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ある神社人の遺言「神社人を批判せよ」 [神社人]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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ある神社人の遺言「神社人を批判せよ」
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 神道系大学を傘下に置く皇学館の理事長だった上杉千郷(うえすぎ・ちさと)さんが先月、亡くなりました。

 上杉さんは世界を股にかけて活動する数少ない神社人でしたが、一方でローカルな視点を失いませんでした。「田舎神主」という言葉があるように、地方にこそ神道の神髄があります。よき神道人の代名詞です。上杉さんこそは田舎神主の典型で、病床で「田舎に帰りたい」と願い、最期は故郷の岐阜で静かに息を引き取ったそうです。

 私にとっては公私にわたってお付き合いいただいた、私の人間性を知る数少ない一人でした。苦境にあるとき、どれほど精神的に応援し続けくれたことか。

 最後にお会いしたのは病室でした。別れのとき、私の手をかたく握り、目を見つめながら、いつも変わらぬヒョウヒョウとした声で、「ひとつ、日本のために頑張ってくださいよ」と語られたのが忘れられません。

 上杉さんは特攻隊の生き残りです。敗戦後は「おつりの人生」と見定め、全力投球してきたとおっしゃっていました。だからこそ口にできる「日本のため」なのですが、私にはあまりにも荷が重すぎます。


▽1 イエロー・ペーパーをやれ!!

 上杉さんが生前、私に何度も提案されたことがあります。それは神社人批判の勧めでした。ご自身は神社界の重鎮なのに、野人に過ぎない私にくり返し迫りました。「斎藤君、S新聞をやったらいい。キミならできると思う」

 S新聞というはいわばイエロー・ペーパーです。つい最近まで、宗教界のスキャンダルを暴き立てることを得意とする新聞がありました。しかし編集者の高齢化で自然消滅したようです。

 その新聞があったころは書かれる側にもそれなりの緊張感があった。いまはそれがなくなり、だれきっている。だからお前がやれ、と上杉さんは何度も語るのでした。

 私がスキャンダル嫌いなのを上杉さんは知っているはずです。人間の世界なら、どこにでもあるような醜聞を暴き、カネに換えるようなことを私がまったく好まないことを、上杉さんは百も承知のはずです。

 それならなぜ、「わが神社人を批判せよ」とくり返し迫ったのか?

 それはなにより、上杉さんが若き日に文字通り、命を捧げようとした祖国の60数年後の腐りきった現状に深い憂いがあるからでしょう。そして、改革の先頭に立ってほしいと期待する神社人が、実際にはいっこうに現れてこない現実に対する苛立ちからではなかったか、と私は想像しています。


▽2 抗議の声が上がってこない

 たとえば、私がこのメルマガなどで一貫して指摘してきた平成の宮中祭祀簡略化問題です。

 多くの人々が支持してくれましたが、祭祀を専門とする肝心の神社人のなかから、強い抗議の声はいっこうに上がってきません。昭和の簡略化問題が表面化した昭和50年代末に、猛反発し、宮内庁に抗議した、当時の若い神職たちはいまは60代で、第一線で活躍しているはずですが、昭和の先例を踏襲する目の前の現象に対しては、何も感じないのでしょうか?

 それどころではありません。ある神社人などは、拙著に対してずばり、「宮内庁批判はよくない」と語ったほどです。私はまったく耳を疑いました。もっとも批判すべき君側の奸(かん)に対して、媚(こび)を売っているのです。これでは問題の解決など望むべくもありません。

 このメルマガが追及してきた空知太神社訴訟判決の問題もしかりです。

 上杉さんが提案されたイエロー・ペーパーは劇薬です。劇薬を用いなければならないほど、病は深い、と上杉さんは考えていたのかどうか?

 これからこのメルマガで、少し考えてみたいと思います。


タグ:神社人批判
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相次いで亡くなった日韓の架け橋 [神社人]

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相次いで亡くなった日韓の架け橋
──高麗澄雄宮司と黄慧性さん
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 古代と現代の日本と韓国とをむすぶ、じつに印象深い2人の方が今月(平成18年12月)、相次いで亡くなりました。お一人は、埼玉県日高市にある高麗神社の高麗澄雄宮司さん。もう1人は、韓国の宮廷料理研究家・黄慧性(ファン・ヘソン)さんです。

 高麗神社のある日高市はかつては高麗郡でした。『続日本紀(しょくにほんぎ)』には駿河、甲斐など7カ国の高麗人1799人を武蔵国に移住させ、高麗郡を置いた、と記されています。霊亀3年(716)のことでした。

 祖国滅亡という悲劇のあと、朝鮮半島から亡命してきた高句麗の遺民によって神社は建てられたのでした。祭神は高麗王若光といい、高麗宮司さんはその末裔で、59代目とのことでした。

 ある年の暮れに神社を訪ねたとき、宮司さんは「オヤジのころ」の話を聞かせてくれました。

「オヤジは2つ、イヤだと思ったことがある、といっていた。1つは、村の駐在所に特高警察がいたことだ」

 神社にお詣りする人を警察は警戒していたようです。もう1つは

「朝鮮人は各警察署ごとに『協和会』に入らされ、警察署長が引率して参拝にやってきた」ことでした。

「警察はオヤジに『立派な日本人になるようにいってくれ』と頼んだ。そういわれるのがオヤジはイヤでイヤで仕方がなかった」

 戦時中の高麗神社は、「一方では監視され、一方では利用される対象だった」ようです。

 そのころ警察に連れてこられた在日の人たちがいまも参拝にやってくるのですが、宮司さんにいわせると

「むかしはいやだったが、いまはここに来るとホッとする、というんだ」そうです。

 神社には外交官や経済人もやってきます。時代が代わり、いまや高麗神社は在日の人たちの心の故郷となっているようです。それは祭神である高麗王若光の子孫が神社にいるからです。

「韓国人が日本人の悪口をいうのも腹が立つが、オレは日本人が韓国の悪口をいうのも腹が立つんだ」

「高麗郡建郡1300年まで長生きして、神社主催で盛大に祝おうと思うんだ」

 と語っていた宮司さんは、晩年は杖を必要とする不自由な体でしたが、誰の世話になることもなく生活し、亡くなる数分前まで近所の人と談笑して、その後、ひとり静かに旅立ったそうです。79歳でした。

 黄慧性さんは忠清南道の裕福な両班の家庭に生まれ、日本の女学校に学んだあと、長年、朝鮮の宮中料理を研究しました。重要無形文化財に指定され、ソウル大など各大学の教壇に立ち、後進の養成に尽くしました。

 韓流の人気ドラマに便乗して、「チャングムの母」と呼ぶ人もいますが、韓国文化にくわしい友人によれば、黄慧性さんこそチャングムその人でした。じつは友人が「韓国のお母さん」と親しんで呼ぶのが黄慧性さんです。友人が留学中、韓国人と韓国文化のすばらしさを学んだのは黄慧性さんとその家族との交流があったればこそでした。

 逆に、黄慧性さんの偉大さは日本と日本人をしっかりと理解し、評価していたことにあります。戦後、失われかけていた朝鮮の宮廷料理を研究できたのは、日本時代に朝鮮総督府が李王職を設け、宮廷文化を保存、記録していたからでした。

 何年か前、友人につれられてソウルを旅したとき、南山の宮廷料理の店で、優雅なチマチョゴリ姿の黄慧性さんが語った言葉が印象的でした。

「最近の人はすぐに栄養学的な意味を考えようとする」

 国王が毎日、食する宮廷料理には儒教的な意味づけがある、それが現代の韓国人には理解できない、と嘆くのでした。

 韓国の文化をきちんとした日本語で説明してくれた黄慧性さんは長い闘病生活のあと、日本と日本人を愛した多くの韓国人のあとを追うようにして、この世を去りました。86歳でした。

タグ:日韓関係
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アンコール遺跡修復に明治の土木技術──発明した服部長七の敬神愛国 [神社人]

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アンコール遺跡修復に明治の土木技術
──発明した服部長七の敬神愛国
(「神社新報」平成16年2月9日号から)
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(画像は岩津天満宮HPから)

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 カンボジアのアンコール遺跡は、高い文化的価値が認められながらも、崩壊の危険が指摘されてきた。ユネスコが救済に乗り出したが、貴重な文化遺産の保護には日本をはじめ国際協力が欠かせない。

 しかし、遺跡修復に明治時代に発明された日本の土木技術が応用されてゐることはほとんど知られてゐない。発明者が母親譲りの熱心な敬神家であったことも……。

 日本政府の遺跡救済チームが遺跡修復に採用したのは、「長七たたき(人造石)」といふ技術だ。修復といふからにはもとの技術を再現したい。コンクリートでは空気に触れて劣化する。けれども「長七たたき」なら、逆に空気を吸って強度を増し、100年経っても壊れないからである。

「たたき」は古くからある左官技術で、消石灰とサバ土(花崗岩が土壌化したもの)を混ぜ、水で練って叩き固める。土間や床下などに広く使はれるこの技術を明治時代に改良し、コンクリート工法が普及するまでの過渡期に、大規模な土木工事に応用したのが愛知・碧南出身の服部長七だった。


▽ 天神さまのお告げ

 江戸末期に左官屋の3男に生まれた長七だが、維新後、上京して日本橋で饅頭屋を営んでゐたとき、水道水の濁りといふ現実に直面、「市民に悪水を飲ませてゐるのは、恐れながら東照公千慮の一失。私も三河人、過失を補ひたい」との思ひから濾過技術開発に取り組み、勝手知ったるたたきの有効性に思ひ至る。

 これをきっかけに「たたき屋」となり、皇居・御学問所の土間、赤坂、青山の御所、大久保利通邸、木戸孝允邸などを手掛けて、長七は社会的信用を高めていく。手間や賃金を顧みない熱心な仕事ぶりが公の目にとまったからだといふ。

 最初にたたきを土木工事に用ゐたのは明治11年、愛知・岡崎の旧東海道にかかる夫婦橋の架け替へだった。そのとき長七は生涯忘れ得ぬ宗教的体験をする。落成の1日前の朝、不思議にも天地は黄金にまばゆく輝き、目を見開くことすらできない。不思議なことがあるものだと、長七は予定してゐた「肩抜き」といふ最後の作業を取りやめ、以前から崇敬してゐた天神様に参籠し、一心に祈願する。

「3カ年、梅を断つので、1週間の間に夢中のお告げを賜りたい」

 満願の払暁、1人の老人が枕元に現れた。

「橋の空気の当たるところに欠陥がある。水中にも注意するがよい」

 現場に駆けつけ、いぶかる工夫たちを説得、虱つぶしに検査させると、果たして欠陥が見つかった。すぐさま修復し、堅牢強固な橋を完成させた長七は、敬神の念をますます深めていく。

 渡り初めの3日後、明治天皇御巡幸の御先発として通行になった宮内省の官吏は、この橋に注目し、技術の巧みなることを賞賛したといふ。「たたき屋長七」の名声はいよいよ高まり、品川弥次郎子爵の有力な後ろ盾も得て、堤防工事、築堤工事、築港など手掛ける事業は全国に、そしてアジアに拡大していった。なかでも特筆すべきは、17年の起工から5年余の歳月を費やした国家的事業、宇品(広島)港築港工事である。


▽ 境内を終の棲家に

 長七は日本近代産業革命の卓越した担ひ手の1人であった。「自己の利益だけを求めず、公益を広めなさい」といふ母親の諭しに従ひ、ときに採算を度外視して事業に打ち込む姿勢は多くの信望を集めたが、国士的精神を貫いてゐたものは篤い信仰であった。

 65歳を機にいっさいの事業から手を引いた長七が終の棲家に選んだのは、崇敬する岡崎・岩津天満宮の境内である。大正8年に80年の生涯を閉じるまで、長七は天神様の境内整備に最後の情熱を傾けた。

「天満宮中興の祖」が逝って100年、たたきはコンクリート・ジャングルといはれる現代都市に甦ってゐる。化石エネルギーを必要とせず、環境に負担を与へないことから再評価されたためで、公共施設などに積極的に採用されてゐる。

 明治といふ多難な時代には、長七のやうな敬神愛国を地でいく日本人がいくらでもゐたのであらう。未曾有の国難にあるはずの現代はどうか。

タグ:神社人
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男女平等を説く神道講師「賀屋鎌子」──数千の聴衆を酔わしむ熱誠 [神社人]

