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朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡───大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩み [葦津珍彦]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡
 ───大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩み
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 閣僚らの靖国神社参拝が国際的な議論を呼んでいますが、とりわけ朝日新聞は先週一週間のうちに3度も社説で取り上げているほど、じつに熱心です。

 23日は「靖国問題―なぜ火種をまくのか」、24日は「靖国問題―政治家は大局観を持て」、そして26日は「靖国と政治―静かな参拝のためには」という具合です。

 3本の社説に共通している主張は、近隣諸国との連携が必要とされているときなのだから、日本の政治家は自制に努めるべきだということでしょう。

 しかし、日本側がこれまで自己抑制してきたことが、逆に問題の根本的な解決を阻んできたのではないでしょうか?

 すでに指摘してきたように、朝日新聞の記事がそうであるように、基本的な事実関係すらねじ曲げられています。これでは火種は収まらず、大局は失われ、戦没者の静謐なる慰霊・追悼は到底、実現できません。

 たとえば、「戦後唯一の神道思想家」といわれた葦津珍彦は生前、「過去を陳謝するより、弁明すべきだ」と主張しています。

 私も同感です。この際、事実に基づいて、きちんと徹底的に反論すべきです。それなくして、本当の和解は得られません。ただ、それはアカデミズムとジャーナリズムの仕事です。

 というわけで、月刊「正論」平成11年4月号に掲載された拙文「朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡」を転載します。一部に加筆修正があります。



「戦後唯一の神道思想家」といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)は、昭和から平成への御代替わりを見定めるかのように、即位の礼から1年後の平成4年6月、82歳でこの世を去りました。
葦津珍彦3.jpg
 その葦津が人生の大半を過ごした古都・鎌倉の自宅に、昭和19年に朝鮮独立運動家・呂運亨(ヨ・ウニョン、???)から贈られた一幅の書が伝えられています。畳一畳ほどもある大きなもので、「万里相助」と墨字で書かれています。葦津は生前、これをときどき掲げては、力のこもった惚れ惚れするような行書体を静かに眺めていたといわれます。

 日本の神道といえば、戦前の大陸侵略を導いた狂信的イデオロギーのようにしばしば考えられています。戦後の神社本庁設立、紀元節復活、靖国神社国家護持運動などに中心的役割を果たした葦津を、「国家神道イデオローグ」と見なす人さえいます。

 だとすれば、青年期にキリスト教の洗礼を受け、やがて朝鮮独立運動に身を投じ、上海の大韓民国臨時政府樹立に加わり、第二次大戦終結後には建国準備委員会を組織し、「朝鮮人民共和国」の副主席ともなった建国運動の中心人物の書が、なぜ葦津家になければならないのでしょうか。

 その謎を解くことは、知られざる近代日韓(日朝)関係史を明らかにすることであると同時に、韓国歴代大統領の来日のたびに日本政府の「謝罪」が繰り返されてきた、戦後の異様な日韓外交への痛烈な批判ともなるでしょう。


◇1 国王高宗に貨幣制度改革を一任された大三輪長兵衛

 葦津珍彦は生涯、日韓関係に強い関心を寄せていたといわれますが、そのきっかけは祖父・磯夫の実兄で、珍彦の大伯父に当たる大三輪長兵衛なる人物を抜きにしては語れません。

 大三輪長兵衛は天保6(1835)年、葦津磯夫は同11年、福岡・筥崎宮(はこざきぐう)の社家の家系に生まれました。じつの兄弟であるのに姓が異なるのは、事情があって長兵衛が若き日に実家を飛び出したことなどによるようです。

 その後、家督は次男磯夫が継ぎました。磯夫は明治維新後、筥崎宮の祠掌(宮司)に就任し、神祇官復興、教育勅語起草に関わり、晩年は福岡県神職会長を務めるなど、神社界の重鎮として活躍します。

 他方、「分家」の立場に甘んじ、「本家」の弟を、そして明治の神道界を経済的に背後でよく支えたのが、経済人として身を立てる長兵衛でした。

 天性の経済的才覚に恵まれた長兵衛は長崎からさらに経済都市・大阪に転じ、海運貿易などでたちまち成功を収め、幕府町奉行の御用をつとめたほか、諸藩に接近しました。維新後は土佐の板垣退助や林有造らの立志社と交わり、のちに大隈内閣で逓信大臣となる林とはとくに深い親交を結んだといわれます(『葦津耕次郎追想録』、宮本又次『大阪商人太平記』、澤田修二「大三輪長兵衛の生涯」など)。

 特筆すべき業績は、まず明治11(1878)年に第五十八国立銀行を創立したことです。翌12年には日本初の手形交換所を開設し、会長となりました。14年には岩倉具視右大臣に商務局設置の必要を訴え、これが受け入れられて後年、農商務省が設置されます。20年には第五十八国立銀行の頭取となりました。

 活躍の場は経済界にとどまりません。15年には、大阪初の女学校ともいわれる私立大阪女学校を自費で創立します。

 長兵衛はまた政界に進出し、14年には大阪府会議員に当選、15年には府会副議長、20年には府会議長に選ばれ、22年2月の帝国憲法発布式には大阪府会議長の資格で参列します。同年7月には初代大阪市会議長に就任しました。31年夏の衆院選に当選し、34年までは帝国議会議員の地位にありました。

