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アメリカ同時多発テロから5年 [イスラム]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です


「9.11」同時多発テロから5年がたちました。

 あの痛ましい事件のあと、それでなくとも20年以上も戦乱のさなかにあるアフガニスタンが連日、国際社会からの武力攻撃をを浴びました。テロ事件の首謀者とされるオサマ・ビンラディンとそのテロ組織アル・カイダ、そして彼らをかくまっているタリバン政権を標的とする、米英軍などの激しい「報復」でした。

 そのころ私は宗教専門紙の連載で、東西文明を結ぶシルクロードの要衝であるアフガニスタンを拠点とし、国際社会を敵にまわしたテロ事件はなぜ起きたのか、何がこの国を、「目には目を」の世界的規模のテロ戦争の舞台に仕立てたのか、について書きました。

 ビンラディンそしてタリバンは米英軍の前に膝を屈するだろうか、と私は記事の中で自問しました。コーランにはこう書かれています。「神を持たぬ異端者にムスリムを支配する権利はない」。聖戦に敗北はあり得ないのです。だとすれば、イスラム勝利の日まで戦いは続くのではないか、というのが私の結論でした。

 歴史をさかのぼれば、19世紀、アジア諸地域がヨーロッパ列強の侵略にさらされていたころ、アフガンも例外ではありませんでした。

 英露両国のはざまで、困難な国家運営を迫られました。ハーン国王がロシアと友好条約を結ぶと、これを「対ロシア接近」と見たイギリスは軍隊を侵入させます。第一次アフガニスタン・イギリス戦争です。

 カブールは陥落し、国王は降伏するのですが、異教徒の支配を許さないアフガン人のゲリラ戦は続き、結局、16000人のイギリス軍は全滅しました。

 そのような歴史からすれば、イスラムの敗北はない、というのが私の予想だったのですが、5年後のいま、その予想は的中しました。アフガンで、さしてイラクで戦乱は泥沼化する一方です。

 5年前の記事は「アーカイヴズ」に近日中にアップする予定です。

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遙かなるアフガニスタン──大宗教が興隆衰亡する文明の十字路 [イスラム]

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遙かなるアフガニスタン──大宗教が興隆衰亡する文明の十字路
(シリーズ「ひとは何を信じてきたか」23)
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 20年以上も戦乱のさなかにあり、さらにここ数年は「20世紀最悪」ともいわれる旱魃に苦しめられてきたアフガニスタンが、昨年(2001)10月以降、連日、「国際社会」からの凄まじい武力攻撃にさらされてきました。

 いうまでもなく、数千人に及ぶ犠牲者をもたらした痛ましいアメリカでの同時多発テロ事件の首謀者とされるオサマ・ビンラディンとそのテロ組織アル・カイダ、そして彼らをかくまっている同国のタリバン政権を標的とする、米英軍などの激しい「報復」です。

 ふり返ってみれば、アフガニスタンは、『西遊記』のモデルとして馴染みの深い唐の仏僧玄奘(げんじょう)三蔵が滞在し、仏教を学んだこともある、東西文明を結ぶシルクロードの要衝で、古来、多くの日本人の旅情を誘ってきました。

 そのアフガニスタンを拠点とし、「国際社会」を敵にまわした憎むべきテロ事件はなぜ起きたのでしょうか。何がこの国を、「目には目を」の世界的規模の反テロ戦争の舞台に仕立て上げたのでしょうか。あらためてアフガニスタンという国の歴史を考えてみたいと思います。

▢繰り返された民族の移動と侵入
▢異文明が出会い、ときには融合

 アフガニスタンは、「世界の屋根」パミール高原の西南に位置しています。北側は旧ソ連の中央アジア諸国と国境を接し、東と南側はパキスタン、西側はイランにとり囲まれた内陸国です。ワハン回廊によって、一部ですが、中国とも接しています。日本にとってはアフガニスタンは遠い国ですが、中国にとっては直接的な利害関係を持つ隣国なのです。

 面積は約65万平方キロ、日本の1.7倍です。首都カブールは東京、大阪とほぼ同緯度ですが、標高は1800メートルもあります。中央部を東西に走るヒンズークシ山脈は「インド人殺しの山」という意味で、平均海抜5000メートルの大雪山が続きます。

