So-net無料ブログ作成
検索選択
女系継承容認 ブログトップ

田中卓先生の著作を読んで──「皇国史観」継承者が「女性皇太子」を主張する混乱 [女系継承容認]

▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢
田中卓先生の著作を読んで
──「皇国史観」継承者が「女性皇太子」を主張する混乱
by 佐藤雉鳴・斎藤吉久
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢

koukyo01.gif
 いわゆる「女性宮家」創設をめぐる混乱が収まったかと思いきや、今度は「女性皇太子」論です。

 天皇制反対を唱える唯物史観論者ならまだしも、対極に位置する「皇国史観」の正統な後継者といわれ、伊勢神宮のお膝元にキャンパスを置く皇學館大学の学長などを歴任された、田中卓(たなか・たかし)先生の近著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』は、女系天皇で問題ない、「女性皇太子の誕生」こそが道理ではないか、次代の皇太子は愛子内親王殿下に、と読者をこれでもかと挑発されています。

 しかもそれが「恋闕(れんけつ)の精神」だと訴えられるのですから、穏やかではありません。

 指摘したいのは3点。①女系継承が歴史上認められていたという主張は妥当なのか、②女性天皇容認はまだしも、なぜいま「女性皇太子」なのか、③そもそも天皇のお務めとは何か──です。


1、「大宝令」が認めている?

 まず第一点です。

 田中先生は女性天皇のみならず、皇位の女系継承が古来、制度的に認められてきたというお考えのようです。

 推古天皇をはじめ、10代8人の女性天皇が歴史上、実在したという誰もが知る歴史に加えて、古代の「大宝律令(りつりょう)」にも「女帝」を認める規定があった、と主張され、継嗣令(けいしりょう)1条(皇兄弟条)を次のように引用なさいます。

「およそ皇(こう)の兄弟皇子を皆親王と為(せ)よ。女帝の子も亦同じ。以外は並びに諸王と為よ。親王より五世は、王の名を得たりと雖も、皇親の限りに在らず」(原、漢文)

 先生は、この規定によって「『女帝』の存在も、その『子』を『親王』と称することも認められている」と解説されます。「天皇の兄弟、皇子を親王と称する。同様に、女帝の子も、親王と称する」と解釈なさるわけです。

 さらに、「それもそのはずで」と続けて、大宝令選定時の文武(もんむ)天皇は、天武(てんむ)天皇と持統天皇の孫であり、同時に元明(げんめい)天皇(女帝)の皇子であって、当時、持統天皇は上皇であられたのだから、「女帝」が認められて当然だと、皇兄弟条が「女帝容認」規定であることは歴史が証明しているかのように主張されます。

 くわえて、「女帝」が古来、容認され、「女帝の子」も想定されている、すなわち女系継承が制度的に認められているのだから、現代において、愛子内親王殿下が皇位を継承し、さらにその子女が継承権を持つことも当然だ、と論理を飛躍なさいます。

 けれども、女系容認論の出発点である継嗣令1条の読解に誤りはないのか、律令全体からみた整合性、歴史との整合性があるのかどうか、かなり疑わしいのではないか、というのが私たちの問題提起です。


2、歴史を揺るがす一大事

 古代律令制は律令法による国家体制で、大宝律令は日本初の本格的な律令法です。「律」は刑法に該当し、「令」は行政法その他に該当します。

 先生は「大宝令でも『女帝』の存在を認めていて」と断定されますが、大宝律令は逸文が断片的に伝えられているだけです。

 つづく養老律令も現存しませんが、養老令については、平安期の解説書である『令義解(りょうのぎげ)』、私撰の注釈書である『令集解(りょうのしゅうげ)』に収録されていることから復元が可能で、翻って大宝律令の内容が推測されているに過ぎません。養老律令は大宝律令をほぼ継承していると想像されるからです。

 同じ継嗣令を根拠とされるにしても、厳密な学問を追究される先生が、養老令ではなくて、なぜ大宝令を引こうとされるのか、理由が分かりません。

 次に、継嗣令の中身です。

 先生の主張によれば、皇親の範囲や臣下の継嗣などを定めた「継嗣令」が「女帝」、さらに女系継承を制度として認めていたとのことですが、だとすれば、歴史を揺るがす一大事です。

 明治憲法公布に合わせて、皇室の家法として制定された旧皇室典範が「大日本国皇位ハ祖宗(そそう)ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と定めていたことも、戦後、一般法として制定された現行皇室典範が「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と規定していることも、そして歴史の事実として皇位が男系男子によって継承されてきたことが、古代律令法に背いていることになります。

 それなら皇室本来の歴史にもどすため、一日も早く皇室典範を改正し、女性天皇のみならず、女系継承を制度化すべきことは当然だ、という結論に誰しも賛成せざるを得ません。

 けれども、それは早とちりというべきです。

 第一、律令法には皇位継承に関する条文が見当たらず、天皇に関する規定それ自体、神祇令(じんぎりょう)と喪葬令(そうそうりょう)以外にありませんから、女系継承容認の法的根拠など見出し得ないのです。

 また、皇統が男系男子によって継承されてきたことは紛れもない歴史の事実であって、皇位が「女帝の子」に継承された例はありません。実在する女性天皇はすべて独身を貫かれているからです。

 先生は議論の出発点である継嗣令の解釈と女系継承容認の結論とを、逆転させているのではないですか。

「はじめに結論ありき」でなぜ悪いのか、と先生は開き直っておいでですが、ほかならぬ皇室論は、慎重のうえにも慎重を重ねる学問的態度が望まれます。


3、「女帝」という公式用語はない

『令義解』や『令集解』はネットで写本を見ることができます。『令義解』では、令本文が大きな文字で記述され、解説が細字双行で示されています。

 日本思想大系(岩波書店)の『律令』に収録されているのは、これらからの復元の成果で、継嗣令は4条からなり、1条は、まず漢文で、

「凡皇兄弟皇子。皆為二親王一。女帝子亦同。以外並為二諸王一。自二親王一五世。雖レ得二王名一。不レ在二皇親之限一。」(漢文。返り点付き)

 とあり、「女帝子亦同」は小さな文字で示されています。原注、本注とされています。

 田中先生の引用と大きく異なるのは、先生の著書には「原注」への言及が見当たらないことです。

「女帝の子も亦同じ」とする「原注」の読解は、学問的に定まっているわけではないようですが、これについても、田中先生の著書には言及がありません。

 もっとも肝心な、女帝を規定するとお考えの条文に関する異論について、検討しないどころか、紹介すらないのはなぜですか。

 継嗣令1条の本注「女帝子亦同」は不思議な規定で、古来、さまざまな議論があるようです。

 まず、母法とされる唐令には該当する定めがないようです。それどころか、「女帝」の文言はこの註釈以外には見当たりません。つまり、「女帝の子」と読むことそれ自体が怪しげです。「女(ひめみこ)、(すなわち)帝の子、また同じ」と読むべきではないでしょうか。

「天皇の兄弟・皇子を親王と称し、同様に女子も(内)親王とする」と解釈した方が意味がスッキリしませんか。

 喪葬令8条(親王一品条)の註に「女亦准此(女(ひめみこ)もまた此に准へ」とあるのと同じ意味です。

「女帝」という言葉がいつからあるのか、分かりませんが、少なくとも養老令の時代には公式用語としては存在しなかったと推測されます。公文書の様式に関する規定である公式令(くしきりょう)に「女帝」が定められていないからです。

 公式用語にないなら、「女帝の子」と読むべきではありません。

 公式令には、「皇祖」「先帝」「天子」「天皇」などの文字が文章中に使用される場合は、行を改め、行頭に書くこと(平出)や、「大社」「陵号」「乗輿」「詔書」「勅旨」などの場合は、一字分を空けて敬意を示すこと(闕字[けつじ])が説明されています。

 けれども、いずれの場合も「女帝」は例示されていません。

 養老令は元正(げんしょう)天皇(女帝)の時代から撰定が始まったとされています。先帝は母・元明天皇です。養老令が施行されたのは孝謙天皇(女帝)の治世です。それでも公式令に「女帝」はありません。

 そればかりか、この時代を記述する『続日本紀(しょくにほんぎ)』ほか、「六国史(りっこくし)」に「女帝」は見当たりません。継嗣令一条の原注を「女帝の子」と読むことに無理があるのです。


