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なぜ八百万の神なのか──多神教文明成立の背景 [多神教文明]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 なぜ八百万の神なのか──多神教文明成立の背景
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 とかく歴史問題をめぐって、日中・日韓関係がぎくしゃくします。似たような議論が愚かにも、何度も繰り返されています。

 いつまで経っても解決できない大きな原因の1つは、前回のメルマガでも申し上げましたように、中国、韓国(北朝鮮も)が正義は1つであり、我こそが正義であるという一神教的な世界観にとらわれていることだと私は考えます。

 逆に日本は、相手には相手の言い分があると考え、尊重しようとします。だから、口癖のように、簡単に「ご免なさい」「すいません」と繰り返します。その結果、ますます解決は遠のきます。

 日本人は自分に正義があるように、相手にも正義がある。つまり、正義は複数あると考えます。神はけっして唯一ではなく、八百万(やおよろず)の神がいるという多神教的世界観です。日本では、同じ神社の境内に、山の神も海の神も稲作の神も同居しています。

 なぜ日本人は、中国や韓国・朝鮮とは異なり、あるいはヨーロッパやアメリカとは異なり、多神教的、多宗教的文明を築いてきたのでしょうか? なぜそれが可能だったのでしょうか?

 というわけで、平成9年3月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。なお、一部に加筆修正があります。

 それでは本文です。



 前回、本紙の連載で、日本の稲作の源流として注目される古代中国・長江文明についてご紹介した。

 5000年前、地球の寒冷化によって、長江(揚子江)流域に稲作を基盤とした古代文明が誕生した。メソポタミアと肩を並べる世界最古の文明である。

 3000年前にふたたび寒冷化が起こり、北方民族が南下し、中国大陸は春秋戦国時代の動乱期を迎えた。戦乱を避けて、稲作民族が周辺地域に散った。日本に水田稲作が伝来するのは、じつにこのときといわれる。

 その後、古墳時代までに100万人が渡来したともいわれるが、興味深いことに、先住の縄文人と混血同化し、「本土日本人」が成立する。混血同化は現代も続いている、と人類学者の埴原和郎東大教授は説明している(『日本人と日本文化の形成』など)。

 水田稲作の伝来は日本の宗教空間を変えずにはおかなかった。けれども、自然崇拝から稲作信仰へ、多神教から一神教へというような転換が起こったのか、というと、そうではない。世界でもまれなことに、縄文人が信じた大地の神と渡来人が崇めた稲作の神が並存したらしい。

 八百万の神々が共存する日本人の信仰は、弥生時代に始まったといえる。そのことはどんな意味を持つのか、世界の文明史から考えてみたい。


◇砂漠で生まれた一神教
◇大地の神から天候神へ

 東京大学の鈴木秀夫教授によると、一神教は5000年前、エジプトのナイル川のほとりで生まれたという(『森林の思考・砂漠の思考』)。

 このころ地球は寒冷化と乾燥化が並行して起きていた。緑に包まれていたサハラは砂漠化した。人々はナイル河畔に集中し、流民を安い労働力や奴隷とする古代エジプト文明が誕生する。

 乾燥化は森林を消滅させ、宗教を変えた。農耕生活で信じられていた地母神、雨の神など多神教の神々が脱落し、太陽神だけが残った。

 エジプトで唯一神が生まれたのに触発されて、イスラエルの民が一神教に移行する。砂漠の周辺で牧畜生活を送る彼らに大切なのは草であり、恵みの雨をもたらす嵐であった。嵐の神バールから唯一神ヤハウェが生まれる。モーゼの出エジプトの時代らしい。

 西洋の宗教は砂漠で生まれたが、東洋の宗教はインドの森林で成立した。

 3500年前、地球の乾燥化が進み、インダス文明が終焉する。その後、侵入したアーリア人は森林を火で焼き、農地を開いた。イスラエルの影響で、インドにも一神化が起こる。火の神、太陽神、モンスーンの神がその座を争った。

 造物主の概念も展開される。しかしアーリア人は万物の根源より、万物を生じさせる根本の力に注目し、ブラフマン(梵)と名付けた。独自の世界観を産んだのは森林である。日常を離れた瞑想と思索のなかで、アートマン(我)と梵とがひとつになる梵我一如の真理に到達する。

 灼熱の砂漠の思想はやがてユダヤ・キリスト教となり、他方、深い森林の黙想はバラモン教、仏教に展開した。かたや唯一絶対神、天地創造と終末を信じ、かたや世界の無始無終、万物流転を説く。西洋と東洋の文明の違いは、3500年前の乾燥化から生まれた、と鈴木教授は説明する。

 国際日本文化研究センターの安田喜憲教授は、3200年前ごろの気候変動を境に、西アジアでは天候をつかさどる嵐の神バールが力を増してくると指摘する(『文明と環境1』など)。

