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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第7回 祭神の決定とは [靖國神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第7回 祭神の決定とは
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[1]「A級戦犯」合祀表面化後の混乱

 靖国神社が東京裁判の刑死者や拘禁中に死亡した英霊などを合祀したことが判明すると、日本の国内はあげてそれを批判する空気に塗りつぶされたような雰囲気になった。

 私も靖国神社に対して、いったん合祀は先延ばしする結論を出しておきながら、それを決定した委員にも説明なく、国民にも知らせずに合祀した神社の運営姿勢には強い抗議をした。だが、それは新しく祀られた祭神の適否の評価に関しての抗議ではなく、神社を運営する基本姿勢に関する問題だった。

 靖国神社は戦後、宗教法人として登記している。宗教法人には信教の自由があり、祭神にだれを選ぶのも法的には自由である。合祀は、この観点で見るかぎり、問題はない。

 だが、靖国神社は日本国の戦没英霊に対する強い哀悼の思いが創建のきっかけになり、明治天皇の深い御心が靖国神社という名前になった施設である。敗戦までは、国のもっとも神聖な祈りの場として大切にされてきた施設である。

 占領軍が日本に進駐し、日本国の自由が奪われていた時期に、靖国神社は国の所轄から切断されて廃絶の危機にさらされた。それを、独立を回復したら、ふたたび日本の聖なる国民統合の祈りの場にしよう、と引き受けて維持してきたのが、靖国神社関係者ではないのだろうか?


[2]留守番役の勇み足

 靖国神社の関係者はそんな願いをもった、国という主人がいない間の国民を代表する留守居役のはずであった。

 だが、その間の基本方針であった「国が維持管理してきた基本方針をそのまま変えずに継承し、いつでも国に返すことができるようにして維持する」という方針が、国が正式に祭神と決定していない霊を祭神に加えることにより、脱線してしまった。これこそが問題なのではないだろうか?

 従来の国の祭神概念内の祭神なら、国家管理の最終時期に、神社はとくに大招魂祭を開いて、新たにお名前を付け加えても、国の方針とは離れないことをご祭神にもはっきり示している。だが、昭和20(1945)年11月の祭典実施の時点で、その後に起きたA級戦犯死刑への指針は、含まれていなかった。

 新しく追加した御霊たちを祭神として合祀を決めたのは、国の意思ではなく、靖国神社の意思だと言わざるを得ない。祭神決定権はあくまでも国になければ、靖国神社の百年を超す伝統は崩れてしまう。関係者が、個人的には祭神に加えたいと思っても、それを加えていたら、国の代わりに神社を預かっている筋が壊れる。


[3]東京裁判は報復

 一般のマスコミなどの靖国神社への批判の合唱は、私の指摘とはまったく異質だった。それは東京裁判で有罪とされた戦争指導者を祭神に加えたのは、近隣の中国や韓国などとの摩擦を深め、神社の軍国主義的思想体質を露骨に示している、との主張である。

 これとは逆に、合祀を支持する側からは、東京裁判は戦勝国の国際法を蹂躙(じゅうりん)した犯罪的報復行為で、彼らはその犠牲者だ。現に日本の指導者を処刑した連合国側からも、この裁判の無効性は指摘されており、日本国も裁判を犯罪行為として認めないことをはっきり定めている、という反論がなされた。

 すべてではないが、私も東京裁判にはこれに近い意見も持っている。私は東京裁判を連合国の戦時における禁止行為も、法の定める基本条件もまったく無視した違法行為をもとにした報復以外の何ものでもない、と判断している。

 日本の指導者たちが日本を誤った道に導いて、天皇陛下や日本国民、日本の国に多大な損失を招いた責任があるとすれば、それは日本国が処理しなければならない種類の問題だ。戦後の日本はそれもせず、ただあいまいに占領政治を引き継いで、日本を迷走するままにまかせてきた。

 独立国なら独立国らしく、占領政治を総括し、否定された日本の持つ美点はふたたび復活させ、汚点は矯正(きょうせい)して、占領時代の殻(から)を破って、再スタートしなければならない。こんなだらしなさでは碌(ろく)な日本は回復されない。

 ただ、靖国神社は国の聖なる祭祀の場、顕彰の場として復活させるべき施設である。その祭神を決定するのは、軍がない今では、国民の総意に基づく国の判断であるべきだ、と考える点で、私は合祀擁護者とは違っている。


[4]一般神社と異なる近代施設

 祭神からこれらの霊を取り下げよ、との圧力に対して、靖国神社を支持する立場から、神社界などが、それは無理だ、との意見を出しているのが注目される。神社とは、合祀はできるが、その祀られた祭神から特定の神を選び出し、除去することができない、という説である。

 私も神社人の一人で、長い間、神社界で仕事をさせていただいた男である。神道神学を論ずる人がそのような説を発表されるのなら、神社ではそうなのであろうと思う。その方面には何の見識もない私が、あえて反対することは何もない。神社なら、伝統的な神社としての道をしっかり守り続けていかなければならないと思う。

 ただ忘れてはいけないことは、靖国神社はその創立からも歴史からも、神社によく似た面はあるが、全国の神社とは別のもの、明治時代に日本国が作った近代国家の施設だということである。

 靖国神社は、それまで日本各地に長い歴史を重ねて存在し、国民の祈りの場として国民生活に大きな影響力を行使してきた神社を参考に作られた。しかし一般の神社とは違って、国家が英霊を定め祀り、神社(かりにこの名を使わせてもらう)は国が定めた英霊に対し、慰霊と顕彰を行う祭儀を行ってきた。それは近代国家の英霊に対する追悼施設なのだ。その違いは、機能を細かく見ればはっきりとしている。

 終戦まで、じつは全国の神社も国の機関とされ、国の規制も加えられ、神社関係者も政治活動などは禁止されていた。いわゆる「国家神道体制」である。

 だがそんな時代でも、全国の神社は神道という、いまの概念からみれば宗教的な活動をする余地は残されていたし、国の意思ではなく、神社関係者の意志で行事をしたり、活動する余地も残されていた。しかし靖国神社は、同じ国の施設でも、全国の神社とは独立して祭神までを国が定めて、国の意思で維持管理がされる、特別の組織としての歴史をたどってきた。


[5]まずは国の管理にもどす

 そんな質も組織も機構も違う日本の近代国家への前進とともに、その必要から設けられた伝統的庶民信仰とは異質の新しい組織なのである。

 それが全国の伝統的神社がそうであるからと、必ずしも神社の奉ずる神道の枠に従わねばならないものとは考えられない。日本の大事な祭祀施設なのだから、大いに神社のことは参考にしてほしいが、同じでなければならないとは考えない。

 これからも、この種の混乱は、国家護持がされるまでは、他の問題ででも起こり得るだろう。靖国神社は国から離れて、仮の姿で維持管理を始めて60年が経過している。そんな神社をどうしたらよいと思うか?

 私はいま、緊急にしなければならないのは、合祀された祭神をどうするか、ということではなく、まずは靖国神社を一刻も早く国の管理する施設に復刻し、国が以前同様に世話をして、以前同様に追悼顕彰のできる道を回復して、そのあと論議になっている宗教法人である間に、神社が新たに合祀したこの種の祭神をどう扱うか、の国による判断を固めることだと思っている。

 ここに祀るべき祭神を決める権限は国にある。

 国が新しく祀られた祭神を靖国の戦没英霊と認めるのがよいと判断したら、国によって形を整えて追認の手続きを取るべきだし、靖国神社の英霊の概念から逸脱すると判断すれば、国によってそれにふさわしい措置を講ずるべきだと思う。


[6]祭神の遷座は丁重に

 ただそれらの行為は、形だけでも宗教法人とされているいま、靖国神社を維持管理している者に命じてさせることは、これからの宗教法人への国家権力介入の前例にもなりかねないので、やるべきではない、と思う。

 それはあくまで、祭神の決定権を持っていた国が、国家護持を回復し、祭神の決定権を回復したのちに決めるべき問題である。

 ただ、その場合も忘れてはならない原則がある。

 靖国神社は国のもっとも高貴な祭祀をおこなう施設である。それは日本人の最高の礼儀、道義感に基づいて維持されるべき施設である。日本国民の礼儀正しく接しなければならない精神的柱でもあり、国のために命を落とした者を偲ぶ最高の祭りの場でもある。

 そこにいったん祀られた祭神を国の手によってお遷しする場合には、それ相応の日本人最高の礼をもって行うのが大切である。靖国神社に祀られていたとき以下とは思えないだけの「昭和殉難者慰霊施設」とでもいうようなものを設けて、丁重にお移り願い、以後もしっかりと維持していく。

 私の掲げる提案は、国が占領回復後に、すぐに神社の地位を回復していれば、必要のないものだった。それを国がせずに逃げ回っていたためにこんな論争がおこり、万一、祭神から取り下げたりするときには、負担を強いられることになってしまった。新しく生じた国の負担になるものかもしれない。しかし、一時は日本の国を指導していた国の指導者の霊の扱いを、国に代わって、60年以上もいまの靖国神社関係者にしてもらってきたなかでの事態なのだ。その程度の負担は当然国がしなければなるまい。


[7]精神的に独立していない日本

 靖国神社の国家護持の回復は、日本国が占領軍の手から独立を回復して、まず最初にしなければならぬ独立回復への象徴的任務であり義務であった。国民はそれを熱望し、国に強く働きかけてきたのたが、国が逃げ回っていて実現しなかった。

 実現を阻んだ大きな壁は、国の事務を取り扱う政務や司法などの官僚たちが、すっかり占領政策に頭を固められていて、神道指令がいまだに生きているかのごとく対応し、また選挙で選ばれた国会議員たちも意欲が乏しく、その官僚の幻の占領行政を打破する気力がなかったことであった。

 目先の自分や支持者たちのお金にならないことには手をつけない、こんな戦後の政治家たちの姿勢が、ここまで日本をおかしくしてしまった。いまの社会が抱えて苦しんでいる日本国内の犯罪の増加、非常識者や傍若無人(ぼうじゃくぶじん)なわがままの横行も、煎じ詰めれば、日本の伝統的な社会意識や公徳心を「封建的」の一語によって追放しようとした占領政治のままに、日本の国が精神的に独立を回復し切っていないところに原因がある、と私は思っている。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。

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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第4回 靖国神社とその歴史 [靖國神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第4回 靖国神社とその歴史
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[1]一般の神社とは別の施設として

 靖国神社には、国の命令により従軍して散った二百数十万柱の英霊が祀(まつ)られている。政府は明治維新ののちの明治2年、戊辰戦争が終結すると、それまでに倒れた戦没者たちをまとめて祀る施設として東京招魂社を設けた。これが靖国神社の前身になった。

 東京招魂社は創建されると政府の軍務担当の兵部省の管轄となり、勤皇方の元兵士などを神職として採用、各地の乱や西南の役の政府軍戦没者などを相次いで合祀したが、明治12年、「別格官幣社靖国神社」と社号、社格が定まる前後から、その後の神社の性格を明確に定めた公的な特別の慰霊顕彰施設としての姿が固まってきた。

 靖国神社という名称は、国の独立を確保し平和を求めるために戦争で散華(さんげ)した人たちを悲しみ偲ばれた、時の明治天皇が、詔勅によって、特別に「靖国神社」と命名された慰霊顕彰の施設であることも忘れてはならない。

「靖国」の名には、安らかな国、争いのない穏やかな国。その実現を英霊たちに誓い、目指して行こうと切に祈られた明治天皇のお気持ち、大御心(おおみこころ)が込められている。ちなみに靖国の元になる「安らかな国」は、神社の祭詞などには「平らけく安らけき浦安の国」として必ず出てくる理想郷だ。