4、中川八洋名誉教授の指摘

 田中先生は継嗣令1条の本注が女系継承をも容認しているかのように解説されますが、継嗣令四条(皇娶親王条)を読めば、明らかに誤読であることが理解されるでしょう。

「凡そ王(わう)、親王を娶(ま)き、臣(しん)、五世の王を娶くことを聴せ。唯し五世の王は、親王を娶くこと得じ」(『律令』日本古典文学大系)

 この規定によって、皇女は4世王以上が婚姻の対象となり、子孫はすべて男系として存続します。事実、推古天皇や持統天皇、元正天皇も、父系をたどれば間違いなく天皇に行き着きます。

 つまり、「女帝」はまだしも、女系継承はあり得ないのであって、継嗣令1条の原注を「女帝の子」と読まなければならない根拠はまったくありません。

 部分だけを取り上げ、「最初に結論ありき」の無理な解釈を試みるのは、学問研究の道をはずれています。

 歴史を振り返ると、「女帝の子」と読まない先賢もいました。

 江戸時代に『令義解』をほぼ全編にわたって註釈した、伊勢内宮の禰宜、薗田守良は、『新釈令義解』で、「女も帝の子は同じ」と読み、「皇女も天皇の子だから、同様に親王(内親王)とする」と解釈することを提起しています。

 薗田だけではありません。

 現代において、「女帝の子」と読むことに強く異議を唱えているのが、中川八洋筑波大学名誉教授です。

 中川名誉教授は、『皇統断絶』で「養老令は、〝女系天皇の排除〟を自明とした皇位継承法である」と指摘する一方、『女性天皇は皇統廃絶』では「『女帝』という和製漢語が、701年までにつくられていたと証明されない限り、継嗣令の『女帝子……』を、『女帝(じょてい)……』とは万が一にも読んではならない」と厳しく戒めています。

「女(ひめみこ)も帝(天皇、すめらみこと)の子(こ)また同じ(に親王とせよ)」(『女性天皇は皇統廃絶』)と解釈するのが中川名誉教授の立場です。

 歴史との整合性はどうでしょうか。

 たとえば、元明天皇の4代あとの淳仁(じゅんにん)天皇のとき、「舎人(とねり)親王に『崇道尽敬皇帝』」の尊称を賜り給ふの宣命」が発せられていて、ここに継嗣令一条との関連が認められます。

 当時、朝廷の実権を握っていたのは、聖武天皇の皇后で、先帝・孝謙天皇の母にあたる藤原不比等の娘・光明子(光明皇后)でした。

 聖武太上天皇は道祖王(ふなどおう)を皇太子とするよう遺詔されましたが、結局、道祖王は廃太子となり、代わって大炊王(おおいおう。天武天皇の皇子・舎人親王の七男)が皇太子となり、淳仁天皇として即位されました。

 即位から10カ月後、光明皇后(太皇太后)から重要事項が伝えられました。それがこの宣命に記録されています。要約すると、「あなたが皇太子となり、皇位を継承して、世の中も安定してきた。ついては父・舎人親王に追号を与え、母は大夫人とし、兄弟姉妹を親王とせよ」と語られたというのです。

 こうして淳仁天皇の兄弟は親王、姉妹は内親王と称されることになるのですが、それはとりもなおさず、継嗣令1条に則った措置でした。

 小泉内閣時代に皇位継承政道について検討した皇室典範有識者会議のメンバーには、田中先生の旧知である笹山晴生東大名誉教授もおられましたが、古代史の研究者である笹山名誉教授は、『続日本紀 3』(新日本古典文学大系)で、「舎人親王を天皇とするので、その子女(淳仁の兄弟姉妹)も親王・内親王と称させる」と解説しています。どう読んでも「女帝の子」ではありません。

 同様のことは、2代のち、光仁(こうにん)天皇の時代にもありました。原注を「女帝の子」と読むなら、天皇の「兄弟姉妹をことごとく親王と称する」とされた法的根拠は何でしょうか。当時の日本は律令法に基づく法治国家なのです。


5、なぜ「愛子皇太子」なのか

 皇位継承はいつの時代もつねに綱渡りですが、皇太子殿下の次の代の皇位継承者の候補がおられない、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定める現行皇室典範からすると、継承者が絶えてしまいかねない、という論理で、女子にも継承権を認めるほかはない、という女帝容認論が台頭したのは平成十年ごろのことでした。

 当時は、皇位継承資格者は皇太子以下7人おられました。その後、高円宮殿下、さらに寛仁親王殿下が薨去(こうきょ)されましたが、一方、悠仁(ひさひと)親王殿下の御誕生で、「次世代は女子ばかり」という「危機」は去りました。

 したがって、どうあっても女性天皇・女系継承を容認する皇室典範改正に踏み切らなければならないという段階ではないはずです。

 ところが、田中先生は、皇太子殿下から秋篠宮殿下、悠仁親王殿下へと皇位が継承されるのは、直系から傍系に移行することであり、皇家の分裂・対立を招く危険があるから、危機を回避するために、「現皇家〝直系〟の愛子内親王」を次世代の「皇太子」に、と執念を燃やし続けておられます。

 要は、男統の絶えない制度を模索するのではなく、「傍系」どころか、一気に女系継承へと飛躍されるのです。危機を叫んで、さらなる危機を呼び込んでいるわけです。

 少ない皇位継承資格者をますます少なくする提案は賢明とはいえません。

 矛盾はほかにもあります。

 皇位継承を支えてきた側室制度が現在では失われていることを強調されるのは、理解できないわけではありません。けれども一方で、今日、一般社会では婚外子の相続権が法的に認められるようになりましたから、男系が絶えないように皇室の庶子相続を公認すべきだという議論も、少なくとも理論的にはあってもよさそうですが、先生はあくまで皇室の歴史的変革を追求されるのです。

 さらに、です。

「傍系」の秋篠宮家に皇位が移行されるべきではないとする先生の主張は、現皇室典範が認める皇位継承順位を否定するだけでなく、秋篠宮殿下、悠仁親王殿下、常陸宮殿下、三笠宮殿下、桂宮殿下の継承権を簒奪することになります。

 もはや「臣下」の分限をはるかに超えているといえませんか。


6、祭祀を否定する天皇論

 最後に、天皇のお務めとは何か、について考えます。

 先生は著書の最終章に、前侍従長のある講演を取り上げておいでです。

 前侍従長は「女性の天皇は八人おられた」「女性の天皇ができないことはあり得ない」「男系で続いたのはそのときの社会情勢がそうしたのである」などと語ったうえで、最後に「意を決した様子」で、次のような「私見」を吐露したとされています。

「『血の一滴が繋がっている』ことが大切なのか、『皇族として陛下が毎日なさることをお近くで見てこられている』ことが大切なのかの問題である。天皇の背中を直接見ていないのに、ただ血の繋がりだけで天皇になっても、現在及び将来の皇室の役割は果たせないだろう」(講演会報告書)

 先生は前侍従長の発言が自身の主張と「同じ論旨」であると認め、「驚き」と「敬意」を表されるのですが、ここにこそ問題の核心部分があります。

 つまり、先生の女系継承容認論の問題点は、血統原理で継承されてきた皇統を否定し、「毎日なさること」=御公務優先主義に変更しようとする考え方にあります。

 古来、引き継がれてきた天皇のお役目を、いまや保守派の歴史学者や陛下の側近までが、完全に見失っていることに、強い衝撃を禁じ得ません。

 なるほど日本国憲法は「天皇は、この憲法が定める国事に関する行為のみを行ひ」と定めています。宮内庁のHPには、「皇室のご活動」「両陛下のご活動」などが掲載されています。まるで「ご活動」なさることが天皇の天皇たる所以であるかのようです。

 現行憲法を出発点として、天皇は国事行為を行う国家機関の一つである、という考えに立つなら、先生たちが主張されるように、女性天皇や女系継承が容認されるのは、論理的にあり得ます。

