So-net無料ブログ作成

注目される『麦焼酎の起源=壱岐』説 [酒]

以下は斎藤吉久メールマガジンからの転載です


▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢
注目される『麦焼酎の起源=壱岐』説
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢


 久しぶりに酒について書きます。

 宗教と同様、酒というのも奥深い世界で、知ったかぶりをすると手痛いしっぺ返しを食らうようなので、できれば避けて通りたいのですが、今日、発行された「渡部亮次郎のメールマガジン・頂門の一針」に、馬場伯明さんが「麦焼酎の起源・壱岐焼酎」について書いているのに刺激されました。
http://www.melma.com/backnumber_108241_4589633/


▽壱岐焼酎蔵元の著書

 馬場さんは長崎のご出身で、雲仙ふるさと大使を委嘱されているそうですが、今日のメルマガは、壱岐焼酎の蔵元・山内賢明さんが書いた「壱岐焼酎──蔵本が語る麦焼酎文化私論」を取り上げ、日本の麦焼酎は壱岐で生産され始めたのが最初だ、とする説を紹介しています。

 孫引きで簡単にいうと、山内さんの説では、

1、蒸留酒(焼酎等)の日本への伝播ルートは、アラビア(中東)を起点に(1)南方ルート、(2)オアシス:天山山脈ルート、(3)草原の道ルートの3つがある。

2、壱岐への伝播ルートは、(3)のモンゴル・中国・朝鮮半島であると推理される。

3、「朝鮮王朝実録」には1404(永楽2)年、朝鮮李太宗から対馬藩主宗貞茂へ、貢物の返礼として「焼酒十瓶」が贈られたと記録されている。

4、日本では「焼酎」の文献上の初出は1559(永禄2)年。鹿児島県伊佐市の郡山八幡神社から発見された棟木の落書きであるが、この焼酎は米焼酎ではないかと考えられている。

5、1592(文禄元)年に、秀吉の朝鮮出兵に伴い、朝鮮半島ルートの壱岐から焼酎製造技術が伝わったのではないか。

 というように、山内さんは推測しているようですが、とくに2005(平成17)年に、韓国・安東市にある麦焼酎の伝統的な酒造所を訪問し、蒸留器(ソジゴリ)が壱岐の蒸留機(かぶと釜)と同じであることを発見した山内さんは、朝鮮・壱岐ルート(説)に、意を強くしたというのです。


▽世界の蒸留酒文化

 私が焼酎に興味を持ったのは、屋久島の芋焼酎を飲んでからです。かつては「車夫馬丁の飲み物」だというようにさげすまれた焼酎ですが、とんでもありません。芋臭さもない、すっきりした透明感が私を魅了しました。

 その後、内外の蒸留酒を口にするようになりました。バングラデシュ・コックスバザールではビルマ系仏教徒の村で彼らが作る米の焼酎をゆずってもらい、タイ北部の市場でサイダー瓶に入った焼酎を買い、南インドでは海岸に住む漁師の家で自家製の椰子の蒸留酒を呑みました。いちばん美味しかったのは、何といっても、スリランカの国営エアラインで飲んだココナッツ・ウイスキーです。

 呑兵衛の旅日記の一端は以前、宗教専門紙に書きました。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/nomubekika.html

 焼酎、あるいは広く蒸留酒の起源について語るときのポイントは、(1)蒸留技術の伝播、(2)原料、(3)焼酎という名称、の3つかと思います。

 焼酎王国と呼ばれる九州には、米、麦、芋などなど、さまざまな焼酎があります。だとすると、それぞれにルーツが異なる可能性があり、それだけに、馬場さんが紹介する山内さんの麦焼酎起源説は注目されます。

 酒の歴史に詳しい菅間誠之助さんの著書によると、紀元前3000年ごろのメソポタミアの遺跡から蒸留器と思われる壺状の土器が発見されているようです。しかし酒を蒸留したという記録はなく、酒と火を最初に結びつけたのは何と哲学者のアリストテレスではないかといいます。

 蒸留技術はアレクサンダー大王の東方大遠征でエジプトにもたらされ、やがてアラビア人の手にわたり、アラビア世界の拡大でヨーロッパに伝えられ、13世紀にはブランデーが親しまれるようになったそうです。


