がいっこうに解決できない最大の要因もここにあるのでしょう。

 黙祷の歴史を振り返ると、そのことがじつによく分かります。


▽2 大正元年、明治天皇御大喪の「遥拝」

 今日、無宗教的な国民儀礼として認められている黙祷は、大正時代に生まれました。

 もちろん「黙祷」という言葉自体は中国・唐の時代、韓愈(かんゆ)の詩に登場するほど古くからあります。日本では最古の節用集(国語辞書)の1つといわれる、室町中期の「文明本節用集」に載っています。

 けれども、その意味はいずれも「個人が心の中で祈る」というほどのものであり、今日の集団儀礼ではありません。

 近世の庶民がもっとも親しんだとされ、今日、百数十種類確認されている江戸期から明治中期までの節用集には「黙祷」は見あたりません。市井の言葉としては近世から近代にかけて、死語に近かったということでしょうか。

 明治・大正時代の新聞記事にもほとんど登場しません。

 明治7年に創刊された読売新聞の過去の掲載記事をすべて網羅するデータベース「明治の読売新聞」「大正の読売新聞」で検索すると、今日的な意味に近い「黙祷」は大正元年9月8日付の「市民の黙祷と学生」にはじめて現れます。

 尊皇家として知られる阪谷芳郎・東京市長の提唱で、明治天皇の御大喪当日の夜、交通機関が止まり、葬場殿の儀に合わせて、東京市民・学生はそれぞれの持ち場で起立し、葬場殿の方角に向かい、「3分間の稽首遥拝の礼」を捧げることに決まったのです。

『明治天皇紀』は当日の模様を「市民一斉に黙祷し、全国六千万の蒼生また時を推りて遥拝す」と記述しています。

 けれども、これを黙祷儀礼の先駆けと見るのは無理があります。読売新聞はこれ以外の記事はすべて「遥拝」と表現しているからです。

 天皇や神仏を遠くから拝礼する「遥拝」は、『延喜式』に記されているほど古い宗教的な儀礼形式でした。近世・近代の節用集には見あたりませんが、「明治の読売」では131件、「大正の読売」では109件の記事が検索されます。

 明治29年の孝明天皇30年祭や明治45(大正元)年の明治天皇御大喪、大正3年の昭憲皇太后の御大喪などで、各地に神道形式の遥拝所が設けられ、「遥拝」「遥拝式」が行われたことが報道されています。

 今日の「黙祷」によく似た、交通機関を止め、一定の時刻に国民がいっせいに拝礼する国民儀礼としての「遥拝」が行われたのは、明治天皇の御大喪のときが最初でした。


▽3 ジョージ5世が呼びかけた「2分間の沈黙」

 国に一命を捧げた戦没者や不慮の天災・事故などの遭難者を対象とする、国民儀礼としての「黙祷」の歴史は、戦間期のイギリスに始まったようです。

 第1次世界大戦休戦一周年の1919(大正8)年11月11日、国王ジョージ5世の呼びかけで「2分間の沈黙」がはじめて行われました。

「すべての交通機関を止め、完全な静寂の中で、すべての人々は思いを英霊への敬虔な追憶に集中させよ」。

 この年の休戦記念日、大群衆で立錐の余地もないロンドン市長公邸マンション・ハウスでは、感動的な野外ミサが捧げられ、大群衆による讃美歌のあと、花火と時計台の時計が午前11時を知らせると、市長の合図で静かな祈りが捧げられました。

 翌年の休戦記念日はもっと盛大でした。ロンドンの官庁街ホワイト・ホールに石造りの記念碑セノタフが完成したのに加えて、ウエストミンスター寺院に無名戦士の墓が築かれ、パレードと埋葬式が行われたからです。

 葬列がセノタフに到着すると、国王は棺の上に月桂樹の花環を置きました。聖歌隊が讃美歌を歌い、群衆がそれに続き、午前11時、除幕式に合わせて人々は両手を組み合わせ、地上に平伏して、沈黙の祈りを捧げました。

 交通機関が止まり、沈黙の祈りを共有し、そして花環を捧げる、というイギリスに始まったこの国民儀礼は、明治天皇御大喪時の日本の「遥拝」に似ています。

 アングロ・サクソンが侵入する以前のケルトの文化では、1年の節目に死霊が各家を訪問すると信じられ、その信仰は現在のクリスマスやハロウィーンに引き継がれていますが、神霊・祖霊と交流するために忌み籠もり、そのため交通機関が止まる日本古来の精神文化とも通じます。

 死者に花を手向けるのは、ヨーロッパでは19世紀後半、ジャポニスムの時代に日本から伝わったと考えられているようです。

 第1次大戦休戦1周年に始まったイギリスの宗教色あふれる国民的追悼儀礼を、東京朝日新聞など日本のメディアは「沈黙」と直訳、報道しました。

 同様の儀礼が「黙祷」として最初に報道されたのは、「大正の読売」によると、同年12月、警官および志願巡査との衝突による犠牲者を悼む「30秒間の黙祷」がフィリピンのマニラ全市で行われたことを伝える外信記事です。

 大正10年春から7カ月にわたる御外遊の旅に出られた皇太子裕仁親王(昭和天皇)がイギリス御到着後、最初にお務めになった公式行事は、大歓迎の中でのセノタフ並びに無名戦士の墓への表敬で、皇太子は大きな花環を捧げ、深々と拝礼されました。そのあと、それまで静かに見守っていた群衆から大きな拍手がわき上がったと伝えられます。

 皇太子の御拝礼はイギリス人には「黙祷」と映ったのかもしれません。

 同年秋には、アメリカで「2分間の黙祷」(Two-Minute Silent Prayer)が捧げられました。

 ワシントン軍縮会議開会の前日に当たる11月11日、アーリントン墓地で無名戦士の埋葬式があり、正午を期して、ハーディング大統領の要請による黙祷が全米で捧げられました。

 その呼びかけは、「神の慈悲と我らが最愛の国への神の祝福を請い願う」という、イギリスにも増して宗教色の強いものでした。

 同じ日、ジュネーブで開催された国際労働機関の総会でも沈黙の祈りが行われた、と伝えられています。

 7つの海を支配する大英帝国に始まった黙祷は、世界大戦後、大国にのし上がったアメリカに伝わり、さらに国際連盟成立という新しい世界の動きの中で国際慣例化したといえるのでしょうか?


▽4 関東大震災1周年、摂政宮殿下の「2分間の御黙祷」

「黙祷」が国民儀礼として日本社会に定着するきっかけとなったのは、関東大震災で首都東京が壊滅した1年後、大正13年9月の関東大震災1周年です。

 震災直後の混乱が収まりつつあった前年10月、東京府市連合が主催する「49日」の追悼式が本所区被服廠(ひふくしょう)跡広場で行われました。

 祭壇に安置された大木牌を御下賜の菊花などが囲み、卒塔婆や線香など宗教的シンボルに彩られてはいましたが、イギリスやアメリカの戦没者追悼とは異なり、式自体は無宗教で、宗教者は排除され、宗教儀礼も採用されませんでした。

 仏教各派連合の追悼会(ついとうえ)や全国神道連合会の50日祭は、開催場所こそ同じ被服廠跡ながら、府市連合の追悼式とは別個に催されました。

「国家は宗教に干渉せず」を原則とする、啓蒙主義的な当時の行政と、その姿勢を「宗教に無理解」と反発する宗教者との抜き差しならない対立があったことを当時の新聞は伝えているほどです。

 黙祷儀礼が現れるのはこの翌年です。

 記録によると、震災1周年を間近に控えた13年夏、東京府・市と東京商業会議所(現・東京商工会議所)、東京実業組合連合会(現・東京実業連合会)が震災記念事業協議会を組織して協議を重ね、震災発生時刻の午前11時58分に、社寺教会などは鼓鐘、工場船舶は汽笛を鳴らして注意を喚起し、市電は1分間停車、市民は「黙想反省」することなどを決めました。

 これこそ「黙祷」儀礼にほかなりませんが、現代と同様、宗教を毛嫌いする当時の行政の姿勢を反映しているのでしょうか、協議会は「黙想反省」というきわめて無機質的な表現を用い、新聞はこれを「祈念黙想」と言い替えて報道しました。

 東京朝日新聞に「2分間の黙祷」が現れるのは、震災1周年当日を数日後に控えた予定記事です。天皇皇后両陛下並びに東宮同妃両殿下が震災追悼式に花環を下賜されるとともに、東宮殿下が赤坂仮御所で「2分間の御黙祷」を捧げられることになった、というのです。

 あたかも協議会が決めた非宗教的儀礼に宗教的な命が吹き込まれたかのように、この報道を境に、市民の「祈念黙想」は「黙祷」に一変したのでした。

 朝日新聞が1周年当日の東京駅界隈の様子を伝えています。「東京駅では、田舎のお婆さんがやおら立ち上がり黙祷を始めると、人々は一斉に緊張した黙祷を捧げた」。

 新しい儀礼に不慣れなぎこちなさが伝わってきます。

 この年も、宗教者たちは東京市主催の震災1周年追悼式を宗教儀礼によって行うことを強く迫りましたが、当局はこれを拒否し、被服廠跡では無宗教の式典が催されました。

 そのような状況下で、死者を追悼する黙祷儀礼は皇室に源を発し、一般に広がりました。皇室と国民の沈黙の祈りには切なるものがありましたが、既成の宗教儀礼によらない黙祷は宗教宗派への絶対的不干渉・中立主義をとる行政にとっても好都合で、以後、無宗教儀礼として受け入れられていくのです。

 イギリスやアメリカなどの、宗教色の強い黙祷との違いはここに始まります。


▽5 戦時体制下で国民儀礼化する「遥拝」「黙祷」

 昭和になって、「黙祷」は「遥拝」とともに集団儀礼として一気に社会の表舞台に登場します。けれども国民儀礼としては、より伝統的、より宗教的な「遥拝」が中心でした。

 昭和元年から20年までの記事を網羅した「朝日新聞戦前紙面データベース」で検索すると、「黙祷」は222件、「遥拝」はその2倍、444件の記事がヒットします。

 両者には形式上の大きな違いはありませんが、「遥拝」は天皇、御陵、神宮などが拝礼の対象で、一方の「黙祷」は関東大震災犠牲者に対する慰霊であって、少なくとも昭和初年には用語の使い分けがされていたようです。

 政府が主導する無宗教的な国民儀礼としての「遥拝」の初例は、新聞報道で見ると、昭和9年5月に行われた日露戦争の英雄・東郷平八郎元帥の国葬です。

 人霊に対しては本来、「遥拝」の語は用いるべきではありませんが、東京府下では府が通牒を発して、各小学校で弔慰を表する遥拝式が催されました。

 12年夏の盧溝橋事件をきっかけに日中が全面衝突すると、新聞紙上に「遥拝」「黙祷」の記事が桁違いに増えます。凱旋した軍人兵士や帰国した五輪選手が宮城を遥拝し、元日や紀元節、天長節など祝祭日での遥拝式が国民儀礼化されます。

 12年12月3日付の朝日新聞は、政府が国民精神総動員の趣旨にのっとって、翌年元日の午前10時に官庁や学校で宮城遥拝や祝賀式を行うことなどが決められた、と伝えています。

 こうして宮城への「遥拝」は戦時体制下、国民儀礼化されたのです。

 他方、戦没者に対する国民儀礼としての「黙祷」を推進したのは陸軍でした。

 13年3月4日付、朝日新聞朝刊の記事「いっせい足止めて黙祷、陸軍記念日の正午に」は、陸軍が3月10日の第33回陸軍記念日に「過去の諸戦役における先人の偉業をしのび、今事変の意義を闡明(せんめい)し、挙国長期戦の覚悟を促進する」ための計画を立てていることを紹介しているのですが、その1つが「1分間の黙祷」でした。

 これが行政機関が日本国民に無宗教儀礼としての「1分間の黙祷」を求めた最初かと思われます。

「黙祷」の歴史を考える上で注目される記事が、16年元日の朝日新聞に載っています。前年秋に設立された神祇院が、「国礼の統一」の一環で、「黙祷廃止」を検討し始めたというのです。

「黙祷はキリスト教の形式で、震災記念日に東京市民が始めた1分間の黙祷が全国に広がったらしいことから、神祇院は西洋思想の流れをくむ黙祷を廃し、日本古来の最敬礼と2拝2拍手1拝の礼式を国礼として制定する意向」でした。

 行政関係者のなかに、黙祷が外来文化に由来する、という歴史的理解が当時、あったことは注目に値します。

 当然ながら波紋はすぐに広がりました。宗教専門紙の報道によると、仏教界は心中穏やかではなかったようです。同様の論理に立てば、インド・中国から伝来し、日本化された仏教行事も排除されかねないからです。

 しかし結局、黙祷は継続することになります。大政翼賛会文化部、文部省、神祇院が協議し、「黙祷は日本人の日常生活に融合、慣習化されている。国民全体が敬神感謝の意を表する適切な形式である」という見解がまとまったのです。

 そして同年春、1万5千の英魂を新たに合祀する靖国神社の臨時大祭には例年通り1億の黙祷が捧げられました。

 しかしながら1億の国民の祈りもむなしく、日本は敗戦。そして連合国軍による占領末期、黙祷をめぐる「宗教・無宗教」論争が起きます。火をつけたのはアメリカ人宣教師でした。


▽6 宣教師が火をつけた「黙祷」論争

 昭和26年、日本で発行されている英字新聞紙上で、「信教の自由」「政教分離」をめぐる「黙祷」論争が繰り広げられました。

 同年5月に貞明皇后が崩御になり、斂葬当日の6月22日、全国の学校で「黙祷」が捧げられたのですが、その数日後、アメリカ人宣教師の投書がニッポン・タイムズ紙の読者欄に載りました。

「日本の学校で戦前の国家宗教への忌まわしい回帰が起きた。生徒たちは皇后陛下の御霊に黙祷を捧げることを命令された。キリストに背くことを拒否した子供たちはさらし者にされた」

 これが宗教論争の始まりでした。

 公文書によると、斂葬当日に官庁等が弔意を表することが閣議決定され、文部省は「哀悼の意を表するため黙祷をするのが望ましい」旨、次官通牒を発しました。

 宣教師が問題としている子供たちの通う私立校の場合は対象外で、しかも通牒には宗教儀式の不採用、社寺不参拝が明記されており、黙祷は少なくとも文部当局にとって、この宣教師が批判するような「命令」でも「宗教儀式の強制」でもありませんでした。

 けれども、宣教師らは文部当局の説明に納得しませんでした。日本の行政機関にとっての「黙祷」は戦前と同様、無宗教儀礼でしたが、キリスト教文化圏に始まった「黙祷」は宣教師らには当然、宗教儀礼と映ったのでしょう。

 そして宣教師らが強硬だったのはトラウマがあったからです。投書の主たちは、昭和8年に聖書学校生徒の子弟が伊勢神宮への参宮を拒否したのに端を発して、教会が暴徒に襲われるという「迫害」を経験していたのでした。

 宣教師は「真のキリスト者は天皇を愛し、必要なら命を捧げるが、崇拝はしない」と強調したばかりでなく、「戦前のキリスト者が神に忠実であったなら、『真珠湾』は起きなかっただろう」とまで述べています。

 そしてサンフランシスコ平和条約調印日にふたたび同じ学校で「黙祷」「宮城遥拝」が実施されると、「また命令された。新憲法は宗教儀式の強制を許すのか」とふたたび抗議。広範囲の読者を巻き込んだ甲論乙駁の紙上論争は10月半ばまで続きました。

 興味深いのは、GHQがアメリカ人宣教師の立場をけっして擁護していないことです。占領中の宗教政策を担当した同職員のW・P・ウッダードはこの論争をある論攷に取り上げ、「黙祷」について、こう解説しています。

「黙祷という語は仏教や神道のものではない。明治以前には使われていなかった。関東大震災の記念日に関連して行われ、戦中は種々の場合に行われた。超国家主義者の中には日本的でないとして反対する者もいたが、代わる適当なものがなかったことを知った。何か特定の対象に捧げるものであるという主張には根拠がないように思われた」(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4所収)

 論争は、キリスト教文化圏で宗教的な儀礼として始まった黙祷が、日本では無宗教儀礼として官民に浸透した歴史を浮かび上がらせます。

 けれども、黙祷が第1次大戦後の英国で始まり、世界化し、日本では戦時体制下に国民儀礼として慣例化したという歴史など、アメリカ人宣教師らには思いもよらぬことだったに相違なく、行政が主導する無宗教儀礼は彼らには国家宗教に見えたのでしょう。

 もう1つ見逃せないのは、昭和20年12月の「神道指令」と現行憲法が定める政教分離規定とを同一視する憲法学者らがいるのに対して、ウッダードはこの考えを当時すでに否定していることです。ウッダードは同じ論攷にこう述べています。

「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている。『宗教』という語を用いることは昭和20年の状況からすれば無理のないところであるが、現状では文字通りの解釈は同指令の趣旨に合わない。……米国の世論は非宗教主義に終わる可能性のある政策を支持しないだろう。米国では明らかに宗教と国家との間に密接な関係がある」

「神道指令」は神道からの「分離」をきびしく要求していましたが、貞明皇后の御大喪の例が示すように占領後期には緩和され、GHQはもはや厳格な政教分離政策を採らなくなりました。

 独立回復からすでに半世紀を過ぎた今日の日本ができもしない完全分離にこだわり、「非宗教主義に終わる可能性のある政策」を追求しなければならない理由はまったくありません。

 日本の官僚・知識人が絶対的分離に固執するのは、占領政策の残滓というよりも、もともと彼ら自身に近代合理性の精神に由来する、とくに神道に対する、宗教的偏見があるからなのではありませんか?