 しかし、天皇は少なくとも『続日本紀』以降、1300年以上の時を越える歴史的存在です。歴史的に天皇が天皇たる所以は、御公務ではなくて、祭祀をなさることにあります。

 歴史上、女性天皇はまだしも、女系継承が認められなかったのは、天皇が祭祀王だからでしょう。

 ところがきわめて遺憾なことに、戦後は側近ですら現行憲法第一主義に陥り、その結果、富田朝彦宮内庁長官の時代には毎朝御代拝など祭祀の改変が断行され、藤森昭一長官の時代には御代替わりの祭儀が変更され、羽毛田信吾長官以後、歴史にない女系継承や女性宮家創設が模索されています。

 これらは、皇室の基本原理の破壊にほかなりません。


7、天神地祇を祀る天皇

 古代の日本は、唐にならって、律令制を導入しましたが、模倣ではありません。

 古代中国の律令体制を支えた国家哲学は儒教であり、中心思想は「革命(天帝の命令を革[あらた]める)」の哲学です。けれども、日本では天照大神を皇祖神と仰ぐ天皇が統治することとされました。

 公式令1条(詔書式条)は、冒頭に「明神(あらみかみ)と御宇(あめのしたし)らす日本(ひのもと)の天皇(すべら)」という表現を載せ、神祇令10条(即位条)は「天皇、位に即きたまわば、天神地祇を祭れ」と定めています。

 哲学者の上山春平は、日本の律令的君主制の由来を説くことが、古事記・日本書紀の神代巻のテーマだと説明しています。中国の「史記」には神代巻に相当するものがありません。

 官僚制度も根本的に異なり、唐が「三省六部」なのに対して、日本は「二官八省」が採用され、祭祀をつかさどる神祇官と国政を執り行う太政官が置かれ、太政官のもとに中務省、式部省、治部省など八省が置かれました。

 中国では皇帝が全権力を掌握しましたが、日本では天皇から太政官に権力が委任されました。今日でいう権力の制限です。

 天皇は政治権力者ではなくて、権力政治を超越した最高の権威者として、この国に君臨してきました。天皇統治は「知らす」(民意を知って統合を図ること)であって、「うしはく」(権力支配)ではないといわれます。

 戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦は繰り返し強調しています。天皇は世界に類(たぐい)まれなる公正無私を第一義とする祭り主である。祭りこそが天皇第一のお務めであり、祭りをなさることが同時に国の統治者であることを意味している、と。

 順徳天皇は「禁秘抄」に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」と書き残されました。明治の近代化に伴い、天皇は立憲君主となられましたが、歴代天皇は祭祀を大切に守られています。

 天皇の祭りは、天皇御自身によって、日々、宮中の奥深い神域で行われています。皇祖神ほか天神地祇を祀り、「国中平らかに、安らけく」と、ひたすら国と民のため祈られます。

 なぜ天神地祇なのか。

 歴史学者の三浦周行京都帝国大学教授は『即位礼と大嘗祭』で、大嘗祭に諸神が祭られる意味について、次のように説明しています。

「天神地祇には、もとより皇室のご祖先もあられるが、臣民の祖先の、国家に功労のあったかどで神社にまつられ、官幣・国幣を享けつつあるものも少なくない。これらは国民の共通的祖先の代表的なものと申して差し支えない。……皇室のご祖先をはじめ奉り、一般臣民の祖先を御崇敬遊ばされ、また現代においては一般臣民とともに楽しみたもう大御心を御表示遊ばされると申すが、すなわち御大典の根本の御精神であって……」

 皇祖神のみならず、国民共通の祖先神に崇敬の念を示すことが天皇の祭りの根本精神だ、と三浦教授は説明しています。

 キリスト教世界なら、ローマ教皇であれ、イギリス国王であれ、みずから信仰する絶対神以外に祈りを捧げることはありません。しかし日本の天皇は古来、万民のため、万民がそれぞれに信じるあらゆる神々に祈られます。天皇の祭りは国の安定と民の平安を願う、国民統合の祈りです。

 田中先生は、女系継承を容認する根拠として「天照大神は女神である」を挙げられますが、天皇の祭祀は、伊勢神宮の祭祀とは異なり、天照信仰にのみ基づくのではありません。

 皇室の祖先崇拝ならば大神を祀る賢所および皇霊殿での祭祀で足りるはずですが、そうはなっていません。


8、女系継承が認められない理由

 天皇は天神地祇を祀る祭祀王です。であればこそ、女系継承は認めがたいのではありませんか。

 先生は8人の女性天皇の実在を強調されますが、すべて独身であり、したがって皇婿はおられず、天皇というお立場で皇子女をお産みになった女性天皇もおられません。なぜでしょうか。

 公正かつ無私なる祭祀こそが天皇第一のお務めと考えられてきたからであり、先生がご指摘のように、天皇に〝氏姓〟がないのと同様、さまざまの氏族・血統から超越したお立場で、国と民をひとつに統合してこられたからではないでしょうか。

 女性が夫を愛することは大切です。命をかけてでも子供を愛する女性の姿は美しい。その価値を認めればこそ、「私」なき祭祀王は荷が重い、と古代人は考えたのかも知れません。仰せのように、女性の能力が低いというのではありません。男尊女卑でもありません。むしろ逆でしょう。

 さて、最後に、先生にぜひお願いしたいことがあります。

 先生の「恋闕」の精神は、先生が「正面から率直に対決」されている「男系男子固執派」にもあります。尊皇派同士で「憂国の論争」を感情むき出しで競うことは見苦しいばかりか、反天皇派を利するだけです。「悩める君の御心を休めまつる」どころか、結果は逆でしょう。晩節を汚すことにもなりかねません。

 先生が訴える「君子の論争」を成り立たせるために、その前提として、まずは総合的な天皇研究をこそ、多くの研究者と協力し、もっともっと深めていただけないでしょうか。

 ご専門の歴史研究だけではなく、日本文化研究、宗教学、祭祀学、民俗学など、多角的に進めていただきたいのです。天皇の存在は日本の文明の根幹に関わる、すぐれて総合的なものです。それだけに慎重さと謙虚さを要します。「私の学者生命を賭けて」と仰せの「憂国の論争」はそのあとでもけっして遅くはないはずです。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

皇統を揺るがす羽毛田長官の危険な〝願望〟 [女系継承容認]

▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢
皇統を揺るがす羽毛田長官の危険な〝願望〟
(「正論」平成21年12月号から)
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢

koukyo01.gif
「皇位継承の問題があることを(新内閣に)伝え、対処していただく必要がある、と申し上げたい」

 羽毛田信吾宮内庁長官は、新連立政権の発足を直前にひかえた(平成21年)九月十日、皇室典範の改正問題に取り組むよう鳩山新内閣に要請する意向を、記者会見で表明しました。共同通信がそのように伝えています。

 悠仁親王殿下ご誕生で沈静化していた、男系男子に限定している現行の皇室典範を改正し、女性天皇のみならず、女系継承をも認める法改正を、このチャンスに推進しようというわけです。民主党は宮内官僚と同様、女帝容認推進派であり、皇室の将来にいまだかつてない暗雲が立ちこめています。


▢1 新政権に典範改正を迫る

 自民党時代には紆余曲折がありましたが、宮内官僚たちや民主党は、女性天皇・女系継承容認で一貫しています。

 過去の経過を簡単に振り返ると、

「皇太子殿下の次の世代の皇位継承資格者がおられない」

 という「皇統の危機」を背景にして、とくに十六年暮れ、小泉純一郎首相(当時。以下同じ)の諮問機関として「皇室典範に関する有識者会議」が発足しました。そして翌年、

「皇位継承資格を女子や女系の皇族に拡大することが必要である」

 とする最終報告書がまとめられています。

 しかし数カ月後、秋篠宮妃殿下のご懐妊が明らかになり、悠仁親王殿下が十八年にご誕生になって、「危機」がひとまず解消されたことから、女性天皇・女系天皇を容認する皇室典範改正案の国会提出は見送られました。

 小泉首相は

「将来は女系天皇を認めないと皇位継承が難しくなる」

 と女系継承容認をあらためて表明しましたが、次期自民党総裁となる安倍晋三内閣官房長官は

「冷静に慎重にしっかりと落ち着いた議論を進めなければ」

 と慎重姿勢を強調しました。政界には

「急ぐべきではない」

 との意見が広がり、典範改正は封印されました。

 ところが、当時の野党である民主党は、このときすでに、党をあげて典範改正を推進していました。

 十六年夏の参院選では、

「『日本国の象徴』にふさわしい開かれた皇室の実現へ、皇室典範を改正し、女性の皇位継承を可能とする」

 との方針がマニフェストに掲げられました。

 翌年、有識者会議の報告書が提出されると、鳩山由紀夫幹事長は

「開かれた皇室への思いを大事にすべきで、典範の改正も視野に入れて、国民の側に立った、国民が期待する、国民の象徴としての天皇、天皇家のあり方を議論していただきたい」

