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宗教性を否定することが憲法の精神か──「白山比め神社訴訟」最高裁判決を批判する [白山比め神社訴訟]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 宗教性を否定することが憲法の精神か
 ──「白山比め神社訴訟」最高裁判決を批判する
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 先月下旬、最高裁は政教関係に関する、きわめて注目すべき、重要な判決を示しました。市長が神社の式年大祭の奉賛会に出席し、祝辞を述べたことが憲法の政教分離原則に反するかどうか、が争われた白山比め(口偏に羊、しらやまひめ)神社訴訟についての逆転合憲判決でした。

 合憲とした判断は当然だと思いますが、あたかも宗教性を否定するかのようなその論理にはかえって問題があるように思います。憲法はけっして宗教を否定してはいないからです。日本の宗教伝統に対する十分な理解を欠き、非宗教を推進するかのような判事たちの判断は弊害を生みかねないと私は考えます。


◇1 完全分離主義に立つ高裁判決

 問題とされた白山比め神社は、石川県の南部、白山市(旧鶴来町)に鎮座(ちんざ)します。加賀一ノ宮で、同時に、全国に3000社あまりあるといわれる白山神社の総本社ですから、知らない人はいません。霊峰白山を神体山とし、「石川県に世界遺産を」という世界遺産登録運動の中心の1つです。

 一昨年は御鎮座2100年というお祝いの年で、秋には50年に一度という大祭が予定されていました。そのため奉賛会が組織され、役員となった市長は5年前、市内ホールで開かれた奉賛会発会式に出席し、祝辞を述べたのです。

 これが政治と宗教(教会)の分離を定めた憲法の政教分離原則に反するとして住民が訴え、支出された1万6000円弱の公費の返還を求めたのが、そもそもの発端です。

 一審は原告の請求を棄却。しかし、これを不服とする住民が控訴、二審の名古屋高裁金沢支部は「市長の行為は、神社の大祭を奉賛・賛助する意義・目的を有し、特定の宗教団体に対して援助・助長・促進する効果を有するものといえる」と一審判決をくつがえす違憲判決を示しました。

 市長側は、「全国的に有名な神社の大祭は市の観光イベントでもあり、市長の参加は儀礼的行為」と主張しましたが、認められなかったと伝えられます。

 これまで指摘してきたように、二審判決はじつに怪しげです。それは次のような点からです。

(1)市長の祝辞の中身には触れず、市長の外形的行為についてのみ法的判断を下したこと。

(2)表向きはいわゆる目的・効果論に立ち、ゆるやかな分離主義を採用しているはずなのに、実際には宗教との関わりをいっさい認めない絶対分離主義の立場をとっていること。これでは市長は神社であれ、お寺であれ、およそ宗教団体と名のつくところとは交際ができなくなり、無宗教を掲げつつ、非宗教を援助・助長・促進することになること。

(3)神社の年祭は宗教活動で、これに伴う奉賛会活動に行政機関が参加することが憲法違反だとするならば、神社以外の記念行事などに行政が関わっていることも違憲となるが、そのような議論は聞いたことがなく、神社については厳格主義が採られ、他の宗教には限定主義が採られるというダブルスタンダードが促進されること。

 それなら、最高裁判決はどうだったのか。


◇2 市長の言い分を大きく認めた最高裁

 最高裁判決が注目されるのは、二審判決が認めなかった市長側の言い分を大きく認め、その結果、政治の宗教の分離による信教の自由の確保ではなく、かえって政治による非宗教の援助、助長、促進に走っていることです。

 つまり、二審では、事実関係として、宗教法人である神社の所在する白山周辺地域については、観光資源の保護開発、観光施設の整備を目的とする財団法人が設けられていることまでは認めたものの、市長が奉賛会発会式に出席し、祝辞を述べたことは、社会的儀礼化しているとは考えられないし、神社の大祭が観光イベントだとする市長側の主張は当たらないと退け、違憲判決を下しました。

 けれども最高裁は逆に、市長の行為が宗教との関わりがあることは否定しがたい、としながらも、同神社は観光資源としての側面があり、神社の大祭は観光上重要な行事であったというべきだとして、市長側の言い分を認めたのです。

 言い換えると、最高裁判決は、神社にとっては宗教的行事であっても、行政にとっては観光行事だと認められる。そのことにおいて、政治と宗教の分離が達成されている、という論理を展開したのです。市長は観光業者のトップセールスマンであり、神社のイベントは市長には観光業促進の商材に過ぎないから違憲ではない、というわけです。