 その偏見がGHQでさえ捨て去った完全分離主義への郷愁を保ち続けさせ、他方では神社嫌いの一部の宗教者たちがその偏見をあおり立て、愚かしいことに、自分たちを否定することになる非宗教主義的な無色中立政策を採らせているのでしょう。


▽7 新たな国家宗教を創る政府

 人の死を悼むのは間違いなく宗教的行為で、イギリスの戦没者追悼儀礼が自国の宗教伝統に基づいて宗教色豊かに行われるのは当然です。しかし日本政府は、戦前も戦後も厳格な政教分離主義の立場に立ち、とりわけ近年は公的追悼施設や追悼行事からの宗教性排除に奔走しています。

 日本国憲法は国の宗教的中立性を求めているものの、絶対的無色中立を要求するものと解釈すべきではないし、もともと無色中立などはあり得ないはずです。絶対的な中立を追求すれば、宗教伝統を否定する新興宗教的な国家宗教の創設もしくは異教化を国みずからが推進することになり、憲法が認める信教の自由を否定する自家撞着に陥ります。

 事実、国や地方公共団体が関わるごく最近の公的追悼施設や追悼式典には、その傾向がはっきりとうかがえます。

 平成14年、15年に、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が相次いで開館しました。

 これらは既存の宗教形式によらない無宗教施設で、読経や讃美歌の合唱などは禁じられています。献花は認められますが、玉串拝礼は想定されず、焼香は「火気の使用」に当たるという理由で認められていません。

 認められるのは「厳かな雰囲気で静かに死没者に思いをいたし」という戦前と同様の無宗教儀礼としての黙祷です。

 広島祈念館には祭壇すらありません。中心施設「追悼空間」は爆心地から見た被爆後の街並みを死没者と同数の14万のタイルで表現した円形のパノラマで、来館者はここで「死没者を追悼し、平和について考える」とされています。

 しかし、どこに向かって祈るというのでしょうか。死者はどこにいるのでしょう? 慰霊碑も祭壇もないなら、「天」に向かって祈らざるを得ません。「天に祈る」のは古来の宗教伝統とは異なります。

 一方、長崎祈念館の「追悼空間」には緑色に光るガラス製の「光の柱」が林立し、正面には献花台があり、死没者の名簿棚が直立します。

 開館したばかりの祈念館を訪れた小泉首相は記帳のあと、名簿棚に向かって献花、合掌、黙祷しました。名簿に死者の魂が宿っているとでも信じられているのでしょうか、そのような観念は日本人の伝統的宗教心になじむのでしょうか?

 既成宗教に対する完全中立を求めるあまり、行政自身が無宗教的な国家宗教を創設し、国民に強制する伝道師を演じているのではありませんか?

「特定の宗教を排除」して宗教的中立性を追求したつもりが、結果として、日本の宗教伝統を排除し、あまつさえ異教にすり寄る結果をもたらしたのが、阪神淡路大震災10年の追悼式典です。

 平成17年1月、兵庫県や県議会、県民代表の13団体で構成される式典委員会(委員長=県知事)が主催した、黙祷、献唱曲、献花を内容とする追悼式典では、何とキリスト教音楽の合唱が捧げられました。

♪ 愛しい真の御身は処女マリアから生まれ、万民の身代わりに十字架に付けられ、苦しみを受けられた。

 楽聖モーツアルトが作曲した聖体賛歌「アベ・ベルム・コルプス」は、キリストの生誕から受難までをラテン語で簡潔に表現した教会音楽の最高傑作の1つで、異教徒や不信心者の心をも洗わずにはおきません。

 けれども、絶対的な政教分離主義に立つ行政機関が主体的に関わる公的追悼行事で演奏されるのは、矛盾も甚だしいといわねばなりません。

 イギリスのセノタフを「宗教性なし」と決めつけたのが、かの追悼懇ですが、ここでは国が主催する戦没者追悼式で、自国の宗教伝統に基づいてイギリス国教会のロンドン司教が宗教儀式を行い、ユダヤ教や仏教、ヒンドゥー、イスラム、シーク教の代表者も参列して、国に一命を捧げた戦没者に感謝の祈りが捧げられます。

 こうした多宗教形式による祈りは、アメリカのワシントン・ナショナル・カテドラルで行われた「9・11」同時多発テロ犠牲者への追悼ミサや、オーストラリア政府が主催したバリ島爆弾テロ一周年の追悼式、スマトラ島沖地震・大津波の犠牲者を悼む追悼式などでも行われ、世界的な流れといえます。

 第2バチカン公会議以降、宗教多元主義が受け入れられてきた結果ともいわれます。

 けれども、多元性・多宗教性が日本の宗教的伝統であるはずなのに、日本の行政は相変わらず戦前と同様、「宗教性の排除」に狂奔しています。「宗教性」を否定した慰霊・追悼などあるはずもないのに、です。

 自国の宗教伝統に背を向け、異国の神にすり寄った挙げ句に、行政関係者はこう言い張ります。「『アベ・ベルム・コルプス』の歌詞の意味は知らない。本来は教会音楽かもしれないが、宗教とは考えていない」。

 これはまさに宗教への冒涜にほかならず、このような式典で死者が慰められるはずもないのではありませんか?

 戦前も戦後も、日本の政治家や官僚、知識人には、度し難いほどに啓蒙主義が身に染みついているようです。小泉首相の靖国神社参拝に対する言論・マスコミ人の強硬な批判、あるいは厳格な政教分離主義に固執する靖国参拝訴訟「違憲」判決などは、その当然の結果といえます。新追悼施設議連設立もまた同様でしょうか?

 もっとも愚かしいのは、戦前の宗教者たちが宗教的な公的慰霊の実現を政府に強く働きかけたのに対して、現代では一部とはいえ、宗教家たちが「反ヤスクニ」裁判に血道を上げ、非宗教主義に走る「違憲」判決に狂喜していることです。

 宗教家自身が宗教的価値を見失っているのでしょう。だとすれば、死者たちの魂を誰がどうやって慰め、救済するのですか。いま求められているのは啓蒙主義を打ち砕く本物の宗教心であり、国民の宗教心を呼び覚ましてくれる本物の宗教家ではないでしょうか?
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頭山満とイスラム───亡命ムスリムを支援した戦前の日本人 [国家神道]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 頭山満とイスラム───亡命ムスリムを支援した戦前の日本人
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 ボストン爆弾テロ事件の容疑者兄弟は一家がチェチェン共和国出身で、敬虔なイスラム教徒だと伝えられます。祖国との関係は途絶え、イスラム過激派との関連もないようですが、だとすると、なぜ2人が事件を起こしたのか、今後の解明が待たれます。

 というわけで、今日は戦前の日本とイスラムとの交流史について書いた拙文を転載します。宗教専門紙(平成18年4月)に掲載された記事を一部、加筆少し修正しています。

 戦前の日本では「国家神道」による宗教弾圧があったかのような歴史論がしばしば語られていますが、実際はそれとはまったく異なる事実がありました。俗に「右翼の総帥」といわれる頭山満たちがロシア革命後、日本に亡命してきたムスリムたちを支援していたのです。



 今年平成18年は頭山満(とうやま・みつる。安政2~昭和19年)の生誕150年に当たり、2月には年祭が盛大に執り行われました。

 頭山は、戦前世代にとっては知らぬ者のいない、いわゆる大アジア主義の巨人ですが、敗戦後、占領軍は頭山たちが興した玄洋社を「侵略戦争推進団体」と決めつけて解散させ、左翼色の強い戦後の学界、言論界は「負」のイメージに染まった頭山を顧みることがありませんでした。このため長い間、多くの日本人の記憶から消えていました。

 けれども近年になってようやく歴史の封印が解かれつつあり、中国や朝鮮との深い関わり、とくに金玉均や孫文などアジアの革命家を支援していたことなどが一般にも知られるようになってきました。

 頭山の功績で異色なのはここで取り上げるイスラム教徒への支援で、ソ連の圧政を逃れて亡命してきたイスラム教徒たちが故国にあったとき以上に平安なる生活を送っただけでなく、戦時下の日本に協力したという史実は、一般に流布している「国家神道による他宗教迫害」という常識論的な近現代史の書き換えを迫るものといえます。


▽ 東京モスクの建設

 東京都渋谷区大山町──。明治神宮にほど近い住宅街に、異国情緒たっぷりの円形ドームと尖塔を備えた本格的なモスク「東京ジャーミイ」が建っています。現在の建物は6年前に完成した2代目で、「ケーキのように美しくそびえる」と形容された初代モスクがここに落成したのはおよそ70年前の昭和13年5月。そこには知られざる歴史があります。

 当時の新聞報道によると、モスクの建設は在日イスラム教徒にとって20年来の夢であったといわれます。

 落成式は預言者マホメットの誕生日に合わせて行われ、イエメン王子ほか世界40数カ国の使節が参列しました。午後2時、イスラム聖職者が塔にのぼり、「オーオー」と開会の合図を送ると、頭山がとびらを開け、参列者がしずしずと入場しました。続く野外での祝賀式では、「君が代」斉唱のあと、満州国皇帝溥儀の従弟・溥侊の発声による「天皇陛下万歳」、松井石根大将の音頭で「回教徒万歳」が唱和されました。

 なぜ頭山が開扉することになったのでしょうか。記事は「日本人の手ではじめて造られたモスク」で、イスラム教徒が建てたモスクではないと説明しています。どういうことなのでしょう。

 東京ジャーミイの資料によれば、1917年にロシアで共産革命が起きたとき、トルコ系(トルキスタン)イスラム教徒が大挙して国外に避難することになりました。モスクワとウラル山脈との間に位置するカザン州のトルコ人の多くが満州を経由して日本にやってきました。渋谷・富ヶ谷小学校の分校という位置づけで避難民たちの小学校が設立され、日本政府が援助して礼拝堂やイスラム学校が建設されたと記述されています。

 ところが「日本政府の援助」ではなく、イスラム世界を含めた大アジアの復興を目指していた民間の有志による義侠の精神から、亡命者たちに深い同情を寄せたことがモスク建設の始まりだった、とする記録もあります。

 日本イスラム界の長老であった小村不二男氏の『日本イスラーム史』(日本イスラーム友好連盟)によると、尊皇愛国と反共排ソを主義主張とし、しかもイスラムにきわめて深い理解力を持っていたのが実川時次郎、岩田愛之助、権藤成卿らで、彼らは杉浦重剛、三宅雪嶺らとのつながりもあって、やがてその熱情は頭山や内田良平を動かした。その後、犬養毅や大隈重信が共鳴して財界に呼びかけ、山下汽船社長が土地約五百坪を提供、森村、三井、三菱、住友の各財閥が寄金し、モスクが建設された、と記録されています。

 頭山はモスク建設の要の位置にいたことになります。


▽ イスラム・ブーム

 東京モスクが完成した昭和13年は、日本宗教史の節目となる宗教団体法案が国会に提出された年であると同時に、日本のイスラム史にとっても転換期でした。この年を境に、林銑十郎前首相・陸軍大将を初代会長とする大日本回教協会を中心に、外国人ではない、日本人イスラム教徒の組織的な活動が開始されたのです(重親知左子「宗教団体法をめぐる回教公認運動の背景」)。

 宗教団体法が成立、公布されたのは翌14年4月です。最初に宗教法案が提案されてからじつに40年の歳月を経て、名前も改まり、非常時の波に乗って国会を通過したのでした。

 同法は治安維持法とともに戦前・戦中の宗教弾圧を象徴する元凶のように見なされ、敗戦直後に占領軍によって廃止されましたが、じつは宗教団体法の審議過程では、「弾圧」どころか、イスラム教公認運動が起きています。

 イスラム教徒は同法第一条の「宗教団体とは教派神道、仏教宗派およびキリスト教その他の宗教の教団」に「回教」の二文字を入れるよう強く政府に要望しました。イスラム教は世界三大宗教の一つであるから、日本で唯一の宗教関係法ができようとするいま、これを見落とすべきではないし、満洲や蒙古、北支などに多くのイスラム教徒がいるので、大陸政策上も必要だ、というのがその主張でした(杉山元治郎『宗教団体法詳解』)。

当時の新聞には、イエメン王子に随行して来日した同国宗教大臣が「防共日本よ、イスラム教を公認せよ」と語るインタビュー記事が大きく取り上げられていますが、イスラム教公認運動には大日本回教協会や内田良平の黒龍会などが積極的に関与したといわれます。

 結局、努力は実らず、神仏基三教体制に加わることはできませんでしたが、14年11月には上野のデパートでイスラム団体が主催し、中央官庁や新聞社が後援、宮家ゆかりの品も展示する日本史上空前絶後の「回教圏展覧会」が開かれるなど、イスラム・ブームが起きました。

 そして3年後、日米開戦を受け、17年4月に結成された国策機関・興亜宗教同盟は神仏基三教のほかにイスラム教が加えられ、イスラム教は事実上、公認されました。


▽ 「米英撃滅」を祈る

 外国人であれ、日本人であれ、イスラム教徒は戦争中、国策遂行への協力を惜しみませんでした。

 当時の新聞には、「回教徒児童の献納」「回教徒も聖鍬、宮城前で奉仕」「天帝に祈る回教徒。鬼畜米英撃滅に神助あれ」の記事が載っています。

 先述の『日本イスラーム史』によれば、日本人イスラム教徒による戦争協力の白眉はインドネシアのジャワ、セレベス両島での対イスラム教徒工作であったといいます。ジャワでは優秀なイスラム青年が育成され、のちの独立運動の闘士や独立後の指導者が輩出されました。

 日本のイスラム教徒は国に身を捧げたことを誇りとしています。

 祖国の非常時に国民が身を挺するのは当然で、そこには宗教による違いはないはずですが、キリスト教とイスラム教ではなぜか好対照を見せます。

 むろんキリスト者たちも国家の戦争政策に大いに協力したのですが、戦後になると一転して自身の戦争協力を懺悔する一方で、宗教弾圧の存在を強く主張しています。「宗教が政治の手段として利用された。ある宗教を特別扱いし、他の宗教は弾圧してはばからなかった」(飯坂良明『キリスト者の政治的責任』)というようにです。