 と発言しました。報告書を

「傾聴に値する」

 と評価し、女性天皇誕生の方向性を尊重する姿勢を確認したのです。

 その民主党が、政権につこうとするまさにそのとき、封印を解く要請を意思表示した羽毛田長官の魂胆はあまりに明け透けです。そこには焦りのようなものさえ感じられます。

 というのも、来夏には参院選が控えています。衆参ともに民主党が絶対的優位に立ついまのうちに改正に着手したい、という本音が見え見えです。

 加えて、羽毛田長官自身の個人的事情があります。厚生事務次官を経て、十三年四月に宮内庁次長となり、十七年四月に第七代宮内庁長官となった羽毛田氏は、来年四月で在任五年を迎えます。潮時なのです。

 藤森昭一第四代長官が十年弱ものあいだ、君臨したあとは、鎌倉節氏、湯浅誠氏と、五年任期の長官が二代にわたって続きました。

 その五年任期を目前にした羽毛田長官が、典範改正に最後の執念を燃やしているだろうことは十分に想像されます。

 何しろ、皇位の男系継承維持を希望する三笠宮寛仁親王殿下のご発言に対して

「皇室の方々は発言を控えていただくのが妥当」

 と一喝し、悠仁親王殿下のご誕生に際して

「皇位継承の安定は図れない」

 などと水を差したばかりでありません。沈静化していたはずの議論にまっ先に火をつけたのは、慎重居士のはずの羽毛田長官その人だからです。

 その執念がひときわ光ったのは、昨年(平成20年)暮れの陛下のご不例でした。


▢2 長官を駆り立てるお役人の論理

 今年(平成21年)は今上陛下ご即位二十年、ご結婚五十年の佳節です。陛下はお元気のご様子ですが、昨年(平成20年)暮れには七十五歳になられ、推古天皇以後、歴代第七位のご長命となりました。七十歳を超える天皇は十二人ですが、天皇のお務めを果たされているのは、古代の推古天皇、光仁天皇のほか、昭和天皇と今上天皇の四方だけです。しかも今上陛下は療養中ですから、ご公務ご負担の軽減は急務です。

 当然ながら宮内庁は昨春(平成20年春)、ご負担軽減策を発表しました。二月には風岡典之次長が、

①ご日程のパターンを見直す、

②昭和天皇の先例に従う、

③「平成が二十年を超える来年(二十一年)から」という陛下の気持ちを尊重して実施される、

 と説明しています。続く三月には、宮中祭祀のあり方について調整を進めることが、発表されました。

 しかし「来年から」というお気持ちの尊重はその後、破られ、軽減策は前倒しされました。昨年(平成20年)暮れににわかにご体調を崩されたからですが、強調されなければならないのは、拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』などに書きましたように、このときの宮内庁の異様な対応です。

 内視鏡検査の結果が発表されたのは十二月九日でした。名川良三東大教授は、

「AGML(急性胃粘膜病変)があったのではないかと推測される」

 と説明しました。

 原因は身心のストレスで、急激に発症するものの、適切な処置がなされれば、比較的短期間で回復する。ストレスから発症までは、短ければ時間単位、長ければ一、二カ月になる、というのが教授の診断です。

 ストレスの原因は何か。ご公務はどうなるのか。金沢医務主管が

「ご心痛や具体的なご負担軽減策は長官から所見が述べられる」

 と予告したため、二日後の長官会見が注目されたのですが、じつに奇妙な内容でした。

 羽毛田長官は

「内外の厳しい状況を深くご案じになっているのに加え、ここ何年かにわたり、つねにお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめ、皇室関連の問題をご憂慮のご様子」

 などと軽く解説したあと、ほとんど東宮に関する問題、いわゆる雅子妃問題の説明に終始したのでした。

 そして最後に、

「私は陛下が七十五歳になり、平成が二十年を超える機会にご負担軽減を進めさせていただきたいと考えてきた。ここ一か月程度はご日程を可能なかぎり軽いものにしたい」

 と結んだのです。

 まるで、皇位継承問題と東宮問題こそが陛下のストレスであり、そのためにご負担を軽減するのだといわんばかりです。

 おかしいのは、医師の見立ては

「急性」

 なのに、長官は

「ここ何年か」

 です。医師は

「ご公務が忙しいから、こんなことになると単純に考えないで欲しい」

 と釘を刺しているのに、長官はご日程に単純にメスを入れようとしています。昨年(平成20年)の公式発表では

「平成二十一年から」

 というのは陛下のお気持ちだったのに、長官は自分の考えだと説明しています。

 あに図らんや、報道も混乱しています。

「皇位継承問題とともに、皇室の現状にも気にかけている点があるとの見方を示した」(共同)

 と単純化されました。陛下が女性天皇・女系継承容認の典範改正を望んでいるかのような解説を署名入りで書いた記者もいました。

 悠仁親王殿下ご誕生の翌日、一般紙が奉祝の社説を掲げつつ、

「皇太子の次の世代に男子が一人だけでは、将来にわたり皇室を維持して行くには依然として不安」(朝日)

 などと、女帝容認を促していたことを、思い出させます。

 これらに対して、宮内庁が抗議したとは聞きません。長官「所見」の目的は、陛下のご不例をこれ幸いと利用し、マスコミを味方につけて虚報を誘導し、女帝・女系継承容認推進ののろしを上げたのではないか、との疑いがぬぐえません。

 なぜならマスコミの利用には前例があるからです。拙著などに書きましたが、例の皇太子殿下への「苦言」騒動がそうでした。宮内庁のトップなら直接、殿下に申し入れすればすむことです。新政権に秋波を送る冒頭の会見も同様でしょう。

 話をもどすと、つづく今年(平成21年)一月にはご公務と宮中祭祀のご負担軽減策が発表されました。しかし、実際にはご公務は削減されるどころか、増えています。激減したのは祭祀です。

 なぜそうなるのか、といえば、宮内官僚もマスメディアも、天皇の本質を完全に見誤っているからです。宮中祭祀簡略化問題と皇位継承問題とはつながっています。


▢3 結論が決まっていた報告書

 天皇史にまったく前例のない女系継承容認の動きが、羽毛田長官をはじめとする宮内官僚によって急を告げているのは、無理もありません。彼らこそは過去十年以上にもわたって、女帝・女系容認への既成事実を積み上げてきた張本人だからです。

 公式に新方針を打ち出した皇室典範有識者会議の報告書は、

「(小泉)内閣総理大臣から、検討を行うよう要請を受け……」

 などと、発足の経緯を説明していますが、誤りです。そのはるか以前から、官僚たちが非公式に検討を進めてきたことは明らかです。「要請」は、官僚のお膳立ての上に乗っているに過ぎません。

 たとえば、「産経新聞」十八年二月十七日付の一面トップに

「女性・女系天皇、『容認』二年前に方針、政府極秘文書で判明」

 という特ダネ記事が載っています。内閣官房と内閣法制局、宮内庁などで構成する政府の非公式会議が十六年に女性・女系天皇容認を打ち出していたことが、同紙が入手した極秘文書で明らかになった、というのです。

 阿比留瑠比記者の解説記事に示されているように、じつのところ官僚たちは、橋本内閣時代の八年に、鎌倉節長官のもとで、基礎資料の作成を開始していたようです。

 産経新聞が入手した極秘資料には、政府部内関係者による非公式検討の着手から、有識者会議の報告書まで、皇室典範改正に向けた手順が示されています。阿比留記者は、会議発足後の推移が極秘文書の手順と符合していると指摘しています。