▽ポイントは蒸留器の類似性

 中国の蒸留酒の起源には漢、唐、元と諸説があるようです。

 酒好きで知られる唐の詩人・白楽天は「焼酒はじめて開く琥珀の香」と詠っていて、この焼酒こそ焼酎だろうと解釈されていますが、異説もあります。

 確実なのは、元の時代で、文宗の侍医による文献に「上等な酒を蒸留して阿刺吉(あらき)にする」と記されています。阿刺吉はアラビア語の「アラック(酒)」が語源で、アラブ世界の蒸留技術がこの時代に伝えられていたことが分かります。

 そしてこの技術が朝鮮半島を経て、壱岐に伝わったというのが山内さんの説ですが、果たしてそうなのかどうか、科学的検証が必要になります。

 馬場さんが紹介しているように、『李朝実録』は、太宗4(応永11=1404)年正月に、太宗が「対馬島守護官宗貞茂」に対して、「焼酒10瓶」を返礼に贈ったと記録されています。

 ところが、酒は伝わったものの、焼酎の製造がその後、対馬にはない。したがって、中国から朝鮮半島を経て、九州に伝えられたという歴史はない、というように、10年前のにわか勉強では知ったのでした。

 けれども、山内さんの説では、秀吉の朝鮮出兵時に壱岐に伝えられた、と推理しています。朝鮮出兵と食文化の伝播ということなら、韓国食文化の代名詞である唐辛子(倭芥子=ウェゲジャ)が日本から朝鮮に伝わったことが知られていますから、可能性はあります。

 証拠となり得るのは、山内さんが似ているとおっしゃる蒸留器(ソジゴリ)です。現在だけでなく、時代をさかのぼって共通性が認められるのなら、かなり面白い発見といえそうです。

 蛇足ながら、パリの労働者がブランデーを飲むようになったのは17世紀だそうですが、日本で焼酎が大衆化するのはやはり17世紀以降でそのきっかけはサツマイモの伝来です。中南米原産のサツマイモが琉球から九州本土にもたらされるには、感動の物語があるのですが、それは次の機会にします。

タグ:

酒の起源について考える──神意を求める切なる祈り [酒]

▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢
酒の起源について考える
──神意を求める切なる祈り
(「神社新報」平成9年10月13日号から)
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢


 ボクが宮崎県西都(さいと)市の都萬(つま)神社に詣でたのは、ちょうど「七夕様」のお昼時である。
tsuma_jinja.gif
 あいにくの雨の中、数十人の老若男女が集まり、テレビ局の取材を受けていた。隣町の高鍋町堀之内まで浜下りした童神の御神像に綿帽子などを着せ、化粧をほどこすという、「更衣祭」とよばれる、一風変わった神事が前日から斎行されていたのである。御神衣の数の多少によって、繭などの作柄や気候の寒暖が占われる。この年は「暖かい」と出たらしい。

 都萬神社は農業の神様である。

 社伝によると、お宮の西に清流があり、稲の穂が生じた。夫婦二柱の神がこの種を蒔き、田を開いた。そしてこの地を井門田里(いもんだのさと)と命名されたのである。

 ボクが訪れたころ、自治体が単独で立ち入り調査をするというので話題になっていた、西都原(さいとばる)古墳群の中央に位置する陵墓参考地の男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)は、この二柱の神の御陵(ごりょう)と伝えられている。

 同社はまた「日本清酒発祥の地」とされている。

 日本最古の歴史書である『日本書紀』には、カムアタカシツヒメ(=コノハナサクヤヒメ)が占いによって定めた「狭名田(さなだ)」の稲で、天甜酒(あめのたむさけ)をかもしてお供えした、と記されている。これが記録に残る、お米を原料にした日本最古の酒である。


▢都萬神社は「清酒発祥の地」
▢神嘗祭の神酒を醸した童女

 他方、都萬神社の社伝では、祭神のコノハナサクヤヒメノミコトは、三つ子をお生みになり、そのお三方のお子さまを、母乳代わりに甘酒でお育てになったという。同社の周辺には「酒元」という集落もあるそうで、酒造りに関係する古い土地柄であることをにおわせている。

 コマハナサクヤヒメノミコトがつくられた天甜酒は、酒造りの担い手は女性で、米を原料とするところに特徴があるのだが、どのようにして造られたものなのか、製法についてはよく分からない。口噛み酒だとする人もいるが、どうだろうか。古代の酒づくりにかかわる、謎解きのヒントになりそうな神事は、残念ながら同社には伝えられていない。

