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ふたたび岡田東京大司教様へ──なぜそんなに日本批判に血道を上げるのですか? [キリスト教]

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ふたたび岡田東京大司教様へ
──なぜそんなに日本批判に血道を上げるのですか?
(「正論」平成19年6日号から)
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 岡田武夫東京大司教様、前回の手紙はお読みいただけたでしょうか? 近年の教会指導者の政治的言動には見過ごせない疑問点が多々あり、杞憂(きゆう)であればと願いつつ書簡をしたためた次第です。けれども懸念はけっして私だけではないようで、ある信者の方から届いたお便りにはこう書かれていました。

「拉致(らち)被害者の家族を支援するならまだしも、主権を侵している北朝鮮の側に立った発言を繰り返す司教様もおられます。責任あるお立場の宗教者の発言とは思えません」

 なるほど

「教会に『憲法九条を世界に』の幟(のぼり)が立ち、信者の大学教授は拉致実行犯とつながっている」

「共産党員の司祭が誕生した」

「毛沢東礼賛の講演が行われる」

 などの噂を聞けば、

「受洗するんじゃなかった」

 と信者が怒り出すのも不思議ではありません。

 ましてカトリックの教義では、

「政治に直接介入することは聖職者ではなく、信徒の任務である(『カトリック教会のカテキズム』日本カトリック司教協議会教理委員会訳・監修、カトリック中央協議会発行、2002年)

 とされていますから、司教様方の政治運動は教義に反することになります。

 なぜ政治に走るのかという疑問は当然です。


▢1 東京教区から始まった

 教会指導者の政治的暴走は、昭和40年代に東京大司教区が靖国神社国家護持反対を大会決議したのが最初でしょう。戦前から東京教区長の地位にあった日本初の枢機卿・土井辰夫師が45(1970)年に亡くなり、後任に昭和生まれの白柳誠一大司教(現枢機卿)が就任します。そして翌46年暮れ、第一回東京教区大会が開かれ、靖国法案について論議されたのでした。

 靖国神社を宗教団体から国の管理に移す靖国法案は、この年、国会に3度目の提出が行われたものの、初夏には廃案となっていましたが、教区大会の代議員会は

「法案は憲法に違反」

 とする反対決議案を採択します。こうして憲法を盾に靖国反対を訴える政治運動は新世代の大司教のもとで始まりました。

 48年春には衆参両院に反対署名が提出されました。5度目となる法案提出のあと、教区内に靖国問題委員会が設けられ、白柳大司教は自民党総裁に法案反対の文書を送付しました。翌年には東京カテドラルで教区公認の反対集会が開かれます。わずか数年で教会は圧力団体と化したのです。

 かつてない事態に矛盾を感じる信者は少なくなく、大司教に代わって濱尾文郎補佐司教(現枢機卿)が見解を発表しました。

「戦後、宗教法人になった靖国神社の国家管理がふたたび取り上げられているが、教会は過去の苦い体験をもとに、国家と宗教の問題を深めている。第二バチカン公会議は信教の自由を宣言し、宗教が国家と結びつくことを否定した」

 などという説明でしたが、ここに今日の教会指導者による日本批判の問題点がすべて出揃っていることは注目されます。

 項目的にいえば、

①不正確な近代史理解に基づく戦前批判、

②とくに教会の戦争体験を迫害と信じて疑わない硬直的な歴史理解、

③信者の靖国参拝を認めたバチカンの指針の曲解、

④バチカンも採用しない絶対的平和主義の発想、

⑤他者を厳しく批判する一方で教会の世界宣教史の誤りを省みない独善性、

⑥緩やかな政教分離の受益者でありながら完全分離主義を主張し、他者を追及する言行不一致、

⑦信仰より憲法を重視する非宗教的発想

 です。

 専門委員会を設置し、政治メッセージを為政者宛に発表する運動の手法もこのとき産声を上げたようです。


▢2 間違いだらけの説明

 濱尾補佐司教の説明を、もう少しくわしく見てみます。

 濱尾氏は、白柳大司教の依頼を受け、過去の資料を調査し、その結果を「靖国神社に対する教会の態度は変化か?」と題して、74年4月の教区ニュースに発表しました。〈http://www.tokyo.catholic.jp/text/diocese/kyoukunews.htm

 論点は次の4つです。

 第1点(戦前・戦中の靖国参拝に関する教会の姿勢)。昭和の初期に、高校の生徒が靖国神社参拝を国家によって強制され、信者はもちろん、ミッションスクール全体が苦境に陥った。弾圧から救うため、教区長は文部省およびバチカンの意見をたずね、靖国参拝は宗教行事ではないというバチカンの返答を得て、信者の靖国参拝を許可した──。

 濱尾氏の説明はこのあと、参拝を許可した1936年のバチカンの指針を引用していますから、ここでは昭和7年の上智大学生参拝拒否事件について説明しているものと理解されますが、そうだとすれば、まったく事実関係が間違っています。大学の資料によって明らかですが、事件の当事者は「高校生」ではないし、「国家による参拝強制」事件でも、まして「弾圧」でもありません。

 第2点(当時の教会)。明治維新後、宗教的神道の特定の神社が国営化され、次第にその儀式が国家行事となり、軍国主義の政権に利用された。当時の東京教区長シャンボン大司教らは参拝が信仰上の良心に反しない道を見出そうと努力した。軍国主義国家の迫害が避けられない事態にあって最大限の努力だった──。

 この説明も、靖国神社の歴史を語っているのだとすれば、間違いです。靖国神社は一般の神社とは起源も性格も異なります。バチカンはそこをよく理解し、国家神道神社(靖国神社)での国家的な儀礼と宗教としての神道の礼拝との区別を認めています。靖国神社は軍の管理下にあり、一般神社は内務省の管轄です。靖国神社の儀礼は、非宗教的な国民的儀礼だからこそ、バチカンは参加を許したのです。

 第3点(今日の教会の姿勢)。戦後、宗教法人になった靖国神社の国家管理がふたたび取り上げられているが、教会は過去の苦い体験をもとに、国家と宗教の問題を深めている。第二バチカン公会議は信教の自由を宣言し、宗教が国家と結びつくことを否定した──。

 前回の手紙でくわしく書きましたが、戦前・戦中の「苦い体験」=「迫害」というなら、これも間違いでしょう。また、信教の自由、政教分離の原則はカトリックの教えから生まれたのではなく、逆にヨーロッパのカトリック批判から生まれたものであり、論理が逆さまです。異教の宗教儀礼を排除しない1936年の指針は第2バチカン公会議の精神を先取りしたものと理解されます。

 第4点(昭和戦前期と現在の教会)。教会は靖国法案が信仰の自由への脅かしを内蔵していることを予見し、過去の苦い経験を繰り返さないことを求めている。宗教が国家権力からまったく自由であることなしには真の平和はあり得ない。だからこの法案に反対していこうとしている──。

 あとで書きますが、日本の教会は緩やかな政教分離主義の受益者であり、国家の宗教的無色中立性を求める絶対分離主義は自分の首を絞めることになります。いずれの国であれ、それぞれの宗教伝統を大切にしています。厳格な政教分離主義の本家本元と考えられているアメリカには、「全国民のための教会」と位置づけられる聖堂さえあります。国家に絶対的非宗教性を要求することは革命国家の発想であり、宗教者のすることではないでしょう。

 以上のように、濱尾氏の靖国論は間違いだらけに見えます。誤りだらけの歴史認識や他宗教理解に基づいて、正しい結論が導かれるはずはありません。

 はじめて日本にキリスト教を伝えたイエズス会は、学問を武器とする「神の軍隊」でした。学問を禁じた修道会もありましたから、じつに画期的な考えです。ところが濱尾司教の説明には、このイエズス会の学問的伝統がうかがえません。

 しかし、この非学問的反ヤスクニ論こそが教会指導者による反ヤスクニ運動の理論的出発点でした。


▢3 反天皇への転換点

 それから20年後の御代替わりに、政治運動はピークを迎えました。標的は天皇・皇室です。年号の変わり目に、司教たちは天皇観を一変させたのですが、転機を導いたのは、約1年前の昭和62年秋に鳴り物入りで開かれた第1回福音宣教推進全国大会でした。

 実行委員の一人として準備段階から参加された大司教様の論攷によると、

「生活と信仰の遊離」

「社会と教会の遊離」

 を克服するため、

「開かれた教会づくり」

 を目指すことが会議の目的でした(「『遊離』はあるのか?」=雑誌「福音宣教」昭和62年11月号、オリエンス宗教研究所など)。

 第2バチカン公会議(1962〜65)を受けて、信仰と宣教のあり方が見直されたのでしたが、注目すべきは会議の手法です。

 司教団の呼びかけに応じて各教区から刷新のための提案が寄せられ、課題が決定され、聖職者、修道者、一般信者代表が同じテーブルで討議し、司教団への答申がまとめられました。聖職者と信者の垣根が取り払われ、教会は「民主化」されたのでした。

 しかし第2バチカン公会議の文書に「民主化」を示唆するものはなく、明らかな逸脱でした。その象徴は若者によるフォーク・ミサで、どんちゃん騒ぎのなか、一般信者が司祭に聖体を授けました。

「開かれた教会づくり」

 はいわゆる解放の神学の影響を受け、俗を聖化する「刷新」ではなくて、神聖なる典礼を俗化し、教会に革命的変革をもたらす転換点となったのです(澤田昭夫『革新的保守主義のすすめ─進歩史観の終焉』PHP研究所、1990年)。

 そして「民主化」された教会が最初に攻撃したのが天皇でした。昭和天皇が崩御になり、多くの国民が悲しみに暮れた64年1月7日の当日、司教たちは耳を疑うような内容の談話と文書を発表しています。

