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3 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」──島根県松江市・美保神社の巻 その3 国家の中枢とは異なる縄文人の信仰 [神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 3 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」
   ──島根県松江市・美保神社の巻 その3
     国家の中枢とは異なる縄文人の信仰
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▽1 米ではなく芋(イモ)が常食

 今週も出雲(いずも)・島根の旅をつづけます。

 松江市美保関町の美保神社は、一般には漁業の神様だとされていますが、それだけではなく稲作の神でもあった、ということが前号までお読みくださった読者はご理解いただいたのではないか、と思います。

 それならば、なぜ稲作の神とされたのか? 信仰の基礎にある稲作とはもともとどういう稲作なのか?

 8世紀に完成し、朝廷に献上されたといわれる『出雲国風土記』には出雲地方の神話などが収められていますが、その既述からはこの地方が古代において稲作が盛んだったようには見受けられません。「美保崎……北は百姓の家なり、志※魚(しび。※は田へんに比)を捕る」と書かれているからです。

 また、美保神社の祭神・事代主命(ことしろぬしのみこと)が鳥遊(とりあそび)、取魚(すなどり)をされた、というような古事記・日本書紀の伝承からすれば、この地方は古くから漁業と狩猟の土地柄だったことが推測されます。

 時代が下って、近世・藩政下においても、村高はわずか2石(1石は約180リットル)といわれます。現在ですら、旧美保関町の総面積5007ヘクタールのうち、85パーセントは森林で、耕地は3パーセントに過ぎません。米の生産量は40トン(私が取材した平成8年現在)といわれます。

 したがって美保神社の横山宮司さんは「美保関の常食はかつて米ではなく芋だった」と推測します。たぶんそれは間違いのないことでしょう。別ないい方をすると、古くは水田稲作農耕とは縁のない地域だということです。


▽2 米が登場しない祭り

 そのことはほかならぬ美保神社のお祭りからも想像されます。

 たとえば、神社の最大の祭りである蒼柴垣(あおふしがき)神事(4月7日)や諸田船(もろたぶね)神事(12月3日)には直会(なおらい)の席に芋膳が登場します。蒸し芋2個、大根魚切身の生酢、鰤(ぶり)の刺身、箸、御神酒(おみき)が食膳に並ぶのですが、お米のご飯もモチもありません。

 例外は宵祭り(よいまつり)です。直径二十数センチの大きなお椀(わん)に高く盛った強飯(こわめし)が出てきます。美保神社の2つの本殿、つまり事代主神をまつった右殿、三穂津姫命をまつった左殿に、75椀、供えられ、このため江戸時代には松江藩から4俵2斗の米が奉納されたのですが、直会のときに本殿から下げられたあとの強飯は食べられることなく、氏子が家に持ち帰ることになっているようです。

 このように米所とはおよそ縁遠い土地柄に立地する神社で、祭りにも稲作農耕の文化がほとんどうかがえない。それでいて、稲作の神と位置づけられ、多くの農民が参拝するのは、美保神社の稲作信仰は水田稲作の信仰とは異なる、水田稲作が伝来する以前の古い信仰だということが想像されます。つまり、縄文の信仰です。

 美保神社の社殿は、大社造りの社殿が2棟ならぶ独特の形式で、「美保造り」とよばれ、その秀麗さから国の重要文化財に指定されています。本殿にしずまる祭神は、既述したように、右殿が事代主命、左殿が三穂津姫命ですが、『出雲国風土記』には不思議なことに、いずれの名前も記載がなく、代わりに「御穂須須美命、この神います」と記されています。

 国家の中枢と地方では対立はしないまでも、異なる信仰が伝えられているようです。どういうことなのか。神社の歴史をあらためて振り返ることにします。


▽3 民俗学者の説明と宮司さんの異論

 島根大学の石塚尊俊先生(民俗学)は、美保神社の歴史を次のように説明しています(『式内社調査報告第20巻』など)。

 ───『風土記』の時代は、美保神社は地域的な信仰対象でしかなかった。記紀神話が中央から地方に広がっていったあと、国譲りの2柱の神がまつられるようになった。『延喜式』がまとめ上げられた10世紀のころも、国家的な「神階神勲」の栄誉に浴すことのない小社だった。

 中世以降になってようやく広く知られるようになるけれども、尼子氏と毛利氏とが覇を競った戦いで社殿も文書も焼失してしまう。文禄5(1596)年に国主・吉川広家が秀吉の朝鮮出兵の際に武運を祈って社殿を再建したことから、面目を一新した。

 近世になり、美保関が海上交通の要衝(ようしょう)として重要視され、藩主の崇敬が高まり、一社一令の神社という高い地位を得るにいたり、民衆の信仰も集まった。事代主命=恵比須神と信じられるようになり、海上安全、豊漁守護の神であると同時に副神恵比須神の本宮となった。

