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精粟はかく献上された──大嘗祭「米と粟の祭り」の舞台裏 [大嘗祭]

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精粟はかく献上された
──大嘗祭「米と粟の祭り」の舞台裏
(「神社新報」平成7年12月11日号から)
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画像は昭和の大嘗宮(『昭和大礼要録』昭和6年から)
昭和の大嘗宮.png

 平成2年11月22日の夕刻から翌朝にかけて、平成の大嘗祭「大嘗宮の儀」が皇居・東御苑に設営された大嘗祭で斎行された。

 テレビに映し出される幽玄な儀式の模様を多くの国民が見入ったのと同じころ、遠く秋田県の山間の町には人一倍深い感慨を抱きながら、画面を見つめる1人の篤農家がいた。

 北秋田郡に位置し、真冬には2メートルもの雪が積もるという町は、その晩、しんしんと冷えたが、男の分厚い胸には充実感と感動とに包まれていた。

 その人の名は、鎌田勝巳さん(仮名。当時54歳)。供饌の儀に用いられる精粟を供納した人物である。

 粟献上の舞台裏を現地で取材した。


▢8年前に始まった栽培
▢きっかけは町長の発案

「大嘗祭に使われる粟を献上してほしい」

 という趣旨の斡旋依頼が県農政部、県農協中央会を経て、町の農協から鎌田さんのもとに電話で非公式に伝えられたのは、

「その年の5月末、ちょうど粟の種蒔きが始まるころだった」という。

 鎌田家は代々、鎮守社の神職を務める名家だったようだ。同家はまた、県北地方の特産品となっている樺細工のルーツで、とくに胴乱は江戸期には関東や関西から注文が殺到するほどの評価を得ていたらしい。

「いっしょに粟を栽培している仲間が大勢いるから、みんなで頑張れば大丈夫だろうと楽観的に考えて、『はい、分かりました』と答えました」

 正式に県農協中央会が、精粟の供納者として鎌田さんを宮内庁に推薦するのは、9月下旬のようである。
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 神饌用精粟献上の依頼は、粟栽培に挑戦してきた努力が公的に認められた証であり、名誉であることには違いなかったが、鎌田さんにまったく不安がなかったといえば、ウソになろう。

 じつは鎌田さんが同じ集落の仲間たちと粟を栽培し始めたのは、それからわずか3年前のことだった。発端は町長の呼びかけという。

 全国にその名を知られた詩人町長は、町が合併成立した昭和30年に30歳の若さで就任してから、今年(平成7年)1月まで、連続10期、40年ものあいだその職にあった。

「子供のころは粟餅などにして、この辺でも粟をよく食べていた。焼き畑ではまず粟を植えたものです。

 ところが、戦後まもなく作らなくなった。食糧増産で陸稲が作られるようになり、価格では太刀打ちできない粟は作る人がいなくなった」(前町長)

 しかし米の減反政策と高齢化社会、それと健康ブームが粟を復活させた。いまから8年前の昭和62年のことである。

「転作作物に粟を作ってはどうか、と農家に働きかけた。粟は値は安いけれども、アトピー性皮膚炎に効果があるなど、健康食品として優れている。町の年寄りたちには畑仕事は健康維持にもつながる」