 司教といえば、全国を16に区分する、教皇と直結した司教区の最高責任者ですが、司教たちの組織である司教団から信者宛の談話は、冒頭にたった一行の弔意を表したあと、掌を返すように、昭和が「相次ぐ戦争」の時代で、

「アジア太平洋地域で二千数百万人が犠牲になった」

「戦争は天皇の名において行われた」

 と批判し、さらに「昭和の過ち」に対する神の裁きを予告し、諸行事において天皇の神格化、絶対化などが行われることを戒めています。

 一方、司教たちの常設機関である司教協議会による聖職者宛の文書には弔意の表明すらなく、冒頭から

「明治以降の天皇制と結びついた国家神道」

 を批判し、要するに

「教会としては関わるな」

 と呼びかけています。

 2日後には司教協議会がきわめて直截(ちょくさい)に、諸儀式に信教の自由と政教分離の原則が厳守されることを首相に要望し、さらにこの年の秋には、「天皇の即位の儀式」に国費の支出はまかり成らん、と主張しています。

 ここには2つの問題があります。

 まず天皇・皇室に対する姿勢です。教会の教義は、人間は指導者を尊敬する義務がある、共同体には権威が必要である、と教えています。天皇こそは有史以来の日本の統治者であり、最高の権威ですが、「憲法教」の宣教師さながらに憲法擁護に熱心なはずの教会指導者は、憲法第1章に定める天皇の権威を認めようともしません。

 雑誌「福音宣教」掲載の論攷(「『天皇制』について」=「福音宣教」平成元年3月号)で大司教様は

「天皇制に代表される日本文化の欠点は閉鎖性、排他性、独善性にある」

 と指摘し、

「教会としては偶像崇拝に通じる天皇・天皇制の絶対化に反対する。侵略されたアジアへの償いと関係を深める過程で天皇・天皇制の意味と役割は相対化される。日本の福音化の最大の課題は天皇制の福音化である。そのとき神の国は完成する」

 と表明しています。

 大胆にも宮中祭祀のキリスト教化さえ主張されています。

 しかし皇室は排他性どころか、漢字、仏教、雅楽、そしてキリスト教など海外文化受容の中心でした。日米開戦後、東条内閣は皇祖神を絶対化するような合理主義的神道論を正統としましたが、これに在野の神道人が猛然と反対したという知られざる歴史もあります。

 歴史の一時期に見られた天皇の絶対化は日本の文化的伝統ではなく、欧米のキリスト教文化の影響と理解されます。司教たちの天皇批判は教義的にも歴史論としても間違っています。

 もう1点は政教分離ですが、教会は緩やかな政教分離主義の受益者であって、絶対分離主義の主張は自分の首を絞めることになるでしょう。

 たとえば、岩手県奥州市(旧水沢市)にあるキリシタン領主・後藤寿庵の館跡はいまでは市有地ですが、ここには昭和初年に建てられた寿庵の廟堂があり、毎年、キリスト教式の大祈願祭が地元教会の主催で行われます。市長は交際費からご祝儀を支出します(市公式サイトなど)。

 また、今年2月に焼失した長崎・五島の江袋教会は官民の協力で明治の創建時の姿が復元されることになったと伝えられます。〈http://www.city.oshu.iwate.jp/icity/browser?ActionCode=genlist&GenreID=1147308219906

 公機関が文化財保護などの観点から支援するのは望ましいことですが、司教たちが主張する絶対的分離主義に立てば、これらは完全な違憲行為です。つまり、日本の教会指導者はみずからの行為には蓋をし、二枚舌で「裁き主」を演じています。

 そもそも国家に無色中立性を要求するのは宗教の否定につながる自殺的行為でしょう。

 自己矛盾の政治的態度が従来といかに異なるかは、古いカトリック新聞をひもとけば明らかです。

 たとえば昭和2年元日号は、大正天皇の崩御に際して、一面トップに

「忠誠なる精神をもって皇室および国家のために祈願、黙祷するのみ」

 という哀悼の辞と祈祷文を載せています。翌年の昭和天皇の即位大嘗祭当日にはシャンボン東京大司教奉献の大ミサが挙行され、奉祝行事が行われました。

 戦後、「迫害」のくびきを脱した教会が反天皇に豹変(ひょうへん)したわけではありません。それどころか、教会こそ天皇制存続のキーマンでした。焼却が噂されていた靖国神社を救ったことで知られる上智大学のビッテル神父(教皇使節代行)は、昭和天皇の戦争責任追及に執念を燃やすキーナン検事とたびたび面談し、天皇制存続および訴追断念を認めさせたといわれます(『マッカーサーの涙──ブルノー・ビッテル神父にきく』朝日ソノラマ編集部編、1973年)。

 司教たちの天皇批判は戦前のみならず、教会の戦後史をも否定します。

 歴史の区切り目にビッテル神父が大きな役割を果たせた背景には、皇室と教会との密接な関係がありました。

 明治以来、キリスト教会を陰に陽に支えたのが皇室です。社会事業の最大のパトロンだったし、司教たちが戦前の「迫害」の象徴と考える昭和7年の上智大学生事件を解決させたのも皇室の権威でした。

 お側に仕える信者もいます。

「軍服の修道士」と呼ばれた山本信次郎海軍少将は、昭和天皇の皇太子時代に御用掛となり、御外遊に随行し、即位後にわたって近侍しました。各地で講演し、御日常と御盛徳を語っています(山本正『父・山本信次郎伝』中央出版社、1993年)。皇室の藩塀であり、随一の広報マンでした。

 しかし、今日の指導者は敬意や感謝のかけらもなく、一面的な歴史理解で皇室を攻撃しています。一方、教皇ヨハネ・パウロ2世の追悼ミサには天皇の名代として皇太子殿下が参列されました。

 無遠慮に難癖をつけながら利用する。愚弄行為は神に仕える者のすることとは思えません。


▢4 白柳大司教の戦争責任告白

 平成の時代になると、日本の教会指導者たちは反戦平和運動に傾斜していきます。先駆けとして顔を出すのはやはり白柳大司教でした。

 昭和61年のアジア司教協議会連盟総会に際する東京カテドラルでのミサ説教で、白柳・日本司教協議会会長は

「戦争責任の告白」

 を行いました。

「日本の司教は、日本が大戦中にもたらした悲劇について、神とアジア太平洋地域の兄弟たちに赦しを願う。戦争に関わったものとして、この地域の二千万を超える人々の死に責任をもっています。いまも痛々しい傷を残していることについて深く反省します」

 大司教の本心はどこにあるのでしょうか。カトリックの教義は

「人を殺すな」

 と戒める一方で、正当防衛は義務だとも教え、条件つきで防衛戦争を容認しています。

 歴史を振り返れば、日中戦争の発端となった盧溝橋事件は中国軍による挑発があったことが知られています。真珠湾攻撃に始まる日米戦争を連合国は侵略戦争と認定しましたが、日本政府には経済的挑発に対する自衛戦という大義名分がありました。マッカーサーは戦後、日本の戦争目的が防衛のためだったとアメリカ議会で証言しています。

 侵略か自衛か、大司教の告白は判断を避け、日本がもたらした戦争ではなく悲劇について反省したのですが、それなら

「戦争責任」

 とはいえません。戦争は相互殺戮、相互破壊ですから、

「日本がもたらした悲劇」

 だけの告白は不公正です。

 すでに戦争は講和条約と賠償によって半世紀も前に終わっているのに、根拠も不明な

「2000万を超える死」

 についての責任をなぜ一方的に表明しなければならないのですか。

 けれども司教たちは、この大司教の告白を継承発展させ、戦後50年という節目に、公式に過去の歴史を反省し、平和への決意を宣言したのでした。

 平成7(1995)年2月、その名も

「平和への決意」

 と題する司教団教書は、絶対的平和主義の立場に立ち、日本人と教会の戦争責任をそれぞれ指摘し、

「日本軍は朝鮮半島や中国、フィリピンなどで、人々の生活を踏みにじった」

「残虐な破壊行為で無数の民間人を殺した」

「強制的に連行されてきた朝鮮人や元従軍慰安婦は、日本が加害者だったことを示す生き証人だ」

 などと追及しています。

 この教書が発表されることになった理由を、教書は、教皇ヨハネ・パウロ2世が

「教会は過去の誤りなどを悔い改めて、みずからを清めるよう、その子らに勧めることなくして、新しい千年の敷居をまたぐことはできない」

 と語った使徒的書簡「紀元2000年の到来」に求めています。

 しかし教皇は信仰の完成を呼びかけたのであって、悔い改めに名を借りた戦争責任追及とは無縁です。

 また、歴史の真実を見極めるというなら、

「強制連行された朝鮮人や従軍慰安婦」

 は削除されるべきでしょう。

「朝鮮人の強制連行」説は北朝鮮系の研究者による政治的プロパガンダが典拠であり、史実でないことが研究者の間では常識となっています。数年前、在日韓国人組織が日本人の歴史認識を正すことを目的に発行した小冊子などは強制連行への言及がありません。まして強制連行が立証された慰安婦が一人でもいるのでしょうか。

 しかし歴史を見極めるどころか逆に歪める司教団教書は政治運動本格化のジャンプ台でした。教書にはその後の慰安婦問題の謝罪要求、原発反対、自衛隊海外「派兵」反対などを予感させる7つの実現項目が並んでいます。


▢5 本格化する日本批判

 先兵は左傾化の本丸とされる正義と平和協議会(正平協)です。司教協議会、社会司教協議会のもとで社会問題に取り組んでいる正平協は、司教団教書の2カ月後、

「新しい出発のために」

 という声明を発表します。

「天皇制国家主義が支配した日本がアジア太平洋地域で侵略戦争を推し進め、2000万人以上の兄弟姉妹を殺し、労働と性労働に強制連行した。日本は日清戦争以来、侵略を行った。日本の教会は侵略戦争に手を貸した」

