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「日帝支配のシンボル」朝鮮神宮本殿を飾った「朝鮮産麻布」──「日韓融和」への見果てぬ夢 [朝鮮神宮]

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「日帝支配のシンボル」朝鮮神宮本殿を飾った「朝鮮産麻布」
 ──「日韓融和」への見果てぬ夢
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■知られざる内務省技師「井上清」

 明治から大正・昭和にかけて、内地および海外の神社の造営・調度・神宝調進に深く関わり、民族宗教の伝統を復活させただけでなく、海外の文化を学んで、新しい日本の美を追求した、ひとりの知られざる人物がいます。内務省造神宮使庁技師、明治神宮造営局技師、宮内省嘱託などを歴任した井上清という人です。

 明治7年に生まれ、同31年に東京美術学校(現東京芸術大学)図案課を卒業した第一期生で、非常に敬虔な学究肌の人でした。全国の古社・名社の御造営に関与するに当たっては、実測調査を綿密・克明に実施し、古記録・古図などを照合し、往古からの形式を次々に復元した、と伝えられています。

 日本の民族信仰の本質と直結する殿内調度の設計や文様図案作製に関する、井上氏の人並みはずれた尽力がなければ、盛儀をきわめた昭和4年の伊勢神宮の御遷宮は完遂されなかっただろうといわれ、そればかりではなく、昭和14年に亡くなったのちも、神宮の御神宝調進は井上氏の業績がそのまま踏襲されているそうです。

 それほどの人物でありながら、井上氏の名前は今日、ほとんど完全に忘れられているようです。歴史に埋もれてしまったのです。神社関係の人名辞典にすら、名前を見いだすことはできません。ボクが井上氏の名前を知ったのは、ある学究的な若い神社関係者によってでした。

 その友人が教えてくれたことですが、井上氏が手がけた代表的な仕事のひとつに、大正時代に創建された官幣大社・朝鮮神宮の御料・御調度があります。なかでも注目されるのは、神秘中の神秘である本殿の御壁代(おんかべしろ)に、たいへん珍しいことに、朝鮮苧麻(ちょうせんちょま)が使用されていたという点です。


■朝鮮を代表する織物「苧麻」

 朝鮮神宮05 井上氏の名前と功績を知る人が皆無に近いなかで、今日、その人柄の断片を語れるほとんど唯一の人がいると、友人に紹介されて、ある人物を訪ねました。大学講師などを務める、有職故実(ゆうそくこじつ)にとりわけ詳しい方で、父君というのが、井上氏の無二の親友であったとのことでした。

「父は美術学校の後輩で、20歳も離れていたが、二人は意気投合し、父は何かにつけて『井上さん、井上さん』といっていました」

 いかにも温厚そうなその方が、懐かしそうに語られるのですが、ご自身は井上氏についての記憶はありません。井上氏が亡くなったのが60年前、この方が幼少のころですから、無理もありません。

 井上氏が残した貴重な資料に、「朝鮮神宮御料御調度裂鑑(きれかがみ)」という裂帳があることが分かりました。

「御鏡入帷 白唐織(唐綾)小華紋 御剣袋 紅地唐織唐花紋錦(紅地唐花紋唐錦)」から始まって、天照大神と明治天皇が鎮まる朝鮮神宮の本殿に使用された数十項目の御料・御調度について、織りや色、文様の名称とともに、優美にして高雅な見本がちょうどアルバムのようにつづらています。

 きちんと整理された裂帳からは井上氏の几帳面な人柄が伝わってくるようですが、そのなかで否が応でも目を引くのは「御壁代 朝鮮産麻布」です。何といっても「朝鮮」の二文字が好奇心をそそります。

 一般に壁代というのは、神様が鎮まる本殿の内側の壁すべてを、カーテンのように覆いめぐらす布です。神聖な場所であることを表す目的から懸けられ、ふつうは清浄を示すために純白の平絹などを縦に縫い合わせて用いるのだそうですが、朝鮮神宮の場合は絹ではなく、わざわざ朝鮮産の麻布が使用されたということです。

「裂鑑」には「朝鮮産麻布」とありますが、正確には「朝鮮苧麻」だそうです。苧麻は、百科事典などによると、イラクサ科多年草の茎の皮の繊維でつくった朝鮮を代表する織物、と説明されています。

