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《歴史発見》社殿裏手の「ドイツ橋」が県史跡に──鳴門市の大麻比古神社 [戦争の時代]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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《歴史発見》社殿裏手の「ドイツ橋」が県史跡に──鳴門市の大麻比古神社
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 日本が「平和」を満喫してきた「戦後」がすっかり過去のものとなったことが今日、実感されます。

 日本国憲法前文には「日本国民は……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」とありますが、「われらの安全と生存」の前提がすでに失われてしまった現実を認めざるを得ません。

 この時代、私たちはどう生きるべきなのでしょうか?

 そこで、かつて戦争の時代を生きた日本人の生き方について、宗教専門紙に書いた拙文(平成16年3月)を転載します。なお、同紙の編集方針に従い、本文は歴史的仮名遣いで書かれています。一部に加筆修正があります。



△ 第一次大戦後に独人捕虜が築造

 鬱蒼(うっそう)たる森に覆はれた徳島・鳴門市の大麻比古神社の社殿裏手に、砂岩製の長さ九メートル、幅二・一メートル、高さ三・二メートルの石積アーチ型橋がひっそり佇んでゐる。第一次世界大戦後、近くの俘虜収容所にゐたドイツ兵たちが築いた。名前は「ドイツ橋」。県教委区委員会は二月下旬、この橋を県史跡に指定することを決めた。

 指定の理由には、ドイツ人による日本国内唯一の石造建造物であることのほかに、ドイツ人捕虜と地域住民との交流の深さを示す史跡であることが挙げられてゐる。九十年前、外国人捕虜と日本人との間にどんな交流があったのか。

 大正三年(一九一四)八月、日本は同盟国イギリスからの要請によってドイツに宣戦を布告、その租借地であった中国・青島を二カ月半の戦闘の末に陥落させた。捕虜となったドイツ兵約四千七百人は日本に移送され、うち約千人が同六年四月から約三年間、境内近くの板東俘虜収容所に収容された。

 まったく意外なことだが、捕虜たちは異国の地で自由な生活を許されたから、所内にはパン屋やレストラン、理容店など八十軒もの店が軒を連ねる商店街があり、ボーリング場やビリヤード場、図書館、音楽堂などのレジャー・教養施設も充実し、別荘までがあったといふ。テニスや海水浴、演劇や音楽会などのスポーツ・文化活動、クリスマス行事などが盛んにおこなはれ、それらを伝へるカラー刷りの新聞さへ発行された。

△ 恩讐超えた交流。支へた武人精神

 外出も自由で、地元住民は彼らを「ドイツさん」と呼んで受け入れ、日常的な交流がおこなはれ、西洋野菜の栽培や牧畜、バターやチーズの製法、洋菓子作り、印刷、建築設計などの進んだ技術が伝へられた。

 ベートーベンが作曲した「第九交響曲」全曲が日本で最初に演奏されたのはこの収容所である。音楽は彼らの心の支へであった。

 捕虜たちの暮らしぶりや交流の様子は、境内南側に隣接するテーマ館「ドイツ館」で、元捕虜たちから寄贈された資料などから知ることができる。

 それにしても、旧敵国同士、恩讐を超えた交流はなぜ可能だったのか。それは収容所長・松江豊寿大佐を抜きに語ることはできない。

 松江は明治五年(一八七二)、旧会津藩士の長男として生まれた。戊辰(ぼしん)戦争で官軍に敗れた会津藩士たちは「賊軍」の汚名を着せられた上に、青森・下北半島の斗南藩に移住させられた。酷寒と不毛の地で多感な少年期を過ごした松江は、敗者の悲哀と困窮を痛いほど味はった。

 軍人の道を歩み、四十四歳のときに板東収容所長となった松江氏は陸軍省の意思に反して、「ドイツ兵は愛国者であって、犯罪人ではない。捕虜を人道的に扱ふべきである。それが武士の情けである」と公言し、実行した。

 ドイツ人捕虜たちと日本人との交流の底流には、旧会津藩士の武士道精神が脈々と流れてゐる。

△ 参拝者の不便を思ひやって建設

 武人の心はドイツ兵にも十分理解できたのだらう。だからこそ日本人を思ひやる心が捕虜たちに芽生え、交流が生まれたではないか。

 今回、県史跡に指定されたドイツ橋は、大麻比古神社に参拝する住民が遠回りをしなくてもすむやうにと、帰国前に三カ月を要して捕虜たちが造ったといふ。境内をしばしば散策してゐた捕虜たちには、住民の不便も理解できたに違ひない。

 橋は同神社から北側に鎮まる丸山稲荷神社に続く森の中にある。捕虜たちにとっては、静かな社叢は故国ドイツ・ゲルマンの森を思ひ出させ、望郷の寂しさを慰めてくれるよすがだったかも知れない。

 松江大佐は、ピンと立ったカイゼル髭(ひげ)もいかめしい風貌ながら、物静かな、心温かい、酒と人を愛する人間だった。

 島根の連隊長を最後に軍歴を離れたあとは、郷里に帰り、第九代会津若松市長に就任、市内の上水道整備に尽力した。板東を「第二の故郷」と回想しつつ、昭和三十一年、八十二年の生涯を閉ぢた。
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知られざる「玉砕の島」ビアク───鎮魂 南太平洋に散った日本軍将兵 [戦争の時代]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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知られざる「玉砕の島」ビアク───鎮魂 南太平洋に散った日本軍将兵
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 報道によると、今日午前、安倍首相は硫黄島を訪問し、遺骨収集の現場などを視察するとともに、戦没者追悼式に臨んだと伝えられます。

 硫黄島は先の大戦で、日米が死闘を展開し、日本軍2万、アメリカ軍7千が戦死した最激戦地の1つです。しかもサンフランシスコ講和条約によって日本が主権を回復したのと裏腹に、戦後しばらく小笠原諸島がアメリカ海軍の占領下におかれ、日本に返還されたのは昭和42年です。

 講和条約発効後、アメリカの施政下におかれたのは沖縄と同様ですが、沖縄では条約が発効した「4月28日」がしばしば「屈辱の日」と受け止めているのに対して、硫黄島では、旧島民の帰島の夢さえ叶わないのが現状です。全島が海上自衛隊基地の敷地とされ、基地に勤務する自衛隊員以外は島への立ち入りが禁止されているからです。

 けれども、悲しい歴史を伝える激戦の島は硫黄島や沖縄だけではありません。

 というわけで、日米開戦60年の節目に、宗教専門紙(平成13年12月)に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。



「もう昔のことですから──」

 戦争中、中国大陸を転戦しながら、中国人捕虜たちとともに植樹活動をしたという、ある連隊長の行動に興味を持ち、遺族の方にお話をうかがおうとしたら、そういって断られたことがあります。

 日本人はいい思い出であれ、つらい思い出であれ、過去を語りたがりません。日米開戦から今月(平成13年12月)8日で丸60年、講和条約調印からも半世紀がたって、戦争体験の風化が指摘されるのは、過去を「水に流す」という日本人の美徳と無関係ではありません。

 けれども、周辺諸国や旧敵国にとっては、戦争は「過ぎ去った過去」ではありません。連合軍捕虜や元占領地のアジア人が戦時中の強制労働などに対する補償や謝罪を日本に要求する訴訟が、日本国内やアメリカ国内であとを絶たないのは、その証拠です。

 しかし、加害者と被害者、侵略国と被侵略国という二分法的な図式で戦争を考えることに、筆者はどうしてもなじめません。人間の世の中ではしばしば、加害者が被害者になり、被害者が加害者になるからです。

 ここでは、激戦地として知られるニューギニアでの戦いを通して、そのような「戦争」の実相をあらためて考えてみたいと思います。


◇ 西部ニューギニアの自然の楽園
◇ アメリカ軍を迎撃する歩兵222連隊

 インドネシア・イリアンジャヤ州(西部ニューギニア)のビアク島は戦後生まれにとっては馴染みが薄いけれども、戦争世代にとっては誰もが知る「玉砕の島」です。

 ニューギニアは地図で見ると、赤道直下を西に向かって飛ぶ翼竜のようなかたちをしています。ちょうど首の後ろがヘルビング湾で、ここに浮かぶスハウテン諸島最大の島がビアク島です。面積は東京都と神奈川県を合わせたぐらいで、案外、大きな島です。

 珊瑚礁が隆起してできた島は、鬱蒼たる熱帯のジャングルにおおわれています。ジャワ出身のインドネシア人によれば、極楽鳥など珍しい動植物がたくさん棲息する自然の宝庫で、いまでは欧米人が数多く訪れる観光地となっているようです。人口は約2万。オランダ時代の影響からキリスト教徒が多い、と聞きました。

 州で唯一の国際空港を擁する島は交通の要衝ですが、ジャワから直線距離にして約3000キロ。飛行機を乗り継いで往復に数日を要します。

 日本軍と連合軍の将兵が血みどろの死闘をくり広げた南部のモクメル海岸に、日本政府が建設した御影石の慰霊碑が鎮まっています。何事もなかったかのように静かな白い砂浜とヤシ林。月日が流れ、記憶は薄れていく。けれども島民は「むかし日本の兵隊がたくさんここにいた」ことを知っています。

 日本からはるか遠い南の島の知られざる戦いこそ、じつは大戦の雌雄を決する「豪北の天王山」でした。

 緒戦こそ華々しい勝利を重ねた日本軍でしたが、昭和17年6月のミッドウェー海戦を境に彼我の形勢は逆転します。

 18年2月に日本軍が南太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を撤退すると、アメリカ軍の反攻は急展開しました。ニミッツ提督ひきいるアメリカ海軍は、日本本土空襲をにらみ、19年6月にサイパン上陸を予定していました。これを空から擁護する使命を帯びていたのがマッカーサー元帥指揮下のアメリカ陸軍で、このため必要とされたのが西部ニューギニア・ビアク島の早期攻略でした。

 迎え撃つビアク島守備隊の中核は陸軍歩兵第222連隊。14年春に宮中で軍旗を親授され、岩手、青森、宮城の出身者を主体に、青森県弘前で編成された新設連隊で、最初は中国北部・山西省などで赫々(かくかく)たる成果をあげました。部隊感状の栄誉は三度。武勲ばかりではありません。東北人特有の素朴さで住民の信頼を得て、日中親善の実をあげたといわれます。

 その後、日米が開戦し、太平洋方面で戦局が急を告げたのを受けて、18年暮れ、西部ニューギニアに転進し、島で葛目直幸大佐を長とする陸海空1万2000のビアク支隊を編成し、島の防衛と3つの飛行場を建設する任務に就いていました。島は、阿南惟幾大将をして「航空母艦10隻に相当する」といわしめたほどの、戦略上の重要拠点でした。


◇ 「海軍記念日」の朝に敵軍上陸
◇ 1平米あたり数トンの砲爆撃

 19年5月27日──。この日は日本海軍が対馬海峡でロシア・バルチック艦隊を粉砕した「海軍記念日」で、烹飯隊は徹夜で腕を振るっていました。

 そのとき朝靄のなか、敵艦砲の第1弾がこだまします。50隻の連合軍機動艦隊、爆撃機40機が来襲したのです。兵士が四散します。一個師団の兵力が、天地を揺るがすような砲爆撃とともに上陸を敢行してきました。その数は約3万。

 ビアク支隊は海軍特別根拠地隊の部隊2000と協同し、物量で圧倒するアメリカ軍に対抗したが、戦闘は熾烈を極めました。いかんせん、飛行場こそ完成したものの、制空、制海権をすでに奪われていました。対抗しうる唯一の戦法は夜襲斬り込みです。

 しかし精強をほこる葛目支隊の予想外の奮闘は、アメリカ軍の思わぬ誤算となりました。業を煮やしたマッカーサーは指揮官を猛将アイケルバーガー中将に交替させます。アイケルバーガーは態勢を立て直し、攻勢に転じました。回顧録によれば、「1平方メートルあたり数トンの砲弾を撃ち込んだ」(『東京への血泥の道』)といいますから、すさまじいものです。

 連合軍はいくたびも増援部隊を送り込んできました。激しい艦砲射撃と空爆が一瞬、やんだかと思うと水陸両用戦車を先頭に、上陸用舟艇が次々に押し寄せます。北支では適用した武器がアメリカ軍の前では玩具同然でした。

 葛目支隊長は東方地区の陣地を撤収し、6月9日、西洞窟に移動しました。体育館ほどもある巨大な洞窟は、すでに無数の腐敗した死体と重症患者で埋まっていました。なかには発狂した兵士さえいます。「真っ白いご飯を腹一杯食べられたら、いつ死んでもいいよ」といいつつ、ついに口にすることなく、兵士たちは落命していきました。遺体は「虫葬屋」と呼ばれる黒い昆虫などに食い尽くされ、一週間もせずに白骨化したといいます。

 そのころ西方約800キロ、モルッカ諸島のハルモヘラ海にあった戦艦大和、武蔵はニューギニア本島ソロンの玉田旅団をビアク島に逆上陸させようと準備していました。しかしアメリカ軍のサイパン上陸が目前に差し迫り、急遽、マリアナへ向かいます。

 援軍の期待が失われたところへ、連合軍が総攻撃を開始しました。ブルドーザーを持たない葛目支隊がツルハシとモッコで建設した飛行場は敵の手に落ちます。けれども、葛目支隊の奮戦によって、連合軍がモクメル飛行場を利用できるようになったのは当初の予定よりはるかに遅れました。

 連合軍は西洞窟を完全に包囲し、戦車砲や火炎放射器で情け容赦のない攻撃を加えました。最期を悟った葛目支隊長は軍旗を奉焼し、6月21日、50名の将兵とともに、夜陰に乗じて西洞窟を脱出します。

 抗戦・激闘はさらに続きましたが、戦局の好転は望むべくもありません。7月2日未明、葛目支隊長は飛行場北方の洞窟内で拳銃自決します。

 連合軍上陸進攻から1カ月、食糧が完全に底をつくと、「分散して自活、自戦」「皇軍の大挙再来のその日に備えて」という支隊の苦闘がいよいよ始まります。しかし残存将兵は10人に1人もいません。そして8月には通信連絡が途絶します。

 12月、オーストラリアのメルボルン放送は、ニューギニアでの作戦が終了したことを世界に告げました。


◇ アメリカ軍の蛮行を告発した空の英雄
◇ 1万数千の将兵中生存者は数十名

 ビアク島で戦死した日本軍将兵は1万名を超えます。復員者はわずかに300余名。ほぼ全滅です。その背景には死闘とは別のおぞましい歴史があります。飢えと病気、そして注目されるのは、連合軍の残虐行為です。

「翼よ、あれがパリの灯だ」の名セリフで知られる、大西洋無着陸横断飛行の英雄、チャールズ・リンドバーグが『第二次大戦日記』で、アメリカ軍の蛮行を告発しています。

 リンドバーグはアメリカ生まれの反戦平和主義者ですが、大戦が勃発すると、「戦争参加は国民の義務」と考え、志願します。ルーズベルト大統領の政敵でしたから、ホワイトハウスは拒否しますが、国家への忠誠を誓い、技術顧問として南太平洋へ、さらにビアク島にやってきました。