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男女平等を説く神道講師「賀屋鎌子」
──数千の聴衆を酔わしむ熱誠
(「神社新報」平成12年11月13日号)
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 手元にある1冊の遺稿集の口絵に古びた家族写真が載っています。撮影は明治38(1905)年4月、向かって左のイスに腰掛けたまじめ顔の少年はのちに東条内閣の蔵相を務めることになる賀屋興宣で、中央に一人悠然と立っているのが兄の就宣、右の椅子に座っているのが2人の母親ですが、丸髷に留め袖というような、いかにも母親らしい身なりではなく、兄弟と同様、羽織袴なのが目をひきます。

 化粧っけのない顔、引き締まった唇、カメラに向けられた目は、慈愛に満ちているというよりはどこか厳しさが漂っています。けっしてふつうの家庭婦人ではないことが見てとれます。

 明治時代、神職のなかに日本の女性運動の先駆けがあり、その中心が山口県・二所山田神社の宮本重胤宮司であった、という知られざる歴史を以前、書いたことがありますが、その後、読者から宮本と同時期に神道講演講師として活躍した複数の女性がいたことを知らされました。

 その1人が、この賀屋興宣の母・鎌子です。

▢ 藤井稜威の妻で賀屋興宣の母
▢ 日露戦争では出征兵士を激励

 戦前は神社の神主といえば男性に限られ、女子神職は認められませんでした。しかし終戦直後の神社本庁設立と同時に女子神職の任用は制度化されました。電撃的転換の背景には何があったのでしょうか。

 元山口県神社庁長の宮崎義敬氏は、宮本重胤が明治後期に設立した大日本敬神婦人会が婦人を対象とした神道教化や婦人神職任用の実現、婦人参政権獲得、神前結婚式の普及などに大きな役割を果たしたこと以外に、

「山口県には神道講演講師として県内外で広く活躍した女性がかつて何人もいた。また、戦争末期には国のレベルでも、神職夫人などに3日間ほどの講習を受けさせ、代務者として神明奉仕を認めた時代があった。そうした神道夫人の実績が相まって、戦後まもなく女子神職任用が認められることになったのではないか」とおっしゃるのでした。

 山口県には「女性を登用する伝統的気風があった」ともいいます。「私自身、病身の父に代わって、小学校3年の時から出征兵士祈願祭などを奉仕できたのは、母のおかげだ。母は父の手ほどきを受け、祝詞作文から祭壇の鋪設(ほせつ)など自在にこなした」と宮崎氏は語ります。

 宮崎氏の子息で、神功皇后(じんぐんこうごう)神社禰宜(ねぎ)の宮崎宏視氏によれば、明治15年に神官と教導職の兼務が廃止され、次第に神道界が官僚化していったとき、山口県の神職たちはこれに満足しなかった。教化活動の核となる神風講社が数多く結成され、講習会が盛んに催された。神社非宗教論を主張して神社神道への攻勢を強めていた浄土真宗などに対する対抗意識が高まり、熱心な教化活動が展開され、明治後期には民衆教化のための講師会が発足する。大正・昭和になると、戦争や不景気で苦労する国民を励ますために、講演活動はいっそう盛んになり、講師養成のための山口国学院特設講演研究部が創設されるなどした──(「山口県における神道教化の流れ」=「山口県神道史研究」第4〜6号)。

 明治10年代、神風講社の結成のため、県下を巡講していたのが賀屋鎌子だ、と宏視氏は解説するのですが、どのような人物だったのでしょうか。

『神道人名辞典』など、いくつかの人名辞典に当たってみましたが、残念ながら賀屋鎌子に関する記述が見当たりません。子息の興宣が書き残した著作などを手当たり次第、片っ端からめくってみて、ようやく昭和38年に日経新聞に掲載され、のちに単行本化された『私の履歴書』に、わずかな思い出が記録されているのを発見しました。

『履歴書』によると、興宣は明治22年、広島にある母は・鎌子の実家で生まれました。父親は藤井稜威(いつ)です。鎌子の名は知らなくても、国学者である藤井を知る人は少なくないかも知れません。嘉永6年(1853)、山口県上関町・白井田八幡宮社家の生まれで、30歳の若さで神宮第15教区本部長となり、やがて広島国学院や国風新聞社を設立しました。藤井の実弟で、その養子となり、のちに賀茂家を継いだのが靖国神社宮司・賀茂百樹(ももき)です。

 興宣によれば、賀屋家のルーツは鎌倉時代に播磨の守護であった赤松則村とされ、江戸期には広島の浅野藩に仕え、江戸詰として江戸に居を構えていましたが、明治維新で広島に帰ります。そして興宣が生まれました。少年時代は「若様」と呼ばれる日々を送り、4歳のとき、母の伯父の家を継いで、賀屋姓を名乗ることになったといいます。

 興宣の回想には母親の記憶が2回、出てきます。

 1つは、むかし伊達という粋人の県令(知事)がいて、芸者学校を建てました。教師に選ばれたのが興宣の祖母と母・鎌子です。祖母は加賀百万石の奥女中を務めたことがあり、礼儀作法と書道、絵画の心得がありました。11歳の鎌子は作文や算術を教えました。はるかに年下ながらきびしい先生で、泣かされた芸者もいたようです。鎌子の月給は巡査並の4円だったそうです。

 もう1つのエピソードは、日露戦争当時のこと、出征兵士の大半が広島・宇品港から戦地に向かったのですが、多くの兵士が賀屋家にも分宿にやってきました。鎌子は若い兵士たちをもてなし、激励し、大いに感激させました。「かいがいしく立ち働いていた母の姿はいまでも目に浮かぶ」と興宣は振り返っています。

 しかし神道家としての鎌子に関する記述が見当たりません。「母は漢学者であり、社会事業やまた精神方面の講演をよくやっていた」という表現が見受けられる程度です。


▢ 講演行脚は数千回を超える
▢ 慈善事業や子弟教育に尽力

 図書館で資料をくまなく探して、手島益雄著『広島県先賢伝』(昭和18年刊。その後、51年に復刻)に鎌子が載っているのをようやく見つけました。面白いことに、郷土の偉人数百人を取り上げたこの紳士録に、鎌子の夫「藤井稜威」の名はありません。一方で、「賀屋鎌子」の方は「教育家」と「心学者」の2つの章に登場します。夫より評価が高いということでしょうか。

『先賢伝』によると、鎌子は文久元(1861)年、江戸藩邸で生まれました。維新後は藩公から拝領した広島市鷹匠町の旧藩鷹屋敷に移り住み、ここで暮らしました。

 手島は一度だけ、この屋敷に鎌子を訪ねたことがあるそうですが、客間の床の間には注連縄(しめなわ)が張られていました。理由を聞くと、「かつて旧藩主が鷹狩りの際、この座敷で休息した。その昔をしのび、敬意を表して」と説明されたといいます。

 手島は、鎌子の生涯を次のように描いています。

 ──早熟の鎌子は幼少のころから学問を好み、国学を藤井稜威に、石田梅岩の教えである心学を宮本愚翁および叔父の賀屋忠恕に学び、さらに漢学を考究した。
 賀屋忠恕は父・明の弟で、心学に志して平野橘翁に師事し、維新後は教務省神宮教院、京都明倫社などから諸国教授の引証を受けたほか、神宮教管長から権大講義に補せられ、神宮教会総理に任じられた。
 藤井家に嫁いだ鎌子だが、明治31年に夫が死去し、さらに実父・明が亡くなると、賀屋家相続のため復籍する(この点、興宣の『履歴書』とは事実関係が異なっています)。

 尊皇の志があつく、国体観念に徹し、国体の本義と民心の作興のため、鎌子は広島、山口、島根、岡山、愛媛などの各県を行脚して講演しました。その回数は数千回を超えたという。

 また慈善事業につくし、愛国婦人会の主唱者・奥村五百子と共鳴して、会の幹事となったほか、平和会、広島婦人慈善会を創立した。

 日清戦争・日露戦争のときは自宅を軍隊の宿舎にあて、兵士の接待・慰労に努めた。同時に皇国精神について講和し、感激・共鳴させた。無事に凱旋帰国した兵士で、その後、何十年も交際を続けた人も多い。

 さらには、自宅に私塾を開き、多数の子弟を教育した。質素勤勉にして、皇国精神の徹底と武士道的婦人のたしなみ以外、何ものもない一生で、大正4(1915)年に55歳で死去した──。

 以上のように手島は書いています。昭和18年の刊行だけに、いかにも戦争の時代を感じさせる表現ですが、鎌子のただ者ではない生きざまは見えてきます。しかし具体的な表情が見えません。


▢ 90日間で5万人が耳を傾ける
▢ 「国運の消長は女子の双肩に」

 神道講師としての賀屋鎌子の具体的な活動を記録していたのは、大日本敬神婦人会の機関紙「女子道」です。宮本重胤の孫で、二所山田神社の現宮司・公胤氏の協力で、何点かの資料を入手することができました。

 明治43年6月の号に重胤は、緑風の俳号で、鎌子との最初の出会いについて書いています。

「女史には謹厳な侵しがたい威厳と情愛とがあふれていた。互いに道を語るにおよんでは、百年の知己に会ったがごとく、意気投合した。斯道(しどう)の不振を慨嘆し、邪教の跋扈(ばっこ)をののしると、熱誠こもる語気が激して庭前の桜花はために散り、道を布く苦心を語っては、眉間に一抹の曇りが帯び、ために前栽の海棠(かいどう)がしなった」

 名文調の記事から、信念に燃える2人の対面の様子が鮮やかによみがえってきます。

 鎌子の地方講演はしばしば長期におよんだようです。45年7月の「女子道」には「個人消息」の欄に、「名誉会員の賀屋鎌子氏が山陰石見地方を巡教した。講演旅行は90日におよび、のべ5万人が耳を傾けた。女史の熱誠と精力を感じるにあまりある」という短信が載っています。

 熱誠があふれていたという講演の内容はどのようなものだったのでしょうか。鎌子は何を語ったのでしょうか。

 大正2年4月、大日本敬神婦人会の周北会員謝恩大祭が開催されたというニュースが「女子道」に掲載されています。会場は二所山田神社でした。午前中は宮本重胤幹事長が祭主を務める謝恩祭と重胤の講話、午後は総会式で、そのあと講話が続きました。講師は古守敏雄と鎌子です。

 婦人装束に身をつつみ、凛々しく足を運んで神拝したあと、鎌子が登壇、朗々と教育勅語を奉唱し、重々しく語りはじめました。「わが国民は神祇崇敬をもって第一の勤めとする。帝国の隆盛発止はこの風盛んになるか否かによる」。神代から当今に至るまでの歴史を引用して詳説し、とくに婦人に対して注意を喚起した鎌子は講演中、終始不動で、数千の聴衆を酔わしめた──と記事にあります。

 そのときの講話の大要が翌月の号に載っています。一口でいえば、講演は男女平等を説き、世の女性たちを鼓舞するものでした。

「本来、男女に尊卑の差はない。男女は飛ぶ鳥の両翼のごとく対等でなくてはならない。中古以来、男尊女卑の風が起こり、女性がそれに甘んじてきたのは情けないことだ。天照大神も天鈿女命(あめのうずめのみこと)も偉大な神様で、男子と対等で、しかも男子以上のお力があった。また女性には人を作る田地たる天職があって、国家にとって利のある人も、害のある人も、みな女性が生み育てた結果による。したがって国運の消長は女性の双肩にかかっている。良田に良種生ずるように修養を怠ることはできない。女性の本分を発揮し,その徳光を輝かせていただきたい」

 賀屋鎌子の情熱は、戦後の神道婦人の活動にも受け継がれました。大きな影響を受けた1人が先年、亡くなった山口・宇津神社禰宜、佐古幸嬰氏です。戦前から戦後にかけて、半世紀以上にわたって神道教化の第一線に立ちました。

「佐古女史が女学生のころ、鎌子女史が頭をなでながら『しっかり勉強して立派な神道講師になるんですよ』と励まされた。そんな思い出を私に話してくれたことがある。これが佐古女史の講師人生の出発点だったかも知れない」

 そのように語るのは、元神社本庁総長の櫻井勝之進氏である。鎌子以来、男女平等を神道的に説く女性神道講師の潮流が脈々と流れているのです。櫻井氏の郷里・島根県那賀郡の八幡宮を講演のためいくたびか訪ねた鎌子が、櫻井氏の名を詠み込んだ自筆の和歌を残しているそうです。「相当の筆力」だと聞きます。

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青鞜社に先駆ける神道人の女性運動──婦人神職の道を切り開いた宮本重胤 [神社人]

