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「コメ離れ」を導いた戦後の学校給食再開──GHQが主導した「日本人改造計画」!? [現代日本史]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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「コメ離れ」を導いた戦後の学校給食再開
──GHQが主導した「日本人改造計画」!?
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 先月29日付の読売新聞(電子版)が、昭和29年4月に創刊され、今年60年目を迎えた月刊誌「学校給食」(全国学校給食協会発行)について、取り上げています〈http://www.yomiuri.co.jp/otona/news/20130422-OYT8T00968.htm?from=osusume&google_editors_picks=true〉。

 記事には「戦後、登場したのが脱脂粉乳の『ミルク』。昭和30年代には『パン、ミルク、おかず』という組み合わせが一般的で、誌面でも多く掲載された」とありますが、戦後の学校給食再開には、知られざる、重苦しい歴史があります。

 ちょうど読売の記事が掲載された日の前日、政府主催の「主権回復の日」式典が両陛下のご臨席のもとで開かれました。

「日本国との平和条約の発効による我が国の完全な主権回復及び国際社会復帰60年の節目を記念し、主権回復・国際社会復帰を記念する式典を挙行します」というのが政府の説明でしたが、その重みは現代人には実感しにくいものです。

 主権回復の重みを実感させくれるのが、まさに学校給食の戦後史です。

 学校給食が再開されたのは、占領下、食糧不足に国民が苦しんでいた21年12月で、主権を失った敗戦国の悲哀を否が応でも実感させるものだったのでした。

 同時に、今後のTPP交渉に、忠告と教訓を与えるものです。

 というわけで、平成10年5月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。

 それでは本文です。


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 首都圏のある小学校で「好きな献立」を調査したら、シチュー、グラタン、スパゲッティが最上位を独占したという。

 何と驚いたことに、コメ中心の伝統料理はまったく顔を出さない。いまどきの小学生にとって、日本的なメニューはお呼びではないようだ。かつては定番であったカレーライスでさえ、とっくにトップの座を明け渡しているらしい。

 この子供たちが大人になったとき、「日本料理」の伝統もすっかり塗り替えられているのだろうか? 少なくとも、「おふくろの味」が芋の煮っ転がしやきんぴら牛蒡(ごぼう)でなくなっていることは、間違いないだろう。

 幼少期の食生活が一生の嗜好を決定づけるとすれば、戦後生まれが国民の半数以上を占める現代、日本人の食生活に多大な影響を与えている要因として、戦後、再開された学校給食は見逃せない。

 今日、深刻さを増すばかりの「コメ離れ」を導いた原因として、厳しい食糧不足の時代に、GHQ主導で進められた「パン給食」は見過ごせない。


◇ フーバー元大統領の進言
◇ ララ物資で再開した給食

『学校給食十五年史』によると、戦後しばらく「代用食」を使って、兵庫、島根、石川、富山などの約2000校で細々と続けられた学校給食は、食糧事情の悪化と食糧統制の強化で急速に中止に追い込まれていった。

 世界的な食糧不足のなかで、ダグラス・マッカーサーは「日本にもっと食糧を回せ」とアメリカ陸軍省に何度もかけ合っていた。日本政府は繰り返し農家にコメの供出の協力を呼びかけ、ガリオア資金(アメリカ政府が提出した占領地域救済資金)による食糧輸入で国民は糊口(ここう)を凌いでいた。

 給食再開に力があったのは、21年夏のハーバート・フーバー元アメリカ大統領(アンラ=国連救済復興機関代表)の来日調査だという。食糧メーデーで騒然としていた時代、フーバーは日本の子供たちの厳しい栄養状態に驚き、学校給食の早期再開をマッカーサーに進言したのである。

 日本経済新聞の岸康彦氏によると、フーバーは第1次世界大戦後、敗戦国ドイツで学校給食を復活させ、食糧援助による飢餓救済に貢献したことで知られるけれども、単なる慈善家ではなかった。戦後、深刻化したアメリカ小麦の余剰問題の解決と共産主義の浸透を防ぐという狙いを併せ持っていた。

 その経験が第2次大戦後も生かされたらしい(『食と農の戦後史』)。

 21年12月、東京・神奈川・千葉の3都県で276校、25万人の児童を対象にして、戦後の学校給食が再開される。いわゆる「神道指令」から約1年後、ちょうどクリスマス・イブの日であった。