 争いなどの波風が立たず穏やかで、皆が安心して暮らせる平和な国、建国以来、天皇が日夜祈られてきた国の理想を指している。

 靖国神社はこのようにして、別格官幣社という、形は「神社」の中に含まれるが、実質的には祈願をする伝統的な一般神社とは別の、近代国家の施設として、新しい国の英霊追悼の施設として発足をした。管轄も、ほかの神社が、のちには内務省になる全国の神社を担当する部局からは別に切り離して、特別に、国を守る陸海軍の管轄する施設と定められた。


[2]名称と形式が神社に似る理由

 靖国神社が、名称も神社とされ、形も神社とよく似た形にされたのは、いろいろの事情はあろうが、英霊への慰霊や顕彰が国民にとっても、丁重で格式高いものと受け取られる施設にしようとの思いからだと思われる。

 国民感覚で、国の公的な祭祀で、もっとも丁重な儀式は「皇室の儀式」宮中祭祀だ。それにもっとも近いのが、天皇さまがみずから祭りをされる伊勢の神宮の祭りだ。

 その祭りを見習って、宮中での儀式の雰囲気を強く残しているのが、全国の神社である。

 とくに明治時代になってからは、日本の儀式などは、民間の個人の儀式としては各派の仏教式のものが中心的な地位を占めていたが、国や市町村など社会生活、公共の儀式は神社神道の儀式が主として取り入れられ、国礼式ともいえる形に整備され、日本人の宗教儀式の二重性がはっきりしてきていた。

 くわえて靖国神社の創建には、格別に強い陛下の「御心」が示されていた。

 宮中の儀式にもっとも近い神社神道の儀式の形を基本にし、国の守りをつかさどる軍の所轄する顕彰の施設であるから、近代的な軍の儀仗という、儀礼方式をも加味して靖国神社を維持する。

 それがもっともふさわしい靖国神社の管理方式であると考えた。私はそのように受け取っている。


[3]皇室が深く心を寄せられ

 皇室の祭儀方式を土台にした神道儀式で、しかもそれに戦没英霊たちがよく知る軍として栄誉をたたえる、もっとも重い儀式である儀仗を取り入れた祭式で敬意を表す。しかも天皇陛下や国の指導者、将軍たちが参列参拝する。そんな形が整えられた。

 靖国神社には、深く彼らの死を悼まれた明治天皇をはじめ、歴代の天皇はじめ皇族方も折にふれては参拝をされた。靖国神社の例祭には、必ず皇室からのお供え物が天皇のお使い(勅使。ちょくし)によって供えられ、国の要人たちが参列をした。

 靖国神社の神門の扉には、立派な菊の御紋章が付けられており、ここが皇室の深く心を寄せられる追悼の場であることを示している。

 また社殿など隋所には、英霊たちをしのぶ桜の花を、皇室の紋である十六弁の菊の花の真ん中に配した独特の神社の神紋が飾られている。

 神社と桜の花。桜は雄々しく華やかにいっせいに咲くが、まだ元気なうちに散ってしまう。人々が、若くして戦陣に倒れて散った英霊たちをしのぶ花としてもっともふさわしいと感じた花だ。

 維新の後に、靖国神社の前身である東京招魂社が設けられたときに、木戸孝允ら長州の維新の元勲たちが、ともに戦って維新半ばで戦死した同士たちの名を思い出して泣きながら、一人一人の名前を呼びながら境内に植えたと伝えられる戦士をしのんだ花が桜である。

 いまでも桜の木が境内を覆う靖国神社の神紋には、こんなエピソードも込められている。


[4]陸海軍省が決める合祀基準
 さて、当初は維新の志士や内戦で倒れた新政府の戦死者などを祀っていた神社は、靖国神社の名称を明治天皇から賜った前後から、国のために戦って戦死した戦没者の御霊(みたま)を追悼する施設として明確な方向付けがされるようになってきた。

 また靖国神社は戦争にて戦死した御霊をしのぶ施設だから、祀られるのは戦時の戦死者で、たとえ公務で殉職しても、訓練や国が戦闘行為に入ったとき以外の事故死亡者なども祭神とされないことにされた。

 誰を戦死した英霊として靖国神社に合祀するか、それは国が決定をした。

 その仕事は、陸海軍省の官房の審議室で慎重に進めて決定された。

 そうして選び出された英霊の名を陛下にお見せして靖国神社に合祀する。その方式も固められた。

 合祀基準はその後、様々なそれまでなかったケースも出てきて、幾度か変更されたこともあったが、厳重慎重に国によって審査のうえ決められる手続きは変わらなかった。

 日本が外国との接触を断つ鎖国を解いて、世界の国々と相並んで独立維持を求める時代になると、良し悪しは別として(私はかなり肯定的な立場だが)、海外との摩擦も経験せざるを得ないことになる。

 不幸な軍事的な衝突のために、戦没する英霊も増えてくる。

 それは必然的に英霊に対する国としての追悼の施設が必要になり、靖国神社がその役目を果たすことになってきた。


[5]厳しい国際情勢の荒波のなかで

 日本という国は、死んだ者の死後の霊など、何の関係もないと切り捨てる冷淡な世俗国家になってしまっては、文化的、精神的にも成り立たない構造である。冷淡に思いきることのできない歴史を抱いて続いてきた国なのである。

 正確な靖国神社史は靖国神社をはじめ、さまざまなところから多くのものが発表されているのでそちらに譲るが、日清戦争、日露戦争、数々の戦乱の末の大東亜戦争、そして昭和の敗戦まで、靖国神社の歴史の背後には、内外ともに混乱する激しい荒波のなかに、独立国として伸びようとした日本の歴史があった。

 日本は厳しい帝国主義・植民地主義を露骨に競い合う国際情勢の中に、遅ればせながら仲間入りした国として、自国の存在を認めさせていかねばならない切羽詰まった状況を歩んできた。

 世界は欧米など白人国家がすでに力でもってすべての利権を抑えて睨み合っている時代であった。そこには新興有色人国家の日本が割り込んで進出するのを許さない厳しい環境があり、日本は国の主権を広げようとすると、それらはよその国への既得権益にぶつかり、ときにはどうしても国の存亡をかけて戦わねばならない事態も避けられなかった。

 それは日本の近代国家として独立国として進む上には避けて通れない道ででもあったと私は判断している。空論のみを論じ合って良し悪しを論ずるよりも、現実の姿をそこに生きた者の立場で眺めなければならないと思う。

 日本の歴史、世界の歴史のなかでの日本がどのような道を歩んだかの歴史認識は、個々の歴史の価値観に属するのでここではふれない。私がこのことに深く首を突っ込むと、それだけで、靖国神社のことなどそっちのけで、たいへんな言い合い、口論が生まれてしまう。


[6]合祀決定の実権を持たなかった

 ただそれらは、日本という国が西欧諸国の支配を固めるなかに、どう存在を維持していくかの、日本の国自体が、取り組まざるを得ない国の運命を決する問題であった。

 その良し悪しを論ずるには、当時の視点で、冷静に論じなければならない問題だろう。

 日本は荒波の中、国をまとめて全力で独立確保に立ち向かった。

 その荒波は、政治には自ら関与しない存在であった靖国神社にも、影響しないわけにはいかなかった。

 靖国神社は、国家権力の実力行使である戦闘行為の結果生じた戦没英霊を祀る施設である。

 知っておかねばならないのは、神社は国家の一組織であり戦略を論ずる場ではない。

 神社は国の仕事の中の、英霊に対する追悼や慰霊の祭りという儀式の部分だけを担当する場所であり、政治的な権限を発揮する場所ではなかった。

 それにだいいち、祭神にだれを選ぶかという、もっとも大切に見える祭神の決定権さえも神社にはなかったことを見落として論じてはならない。

 ここは大切な点であると思うので、しっかり頭に入れておいていただきたい。


[7]慰霊することだけが任務

 国には祭神の適格性を審査し祭神を選択する権限があったが、靖国神社にはそれはなかった。

 ただ、厳格な国の審査によって、選ばれた英霊に対して慰霊するのが靖国神社の任務であった。靖国神社には、ひたすら祭りをするという任務だけがあって、政治的な価値観を率先発揮する権限はなかった。

 国のため、盛んに宗教的な活動をしてきたという人もいるが、そんな活動を独自に行う自由を神社は持っていなかったのだ。

 ただ、ひとたび戦争が始まれば、国が一丸となってそれに取り組み、勝とうと努力するのが近代の総力戦というものである。

 国民で、負けようと活動するもの、政府に反対するものは、宗教活動ではないが、自国に弓弾く行為であり、法に触れるとされるのは当然である。そのために靖国神社は、「祈ることにより、戦いや争いのない平和な靖国づくり」を本来の目標にしながらも、もちろん戦勝を祈ったし、ときには軍や政府などが戦意高揚を訴える場所に選ばれざるを得ない時期も経験した。

 しかしそれでも、不幸にして戦陣に倒れた英霊たちを惜しみ、その御霊に平和な国が来ることを祈る斎場として、敗戦までは多難な道のりを歩んで機能してきていた。

 こんな靖国神社を、現実に先輩方が歩んできた歴史の背景を、自分がそこに一緒に生きているという臨場感をもとに客観的かつ冷静に見ずに、単純に靖国神社は戦争遂行のための軍国主義の象徴だったと割り切ろうとする人がいる。

 それは明らかに間違っている。


[8]悲劇の主人公たち

 こんな視点で歴史を振り返れば、日本ばかりではなく、世界中のほとんどすべての個人や組織が、そろって軍国主義だったという、論じ合っても何の成果もない空論になる。

 くどいといわれるかもしれないが、さらに付け加えなければならないことがある。

 靖国神社の祭神とされた人々は、戦争においての赫々(かくかく)たる勝利を収めた英雄たちではない。

 いろいろの境遇の方がおられるが、生きて故郷に帰ることができたならば、個人としての楽しい生活に戻れたろうし、この日本に大きく貢献もできただろう人々だった。

 戦場において勝利を収めた戦場の英雄たちは、堂々と国から栄誉を与えられて凱旋(がいせん)し、人々の称賛を得て社会に復帰していて、靖国神社に祀られることはない。

 そればかりではない。靖国神社の英霊たちは、その戦時中の功績によって神社に祀られるのではなく、惜しまれつつ戦場に散ったその死を悼んで、ここ靖国神社に祀られている。戦勝して英雄として郷土に錦(にしき)を飾ることのできなかった悲劇の主人公たちなのだ。

 靖国神社には二百万を超す英霊たちの霊が祀られているが、それらは戦争に従事していたときの階級や身分、軍功などに関係なく、みな同じ人柱として名前が記され、平等に祀られている。

 それだけではない。御霊(みたま)はすべてがひとつとみなされ、靖国の英霊として祀られている。


[9]一般神社と違い、現実社会に密着している

 靖国神社を訪れた人は、ご社殿の前に立つと、おおむね頭を下げ、柏手を打ち拝礼をする。全国の神社への参拝法といっしょである。

 だが、神社をよく知る者、神道人はそれをもって簡単に靖国神社と全国の神社とを同じものとは思わない。

 神社の神道とは違う面がじつに多い。

 神社と比較して、かなり我々が暮らす現代社会とのつながりの深い施設なのだ。

 まず祀られている祭神だ。

 全国の神社は、神話や伝承の中から自然と神と信じられている対象だ。そのほかにこの世に生きていた人神も祀られているが、人神は神社にはその死後すぐに祀られるのではなく、生身の生きていた時に持っていた神道でいう「けがれ」が消え去り、すがすがしい魂(和御霊=なごみたま)になってから、功績を慕う人々によって祀られるのが一般だ。