 そして、一握りの日本軍が圧倒的に優る強敵の猛攻に耐え、拠点を死守している姿を見、「攻守ところを代えて、アメリカ軍部隊がかくも勇敢に拠点を固守したのであれば、この防衛戦はアメリカ史上、不撓(ふとう)不屈の勇気と犠牲的精神のもっとも栄光ある実例の一つとして記録されたに違いない」と賞賛しました。

 しかし、戦場では、アメリカ人将校は日本軍将兵を「黄色い奴ら」と呼び、無慈悲にむごたらしく皆殺しにしていました。

『日記』には、実戦経験のない技術科軍曹の実話が紹介されています。「帰国前にせめて1人でも日本兵を殺したい」と洩らしたところ、偵察隊が1人の捕虜を差し出しました。「無抵抗の捕虜は殺せない」と断ると、偵察隊の1人は「野郎の殺し方を教えてやる」といって、いきなり日本人捕虜のノドを切り裂きました。

 アメリカ軍は捕虜をとりたがらず、投降する日本兵に発砲しました。日本兵の死体の口をこじ開けて金歯をもぎ取り、寄せ書きの日の丸や軍刀を「戦利品」として奪いました。そればかりか、遺体を墓標のない穴にブルドーザーで押しやり、そのうえにトラック1台分の残飯やゴミを放り込みました。日本兵の頭蓋骨を飾り物にしました。

 リンドバーグが非難すると、逆に悠然たる侮蔑と哀れみの態度が返ってきました。「野郎どもが我々にやったことだ。奴らを扱う唯一の方法さ」

「文明のための戦争」を旗印とするアメリカの戦いの非倫理的実態を、リンドバーグはきびしく批判します。「我々は声を限りに日本軍の残虐行為を数えたてる一方で、自分の残虐行為を包み隠し、単なる報復行為として是認している」

 1945年6月、リンドバーグはナチス降伏後のポーランドにいました。ユダヤ人捕虜収容所です。焼却して捨てられた人骨であふれる穴の前で、ビアク島の記憶が次々によみがえりました。

 ──ドイツ人がヨーロッパで犯した犯罪を、アメリカ人もビアク島で犯したのだ。そのアメリカ人に、どうしてドイツ人を、日本人を裁く資格があるだろうか。

 リンドバーグは『日記』の最後を、聖書の言葉で締めくくっています。「汝ら、人を裁くな。裁かれざらんためなり」

 むろん日本軍にも非はあるでしょう。アメリカ軍捕虜となって島から運良く帰還した元海軍書記の体験談にこうあります。

「米兵から一枚の写真を見せられた。目隠しをされ、地面に正座させられたアメリカ軍兵士の後ろで、陸軍将校らしき人物が日本刀を振りかざしている。いままさに捕虜を斬首しようというのだ。こんな写真を撮らせ、得意げになる馬鹿者がいた。アメリカではこの写真をメディアに流し、『目には目を』の敵愾心をあおったのだろう」

 キリスト教の教理に従えば、裁きは神の手にあります。幸いにも戦争で生き延びた人たちは旧敵国の「犯罪」を追及し、謝罪や補償を求めることができますが、命を失った人たちにはその術さえありません。

 さて、終戦後の20年秋、ビアク島で残存者の捜索が実施されたとき、発見された日本兵の生存者はたった数十名でした。武装解除後、広場で終戦の詔書が奉読されると、ふんどし1つで真っ黒の兵士たちは男泣きに泣いたと伝えられます。(参考文献=『戦史叢書』『ビアク支隊戦史』『歩兵222連隊史』など)

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朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 東条内閣期  第2回 戦時体制と闘った在野の神道人たち [戦争の時代]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 東条内閣期
 第2回 戦時体制と闘った在野の神道人たち◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 月刊「正論」平成10年3月号に掲載された拙文を転載します。一部に加筆修正があります。


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 前回は、昭和12年夏の盧溝橋事件をきっかけとする日中戦争勃発以後、日本軍の暴走を必死で阻止しようとした葦津耕次郎、珍彦父子ら神道人たちを描きました。

 平成9年の「愛媛玉串料訴訟」(愛媛県が靖国神社の例大祭に玉串料として公費を支出したなどことが憲法の政教分離原則に違反するかどうかが争われた)の最高裁判決に、

「わが国では、国家神道に対して事実上、国教的な地位が与えられ、時として、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた」

「明治維新以降、国家と神道が密接に結びつき、右のような種々の弊害を生じた」(多数意見)

 とあるように、俗流の「国家神道」史観では、神道あるいは神道人こそが戦前・戦中の宗教迫害や「侵略戦争」の推進者であるように考えられていますが、事実はそれほど単純ではないことが理解されるでしょう。

 たとえば、明治以来、政府が推進する神社合祀に猛反対した植物学者で民俗学者の南方熊楠は、

「およそいかなる末枝小道にも、言語筆舌に述べ得ざる奥義あり。いわんや国民の気質品性を養成し来たれる宗教においておや」(白井光太郎宛書簡=『南方熊楠全集7』所収)

 と書いていますが、時代を超えて、民族が受け継いできた宗教が本来、好戦的で野蛮なものであろうはずはありません。

 今回は、昭和16年12月の日米開戦後、言論・思想をきびしく統制する東条内閣の戦時体制と果敢に闘った土着の神道人の苦闘を、前回に引き続いて、葦津耕次郎、珍彦(うずひこ)父子を中心に描こうと思います。

 葦津珍彦は戦後唯一の神道思想家であると同時に、神社界の専門紙「神社新報」の事実上の主筆をつとめ、30年も前にソ連崩壊を予測していたほどの優れたジャーナリストでもありましたが、その新聞人としての才能を育てた「恩師」、朝日新聞主筆・緒方竹虎(のちの自由党総裁)の戦時中の苦悩もあわせて描きます。


◇1 日米開戦を予見した森恭三と葦津父子

▽「もっとも微妙な事態に直面」

 朝日新聞論説主幹として戦後の朝日のみならず日本のジャーナリズムをリードした森恭三は、昭和10年代前半から、ニューヨークに支局にあって、日米開戦をいち早く予見していたようです。『私の朝日新聞史』に、おおむね次のように書いています。

「1939(昭和14)年9月にドイツ軍がポーランドを攻撃し、さらに周辺国を電撃的に次々に占領していったとき、アメリカの参戦は間違いないと思った。一年後の40年9月末に日独伊三国同盟が締結されるときには、危険だと考えた。アメリカの対独戦争と日独同盟を重ね合わせれば、日米戦争とならざるを得ないからである」

 三国同盟の成立が伝えられたのは9月28日の朝刊ですが、そこには次のような記事が掲載されています。

「アメリカは2500ドルの対支借款、くず鉄の全面的輸出禁止と相次いで対日報復手段を発表、これに対する日本側の反撃が予想され、日米関係はここにもっとも微妙な事態に直面することになった。……アメリカにおける有識者の懸念するところは、日米が双方とも昂奮し、一方の対抗手段に他方がより以上の対抗手段をももって応え、かくして惰力によって双方にとって不幸なる最終段階に突入し、あるいはソ連の赤化勢力の太平洋への進出の契機を作ることである」

 この時代、これほど率直な記事が掲載されていることは驚きである。しかもリベラルな気風がより残っていたといわれる大阪朝日の場合は、同じ記事を一面トップで伝えています。

 その後、ルーズベルト大統領はドイツと戦っているイギリス軍の「兵器廠(へいきしょう)」となることを明らかにし、41年3月になるとアメリカは「中立法」を廃棄し、「武器隊予報」を議会で成立させます。

 このとき森は、日米戦争が不可避に担ったと断定します。同年4月に日米交渉がはじまりますが、アメリカの参戦態勢はすでに確立されていたのに、日本は政府も軍も最後まで気がつかなかった、と振り返っています。

 森は、日米戦争を回避するためには、ヨーロッパでの戦争とアジアでの戦争を断ち切ることが必要であり、そのために日本が日独軍事同盟を破棄するとともに、中国大陸から全面的に撤兵し、中国との和平を図るという非常手段をとることが必要だと考えていました。

 森は、日米開戦は不可避だ、と繰り返し書きました。この判断に基づいて、41年春には家族を日本に送り還していますが、当時のニューヨーク支局長・細川隆元(のちの政治評論家)にこうした認識がなかったことを、森は嘆いています。


▽ファシズムと神道は異なる

 日米開戦の危険を予感していたのはニューヨークの森ばかりではありません。葦津父子も日本にあって、戦争の危険を察知し、開戦回避の努力を続けていました。

 珍彦によると、父・耕次郎は、一刻も早く対支戦闘を打ち切り、和平を急ぎ、米英ソ連とも和解し、日本国の立て直しを図るべきであり、無用なトラブルを起こしてはならない、と考えていました。

 日中戦争解決のために奔走した耕次郎が心労で倒れ、病床にあった昭和14年12末に発行された論文集『あし牙(あしかび)』には、「日支事変の解決策」(12年9月)、「『国民精神総動員』に対する希望」(12年9月)、「日支事変の解決法」(13年6月)などが集録されています。

 このうち「日支事変の解決策」は、冒頭に明治天皇の御製

よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ

 を引用し、

「平和は、人類幸福の根源にして、平和なきところに幸福はない。人類相互、国際相互、いずれの場合といえども、すべて平和は、相互道義の交換により招来し得るものにして、道義なきところに平和はない、幸福はない」

 という書き出しでは始まり、「道義」の回復と「東洋永遠の平和幸福」の確立を訴えています。

 葦津父子が必ずしも一心同体だったわけではないでしょうが、耕次郎の考えを受けて、珍彦は行動を開始します。

 耕次郎死去の直後、15年9月に三国同盟が締結されると、珍彦の周辺では、

「三国同盟によってイギリスを討つべし」

 という論が高まったといいます。同盟締結によって対米英戦が避けられなくなったという理解ではなくて、むしろソ連を中立させることが可能になって、という見方が広がってきました。危険を感じた珍彦は、「三国同盟反対につき同志への書簡」を発表し、対米英反対論を展開しました。

 森の場合はパワーポリティクスの観点から三国同盟の危険性を見抜いたのでしょうが、葦津らはそればかりではありませんでした。政府・軍部が導入しようとしているドイツのナチズムやイタリアのファシズムは日本古来の神道精神とはまったく異質だという認識があったのです。

 ヒトラーの著作には日本を蔑視する表現すらあります。ドイツ民族の優秀性ばかり強調する著書もあります。先述した明治天皇の御製に示される天皇の大御心とナチスの思想とは矛盾します。

 珍彦ら在野の神道人は、

「ファシズムと神道の根本的相違を指摘し、日本軍の中国における戦闘行動が陛下の軍の行動として相応しくないと批判する運動を、朝日新聞の緒方竹虎らと密接な連絡をとりながら進めていた」(『神社新報五十年史 上』)

 のでした。珍彦は異質な外来思想に侵されていく危険を「友人」「年長諸先生」に訴えました。しかし「影響力を発揮し得なかった」のでした。


▽「不期生還」

 昭和16年12月8日、いよいよ開戦の詔勅が渙発されました。葦津は

「これまでの一切の思念を断ち切って、陛下の忠誠の臣民として戦うほかはない」

 と決意しました。

「ハワイ、マレーの大勝が報道されて、国民は狂喜した。私ももちろん喜んだが、これまで一年考えてきたことが、まったく無意味な妄想のように思われた。緒方さんが日比谷で演説しているのを、ラジオで聞いた。その表裏の真意がまったく分からなかった」

 と葦津は書いています。開戦を阻止できなかった無念と脱力感が伝わってくるくだりですが、とはいっても32歳の若輩、

「天下の大局について妄想しても水泡のようなもの」でした。

 明くる日か、そのまた翌日、銀座で緒方に会うと、緒方は若者たちの「生還を期せざる」敢闘を涙を浮かべて語り、

「攻撃機を一機でも多く生産できるよう募財を進めたい」

 と話したといいます。12年の日中戦争勃発後、朝日新聞は「軍用機献納運動」を提唱し、進めてきたのですが、この国民運動は日米開戦後、いちだんと強調、強化されました。

 共感した葦津は、翌日、亡父から譲り受けた工務店の会計を調べ、できうる限りの献金を行いました。年末の現金をゼロにする計算でした。小企業相応の金額をはるかに超えていたため、緒方は不渡倒産を心配しました。けれども葦津は心配をさえぎり、代わりに

「『不期生還』と書いてください」

 と求めたといいます。

 緒方が揮毫した、横一間にもおよぶ四文字はいま、葦津の提唱で30数年前に創設された明治神宮の武道場「至誠館」のロビーに掲げられています。緒方らしい骨太の文字ですが、心なしか憂色を帯びているようにも見えます。どんな思いで、緒方はこれを書いたのでしょう。

 朝日新聞発行の伝記『緒方竹虎』に、終戦直後の昭和20年12月、連合軍に戦争犯罪を問われながら、健康を害していたため巣鴨拘置所への入所を延期し、自宅静養していたころの心境を書いた「遺稿」が引用されています。そのなかで緒方は開戦前夜を振り返り、自分を責めています。

「独り静かに敗戦の跡を追憶すると、何としても責任感のひしひしと胸に迫るものがあり。それは……自分の半生を投入した新聞記者ないし新聞主筆としての責任である。……日独伊三国同盟が調印されたとき、日本の新聞幹部の大多数は、これに反対であったと思う。……
 しかしいかなる国内情勢があったにせよ、日本国中一つの新聞すらも、腹に反対を懐きながら筆に反対を唱えなかったのは、そもそもいかなる悲惨事であったか。それは誰に向かっていうのでもない。日本一の新聞の主筆であっただけ、自分は自分を責めねばならぬのである」


◇2  統制の時代に迎合した大新聞

▽説明にならない理由

 平成7年2月にはじまった朝日新聞の連載「戦後50年 メディアの検証」は、戦前・戦後の言論統制下の新聞の実態をみずから検証する、従来にない画期的な企画で、新聞が統制の時代に迎合した姿を描きました。

「4 軍神」では、

「満州事変から2・26事件を経て太平洋戦争へ。急展開する時代のうずの中で、言論報道の自由は窒息状態に追い込まれた。抵抗力を失った新聞は『政府・軍部の伝声管』(塚本三夫・中央大学教授)となって人々を『聖戦』に駆り立てた。そのための格好のテーマとされたのが真珠湾攻撃の『九軍神』に代表される軍国美談だった。敗戦までの3年半あまり、新聞は紙面を『戦意高揚』で塗り込める」

 と書いています。

 また、「5 検閲と報道統制」では

「敗戦まで新聞など日本のメディアは、あらゆる分野で何をどう伝えるかについて、軍・政府の統制を受けていた。統制は満州事変以降、太平洋戦争末期になればなるほど厳しさと細かさが増していった。新聞側は、その流れに強く抵抗できないまま、次第に迎合していく」