 朝鮮国王とはじめて接触したのは、24年4月です。日本駐在の朝鮮代理公使・李鶴圭が国王高宗の命令で訪ねてきました。以前、朝鮮人の商人数名が米の売買で大阪にやってきて、日本人にだまされ困窮していたのを長兵衛がすくったことがありました。そのお礼の訪問でした。

 このとき長兵衛は東洋の危機が迫っていることを論じ、日清韓は唇歯輔車の密接な関係にあることを力説します。李鶴圭は感激し共鳴しました。その夏、今度は公使金嘉鎮が朝鮮国王高宗の招請状をもってあらためて来訪し、朝鮮の貨幣制度改革への協力を要請します(『人物の解剖 当代の実業家』明治36年)。

 同年秋、長兵衛は高宗に拝謁し、従二品嘉善大夫の位を授けられ、交換署会弁に任命されて、貨幣改革の一切を任されます。日本の一民間人が朝鮮国王にこれほど重用された例はほかにはないでしょう。翌25年、長兵衛は大阪府会議長、市会議長、第五十八銀行頭取の職を辞し、日本外務省の了解を得て、ふたたび玄界灘を渡ります。決意のほどがうかがえます。

 けれども改革は進みませんでした。才知をねたみ、名声を汚そうとする者があり、高宗との連絡が滞ることが多く、計画は挫折します。新式機械を導入し、新貨を鋳造したのですが、広く流通するには至らなかったようです。26年、長兵衛は病を得て、帰国します。長兵衛は辞職を願い出ましたが、国王は認めませんでした(宮本又次『上方の研究5』など)。


◇2 日韓議定書締結を斡旋して高宗からねぎらいの言葉を受ける

 当時、朝鮮では大院君(高宗の父)と閔妃(ミンビ、高宗の妃)の骨肉の争いが、外国を巻き込んでやむことを知りませんでした。

 朝鮮を去るとき長兵衛は、遠からずして京城(いまのソウル)に異変がおこることを予言しましたが、果たして明治27(1854)年5月、東学党が乱をおこします。清国は朝鮮政府の要請を受けてただちに出兵、日本もこれに呼応して、日清の対立が表面化しました。

 すかさず長兵衛は伊藤博文の委嘱を受け、野党指導者の林有造と竹内綱(のちの首相吉田茂の実父)を同行して訪朝します。

「日本は政争に明け暮れ、対外戦争などできる状況にはない」と判断する高宗に対して、「戦争となれば国内は一致する」と説得し、日本との連携を強く勧めたようです。そして、長兵衛の予想は的中し、高宗の信頼は高まります。

 日清戦争に勝利した日本は、中国と従属関係にあった朝鮮の独立を清に認めさせたほか、遼東半島や台湾などの割譲を受けることになりましたが、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉で28年、遼東半島の放棄を余儀なくされます。

 この時期、長兵衛は京釜鉄道敷設権の獲得に奔走します。

 日清戦争中の27年8月に締結された日韓暫定合同条款では日本は鉄道・電信の特殊権益を認められていましたが、権利の独占に不満をもつアメリカやフランスが京城─仁川、京城─釜山間の敷設権を先に獲得していました。こうした状況下で鉄道敷設に苦心したのが竹内綱、尾崎三良そして長兵衛でした。

 34年6月に敷設された京釜鉄道株式会社(会長渋沢栄一)は2500万円の大資本を擁する当時日本随一の大企業で、長兵衛は尾崎、竹内らとともに取締役となります(『朝鮮鉄道史』昭和4年)。

 1897年(明治30)年2月、高宗は国号を「大韓帝国」と改め、皇帝として即位するのですが、長兵衛に対する信任は一貫して厚く、明治33年夏、京城竹洞の永嘉殿前に邸宅を下賜され、36年春には正二品資憲大夫、勲三等大極章を授与されるほどでした。

 晩年、病気がちであった長兵衛は明治36(1903)年10月、外務省政務局長・山座円次郎から「上京せよ」との電報を受け取ります。

 日露戦争の前夜です。国際情勢は風雲急を告げていました。小村寿太郎外相と山座局長に面会した長兵衛は、日韓議定書(攻守同盟)の締結斡旋を委嘱されます。長兵衛のほかに高宗を説得できる者はない、と政府は判断したようです。

 日韓議定書は日露開戦直後の37年2月に調印されます。翌3月、帰国を前にして皇帝に謁見した長兵衛は、ねぎらいの言葉を受けたといわれます。

 しかし、その後、日露戦争に日本が勝利したあと、38年11月に韓国を日本の保護国とする日韓協約(乙巳保護条約)が調印され、12月に韓国統監府が設置されます。外交権を奪われたことを不満とする皇帝は40年7月、オランダでの万国平和会議に密使を派遣し、条約の不当を訴えようとして失敗、退位します。