 東京・麹町区(いまは千代田区)の永田町小学校で、GHQ公衆衛生福祉局長のクラフォード・サムス大佐、ララ(アメリカの宗教団体や社会事業団体などが組織したアジア救済連盟)代表のエスター・ローズ女史(のちの今上陛下の英語教師)、田中耕太郎文相(のちの最高裁長官)などが出席し、缶詰などララ物資約100トンの贈呈式が行われた。

 熱心なキリスト者として知られる田中文相は生徒たちのまえで「キリストの愛」に言及し、挨拶した。

「司令部の好意は単に物質的のものにとどまらず、精神的な意味において大切なものがある。物資の背後にキリスト教的愛の精神が存在することを見逃してはならない」

 1年前の「神道指令」は、「宗教を国家から分離すること」を目的として謳い、駅の門松や注連縄(しめなわ)さえ撤去させられたのに、文相はキリスト教の伝道師を演じていた。

 当初、サムス大佐は「コメと味噌汁の給食はできないか」と考えた。ところが「とても学童に回すコメはない」というのが食糧庁の返答であった。

 それで米飯給食の代わりに、旧日本軍の物資5000トンに横浜の倉庫にあったララ物資を加え、副食と脱脂粉乳を中心とした「補完給食」が試験的に実現したのである。

「補完給食」は翌22年には全国都市部、413万人に拡大される。

 同年1月、サムス大佐は記者会見でこう語っている。

「学徒は食糧事情のよいときでさえ、栄養失調に陥っている。コメを食べ過ぎ、コメの偏食者となっていて、摂取する栄養素の種類を欠いたからである」

「人類愛」に基づく給食の再開は米食を標的にしていたらしい。


◇ 無償放出小麦の深慮遠謀
◇ ガリオア資金の打ち切り

 主食のパンを加えた「完全給食」が大都市で、120万7000人を対象に始まるのは、25年2月のことである。

 GHQから無償放出された小麦粉を利用したのだが、『日本侵攻 アメリカ小麦戦略』の著者、NHKの高嶋光雪氏が指摘するように、「朝鮮戦争が勃発する寸前で、小麦が余りだしていたとき」というのが意味ありげである。

 アメリカは大戦中、食糧をフル生産して、連合国の兵糧をまかなった。戦後は生産が回復していない各国から援助の要請や商談が殺到したが、長くは続かない。農産物とくに小麦の余剰が問題化しつつあった。

 高嶋氏は、戦後の学校給食が最初からパン食奨励の意図があったとする見方には同意しない。初期においては、それほどの深慮遠謀を考えるゆとりはなかった。アメリカがパン食普及を意識し出したのは、朝鮮戦争勃発後という。

 目的はむろん余剰小麦の処理である。

 前掲『十五年史』も記されていることだが、高嶋氏は興味深い事実を指摘する。

 占領末期、パン給食を8大都市から全国市制地にまで拡大したいと考えていた文部省に対して、GHQは「今後とも完全給食を推進することを確約しなければ許可しがたい」と通告したのだ。

 パン給食はGHQの放出小麦粉が前提だから、やむなく文部省は25年10月、「日本政府は将来、これが育成に努力を払う」という閣議了解を取り付ける。

 その結果、翌26年2月から完全給食は全国都市部に拡大される。

 ところが、である。

 アメリカの小麦贈与は同年6月に打ち切られてしまう。青天の霹靂(へきれき)。いったい何があったのか?

 同年9月、サンフランシスコ講和条約が調印され、日本は独立を回復する。占領の終了でガリオア資金は根拠を失い、したがって小麦の贈与は停止されたのだ、と高嶋氏は指摘する。

 一部の有識者の間では予想されていた事態であったが、全国一斉の完全給食を開始させた矢先、小麦の贈与を止められ、文部省は慌てた。閣議了解でGHQに約束させているから、いまさら「完全給食」を撤回するわけにもいかない。

 結局、全額国庫負担で小麦とミルクをアメリカから購入し、給食を継続させる。

 国庫負担は26年度後半で小麦11億5000万円、ミルク13億5000万円に上った。さすがに大蔵省が強く反対し、「学校給食の最大の危機」(『十五年史』)を迎える。

 給食存続を望む世論に応えて、27年度からは小麦粉だけ半額国庫負担する形に変わるのだが、たちまち父兄の負担は激増し、このため全国3000校、210万人の児童が給食から離れていった。

 それにしても、ガリオア資金の打ち切りを、政府は見通せなかったのか? 「教育は継続」といわれるが、他力本願の「完全給食」に継続性を期待できるとは思えない。しかも28年には、政府はガリオア資金の返済を迫られる。「贈与」ではなかった。