 と記しています。

 たしかに戦前・戦中、「新聞の自由」「報道の自由」は奪われていました。「言論の自由はなかった」のは、まさにその通りでしょう。

「統制に反して新聞を作ることは、当時の検閲体制の下では事実上不可能だった。もしできたとしても、発禁などの処分が待っていた」。

 実際、汪兆銘の極秘来日をスクープした「東京夕刊新報」が新聞法と軍機保護法違反に問われ、危機時の掲載からわずか1カ月で廃刊に追い込まれたことを、「メディアの検証」は伝えています。

 しかし、「自由」を奪われていたことが、時代に「迎合」していったことの合理的説明になり得るのでしょうか。『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』(1995年)は、「新聞統制機構の確立」や「日本新聞会の発足」を追い、「新聞の自由」が奪われていく過程をくわしく説明しています。そこから浮かび上がってくるのは、権力と対抗して闘う新聞人の勇姿とはほど遠い、権力にいたぶられる哀れな受け身の姿なのですが、はたして真実はそうだったのでしょうか。

 たとえば、日米開戦を目前にして、昭和16年5月、「社団法人日本新聞連盟」が設立されます。『社史』は、新聞会は統制機構をつくって再編成すべきである、という政府・軍の圧力に抗して、不利な条件を飲まされるより先手を打った方が得策、という朝日の緒方の判断から「新聞事業の自治的統制団体」を発足させたと説明していますが、結局、政府の統制に屈したことは否めません。そうした実態を招いた真因はどこにあるのでしょうか。


▽商業ジャーナリズムの限界

 葦津珍彦の子息の泰國は『日本の新聞百二十年』(年)で、新聞連盟は「一応民間の自主機構」だが、連盟設立で新聞が

「実質的には国の指令で動くスピーカーにされてしまった」

 と書いています。その原因は、ほかならぬ新聞自身が作った自業自得と指摘しています。

 泰國によれば、いまだ報道の自由が確保されていた時代、新聞はこぞって国民に「反英米」「反支那」をあおり、読者を獲得した。主義主張ではなく、新聞の営業政策に動かされた国民の世論が、戦時下の政府に強力な統制を可能にさせ、その結果、今度は新聞が金縛りにあい、言論の自由を封殺された。つまり、「社会の木鐸(ぼくたく)」としての新聞を無力化させた第一の原因は、「ビジネス」としての新聞だというのです。

「新聞各社は、日本にとって、米英がどれほど脅威であるかを知っていた。知っていながらそれを隠し、世論にこびて世論をあおった。そして自分の首を絞め、日本の首を絞めていった」。

 泰國は手厳しく批判しています。

「大東亜戦争の末期は、いったいこれが新聞史というジャンルに入るのかどうか、私は原稿を書きながら、首をかしげる状態である。新聞社と名乗る会社は存在した。記者と称する職業はあった。しかし新聞社は軍の印刷所であり、記者は筆耕の職工であったのではなかったか」。

 筆を曲げるくらいなら、なぜ筆を折らなかったのか、記者としてのプライドはなかったのか、と泰國は迫っています。

 緒方は戦後、「米内光政を憶う──三国同盟をめぐって」(「文藝春秋」昭和24年8月号)で、

「日独伊軍事同盟は日本にとって和戦いずれを選ぶかの岐路であった」

 と述懐しています。けれども、先述したように、腹では反対でありながら、筆で反対を唱えることができなかったのでした。緒方はその背景を、戦争裁判の準備資料「自らを語る」でこう告白しています。

「僕は1921年、ニューヨークのネーション社を見たとき、新聞が強い主義主張をもって立つためには週刊新聞的な少人数によって作られる広告収入に依存しないものでなくては駄目だということを深く感じた。新聞社の収入が大きくなればなるほど資本主義の弱体を暴露するのである。朝日新聞もまたその例に漏れない。新聞資本主義は発禁や軍官の目を極度におそれる。
 満州事変以来、その資本家をめぐる重役を不安ならしめないようにしながら少しでも新聞の立場を貫こうとすることはあまり愉快な仕事ではなかった。それでもなお多少の新聞的良心を捨てなかったのであるが、昭和13年国家総動員法が布かれるにいたって、ついに手も足も出なくなった。新聞記者としてかりに筆を曲げぬまでも、いうべきことをいわずして過ぎるほど苦痛はない。
 いわゆる新体制運動に対し、日支事変に対し、三国同盟に対し、大東亜戦争に対し、朝日新聞にもし幾分かの弁疏(べんそ)が残されているとすれば、それは一番遅れて賛成したという意外に何ものもない」

 緒方が見据えているのは、新聞ビジネス、商業ジャーナリズムの宿命的限界なのでしょう。もとよりジャーナリズムはビジネスとして成り立ちがたい。新聞経営が赤字になることは分かり切っている。大所帯になればなるほど、赤字はかさむ。緒方はジャーナリストと経営者のはざまで、どれほど苦しんだことでしょうか。

 緒方は続けて、

「昭和16年12月8日の大詔渙発はこの意味からむしろ僕の両親の負担を軽くするものであった。大詔ひとたび渙発さるればただ戦うのみである」

 と述懐しているが、それは掛け値なしの実感、本音なのでしょう。

『朝日新聞社史』はいかにも新聞が戦争回避に努力した平和主義者のように書いていますが、『社史』自身が認めているように、じつに皮肉なことに、そして驚くべきことに、政府による情報統制が進むことで新聞社の販売経費は節減され、一方、発行部数は紙不足の時代にもかかわらず、じつに戦後の高度成長期を上回る比率で拡大し、昭和15年には全社で300万部を超え、社の収入も増大したのです。

 愛知大学の江口圭一は、『日本帝国主義論』で、

「強調されねばならないのは、この両大紙(朝日と大阪毎日・東京日日)が新聞社としての能力・機能のほとんどすべてを傾注して(満州)事変の支援につとめ、事変そのものを自己の不可欠の構成部分に組み込み、戦争を自己の致富の最有力の手段として、この制覇を成し遂げたという事実である」

 と書いています。

 満州事変に始まる、無謀で愚かともいうべきあの戦争を踏み台として、大新聞は大きく成長したのです。『朝日新聞七十年史』は「経理面の黄金時代」「新聞は非常時によって飛躍する」とまで表現しています。

 その一方で、仁義なき大新聞の読者獲得競争やビジネス競争に巻き込まれて、「時事新報」や「国民新聞」など、小なりといえども個性的なクオリティー・ペーパーは廃刊、吸収を余儀なくされ、消えていきました。

 緒方は前述の「自らを語る」に、昭和13年の国家総動員法成立で「手も足も出なくなった」と回顧していますが、抜き差しならない事態に立ち至る前に、手を打つことはできませんでした。というよりも、軍部と提携して、営業政策的に「戦争キャンペーン」を繰り広げる大新聞は、統制に迎合するどころか、むしろ「時流の演出者」だったのでしょう。東条首相の政敵・中野正剛の死、そして日本の敗戦はその帰結ではなかったでしょうか。

▽中野正剛の死

 朝日新聞は昭和18年正月早々、発禁処分を受けます。問題となったのは、元旦の新聞に掲載された衆院議員・中野正剛の署名論文「戦時宰相論」でした。情報部の検閲はパスしていたのですが、東条首相の逆鱗に触れ、発禁になったのです。緒方の「人間・中野正剛」(「文藝春秋」昭和25年8月号)によると、こうです。

「一文の趣旨は『東条に謹慎を求むるにあるのだ』と語っていた。『戦時宰相論』は一字の無駄もない荘重な名文章であった。そこには粛殺の気に迫るものはあるが、反戦とか変乱の示唆とか政府の忌諱にふれるべきものは何もののもない。したがって東条の一顰一笑(いっぴんいっしょう)を極度に病んだ当時の検閲官憲すら何らの危惧なく明けて通したのであった。
 しかるに驕慢(きょうまん)の極に達した東条は朝食の卓上これを一見するなり、怒気満面かたわらの電話機を取り上げ、彼みずから情報局に朝日新聞の発売禁止を命じたのである。驕慢の彼に中野正剛の名が端的に目障りだったのであろう」

 同年10月、中野は東条内閣打倒の重臣工作の嫌疑で検挙され、釈放後、自宅で壮烈な割腹自殺を遂げます。中野をそこまで追いつめたものは何だったのでしょうか。

 緒方は

「自刃と聞いた瞬間、ついに東条によって殺されたなと思った」(前掲「人間・中野正剛」)

 と書いています。遺体と対面したあと、政治部のデスクにもどった緒方は

「東条のような奴は縛り首にあうがいい」

 と吐き捨てるようにいった、と『社史』は記しています。中野の葬儀委員長を務めたのは緒方でした。緒方にとって、中野は小学校、中学校時代からの友人で、東京高商から早稲田専門部に移ったのも、朝日に入社したのも、中野の勧めからでした。中野は政治家になる前、朝日の記者でした。

 しかし「東条によって殺されたな」と緒方は思ったといいますが、そうとばかりはいえないでしょう。言論機関である新聞自身がはからずも言論封殺の時代を作り上げてしまったのだとしたら、東条首相を批判するだけでは済まないのではないでしょうか。緒方は生涯の友人として中野の最期を見送りました。けれども、同じ言論人として、中野の言説を支えることはできませんでした。

 新聞人の筆を折る勇気の無さ、主義主張より経営を優先せざるを得ない苦渋の選択が、結局は友人の中野を死に追いやり、幾千万余の国民を死地に赴かせたのではないでしょうか。しかし、それを攻め立てるほどの正義は私にはありません。


◇3 東条体制と闘う在野の神道人

▽百数十種の神道書が発禁処分に

 東条内閣の言論・思想統制に強く抵抗したのは、大新聞ではなく、意外にも葦津珍彦ら在野の神道人であり、ミニ新聞だったようです。

 東条内閣はきびしい統制政策を、独裁的にヒステリカルに社会の隅々にまで及ぼし、思想政策ではナチス流のナショナリズムを押しつけようとしたといわれます。通俗的な理解では、たとえばもっとも社会的影響力のあった今泉定助のような神道家たちこそが、好戦的な戦時思想の強力な推進者とされていますが、事実は異なります。今泉は逆に東条内閣の思想統制の受難者なのです。

 葦津珍彦によると、昭和16年の暮れに「大東亜戦争」という未曾有の大戦争が勃発するや、国民精神の高揚がつよく求められ、人々は今泉に大きな期待を寄せました。今泉は、政治家、官僚、軍人など幅広い人々がその熱烈な神道的国体論に耳を傾けた、当時随一の神道思想家です。歴代総理はほとんどがその教説を聞きました。陸軍参謀本部の要請で、参謀一同に数日間、国体論を連続して抗議したこともありました。

 日米開戦直後の16年末には、今泉は首相官邸で東条首相を前にして神道論を講義しました。翌17年正月にはラジオで連日、国民の決意を促し、その後、各地を旅行し、国体論を講じたといいます(葦津「今泉定助先生を語る」)。

 ところが、東条内閣は、宮内省の官僚が唱えた、天照大神以前の神々を否定し、天照大神信仰に統一する官僚的な合理主義的神道論を正統とし、17年2月、今泉の神道論「皇国史観の展開」(「皇道発揚」17年2月号)をはじめ百数十種の神道書を発禁処分とします。

 今泉が唱える宇宙神としての天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下の神格論は神秘思想に通じ、ナチス流の地上天国論とは通じがたい。民族至上のナショナリズムの根拠としては不適当と判断されたのです。国体を讃美するのみで、現状を肯定する「国家神道」体制にとって、「皇道文化」による世界救済、いわゆる「世界皇化」をよびかける今泉の神道論は受け入れがたかったようです。


▽葦津珍彦の東条内閣弾劾

 東条内閣の官僚神学に対して、神道の伝統を侵すものとしてはげしく反対したのは在野の神道人です。東条流の「国家神道」は在野神道の敵対者でした。

 とくに葦津は、緒方からの情報で、日本は戦争に勝てない、戦局を強化し維持しながら、速やかに「名誉ある和平」を求める必要がある、と考えていました。そのためには東条内閣の無責任な言論思想統制を破らなければなりません。戦局は楽観を許さないのに、首相は連戦連勝のデマ放送で国民をあおっていました。天皇が開戦の詔書で

「いまや不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くにいたる。洵(まこと)に已(や)むを得ざるもあり。豈(あに)朕が志ならむや」

 とやむなく戦端を開かれたことを明言し、和平を望まれているのに、「全体主義と民主自由主義の世界的思想決戦」「百年戦争」などと戦線拡大に突き進んでいました。

 葦津は、内閣の情報統制に昂然と抵抗し、弾劾のパンフレットを発行しました。朝日の緒方も密接な連絡をとって、協力したといいます。

『神社新報五十年史』によると、批判の論点は5項目で、葦津は、

(1)古事記は批判してはならない皇国の神典か、それとも中国思想による書籍で、国体違反を含むものなのか、

(2)古事記冒頭の天地創成神話は日本民族の信仰か、それとも中国伝来の思想か、

(3)天之御中主神を否定、あるいは軽視する所論こそ神典を冒涜する説ではないか

 ──などと迫り、同時に検閲の不法性を糾弾しました。

 問題が提起されるや、「報国新報」「皇道日報」「帝国新報」「大日本新聞」など、あまり馴染みのないようなミニ新聞が賛同し、東条内閣打倒をめざす人々が結集しました。神社関係の民間団体である皇天講究所、大日本神祇会の理事らも「個人的立場」で同意を表明、形成は逆転し、官僚神学を立てた宮内省官吏は依願免職となり、逆にその著書が発禁となりました。何よりも内閣の維新を著しく傷つけることになり、17年8月、検閲方針は撤回されざるを得なくなります。


▽戦時刑事特別法の改正に反対

 18年3月、東条内閣は、前年3月に施行された「戦時刑事特別法」の改正を強行し、「戦時に対し国政を変乱する」おそれのある一切の言論を禁圧しようと目論みました。

 葦津はみずから実質的な編集責任者をつとめる「報国時報」に次々と批判の論説を発表し、抵抗しました。きわめつきは、神平隊の天野辰夫、前田虎雄両人の東条批判を「報国新報」(3月7日)に同時編集し、貴族院、衆議院で頒布したことです。議場への入場キップは中野正剛の協力で手に入れたようです。

「吾人は警告せねばならぬ。幕府専制の武将といえども、『天皇』より将軍宣下の御沙汰を拝したる歴史的事実は、あまねく人の知るところである。彼らもまた自己をもって『天皇の御信任ある者』と錯誤したのである。征夷大将軍もまた『天皇の御任命』によりて、その権力を得たのである。ただこれを濫用し、過度に拡張したるがゆえに、皇国体をみだす者となったのである。
 在朝の有司諸卿、諸卿が一億の皇国民の赤子の真情に信頼するあたわず、天下の公儀公論を敬するの道を知らず、これを暴圧せむとする権限を要求するとき、諸卿はすなわち専制的幕府を再建せむとするの危機に瀕するものなるを悟らねばならぬ」