 山岳地帯は国土の4分の3を占めます。内陸性気候で、冬は凍てつく高原地帯もあれば、夏には気温四十度を超える砂漠もあります。降雨に恵まれた森林地帯も、わずかですがあります。

 人口は約2600百万人(2000年)。といっても正確な数字は分かりません。戸籍というものがないらしいのです。人種的にはパシュトン人(アフガン人)が半数以上を占め、その他、タジク人、ウズベク人、モンゴル系のハザラ人と続きます。

 言語はパシュトン語、ダリ語(ペルシャ語)が使用されます。しかし識字率は3割とか。

 宗教的には国民の99%がイスラムで、ハザラ人以外はスンニー派に属します。シーア派を「国教」とするお隣のイランとは異なります。

 主食は小麦ですが、米も食べます。20数年前、日本政府が無償援助で稲作開発センター建設計画を進めたことがありました。一人当たり国内総生産(GDP)は日本の100分の1に及びません。平均寿命は45歳。

 この地には古い歴史があります。そして、東西両文明をつなぐ交差点に位置する地理的条件から、有史以来、民族の移動と侵入、征服をたびたび経験してきました。同時にそれは宗教興亡史でもあります。

 遊牧の民のアーリア人が旧ソ連との国境でもあるオクスス川を越え、いまのアフガン北部に定住したのは4000年前のことといわれます。アフラ・マズダを最高神と仰ぐゾロアスター教は紀元前7世紀にこの地で生まれ、いまのアフガニスタンとイランに広まりました。

 アレクサンダー大王の軍隊がマケドニアから侵入したのは前332年。ギリシャ、エジプト、アジアにまたがる大帝国を築いた大王の侵攻は、ゾロアスター教の滅亡を招きました。

 代わって広まったのが仏教です。インドで生まれた仏教は偶像崇拝を否定したはずですが、この地方でギリシャ文明と衝撃的に出会い、ガンダーラの仏像を生みました。私たちに馴染みの深い大乗仏教が生まれたのもここです。

 仏教の一大中心地バーミアンには、かつては金色に輝く石仏がありました。高さ55メートル。世界最大。シルクロードの終着駅、奈良の大仏の約4倍の大きさです。2世紀に創立された仏教大学には玄奘が一時、滞在したといいます。のちにシルクロードを旅したマルコ・ポーロは、数十の伽藍、数千人の僧侶がいたと記録しています。

 世界遺産指定の石仏は今年2月、タリバンによって完全に破壊されました。しかし、最初の破壊者は彼らではありません。

 8世紀になり、イスラムを信仰するアラブ人が侵入し、アフガン人は新しい宗教に改宗します。

 イスラム文化の大輪が花開くのですが、13世紀に今度はモンゴルの侵入を受けます。ジンギスカンの20万の大軍はバーミアン渓谷で殺戮と破壊と略奪のかぎりを尽くしました。「アジアの庭園」と称された沃地は砂漠と化し、虐殺の町「ゴルゴリの丘」はいまも土色の廃墟のままです。

 異なる民族と文明が出会い、ときに融合し、ときには激しく衝突する。それがアフガニスタンなのです。
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▢強国の狭間で困難な国家経営
▢露・英と戦った日本に親近感

 今年10月下旬、ローマ法王は中国政府に対して、19世紀の植民地主義的布教の誤りを認めて謝罪し、関係改善を呼びかけましたが、同じ19世紀、アジア諸地域がヨーロッパ列強の侵略にさらされていたころ、アフガンも例外ではありませんでした。

 近代アフガニスタンの建国は1747年。ペルシャによる支配の間隙を縫って部族連合の長として立ち上がり、アフガン建国の父となったのが、アフマド・シャーです。しかし国家は統一されたものの、その後の歴史も平坦ではありません。王朝も、強国の都合で、目まぐるしく交替しました。

 最初はインドを支配するイギリスの攻勢です。次第に南下するロシアを牽制するため、イギリスは緩衝地帯としてのアフガンを必要としていました。圧迫を受けて、1818年、サドザイ朝が倒れます。カシミール、パンジャーブなどの領地が失われました。

 アフガニスタンは英露両国の狭間で、困難な国家運営を迫られました。ところが、ドスト・モハマッド・ハーン国王はロシアと友好条約を結びます。これを「ロシア接近」とみたイギリスは、38年、軍隊を侵入させました。第一次アフガニスタン・イギリス戦争です。