 だが靖国神社の英霊は、俗社会でももっとも俗である国が、誰が条件に合うかを審査して、祭神に決定して合祀する。

「けがれ」に関して、一般に神社には、喪に服している人は、喪中はつつしんで参拝しない。しかし靖国神社には、生前の心の傷いまだに冷めぬ英霊の親や子、妻などが参列して合祀祭がおこなわれる。


[10]「宗教活動」は戦後になって始まった
 全国の神社で正式に参拝するときは、事前に喜怒哀楽や心の歪みなどをはらう「お祓」を済ませたのちに参拝するが、靖国神社で、同じような作法を行っても、どこかしっくりしない。

 ときによっては一般の国民個々人にとって、参拝は「罪けがれ」に及ぶような悲しみ、悔しさ、甘え、そんなものまでが注がれることもある。

 また、神社の入り口には一般に「下乗」「下馬」などの掲示があって、馬は駕籠(かご)などとともに、乗馬のままでは神様に失礼だと遠慮して外につないで参拝するが、靖国神社の神門などはわざわざ近衛騎兵が旗指し物(はたさしもの)を掲げて参拝出来る高さになっているし、一般の参拝儀礼とともに軍隊の捧げ銃や、祭典での和楽器に代わっての軍楽隊、太鼓に代わる大砲などが取り入れられている。

 一見、神社と思える靖国神社にも、こんな他の神社とは違うところがいくらもある。

 第二回目に書いた「憲法解釈」を思い出してほしい。

 戦後の靖国神社は、国の手から切り離されて「宗教法人」という神社とよく似た法人となってはいるが、外国でも一般に通用している「宗教的活動」とされるところが、すべて「宗教法人」にされる前にはなかったことが注目される。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。

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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第2回 宗教的儀式に対する憲法の立場 [靖國神社]

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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第2回 宗教的儀式に対する憲法の立場
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[1]憲法を読まないのが混乱の原因

 やや文章が唐突に流れて文の流れを混乱させるかもしれないが、靖国神社や戦没者追悼式、無宗教儀式などの出たついでに、日常はこんな問題にはあまりかかわっていない人にも理解しやすいように、ちょっとこの役人の作りだした儀式が混乱を生む元凶と一般ではされている戦後の憲法(日本国憲法)解釈に目を転じてみよう。

 じつは私は、いまの憲法に対しては、その成立の歴史などを見て否定的な立場であり、自主憲法の制定を強く望む一人である。

 なんで国際法で禁じられているのに、米軍にもっとも大事な憲法まで、違法に命令されて変更させられなければならなかったのか。

 そんな国のプライドを傷つけられた無念さが、この憲法がある限り消え去らない。

 だが、そんな立場の私から見ても、いまの靖国神社をめぐる混乱は、憲法そのものの規定に混乱のもとがあるのではなく、日本人が憲法をまともに読まないから混乱が起きているのだ、と言わざるを得ないと思っている。

 日本にはお互いに排他的な激しさを持つ深刻な宗教対立の悲劇はあまり起きなかった。

 そのため明確な宗教や宗教儀式、宗教活動というものの確たる概念も定まらぬまま、また宗教そのものをどう解釈すればよいのかの知識も、ただ本を流し読みにしただけでわかったような気になって、地についた世界での常識的な法の解釈もできないでいままで来た。


[2]円滑な国民生活こそ第一

 宗教という信仰的なものに関して「井の中の蛙」のまま、世界の中では非常識である門外漢の官民が、挙げてのこの条文に対して空想的な解釈をして、その結果が日本に無用の混乱と紛糾を生む結果となっているのだと、私は思っている。

 とくに宗教問題を扱うべき役人や、司法に当たる裁判官、法案作成を手伝う役人などの解釈は、宗教をまったく理解しているとは思えないひどいものだ。

 日本国の公務員だ。当然、第一に、日本国民の国民生活が円滑に滞りなく進むように、不断にこころがけるべき義務を彼らは負っている。

 だから国の立法府・司法・行政府などの各機関の関係者は、日本の憲法条文を解釈するに際しても、日本の社会をよく眺めて、国民が円滑に日常生活を営めるように解釈し運用すべき義務があると思う。

 残念ながら日本の現憲法は日本人が作ったものではない。

 この憲法の基本条文は占領軍の作った英文のものであり、それを米軍から和文に直して使用するように政府が押し付けられたものだということは、占領史を少しでも学んだ者にとっては常識となっている。

 だが、それにはそれであっても、いまの憲法には、西欧的な合理精神や知識を生かした条文も随所に取り込まれているのだ。


[3]靴に合わせて足を切る論の横行

 それを常識的に読み取らずにおかしな解釈をして、まるでその解釈を押し通すために国民生活を曲げようとするような方法、例を挙げるならば国民生活という足に合わない小さな靴を、無理やりはかせようとするような憲法の条文の解釈が横行し、「靴(憲法解釈)に合わなければ、足(国民生活)を切るか削ればよい」と言わんばかりの論が横行している。

 憲法が何のためにあるのか、そんな基本さえも理解せず、意味もない無謀な観念の押し付けが随所に横行して国民を悩ませている。

 官僚たちのこの種の頑なな解釈論は、素直に憲法を条文で読むのではなく、日本が戦争に負けて占領されている時期に、進駐軍の出した占領政策(この場合は神道指令など)の精神を基本にして解釈するところから生じていると言わねばなるまい。占領軍は日本の精神構造を変えるために徹底的な洗脳作戦を行った。その洗脳がいまだに残っている。

 占領軍の洗脳は、反対しそうなものは公職から追放し、マスコミや教育制度などを独占した上で強行した強力なものだった。その徹底的洗脳工作のため、頭がすっかり影響されてしまった大量の国民が生まれ、60年以上たったいまでも、日本に大きな混乱を生みだしている。

 いま注目する宗教条項とされる20条解釈などはそのもっとも代表的な例である。

 いまの日本はもう、占領下で占領軍の命令や宣伝に忠実に従わなければならない米国軍の支配に隷属せねばならない時代ではなくなっている。

 政治や立法や司法は、知らず知らずに身につけてしまったその影響を、頭を冷やして冷静に排除して、主権者である国民のために政治を心がけてもらいたいものだ。


[4]憲法20条の政教分離規定

 日本国憲法にはその20条に次のような規定が設けられている

 第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 じつに明瞭に解釈しやすい形で条文が示されている。分類すると、

 〈1〉「信教の自由」を、全国民に保障する

 〈2〉「宗教団体」が、国から特権を受けることや政治上の権力行使の禁止する

 〈3〉「宗教上の行為、祝典、儀式又は行事」に、参加を強制することを禁止する

 〈4〉「宗教的活動や宗教教育」を、国やその機関がすることを禁止する

 と、それぞれの概念に分けてはっきりした規定をしている。

 いわゆる法学の世界でいう「政教分離」の規定だが、日本人には、その規定の必要が、国民各層に痛切に感じられた歴史経験が過去に少なかったために、「ああそうなっているのか」と思われる程度以上の緊張感もなく受け取られている感がする。


[5]西欧諸国が体験した宗教抗争の悲劇

 政教分離の原則が憲法上の大切な基本原理として出来上がる背景には、宗教教派間の争いなどで、過去に西欧諸国などが身をもって経験してきた苦々しい体験が基礎にある。

 国家権力である世俗の政治権力と、ある一つの教派が結びついて、他の教派に属する人々の弾圧に動き、その結果、あるいはこれに反抗する連中との騒動によって、何百万、何千万人もの人が殺され、あるいは弾圧され追放される悲劇が、過去に多くの国で発生した。

 西欧のひどい国では、何割もの人口がこれによって殺されてしまった。宗教を世俗の争いに持ち込むことの恐ろしさは、世界ニュースなどをこの観点で眺めれば、いまの人にも容易に理解ができるだろう。

 その争いの苦悩の中から、この憲法に定めた一つ一つの条項が、世俗国家を宗教が支配してはならない、国民の心の中の信仰の世界にまで、国が土足で踏み込むことがあってはならない、という規制が成立したといういきさつが政教分離の根本となっている。

 この原則は、19世紀の時代までは、国民一人一人の自由な宗教信仰を弾圧してはならない、と保護するもので、無宗教や反宗教は、国民生活を乱すものとして、それまでを保護するものにはされていなかった。当時の人々はほとんどが神を信ずる生活をしていたし、信仰は人々の生活になくてはならないものと思われていた。

 そんな宗教信仰そのものを否定するものは、文化を否定する危険な連中であり、人類共通の敵だと思われていたのだ。


[6]世俗国家は宗教に関与せず

 しかし二十世紀になってから、宗教信仰も、政治思想やイデオロギーなどと同列に論ずべきだとする法概念が一般的になってきて、いままでは除外されてきた、「宗教を信じない自由」、あるいは「否定する共産主義や無政府主義などの無神論」者にも適用されるように解釈は拡大された。

 その精神は、一つの教派を「国教」と定めて運営されている国教制度を採用している国においても、国民のために、全部ではないが、かなりの部分が取り入れられるようになってきている。いまでは国の国民の権利を定める大原則だ。

 日本の憲法の条文を素直に読めば、日本は国民一人一人の心の中にある宗教心は大切なものだが、国などの公共的な機関は、それを国民の間にあるがままにまかせて干渉せず、特定の宗教教団に、その教団であることを理由にしての特権も与えてはならない。

 宗教の問題は、世俗国家の関与する次元とは別問題のことだという態度に終始することを求めている、と読むのが自然である。

 国や公共機関の取る態度は、これ以上でもこれ以下であってもならない。

 国民は一人一人が自由な信仰を持ち、自由に暮らすことが望ましい。

 宗教的精神生活は、国民生活に潤いを与える。

 世俗国家では満たされないものを、宗教信仰は埋めてくれる働きがある。

 しかし自由な信仰の状態を、国の力で故意に変えるような助成ないしは圧迫をすると、国民内にいろいろある宗教教派のバランスに対する国の干渉となる虞もあり、また西欧の過去の時代に逆戻りするような可能性もあるからだ。


[7]参加を強制しない

 しかし、こんな多様な信仰をもつ人々が構成する国であるから、国が行為や祝典、儀式、行事などを行うときには、それが民間で行われている国内の常識に従って、国がそれらを宗教と関わりのある形で、みずから主催することもあるだろう。

 それを禁止したのでは国民の宗教環境に悪影響を及ぼす。反対の意味での宗教的活動にもつながる。

 そんな場合はむしろ、あるがままの宗教的環境は国なども大事にするほうが望ましい。

 しかしそんなときでも、国民の信仰は多様だし、その儀式などに参加したくない人も出るだろうから、国は決して参加を強制してはならない。

 宗教的に、一般的だとどの教派の儀式をおこなっても、あるいは無宗教という役人の考え出した新宗教のかたちで行っても、多様な国民の中には、どんなかたちであっても、必ず違和感を持つ者は出てくる。

 そんな場合には、(民主主義だから多数者の慣習は大事にしながら)、せめて彼ら(これに不快感を持つ少数者に)に参加を強制しないという、少数者に対する配慮だけは残しておかなければいけない。

 そう言っているのが憲法の規定なのだ。

 憲法はさらに求める。

 国が行う教育などは、国民の中にある各種の宗教信仰がどんなものであるかを知識として教えるところまでは、国民として生活する上の大切な知識であるから認めても、国などの公教育が、特定のある教団の教えが望ましいから、その信者になれとか、あるいは、あの教団に入るな、などの宗教教育・反宗教教育(これはどちらも作用としては同じ宗教的活動として、いまはとらえられている)は行ってはならないと戒めている。