 別の友人に、韓国の著名企業にしばらく勤務したこともある韓国通のイベント・プロデューサーがいます。その友人が「うちのお母さん」と心から親しんで呼ぶ韓国宮廷料理研究の第一人者は、夏場はきまって苧麻のチマチョゴリを着るそうです。

「色は白で、日本の絽や紗のように、いかにも涼しげな、清楚な感じがする。年月がたつと少しクリーム色に変わって、それがまた優雅な印象を与える。手織りだから、いまは高級品で、最高のおしゃれ着です」

 その苧麻がなぜ、朝鮮神宮の本殿壁代に用いられることになったのでしょう。あくまで見本帖である「裂鑑」には、当然ながら何の説明もありません。

 手がかりになりそうな井上氏の論考や記録はないだろうかと、図書館などでだいぶ探し回りましたが、見当たりません。戦災で資料が失われたということもあるそうですが、美術的価値に優れた膨大な業績とは裏腹に、井上氏は自分の名前を冠した文章をほとんど残さなかったようです。人一倍崇敬心の厚い人だっただけに、凡夫たる人間の名を後世に残すことをはばかったのかも知れません。


■「朝鮮全土の総鎮守」に使用した理由

 なぜ朝鮮神宮の壁代に苧麻が用いられたのか──この大学講師に素朴な疑問をぶつけてみました。すると、こんな答えが返ってきました。

「海外神社の殿内調度に土地の織物を使うというようなことはあまり聞いたことがありませんね。台湾神宮などはどうだったのでしょうか。ただ、絹が最高の織物と考えられがちですが、優れた麻は絹に代わって使うだけの十分な価値があることは確かです。装束の世界でも、少しでも神に近づき、神代の時代に近づくために、より古い時代の織物として麻を用いることはよくあります。土地柄を考えて、もっとも相応しい材質として選択されたのではないですか」

 絹か麻か、ということについては、井上氏自身が、わずかに残された講演録のなかで、こう語っています。

「御社殿の装飾はただただ有職故実にかなっていても、形・色・模様がよろしきを得なければ、御社殿の荘厳なる品格を保つことはできない。ただただ調和を得た御社殿の荘厳味によって神々しさを感じ、御神徳に打たれるという次第です。御社殿の装飾は必ずしも使用する材料が上等でなければならないというのでなく、充分故実をただした上に、色とか文様とか形質の調和をはかることがいちばん大切です。たとえば御壁代でも、白であれば、絹でなくとも麻でよいという風であります」(「神社有職」)

 ふつうなら絹を用いるところを、絹ではなく麻を、とくに「朝鮮産麻布」を使用するだけの意味合いを、設計者はやはり考えていたということになります。

 それなら、絹に代わるものとして麻を用いたとしても、なぜ朝鮮伝統の苧麻を、朝鮮神宮の、拝殿その他ではなく、神秘中の神秘である本殿に、とくにほかならぬ御壁代に、使用することになったのか、その狙いはどこにあったのでしょうか。

 朝鮮半島ゆかりの祭神をまつる村の鎮守ならまだしもです。しかし朝鮮神宮はそうではなく、朝鮮全土の総鎮守であり、朝鮮半島唯一の官幣大社、勅祭社です。祀られる祭神は天照大神と明治天皇の二柱です。基本的に伝統重視の井上氏が手がけた仕事だとすれば、よくよく考えた末のことであり、祭祀の本質と関わる本殿内部のことであれば、それ相当の意味というものがあったに違いありません。

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■朝鮮神宮創建の目的

 そもそも朝鮮神宮というのは、なぜ創建されたのでしょうか。

 今年(平成13年)、日本と周辺諸国とりわけ韓国との間で歴史教科書問題が沸騰しました。「歴史の歪曲」「隠蔽」という厳しい批判をぶつけてきた韓国政府は、「日帝」による「植民地支配」は「搾取」「侵略」であるという公式的な歴史理解をもっています。

 現代の韓国人にとって、日本統治時代は完全否定すべき忌まわしい歴史と映るようです。韓国の中学用国定歴史教科書には、「日帝はわれわれの物的・人的資源を略奪する一方、わが民族と民族文化を抹殺する政策を実施した」と有無をいわせない記述がされています。