 こうした状況を最晩年の長兵衛はどのように見ていたのでしょうか。皇帝は最後まで長兵衛を信頼していたようですが……。

 41年1月、長兵衛は帰らぬ人となります。日本の皇室から祭祀料が下賜され、韓廷からは勲二等八卦章が授与されたといわれます。日韓併合の成立はその2年後です。


◇3 威圧政治の張本人に「日韓併合」反対を論じた葦津耕次郎

 日韓併合に反対を唱えたのが、磯夫の次男で、長兵衛の甥の葦津耕次郎です。

 耕次郎は明治11(1878)年、やはり福岡に生まれました。

 日清戦争の前夜、「日本の安泰を期するには満州・朝鮮に王国を作り、俺が国王になろう」と途方もないことを考え、中国語や韓国語を習い、大阪の伯父長兵衛のもとで簿記を学んだあと、19歳でドン・キホーテのごとく海を渡ります(『葦津耕司郎追想録』)。

 熱情家にして豪傑肌の耕次郎ですが、型破りの行動は父・磯夫そして伯父・長兵衛の威光や人脈なしには考えられません。

 耕次郎は終生、熱心な信仰家でしたが、神職として一生を送ることはなく、若くして事業家となります。ただし、採算確実な事業には見向きもせず、つねに前人未踏の事業を開拓することに情熱を傾けました。満州軍閥の張作霖を説得して鉱山業を興し、あるいは工務店経営者となり、台湾から檜を移入し、全国数百カ所にのぼる社寺を建設しました。

 伊藤博文が初代韓国統監となって赴任する道すがらといいますから、明治39年2月のことでしょうか。耕次郎は九州日報社長の福岡日南をともなって、下関の春帆楼に伊藤を訪ねます。

「陛下の思し召しである日韓両民族の融合親和のために、命がけで働いていただきたい。真の融合親和とは軍艦や大砲、金銭の物質的力でできあがるものではない。あくまで思想、信仰、倫理、道徳の一致という根本方針に立たなければ、朝鮮民族を信服させることはできない。そのためには、朝鮮二千万民族のあらゆる祖神を合祀する神社を建立し、あなたが祭主となって敬神崇祖の大道を教えられねばならない。これが明治大帝の大御心(おおみこころ)である」

 県知事や軍司令官など高位高官が居並ぶ席で、耕次郎は1時間余りにもわたって弁じ立て、一方、枢密顧問官を兼任する伊藤は20代の若者の言葉に座布団をおりて傾聴したといいますから驚きです。伊藤は耕次郎に賛同し、実行を約束しました。

 のちの朝鮮神宮の歴史がここに始まるのですが、伊藤は42年10月にハルピンで安重根の凶弾に倒れ、その後、具体化した朝鮮神宮は耕次郎の思いとはまったくかけ離れた、いわゆる強圧的「植民地支配」のシンボルとなります。

 43年8月、韓国が併合されます。寺内正毅総督を支えて、これを実現したのは、憲兵司令官・明石元二郎です。

 耕次郎は明石と親しい間柄にありました。葦津家には耕次郎宛の明石の手紙が幾通も残されているといわれます。熊本第六師団団長時代の明石を耕次郎が訪ねたことがあります。話題が日韓併合に移ると、耕次郎は威圧政治の張本人に向かって、「併合はわが政府の失態だ」と声を張り上げました。「なぜだ」と明石は色をなして反発します。

 耕次郎は論じ立てました。

「孟子にも、『これを取りて、燕の民喜べば、取るべし』とある。日韓併合で全道二千万の民が喜ぶのなら差し支えないが、日本の政治家は日本国民を喜ばせる方法さえ知っていない。ましてや韓国二千万の国民はみな悲憤慷慨(ひふんこうがい)している。にもかかわらず、あえてこれを併合し、わが国の馬鹿政治家に任せたぐらいでは、とても韓国の民を喜ばせ、信頼させることはできない」

 明石は反論します。

「理想としては君のいうとおりだが、いま日本は過渡期にある。徐々に整理していくほかはない」

 耕次郎はなおも声を励まし、「本末転倒だ。日本の政治が整わないうちに他国におよぶことは、他国を救うことができないばかりか、自国を滅ぼす」とふたたび批判しました。激論は終夜におよんだといわわれます。

 大正7(1918)年、台湾総督となった明石は、威圧政治の繰り返しを心配する耕次郎に、「今度は君の意見を尊重して、期待に背かないから」と語りました(『あし牙』)。

 珍彦が『葦津耕司郎追想録』の解説で指摘していることですが、これら耕次郎の談話が発表されたのが、「軍国主義」華やかなりし時代とされる昭和14(1939)年であることは注目されていいでしょう。大陸侵略の尖兵どころか、時代の良識が民族宗教である神道のなかに息づいていました。


◇4 日韓融和のため朝鮮神宮にまず朝鮮民族の祖神をまつれ

 併合から数代の総督を経て、斎藤実海軍大将が総督となり、朝鮮神宮設立のことが耕次郎の耳にも聞こえてきました。最初は年来の宿願が実現されることを喜んでいましたが、天照大神(あまてらすおおかみ)と明治天皇が祀られるというのです。

「それはよくない」と耕次郎は斎藤に面会を求め、「朝鮮神宮を設立するなら、まず第一に朝鮮人の祖神を祀るべきだ」と主張しました。

 しかし斎藤は、「手続きが完了していて、いまさらどうにもならない」というばかりでした。

 京城・南山に朝鮮神宮が鎮座するのは大正14(1925)年10月です。祭神問題の議論はその春から沸騰します。

 当時随一の神道思想家・今泉定助、靖国神社宮司・賀茂百樹、都城神社祠官・肥田景之ら神道人が「朝鮮の国土にゆかりの深い祖神を祀るべきだ」と主張し、とくに耕次郎はもっとも熱心に運動しました。