「前田虎雄」の筆名で掲載されたこの論説は、前田と共謀して葦津が書いたものといわれるが、翼賛政治のこの時代、筆者の真情は議員たちにどこまで届いたでしょうか。

 葦津によれば、大政翼賛会は今泉の主張を一つの源流とします。今泉は、西欧流の功利的政治原理を破棄し、政党を解消し、日本独自の祭政一致の道義政治に還れ、と勧告しました。皇祖の神勅をよく学び、神勅を奉じていくように努めれば、おのずから一億一心の道義政治が実現する。議会政治家は政権争奪の政党を解消し、禊祓(みそぎはらい)を修業し、私心私欲を去り、皇祖神の神勅をかしこみ、政府に対する厳正なる批判者たれ、といいたかったようです。

 ところが、15年10月にいざ政党が解消され、翼賛政治が始まると、権力争奪の泥仕合は見られなくなった反面、政府に対する批判力をも失い、「無能無能の存在」となってしまいます(前掲「今泉定助先生を語る」)。それはよくいわれるような国家が神道と結びついた「国家神道」体制がもたらした結果ではなく、逆に国家が神道的道議精神を失った結果としての悲劇なのでしょう。

 さて、葦津らの行動に、東条が激怒したのはいうまでもありません。姿をくらました葦津の身代わりに、近親者十数名が検挙され、やがて「人質釈放」のために自首した葦津は、検事に

「帝国憲法上、われわれが不法か、東条が不法か」

 と憲法論争を迫りました。当時の葦津は憲法学者の井上孚麿(たかまろ)から憲法論を学び始めたばかりでしたが、論争には自信がありました。検事は沈黙して、取り調べに来なくなり、釈放された、といいます。

 東条内閣が倒れるのは翌年19年の夏でした。

 余談ですが、東条とは「戦争屋」だったのでしょうか。それとも「独裁者」だったのでしょうか。毎日新聞の岩見隆夫は、映画『東京裁判』を見て、

「貧相で気弱に写り、ただの凡夫にしか見えなかった」

 という「一種の意外感」を書いています(「東条英機論」)。

 政敵の中野正剛は壮絶な割腹自殺を遂げましたが、「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」の「戦陣訓」を全軍に示した東条は敗戦後、二度、自殺をこころみ、二度とも未遂に終わり、「カミソリ東条の威名」とはかけ離れた無様な醜態をさらした。それは「弱い男」の一面だが、なぜ性格的に弱いような軍人が首相となり、大戦争の首謀者を演じたのか、と岩見は問いかけ、

「気弱な面をもつきまじめな人物が非常時の宰相になり、強権を手にしたときの悲劇の典型」

「不幸な時代にめぐり合わせた不幸な軍人宰相」

 と分析しています。

 興味深いことに、東条体制をはげしく追及した葦津は、

「戦中は、東条英機首相は当然裁判にかかるべき犯罪人だと信じていたのですが、(戦後に戦争)裁判が始まってみると、だんだん弁護的な気持ちに変わっていったんです」(鶴見俊輔編『語りつぐ戦後史?』)

 と語っています。東京裁判でキーナン検事らの追及を聞き流しながら大あくびしている東条を見て、

「(人間的に)好きになった」

 と漏らしていたともいいます。罪を憎んで人を憎まず、が日本的神道的精神だということでしょうか。


▽大新聞の“無責任”

 三重県津市が神式の地鎮祭を主催したことが憲法の政教分離規定に違反するかどうかが争われた「津地鎮祭訴訟」で最高裁は昭和52年7月、「合憲」の判決を示しました。判決はともかくとして、判決理由に

「わが国では、国家神道に対し、事実上国教的な地位が与えられ、時として、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた」

「明治維新以降、国家と神道が密接に結びつき、種々の弊害を生じた」

 とあるのは妥当でしょうか。

 このとき最高裁長官としては「合憲」判決を言い渡しながら、一判事としては異例なことにほかの3人の判事とともに「反対意見」を述べ、それでも飽きたらずにさらに長文の「追加反対意見」を書いた藤林益三は、退任後、

「とにかく日本は戦争を起こしたのです。これには、軍国主義と神社神道とが手を結んだことに大なる原因があります」(『藤林益三著作集3』)

 と述べていますが、果たしてそのように断定できるのでしょうか。

 平成9年4月の「愛媛玉串料訴訟」判決は「津地鎮祭訴訟」判決とまったく同じ歴史認識を示していますが、これに対して、可部恒雄裁判官は長文の「反対意見」を書き、

「戦前・戦中における国家権力による宗教に対する弾圧・干渉をいうのならば、過酷な迫害を受けたものとして、神道系宗教の一派である大本教などがあったことが指摘されなければならない」

 と、「多数意見」を批判しました。

 可部のいう神道系新宗教の大本教ばかりではありません。「明治維新以降、国家と神道が密接に結びつき、種々の弊害を生じた」どころか、すでに見たように、今泉定助など神道人の主流が宗教迫害の受難者でした。そして受難に立ち向かい、戦時体制と果敢に闘い、風穴を開けようとしたのが、葦津珍彦ら在野の神道人でした。

「津地鎮祭訴訟」「愛媛玉串料訴訟」の最高裁判決に示されたような、国家と神道が結びついた「国家神道」が神社参拝の強制や宗教迫害を招き、「侵略戦争」の元凶となったとする「国家神道=戦犯」論は歴史の真実をいいあてているとは思えません。いったい「法の番人」たちはどのような事実認識の許に、このような判決を書き続けているのでしょうか。

「玉串料訴訟」判決の翌日、社説に

「厳格な政教分離規定が設けられた原点は、戦前から戦中にかけて『国家神道』が軍国主義の精神的支柱となり、あるいは一部の宗教団体が迫害されたことへの反省だったことを思い起こしたい」

 と書いた朝日新聞もまた同様でしょう。軍国主義をあおり、無辜の国民を無謀な戦争に駆り立てたのは、ほかならぬ大新聞自身ではなかったでしょうか。

 自分たちが政府の情報統制に対して、葦津ら在野の神道人ほどに食い下がったことはあったかどうか、大新聞は「思い起こす」べきでしょう。大新聞の「無責任」さはこの社説に象徴的に現れているように思います。

 次回は、戦後、新聞人と神道人がそれぞれ「戦争責任」とどう向き合ってきたのか根「新聞の戦争責任」とは何か、について、さらに迫りたいと思います。
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朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 日中戦争期  第1回 師弟関係にあった緒方竹虎と葦津珍彦 [戦争の時代]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 朝日新聞と神道人、それぞれの戦争 日中戦争期
 第1回 師弟関係にあった緒方竹虎と葦津珍彦◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ずいぶん前の8月15日、靖国神社の境内で高齢の女性と出会いました。
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 大空襲で焼けだされ、焼け野原をさまよい歩いたこと、家まで失ったこと、最近まで昭和天皇を恨んでいたことなどを話してくださいました。自分は戦争の被害者だというわけです。

 私が興味を持ったのは、その続きでした。女学校を出て、ある財閥の中心企業に勤めていたその女性は、家が焼けたことで会社から100円という大金を見舞金としてもらったというのです。

「お母さん、あなたは被害者ではなくて、その逆ではないのですか?」

 一瞬の沈黙のあと、女性は「難しいことは分からないけど」と言葉を濁し、それ以上、戦争の話をするのをやめました。

 被害者か加害者か、に分けること自体、無理があると思うのですが、世の中には自分を被害者に仕立て上げ、加害者としての自分に向き合おうとしない人たちもいます。

 その典型が日本のマスメディアです。

 というわけで、月刊「正論」平成10年2月号に掲載された拙文を転載します。なお一部に加筆修正があります。

 蛇足ながら、私が一般の雑誌に署名入りで書いた最初の記事です。その意味で思い出深い、記念すべき論考です。



▽はじめに

 愛媛県が靖国神社の例大祭に玉串料(たまぐしりょう)を公費から支出したことなどが憲法の政教分離原則に違反するかどうか、が争われた「愛媛玉串料訴訟」の上告審で、最高裁は平成9年4月、違憲判決を言い渡しました。

「公費の支出は特定の宗教団体と特別の関わりを持ったことが否定できない」などとした大法廷による判決は大きな社会的反響を呼びましたが、私が注目したいのはこの判決そのものより、むしろこれに関連して説明されている、次のような近代史についての裁判所の理解です。

「わが国では、国家神道に対し、事実上、国教的な地位が与えられ、時として、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し、きびしい迫害が加えられた」

「明治維新以降、国家と神道が密接に結びつき、右のような種々の弊害を生じたことに鑑み、政教分離規定を設けるにいたった」

 多数意見のほかに、3人の裁判官の「補足意見」ならびに「意見」にも同工異曲の「国家神道」批判が繰り返されています。

 いわゆる靖国問題の根底には、戦前の宗教史や先の大戦をどうとらえるか、という歴史理解の問題が横たわっています。そして国家と神道とが結びついた「国家神道」が神社参拝の強制や宗教迫害を招き、「侵略戦争」の元凶となったという考え方は、とりわけ「反ヤスクニ闘争」を中心的に展開してきたキリスト者や知識人のあいだでは“歴史の常識”ともなっています。

 そして、裁判所も同様の理解を示していることをこの判決は示しています。

 戦後のジャーナリズムもまた同じ歴史理解を示してきたことは、朝日新聞が判決の翌日の社説に、「厳格な政教分離規定が設けられた原点は、戦前から戦中にかけて、『国家神道』が軍国主義の精神的支柱となり、あるいは一部の宗教団体が迫害されたことへの反省だったことを思い起こしたい」と書いていることに明瞭に現れています。

 しかし、こうしたいわば「国家神道=戦犯」論は、歴史の真実をどこまでいいあてているのでしょうか。

 朝日新聞論説主幹として戦後の朝日新聞およびジャーナリズムをリードした森恭三は、論説顧問の立場にあった35年前の昭和47(1972)年、新春企画「未来からの回顧 日本外交のビジョン」で、「避けられぬ戦争責任」を取り上げ、次のように主張しました。

「戦争責任は、対外的にも対内的にも、日本人自身の手によって究明すべきであった。それをやらなかったから、何のため戦争をやり、何のため戦争に敗れ、何のため国民が塗炭の苦しみを受けたか。また、なぜ日本は敗戦国のなかではただ一国、戦争犯罪人が返り咲いて政治に大きな発言権をもっているのか。そういった戦後日本の政治問題の一番かんじんなところがボケてしまうのだ」

 森氏の説はじつにもっともですが、「大本営発表」を垂れ流しにして真実を報道せず、国民を戦争の狂気へと駆り立てたといわれる大新聞こそ、「戦争責任」の追及から免れることはできないでしょう。まるで他人事のように、「『国家神道』が軍国主義の精神的支柱だった」などという社説を書いて、口をつぐむことは許されないはずです。

 森氏のいう「戦争責任」について、あらためて考えてみたいと思います。その一つの方法として、ここでは日本を代表する大新聞の「朝日新聞」と、一般には無名に近い神社界の専門紙「神社新報」とにスポットを当て、後者については創刊前史にさかのぼって、新聞人が、あるいは靖国問題ではげしい社会的指弾を浴びている観のある神道人が、先の戦争とそれぞれどう向き合ってきたのか、歴史の真実に迫ってみたいと思います。そうすることによって、ヤスクニ裁判の「国家神道」批判の妥当性が、ひいてはヤスクニ裁判の司法判断の妥当性が明らかになると思うからです。


◇1 緒方竹虎と葦津父子

▽もう一本の糸は頭山満

 朝日新聞と神社新報とは、意外に近い関係にあります。

 というのは、昭和9年から18年末まで朝日新聞主筆として筆政を担当し、のちに自由党総裁となる緒方竹虎と、神社新報の、事実上の主筆としてほとんど一貫して社を代表した葦津珍彦(あしづ・うずひこ)とは師弟関係にあるからです。

 昭和21年に創刊した揺籃期の神社新報を育てたのは緒方であり、その存在がなければ同紙の歴史はあり得なかったでしょう。戦後唯一の神道思想家として知られる葦津の、新聞人としての才能を花開かせたのは、ほかならぬ緒方でした。

 緒方は明治21(1888)年、山形に生まれましたが、4歳のとき内務官僚であった父・道平の転勤で福岡に引っ越し、東京高商(いまの一橋大学)入学までをここで過ごしました。同じ福岡に生まれ育った葦津の父・耕次郎とは同郷のよしみで、古くから縁故があったようですが、2人を結ぶもう一本の糸は、俗に「右翼の総帥」ともいわれる玄洋社の頭山満でした。

「右翼的傾向を好まなかった」という緒方にとって、唯一の例外が頭山でした。頭山もまた福岡の生まれです。緒方は戦後、「戦犯」に指定されたとき、裁判の準備資料「自らを語る」(嘉治隆一『緒方竹虎』1962年所収)にこう書いています。

「東京に来て郷党の先輩として頭山の門に出入りするあいだに、そのまったく私のない人格に打たれた。頭山は暗殺団の親玉のようにいわれるが、彼は一面において学者である。孔子教の論語に対する造詣はきわめて深く、ほとんどその章句を諳んじている。それゆえに彼は世間の想像とは反対に日支事変には最初から反対であった」

 一方、葦津耕次郎は、大正8(1919)年、10歳の珍彦を連れて福岡から上京し、かつて筑前黒田藩の下屋敷が並んでいた麻布・霊南坂の頭山邸の隣に居を構えます。耕次郎にとって頭山は、もっとも畏敬し、傾倒する絶世の英雄であり、頭山の言葉によれば、耕次郎とは「『敬』と『親』をもって交わる」、数少ない間柄だったといわれます(葦津珍彦「頭山満先生」)。

 緒方と耕次郎とがとくに親しく交わるようになったのは、もっとあとで、昭和12年夏の日中戦争勃発以後のようです。耕次郎は3年後の15年6月にこの世を去るのですが、その死を悼んで緒方は、「最近において、私の心境の上に翁くらい強い影響を与えた人はいない」と言い切っています。

 それほどまでの深い交流をするようになったきっかけは、ほかでもない戦争だったようです。緒方の説明によると、こうです。

「翁と私とは同じ福岡県の出身であるが、3、4年前までは、たまに頭山邸などで顔を合わせるくらいで、親しく翁の教えを受ける機会はなかった。それが、ある問題の会合をするようになってから、急に親しくなった。翁としては、そのころ朝日新聞がともすると左翼だという評判を立てられるので、私を通じて国体観念を明徴にしてやりたいという老婆心も一面に手伝っていたと思う。とにかく、一度足を向けられて以来の翁は、ほとんど3日にあげず私の社に立ち寄られ、来られると2時間くらいは、わが国の歴史、祭祀の重んずべき所以、君民一体観、公私一如観などなど、説き去り、説き来たって、帰るを忘れられるありさまであった」(「葦津翁の思い出」)

