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安保法案の議論はなぜ深まらないのか──朝日新聞の社説を読んで思うこと [朝日新聞]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


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 安保法案の議論はなぜ深まらないのか
 ──朝日新聞の社説を読んで思うこと
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 安全保障関連法案(平和安全法制関連法案)の国会審議が最終段階を迎えた。野党は激しく抵抗しているが、よほどのことがない限り、法案は今日中に成立するだろう。

 日本の安全保障政策をめぐる、歴史的な転換点だが、それに見合う、十分な審議が尽くされたのかどうか、大いに疑問が残る。

 試みに朝日新聞の社説を読んでみると、その理由が浮かび上がってくる。

 この数か月、何度も社説のテーマとしてきた朝日だが、この15日からは、以下のように、連日、欠かさず取り上げている。

 15日 安保法案 民意無視の採決やめよ
 16日 安保公聴会 国会は国民の声を聴け
 17日 「違憲立法」採決へ 憲法を憲法でなくするのか
 18日 安保法案、採決強行 日本の安全に資するのか

 今日の社説では、法案の違憲性だけではないとし、「新たな法制で日本はより安全になるのか」と踏み込み、「そこに深刻な疑問がある」と指摘している。

 まさに仰せの通り、問題の核心はそこなのだが、一読者としては、社説が展開する論理にもまた「深刻な疑問がある」と感じざるを得ないのである。


▽ 国際的環境の劇的な変化

 世間のおおかたの議論は、いみじくも朝日新聞が「違憲立法」と呼んでいるように、違憲性の議論にとどまっているから、「それだけではない」と、より深く本質に切り込もうとする朝日の姿勢はさすがである。

 憲法を字面通りに解釈するなら、自衛隊の存在はむろんのこと、法案に反対する憲法学者たちが所属する大学に、もし私学だとすれば、公費を支出することもまた違憲なのだが、実際は違憲論者は一部にとどまる。現実を見定めることによって、あるいは周辺環境の大きな変化に伴って、法的解釈と運用は当然、変わってくる。

 重要なことは、憲法解釈・運用の前提となる、日本の平和と安全をめぐる、「戦後」と呼ばれてきた時代の国際環境の劇的な変化であり、したがって、それに呼応した軍事的・外交的対応の的確性こそが議論されるべきだと思う。ところが、社説の議論は、前提となる環境の変化を見定めていないように見える。

 社説は軍事的な抑止力だけでは不十分で、地域の緊張を緩和させる外交的努力が欠かせないと訴えている。そんなことは当たり前のことで、問題は、社説が指摘しているように、「中国の軍拡や海洋進出」という現実的な環境の変化に対して、日本が「どう向き合うか」である。

 社説は「抑止偏重の法案だけで対応できない」「南シナ海に自衛隊を派遣したとしても解決しない」「日中関係のカギは『共生』だ」「協力の好循環だ」と訴えるだけで、現実離れした青っぽさを禁じ得ない。


▽ 憲法9条ではなく前文

 与野党の対立もそうだが、メディアも含めて、議論が深まらないのは、問題意識が共有されていないからではないか?

 朝日の社説は、戦後日本の安全と地域の安定は「憲法9条がもたらした安全保障」と言い切っている。しかし、そうではないと思う。現実を見定めない「9条」第一主義は、同時に現実への対応を誤らせることになると思う。

 問題は「9条」ではなく、日本国憲法前文である。

 前文は、「日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳っている。戦後日本の「安全と生存」は「諸国民の公正と信義」に立脚してきた。

 実際、この70年、世界のどこかで戦争の狂気はつねに繰り返されてきたが、東西の冷戦構造の狭間で、奇跡的に、日本は悲惨な戦争を直接、体験することを免れてきた。朝日の社説が主張するように、9条によって守られてきたのではない。

 ところがいまや、憲法前文の「諸国民の公正と信義」という、平和の大前提が崩れている。社説が取り上げる「中国の軍拡や海洋進出」だけではない。要するに、ヤルタ・ポツダム体制が崩壊したのである。

 けれども、その時代認識が共有されていない。混乱の原因はそこにあるのだと思う。

 政府も、なぜいま安保法制なのかをきちんと説明していない。他方、集団的自衛権行使に賛成していたはずの民主党議員は議論の輪に加わろうとしない。

 当然、国会審議は迷走し、理性ぬきの政局化は免れない。これで平和と安全は保てるだろうか?