 口噛み酒といえば、地域によっては、ごく最近まで、とくに神事に関連して継承されてきた。

 山口大学の安渓貴子氏によると、沖縄の西表島では、大正末までウルチ米を原料にした口噛み酒(ミシ、ミシャー)が豊年祭などで造られていたという。

 6升入りの大鍋を6人の娘さんが囲み、割れ米をくだいて炊いたものを朝から昼過ぎまでかかって噛み、噛んだらはき出す。作業は2日間にわたり、「とてもつらい仕事だった」らしい。噛み終わったら、石臼でさらに挽き、甕(かめ)に入れる。3日もすると、弱い酒ができる。

 けれども残念ながら、昭和の衛生観念が古風を廃れさせたと安渓氏は書いている(『酒づくりの民族誌』)。

 この研究で注目されるのは、ここでも酒造の担い手が女性だということである。近世以降、「杜氏」といえば男の仕事になったが、それ以前は一家の主婦である「刀自」が酒づくりをもっぱらにしたのだといわれる。

『古事記』『日本書紀』に最初に登場するもっとも古い酒は、コノハナサクヤヒメの酒ではなく、スサノオノミコトによるヤマタノオロチ退治の物語に出てくる酒である。『古事記』では、何度も繰り返してかもした「八鹽折(やしおおり)の酒」、『日本書紀』本文では、重ねてかもした「八*(やしおおり)の酒」、一書には、果実でつくった酒、あるいは「毒酒(あしきさけ)」とある。

 この酒を用意するのは、クシナダヒメの両親であるアシナヅチとテナヅチだが、誰が酒をつくるのか、女性か男性かということについては記されていない。製法についても同様である。しかし『日本書紀』の一書には、明確に「衆果(あまたのこのみ)をもて」とあるから、日本最古の酒は果実酒であったという可能性があるということになるだろうか。

『日本書紀』には記載がないが、『古事記』のオオクニヌシノカミ(ヤチホコノカミ)の段、高志(こし)国のヌナカハヒメに妻問いする物語にも酒が登場する。

 嫉妬する正妻のスセリヒメノミコトが、大和へ向かうオオクニヌシノカミの「愛しい妻よ」と呼びかける神語歌にこたえて、

「私にはあなた以外に夫はいない。私の腕を枕としておやすみなさい。さあ、豊御酒(とよみき)、奉らせ」

 と歌われる。2人は杯を交わし、夫婦のちぎりをかため、仲むつまじく鎮座しておられる、とある。いかにも文学的な物語に無粋な詮索で恐縮だが、この酒は米の酒だろうか、それとも果実酒だろうか。

 多くの古儀を伝える伊勢の神宮では、10月中旬、伊勢の市民が「大祭り」とよぶ、一年でもっとも重要な神嘗祭(かんなめさい)が斎行される。真の御柱(しんのみはしら)の御前に供される由貴大御饌(ゆきのおおみけ)に添えられる神酒は、古くはやはり女性が関与したらしい。

 延喜23(804)年に太政官に奉られた『皇太神宮儀式帳』には、酒作物忌(さかとくのものいみ)がつくる白酒(しろき)、清酒作物忌(きよさかとくのものいみ)がつくる黒酒(くろき)の二色の神酒を奉る、と書いてある。

 物忌とは、むろん神事に奉仕する、心身を清浄にした童女や童男だが、神宮の禰宜(ねぎ)・矢野憲一氏によると、この神嘗祭の場合は「少女」だという(矢野『伊勢神宮の衣食住』)。父親が補佐したようだが、童女が神酒づくりに関与したというのは、遺風を伝えているようで、興味深い。


▢台湾先住民の口噛の粟酒
▢大嘗祭の黒酒は粟酒では

 コノハナサクヤヒメのほか、スサノオノミコト、オオクニヌシノミコトと、記紀ではいわゆる天つ神ではなく、むしろ国つ神に関連して、酒が描かれているのは興味深い。水田稲作の伝来とともに酒づくりが伝えられた、と一般には考えられているようだが、水田稲作伝来以前から日本列島には穀物や果実を原料にした酒があったということを想像させる。

 神戸女学院大学の松澤員子氏によると、台湾の先住民には粟(あわ)の酒があったという。彼らは畑作民族で、粟のほかに稗(ひえ)や稲、芋を栽培していたが、粟は儀礼文化には欠かせない、とくに重要な作物だった。人々は粟の神霊を最重要視し、粟の酒と粟の餅とを神々に供えた。酒は処女や巫女が噛んでつくったという(前掲『酒づくりの民族誌』)。
 