 緒方のいう「ある問題」とは日中戦争であり、事変によって発生した「支那難民救恤問題」のようですが、そのことは追々述べるとして、まず耕次郎の略歴を見てみましょう。


▽福岡・筥崎宮(はこざきぐう)の社家

 耕次郎は、緒方とは10歳違いで、明治11(1878)年に生まれました。生家は福岡・筥崎宮の社家で、父・磯夫は明治維新後、同社宮司(祠掌)に就任し、神祇官復興、教育勅語起草などに関わり、晩年は福岡県神職会長をつとめました。また、日本初の手形交換所を創立し、勧告の貨幣制度改革に取り組むなど活躍した大三輪長兵衛は伯父に当たります。

 耕次郎は終生、熱心な信仰家でしたが、神職として一生を送ることなく、事業家となりました。熱情家にして豪傑でした。「俺の全生命は国家と八幡様(筥崎宮は古くから八幡神をまつる神社として知られています)のもの」というのが信念で、採算確実な事業にも見向きもせず、前人未踏の事業を開拓することに情熱を傾けました。

 満州軍閥の張作霖を説いて鉱山業をおこし、あるいはまた、台湾から檜を移入し、全国数百カ所に上る社寺を建設しました。その一方で、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく、天照大神をまつることに強く抵抗したり、韓国併合に反対するなど、逸話の数には限りがありません。緒方ととくに交流のあった晩年は、社寺建築専門の工務店の経営者でした。

 その後、病に倒れた耕次郎に代わって、珍彦は週に1、2回、朝日本社に緒方を訪ね、父親との連絡役を務めるようになりました。編集部への出入りはノーパスで、情報統制の厳しい当時、報道禁止のニュースにも接することができたようです。

 緒方は、時間があると2時間も、「きわめて懇切に時事を論じ、歴史を語りして、私(珍彦)を教えられたことが多い」(「故緒方竹虎大人の追想」)といいます。

 けれども、緒方と葦津二代の交流は、朝日新聞発行の伝記刊行会編著『緒方竹虎』(1963年)にも記されておらず、一般には知られていません。


◇2 葦津珍彦の上海戦線視察

▽日本軍の暴状

 日中戦争が勃発した昭和12年の暮れ、葦津珍彦は上海特別市の蘇錫文市長の招きで訪中します。そして激戦が伝えられる上海戦線で目を覆うような事態を目撃します。戦線の惨状は予想を絶するものがあった。日本軍の軍規はみだれて暴状著しいものがあった」。珍彦は翌13年1月、帰朝報告にそう書き記しています。

「いまや中支戦線は、日本軍によって荒廃に帰して終わった。すべての婦女子は辱められた。かかる惨事はおそらく近世の東洋史の知らざるところであろう。……この日本軍が皇軍と僭称することを天はゆるすであろうか」(「上海戦線より帰りて」)

 弱冠28歳の正義漢はいったい何を見たのでしょうか。強烈な表現で描写されている事実とはどのようなものだったのでしょうか。

 珍彦ののちの述懐によると、蘇錫文が建てた浦東地区の上海特別市には、戦火を避け、安全を求めて、何十万という難民がジャンクを駆って殺到していました。珍彦はそこで孔孟の古典を想起したといいます。重税を課さず、民心を安からしめる仁政をしき、民の信を得れば、天下の民が集まる。それが政治の第一義である。当たり前すぎる平凡な政治論だが、この孔孟仁政の第一義を確立することこそが大切なのだ、と深く実感したといいます。

 反面、上海戦線では異常な心理が戦場をおおい、戦慄すべき事件が相次いでいたのでした。珍彦は、軍規粛正が人道上からも、祖国日本の信用を維持する上からも必要だ、と痛感し、帰国後、父親とその友人たちに早期和平を訴えました。しかし激烈な報告書は最初、誰にも信用されなかったようです。新聞報道などで伝えられる戦況とあまりにも異なっていたからでしょう。

 暴状の事実を確認したのは、緒方でした。緒方は、珍彦の父・耕次郎に電話をかけてきました。

「きのう珍彦君の話を聞いて驚いた。新聞人として情報に精通しているつもりであった。戦線で2、3の不詳事故の起こったニュースは知っていた。しかし戦線一般の空気が、珍彦君のいうようなものとは想像しなかった。きのうあれから諸方に連絡してみた結果、珍彦君の話が真実だということを確かめ得た。これはじつに悲しむべきことだが、急速に対策を講じなければならない」(前掲「故緒方竹虎大人の追想」)

 珍彦によると、緒方は「蘇氏の『大道政府』は日本当局には人気がない。記事や論説は書きにくいが、存在を国民に知らせることは、市政府の抹殺を防ぐ多少の効果がある」として、「あまりページの多くなかった時代に、全ページの面をさいて、大道政府の多くの写真を特集してくださった」

 1990年から朝日新聞は創刊111年を記念して、『朝日新聞社史』全4巻を出版しましたが、その中の『社史 大正・昭和戦前編』(1991年)は、昭和13年当時の香港を舞台とした編集局顧問・神尾茂による「朝日の和平工作」について記述しています。日中の新聞人の接触から和平の道を模索しようというもので、背後には緒方の存在がありました。

『社史』には記されていませんが、そのきっかけとなったのは葦津珍彦の上海視察であり、耕次郎の働きかけであることは間違いないでしょう。

 翌14年2月、福岡・志賀島で静養する耕次郎にあてた緒方の書状が残されています。日中戦争の平和的解決と日ソ外交の根本解決を切望し、意見を求める耕次郎への返信で、「ロシアには西郷あれど、日本には西郷種切れにて、現在とても不可能と存じそうろう」「支那の方は内閣は交替せるも策なきは旧態依然にそうろう」などと毛筆でしたためられています。

 この年の暮れには論説委員の嘉治をともなって、緒方がみずから訪中します。朝日の和平工作に神道人が影響を与えていたのです。


▽「反軍でない奴は不忠不義だ」

 他方、珍彦の上海視察のあと、伊勢神宮の崇敬団体・神宮奉斎会の会長で、当時随一の神道思想家・今泉定助は日本軍の暴状を深く憂え、上海戦線の総司令官である中支那派遣軍総司令官・松井石根陸軍大将に急遽、特使を派遣しました。また、明治神宮の有馬良橘(りょうきつ)宮司は、明治天皇の御製

いつくしみあまねかりせばもろこしの野にふす虎もなつかざらめや

 を多数、謹書して、戦線の将兵に贈るとともに、政府や軍部に対して、人道尊重について強く進言したといいます。

 今泉は歴代首相や官僚、軍人がその国体論に耳を傾けたほど、当時、もっとも社会的影響力をもった神道思想家であり、他方、有馬は海軍大将で、日露戦争の旅順港閉塞作戦生き残りの英雄です。

 有馬は12年10月に国民精神総動員中央連盟の会長に就任していました。軍の暴走を知悉していたため、老齢を理由に辞退したのですが、政府の重ねての出馬要請に熟慮の末、「国家への奉仕は御祭神への奉祀」と考え、非常な決意で会長に就任したと伝えられます(佐藤栄祐編『有馬良詰伝』1974年など)。

 この二人は耕次郎が信頼し、尊敬する人物で、晩年、「唯一の益友」「百年の知己」といわれるほどの深い交友がありました。

 また頭山の子息・泉は、父・満の揮毫した「仁者無敵」の大書を上海の蘇市長に贈呈したほか、在留邦人に蘇を紹介し、大道政府を支援したといいます。

 つまり、愛媛玉串料訴訟判決がいうように、国家と神道が結びついた「国家神道」が「侵略」戦争を引き起こしたどころか、当時の中心的神道人たちが日本軍の暴走を必死に止めようとしていたのです。

 その中でも耕次郎はというと、緒方によれば、「日支事変(日中戦争)勃発後、翁の何よりの関心は、北支・中支のわが占領地域内における支那難民の身の上であった。飢寒に苦しむ、これら難民の流離の状を考えると、翁は居ても立ってもいられぬ、というありさまであった。この問題を放擲しておいて何の将来の日支提携があるか、というのが翁の意見であった」(前掲「葦津翁の思い出」)といいます。

 アジア主義者で、前述の明治天皇の御製を日ごろから拝誦していた耕次郎に日中の区別はありませんでした。有馬宮司(国民精神運動会長)を中心とする「支那難民救恤運動」を直ちに開始させるよう風見書記官長に進言してほしい、と緒方に依頼したこともあります。実際、緒方をともなって、広田外相に進言したこともあったといいます。

 また、珍彦によると、耕次郎は、とくに子供や老人の身の上を肉親のように案じていました。権力とは無縁の一介の野人でありながら、「自分こそは人類を悲惨から救出せねばならぬ責任者である」と確信する耕次郎は難民問題解決のために、東奔西走して当局者に喉が破れるほどの大声で弁じ立てました。疲れて帰宅すると、一人悄然とうなだれ、はた目にも気の毒なほどだったといいます。

 東亜の将来を憂い、寝食を忘れ、ついに耕次郎氏は健康を損なうことになります。しかし、病に倒れてからなお軍の暴走を必死で止めようと、病床で「国難に直面し、わが政府当局の反省を望む」を執筆し、14年9月に発表します。

「そもそも戦争というものは国家人類のもっとも不祥事であって、国家の死生存亡に関する絶対的理由にあらざれば、これを敢行すべきものではない。……百戦百勝してすでに二周年を経過してなお解決の端緒を見ることのできぬのは、今次事変の目的と理由とが日支両国民をはじめ世界万邦に対し闡明(せんめい)を欠いているからではあるまいか」

 道義のない日本の官憲を送り込んだ満州の「王道楽土」は「横道烙土」の間違いだ。蒋介石政権も反省が必要だが、日本政府も反省を要する。近衛首相の「国民党政府を対手とせず」という声明がなければ、とっくに蒋政府は和を乞うていた──とする苛烈な諫諍(かんそう)論文は発表後、直ちに押収されました。

 活字にならない発言にいたってはもっと激烈で、鎌倉で静養中のところを今泉定助とともに見舞いに訪れた親友の池田清・警視総監が、発言を慎重にしないと「反軍」として司法処分せざるを得なくなる、と忠告したほどだが、耕次郎は「いまの日本で反軍でない奴は不忠不義だ」と強く反論したと伝えられます。

 珍彦によると、政府・軍部内に、耕次郎を「逮捕せよ」という論がわき上がりました。それを抑えたのは緒方だといいます。


◇3 朝日は「南京虐殺」を報道せず

▽緒方の悲壮な決意

 朝日新聞では、日中戦争勃発の前年、昭和11年ころから、大きな動きがありました。

 まず同年2月に二・二六事件が起こりました。有楽町の東京朝日新聞を60名の反乱軍が襲撃したとき、社を代表して反乱軍に応対したのは、東京朝日の主筆で朝日新聞常務の緒方です。

 事件後、東京・大阪両本社の主筆が一本化され、5月21日に緒方は全朝日の主筆となります。さらに数日後には朝日新聞代表取締役に選任され、専務取締役に就任し、緒方は文字通りの朝日の顔となります。

 しかしその背後には悲壮な決意が秘められていました。きな臭さを増す時代の予感のなかで、「朝日新聞の看板を次の世代まで通用させる」ため、一切の「戦争責任」を一人でかぶろうと覚悟したようです。

 主筆の一本化は、「当然にそれから以後の論説委員室の空気を気まずいものにした」。けれども、「その代わり、戦後の今日、朝日をめぐって幾人かの戦争で手を汚さなかった人を残し得たかと思うと、せめてもの心慰めである」(「言論逼迫時代の回想」=「中央公論」昭和27年1月号)と緒方は書いています。朝の来ない夜はありません。すでにして戦後を見定めていたということでしょうか。

 翌12年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発します。近衛内閣は不拡大方針を打ち出しましたが、軍事衝突は上海に飛び火し、戦闘は本格化します。

 いわゆる「南京大虐殺」があったとされるのは同年の暮れです。その事実の有無についてはいまなおかまびすしい議論が続いていますが、『朝日新聞社史』は「日本軍暴行事件」があったという前提で、「真実」を報道しなかったみずからを責めています。

 日本軍の南京突入直後、朝日の特派員も城内に到着し、臨時支局を開設しました。12月4、5日の両日、激烈な「残敵掃討戦」が行われました。中村正吾特派員は、ニューヨーク・タイムズなど外国特派員らと行き会って、「この目で見た南京最後の日、タイムス記者ら語る」を取材執筆し、記事は16日の朝刊に掲載されました。また、朝日の特派員たちは、日本兵に銃を向けられていた無抵抗の中国市民たちを救出したといいます。けれども、「この種の事実は国内への報道を厳禁されていた」のでした。

「南京にて中村特派員十五日発」の記事は、見出しこそ「死都を襲った不気味な静寂」と思わせぶりですが、「虐殺」についてはまったくふれていません。それどころか、街の復興を描いています。

『社史』によると、「南京アトロシティ(残虐)」の真実を事件直後に伝えられなかった後遺症は深く、30年後の昭和46年夏から本多勝一記者が『中国の旅』を連載し、日本軍の蛮行にふれたとき、囂々(ごうごう)たる非難の投書となって現れた。「多くは『中国の旅』が中国側の証言を素直に伝えたことに対する反発であった」と述べています。

『社史』は、防衛庁防衛研修所戦史室がまとめた『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)』が、占領直後の敗残兵掃討戦で多数の非戦闘員や住民が巻き添えを食らって死亡したことなどを記していると指摘します。日本政府の公式資料が「南京虐殺」を認めている、と主張したいのでしょう。

 しかし、『戦史叢書』は、終戦後の南京軍事裁判で30万人の軍民、東京裁判では6.2万人以上が虐殺・殺害されたと認定されたことに対して、「証拠を子細に検討すると、これらの数字はまったく信じられない」と、逆に否定しています。したがって『社史』の記述は正確ではありません。


▽受け身の傍観者の白々しさ

 私にとって不可解なのは、「虐殺」事件がはじめて取り上げられた東京裁判のとき、中国は「中華人民共和国」成立前の内戦状態にあり、また、本多が中国を取材した71年6~7月は文化大革命のまっただ中で、林彪(りん・ぴょう)が失脚、殺害される直前の大混乱期でした。上海では文革派が権力基盤を拡大していたときではなかったでしょうか。「虐殺」が政治利用されたであろうことは、十分、想像されますが、『中国の旅』にはこうした時代背景が見えてこないのです。『社史』も同様です。

 ただ、私は「虐殺」を全面否定するつもりはありません。好むと好まざるとに関わらず、戦争は国際法が愚かにも公認する、国家による相互破壊であり、相互殺戮です。葦津珍彦の上海戦線報告から類推すれば、生きるか死ぬかの戦場で「何もなかった」とは思えません。

