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揺れる「稲作の起源」──「海上の道」説は復権できるか [稲作文化]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 揺れる「稲作の起源」──「海上の道」説は復権できるか
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 先週、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の日米事前協議が合意され、交渉参加に向けて大きく一歩を踏み出しました。

 政府はコメや乳製品など重要農産品を関税撤廃の例外の「聖域」としたい意向ですが、実際に「聖域」を確保できるかどうかは今後の交渉次第で、このため関税の完全撤廃という基本原則推進に懸念の声は少なくありません。

 仮に農産品の関税がゼロになれば、とりわけ日本人が主食としてきたコメを生産する稲作農業に大きな打撃を与え、日本人の食生活に影響を与えることは避けられません。

 そこで、宗教専門紙(平成7年7月)に掲載された拙文を転載します。日本にとってのコメについて、あらためて考えみたいからです。そのことはまた、日本人とは何か、そして天皇とは何か、を考えるヒントを与えてくれると思うからです。

 なお、一部に加筆修正があります。



「平成の米騒動」が新聞紙面をにぎわせていたのは昨年(平成6年)2、3月ころのことですが、喉もと過ぎれぱナントヤラで、いまでは話題にものぼりません。前年の凶作で供給量にかぎりのある国産米をもとめて、春先の早朝、白い息をはきながら長蛇の列をつくった消費者たち──あの騒ぎはいったい何だったのでしょう。

 あのとき目の仇(かさき)のようにされたのは、タイから緊急輸入された計75万トンの「インディカ米」です。「パサパサしてまずい」「臭い」とさんざんに酷評されたあげく、あろうことか、「ゴミ」となって捨てられたタイ米は少なくありません。

 味の好みや調理法は民族固有の文化そのもので、嗜好に合わない、というなら仕方がありません。貿易上は同じ「コメ」でも、日本人の舌には同じ「コメ」ではないのでした。けれども、タイ米の故郷・インドシナ地域がもしかして日本の稲作文化および日本民族のルーツのひとつだとしたらどうでしょうか。


▽1 「アッサム・雲南説」を覆す考古学・遺伝学の新説が次々と

 昭和29年10月のこと、農学者の安藤広太郎(あんどう・ひろたろう。元農商務省農事試験場長)は昭和天皇に御進講申し上げました。

 テーマは「日本の稲作の起源と発達」。日本に稲が自生したとは考えられない、稲の原産地はインドのみならずインドシナ、中国・広東地方である、日本の稲作は江南地方から九州および南朝鮮に伝わり、紀元前1世紀ごろに始まった──。これが安藤説でした。

 考えてみると、勇気ある御進講です。皇室を中心に伝わってきた神話では、米は皇祖神から授かったことになっているからです。ともかく、稲作の起源はどこなのか、大きなテーマとなりました。

 それから40年、稲作の起源はいま大揺れに揺れているようです。

 京都大学の渡部忠世(わたべ・ただよ)教授は、昭和60年代、稲はインド起源の熱帯植物だ、とする当時の定説を否定し、アッサム・雲南がアジア稲(オリザ・サティヴァ)の栽培起源で、水稲でも陸稲でもない「水陸未分化稲」として始まった、という仮説を立てました。

 この地域は稲の遺伝的変貰がもっとも多様で、インディカ、ジャポニカに「分化」する以前の稲が存在する、アッサムでは野生種(オリザ・ペレニス)の群落も発見された、との説が主張されました。

 渡部先生は、レンガに刻まれた稲籾の圧痕を形態的に調べ上げるという気の遠くなるような研究を地道に重ね、多様性の中心が起源地であるという考えのもとに、アッサム・雲南を稲の起源地と推定したのです。

 雲南は日本文化のルーツとして注目され、稲作の起源論争に終止符がうたれたものと考えられました。雲南ブームが起き、日本人観光客が押し寄せました。

 ところが、ここ数年、「アッサム・雲南説」をくつがえす考古学や植物遺伝学上の新学説がつぎつぎと提示されているといわれます。

 たとえば、静岡大学の佐藤洋一郎助教授(いまは総合地球環境学研究所副所長)は、「最終氷期が終わり、地球が温暖化に向かいつつあった7000―8000年前、長江の中流、下流域でジャポニカ型の野生稲から栽培品種が分化した」という説を立てています。

 20年前、中国・浙江省で発見された世界最古の稲作遣跡・河姆渡(かぼと)遺跡は放射性同位元素C14による年代測定の結果、7000年前のものと確認されています。最近は湖南省の彭頭山遺跡など、さらに古い遺跡が長江中流域で認められました。