 明治期に入って、一躍、出雲大社(出雲市大社町)、熊野神社(熊野大社。松江市八雲町)につぐ出雲国第3位の神社となった。

 こうした石塚先生の歴史解説に疑問を呈するのは、ほかならぬ美保神社の横山宮司さんです。


▽4 岬と先島をめぐる神の道

 ──島根半島の西の端にしずまる日御碕(ひのみさき)神社(出雲市大社町)に「上の社」と「下の社」があるように、岬にしずまる神社は2座とする考えがあった。美保神社の場合も、あとになって2神がまつられるようになったというのではなく、『風土記』の時代からすでに2座で、稲作の信仰を集めていた、と推定できる。

 つまり、朝廷の権威が地方に伝播した結果、2柱の神をまつるようになり、信仰の中心地に発展していったのではない、というのです。石塚先生の見方は中央の歴史から美保神社を見ているのに対して、宮司さんの方は地方からの視点で神社の歴史を見ているようです。

 それなら、もともと2座だとする根拠は何か? なぜ岬の神社は2座、といえるのか?

 ヒントになりそうなのは、民俗学の立場から「岬とその先島(さきじま)をめぐる神の道の伝承」に注目している近畿大学の野本寛一先生の研究です(『神々の風景』)。

 出雲美保関には地蔵崎という岬があり、その先に沖の御前があります。若狭湾(福井県)には常神岬(つねがみみさき)と御神島(おんかみじま)、志摩(三重県)には大王崎と大王島、静岡県には御前崎(おまえざき)と依り神の岩礁である駒形岩、男鹿半島(秋田県)には入道崎(にゅうどうざき)と明道岩、があります。

 表にまとめ直すと、こうです。

秋田県 男鹿半島 入道崎 明道岩
静岡県 遠州灘  御前崎 駒形岩
三重県 志摩   大王崎 大王島
福井県 若狭湾  常神岬 御神島
島根県 美保関  地蔵崎 沖の御前

 野本先生によると、日本人は古来、陸と海がせめぎ合う岬を、魂の原郷である「常世(とこよ)」への旅立ちの場と意識し、また常世から神々がより来る聖地として守り続けてきた。岬の先にある「先島」は常世の岬が陸地によりつく飛び地なのだ、というのです。

 縄文人の自然観が伝わってくるようです。(次号につづく)

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2 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」──島根県松江市・美保神社の巻 その2 [神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 2 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」
   ──島根県松江市・美保神社の巻 その2
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▽1 にぎやかな港町だった

 出雲(いずも)・島根の旅を続けます。

 松江市・美保(みほ)神社の目の前には猫の額ほどの美保湾があり、湾を取り囲んで古い旅館が肩を寄せ合っています。じつに静かなたたずまいです。

 けれども、昔からそうだったのか、といえば、そうではないようです。かの小泉八雲(こいず・やくも)が「日が落ちると美保関(みほのせき)は西日本でもっとも陽気でにぎやかな港町に早変わりする」と書き残しているからです。

 そのにぎわいは何に由来していたのか。ふつうには全国的な海の民の信仰対象として知られる美保神社ですが、八雲の時代には漁民だけではなく、稲作農民の信仰を集めていました。前号で書いたように、「種替(たねかえ)神事」のような神事が行われていたからです。

 その昔、閑院宮(かんいんのみや)親王殿下や二条公爵も、そして八雲も投宿したという由緒ある老舗(しにせ)旅館に宿を取った私は、「種替神事」が行われた節分のころのにぎわいについて、人生の大先輩である女将(おかみ)さんに聞いてみました。


▽2 失われた祭り

 女将さんによると、昭和20年代まで、節分のころは蒸気船の臨時便が増発されるほどで、岡山や広島などからの宿泊客で、9軒ある旅館は大いににぎわったそうです。「節分詣り(まいり)」と呼ばれたそうですが、それは節分行事というより、むしろ旧正月の年越えで、人々は深夜に神社に参拝し、年越しそばを食べた。新暦の正月よりもにぎやかだった、というのでした。

 しかし、いつのことか、節分祭それ自体が絶えました。そして種替神事は幻と消えました。したがって節分詣りがそもそも新年を迎える正月行事だったのか、それとも稲作儀礼としての田の神迎えだったのか、よく分かりません。

 代々、美保神社に奉仕する横山宮司さんに聞いても同じでした。

「親父が昭和19年に亡くなり、そのころ神職の顔ぶれががらりと変わった。当時の日誌は紙質が悪く、ボロボロで読むに読めない。祭儀についての記載も見当たらない。いまでは節分祭の内容は分からない」