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青鞜社に先駆ける神道人の女性運動
──婦人神職の道を切り開いた宮本重胤
(「神社新報」平成12年11月13日号から)
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女子道社.jpg
「女性と靴下が強くなった」といわれた「戦後」も今は昔、靴下の方は安い輸入物が増えたせいか、めっきり弱くなりました。一方、シドニー・オリンピック(2000年)での大活躍に見られるように、日本女性の強さはいよいよ衰えを知りません。

 たとえば、今年(平成12年)2月、大阪府に誕生した初の女性知事・太田房江氏は春場所の優勝力士に府知事賞を土俵上でみずから授与することに熱意を示し、「女人禁制」の伝統を固持してきた相撲協会をあわてさせました。

 結局、女性知事の「土俵入り」は水入りとなりましたが、9月には女性初の横綱審議委員に選ばれた脚本家の内舘牧子氏が「女性が土俵に上がることは大反対」と主張し、俄然、場外戦は女の戦いの様相を帯びてきました。「男女平等」の理念と伝統文化の衝突はどこまで行き着くのでしょうか。

 と、ここまで書いて、ふと気づくのは、「男女平等」という理念は近現代になって西欧のキリスト教文明から新たに移入されたものであり、日本の伝統的価値観とは対立する、というような「常識」が議論の暗黙の前提になっていることです。はたしてこの「常識」は正しいのでしょうか。

 一般には、日本の女性解放運動・婦人運動はヨーロッパの影響を受けて、平塚雷鳥(らいてう)らを先駆者として始まったといわれますが、じつはそうではありません。というのは、日本の伝統文化の典型である神社の神職たちが、平塚らよりも早く、しかも国境を越えて世界的に、女性運動を展開していたからです。まったく意外なことに、近代日本の女性運動は日本の伝統のなかから生まれたのです。


1、神社本庁の書庫に眠る資料。昭和初年に評議員会で激論

 全国各地に約8万社あるといわれる神社のほとんどは現在、宗教法人神社本庁に包括されていますが、その設立の歴史は案外、新しく、戦後まもなくのことでした。設立の母体となったうちの1つは神職団体である大日本神祇会(全国神職会[全神]が昭和16年に改称)です。

 その古い資料が東京・代々木にある神社本庁の書庫に、褐色に変色して眠っています。その資料のいくつかに、知られざる日本の女性運動史の断片が記録されていました。それまで男性に限られていた神職の資格を女性にも認めようという、いわゆる女子神職任用問題です。

 毎年5月に開かれる財団法人全国神職会の評議員会の「議案」にこのテーマが最初に登場するのは昭和5年のことのようです。A5変型、10数ページ、活版で印刷された「第七号議案 地方団体提出議案」の4ページに、「十五、神社用務に婦人任用の制度を設けられたき件」(原文は漢字カタカナ混じり)の1行があります。提案したのは、中国・四国地方の中州九県神職連合会です。

 翌6年にも提議されたようですが、残念ながら、いずれも議事録が見当たらず、具体的にどのような議論が交わされたのか、くわしいことは分かりません。

 昭和7年にも「中州九県神職連合会決議──広島県神職会提出」で議題に取り上げられました。「東京府渋谷町若木」に全国の神職たちが長年、待望した全国神職会館が竣工した年のことです。真新しい会館の講堂で熱い議論が交わされました。

「議事速記録」によると、評議員会第三日、議案はまず建議案第一部委員会に付されました。けれども、議論が沸騰して満場一致を見ることができず、採決の結果、「保留」のまま本会議に回されます。

 最初に宮本重胤(山口)が発言に立ちました。

「他府県にもお願いし、年々歳々、提案してきたが、いずれも保留となったのは遺憾だ。議論の余地はないのであり、婦人神職任用を可決していただきたい」

 しかし、これに対して、「保留」を望む慎重論が呈示されます。

「清浄を尊ぶのが神社の根本義であり、穢(けが)れにあるものが仕えるのは神社の忌むところだ。女子は出産、月経などによって穢れがあると信じられている。女子の任用は根本の建前を損なうものと考える。また、神職の任用について、いま全神の神社制度調査会で研究中である。最大の論点は、将来の神職は中等学校程度の学力が必要だということで、女子神職任用は時代の議論を無視し、神職の統制を乱すことになるのではないか」

 きびしい発言に議場はやや騒然となったと記録されています。争点は「穢れ」と「学力」の2点です。

 宮本氏がすかさず反論します。

「穢れを忌むというのはまったく仏教思想の現れである。日本では美夜須比賣(ミヤスヒメ)の熱田神宮、倭比賣(ヤマトヒメ)の伊勢神宮の斎宮といい、ことごとく婦人であるのはいうまでもない。朝廷でも今日、内掌典の制度が認められているのはご存じの通りだ。婦人の学力を云々するのは男尊女卑の思想にとらわれている。女学校の卒業生を神職に認めるということにしても差し支えない」

「穢れ」は外来の仏教思想であり、日本の伝統思想ではない、という反論は注目されます。宮本の発言中、何度か拍手も聞かれました。しかし、多数の同意を得ることは簡単ではありませんでした。

「私は賛成だが、生理期間の穢れを忌むのは中国からの思想であるというような議論になると、神職の斎戒・服喪の規定はまったく無視しても良いという意見にならないか。生理期間は遠慮するとか、別則を設けるものと思っていたが、そうではないのか」

 宮本がふたたび説明します。

「婦人は月経があるから奉仕できないという意見があったので、月経は忌むべきものではない、と申し上げた。もとより月経を忌むという思想は古いものではないと思う。美夜須比賣のお歌を見れば分かる」

『古事記』の倭建命(ヤマトタケルノミコト)のくだりに、美夜須比賣との相聞歌が載っています。か弱い腕を枕に寝たいと思うがあなたの着物の裾に月が出てしまった、と命が歌うのに対して比賣は、あなたのお出でが待ちきれなくて月が出てしまった、と答え、2人は結ばれます。

「月が出た」とは生理のことで、初潮を見た女性が一人前と見なされ、結婚の能力を備えたものと考えられたようです。宮本はここには穢れの観念はない、と主張したのです。

 本会議での議論は賛成意見がむしろほとんどなのですが、採決の結果、女性神職任用はこの年も「保留」となります。その翌年も、そのまた翌年の議案にも女性神職任用問題は載っていません。けれども、この時代に神職たちが公的な場で何年も継続して、このような議論を行っていたことは確かであり、そのことは注目されるべきです。


2、明治38年に敬神婦人会設立。異端視されて苦難の40年

 女子神職実現運動の歴史は、もっと古く明治30年代にまでさかのぼることができます。

 運動の指導者こそ前述した宮本重胤その人でした。明治14年生まれ、山口県都濃郡鹿野町(現在の周南市)・二所山田神社の宮司で、戦後は山口県神社庁にまで上り詰めました。

 宮本はなぜ女性神職問題と取り組むようになったのでしょうか?

 孫で現宮司の公胤氏がまとめた論攷「『女子道』にみる『大日本敬神婦人会』の教化活動について」によれば、宮本重胤ははじめ村内や近隣の郷村で教化活動を展開していたのですが、熱心な会員の増加と発展に自信を得て、県内はもとより日本全国さらに海外への教化活動を目指すようになります。そして明治38年に創設したのが「大日本敬神婦人会」でした。

 明治になって「四民平等」政策が推進されましたが、男尊女卑の因習は以前、残っていました。宗教界は女性への布教・教化を怠っていました。一方で欧米の近代思想が流入し、女性の就業・就学率も高まってきました。重胤は時代の気運を敏感に察知し、女性を対象とする教化活動の展開を決意したようです。「女性の信心第一なり。女性の信心があれば、おのずと家庭のなかに信仰の輪が広がる」というのが重胤の口癖でした。

 敬神婦人会は機関紙「女子道」を発刊するとともに、委嘱講師による講演活動を展開しました。目的は女性に対する神道教化のほかに、女性神職任用の実現、神職婦人の意識高揚と団結、さらに女性参政権獲得、神前結婚式の普及など多方面にわたり、時代の最先端を行く運動内容でした。会員は国内のほか、ハワイ、アメリカ本土、朝鮮、満州、台湾、樺太に広がりました。

 今日、各神社に置かれている赤い箱の「おみくじ」で知られる女子道社は、このような女性運動の資金作りが設立の契機だったといいます。

 一般には日本の婦人運動の草分けとして平塚雷鳥らの「青鞜社」が知られていますが、その結成は明治44年ですから、大日本敬神婦人会はそれより6年早いことになります。また青鞜社の活動はわずか数年ですが、重胤の運動は日米開戦時まで続きます。

 同じ女性運動とはいえ、その内容も異なり、重胤は青鞜社に批判的でした。インテリの青鞜社が「自由」を標榜したのに対して、全日本敬神婦人会は庶民層の「良妻賢母」を理想としました。

 しかし、ことに重胤が一貫して主張し続けた婦人神職問題について、山口県神職会、中州九県神職連合会で合意を得るまでが苦労の連続でした。異端視され、きびしい批判を浴びせられた重胤は、教学的研究を深めていきました。

 大正時代末期になってようやく賛同者も増え、山口県神職会、九州神職会、中州九県神職会、全国神職会に提案できるようになりましたが、大正14年に全国社司社掌大会が東京の国学院大学で開かれたとき、内務大臣、神社局長ほか500名を前に女性神職任用について数十分、熱弁を振るったものの、聴衆はけげんそうな表情で野次も消え、重胤は反応のむなしさに落胆しました。

 全国神職会の評議員会に出席するたび、「女神主さん」と声をかけられ、苦い思いもしたといいます。昭和7年の評議員会で女子神職問題が「保留」になったあとは、人々の頑迷さに嫌気がさしたのか、「やめる」という言葉まで吐いています。

 しかししばらくすると、重胤は新たに「神職婦人修養会」を結成します。神職婦人を結集し、女性による女性神職任用の実現を図ろうとふたたび立ち上がるのです。

 40年間にわたる重胤の活動は機関紙「女子道」に記録され、8冊に閉じられて、神社に保存されているそうです。


3、神社本庁創立時に公認される。いまや1割を超えた女性神職

 女性神職が実際に誕生するのは戦後です。神職の広報紙・月刊「若木」が一昨年(平成10年)、その経緯と現状について取り上げています。

 記事によると、神社本庁の庁規起草案ともいうべき「神祇庁(仮称)庁規大綱(案)」は戦前の制度を踏襲し、神職任用の資格を「二十歳以上の男子」(原文は漢字カタカナ混じり、以下同じ)と定め、女性を排除していました。ところが実際に昭和21年の神社本庁設立総会で可決された神社本庁庁規は、第79条で「宮司の任用資格は階位のほか、年齢二十歳以上の男子たることを要す」と規定し、宮司以外なら女子でもかまわない、という解釈が可能になりました。

 ここに宮本重胤らの長年の夢は実現したのです。

 この間、どのような議論があったのか、明らかではありませんが、神道学者の小野祖教はその背景に男女平等の思想精神のほかに、出征し戦死した神職の後継者問題という「切実な問題」があった、と指摘しています(『神道の基礎知識と基礎問題』)。戦時中あるいは戦後、正規の神職に代わって夫人が日々、神明奉仕していた現実を認めないわけにはいかなかったのだともいわれます。

 それから半世紀が過ぎ、環境は変わりました。昭和20年代は100人に1人ほどであった女性神職が、30年代には50人に1人となり、40年代には30人に1人、50年代には20人に1人、平成に入ると神職全体の1割を占めるようになっています。文字通りうなぎ登りです。

 神社本庁のデータによると、昨年(平成11年)12月末日現在で、全国の神職数は計2万1572人で、うち女性が2351人と全体の1割を超えます。宮司の数で見ても、1万753人のうち女性は460人。25人に1人は女性宮司という計算になります(「定例評議員会議案」)。

 また神社本庁研修所が発表した「平成11年度階位検定白書」によれば、昨年度(平成11年度)の全階位検定合格者1200名のうち女子は228名で、2割におよびます。いまや検定試験で資格を得る神職の卵の5人に1人は女性なのです。

 宮本重胤の時代とはまさに隔世の感があります。

 女性神職の草分け的存在で、全国に先駆けて昭和33年に設立された宮城県婦人神職協議会長を一貫して務め、平成9年に女子神職としてはじめて特級身分を授与された奥海睦・金華山黄金山神社宮司は、時代の移り変わりを次のように語ります。

「私が女性の明階第1号と騒がれたのは40年前です。主人が亡くなって途方に暮れましたが、嫁の私に神社をついでほしいと氏子さんがいうので、子供を実家にあずけ、国大の3年に編入し、さらに夜学で文学や語学などを学びました。ニセ神主とマスコミに批判されたこともありますが、多くの人の理解と励ましに支えられました。いまは時代が変わりました」