 これが宗教家の文章かと思うほど、露骨な表現で、天皇批判、侵略戦争批判が始まりました。

 前年に枢機卿となった白柳師は、教皇が昭和56年に広島で語った

「過去を振り返ることは将来に対する責任を負うことです」

 を引用し、戦争協力の歴史の反省が教皇の意向であるかのように説明していますが(『歴史から何を学ぶか──カトリック教会の戦争協力・神社参拝』カトリック中央協議会福音宣教研究室編著、1999年)、教皇がアピールしたのは核兵器廃絶であって、

「日本による侵略戦争」

 の告発ではありません。

 しかし正平協は、なぜ戦争が引き起こされたのか、というもっとも基本的な歴史検証を欠落させたまま、観念的で非実証的な日本批判を展開し、さらに戦後の「経済侵略」、自衛隊の「海外派兵」にまで矛先を向けています。

 悲しいかな、人類の歴史は戦争の歴史です。日本人が「戦後」と呼ぶ60年間にも世界では殺戮と破壊が続いたし、中国の軍備増強や北朝鮮の核開発は世界的関心事です。

 60年前の戦争を特別視するのは、目の前の事象から目をそらすことになりますが、もしやそれが司教たちの目的でしょうか。

 正平協は、戦後日本のアジア進出を「搾取」「経済侵略」と決めつけていますが、それならコロンブスの新大陸発見以来、カトリック信者による身の毛もよだつような殺戮と破壊が行われ、植民地支配の続いた中南米地域で、日本が「侵略」した地域以上に発展した国があるでしょうか。正平協の批判は客観性に欠け、偽善的です。

 けれども、司教たちの日本批判はさらに具体的にエスカレートします。たとえば慰安婦問題です。平成8年、司教協議会社会司教委員会は、

「日本帝国陸軍が作った慰安所制度は国際法に違反する。政府は法的責任を認めよ」

「被害者に補償せよ」

「謝罪せよ」

 と迫る国連人権委員会クマラスワミ勧告の受け入れを首相に要望しました。

 しかしこの勧告は挺身隊と慰安婦を混同し、総数を20万とし、大部分は殺された、とリポートするなど、ずさんな部分があることが指摘されています(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社、1999年など)。類似の制度はドイツやイタリア、アメリカ、イギリス、ソ連などにもあったことが知られており、日本だけが謝罪し、賠償することは公正を欠きます。

 しかも戦争中、朝鮮および朝鮮人はもっとも協力的な戦友であり、慰安婦も同様でした。慰安婦出身の女兵伝説さえあるといいます。けっして

「性の奴隷」

 ではありません。

 また、個人補償問題は国交正常化によって日韓間では解決済みです。日本が補償を拒んだ事実もありません。正常化交渉で日本は個人補償を繰り返し提案しましたが、韓国政府が同意しなかったのです(高崎宗司『検証・日韓会談』岩波書店、1996年)。

 日本が謝罪していないわけでもありません。宮沢首相も村山首相もお詫びを述べています。

 最初に慰安婦問題が火を噴いた15年前、宮沢首相は抗議デモが荒れ狂う韓国で

「謝罪」

 を迫られました。首相訪韓は以前から予定され、北朝鮮の核武装や南北統一問題を協議するはずでしたが、本題はすっかりかすんでしまいました。

 日韓が連携するアジア外交の完全な失敗で、誰が漁夫の利を得たのかは明らかです。

 国連人権委のあるジュネーブでは日本人修道女が長期間、組織的にロビー活動をしたといわれます。

 慰安婦問題を断罪した「2000年女性国際戦犯法廷」の主催団体は発足当初、カトリック中央協議会や正平協と同じ住所に連絡先があった、団体の発起人の一人は正平協のメンバーで、「戦犯法廷」は人脈的に北朝鮮の中枢につながっている、とも指摘されますが、日本の教会は神の館を隠れ蓑にした北朝鮮の工作機関なのでしょうか。


▢6 侵略戦争史観にこり固まる

 教会指導者の日本批判は国旗・国歌にも向けられました。国旗・国歌法が成立、施行されたのは平成11年夏ですが、正平協はその約半年前、法制化反対を表明し、同法成立後はカトリック学校に対して国旗掲揚・国歌斉唱の再考を促しています。

 正平協は、日の丸に関しては

「アジア太平洋地域の人々にとって軍事的侵略のシンボルとして位置づけられている。日本は侵略・植民地化の責任を認めず、戦後補償もしていない」と非難し、君が代に関しては「歌詞そのものが天皇を日本の統治者として讃美するもので、主権在民の原則に反する」

 と主張しています。これほどまでに「侵略」戦争史観、反天皇にこり固まっているとは驚きです。

 キリストは罪の追及ではなく、赦しを教えています。

 平和条約締結後、フィリピンが真っ先に日本人戦犯の赦免・減刑に動き出したのはこの精神からでした。キリノ大統領はある日本人が戦犯赦免を願い出たとき、

「多くの国民は日本人を赦せないと思っている。しかしキリスト教精神で何とか赦そうとしている」

 と涙ながらに答えたといいます。大統領は戦争で妻子を失っていました。

 崇高な赦しの精神を正平協はなぜ語ろうとしないのでしょう。

「侵略」のシンボルとしての日の丸がどうしても認められないなら、同じ論理で異教文明破壊のシンボルとしての十字架も認められないことになります。

 かつて新大陸で展開されたキリスト教徒による先住民殺戮がどれほど残虐を極めたかは、ラス・カサス神父が『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波書店、1976年)に詳細に記録しています。

 救われるのは信者の良識です。

 昭和天皇が戦後の地方巡幸で訪れたカトリック系社会施設では公然と国旗が掲揚されていました(大金益次郎『巡幸余芳』新小説社、1955年)。20年前の教皇来日のとき、広島、長崎の信者は日の丸の小旗を振って、歓迎しました。今年2月、バチカンに詣でた日本人信者たちが日の丸を手に教皇に謁見したことは外国プレスも報道しています。

「君が代」についての正平協の理解は単純すぎます。

 君が代の歌は古今集に「詠み人知らず」として収められているほど古く、広く知れ渡っていた賀の歌です。君が代の「君」は天皇とは限らず、朝廷に用いれば聖寿万歳をことほぐ意味になり、民衆に用いれば年長者の長寿を祝う歌ともなりました。神事や仏事、宴席で盛んに歌われ、歌い継がれ、それゆえ近代において国歌の地位を自然に獲得したのでした(山田孝雄『君が代の歴史』宝文館、1956年など)。

 司教たちは近年、ますます過去への執着を深め、日本批判を募らせています。一昨年、司教団は

「戦後60年平和メッセージ、非暴力による平和への道」

 を発表しました。

 メッセージはこの年春に中国や韓国で高まった反日運動を取り上げ、その背景に日本の歴史認識や首相の靖国参拝、憲法改正論議などの問題があると指摘し、さらに政教分離原則を緩和する憲法改正の動きを戦前の復活になりかねないと牽制しています。

 司教たちの批判はつねに日本にだけ向けられています。このメッセージも、中韓両国の反日の原因は日本だと理解するばかりで、中国国内の権力闘争の道具として靖国問題が利用されてきた側面を見落としています。

 中曽根内閣時代、首相の公式参拝に中国が批判したのは、改革派の胡耀邦に反発する保守派が靖国参拝をたたくことで胡耀邦の追い落としをはかったからだといわれます。

「反日」江沢民と異なり、対日重視政策をとる胡錦涛は政権成立後、歴史問題を後景化させる方針でしたが、対日強硬派は小泉参拝をきびしく批判し、胡錦涛政権を弱腰と攻め立てました(清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文藝春秋、2003年など)。

 つまり中国の靖国問題は中国の内政問題としての側面をもっています。

 となると、この年秋の小泉首相の靖国参拝、昨年の終戦記念日の小泉参拝に対する司教たちの抗議文は中国の対日強硬派を元気づけるものです。

 ビッテル神父が

「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う義務がある」

 とマッカーサーに進言したように、国家が殉国者を慰霊するのは当然です。現教皇ベネディクト16世はイラクで落命したイタリア人兵士を

「わが息子」

 と称え、追悼しました。

 バチカンの方針と一致しない異端化した靖国参拝批判は日本の国益のみならず、アジア地域の平和に反します。


▢7 平和とは正義の実現である

 過去40年近く、司教たちは教会が戦争に協力した過去を反省するのに熱心ですが、あってはならない戦争とはいえ、ひとたび戦端が開かれれば、祖国防衛のため国民は立ち上がらざるを得ません。

 教会が反省すべきは開戦後の戦争協力ではなく、それ以前の戦争回避への努力不足でしょう。

 ビッテル神父は昭和12年秋、近衛首相の要請を受けて渡米し、アメリカ人に日本人の武士道という道徳観を説き、戦争回避を訴えました。

 日米開戦前夜、来日したアメリカ・メリノール宣教会のウォルシュ司祭とドラウト神父は

「戦争は何としてでも阻止しなければならない」

 と真剣に論じたといいます(前掲『マッカーサーの涙』)。二人の来日こそ、日米交渉の幕開けでしたが、交渉は成功しませんでした(須藤眞志『日米開戦外交の研究─日米交渉の発端からハル・ノートまで』慶応通信、1986年など)。

 当時、日米の経済関係は親密でした。サイデンステッカー・コロンビア大学名誉教授によれば、アメリカ人の対日観はけっして悪いものではなく、大正末期の排日法もカリフォルニア・ロビーの議会工作がなければ成立しなかったといわれます(「アメリカ人は日本をどう見てきたか」=『日米の昭和』アステイオン、ディダラス国際共同編集、TBSブリタニカ、1990年)。