 台湾だけではない。安渓氏によると、沖縄の八重山にも粟の口噛み酒があったという。また、江戸時代の代表的な国語辞書のひとつといわれる『和訓栞(わくんのしおり)』には、蝦夷は酒に粟をもちいる。粟酒は蝦夷国の産物だ、と書かれてある。水稲が伝来する以前、粟酒とその儀礼が、日本列島の広範囲に浸透していたのかも知れない。

 粟の酒といえば、思い出されるのは、さまざまの古例・古儀が尊重される天皇の即位の祭り、大嘗祭であろう。

 大嘗祭は一般には「稲の祭り」といわれている。しかし、正確には「稲と粟の祭り」というべきだ、とボクは考えている。大嘗宮の儀の神饌御親供(しんせんごしんく)で、新帝が手ずから皇祖神と天神地祇に供せられ、御直会でみずから食されるのは、米と粟の御飯(おんいい)と御粥(おんかゆ)である。

 神事のなかで、米と粟はほとんど差別がない。これまでの大嘗祭研究は、稲の文化的価値をあまりにも重視しすぎて、粟の存在を見過ごしてきたように思われる。

 それにしても、なぜ米と粟なのか。
awa1.gif
 有名な『常陸国風土記』の筑波郡の条には、「新粟(わせ)の新嘗(にいなえ)」「新粟嘗(にいなえ)」の記述があるから、古代、粟の新嘗が存在したことが推測される。同じくだりに書かれている、山の神にたてまつる「飲食(おしもの)」とは、粟の飯と酒かもしれない、とボクは想像している。

 けっして素人の勝手な想像ではない。『大嘗の祭り』の著者・国学院大学の岡田荘司氏によると、「大嘗祭の粟に関する研究はほとんどない」らしいのだが、その数少ない論考のひとつに、民間の神道研究家・落合偉洲氏による論文「新嘗祭と粟」(「神道及び神道史」昭和50年7月)があって、そのなかで落合氏は、宮中祭祀の新嘗祭には民間の粟の新嘗が「残影」として残されている、と指摘しているからである。

 近畿大学の野本寛一氏(民俗学)から以前、次のように聞いたことがある。

「大嘗祭の米と粟の儀礼は稲作民と畑作民を統合する象徴として理解できるのではないか。白酒・黒酒の黒酒はもとは稗酒で、やはり同じ意味を持っていると思われる」

 野本氏によると、実際、静岡の大井川上流にある畑作農耕の村では、終戦直後まで、稗酒や粟酒がつくられたという。

 野本氏は「黒酒は稗酒」というのだが、むしろ粟酒なのではないか、とボクは推理する。

 つまり、稲作民(天つ神)の米と畑作民(国つ神)の粟、それぞれの御飯と御酒を神々に捧げるのだとすれば、文化の違いを超えて、国と民を統合する天皇一世一度の国家的儀礼の性格が一段と明確化し、「祭祀王」たる天皇の役割もよりはっきりするのではないか。ただ残念ながら、いまのところは単なる想像にすぎない。


▢芋の焼酎が生まれた理由
▢酒造りの宗教的な重要性

 以前から疑問に思っていることだが、「焼酎王国」といわれる九州では、「本格焼酎」の米のほか、オオムギやソバ、キビ、さらにはサツマイモやゴマまでが原料となる。なぜだろう。焼酎が好きで、何でも焼酎にしてしまった、というのでは説明にはならない。

 40年前、鹿児島県大口市の八幡神社(郡山八幡神社)で、施工主がケチで焼酎を一度も飲ませてくれなかった、という落書きのある、永禄2(1559)年の棟札(むなふだ)が発見された。この発見で、16世紀にはすでに日本に焼酎があったことが証明された。

 焼酎つまり蒸留酒の製法は、アラビア世界に始まる。海のシルクロードを通り、タイから沖縄へは15世紀の半ば、沖縄から鹿児島へはその後、伝わったと考えられている。いずれにしても、歴史的には新しい酒ということになる。

 タイの焼酎ラオ・カオも沖縄の泡盛も、原料はモチ米である。ウルチ米ではない、という点も興味深いのだが、それはさておき、なぜ日本、とくに九州では、米以外の焼酎が生まれたのであろうか。インド世界にはヤシ酒を蒸留したアラック、ココナッツ・ウイスキーがあるが、日本の焼酎はバリエーションの豊富さで他を寄せ付けない。