 記録が失われているだけではありません。大正末期の生まれの宮司さん自身の記憶にもない、と嘆くのでした。


▽3 稲作の祭礼があった

 あらためて古い文献を探してみることにしました。

 すると、『国幣中社美保神社明細図書』(明治19[1886]年)に、御田植祭および田実祭(たのみのまつり)に関する記述があるのを見つけました。

 旧暦五月一日に行われる御田植祭、同じく旧暦八月一日の田実祭は古来、美保郷内および美保関、森山村、下宇部尾村、七類浦、諸喰浦、雲津浦などが神領つまり神社の所領だったころはずいぶんと盛んだったというのですが、豊臣氏の時代に所有権が離れてから、祭りが絶えてしまった、と漢字カタカナ交じりで書いてあります。

 つまり、豊臣氏が神領を没収するまで、美保神社では稲作の祭礼が行われてきたということになります。

 そのほか、五月一日の式年祭に「出雲十郡」と呼ばれた旧神領地からお供えが献上されたことを裏づける、江戸末期のものらしい禁制札も残されています。社殿の造営は神領民が奉仕し、献上は神領地の没収後も続きました。それぞれの旧神領地には美保神社の分霊をまつる神社があるといわれます。

 他方、田実祭りの方は、といえば、おそらく八月一日に行われる八朔(はっさく)の祭りなのでしょうが、お祭りの内容はまるで分かりません。

 とはいえ、田植えが終わり、一番草の除草がすんだあと、豊作祈願に参拝する農家の楽しみは昭和20、30年ころまで続いたようです。


▽4 八雲が見た農村風景

 このときは市が立つほどのにぎわいから、「夏市」と呼ばれました。米や濁り酒を持参してお詣りする宿泊客は旅館の廊下にまであふれ、宿にとっては1年でもっとも多忙をきわめるかき入れ時だった、と老舗の女将さんは語ります。

 参詣者は神社で「関札(せきふだ)」と呼ばれる神札(おふだ)と榊(さかき)、神水の授与を受けました。神札は虫除けのために水田の畦に立てられ、神社の山からわく宮水は干ばつよけのため農業用水の水口(みなくち)に注がれました。

 そんな農村の風景を八雲が記録しています。

 八雲が松江にやってきたのは明治23年8月でした。姫路から人力車に乗り、山を越え、津山を経て、山陰街道に出た八雲は、鳥取県の山あいで「田んぼのいたるところに何か奇妙なもの」を見ました。

 それは、榊の三つ葉を頭にして竹ざおにはさんだ、ほかならぬ美保神社の神札でした。「まるで青々とした野面に点々と白い花でも咲いているようだった」と表現されています。

 けれども、緑の稲田に映える「祈願の矢」はいまは見られません。「迷信因習の打破」などを目標に掲げる、戦後の「新生活運動」で、村を代表して神社にお詣りした代参者が帰宅後、各農家に神札などを配る風習はすっかり廃れたからだ、と宮司さんが説明していました。

 そうはいいながら、稲作信仰の名残はかすかではありますが、美保神社の神事のなかにうかがえます。


▽5 稲作信仰の残映

 たとえば、美保神社の祭神・三穂津姫命(みほつひめのみこと)の神紋(シンボル・マーク)は「二重亀甲(きっこう)」に「渦雲(うずくも)」がデザインされたものですが、これは祭神が雲に乗って高天原(たかまがはら)から稲穂をもたらしたという伝説に由来しています。

 稲をたずさえて天降ったという伝説はいうまでもなく、日本という国の成り立ちに関連する天孫降臨(てんそんこうりん)神話が知られますが、そればかりでなく地方にはいろいろ類似する神話が伝えられているようです。

 それはともかく、美保神社の神紋はもっとも古くは「鶴丸」のデザインが用いられました。たとえば、いまでも有名な蒼柴垣(あおふしがき)神事に登場する猿田彦(さるたひこ)が着る上着には径1尺におよぶ大きさの「鶴丸」の神紋があしらわれています。

 鶴が美保神社から周辺地域に稲を伝播させた、という伝承があり、それに基づいているのですが、それはまぎれもなく神社が稲作信仰の中心だったことの証明です。

 朝廷に領土をゆずったという「国譲り」神話に由来するのが蒼柴垣神事ですから、つかわれる装束はこの神話に関係するのか、というと、そうではありません。たとえば、田楽(でんがく)の小袖(こそで)は、空を飛ぶ鶴と稲束の刺繍がいくつも施されています。