 非公式の検討会では、

①憲法が定める「世襲」による象徴天皇制度を前提とすること、

②憲法改正を必要とせず、皇室典範の改正によること、

③皇位継承制度に関する「国民意識」と「歴史・伝統」を尊重すること、

 を制度改正の基本的考え方とし、

「皇位継承資格を女性にも拡大する」

「男女にかかわらず直系を傍系に優先させる」

 が制度改正の二本柱とされたようです。

 こうした基本認識は受け継がれ、有識者会議では、現行憲法の象徴天皇制度を前提とし、

「将来にわたって安定的な皇位の継承を可能にするための制度を早急に構築すること」

 が重要課題とされました。基本的な視点は、

①国民の理解と支持が得られること、

②伝統を踏まえたものであること、

③制度として安定したものであること、

 の三つとされました。

 つまり、総理の要請を受けて有識者会議の検討が始まり、女性天皇・女系継承容認に道が開かれたのではありません。男系男子による皇位継承にメスを入れたのは、ほかでもない歴代宮内官僚たちです。

 この先行する官僚たちの非公式検討を追認するのが有識者会議の役目であり、官僚たちによる皇室の伝統破壊を踏襲するのが報告書だったということになります。結論は決まっていたのです。

 そして、いまも続くはかりごとの先頭に立つのが、羽毛田長官その人なのです。


▢4 天皇の本質論が欠落

 産経の記事によると、官僚たちの非公式検討が始まったころ、橋本龍太郎首相が皇族の意見を聴くように求めたのに対して、官僚たちが拒否したといわれます。

 官僚たちは、皇室の伝統的皇位継承とは別次元で、官僚たち自身にとっての「安定的で望ましい皇位継承」を追求したのです。その結果がネオ象徴天皇制というべき、女帝・女系継承容認推進だったのだと私は考えます。

 それなら女系継承を認めるという官僚たちの発想の背後にあるものは何か。ヒントとなるのは有識者会議の報告書です。

 橋本元首相の証言と同様、報告書には皇室自身の視点が欠落し、皇室軽視が明確に表明されているからです。

「天皇の制度は、古代以来の長い歴史を有するものであり、その見方も個人の歴史観や国家観により一様ではない。我々は、与えられた課題の重みを深く受け止め、真摯に問題を分析し、様々な観点から論点を整理するとともに、それらを国民の前に明らかにし、世論の動向を見ながら、慎重に検討を進めるよう努めた」(「はじめに」)

 なるほど多角的な検討は重要だし、国民の考えを参考にするのも大切です。しかし明らかに、皇室自身の天皇観、皇室にとっての継承制度という視点が抜けています。

 そもそも皇位の継承というのは古来、もっぱら皇室に属することであって、余人が介入すべきことではありません。ところが官僚たちは、まことに不遜なことに、皇族の意見を求めることすらしませんでした。

 多様な天皇観があるというのなら、まず皇室自身の天皇観を掘り下げるべきでしょう。すなわち順徳天皇の『禁秘抄』に

「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」

 と明記されているように、歴代天皇が重視されたのは祭祀王としての天皇観ですが、この皇室伝統の天皇論に有識者会議が注目したという気配は感じられません。

 報告書にある

「様々な観点」

 という表現は、逆に皇室自身の天皇論に耳をふさぐ耳栓のように聞こえます。官僚たちが目指す

「皇統の安定」(報告書)

 は、皇室の歴史と伝統に基づく「皇統」の維持ではないと疑われます。

 さらに報告書は祭祀無視すなわち皇室の伝統無視の本性をあらわにしています。さながら敗戦直後の占領政策への先祖返りです。

「具体的には、現行憲法を前提として検討することとし、まず、現行の皇位継承に関する制度の趣旨やその背景となっている歴史上の事実について、十分に認識を深めることに力を注いだ」

 官僚たちは開闢以来の祭祀王としての天皇の歴史を振り返るのではなく、公布から百年にも満たない憲法を出発点におき、過去の天皇史とは無縁の、無神論的な天皇の制度をまったく新たに模索しているかのようです。

 有識者会議の報告書は文字の上では間違いなく「伝統の踏襲」をうたっていますが、この「伝統」とはあくまで戦後六十余年の象徴天皇制度の伝統と見るべきです。つまり国と国民統合の象徴として国事行為を行う、名目上の国家機関としての天皇のあり方です。

 天皇という機関を失えば、憲法上、国の最高機関の国会さえ開けなくなる。それでは法治国家として立ちゆけない。「伝統踏襲」といいつつ、報告書が

「古来続いてきた皇位の男系継承を安定的に維持することはきわめて困難」

 と断定し、女性・女系天皇容認に踏み切ったのは、現行憲法が定める国家体制の危機を、その一員としておそれるからでしょう。

 彼らが忠誠を誓っているのは、天皇ではなく、戦勝国が作った成文法に対してです。

 天皇の本質論が欠落した、硬直した法解釈・運用こそが、ネオ象徴天皇制への傾斜を推進するエンジンなのです。


▢5 祭祀こそ多神教文明の核心

 官僚たちは、天皇が祭祀王であるという本質論を見失っています。別ないい方をすれば、祭祀の持つ、高い文明的価値を理解できずにいます。だからこそ、祭祀の簡略化も起きたし、有識者会議の報告書も作られたのです。

 いまや彼らは、宮中祭祀を「陛下の私事」とする解釈で固まり、あちこちで講演して回っている元側近さえいるようです。しかし、戦後、「私事」説で一貫してきた歴史はありません。彼らは天皇の本質のみならず、戦後史を偽っています。

 なるほど敗戦直後の占領前期においては、過酷な神道指令によって、天皇の祭祀はすべて「皇室の私事」とされましたが、政府は皇室制度の正常化に努め、占領後期になるとGHQの政教分離政策も限定分離主義へと変更されました。平和条約が発効すると神道指令自体が失効します。

 そしてちょうど五十年前の昭和三十四年、賢所大前で行われた皇太子殿下(今上陛下)のご結婚の義は「国事」と閣議決定されました。現行憲法下では祭祀は「陛下の私事」と位置づけられる、などと、どうして軽々に決めつけられるでしょうか。

 ところが四十年代になり、入江相政氏が侍従長に昇格し、祭祀破壊が開始されます。さらに富田朝彦長官の登場で伝統破壊は本格化しました。

 その後、十年以上も経って、昭和の祭祀簡略化はにわかに表面化します。当時の宮内官僚たちは、いまと同様、「陛下の私事」説を吹聴していたのです。

 これに対して、尊皇意識においては人後に落ちない神社関係者が抗議の質問書を提出します。祭祀の法的位置づけが変わったのか、と迫ったのです。そして宮内庁は

「ことによっては国事、ことによって公事」

 であることを公式に認めています。

 以来二十五年、官僚たちがふたたび「陛下の私事」説を断定的に語っているのは、法的位置づけが変わったのでしょうか。もし変わったのだとしたら、いつ、どのように変わったのか、公式に説明されるべきです。

 女性天皇・女系継承を認めるべきか否かの議論はそのあとに行われるべきです。天皇の祭祀こそ、古来、日本の多神教的、多宗教的文明の核心だからです。

 陛下は十一月二十三日の夜、宮中の奥深い聖域・宮中三殿で、

「国中平らかに安らけく」

 という公正無私なる祈りを捧げられます。この宮中第一の重儀である新嘗祭は、陛下みずから米と粟の新穀を神前に捧げ、ご自身も召し上がる、という、神と天皇と国民が命を共有し、国と民の命を再生させる食儀礼です。

 米と粟を捧げるのは、稲作民の稲の儀礼と畑作民の粟の儀礼とを同時に行うことで、稲作民と畑作民といった多様なる国民を多様なるままに統合する国家的機能を持つものと理解されます。祭祀の力で、歴代天皇は国と民をひとつにまとめ上げてきたのです。

 国家と国民を統合する祭祀を第一のお務めとして継承することこそが、天皇の天皇たるゆえんです。

 だとすれば、皇位継承は男系男子一系によって行われるべきです。天皇の祈りがそれだけ高い次元で、可能なかぎり純化されたものでなければならないからです。

 たしかに歴史上は八人十代の女性天皇が実在します。しかし、すべて未亡人もしくは未婚で、独身を貫かれています。女性天皇が実在しないのではなく、夫をもつ女性、あるいは妊娠中や子育て中の女性が即位した歴史がないのです。なぜなのか。そこをエリート官僚たちは追究すべきでした。