 カブールは陥落し、国王は降伏しますが、異教徒の支配を許さないアフガン人のゲリラ戦は続き、結局、16,000のイギリス軍は全滅します。

 19世紀末、いよいよロシアが南下政策を強めて軍事顧問団をむりやり送り込んできました。アフガンを手中に収め、インド洋に面したバルチスタン(いまはパキスタン領)に軍港をおくことが狙いでした。当然、イギリスが対抗して軍事顧問団をカブールに派遣します。国王は拒否するのですが、イギリスは強引にアフガンを保護国とします。

 インド(いまはパキスタン領)との国境はこのとき画定されます。パシュトン人の居住地域を二分し、中央アジアとインド世界とを隔てるカイバル峠を「インド領」とする不合理な国境は、「ザ・グレート・ゲーム」と呼ばれるイギリスとロシアの確執の結果です。ただ、遊牧民たちは昔も今もパスポートすら持たずに、羊を追って、公然と往来するそうです。

 20世紀初頭、アジアの新興国日本がヨーロッパの大国ロシアを敗った日露戦争は、この地にも大きな影響を与えました。ロシアはアフガン介入をあきらめ、イギリスは対露対抗姿勢をうち切りました。アフガン人は親日的といいますが、最大の理由はここにあるようです。アフガン人は、日本がイギリスと戦争したことも、ヒロシマ・ナガサキも知っています。

 第二次大戦中は中立を守ったアフガンですが、戦後の冷戦時代になると米ソの対立構造に翻弄されます。援助合戦を繰り返す両国。王族宰相の時代が幕を閉じると政権は不安定化し、1973年のクーデターでザヒル・シャー国王が退位します。政変の背後にはソ連がいました。78年にはふたたびクーデター、翌年、ソ連軍が侵攻します。

▢テロリストを育てた海外勢力
▢容疑者にアフガン人はいない

 89年にソ連軍が撤退し、共産政権に代わってイスラム連立政権が樹立しますが、ムジャヘディン政権内部で内戦が勃発して混乱は逆に激化します。民族や宗教宗派の異なる各派の対立を、周辺諸国が煽ったのです。

 混乱のなかから台頭したのがタリバンです。タリバンとは「学生たち」という意味です。パキスタンの難民キャンプで育ったアフガンの若者たちは、キャンプ周辺のイスラムの宗教学校に通い、戦士に鍛え上げられました。彼らの悲願は祖国の内戦終結と正義の回復です。

 戦争に倦み疲れたアフガン国民は彼らに期待しました。96年、タリバンが政権を掌握します。背後にはむろんパキスタンの影がちらつきます。

 イスラム法に基づく犯罪取り締まりの強化で、治安は回復しました。タリバンは純粋なイスラム国家の建設をめざしました。

 厳格な宗教政策をとるタリバンを、アメリカは当初、黙認しました。けれども、オサマ・ビンラディンの亡命、対米テロの激化で、関係は険悪化します。

 ビンラディンはサウジの富豪の息子で、中東諸国の多くの若者と同様、ソ連との「聖戦」に馳せ参じました。サウジやパキスタンが推進する「イスラム同胞を救え」というキャンペーンの背後には、アメリカがいました。この時点ではアメリカは敵ではなかったのです。

 しかし湾岸戦争で状況は変わります。対イラク戦をめぐり、ビンラディンはサウジ王室と対立しました。アフガン帰りの兵士を率いてイラク軍と戦うことを持ちかけましたが、王室は拒否し、代わりに異教徒アメリカの軍隊を国内に駐留させました。ビンラディンは王室およびアメリカと敵対し、その後は国際的なネットワークを使い、「真のイスラム国家」建設に動き出します。

 母国を追われ、やがてアフガンに身を寄せたビンラディンは、アメリカに対して宣戦を布告します。93年にはニューヨークの世界貿易センタービルで、98年にはケニア、タンザニアのアメリカ大使館で爆弾テロが発生しました。

 翌年、国連はアフガニスタンに対する経済制裁を決議します。「容疑者」ビンラディンの引き渡しが要求されますが、タリバンは拒否しました。侵略者ソ連と戦った恩人であり、客をもてなすというイスラムの伝統を重視するからです。昨年末、タリバンは国連を追放されました。