▽ 覇権主義国家との「共生」は可能か

 朝日の社説は中国との「共生」を強調している。大賛成である。しかし、それなら相手国は日本との「共生」を求めているのだろうか? 相手が望まないのに、一方的な「共生」はあり得ない。逆に世界的な覇権を追求する国との「共生」は可能だろうか? 国際関係は関係論であって、1カ国の政策では決まりようがない。

 社説は、イラク戦争への自衛隊派遣について、日本政府が検証していないと指摘している。まったくその通りだと思う。しかしそれなら、議論を喚起すればいい。それがメディアの責任というものではないだろうか?

 社説は、「貧困、教育、感染症対策、紛争調整・仲介など、日本が役割を果たすべき地球的規模の課題は多い」と指摘している。これもその通りだと思う。しかしそれなら、そのように提言すればいいのである。

 ただ、そうした非軍事的な戦略によって「日本はより安全になるのか」どうかは、まさに社説が「新たな法制で日本はより安全になるのか」と問いかけ、「深刻な疑問がある」と疑いを示しているように、「深刻な疑問がある」。

 日本が敵対視せず、友好を呼びかけても、安保法制が成立したわけでもないのに、「抗日」戦争を戦い続けている国があるくらいである。

 首相が強調する「日本が戦争に巻き込まれることはあり得ない」「自衛隊のリスクは高まらない」を、社説が「新たな『安全神話』」と決めつけるのは自由だが、非軍事的な貢献が「安全」だと考えるのもまた「神話」ではないか?

 国の平和と安全は相手国次第なのであり、戦後日本の平和をもたらしてきた「諸国民の公正と信義」がすでに崩壊している以上、どうすれば国が保てるのか、国民の代表者たちにはそこを真剣に議論してほしかった。
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朝日新聞はなぜ字体を変えたのか [朝日新聞]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年2月11日日曜日)からの転載です

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 朝日新聞は今年1月、新聞記事に使う表外漢字(常用漢字表にない漢字)の字体を一部変更しました。これによって、たとえば「森鴎外」は「森鷗外」に、「胡錦涛」は「胡錦濤」と表記されるようになりました。

 1950年代から使われてきた「朝日字体」と呼ばれる簡略字体をなぜいまになって変えることになったのか。「国際派時事コラム」の泉幸男さんが「人形町サロン」掲載の論攷で追究しています。

「朝日字体がビスタに負けた」

 というのが泉さんの結論です。
http://www.japancm.com/sekitei/new/sikisha/sikisha19.html

 国語審議会による「表外漢字字体表」の答申以降、新聞各紙は伝統的字体への回帰を進めました。平成16年にはJIS規格も改正されましたが、それでも朝日新聞は簡略した朝日字体にこだわりました。元祖の意地だ、と泉さんは書いています。

 それがなぜいまになって白旗を揚げたのか。泉さんは、表外漢字を伝統的字体にもどしたコンピュータの基本ソフト「ウインドウズ・ビスタ」が1月末に発売になり、朝日字体の敗北が確定するからだ、といいます。

 6年間も国語審議会の答申に抵抗し続けた朝日新聞がウインドウズの新しいOSの前に屈服せざるを得なかった。あえて「森鴎外」「胡錦涛」と書けば、「古いOSを使っているんですか」と笑われてしまう。だから、「宗旨替え」をした、というのです。

 ベテランの植工さんが活字を拾っていた時代は今や昔。新聞編集、整理、印刷は一貫してデジタル化、コンピュータ化されています。第一、「植工」という言葉が自分で単語登録しないかぎり、いまやワープロソフトでは出てきません。

 その時代に、かつては時代の先端だった簡略字体の「朝日字体」にこだわれば、社内でしか通用しない独自のソフトをつくらなければなりません。コストがかかるばかりで、しかも世の中に受け入れられることはないでしょう。

 だとすれば、朝日新聞の決定は、泉さんのいう「宗旨替え」というより、現実主義といった方が正確かと思います。

 そもそも大新聞に「宗旨」というほどの主義主張があるのか、大いに疑わしいのではないでしょうか。

 国語改革についていえば、泉さんのエッセイは戦後の国語改革をリードした朝日新聞の役割について書いていますが、国語改革は戦前も行われていました。東条内閣時代、文部省と国語学者、軍部そして新聞が植民地政策推進を目的に、日本語を整理・合理化する漢字制限と仮名遣い改定を進めています。

 戦後になると、占領下の国語改革、すなわち当用漢字、新仮名遣い、左横書きがGHQ、文部省、国語学者、そして大新聞の4者によって進められました。

 戦前・戦中と戦後の国語改革の違いは、後ろ盾とされたのが、軍部の強権か、占領軍の絶対権力か、の違いでしょう。そこには主義主張はないと考えるべきです。長いものには巻かれろ。今回の朝日の方針転換はコンピュータ権力の前に膝を屈したということでしょうか。

