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大新聞はなぜ「戦争協力」に転換したのか──朝日の連載「歴史と向き合う」を検証する [朝日新聞の戦争責任]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 大新聞はなぜ「戦争協力」に転換したのか
 ──朝日の連載「歴史と向き合う」を検証する
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 朝日新聞が麻生副総理ら第2次安倍内閣の3閣僚の靖国神社参拝、安倍総理の大真榊奉納について取り上げています。
http://www.asahi.com/politics/update/0421/TKY201304210247.html?google_editors_picks=true

 古屋拉致問題相は「国務大臣として参拝した。玉串料は私費から出した」と語った。一方、山口公明党代表は「外交的な影響が出る」と不快感を示した、と対立を煽っているようにも聞こえますが、本質的に何を問題にしようとしているのか、必ずしも明確ではありません。

 というわけで、平成18年7月に宗教専門紙に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。

 当時、朝日新聞は「新聞の戦争責任」についてみずから検証する大型企画を展開していました。記事は朝日の歴史検証について批判を試みたものです。靖国問題を批判的に報道することの資格性を問いかけたのです。

 ご参考までに、月刊「正論」平成10年2月号から連載した「朝日新聞と神道人」もあわせてお読みいただければ幸いです。
http://melma.com/backnumber_196625_5797691/



 朝日新聞が大型企画の「歴史と向き合う」を連載しています。

 7月14日の朝刊には「第2部 戦争責任 見失った新聞の使命、反省を『今』につなぐ」と題する見開きいっぱいの記事が載りました。「先の戦争と、それに至る過程で、真実を伝へる使命を果たさなかった」朝日新聞自身の「過ち」を検証しています。

 報道機関の「戦争責任」について朝日新聞が本格的に自己批判するのは平成7年の「戦後50年 メディアの検証」以来で、「みずから何度でも検証し直さなければならない」という真摯な姿勢には敬意を表します。しかし追究は十分でしょうか?

 10年前の「メディアの検証」は、「敗戦まで新聞など日本のメディアは、あらゆる分野で何をどう伝えるかについて軍・政府の統制を受けていた。統制は満州事変以降、太平洋戦争末期になればなるほど厳しさと細かさが増していった。新聞側は、その流れに強く抵抗できないまま、次第に迎合していく」と、言論統制下の新聞の弱さをみずから振り返りました。

 しかし戦前・戦中において「新聞の自由」「報道の自由」が奪われていたのは事実であるにしても、「自由」を奪われていたことが「迎合」の真因なのかどうか。慎重な検討を要するでしょう。

 大新聞はなぜ「迎合」したのか?


▽ 「右翼の圧力」ではない

 7月14日の「歴史と向き合う」は、満州事変を機に朝日新聞が主張を転換した、その背後には「右翼の圧力があった」とさらに踏み込んでいます。

 昭和6年10月1日の大阪朝日の社説は、それまで堅持してきた「中国ナショナリズムの積極的肯定の理念」と「東北各省は中国の一部という認識」を捨て、満州国の設置が必要だという主張に転換したのですが、その背景として、「事変直後から内田良平ら大物右翼が大阪朝日に面会を求めていた。在郷軍人会などの不買運動も起きていた」と記事は説明しています。

 大阪朝日は当時、「普選と軍縮の高原」と呼ばれた高原操編集局長を擁し、軍部と「全面対決」していました。それがなぜ「変節」したのか。その謎に記事は迫ったのです。

 むろんこの謎はこれまでも研究されてきました。

 元朝日新聞記者・後藤孝夫の『辛亥革命から満州事変へ──大阪朝日新聞と近代中国』(昭和62年)によると、高原は当初、「関東軍への疑惑をいだきながら、その拡大を最小限に食い止めるための苦心の論法」をとった。けれども、10月1日の社説「満蒙の独立、成功せば極東平和の新保障」で「百八十度の転換が起こった」。この「豹変はいかにも唐突」で、その背後には「右翼の恫喝」があった、と後藤は推理しています。

 15年前に刊行された『朝日新聞社史 大正・昭和戦前史』は、満鉄線爆破の翌日には笹川良一が、さらに5日後には内田良平が大阪朝日を訪ねてきたことを明らかにしていますが、後藤によれば「内田の背後には軍部がいた」「参謀本部首脳会議がクーデターを辞さぬ決意のもとに右翼へも総動員をかけた」というのです。

「暴力に抗する術なし」と経営陣は判断し、重役会は「現在の軍部および軍事行動に対しては絶対非難批判を下さず、極力これを支持すべきことに決定」した。さらに「社論を統一して国論をつくる大方針」が社内に徹底されたというのです。

 要するに、ジャーナリズムが外力に屈したということでしょうか。大新聞は言論封殺の時代の犠牲者だというのが歴史の真相なのでしょうか?