 北海道開拓をふくめて海外の神社に、地域を守られる「国魂神(くにたまのかみ)」を祀ることをしない「悪しき先例」となったのがこの朝鮮神宮だといわれます(『近代神社神道史』)。

 14年8月に耕次郎が書いた「朝鮮神宮に関する意見書」は、「皇祖および明治天皇を奉斎して、韓国建邦の神を無視するは人倫の常道を無視せる不道徳……必ず天罰と人怒を招来すべきものなり……日韓両民族乖離(かいり)反目の禍根(かこん)たるべし」と強い調子で批判しています(『あし牙』所収)。

 余談ですが、朝鮮神宮の遷座祭直前に、「朝鮮の始祖および建国功労者」をあわせ祀ることを望む内閣総理大臣宛の建議書を提出した耕司郎ら神道人有志のなかに、朝鮮神宮初代宮司・高松四郎の名があることは強調されるべきでしょう。

 鎮座式のあと、神道人と政府関係者が鋭く対立しました。肥田の仲介で朝鮮神宮に関する懇談会が開かれると、席上、斎藤総督はこう弁明したといわれます。

「朝鮮神宮に朝鮮人の祖先を祀らず、日本の神だけを祀ったことに対して、不穏な事件でも起こりはしないかと思っていたが、無事に鎮座式がすみ、幸いであった。朝鮮人の先祖とされる檀君の事蹟を学者に調べさせたが、実在の神かどうかが明確ではなかった。実在の神と判明すれば、時機を見て祀るつもりである。遷座の日、朝鮮人はみな浄衣を着て、神輿(みこし)を沿道に迎えた。われわれの誠意を知り、日本人と朝鮮神宮に対して悪意を抱いていないという証拠である」

 耕次郎が立ち上がりました。

「総督は恥を知る人なのか。政治とは何かを知る人なのか。学者というのは、耳目にふれるもの以上のことを考えられない馬鹿者である。学者の言葉に従って、どうして生きた政治ができるのか。数千万の朝鮮人が存在する以上、祖先が存在するのは動かせない事実だ。その祖神を大国魂(おおくにたま)として祀ればいいのだ。朝鮮政治の根本義として、ただちに祀るべきである」

 思い切った批判ですが、さらに続けて、耕次郎はこう語ります。

「総督は、神輿通過の際、朝鮮人が衣冠を改めて迎えたことをもって、日本の優位を誇るのか。朝鮮はわが国の保護下にある属国で、われわれより一等劣ると見ることができるかも知れないが、その朝鮮人でさえ、他国の祖を迎えるのに浄衣をまとった。他国の祖神を尊敬する道徳を知っている。この教訓が示すものさえ感じずに、安閑と眺めていたのか。恥を知る者のなすことではない」

 武断政治を排して、名総督と謳われたとされる斎藤は何と答えたのでしょうか、あるいは答え得たのでしょうか。

 耕次郎は最晩年の昭和11年春には、朝鮮の神社祭祀について宇垣一成総督に進言し、「目下、わが国の神社制度は支離滅裂、何ら精神の一貫するものはなく、且つその祭式は無精神にして虚礼虚儀に過ぎず、ともに範とすべきものなし」と厳しく断じています(『あし牙』)。

 しかし、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神が祀られることはその後もなく、ましてや日韓両民族の真の融和は実現されませんでした。そして昭和20(1945)年8月の日本の敗戦で、朝鮮神宮では祭神にお帰り願う前代未聞の昇神式が行われ、御神体は宮中に返還、社殿は解体焼却されました(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)。


◇5 呂運亨の独立工作に関与した葦津珍彦

 耕次郎の長男・珍彦は明治42(1909)年、福岡に生まれました。

 最初は無政府主義に傾倒する左翼的青年でしたが、父・耕次郎の姿を見て回心し、父親がおこした社寺工務店を引き継いで神社建築にたずさわる一方で、玄洋社の頭山満や神道思想家の今泉定助、朝日新聞主筆の緒方竹虎などと交わり、中国大陸での日本軍の行動や東条内閣の思想統制政策などを強烈に批判しました。

 珍彦は朝鮮独立論者でした。「日本が東洋の解放をうたい上げたところで、朝鮮の独立を認めず、『満州国』をロボット化したのでは国際的信用を得られないのは当然で、朝鮮独立を進めなければならない」と主張しました。

 有力者のなかにも案外、同調者が多かったのですが、若造の空想論は当然のことながら発禁され続けたといわれます(「日韓民族の不幸な歴史」など)。

 珍彦が朝鮮独立運動家の呂運亨を知るのは、昭和18(1943)年といわれます。神兵隊の前田虎雄が呂とともに訪ねてきて、今泉への取り次ぎを依頼したのです。

 珍彦によれば、呂運亨は大東亜戦争のさなか、政治路線の大胆な転換を考えたといいます。「存亡の危機に立つ日本が必要としている和平工作を助け、日本に朝鮮の独立を承認させよう」ともくろみ、日本政府および軍の中枢とも交渉したのですが、そのためには朝鮮総督・小磯国昭との会談は不可欠でした。小磯が精神的な師と仰いだのが、当時随一の神道思想家・今泉です。