 雲南よりも古く、もちろん日本で最古とされる岡山・美甘(みかも)村の姫笹原遺跡(縄文中期中頃、4500年前)よりはるかに古いことが分かります。

 長江流域にはジャボニ力を特微づける「雑種弱勢伝子」が集中的に分布し、河姆渡遺跡からは野生稲が出土します。これが「中国起源説」の根拠です。渡部先生と異なり、遺伝学の手法が用いられています。

 けれども、日本の稲作が揚子江流域から直接、九州へ、あるいは朝鮮半島を経由して伝来したとはいいきれないと佐藤さんはいいます。長江地域の稲が温帯ジャポニカ(いわゆるジャボニカ)であるのに対して、それとは遺伝的に異なる熱帯ジャボニカ(ジャヴァニカ)が日本の遺跡から出土するからです。

 中国・長江流域起源の温帯ジャポニカとは異なる熱帯ジャポニカはどこから来たのでしょうか?

 時計の針を少し元に戻すと、アジア栽培種を雑種不稔、つまり交配が可能かどうか、の関係から、「日本型(ジャポニカ)」と「インド型(インディカ)」のふたつの亜種に分類できることを見いだしたのは、九州大学の加藤茂苞(しげもと)九州帝国大学教授で、昭和3年のことでした。

「ジャポニカ」というと日本在来種のように聞こえますが、そうではありません。中国北部、朝鮮、日本など高緯度地域に広く分布しています。また、ジャポニカは丸くて粘りがあり、インディカはパサパサした長粒種、と簡単にわりきれるほど、単純でもありません。インディカにも単粒種やモチ米があり、東南アジアやインド世界に行くと、市場で普通に売られています。

 種(しゅ)が異なるのだ、という見方さえあるほど、両者は遣伝的に異なります。最近ではDNA分析によって識別され、ジャポニカに近い中間型のジャヴァニカ(ブル稲)の存在も認識されるようになりました。ジャワ鳥を中心に東南アジア島嶼地域、ベトナム、中国南部など、広範囲に分布する陸稲的な稲です。

 宮崎大学の宮崎宏志先生は平成2年夏、宮崎・えびの市の桑田遺跡(縄文時代晩期)でジャヴァニカに属する稲の細胞成分(プラント・オパール)を大量に発見しました。宮崎氏によると縄文~平安時代の日本の水田跡から出土するプラント・オパールにはジャヴァニカが含まれているといいます。

 中国大陸起源とは異なる稲のルーツがあるということになります。

 さらに、渡部先生によると、大正末期まで沖縄に分布した在来種にも含まれ、いまも種子島の宝満神社の神田(おた)で栽培されている赤米は「ブルの仲間」だそうです。2メートル近い草丈、太い桿(かん)、長い芒がジャポニカとは異なることを示しています。

 ジャヴァニカとはどんな稲なのか、いつ、どういう経路で日本列島に伝わってきたのでしょうか。

「熱帯ジャポニカは中国からではなくて、南方から渡来した可能性が高い」。そうおっしゃるのは佐藤先生です。日本に最初に伝来したのはジャヴァニカで、かつて民俗学者の柳田国男が提唱した「海上の道」を伝わってきたというのです。


▽2 晩年の柳田国男が注目。地名に久米氏北上の「痕跡」

 柳田が『海上の道』に「南から北へ、小さな低い平たい島から、大きな高い島の方ヘ進み近よった」と書いたのは昭和27年です。しかし、朝鮮半島南部から北部九州に稲が伝来したとする「北方説」が考古学などでは支配的で、柳田の「海上の道」説は相手にされませんでした。

 それがいま、復権の可能性がでてきたのです。

「日本人は如何にして渡って来たか」。柳田は晩年、稲作文化の起源と稲作をもたらした民族のルーツに強い関心をもっていました。

 大正10年にはじめて沖縄の地を踏み、沖縄に強い関心を寄せるようになった柳田は、宝貝をもとめて黒潮にのって島伝いに北上してきた種族が、日本列島に稲作文化および穀霊信仰をもたらした、と考えました。

 その論拠として、柳田が着目したもののひとつに、地名があります。日本本土の海岸地方から沖縄諸島にかけて、久米(くめ)、酌(くみ)、古見(こみ)という名の米作適地が多く点在し、「大和島根の方では……久米といふ氏族の次々と移住して行った昔の痕跡を留めている」というのです。

 久米氏は古くから天孫族と密接な関係をもっていたようで、『日本書紀』にはニニギノミコトが天磐戸(あまのいわと)を引きあけて天降られるときに、「大伴連の遠祖天忍日命(あまのおしひのみこと)」とともに従った「来目部(久米部)の遠祖・天槵(あめくしつ)大来目(おおくめ)」が登場します。

 また『古事記』によると、神武東征の折、天皇に随行したのが「久米直(あたえ)等の祖、大久米命(おおくめのみこと)」だといいます。大和国宇陀の兄宇迦斯(えうかし)を征討した際、久米部が歌ったとされる久米歌に舞をつけたのが、大嘗祭に草される久米舞(くめまい)です。