 世界宗教と呼ばれる大宗教には女性聖職者の存在を認めないものもありますが、女子神職が当たり前になっている日本の伝統宗教ははるかに進んでいます。

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井上ひさし『東京セブンローズ』が書かない「美しき国語」の歴史 [神社人]

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井上ひさし『東京セブンローズ』が書かない「美しき国語」の歴史
──東條内閣の国語政策に抵抗した神道人
(「正論」平成11年10月号から)
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■小説より奇なり「国語改革」の歴史■
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 いつぞやの「天声人語」に、「クイーンズ・イングリッシュ」といえば「純正な英語」の基準だが、当のイギリス女王の英語に間違いがあって、「筋金入りの守旧派」を嘆かせている、とあった。「守旧派」かどうかは知らない人が、どこの国であれ、人々が母国語に深い関心を持つのは健全だろう。

 日本でも一昨年の平成11年、著名な国語学者・大野晋氏の『日本語練習帳』が100万部を超える大ベストセラーになった。ただボクには、やはり一昨年、知られざる日本語の占領史を取り上げて、話題を呼んだ井上ひさし氏の小説『東京セブンローズ』の方がむしろ痛快である。内容について、若干の留保をつけた上でのことだが……。

 物語のなかで、主人公である東京・根津のうちわ屋店主・山中信介は、敗戦後、GHQ民間情報教育局(CIE)の言語課に勤めることになり、担当官のロバート・キング・ホール少佐から日本語ローマ字化の計画を聞かされる。

 ホールは「日本人が『化け物』のような漢字を捨てて、ローマ字化すれば、漢字習得にかけられていた時間が浮いて、民主主義の勉強ができる。アルファベットに慣れたところで『サタンのことば』である日本語を退治して、外国語を採用する計画だ」と説明する。

 アメリカから教育使節団が来日するのに際して、ホールは漢字廃止、ローマ字化を提起するのだが、1カ月後、日本の教育事情の視察を終えた使節団からマッカーサーに提出された報告書は、「ローマ字採用を要求しつつも、国語の変更は国民の中からわき出てくるべきものだ」とし、学識経験者らによる国語委員会委員の設置を提案する穏やかのものとなっていた。

 このトーンダウンの背後に何があったのか。それが17年をかけて完成したという800ページの大作のテーマだが、圧巻は言うまでもなく、米兵に春をひさぐ7人の日本女性たちが、文字通り身体を張って、日本語のローマ字化を阻止したとする最後のヤマ場であろう。

 GHQによる日本語改造の企てが小説のテーマならば、占領史の叙述だけで十分のはずだが、戦争末期の昭和20年4月から書き起こし、戦時中の日本政府による外地での日本語化推進に言及することを忘れない点も井上氏らしく、ボクとしては深い共感を覚えずにはいられない。
 
 ある雑誌インタビューで、井上氏は、「いくらなんでも7人の娼婦が日本語を守ったというのはウソだけど、細部は全部本当です。でも、小説全体を呼ぶと『ウソ話を読まされた』というのを描きたかったんですよ」と語っている。この小説にはノンフィクションの側面があり、歴史批判の性格を持っている。

『私家版日本語文法』や『ニホン語日記』などの優れたエッセイで知られ、国語問題に造詣の深い井上氏の作品には、日本軍部であれ、GHQであれ、強権による理不尽な言語破壊の企てに対する怒りと批判が込められているようだ。けれども、史実はまさに井上氏自身が語られるように、物語の通りではなかった。いやある意味では、井上氏の小説以上にもっと数奇なる日本語の歴史があった。


■忘れ去られたもうひとつの歴史■

 漢字制限あるいは国語改良の議論は、占領期に初めて起こったわけではもちろんないが、国語改革がいつどのような観点で論じられるようになったのかは、複雑な国語国字問題の歴史を考える場合に、きわめて重要なのではないかと思われる。

 井上氏は小説で、高橋巌という新聞社の写真部主任に、「とにかく江戸の中頃からこっち、世の中は、漢字廃止もしくは漢字制限に向かって大きく動いてきたことは間違いないと思いますよ」と語らせている。

 前述した国語学者の大野氏は、丸谷才一編『日本語の世界16 国語改革を批判する』で、戦前の国語改革の歴史を解説しているが、そこでは江戸時代中期に西洋語の学習とアルファベットの輸入とに刺激された新井白石、本多利明などが西洋の文字数が少ないのを見て驚き、日本語の漢字の多いことを批判的に論ずるようになった。それが国語改良論の起こりだ、と説明している。

 このように「西洋文明との出会いを契機として、西洋的近代合理性の精神がここ200~300年にわたる日本語改革の原動力となってきた」とする理解がだいたい一般的のようだが、もうひとつ大きな流れが見落とされている。

 もうひとつの潮流というのは、江戸期の国学者による漢字批判である。戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦が指摘していることだが、漢字批判で白石以上に激しかったのは、国学者の賀茂真淵であるらしい。真淵は『国意考』に、漢字は数が無限に多くて不便だが、表音文字の仮字はアルファベットに似て便利だ、と書いている。また、本居宣長は『玉勝間』で、漢字に対するカナ文字の優位を説いている。平田篤胤も、大和言葉の音韻が漢語に対して優れている、と『伊吹於呂志』で論じている(葦津珍彦「漢字、仮字と国学者」)。

 こうした国学者による国語論が明治以降の国語国字問題に大きな影響を与えていることを、現代の国語学者たちも、そして井上氏も忘れていないだろうか。そのため、一方の開明派による合理主義的国語改革に対して、もう一方の保守反動派による伝統盲従型の反対論という図式的な理解に陥っていないだろうか。

 戦後50年、保守反動の最たるものが「神社」だと考えられてきたことは、いまさら強調するまでもない。井上氏の小説には、反動中の反動としての神道あるいは神道人が、時代状況を物語るうえでしばしば効果的に登場する。

 主人公の長女、絹子の結婚式が日本橋三越で行われたとき、式の前に神主は東亜の開放、帝国不滅、特攻精神の大演説をぶち、一同が聞きほれる。敗戦後、アメリカの空襲を憎む者たちが集合するのは、城東区大島の愛宕神社である。貧相な社務所は雨漏りがしていた。新聞社の写真部主任をしている隣組の高橋巌から、主人公が漢字制限の歴史の手ほどきを受けるのは、空襲をまぬがれた根津権現(根津神社)である。

 井上氏は「靖国神社は軍国主義」と教科書に書きたがるような歴史研究家とはひと味もふた味も違うだろうが、それでも日本の神社こそは愚かな戦争政策を強力に推し進める政府にもっとも忠実で協力的な支持勢力であり、そのため戦後は一転して占領軍からにらまれる立場に転落した、という理解があるのではないか。

 けれども、歴史は必ずしもそうではない。逆に、戦時内閣が占領地域で推し進めようとした日本語政策に猛反対ののろしを上げたのが、ほかならぬ神道人であった。


■朝鮮統治を批判した神道思想家・今泉定助■

 井上氏は、かつて日本政府が外地で日本語化を推進した歴史に矛先を向けることを、忘れてはいない。

 戦争末期にふとしたことから思想犯に仕立て上げられて刑務所に放りこまれ、敗戦後、出所してきた主人公に、町会長の青山基一郎は「大日本帝国にしても、朝鮮、台湾、そして満州で、現地の言葉の使用を禁止したでしょう。米国も日本と同じことをやるだろうと思いますわ」と語っている。

 新聞カメラマンの高橋は、明治以来、文部省、軍部、新聞の3つが手を組み、漢字制限を推し進めたが、満州事変をきっかけに逆流し、漢字制限が崩され、難解な漢字・漢語で奪う下院が発表文や声明文を出すようになった。敗戦を境に、軍部と右翼の重しが取れて、漢字制限の国是が表面化し、連合軍の後押しでいっそう強力化した、と述べている。

 さらに、占領軍の日本語ローマ字化推進の中心人物であるCIEのホールはローマ字化に反対する主人公に、「あなたたちは朝鮮半島の人々に、母語である朝鮮語を捨てて、日本語を使えと、強く迫ったではないですか。インドやシナやタイやビルマやインドネシアの小学校で日本語を必須科目にしたではないですか。大東亜共栄圏の標準語を日本語にしようとしたではないですか。他人にしたことをケロリと忘れて、同じことを他人から要求されると激怒する。なんだかおかしいじゃないでしょうか」と語る。

 たとえば、戦前、「日本が朝鮮の言語を奪った」という歴史理解は一般的である。しかし、日本政府が進める強権的朝鮮統治政策に、日本の神道人が強く反対したという歴史もある。朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく天照大神をまつることに抵抗し、日韓併合に反対したのは、神道人である。

 戦前・戦後を通じて、もっとも偉大な神道思想家といえば、今泉定助である。「憂国慨世の神道思想家」ともいわれ、歴代首相のほとんどがその国体論に耳を傾け、官僚、軍人、財界人が教えを乞うたと伝えられる。それほどの影響力を持った神道思想家は、昔も今も、今泉以外にはいない。

 その今泉が昭和8年暮れから翌9年正月にかけて、陸軍参謀本部の要請で5回にわたって「国体の本義」を連続講演しているのだが、講演の中で今泉は、日本政府の朝鮮政策を厳しく批判している。

「明治天皇が日韓を併合されたのは両民族の平和幸福のためであることは言うまでもないが、その後の朝鮮総督政治は御趣旨に反しているのではないか。歴代総督は施政の大方針を誤っている。朝鮮人の生命たる信仰、倫理、道徳、歴史、風俗、人情、習慣などはほとんど無視して顧みられない観がある。一も二もなく、ことごとく日本化せしむることをもって政治の要諦とするかのような観があるのは、長嘆息を禁ずることができない」というのだ。

 ずいぶん思い切った内容だが、講演録は「取扱注意」と表書きされたうえで参謀本部から刊行され、陸軍部内に配布されたという(『今泉定助先生研究全集3』)。

 雑誌「正論」平成10年3月号掲載の拙文「朝日新聞と神道人」に書いたことだが、日米開戦後、東条内閣は宮内省の官僚が唱えた天照大神信仰に統一する一神教的な合理主義的神道論を正統とし、17年2月、今泉の神道論などを発禁処分とした。「神道人のなかの神道人」というべき今泉が、戦時体制下では東条内閣の極端な統制政策の標的とされたのである。

 このとき戦時政府の思想言論統制に昂然と立ち向かったのは、葦津珍彦ら神道人であった。やがてくだんの宮内省官僚は依願免職となり、東条内閣の検閲方針は撤回される。

 思想統制に引き続いて持ち上がったのが、国語国字問題である。

 平井昌夫『国語国字問題の歴史』などによると、この年、国語審議会によって漢字制限、かなづかいの改定が進められた。3月、審議会は漢字制限の中間発表をする。これは国民生活に関係の深い「常用漢字」1,112字、生活に関係が薄く、読めればいいという「準常用漢字」1,320字、皇室典範や帝国憲法などに含まれる「特別漢字」71字の3本建てとする合理化案で、趣旨は漢字が無制限に使用され、社会生活上、少なからず不便なため、整理統制して標準を示したと説明された。

 これに対して、保守陣営がこぞって反対を表明する。「大法輪」「公論」「大東亜圏」「日本及日本人」「理想日本」「国学院大学新聞」などがたびたび特集を組み、反対論者の所説を掲載した。

 国語学者の平井は「いわゆる大戦緒戦の赫々たる戦果に酔い、おごりたかぶった国粋思想家たち思想問題として反対ののろしを上げた」と説明するのだが、どうだろうか。緒戦の戦果に舞い上がったのは軍部であって、いうところの国粋思想家たちすべてではないのではないか。

 批判の集中砲火を浴びて国語審議会は6月、中間発表の漢字制限を修正し、橋田邦彦文部大臣に答申する。

 翌7月には審議会は新字音かなづかい(字音かなづかい整理案)を発表、同じく文相に答申する。現代の標準的発音によってかなづかいを整理したもので、たとえば蝶(てふ)は「ちょう」、甲府(かふふ)は「こうふ」と改められ、また左横書きが決められた。

 新かなづかい答申の翌日、頭山満、今泉定助、市村鑽次郎、松尾捨次郎ほか12名の連署による漢字制限反対の建白書が橋田文相に提出される。

「国学院大学新聞」に転載された建白書は、特別漢字71字で皇室の御事を限定する結果を招く。審議会幹事長の保科孝一が日刊紙(朝日新聞)で「準常用漢字は将来、だんだんなくしてしまう」と公言しているが、準常用漢字の中には教育勅語はじめ皇室典範、帝国憲法、歴代天皇御追号、勅諭、詔書の文字が多数含まれているのはどうするのか--などを改革反対の理由に挙げている。