 遺跡にはヘビを殺すバール神の浮き彫りが見られるようになる。ヘビは大地の神で、バール神は左手に豊穣のシンボル、右手に斧や棍棒を持ち、蛇神と戦っている。

 大地の神から天候神への転換の背景には気候変動が影響しているという。気候が安定していた時代は大地の恵みに感謝すればよかった。しかし天候が不順になり、麦が稔らなくなると、天候神への祈りが捧げられる。バール神は新たな豊穣の神であった。

 奇しくもこの時期は、カナンの地にイスラエル人が居住を始めた時期と重なるようだ。バール神からヤハウェが生まれることはすでに触れた。『聖書』は悪魔(サタン)をヘビとして表現している。

 蛇神を殺すバール神は、日本の記紀神話に登場する、須佐之男命(すさのおのみこと)による八岐大蛇(やまたのおろち)退治を想起させる。安田教授は、須佐之男命は日本のバール神だと理解している(『文明と環境2』)が、何かつながりがあるのだろうか。


◇中国・長江の稲作民の神
◇縄文人の神と弥生人の神

 5000年前、中国・長江流域で成立した長江文明は、アジア稲作の源流といわれている。ところが下流域で5000年前に栄えた良渚(りょうしょ)文化は、4200年前に襲った大洪水によって突然、崩壊する。その後、遺民が黄河流域に建てたのが黄河文明だとされる。

 なぜ良渚文化は滅亡したのだろう。それほどすさまじい洪水だったのか。金沢大学の中村慎一教授は、文明の爛熟の結果、自滅したのだと説明する(『講座文明と環境5』)。

 洪水は稲作の予祝をつかさどる祭祀王の権威を失墜させる。災害の責任は祭祀王に帰せられ、王は殺され、秩序回復が図られた。しかし、何十年も続く洪水は神聖王権の基盤そのものを崩壊させたというのだ。

 長江文明を支えた稲作民は、どのような神を信じていたのだろうか?

 国際日本文化研究センターの徐朝龍助教授によると、殷(いん)から西周前期にかけて、長江上流に栄えた三星堆(さんせいたい)文明では、太陽信仰、神鳥崇拝を核にした呪術的な宗教が崇拝された、という(季刊『考古学』1996年8月)。

 アジア民俗学の萩原秀三郎先生によると、長江の稲作民の末裔がいまも湖南省などに住むミャオ族だという。

 ミャオ族は人口503万人(1982年)。文字はない。洪水で生き残った兄妹が人類の始祖となるという洪水神話を持ち、もちろん稲作を行い、高床式住居に住む。祖先祭や正月を大切にし、餅、おこわ、糯(もち)稲の酒を欠かさない。チガヤ信仰や鳥霊信仰が見られる(月刊「しにか」1993年8月号)。

 長江文明の遺民が建てたのが黄河文明だといわれるが、その最初の夏王朝の始祖となるのは、古聖王禹(う)である。

 江・河・淮・済の四瀆(とく。河川)を改修するなど、治水の大業を果たした。禹王が掘削したと伝えられる龍門は「登竜門」の故事で知られる。鬼神の祭りを厳修し、灌漑(かんがい)を広め、みずから耕し、天下を治めた。そして、のちに農業の神と崇められたという。

 夏・殷・周の皇帝は、神木を依り代(よりしろ)とする「社」を建立し、土地神と穀物の神を祀った。皇帝は社の前で、上帝の命を受けて即位したことを宣誓した。上帝を祀ることは天子の特権であった(水上静夫『中国古代王朝消滅の謎』)。

 また周では、籍田の儀礼が行われた。皇帝みずから田植えをしたのだ。

 3000年前、気候の寒冷化で北方民族が南下すると、中国大陸では春秋戦国の動乱期が始まる。「気候難民」や「ボートピープル」が大量に発生し、戦乱を避ける稲作民が周辺地域へと拡散する。稲作が拡大し、森に覆われた日本列島にも及んだ。

 そのころ縄文人は大地の神々を信じ、ヘビを大地の主と考えていたらしい。縄文土器にはヘビの文様が見られる。ところが、弥生時代にはヘビを追いかけるような文様が銅鐸(どうたく)などに現れるという。

 天理大学の金関恕教授によると、3世紀の南朝鮮・馬韓(百済)地方では、農耕神として鬼神が祀られたという(『弥生文化の研究8』)。鬼神は祖霊で、稲作とともに日本列島に伝えられた。穀倉を兼ねた神祠に男女一対の祖霊像が祀られ、木の鳥をあしらった背の高い竿(鳥杆。そと)を立てて、聖域とした。

 弥生時代後半から古墳時代に入ると、大地の神々を祀る信仰と同時に、天を祀る信仰が現れる。従来の祭祀具である銅鐸や銅剣は人里離れたところに埋葬されたままになり、代わって銅鏡が中心的な役割を果たすようになる、と安田教授は書いている。

 古社中の古社である奈良の大神神社(ややみわじんじゃ)は、大国主命が国づくりの際、御諸山(みもろやま。三輪山)に大物主神(おおものぬしのかみ)を祀られた社とされているが、興味深いのは箸墓伝説である。

 孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命は、いつも夜に通ってこられる夫の大物主神に、お顔を見せてほしいと願う。神は「翌朝、櫛箱に入っていよう。でも驚かないように」とお答えになった。

 姫が箱を開けるとヘビだったので驚く。神は恥じてお帰りになる。命は座り込んだ拍子に箸を陰部に突き刺して亡くなられる。奈良県桜井市の箸墓古墳は命の墓とされる。

 大物主神や須佐之男命など国つ神はヘビ信仰と関係がある、と安田教授はいう。そしてまさに、最古の巨大前方後円墳といわれる箸墓古墳が造られた時代から、天つ神と国つ神が同時に祀られると指摘する。神々の共存である。


◇天つ神と国つ神の統合
◇記紀に秘められた英知

 弥生後期から古墳時代にかけては、やはり気候が寒冷化した時代だという。

 中国大陸では洪水が多発し、反乱が激化する。そして、黄巾(こうきん)の乱で後漢は崩壊していく。老荘思想がおこり、仏典が翻訳されるのはこのころである。

 日本では、『魏志』倭人伝のいう「倭国大乱」の時代に相当する。

 大乱を収めたのは、卑弥呼の共立、邪馬台国の成立で、卑弥呼は鬼道に仕え、民衆を導いた。鬼道は中国の初期道教だとの説がある。魏の皇帝は卑弥呼に銅鏡100枚を贈った。道教と関係があるらしい。

 古墳寒冷期と呼ばれるこの時代は、世界的な民族移動の時期でもある。

 ヨーロッパではゲルマン民族の大移動が起こる。中国大陸では後漢末の大動乱で難民が大挙、南下した。朝鮮半島では洪水と豪雪が襲い、高句麗が南下、百済から日本列島に渡来人が安住の地を求めて、殺到する。

 たとえば、秦始皇帝の子孫とする秦氏(はたうじ)、後漢霊帝の子孫と称する漢氏(あやうじ)など、古代氏族の一大勢力は応神朝に渡来した。彼らが信じた今来神(いまきのかみ)も渡来する。秦氏は京都盆地などで水田開発を行い、のちに伏見稲荷大社や松尾大社を創建した。

 続く7世紀も寒冷期で、ヨーロッパがイスラム勢力によって席巻され、東アジアも激動の時代を迎えた。大化改新、百済滅亡、白村江(はくすきのえ)の戦い、大津遷都、壬申の乱はこのころに起こる。

 激動を乗り越えて、日本は律令時代を迎える。

 国家的事業である記紀の編纂は、壬申の乱後、天武天皇の詔(みことのり)によって始められた。既述したような国際的な環境のなかで、記紀神話は成立する。

 哲学者の上山春平京大教授は、記紀の特徴は中国の正史には見られない神代巻にあり、神代巻は氏姓制を打破し、律令的君主制の由来を説く国家哲学だと理解している(『天皇制の深層』)。神話は体系化され、各氏族の神は国家の神として秩序づけられた。

 たとえば、天地開闢(かいびゃく)で、まず天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が成り、次に皇祖・高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、出雲系の神産巣日神(かみむすびのかみ)が成り出る。皇祖神・天照大神(あまてらすおおかみ)と出雲系の須佐之男命は御姉弟とされている。神武天皇は天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子孫が国つ神の娘たちと婚姻を重ねたあとに生誕される。

 上山教授は、大化改新の前後に神々の序列に変動があるとし、「神祇革命」と呼んでいる。その仕掛け人は藤原不比等だという。

 しかし、だとすれば、なぜ藤原の氏神を最高神とする一神化を図らなかったのか? なぜ神々の共存が図られたのか? 西洋では一神化の過程で多神教の神々は駆逐され、古代ローマではキリスト教の浸透で祖先崇拝は廃れた。だが、日本はそうではない。ここに多神教的日本文明が古来、連綿と続いてきた大きな秘密がある。

 記紀神話によって神代にまで連なるとされる天皇は、一世一度の大嘗祭で、皇祖神・天照大神のみならず天神地祇を祀り、稲作民の米と畑作民の粟とを手ずから神前に供せられ、御直会でみずから召し上がる。皇位継承の国家的最重儀である。

 天皇はけっして皇祖神のみを祀るのではない。けっして米だけを供えられるのではないところに、神聖な祭祀に基づいて、八百万の神々と国と民を統合し、統治される天皇の祭り主としての本質が見えてくる。

 たとえば、折しもいま、閉山が伝えられる三池炭鉱では、戦後の御巡幸のとき、坑夫が赤旗を振って気勢を上げていた。しかし昭和天皇が御到着になると、シュプレヒコールは歓喜の万歳に変わったという。陛下はキャップ・ランプに白の坑内服姿で、地下深い坑道をめぐられた。祭り主の権威は民の分裂を救うのだ。

 世界には2000年も続く血生臭い宗教的抗争すらある。けれども日本にはそれがない。日本人は古代において、すでに社会の平和と秩序を保つ、宗教的、政治的英知を獲得していたのではないか?
タグ:多神教文明
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