 女性が夫を愛することは大切です。命をかけてでも子供に愛情を注ぐ女性は美しい。その価値を認めるならば、公正無私なる祭祀王にはふさわしくありません。女性に祭祀が務まらないというのではありません。女性差別でもありません。

 連綿たる天皇の祈りの継承によって、国の平和と民の平安を築き、社会を安定させてきたわが文明のかたちを深く理解するならば、女性天皇容認、女系継承容認の法改正には異議を唱えざるを得ません。宮内官僚らが進める皇室典範「改正」が、民主党政権下で実現すれば、日本の歴史と伝統を破壊し、天皇を完全に名目上の国家機関化する「ネオ象徴天皇国家」となることは間違いないでしょう。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

女系継承は天皇の制度といえるのか──皇室典範有識者会議を批判する [女系継承容認]

▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢
女系継承は天皇の制度といえるのか
──皇室典範有識者会議を批判する
(「正論」平成17年12月号から)
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢

koukyo01.gif
▢ 皇位を国民の下位に置く

 初代の天皇である神武天皇以来、日本では天皇の御意向が法であり、天皇と法は同格でした。

 ところが、戦国乱世に成り上がった武断の雄・徳川家康は元和元(1615)年、天皇のお務めは学問だと規定する「禁中並びに公家諸法度」を発布し、皇室の政治不関与を後水尾(ごみずのお)天皇に要求しました。武家が制定する法の下に朝廷を従わせ奉ることこそ、下剋上(げこくじょう)の最終段階でした(『中村直勝著作集6 歴代天皇紀』)。

 四百年後のいま、同様に、天皇を国民の下位に置いて国会に従わせ、天皇の制度を根本的に変革しようとする、空前絶後の下剋上の企てが公然と進められています。

 皇太子殿下の次の世代の皇位継承資格者がおられないという「皇統の危機」を憂える立場から、女帝容認が提起され、その認否をめぐる議論がここ数年、あるいはそれ以上にわたって交わされてきました。ついに政府は平成16年末、内閣総理大臣の諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」(座長=吉川弘之・元東大総長)を立ち上げました。

 会議では「男系男子」に限ってきたこれまでの皇位継承の制度を改め、女性天皇の即位のみならず、女系による皇位継承に道を開くことが検討されました。本来は皇家の成法である皇位継承について、皇族はいわずもがな、とびきりの皇室問題の専門家が一人として見当たらない有識者会議がくちばしを挟み、過去の歴史にはまったくない制度改革を推し進めるというのです。

 議論の出発点に立ち返るなら、そもそも「皇統の危機」は120代を超える天皇史につねに付きまとってきました。非嫡出による庶系継承が制度的に認められていた時代でさえ、皇位継承は容易ではなく、その事実は女帝を容認する識者自身が

「むしろ危ない綱渡りを繰り返してきたとさえ見られる」(高橋紘、所功『皇位継承』)

 と認めています。危機を喧伝(けんでん)するあまり、男系女子のみならず、あえて女系の継承を認めることは論理の飛躍であるばかりでなく、皇統史への不敬きわまる挑戦となるでしょう。

 古来、日本人は皇位の男系男子継承を当然と信じてきました。有識者会議では

「なぜ皇位継承は男系でなければならないのか、を説明した歴史的文書などは見あたらない」

「国家統一に際して武力の役割が大きくなって男性優位の考え方が定着した、あるいは儒教の男性優位の考え方が導入されたなどの見方がある」

 と事務局が説明したといいます。男系男子継承が当然視された時代に、そのことをあえて合理的に説明する文書があろうはずもなく、文書の不在は父系継承原則の不在の証明とはなりません。

 史上、実在する8人10代の女性天皇はすべて男系であって、女系子孫の即位の例はありません。その歴史の事実は軽視されるべきではありません。皇祖神の天壌無窮の神勅に淵源を発する天皇史の本姿に立ち返ろうというならいざ知らず、内閣や国会が介入して皇室典範を改正し、女系の子孫による皇位継承が法律上、認められるとすれば、開闢以来の皇統史に根本的かつ重大な変革が加えられることになります。

 そこまでしなければならない理由は何でしょうか。


▢ 皇室と国家と国民の永遠性

 日本人は古来、皇位継承が特別そうだというのではなくて、およそ血統といふものが母系ではなく父系によることを、自明のこととして信じてきたのではないでしょうか。

 その根拠は、きわめて身近な、もっとも基本的な大和言葉の語彙のなかに見いだすことができます。それは「血=チ」「父=チチ」「命=イノチ」「道=ミチ」などの「チ」です。「チ」には「連続性」「継続性」「永遠性」の意味が込められているのです。

 そのことを指摘しているのは、戦前、30年の長きにわたって靖国神社の宮司の地位にあった賀茂百樹(かも・ももき)です。江戸中期に活躍した国学者・賀茂真淵(かものまぶち)の子孫で、神職のかたわら語源学に親しみ、『日本語源』上下2巻を残しています。

 賀茂の著書は、日本語の「チ」は

「相互につなぐもの」

 を意味する、と説明しています。

「父=チチ」「路=ミチ」「乳=チチ」も同じであり、「血=チ」は「活気を保ち続き、親から子に続く」。「父=チチ」は「血統が続く、が語源であらうか」。「乳=チチ」は「母と子の間を続ける意味である」──と解説しています。「父=チチ」が「血統が続く」の意味なのに対して、「母=ハハ」は「子をはらむ」が語源だと述べています。

 道は山や川で隔てられた二つの土地を地理的につなぎ、どこまでも続いています。同じように、血は親と子の二つの生命を世代的に結んでいます。命は血脈を介して、親から子へ、子から孫へと無限につながっていきます。その命の連鎖は父系によって続いていくのです。「父=チチ」という和語はこのような父系継承を前提としています。

 しかも日本人が考える父系継承は、単なる生物学的、肉体的な血統のみを意味するのではありません。霊と肉はひとつであり、血統は霊統をも意味したのです。

『神道辞典』などを著した神道学者、国学院大学教授の安津素彦(あんづ・もとひこ)によると、「チ」と「シ」は同じ意味を持つといいます。古語では「シ」は「霊」を意味した、「霊」は「呼吸」でもあり、「血」でもあると信じられた。「シ」が身体を去ること、行ってしまうこと、つまり「シ、イヌ」が「死ぬ」の語源である──と説明しています(安津『神道と日本人』)。

 日本人の生命観、霊魂観に関するこのような説明は、神道学者らばかりではなく、国語学者が一般に認めています。「日本最大の本格的な語源辞典」と高い評価を受ける、平成17年2月に出版されたばかりの『日本語源大辞典』(前田富祺監修)に掲載された各時代の国語学者らが唱える「語源説」も、やはり同様の説明をしています。

「父=チチ」については、江戸時代には

「血の道の意味である」(大石千引(ちびき)『言元梯』文政13年)

 と説明され、戦前の辞書は

「威力のある神霊を称へる霊=チの音を重ねたもの」(大槻文彦『大言海』昭和7年)

 と解説しています。

 これに対して、「母=ハハ」は江戸期には

「ハラ(腹)の意味である」(前掲『言元梯』)

 とか、

「母を意味する古語のイロハのハを重ねたもの」(藤原比呂麻呂『国語蟹心鈔』宝暦九年写本)

 などの説がありました。

 これらの語源説に従えば、古来、日本人にとって命とは霊肉一体であり、血統・霊統は男系・父系によって繋がっていくと信じられてきたことがうかがえます。

 この古来の生命観、霊魂観によれば、皇祖神の神勅に基づく皇位が男系男子によって継承されるのは当然です。幾多の危機に瀕しながらも、父系継承が固守されてきたのは、皇統の継続性、永続性を求めるからであり、連綿たる皇位がひいては国家と国民の命の永遠性につながるからではないでしょうか。

 皇位の女系継承を認めることは、皇統の断絶と日本の歴史の破断を招くことになるでしょう。


▢ 全国に分布する父系継承の根拠

 父系継承を正統と考える観念は特定の地域に限られたものではありません。「血=チ」「乳=チチ」「父=チチ」「母=ハハ」という日本語は、古代から現代まで日本全国にほぼ共通しているからです。そのことは、方言学の成果から容易に理解されます。