 珍彦は呂を案内し、今泉を訪問しました。「日本はアジア解放の大胆な政策を断行し、総督政治の大転換を図るべきだ」と呂が力説し、前田は「日本権力の走狗のような親日家ではなく、呂と協力すべきだ」と訴えました。交渉は数回におよびました。

 東条内閣の厳しい軍政下では、呂の提案は困難であり、危険でした。一歩誤れば、敬神尊皇の師としての今泉の晩年を汚すことにもなりかねません。呂の人脈はモスクワの共産主義者や重慶の国民党政権ともつながっています。利敵の危険も否めません。

 今泉は熟慮し、「どうするか」と珍彦に問いました。珍彦は小磯への保証連絡を願いました。今泉が覚悟を決めます。珍彦は感激しながら、小磯宛の長い紹介状の文案を書き、今泉が無修正で清書したのでした。

 呂は喜び勇んで京城に向かいましたが、関釜連絡船で朝鮮軍憲兵に捕らえられます。しかし、小磯は最高の賓客として迎える準備をしていました。総督官邸で小磯は数時間にわたり、呂の論に傾聴しました。けれども会談が終わると、憲兵はそのまま呂を連行し、治安維持法違反で地下室に投げ込みます。当時、朝鮮総督と朝鮮軍司令官は同等の権限をもっていたのです。

 今泉らは救出に努めましたが、ことは進みません。正式に起訴され、朝鮮軍から総督府へ事件が回付されると、今度は小磯がすぐさま釈放します。しかし、それまでに一年が経っており、戦争はすでに最終局面を迎えていました。

 珍彦は釈放されたばかりの呂運亨を、京城の朝鮮ホテルに訪ねました。19年夏に東条内閣が倒れたあとのことで、日本の敗戦と朝鮮の独立を確信する呂は、ホテルの一室で長時間、力説しました。

「敗戦となれば、対日弾圧が徹底され、日本は諸君の想像以上の存亡の危機に立つ。他方、朝鮮は形式上は独立するが、建国の人材に乏しく、極東の弱小国にとどまる。この明白な極東情勢こそ、日韓両民族が相助け、相和すべき天機だ。私はそのために全力を尽くす」

 今泉や前田らの友情に感銘する呂は、「自分の志を日本の支援者に伝えてほしい」と語って、珍彦に「万里相助」の書を与えたのでした。

 20年8月、日本はついに降伏します。京城の総督府はただちに呂運亨が指導する建国準備委員会に引き渡されましたが、2年後の夏、呂は李承晩派によって暗殺されます。

 珍彦は呂運亨を沈才沈勇の革命的政治家として畏敬しました。敵国たる日本人とも深く交わって、世界の大動乱に対して、「日本にも信ずべき友あり」として、韓国のため、アジアのために戦い抜いた、と最高の評価を与えています(『今泉定助先生研究全集1』など)。

 およそ20年後、国交正常化から数カ月後の41年春、珍彦は韓国を訪問しました。朝鮮ホテルは呂運亨と語らった当時のままでした。1週間後のソウル滞在中、珍彦は大学教授や学生など30数名の韓国人と10時間余り討論しました。その印象を「韓国紀行」(『葦津珍彦選集2』所収)などに書いています。

 独立後の韓国は李承晩政権以来の徹底した反日教育で、「日本人ほど悪い奴はない」という国民意識に固まっていました。

 学生たちが自国の歴史に切々たる愛情を持っているのは好ましかったのですが、知識は明らかに偏っていました。近代の日韓対立史は詳しいものの、李朝内部の対立関係の知識は貧しいのです。抗日烈士の活躍には詳しい反面、反日戦線内の思想対決はよく知りません。憎むべき日本人の存在については詳細な知識を持ちながら、好ましい日本人の存在は知りませんでした。

 それは現代のハングル教育の結果でもありました。ハングルの教科書で歴史を学ぶ学生たちは、漢字の多い独立以前の歴史文書が読めないのでした。多くの知識が不足するのは当然だった、と珍彦は述べています。

 珍彦がもっとも畏敬する開化派独立党の指導者・金玉均については、日本に欺かれて反乱(甲申の変)をおこして失敗、日本に亡命したが見捨てられ、上海で惨殺された、と学生たちは日本人の背信と冷淡を語りましたが、終始、同情と支援を惜しまなかった福沢諭吉や頭山満など日本の民間支援者の存在は知りませんでした。

 日韓併合に対する恨みは深いけれども、それは伊藤博文に集中していました。抗日烈士・安重根を英雄視するあまり、伊藤以上の弾圧者である山県有朋、桂太郎、寺内正毅、明石元二郎らは過小評価されていました。

「諸君の歴史観では、よい日本人は一人もいなかったことにならないか」

 珍彦が問いかけると、学生たちは黙ったままでした。

 珍彦が語りました。

 ──諸君は、日本人を信用できないとする史料ばかりをたくさん知っていて、日本人に好意を感じ得るような知識はまったく持っていない、といっていいように見える。そして、一面的な知識を列挙して日本人を非難する。