 けれどもイスラム教徒は「そんな(宗教弾圧の)話は聞いたことがない」と否定します。
  
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 朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 戦後期  第3回 新聞人の夢を葦津珍彦に託した緒方竹虎 [国家神道]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 戦後期
 第3回 新聞人の夢を葦津珍彦に託した緒方竹虎
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 月刊「正論」平成10年4月号に掲載された拙文を転載します。なお、一部に加筆修正があります。



 国家と神道が密接に結びついた「国家神道」が戦前・戦中の神社参拝の強制や宗教迫害を招き、「侵略戦争」の元凶となったというような俗流の歴史理解が一般社会に広く流布しています。「反ヤスクニ闘争」を展開してきた一部のキリスト者や知識人ならまだしも、驚いたことに、「津地鎮祭訴訟」「愛媛玉串料訴訟」の最高裁判決にまで明記され、「国家神道=戦犯」説は「判例」となっています。

 戦後のジャーナリズムも同様の歴史認識を示していますが、「大本営発表」を垂れ流しにして真実を報道せず、戦争の狂気をあおり立てた、ほかならぬ大新聞こそ「戦争責任」の追及から逃れることはできないのではありませんか。大新聞は戦時体制下のきびしい言論統制の受難者だったことを強調しますが、むしろ戦争の時代の演出者ではなかったのでしょうか。

 私はこれまで、通俗的「国家神道」理解とはまったく違って、在野土着の中心的神道人たちが日中戦争勃発以後、日本軍の暴走を必死で阻止しようとした事実、日米開戦後は東条内閣の宗教迫害に苦しみながらも、受難に立ち向かい、戦時体制と果敢に闘った歴史を描きました。

 ここでは、敗戦後の新聞人と神道人の生きざまを、日本のメディアを代表する「朝日新聞」の主筆を長らくつとめた緒方竹虎(のちの自由党総裁)と、一般には無名に近い神道界の専門紙「神社新報」の事実上の主筆として社を代表した葦津珍彦(あしづ・うずひこ)を中心に振り返ってみます。同時に「新聞の戦争責任」について考えてみたいと思います。


◇1 不十分な大新聞の「責任」追及

▽「大改革」どころか体制を強化

 昭和20年8月に、敗戦という未曾有の事態を迎えて、大新聞は存続が危ぶまれました。存続できるとしても、編集方針をどうするのか、大問題でした。

 創刊111年を記念して刊行された『朝日新聞社史』全4巻の『昭和戦後編』(1994年)によると、東京本社では昭和20年8月15日の午後、編集局部長会が開かれました。細川隆元元編集局長(のちの政治評論家)はその席で、「当面の新聞製作の仕事は平素の通りやっていこう」と語りました。

「それまで一億一心とか、醜敵撃滅などという最大級の言葉を使って書き、読者に訴えてきたものを、これからすっかり変えていかなければならないが、といって、昨日の醜敵が今日の救世主に変わったような、歯の浮くようなことも書けないから、まあ、だんだんに変えていくということにしようではないか、というのである」

 けれども、「(編集局幹部の)受け身の姿勢は、言論の自由を失い、戦争協力を続けてきた新聞に忸怩たる思いをしてきた社員の不満を募らせる原因にもなり、……『戦争責任の追及』をめぐる人事の紛糾に発展した」のでした。連合国による戦争責任の追及が進むと、朝日新聞社内で「急速に新聞の戦争責任を追及する論議が起こった」のです。やがてそれが「社内の大変革」へと展開します。

 紆余曲折の末、同年11月5日、臨時株主総会が開催され、本社の運営に必要な数名を残して、村山長挙社長以下の全役員が辞任し、村山社長と上野精一会長は社主となります。編集総長、東京・大阪・西部三本社の編集局長、論説主幹は総退陣しました。『社史』はこれに「創刊67年、空前の大改革」「戦争責任を明らかにした、この朝日の大改革……」と最大級の評価を与えています。

 しかし、社主制度を新設する資本と経営の分離は、元主筆の緒方がかねてから主張していた論で、「改革」はかえって社内体制を強化することでもありました。朝日は戦争で発行部数を倍増させていますが、はからずも今度は敗戦で経営体制を近代化させるのです。しかも社主に退いたはずの上野、村山は日本が独立を回復した6年後には取締役に復帰します。まさかGHQ対策ではないでしょうが、「戦争責任を明らかにした」と自画自賛するほどのものでしょうか。


▽抽象的・観念的な「戦争責任」

 問題は「新聞の戦争責任」の中身です。大新聞は何をもってみずからの「戦争責任」と認識してきたのでしょうか。

 マッカーサーが東京に進駐する前の8月23日、朝日新聞に「自らを罪するの弁」という社説が掲載されました。

「邦家をこの難局に立ち至らしめた責任は、同胞全体のわかつべきものであり、とくに吾人言論人の罪たるや容易ならぬものがある。吾人は一面、過去における吾人の責任を痛感し、いかにかしてこれを償わんと苦慮しつつ、他面、明日の言論界の雄健なる発展を望んでやまないものである」

 これが、日本の新聞が「新聞の戦争責任」に言及したはじめての記事だそうですが、表現が抽象的で、「責任」の具体的な中身は見えてきません。

 次いで、「朝日新聞の戦争責任を明確ならしめる」ための「社長、会長以下、重役総辞職」が伝えられた10月24日の朝刊には、「新聞の戦争責任清算」なる社説が掲載されています。

「近衛新体制運動以後、政府といちいち歩調をともにするのやむなきにいたり、大戦直接の原因の一をなす三国同盟の成立に際してすら、一言の批判、一臂(いっぴ)の反撃をも試み得なかった事実は、もとより承詔必謹の精神に基づくものであったとはいえ、顧みて忸怩(じくじ)たるものあり、痛恨まさに骨に徹するものありといっても過言ではない」

 厳正なる批判者としての新聞の使命を全うしなかったことを「責任」と認識しているようでもあり、戦争協力を問題にしているようでもあります。

「大改革」の2日後、終戦からほぼ3カ月を経た11月7日の朝日新聞には、「宣言 国民と共に立たん」が掲載されています。

「支那事変(日中戦争)勃発以来、大東亜戦争(太平洋戦争)終結にいたるまで、朝日新聞の果たしたる重要な役割にかんがみ、我らここに責任を国民の前に明らかにするとともに、新たなる機構と陣容をもって、新日本建設に全力を傾倒せんと期するものである」

『社史』によると、この新しい時代に向けたメッセージは、当時37歳、報道第一部次長の森恭三が起草しました。10月下旬の従業員大会で異議なしにそのまま認められ、のちに紙面化されたといいます。森はのちに論説主幹、論説顧問となり、戦後の朝日新聞の論説を、ひいては日本のジャーナリズムをリードします。

「宣言」には、「開戦より戦時中を通じ、幾多の制約があったとはいえ、真実の報道、厳正なる批判の重責を果たし得ず、またこの制約打破に微力、ついに敗戦にいたり、国民をして事態の進展の無知なるまま、今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せん」とあります。しかし、格調高い文章には違いないにしても、400字という分量の制約もあって、やはり追及は抽象的といわざるを得ません。何を具体的に問題にしているのでしょうか。

「宣言」がいう「責任」「罪」をあえて分析すると、(1)真実の報道をしなかった、(2)厳正なる批判者としての社会的使命を全うしなかった、(3)戦前・戦中の「制約」の打破に微力であった、(4)その結果として、国民に大きな惨禍をこうむらせた──の4点になるでしょうか。「戦争責任」がおよぶ時代的範囲を「支那事変勃発以来、大東亜戦争終結にいたるまで」に限っていることも注目すべきでしょう。満州事変は無関係、といいたいのでしょうか。

 こうしてみると、敗戦直後の「戦争責任」追及はどれも具体性がありません。「責任」を痛感せざるを得ない状況が実際、どのようにして発生したのか、がまったく説明されていません。

 こうした敗戦後の朝日新聞を、昭和9年から18年末まで主筆をつとめ、社を代表した緒方竹虎はどう見ていたのでしょうか。本人が書き残したものは寡聞にして知りませんが、葦津珍彦によると、当時、東久邇内閣の国務大臣をつとめたあと、公職追放の立場にあった緒方は、「大新聞が急激に時流に流されて、混乱した状況を呈していることに対して、非常に不満だった」(「故緒方竹虎大人の追想」)といいます。


◇2 神社新報の「終戦始末記」

▽「神道の社会的防衛者」の誕生

 一般には「侵略戦争」のもっとも狂信的推進者のようにみなされている神道人は、敗戦後、あの戦争とどのように向き合ったのでしょうか。

 戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦は、評論家の鶴見俊輔によるインタビューで、終戦当時を次のように回顧しています(鶴見俊輔編・解説『語りつぐ戦後史?』1969年)。

「私は……ドイツ観念論で反訳解釈した官製のような国体神道論が嫌で、当時の権力には協力できなかった。しかし心の中では、国運を賭して戦っている日本帝国の臣民として、何とか心の底から闘えるような精神状況になりたいと思い続けていました。これは苦しかった。広島への原爆投下を知ったときはじめて、『よしっ、これならおれも本気で戦えるぞ』と思いました。そしたら、すぐ終戦で、がっかりしました」

「占領について何か予見をもっておられましたか」という質問には、こう答えています。

「徹底的にアメリカ化されて、日本らしいものはすべて亡びるだろうと思っていました(斎藤吉久注。このインタビューは昭和43年に行われています。ちょうど小笠原返還協定が調印された時期に当たります)。ですから私は、全力を尽くして日本らしいものを守る、とくにアメリカ人の敵視している『国家神道』を守ると決断したのです」

「神道の社会的防衛者」を自任する神道思想家・葦津珍彦は、こうして敗戦によって生まれたのです。葦津が戦後、神社本庁設立、紀元節復活、靖国神社国家護持、剣璽御動座復古、元号法制定などに、中心的な役割を果たしたことはよく知られています。それは一見すれば、「戦前の復活」ですが、「国家神道」の復活を単純に企図したわけではありません。

 たとえば京都の上賀茂神社には江戸時代、300戸の社家、数百人の神職がいたといいます。それだけ広大な社領地などの経済基盤があり、盛大な葵祭は盤石な財政的裏づけと数多くの神領民の信仰に支えられていました。ところが、明治以後、神職は十数人に激減します。人材登用、門閥打破、旧弊一洗の旗印のもとに神官の世襲が廃止されるとともに、社領地が国有化され、各社の財政基盤は縮小されました。近代になって「国教的な地位」が与えられ、優遇されたのではなく、神社は政府の圧迫を受けたのです。そして敗戦後は国家との関係が絶たれました(阪本是丸『国家と宗教の間』)。

 翌21年2月、神宮奉斎会、大日本神祇会、皇典講究所の神社関係民間3団体が合併し、全国組織として宗教法人神社本庁が設立されます。機構づくりの中心には、葦津珍彦がいました。設立された神社本庁の初仕事は、国有境内地の払い下げ問題と神社新報の創刊でした。同年7月に「神社新報」が創刊され、葦津は編集主幹兼社長代行者となります。翌年には神社新報は株式会社として独立しました。


▽敗戦の謎に迫る

『神社新報五十年史 上』によると、葦津が率いる神社新報が最初に総力を挙げて取り組んだのは、敗戦という史上初めて経験する屈辱の歴史を解明することでした。

『葦津珍彦選集3』の「解説」によれば、先の大戦は「葦津が考えるもっともふさわしくない時期に、もっともふさわしくない形」で終わりました。愚かな政治を繰り返してはならないと痛感した葦津は、「今時大戦の経過と『愚かなる政治家の無定見』により、国体の基となる憲法の改訂までを経験せざるを得なくなった顛末(てんまつ)」を表そうと企図したといいます。

 敗戦後の混乱期で、しかも発刊直後のミニ新聞にしては、かなり本格的な取材が慎重に展開されました。取材対象となったのは、終戦時の首相・鈴木貫太郎、内閣書記官長・迫水久常(さこみず・ひさつね)、情報局総裁・下村海南、宮内大臣・石渡荘太郎、それと緒方などです。

 葦津が執筆責任者となり、22年10月にまとめられた「終戦始末記」には次のように記されています。

──日本の軍政府は終始、戦争目標を明確化せず、したがって終戦条件も確立されなかった。緒戦の戦果があまりに華々しかったため、東条内閣は幻惑され、戦争目標の限界を見失い、終戦への工作はまじめに考慮されなかった。

 沖縄戦の敗勢を見て、鈴木内閣ははじめて現実的終戦を考慮するようになる。「国体を護持して皇土を保衛する」という終戦目標が決定されたのは、20年6月8日の最高戦争指導会議(御前会議)である。7月26日のポツダム宣言で無条件降伏が勧告されると、政府部内は動揺する。宣言は「国体護持」を必ずしも保障せず、領土の割譲を公然と要求していた。前月の御前会議の決定とは明らかに相容れなかったが、閣議では宣言受諾が主張された。重臣・閣僚は戦意を急速に失いつつあった。

 2週間後、原爆が投下され、ソ連が参戦すると、6月の御前会議の決議に固執するものは一人もいない。もっとも強硬な陸相ですら、帝国領土の保全という条件を放棄していた。唯一、国体の護持、帝国の最小限度の独立保持だけが論議されるだけであった。もはや御前会議の決定は権威を失い、無制限無軌道に陥ろうとしていた。

 8月15日、終戦の詔書が公布された。詔書には「朕(ちん)は国体を護持し得て、爾(なんじ)臣民と共にあり」と明記されており、占領されることになっても「国体の護持」が守られたことは唯一の光明と理解された。しかし、重臣と政府が終戦前に「国体護持」のために尽力することははなはだ不徹底であり、連合国からは「国体護持」のための何らの保障も与えられてはいなかった。

 ポツダム宣言それ自体は国体の変革を要求するものではなかったが、政治の実際においては、宣言受諾と無条件降伏が「天皇の国家統治大権の変更」への道を開いた。

 連合国には「国体護持」を否定する主張が満ち満ちていた。鈴木内閣総辞職のあとに組閣された東久邇宮殿下に、近衛公は宣言受諾を決めた以上、天皇の権限など一切ふれずにすべて受諾したらいい、と助言した。鈴木首相も同じ考えであった。

 終戦の詔書の原案は、「朕は神器を奉じて爾(なんじ)臣民と共にあり」であったが、占領後に神器が奪われるおそれがあるという理由ですり替えられた。鈴木は降伏の条件すら明確にしないまま、いっさいを皇族に押しつけた──。

 たとえば、鈴木は、葦津が「閣下は終戦の日の最後の放送でいわれました。『帝国存立の根基たる──天皇の国家統治の大権には変更なきを確信するので、終戦を迎えた』と。その大権が新憲法においては根本的に変更されています」と問いかけると、「(きわめて当惑げに、当時の手帳をパラパラとめくりながら)私がそんなことを放送したかしらん。私は覚えがない。何か新聞が間違えたのではないか……」ととぼけています。その談話にはご丁寧に、本人が内容を確認したことを示す署名まであるというのですが……。


▽助言を惜しまなかった緒方

 古ぼけたタイプライターで作成され、活字はすりつぶされ、欠字だらけの「始末記」は公表されず、編集部の机に数十年間、眠り続けていました。一部が公表されたのは、昭和61年、終戦40年(創刊40周年)を期に出版された『新しい時代に向けて』が最初で、その後、平成8年7月に刊行された『神社新報五十年史 上』に第一章と第二章が、同年11月発行の『葦津珍彦選集3』に全編が集録されました。「戦後50年」が封印を解かせたのです。

 創刊間もない無名の新聞ながら、高度な取材を可能にしたのは、葦津の新聞人としての才能を育てた「恩師」緒方の協力です。緒方は「始末記」の編集を指導したばかりでなく、創刊当時の神社新報に忌憚(きたん)のない意見を語り、助言を惜しまなかったといいます。