[8]諸外国の解釈もほとんど変わらない。

 諸外国でも、この「信教の自由と政教分離の解釈」は、私が説明したような解釈の下で、至極当然のこととして実行されている。

 西欧諸国など、キリスト教徒が多く、もしくはキリスト教が国に大きな影響力を持つ国では、国の儀式は多数の属するキリスト教のある教派か、あるいはそれらの共通するキリスト教各派共通の国内常識を取り入れるようなかたちで儀式などは行われる。

 タイやアジア諸国のような仏教国では、仏教式で行われることが多いし、その他のイスラム教などの諸国でも、多くはこの考え方を採用して儀式を行っている。

 一方、共産主義など無神論である唯物史観思想が国の政権を持っている国々では、いまの日本のような、神の存在をなるべく無視した形で儀式が行われる。

 このように当たり前の見方で憲法を眺めれば、日本に馬鹿らしい「無宗教儀式」などというものが出てこなければならない理由はない。

 日本は伝統的に国民の間では葬儀や法会、橋やトンネルなどの開通式、供養、年祭などの大半を仏教各派の儀式によって行い、結婚式や地鎮祭、上棟式、公的儀式や式典などの大半を明治以降は神道儀式を主として行ってきた。

 そのほかに長崎など、キリスト教の儀式で行ってきたところもあるが、そのあるがままの実情を眺めて、ことさらに違和感をもたらすことのないように実施すればよいだけである。

 ただその場合、気をつけなければならないのは、それでも違和感を感ずる人に対しての救済策だ。

 たとえそれが少数者であっても、国は決して参加を強制してはならない。多数の者は自然に日常的に儀式が行えるように配慮する。

 ただ少数者には、それを彼らに合わせてすることは多くの国民に違和感を持たせるのでできないが、せめてむりに参加を求めない。もっとも現状に合う原則なのだ。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。


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2 靖国神社とそのあるべき姿 (葦津泰国) 第1回 終戦記念日の靖国神社境内 [靖國神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

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2 靖国神社とそのあるべき姿 (葦津泰国)
第1回 終戦記念日の靖国神社境内
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[1]60年以上つづく参拝者の黙祷

 平成21年8月15日、終戦記念日の靖国神社の社頭である。

 この日には毎年、何万人もの人たちが靖国神社に参拝し、先の大戦(正式名称は大東亜戦争)の戦没英霊の霊(みたま)に向かって頭を下げ、正午の時報に合わせ1分間の黙祷を捧げる。

 この年もあの終戦の日を思い出させる暑い夏の日であった。空には入道雲が湧きあがる真夏の一日、境内は桜や銀杏などの木立に囲まれているとはいえ、風が止まると蒸し暑さはかなりのものだった。それでも、例年通りの老若男女の参拝者で広い境内は埋め尽くされた。

 いまから64年前の昭和20年のこの日この時、昭和天皇はラジオ放送によって『終戦の詔勅』を発せられた。日本(大日本帝国政府)は対戦相手の米国・英国・中華民国はじめ連合国に対し、彼らの発したポツダム宣言を受けいれて降伏をする決断をした、と宣言された。

 それ以来、いつしか、この日が来ると行われる靖国神社ご社頭での参拝者の黙祷は、誰から指示をされたものでも、決められたものでもない。だが、60年以上にわたって、世代が代わり、人が代わって、参拝者も代わっても、毎年続けられて国民の中に、もっとも大切な慰霊の行事として継続されて、現在に及んでいる。


[2]だれが教えたわけでもないのに

 日本には、この日以外に国民がそろって頭を垂れて黙祷することはほとんどない。終戦の日、全国各地の職場や集会で、この時間を選んで黙祷は行われるが、ここには誰に命ぜられることもなく、数万の人々が黙祷を捧げるために集まってくる。

 境内にあるスピーカーが正午の時報を鳴らすと、雑踏で騒がしかった境内はすべての行事が中断され、参拝者の動きも止まる。あたりは一瞬、静寂の空気に包まれ、風に揺れる木立の葉の音と蝉の声がいちだんと高く聞こえる。

 世間にはわざわざ、「国民の祝日」として法律によって定められている国の記念日も多い。だが、この日は「国民の祝日法」を探しても見当たらない一日である。しかも国会の決議でわざわざ定められている祝日法での国民の祝日でさえ、現代の日本の一般国民にとってはその趣旨はあまり理解されず、いつしか単なる「労働休養日」となってしまっているのが現状である。

 祝日にはその日を祝日の設けられた趣旨にかんがみ、その祝日を設けた意味に深く思いをいたし、それを記念した特別の行事などが行われることが望ましいとされているのだが、そんな国民の祝日も、大半はカレンダーに赤い日の丸が印刷されているだけで、国民は、さしたる意義も考えずに、単なる「仕事のない日」程度にしか意識していないのが現実である。

 もちろん、学校の義務教育などでは、祝日の意味ぐらいは教えるのだろうが、この日の靖国神社の黙祷などは教えない。国や共同社会を大切にし、国旗国歌の大切にしなければならない意味さえも無視して、その無教養で世界で恥をかく国民を作り出している我が国公立学校の義務教育なのだから。


[3]もっとも黙祷にふさわしい場所

 だが、終戦記念日の靖国神社の黙祷は、カレンダーの日付の欄に日の丸も喪章も付されてはいないが、自主的に全国から集まってきた国民によって、毎年欠かさず何万人の人々が加わって行われている。

 この日のこの時刻には、靖国神社からわずかに靖国通り一つを隔てた反対側の日本武道館で、政府主催の戦没者追悼式が開かれている。これは政府によって主催される公式な大東亜戦争犠牲者への追悼行事とされている。会場には全国から戦没者の遺族らが招かれ、各省庁の代表や国会議員も参列して、天皇陛下も臨席される。

 それにもかかわらず、ここ靖国神社には、何万という国民が英霊を追悼するために集まってくる。黙祷をする国民の意識の中には、いま、天皇陛下が、国の追悼式で戦没者に黙とうをささげておられるという意識はもちろんある。

 だが、黙祷をするにしても、その式場の前に集まって黙祷するよりも、ほかの施設で頭を下げるよりも、靖国神社の戦没英霊の祀られる施設の前が、もっともふさわしいところと彼らは信じている。

 国民意識はこんな形で固まっている。政府の戦没者追悼式に全国から招待される参加者たちも、式典の前後には、ほとんどの人が靖国神社に参拝をする。


[4]「無宗教」形式を創出した知識人

 国民の素直な感情は大事にしなければならない。国の行っている行事はどこか心のこもった戦没者への追悼式典になりきれていないという思いが、人々の間には明白に感じられる。

 国の戦没者追悼式は、第2回目(昭和39年)だけは靖国神社の外苑で開かれたが、その後はわざわざ靖国神社を避けているように見える。

 これは日本の国の特徴だが、日本には占領中ではなく、昭和40年代ころから、マスコミ、そして政府の動きには、靖国神社を避けようとする空気が強まってきている。議員やそれを支える官僚たちが、戦後の悲痛な思いを理解しない層に徐々に変わってきたからなのだろうか?

 戦争が終わるまでは、国自身が戦没英霊を祭神として決定して靖国神社に祀り、率先して儀式を行い、宣伝にも力を入れてきたのにもかかわらず、戦後経済が一落ち着きをしたころから、靖国神社をわざわざ避けて、追悼式の儀式まで、靖国神社での祭りの方式とはまったく違う「無宗教方式」という国が作り出した官僚臭い「宗教儀式」を国民に押し付け、式の雰囲気から靖国神社の色彩をなるべく感じさせないように変化させてきた。

 英霊の遺族たちが戦後20年を経て急速に減少を始めたのを見て、官僚たちに靖国神社を厄介な戦前からのお荷物として露骨に避けようとする者が増加して、空気が変わってきたのではないか? 当時この問題などを取材していた私の感ずる空気だった。

 役人たちが、国民の中に長い間定着してきていた「柏手を打って頭を下げる」参拝方式をわざわざ避け、菊の花を供えて頭を下げる新方式を作り出したその背後には、以下のような考えが見え隠れしている。

〈靖国神社はアメリカなど占領した西欧人が断定するように、宗教的な施設だった。だが、国は戦後に作られた新憲法によって、日本より文明的な西欧に見習って、宗教的な問題にはかかわらないことに決まった。だから戦没者追悼式も靖国神社の外に場所を移し、靖国神社の祭りとは関係のない、日本伝統の雰囲気を感じさせにくい、政府指定の祭礼方式でやるのが、西欧に認められる日本の近代化なのだ〉

 考えてみれば、愚かで雑駁(ざっぱく)な論理ではある。だが、そんな気風は日本人の中に、とくに学者とされる人や官僚の中に濃厚にある。文明開化の鹿鳴館思想以来の日本の新興知識人の気風なのだろうか?


[5]政府は靖国神社を避けている

 それはともかく、宗教的儀式とは何をさすのか?

 西欧もふくめて、一般に広く考えられているそれは、生きている人間に対してではなく、物理的に人間の見る、聞く、触るなど、五感では関知し得ないもの(とくに人間の創造した神や信仰対象、霊魂など)に存在するかのように、敬意を表する行為の形そのものを、最初から宗教的(宗教そのものではない)儀式と呼ぶことと受け取られている。

 そうなると、墓標のような柱に「戦没者の霊」とわざわざ記して、そこに榊(さかき)の玉串ではなく供花という特別の拝礼方式でも、それを指定して儀式をすること自体が、「無宗教儀式」という名をつけてはいても、立派な政府が作り出した宗教的儀式ということになる。

 しかも日本人の大半は神社仏閣に参り、また多くの人が教会に訪れる。それらの人にはこの政府の儀式の指定そのものが、靖国神社への参拝以上の違和感を覚えさせるのは当然である。

 私は単に全国の神社や、これとは少し違う靖国神社に儀礼的に頭を下げるだけではなく、みずから霊魂の存在を確信し、神や祖先の御霊を心から大切に思う神道人の一人である。

 そんな立場からこの追悼式をみると、この8月15日という日は、政府が靖国神社およびそこに参拝する多くの人たちに対して、ことさらに精神的な刺戟を与えることに執心している日であるように、思えてならない。

 首相はこの日、戦没者追悼式をみずから招集し、実施して、靖国神社の拝礼を否定する宗教的儀式を執行し、引き取り手のわからない戦没兵士の遺骨をとむらう国の施設である東京九段の千鳥ケ淵戦没者墓苑に参拝をした。

 どちらの行事も国の首長の行う終戦記念日の行事としては意義あるものとは思う。真正面から見れば、終戦の日に当たって、戦争に倒れた人々に敬意を表し、いまの穏やかな状態が、彼らの苦しみの上にあることを生きているものの代表として感謝しているのだろう。

 けれども、常日頃、靖国神社の問題解決など、国みずからが生み出した過去の歪みの矯正には消極的で逃げ腰の政府の姿勢は、こんな首相の行動は、ただ靖国神社を避けるがために、日程を毎年組むのではないかとさえ思われてならない。(つづく)


☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。

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2 宗教的感性を呼び覚ます必要性 [靖國神社]

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 2 宗教的感性を呼び覚ます必要性
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 姉が嫁いだ先の姑(しゅうとめ)さんは、すぐ上のお兄さんが戦死していて、いつか靖国神社にお詣りしたい、というのが念願でした。先月ようやく、その機会を得て、非常に感激したと感想を述べていました。都心の神社でありながら、都会の喧噪(けんそう)から隔絶された本殿の神さびた空気に魂を揺さぶられたというのです。