 そして今年九月、アメリカで同時多発テロが起こり、翌月、報復のアフガン空爆が始まりました。しかしアメリカFBIが公表した容疑者19人にアフガン人は一人もいません。12人までがサウジ国籍です。対米テロの本丸はアフガンではありません。けれども、米英軍の攻撃は激しさを増しました。

 12月上旬現在、戦闘は最終局面に入ったといわれますが、ビンラディンそしてタリバンは米英軍の前に膝を屈するでしょうか。コーランにはこう書かれています。「神を持たぬ異端者にムスリムを支配する権利はない」。いわゆる聖戦に敗北はあり得ません。とすれば、「イスラム勝利の日」まで戦いは、残念ながら、いかなる形であれ、続くのではないでしょうか。


追伸 この記事は宗教専門紙「神社新報」平成13年11月10日号に掲載された拙文「遙かなるアフガニスタン」に若干の修正を加えたものです。モスク5

 執筆に当たっては、M・H・カリミ『危険の道』、P・ホップカーク『ザ・グレート・ゲーム』、A・ラシッド『タリバン』、田中宇『タリバン』などを参考にさせていただきました。謹んでお礼を申し上げます。

 それにしても、いまアフガンはどのような状況なのでしょうか。首都カブールなどは戦闘が終わり、平和が戻った、というような報道もありますが、ほんとうにそうなのでしょうか。

 昨年(2001)11月の段階でのことですが、アフガン国内での医療活動で15年以上の実績をもつ日本のNGOペシャワール会によると、惨状は聞きしにまさるようでした。

 すでに20年以上も続いている戦争で300万人を超える人々が犠牲になったといわれますが、人々を苦しめているのは戦争ばかりではないからです。先進国ではほとんど知られていないことですが、この3年間は「20世紀最悪」ともいわれる大干ばつが苦況に拍車をかけています。

 中央アジア周辺諸国を広範囲に襲った旱魃ですが、なかでもアフガンは最悪で、被災者は1200万人。国民の半数が被害を受けたのです。地球の温暖化で、ヒンズークシ山脈に降る雪の量が近年、目立って減っています。当然、雪解け水が激減し、地下水の水位は下がり、井戸は枯れ、川は干上がりました。耕地は砂漠化し、昨年は収穫が例年の半分にまで落ち込んだのです。

 昨年6月時点で、世界保健機関(WHO)は、400万人が飢餓に直面し、100万人が飢餓線上にあると発表しました。農民や遊牧民は村を捨て、都市に流れ込んでいます。その数は100万人。主要都市は町全体が難民収容所と化しました。

 そこへ今度のテロ戦争が起きたのです。

 ペシャワール会代表・中村哲氏によると、意外なのは、ジャララバードなど大都市の平静さだそうです。事情を知らないのではありません。人々はイギリス・BBCラジオのバシュトン語放送で、世界情勢を正確に把握しているそうです。

 国連機関や各国団体はタリバン政権の崩壊を前提とし、数百万人規模の大量の難民発生をまるで期待するかのような態度でしたが、パキスタン国境へ逃れてくる人の数は案外、多くはありませんでした。

 国境が閉鎖されたからではありません。国外へ脱出するのは、パキスタンなどに親類縁者がいて、食いつなげる見通しのある富裕層であって、なかには戦況を眺めながらカブールとペシャワールとを行き来するものもいるのだそうです。もともとペシャワールはバシュトン人の都なのですから、何の不思議もありません。

 他方、行き場のない貧農や遊牧民は国内に取り残されているそうです。難民にすらなれない人々の生活は逼迫するばかりで、大規模な飢餓発生の可能性すら指摘されています。それでも動こうとしないのです。

 国連機関などの推計では、750万人が飢餓線上にあります。問題はこの冬です。

 ペシャワール会では、「アフガンでは250円の薬が買えずに人々が死んでいく。2000円もあれば、10人家族を1カ月、支えることができる。水と食糧が足りない」と緊急支援を呼びかけています。

 ペシャワール会からの最新情報によれば、いまカブールでは子供たちの間でも軍服ファッションが流行しているそうです。女性たちがブルカを脱ぎ、街は解放感に包まれている、という報道が流れていますが、これも実際は一部富裕層に限られた現象のようです。

 ボクが注目するのは、「雪が降らない」ことです。「例年になく暖かくしのぎやすい」のは避難民にとっては好ましいことでしょうが、今年もまた深刻な水不足が予想されます。(平成14.1.28)
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