 と前町長は採算性より健康を強調する。そしてこれが日本の農業の生き残りの道だという。

「ある本には、鎌倉武士は賓客をもてなすのに精粟を用いたと書いてあった。中国にも同じような習慣があったそうで、粟をバカにしたものではない」

 粟栽培の中心になったのが、鎌田さんだった。町の農業総合指導センターの指導員を務め、仲間から一目置かれる存在だったようで、話は早かった。

 農業改良普及所と連携して青森県農業試験場から数種類の粟の品種が取り寄せられ、25人の仲間による試験栽培が2反歩ほどの休耕田でスタートした。

 はじめて作る作物だけに苦労は多かった。

 第一は、どの品種が最適か? 4種類の品種のうち、ネコノアシとトラノオが残った。中国種は冷害に弱かった。

 最終的に、穂が大きく、鮮やかな黄色い実のトラノオが選ばれた。モチ種で、炊くと粘りが出るのも好ましかった。

 機械化が難しいのもネックだった。当初は刈り取りから乾燥・調整までぜんぶ手作業だった。

「ビニールハウスで乾燥させたら、スズメの大群につつかれて、たいへんな目に遭った」こともある。

「脱穀は稲用の機械だとぜんぶ飛ばされてしまうので、ビール瓶でたたいて、実を落とした」

 最後は鎌田さんが手作りで粟用の機械をこしらえた。

 栽培開始から3年、ようやく栽培のメドが立ったところへ、献上の話が飛び込んできた。

 悠紀国(ゆきのくに)に決まった秋田県で、粟を大規模栽培しているのはこの町だけだったというから、「御指名」にあずかるのはごく自然のことだったようだ。


▢「緊張の連続」だった半年間
▢町で知っていたのは5人だけ

 精粟の供納を快諾したものの、鎌田さんたちにとって、刈り入れまでのその後の半年間は、さすがに「緊張の連続だった」という。

 2月下旬に悠紀国・主基国(すきのくに)が點定されてから、3か月あまりが過ぎ、マスコミが報じる御大典関連のニュースが増える一方で、過激派による神社のゲリラ放火事件なども起きていた。

 鎌田さんの両肩に、責任の重さが痛いほど感じられたであろう。

「献上のことが知れて畑に放火されるというのも心配だが、面白半分に穂を抜いていく不心得者も困る。警察からは、警備のため絶対に口外しないように、と要請された。所管の警察署から毎朝、私服の警官が2人、警備に通ってきた」

 警察の要請には従わざるを得ないが、だからといって物々しくなればかえって不審がられる。先祖が神職だっただけに、「畑のお祓いをしようかと思ったが、手控えた」という。

「畑が家のすぐ裏だったのが幸いだった。町では町長や担当課長など5人しか知らなかった。いまでも、粟作りの仲間内でも、知らない人がいる」

 人口が1万人もいないこの町で、精粟供納の事実は、いまなおほとんど知られていない。

 こうした警備第一の秘密主義に、いまも腹立たしさを隠さないのは、当時、秋田県神社庁長だった石沢久英さんである。

 石沢庁長が悠紀斎田の大田主を知ったのは、なんと9月の報道発表の直前だった。

「秋田では卜定以来、13か所に奉祝田を定め、全県的に御大典を盛り上げようと努めた。斎田はできれば奉祝田のなかから決めてもらいたい、との期待もあった。

 祭儀について、宮内庁関係者から内々に協力を依頼されたが、稲が大きくなり、夏が過ぎて、出穂期を迎えようとしているのに、大田主は明かされなかった」

 県全体が悠紀国だとして、奉祝に努める石沢庁長らは、警備当局による撹乱戦術の最大の協力者でもあるはずだが、情報日照りの状況に置かれていたことになる。

 数カ所の候補地から悠紀斎田が最終的に確定するのは9月中旬のようだから致し方はないが、業を煮やした石沢庁長は、9月下旬、県警本部に乗り込んだ。

「いつまでも秘密にするなら、こちらにも考えがある」

 とすごんで見せて、ようやく深山健男県警本部長は重い口を開いたという。

「じつは斎田は決まっている。あなた方には迷惑をかけるが、箝口令とはいかないまでも、情報管理が厳しくて、明らかにできない」

 宮内庁が秋田・悠紀斎田の大田主を記者発表したのは、それから2日後の9月25日で、そのときはすでにかなりの数の宮内庁職員が準備のために秋田入りしていた。

 それ以降の神社庁は「慌ただしかった」。

 なにしろ記者発表の2日後、27日の午後は斎田抜穂前1日大祓の儀、その翌日の午前には抜穂の儀が行われる。

 しかし祭儀の当日、400名もの警官が張り付く斎田は、「近づくのも容易ではなかった」という。

 他方、鎌田さんと町役場の担当の女性課長も、慌ただしい日々を迎えていた。

 粟が収穫される10月中旬、県農業中央会から、天然秋田杉の白木の箱が郵送されてきた。毎年、新嘗祭に献上される秋田県の献納米が秋田杉の箱に収められていることから、それに倣ったものだという。