 このように美保神社の祭礼は漁民の信仰というより、稲作民の信仰が濃厚に反映されているのです。

 一般的には海の民の神社として知られる美保神社の祭礼は、和歌森太郎先生の『美保神社の研究』によると、中世末、京都から流れてきて、この地で憤死した太田政清という名の公卿が最初に始めた、と説明されています。しかし、中世以前の祭礼・行事の体系はまったく別だったのかもしれません。(次号に続く)
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日本の自然美と日本人の純粋性を発見したアインシュタイン──大正11年の日本旅行記から [神社]

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日本の自然美と日本人の純粋性を発見したアインシュタイン
──大正11年の日本旅行記から
(「神社新報」平成15年8月4日号から)
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 まもなく原爆忌──。

 アメリカの核開発の歴史は、原子物理学者のアインシュタインがルーズベルト大統領宛に書いた核兵器開発を促す手紙に始まるともいはれる。ナチス・ドイツによる原爆開発を恐れての進言だったが、歴史の皮肉といふべきか、最初の原子爆弾はドイツにではなく、彼がこよなく愛した日本に投下された。

 相対性理論で知られるアインシュタインは、科学者として世界史に名を残す一方、日本の伝統美と日本人の純粋性を深く理解した代表的西洋人の一人として知られる。


▢ 美しい自然と上品な日本人

 アインシュタインはいまから八十年前の大正十一(一九二二)年十一月、日本の出版社の招きに応じて来日した。九州から東北まで、大学で相対性理論を講演したばかりでなく、明治神宮や日光東照宮、熱田神宮、厳島神社などに参詣し、皇后陛下に謁見、能楽や雅楽を鑑賞し、多くの日本人と交はり、「日本のすばらしさ」に魅せられた。

 招請を受けたとき、アインシュタインは「このチャンスを逃したならば、後悔してもしきれない」と思った。世界各国を旅した彼だが、「日本ほど神秘のベールに包まれてゐる国はない」からであった。

 彼の旅日記によると、まづ感動したのは美しい自然であった。彼は、「日本の海峡を進むとき、朝日に照らされた無数のすばらしい緑の島々を見た」。

 アインシュタインは各地で日本の「光」に惹かれた。京都では、「魔法のやうな光が通りや小さな家を照らしてゐた。……下に見える町のほうには光の海が連なってゐた。非常に感銘を受けた」。展望車に乗って東京に向かふ途上では、「雪に覆はれた富士山は遠くまで陸地を照らしてゐた。富士山近くの日没はこの上なく美しかった」。

 自然以上に輝いてゐたのは、日本人の「顔」である。

 日本行きの船上で出会った日本人客を観察し、「日本人は他のどの国の人よりも自分の国と人々を愛してゐる」ことを知る。彼が会った日本人は、「欧米人に対してとくに遠慮深かった」。京都のホテルの給仕は「素朴で、おとなしく、とりわけ感じがいい」。東京で、芸者の踊りも見た。「かかる種類の女性を標準にして、その国民性が分かる。日本の芸者は非常に謙遜な態度で上品ではないか。……日本国民の上品でゆかしいことがこれ一事で分かる」。


▢ 自然と人間の一体化を神道に見る

 さうした国民性はどこに由来するのか。アインシュタインは自然との共生と見抜く。

「日本では、自然と人間は一体化してゐるやうに見える。この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じて与へられたものと密接に結びついてゐる」

「自然と人間の一体化」を示すものは、日本の神道と神社建築であった。

 高松四郎宮司の案内で参拝した日光東照宮は、「自然と建築物が華麗に調和してゐる。……中央の建物は多彩な木彫りで飾られてをり、すばらしい。……自然を描写する慶びがなほいっそう建築や宗教を上回ってゐる」。

 厳島神社では、「優美な鳥居のある水の中に建てられた社殿に向かって魅惑的な海岸を散歩する。……山の頂上から見渡す瀬戸内海はすばらしい眺めだった」。

 彼の探求心は天皇にも及ぶ。

 熱田神宮では「国家によって用ゐられる自然宗教。多くの神々、先祖と天皇が祀られてゐる。木は神社建築にとって大事なものである」と印象を述べ、京都御所では「私がかつて見たなかで最も美しい建物だった。……天皇は神と一体化してゐる」と見る。


▢ 伝統と西洋化の軋轢を懸念

 美しい自然とその自然に育まれた日本人の国民性を高く評価したアインシュタインは、他方で伝統と西洋化の狭間で揺れる日本の近代化を熟知してゐた。

 だからこそ、旅の途中で書いた「印象記」のなかで、「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでゐる」日本に理解を示しつつ、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにゐて欲しい」と訴へることを忘れなかった。

 二十数年後、日本は戦禍で焦土と化した上に原爆が投下される。アインシュタインはルーズベルトに手紙を書いたことを生涯の過ちとして悔い、平和運動に取り組むことを決意したといはれる。(参考文献=『アインシュタイン、日本で相対論を語る』ほか)

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