 日米関係が急速に悪化した一因は、蒋介石の巧みな政治工作でした。

 日中戦争で劣勢に立つ蒋介石は宋美齢夫人の長兄、キリスト者でハーバード大卒の親米派・宋子文をワシントンに派遣して、援助獲得交渉に乗り出し、夫人も流暢な英語でアメリカの孤立主義的世論を中国支援へと変えたのです。

 今日の慰安婦をめぐるアメリカ議会工作を彷彿させます。

 さて、最後になりました。岡田大司教様、平和とは何でしょう。

 教皇ベネディクト16世は

「平和は単なる武力紛争の不在ではなく、正義の実現である。神の恵み、賜物であり、その実現を妨げているのは偽りである」

 と訴えています(2006年新年メッセージ)。

「20世紀には常軌を逸したイデオロギーと政治体制が計画的に真理を歪曲し、夥しい人々を搾取、殺害し、家族や共同体を抹殺した」

 とも述べていますが、司教様方はその前世紀を引きずり、意図的に歴史を歪め、常軌を逸した日本批判を繰り返していませんか。偽りの政治運動が平和どころか、危機をもたらすことは明らかでしょうに。

 それとも危機をお望みなのですか。

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教育基本法「改正」反対へ暴走する司教たち──カトリックの教義を逸脱し、歴史をねじ曲げる [キリスト教]

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教育基本法「改正」反対へ暴走する司教たち
──カトリックの教義を逸脱し、歴史をねじ曲げる
(月刊「正論」平成19年2月号から)
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1、ブログを開設した元教区長の胸中

 生きることに疲れ果て、神の声を求めて教会の門をたたいたとき、そこが神の館どころか、教会を隠れ蓑にした無神論者の巣窟であり、「宗教弾圧国家」に連なる政治活動家の秘密アジトだったとしたらあなたはどうしますか。もしかすると、それは冗談でも、仮定の話でもなく、日本のカトリック教会の現実かも知れません。

 教育基本法改正をめぐる国会での攻防戦が最後のヤマ場を迎えようとしていた平成19年11月中旬、1人のカトリック聖職者によるブログが静かにスタートしました。糸永真一司教の「カトリック時評」。初回のテーマはまさに「教育基本法改正案」で、

「本来の人格教育は、両親の宗教的信念のもとにまず家庭において行われなければならない。家庭の再生なくして教育の再生はありえない」

 と訴えています。

 家庭教育が重要だ、との主張はきわめてオーソドックスです。奇を衒(てら)わない、正統派の主張こそ、このブログの本領です。

 ネット時代のいま、司教のブログはけっして珍しくはありません。糸永司教自身はブログの狙いを

「個人的に自由な立場で、福音宣教の使命を継続するため」

 と簡単に説明しています。けれども、キリシタンゆかりの地、長崎・平戸のクリスチャン・ホームに生まれ、幼児洗礼を受けたボーン・クリスチャンである糸永司教が、450年前、「東洋の使徒」フランシスコ・ザビエルが最初に上陸した鹿児島で35年の長きにわたって教区長を務めあげ、平成18年1月に引退したあともなお

「世の中の問題や現象を取り上げ、カトリックの立場から論評しよう」

 とネットで語りはじめたのは、それだけ強固な「宣教の使命」をその身に負っているからでしょう。

 ある信徒は

「異端化する教会を見るに見かねた」

 と胸中を代弁します。つまり横暴をきわめる異端者に対する正統派の戦いだというのです。正統がアンチテーゼとなる。それほどに教会は左傾化、異端化しているのです。


2、左傾化する司教団の20年

 教会の左傾化はもうここ20年近くも指摘されてきました。

 たとえば澤田昭夫・筑波大学教授(当時)は、雑誌「諸君」平成元(1989)年4月号に「カトリシズムの荒廃」を書いています。

 教会が世俗的な「解放」「自由」のスローガンに躍らされ、世界的に荒廃、衰退し始めていること、日本でも横浜の名門ミッションスクールが修道院と学校とが同居・一体化した古き佳き「修学共同体制」を突如として解消し、騒動を巻き起こしたのはその一環であることなどを指摘し、伝統否定、天皇制攻撃を始めた教会の前途に警鐘を鳴らしたのです。

 そのころはちょうど昭和天皇の崩御から今上天皇の即位に至る御代替わりのときで、懸念は現実そのものでした。

 たとえば、国民が悲しみに暮れた崩御の当日、司教たちの全国組織である司教協議会は聖職者向けに文書を発表し、

「明治以降の天皇制と結びついた国家神道」

 をあげつらい、

「過去の忌まわしい時代に逆戻りする危険を絶えずはらんでいる」

 と主張したうえで、

「追悼ミサをあげたり、政府行事に教会の名を連ねたりしないことが望ましい」

 と呼びかけました。要するに

「関わるな」

 というのです。

 キリストの弟子の後継者と位置づけられ、教皇に直結する司教ですが、

「天皇の葬儀」

 などの敬語敬称を略した公文書には、宗教者とは思えない、突き放した冷たさが感じられます。

 皇太子時代の昭和天皇の御外遊に随行したカトリック信徒の海軍少将が「御日常」をカトリック・タイムズ(今日のカトリック新聞の前身)に連載し、昭和3年の即位大嘗祭当日にはシャンポン東京大司教奉献の大ミサを挙行したのとは、大違いです。

 皇室は明治以来、カトリックの社会事業を支援してきた最大のパトロンであり、05年春に亡くなった教皇ヨハネ・パウロ2世の追悼ミサに今上(きんじょう)天皇の名代として皇太子殿下が参列されたことからすれば、政府行事への参加を禁じる教会の対応は礼儀を欠いています。

 左傾化、異端化はそればかりではありません。国旗・国歌法の制定に関しては、司教協議会、社会司教協議会のもとで社会問題に取り組んでいる正義と平和協議会(正平協)が、

「日の丸は侵略のシンボル」

「天皇制軍国主義が犯した過ちを忘れてはならない」

 と反対を表明しています。

 むろん、いわゆる靖国問題には大反対で、80年代から司教団もしくは正平協が首相宛に文書を発表し、

「信教の自由」

「政教分離」

 の原則をかかげて、

「靖国神社の国営化」

「中曽根首相の公式参拝」

「小泉首相の靖国参拝」

 に反対してきました。

 さらに有事法制や自衛隊のイラク派遣に反対し、差別や慰安婦問題を告発し続ける日本のカトリック教会は、まるで左翼反体制運動の巣窟の観があります。


3、戦前の「過ち」と絶対的平和主義

 そして、今回の教育改革です。

 5月下旬、正平協は教育基本法改定案を

「とうてい受け入れられない」

 と真っ向から批判する小泉首相宛の書簡を発表しました。

 主張の内容は以下のようなものです。

 ①現行の教育基本法は「平和憲法」と一体で、「個人の尊厳」「真理と平和を希求する人間の育成」を目指している。現行法の精神を誠実に実行してこなかったことを反省すべきだ。教育基本法の改定を「平和憲法」廃棄の布石とする目論見が明らかになっており、改定案の奥にある意図に危惧を持つ。

 ②改定案の「伝統」の文言は意味があいまいで、思想・良心・信教の自由が侵される危険もある。戦前は神社拝礼が国民的儀礼としてキリスト教徒にも強要された。歴史の反省から生まれた戦後の政教分離原則を緩和しようとする動きがあることを考え合わせると、「伝統」の文言は神社参拝強要の危険性をはらんでいる。

 ③同じく「公共の精神」の文言には個人より国を上位に置く意図が現れており、「我が国と郷土を愛する」にも同じ危惧を持たざるを得ない。人格のあるべき姿を国家が規範として法律で定めることは法の任務を逸脱している。

 教育が国家権力に利用されることに歯止めをかけた現行法の精神を貫くべきで、法律の改定ではなく、再評価を要請する──。

 護憲、戦前史批判、個人主義擁護、反国家主義──書簡は宗教家が書いたとは思えないほど、政治的文言に終始しています。「改悪」という表現は使わないまでも、「改定」にこだわっているところにも政治的姿勢が感じられます。

 そしてさらに、安倍首相が教育基本改正案の早期成立を表明し、法改正がいよいよヤマ場を迎えるのを前にして、今度は司教協議会、社会司教委員会が

「教育基本法改定への懸念」

 と題する書簡を首相および文相宛に発表しました。

 協議会は表現こそ正平協よりは宗教的であるものの、今日、「教育の再生」は焦眉の課題だが、「だから教育基本法を改定する」というのは短絡的に過ぎる。むしろ現行法の精神を根本的に咀嚼し直すことが求められている──などとして、正平協と同様の論理を展開し、「受け入れられない」と拒絶しています。

 二つの文書に共通する主張の核心は、侵略戦争史観、絶対的平和主義、平和憲法擁護の三つで、平和理念と史的体験が司教たちを護憲運動に駆り立てる車の両輪となっています。絶対的平和主義の宗教的信念があり、一方で忌まわしい歴史的体験がある。司教たちの政治行動はそこから当然の論理的帰結として導かれています。いわば信念と体験と行動の三位一体(さんみいったい)です。

 それならば、司教たちの絶対的平和主義がカトリックの教義に照らして正統なのか、司教たちの戦前史理解が事実に基づく実証的なものなのか。じつは、そこに根本的な疑義を持つ信徒が少なくないのです。