 これもひとつの推理だが、台湾に粟酒があったことは既述したけれど、「海上の道」に連なる畑作の穀物やイモの酒が古くからあったのではないだろうか。もしそうだとすれば、蒸留技術の伝来後、各種の焼酎が生まれるのは造作もない。

 たとえば滋賀県水口町の古社・総社神社では、7月に麦の収穫を感謝する「麦酒祭り」が斎行される。麦芽でつくったビールではない。蒸したオオムギを米麹でかもすのだ、と同社の関係者が教えてくれた。

 穀物の酒は粟や稗ばかりではないことが分かる。

 これに対して、芋の酒は世界的にはあまり例がないようだ。鹿児島の芋焼酎のほかに、東南アジアのマニオク(キャッサバ)の利用があるだけらしい。

 けれども、酒=アルコール飲料と固定的に考えなければ、別な見方もできる。

 太平洋島嶼地域には「カバ」という「酒ではない酒」がある。

 コショウ科の灌木(かんぼく)の根をしぼった液汁で、客を歓迎する儀式など、社会的儀礼にはかならず登場する。カバはアルコール分はない。したがってアルコール飲料としての酒ではなく、厳密には鎮静剤である。車座になり、ヤシの実でつくったコップで回し飲みする。

 このカバ・ドリンキングは、たとえばトンガなどでは、王の即位儀礼の中心をなす神聖な儀式として、いまなお重要視されている。日本の大嘗祭の大饗に似ていなくもない。

 ミクロネシアやポリネシアの海洋民族は東南アジアに原郷を持つモンゴロイドで、5000年前に中国大陸内部の民族移動の影響を受けて、太平洋に押し出されたといわれる。言語や神話など、日本民族との類似も認められる。先史時代に畑作民族共通の「根っこの酒」があった、と考えることは無理だろうか。

 そして、「根っこの酒」の歴史と伝統が芋焼酎を生んだ、という想像は的はずれだろうか。

 そもそも酒とは何か。人はなぜ酒を飲み、神々に供えることをはじめたのか。

 酒の起源については、一般には「果実酒自然発生説」がとられている。保存した果実から偶然に生まれたといわれているのだが、国立民族学博物館の吉田集而氏は否定する。保存の場合は乾燥させるが、醸造には逆に湿度が必要で、しかも果実をつぶさなければならないからだ。

 そのうえで吉田氏はこう推理する。人間が食べたり、飲んだりするのは、栄養補給のほかに、「薬」としての目的がある。動物にも薬はあるが、人間は単純な試行錯誤ではなく、呪術的な方針から強い味、強いにおい、鮮やかな色の薬用植物を選択した。

 呪術は霊魂を操作する技術であり、旧石器時代末期にはシャーマニズムも登場する。葉や種子、キノコなどをガムのようにチューイングして、魂を飛ばす各種技術が開発され、幻覚剤も見いだされた。人間を酔わせる酒はその一種であり、最初の酒は果実の口噛み酒ではなかったか。

 その後、農耕が始まると、余剰生産物が生まれ、王が出現し、天候の神を祀る王の宗教が発生する。幻覚剤はシャーマニズムの衰退とともに消えるが、代わりに果実酒や穀芽酒が農耕の神との交流の場を提供するものとしてふたたび登場した──と吉田氏は理解するのだ(前掲『酒づくりの民族誌』など)。

 神道の儀礼では酒は重要である。禊祓によって心身を浄め、神前に神酒を供し、神人共食によって神々との交流をはかり、神意をもとめる。そこには人間の切なる祈りがある。祭祀は単なる形式ではない。

 天皇の祭りがおこなわれる伊勢の神宮、外宮の御酒殿(みさかでん)のあたりは、いまは木立の奥の、ひっそりと忘れられた静かな空間となっている。その御前で、遠く平安の昔に思いを馳せるのは、元神宮禰宜の櫻井勝之進氏である。

 櫻井氏によれば、ここにかつて務所庁(まつりごとや)や禰宜の斎殿(いみどの)、附属の炊事所など、どこよりも重要な諸施設が軒を連ねていたという(櫻井『伊勢神宮』)。物忌はそのなかで神酒をかもしたのである。酒づくりの宗教的重要性が何よりも雄弁に物語っているのではないか。