 17年におよぶ隣地調査に基づいて23万語を収録し、「最新・最大の方言辞典」といわれる『現代日本語方言大辞典』(全8巻、1992〜94年)を開いてみましょう。

「父」は各地の方言では何と呼ばれているのでしょうか。

 たとえば、秋田では「オド」「アンチャ(若い父親)」「オヤンジ」などと呼びます。栃木は「トーチャン」、新潟は「ツァツァ」「トッツァマ」など、三重は「オトッツァン」「トッツァン」のほかに、古い言い方、卑称として「トト」があります。島根には大正末頃まで「チャッチャ」という古い言い方がありましたが、現在は「オトッチャン」がもっとも多く使われています。熊本は「トッツァン」のほかに、上品な言い方で「トトサン」があります。

 古代から現代に至るまで「チチ」という語は不変で、時代的に母音が変化し、「テテ」「トト」などとなり、江戸時代に「オトッツァン」が一般的となった、と説明するのは、杉本つとむ・早稲田大学名誉教授の『語源海』(2005年)です。

 父系継承を前提とする「チチ」を語源とする呼び名が、古来、ほとんど例外なく全国的に分布しているということになります。これに対して「母=ハハ」も同様で、古代から「ハハ」は不変で、江戸時代になって「カカ」に変化し、「オカアサン」の源流となった、と杉本教授は説明しています。

 父系によって霊統・血統が継承される、と古今、一貫して日本人が考えてきた社会的観念こそ、「男系男子」による皇位継承の前提となります。

 けれども、これには同じ方言学者のなかに異論があります。まさに日本社会は最初から父系継承を正統としたわけではない、という指摘です。「チ」は継続・継承を意味するにしても、必ずしも父系継承が正統ではなかった証拠に、地域によっては「チチ」は父親ではなくて、逆に母親をさした。たとえば青森や佐渡、三重県志摩郡の方言にその例が見られる、というのです。

 この説では、さらなる「古代」が想定され、日本社会は古代において母系社会から父系社会に変化した、という理解が前提になっています。

「母系制から父系制に移行するときに、チチ=母といふ語がチチ=父を意味するようになった」

 と、『国語語源辞典』(1976年)をはじめ、語源に関する多数の著書のある山中襄太氏などは解説します。つまり母親が子供に与える「乳=チチ」が父親を意味する「父=チチ」と同音なのは、古代の母系制の名残だと理解するのです。

 古今東西、赤ん坊が母乳を求めて自然に発する喃語(babbling)、つまり「ババ」「マンマ」などの語が「母」を意味するようになった、母系制社会では「母」は「家長、主人、主婦」を意味したが、父系制への転換で「父」を意味するようになった──と説明しています。

 この山中氏の説は、先駆的な終戦直後の方言学研究に基づいています。山中氏の説明によると、日本方言学の基礎を築いたとされる東条操・学習院大学教授の研究に依拠しているといいます。たしかに東条教授の『全国方言辞典』(昭和26年)は、青森や佐渡、三重県志摩郡地方では母親を「チチ」と呼ぶ、と紹介しています。

 佐渡方言について調べてみると、廣田貞吉『佐渡方言辞典』(昭和49年)や大久保誠『佐渡国中方言集』(1996年)も、羽茂(はもち)地区では母親を「チチ」と呼ぶ、「乳」に由来する──と書いています。かつて佐渡では山を隔てた集落ごとに独自の文化的小宇宙が形成され、農村地域の羽茂地区もまた独特の言語的空間を維持していたといわれます。

 けれども今は昔、大久保氏によると、ここ数十年で独特の方言はほとんど死滅してしまった。羽茂地区にかつて母系社会が維持されていたかどうか、誰にも分かりません。

 筆者の取材に対して、『佐渡方言の研究』(1999年)の著者・渡辺富美雄・東京家政学院大学教授は、いつの時代に、何を契機として、どのように言葉が変化したのか、民俗学など他の学問研究から追跡する必要がある、と述べていますが、その作業は不可能に近いでしょう。

 先述した杉本教授も、母系制から父系制に社会構造が転換したと考える研究者の一人で、「チ」は「父親」などよりも、広く「元祖」の意味だったのではないか、上代では「父母=チチハハ」「母父=オモチチ」の二つの言い方がある、後者がより古い言い方だとすると、母系社会の名残ではないか──と述べています。

 けれども、推測の域を出ていません。どのように社会の転換が起こったのか、の説明もありません。

 古代史にはロマンがありますが、記憶のはるか彼方にある「古代」にまでさかのぼって、母系社会の実在や父系社会への転換を論じても仕方がないでしょう。極端にいえば、人類発生の歴史から日本の父系継承否定の論理を導いても意味はありません。

 母系社会から父系社会に転換したという歴史理解が戦後の反天皇研究と結びついているとなれば、なおのことです。


▢ 男系社会を否定する反天皇制研究

 さまざまな分野の文献を駆使して「万世一系説」「女帝『中継ぎ』説」を批判的に検証し、皇室典範改正・女帝容認を提案する、朝日新聞・中野正志記者の『女性天皇論』が話題になりました。

「天皇制を廃止したければ、ただ待っていればよい。天皇制が消滅する日もそう遠くないからだ」

 というのが、その書き出しです。

 中野記者は、推古天皇以来、実在する八人十代の女性天皇は「中継ぎ」だったとする「女帝中継ぎ」説を批判し、この説の前提には古代日本の家族は男系男子によって運営されてきたという思い込みがある、と指摘しています。

 そして、古代の日本が父系社会ではなかった根拠として、考古学者による最近の研究を紹介しています。田中良之・九州大学教授の『古墳時代親族構造の研究』(1995年)です。

 田中教授は、歯の縦横の長さを計測し、その比率や組み合わせによって親族関係を割り出すという研究方法を見いだし、この手法を使って古墳から発掘された人骨や歯を調べ、「家族」の仕組みに次のような変化が認められた、と述べています。

 第一期(弥生終末期〜5世紀代)=同じ血をひくと見られる男女が性別に関係なく同じ墓に埋葬された=双系制。

 第二期(5世紀後半〜6世紀後半)=父親と考えられる男性と子供たちが入り、次世代の家長となる子は別にその子供(孫)たちと一緒の墓に葬られる=過渡期。

 第三期(6世紀前半〜現代)=父親と、妻と考えられる女性、その子供たちが一緒に埋葬される=父系制。

 田中教授のこの研究は、双系制(広い意味での母系制)から過渡期を経て、父系制の親族段階に移行したことを立証することになります。このため古代天皇制の「男系男子」継承を否定したい中野記者は、

「古代の親族関係は男系から成り立つ」

 とする説に大きな打撃を与えた、古代日本は父系ではなく双系的傾向が強かった、古代史学者や戦後の中世史、政治史、文学史研究から双系的な傾向が注目されている──と田中説を解説しています。

 けれども中野記者の解説は見当違いを侵しているのではないでしょうか。

 田中教授自身が指摘しているのですが、この研究結果は古代史学者たちがこれまで主張してきた双系説に通じるとはいうものの、逆に相違点が多いのです。

 従来の双系説では、五世紀後半以降、ウジ(氏)の形成や父系継承が支配層にだけ発生し、他方、支配される側は依然、双系のままだった、支配層に始まった父系継承がやがて徐々に下層へ浸透した──と主張してきました。

 これに対して田中教授は、農民層においても家長は父系かつ直系的に継承されていたことが明らかになった、と結論づけています。

 田中教授の研究は、中野記者の期待とは異なり、古代日本に男系社会があったことを否定したのではなく、むしろ従来の双系社会説に疑問を投げかけているのではないでしょうか。だからこそ、従来の双系説の立場に立つ、古代学者の関口裕子氏は猛烈に田中教授の研究を批判しています(関口『日本古代家族史の研究 上・下』2004年)。

 中野記者は「最新の歴史学の成果」を取り上げ、それらを根拠にして、古代の女帝は指導力が強く、とても「中継ぎ」とはいえない、「中継ぎ」説は近代の性差史観の反映に過ぎない、男系男子による「万世一系説」は歴史学的に成り立たない、女帝を排除した近代の天皇制は明治維新期の政治家の創作である──と主張しています。