 それでなければ、退役した松井司令官がどうして文子夫人と二人、熱海の伊豆山にひきこもり、隠遁生活を送るでしょうか。中国革命の孫文を敬愛し、「アジア人のアジア」を信条としていたという松井が、なぜわざわざ日中双方の将兵の血が染みこんだ土を激戦地から取り寄せ、瀬戸焼にして高さ一丈の観音像を建立し、「興亜観音」と命名して読経三昧の晩年を送るでしょうか。

 それはともかくとして、朝日新聞は結局、「南京虐殺」を報道しなかったのです。なぜでしょうか。

 朝日新聞は平成7年2月から「戦後50年 メディアの検証」の長期連載をスタートさせました。敗戦から半世紀がたって、ようやく実現したらしい画期的な意欲的な企画で、第一回目には「新聞の戦争責任」が取り上げられました。

 この記事には、「南京大虐殺」当時、ニューヨーク特派員だった森恭三は、「虐殺を伝えるアメリカの新聞を見て、それを詳細に打電したが、一行も掲載されなかった」とあります。

 このくだりは、森の『私の朝日新聞社史』からの引用のようですが、森の著書には、日本軍による南京虐殺事件は、アメリカの新聞には大々的に報道された。森はこれらを打電したが、記事にはならなかった。森は「出先と本社とのズレ」を痛感した、と書かれています。

 森の無念は理解できないわけではありませんが、「真実」を伝えるために新聞人はどこまで努力したのでしょうか。「報道を厳禁されていた」「打電したが掲載されなかった」というまるで他人事のような表現に、「新聞の戦争責任」に当事者として対峙しきっていない、受け身の傍観者の白々しさを感じるのは、私だけでしょうか。

 これに対して緒方は、前掲の「言論逼迫の回想」で、「私は戦時中、一新聞の責任者としてあまり当時の不愉快な記憶を呼び起こしたくない。何となれば、いかに弁解しても、大きな口を叩いても、結局において戦争を防ぎ得なかった責任をまぬかれないからである」と書いています。弁解を好まない緒方の真摯な姿勢に、私は時代の傍観者との「ズレ」を感じてしまうのです。


◇4 『社史』に「戦争展」の記載なし

▽靖国神社の会場で数十万人が来観

 戦争という時代ゆえに「真実」を報道できなかったとするなら、戦後はどうでしょうか。新聞人のモラルは戦後、回復されたのでしょうか。私にはそうは思えないのです。

 昭和14年1月8-15日、東京朝日新聞は、陸軍省の後援で、靖国神社の外苑を主な会場とする「戦車大展覧会」を主催しました。戦車150台を連ねて東京市中をパレードする「大行進」や陸軍の専門家の「大講演会」も開催されました。

 縮刷版を見ると、「いよいよ明日から本社大戦車展 轍(わだち)とどろく鉄牛100台 観兵式場から大行進」「きょう鉄牛大行進 同時に九段で戦車展開く」「無敵戦車、帝都を大行進 延々一里半の戦列 『戦車展』春の人気独占 叫ぶ万歳 目に涙さえ 銀座の興奮『神風』以来」「大祭そのまま 展覧会の初日の雑踏」などの大見出しが、連日のように躍っています。

 開会翌日の朝刊は「陸軍始め」の日の「戦車大行進」の模様をいかにも名調子で伝えています。耳をつんざく轟音、沿道の熱狂、万歳の叫び、歓声、紙吹雪、突っ立ったまま涙を流す老人、感極まって飛び出す日劇ダンシングチーム、テープや花束を投げる銀座のデパートの女子店員──150台を超える「鉄の猛牛」の隊列はさぞかし壮観であったでしょう。

 また、日比谷公会堂で開催された「大講演会」は、戦数百人の聴衆が石碑突せずに静聴したといいます。講演の前に挨拶に立ったのは緒方です。「戦車展」は「無慮数十万人」の来観者を数え、名古屋、大阪でも同様に催されました。

 朝日新聞はほかにも、国民の戦意を高揚させるイベントをいくつも手がけています。『社史 資料編』(1995年)には朝日が主催した展覧会、博覧会の一覧がありますが、それによると、昭和6年の満州事変以降、16年の大東亜戦争勃発までに限ってみても、次のようなものがあります。多くは軍部の後援によって開催され、博覧会は100万人以上の入場者数を記録する盛況ぶりです。

【おもな展覧会】
 戦争美術展覧会=昭和13年5月18日-6月5日。東京府美術館。
 第一回聖戦美術展=同14年7月7-23日。東京府立美術館。
 第二回聖戦美術展=同16年7月1-20日。東京・上野の日本美術協会。
 大東亜戦争美術展=同17年12月3-25日。東京府立美術館。
 陸軍美術展=同19年3月8-30日。東京都美術館。

【おもな博覧会】
 満州事変一周年記念展覧会=昭和7年9月11-20日。大阪・朝日会館。
 支那事変聖戦博=同13年4月1日-5月30日。阪急西宮球場。
 大東亜建設博覧会=同14年4月1日-6月20日。阪急西宮大運動場。
 航空総力大展覧会=同14年10月1-31日。大阪・第二飛行場。

 このうち、西宮球場とその外園で行われた「支那事変聖戦博」を主催したのは大阪朝日新聞で、こちらは陸海軍省の後援でした。


▽靖国神社国家援助を当然視した緒方

 不思議なことに、『朝日新聞社史』には大阪朝日の「聖戦博」は載っているのですが、東京朝日の「戦車大展覧会」の記述はまったく見られません。『社史 資料編』の博覧会の一覧にも年表にも記載はありません。単純なミスなのでしょうか。それとも靖国神社が会場だったことに、何か不都合でもあるからなのでしょうか。

 疑問に答えて、朝日新聞広報室は「すべての社業を社史に網羅するのは物理的に困難。意図的に外したのではない」「(掲載・非掲載の)はっきりとした基準があるわけではありませんが、取り上げているのは(当時)社業にとってとくに重要なこと」と説明しています。

 だとすると、当時の少ないページ数の中で、連日、写真を多用し、関連の連載ものも含めて複数のページにわたって大々的に報道し、講演会には主筆が挨拶するほど社をあげて取り組んだ大イベントは「重要」ではない、ということになり、説明がつきません。「古傷にふれたくない。ふれられたくない」「戦争協力の実態を糊塗したい」というのが本音なのではないでしょうか。

 さらにいえば、話が飛びますが、平成9年2月、朝日新聞は、新聞休刊日の前日の日曜日というタイミングで打たれた共同通信の「単独スクープ」を急追するようにして、「愛媛玉串料訴訟」判決の予測記事を掲載しました。最高裁の合議内容にまで踏み込んだ記事は前代未聞で、秘密漏洩疑惑にまで発展しました。記者同士のはげしいスクープ合戦というより、靖国神社に対する際だった偏見があるのではないか、という疑いが晴れません。

「いたずらに自社の業績を自画自賛する、お手盛りの履歴書ではけっしてなく、客観的に誇れるものは誇り、同時に、過ちは過ちとして包み隠さず記述して、この冷静、客観的な史実の編集から、私たち朝日人の実りある反省と、将来への明るい展望を引き出せる、歴史的な『教書』になれば、と願って」(「序」朝日新聞社長中江利忠)刊行されたという『社史』が「南京虐殺」の「真実」を伝えなかった「新聞の責任」をみずから追及していることには敬意を表しますが、その「反省」の上に立っているはずの戦後の朝日新聞は、「真実」に対する新聞人としての謙虚な姿勢を回復したといえるのでしょうか。

「真実」が伝えられないのは、けっして戦争の時代だけに限らないということでしょう。

 余談ですが、戦後、緒方は東久邇内閣や吉田内閣にたびたび入閣しました。そんな晩年のある日、神社新報論説主幹の葦津珍彦が新年用の談話をとりに訪ねると、「緒方さんは、正月の話で筥崎の『おしおい』の思い出を語り、靖国神社法案の話になったら、予想外なほどの積極的な言葉で、靖国神社に対する国家援助の当然なることを力説された」(前掲「故緒方竹虎大人の追想」)のでした。

 記事掲載直後の31年1月下旬、緒方は帰らぬ人となります。小我筑地の談話が「20年来の恩師との永遠の別れ」でした。最後の会話が靖国問題についてだったというのは、何か因縁めいたものを感じさせます。葦津がほとんど生涯をかけて取り組んだのは、「靖国神社国家護持」でした。


▽ふたつの「神道」

 通俗的な歴史理解では、神道あるいは神道人は「侵略」戦争のもっとも戦闘的な推進者と見られていますが、事実とはいえないでしょう。制度的に見ても、明治15年の神官教導職の分離以来、官社神官は祭祀の枠に閉じ込められ、宗教を語り、葬儀に関わることさえ禁じられました。

 日本の民族宗教である神道は軍国主義でも侵略主義でもありません。かといって単純な平和主義でも反戦主義でもありません。そのことは、土着の神道人そのものである葦津父子が、我が身を省みずに日本軍の暴走を止めようとし、日中の早期和平を訴え、奔走したことからも分かります。

 だとすると、冒頭の愛媛玉串料訴訟判決に見られるような「国家神道」批判がなぜ一般に流布しているのでしょうか。

『神社新報五十年史 上』は、「陸軍と神職の立場の相違」に言及しています。それによると、日本の明治以来の歴史は、在野の「日本主義」と軍・官僚の「欧化主義」との対立としてとらえられる。軍や官僚の国民に対する思想宣伝は「神道精神」を基本に行われたが、彼らの掲げる「神道」は伝統的日本人が抱く「神道」とは異質だった、と記されています。

 つまり、土着の「神道」と欧化主義的な「神道」、民衆の信仰と国家の祭祀という、二つの「神道」が存在したということでしょうか。官僚が作り上げた「国家神道」の成立基盤は伝統的神道の信仰ではなくて、神道に擬せられた近代合理性の精神だったということになります。

 たとえば明治神宮は、明治天皇崩御のあと、国家の『強制』どころか、国民の強い要望が政府を動かし、大正4年に造営が始まるのですが、『五十年史』によれば、創建直後は賽銭や祈祷が禁じられました。それでも神前には賽銭の山が築かれ、やむなく賽銭箱が設置されたのですが、そうした民衆の信仰心は政府官僚からは「困った奴め」と蔑視されたといいます。

 いわゆる「戦争責任」についてはどう考えればいいのでしょうか。批判にさらされている神道人自身はどう考えているのでしょう。

 葦津は、『明治維新と東洋の解放』(1964年)で、大東亜戦争には日本人の良きものと悪しきものとがすべて注ぎ込まれた。伝統的な神道的道義精神と明治以来の帝国主義の野望。解放者の使命と征服者の専横。日本軍の意識の中には、二つの潮流が激突しながら流れていた、と書いています。それは同時に二つの神道のぶつかり合いでもあったのでしょうが、日本の戦時指導者には「『征服』の野望を秘めて、『解放』の教義を説いた者が少なくない」と葦津は指摘しています。

「国家神道」理解の難しさはこの辺にあるようです。戦争はいうまでもなく国家の行為ですが、ひとたび国権の発動によって戦端が開かれれば、在野土着の神道精神が燃え上がります。神道が軍国主義を導いたのではないということでしょう。ちょっと考えてみれば分かることですが、軍国主義一本槍の信仰が民族の歴史とともに何千年も続くはずはありません。

 ところが平成9年春の「愛媛玉串料訴訟」判決に見られるような「国家神道」観は、すでに昭和52年の「津地鎮祭訴訟」の最高裁判決にあらわれています。判決理由には「わが国では、国家神道に対し、事実上国教的な地位が与えられ、時として、それに対する信仰が要請され、あるいは宗教団体に対し、きびしい迫害が加えられた」「明治維新以降、国家と神道とが密接に結びつき、前記のような種々の弊害を生じた」というほとんど同じ文言があり、俗流史観が「判例」として定着していることに驚きを禁じ得ません。

 しかし、近代の神道史は、「司法の番人」たちが思い描くほど、単純ではありません。それは次に取り上げる日米開戦後、東条内閣時代の新聞人と神道人の姿を見れば、より明らかとなるでしょう。
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日中戦争勃発から70年、興亜観音の例祭 [戦争の時代]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年5月15日火曜日)からの転載です


「国平らかに、民安かれ」

 とひたすら絶対無私の祈りを捧げるのが天皇第一のお務めであり、11月の新嘗祭こそは皇室第一の重儀とされますが、ちょうど70年前の昭和12(1937)年の秋、昭和天皇はどのような思いでこの祭りを親祭になったのでしょうか。

 日中戦争のきっかけとなる盧溝橋事件が起きたのは同年7月でした。政府の不拡大方針にもかかわらず、戦線は拡大しました。翌年の歌会始で、天皇はこう詠まれ、平和を祈られました。

 静かなる神のみそのの朝ぼらけ世のありさまもかかれとぞ思ふ

 いわゆる南京虐殺が起こったされるのはまさにこのとき、12年の暮れでした。

 中支派遣軍司令官の松井石根大将は「昭和の聖将」ともいわれる人物だったようです。中国革命の父・孫文を敬愛し、中国文学に親しみ、

「アジア人のアジア」

 を信条としました。その松井が戦争の指揮を執らなければならなかったのは、何という皮肉な巡り合わせでしょうか。

 南京入城後、松井は戦陣に散った日中双方の将兵の御霊(みたま)を慰めたいと祈念し、血潮に染まった激戦地の土を集めさせ、これを持ち帰って、瀬戸焼にして高さ一丈の観音像を建立しました。これが熱海・伊豆山の興亜観音です。

 松井自身の筆になる「縁起」には、

「支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す。じつに千載の悲惨事なり。……観音菩薩の像を建立し、この功徳をもって永く怨親平等(おんしんびょうどう)に回向し、諸人とともにかの観音力を念じ、東亜の大光明を仰がんことを祈る」

 と書かれています。

 中国、韓国からも多くの寄進を受け、14年の冬、興亜観音は落慶しました。

 退役した松井は文子夫人とふたり、山麓に隠棲し、21年3月に、いわゆるA級戦犯の1人として巣鴨拘置所に収監されるまで、読経三昧の晩年を過ごしました。

 東京裁判が始まり、松井は南京虐殺の責任者として絞首刑の宣告を受けました。23年12月23日、午前零時、松井ら7人の処刑が巣鴨拘置所で開始されました。土肥原賢二、松井、東条英機、武藤章の4人が絞首台の前に並びます。

「松井さん、万歳をやってください」

 と東条が声をかけます。

「天皇陛下、万歳!」。

 松井の発声に3人が唱和しました。

 東京裁判は昭和天皇の誕生日に起訴が行われ、皇太子(今上天皇)の誕生日に死刑が執行されました。復讐裁判といわれる所以です。不思議なことに、処刑の責任者であったアメリカ軍のH・ウオーカー少将は3年後、同じ12月23日の午前零時、朝鮮半島で事故死しました。

 7人の遺体は横浜・久保山火葬場で荼毘に付され、遺骨の大部分は太平洋にばらまかれました。遺族は遺骨の引き取りを願いましたが、許されませんでした。しかし一部はひそかに持ち出され、観音像の下に納められたともいわれます。