追伸 この記事は、宗教専門紙「神社新報」平成9年10月13日号に掲載された拙文「食と日本人 34 酒の起源について考える--神意を求める切なる祈り」に、若干の修正を加えたものです。(平成13年11月)

タグ:

呑むべきか呑まざるべきか──飲酒のタブーと宗教 [酒]

▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢
呑むべきか呑まざるべきか
──飲酒のタブーと宗教
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢


 酒は日本では「御酒(みき)」と尊称されるほど重きをおかれる存在で、神社の祭式では稲米の次に神々に供せられる重要な神饌(しんせん)である。ところが世界にはこれとはまったく逆に酒をきらい、飲酒をきびしく禁忌する宗教もある。ヒンドゥーや仏教、イスラムがその代表で、酒を媒介にして非日常的な境地で神々との交流をはかる日本の神道とはきわだった相違がある。

 とはいっても、それぞれかつてはタブーではなかった時代があったり、なかば公然と飲酒がまかり通る現実があったり、単純な常識は通用しない。

 宗教にとって、飲酒のタブーとはいったい何だろう。


イスラム
▢酒を禁忌する戒律と
▢平然と呑むムスリム

 たとえばイスラムだが、根本文献として聖典『クルアーン(コーラン)』についで重要な位置づけがされる預言者ムハンマドの伝承録『ハディース』には、「禁を犯せばむち打ちの刑に処せられる」と明記されている。

 ところが、ムスリム(イスラム教徒)人口の多さではインドネシア、パキスタンに次いで「世界第三のイスラム国家」バングラデシュの農村を取材したときのことである。「酒を飲むのとイスラムの信仰とは何の関係もない」と、ムスリムであるはずの男が平然といってのけたのには、耳を疑った。
tari.gif
 デンギャカタ村は同国南東部コックスバザール県のマングローブ地帯のそばにある。今年70歳になるという村長の自宅の裏側は湿地で、ウム(ニッパヤシ)の畑になっている。じつはこれが「タリ」(ヤシ酒)のいわば「酒造工場」なのである。

 タリの作り方はいたって簡単だ。直径30センチほどもあるボール状の集合果の首根っこをチョンと切ると糖分をふくんだ乳白色の花序液が噴き出してくる。一昼夜、竹筒に集めて一晩、寝かせると、自然に発酵して酒になる。

 アルコール度は低い。酸味と、少ししびれるような刺激がある。

「男は10歳を過ぎると呑む。毎晩呑む。女もときどき呑む」。そういって男はニヤリと笑った。

 なんの造作もなくヤシ酒が作られるのだとすれば、アラブの民がイスラム以前、すなわち「ジャーヒリーヤ時代」に酒の文化を持っていたとしても不思議はないし、実際、イスラム時代になっても当初は酒を禁じてはいなかったようだ。

『クルアーン』には「ナツメヤシやブドウの果実を実らせて、あなた方はそれから強い飲み物(サカル=酒)や、よい食料を得る。本当にその中には、理解ある民へのひとつの印がある」と書かれ、死後の世界の楽園には「飲む者に快い(美)酒の川」がある、と説明されている。

 しかし、622年にメディナへ聖遷(ヒジュラ)したのちも飲酒におぼれ、信仰を忘れる者があとを絶たなかったため、「禁酒の啓示」がくだる。

「あなたがた信仰する者よ、誠に酒と賭矢、偶像と占い矢は、忌み嫌われる悪魔の業である。これを避けなさい」

 啓示にしたがって捨てられた酒がメディナの町を川のように流れた、と伝えられている。

『ハディース』は「酒は心を乱す飲み物である」「人を酔わせるものはすべて禁じられている」と記し、ブドウ、穀類、ナツメヤシなどを原料とするあらゆる酒類のほか、タバコや麻薬を厳禁している。

 ところがである。実際には古来、酒を愛したムスリムは少なくなかったようで、酒を礼賛する詩が数多く詠まれている。

私の飲酒を責める人よ、私は君の歓心を買うことはしない。
君は無知ゆえに君に逆らう者を責めている。
非難してもよいが、酒の名を呼ばないでくれ。   
その美しい名が君の口でけがれるから。
 
もうわずらわしい学問はすてよう、
白髪の身のなぐさめに酒をのもう。
つみ重ねてきた七十の齢(よわい)の盃(つき)を
いまこの瞬間(とき)でなくいつの日に楽しみ得よう?