 無責任で軽率な日本人は「過去は悪かった。反省する。これから仲良くする」などという。しかし、日本人が四、五百年もの長い間、悪いことばかりをし、好ましいことを何もしなかったのだとすれば、わずか10年か20年、「反省した」として、日本人を信頼できるのか。韓国人はそれほど甘い民族なのか。

 諸君の知識がさらに補強され、過去の日本人にも好ましい点、信頼すべき点があったことを発見してくれなくてはならない。そうでないかぎり、相互の国民的信頼感はけっして生まれないと思う。

 珍彦はさらに、日韓近代史についての自分の考えを述べました。

 ──諸君は、朝鮮亡国史として1907年の皇帝の退位と1910年の日韓併合を盛んに語るが、その10年前の1896年に李朝は滅びていたのではないか。閔妃暗殺事件のあと、高宗は皇太子とともにロシア公使館に逃れ、ロシアの海兵隊に守られて、みずから任命した金弘集首相以下、開化派反ロシア党の臣僚を惨殺させた。このとき朝鮮の独立は失われている。あとに残ったのは、どの狼が死肉を食らうかの問題だけだ。

 諸君は外国権力の責任を追及するが、外国が非道だから国が滅びざるを得ないというのではそもそも独立を保てない。むしろ諸君は、朝鮮内部の亡国理由を鋭く直視すべきではないか。

 李朝時代、知日派には真の憂国者がいくらでもいたが、親露派、親清派には真の憂国者があるを知らない。日韓併合時の首相李完用はもとは親露派だった。大勢が決したあとで、守旧派や変節派が「総督政治」の支柱となった。節義なく右往左往した韓国人自身を責めないで、「日本人が悪い」といっている間は、韓国の真の独立は実現されない。日本人といえば、悪い奴ばかりだと思い込んでいるのなら、和して交流する必要はない。

 珍彦の論に一理あり、と認める学生もいましたが、反発する者もいました。珍彦は反論する学生にも好感を持ちました。信実を求めたいという真剣さが感じられたからです。

 翌日、学生たちに見送られ、機上の人となった珍彦は韓半島の山々を眺めながら、父・耕次郎を思いました。まだ10代の父は暴政に苦しむ朝鮮の民衆を思い、即席の韓国語を学んで渡鮮し、銃と太刀とを携え、2頭の馬をひいて、朝鮮半島鶏林八道の隅々まで旅しました。

 明治にはそんな青年はいくらでもいました。珍彦は明治の青年たちの壮大な志と情熱を懐かしみながら、これからの日本の青年が対日不信に固まった韓国の青年と交わり、その意識を心底から揺り動かし、深い信頼と友愛を築き上げることは容易ではない。それは偉大にして困難な、男子畢生(ひつせい)の大業というべきものである。才知や打算ではなく、山をも動かさねばならぬ、というほどの情熱と大志が要求される──と書いています。


◇6 日韓の真の融和のために、二度と悲史を繰り返さないために

 葦津珍彦の膨大な近代史研究は、この韓国訪問前後から本格化します。葦津は、日韓併合はひとつの悲史だ、と理解します。東洋の解放という明治の理想が破れ、俗悪な帝国主義の野望に転落した典型が日韓併合だ、と葦津はいうのです(「天皇制と明治ナショナリズム」)。

 そうした歴史論を踏まえて、葦津は戦後日本の「謝罪外交」を批判します。

 戦争に敗れた日本人が卑屈な低姿勢で「陳謝」するのは相手の軽蔑を招くだけである。日本は過去を陳謝するより弁明すべきだ。過去の日本に非がなかった、と強弁するつもりはないし、重苦しい過去の重圧を十分、感じているが、それは二倍にも三倍にも増幅されて、全世界の前で糾弾、断罪されてきた。これ以上、追認するのは無意味であり、愚かだ──と葦津は主張します(『アジアに架ける橋』)。

「謝罪ゲーム」にうつつを抜かす為政者に代わって、葦津のいう、山を動かすほどの情熱と大志を抱く青年たちはいつの日か、現れるでしょうか。いや、星の数ほども育て上げなければならないでしょう。日韓の真の融和のために、そして二度とふたたび悲史を繰り返さないために。
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以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

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 明治時代に創刊され、百年以上の歴史を誇る宗教専門紙「中外日報」の長期連載「近代の肖像」に、葦津珍彦について3回連続で書きました。編集部の了解を得て、転載します。見出しなどは少し変えています。今日は第3回です。
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-rensai/r-kindai005.htm


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近代の肖像 危機を拓く 第445回 葦津珍彦(3)
──先人たちが積み残したアジアとの融和
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「戦後唯一の神道思想家」「神道の社会的防衛者」葦津珍彦の歩みは敗戦後、始まる。

 占領軍が過酷な反神道政策を採ることを予想する葦津は、組織的防衛の必要を痛感し、今日の神社本庁設立のために奔走した。昭和二十一(一九四六)年二月、伊勢神宮の崇敬団体・神宮奉斎会、神職の全国組織・大日本神祇会、神道の研究・教育機関である皇典講究所の民間三団体が合併し、宗教法人神社本庁が設立された。その初仕事は、国有境内地の払い下げ問題と神社新報の創刊であった。同年七月に神社新報が発刊され、葦津は編集主幹兼社長代行者となる。