 私も、かつて同様の経験をしました。忘れもしない、7月のみたたまつり最終日の夕刻、ほの暗い本殿で、多くの日本人が積み重ねてきた祈りの重みが、圧倒的な力となって、迫ってきたのを覚えています。

 しかし昇殿参拝しなければ、そんな体験は最初から望めません。今年もまた「靖国の夏」が近づいてきましたが、本来、静謐なる慰霊の場である境内が、政治的、宗教的闘争の場と化している状況では、聖なる雰囲気を感じることは無理というものです。

 靖国神社だけではありません。著名神社に初詣に行けば、ほとんど流れ作業です。結婚式も同様です。私も神前結婚でしたが、アルバイト学生風の神事にありがたみは感じにくいものです。

 したがって、当メルマガが問題提起してきた宮中祭祀簡略化問題というものが理解されにくいのは無理もありません。祭祀に対する情報も知識も社会には欠けている。聖なるものに対する感覚も鈍っている。それで、どうして正常化への気運が生じるでしょうか。

 日本人の宗教的な感性を呼び覚ます必要があります。それができるのは宗教家たちです。

 何年か前のことですが、ある神社で行われた新嘗祭には感動しました。とくに感銘を受けたのは、米寿を過ぎた名誉宮司さんの玉串(たまぐし)拝礼です。ゆっくりとした身のこなしに信仰の分厚い年輪がにじみ出ていて、見ているだけで、心が洗われるようでし ス。背中に神様が鏡のように映し出されている、というように、私には実感されました。

 あのような祭祀に多くの人々が接することができれば、そもそも宮中祭祀簡略化問題などというものは起きるはずもないのです。

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岡田東京大司教様、靖国神社にお詣りください──国に命を捧げた信者たちが待っています [靖國神社]

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岡田東京大司教様、靖国神社にお詣りください
──国に命を捧げた信者たちが待っています
(「正論」平成19年5日号から)
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 岡田武夫東京大司教様、(平成19年)2月下旬に日本カトリック司教団が発表した「信教の自由と政教分離メッセージ」を拝読しました。

 今回の司教団メッセージは戦後60年の「非暴力による平和への道」に次ぐものでした。450年にわたる日本キリスト教史を振り返って迫害を強調し、とくに戦前、教会が戦争協力を迫られた歴史を反省したうえで、信教の自由の尊重を訴え、目下進行中の憲法改正の動きに対して「政教分離原則をなし崩しにする」と強く牽制しています。

 臨時司教総会が可決承認した、権威あるメッセージですが、残念なことに、そこから浮かび上がってくるのは、宗教的な魂の平安より世俗社会の自由と平和を優先させる政治性、バチカンも採用していないはずの絶対的平和主義、教会を過度に「被害者」の立場に置く、きわめて偏見に満ちた歴史理解などです。

 誤った歴史認識と理解のうえに立って、「もう戦争も迫害もこりごり」とばかりに、靖国反対、改憲反対の政治的メッセージを信者に送ることは、古来、宗教的共存を実現してきた日本の多神教的文明に無用の混乱をもたらし、迷える羊をますます迷いのなかに追い込むものと危惧されます。

 最大の矛盾は、神への信仰を世俗の憲法で守ろうとする姿勢で、これは教えに殉じた殉教者への冒瀆(ぼうとく)となりませんか。

 杞憂であれば、と願いつつ、以下、謹んで申し上げます。


1、キリシタン「迫害」には理由がある

 司教団メッセージは、「信教の自由」の価値を訴えるために、近世の国家的なキリシタン迫害・殉教から書き起こしています。しかし、その背景に何があったのか、説明は不十分で、むしろ教会の内的要因に蓋(ふた)するものといえます。

 キリシタン時代の「迫害」は日本の宗教史上、苛酷なものですが、大航海時代の教会の世界宣教は、ポルトガル、スペイン両国の武力による「世界二分割征服論」という荒々しい野望が秘められていました(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店、1977年など)。教会法に基づいた異教の地への侵略と征服こそ、禁教・弾圧を招いた第一の原因でしょう。火種は教会内部にあります。

 司教団メッセージは近代の「神社参拝強要」の歴史を語り、信教の自由の尊重を謳い上げますが、戦国時代末期の教会の布教こそじつに荒っぽいもので、九州のキリシタン大名の領地では南蛮貿易に目がくらんだ領主によって領民が強制的に改宗させられ、神社や寺院が焼き払われました。

 教皇は日本を潜在的なポルトガル領と認め、実際、長崎地方はイエズス会に寄進されています。宣教師たちは奴隷制を持ち込み、日本人を明、朝鮮、南蛮に売り飛ばしていたといわれます(松田毅一『豊臣秀吉と南蛮人』朝文社、1992年など)。明らかに侵略です。

 禁教・迫害にはカトリックとプロテスタントの宗教戦争の影響もありました。

 島原の乱のとき、幕府の要請によって、原城に立てこもる一揆勢を沖合から砲撃したのはプロテスタント国のオランダです。オランダは南蛮貿易の独占をはかって、カトリック国の侵略的意図を吹き込みました。一揆はポルトガル追い落としのチャンスでした。

 幕府がポルトガル船の来航禁止を決めたとき、バタビアのオランダ総督府では盛大な祝賀会が催されたといわれます。貿易と布教を天秤にかけ、貿易で信仰を釣ろうとした教会の布教戦略の敗退です。

 こうして禁教の時代が始まりますが、近世の殉教史が日本宗教史上もっとも苛酷なものであったとしても、世界に例を見ないほどに残虐だったわけではありません。

 もっと悲惨な例として、ほかでもないヨーロッパのキリスト教諸国とその植民地で数十万人から数百万人が処刑された陰惨な宗教裁判、魔女裁判があげられています(松田「キリシタンの殉教」=西川孟『日本キリシタン史』所収、主婦の友社、1984年など)。

 したがって「国家による迫害」を過度に強調すべきではありません。論より証拠、秀吉によるキリシタン26人の処刑後、かえって教勢が拡大し、長崎に東洋一の「被昇天のサンタマリア教会」が建てられ、全国の信徒数は75万を数えるようになったといわれます。

 他方、近世の日本がキリスト教文化を受け入れていたという歴史もあります。

 京都・祇園祭に登場する函谷鉾(かんこぼこ)の正面を飾る前掛けのタピストリーは、16世紀にヨーロッパで製作されたもので、オランダ商館長が将軍徳川家光に献上し、のちに京都の豪商の手にわたったといわれます。

 山鉾巡行を描いた18世紀半ばの木版画にこの前掛けが確認できますが、そのデザインは旧約聖書のイサクの嫁選びがテーマであることが20年ほど前に明らかになっています(梶谷宣子、吉田孝次郎『祇園祭山鉾懸装品調査報告書−−─渡来染織品の部』祇園祭山鉾連合会、1992年など)。

 鎖国・禁教の時代に、そして幕府が社寺の祭礼をきびしく統制していた時代に、京都の町衆は年に一度の八坂神社の祭りでキリスト教美術を鑑賞していたのです。〈http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/gion_matsuri.html

 司教団はこうした歴史の真相を追究することなく、みずからの好戦的布教方法の誤りを省みることもなく、日本の多宗教的文明への理解を欠いたまま、「中央集権化の妨げになると考えられ、排斥された」ともっぱら被害者を装った教会史を描いています。一面的といわざるを得ません。


2、戦前の方が政教分離は厳格だった

 司教団メッセージは、明治政府の弾圧が欧米の批判を受けたこともあって、憲法に「信教の自由」を盛り込んだが、「安寧秩序を妨げず、臣民の義務に背かない限り」という条件付きだった、と戦前の信教の自由の不完全性を述べていますが、これも一般常識論的な歴史理解にとどまるものです。

 26人の処刑後、キリスト教が盛んになった一方、長崎では諏訪・森崎・住吉の三つの神社が破壊されました。キリシタン武将による贈収賄事件などをきっかけに、幕府は禁教令を発し、今度は逆に教会が破壊され、多くの信者が処刑されました。

 めまぐるしい興亡のあと再建された諏訪神社には、本殿に同居するかたちで森崎神社がまつられています。謎の神社で、以前、長崎岬の突端、森崎の地に鎮まっていたこと以外、詳しいことは分かりませんが、「キリシタンをまつる神社」ともいわれます。

 キリスト教がヨーロッパに浸透していく過程で、聖なる森を破壊し、教会を建てたように、キリシタンによって森の中の神社が破壊され、その地にサンタマリア教会が建てられ、禁教後、今度はその教会が破壊されたものの、信者はその跡地に教会をしのぶ祠(ほこら)を置いた。やがて諏訪神社の再建時に同じ本殿にまつったのではないか、とも想像されています。

 森崎神社の御霊代(みたましろ)が諏訪神社、住吉神社とは異なって並外れて重いことに注目し、もしかしたら教会の遺構に関係するものではないか、と語る関係者もいます。

 当時の長崎はほとんどが信者でしたから、神社信仰にかたちを変えて、篤い信仰を守ったのかも知れません。森崎神社の祭神は国生み神話の男女二柱の神ですが、カトリックは救世主と聖母を信仰し崇敬します。

 長崎にはほかにもキリシタンの神社が知られるし、つい最近まで神主を呼んでキリシタンの祭祀が行われていた事例もあります。司教団が批判するほかならぬ神道が、その多神教的大らかさゆえに、信者の信仰を守ってきたと見ることもできます。〈http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/nagasaki_suwa_jinja.html

 時代がくだり、250年後、開港した長崎にフランス人による「日本二十六聖人」教会(大浦天主堂)が完成し、浦上の農民たちが見物にやってきました。潜伏していたキリシタンです。

 当時の日本は世界に冠たる法治国家ですが、ちょうど26人が列聖したばかりで、欧米人は日本をキリスト教が邪教視される「暗黒の国」と見ていました。そこに降って湧いたキリシタン「復活」とそれに続く弾圧の再来が欧米人の目にどのように映ったかはいわずもがなです。

 しかし浦上の全村民が信者だったという驚きの事実の理由は何か、どのように信仰を守ってきたのか、を考えるとき、司教団の「信仰を表明して立ち上がった」という記述は納得できるものとはいえません。

 司教団メッセージは、明治憲法が「信教の自由」を盛り込んだけれども限界性があった、と説明しますが、それどころか、明治時代から昭和にかけて、日本にはまともな宗教行政の枠組みすらなかったというのが実態でしょう。何しろ宗教に関する基本法さえありませんでした。新宗教法の制定は以前からの懸案であったにもかかわらず、手つかずのまま放置されていました。

 それでも政府は世界の大勢にならって「国家は宗教に干渉せず」を基本姿勢とし、信教の自由の徹底をはかり、意外にも今日以上の厳格な分離政策を布いていました。

 たとえば、大正12年の関東大震災後に行われた東京府市合同の追悼式は、神道にも仏教にも偏しない「宗教的儀礼を抜きにした」無宗教形式で行われ、このため「行政は宗教に無理解」と宗教界が強く反発し、軋轢(あつれき)が生じた、と当時の新聞に書かれています。

 今日、東京都慰霊堂の慰霊法要は完全な仏式です。戦前は政教分離が不完全で、戦後になって確立された、という司教団メッセージの歴史理解は間違いです。


3、戦前の「迫害」は司教団の妄想である

 昭和初期に教会が弾圧と迫害にさらされていた、といわんばかりの理解も誤りです。

 当時のカトリック新聞によれば、貞明皇后がハンセン病療養所など教会の社会事業を支援されていたし、皇室と教皇庁との交流もありました。教皇庁は斎藤実首相に、朝鮮総督時代、教会の布教に貢献した、として最高の勲章を授与しています。昭和8年には長崎の大浦天主堂が国宝に指定されました。