 前者は8~9世紀を生きたアッパース朝期最大の詩人アブー・ヌワースの飲酒詩で、後者は11~12世紀にかけて、科学者として一時代を画したペルシャのオマル・ハイヤームの四行詩である。
 
 15世紀に今日の形にまとめられたといわれる『千夜一夜物語』には、歴代のカリフ(教主)が佳人や美少年をはべらせて、朝から酒宴を催していたようすがうかがわれるし、歴代のトルコ皇帝36人中3分の2がアル中だった、ともいわれる。
 
 現在でも「神を忘れたり、礼拝を怠るほど呑んではいけない、というのがアッラーの教えだ」と強弁しながら、酒をたしなむイマーム(導師)もいるらしい。それどころか、国内で堂々とビールを生産するアラブの国もあるようだ。


ヒンドゥー
▢神酒ソーマを神々に
▢捧げたヴェーダ時代

 インドの民族宗教であるヒンドゥーもまた飲酒を喜ばない。
 
 南インド・ケララ州ワイナッドの自然保護地区にほど近い山中に、3000年前の創建と伝えられ、最高神ビシュヌをまつる古刹がある。名前はティルネリ寺。インドの友人たちに案内されて参詣したのだが、緑豊かな風景といい、信仰形態といい、日本の神道と酷似しているのには、驚いた。
 
 石段を20段ほどのぼると、古びた石造りの社殿がある。瓦葺きの屋根は石の桝組(ますぐみ)が支えている。後方にそびえる「聖なるブラマギリ山」には「神々が宿っている」と白髪混じりの寺院の管理人は説明した。はるかなる頂は白雲に隠れて見えない。白いドティを腰に巻いただけの楽人たちが太鼓を鳴らしながら、社殿の周りをめぐる。2拍子のリズムは日本の祭囃子に似ている。
 
 靴を脱ぎ、上半身裸になって、社殿に足を踏み入れた。暗がりで灯明が揺れ、内陣にビシュヌ神の神像がおぼろげに見える。参拝がすむと、木の葉に盛られた、米とギーで作ったニーパヤサム(お下がり)をいただく。
 
 社殿の裏手にはラジブ・ガンディーも潔斎(けっさい)に訪れたという禊ぎ場があった。聖なる山を水源とするパパナシニの水で心身を清めるのだが、木立に包まれた清流にはインド的というより、日本的な懐かしささえ感じられた。
 
 帰ろうとするボクたちの耳に、お寺に併設されるレストハウスの建設工事現場で働く男女のかけ声が飛び込んできた。「ハイレサ、ハイレサ」。まるで博多祇園そのままではないか。
 
 神社の鳥居に似た門が建てられているヒンドゥー寺院もある。屋根には波形があしらわれ、正面の柱には象鼻(ぞうはな)ならぬ象面神ガネーシャが刻まれている。同じ自然宗教である日本の神道との共通点の多さには瞠目(どうもく)せざるを得ないのだが、最大の違いのひとつは酒である。ヒンドゥーの宗教儀礼には酒は登場しない。
 
 祭司をつかさどるバラモンは飲酒を嫌う。国学院大学の山崎元一教授(歴史学)によると、バラモンは飲酒を不浄とみなして禁じているだけでなく、酒売りから飲食物を受け取ってはならないということが「律法経(ダルマ・スートラ)」に定められているという。
 
 ところが、『アーパスタンバ』などの「律法経」が成立するのは紀元前6世紀以後で、それ以前のヴェーダ時代には、ソーマ草の絞り汁を発酵させた「神酒ソーマ」を祭火に投じて神々にささげ、残りを祭官たちが呑むという「ソーマ祭」が祭式の中心だったという。ソーマは「世界最古の酒」ともいわれるが、アルコール飲料というより、むしろ「幻覚剤」に近いものだったらしい。
 
 紀元前1000年ごろに編纂された『リグ・ヴェーダ』の第9巻は、ソーマの賛歌で埋めつくされている。
 
 もっとも甘美にしてもっとも陶酔をもよおす奔流によりて清まれソーマよ、インドラの飲まんがために搾られて。
 
 羅刹(らせつ)を殺し、万民に知らるる彼は、金属(かね)もて調えられたる母胎に向かい、木にて座につけり。
 
 飲酒が、バラモン殺害などと並んで、5つの「大罪(マハーバータカ)」に数えられるようになるのは、紀元前後に『マヌ法典』が編纂されてかららしい。
 
 けれどもいまでも酒がヒンドゥーの儀礼に登場することもある。
hindu_temple3.gif
 ケララ州カンヌールのヴァラパタナム川のほとりに、シュリ・ムッタッパン寺という名刹が鎮座している。「シヴァ神の化身」と信じられているらしい。参道には、日本の神社やお寺と同じように、みやげ物屋がひしめき合っていた。境内では赤ん坊の「お食い初め」の儀式なども行われ、多くの巡礼者で早朝からたいへんなにぎわいだった。
 