 課長が手作りで、箱に白い絹布を張り、手製の絹紐を2本付けた。

 精粟の乾燥は「農協の豆の乾燥機を使って、2人でこっそり行った」。


▢大礼委員が「きれいな粟」と
▢下賜の木盃で祝杯をあげる

 10月下旬、鎌田さんは真新しい絹の袋に詰められたうえに杉箱に納められた7・5キロの精粟を携えて、上京した。

「秋田市で、米の新穀を献上する大田主夫妻や県農協中央会の代表者などと合流した」。

 翌25日の午前、悠紀国・主基国の献納者がそろって参内、斎庫の前で新米および新粟の献納の儀式が行われた。

 黒の礼服に白ネクタイの鎌田さんは前に進み出て、大礼委員の確認を受ける。

「緊張しました。箱を開けて、なかの粟を見ていただくのですが、『たいへんきれいですね』とお褒めの言葉を頂戴して、やっと肩の荷が下りました」

 ほかの献納者たちも同じ思いであったろう。

「陛下と同じメニューだという和食のお昼をみんなでいただいて、そのあと皇居内を1時間ほど案内してもらいました。もちろんはじめてです」

 厳重な警戒のもとで造営中の大嘗宮が白幕で覆われているのが見えたという。

 翌日、自宅に戻った鎌田さんに、

「大任を果たして、ご苦労様でした」

 と奥さんがねぎらいの言葉をかけた。

 その晩、親戚が集まった。鎌田さんは下賜された漆塗りの木盃で祝杯を挙げた。

 秋田の美酒がのどを通り過ぎていくそのときこそ、半年の苦労を忘れる瞬間であったに違いない。

 やがて平成の大嘗祭が終わって、鎌田さんの自宅に、献上された精粟を納めていた杉箱が「特別の計らい」によって返送されてきた。いま木箱は床の間に飾られている。

 粟作りの今後の課題を聞くと、鎌田さんは答えた。

「面積を増やしたいが連作障害などがあって、なかなかできない。栽培農家の高齢化も問題です。粟は穂が大きくて、刈り取りの機械化が難しいから」

 意欲はまだまだ盛んだ。今年の作付面積は1町歩。「規模では日本一」と胸を張る。

「私は1週間に一度は必ず粟ご飯を食べています。ほんとうは干し餅にすると美味しい。サクサクとして、モチ米の干し餅より味がいい」

 町では板チョコ状にのした、粟70パーセント、米30パーセントの粟餅のほか、粟煎餅や粟クッキーを、第三セクターの工場で生産し、名産品として売り出し中だ。

 これらもまたアイデア町長の発案らしい。

「たくさんの『ムラ』が連携したのが本来の『国』のはずで、私は顔の見える範囲で、小さな場所からの『国おこし』に努めてきた。

 カネやモノしか見えないようでは、人間はおしまいだ。引退してからは、文化面での町おこしに専念している。

 早く政治家を辞めるべきだった、というのが、40年間の結論です」

 町の歴史そのものというべき前町長の発言は、含蓄が深い。

 鎌田さんといい、この町長といい、平成の大嘗祭はよき人たちに恵まれたというべきだろう。天の配剤であろうか。


▢「一君万民」「万民平等」の神髄
▢なぜ神前に米と粟を捧げるのか

 最後に、平成の大嘗祭がなぜあれほどに厳重な警備体制、秘密主義が採られなければならなかったのか、について考えてみたい。

 そもそも警備当局は秘密主義説を否定する。

 たとえば、当時、秋田県警本部長で、現在(平成7年当時)、警察庁審議官を務める深山さんは基本的見解の違いを主張する。

「私どもは過剰警備とは思っていない。ごく一部の人たちが思っているだけであって、見解がまったく違うのではないか。(秋田県)護国神社は対象になっていなかったから、ああいう(過激派にゲリラ攻撃され、社殿が全焼するという)結果になったが……」

 宮内庁サイドも同様である。職員でさえ、その多くが大田主を知るのは9月の報道発表時のようだが、それでも、祭儀課長を務めた鎌田純一・元皇學館大学教授は、

「過激派と同時に訴訟グループの妨害があった。過剰警備といわれるが、いちばん斎田のことを御懸念されていたのが陛下だった。

 警察は反対派の動きをつかんでいたのだろう。庁内では大嘗祭延期、中止の事態も想定して進めていた。

 精神論だけでは不十分だ」

 と警察の肩を持つ。

 たしかに現実論ではそうかも知れないが、天皇一世一度の大嘗祭が持つ祭りの精神、とくに米と粟の儀礼という観点から考えてみたい。

 秘儀中の秘儀とされる大嘗宮の儀の神饌御進供で、新帝が手ずから、天照大神ほか天神地祇に捧げ、みずから召し上がるのは米と粟の新穀であって、米だけではない。

 にもかかわらず、大嘗祭は一般には「稲の祭り」といわれる。米の供納者は「大田主」と呼ばれるのに対して、粟の場合は呼ばれない。なぜであろうか?