 葦津が毎号のように新聞を届けると、緒方は紙面を隅から隅まで眺め、新聞の価値、社説と一般記事の関係、編集と経営、新聞人の個性と社会的責任など、豊富な体験をまじえた新聞論をゆったりと語りました。青年時代の回顧談は孫文、頭山満、犬養木堂、荒木貞夫、大杉栄、片山潜にまでおよんだといわれます。

「私が新報社の性格についての構想を立てるに際しては、緒方さんの新聞論に教えられたところが大きい」「新聞人の見識と教養の大切さということを教えられた」と葦津は書いています(前掲「故緒方竹虎大人の追想」)。

 葦津の神社新報が一つの主張を持ち、週刊紙という発行形態をとったのは、戦前・戦中の苦い経験を踏まえた緒方の勧めによるのでしょう。緒方は新聞人としての夢を葦津に託したのかもしれません。

 敗戦から60年が過ぎ去ったいまでは、「始末記」の内容にそれほど新鮮味はないのかもしれません。現代史の専門家ではない私には判断ができませんが、重要なことは、終戦当時、産声を上げたばかりの小新聞が真正面から敗戦の謎に迫り、大新聞の追随を許さない大きな成果を上げていた、という事実でしょう。


◇3 50年後の「新聞の戦争責任」

▽社論転換の理由

 朝日新聞は昭和11年に、アメリカのミズーリ大学から「反軍閥紙」として「新聞賞」の表彰を受けたことがあります。しかし、じつはすでに6年の満州事変勃発後、朝日新聞は社論を方向転換させていました。その背後には何があったのでしょうか。

 元朝日新聞記者の後藤孝夫は、『辛亥革命から満州事変へ──大阪朝日新聞と近代中国』(1987年)で、軍部と全面対決していた大阪朝日の論説の「変節」の謎に迫っています。

 南満州鉄道爆破事件を発端に、満州事変が勃発したのは9月18日の夜でした。リベラルな主張で論説をリードし、「普選と軍縮の高原」と呼ばれた編集局長の高原操は当初、「関東軍への疑惑をいだきながら、その拡大を最小限に食い止めるための苦心の論法を採りました。ところが、10日後の10月1日、「満蒙の独立 成功せば極東平和の新保障」という社説で「180度の転換が起こった」のです。

「吾人は……満州に独立国の生まれ出ることについては、歓迎こそすれ、反対すべき理由はないと信ずるものである」とする論説は、「統一中国実現への支援や中国民族主義の肯定という基本理念と、満州は中国の一部だという事実認識とを、すべて捨て去る」もので、「転換の画期となった」のでした。

 後藤は「高原論説の豹変は、いかにも唐突である。……みずからの信念を情勢の急変で手もなくかなぐり捨てるほど、軽薄かつ無節操だったのであろうか」と問いかけ、「変節」の背後に「右翼の恫喝」があったことを明らかにしました。

 1991年に刊行された『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』は、この「社論転換の決断」について詳述しています。それによると、満鉄線爆破の翌日には笹川良一が、その5日後には右翼の巨頭・内田良平が大阪朝日を訪ねてきたというのです。笹川は翌年、国粋大衆党を組織して総裁となります。内田は黒龍会の主幹であり、大日本生産党を結党したばかりでした。

 実態は不明ですが、「内田の背後には軍部がいた」「事変勃発後の参謀本部首脳会議が、クーデターを辞さぬ決意のもとに右翼へも総動員をかけた」と後藤は見ています。「大阪朝日を震駭させたのは、直接には軍部の威を借る内田の申し入れである。暴力に抗する方法なしというのが、村山社長変身の理由であろうが、いったん屈した以上、〈聖戦〉への協力を阻む歯止めはありようがなかった」というのです。

 10月12日の重役会は、「現在の軍部および軍事行動に対しては絶対非難批判を下さず、極力これを支持すべきことに決定」し、「社論を統一して国論をつくる大方針」は社内に徹底されます。

 その後、「32(昭和7)年12月19日に新聞・通信132社が発表した、『満州国』を正当化し、国際連盟の動きを批判する共同宣言」(連載「戦後50年 メディアの検証」)によって、朝日新聞ばかりではなく、日本の新聞会は戦争への坂道を転げ落ちていきます。

「言論逼迫の回想」(「中央公論」昭和27年1月号)に、緒方は、「米国などと違い、暴力の直接行動にはじつに弱い。……暴力団とのバカげた取り引きは、いま思い出してもけっして愉快な思い出ではない。……狡猾な暴力団は、新聞社の弱点は広告にありと、しきりに広告主を脅かし、……重役会は、ここにいたってわけもなく『無条件降伏』である。……『国士』との間に衝立のかげの取り引きをせねばならぬことは、思い出しても手の汚れる仕事であった」と書いています。

 また、「自らを語る」(戦争裁判準備資料)では、「新聞生活三十五年の間、ことに後半の十数年のアイだ、僕の朝日新聞代表としての仕事は、黒龍会その他右翼との抗争であった」と述べています。


▽扇動者としての大新聞

 だとすると、大新聞はやむなく変節させられた時代の犠牲者なのでしょうか。逆に自発的変節ではなかったのでしょうか。

 東京女子大学の塚本三夫は『実録侵略戦争と新聞』(1986年)に、それまでの幾多の戦争やそれを通じて強化された軍国主義とファシズムに対して、新聞がほとんど抵抗らしき抵抗をせず、批判らしい批判を展開しなかったばかりか、それにずるずると追従し、あるいは先回りしてそれに同調してきたことの結果として、『もの言えぬ』状況がつくり出されたのであるからには、そのような言論状況に関して、新聞自体が深く関わっていると見なければならない」と書いています。

 また、愛知大学の江口圭一は、『日本帝国主義史論──満州事変前後』(1975年)に、「治安立法や公教育の問題に劣らぬ比重をもって、新聞による排外熱・戦争熱の鼓吹の問題がこれに付加されねばならないと考える。朝毎両大紙を先頭とする新聞こそ、戦争に対する批判的否定的意識の形成を、きわめて積極的に抑止した。……大新聞は、とうてい言論抑圧の結果とはいいえない積極性・自発性・能動性をもって、この戦争に協力し、侵略に荷担した」と記しています。

 新聞はジャーナリズムであると同時にビジネスです。言論であると同時に商品です。いまも昔も新聞の販売競争ほど激烈なものはありません。そして戦争はつねに販売拡張の好機でした。ところが、手強い競争相手が出現しました。ラジオです。満州事変勃発の第一報をもたらしたのは、新聞の号外ではなく、ラジオでした。

 大新聞が圧倒的な資本力にものをいわせて大量の特派員を大陸に派遣し、自社機で原稿と写真を空輸する体制を編み出し、競争を激化させた背景には、商機を目前にして、速報性ではラジオに太刀打ちできない焦りがあったのでしょう。

 後藤は「在郷軍人を表面に立てた不買運動、国粋大衆党による嫌がらせ、これに便乗した他紙の中傷攻撃など」が大阪朝日を苦しめたと指摘します。高原らが軍部と戦っていたとき、下村海南副社長は「新聞経営の立場も考えてほしい」と苦情をいったといいます(前掲『辛亥革命から満州事変へ』)が、まさに軍部は新聞ビジネスの弱点をつき、新聞は企業の論理で失墜したのでしょう。

 新聞ジャーナリズムが外力によって曲筆を強いられるのは無念以外の何ものでもありませんが、新聞ビジネスには時の氏神となりました。「事変発生とともに朝日新聞の部数は増え続け、7年2月29日には『事変以来、今日にて東朝20万、大朝27万余部増加……』と記録される増加ぶりだった」(『社史』)のです。これが「無念の転針」の現実でした。

 緒方が「もし主張のための新聞を発行するのならば、週刊紙でなくては駄目だ……大新聞はまさにその反対である」(前掲「言論逼迫の回想」)と振り返るのはそこでしょう。大新聞は軍部の圧力に屈したというより、言論をカネで売ったということではないでしょうか。

 しかし、毎日新聞の前坂俊之が『言論死して国ついに亡ぶ──戦争と新聞、1936―1945』(1991年)で指摘しているように、戦後は「被害者意識をあまり、一般市民に対する新聞ジャーナリズムの加害性を忘却し、責任を転嫁しており、なぜ言論統制に屈したのか、自らの弱点に目をつぶっている」のではありませんか。

 敗戦からすでに半世紀以上が過ぎたいま、大新聞は自らの「戦争責任」をどのようにとらえているのでしょう。

 1994年に刊行された『朝日新聞社史 昭和戦後編』は「戦争責任の追及」について19ページにわたって記述していますが、軍部への追及や戦後の「朝日新聞の社内改革」の経過説明は詳しいものの、肝心の「新聞の戦争責任」の中身については、昭和20年の「宣言」を越えるものが見あたりません。

 また、長期連載「戦後50年 メディアの検証」は、最初に「新聞の戦争責任」を取り上げ、記者たちの苦悩、「宣言」が生まれた経緯について書きつづっていますが、何を「戦争責任」というのか、については必ずしも明確ではありません。

「戦争中、森自身はもちろん、朝日新聞を含む、すべての新聞が『赤裸々』に書いたり、戦争の情勢について事実を国民に伝えることはなかった。新聞は政府の言論統制にしばられていた。だが、それだけでなく、戦争への協力を読者に迫り、戦意をあおった。たとえば朝日新聞は『一億はすべて武装せよ』(43年3月)と書き、神風特攻隊を『身を捨て国を救う崇高極致の戦法』(44年10月)とたたえた」とあるばかりです。

『社史』や「メディアの検証」に共通するのは、「新聞の戦争責任」についての追及がどうしても抽象的で観念的なことです。「事実を国民に伝えることはなかった」という背景に何があるのか、どのような具体的事情があって、「戦争への協力を読者に迫り、戦意をあおった」のか、見えてきません。当時の報道統制をいくら説明しても理由にはならないでしょう。

 森の『私の朝日新聞社史』や連載「メディアの検証」は開戦後の「戦争協力」を問題にしていますが、戦時体制下で新聞が政府の戦争政策に協力したことの責任ではなくて、ジャーナリズムよりもビジネスを優先させて開戦を防ぎ得ず、軍部の圧力に屈して戦争の時代を開いたことの「責任」を、なぜ問わないのでしょうか。


▽「むかし陸軍、いま朝日」

 いまに至ってもなお、大新聞は本気であの戦争と向き合おうとしていないのではありませんか。そのことを実証するような「事件」さえ起きています。

 平成7年のことです。ある小出版社が、昭和16年の日米開戦から終戦まで、朝日新聞が戦争とその時代をどう伝えていたか、当時の記事をスクラップした単行本を出版しました。切り抜きを並べたようなお手軽ともいえる編集ですが、当時の紙面をそのまま読者に提供し、歴史を検証し、教訓を導き出そうとする意図は十分に理解できます。けれども、わずか数カ月後に「絶版」になりました。何があったのでしょうか。

 翌年、別の出版社から改訂・再編集のうえ「復刻」された単行本の「まえがき」によると、「記事が発行日から50年を経ていないため、著作権侵害に当たる」という朝日新聞の「抗議」に版元が折れ、「絶版」が決定されたといいます。

 朝日新聞に確認すると、広報室は、「昭和19年から20年の紙面や記事の転載および現代語訳」について「複製権、翻訳権を侵害する部分が57ページ分あった」ため「申し入れ」をしたところ、出版社から「回答」があり、(1)陳謝、(2)増刷しない、(3)在庫は出荷しない、(4)返品は再出荷しない、(5)返本部数の確認、(6)賠償金の支払い──などについて合意された、と説明しました。

 納得しがたいのは、「『大本営発表』や『読者欄』については、著作権はない」とするのは当然としても、朝日新聞が「昭和19年から20年」の記事、つまり「発行日から50年を経ていない」記事のすべてについて、著作権を主張していることです。

 当時は、17年2月に「日本新聞会」が設立されて、「日本新聞連盟」時代よりも情報統制はいちだんと強化され、新聞はいわば軍政府の宣伝機関と化していたのではないでしょうか。『朝日新聞社史』に記述されているように、19年7月に朝日新聞副社長を退き、小磯内閣の情報局総裁に就任した緒方の決断で、新聞会は翌20年3月に解散しますが、その後もなお「政府自ら全国の新聞を直接指導」し、「業界は業務面だけを管掌」する状況が続いたのではなかったでしょうか。

 著作権法を文字通り解釈すれば、朝日側の言い分は正しいかもしれませんが、新聞の編集権が奪われていた屈辱の時代について、著作権を堂々と主張する感覚が私には信じられません。

 出版者側はそこを追及すべきではなかったでしょうか。それとも、「申し入れ」を受け入れたのは、それほど確信的狙いのある出版ではなかったということでしょうか。ともに言論出版の世界に身を置きながら、言論で争うこともなく、すんなりと出版者側が「陳謝」し、賠償金を支払ったことは、じつに後味の悪い結果を招いたといえます。大新聞の暗い過去を隠蔽する格好になってしまったからです。

「小出版社は大新聞には太刀打ちできない。裁判で争うことなどとても無理」という声も聞かれますが、かつて言論統制に苦しめられたはずの大新聞はいま、逆の立場を演じているのではありませんか。「むかし陸軍、いま朝日」という批判が聞こえてきそうです。


▽おわりに

 政教分離裁判で最高裁がはじめて「違憲」判断を示した、平成9年4月の「愛媛玉串料訴訟」判決の翌日、朝日新聞は「厳格な政教分離規定が設けられた原点は、戦前から戦中にかけて『国家神道』が軍国主義の精神的支柱となり、あるいは一部の宗教団体が迫害されたことへの反省だったことを思い起こしたい」とする社説を掲げました。

 しかし、朝日新聞自身の戦前・戦中はどうだったのでしょうか。日中戦争勃発の翌年、国民の多くが「南京陥落」に沸いていた昭和13年春、大阪朝日新聞は陸海軍省の後援で、阪急西宮球場とその外園を会場にして、「支那事変聖戦博覧会」を主催しました。『社史 資料編』(1995年)によると、来観者は2カ月間でのべ145万人にのぼりました。

 縮刷版によると、4月1日の開会式に先立って、モーニング、軍服姿の約100名の名士が外園の杉木立のなかに謹設された靖国神社遥拝所の修祓式(しゅばつしき)に望みました。開会式後の祝宴野宴で、村山会長は「開会式のはじめにあたり、皆さんに靖国神社にお詣り願った。聖戦博を貫く精神は一に社頭にぬかずく気持ちにあります」と挨拶しています。

 いったいこの落差は何でしょうか。「国家神道」が軍国主義の精神的支柱だったのか、それとも「軍国主義」を新聞ビジネスがあおったのか。かつては靖国神社の遥拝所まで建ててイベントを主催し、戦後はこの連載で見てきたように自らの「戦争責任」を十分に追及しないまま、まるで他人事のように、大新聞はいま「国家神道」批判を展開しています。無節操であると同時に、あまりにも無責任ではありませんか。

 単行本化された『戦後50年 メディアの検証』(1996年)の「あとがき」で、前調査研究室長の柴田鉄治は「報道には絶えず検証が必要であり、検証につぐ検証を永遠に続けていくべき宿命を負っている」と書いていますが、同感です。

 大新聞は、「国家神道」に「戦争責任」を転嫁するのではなく、「新聞の戦争責任」とは何か、をあらためてきびしく自ら問い直すべきでしょう。ふたたび戦争の悲劇が引き起こされないために、多くの無辜の民が戦争の惨禍に巻き込まれないために、敗戦という屈辱の歴史が繰り返されないために、そして揺るぎない平和の構築のために……。

 蛇足ですが、単行本の『メディアの検証』はなぜ本社の出版局から刊行されなかったのでしょう。「売れない」という営業的判断があったとも伝え聞きますが、大赤字を覚悟してでも出版すべきではなかったでしょうか。意欲的企画だっただけにじつに残念に思うし、画竜点睛(がりょうてんせい)を欠くことになったのではありませんか。