 社殿では派手派手しいボディーペインティングを施して神に扮したふたりの男が、参拝者たちにひとりずつ託宣を述べたあと、音楽に合わせて殿内中央の祠(ほこら)をめぐる儀礼が行われる。このときもうひとりの半裸の男が小さな金属製の水差しで「トディ」(ヤシ酒)を何度も飲み干す。
 
 バングラでは「タリ」、インドでは「トディ」、スリランカでは「トリ」。このヤシ酒を蒸留したのが日本の焼酎の元祖となるアラックで、ケララ州をふくむインド南西部のマラバル海岸はじつはそのメッカだという。
 
 宗教儀礼に酒が登場するくらいだから、当然、「呑ん兵衛」はいる。公然と呑むのははばかられるが、街道沿いにバーもあれば、町はずれには酒屋もある。インド国産のビールやウイスキー、ブランデーまであったのには驚いた。


仏教
▢「不許葷酒入山門」の戒と
▢酒好きで知られた良寛さん

 インド世界で生まれた仏教は、在家の「五戒」、出家の「十戒」の第五に「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」を位置づけ、飲酒を禁じている。「小乗律」の根拠とされる『四分律(しぶんりつ)』は、「顔色悪」「力少」「眼視不悪」など、飲酒の「十悪」を列記している。

 ところが禅宗では、「不許葷酒入山門(葷酒[くんしゅ]、山門に入るを許さず)」の石柱を建てながら、酒を「般若湯(はんにゃとう)」の隠語でよび、ひそかに用いてきた。謡曲「木賊(とくさ)」に次のような一節がある。

 飲酒(おんじゅ)は仏の戒めなれども、彼(か)の廬山の恵遠(えおん)禅師、虎渓を去らぬ禁足にだに、陶淵明が謀(はかりごと)にて飲酒を破りしぞかし。

「謀(はかりごと)」どころか、中世の寺院では名だたる「僧坊酒」が公然とつくられていた。河内長野・天野山金剛寺の「天野酒」、奈良・菩提山正暦寺の「奈良酒」、湖東・釈迦山百済寺の「百済寺樽」、大和・談山寺いまの談山神社の「多武峰(とうのみね)酒」、越前・白山豊原寺の「越州豊原」などが「美酒言語ニ絶ス」などと激賞されていたらしい。

 他方では、江戸後期の禅僧良寛さんは無類の酒好きであったことが知られている。

夜もすがら爪木たきつつ円居して濁れる酒を飲むが楽しさ
 
袖裏の毬子 両三個
 
無能にして飽酔す 太平の春

 良寛が単なる破戒僧ではなかったことはいうまでもない。上座部仏教は戒律中心の宗教だが、大乗仏教には末法の世では「戒律はかえって有害だ」とする教えさえある。「末法無戒」。それかあらぬか、いま鎌倉五山にも曹洞宗大本山にも「不許葷酒……」の標注は見あたらない。人間にとって、宗教にとって、戒律とはなんなのか。

 遠くヨーロッパ世界において、かのドイツの宗教改革者マルティン・ルターは、ワインと女性と音楽をこよなく愛したと伝えられる。

 さて、呑むべきか、呑まざるべきか。


追伸 この記事は「神社新報」平成7年9月11日号に掲載された拙文「呑むべきか呑まざるべきか──飲酒のタブーと宗教」に若干の修正を加えたものです。

 文化の異なる海外での取材は、自分が正しいと思いこんできた常識というものを、「目から鱗が落ちる」というほどに、ものの見事に根底から破壊してくれる痛快さがあります。その小気味良さはもちろんこのような短い記事で語り尽くせるものでもありません。おいおいまたこのホームページでご紹介したいと考えます。

 このときの取材では、現地で活躍するNGO、財団法人オイスカの方々、とくにバングラデシュとインド・ケララ州のオイスカマンに、たいへんお世話になりました。あらためてお礼を申し上げます。