4、九割の信徒は司教たちに懐疑的!?
 全国を16に区分する司教区の最高責任者である司教たちが、教会法に基づいて協議会を組織し、連名で繰り広げる政治活動は、

「九割方は反対している」

 といわれるほど、信徒の賛同を得ていません。

 反天皇、反靖国、反「日の丸」の立場に立つ司教たちとは異なり、戦前も戦後も皇室を敬愛するカトリック信徒は数多く、皇族のおそばに仕える侍従職にも信徒はいます。皇室とバチカンの友好関係には長い歴史があります。また、敗戦後、靖国神社の「焼却」計画が持ち上がり、占領軍のなかで

「神道、神社は撲滅せよ」

 という強硬論が燃え上がっていたとき、

「殉国者はすべて靖国神社にまつられるべきだ」

 とマッカーサーに進言したのは上智大学のビッテル神父です。現在も靖国神社に参拝し、讃美歌を歌う信徒は少なくありません。さらに、昭和天皇の地方巡幸のときカトリック系の社会施設は日の丸で飾られていたし、25年前にヨハネ・パウロ2世が来日したとき、広島や長崎の信徒たちは日の丸を振って歓迎しました。

 信徒たちは、司教たちこそ教会の教えに背いている、と疑っています。多くは良識を保って沈黙していますが、なかには再三、質問状を提出した信徒さえいます。

 戦前、関西のクリスチャン・ホームに生まれ、幼児洗礼を受け、カトリック学校で学んだこの信徒は、これまでも正統的カトリック信仰を追求する立場から、司教らの護憲運動や靖国参拝抗議に対して異議を申し立ててきました。

 今回の教育改革論議では、基本法改正に真っ向から反対する司教たちに対して、バチカンが編纂した信仰と教理の解説書『教会のカテキズム』などに基づいて、次のような疑問を投げかけています。

 ①平和憲法改正反対の主張は、教会の考えに照らして無理がある。教会は、政府の正当防衛権を拒否できない、兵役は平和維持に反しない、と教えている。憲法を改正し、国防の義務を明文化したとしても、教義上、反対する根拠はない。

 ②現行教育基本法は田中耕太郎ほかキリスト教の第一級の知性が中心的に作成したもので、その理念はキリスト教的普遍主義に合致している、改正は不要である、という主張もあるが、現行法は教育勅語を前提に制定され、教育勅語には欠けていた「個人の尊厳」「平和の希求」を盛り込み、憲法を補完しようとした、との見方もある。当初の要綱案には「伝統尊重」の文言があったが、GHQの反対で削除されたという経緯からすれば、キリスト者の知性による現行法は立法者の意思が曲げられている。

 ③国民は国や為政者の権威を尊重すべきであるというのが教会の基本的立場ではないか。また「伝統の尊重」こそ教会の基本概念であり、共通善のため物的・人格的に国家に奉仕すること、国を愛することは国民の義務である、と教会は教えてきた。

 ④法律改正論議で宗教教育の導入が焦点になったが、正平協がまったく関心を示していないのは宗教家として恥ずべきことではないか。偏った政治イデオロギーにとらわれ、宗教家本来の任務を忘れているのではないか。公立学校での宗教教育がタブー視され、結果的に宗教音痴の日本人を大量に創り出してしまったことに、キリスト者は責任を感じるべきだ。

 仏教界は改正試案を提案し、民主党がこれを取り上げた。教会も改正案を提案すべきではないか──と信徒は真摯に訴えています。

 しかし、司教たちからの応答はほとんどないといわれます。答えたくないのか、答えられないのか。

 司教たちの主張が教義に反している、と疑っているのは、どうやら信徒ばかりではないようです。

 カトリック新聞平成18年11月5日号の「意見異見私見」欄には、冒頭の糸永司教の投稿が載りました。両親こそ教育の第一の責任者である、国の教育は補完的なもので、絶対化してはならない、個人主義や全体主義を排して共同体とともに意識・使命感を育てる必要がある──という訴えは、正平協や司教協議会とは明らかに一線を画すものです。「共同体」の発想は正平協らの文書には見当たりません。

「異見」の存在は、「教会の立場」を語る司教たちの公的かつ組織的な政治行動が教会をあげての反対運動でないばかりか、司教たちの総意ともいいがたいことを示しています。つまり、一部の司教たちが

「暴走している」(信徒)

 のです。


5、バチカンは絶対的平和主義をとらず

 司教たちの暴走をもう少し分析してみます。論点は三つ、

第一は司教たちが政治的行動をすることの資格性、

第二は絶対的平和主義の主張は教義に即しているのか否か、

第三は戦前史を迫害史と見る歴史理解の正否

 です。

 まず第一点です。じつは先述した信徒は、教育改革に関する質問書の冒頭で、正平協の書簡はどのような手続を経て作成され、教会の公文書として政府に提出されているのか、その権限は何に由来するのか、と司教たちにただしています。

「教義上、聖職者は政治に関わる資格があるのか」

 というわけです。

 一般に教会の説明では、司教協議会はバチカンの「新教会法」によって定められた司教たちによる常設機関です。左傾化の本丸と目されている正平協は、司教協議会が設けた常設の司教委員会の一つで、1967年に教皇パウロ六世の呼びかけでバチカンに「正義と平和委員会」が設立され、世界の司教協議会にも同じ趣旨の委員会を設けるよう要請されたのを受けて、70年に発足し、とくにアジアにおいて社会正義と平和を実現する活動に取り組んでいる──と説明されています。

 しかし『教会のカテキズム』には、政治に直接介入することは聖職者ではなく、信徒の任務である、と明記されています。

 そのため先述した信徒は、教育基本法改正反対には信徒の任務が反映されているのか。文書の存在さえ信徒の大多数は知らないのが実態だろう。改正を提案している閣僚や議員には信徒もいる──と問いただしているのです。この信徒の主張によれば、司教たちの政治活動それ自体が教義に反することになります。

 第二は、絶対的平和主義の問題ですが、この信徒は、たとえば司教協議会監修『教会の教え』には

「祖国防衛のために兵役に従事することは必ずしも平和維持に反するとはいえない」

 と書いてある、などと指摘し、みずから教えを破る自己矛盾をついています。

 むろんバチカンは絶対的平和主義の立場には立っていません。たとえば、教皇ベネディクト十六世は06年6月、イラクで死亡したイタリア兵を慰めるメッセージを送り、聖パウロ大聖堂で行われた兵士の葬儀では教皇のメッセージが読まれました。教皇は

「イラク人民の秩序、安全、正義、そして平和的回復のための軍務を大いに成し遂げる途上で倒れた息子」

 と称えたと伝えられます。

 日本の教会もかつては

「戦争は悪」

 などという観念的平和論を振りかざしませんでした。昭和7年にカトリック中央出版部から出版された田口芳五郎の『カトリック的国家観』には

「戦争はその本質上、罪悪ではなく、また愛の掟にも背馳しない」

 とあります。

 田口は長崎生まれ、69年に大阪教区が大司教区に昇格したのにともない、管区内の最初の大司教となり、のちには教皇に次ぐ身分である枢機卿に信任された人物です。

 けれども日本の教会はいまや『教え』に反して絶対的平和主義をかかげ、イラクへの自衛隊「派兵」反対、即時撤退を政府に要求し、

「人命は重く、殺人は聖書の掟からかけ離れている」

 と主張しています。


6、「憲法精神を実現した教基法」ではない

 第三は、歴史理解の問題です。ここでは現行教育基本法制定の経緯と戦前の神社参拝「強要」の二つについて考えてみます。

 まず教育基本法ですが、先述した信徒は、正平協の抗議文書に記述されている

「教育勅語に基づく画一的教育が軍国主義一色に染められ、戦争に巻き込まれた反省から新憲法および教育基本法が制定された」

 という歴史理解は正しいのか、と問いかけています。

 時代背景を見てみると、現行教育基本法が制定されたのは昭和22年春、GHQが教育改革を断行していたときです。帝国議会は憲法改正と併行して教育基本法の制定を進めていましたが、日本政府の要綱案にあった

「伝統の尊重」

「宗教的情操の涵養」

 はGHQの削除勧告を受けました。日本国憲法も公教育における宗教教育の禁止を規定し、教壇から宗教が追放されました。同じ敗戦国であるイタリアが、公立学校での宗教教育を存続させたのとは対照的です。

 戦時国際法は占領軍が被占領国の宗教を尊重すべきことを規定しています。ポツダム宣言には

「宗教・思想の自由は確立せらるべし」

 の項目がありました。GHQがこれらを無視して日本の宗教に干渉したのは、「国家神道」に対する誤解と偏見があったからです。アメリカは戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の源泉で、これが「侵略」戦争を導いた、と理解し、国務省は

「国家神道の廃止」

 を方針としていました。

 昭和20年の暮れには、いわゆる神道指令が発布されました。

「宗教を国家より分離する」

 と規定しつつ、実際は「国家と教会の分離」が拡大解釈され、日本の民族宗教である神道に対する差別的圧迫が加えられ、多くの神道的宗教慣例が禁止されました。

 けれども占領後期になると、GHQは神道指令の「宗教と国家の分離」を「宗教教団と国家の分離」に条文解釈を変更します(ウッダード「宗教と教育」)。であればこそ、26年の貞明皇后の御大喪はおおむね皇室の伝統形式に沿って国家的に挙行されました。GHQの占領政策は前期と後期では異なっています。

 教育勅語についても、その否定の上に現行基本法があるという考えは、少なくとも当初の日本政府は持ち合わせていません。政府は国会で、

「教育勅語が今後も倫理教育の根本原理として維持せられなければならない」(田中耕太郎文相)、

「教育基本法の法案は教育勅語のよき精神が引き継がれております」(高橋誠一郎文相)