 34年、観音像のかたわらに自然石の「七人之碑」が建てられました。題字を揮毫したのは元首相の吉田茂です。裏面には7人が処刑の直前に手鎖のまま書いたという署名が刻まれています。

「あとのことは頼むよ」

 という最後の言葉を残して松井が伊豆山を去ったあと、3人の子供を育てながら、苦労して観音像を守ってきたのは伊丹忍礼・妙真夫妻です。

 46年の冬、過激派が「七人之碑」に時限爆弾を仕掛けました。碑は吹き飛んだものの、隣に立つ「BC級戦犯」の碑で導火線がショートし、観音像は大破を免れました。導火線は碑に刻まれた「南無妙法蓮華経」の「法」のところで切れていました。

「ドイツにいい接着剤があるというので、取り寄せて、母が破片の1つ1つをつないだんです」。

 両親の遺志を受け継ぎ、清貧の日々を送る3人姉妹の長女・妙徳さんが、引き込まれそうな優しい笑顔で語ってくれました。

 松井の辞世の歌に次の2首があります。

 天地も人も恨みず一すじに無畏を念じて安らけくゆく

 世の人に残さばやと思ふ言の葉は自他平等に誠のこころ

 興亜観音は今日も、慈愛のまなざしを中国大陸に向け、合掌しています。

 さて、5月18日、今週の金曜日ですが、午後1時から興亜観音の例祭が行われます。関心がおありの方はどうぞご参列ください。
http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/

(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』、田中正明『“南京虐殺”の虚構』などを参照しました) 

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国民として未熟な大空襲訴訟原告団 [戦争の時代]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年3月11日日曜日)からの転載です


 坂本多加雄・学習院大学教授(故人)は『国家学のすすめ』の、国民と民族をテーマとした章で、じつに興味深いアメリカ留学の経験をもつ女子学生の逸話を紹介しています。

 アメリカの高校の授業で原爆投下が取り上げられました。

「アメリカの行動がよくないと思う人は手を挙げて」

 と求められ、日本人学生は、当然のごとく手を挙げ、ほかの生徒もそうするだろうと思い込んでいたら、何のことはない、手を挙げたのは彼女一人だけでした。アメリカ人の生徒たちはみなアメリカの原爆投下を擁護したというのです。

 原爆投下についての見方の何が日米で異なるのか、坂本教授はこう説明します。

 ──アメリカでは政府も学校も、国際法の存在を自覚したうえで、原爆が「残虐な兵器」ではなく、原爆投下は戦争の終結を早め、被害を減少させた、という認識が共有されている。
 アメリカ人の多くは、個人としては、原爆の悲惨さに心を動かされ、犠牲者に同情するかも知れないが、原爆投下はそのまま戦勝と世界平和をもたらしたという歴史理解と結びついており、その歴史を共有するかぎり、原爆投下の解釈を簡単に変えることはないだろう。アメリカには自国の国家の立場を意識し、アメリカという国家の歴史と今後の世界戦略を踏まえたうえで、原爆投下の意義を語る用意が備わっている。
 ところが、日本人は、そうではない。原爆投下は「人類の悲劇」と考える。最初の被爆国として「核廃絶」に向けて努力する資格と任務があると考えている。そこには、人類すべてが、原爆投下はあってはならない、という認識を共有しているという無意識の前提がある。
 ここにあるのは「アメリカ国民」と「日本人」との対立である。日本人の考え方は必ずしも「日本国民」のものではない。

 このように坂本教授は日本人の「国民」としての未熟さを指摘するのですが、まさにそのことをうかがわせるような訴訟が起きました。

 昨日、3月10日は東京大空襲の日で、それに合わせるように、大空襲の被災者や遺族112人が国を相手に総額12億円あまりの損害賠償と謝罪を求める訴訟を起こした、というのです。報道によれば、空襲で被害を受けた民間人による初めての訴訟で、

「戦争をしたのは政府が悪い。空襲で被害を受けた自分たちに謝罪せよ。補償せよ」

 と、平均年齢74歳の原告団は意気盛んだと伝えられます。

 前日に開かれた支援の集いには470人が参加し、陳述書が朗読され、以前から犠牲者の氏名を記録する運動を展開してきた原告団長が

「私たちが死んだとき、空襲の事実が歴史から抹殺される」

 と決意表明し、参加者は

「国民、都民に空襲の実相を広め、裁判闘争を戦い抜く」

 というアピールを採択したそうです。支援者の1人である作家は、

「この裁判は戦後史の1ページをつづることになる」

 と激励した、と伝えられています。

 アメリカ軍による空襲が個々人に悲惨な被害をもたらしたことは事実でしょうが、平和が回復して、何十年も経ついまこの時点で、原告たちは何をしたいのでしょうか。

 じつに興味深いことに、原告団が責任を追及する相手は東京に焼夷弾の雨を降らせたアメリカではなく、日本政府です。

「東京大空襲が国際法違反の無差別爆撃だったことを裁判所に認めさせ、戦争を始めた政府の責任を追及したい」

 というのです。

 さらに興味深いことに、原告団は中国・重慶爆撃の対日訴訟原告団とも連携しているようです。両者の交流の場で、日本の弁護団長は

「日本政府に戦争を起こした責任を認めさせ、戦後補償をさせることが、次の戦争を防ぐことになり、日本と中国との友好を発展させていくことになる」

 と強調したといわれます。

 中国政府が民間による戦争賠償請求運動に支持を表明したのは1995年です。江沢民の権力掌握は順調ではなく、対外強硬姿勢を示すことで力を誇示しようとしたのでした。同年9月、江沢民は抗日戦争勝利50周年記念大会で

「日本侵略軍によって中国人3500万人が死傷し、南京大虐殺で30万人以上が死んだ。直接被害だけで1000億ドルをもたらした」

 と演説し、「反日」は頂点に達しました。

 日本が戦争を起こした、日本軍による重慶爆撃もアメリカ軍による東京大空襲も、原因は日本が作った、加害者は日本である、と原告団は認識し、きわめて政治的な中国の戦争賠償請求運動と共闘しながら、日本の戦争責任をどこまでも追及しようとしているようです。60年以上も前に戦争は終わったのにです。

 どうしてこのような訴訟が起きるのか。坂本教授は、先述した著書のなかで、こう述べています。

 ──戦争被害者の立場に個人として感情移入し、苦境を理解することは重要だが、日本国民としてどう処するべきかは別である。それを混同するのは国民としての未熟さの表れである。

 ──このような議論は、日本が国家としての戦後処理を果たしていない、という間違った前提から出発している。しかし日本は国際ルールに従って、完全に戦後処理を終えている。もちろん、アメリカの原爆投下やソ連の蛮行を苦々しく思っている日本人がいるように、相手の国にも「戦争は終わっていない」という気持ちを抱く人々はいる。
 しかし個人としての意識とは別個に国民としての立場がある。その立場において、国家間の戦後処理によって戦争状態は終了したと考えるべきであり、そのようにして国家間の関係を安定化させようというのが国際社会の知恵であり慣行である。

 今回の訴訟で、原告団は1人あたり1100万円の賠償を請求しています。大空襲の犠牲者は10万人。とすれば、今度の裁判で要求が認められれ、10万人が同様の裁判を起こせば、東京大空襲だけで日本国家は1兆円の賠償を支払うことになります。むろんほかの内外の民間人被害にも波及し、雪だるま式に賠償額は増えるでしょう。増税は必至で、負担は当然、原告団の子孫にふりかかります。

 最高齢者は88歳だという112人の原告団は、その点を日本国民としてどう考えるのでしょうか。

 おそらく同じ世代には、国民の1人として戦地におもむき、国家に命を捧げた友人・知人が数多くいるに違いありません。彼らにとっては、国家は身近にあり、自分の命と同じ価値を持っていたはずですが、戦争の時代を生き延び、天命を全うしようとしている人たちにはその感覚がうかがえないのはなぜなのでしょうか。

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英雄チャンドラ・ボースいまだ帰国せず──日本とインドの終わらない「戦後」 [戦争の時代]

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英雄チャンドラ・ボースいまだ帰国せず
──日本とインドの終わらない「戦後」
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 東京・杉並区の日蓮宗・蓮光寺。車数台分のスペースしかない境内が、昨年12月9日、SPで埋まった。公賓として来日したインドのバジパイ首相が、忙しい日程をぬって、参詣したのだ。ガンジー、ネールと並び称される「インド独立の英雄」スバス・チャンドラ・ボースの遺骨が、この寺に安置されているからである。

 遺骨は本堂向かって右の特別の祭壇、金色に輝く厨子に納められている。正面扉を開くと、骨壺を納めた木箱がわずかにのぞく。箱を包んだ白布には、「NETAJI SUBHAS CHANDRA BOSE」と墨字で書かれてある。ボースが国家元首を務めた自由インド仮政府のS・A・アイヤー宣伝相が終戦直後、毛筆で書いたそのままだという。望月康史住職が「一日も早いお迎えを」と訴えると、バジパイ首相は「同感だ」と答えた。

 この半世紀、遺骨を祖国インドに返還しようという運動が、寺の住職や旧日本軍関係者によって、熱心に展開されてきた。けれども、いまなお実現されていない。

 第一の理由は、独立後、政権を長らく担当してきた国民会議派、とくにネールにとってボースは「政敵」であり、積極的にはなり得なかったこと。

 第二は、親族も含めて、インド国内にボースの死を認めたがらない人たちがいること。インド社会の底辺層にとっては「英雄ボースが現れて、自分たちのために闘ってくれる」と信じることが、苦しい生活の支えになっているといわれる。「不死身神話」が社会への不満の反映だとすれば、遺骨返還は「寝た子を起こす」結果になりかねず、為政者は慎重にならざるを得ない。

 第三は、ボースには「ナチズムや日本軍国主義と手を組んだファシスト」との歴史的評価がつきまとい、日印双方で官民あげての返還運動の気運が生まれにくかったこと。

 第四は、遺骨に執着する日本人に対して、インド人はそうではないという宗教的センスの違い。

 そして第五には、せっかちな日本人とガンジスの流れのように悠久の歴史を生きるインド人の時間観念の違いであろうか。期待をもたせるばかりで、一歩も動かないインド人のしたたかさに、日本人は翻弄され続けてきた。

 東京・杉並の蓮光寺 幾多の克服すべき困難を抱えながらも、日本人関係者たちが遺骨返還に心血を注いできたのは、「ネタジ(指導者)」と呼ばれるほどに、一度、会えば、心をとらえて離さないボースの人間的な魅力とカリスマ性ゆえである。
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□□独立運動の指導者、台北に死す□□

 若くして独立運動に身を投じたボースは当初、国民会議派に属し、年次大会議長に就任したこともあった。だが、「敵の敵は味方」「対英武装闘争をも辞さず」との固い信念から、「反ファシズム」「非暴力」に固執するガンジー、ネールら主流派とのミゾを次第に深め、やがて会議派を追われた。

 ヨーロッパで第二次大戦が勃発すると、カルカッタで自宅軟禁状態にあったボースは独立の好機と見て、国外脱出を図り、ベルリンに潜入する。しかしヒトラーには人種的偏見があり、反応は鈍かった。失望したボースは日本行きを決意する。おりしも日本は米英に対して宣戦を布告した。

「私がインドを脱出するとき、日本がイギリスと戦っていたら、迷わず日本行きを決意していただろう。……アジアに赴き、祖国解放のため、日本とともに戦いたい。たとえ一兵卒であったとしても」

 ボースは、大時化のインド洋上で潜水艦を乗り継ぐという離れ技で、念願の来日を果たす。

「いまこそインド国民にとって、自由の暁のときである。……日本こそは、十九世紀にアジアを襲った侵略の潮流を止めようとした、アジアで最初の強国であった。ロシアに対する日本の勝利はアジアの出発点である。アジアの復興にとって、強力な日本が必要だ」

 ボースはインド国民軍(INA)の最高司令官となり、シンガポールで自由インド仮政府を樹立して独立を宣言、さらにデリーをめざして日本軍とともにインパール作戦を戦う。けれども、日本の敗色は濃く、戦機を逸していた。

 一九四五(昭和二十)年八月十五日、終戦。日本との提携は潰えたが、ボースに恨みはなかった。むしろポツダム宣言受諾を知って狼狽する日本人通訳を励ましたほどだ。

「陛下は退位されるかも知れないが、日本は絶対に滅びない。しばらく占領されるかも知れないが、独立を回復できる。しっかりやりなさい」

 その後、ボースはソ連軍に投降して祖国独立の新たな活路を模索しようと、大連へと向かう。だが、その途中、同十八日、台北・松山飛行場で、離陸直後の飛行機墜落事故がもとで、帰らぬ人となる。

 蓮光寺に安置されている遺骨 「私は最後までインド独立のために闘った。そしていま祖国独立のために死ぬ。祖国の同胞、友人たちよ、独立の闘いを続けよ。インドはまもなく解放される。インド万歳」

 享年四十八歳。独立革命の志半ば、突然の死であった。敗戦で極度に混乱するなか、遺体は荼毘に付され、台北市内の西本願寺に運ばれる。「一国の元首」ながら、一部の軍関係者だけが参列する、寂しい葬儀が営まれた。


□□日本に取り残された遺骨□□

 九月五日、ボースの遺灰は台北を出発した。墜落現場一帯に飛散したのを、台北高等女学校の生徒らが密かに拾い集めた貴金属や宝石類、いわゆる「ボースの財宝」もいっしょである。

 八百万ルピー(六億四千万円=当時)相当の財宝は、独立運動を支援する仏領インドシナ在住のインド人たちからの献納品であった。ボースは名演説家で、三十分の演説で貴金属で身を飾る上流夫人を丸裸にしてしまうといわれた。

 リーマン副官や、やはり事故から生還した南方軍参謀の坂井忠雄中佐、ほかに台湾軍司令部から渋谷中佐と中宮少佐、そして「遺骨を捧持して大本営に引き継ぐべし」との任務を与えられ、胸に遺骨を抱いた同司令部付の情報将校・林田達雄少尉が、日本本土に飛ぶ最後の軍用機に乗り込み、福岡・雁の巣飛行場に向かった。

 坂井と林田は、福岡ですし詰めの列車に乗り換え、東京をめざした。食事もせず、一睡もしないまま、七日夜、市ヶ谷の参謀本部に到着。マッカーサーが厚木から東京に進駐するという歴史的な日の前夜、二人はごった返す参謀本部で、週番司令の木下少佐に遺骨と遺品とを手渡した。

 遺骨と遺品は翌朝、当直参謀の高倉盛雄中佐にひきつがれたあと、インド独立連盟(IIL)日本支部長で自由インド仮政府駐日公使を兼務するラマムルティとサイゴンから飛んできたS・A・アイヤーとに渡された。

 ラマムルティらは進駐軍への敵対行動ととられないよう、控えめな葬儀を計画する。そのため、インド独立運動の先覚者で「中村屋のボース」とよばれたビハリ・ボースの側近サハイ夫人の自宅がある荻窪周辺で寺を探すのだが、イギリス官憲がマークする戦犯容疑者との関わり合いを恐れて、首をタテにふるところは見つからない。