 アメリカの「したたかさ」に対して、日本は「底抜けのお人好し」といわれても仕方あるまい。


◇ 学校給食法はパン食主体
◇ 「日本人改造計画」の先兵

 児童の給食離れは「学校給食の危機」を招いた。ところが、「神風」というべきか、あるいはその逆なのか、28年夏以降、大水害と台風と冷害が日本列島を襲う。「欠食児童」の救済が社会問題化し、学校給食の法制化が進展する。

「学校給食の普及充実」を目的とする「学校給食法」が成立するのは、29年5月である。条文には「小麦の売渡し」などの規定はあるが、「パン食奨励」とは書いていない。しかし事実として、パン食主体の学校給食が法的に確立される。

 高嶋氏の指摘を待つまでもなく、前年28(1953)年7月の朝鮮戦争の休戦によって、一気に深刻な小麦の余剰を抱えることになり、対策に頭を痛めていたアメリカが、この法律の成立を大歓迎したことはいうまでもないだろう。

 29年10月、日本政府は愛知揆一通産相を団長とする使節団をワシントンに送り込む。アメリカ議会でのPL480(余剰農産物処理法)の成立を受け、小麦などアメリカの余剰農産物を買い付ける交渉のためである。

 高嶋氏によると、「このときアメリカの腹は決まっていた」。「無料の小麦というエサをぶら下げて、太平洋の中から『粉食に慣れようとする年少』の胃袋を、釣り上げようと考えていた」というのである。

 28年は不作だったから、日本は今日明日の食糧が欲しかった。一方のアメリカには長期戦略が働いていた。

 30年5月に「余剰農産物協定」が日米で正式調印され、日本は1億ドルのアメリカ農産物を受け入れることになる。このうちの15パーセントに当たる55億円相当が学校給食用の小麦など現物贈与であった。

 日本はアメリカ農産物の市場拡大の最大の標的であり、学校のパン給食は長期戦略の主戦場とされたのである。

 それは「アメリカが贈与する小麦と脱脂粉乳は限定的に学校給食用とする」と決められたところに明確に現れている。その一方で、アメリカは小麦の無償供与を毎年4分の1ずつ減らしていくが、日本は18万5000トンの給食の規模を縮小してはならないという約束を飲まされる。

 32年7月、アメリカ農務省の代行機関であるオレゴン小麦栽培者連盟は、日本の全国学校給食会連合会と契約し、学校給食、というよりパン給食の農村普及事業を開始させる。学校給食法は義務法ではなく、奨励法であったから、農山村では普及が遅れていた。今度は給食を通して、パン食が地方にまで浸透していく。

 日本学校給食会の広報紙の古い記事を、高嶋氏が紹介している。32年10月、アメリカのベンソン農務長官は、埼玉県のある小学校を訪ね、こう挨拶する。

「日本の学校給食計画は……将来、大人になったときのために食生活改善の習慣を身につけておくという意味を持っています。……日米両国の貿易の促進にも役立つ」

 次に6年生の女の子が応える。

「アメリカから送っていただいた小麦とミルクの栄養のおかげで……丈夫な身体になりました。……私だけでなく、家の人たちも同じようにパンが好きになりました。これからも身体をますます鍛えて、アメリカのお友だちといっしょに平和な世界のために尽くしてゆきたい」

 義務教育の場で、「日本人改造計画」が推進され、学校給食は「米食民族の食習慣を小麦に変える」ためのアメリカ戦略の優等生に仕立て上げられている。

 アメリカに日本の食文化を破壊してやろうというような悪意や魂胆はないかもしれない。アメリカが官民を挙げて戦後の日本の飢餓を救おうとしたのは、キリスト教的善意に満ちている。

 実際、飢えは解消され、日本人の体位は向上した。けれども、アメリカの主導で進められたパン給食は日本人の伝統的食文化に打撃を与え、今日の「コメ離れ」を招来させたことはほとんど間違いない。

 400年前、「東洋の使徒」フランシスコ・ザビエルの来日によって、キリスト教が伝来し、華やかな南蛮文化がもたらされた一方で、異教世界にキリストの福音を伝えることは善であり、たとい強制によってでも改宗させることは神の御意思にかなうことと信じられた結果、キリシタン大名による領民への信仰の強制が進められ、神社仏閣が壊滅的に破壊されたのを想起させるのに十分だ。
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