 当時、葦津は、極東裁判に昭和天皇が出廷するような事態になれば特別弁護を買って出ようと準備していたといわれる。その後、紀元節復活、靖国神社国家護持、剣璽御動座復古、政教分離裁判支援、元号法制定、内廷費増額運動などに中心的役割を果たしたことはよく知られている。一見すれば「戦前回帰」であり、「国家神道」復活を企図する時代錯誤と解釈する人もいるが、葦津の来歴を見れば、そうではないことが分かる。

 葦津が関わった仕事に、先人たちが積み残したアジアとの融和がある。

 葦津は若いころ、朝鮮独立運動家の呂運亨(りょうんきょう)を当時随一の神道思想家・今泉定助に取り次いだことがあった。のちに「朝鮮人民共和国」副主席ともなった建国運動の中心人物は、戦争中、「存亡の危機に立つ日本が必要としている和平工作を助けることによって、日本に朝鮮の独立を承認させよう」ともくろみ、朝鮮総督・小磯国昭との直接交渉を実現するため、小磯が師と仰ぐ今泉に接近した。困難な提案を今泉は熟慮の末に受諾し、小磯宛の長い紹介状を書いた。文案を作成したのは葦津である。しかし狙いははずれ、やがて呂は反共反日の李承晩派に暗殺される。歴史はまたしても葦津たちを裏切るのだった。

 約二十年後、日韓国交正常化から数カ月後の四十一年春、葦津は韓国を訪問し、大学教授や学生など三十数名と長時間討論した。韓国人は李承晩以来の徹底した教育で、反日に固まっていた。「諸君の歴史観では、よい日本人は一人もいなかったことにならないか」と葦津が問いかけると、学生たちは沈黙した。「外国が非道だから国が滅びざるを得ないというのでは、そもそも独立を保てない。むしろ諸君は、朝鮮内部の亡国理由を鋭く直視すべきではないか」

 翌日、葦津は、機内から朝鮮半島を眺め下ろしつつ、若き日の父を思い、明治の青年たちの壮大な志と情熱を懐かしむ一方、これからの日本の青年が対日不信に固執する韓国青年と交わり、その意識を揺り動かし、深い信頼と友愛を築き上げることは容易ではない。才知や打算ではなく、山をも動かさねばならぬというほどの情熱と大志が要求される、と強く思うのだった。葦津の膨大な近代史研究はこの訪韓後、本格化する。

 一介の野人を貫き、五十冊を超える著書を残し、平成の御代替わりを見届けて、平成四(一九九二)年春、葦津は鎌倉の自宅の、好きだった暖炉のある洋間で、吸いかけのタバコを手に、永遠の眠りについた。

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近代の肖像 危機を拓く 第444回 葦津珍彦(2)──敗戦の危機が生んだ「神道の社会的防衛者」 [葦津珍彦]

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 明治時代に創刊され、百年以上の歴史を誇る宗教専門紙「中外日報」の長期連載「近代の肖像」に、葦津珍彦について3回連続で書きました。編集部の了解を得て、転載します。見出しなどは少し変えています。今日は第2回です。
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-rensai/r-kindai005.htm


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近代の肖像 危機を拓く 第444回 葦津珍彦(2)
──敗戦の危機が生んだ「神道の社会的防衛者」
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 二十歳になった葦津珍彦は、父・耕次郎がおこした社寺工務店を継いで、神社建築に携わった。いまも靖国神社の境内に堂々とそびえる神門は、若き日に父の命を受け、建築を手がけたもので、生涯の誇りだった。

 しかし葦津の行動はむろん建築の分野にとどまらない。日中戦争が勃発した昭和十二(一九三七)年の暮れ、葦津は汪兆銘政権の要人だった蘇錫文・上海特別市長の招きで訪中する。上海戦線では異常な心理が戦場をおおい、戦慄すべき事件が相次いでいた。葦津は、人道上も、日本の国際的信用性の面からも、軍規粛正が必要だと実感し、帰国後、耕次郎とその友人たちに早期和平を強く訴えた。

 しかし激烈な報告は当初、誰にも信用されなかった。新聞が伝える戦況とあまりに異なっていたからだ。やがて耕次郎と懇意にしていた同郷の朝日新聞主筆・緒方竹虎によって事態が確認されると、伊勢神宮の崇敬団体代表である今泉定助(さだすけ)や明治神宮の有馬良橘(りょうきつ)宮司、俗に右翼の統帥といわれる頭山満らが和平の動きを強める。緒方は蘇錫文支援の特集を組み、独自の和平工作を進めた。

 なかでも耕次郎は、占領地域内で飢寒に苦しむ中国人難民の身の上を肉親のように案じ、救済のため寝食を忘れるほど東奔西走し、ついには健康を損ない、十五年春、この世を去る。葦津は一年間の喪に服した。

 十六年十二月、開戦の詔勅が渙発される。神道精神とファシズムは異なるとの考えから日独伊三国同盟に反対してきた葦津だが、「これまでの一切の思念を断ち切り、陛下の忠誠の臣民として戦うほかはない」と決意する。それは同時に東條英機内閣との闘いであった。