 さて、葦津珍彦は平成4年6月にこの世を去りました。

 癌に冒され、外出が不自由になっていた最晩年のある日、葦津は人知れず靖国神社に参拝し、神門を背に記念の写真を撮りました。そして「葬儀用の遺影にしてくれ」と家族に頼んだといいます。若き日に父・耕次郎の命を受け、建築を手がけた堂々たる神門は生涯の誇りでした。

 最後の上京となったこのとき、葦津は何を祈ったのでしょう。昭和30年暮れに「恩師」緒方と交わした最後の会話は靖国神社についてで、緒方は国家援助が当然であることを力説したといいます。

 葦津は戦後、ほとんど半生をかけて「靖国神社国家護持」問題に取り組みました。青年時代に暴走する「皇軍」を激烈に批判し、日米開戦後、東条内閣の統制政策に徹底して抵抗した葦津にとって、それは「転向」ではありません。そのことは残された膨大な歴史研究、近代史批判が証明しています。慰霊と歴史の検証とは異なるのです。

 しかしながら、「恩師」の緒方が当然視し、「子弟」の葦津が宿願とした靖国神社の「国家護持」はいまだ実現されていません。
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被災地の神社復興を妨げる国家神道論──島薗進東大大学院教授の国家神道論を批判的に読む 6 [国家神道]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 被災地の神社復興を妨げる国家神道論
 ──島薗進東大大学院教授の国家神道論を批判的に読む 6
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 一昨日の3月30日、今上陛下は皇后陛下を伴われ、大震災の被災者約290人が避難している都内の東京武道館を訪れ、被災者を見舞われました。

 ジャンパー姿の陛下は、予定を上回る約50分の時間をかけ、すべてのグループに直接、声をかけられ、励まされました。

 被災者の1人は取材記者に「本当に心配してくださっている気持ちが伝わってきた」と語った、とメディアは伝えています。

「民の声を聞き、民の心を知る」のが天皇の伝統であり、天皇は国民の喜びのみならず、悲しみや憂いをも共有され、つねに「民安かれ」と祈り、国と民を一つのまとめようとされます。

 その祈りは危機のときにこそ発揮され、国民の感性にやさしく響き、国民の心を揺り動かし、復興への勇気と力を与えます。祭祀王なればこそでしょう。


▽1 神社には厳格に、他宗教にはゆるやかに

 さて、大震災に関して、一般メディアがあまり伝えないことの1つに、各地の神社の被災があります。上空から見た被災地の爪痕はGoogleの航空写真で分かりますが、たとえば宮城県神社庁の「お知らせブログ」を見ると、津波で社殿が流されてしまったというようなもっと生々しい窮状を知ることができます。

 以前、取材でお世話になった年配の神職さんは、「神社はムラのものだ」とくり返し語っていました。千年余の歴史を持つ古社であればなおのこと、土地の人々が生を受け継いできた証であり、であればこそ、心のよりどころともなります。

 その日本人の聖地が復興できるかどうか、障害となるのは、憲法が定める政教分離規定を日本の宗教伝統である神道・神社には厳格に、他宗教にはゆるやかに解釈・運用する二重基準です。

 2年前、メルマガで書いたことですが、新潟中越地震から5年も経つというのに、長岡市の蒼柴(あおし)神社の境内にある80基の灯籠が倒壊したままになっていると地元紙が伝えていました。

 同社は長岡藩主が建てた、地元のシンボルですが、不況で寄付が集まらない上に、文化財に指定されていないことから、県の基金が活用できないのでした。神社が鎮座する悠久山は大正時代に神社が無償で土地を提供し、市の公園となりましたが、逆に現代の行政機関は神社の窮状を救えずにいます。「政教分離の観点から神社への助成はできない」というわけです。

 しかし神社以外では、文化財にしていない宗教施設が公金を使って復興される事例もあります。

 たとえば長崎・新上五島町の江袋カトリック教会です。県内最古の木造教会が火災で焼失し、柱と壁を残すだけとなったのは4年前で、文化財未指定のため復興が危ぶまれましたが、2カ月後、町は全焼した教会を文化財に指定し、復興に弾みがつきました。

 教会を所有する長崎教区の大司教は、政教分離の厳格主義者として知られますが、行政の支援を遠慮したとは聞きません。


▽2 国家神道こそが軍国主義の源泉!?

 なぜ政教分離政策のダブルスタンダードが行われているのか、といえば、戦争の時代といわゆる国家神道のおぞましい歴史を引きずっているからです。もっと正確にいえば、戦前史の事実ではなくて歴史理解の問題です。

 当代随一の宗教学者・島薗進東大大学院教授は『国家神道と日本人』で、「第二次大戦後、GHQは日本の軍国主義や超国家主義は宗教のあり方と深く関わっていると考えた。とりわけ政教関係に大きな問題があったとして早急に手を打とうとした。日本人を無謀な侵略戦争に導いた宗教とイデオロギーの悪影響を取り除かなくてはならないとの判断だ。そこで神道指令と天皇の人間宣言が下された」と書いています。

「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の源泉であるとアメリカが本気で考えていたのは戦時中からであり、戦後ではありませんが、それはともかく、アメリカはそのような歴史理解を占領後期には取り下げています。ここが重要です。島薗教授の歴史論には占領史がすっぽりと抜けています。

 日本に「侵略戦争」を二度と起こさせないため、いわゆる神道指令を発し、天皇に「人間宣言」を出させたとするのなら、なぜ昭和24年に松平初代参議院議長の参議院葬は議長公邸で行われたのでしょうか。神道指令直後は駅の門松やしめ縄まで撤去させられたのに、です。

 アメリカはなぜ神道を敵視するようになったのか、そしてその敵視政策をなぜ簡単に取り下げたのか、アメリカ研究を深め、歴史の虫干しをする必要があります。そうでなければ、戦後最大の自然災害に見舞われている被災地の神社復興はそれだけ遠のくことになるでしょう。

 思い出してみてください。阪神大震災10年の追悼式典で、キリスト教音楽の最高傑作といわれる、モーツアルトの聖体賛歌「アベ・ベルム・コルプス」が流れたことを。これが日本の政教分離政策の現実なのです。


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近代とは何だったのか──島薗進東大大学院教授の国家神道論を批判的に読む 5 [国家神道]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 金閣寺・銀閣寺の住職を務める、臨済宗相国寺派の管長が大阪国税局の税務調査を受け、21年までの3年間で約2億円の申告漏れを指摘されていたことが判明したとメディアが伝えています。掛け軸などの揮毫料を個人で受け取り、申告していなかったのだそうです。
http://www.asahi.com/national/update/0217/OSK201102160212.html

 ご住職は「憲法九条を世界に輝かせたい」と訴える「九条の会」アピールに賛同する「宗教者九条の和」の呼びかけ人として知られます。

 宗教家ならずとも、人は誰しも平和を願います。けれども、9条を守れ、と声高に主張したがる宗教家たちに同調しにくいのは、護憲を唱えつつ、ご都合主義的な憲法のつまみ食いをしている、という疑いが晴れないからです。生臭い政治臭が強いからです。

「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と規定する、憲法20条3項の政教分離についても同様です。

 平成14年にブッシュ大統領が来日し、明治神宮に表敬参拝するとき、この「九条の和」の呼びかけ人の一人でもあるというカトリック司教の名前で、「参拝中止」が申し入れられました。「信教の自由・政教分離原則に違反する」というのです。

 結局、小泉首相は大統領といっしょに参拝することが見送られ、流鏑馬観覧にだけ同行することとなりました。

 ところが、その3年後、大統領が再来日し、金閣寺を参詣したとき、キリスト者たちは完黙しました。大統領は小泉首相に出迎えられ、住職の案内で境内をいっしょに散策し、金閣の本尊の前で首相から拝礼の作法を伝授され、合掌したのでした。

 憲法を守れ、という主張はけっこうですが、論理はまったく首尾一貫していないのです。

 そして、今度は「2億円の申告漏れ」です。憲法30条は国民の納税の義務をうたっていますが、報道によれば、住職様は「20年前から申告していなかった」そうです。このご時世、税金を納めるのにもひと苦労する国民は少なくないでしょうが、ご住職はすでに多額の修正申告をしたと伝えられます。

 宗教といえば、胡散臭い目で見られがちな昨今ですが、であればこそ、宗教家は世俗の法を語るのではなく、宗教の教えを説くべきです。何より胡散臭さは、言葉を弄さなくても、顔に現れます。

 さて、本文です。


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 近代とは何だったのか
 ──島薗進東大大学院教授の国家神道論を批判的に読む 5
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 日本を代表する宗教学者・島薗進東大大学院教授の『国家神道と日本人』(岩波新書)を批判的に読む作業を再開します。

 念のため、お断りしておきますが、当メルマガの目的は島薗先生の人格批判ではありません。先生は人間的にたいへん立派な方であり、尊敬しこそすれ、人格を攻撃するつもりはさらさらありません。

 ただ、学問研究については、客観的な批判があっていいだろうというのが私の考えです。「戦後唯一の神道思想家」といわれる葦津珍彦が生前、語っていたように、「学問はひとりでするものではない」からです。

 全知全能の人間などいるはずもなく、葦津が左翼人士の集まる「思想の科学」グループと交流をしたように、より高度な真理の追究のために、学問における紳士的で真剣な対話がいまこそ必要なときはない、と私は考えています。


◇1 これまでのおさらい

 当メルマガの批判を簡単におさらいすると、だいたい次の5点になろうかと思います。

1、敗戦を境として戦前・戦中期と戦後期とを分ける歴史理解は十分ではない。民族の宗教性は一朝一夕には変わり得ず、国家神道的な時代から無宗教の時代に変わったということはありえない。関東大震災の追悼儀礼は逆に無宗教的だったし、戦後の日本人は十分、宗教的である。

2、日本人の宗教の歴史について、キリスト教モデルで考えることには限界がある。自然発生的な日本の宗教伝統は、キリスト教と異なり、教義もなく、布教の概念もない。宣教師もいない。

3、先生がいうところの国家神道は、神道的というより、キリスト教的だったのではないか。明治維新以降、太陽暦をはじめ、キリスト教文化を積極的に取り入れたのが、伊勢神宮ほか近代の神社だった。

4、教育勅語を国家神道の教義と断定することは性急すぎる。神道には教義はない。礼拝(ミサ)もない。教育勅語に頭を垂れる儀礼は神道的な祈願とは異質のものである。キリスト教をモデルとして、神道論を展開する国家神道論に無理がある。

5、毎年年末になるとクリスマス・イルミネーションが各地で催されるが、官民一体のイベントもある。国営昭和記念公園でも行われている。国家神道は解体されていない、信教の自由や思想・言論の自由は保たれるべきだ、と主張しながら、その一方で、目の前で繰り広げられる「国家キリスト教」現象に反対しないのは二重基準になる。


◇2 キリスト教文化の受容

 先生は、「国家神道は神社とともに、いやそれ以上に学校で広められた」と書いています。「子供たちは教育勅語や修身科や歴史の授業を通して、『万世一系』の天皇統治を讃美する国体思想や天皇崇敬の教えに親しんでいった」というのです。

 国家神道を広めたこの学校こそ、近代そのものといえます。寺子屋とは違い、子供たちはセーラー服を着、ランドセルを背負い、板の間の教室で、机を並べ、椅子に腰掛けて授業を受けました。戦前もそうだったのか、学校のチャイムはイギリス・ウエストミンスター寺院の鐘がモチーフです。

 先生が教鞭を執る東大は明治以来、西洋医学、西洋建築のメッカであり続けています。東京大学医学部のルーツは、安政5(1858)年に江戸・お玉が池に設けられた種痘所です。明治の宮大工・木子清敬が12年間、東大で日本建築の講義を担当していたことがありますが、明治34(1901)年以後、日本建築を教える大学は日本にはありません。

 近代日本の学校は、日本の伝統文化を子供たちに教えるための機関ではありません。むしろ伝統を否定してきたといえます。

 先生がいみじくも書いている「天皇統治を讃美する」ことは、そもそも天皇的でも、神道的でもないのではありませんか。キリスト教なら神を讃美するでしょうが、天皇は本来、個人崇拝の対象ではないはずです。

 先生は国家神道を問うことが近代日本の宗教史に光を当てることだとおっしゃるのですが、そうではなくて、近代とは何か、近代主義とは何か、を問うことが、いわゆる国家神道問題を解くカギになるのだと私は思います。

 御真影や教育勅語に頭を垂れる儀礼がなぜ、どのようにして始まったのか、紀元節に歌を歌うことを文部当局はなぜ、どのような経緯で、始めたのか、を事実に基づいて、解明していくことが求められます。そのことによって、いわゆる国家神道なるものは、神道の伝統というより、キリスト教文化の受容であることが明瞭になると私は考えます。近代国家建設そのものがキリスト教文化の採用そのものだからです。

 今日、キリスト者たちが国家神道を毛嫌いするのは近親憎悪ではないのでしょうか。


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3 「国家神道」異聞 by 佐藤雉鳴 最終回 「国家神道」の正体 [国家神道]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 3 「国家神道」異聞 by 佐藤雉鳴
    最終回 「国家神道」の正体
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◇1 教育勅語解釈の変遷

 GHQが神道指令に「国家神道」と述べたものの教義は、日本の超国家主義・過激なる国家主義である。そして過激なる国家主義を表現したものには、教育勅語の「之(これ)を中外に施して悖(もと)らず」が共通の基盤として存在する。

 さまざまな資料から分かることは、GHQが日本人の教育勅語解釈に疑問を感じていたことである。疑問を解けないまでも、「斯(こ)の道」=「之」の主張する内容に変化があったことまでは突き止めている。残念ながら、当時の日本の要人たちよりは教育勅語をよく研究していたといってよいだろう。

「教育勅語異聞」〈http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/kyouikuchokugo.html〉に述べたとおり、教育勅語の「斯の道」の解釈には変遷がある。渙発(かんぱつ)当初からしばらくは、「斯の道」は忠孝等の「徳目」であった。それが日露戦争以降は「世界統一」などの要素が加わってくる。そして大正から終戦までは「建国の精神」「八紘一宇(はっこういちう)」による「世界統一」が「斯の道」であり「皇国の道」となったのである。

「之を中外に施して悖らず」の「之」=「斯の道」が「徳目」から「皇国の道」となり、「肇国(ちょうこく)の精神の顕現」とも言われ、我が国の「世界史的使命」とまでなったのである。一言でいうと、まさにそのことが「皇運扶翼(ふよく)」であった。

 教育勅語の「斯の道」とは、本来は「しらす」という意義の君徳とそれに対する臣民の忠孝などの徳目実践である。それゆえ「子孫臣民の倶(とも)に遵守(じゅんしゅ)すべき所」と続いているのである。したがって、この日露戦争以降からの「斯の道」の解釈の変遷は、最初から誤ったものだと言えるのである。


◇2 誤解を決定づけた井上哲次郎『勅語衍義』

 また、「中外」は「国の内外」ではない。「宮廷の内と外」、文脈から解釈すれば「全国民」である。したがって「中外に施して悖らず」とは、「全国民に示して(教えて)間違いがない」という意味である(「教育勅語異聞」〈http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/kyouikuchokugo.html〉)。「国内だけでなく、外国でとり行っても」は誤解である。そしてこのことは、現在でも訂正されていない。

 教育勅語渙発直後の明治23年11月7日の新聞「日本」は説明不足であった。「中外」は「宮廷の内と外」つまり「全国民」という意味であることを明確に示すべきだったろう。誤解を生じさせた可能性があるといわれても仕方がない。そして井上哲次郎『勅語衍義(えんぎ)』が誤解を決定的にした。