 実際、最高裁が注目したのは、問題の奉賛会発会式が、(1)神社以外の一般施設で開かれた、(2)式次第に宗教的要素は認められない、(3)市長あいさつの内容は儀礼的で、宗教性はなかった、という事実でした。

 そのうえで、最高裁判決は、地元の観光振興に尽力すべき立場の市長が、宗教性のない儀礼的目的で出席し、祝辞を述べたのであって、特定の宗教を援助、助長、促進するような効果を持たない。だから憲法に違反しない、と結論づけたのです。

 市長あいさつの中身すら検討しなかった二審判決の怪しげさを克服した点では評価されます。実際、この判決を社会的常識にかなった妥当な判決だと評価する人もいるのですが、私は違うと考えています。

 その理由は、くり返しになりますが、(1)行政にとっての神社を観光資源だときわめて限定的に考えていること、(2)宗教性を否定することによって、政教分離原則を実現しようとすることは逆に、宗教の価値を認め、信教の自由を保障するという憲法の大原則に反すること、です。


◇3 観光資源と割り切れない

 第1に、白山比め神社が「宗教法人」であると認めている点では二審判決も最高裁判決も変わりません。

 当たり前のことで、たしかに宗教法人法上の宗教法人であることは間違いないのですが、同神社が2000年を超えて、この地にあるということは、「宗教法人」であることより、もっと広い意味があります。

 それがまさに日本の宗教伝統であるはずなのに、判決は、あるいは市長たちは、行政にとっての同社をもっぱら観光資源と割り切っている。そのことは祖先が築いてきた日本の宗教伝統の歴史に反することになると思います。

 白山比め神社は日本三大名山の一つとされる白山を女性神と仰いでいます。4県にまたがる火山はこの一帯の最高峰で、自然の宝庫です。2000年どころか、縄文時代以前にまでさかのぼるような地域の素朴な自然信仰が、やがて神社として発展していったことを十分にうかがわせます。

 戦後は一帯が国立公園になりましたが、同社の奥宮はむかしもいまも白山の頂上に鎮座しています。美しい景観、豊かな自然資源、人々の命の源であり、心の豊かさと尊い命を育んでくれる白山であればこそ、さまざまな信仰として発展を遂げたことは明らかです。現在の宗教法人としての神社はその結果です。

 そのような地域の歴史と文化に敬意を表して、地域住民の代表として、奉賛会設立に参加するというのなら理解できますが、観光業のセールスのため、端的にいえば、お金になるから参画するというのは、地域の歴史と文化をあまりに軽視している姿勢だといえませんか? 行政は白山の世界遺産登録運動を推進していますが、これまた地元観光業促進のためだというなら、了見が狭すぎて、見識を疑わざるを得ません。


◇4 法の番人が行う違憲行為

 第2に、最高裁は、奉賛会発会式の開催場所や式次第、市長あいさつの中身が非宗教的であり、儀礼の範囲にとどまることをもって、合憲だと認めていますが、逆にいえば、会場が境内の神社会館で、神社の祭祀にのっとっていたなら、違憲だと判断したのでしょうか?

 もしそうだとしたら、二審判決と同レベルになります。東京都慰霊堂での戦没者等の慰霊法要や旧水沢市のキリシタン領主祈願祭など、とくに仏教やキリスト教の宗教形式で行われている記念行事に公共団体の首長が参加しているケースは多々ありますから、影響は少なくありません。

 逆に、それらを不問に付して、神社の行事についてのみ問題視すれば、法の下の平等に反することになります。たとえば、全国の神社にはしばしば会館があり、主要な行事が行われますが、市長などの参加を求めるような行事は、会館を使用できない。神社の祭りの形式はとれない、というようなことになると、混乱は免れません。

 いずれにせよ、憲法は宗教の価値を認めているはずなのに、法の番人は宗教性というものを、とりわけ日本の宗教伝統である神道の宗教性について、まるで腫れ物に触るかのように避けている。私にはそのように見えて仕方がありません。

 そもそも日本の宗教伝統とはなにか、を歴史学的に深く解明し直さないかぎり、以上のような無用の混乱は続くのでしょう。そして、憲法が認めているはずもない行政による非宗教政策を、司法当局が援助、助長、促進することになります。つまり、司法自身が憲法に反する行為を行うことになります。


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