 大司教様がおられた埼玉の浦和教会は公有地(師範学校付属小学校跡地)の一部払い下げを許可されて建てられました。それ以前は宣教師が知事舎などでミサを行っていた、と教会のホームページに書かれています。これは逆に優遇です。〈http://www.urawa-catholic.net/rekisi.html

 軍部による陰湿な個別の嫌がらせはともかく、ナチスによるユダヤ人虐殺やアメリカでの日系人迫害のような、日本の信者や教会が政策的に弾圧・迫害を受けたという事実は、日米開戦後でさえ、ないはずです。

 国家と国家神道が一体となって戦争に邁進するなか、神社参拝が強要され、教会は靖国神社参拝の是非をめぐって問題を突きつけられた、とする司教団の歴史理解は、妄想以外の何ものでもないでしょう。

 たとえば、迫害の象徴として司教団メッセージは昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件を取り上げていますが、事実認識は大学当局と異なります。

 まず司教協議会社会司教委員会が一昨年、まとめた小冊子「非暴力による平和への道」を見ると、こう説明されています。

 ──明治政府は靖国神社を、宗教を超越したものと位置づけ、崇敬を「強制」しようとした。教会は、事件をきっかけに軍部と世論による迫害を受け、存亡の危機に陥った。
 これを回避するため、参拝は教育上の理由で行われ、敬礼を愛国心と忠誠の表現と公式に理解し、靖国神社の本質的な宗教性にふれず、宗教的参拝を儀礼として容認するという過ちを犯した。
 教会は神社参拝を奨励し、戦争協力への道を歩んだ。

 しかし、大学の当事者はそうは見ていません。渦中の人だった丹羽孝三幹事(学長補佐)の回想(『上智大学創立六十周年─未来に向かって─ソフィアンは語る』上智大学ソフィア会、昭和48年、非売品)などには、次のように描かれています。

 ──軍縮の時代が到来し、軍は将校を失業対策に配属した。上智大学の配属将校は、昭和7年5月、課外授業は学長の許可を要するという規則を破って、学生を靖国神社に参拝させた。面白半分の個人プレーである。
 信者の学生が非キリスト教形式の拝礼を拒否し、将校が憤激したのを、翌日の新聞は「参拝拒否」「軍部激怒」と書き立てた。しかし文部省は軍に批判的だったし、丹羽幹事と陸相との面談で事態は収拾した。
 ところが10月になって事件はぶり返され、「邪教」「売国奴」「スパイ」という批判が教会に対して浴びせられる。軍部による政党打倒運動に事件が利用されたのだ。
 そもそも濡れ衣だったから、支援者は少なくなかった。不穏な動きがあれば、信者の警察署長から情報が伝えられ、神道や仏教関係者が見舞いにきた。軍内部からも極秘資料が届けられた。
 宮様師団長のお耳に達するところとなり、事件は急速に解決する。

 大学の公式資料が描く真相は、軍縮時代の将校の権限逸脱、メディアの虚報、軍部の政治工作への利用です。事件を解決させたのが、今日の司教団が批判的に見る皇室の権威だったとは、何という皮肉でしょうか。

 たしかに配属将校が引き揚げ、後任者が決まらない事態となり、卒業生は幹部候補生となる特典を失うなど、学生にとっては深刻でした。志望者が減った大学も困難な状況に置かれましたが、戦争の時代の「国家による宗教統制」と見るのは曲解です。

 決定版ともいえる『上智大学史資料集』全六巻(上智大学、1982〜95年、非売品)は、当事者である学生の証言をふくめ、多くのページを割き、事件の一次資料を網羅していますが、「弾圧と迫害」の事実を読み取るのは不可能です。


4、靖国参拝は宗教儀礼ではなく国民儀礼

 よほど居心地がよかったのか、退役後、引き続き職員として大学に勤めた将校もいたほどで(『上智大学五十年史』上智大学出版部、昭和38年)、「軍部の迫害」とはほど遠いものでしたが、信者にとって神と人間の信仰上の問題をはらんでいたのも事実です。

 キリスト教は一神教ですから、敬虔な信者であればあるほど、唯一神以外の神への拝礼はあり得ません。事件の本質は、日本のような多神教的、多宗教的異教世界で一神教信仰を守りつつ、祖国に対する国民の義務をどのように果たすべきか、という信仰問題でしょう。神社参拝は信徒にとって宗教行為なのか否か、神社は宗教か否か、いわゆる神社問題が問われたのです。

 国家の宗教政策問題としてとらえる司教団メッセージは一面的で、信仰問題を神不在の政治論にすり替えるものといえます。

 信仰上の疑問を解くため、事件のさなか、シャンボン東京大司教は鳩山一郎文相に、学生らの神社の儀式への参列は愛国心と忠誠を表すものなのか、それとも宗教に関するものか、書簡で回答を求め、文部省は「神社参拝は教育上の理由に基づくもので、学生らの敬礼は愛国心と忠誠とを表すものにほかならない」と答えました。

 このように参拝は愛国的行為であり、敬礼は宗教的意義を有さない、という公式回答を得て、信者の信仰問題は解決されました(田口芳五郎『カトリック的国家観』カトリック中央出版部、昭和7年など)。

 この判断をバチカンは追認しています。日本の教会は、信者が異教儀礼に由来するような行為を公的に求められた場合の対応について照会し、バチカンは靖国神社の儀礼参加を国民的儀礼として許したのです。戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民の義務だという判断です。これが最近、広く知られるようになった1936年の指針「祖国に対する信者のつとめ」です。

 司教団メッセージは、当時の教会がこの指針に基づいて、政府から命じられた神社の儀式は宗教的なものではなく、天皇への忠誠心と愛国心を表す「社会的儀礼」であるとして、信者の神社参拝を許容し、戦争協力の道へ向かった、と述べていますが、これは明らかに読み違えでしょう。

 指針は、国家神道神社での国家的な儀礼と宗教としての神道の礼拝との区別を認めています。靖国神社は軍の管理下にあり、一般神社は内務省の管轄です。公立学校などでは宗教教育と宗教儀式が禁じられています。靖国神社の儀礼は、非宗教的な国民的儀礼だからこそ参加が許されたのです。

 指針は同時に、他の宗教に由来するものであったとしても、社交の範囲で、葬儀や結婚式など私的な儀礼への参加を許可するとともに、議論を避けて指針に素直に従うべきことを強調しています。

 司教団が主張するように、社会儀礼としての異教施設表敬さえ認められないなら、司教団が強調する「諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない」と宣言した第二バチカン公会議の精神をかえって逆に否定することになり、昨年暮れ、宗教対話を求めてトルコのブルー・モスクを表敬し黙祷した現教皇様は、さしずめ異端分子となってしまいます。

 さらにいえば、靖国神社などでしばしば行われる戦没者追悼の黙祷はほかならぬキリスト教に由来するといわれます。また、伝統的には白だった喪服の色を欧米風に黒に変え、広く社会に浸透させたのは遺族の靖国神社の儀礼参加だとも聞きます。欧米のキリスト教的儀礼文化を受容している靖国神社を、司教団はなぜ否定しようとするのでしょうか。〈http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/SRH1802mokutou.html


5、中国で成功したイエズス会の適応政策

 司教団メッセージは言及していませんが、1936年の指針が注目されるのは、同じ布教聖省が1659年に宣教師に与えた指針を冒頭に引用していることです。

 布教聖省が日本の信者らの懸念を払拭するため引き合いにした300年前の指針は、中国に布教する宣教団に与えられたものでした。信者の異教的儀礼参加の是非論は昨日、今日に始まったことではありません。そしてこれが、異教文化を排除しない教会の布教戦略の出発点でした。

「各国民の儀礼や慣習などが信仰心や道徳に明らかに反しないかぎり、それらを変えるよう国民に働きかけたり、勧めたりしてはならない」

「キリスト教信仰はいかなる国民の儀礼や習慣をも、それが悪いものでないかぎり、退けたり傷つけたりせず、かえってそれらが無事に保たれるように望んでいる」

「この賢明な原則」と古い指針を表現し、これを想起するのは有益である、と1936年の指針は述べています。

 それなら、17世紀の指針はどのような状況で出されたのでしょうか。

「日本最初の宣教師」ザビエルは、「いままでに発見された国民のなかで最高」と日本人を絶賛しました。そのザビエルが日本宣教の志半ばで中国大陸に渡ったのは、日本人があこがれをもつ中国に布教することが先決だ、と考えたからといわれます。

 こうして16世紀末、中国宣教を開始したイエズス会は、現地語を学び、現地語で説教し、儒者の身なりや中国流の礼儀作法を採り入れ、絶対神デウスを「天」「上帝」と表現し、さらに中国皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝に参加することを認めました。中国人が尊敬するインテリ層から布教しようという戦略でした。

 当時としては画期的な、この適応政策は功を奏し、イエズス会による中国宣教は大成功を収めました。イエズス会士は皇帝の臣下となり、高級官僚に取り立てられ、信者は増え、キリスト教は公許を得ます。

 しかし、その成功ゆえに、遅れてやってきた他の修道会の嫉妬と反感を買い、人間くさい陰湿な対立抗争を招きました。対立する修道会が適応政策をとらず、そのために迫害を受け、中国から追放されたとあればなおのことです。そしていわゆる典礼問題が発生し、孔子崇拝の儀礼参加の是非がバチカンで論争になりました。結局、イエズス会は敗北し、やがて解散させられます。

 しかし20世紀になって、適応主義は蘇ります。日本の教会に対しては1936年に靖国参拝が認められ、中国に対しては39年に孔子廟での儀式参加が許されたのです(矢沢利彦『中国とキリスト教』近藤出版社、1972年など)。

 司教団は、国家神道時代の国家による宗教統制や教会の戦争協力という誤った視点で上智大学生事件以後の歴史をとらえ、1936年の指針の有効性を見直そうとしていますが、もっと広く教会の世界布教史から考えるべきです。政教分離問題ではなくて信仰問題として、国家政策論ではなくて布教戦略論として考えるべきです。

 司教団メッセージは、1960年代に開かれた第二バチカン公会議以後、教会は諸民族の文化・伝統を尊重する態度に変わったと主張していますが、中国でのイエズス会の適応政策、そして1936年の指針こそ時代の先取りではなかったでしょうか。

 バチカンが靖国参拝を認めたのは、日本政府の宗教統制に受け身的に迫られた結果ではなく、数世紀間におよぶ教会の積極的布教戦略の成果でしょう。初期のイエズス会は、異教文化を否定する布教が文明的に発達した日本や中国などでは通用しないことを見抜き、バチカンも理解したのでしょう。

 もし異教世界での戦没者追悼の文化・伝統を社会的儀礼としても認めないというのであれば、否定と排除の論理を振り回し、力ずくで一神教化する以外に世界布教の道は失われ、教会が新大陸の異教文明を破壊した愚かな歴史を繰り返すことになります。ローマやケルトの文化を吸収しながらヨーロッパに浸透していったキリスト教の歴史を自己否定することにもなります。


6、結局、制定されなかった神社法

 司教団メッセージは、昭和戦前期の宗教統制を批判しますが、逆に、この時期、キリスト教会は法的に認められた、というのが正しい見方でしょう。

 日本初の宗教基本法たる宗教団体法が成立、公布されたのは戦時体制下の昭和14年です。最初の法案が議会に提案されて以来、じつに40年の歳月を経て、名前も改まり、非常時の波に乗って国会を通過したのでした(杉山元治郎『宗教団体法詳解』昭和14年)。