 そうではないでしょう。

 たとえば江口圭一・愛知大学教授が『日本帝国主義史論──満州事変前後』(昭和五十年)で指摘するように、朝日、毎日両紙を先頭とする大新聞は言論抑圧の結果とはいえない積極性、自発性、能動性をもって戦争に協力し、侵略に荷担した、といわれます。

 朝日新聞は、10年前の「メディアの検証」でも、そして今度の「歴史と向き合う」でも、外力に屈して曲筆した時代の犠牲者、被害者とみずからを位置づけていますが、大新聞はむしろ積極的に「戦争協力」への道を選択したのでしょう。

 ジャーナリズムの敗北ではないとすれば、いったい何が起きたのでしょうか。結論から先にいえば、国家存亡の非常時に、大新聞は言論をカネで売ったのではなかったのでしょうか?


▽ 新聞ビジネスを優先

 新聞はジャーナリズムであると同時にビジネスです。新聞は言論であると同時に商品であり、戦争こそはいつの時代も販売拡張の最大の好機なのでした。

 ところが、満州事変勃発当時、強力なライバルが出現しました。速報性にすぐれた電波メディアのラジオです。実際、事変の第一報を伝えたのは、新聞の号外ではなく、ラジオでした。

 当時、大新聞がカネにものをいわせて、大勢の特派員を大陸に派遣し、自社機で原稿と写真を空輸する体制を編み出し、メディア競争を激化させたのは、商機を目前にしながら、速報性ではラジオに太刀打ちできない焦りがあったのではないのか、それが「迎合」の原因ではなかったのでしょうか?

 前掲の後藤の著書によれば、大阪朝日の高原らが軍部とのせめぎ合いを演じていたとき、下村海南副社長は「新聞経営の立場も考えてほしい」と苦情をもらしたといいます。「在郷軍人を表面に立てた不買運動、国粋大衆党による嫌がらせ、これに便乗した他紙の中傷攻撃」は、新聞ビジネスの弱点をものの見事につき、 新聞ジャーナリズムは企業の論理で失墜したのでしょう。

 外力による曲筆は記者にとって無念以外の何ものでもありませんでしたが、新聞ビジネスにとってはまさに時の氏神でした。『朝日新聞社史』によれば、「事変発生とともに朝日新聞の部数は増え続け、7年2月29日には『事変以来、今日にて東朝20万、大朝27万余部増加』と記録される増加ぶりだった」のです。

 政府による情報統制が進むことで販売経費は節減され、紙不足の時代にもかかわらず発行部数は戦後の高度成長期を上回る勢いで拡大し、昭和15年には全社で300万部を超え、社の収入は増大したといいますから、笑いが止まらなかったはずです。

『朝日新聞七十年小史』(昭和24年)などは「経理面の黄金時代」「新聞は非常時によって飛躍する」とまで表現しています。これが「無念の転針」の実態でした。

 今度の連載「歴史と向き合う」は、緒方竹虎・元主筆が戦後になって、「大新聞が適当な時期に話し合い、一致して当たれば、軍の横暴を防ぎ得たのではないか」と振り返った、と書いていますが、底の浅い理解といわざるを得ません。

 逆に、緒方はこう書き残しています。「新聞が強い主義主張をもって立つためには、週刊新聞的な少人数によって作られる、広告収入に依存しないものでなくては駄目だ。新聞社の収入が大きくなればなるほど、資本主義の弱体を暴露する」(「自らを語る」=『緒方竹虎』昭和38年)。

 緒方は商業ジャーナリズムの限界を見抜いていました。

 大新聞は軍部や右翼の圧力に屈して筆を曲げたのではなく、ジャーナリズムよりもビジネスを優先させ、戦争の時代を演出し、首尾良く生き延びたのです。
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