 ようやくたずね当てたのが蓮光寺である。「霊魂に国境はない。死者を回向するのは御仏につかえる僧侶の使命である」と、望月教栄住職(先代)はその場で快諾する。

 九月十八日の夜、サハイ家から蓮光寺まで葬列が組まれ、百人を超えるインドと日本の関係者が参列して、密葬がいとなまれる。新宿中村屋のお菓子や白米、酒など、リンゴ箱五~六箱分の供物が運び込まれた。

 葬儀のあと、ラマムルティは「遺骨をあずかっていただきたい」と申し出る。住職は一時的なものと思い、すんなりと応じた。しかし、その後、INAに関係した在日インド人たちは「国家反逆罪」の容疑で本国に送還され、遺骨だけが日本に取り残される。58回忌慰霊法要


□□ボースの死を認めなかった実兄□□

 以来五十年、遺骨返還のエポックは何度か訪れた。最初は昭和三十一年のネタジ死因調査委員会の来日である。

 サンフランシスコ講和条約の調印・発効を前にして、蓮光寺周辺では慌ただしい動きがあった。ボースのことがしばしば新聞に取り上げられ、インド代表部や日本外務省の職員が頻繁に来寺するのだ。

 終戦直後は盗難の心配があり、遺骨を抱いて寝ることも再三だったという望月住職は二十八年に在日インド大使館にラウル大使を訪ねて指示を求め、ネール首相に親書を書き送った。

 三十年八月にはかつてない盛大な慰霊法要が催され、東條英機元首相未亡人や元タイ派遣軍司令官・中村明人中将、元ビルマ方面軍司令官・河辺正三大将、元第十五軍司令官・牟田口廉也中将、元ビルマ方面軍高級参謀・片倉衷少将などが参列した。

 インド政府が議会の要求を受けて、シャ・ヌワズ・カーン(運輸鉄道政務次官、元INA連隊長・大佐)、スレス・チャンドラ・ボース(ボースの長兄)、S・N・マイトラ(アンダマン・ニコバル諸島行政官)の三名で構成される「ネタジ死因調査委員会」を来日させたのは三十一年五月のことである。委員会は日本外務省の協力のもと、一カ月にわたり、七十名近い関係者から証言を集める。

 望月住職が委員会に招かれたのは、五月三十日。カーンら三人は聞き取りのあと、すぐさま蓮光寺に向かい、遺骨と対面する。スレスは見るも哀れなほど泣き崩れ、立ち上がることすらできない。住職もともに泣き、手をさしのべ、抱きかかえるようにして帰りの車に乗せたといわれる。

 対インド工作を任務とした光機関員のひとり林正夫元軍曹が私的に催した三人の歓迎会が帰国間際、都内で開かれた。河辺元司令官や、第五十五師団歩兵団長だった桜井徳太郎元少将、磯田三郎元光機関長などを前に、カーンは「ネタジの遺骨は飛行機か巡洋艦で迎えに来たい」と表明し、「史上もっとも悲惨な戦い」といわれるインパール作戦で生死をともにした戦友を喜ばせた。

 ところが、帰国当日、搭乗直前になって、スレスは突然、「ネタジは死んでいない」と言い出し、羽田空港まで見送りにきた光機関の前身「岩畔機関」の機関長・岩畔豪雄元少将、そして林を唖然とさせる。

 三人は、(1)ボースは飛行機事故がもとで台湾で死亡した。(2)遺体は台湾で火葬された。蓮光寺の遺骨が本物であることは間違いない──ことにいったんは合意するのだが、その後、兄スレスは弟の死亡を否定し、『報告書』への署名を拒否してしまう。肉親の情なのか、実兄スレスの豹変は、その後の遺骨問題の行方に暗いカゲを落とすことになる。

 ネール首相はインド国会で、「ボースの死が確認された」と公表する。市販された『ネタジ死因調査委員会報告書』の「第七章 勧告」には、「ボースの遺骨を礼儀を尽くして母国に返還し、しかるべき地に記念碑を建立すべきである。インド政府の熟慮を求める」とある。

 翌三十二年に愛娘インディラとともに蓮光寺に参詣したネールは、「ネタジの遺骨はインド国家のものであり、いずれは祖国に返還されなければならない」と語った。けれども、ネールの生存中、「政敵」の遺骨がインドに返還されることはなかった。
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□□遺骨返還に奔走する人々□□

 一九五七(昭和三十二)年、ボースに関係する文化活動を展開する「ボース・アカデミー」がカルカッタに設立された。遺品を展示するネタジ記念館も開館する。

 翌年には日本で、「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」が創立される。初代会長には渋沢敬三元蔵相、副会長には岩畔元少将、最高顧問には河辺元司令官が就任した。アカデミーの最大の目的は遺骨返還で、会の設立とともに返還の動きは本格化した。蓮光寺の望月住職はオブザーバーとして令嬢とともにしばしば会合に出席し、返還運動をともに推進した。

 四十年代になると、多数の元光機関員たちがアカデミーに集うようになる。組織が大きくなり、運動にも熱が入ったはずだが、満足のいく成果は得られなかった。歴戦の勇士たちの組織とはいえ、戦争が終われば民間の任意団体に過ぎない。遺骨返還の戦略も情報も予算も十分とはいえなかった。

 返還がいっこうに進展していないのを知って、一人で動き出したのが、遺骨を台北から東京に運んだ林田である。

 三十七年秋、林田の母校・大連二中の恩師である安部龍雄の紹介状を手に、マドラスのボース協会の中心メンバーP・S・モハンが訪ねてきて、「ボースはインドの国民的な英雄として熱烈な支持を得ているが、その死については半信半疑のままだ。死の真相をインド民衆に知らせて欲しい」と語る。

 同時に「ボースの遺骨はいまも蓮光寺に安置されているが、遺品はもうとっくにインドに還っている」と知って、林田はショックを受ける。

「カネになるものだけは片づけて、カネにならない遺骨は十七年間も放置する。そんなバカな」

 以来、林田は自分があずかったわけでもないボースの遺骨返還に、すっかりのめり込んでいく。

 陸軍中野学校の出身で、戦争中もつねに一人きりの情報戦を戦ってきた林田は、ふたたび一人で走り始めた。ボースの最期の状況を知ろうと、死に立ち会った生き証人をさがし求めて各地を行脚する。

 やがて、悲劇の事故から奇跡的に生還した河野太郎少佐、パキスタンに住むリーマン副官、ボースの死を看取り、死亡診断書を書いた台北陸軍病院南門分院院長・吉見胤義軍医、ボースの最期の言葉を通訳した台湾総督府外事部の中村寿一通訳など、埋もれていた関係者を探し当て、貴重な回顧談を聞くうちに、ボースの人格に魅せられ、「独立の英雄を母国インドの大地に眠らせてやりたい」との思いを募らせる。

 三十九年夏、林田は夫人とともに上京し、蓮光寺に詣でる。望月住職は苦労の歳月を語った。

「インド大使館や日本政府に遺骨の引き取りを依頼して奔走したが、実現されていない。両政府間に協定のようなものがあるのだろうか。担当者は責任をなすり合う始末。ネール首相やプラサド大統領が善処を約束しても、あとは梨の礫です」
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 林田の死の真相究明はボースの伝記執筆に発展し、数年後、『悲劇の英雄--チャンドラ・ボースの生涯』が出版される。インドでも試みられたことのない、無名の著者によるはじめてのボース伝。題字を揮毫したのは林田の母校新京法政大学・柴田健太郎学長の学友である岸信介元首相。序文はボースの甥で、国外脱出のとき運転手をつとめた、ネタジ記念館館長セシル・K・ボース博士が書いた。


□□第二のチャンス、潰える□□

 同じころアカデミーの活動は転機を迎えていた。

 渋沢会長が亡くなり、江守喜久子が第二代会長に就任した。江守は、戦時中、ボースを慕って来日した四十五人の留学生「東京ボーイズ」を世話した「留学生の母」である。さらに河辺顧問が不帰の客となり、有末精三元中将、片倉元少将が顧問となった。敗戦から二十年がすぎ、ボースを直接知る、歴史の生き証人たちが次々とこの世を去っていった。

 その危機感が、関係者を返還運動の強化へと駆り立てていく。

 四十二年暮れ、アカデミーは三木外相(佐藤内閣)と面会する。元光機関の政務班長・高岡大輔議員の仲介によるもので、アカデミーが現職閣僚と接触した最初である。翌年には外務省と再三、懇談したが、外務省は「相手国の立場もある。なぜ急ぐのか」とつれなかった。

 四十四年、インディラ・ガンジー首相が国賓として来日し、蓮光寺に参詣した。望月住職と林田は遺骨返還を愁訴した。

 四十五年、林田はセシル・ボースの協力を得て、『Netaji Subhas Chandra Bose; His Great Struggle and Martydom』をボンベイで出版した。序文は大連二中の恩師・安部、推薦文は元朝日新聞論説主幹の嘉治隆一が書いた。ボースの死の真相に迫る著書は爆発的な反響をよんだといわれる。

 四十六年、林田ははじめてインドの土を踏む。カルカッタで開かれるボースの七十四回目の生誕祭に、日本人ではただ一人、しかも主賓として招待されたのだ。

 一月二十三日はボースの誕生日。ボースが生まれた西ベンガル地方では休日になる。カルカッタの街は早朝から、誕生日を祝う数え切れないほどの大群衆で、身動きできないほどにごった返す。国立劇場での祝典では国賓扱いだった。セシル博士の紹介を受け、林田があいさつする。

「祖国の独立を見ることなく、不慮の死を遂げたネタジの痛恨の情に思いを馳せるとき、断腸の思いを禁じられません。しかし、ネタジの肉体は滅んだとしても、ネタジの精神と霊魂は生きています」。

 万雷の拍手がわき起こった。州知事がにこやかな表情で近づき、林田の両手を握りしめた。
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 英雄の死の真相を知らせたい一心の林田の行動は、ときに誤解を招き、ボースの死を信じないインド人狂信者から脅迫を受けることすらあったが、ボースの死を頑迷に拒否する時代は終わったのだ。遺骨返還も時間の問題と実感された。

 帰国後、林田の訪印を伝えた福岡の地元紙は「十年間の苦労にやっとピリオドが打たれたすがすがしさ」と書いた。NHK国際放送は、ボースの生涯と林田の功労をヒンドゥー語とベンガル語で世界に発信した。

 同年三月、インド政府は第二次ネタジ死因調査委員会を来日させた。一カ月の調査の後、コスラ委員長は「ネタジ生存説は、ボースが生きていて欲しいという願望から出た幻想であり、捏造である」と言明したと伝えられる。

 けれども、遺骨返還への条件は整わなかった。ときあたかも東パキスタン独立戦争が勃発し、インド世界は巨大な混乱の渦に巻き込まれていった。八百万人以上ともいわれる史上最大の難民が発生し、十二月には第三次印パ戦争が火を噴き、「バングラデシュ」は独立を獲得するが、インド亜大陸はまたもや分裂することになった。その後の経済危機、「非常事態宣言」が出されるまでの政情不安、混乱をきわめる情勢下では、遺骨返還が進展するはずもなかった。


□□日本政府の要請も実らず□□

 五十一年八月、命日にあわせてボースの記念碑が蓮光寺境内に竣成した。三十三回忌を翌年にひかえ、死期を悟っていたらしい江守第二代会長の強い願いが込められていた。江守は五十三年に亡くなる。翌年には望月住職が遷化、相前後してボースの副官リーマンもこの世を去った。

 五十八年夏、光機関戦友会の世話役で、アカデミーの事務長・林正夫が単身、幾度目かの訪印を果たし、元INAの連隊長で、第一次ネタジ死因調査委員会委員長のシャ・ヌワズ・カーンと旧交を温めあう。

 数年前まで経済企画庁長官の要職にあったカーンは遺骨問題について、「目下、大統領と交渉中だ。こんどは実現できると思う。日本の友人たちにそう伝えてほしい」と語る。

 生死を共有した戦友の確信に、アカデミー関係者は喜んだ。しかしそれも束の間、同年暮れ、カーンは死去する。

 平成二(一九九〇)年春、アカデミーの運動は最高潮に達した。日本政府がアカデミーの陳情を受け入れ、海部首相のインド訪問時にインド政府に対して遺骨返還を要請したのである。没後四十五年目にして初めて日本政府が動いたのだ。

 首相の帰国後、インド政府から「インド国内でボースの死亡を確認する訴訟が係争中なので、結審後、前向きに検討する」との電報が届いた。しかし、その後の情報はない。
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 六年八月十八日、蓮光寺でボースの五十回忌慰霊法要が行われた。アカデミー主催による最後の法要で、例年になく多数の参列者が集まった。翌年からは個人個人が集う慰霊祭になり、それでも毎年五十人が集うのだが、櫛の歯が欠けるように、一人、また一人と、関係者は鬼籍の人となる。

「ボース生誕百年」の一九九七年(平成9年)はちょうど「インド独立五十年」と重なり、インドでは祝賀行事がピークに達した。

 カルカッタの国際空港は「ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース空港」に、国立スタジアムは「ネタジ・スタジアム」と改称された。誕生日は「国の祝日」となった。独立から半世紀、政敵ネールの「王朝」は幕を下ろし、「ファシスト」のレッテルを貼られ、歴史から抹殺されてきたボースの評価は「愛国者」「民族主義者」に変わりつつある。

 国会議事堂の奥まった中庭にはボースの全身像が、以前からあるガンジー、ネールの像の横に、新たに建てられた。

 昨年末、バジパイ首相が蓮光寺を参詣したとき、首相は第三次死因調査委員会の来日を約束したとも伝えられ、「四月にも」との情報もあったが、具体的な動きはない。日印のすれ違いはまだ続いている。

 今春には、遺骨を日本に運び、後半生を遺骨返還に捧げて孤軍奮闘した林田が、静かにこの世を去った。関係者は皆一様に最晩年の時を迎えている。けれども、遺骨返還はいまだその兆しすら見えない。(敬称略。参考文献=『ネタジ死因調査委員会報告書』『悲劇の英雄』『ネタジと日本人』など)


追伸 この記事は「論座」2002年8月号(朝日新聞社発行)に掲載された拙文「英雄チャンドラ・ボースいまだ帰国せず」に若干の修正を加えたものです。

 十数年前、私はチャンドラ・ボースのことをほとんど何も知りませんでした。たまたま蓮光寺の近くに住んでいたご縁で、この記事に登場する多くの人たちにお世話になりながら、少しずつ勉強したのですが、そのなかでもっとも思い出深いのが博多にお住まいの林田さんでした。終戦直後、ボースの遺骨を台北から東京まで運び、戦後は遺骨返還のために孤軍奮闘された方です。悲しいことに今年三月に亡くなられました。心からご冥福をお祈りしたいと思います。(平成14年8月25日)

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