 建白書には頭山、今泉のほか葦津正之、西角井正敬、千家尊宣など、当時の代表的な神道人がそろって名前を連ねている。平井は「建白書を起草したのは元朝日記者で後に国学院大学教授となる島田春雄だと書いているが、のちに葦津が書いた非公開の文章によると、本当の目的は国語改革反対というより、東条内閣の統制政策に風穴を開け、言論の自由を回復させるところにあった。

 親しかった朝日新聞主筆・緒方竹虎の情報によって、葦津らはこの戦争に勝ち目はないと考えていた。早期に「名誉ある和平」を図るためには、戦時内閣の無責任とも見える言論統制を打ち破らなければならない。そのための国語審議会批判であった。当局の矛盾をつき、権威主義的な政府にひと太刀を浴びせようとしたのだ。

 建白書の反対論は朝日新聞掲載の保科談話が根拠となっていたから、情報局や文部省は「朝日の誤報」として朝日新聞に記事の修正を迫った。けれども葦津の目的に共鳴する緒方は、「否定しがたい証拠のある記事で、当局のミスはミスとして認めてください」と受け付けなかったと伝えられる。
 
 複数の審議会委員が辞任するなどごたごたの末、12月になってようやく文部省は「標準漢字表」を決定発表する。けれどもそこでは、常用漢字、準常用漢字、特別漢字の区別がなくなり、漢字数も答申案より141字多い2,669字と後退した。橋田文相は、「漢字の使用を制限するものではない」と弁明に終始し、字音かなづかいや左横書きは文部省がさらに研究を重ねることとなった。

 政府の改革には、日本語を占領地政策の道具に使おうとする軍部の思惑があった。この年、政府は日本語南方進出用「ニッポンゴ」をタガログ、マライ、安南、タイ、ビルマ語で刊行し、フィリピンの公用語は日本語かタガログ語と決定され、ビルマ、ジャワでは英語、オランダ語の使用が禁止された。南方に派遣される日本語教師の養成も始まった。こうした目的のためには、複雑な日本語の整理・合理化が必要であった。しかし、そのもくろみは葦津ら保守派によって阻止された。

 こうした隠れた戦時下の国語史を、井上氏はご存じないのではあるまいか。


■なぜローマ字化は実現しなかったのか■
 
 さて、戦後である。
 
 井上氏の小説にあるように、日本語のローマ字化を画策した張本人はCIEのホール少佐らしい。

 先の雑誌インタビューで、井上氏はこう語っている。

「あるとき文部省を辞めた人が神田の古本屋にやってきた。それが占領軍のローマ字化計画に関する秘密資料だった。われわれの世代は軍国主義の大きな流れにさらされ、その後、今度はローマ字旋風に巻き込まれた。どうしてこうも右往左往しなければならないのか。手にいれた資料で『ああそうだったのか』と分かった。それでどうしても書きたいと思った」

 じつはGHQのローマ字化計画については、井上氏の発掘した資料によらずとも、アメリカの公文書研究によってかなりのことが分かっている。

 東洋英和女学院大学の土持ゲーリー法一教授によると、ホールは1945年6月、カリフォルニア州モントレーの民政集合基地の日本占領教育計画主任であったときに、漢字廃止、カタカナ統一の計画を陸軍省民事部長に送付している。軍国主義、国家神道、超国家主義の検閲が容易になるだけでなく、日本語学習が容易になって、教育効果が上がる、というのが利点とされた。国務省極東課の日本担当官にも送付されたが、受け入れられず、最終的に陸軍省はホール案を却下した。

 終戦後、来日したホールは日本国内の言語改革、すなわちローマ字による改革の動きが盛んなことを知り、ふたたび情熱を燃やし、今度はローマ字化を提唱し始める。昭和20年11月、ホールは文部省の有光次郎教科書局長らと教科書のローマ字化について討議し、口頭でローマ字化を指令する。しかしこれはCIE内部で統一された考えではなかった。12月、マッカーサーによる組織の再編成でホールは計画課に左遷され、教科書のローマ字化はいったん終止符が打たれる。

 ところが、ローマ字化に執着するホールは、翌21年3月に来日するアメリカ教育使節団にローマ字化を勧告させようとひそかに準備する。

 ホールは、使節団の来日直前に、「暫定的研究・言語改革の研究」と題する44ページの部内研究をとりまとめる。そこでは、日本の民主化のためにはローマ字の採用が必要であることが強調されていた。これに対して、ニューゼントCIE局長代理は、結論は使節団にゆだねるよう指示する覚書を出す。

 使節団の言語特別委員会は報告書の起草にあたって、言語改革を取り上げ、最終的に「使節団は小学校にローマ字を導入し、教科書を2つの言語で作成することを勧告する」という草案をまとめる。ところが、これらは3月末の最終報告書ですべて削除され、柔軟な勧告に変更された。

 なぜ使節団報告書の「言語の改革」が緩和されたのか。土持氏は、国務省代表で、使節団顧問のボールズの意向が働いたとみる。ボールズはローマ字化に基本的に反対で、「言語改革は日本側に任せるべきであって、外部から強制するものではない」と考えていた。

 同時に、教科書の横書きやローマ字化には賛成しかねるとした日本側教育委員会や、漢字制限、国字改善などを南原繁総長に答申した東京帝国大学教育制度研究委員会の意向も尊重された。教育使節団報告書の公表にあたって、4月7日、マッカーサーは「教育原理および言語改革に関する勧告の中にはあまりにも遠大であって、長期間の研究と今後の教育に対する指針として役立ち得るに過ぎないものもあろう」という声明文を発表している(土持『米国教育使節団の研究』)。


■左横書きをリードした大新聞■
 
 結局、ローマ字化は推進されなかったものの、21年11月、「当用漢字表」と「現代かなづかい」が内閣訓令・告示として公布された。

 興味深いのは、これらの戦後改革が東条内閣時代の精神と人材を引き継いでいることである。

 たとえば当用漢字実施の趣旨は「漢字数が多く、複雑であるため、教育上または社会生活上、不便であり、漢字制限は国民の生活能力や物価水準を向上させる」と説明している。戦時内閣の国語改革と同工異曲というべきである。

 また、現代かなづかい案作成にあたった主査委員長の安藤正次は、17年の字音かなづかい整理の際、「20年来の懸案」という論考を朝日新聞に寄稿したほどの改革推進派である。国語学者たちは東条内閣の力をもってしても果たせなかった自分たちの悲願を、GHQの強権を借りて実現したということであろうか。

 井上氏の小説では、新聞カメラマンの高橋が「戦前の漢字制限は文部省、軍部、新聞が進めた」と主人公に語っているが、国語学者の存在を見落としてはならない。占領下の国語改革はGHQ、文部省、国語学者、大新聞の4者によって進められたのである。

 とくに大新聞の力は隠然たるものがあった。「君子は豹変す」というが、戦時体制下では軍部の戦争政策に積極的に協力し、敗戦後はGHQにおもねたのである。権力に対してどこまでも弱いのが、大新聞の体質なのだろうか。

 口火を切ったのは、読売報知らしい。昭和20年11月12日の社説で、読売は「漢字廃止論」を書いている。レーニンを引用し、「トルコの父」ケマル・パシャの例を挙げて、漢字廃止は民主主義運動の一翼だと主張している。毎日新聞は翌21年4月16日、「国語の改革」という社説で、伝統に執着していては文化国家の進歩も向上もないとして、ローマ字化への道を唱えている。

 その点、日経新聞と朝日新聞は慎重である。日経は21年4月9日の社説「教育使節団の報告を見る」で、漢字学習の負担軽減とローマ字化は別問題、と戒めた。

 左横書きをリードしたのは、やはり大新聞であった。

 日本語には本来、横書きはない。横書きは1行1字であって、当然、右書きになるといわれる。昭和17年に国語審議会が左書きを答申したが、実現されなかったことは前述した。戦後、アメリカ教育使節団の報告書を受けて、吉田内閣は当用漢字と現代かなづかいを公布しているが、左書きについては触れていない。

 朝日新聞が左書きを始めるのは22年元旦で、「おことわり」に「本社はさきに当用漢字、新かなづかいを採用し、紙面の平明化をはかってきましたが、新春の紙面から『左横書』を併用することにしました」とある。欄外の発行日付に西暦が加えられたのもこの時である。読売は1年前の21年元旦から左横書きを始めている。戦時中、広告面の「米英的左書き」追放を推進したのは毎日、朝日であったようだが……。

 すっきりしないのは文部省の対応である。省内刊行物の基準を示した昭和25年発行「表記の基準」の「付録」に、「横書きの場合は、左横書きとする」と記されてあるだけらしい。大新聞に追随し、省内基準とすることで官僚たちは責任逃れをはかったのであろうか。

 さて、井上ひさし氏の『東京セブンローズ』が全編を通して漢字は正字、カナは歴史かなづかいで書かれていることは重要である。井上氏にとって、正字、歴史かなで書かれたほとんど最初の作品らしい。少し厳密に言えば、丁度(ちょうど)は「ちやうど」、庄内(しょうない)は「しやうない」と、和語だけでなく、漢語も字音かなづかいを避けているから、国語審議会を基準にすると、大正時代以前のかなづかいを意識しておられるのだろうか。

 井上氏の『私家版日本語文法』に「ふたつの仮名づかい(ひ)」という一章がある。その末尾に「新カナと旧カナのどちらを支持するかといえば、歴史かなづかいに決まっている。それは日本国憲法が歴史的かなづかいで書かれてあるからだ」と井上氏は書いている。

 いかにも井上氏らしい理由だが、新カナか旧カナからという選択は昭和21年の内閣告示を基準としたもので、厳密な議論とはいえまい。大正13年に臨時国語調査会(のちの国語審議会)が決定した「仮名遣改定案」などは、昭和21年制定の「現代かなづかい」をさらに上回る発音重視の、時代を先取りしたかなづかいであった。

 言葉は生き物である。祖先から受け継がれた生きた文化財としての日本語の伝統を守りつつ、現代性を取り入れ、生命感あふれる美しい国語を実現していくためにはどうすればいいのだろうか。


追伸 この記事は「正論」平成11年10月号に掲載された拙文に若干の修正を加えたものです。

 日本はかつて外国に侵されたことのない国で、「神州不滅」ともいわれましたが、60年前、ほとんど全世界を相手の無謀な戦争に突入し、結果的に数百万の尊い人命を失い、国土が焦土と化す無惨な敗戦を味わい、そのうえ外国軍隊による占領を史上初めて体験することになりました。

 その過酷な占領時代にあって、「ローマ字化」という国語変革の干渉に抵抗した日本人たちの存在は重要ですが、そうした歴史をいまかえりみることにむなしさを感じるのは、ボクだけでしょうか。

 考えてもみてください。インターネット・エクスプローラーを立ち上げれば、デスクトップの片隅で星条旗がはためいています。ボクはカナ入力にこだわっていますが、多くの日本人ユーザーはローマ字入力でコンピュータを利用しているのではないでしょうか。コンピュータ導入によって、日本語はすでにローマ字化しているのです。

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朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡──大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩み [神社人]

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朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡
──大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩み
(月刊「正論」1999年4月号から)
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「戦後唯一の神道思想家」といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)は、昭和から平成への御代替わりを見定めるかのように、即位の礼から1年後の平成4年6月、82歳でこの世を去りました。

 その葦津が人生の大半を過ごした古都・鎌倉の家に、昭和19年に朝鮮独立運動家・呂運亨(ヨ・ウニョン、여운형)から贈られた一幅の書が伝えられています。畳一畳ほどもある大きなもので、「万里相助」と墨字で書かれています。葦津は生前、これをときどき掲げては、力のこもった惚れ惚れするような行書体を静かに眺めていたといわれます。

 日本の神道といえば、戦前の大陸侵略を導いた狂信的イデオロギーのようにしばしば考えられています。戦後の神社本庁設立、紀元節復活、靖国神社国家護持運動などに中心的役割を果たした葦津を、「国家神道イデオローグ」と見なす人さえいます。

 だとすれば、青年期にキリスト教の洗礼を受け、やがて朝鮮独立運動に身を投じ、上海の大韓民国臨時政府樹立に加わり、第二次大戦終結後には建国準備委員会を組織し、「朝鮮人民共和国」の副主席ともなった建国運動の中心人物の書が、なぜ葦津家になければならないのでしょうか。