 朝鮮神宮こそは、まさにそうした「力ずくの支配」のシンボルと考えられているわけですが、もともと異民族に対する「支配の道具」として建設されたのかといえば、そうではありません。むしろ逆でした。

 少し近代史をさかのぼってみましょう。意外に知られていないことですが、朝鮮神宮の創立は神社関係者の組織的働きかけに始まります。しかし、神社関係者が海外に目を向けるようになるのはかなりのちのことであり、仏教やキリスト教に比べると、海外への関心はむしろ低かったようです。

 そのことは国学者としても知られる、石川県・気多神社の佐伯有義宮司の雑誌論文に端的に現れています。

 日露戦争のさなか、奉天占領の直後、明治38年4月に発行された、神社界の広報誌「全国神職会報」に、佐伯氏は論考を寄せ、こう嘆いています。

「居留民が増加し、韓国・満州には日本町が出現しているのに、氏神の神社さえない。拠り所としての神社が必要だ。神社建設はまた『皇化』『同化』の一方法として効果が期待できるが、誰一人これを唱え、実行する人がいない。浄土真宗やキリスト教は海外布教に熱心だが、神道人は退嬰的で、内地でだけあくせくし、海外に目を向けない。海外の同胞をことごとく仏教やキリスト教に改宗させたいのか」(「海外に於ける神社の新設」)

 明治後期になっても、神社が「大陸侵略」の先兵となるような状況ではまるでなかったことが分かります。

 九州地方の神社人などが主導的役割を担って、「韓国の神社」創建に動き出すのは、そのあとのことでした。

 記録によれば、明治39年、朝鮮半島に地理的に近い九州各県と山口県の神職約百名が集まり、関西(かんぜい)神職連合会が結成されます。会議では「韓国に神社を建設し、日本国民的教化の基礎を確立せられんことを韓国統監府に建白し、なおその成功を期すること」が議案の柱となり、可決されました。

 このとき九州日報社長の福本誠(福本日南)氏は、イギリスの歴史家シーレーの『英国拡大論』を引き、植民には自由を尊ぶギリシャ流と国家の力で属国化するローマ流があるが、後者は一時的に大植民地を築いても、いずれは植民地の衰亡と離反を招き、失敗する。属国化ではなく、母国と子国とを一体化させる前者が繁栄の道であり、それが「惟神の大道」にほかならない。日韓は兄弟国であり、韓国に神社が奉斎されることは喜びの極みである──と講演しています。

 当時の神社関係者にとって、韓国での神社創建は、「搾取」「侵略」とはまるで逆の目的があったのです。

 ともかくも神社関係者の組織的活動がこうして始まります。伊藤博文・初代韓国統監に直接、働きかけもおこなわれましたが、主張された目的はやはり「日韓融和」でした。西高辻信稚・太宰府神社宮司、木庭保久・筥崎宮宮司とともに、関西神職連合会の代表として伊藤統監に面会した筥崎宮禰宜の葦津耕次郎氏は次のように語っているくらいです。

「陛下の思召しである日韓両民族の融合親和のため、命がけで働いていただきたい。そのため朝鮮二千万民族のあらゆる祖神を合祀する神社を建立し、あなたが祭主となって敬神崇祖の大道を教えられねばならない。これが明治大帝の大御心である」(『葦津耕次郎追想録』)

 耕次郎氏は、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦氏の実父です。(葦津珍彦氏は生涯、朝鮮・韓国に深い関心を抱いた人で、先の大戦末期には朝鮮独立運動家・呂運亨とも交わり、朝鮮独立を支援しました。その関わりについては、雑誌「正論」平成11年4月号に掲載された「朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡」をお読みください。このWebサイトにも転載されています。http://www13.u-page.so-net.ne.jp/xj8/saitohsy/chousen-dokuritsu1.html


■祭神論争に駆り立てられた神道人の思い

 大正8年7月に官幣大社・朝鮮神宮の創立が仰出され、京城・南山の御用地20万坪、境内地7000坪に、総工費150万円、6年の歳月をかけて建設工事が進められた朝鮮神宮が竣成するのは、大正14年10月のことでした。