 久米部は皇家の藩屏(はんぺい)だったようです。『日本書紀』には、橿原宮で即位された神武天皇が翌神武2年、論功行賞により「大来目をして畝傍山の西(にしのかた)の川辺の地に居らしめたもう」と記されてあります。

 橿原市久米町には、久米氏の祖神・遠祖をまつる久米御縣(くめのみあがた)神社が鎮座します。

 また『日本書紀』垂仁天皇27年の条には、「是年、屯倉(みやけ)を来米邑(くめむら)に興(た)つ」とあります。これが日本最古の屯倉のようです。

 久米直に率いられた久米部は軍事をつかさどり、平時は農耕に従事していたようですが、5世紀になると急速に勢力が衰えます。

 一方、愛媛には明治中頃まで久米郡(くめのこおり)がありました。古くは久味国(くみのくに)で、郡司には久米直が任じられました。鳥取にも久米郡があって、かつては国造の大祖・大米足尼(すくね)石川の名をとって、「大米郡」と称しました。岡山県にはいまも久米郡があります。

 さらに、「八重山群鳥のまん中に、古見(こみ)または久米という稲作の大きな根拠地があった」と柳田は書いています。沖縄本島の西方百キロに浮かぶ久米島は「球美(くみ)島」と呼ばれ、稲作が盛んな「米の島」だったといいます。

 沖縄は日本の稲の起源を考えるうえで重要な位置を占めています。


▽3 黒潮の上流に見えてくる日本人の「内なるアジア」

 沖繩からさらに黒潮をさかのぼると、東南アジア島嶼地域というよりもインドシナのクメールが浮かび上がってくるようです。柳田の『海上の道』にはクメール人に関する記述は見当たりませんが、柳田・安藤両先生による稲作史研究会ではしばしば言及されています。

 いまカンボジア国内には900万人、タイ東部に200万人、ベトナム南部に100万人のクメール人が居住します。久米郎のクメはクマであって、隼人の一族・肥人族だとする説がありますが、カンボジア人は自分たちを「クマイ」と呼ぶそうです。

 インドシナ半島には1~6世紀半ばにかけて、扶南(ふなん)というクメール最古の王国がありました。神話によると、メコン・デルタに渡来した模跌国のバラモン・混填(こんてん)が若き女王柳葉(りょうよう)と結婚して扶南を建国した、といわれます。

 フランスの歴史学者ジョルジュ・セデスによると、人々は一種の山岳信仰を信じ、「山の王」と称する国王が山上で国家の儀礼をつかさどりました。それで中国人は古クメール語の「山(プム)」を転写して「扶南(ビュナム)」とよんだ、といわれます。

 扶南はインドシナ半島のほとんど全域に宗主権を行使しました。庶民は日本の神社の本殿にも似た高床式の杭上家屋で暮らしていました。稲作が盛んで、海上交易によって高度なヒンドゥー文化が栄えたといいます。しかし、6世紀後半に衰退・滅亡し、代わって真臘国(アンコール王朝)が登場します。

 インドシナに扶南が栄えていたころ、いまのベトナム中部にはチャンパ(林邑)という国がありました。日本の宮中に伝わる雅楽・林邑楽は僧仏哲によって日本に伝わり、東大寺開眼法要でも奏されました。古代、インドシナ半島と日本列島との関係は、現代の私たちが想像するより、ずっと近いのでしょう。

 タイの北部・東北部およびラオスなど、東南アジアの比較的高緯度地域には広範囲な「モチ稲栽培圏」があり、人々は甑(こしき)で蒸したモチ米を常食としています。タイでウルチ米を食べるのはもっぱらお金持ちやバンコクなどの都市生活者のようです。15世紀以前はほとんど全域でモチ稲が栽培されていた、と渡部先生はいいます。

 神道では須佐之男命(スサノオノミコト)の高天原での農耕に関する罪を「天津罪(あまつつみ)」としていますが、オーストラリアの歴史家デヴィッド・チャンドラーによると、古代クメール人は稲を汚す行為を罪と考えていたようです。また、日本人が食事を「ご飯」と呼ぶように、カンボジア語の「食べる(シイ・バアイ)」は、まさに米を食べることの意味なのだそうです。文化的に非常に近いものがあるということです。

「海上の道」説を立証する考古学上の発見はまだありませんが、「ジャヴァニカは畑でも栽培されるから必ずしも水田遺構が発見される必要はない。今後の研究に期待しているんです」と、佐藤先生は私の取材に対して明るく答えました。

 扶南を建国するはるか以前に、古代クメール人たちが日本列島に稲作を伝え、古代日本の建国に参加したことが実証される日が意外に近い将来、やってくるかもしれません。
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