 と答弁しています。

 ところが、基本法の制定後、GHQの命令によって、衆議院の教育勅語排除決議、参議院の失効確認決議が行われ、教育勅語は歴史的に抹殺され、

「教育勅語体制から教育基本法体制への転換がなされた」

 という解釈が広がったのです。

 つまり、正平協が主張するように、教育勅語の否定の上に現行基本法があるわけではないし、日本国憲法の精神を実現するために制定されたのが現行法でもない。正平協の歴史理解は正しくないことになります。


7、「迫害」にほど遠い上智大学生事件

 次に、戦前、神社参拝を「強要」されたという歴史について検証してみます。

 司教たちは、今回の教育改革に限らず、政教分離、靖国問題でも繰り返し、神社参拝「強要」の歴史を強調し、反対運動の歴史的論拠としています。具体的にはどんな「歴史」があったのか、というと、それは昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件です。

 明治政府は靖国神社への崇敬を国民に「強制」しようとしたが、学生が拒否したことから、軍部らの迫害を受け、教会は危機に陥った。これを回避するために神社参拝は教育上の理由で行われ、敬礼を愛国心と忠誠の表現と公式に理解し、靖国神社の本質的な宗教性にふれず、宗教的参拝を儀礼として容認するという過ちを犯した。これをきっかけに教会は参拝を奨励することになり、戦争協力への道を歩んだ(小冊子「非暴力による平和への道」)──と司教たちは主張します。

 ところが、当事者たちの回想などによれば、事件は「強制」「迫害」とはほど遠いものでした。『上智大学五十年史』(昭和三十八年)や渦中の人であった上智大学の丹羽孝三幹事(学長補佐)の回想(『上智大学創立六十周年──未来に向かって』昭和48年)、ビッテル神父の『マッカーサーの涙』(同年)には概要、次のように描かれています。

──第一次大戦後、軍縮の時代が到来し、軍は将校の失業対策として学校の軍事教練のために配属した。
 上智大学の配属将校は、昭和7年5月、課外授業は学長の許可を要するという規則を破って、学生を靖国神社に参拝させた。面白半分の個人プレーである。
 カトリック信者の学生が非キリスト教形式の拝礼を拒否し、将校が憤激したのを、翌日の新聞は「参拝拒否」「軍部激怒」と書き立てた。
 しかし文部省は軍に批判的だったし、丹羽幹事と陸相との面談で事態は収拾した。
 ところが10月になって事件はぶり返され、「邪教」「売国奴」「スパイ」という批判が教会に対して浴びせられる。じつは軍部による政党打倒運動に事件が利用されたのであった。
 そもそも濡れ衣だったから、支援者は少なくなかった。不穏な動きがあれば、在校生の父兄でカトリック信徒の麹町警察署長から情報が伝えられたし、神道や仏教関係の大学の学長が見舞いにやってきた。軍内部の同情者からも関係する極秘資料が届けられた。
 そして宮様師団長のお耳に達するところとなり、事件は急速に解決する──。

 これが「迫害」でしょうか。上智大学に日本初の新聞学科が認められ、創設されたのはこのときですが、新聞記者が取材時には軍の横暴をなじりながら、記事では上智の悪口ばかり書いていたという「嵐」のただ中での学科新設は、関係者の誇りでもあるはずです。「迫害」なら新設はあり得ません。「事件」を歴史的根拠とする司教たちの政治運動は事実を無視した、ためにする議論といえます。

 教義面から補足すれば、靖国神社参拝に関して、当時の教会と文部省とが交わした往復書簡には、

「行事参列を要求する理由は愛国心に関するものにして、宗教に関するものにあらず」

「敬礼は愛国心と忠誠とを表すものにほかならない」

 と記されています(田川大吉郎『国家と宗教』)。いまの教会は、神社参拝=宗教行為と原理主義的に断定していますが、教会の見解はいつ変わったのでしょうか。

 政治行動の任務を認められていない司教たちが、教義を逸脱した絶対的平和主義をかかげ、歴史の事実をねじ曲げ、政治運動に走っているのだとすれば、これは暴走以外の何ものでもありません。


8、暴走する司教たちと北朝鮮とのパイプ

 なぜ司教たちは暴走するのでしょう。冒頭にご紹介した澤田教授は、教会が聖性を追求せず、魂の救済を蔑ろにし、社会奉仕団体に成り下がった結果だと分析します。その背後には、魂の永遠の救いよりも現世的解放を重視する「解放の神学」の影響があり、それを指導したのはキリスト教的マルキストであることを澤田教授は臭わせています。

 論攷の指摘は次のようにまとめられます。

 ①第二バチカン公会議(1962〜65年)以後、「開かれた教会」が世界的に標榜された。しかし「解放の神学」の妖気に当てられ、会議の精神をかたって冒険主義に走り、改革ではなく革命的変革を試みる勢力が世界に広まった。これが諸悪の根源である。カトリックの神髄である典礼、礼拝が非神聖化され、俗化され、秘跡の意義は見失われ、畏敬の念が失われた。

 ②先駆けはオランダである。以前から「開かれた教会」を目指していた教会は、66年に開催された全国司教会議以降、ローマの指示とはお構いなしに典礼、教理教育、司牧を自由に進めた。真理は個人が世俗の奉仕のなかで体験するものとされ、正統教義の追究より、実践が重視された。バチカン会議の精神をかかげつつ、まったく別物の教会と信仰が生まれてきた。

 ③アメリカでは76年にデトロイトで全国大会が開かれ、教皇にはアメリカへの介入権はないとし、教会は伝統と手を切り、大衆運動団体に変質せよ、体制に抵抗せよ、人間化された社会主義的ユートピアを建設せよ、というスローガンを採択した。大会を運営したのは進歩派神父と修道女、反体制派のインテリで、支持組織には社会主義者やマルキストがいた。まさに革命大会であった。

 ④やがて「開かれた教会」は魅力を失い、ミサの参加率が低下し、多くの司祭が還俗した。教会は取り壊され、レストランや映画館などに代わった。修道会もまた没落の運命を歩んだ。過去を無定見に否定して未来を漠然と夢見る修道会に若者は魅力を感じず、修道者の「召命」は減った。修道者が万単位で退会した。規律が破壊されたからだ。ローマの警告文を修道会は無視した。

 ⑤日本では88年、アメリカに遅れること10年、「開かれた教会」「刷新」を実現するための福音宣教全国会議(NICE)が京都で催された。教会史上初の大規模会議は俗を聖化するより、聖を俗化し、教会を革命的に変革する役割を果たした。たとえばフォーク・ミサは神不在のイベントで、若者たちが司祭に聖体を授けた。「神の業」は「人間の業」に変換されたのだった。

 この論攷で澤田教授が正しい改革の流れと教会崩壊に連なる革命的変革の流れの結節点と見なしたNICEが開かれたのは、ちょうど御代替わりのときでした。その後、日本の教会がどちらの方向に進んだかは明らかでしょう。そして、どのような人々が教会を革命的変革へと導いたかも想像がつきます。

 ある信徒が興味深い指摘をしています。教育改革は焦眉の急といいながら、緊急対策の提言もない。逆にまるで現状維持を望むかのような教会の論理矛盾の文書は、共産党や社民党、日教組、はたまた過激派と文章の構造が似ている。それ以上に、北朝鮮の労働党と「声紋」が似ている──というのです。

 旧日本軍の行為、とりわけ慰安婦問題を断罪した「女性国際戦犯法廷」の主催団体は発足当初、連絡先をカトリック中央協議会や正平協と同じ住所に置いていた。団体の発起人の一人は正平協のメンバーである。正平協こそ、この団体の揺りかごだった。また、「戦犯法廷」に対する冒涜・誹謗中傷を許さない日朝女性の緊急集会は朝鮮総連傘下の組織に実行委員会を置いていた。この組織のトップは北朝鮮の国会議員である──。

 じつに驚くべき情報ですが、さらには司教たちの側近に、すなわち教会組織の中枢に、北朝鮮との深いつながりをもつ人物がいるとも噂されています。

 それかあらぬか、司教協議会は11月に北朝鮮の核実験に対する抗議声明を発表しましたが、その中身は、北朝鮮への抗議に名を借りて、世界のあらゆる核の廃絶を求め、日本の核保有論議を牽制するものでした。それでいて、それほど平和の希求に熱心な司教たちが北朝鮮の拉致問題を批判したとは聞きません。

 終戦直後のカトリック新聞には、中国大陸で展開されている血なまぐさいキリスト教迫害を告発する記事が毎号のように掲載されていました。宗教を阿片と断じる無神論者たちと、教会は文字通り命がけで戦っていたのです。それがいまや「宗教弾圧国」のお先棒を担いでいるのだとしたら、それでもあなたは神の声を求めて教会の門をたたくでしょうか。

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ローマ法王、ブルー・モスクの祈り──宗教対立を超える第一歩に!? [キリスト教]

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ローマ法王、ブルー・モスクの祈り
──宗教対立を超える第一歩に!?
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 内外の報道によるとトルコを訪問したローマ法王ベネディクト16世は、昨晩(平成18年11月30日)、イスタンブールのスルタン・アフメット寺院、通称「ブルー・モスク」にもうで、イスラム聖職者とともに祈りを捧げました。

 ローマ法王のモスク訪問は、ヨハネ・パウロ2世に次いで二人目ですが、今回の表敬は、イスラム世界との関係回復の試みとして注目されました。

 厳重な警備体制がひかれるなか、法王は同寺院を訪れました。靴を脱いで中に入った法王は、イスラム聖職者の案内でミーラブに進みました。メッカの方向を指し示すミーラブはイスラム教徒の祈りの場です。

 イスラム聖職者がその説明をし、

「私は祈ります」

 といって、祈り始めると、法王はメッカの方角に向かい、イスラム聖職者とともに、1分間以上、無言の祈りを捧げました。

 イギリスのタイムズ紙によれば、トルコのメディアは、もし法王がひざまずき、十字を切って祈れば、イスラムの世論を害し、同時に世俗国家擁護者たちの感情を損ねるだろう、と警告していたようですが、法王は、ひざまずき、十字を切るというようなキリスト教的な祈りの形式はとりませんでした。