 律令制以前の古代社会では双系的な傾向が見られ、中世史学者も双系制採用の可能性の強さを挙げている、と強調しています。

 けれども、古代の双系制を強調する学説の背景にはもともと天皇制を批判・否定する考えが見え隠れしていて、学問の中立性に疑いがあります。実証的な古代史研究の成果から天皇制のドグマが明らかになったのではなくて、政治的なドグマが天皇制否定の研究成果を導き出しているといえます。

 研究の動機に特定の政治性を認めざるを得ない学問を無批判に取り上げるのは、ジャーナリズムとして客観性に欠けることになるでしょう。田中説に対する関口氏の批判は中野記者の著書には取り上げられていません。

 中野記者が取り上げた戦後の日本家族論が当初から天皇制批判の傾向を帯びていたことは、研究者自身が認めています。

 歴史学者の佐々木潤之介・一橋大学名誉教授によると、戦後の家族論は

「天皇制国家の支柱としての家族主義の解明という現実的課題」

 に呼応したものでした(『日本の家族史論集1家族史の方法』所収論攷、2002年)。日本の家族国家観、家制度、家父長制研究は天皇制批判として始まったのでした。

 家族史研究の基本文献の一つにされてきたのは、エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」であり、マルクス主義の影響は免れませんでした。近年はジェンダー論の影響を受けた研究が、「双系制」という概念を用い、皇統の「男系男子継承」否定に傾くのは当然の流れといえます。

 反天皇の立場に立つ研究者らが、古代の父系社会を否定し、双系制の存在を主張しているのに対して、逆に母系制の存在を否定する見方もあります。

 民俗学者の江守五夫・千葉大学名誉教授は、柳田国男は古代には妻訪(つまどい)婚が支配的だったが、中世武家社会に嫁入婚が形成されたと説いた、かつてはこれが通説だった、しかし婚姻習俗には南方系の一時的訪婚、北方系の嫁入婚、玄界灘型嫁入婚、北陸型嫁入婚などの類型がある、嫁入婚がすべて妻訪婚から変化したとする一元的な通説には疑問がある──と述べています(江守『婚姻の民俗』1998年)。

 マルクス流の単線的、直線的な段階的社会発展説によって、多元的で多様な日本の家族史を論じることに、もともと無理があるのではないでしょうか。いわんや政治的動機から歴史を論じることは、曲学というものにほかならないでしょう。


▢ 絶対無私なる祈りの連鎖

 女帝容認を唱道する中野記者は著書のなかで、皇位の「男系男子」継承を皇室の「固有の伝統」と見る見方は、天皇制の研究が進むことによって

「最近ではだいぶ怪しくなってきた」

 と指摘しています。古代研究の進展に伴い、歴史の実態が明らかになり、「万世一系」「男系男子継承」という従来の固定的なイメージとは異なる天皇制の古代像が浮かび上がってきた、正しい古代像に従えば女性天皇が容認されるべきだ──という論法なのでしょう。

 しかし、中野記者の論理には「伝統」というものに対する誤った思い込みがあるのではないか。中野記者は、伝統主義を、あたかもタマネギの皮をむくように、現代から近代、近世へ、さらに古墳時代、弥生、縄文と過去をさかのぼり、古い時代の有り様を本来の姿と考え、そのような過去を模倣することだ、と誤解していませんか。

 過去がすなわち伝統なのではなく、伝統とは歴史的に獲得されたものでしょう。過去をふり返り、先人たちの知恵に学ぶことが伝統主義であり、であればこそ、明治の時代には「復古」の名の下に「維新」が成し遂げられています。そうでなければ、明治の皇室制度はことごとくといっていいほど、非伝統主義の烙印を押されかねないのではありませんか。

 そもそもいつの時代を「古代」と考えるのか。天皇の制度が日本社会に発生する以前の「古代史」を研究し解明することが、皇室の伝統を明らかにすることになり得るはずもありません。天皇制成立以前の古代社会が男系社会か否かは、皇位の男系男子継承主義とはまったく無関係です。

 反天皇の立場に立つ「古代史」研究がどのように進もうとも、男系男子による皇位継承の伝統は微動だにしないでしょう。

 その点、有識者会議が

「伝統とは、必ずしも不変ではなく、各時代において選択されたものが伝統として残り、またそのような選択の積み重ねにより、新たな伝統が生まれる」

 としているのはある面、正しいのですが、女系継承に道を開く選択はとうてい承認することができません。皇位継承の伝統の本質を真っ向から否定するものだからです。

 朝廷をも従わせようとした家康について冒頭に書きましたが、これに対して後水尾天皇は、徳川三代のたび重なる挑戦に激怒され、譲位の御意向を表明され、落飾されました。けれども、後年はさすがに円熟されたと伝えられています。そのことがうかがえるのは後光明(ごこうみょう)天皇への御訓戒の宸翰(しんかん)で、天皇のもっとも重要なお務めは神事であると明記されています。

「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、のちに他事とある」。

 皇室の弱体化を図ろうとする徳川幕府の策謀は百も承知のうえで、僭越(せんえつ)・非道の幕府の措置に従容と従い、平安の境地にまで御自身の御心を磨かれるという至難の帝王学を実践され、武の覇者に天皇の御徳を示され、皇室の御尊厳を守られたのです。

 それはやがて徳川光圀(みつくに)が『大日本史』全 397巻を編纂するに当たり、後水尾院の勅許(ちょっきょ)を賜ることにつながり、御志は明治維新の源流ともなったのでした。

 諸外国の国王とは異なって、天皇は万世一系の祭り主だといわれます。歴代天皇は、国家と国民のために、たとえ刃向かう者であろうとも、絶対無私の祈りをつねに捧げてこられました。天皇の私なき祈りの連鎖こそ皇位の本質でしょう。

 天皇に姓はなく、肉親の葬儀に参列せず、わが子をお手元でお育てになることをされなかったのは、ひとえにこの公正無私のお立場ゆえではなかったでしょうか。あえて俗流にいえば、人の子であれば肉親の情はやみがたいけれども、つねに

「国平らかに、民安かれ」

 と祈られる天皇のお立場には私情を差し挟む余地はないのです。俗人なら自分のため、家族のために祈るのが普通ですが、天皇にはそれが許されないのです。

 女性天皇を認め、あまつさえ女系継承を認めれば、愛する夫があり、あるいは身重の女性に宮中祭祀の厳修を求めることになります。

 もっとも重要な新嘗の祭りは11月下旬の津々と冷える深夜に行われます。厳重なる潔斎の上、暖房などあるはずもない皇居・賢所の薄明かりのなかで、皇祖神ほか天神地祇と相対峙され、無私の祭りをお務めになることを要求するのは、あまりにも酷というものではないでしょうか。

 まして「皇胤」を宿した御妊娠中の女帝に、絶対無私なる祈りが可能でしょうか。

 有識者会議では「宮中祭祀の代行」について質疑があったと伝えられます。

「今は昔より妊娠・出産の負担は軽い」

 という発言もあったといいます。国の命運を一身に背負われる祭祀の真の厳しさを深く理解せずに、形骸化を促す愚論といえるでしょう。歴史上の女帝が寡婦もしくは独身を貫かれたのは、それでなければ国家第一の祭祀王としてのお務めが果たせないからでしょう。

 まして女系継承を認めれば、皇祖神の神勅以来、国と民のためにひたすら祈られる天皇の祭祀の連鎖がとぎれてしまいます。そうまでして従来の制度とは根本的に異なる、もはや天皇の制度とはいえない、いわばネオ象徴天皇制をなぜ創設したいのか、まったく理解できません。

 憲法学者の小嶋和司・東北大学教授は明治の時代を振り返り、こう指摘しています。

 明治の憲法草案起草が始まった明治9年ごろ、女帝認否は喫緊の課題でした。明治天皇に皇男子はなく、皇族男子は遠系の四親王家にしかおられなかったからです。のちの大正天皇、嘉仁親王が誕生されたのは十二年、以後も皇男子は一方のみでした。しかし明治典憲は女帝を否認したのです(『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』1988年)。

 明治人の見識の高さをうかがわせます。

 その見識が皇室典範有識者会議には感じられないのです。いま皇室典範改正作業は表向きは沈静化していますが、水面下では着々と動いているようです。日本開闢以来の皇統の危機、すなわち日本の危機であることに変わりはありません。(肩書きはいずれも執筆当時)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース
女系継承容認 ブログトップ