 緒方からの情報で、日本は戦争に勝てない。戦局を強化、維持しつつ、速やかに名誉ある和平を求める必要がある、と考えた葦津は、政府の無責任な言論思想統制を弾劾するパンフレットを発行する。内閣打倒をめざす人々がたちまち結集し、威信を損なった東條内閣は検閲方針を撤回する。

 十八年三月に東條内閣が戦時刑事特別法を改正し、言論禁圧を強化すると、葦津は批判の論説を次々と発表しただけでなく、同志と協力して批判文を議会にバラまいた。

 東條が激怒したのはいうまでもない。姿をくらました葦津の身代わりに、近親者十数名が検挙され、やがて「人質釈放」のために自首した葦津は、検事に「帝国憲法上、われわれが不法か、東條が不法か」と憲法論争を迫った。検事は沈黙して、取り調べに来なくなり、葦津は釈放される。

 東條内閣が倒れるのは十九年の夏である。

 二十年八月、終戦の日。アメリカ軍の占領によって日本は徹底的にアメリカナイズされ、日本的なものはすべて滅びると予感する葦津は、徹底的に抵抗し、日本の歴史と精神文化の防衛に一命を捧げようと心に決めた。「神道の社会的防衛者」を自任する、闘う神道思想家は、こうして敗戦という危機の時に生まれたのだった。

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近代の肖像 危機を拓く 第443回 葦津珍彦(1)──「戦後唯一の神道思想家」を生んだ父・耕次郎の人間性 [葦津珍彦]

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 明治時代に創刊され、百年以上の歴史を誇る宗教専門紙「中外日報」から依頼を受け、同紙長期連載「近代の肖像」に、葦津珍彦について3回連続で書きました。編集部の了解を得て、転載します。見出しなどは少し変えています。
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近代の肖像 危機を拓く 第443回 葦津珍彦(1)
──「戦後唯一の神道思想家」を生んだ父・耕次郎の人間性
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 葦津珍彦(あしづうずひこ)は神道人の間で、しばしば「戦後唯一の神道思想家」と呼ばれている。国土が焦土と化し、多くの尊い人命が失われた、敗戦という未曾有の危機に、日本独自の歴史と精神伝統を守ろうと決意し、以後、東奔西走、八十二年の生涯を送った。

 葦津は明治四十二(一九〇九)年、福岡に生まれた。代々、筥崎宮(はこざきぐう)(筥崎八幡宮)の社家だったが、闘う思想家の生涯は、父・耕次郎の存在を抜きにしては語れない。のちに葦津は「父の子でなかったら、私の思想は今日のものとはならなかった」と告白している。

 耕次郎は「俺の全生命は国家と八幡様のもの」という強烈な信念を終生、保ち続けた、激烈な神道の信仰者だった。社家に生まれながらも神職として一生を送ることはなく、事業家となり、しかも採算確実な商売には見向きもせず、前人未踏の分野を開拓することにのみ熱い情熱を傾けた。満州軍閥の張作霖を説いて鉱山業をおこし、あるいは、台湾から檜の大木を移入して、全国数百カ所に上る社寺を建設した。

 豪傑という言葉はこの人のためにあるのではないかと思うほど、逸話に事欠かない耕次郎だが、特筆すべきは戦前の大陸政策との関わりである。今日、日本の強権的植民地支配のシンボルとされる朝鮮神宮に、天照大神と明治天皇を祀ることについて、ほかならぬ神道人たちが民族融和の観点から強く抵抗した、知られざる歴史の中心人物だ。アジアとの融和という見果てぬ夢は、やがて葦津に受け継がれる。

 そもそも朝鮮神宮の歴史は、まだ二十代の耕次郎が明治の元勲・伊藤博文に直接、進言したことに始まる。

 伊藤が初代韓国統監となって赴任するおり、耕次郎は九州日報社長の福本日南を伴って、下関の春帆楼に伊藤を訪ね、「陛下の思召しである日韓両民族の融合親和のために、朝鮮二千万民族のあらゆる祖神を合祀する神社を建立せよ」と一時間余り、居並ぶ高位高官を前に弁じ立てた。枢密顧問官を兼任する伊藤は座布団をおりて傾聴したうえに賛同し、実行を約束する。

 しかし歴史は耕次郎を裏切る。

 その後、具体化した朝鮮神宮には天照大神と明治天皇が祀られるというのだ。とうてい容認できない耕次郎は斎藤実総督に面会を求め、「朝鮮人の祖神を祀るべきだ」と猛抗議した。

 京城・南山に朝鮮神宮が鎮座する大正十四(一九二五)年春から祭神論は沸騰し、初代朝鮮神宮宮司・高松四郎を含む、当時の名だたる神道人たちが反対運動を繰り広げた。なかでも耕次郎の「朝鮮神宮に関する意見書」は「日韓両民族乖離反目の禍根たるべし」と政府を強く批判している。

 社家に生まれた葦津珍彦がすんなりと神道人の人生を歩んだわけではない。むしろ若いころは無政府主義に傾倒したという。しかし根っからの神道人だった父・耕次郎の熱い人間性を見、日本的な忠誠心や同志の交わりの高貴さを知り、葦津は神道思想家としての一歩を踏み出す。

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