 カトリックは典礼中心の宗教といわれます。荘厳な宗教儀式に信徒は神との霊的な交わりを体験します。そのカトリックの最高聖職者である法王自身が捧げたキリスト教的形式によらない、イスラムの聖地メッカに向かっての祈りは、血なまぐさい宗教対立が絶えない人類社会を変えていく第一歩となるのでしょうか。

 法王はトルコ訪問の初日、首都アンカラの宗教省で演説し、キリスト教徒とイスラム教徒との間で、

「真実に基づき、相手をより深く理解したいという真剣な願いから、違いを尊重し、共通点を認める」

 という真の対話が必要であるとの考えを示しましたが、今後、宗教間の対話が進み、相互理解が深化していくことになるのかどうか。

タグ:キリスト教
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日本の稲作儀礼にも似た英国のクリスマス・イブ [キリスト教]

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日本の稲作儀礼にも似た英国のクリスマス・イブ
(「神社新報」平成17年1月24日から)
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「マンダンガスは病院行きのために車を一台借りてきてゐた。クリスマスには地下鉄が走ってゐないからだ」

 ベストセラー「ハリー・ポッター」の一節である。舞台は英国ロンドン。地下鉄が走らないとしても、魔法使ひなら魔法を使へばよささうなものだが、人間の世界にゐるときはそれができず、やむなく車を借りる羽目になったらしい。だが、なぜ地下鉄が走らないのか、説明はない。

 じつをいへば、ドーバー海峡の海底トンネルをくぐり、パリ、ブリュッセルを結ぶ「ユーロスター」をはじめ、鉄道やバスなど交通機関のほとんどが、イブから二十七日にかけて運休する。デパートやスーパーは夕刻で閉店。医療機関は休診し、学校はクリスマス前から年末年始の休暇に入る。

 英国人にとって、クリスマスは家族そろってご馳走を囲み、一年の思ひ出を語り合ふ特別の日といはれる。家路を急ぎ、エリザベス女王のスピーチに耳を傾け、暮れゆく年を家族で共有する。キリスト降誕祭といふより一年の締めくくりと位置づけられてゐる。


▢ キリスト教以前

 十九世紀英国の文筆家チェインバーズの『The Book of Days』(邦訳『イギリス古事民俗誌』)は、キリスト教の祝祭日前夜は厳格には断食と懺悔の時とされてゐるのに、万霊節前夜(ハロウィーン)やクリスマス・イブは本来の目的をはづれて、どんちゃん騒ぎの夜になってゐると指摘してゐる。

 それでも、祖先がのべつ幕なしに飲んで騒いだのに比べれば、大人しいものだといふ。昔はといへば、若者は森へ出かけ、ヤドリギを採ってきた。開放された領主の屋敷に小作人や農奴らが押しかけて、無礼講になった。丸太がくべられた炉が燃え上がり、高座にはイノシシの頭。陽気な仮面隊が大声でキャロルを歌った。とてもキリスト教の祝祭とは思へない。

 それもそのはず、浮かれ騒ぎの由来はキリスト教以前、さらに古代ローマの支配以前にさかのぼる。習合の産物である。

 まづ古代ローマのサトゥルナリア。収穫祭と冬至の祭りを兼ねた農神祭である。「十二月二十五日」はローマの古い暦では冬至の日に当たる。日照時間が最短になり、力を弱めた太陽は、この日を境にふたたび生命力を恢復させていく。太陽神の誕生を祝ふ重要な祭日であり、一年の起点、元日だった。古代ローマでは主人と僕の関係が一時的に逆転して無礼講万々歳だったといふ。

 この祭りに、ドルイド僧(古代ケルト人が信仰してゐたドルイド教の祭司)の宗教儀式が混淆する。古代ドルイド教でもっとも神聖視されてゐたヤドリギの採取が冬至の祭りの日に行はれた。さらに古代サクソン族の神話をも吸収し、今日のクリスマスが形成された。

 英国人はキリスト教に改宗したあとも、従来の慣習を排除せず、守ってきた。教会も古いしきたりをあへて追放しなかった。民衆が固持する異教の儀式にキリスト教の儀式を接ぎ木して宣教する方が伝道効率がはるかに高いと考へてゐたからだとチェインバーズは解説するが、キリスト教会の関係者は異教との「融合」を認めようとしない。


▢ ケルト人の祭り

 古代ブリテン島に住むケルト人は、大晦日の晩に死霊が家々を訪ねてくる、と信じてゐた。その信仰は、同じく十九世紀英国の小説家ディケンズの名作『クリスマス・キャロル』に見え隠れする。主人公の老人スクルージは孤独な守銭奴。イブの晩、彼の家を訪ねてくるのは、天使でもサンタクロースでもなく、昔の仕事仲間の幽霊たちで、

「いまのうちに悔い改めないと、悲惨なことになる」

 と諭すのだった。

 書名はキリストの誕生やクリスマスの季節の到来を祝ふ歌の意味だが、英国には、教会で歌はれるだけでなく、子供たちが何人かで家々を訪ね歩き、戸口で歌ひ、もてなしを受けるといふ風習がいまもある。

 幽霊や子供たちが訪ねてくるといへば、米国のハロウィーンが思ひ起こされる。カトリックでは十一月一日が諸聖人を祝ふ「万聖節」で、その前夜祭がハロウィーン。これも元来、ケルト人の祭りで、秋の収穫を祝ひ、冬の訪れを前に悪霊を追ひ払ふ意味があった。ケルトの暦では十月末日が一年の終はり。大晦日の晩だから死霊がやって来る。悪霊から身を守るために仮面をかぶり、魔除けの焚き火をたいたのが今日の仮装行列の起源といふ。米国にはアイルランド系移民が持ち込んで盛んになり、「子供たちの大晦日」と呼ばれる。

 一年の節目の日に霊が訪れるといふ信仰は、日本と共通する。

 京都府相楽郡精華町の祝園神社(宮城利武宮司)や同郡山城町の和伎座天乃夫岐賣神社(通称、涌出宮、中谷勝彦宮司)に伝はる居籠祭は稲作の予祝行事で、かつては神霊を迎へるために氏子を挙げて斎籠もった。祭り期間中は音を忌み、鳴き声を発する牛馬は近隣の縁者に預けられた。門戸を閉ざし、入り口には筵をかけた。掃除をせず、下駄を用ゐることもなかったといふ。外出しないから当然、車馬など交通機関は止まった。

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マザー・テレサが「福者」に──今後は「列聖」のための調査も [キリスト教]

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マザー・テレサが「福者」に
──今後は「列聖」のための調査も
(「神社新報」平成15年11月10日号から)
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 インド・カルカッタで貧困者たちの救済に生涯を捧げ、ノーベル平和賞を受賞、六年前に八十七歳で死去したカトリック修道女マザー・テレサを「聖者」の前段階の「福者」に列する「列福式」が(平成15年)十月十九日、バチカンで行はれた。

 通常は死後五年以上過ぎてから審査が始まり、「列福」までに数十年かかるのを、今回は法皇ヨハネ・パウロ二世の強い希望で死後三年といふ異例の早さで審査が開始された。死後六年での「列福」は「史上最速」と伝へられる。


▽ 「奇蹟」が認められ

 カトリックでは徳のある行為や殉教によって信仰の規範を示した信徒に死後、「聖者」の称号を与へてゐる。「聖者」の前段階が「福者」とされ、「聖人」か否かは神自身が「奇蹟」によって証明する。教会は慎重な態度でこの証明を待つのだ、と説明されてゐる。

 長崎の「二十六聖人」の場合、慶長元年(一五九七)の磔刑から七年後の同八年に京阪地域のキリシタンから「列聖」の嘆願書が提出され、一六一六年に法王庁の調査が始まり、十数年後、法皇は「殉教者」のためのミサをあげることを許可し、「列福」の栄誉を与へた。処刑のときに十字架上に火の柱が出現し、夜なのに周囲が明るくなった。処刑者の遺体が腐らなかった、といふ「奇蹟」が理由とされた。

 しかしアジアで最初の「列聖」は二百六十五年後の一八六二年。「列聖」のための本調査が許可されながら、「積極的な措置がとられなかった」といはれ、幕末になって「列聖」が促進された。

 マザー・テレサの場合、インド人女性の「マザーに祈ったら、お腹の腫瘍が消えた」といふ証言が採用され、「列福」したといふ。「慈善の具現」と法皇が呼んだマザー・テレサだが、今後、「列聖」に向けての調査も始まるらしい。


▽ いづれ高山右近も?

「列福」「列聖」を重視するヨハネ・パウロ二世の時代になって、「福者」「聖人」の件数は目立って増えてゐる。現在、バチカンでは約二千二百件の「列聖」審査が進められてをり、そのなかには日本のキリシタン大名高山右近や江戸期禁教下の「殉教者」たちも含まれてゐるといふ。

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「ニュー・ミレニアム」を考える──畑作文化に由来する循環的時間観念 [キリスト教]

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「ニュー・ミレニアム」を考える
──畑作文化に由来する循環的時間観念
(「神社新報」平成12年1月10日号から)
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 昨年(平成11年)来、ちまたは「ミレニアム」であふれている。

 某洋酒メーカーが売り出した「ミレニアム・ワイン」に始まって、有名でパートには「ミレニアム・コーナー」が設置され、「西暦2000年」にあやかった商品がところ狭しと並べられている。

 消費低迷で不況にあえぐデパート業界がワラにもすがる思いで打って出た商法なら同情しないでもないが、「ミレニアム」の起源がキリスト教にあることは明らかで、キリスト者でもない日本人が「ミレニアム」を呼号するのは年末恒例の「クリスマス商戦」に勝るとも劣らない「悪乗り」といえないか?