 その謎を解くことは、知られざる近代日韓(日朝)関係史を明らかにすることであると同時に、韓国歴代大統領の来日のたびに日本政府の「謝罪」が繰り返されてきた、戦後の異様な日韓外交への痛烈な批判ともなるでしょう。


1、国王高宗に貨幣制度改革を一任された大三輪長兵衛

 葦津珍彦は生涯、日韓関係に強い関心を寄せていたといわれますが、そのきっかけは祖父・磯夫の実兄で、珍彦の大伯父に当たる大三輪長兵衛なる人物を抜きにしては語れません。

 大三輪長兵衛は天保6(1835)年、葦津磯夫は同11年、福岡・筥崎宮(はこざきぐう)の社家の家系に生まれました。じつの兄弟であるのに姓が異なるのは、事情があって長兵衛が若き日に実家を飛び出したことなどによるようです。

 その後、家督は次男磯夫が継ぎました。磯夫は明治維新後、筥崎宮の祠掌(宮司)に就任し、神祇官復興、教育勅語起草に関わり、晩年は福岡県神職会長を務めるなど、神社界の重鎮として活躍します。

 他方、「分家」の立場に甘んじ、「本家」の弟を、そして明治の神道界を経済的に背後でよく支えたのが、経済人として身を立てる長兵衛でした。

 天性の経済的才覚に恵まれた長兵衛は長崎からさらに経済都市・大阪に転じ、海運貿易などでたちまち成功を収め、幕府町奉行の御用をつとめたほか、諸藩に接近しました。維新後は土佐の板垣退助や林有造らの立志社と交わり、のちに大隈内閣で逓信大臣となる林とはとくに深い親交を結んだといわれます(『葦津耕次郎追想録』、宮本又次『大阪商人太平記』、澤田修二「大三輪長兵衛の生涯」など)。

 特筆すべき業績は、まず明治11(1878)年に第五十八国立銀行を創立したことです。翌12年には日本初の手形交換所を開設し、会長となりりました。14年には岩倉具視右大臣に商務局設置の必要を訴え、これが受け入れられて後年、農商務省が設置されます。20年には第五十八国立銀行の頭取となりました。

 活躍の場は経済界にとどまりません。15年には、大阪初の女学校ともいわれる私立大阪女学校を自費で創立します。

 長兵衛はまた政界に進出し、14年には大阪府会議員に当選、15年には府会副議長、20年には府会議長に選ばれ、22年2月の帝国憲法発布式には大阪府会議長の資格で参列します。同年7月には初代大阪市会議長に就任しました。31年夏の衆院選に当選し、34年までは帝国議会議員の地位にありました。

 朝鮮国王とはじめて接触したのは、24年4月です。日本駐在の朝鮮代理公使・李鶴圭が国王高宗の命令で訪ねてきました。以前、朝鮮人の商人数名が米の売買で大阪にやってきて、日本人にだまされ困窮していたのを長兵衛が救ったことがありました。そのお礼の訪問でした。

 このとき長兵衛は東洋の危機が迫っていることを論じ、日清韓は唇歯輔車の密接な関係にあることを力説します。李鶴圭は感激し共鳴しました。その夏、今度は公使金嘉鎮が朝鮮国王高宗の招請状をもってあらためて来訪し、朝鮮の貨幣制度改革への協力を要請します(『人物の解剖 当代の実業家』明治36年)。

 同年秋、長兵衛は高宗に拝謁し、従二品嘉善大夫の位を授けられ、交換署会弁に任命されて、貨幣改革の一切を任されます。日本の一民間人が朝鮮国王にこれほど重用された例はほかにはないでしょう。翌25年、長兵衛は大阪府会議長、市会議長、第五十八銀行頭取の職を辞し、日本外務省の了解を得て、ふたたび玄界灘を渡ります。決意のほどがうかがえます。

 けれども改革は進みませんでした。才知をねたみ、名声を汚そうとする者があり、高宗との連絡が滞ることが多く、計画は挫折します。新式機械を導入し、新貨を鋳造したのですが、広く流通するには至らなかったようです。26年、長兵衛は病を得て、帰国します。長兵衛は辞職を願い出ましたが、国王は認めませんでした(宮本又次『上方の研究5』など)。


2、日韓議定書締結を斡旋して高宗からねぎらいの言葉を受ける

 当時、朝鮮では大院君(高宗の父)と閔妃(ミンビ、高宗の妃)の骨肉の争いが、外国を巻き込んでやむことを知りませんでした。朝鮮を去るとき長兵衛は、遠からずして京城(いまのソウル)に異変がおこることを予言しましたが、果たして明治27(1854)年5月、東学党が乱をおこします。清国は朝鮮政府の要請を受けてただちに出兵、日本もこれに呼応して、日清の対立が表面化しました。

 すかさず長兵衛は伊藤博文の委嘱を受け、野党指導者の林有造と竹内綱(のちの首相吉田茂の実父)を同行して訪朝します。「日本は政争に明け暮れ、対外戦争などできる状況にはない」と判断する高宗に対して、「戦争となれば国内は一致する」と説得し、日本との連携を強く勧めたようです。そして、長兵衛の予想は的中し、高宗の信頼は高まります。

 日清戦争に勝利した日本は、中国と従属関係にあった朝鮮の独立を清に認めさせたほか、遼東半島や台湾などの割譲を受けることになりましたが、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉で28年、遼東半島の放棄を余儀なくされます。

 この時期、長兵衛は京釜鉄道敷設権の獲得に奔走します。

 日清戦争中の27年8月に締結された日韓暫定合同条款では日本は鉄道・電信の特殊権益を認められていましたが、権利の独占に不満をもつアメリカやフランスが京城−仁川、京城−釜山間の敷設権を先に獲得していました。こうした状況下で鉄道敷設に苦心したのが竹内綱、尾崎三良そして長兵衛でした。

 34年6月に敷設された京釜鉄道株式会社(会長渋沢栄一)は2500万円の大資本を擁する当時日本随一の大企業で、長兵衛は尾崎、竹内らとともに取締役となります(『朝鮮鉄道史』昭和4年)。

 1897年(明治30)年2月、高宗は国号を「大韓帝国」と改め、皇帝として即位するのですが、長兵衛に対する信任は一貫して厚く、明治33年夏、京城竹洞の永嘉殿前に邸宅を下賜され、36年春には正二品資憲大夫、勲三等大極章を授与されるほどでした。

 晩年、病気がちであった長兵衛は明治36(1903)年10月、外務省政務局長・山座円次郎から「上京せよ」との電報を受け取ります。日露戦争の前夜です。国際情勢は風雲急を告げていました。小村寿太郎外相と山座局長に面会した長兵衛は、日韓議定書(攻守同盟)の締結斡旋を委嘱されます。長兵衛のほかに高宗を説得できる者はない、と政府は判断したようです。

 日韓議定書は日露開戦直後の37年2月に調印されます。翌3月、帰国を前にして皇帝に謁見した長兵衛は、ねぎらいの言葉を受けたといわれます。

 けれども、その後、日露戦争に日本が勝利したあと、38年11月に韓国を日本の保護国とする日韓協約(乙巳保護条約)が調印され、12月に韓国統監府が設置されます。外交権を奪われたことを不満とする皇帝は40年7月、オランダでの万国平和会議に密使を派遣し、条約の不当を訴えようとして失敗、退位します。

 こうした状況を最晩年の長兵衛はどのように見ていたのでしょうか。皇帝は最後まで長兵衛を信頼していたようですが……。

 41年1月、長兵衛は帰らぬ人となります。日本の皇室から祭祀料が下賜され、韓廷からは勲二等八卦章が授与されたといわれます。日韓併合の成立はその2年後です。


3、威圧政治の張本人に「日韓併合」反対を論じた葦津耕次郎

 日韓併合に反対を唱えたのが、磯夫の次男で、長兵衛の甥の葦津耕次郎です。

 耕次郎は明治11(1878)年、やはり福岡に生まれました。日清戦争の前夜、「日本の安泰を期するには満州・朝鮮に王国を作り、俺が国王になろう」と途方もないことを考え、中国語や韓国語を習い、大阪の伯父長兵衛のもとで簿記を学んだあと、19歳でドン・キホーテのごとく海を渡ります(『葦津耕司郎追想録』)。熱情家にして豪傑肌の耕次郎ですが、型破りの行動は父・磯夫そして伯父・長兵衛の威光や人脈なしには考えられません。

 耕次郎は終生、熱心な信仰家でしたが、神職として一生を送ることはなく、若くして事業家となります。ただし、採算確実な事業には見向きもせず、つねに前人未踏の事業を開拓することに情熱を傾けました。満州軍閥の張作霖を説得して鉱山業を興し、あるいは工務店経営者となり、台湾から檜を移入し、全国数百カ所にのぼる社寺を建設しました。

 伊藤博文が初代韓国統監となって赴任する道すがらといいますから、明治39年2月のことでしょうか。耕次郎は九州日報社長の福岡日南をともなって、下関の春帆楼に伊藤を訪ねます。

「陛下の思し召しである日韓両民族の融合親和のために、命がけで働いていただきたい。真の融合親和とは軍艦や大砲、金銭の物質的力でできあがるものではない。あくまで思想、信仰、倫理、道徳の一致という根本方針に立たなければ、朝鮮民族を信服させることはできない。そのためには、朝鮮二千万民族のあらゆる祖神を合祀する神社を建立し、あなたが祭主となって敬神崇祖の大道を教えられねばならない。これが明治大帝の大御心(おおみこころ)である」

 県知事や軍司令官など高位高官が居並ぶ席で、耕次郎は1時間余りにもわたって弁じ立て、一方、枢密顧問官を兼任する伊藤は20代の若者の言葉に座布団をおりて傾聴したといいますから驚きです。伊藤は耕次郎に賛同し、実行を約束しました。

 のちの朝鮮神宮の歴史がここに始まるのですが、伊藤は42年10月にハルピンで安重根の凶弾に倒れ、その後、具体化した朝鮮神宮は耕次郎の思いとはまったくかけ離れた、いわゆる強圧的「植民地支配」のシンボルとなります。

 43年8月、韓国が併合されます。寺内正毅総督を支えて、これを実現したのは、憲兵司令官・明石元二郎です。

 耕次郎は明石と親しい間柄にありました。葦津家には耕次郎宛の明石の手紙が幾通も残されているといわれます。熊本第六師団団長時代の明石を耕次郎が訪ねたことがあります。話題が日韓併合に移ると、耕次郎は威圧政治の張本人に向かって、「併合はわが政府の失態だ」と声を張り上げました。「なぜだ」と明石は色をなして反発します。

 耕次郎は論じ立てました。「孟子にも、『これを取りて、燕の民喜べば、取るべし』とある。日韓併合で全道二千万の民が喜ぶのなら差し支えないが、日本の政治家は日本国民を喜ばせる方法さえ知っていない。ましてや韓国二千万の国民はみな悲憤慷慨(ひふんこうがい)している。にもかかわらず、あえてこれを併合し、わが国の馬鹿政治家に任せたぐらいでは、とても韓国の民を喜ばせ、信頼させることはできない」

 明石は反論します。「理想としては君のいうとおりだが、いま日本は過渡期にある。徐々に整理していくほかはない」

 耕次郎はなおも声を励まし、「本末転倒だ。日本の政治が整わないうちに他国におよぶことは、他国を救うことができないばかりか、自国を滅ぼす」とふたたび批判しました。激論は終夜におよんだといわわれます。

 大正7(1918)年、台湾総督となった明石は、威圧政治の繰り返しを心配する耕次郎に、「今度は君の意見を尊重して、期待に背かないから」と語りました(『あし牙』)。

 珍彦が『葦津耕次郎追想録』の解説で指摘していることですが、これら耕次郎の談話が発表されたのが、「軍国主義」華やかなりし時代とされる昭和14(1939)年であることは注目されていいでしょう。大陸侵略の尖兵どころか、時代の良識が民族宗教である神道のなかに息づいていました。


4、日韓融和のため朝鮮神宮にまず朝鮮民族の祖神をまつれ

 併合から数代の総督を経て、斎藤実海軍大将が総督となり、朝鮮神宮設立のことが耕次郎の耳にも聞こえてきました。最初は年来の宿願が実現されることを喜んでいましたが、天照大神(あまてらすおおかみ)と明治天皇が祀られるというのです。「それはよくない」と耕次郎は斎藤に面会を求め、「朝鮮神宮を設立するなら、まず第一に朝鮮人の祖神を祀るべきだ」と主張しました。