 大新聞の無思想ぶりは、戦前において、政府の戦争政策に協力するようになった経緯に明確に示されています。

 今日、大新聞自身は、軍部や右翼の外力に屈し、「無念の転針」を図った、というようにみずからの歴史を検証していますが、むしろビジネスがジャーナリズムに優ったというべきで、商業ジャーナリズムの論理で自壊したというのが真相でしょう。

 戦争中、驚くべきことに、たとえば朝日新聞は戦後の高度成長期を上回る勢いで部数が拡大し、収入は増大したのです。

「経理面の黄金時代」

「新聞は非常時によって飛躍する」

 と社史に謳い上げられているほどです。

 戦前、朝日新聞の副社長を務めた緒方竹虎は、

「新聞が強い主義主張をもって立つためには、週刊新聞的な少人数によって作られる、広告収入に依存しないものでなくては駄目だ。新聞社の収入が大きくなればなるほど、資本主義の弱体を暴露する」

 と書き残しています。

 つまり大新聞であればあるほど、主義主張を期待する方が間違っているのです。

 考えても見てください。朝日新聞は昭和14年、陸軍省の後援で靖国神社の外苑に戦車を並べ、戦車百五十台が東京・銀座をパレードする「大戦車展」を鳴り物入りで開催しました。その朝日新聞が、いまでは

「国家神道の中心施設」

「軍国主義のシンボル」

 などといって、同じ靖国神社を批判しているのです。しかも社史にはたったの1行も記録されていません。

 記者個人は別にして、社自体に宗旨や主義主張があるといえますか。

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「天皇候補」なる新語を用いる理由──朝日新聞の皇室報道 [朝日新聞]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です

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 今朝の朝日新聞は、新宮さまの命名の儀について伝える「時時刻刻」に、「宮家で育つ『天皇候補』」という見出しをつけています。

「天皇候補」は一般的な用語とはいえません。61の一般紙、専門紙、雑誌を検索できるniftyの新聞・雑誌横断検索で調べると、「天皇候補」はここ一ヵ月間で熊本日日新聞に一件、ヒットするだけです。Googleニュースでは一件のヒットもありません。

 記事を読むと、「皇位継承者」という意味で使われていることが分かります。また議事では「天皇候補」はリードで1回、使われているだけで、記事本文では「皇位継承者」となっています。

 言葉は生き物であり、時代によって変わっていくのは仕方がありません。しかし思考の道具である言葉は逆に人間の思考を規定します。「皇室制度」と「天皇制」とは違うでしょうし、「皇室」と「天皇ご一家」ではおのずと意味が異なります。

 なぜ今朝の記事は、「皇位継承者」という用語があるのにもかかわらず、一般化していない用語を記事のみならず、見出しにまで登場させなければならなかったのでしょうか。世界でもっとも古い歴史を持つ日本の皇室は伝統に基づく用語があり、その伝統を守ることは重要なはずですが、客観報道を建て前とする新聞が、あえて「天皇候補」というこなれない言葉を用いたのには、何か特別の意味合いがあるのでしょうか。

 過剰な敬語もまた好ましいことではないけれども、言葉の伝統が軽視されているのではないか、と危惧されます。

 しかしそのことは大新聞に限ったことではありません。たとえば宮内庁のホームページで「用語について」の説明を開いてみましょう。

「お出ましに関する用語」の最初は「行幸(ぎょうこう)」で、「天皇が外出されること」とあります。「外出」がすべて「行幸」というわけではないでしょうから説明が十分とはいえないでしょうが、それよりなによりじつにお役所的無味乾燥な説明ではありませんか。せめて「天皇陛下がお出ましになること」と記述できないものでしょうか。

 宮内庁のホームページで気になるのは、横書きの日本語に「、」「。」の句読点ではなく、英文のコンマ「,」が使われていることです。進歩的な朝日新聞のホームページだって句読点を使っています。なぜコンマを使う必要があるのでしょうか。そのような日本語の表記を宮内庁は標準的なものとお考えなのでしょうか。

 皇室用語の伝統を守り、乱れがあれば、正していくべき立場の宮内庁がこれでは、改善は望みようがないではありませんか。日本最古の文学である万葉集がそうであるように、大和言葉の伝統は皇室と深く関わりがありますが、もはや国語たる日本語の伝統を守り伝える藩塀がいないというなのでしょうか。
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