「斯の道」が「肇国の精神の顕現」となれば、記紀の文言が引用されるのは当然の成り行きである。昭和戦前の国家主義的といわれるものの文章に神がかり的な文言が多いのはこのためである。

◎「ルーズベルトに与ふる書」市丸海軍少将(靖国神社遊就館)

「畏(かしこ)くも日本天皇は、皇祖皇宗の大詔に明なる如く、養正(正義)、重暉(ちょうき)(明智)、積慶(せっけい)(仁慈)を三綱とする、八紘一宇の文字により表現せらるる皇謨(こうぼ)に基き、地球上のあらゆる人類は其の分に従ひ、其の郷土に於て、その生を享有せしめ、以て恒久的世界平和の確立を唯一念願さらるるに外ならず」

 田中智学『明治天皇勅教物がたり』にほぼ類似した文章であるが、この文章を正確に読むには、やはり教育勅語の「斯の道」の解釈の変遷と「中外」の誤解を知る必要があるだろう。「肇国の精神の顕現」となれば、神武天皇・天業恢弘(かいこう)東征の詔(みことのり)が引用されるのである。


◇3 神がかり的発言の心情的基礎

 竹山道雄『昭和の精神史』はこの時代を語って説得力のある好著である。このなかでグルー大使の興味ある話が紹介されている。「日本人は事実を知ることを許されていないのだから、この点は割引して考うべきかも知れないが、長い年月自由主義を標榜してきた早稲田大学の総長ともあろう理知的で学究的な人が、どうして次のようなたわごとを書くことができるのか、いささか了解に苦しむ」というものである。そしてそのたわごとと言われたものを孫引きすると次のとおりである。

「過日の近衛声明に力説されたように、現闘争における日本の目的は、些々(ささ)たる領土獲得ではない。これはむしろ中国の独立を防衛し、中国の主権を尊重しつつ、東亜に新秩序を建設せんとするにある。この堂々たる使命を達成せんとして、日本は歴史上最大の戦争を敢(あえ)てせざるをえなかった。世界のいずくにかかる崇高なる理想をもって戦われる戦争の実例が見出されるか? これこそ正しく聖戦と呼ばるべきである」

 しかし、この文章も驚くには至らない。大正6年10月、西田幾多郎は『思潮』において「日本的趣味が真に芸術的となるには、日本人の私有物ではなくて、公のものとならねばならぬ。古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる公道の一部でなければならぬ。……(中略)……我が国の文化に対して、唐人も高麗人も大和心になりぬべし、という自信をもってみたい」と、「日本的ということについて」で述べている。

 また、昭和18年にまとめられたとされている「世界新秩序の原理」は具体性を欠いているが、「我国の皇道には、八紘為宇(はっこういう)の世界形成の原理が含まれて居る」として、「今日の世界史的課題の解決が我国体の原理から与へられると云ってよい。英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に倣ふに至るであらう」と結んでいる。

 井上哲次郎は昭和17年、『釈明 教育勅語衍義』において、「我が日本には『惟神大道』が行はれて来て居って、而(しか)して今回の支那事変だの、大東亜戦争だの、いろいろに戦争が展開されて、大きな世界的関係を有するに至って、益々(ますます)日本が一種云ふべからざる神秘的な権威を有することが明かになって来たのは、『惟神大道』の然(しか)らしめるところであると吾々は信じて疑はない」と言い切っている。

 国家機関や軍人、政治家のみならず、学者・言論人も、総じて神がかり的発言をなしたものが多い。そしてその心情的な基礎には、教育勅語の「之を中外に施して悖らず」の誤った解釈が厳然たる事実として存在する。


◇4 利用された教育勅語

 最初に述べたとおり、我が国の法令上に国家神道を特定できるものは存在しない。むろん教義もない。GHQが日本軍とともに解体しようとした日本人の精神基盤を、「国家神道」という枠組みで考えようとしたことには、複雑な経緯があるはずである。

 日本人のさまざまな著作から判断して、天皇を現御神・現人神とする信仰があり、教育勅語の「之を中外に施して悖らず」が過激なる国家主義のもとになっている。「之」や「斯の道」のすべては解読できないが、教育勅語の超国家主義的解釈が存在する。GHQがこう考えて無理はない。

「教育勅語」は、『国体の本義』などの解説書によって公的解釈をつけられて、他国に対する日本の優越を主張し、日本国が神聖な使命を負っていることを説くものとして利用されたのである(『天皇と神道』)

 GHQ神道指令にいう「国家神道」は、日本の過激なる国家主義、超国家主義を解明しない限りその正体は分からない。「八紘を一宇とする肇国の大精神」(東條英機宣誓供述書)を過激なる国家主義とするか否かは、ここでは論じない。GHQがこれを「国家神道」の教義と呼ぶのは勝手である。しかし我が国がこの定義をそのまま受け入れたことは、近現代史の一大痛恨事である。

 GHQ神道指令にいう「国家神道」は、教育勅語と宣命の誤った解釈から発生した(彼らの謂う)日本の過激なる国家主義である。神道とはまったく関係がない。


☆ 結 び ☆

◇1 真意を知る日本人がいなかった

 ポツダム宣言・人権指令・神道指令、そして日本国憲法第20条と第89条にまで発展したGHQの宗教政策であるが、憲法改正はCIE(民間情報教育局)の任務ではなかったようである。

 しかしバンスは、最終草案完成まで民政局の討論に加わっている(『天皇と神道』)。バンスはもちろん、GHQには教育勅語解釈の誤りも宣命解釈の誤りも剔抉(てっけつ)できない。したがっていわゆる人間宣言についても、正確な解釈はできていない。その状態で日本国憲法草案はつくられたのである。

 しかし何より問題なのは、日本人の誰一人として教育勅語や新日本建設に関する詔書の真意を語る者がいなかったことである。GHQの占領下にあって、未曽有の制約があっただけではない。どちらについても、誤った解釈を疑わなかったのである。

 ウッダードによれば、神道についてバンスに影響を与えたのはホルトムだけではない。姉崎正治博士、加藤玄智博士、宮地直一博士、岸本英夫博士らも同様に大きな影響を及ぼしたとある。彼らの著作や現在までの状況を考えると、教育勅語と現御神に関する宣命を正しく解釈していた博士は一人もいない。ウッダードの『天皇と神道』にそれは明らかである。

 村上重良著『国家神道』は「国家神道」の教義は教育勅語で完成したとし、ホルトムは「国家神道」のもとには国家主義があり、その聖典は教育勅語であるとした。いずれも事実に基づいていない。

 GHQのいう「国家神道」を連想させる文言は、日露戦争以前の教育勅語解釈には見当たらない。最初から誤解された教育勅語ではあるが、「斯の道」の変遷と「中外」の誤解が相俟(あいま)って出来たのが、「国家神道」の教義といえば教義である。神道そのものとは関係がない。

 このことが理解されていれば、日本国憲法施行から今日まで何らかの議論になったはずである。終戦直後の侍従次長木下道雄は「新日本建設に関する詔書について一言」として明確なメッセージを残してくれている(『宮中見聞録』)。しかしその真意を語る者はなく、未だにあの詔書を人間宣言と謂(い)って憚(はばか)らない。

 教育勅語についても、誤った解釈を訂正しようとしない。上にあげた宗教学関係の学者たちについて云えば、彼らが井上毅『梧陰存稿』や本居宣長『続紀歴朝詔詞解』を理解していなかったことは、疑う余地がない。


◇2 これまでの靖国論議は無効

 我が国の政教問題は泥沼化して、今日に至っている。日本国憲法第20条と第89条の基となった神道指令にある「国家神道」の正体が、不明なままの議論だからである。

 事実に立脚していないこれまでの靖国論議は、すべて無効なのではないか。政教問題を論ずるには、まずこのGHQ神道指令にある「国家神道」の定義を正すことが優先されるべきではないか。

 昭和21年5月、GHQの強力な圧力の下、文部省は「新教育指針」において、「国家神道(神社神道)だけは……実際上は宗教たる性質をそなえ、しかも国民の宗教として国家と深く結びつき……神社神道以外の宗教(例えばキリスト教の如き)を、あたかも国事に有害であるかのように取り扱う人々すらあった」と書かされた。「実際上」ならその違法・逸脱行為者を問題とすべきであり、神道に責を負わせるべきものではないはずである。

 昭和24年4月、矢内原忠雄東大教授は「近代日本における宗教と民主主義」において、「事実上神社に国教的地位を認めながら……」と述べ、「日本の民主主義化のためには、国民の間に真正の基督教信仰が広く且つ深く植えつけられねばならない」と記している。

 昭和52年7月の「津地鎮祭裁判」における最高裁判決の追加反対意見(違憲判断)には、この矢内原論文を引用したことが明記されている。帝国憲法は制限付きの治教の自由であったとして、「事実上神社神道を国教的取扱いにした国家神道の体制が確立」していたとある。書いたのが矢内原忠雄と同じキリスト教徒の藤林益三裁判長であったことは、よく知られているところである。


◇3 根拠を示さない政教分離裁判

 平成9年4月、「愛媛玉ぐし料訴訟」における最高裁大法廷の判決文には、帝国憲法の信教の自由は制限付きであった、と前置きをして次のように記されていた。「国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し、厳しい迫害が加えられた」。

 平成16年の「福岡靖国判決」にもこの「事実上の国教」は採用され、「国家と神道は密接に結びつき、事実上国教的な地位を与えられ、これに対する信仰が強制され、また、一部の宗教団体に対して厳しい迫害が加えられた」として、ほとんど同じ文面で用いられている。

 平成22年1月の「北海道砂川市政教分離訴訟」最高裁判決においては──事実根拠が提示できないせいか──「国家神道」は二つの「補足意見」に用いられている。

「過去の我が国における国家神道下で他宗教が弾圧された現実の体験に鑑み」政教分離を制度として保障したのが憲法第89条の趣旨だ、というのがその一つである。もう一つは、帝国憲法が信教の自由を保障しながら「神社神道につき財政的支援を含めて事実上国教的取扱いをなし」たとして、日本国憲法第20条と第89条の背景を語っている。

 以上の判決文にある「事実上の国教」について、「国家神道」について、検証し得る根拠は一つも示されたことがない。これが我が国の政教分離裁判における判決文の実態である。

 平成16年の「福岡靖国判決」における被告は、小泉純一郎総理大臣と国の代表者野澤太三法務大臣であった。なぜ福岡地裁にたいし、「事実上の国教」や国家神道の客観的根拠を求めなかったのか。このままでは「歴史の刷り込み」で誤りが角質化してゆくばかりではないか。


◇4 誤りを垂れ流す無責任

 やはり「国家神道」を、事実に基づいて定義することが必要である。「教育勅語と宣命(せんみょう)解釈の誤り」というキーを挿入すれば、GHQのいう「国家神道」の教義は一瞬にして雲散霧消する。この手続きを経た上で、神道指令を克服し、国家としての祭祀の在り方を議論することが正しい政教論争となるのではないか。

 GHQ占領憲法といわれる日本国憲法の第98条にしたがって、教育勅語は他の教育に関する諸詔勅とともに排除された。したがって歴史的文献となった詔勅の解釈を正しても、ただそれだけという可能性がある。

 しかし政教分離裁判における「国家神道」の定義について、教育勅語の事実に立脚した解釈として採用されたなら、客観的で公的な解釈として後世に伝えられるのではないか。鬱陶(うっとう)しい政教分離訴訟ではあっても、「奇貨(きか)居(お)くべし」の「奇貨」となる可能性がある。

 それにしても、1世紀以上にわたって、教育勅語の誤った解釈を放置してきた我が国である。誤った解釈の上塗りのような雑文はいまでもときどき目にするが、教育勅語の事実に立脚した解釈を目指す研究は見つけられない。そして未だに、国民道徳協会の口語訳文を垂れ流している惨状がある。

 このオウン・ゴールに対する無責任さは一体どうしたものだろう。またいわゆる「人間宣言」と謂うことに対し、宣命解釈を基礎とする立場からの批判も語られることがない。

 教育勅語や宣命解釈の研究はじつに時事問題であり、また誤った解釈のままでは将来に大きな禍根(かこん)を残すことになる。参考資料は県立図書館などにそろっている。漢文調の文体を毛嫌いさえしなければ、誰にでも検証のできるものである。詔勅は歴代天皇から賜った私たち日本人の財産である。関連する詔勅についての誤った解釈を
正し、神道指令の真実を明らかにすべき秋がきた。このことはまさしく現代に生きる私たちに課せられた最も大きい義務なのではないか。(おわり。文中敬称略)


 ☆斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。当連載は今回をもって終わります。


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3 「国家神道」異聞 by 佐藤雉鳴 第2回 GHQの国家神道観 [国家神道]


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 3 「国家神道」異聞 by 佐藤雉鳴
    第2回 GHQの国家神道観
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◇1 D・C・ホルトムが与えた影響

 GHQの国家神道観は、D・C・ホルトム『日本と天皇と神道』(昭和25年)、W・P・ウッダード『天皇と神道』(昭和63年)が参考になる。

 まず『日本と天皇と神道』を読んでみよう。

 ──他国の国民、とくにいまや急速に日本の制圧と威力の支配の下に狩り立てられている極東諸国の国民にとって何よりも意味深いことは、この宗教的祭祀が神から授かった使命を担うという気持ちをもっていることである。これが国家神道である

 ホルトムのこの著作は、昭和25年に日本語訳として出版されたものである。そしてこの本の主要な部分を占める原著は、昭和18年に出版されていたとある。GHQへの影響力はもっとも大きい著作だったはずである。

 ただ、ホルトムが日本国家主義というものと神道をない交ぜにしていることはやむを得ないだろう。今日に至っても整理のついていない事柄だから、この時点で「国家神道」を読み解くことは至難の業である。

 ──すなわち彼らによれば、万世一系の皇室は神より出たものであるとの歴史的事実と、神に祀られている祖宗の霊が、国家と臣民とに永劫(えいごう)に変らぬ加護を垂れていることと、日本国民が比類なきその国民生活を他の国の人々にも施し、かようにして世界の民を救うという神聖な使命を担っていることの自覚とが、日本国家主義の本質的な基礎だというのである

 著作中のかずかずの引用文は、名前が違うだけでその内容はほとんど同じものである。そして必ずしも良質な言説とはいえないものが多いのである。ただ、大正から昭和戦前の言説を集めれば、上記のような文章にはなるだろう。皮相的にはこのとおり、といっても良い。しかし「世界の民を救うという神聖な使命」はどこから来たのだろう。


◇2 加藤玄智の謬論を疑いもなく引用

 ホルトムの研究に与えた加藤玄智らの影響は小さくない。その加藤玄智の『我が国体と神道』から、「天皇は昔から「あきつ神」(眼に見える神)、「あらひと神」(人間の姿をした神)および「あらみ神」(人間の姿をした大神)と呼ばれて来た」という説を何の疑いもなく引用している。

 当サイトの「人間宣言異聞」にも述べたところであるが、この加藤玄智の説は謬論である。現在確認できるものでは、明治26年発行、久米幹文著『続日本紀宣命略解』あたりから、現御神=天皇、という説が出てくるのである。本居宣長『続紀歴朝詔詞解』を解読できず、宣命(せんみょう)にある「現御神止(あきつみかみと)」の「止(と)」の意味が説明できなくなってしまったのである。

 原因は「しらす」という天皇統治の妙(たえ)なる日本語の意味が分からなくなったことにあることは、同じく「人間宣言異聞」に述べたところである。加藤玄智の「あきつ神」論は事実に基づいていない。

 ──まことに、日本の国体は世界に冠たる強みと優秀さとを持つ、との主張は、その当然の帰結として、日本国民以外の国民は、日本の勢力の下に置かれてこそ、はじめて恵まれた国民となる、との思想が生まれて来なければならないわけである

 帝国主義の時代にあって、勢力拡大の途上にある国家なら上記のようなことも語られるだろう。宗教的なことに関係なく議論されるものである。しかし当時の我が国の言説の多くに、「神がかり」的な文言が氾濫している。日本の急激な版図拡大の基にある精神力の出所は気になるところだろう。