 しかし斎藤は、「手続きが完了していて、いまさらどうにもならない」というばかりでした。

 京城・南山に朝鮮神宮が鎮座するのは大正14(1925)年10月です。祭神問題の議論はその春からん沸騰します。当時随一の神道思想家・今泉定助、靖国神社宮司・賀茂百樹、都城神社祠官・肥田景之ら神道人が「朝鮮の国土にゆかりの深い祖神を祀るべきだ」と主張し、とくに耕次郎はもっとも熱心に運動しました。

 北海道開拓をふくめて海外の神社に、地域を守られる「国魂神(くにたまのかみ)」を祀ることをしない「悪しき先例」となったのがこの朝鮮神宮だといわれます(『近代神社神道史』)。

 14年8月に耕次郎が書いた「朝鮮神宮に関する意見書」は、「皇祖および明治天皇を奉斎して、韓国建邦の神を無視するは人倫の常道を無視せる不道徳……必ず天罰と人怒を招来すべきものなり……日韓両民族乖離(かいり)反目の禍根(かこん)たるべし」と強い調子で批判しています(『あし牙』所収)。

 余談ですが、朝鮮神宮の遷座祭直前に、「朝鮮の始祖および建国功労者」をあわせ祀ることを望む内閣総理大臣宛の建議書を提出した耕司郎ら神道人有志のなかに、朝鮮神宮初代宮司・高松四郎の名があることは強調されるべきでしょう。

 鎮座式のあと、神道人と政府関係者がするどく対立しました。肥田の仲介で朝鮮神宮に関する懇談会が開かれると、席上、斎藤総督はこう弁明したといわれます。

「朝鮮神宮に朝鮮人の祖先を祀らず、日本の神だけを祀ったことに対して、不穏な事件でも起こりはしないかと思っていたが、無事に鎮座式がすみ、幸いであった。朝鮮人の先祖とされる檀君の事蹟を学者に調べさせたが、実在の神かどうかが明確ではなかった。実在の神と判明すれば、時機を見て祀るつもりである。遷座の日、朝鮮人はみな浄衣を着て、神輿(みこし)を沿道に迎えた。われわれの誠意を知り、日本人と朝鮮神宮に対して悪意を抱いていないという証拠である」

 耕次郎が立ち上がりました。

「総督は恥を知る人なのか。政治とは何かを知る人なのか。学者というのは、耳目にふれるもの以上のことを考えられない馬鹿者である。学者の言葉に従って、どうして生きた政治ができるのか。数千万の朝鮮人が存在する以上、祖先が存在するのは動かせない事実だ。その祖神を大国魂(おおくにたま)として祀ればいいのだ。朝鮮政治の根本義として、ただちに祀るべきである」

 思い切った批判ですが、さらに続けて、耕次郎はこう語ります。

「総督は、神輿通過の際、朝鮮人が衣冠を改めて迎えたことをもって、日本の優位を誇るのか。朝鮮はわが国の保護下にある属国で、われわれより一等劣ると見ることができるかも知れないが、その朝鮮人でさえ、他国の祖を迎えるのに浄衣をまとった。他国の祖神を尊敬する道徳を知っている。この教訓が示すものさえ感じずに、安閑と眺めていたのか。恥を知る者のなすことではない」

 武断政治を排して、名総督と謳われたとされる斎藤は何と答えたのでしょうか、あるいは答え得たのでしょうか。

 耕次郎は最晩年の昭和11年春には、朝鮮の神社祭祀について宇垣一成総督に進言し、「目下、わが国の神社制度は支離滅裂、何ら精神の一貫するものはなく、且つその祭式は無精神にして虚礼虚儀に過ぎず、ともに範とすべきものなし」と厳しく断じています(『あし牙』)。

 しかし、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神が祀られることはその後もなく、ましてや日韓両民族の真の融和は実現されませんでした。そして昭和20(1945)年8月の日本の敗戦で、朝鮮神宮では祭神にお帰り願う前代未聞の昇神式が行われ、御神体は宮中に返還、社殿は解体焼却されました(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)。


5、呂運亨の独立工作に関与した葦津珍彦

 耕次郎の長男・珍彦は明治42(1909)年、福岡に生まれました。最初は無政府主義に傾倒する左翼的青年でしたが、父・耕次郎の姿を見て回心し、父親がおこした社寺工務店を引き継いで神社建築にたずさわる一方で、玄洋社の頭山満や神道思想家の今泉定助、朝日新聞主筆の緒方竹虎などと交わり、中国大陸での日本軍の行動や東条内閣の思想統制政策などを強烈に批判しました。

 珍彦は朝鮮独立論者でした。「日本が東洋の解放をうたい上げたところで、朝鮮の独立を認めず、『満州国』をロボット化したのでは国際的信用を得られないのは当然で、朝鮮独立を進めなければならない」と主張しました。有力者のなかにも案外、同調者が多かったのですが、若造の空想論は当然のことながら発禁され続けたといわれます(「日韓民族の不幸な歴史」など)。

 珍彦が朝鮮独立運動家の呂運亨を知るのは昭和18(1943)年といわれます。神兵隊の前田虎雄が呂とともに訪ねてきて、今泉への取り次ぎを依頼したのです。

 珍彦によれば、呂運亨は大東亜戦争のさなか、政治路線の大胆な転換を考えたといいます。「存亡の危機に立つ日本が必要としている和平工作を助け、日本に朝鮮の独立を承認させよう」ともくろみ、日本政府および軍の中枢とも交渉したのですが、そのためには朝鮮総督・小磯国昭との会談は不可欠でした。小磯が精神的な師と仰いだのが、当時随一の神道思想家・今泉です。

 珍彦は呂を案内し、今泉を訪問しました。「日本はアジア解放の大胆な政策を断行し、総督政治の大転換を図るべきだ」と呂が力説し、前田は「日本権力の走狗のような親日家ではなく、呂と協力すべきだ」と訴えました。交渉は数回におよびました。

 東条内閣の厳しい軍政下では、呂の提案は困難であり、危険でした。一歩誤れば、敬神尊皇の師としての今泉の晩年を汚すことにもなりかねません。呂の人脈はモスクワの共産主義者や重慶の国民党政権ともつながっています。利敵の危険も否めません。今泉は熟慮し、「どうするか」と珍彦に問いました。珍彦は小磯への保証連絡を願いました。今泉が覚悟を決めます。珍彦は感激しながら、小磯宛の長い紹介状の文案を書き、今泉が無修正で清書したのでした。

 呂は喜び勇んで京城に向かいましたが、関釜連絡船で朝鮮軍憲兵に捕らえられます。しかし、小磯は最高の賓客として迎える準備をしていました。総督官邸で小磯は数時間にわたり、呂の論に傾聴しました。けれども会談が終わると、憲兵はそのまま呂を連行し、治安維持法違反で地下室に投げ込みます。当時、朝鮮総督と朝鮮軍司令官は同等の権限をもっていたのです。

 今泉らは救出に努めましたが、ことは進みません。正式に起訴され、朝鮮軍から総督府へ事件が回付されると、今度は小磯がすぐさま釈放します。しかし、それまでに一年が経っており、戦争はすでに最終局面を迎えていました。

 珍彦は釈放されたばかりの呂運亨を京城の朝鮮ホテルに訪ねました。19年夏に東条内閣が倒れたあとのことで、日本の敗戦と朝鮮の独立を確信する呂は、ホテルの一室で長時間、力説しました。

「敗戦となれば、対日弾圧が徹底され、日本は諸君の想像以上の存亡の危機に立つ。他方、朝鮮は形式上は独立するが、建国の人材に乏しく、極東の弱小国にとどまる。この明白な極東情勢こそ、日韓両民族が相助け、相和すべき天機だ。私はそのために全力を尽くす」

 今泉や前田らの友情に感銘する呂は、「自分の志を日本の支援者に伝えてほしい」と語って、珍彦に「万里相助」の書を与えたのでした。

 20年8月、日本はついに降伏します。京城の総督府はただちに呂運亨が指導する建国準備委員会に引き渡されましたが、2年後の夏、呂は李承晩派によって暗殺されます。

 珍彦は呂運亨を沈才沈勇の革命的政治家として畏敬しました。敵国たる日本人とも深く交わって、世界の大動乱に対して、「日本にも信ずべき友あり」として、韓国のため、アジアのために戦い抜いた、と最高の評価を与えています(『今泉定助先生研究全集1』など)。

 およそ20年後、国交正常化から数カ月後の41年春、珍彦は韓国を訪問しました。朝鮮ホテルは呂運亨と語らった当時のままでした。1週間後のソウル滞在中、珍彦は大学教授や学生など30数名の韓国人と10時間余り討論しました。その印象を「韓国紀行」(『葦津珍彦選集2』所収)などに書いています。

 独立後の韓国は李承晩政権以来の徹底した反日教育で、「日本人ほど悪い奴はない」という国民意識に固まっていました。学生たちが自国の歴史に切々たる愛情を持っているのは好ましかったのですが、知識は明らかに偏っていました。近代の日韓対立史は詳しいものの、李朝内部の対立関係の知識は貧しいのです。抗日烈士の活躍には詳しい反面、反日戦線内の思想対決はよく知りません。憎むべき日本人の存在については詳細な知識を持ちながら、好ましい日本人の存在は知りませんでした。

 それは現代のハングル教育の結果でもありました。ハングルの教科書で歴史を学ぶ学生たちは、漢字の多い独立以前の歴史文書が読めないのでした。多くの知識が不足するのは当然でした、と珍彦はいいます。

 珍彦がもっとも畏敬する開化派独立党の指導者・金玉均については、日本に欺かれて反乱(甲申の変)をおこして失敗、日本に亡命したが見捨てられ、上海で惨殺された、と学生たちは日本人の背信と冷淡を語りましたが、終始、同情と支援を惜しまなかった福沢諭吉や頭山満など日本の民間支援者の存在は知りませんでした。

 日韓併合に対する恨みは深いけれども、それは伊藤博文に集中していました。抗日烈士・安重根を英雄視するあまり、伊藤以上の弾圧者である山県有朋、桂太郎、寺内正毅、明石元二郎らは過小評価されていました。

「諸君の歴史観では、よい日本人は一人もいなかったことにならないか?」

 珍彦が問いかけると、学生たちは黙ったままでした。

 珍彦が語りました。

──諸君は、日本人を信用できないとする史料ばかりをたくさん知っていて、日本人に好意を感じ得るような知識はまったく持っていない、といっていいように見える。そして、一面的な知識を列挙して日本人を非難する。
 無責任で軽率な日本人は「過去は悪かった。反省する。これから仲良くする」などという。しかし、日本人が四、五百年もの長い間、悪いことばかりをし、好ましいことを何もしなかったのだとすれば、わずか10年か20年、「反省した」として、日本人を信頼できるのか。韓国人はそれほど甘い民族なのか。
 諸君の知識がさらに補強され、過去の日本人にも好ましい点、信頼すべき点があったことを発見してくれなくてはならない。そうでないかぎり、相互の国民的信頼感はけっして生まれないと思う。

 珍彦はさらに、日韓近代史についての自分の考えを述べました。

──諸君は、朝鮮亡国史として1907年の皇帝の退位と1910年の日韓併合を盛んに語るが、その10年前の1896年に李朝は滅びていたのではないか。閔妃暗殺事件のあと、高宗は皇太子とともにロシア公使館に逃れ、ロシアの海兵隊に守られて、みずから任命した金弘集首相以下、開化派反ロシア党の臣僚を惨殺させた。このとき朝鮮の独立は失われている。あとに残ったのは、どの狼が死肉を食らうかの問題だけだ。
 諸君は外国権力の責任を追及するが、外国が非道だから国が滅びざるを得ないというのではそもそも独立を保てない。むしろ諸君は、朝鮮内部の亡国理由を鋭く直視すべきではないか。
 李朝時代、知日派には真の憂国者がいくらでもいたが、親露派、親清派には真の憂国者があるを知らない。日韓併合時の首相李完用はもとは親露派だった。大勢が決したあとで、守旧派や変節派が「総督政治」の支柱となった。節義なく右往左往した韓国人自身を責めないで、「日本人が悪い」といっている間は、韓国の親の独立は実現されない。日本人といえば、悪い奴ばかりだと思い込んでいるのなら、和して交流する必要はない。

 珍彦の論に一理あり、と認める学生もいましたが、反発する者もいました。珍彦は反論する学生にも好感を持ちました。信実を求めたいという真剣さが感じられたからです。

 翌日、学生たちに見送られ、機上の人となった珍彦は韓半島の山々を眺めながら、父・耕次郎を思いました。まだ10代の父は暴政に苦しむ朝鮮の民衆を思い、即席の韓国語を学んで渡鮮し、銃と太刀とを携え、2頭の馬をひいて、朝鮮半島鶏林八道の隅々まで旅しました。