 同法は第1条で「本法において宗教団体とは教派神道、仏教宗派およびキリスト教その他をいう」と定め、「弾圧と迫害」どころか、キリスト教を公認しています。

 一方、神道については「教派神道」とあるだけで、宗教団体法は神社を宗教団体としては認めませんでした。これは教会が主張するように、「宗教法人とはせず、宗教を超越したものと位置づけた」(前掲「非暴力による平和への道」)からでしょうか。そうではなく、当時の政府には、神社は神社法によって位置づけようという考え方があったのでした。

 当時の帝国議会の議事速記録には、プロテスタントで、戦前から国政に参加し、戦後は衆院副議長を務めた杉山元治郎議員と、荒木貞夫文相、木戸幸一内相の次のような質疑応答が記録されています。

杉山「神社を宗教団体法の外に置いているが、神社法を制定するのか、神社は宗教だという人もいるが、宗教ではないという人もいる。神社は宗教以上のもの、超越したものと位置づけるために宗教団体法には包括しなかったのか。特別の神社法を制定しようということなのか」

荒木「神社が宗教であるか否か、議論があるが、神社は『国家の宗旨』であり、宗教の外にあるとされている。神社法の制定によって定められる」

木戸「昭和四年以来、神社制度調査会を設けて、慎重に研究している。神社法の制定は慎重に考慮すべき点があり、議会への提案は未定である」

 戦時体制下の議会にキリスト教徒の議員がいて、率直な議論が交わされ、官報に記録されていたことこそ、迫害の不在の何よりの証明ですが、ともあれ神社法制定は困難でした。浄土真宗は神社非宗教を主張し、逆にキリスト教は、神社は宗教だと見ていました。神社側にも多様な意見がありました。文部省と内務省にも姿勢にズレがあり、結局、神社法は制定されませんでした。

 日本の教会が主張するように、戦前の政府が宗教を超越したものとして神社を位置づけたのではなく、行政上の位置づけに成功しなかったというべきでしょう。そしてそのツケは、宗教行政の混乱となって、いまも続いています。

 さて、戦後です。司教団メッセージは、戦後、国家神道が解体され、靖国神社は一宗教法人になった、と時代の変化を指摘しますが、司教団の国家神道論は根拠があるのでしょうか。

 戦時国際法は占領軍が被占領国の宗教を尊重すべきことを規定し、ポツダム宣言には「宗教・思想の自由は確立せらるべし」の項目があります。ところがGHQはこれらに公然と違反して日本の宗教に干渉しました。

 それは「国家神道」に対する誤解と偏見があったからです。アメリカは戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、これが「侵略」戦争を導いた、と理解し、国務省は「国家神道の廃止」を方針としていました。

 その中心施設と考えられていた靖国神社は、アメリカ軍の東京進駐後、「焼却」が噂になっていました。それを救ったのは、戦時中、上智大学の院長だったビッテル神父のマッカーサーへの進言です。

「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う義務がある」(『マッカーサーの涙─ブルノー・ビッテル神父にきく』朝日ソノラマ編集部編、昭和48年)。進言は明らかに1936年のバチカンの指針を踏襲しています。

 神父の助言で靖国神社は救われましたが、昭和20年の暮れには、いわゆる神道指令が発布されました。「目的は宗教を国家より分離するにある」と規定しつつ、実際は拡大解釈で日本の民族宗教である神道に対して差別的圧迫が加えられました。

 靖国神社が一宗教法人となったのは翌年ですが、そうしなければ解散したものとみなされるというせっぱ詰まった状況下でのぎりぎりの選択でした。

 しかし占領後期になると、GHQの対応は変わり、神道指令の「宗教と国家の分離」は「宗教団体と国家の分離」に解釈が変更されます。

 占領中の宗教政策を担当したGHQ職員のW.P.ウッダードは、「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている」とのちにある論攷に書いています(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4、昭和31年所収)。アメリカが敵視した国家神道の幻影がもはや消えています。

 緩やかなアメリカ型の政教分離主義に解釈変更されたからこそ、昭和26年、貞明皇后の御大喪はおおむね皇室の伝統に従って行われたし、カトリック信者だった有名な永井隆博士の公葬が長崎市葬というかたちで浦上天主堂で行われました。同じ年、吉田茂首相は6年ぶりの首相の靖国参拝を果たしました。

 かつて神社焼却を強硬に主張したGHQは首相参拝を認めたのです。その後、長崎市の市有地にイエズス会が二十六聖人記念館および巨大レリーフを建設することも認められました。

 とすれば、司教団メッセージは「教会は国家に拘束されてはならない」と述べて、現憲法が完全分離主義の立場をとっているかのように理解していますが、間違いでしょう。ウッダードが指摘したように、絶対分離主義は宗教の否定につながります。

 ちなみにアメリカでは、「全国民の教会」と位置づけられるワシントン・ナショナル・カテドラルで、しばしばホワイト・ハウスの依頼によって公的な追悼ミサが行われ、歴代大統領や政府高官が参列します。イギリスでは毎年11月に戦没者追悼記念碑セノタフで政府主催の式典が行われ、国教会のロンドン司教が短い儀式を行います。

 これらは日本の司教団の論理に従えば、政教分離違反となるのでしょうか。イスラムや仏教を信じる国民にとって、両国には信教の自由がないことになるのでしょうか。


7、戦後、バチカンが再確認した適応政策

 信者の靖国神社参拝を祖国に対する義務として許可した1936年の指針は、靖国神社が宗教法人となり、第二バチカン公会議を経験したいまとなっては、「そのまま現在に当てはめることができない」と司教団は無効性を主張しています。

 偏見をもって歴史を回顧し、バチカンの指針を「もう古い」といって有効性を否定する司教団の判断にバチカンは同意しているのか、といえば、そうではありません。

 1951年、布教聖省は1936年の指針を確認する新たな指針を与えています。「戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民儀礼と見なされてきた。この数世紀間に儀式の意味は変化した。だから靖国参拝は許可され、教皇特使は(昭和12年に)参拝したのだ」。「数世紀間」という表現に、異教文化の排除から容認へという世界宣教史の変遷が明確に感じられます。

 バチカンの指針を見直すべき権限は、当然、バチカンにあります。そしてバチカンが70年前の指針を見直し、神社参拝を禁止した、とは聞きません。

 時代の変化は無論ですが、異教の文化・伝統を尊重し、戦没者慰霊を国民儀礼として容認し、参加を許可する1936年の指針の精神は、第二バチカン公会議以後、逆に重要性を増している、と考えるべきでしょう。

 ところが、日本の司教団は戦後の新しい指針についてまったく触れず、そのうえ公会議を根拠にして戦前の指針を切り捨て、改憲阻止という政治行動に突き進もうとしています。まるで反バチカン的分派活動であり、聖職者の召命からの逸脱ではありませんか。

 かつて聖書と讃美歌を手に特攻機に乗った若者もいます。そのようにして祖国に一命を捧げた兵士たちが、靖国神社には生前の思想・信条などの別なく合わせ祀られています。神社は国民的慰霊の場であり、戦死者との魂の交感の場です。カトリック教会はむろん死者との交流を認めています。

 岡田大司教様、どうぞ靖国神社にお詣りください。教皇様がイラクで落命したイタリア人兵士を「わが息子」と呼び、追悼したように、日本の教会の立場を代表して、国に殉じた信者たちを追憶し、主なる神に感謝を捧げ、平和を祈るのは、大司教様のつとめのはずです。

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神饌になった南蛮菓子「金平糖」──靖国神社創立130年とザビエル来日450年 [靖國神社]

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神饌になった南蛮菓子「金平糖」
──靖国神社創立130年とザビエル来日450年
(「神社新報」平成11年8月16日号から)
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 先月(7月)上旬、2万灯を超える灯籠の飾り付けなど、みたままつりの準備で大わらわの靖国神社を訪ねました。同社では金平糖(こんぺいとう)が神饌として神前に供され、参拝者に授与されると聞いたからです。

 はて、金平糖といえば、もともとはポルトガル語で、たしかキリスト教の宣教師が信長の時代に日本に伝えたのではなかったか。それがなぜ、よりにもよって、外国との戦争で非命にも戦陣に散った戦没者をまつる靖国神社で献饌されるようになったのか──。

 知りたがりの虫がうずき出しました。それはキリスト教の裏面史とつながっているのでした。


▢ザビエル来日から450年
▢日本宣教はなぜ企てられたか

 南蛮菓子の金平糖が日本に伝わったのは、いうまでもなくキリスト教伝来と関わっています。そこでまず「最初の宣教師」フランシスコ・ザビエルの来日を振り返ってみます。

 折りしもいま(平成11年)、全国6都市を巡回して「来日450年」を記念する「大ザビエル展」が開催されています。先月は東京・池袋の美術館が会場となりました。展覧会は残る3都市で12月まで開かれる予定といいます。

 展覧会のほか、記念行事は各地で催されています。日本のカトリックにとって、450年前のザビエル来日の意義は大きい。西暦2000年の「大聖年」とも関わっているからです。

 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は5年前に「使徒的書簡」を発表し、イエス・キリスト生誕から二千年目に当たる西暦2000年を「大聖年」と位置づけました。「すべての人が救いの力にあずかることができる」ような「解放」の年とすべく準備が進められているのです。

 ユダヤ教やイスラム教、東方教会やプロテスタントとの関係改善または和解、さらには6月のケルン・サミットで決まった低開発国の「債務帳消し」のためのキャンペーンなどはその一環のようです。

 日本国内でも「大聖年」に向けた記念行事が目白押しで、その幕開けは平成9年の「26聖人殉教400年」のミサでした。

 天正15年(1587年)に豊臣秀吉がバテレン追放令を出して以後、日本はキリスト教禁教、鎖国へと導かれました。9人の宣教師をふくむ26人のキリシタンが長崎で処刑されるのは慶長元年(1597年)で、それから400年後、「殉教の地」に教皇特使を迎え、記念のミサが行われたのです。

 それではわずか38年のあとに迫害と殉教の悲しい結末を招くことになるザビエルの日本宣教はなぜ企図されたのでしょうか。ザビエルは「東洋の使徒」とも呼ばれ、最果ての地に神の福音と西洋の新しい文化をもたらした「平和の使徒」として描かれるのが常ですが、そうした理解だけで十分なのかどうか。

 生い立ちから振り返ってみると、ザビエルは1506年、フランスとスペインにまたがるバスク地方のナバラ王国に、貴族の末っ子として生まれました。

 パリ大学に留学中、イグナチウス・ロヨラと運命的な出会いを果たし、修道士への道を選びます。34年8月15日、ロヨラら同志7名がパリのモン・マルトルの聖堂で「清貧」「貞節」「聖地巡礼」の誓いを立て、これがのちの修道会イエズス会に発展します。

 40年、ポルトガル国王ジョアン3世の要請によってイエズス会のインド宣教が企てられます。国王は東洋の国々をキリスト教に改宗させることが自分の義務と考えていました。

 ザビエルがインド西海岸のゴアに到着したのは42年です。ゴアは1510年にポルトガル第2代総督アルブケルケに攻略されたあと、教皇パウロ5世によってカトリックのアジア伝道の中心地と定められていました。

 その後、ザビエルはマレー半島のマラッカに渡り、「アンジロウ」という名前の日本人と出会います。知識欲が旺盛で、理解力にすぐれたアンジロウとのめぐり合いは、ザビエルに日本行きを決意させました。