◇3 教育勅語は儒教主義ではない

 ──この国家主義を再確認した聖典は教育勅語であって、これはあらゆる点から考えて、近代日本の歴史の生んだもっとも有名で重要な文書である

 さすがに知識人の皮相的な言説を集めただけでも、教育勅語に行きつくのは当然といえば当然である。文部省『国体の本義』は昭和12年であって、ここに至るまでの文書では教育勅語が気になるということは間違っていない。大日本帝国憲法に「世界の民を救うという神聖な使命」は述べられていないから、残るは教育勅語となるのだろう。

 ホルトムの教育勅語に対する見方は専門性を欠いている、と言わざるを得ない。教育勅語の官定解釈あるいは公定註釈書といわれた井上哲次郎『勅語衍義』が正しく教育勅語を解説できなかったことは、当サイト「教育勅語異聞」に述べたところである。

 教育勅語渙発時の文部大臣は芳川顕正であり、『勅語衍義(えんぎ)』には叙を寄せている。その芳川顕正の「教育勅語は四つの徳を基としている。仁義忠孝がこれである」を引用して、教育勅語を儒教を手本とした道徳と読み解いているのである。

 教育勅語が儒教主義などではないことは、教育勅語草案作成者である井上毅「梧陰存稿」にある。『勅語衍義』は明治天皇がその稿本にご不満であり、修正もされないまま、井上哲次郎の私著として出版されたものである。そして井上毅は文部大臣として『勅語衍義』を小学校修身書「検定不許」としたのである。仔細は「教育勅語異聞」にある。


◇4 天皇主権親授説という誤解

 『日本と天皇と神道』には見落とせない文章がある。

 ──もっとも日本の儒教には一大修正が加えられた。儒教は元来無能な統治者を追い出し、人民の選択によって新しい統治者を迎えることを認めている。ところが、天皇主権神授説を基礎とする日本の国体は、この儒教の教をもって天皇に対する叛逆(はんぎゃく)および神性の冒涜(ぼうとく)なりと断ずるとともに、侵すべからざる、また他をもって変えることのできない万世一系の天皇をもって、国家の中枢機関と定めている。

 支那の易姓革命と我が国の万世一系との比較から、「日本の儒教には一大修正が加えられた」というのである。この文章は幾重にも誤解が重なっているので分かりにくい。芳川顕正は教育勅語の内容を徳目のみととらえて、仁義忠孝を語っているのである。しかし教育勅語は徳目だけではない。「しらす」という意義の君徳がはじめに語られているのである。また仁義忠孝などは儒教の占有物にあらず、は井上毅の述べたところである。

 天皇主権神授説というのも誤りである。大日本帝国憲法に「主権」の文字はなく、神授説も我が国には存在しない。

「かの神勅のしるし有て、現に違はせ給はざるを以て、古伝説の、虚偽ならざることをも知べく」(本居宣長『玉くしげ』)とあるように、歴史を顧みるとまったくその通りだと思わざるを得ない古伝説がある、ということなのである。また古事記のような古伝説は、誰かが言い出したものではなく、したがって恣意性もないものである。

 教育勅語が儒教に基づくという誤り、天皇主権神授説という誤解、これらはホルトムだけではない。ホルトムが参考にした我が国著作の執筆者たちが、そもそも教育勅語を正しく解釈できなかったのである。


◇5 教育勅語を誤解していた日本の知識人

 そして教育勅語の「我が皇祖皇宗、国を肇(はじ)むること宏遠に」について、皇祖は初代天皇以前の祖先と神武天皇を指し、皇宗とは第二代から今上天皇までを指すとしている。このことから天照大神に直接触れているとし、それが教育勅語に宗教的文書としての性格を与えるものであり、そのため教育勅語は国家神道の主要な聖典となるのだと述べている。

 皇祖皇宗について、井上毅は「梧陰存稿」において、明確に皇祖を神武天皇とし、皇宗を第二代から先帝まで、としている。天照大神は「天しらす神」であり、「国しらす神」ではないということである。

「梧陰存稿」は明治28年に出版されているが、ホルトムは参考にしていなかっただろう。したがってホルトムはじつのところ、教育勅語がどういうものか理解していなかったと思われる。ただ、加藤弘之や井上哲次郎らのいわゆる国家主義者たちによるキリスト教と教育勅語は相容れないものだとする議論から、教育勅語を捉えていた感がある。

 ホルトムが日本国家主義をより分かりやすく把握し、教育勅語を重要視せざるを得なくなった基には、文部省『国体の本義』があるだろう。「惟神の国体に醇化」「教育に関する勅語」「皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業」「国体に基づく大道」がはじめに語られている。そしてホルトムは次のように述べているのである。


◇6 文部省『国体の本義』からGHQ神道指令へ

 ──日本文部省は1937年(昭和12年)、『国体の本義』と題するすばらしい本を刊行した。この本はいわゆる精神的基礎という観点から、日本国家を研究したものである。これは日本国家主義の宗教的基礎について、政府自身の古典見解を披瀝(ひれき)したものである。本書はわれわれがいま前に掲げた詔勅よりももっと徹底したものであって、祭祀と政治と教育との間の三重の相互関係を確立するものである

 そうしてホルトムは、日本の著作家たちが挙げている日本国家主義の本質的な基礎として、先に引用した文章を書いたのである。

 論点を整理すると次のとおりである。

 〈1〉万世一系の皇室は神より出たものである、との歴史的事実

 〈2〉祖宗の霊が、国家と臣民とに永劫に変らぬ加護を垂れていること

 〈3〉日本国民が比類なきその国民生活を他の国の人々にも施し、かようにして世界の民を救うという神聖な使命を担っていることの自覚

 これらは神道指令の「日本の支配を、以下に掲ぐる理由のもとに、他国民ないし他国民族に及ぼさんとする日本の使命を擁護し、あるいは正当化する教え、信仰、理論」にある3つの内容にほぼ類似している。

 日本の天皇・国民・領土が特殊なる起源を持つゆえに他国に優るという主義、といったものであるが、これにほぼ等しい。神道指令にいう国家神道は、やはり『日本と天皇と神道』を無視しては解明できない。


◇7 国家神道を定義できなかったGHQ

 ウッダードの『天皇と神道』は、副題に「GHQの宗教政策」とあるように、国家神道なるものを解体しようと実行した当時の経緯をまとめ、昭和47年に出版したものである。しかし、ここに国家神道の具体的定義は見当たらない。

 ──国体のカルトは、政府によって強制された教説(教義)、儀礼および行事のシステムであった。天皇と国家とは一つの不可分な有機的・形而上学的存在であり、天皇は伝統的な宗教的概念が過激派によって宗教的、政治的絶対の地位に転用された、すこぶる特異な意味での「神聖な存在」であるという考え方が、その中心思想になっていた

 この文章で国体のカルトは分からない。儀礼と行事はあっても政府によって強制された教説・教義は見当たらないからである。そして天皇と国家の来歴はもともと神秘的なものである。ここは特別問題になるところではない。「神聖な存在」とは大日本帝国憲法第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」よりは、加藤玄智や『国体の本義』にある、天皇=現御神・現人神からの連想だろう。

 ──それは国民道徳と愛国主義のカルトであって、「民族的優越感を基礎として、新しく調合された民族主義の宗教」であった

 これはホルトムらの言説を包含した見方であって、古来の日本にないものが新たに創造された、と見る考え方である。ただ、過激派が誰で、いつごろ「新しく調合」されたか、は明らかにしていない。

 この『天皇と神道』で理解できることは、GHQの民間情報教育局(CIE)が明確に国家神道を定義することに成功していなかったということである。


◇8 天皇の神格化は残してはならない

 ──ともあれ、11月の末近くに行われた話し合いの際に、明治天皇の「教育勅語」が話題にのぼった。ヘンダーソンが、一方では超国家主義および軍国主義を排除し、また一方では、日本の教育を民主化する責任を担うアメリカ軍の士官としての立場からこの問題をみると、問題は「教育勅語」自体にあるのではなかった。彼個人の意見としては、文書自体は差し支えないものであった

 CIE教育課長のヘンダーソンは、前田多門文部大臣とは旧知の間柄であった。前田多門の教育勅語解釈は『勅語衍義』にほぼ同じである。徳目としか捉えていない。その影響があったのかもしれないが、ヘンダーソンからすると、どう考えても教育勅語はいわば儒教的な倫理綱領である。英語訳を読んでいたとしても、おかしなところは見つけられないだろう。

 ──ヘンダーソンにとって困るのは、学校でのそれの取り扱いかた、とくに大勢の生徒を集めてその前で勅語を奉読する儀式であった。彼は、この儀式が「天皇の神格の教義を教え込む」という意図に出たものであることは疑いないと考えたのである

 日本および日本人が二度とアメリカに立ち向かうことのないよう、軍隊と日本人の精神を解体する必要がある。民主化という名前の下でその解体を行うには、天皇の神格化は残してはならないものだったろう。ホルトムらが国家神道の聖典とした教育勅語は、この観点から問題だとしたのである。


◇9 「神道を宣伝する」という意味

 また『天皇と神道』によれば、CIEの宗教課長であったバンスは、教育勅語について以下のように整理をしていた。

 ──(1)いかなる日本人にあっても、他人に向かって日本が膨張しなければならぬ使命を持つとか、あるいは、〈a〉祖先や家系ないしは独自の起源のために、天皇および国民が比類のない優越性を有し、〈b〉いわゆる神による独自の創造のために日本列島が他の国々よりも優れている、という理由によってその支配を他の諸国および国民におよぼす試みが正当化されると主張することは、愛国心の表現でもなければ天皇あるいは日本国家への奉仕にもならないことを明らかにすること

 これを読む限り特別なものではない。ホルトムや他のスタッフたちの感想をもとにまとめたもののようである。

 ──(2)神道の理論、学説、著述、あるいは教義を根拠として、日本がその他の諸国および諸国民に支配をおよぼす試みを正当化してきた人びと、あるいはそのような使命があると主張した人びと、ないしは歴代の天皇の詔勅、とりわけ1890(明治23)年の「教育勅語」をそのような使命の天皇による裁可の表現だと解釈した人びとは、すべて天皇および日本国家に迷惑をかけたものであることを明らかにすること

 明治の教育勅語に替えて新しい教育勅語という案があったことは周知の事実である。前田多門を父にもつ神谷美恵子の『遍歴』に非常に重要な文章がある。安倍能成文部大臣とダイクCIE局長との対談メモである。

 安倍大臣 新しい教育勅語とはどういうことをお考えなのか。

 ダイク 教育勅語としては、すでに明治大帝のものがあり、これは偉大な文書であると思うが、軍国主義者たちはこれを誤用した。また彼らに誤用されうるような点がこの勅語にはある。たとえば「之を中外に施してもとらず」という句のように、日本の影響を世界に及ぼす、というような箇所をもって神道を宣伝するというふうに、誤り伝えた

 安倍大臣はこれに対し、「之を中外に施してもとらず」の真意を説明できず、「天壌無窮の皇運を扶翼(ふよく)すべし」は問題になり得る、と答えている。しかしダイクはそのことに興味を示していない。

 ここに解明すべきポイントがある。「日本の影響を世界に及ぼす、というような箇所をもって神道を宣伝する」とはどういう意味か。そしてなぜここに神道が出てくるのだろう。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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3 「国家神道」異聞 (佐藤雉鳴) 第1回 神道指令の「国家神道」 [国家神道]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 3 「国家神道」異聞 (佐藤雉鳴)
    第1回 神道指令の「国家神道」
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◇1 正体不明の「国家神道」

「国家神道」というものの正体が分からないままに、今日に至っている。

 ここでいう「国家神道」とは、昭和20年12月15日のGHQ神道指令にある「国家神道」の意である。ポツダム宣言、神道指令を経て、日本国憲法第20条そして第89条が制定されている。なかでも神道指令は、「国家神道」というものを定義して、国家行政と神道を厳格に分離させようとしたものである。

 しかしこの「国家神道」なるものの正体はあいまいであり、国家の神社行政の中には、つまり神社関係法令のなかには、神社は非宗教、とするものしか見当たらない。むろん教義もない。

 法令をあげると、次のようなものである。

明治15年 神官教導職の兼補廃止(神官は非宗教家、府県社以下は別途)
明治33年 神社局設置(神社非宗教、神社のみ担当)
昭和15年 神祇院官制(神祇院の設置、神官職督励)

 教義がなく、法令上も「国家神道」を特定できるものがない状態で、「国家神道」という言葉のみがさまざまに用いられている。

 葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』は神道人としての見解であるが、一言でいえば国家神道なるものは神道の範囲内にはなかった、というものである。次の文章が簡潔にそれを表わしている。

「帝国政府の官制上、神社神道──戦後の用語では国家神道──の最高機関である神祇院は、非宗教であるのみでなく、思想論争などにはまったく関与しない、非イデオロギーに徹していたといい得る。これが明治以来のいわゆる国家神道の真相である」(引用に際して適宜編集した。以下同じ)


◇2 教理を明らかにしていない「神道指令」

 では、国家神道を規定したGHQ神道指令はどうだろうか。神道指令とは「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」というものである。

「神道の教理ならびに信仰を歪曲して日本国民を欺き、侵略戦争へ誘導するために意図された軍国主義ならびに過激なる国家主義的宣伝に利用するがごときことのふたたび起ることを防止する」

 神道の教理は明らかにされていない。

 ただ、次の文言は少し具体的に述べている。

「『軍国主義的ないし過激なる国家主義的イデオロギー』なる語は、日本の支配を以下に掲ぐる理由のもとに、他国民ないし他国民族に及ぼさんとする日本の使命を擁護し、あるいは正当化する教え、信仰、理論を包含するものである。
 (1)日本の天皇は、その家系、血統あるいは特殊なる起源のゆえに、他国の元首に優る、とする主義
 (2)日本の国民は、その家系、血統あるいは特殊なる起源のゆえに、他国民に優る、とする主義
 (3)日本の諸島は、神に起源を発するがゆえに、あるいは特殊なる起源を有するがゆえに、他国に優る、とする主義」

 ここにある「主義」が「国家神道」の思想ということだろう。しかし特殊なる起源という古伝説は、古い国ならどの国にもあって不思議はない。そして、これらがなぜ「過激なる国家主義的イデオロギー」となったのか、は説明されていない。


◇3 事実に基づく定義がない

 このGHQ神道指令にある「国家神道」を、事実に基づいて定義をした著作は見当たらない。

「国家神道」についての著作で代表的なものは、前述の葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』と村上重良『国家神道』である。あとはこの2冊の系統本かこれらに対する批判本しか見つけられない。そして「国家神道」の正体を、事実に基づいて明確に説明できた著作は1冊も存在しない。

 村上重良『国家神道』に次の文章がある。

「国家神道は、近代天皇制の国家権力の宗教的基礎であり、国家神道の教義は、帝国憲法と教育勅語によって完成した」

 伊藤博文『憲法義解』のどこを読んでも、「国家神道」の教義をもとに帝国憲法が制定された、とは書いていない。また教育勅語は、徳育に関する明治天皇のお言葉であって、草案作成者井上毅のいわゆる起草七原則にも、「国家神道」の教義は出てこない。そして少なくとも大日本帝国憲法や教育勅語の制定された明治22、23年までに、国家神道の教義があった、とする事実に基づく著作は発表されていない。


◇4 成果が上がらない「国家神道」研究

「ファシズムの時期における国家神道の軍事的侵略的教義の展開は、国家神道の本質の顕在化であった」(村上)

「国家神道」の軍事的侵略的教義について、その所在は示されていない。民間の思想家に軍事的侵略的教義を語る者はいたかもしれない。しかしそれと国家とは関係ない。また神道と軍事的侵略的教義の関係も見出せない。村上重良『国家神道』は事実に基づかない言説に満ちている。

 だが、たしかに文部省『国体の本義』には現御神(明神)・現人神としての天皇が述べられている。この神がかり的な文章をどう解読すれば良いのだろうか?