 いわゆる御祭神論争が沸騰するのは、この年の春からです。

 近代神道史を少しでもかじったことのある人たちには常識ですが、日本政府が天照大神と明治天皇の二柱を御祭神と決定していたのに対して、今泉定介、葦津耕次郎、賀茂百樹、肥田景之氏ら神社関係者が朝鮮民族の祖神を祀るべきだと強く主張し、両者間に激論が交わされました。神社関係者を強硬な反対行動に駆り立てたのは、日韓融和への熱い思いでした。

 けれども、神社関係者の要求は通りませんでした。とすれば、「明治大帝の思召し」として願われた日韓融和は、日本政府の強権によって押し切られ、潰え去ったということでしょうか。神道人の願いとは相反し、日本政府による朝鮮神宮創建の目的は、あくまで「力ずくの朝鮮支配」だったということでしょうか。

 しかし、そうだとすれば、「朝鮮産麻布」が本殿御壁代に用いられたということの説明がつきません。朝鮮神宮創建は国家事業であり、現場の技師たちが勝手な判断で苧麻を用いることはできません。したがって苧麻の使用は日本政府も認めていたことになります。もし「支配の道具」としての朝鮮神宮創建なら、本殿の装飾に「朝鮮産麻布」をわざわざ使うでしょうか。

 その後、戦時体制が強化されていく時代の推移を考えると、そのことはもっとはっきりします。神社建築の権威で、戦中・戦後にかけて、内務省技師、日本建築工芸社長、伊勢神宮造営局長を務めた角南隆(すなみ・たかし)氏は、こう回想しています。

「総督政策や軍部の盛んなころは、どの土地にあっても、神社はすべて純粋な日本神社建築でなければならないとされた。材料は檜材で、屋根は檜皮葺、神明造という注文が最初からつけられ、すべてにおいて日本風であることが強要された。支配者の立場からすれば、絶対服従の方針は簡単だが、支配される側からすれば、敵愾心を起こさせおそれがある。しかしそれをいえば、関係者から『君の意見は朝鮮独立を慫慂(しょうよう)している』と反対された」(「海外神社建築の総合的批判」=小笠原省三編『海外神社史』上巻)

 朝鮮神宮の創建が帝国議会で議論されていた大正8年といえば、朝鮮では三・一独立運動が起こり、大韓民国臨時政府が上海に樹立されたころです。

 日本の為政者たちに、抵抗を弾圧し、「支配」を強化する道具としての神社創建という発想があったとすれば、たとい境内の片隅や拝殿であっても、「朝鮮産麻布」使用を計画することは、「朝鮮人への迎合」「朝鮮独立の慫慂」と批判されたはずで、むろん内務省が容認するはずもありません。

 しかし実際は、祭祀の根元である朝鮮神宮本殿に苧麻が使用されたのです。

 苧麻の使用を認めていたのは、内務省だけではありません。昭和2年に朝鮮総督府が刊行した『朝鮮神宮造営誌』には、「正殿御壁代、同御土代および各辛櫃荷緒用麻布にはとくに忠清南道産を使用せり」と明記されています。朝鮮総督府も苧麻の使用を公認していたのです。

 これらの事実は、「日帝支配」を「搾取」「侵略」とし、その道具として各地に神社が建てられたとする、韓国国定教科書的な歴史理解の変更を迫っているのではありませんか。

 朝鮮産麻布に飾られた朝鮮神宮本殿の壁代は、かつて日韓の融和を心から願い、真摯に祈り、本気で追求した先人がいたことの証だとボクは思います。「歴史」をめぐって日韓が揺れているいま、ボクたちはそうした先人たちにあらためて思いを馳せるべきではないでしょうか。歴史を見誤っているのは誰なのでしょうか。


追伸 この記事は雑誌「日本」平成13年11月号(日本学協会)に掲載された拙文を大幅に編集したものです。

 画像は大正15年に朝鮮神宮社務所から発行された『朝鮮神宮写真帳』から転載させていただきました。

 執筆に当たっては、日本学術会議特別研究員・菅浩二氏の研究を参照したほか、多くの方々のご協力と助言を賜りました。この場をお借りして、あつくお礼を申し上げます。
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