 明治にはそんな青年はいくらでもいました。珍彦は明治の青年たちの壮大な志と情熱を懐かしみながら、これからの日本の青年が対日不信に固まった韓国の青年と交わり、その意識を心底から揺り動かし、深い信頼と友愛を築き上げることは容易ではない。それは偉大にして困難な、男子畢生(ひつせい)の大業というべきものである。才知や打算ではなく、山をも動かさねばならぬ、というほどの情熱と大志が要求される──と書いています。


6、日韓の真の融和のために、二度と悲史を繰り返さないために

 葦津珍彦の膨大な近代史研究は、この韓国訪問前後から本格化します。葦津は、日韓併合はひとつの悲史だ、と理解します。東洋の解放という明治の理想が破れ、俗悪な帝国主義の野望に転落した典型が日韓併合だ、と葦津はいうのです(「天皇制と明治ナショナリズム」)。

 そうした歴史論を踏まえて、葦津は戦後日本の「謝罪外交」を批判します。戦争に敗れた日本人が卑屈な低姿勢で「陳謝」するのは相手の軽蔑を招くだけである。日本は過去を陳謝するより弁明すべきだ。過去の日本に非がなかった、と強弁するつもりはないし、重苦しい過去の重圧を十分、感じているが、それは二倍にも三倍にも増幅されて、全世界の前で糾弾、断罪されてきた。これ以上、追認するのは無意味であり、愚かだ──と葦津は主張します(『アジアに架ける橋』)。

「謝罪ゲーム」にうつつを抜かす為政者に代わって、葦津のいう、山を動かすほどの情熱と大志を抱く青年たちはいつの日か、現れるでしょうか。いや、星の数ほども育て上げなければならないでしょう。日韓の真の融和のために、そして二度とふたたび悲史を繰り返さないために……。

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阪神・淡路大震災から2年──津名郡支部長の闘い [神社人]

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阪神・淡路大震災から2年
──津名郡支部長の闘い
(「神社新報」平成9年1月13日号)
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 伊弉諾神宮(兵庫・淡路島)の本名孝至禰宜が津名郡支部長に就任したのは、阪神・淡路大震災直後の一昨年(平成7年)2月1日である。以来、多忙の日々が続いている。

 自衛隊のほか、神青協、天理教などによる、「人生観が変わる」ほどの献身的な協力で、瓦礫の後片付けが一段落したあと、支部長としての初仕事は、被災の実態調査だった。

 四国地区神青協の神職と手分けして、鎮座地を回り、2日がかりで現地調査した。

 郡内189社のうち、3分の1が被災し、20社が深刻な被害を受けた。被害総額は数十億円。

 いちばん心が痛んだのは、「所在が分からない神社が2社あった」ことだ。祭りは絶え、神職や氏子にも確認できない。

 神社本庁などからの義捐金の配分にも苦労した。本務、兼務、所管兼務に分類し、本殿、拝殿などそれぞれに基準点をつけ、被害を数値化する。不公平や間違いがあってはならない。何度も計算し直し、徹夜の作業が続いたらしい。

 希望が見えてきたのは、冬が去り、春の息吹が芽生えたころという。

「これなら復興できる」

 氏子の住宅建設の槌音が本格化したのは翌春だった。

「これからはお宮の復興が競争になる。そうなると早いですよ」

 いま切実に願うのは、常設の特別融資制度だ。

 大震災直後、神社本庁は特例貸付規定を設けて、被災神社を助成したが、「氏子が壊滅的被害を受けた地域では神社復興を考えるゆとりがなく、制度が十分に活かせなかった。助成が必要なのはむしろこれからだ」というのである。

 心配なのは、北淡町で大歳神社など5社が大がかりな震災復興土地区画整理の対象になっていることだ。

 町は車社会への対応と防災都市づくりのために幅15メートルの幹線道路建設が必要だとし、1割の土地の提供、移転などを求めている。

 支部では安易な社有地変更を危惧し、一昨年(平成7年)6月、「神社の保全と尊厳護持」のための請願書を提出した。

 区画整理は紆余曲折の末に昨年(8年)11月上旬に県知事の認可が下り、具体化されることになった。根強い住民の反対で先行きはまだまだ不透明だが、「町も柔軟になった。まったく協力しないわけにはいかない」。

 昨年11月末、困った事態が持ち上がった。

 昨夏、兵庫県は文化財と歴史的建造物の復旧に対し、「復興基金」による最高500万円の補助を決め、8月に申請を受けた。ところが県神社庁にも知らされず、半年間も蚊帳の外に置かれていたことが判明したのだ。

 県や町に照会して、担当者が慌てて説明に来るという始末で、その後、12月の2次申請に向けた作業に着手したが、「はなはだ遺憾」と唇をかむ。

 必要な情報が与えられず、行政の無能ぶりが暴露されたのが大震災だったが、官僚たちは懲りずに同じ轍を踏んでいる。

 震災以来、夫人と愛犬とのプレハブ暮らしが続く。自宅は全壊だった。

「アパートを借りるぐらいはできますよ。でも、まだ仮住まいの氏子がいるのに申し訳が立たない。お宮と氏子は運命共同体。神職は神様と氏子の両方に奉仕しなくてはならない。最後の1人が復興するまで続けますよ」

 闘いは当分、続きそうだ。

タグ:神社人
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まこと──神と人に奉仕する心 [神社人]

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まこと──神と人に奉仕する心
(「神社新報」平成8年9月9日号から)
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 冬は吹雪で陸の孤島のように孤立する。砂地や湿地ばかりで、陸路での参詣は想像以上に困難を極めた。大正時代は、奥羽線が通る大釈迦から丸一日歩かなければお詣りができなかった。

 そんな神社が今日の隆盛を誇るまでになったのには、理由がある。

 高山稲荷神社(青森県車力村)の近代史は苦難に満ちている。安東水軍の時代にまで遡る古社ともいわれながら、明治初年の「神社明細帳」の記載から漏れてしまったことがことの発端だ。

 あまりに人里から離れているために、調査が及ばなかったらしい。

 村人が県に陳情を重ねても却下されるばかりで、神社とは認められなかった。それでも参拝者は後を絶たない。村人は消沈するどころか、ますます熱心に運動を続けた。

 明治25年には、政府の許可がないまま、浄財を集めて新社殿を造営した。だが社格申請をと思っていた矢先の翌年暮れに、火の不始末で焼失、人々の苦労は泡と消える。

 責任を感じたのは、現宮司の曾祖父に当たる工藤吉右衛門だ。

 明治の初頭から海岸に移り住み、漁業に携わり、ときに海難者の救助に務めながら、参拝者相手の木賃宿を営んでいた吉右衛門は、

「一身をかけて、お宮を復興しよう」

 と堅く決意したという。

 その熱意が通じたのか、1年も経たずに仮社殿が建つ。

 吉右衛門の願いを引き継ぎ、苦労の末に、神職の資格を取得した娘婿の行省は、神宮奉斎会の一員として神宮大麻を頒布しながら、信仰を語り、神習教の布教者となって、各地を旅して神徳を説いた。

 多くの人々の粘り強い努力が実り、大正5年、ついに「無格社」という社格が与えられる。初代社掌(宮司)となったのは、行省である。

 昭和5年には神宮用材の下付を得て、昭和の造営が成る。15年前までは正式な神社として扱われなかっただけに、関係者の喜びはいかばかりであっただろう。

 神道の原理は「まこと」だといわれる(小野祖教『神社神道講話』)。神社復興に捧げる吉右衛門、行省の行動原理はまさに「まこと」であろう。

 だが、「まこと」をもって奉仕したのは2人だけではない。

 明治22年、アメリカの帆船チェスボロー号が台風に遭遇し、七里長浜の沖で遭難した。乗組員23名のうち助かったのはわずかに4名だった。

 このとき吉右衛門夫人は、絶望と思われた意識不明の船員を人肌で温め、蘇生させた。

 神社のかたわらの高台に、大きな「遭難慰霊碑」が建っている。「郷土の偉人はん」は小学校の道徳の副読本にも取り上げられたという。

「まこと」をもって神と人に奉仕する生き方はその後も受け継がれる。

 しかし危機は再びやってきた。戦争である。2代宮司文吉の長男・次男は戦陣に散った。参拝者もめっきり減り、財政は逼迫した。

 難問が、復員した三男伊豆を待ち構えていた。

 伊豆は窮乏を救うために製塩を始めた。ドラム缶を釜に、海岸の流木を薪にして、海水を煮詰める。最初はドロドロの塩しかできなかったが、やがて純白の塩づくりに成功し、多くの人が物々交換にやってきた。

 たちまち白米が庭積みされるようになり、神社は危機を免れた。

 23年には念願の拝殿新築が実現する。電気は、伊豆みずから電信柱を担いで引いたという。

 世の中で落ち着くと参詣者が増える。伊豆は人々をもてなすため、実弟と裏の海で漁をした。新鮮な魚は高山の名物として喜ばれた。

 参拝者はいまも家族同様、宮司夫人の手料理で歓待される。といっても腕前はプロ級。浴衣は夫人らが、一針一針、心をこめて縫い上げるそうだ。

 神職も職員も参拝者を温かく迎え、悩みや喜びを分かち合うことが大切だ、と工藤伊豆宮司はある対談で語っているが、実際、参詣者は実家に帰ったような安堵感を覚え、宮司の温顔に懐かしい父親との再会を感じている。

 明細帳にも記載されない苦難の時代から今日までの発展の源泉は、代々、受け継がれてきた、こうした「まこと」の実践なのだろう。(『高山稲荷神社史』、社報「たかやま」、季刊「悠久」などを参照)。

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最北の神社に奉仕する──バングラ訪問が転機 [神社人]

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最北の神社に奉仕する──バングラ訪問が転機
(「神社新報」平成8年7月15日号)
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「これを見てくださいよ」

 渡井民元宮司が拝殿横の重い扉を開けると、漆の香りとともに、大御輿が3基、姿を現した。

 1基は大正4年の作、もう1基は昭和24年。傷んでいた両方を修理したうえに、さらに1基が昨年(平成7年)、新調された。

 昨年7月の霊祭では、担ぎ手のかけ声が元気よく町にこだましたという。

 日本最北端・稚内市の北門神社。創建は天明5(1785)年、厳島神社に次いで、市内では2番目に古い。

 境内横から坂道を上り詰めた稚内公園には、昭和史のドラマが詰まっている。

「氷雪の門」は樺太で亡くなった人々の慰霊碑。過酷な自然に耐えて築き上げた郷土と肉親と財産を失い、ひたすら祈る女性の姿だという。

「9人の乙女の像」は、敗戦後の8月20日、ソ連軍の攻撃を受け、窓越しに砲弾が炸裂するなか、自決した真岡郵便局の電話交換手たちの慰霊碑だ。

 昭和43年、この地を訪れた昭和天皇は、乙女の像の前で深く頭を垂れ、冥福を祈られたという。

樺太に命を捨てしたをやめの心を思へばむねせまりくる

 戦後、樺太はソ連領サハリンとなり、稚内は日本最北の都市となった。人口4万6千人を抱えながら、本務の宮司が不在だったこの町に渡井氏が赴任したのは、一昨年(平成6年)9月のことである。

 渡井氏は東京・渋谷の生まれ。国学院大学卒業後、25年間、北海道神宮に奉職した。転機のきっかけは「バングラ訪問」という。

 神社新報社内に事務局を置いて、御大典記念事業の1つとして展開された「アジアに米を」救援事業で、平成6年2月、中野尹亮・北海道神宮宮司の代理として、現地視察旅行に参加した。

「どんなところでも生活できるんだと思いましたよ」

 貧しい国で中年の域をはるかに越えた日本人のボランティアが、現地の青年たちに農業を指導していた。自然環境も文化も異なる国で、どっかりと腰を据え、自分のためではなく、人のために、たくましく生きている姿に、強く勇気づけられたらしい。

 帰国後、北門神社が宮司を必要としていることを知った渡井氏は、「自分が行こう」と考えた。中野宮司は驚いた様子だったが、「1人でやってみたい」との志に共鳴してくれたという。

 初仕事は神輿の修理と新調だった。

「今度の宮司はちょっと違うぞ」

 神社から疎遠になりかけていた、とくに若い氏子たちは好感をもって迎えてくれた。

「神社の原点は祭りです。魂を揺さぶるような祭りで、エネルギーを町中に広げていければと思っているんですよ」

タグ:神社人
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