 ザビエルはジャンク船に乗り、ちょうど450年前の天文18年(1549年)8月15日、鹿児島に上陸します(『聖フランシスコ・ザビエル全生涯』など)。


▢日本人を高く評価したザビエル
▢武力征服が宣教の隠れた目的

 フロイス「日本史」(ザビエルの同志ルイス・フロイスが書き残した克明な記録)の完訳者として名高い京都外国語大学の松田毅一教授によると、ザビエルはするどく日本人を観察し、じつに高い評価を与えていました。

 来日の翌年、鹿児島からゴアに出された長い手紙にザビエルは、

「私たちが知り得たかぎりではこの国の人々はいままでに発見された国民のなかで最高で、日本人よりすぐれた人々は異教徒のなかでは見いだせないだろう」

 と述べ、富よりも名誉を重んじる「キリスト教の諸地方の人々がけっしてもっていないと思われる特質」を指摘しています。

 また、フロイスに対しては、

「日本人は、文化・風俗および習慣において、多くの点ではるかにスペイン人に優る」

 とまで語ったといいます。

 ザビエルは天文19年に上洛します。日本宣教の勅許を願い、学僧と法論を交わしたい、というのが前々からの希望でしたが、後奈良天皇との謁見は果たせず、比叡山では門前払いを受けます。そのころの都は戦乱で荒れ果て、天皇は史上もっとも悲惨な境遇にあられました。

 翌年、ザビエルは日本でもっとも繁栄する山口の領主14代大内義隆に拝謁します。インド総督の使節として絹の衣をまとい、総督の親書をたずさえ、望遠鏡やオルゴールなどの珍しい品々を奉呈すると、義隆は布教を許可し、廃寺となっていた大道寺を宿舎として与えました。この大道寺が日本で最初のキリスト教会とされます。

 天文20年、日本をあとにしたザビエルは翌年、中国・河南沖の孤島サンシャン島で病没します(松田『南蛮のバテレン』など)。

 ところで、カトリックの世界宣教は、教皇アレキサンデル6世が1493年の勅書でポルトガル、スペイン両国王に対して、新たに領有した地方に宣教師を送り、カトリック信仰の弘布を勧告したことに始まります。

 キリシタン史研究の第一人者、慶応大学の高瀬弘一郎教授によれば、カトリックの世界宣教はスペイン、ポルトガルによる武力征服の隠れた目的がありました。

 キリスト教の布教は、航海、征服、植民、貿易という世俗的な事業の一環として進められました。イベリア2国による「世界2分割征服論」という荒々しい野望とカトリックの勢力拡大という宗教活動が、教皇の名のもとに一体化して推進された、と高瀬氏は述べています。

 とくにマゼランの世界一周達成以後は、両国のあいだで、香料を産する東南アジアのモルッカ諸島をめぐる争奪戦が展開されました。

 日本に対する両国の関心は銀だったようです。その点、ザビエルが離日後、両国王に対して日本の征服は不可能だから断念するように進言する手紙を書いていることは注目されます。

 しかし1575年、教皇グレゴリウス13世の大勅書によって、日本はじつに「ポルトガル領」と認められています(高瀬『キリシタン時代の研究』など)。

 松田氏によれば、かつてイエズス会の本部があったローマのジェズ教会には、ザビエルの切断された右腕とロヨラの遺骸が安置されています。聖堂の左側には天使が悪魔を踏みつけている大理石の彫像があり、悪魔には

「カミ、仏、阿弥陀、釈迦」

 とラテン語で刻まれているそうです。

 カトリックは異教の神々を「悪魔」と同一視しました。そしてたとい武力によって異教徒を改宗させ、領土を奪い取ったとしても、それは神の御旨にかなったことと考えられたのです。

 ジェズ教会の、せめて写真でも、「ザビエル展」に出品されていないかと期待して出かけたのですが、どこにも見当たりませんでした。そのかわり「26聖人殉教図」や踏み絵はあります。過酷な迫害は正視に耐えませんが、禁教・迫害を導いた背景の説明はこれまたほとんどありません。「ヨーロッパとの出会い」「異文化交流」は説明されていますが、「侵略」も「征服」も語られていません。


▢最初はフロイスが信長に献上
▢靖国の献饌は昭和50年代から

 金平糖に話を転じましょう。

 最初に文献に現れるのは織田信長の時代のようです。フロイスは永禄12年(1569年)、6〜7000人が働く建設中の京都・二条城で、といっても堀橋の上という如才ない場所で、工事を監督している信長に謁見し、布教許可を願い出ました。このときガラス瓶入りの金平糖1瓶とロウソク数本を贈った、とフロイスは手紙に書いています。

「これなるは南蛮菓子にござりまする」

「何と申すものか?」

「コンフェイトと申しまする」

 という会話が交わされたかどうかは分かりませんが、金平糖の語源はポルトガル語で「砂糖菓子」を意味する「コンフェイト, confeito」だといいます。金平糖は「日本侵略」の文字通りの「アメ」だったのでしょうか。

 時代はくだり、江戸時代の文学者・井原西鶴が書いた『日本永代蔵』という浮世草子(小説)があります。今風にいえば、

「こうすればあなたも百万長者になれる」

 といった類の事例集です。その巻之五に金平糖を作った男の話が載っています。

 製法が知られないため、輸入品を「唐目1斤銀5匁」で買い求めていた金平糖が近年、値下がりし、広く出回るようになったのは、この男がゴマつぶを種とする製造法を編み出したからである。男は長崎の町人で、2年間の苦労の末、製法を見出し、たちまち大金持ちになった、というのです。

 その後は家庭でも作られるようになったようですが、近代を経て昭和初期には逆に忘れられた存在になりました。寺田寅彦の随筆に、最近はキャラメルやチョコレートに押されて駄菓子屋でも見かけなくなった、とあります。

 ところが数年ののち、金平糖は兵隊の携帯食として再浮上します。考案したのは陸軍糧秣本廠に勤務していた川島四郎主計大尉(のちに少将)といわれます。

 経緯はこうです。昭和10年前後、日本はソ連が日露戦争の雪辱を期して満蒙奪回のために侵攻することを予想し、防衛のためにモンゴル砂漠を突破し、シベリア鉄道を寸断する作戦を立てました。このために新しく考案されたのが金平糖入りの乾パンでした。

 それまでの軍用乾パンは歌ガルタほどの大きさで、かたくて食べにくかった。それを麻雀牌ほどに小さくし、甘味をつけるために金平糖が加えられたのです。

 素っ気ない乾パンの袋からなつかしい金平糖が出てくる。荒涼たる砂漠を行軍するオッチャン兵もインテリも歓喜の涙を流した──と川島は書いています(『食糧研究余話』など)。

「創立130年」を迎えた靖国神社によると、春と秋の例大祭に50台の神饌に混じって金平糖が献饌されるようになったのは、意外にも新しく昭和50年代で、菓子のひとつとして煎餅やおこしなどとともに三方に積み上げられ、撤下後、参列者にわかたれます。

 もしかしたらそれ以前に供されていたかも知れないともいうのですが、はっきりしたことは分かりません。とはいえ、十分な糧秣もなく病や飢えのため、悲運にも斃れていった英霊のよき慰めであろうことは間違いありません。

 それにしても、金平糖はよくよく戦争と縁があります。

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「緑の連隊長」吉松喜三大佐 [靖國神社]

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「緑の連隊長」吉松喜三大佐
(「神社新報」平成10年10月12日号から)
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 戦時中、広大な中国大陸を転戦しながら、日中戦没者の慰霊と平和への祈願を込めた緑化を推進し、「緑の連隊長」と呼ばれた軍人がいる。吉松喜三陸軍大佐(故人)である。

 吉松氏は明治27年、佐賀県鳥栖市に生まれた。支那事件勃発後の昭和14年、戦車第13連隊が結成されたときに初代連隊長となり、中支戦線で戦った。

 15年7月、揚子江北方で被弾し、左脇腹をえぐられるという重傷を負ったのが転機となった。

 かろうじて一命を取り留めたものの、野戦病院では絶対安静を強いられた。床の中で心に浮かぶのは、戦陣に散っていった部下のことであった。

 ある日、砲弾が轟くなか、美しい讃美歌が聞こえた。起き上がって外を見ると、洋館の緑の木立のなかで、白人らしい2人の尼僧と中国人らしい数人の尼僧が歌っていた。

「そうだ、緑だ。いつ果てるとも知れぬ戦いにすさむ兵士の心を和ませるのは緑であり、散華していった戦友の御霊(みたま)を慰めるのは緑だ。戦没者の慰霊と荒廃した中国の緑化のために、植樹をしよう。わが部隊の行くところ、緑を植えよう」

 退院後、吉松氏は全将校の前で、

「興亜植樹の即刻開始」

 を宣言、植樹が始まった。

 破壊ばかりが戦争ではない。建設の伴わない破壊は聖戦ではない、と吉松氏は考えたらしい。

 転戦するたび、荒野に、あるいは原野に木が植えられ、散華者の名札がつけられた。

 16年3月、「中国独立の父」孫文の命日には、中国人捕虜80名にも1本ずつ記念の植樹をさせた。捕虜たちはニコニコしながら、柳の挿し木にスプーンで水をかけた。

 日米開戦後は蒙疆に転戦し、戦車第三師団・機動歩兵第三連隊でも植樹が進められた。

 植樹ばかりではない。士官には中国語を学ばせた。道路を整備し、上下水道を引き、公会堂を建設し、お寺や教会、学校を修復した。住民と宥和し、語族共和の楽土を築いた。

 その後、河南に転じて、山地戦車師団が洛陽を総攻撃したときは一番乗りで、鄭州での慰霊祭では日中双方の戦没者のために100本の弔霊樹を植えた。

 終戦まで、いや復員の日まで慰霊の植樹は続けられた。植えられた木は100万本を超えるという。

 敵将は功績を認め、帰国する吉松氏に「国父孫文先生の肖像額」と感状を与えた。

 吉松氏が作詞した「興亜植樹の歌」にこうある。

聖き興亜の朝風に
狭霧晴れ行く大アジア
今ぞ十億手をとりて
創る理想の大樹海

 戦後、復員してからも、吉松氏は各地で慰霊祭を営みながら、植樹を続けた。

 ところが、なかなか苗木が手に入らない。悩みを抱えながら靖国神社に参拝すると、境内には鬱蒼と緑が繁っていた。

「献木の枝分けや木の実を育てることはできないだろうか」

 神社側の協力を得て、境内の木の実や種を拾い、イチョウやサクラなど、数十種の苗を育て始めたのが33年。36年からは同期の戦友らの支援を受けて、「靖国神社慰霊植樹会」を結成、相撲場のかたわらに苗園を設けて苗木を育て、全国の公園や学校、遺族や戦友、崇敬者に配布した。

 雨の日も風の日も、一日も欠かさず、神社に通い、植樹活動を続けた。苗木は中国大陸へも送られた。

 37年7月、内蒙古安北県の人民委員会から手紙が届いた。

「あなたの植えた木が6メートルほどに伸び、青々と繁っている。私たちの友好が幾山河を越え、心と心が繋がり、世界平和が実現されますように」

 手紙を握りしめながら、吉松氏は男泣きに泣いた。

 遺族や参拝者に頒布された苗木は、優に100万本を超える。

「緑は平和の基だ。靖国とは青を立てて国を安らかにすることだ」と語り、慰霊と平和のための植樹に半生を捧げた吉松氏は、昭和60年6月、90歳でこの世を去る。

 その日、靖国神社から感謝状と記念品が届けられたという。(社報「靖国」その他を参照した)

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