 明治維新から終戦までの我が国の神社行政を研究した著作はあるが、GHQ神道指令にいう「国家神道」の研究とは違うようである。いわば我が国の近現代神社行政史ともいうべきものである。「国家神道」という項目はあっても、ここから神道指令の「国家神道」を解明することには、どの著作も成功していない。

 また、葦津珍彦や村上重良らの著作を批判したものも出版されているが、論を論じたものがほとんどで、神道指令にいう「国家神道」の正体は、一向に明らかにされていない。

 我が国では、日本国憲法第20条と第89条を政教分離条項などとして、不毛な議論をしているのが実態である。その基となった神道指令の国家神道を明らかにせずして、まともな議論ができるはずはない。

 いったいなぜ、これほど永く国家神道研究の成果があがらなかったのだろうか?


◇5 事実を誤る「靖国訴訟」判決

 平成16年4月7日、福岡地方裁判所は、国および小泉純一郎総理大臣を被告とする、いわゆる靖国訴訟において、その判決を言い渡した。この判決文にはいくつかの疑問がある、と言わざるを得ない。

 判決文の認定事実、「靖国神社の沿革および性格」には次のような文章がある。

「(オ)国家神道に対しては事実上、国教的な地位が与えられ、キリスト教系の学校生徒が神社に参拝することを事実上強制されるなど、他の宗教に対する迫害が加えられた」

 文中に「事実上」とあるのは、法令上には無いということを自覚している、と読んでよいだろう。前述のように、専門家でも「国家神道」を特定する法令は見つけられないはずである。「事実上」の意味は、法を拡大解釈した現場担当役人による個別の過剰行為等を指している、としか思えない。それらの行為から国家神道の概念を語ることは、聞く者に誤解を生じさせるだろう。

 帝国憲法第28条「日本国民は安寧秩序を妨げず、および臣民たるの義務に背かざる限において、信教の自由を有す」を、「条件付き」というのは度が過ぎる。安寧秩序を妨げても良い、とするなら条項は必要ない。

 この文章は事実に基づかず、誤った国家神道本で得た知識の上に立ったものである。国家神道を定義するなら、法令・教義等を明らかにすべきである。


◇6 国は「国家神道」概念を認めている?

「(カ)昭和21年2月2日には、神祇院官制をはじめ、神社関係の全法令が廃止され、国家神道は制度上も消滅し、……靖国神社は……単立の宗教法人となった」

 この文章についても同様である。

 神祇院を設置し、神官職の督励を目指した神祇院官制は昭和15年のことである。そしてその神祇院は『官国幣社特殊神事調』『神社本義』等を発行したが、他にはさしたる成果もないまま廃止となったことは周知の事実である。

 この昭和15年の法令のみをもって、「国家神道」云々、は無理がある。葦津珍彦のいうとおり、神祇院は非宗教である。また、「国家神道は制度上も消滅」したというなら、その制度を少なくとも明治以降の法令上の事実を根拠として語るべきだろう。

 原告らの主張はともかく、被告らがこれらのことについて一つも反論していないことに疑問が残る。つまり国が、この事実に立脚しない「国家神道」の概念を認めているということになるからである。

 認定事実に誤りがあれば、この判決は有効とは言えないものとなる。訴えた者、訴えられた者、そして裁く者の言い分すべてが事実に立脚していないとしたら、この判決は無効となってもおかしくないものである。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

新段階に入った「国家神道」研究──気鋭の宗教学者・島薗進氏の参加で [国家神道]

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新段階に入った「国家神道」研究
 ──気鋭の宗教学者・島薗進氏の参加で
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 昨年平成12年の「神の国」騒動で、一部の政治家や宗教者、マスメディアなどが手厳しい天皇批判、神道批判を繰り返したことは記憶に新しい。

「明治政府は神道を事実上、国教とした」「神社は特別の保護を受けた」というような記事を大見出しで載せた新聞もある。戦後の実証的な近代宗教史研究はかなり進んでいるはずだが、一般社会の常識は非実証的、観念的で、千年一日のごとしというべきだろうか。

 けれどもとくに意外な感じがしたのは、むしろ神道批判の嵐の中で、神道人といわれる人たちからの反論が聞こえてこなかったことである。唯一の例外として一人気を吐いたのは、皇学館大学助教授の新田均氏であった。

 言論雑誌で「鎮守の森は泣いている」と森発言を批判した著名な仏教学者に対して、「近代神道史および日本の歴史そのもの、神話の本質を無視している」と噛みついた。「論考は五年前の雑誌論文の切り張りに過ぎず、近年、めざましい近代神道史研究の成果に目を通していない。非学問的な空想である」と舌鋒鋭く反論した。

 しかしそれなら、「近年、めざましい近代神道史研究の成果」とはどのようなものなのか。「国家神道」=近代日本宗教史研究の最前線を追ってみた。


▢「神道指令」以来の用法の混乱
▢村上三部作と葦津神道論の対立

 今日、「国家神道」研究の第一人者といえば、国学院大学教授・阪本是丸氏であろう。平成6(1994)年1月には『国家神道形成過程の研究』を岩波書店から出版した。テーマは、近代日本において「国家神道」が制度的にどのように形成されたのか。十数年にわたる地道な研究の成果である。

 阪本氏に「先生の著作をいちばんまともに、いちばん好意的にとらえて、書評を書いていたのは、東大の島薗(進)教授でしたね」ともちかけてみたのは、今年の正月である。島薗氏は、日本宗教学会発行の「宗教研究」平成六年十二月号で、「近代宗教制度史研究、神道史研究の画期的な成果として長く読みつがれる業績となるであろう」と阪本氏の著書をことのほか高く評価してゐる。

「その島薗さんが最近、国家神道研究を始めた。去年は学会発表もしている。今年の年賀状には、いろいろ教えてほしいが、お忙しいでしょうか、と書いてあった。一度、会ってみたら」

『現代救済宗教論』『時代のなかの新宗教』など、優れた新宗教研究で知られる宗教学者・宗教史学者の島薗氏が国家神道研究とは面白い。さっそく本郷キャンパスを訪ねた。

 いやでも歴史を感じさせずにはおかない法文二号館の、書物に埋まった天井の高い研究室で、島薗氏は戦後の近代神道史研究を振り返り、「これまでは宗教学者の村上重良氏が書き著した『岩波三部作』(『国家神道』『慰霊と招魂』『靖国神社』)の影響力が非常に大きく、社会的には村上説が『国家神道』理解のスタンダードと見なされてきた」と切り出した。

 村上氏は、「国家神道」を「神社神道」「皇室神道」「国体の教義」の三者からなるものととらえ、明治維新から敗戦に至るまで80年の長きにわたり、国家宗教として国民の生活意識のすみずみに至るまで浸透した、と広く理解した。そして、国家神道の下に教派神道や仏教、キリスト教など他の宗教が従属し、その内実を満たす役割を果たしたとみて、その総体を「国家神道体制」と名づけた。

 そう解説し、村上氏の研究の一定の妥当性を認めつつも、「しかし、村上氏の研究には穴がある」と島薗氏は指摘する。

「国家神道」の概念が曖昧で、なぜひとかたまりの概念で把握できるのか、その理由が示されていない。マルクス主義の影響から、先入観に基づいて神道を「悪玉」に仕立て上げるため、さまざまな要素を恣意的に寄せ集めたかのようにも見える。史料の読み方も大雑把であったという。

 これに対して、「国家神道」の概念を明確に規定したのが、葦津珍彦氏の『国家神道とは何だったのか』である、と島薗氏は理解する。

 近代日本の宗教や政治、思想を語るとき、もっとも頻繁に用いられ、近代神道批判の常套語とされたにもかかわらず、「国家神道」という用語は具体的に何を意味するか、明確でない。葦津氏は、「宗派神道や教派神道と区別された神道の一派」などと「神道指令」に明文化された定義に基づき、戦前の神社神道が国家と特別の結びつきを持っていたことに限定して「国家神道」の用語を狭く用い、「神道の一派」の歴史は悠久な日本史の一時期の現象に過ぎない、と主張した。

 けれども、村上氏に代表される狭義の用法と葦津氏に代表される広義の用法とが対立し、それぞれ互いにイデオロギー的、思想的立場があって、議論がかみ合わないままにきた。じつは「神道指令」自体が「国家神道」の概念について首尾一貫しておらず、狭義と広義の用法が混用されていたのだが、その混乱をそのまま引きずってきたのが戦後の学問的理解であった--と島薗氏は総括する。


▢坂本是丸氏の制度史研究が
▢明らかにした村上説の不備

 そこへ阪本是丸、新田均、山口輝臣(高知大学講師)という新しい研究者が現れた。それぞれの制度史研究、実証的な研究はさまざまな問題点を明らかにした。

 先述した「狭義の用法」「広義の用法」という図式を提起したのは新田氏で、自分の仕事は新田氏の研究に負うところが大きい、と島薗氏は語る。

 また阪本氏の『国家神道形成過程の研究』は、明治三十三年に内務省に神社局が設置され、社寺局が宗務局となり、神社と諸宗教の管轄が切り離され、「日本型政教分離」が成立して「国家神道」の制度が確立するまでの、あるがままの歴史について、基本的認識を与えてくれたと指摘する。

 村上氏の理解では、宮中祭祀と神社神道の結合によって構成された儀礼と制度の体系が「国家神道」であった。これを非宗教的な祭祀として、諸宗教の上に立つものと位置づけたのが明治十五年の神官教導職分離による「祭祀と宗教の分離」であって、ここに「国家神道」が成立した。近代日本国家は終始一貫して「国家神道」にテコ入れし、国民の国家への忠誠と献身とを引き出す道具として利用した──とされた。

 この村上氏の枠組みは正しいのか、と問いかけたのが阪本氏であると語り、島薗氏は次のように解説する。

 阪本氏の着眼がユニークなのは、たとえばその時々の神社政策の決定に関与した個人や勢力の思想や発想の違いを見逃さないところにある。

 一例を挙げれば、近代国家体制に見合う全国的な神社体制を築くため、官幣社と国幣社の統一を目指そうとする旧津和野藩の大国隆正派国学者、福羽美静ら神祇官・神祇省の立場と、律令的な宮廷秩序の伝統を重んじる式部寮の立場との違いが、「神社祭式」のあり方にどのように影響したのか、を阪本氏は追いかけている。

 阪本氏の研究から明らかになってくるのは、最初に神道イデオロギーで理論武装した権力者群がいて、明確な計画や展望を持ち、それによって「国家神道」やその制度体系が作りだされたのではなく、さまざまな個人や勢力の思惑の相互作用によって、紆余曲折の末にそれらが一応の形を整えたに過ぎないということである。

 全体的な構想が見えていたはずの井上毅らによる「日本型政教分離」の構図も、議会による神道の待遇改善要求の声に押され、変更されている。

 また、地域の神社とその神職は、近代国家に優遇され、ほしいままに影響力を行使し得たかのようにこれまで見なされてきたが、実際には逆に宗教活動を制限され、財政的にもけっして恵まれてはいなかったし、近代神道が華やかな道をたどったわけでもなかった。

 阪本氏はとくに「神社の非宗教化」に、近代神道の悲劇を見ようとする。近代化の趨勢と神道による国家秩序の形成、支へ合いながらも矛盾し合うふたつの力の狭間で、神社神道はもてあそばれ、引き裂かれていた。外圧に耐えながら国民統合を実現するためには仏教界の意思を無視できなかったから、神社が国家によってひたすら優遇されたわけでもなかった。

 阪本氏のまことにねばり強い、丹念な研究は、枠組み先行で、実証性に欠ける村上氏の「国家神道」理解の不備を浮き彫りにした。また一方では、国民国家論の研究が進展し、ナショナリズムと宗教的伝統とが結びついた「国家神道」が世界的に見てけっして特異なものではないことも分かってきた。

 西欧モデルを唯一の標準とする西洋中心主義も崩れ、村上説には一定の妥当性があるにしても、もう間に合わなくなった──と島薗氏は指摘する。


▢イデオロギー的「国家神道」論と
▢制度史研究の総合を目指したい

 島薗氏は「『国家神道』研究は新しい段階にきた」と考える。

「制度史・行政史によるアプローチ」と「思想・イデオロギー面からのアプローチ」があることを認め、これまで軽視されがちだった前者に力点を置いて阪本氏は研究を進めた。研究者としては研究対象を限定することは賢明であり、だからこそ大きな成果が得られたのだが、それなら「思想・イデオロギー的アプローチ」とはどのようなものなのか、「思想・イデオロギー的な面」をも含んだ「国家神道」の全体像とはどのようなものか、阪本氏の著書からは見えにくい。

 今後は「制度史・行政史的アプローチ」と「思想的・イデオロギー的アプローチ」とを総合することが求められる。

 島薗氏はそう語り、「国家神道」の広義の用法を鍛え直す道を選びたい。今後の課題として積み残されたイデオロギー的側面の研究を手がけたい、と意気込んでいる。

 それでは今後、どのような「国家神道」研究の展望が開かれてくるのか。島薗氏は、新たな「国家神道」概念を構築するうえでの重要なポイントを次のように指摘している。

 第1点は、「宗教」をとらえ直す広い枠組みの必要性。明治以来、「宗教」という概念のほかに「祭祀」「治教」「皇道」などの概念があった。神社=神道と狭くとらえずに、さまざまな集団に目を向けながら、広く「国家神道」を体系づけることが求められる。

 第2点は、学校教育の見直し。「国家神道」の宣布と受容に学校行事が果たした役割は決定的に重要である。なかでも「治教」の核心である教育勅語について見直すことが必要だ。靖国神社拝殿

 第3点は、明治以後の宗教史を、村上氏は4段階に分けて理解したが、もっとていねいに実証的に考察していく必要がある。

 第4点は、「国家神道」という皮袋に何を入れるのかというイデオロギー論。明治期には「宗教」という語を用いずに「国民道徳」「民族精神」「日本精神」を論じた宗教学者もゐる。神社に限定せずに、広く見渡していく必要がある。

 第5点は、比較文化の視点。ヨーロッパやイスラム世界と比較し、日本の近代を比較文化論的に相対化する視点も必要だ。

 最後に島薗氏は、「私の役割は整理屋。個別研究がもっと活気づくように交通整理をやりたい。海外の研究者と議論する場合にも役立つはずだ」とにこやかに語った。

 他方、五年前、「国学院大学大学院紀要」に、ある書評に反論する形で初めてのイデオロギー的アプローチによる論考を発表した阪本氏は、「島薗さんが国家神道の研究を始めると面白くなる」とエールを送る。昨年の学会では、「国家神道」概念の規定をめぐり、二人の間で質疑応答が交わされたともいう。

 今後、「国家神道」研究はどこへ進むのか。それによって、一般の近代史理解や神道理解はどこまで深まるのか。少なくとも袋小路に入った靖国問題や政教分離裁判に影響を与えることだけは間違いないだろう。


追伸 この記事は宗教専門紙「神社新報」平成13年2月12日号に掲載された拙文「新段階に入った国家神道研究」に若干の修正を加えたものです。

 島薗先生によると、先生が内外の学会で発表された「国家神道論」はヨーロッパなどでは論戦を巻き起こしたそうです。というのも、ヨーロッパではむしろ「国家神道」概念の有効性を疑い、神仏習合の歴史から神道を理解する研究者が多いからで、近代神道の全体構造に光を当てようとする島薗先生の姿勢は新鮮に受け止められているそうです。

 その後、島薗先生は『国家神道と日本』を著されました。私のメルマガでは「国家神道」「教育勅語」をめぐる、畏友・佐藤薙鳴氏との往復書簡を企画したほか、私による批判的な書評も載せました。このブログに転載してありますので、どうぞお読みください。

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