 大嘗祭の粟の関する研究はほとんどないようだが、民間では『延喜式』の時代から、粟の新嘗が存在したのは、歴史的な事実らしい。

 奈良時代に成立した日本初の地誌のひとつ『常陸国風土記』に、母神が御子神を歴訪する、筑波郡の物語が載っていて、「新粟(わせ)の新嘗」「新粟嘗(にいなめ)」の語が見いだされる。

 そのむかし、新嘗祭は村を挙げて潔斎し、女性や子供は屋内にこもって、産霊の神との交流を持ち、客人を家中に入れることをはばかったらしい。

 それはともなくとして、なぜか、『日本古典文学大系』の校注者である秋本吉郎先生は、この「粟」は「脱穀しない稲実」と理解している。

 神社本庁職員(当時)の落合偉洲さんは、論文「新嘗祭と粟」で、

「宮中祭祀としての新嘗祭は、民間の素朴な新嘗が母体になっていると考え、宮中新嘗祭における粟は、その残影と理解することは無理であろうか」

 と書いているけれど、むしろこちらの理解の方が自然のように思われる。

 つまり、民間には米と粟のそれぞれの新嘗祭があり、宮中祭祀では両者が複合的に行われているということではないのか。しかしそれはなぜなのか?

 稲作文化と畑作文化の両方に詳しい近畿大学の野本寛一教授(民俗学。当時)に聞いてみた。

「天神地祇に米と粟を捧げる新嘗祭、大嘗祭の儀礼は稲作民と畑作民を統合する象徴として理解できるのではないか。同じ神饌の白酒(しろき)・黒酒(くろき)の黒酒は、もとは畑作民の稗(ひえ)酒であり、やはり同じ意味を持っていると思われる」

 野本教授は著書の『焼畑民俗文化論』に、稲作以前の民が粟や芋を栽培していた、この畑作文化は「海上の道」をたどって伝来したと書いている。

 ちなみに粟の原産地は東インドといわれる。

 つまり、大嘗祭は、「稲の祭り」ではなく、稲作・畑作両儀礼の複合であり、農業の収穫儀礼に源流を持つ国民統合の儀礼であると理解される。

 しかし、国の祭り主である天皇が、複合的な祭儀の執行を通じて、異なる文化的ルーツを持つ国民をひとつにまとめ上げる、という発想は、「警察国家」の発想にはない。

 そのことは警察官僚自身が認めている。

 東大紛争当時、警視庁の治安警備担当課長だった佐々淳行さんは、『東大落城』に概要、次のように書いている。

 安田講堂の攻防が決着したあと、秦野章警視総監が内奏のため参内した。昭和天皇から御嘉賞のお言葉があれば、機動隊員の士気高揚につながると期待されたのだが、帰庁した秦野総監は怪訝そうな表情を浮かべていた。

「天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。……『双方に死者は出たか?』とと御下問があった。幸い双方に死者はございませんとお答えしたら、大変お喜びでな、『ああ、それはなによりであった』とおおせなんだ」

 昭和天皇はけっして警備当局の側にだけ立ってはおられなかったのである。なぜなのか?

 名古屋大学の加藤雅信先生は著書のなかで、こう説明している。

「国民を感性レベルでも赤子(せきし)ととらえた最後の天皇であろう、昭和天皇の心情が余すところなく述べられている」(加藤『天皇』)

 昭和天皇には、安田講堂に籠城し、警備陣を手こずらせている過激派の学生たちもまた、「わが赤子」なのである。

 粟はしばしば「雑穀」とひとくくりにされるが、「雑草という名の植物はない」と名言を残された昭和天皇に、「雑穀」というご認識はなかったに違いない。

 天皇一世一度の大嘗祭が稲作民の粟と畑作民の粟による国の鎮めの儀式だと理解するなら、ここにこそ体制派も反体制派もない「一君万民」「万民平等」というひとつの政治的理想の神髄が見えてくる。

 加藤先生はさらに続けて、「機動隊と学生のやり合いを、まるで自分の息子の兄弟喧嘩みたいな目で見ている」昭和天皇の統治者像こそが、「80パーセントを超える現行天皇制の支持にもつながっている」と指摘する。

 とすれば、反対者の妨害を力でねじ伏せるために、情報を厳しく統制するような「警備第一主義」は、「国民とともにある皇室」という観点から見た場合、「よき前例」となったとはいえるだろうか?

 5年後のいま、厳しい情報管理の中枢にあった行政官の多くは、記者の取材に対して、「記憶にない」を繰り返すばかりなのであるが……。

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