 同じ「2000年」なら、4年前の平成8年は「皇大神宮御鎮座2000年」だったけれども、デパートが伊勢の大神の御神徳を宣揚するようなイベントを華々しく展開したという話は聞かないから、対照的である。

「真空総理」にいたっては、年頭会見で「平成12年」という前に「ミレニアムおめでとう」と切り出した。

 そもそも何が「ミレニアム」なのか?


▢ 火付け役となったローマ教皇
▢ 7年ごとにめぐる「安息の年」

「ミレニアム」の火付け役はどうやらローマ教皇ヨハネ・パウロ2世らしい。

 教皇は1994(平成6)年11月、「使徒的書簡──紀元2000年の到来」を発表し、西暦2000年を「大聖年」として迎える準備を全世界10億4千万のカトリック信徒に呼びかけたのだが、「書簡」の原題が「第3の千年期の到来」となっていて、この「千年期」がラテン語では「ミレニオ」、英語で「ミレニアム」なのである。

「書簡」のなかで、とくに興味深いのは、「第2章 紀元2000年の聖年」である。「聖年」の意義が説明されていると同時に、カトリック的な時間観念がうかがえるからだ。

 ローマ教皇は当然のことながら、東洋的な「輪廻転生」をはっきりと否定し、「天地創造」から「キリストの受肉」「再臨」という直線的時間観念を明確に表明している。しかし一方で、「書簡」には農耕民的な循環的時間観念が並行して見いだせるのが面白い。

──モーセの時代には畑が休閑になり、奴隷が解放される「安息の年」が7年ごとにめぐってきた。この年は神の栄光のため、負債が帳消しにされることが律法に規定されていた。50年ごとの「ヨベルの年」には全居住者の全面的「解放」が行われた。すべての人が救いの力にあずかることができるのが「大聖年」である──

 このような論法で、教皇は千年に一度の「主が恵みをお与えになる年」を説明している。

 7年に一度の「安息年」は、旧約聖書の時代の律法に由来する。たとえば、モーセに率いられ、エジプトから脱出したイスラエルの民がカナンに定着していく過程で、主なる神は、

「あなたは6年の間は土地に作物を栽培し、7年目は休閑地とせよ」

 と命じるのである(「出エジプト記」23章10〜11節)。

 ユダヤ・キリスト教といえば、砂漠のなかのオアシスを求めて、羊の群れを追う遊牧民の宗教のように考えられている。砂漠という風土は一神教的な世界観を生み、直線的な時間観念をもたらしたといわれる。

 東大名誉教授で地理学者の鈴木秀夫先生が述べているように、

「草も木もなく、倒れた動物の死体もただ白い骨をさらすだけの砂漠では、輪廻の思想は生まれない。世界は、天地創造に始まり、終末に向かって、一直線に進行しているという直線的世界観が成立することになる」(『森林の思考・砂漠の思考』)のだ。

 ところが、旧約の律法、そして教皇の「書簡」から浮かび上がってくるのは意外にも、鈴木先生がいう「森林的」な円環的世界観なのである。

 カトリック中央協議会に、

「キリスト教的にも循環的な時間観念があるのですか?」

 と聞いてみたら、驚いたことに、歴史の「繰り返し」は認めながら、「循環」を否定した。よく聞くと、歴史の単純な「循環」という表現を嫌っているらしい。それだけ、世界には初めと終わりがある、という直線的時間観念を強固に信じているということだろうか?

 だとすれば、「7年に一度の安息年」は本質的には非キリスト教的な習俗ということにもなり、ますます興味がもたれる。

『ケンブリッジ旧約聖書注解』を開いてみると、面白いことに、土地に対する「安息年」の制度は歴史的に古いもので、それは土地は神に属するという考え方に基づいている。畑にできる農作物は7年目には神のものとなり、貧しい者や動物のために残しておかなければならない──と考えられたという説明がある。

 当時の農耕がどのようなものであったのか、詳しいことは分からないが、ここに記述されているのは明らかに、キリスト教以前の畑作農耕民による「輪作」の知恵ともいうべき循環的時間観念である。

 さらに玉川大学女子短大・新井智教授の『聖書を読むために』によると、カナン定住によって、イスラエル民族の生活は砂漠の遊牧生活から農耕生活、さらに都市生活へと一変した。そしてカナン土着の神バアルや母なる女神アシュタルテという頽廃的な偶像崇拝の多神教が「侵入」し、倫理的な人格的一神教が「堕落」した──という。

「堕落」と断定するのは早計だろうが、いま教皇が主導する「大聖年」という歴史的大イベントは、間違いなく異教的土地神信仰に由来する循環的時間観念が底流にあることが分かる。


▢ 6世紀に「キリスト紀元「発生」
▢ 最初は「復活祭」計算の副産物

 さて、「西暦2000年」である。

 年数を数える場合に基準となる最初の年を「紀元」という。キリスト誕生の年を元年とする西暦は「キリスト紀元」と呼ばれ、教皇は

「キリストの生年がほとんどどの国でも暦の紀元となり、広く使われていることは意義深く、イエス誕生が人類史に及ぼした比類のない影響のひとつたではないか」

 と強調するのだが、はたしてそうだろうか?

 三笠宮崇仁親王殿下が翻訳されたジャック・フィネガン著『聖書年代学』によると、古代ローマで用いられた紀元はローマ史創建に基づき、西暦前753年を元年としていた。

 ユダヤ人は2つの紀元を用いた。ひとつは、西暦70年にローマ軍によって「第2神殿」が破壊されたことを新紀元とし、「神殿の破壊X年」「破壊の後X年」と表された。もうひとつは「創造紀元」「世界起源」で、ユダヤ人は西暦前3761年をアダムが想像された年と考えた。

 3世紀になると、古代ローマではディオクレティアヌスがローマ皇帝に推挙された284年を紀元の始点とする「ディオクレティアヌス紀元」が用いられるようになる。彼はキリスト教の大迫害者で、キリスト教会ではしばしば「殉教者の紀元」として使用された。

 6世紀になって、著名な学者でもあったローマの修道士ディオニシウス・エクシグウスは西暦525年に「イースター表」を書くのに際して、キリスト教の敵であるディオクレティアヌス皇帝の紀元を使用せず、「主の体現より」という新たな紀元を採用した。

 これが「キリスト紀元」だが、埼玉大学の岡崎勝世教授(ドイツ近代学)によれば、ディオニシウスの方法は

「歴史的事実の探求ではなかった」。

 彼は、キリスト者にとってもっとも重要な祝祭日のひとつ、復活祭(イースター)の日を求めようとした。

 それ以前、キリスト教を公認し、みずから改宗したコンスタンティヌス帝は325年にニケアの宗教会議を開いたのだが、このとき復活祭は

「3月21日以後の最初の満月のあとに来る第1日曜日」

 と定められていたのである。

 ディオニシウスの時代には、イエスの復活は3月25日の日曜日、イエスが満30歳のときと考えられていた。この日は同時に、イエスの受胎告知の日であり、天地創造の日とも考えられた。また、年によって移動する復活祭は532年で一巡する、と考えられていた。そこで、ディオニシウスは、3月25日の日曜日が復活祭となる年を探していき、イエス誕生の年を算定したのである(岡崎『聖書vs世界史』)。


▢ 真のイエス生誕は前4年が有力
▢ 世界化は異教文化破壊の裏返し

 上智大学神学部の土屋吉正教授が書いているように、ディオニシウスはもともとキリストが降臨した歴史的年代を探求したわけではない。また、キリストの死と復活の期日に関する伝承を議論の出発点に置き、2000年前を生誕年とする彼の見解は、今日では支持されることはない。イエス誕生は紀元前7年または前4年とする説が有力で、とくに前4年説が一般的に認められているという(『暦とキリスト教』)。

 たとえば、「マタイによる福音書」は、イエスはヘロデ王の時代に生まれたと記述しているが、ヘロデは前4年に死んでいる。したがってイエス生誕はそれ以前ということになる。(デイヴィッド・ダンカン『暦を作った人々』)

 いみじくもヨハネ・パウロ2世は「書簡」で、西暦2000年を「大聖年」とするのについて、「厳密な年代の問題はさておき」と但し書きをつけ、今年(平成12年)がイエス生誕2000年ではないことを暗に認めている。

 しかし「キリスト紀元」が変更されることはなかった。またイエス誕生が紀元前4年だとすれば、「生誕2000年」は1996(平成8)年で、奇しくも「皇大神宮御鎮座2000年」と一致するのだが、「西暦2000年」を「大聖年」と位置づけるカトリックはこの年、「とりわけ何の行事もなかった」(カトリック中央協議会広報)。

 キリスト紀元がすぐに広まることもなかった。

 キリスト紀元は、7世紀半ばにイングランドの教会で最初に受け入れられ、そのあと西ヨーロッパのカトリック化とともに広がっていった。

 10世紀後半には、それまで教皇在位年を使っていた教皇文書に用いられるようになり、10世紀末までには西ヨーロッパに定着した(岡崎前掲書)。

 日本にキリスト紀元が伝わったのは、いうまでもなくザビエルが来日した450年前である。キリシタンは太陽暦による祝日を厳守した。禁教後、ローマとの連絡が途絶えてのちも、「バスチャンの暦」など独自の暦が伝えられ、隠れキリシタンたちは「御出世以来X年」と年を数えたという(土屋前掲書、岡田芳朗『日本の暦』など)。

 ヨハネ・パウロ2世は、

「イエス誕生が人類史に及ぼした比類のない影響」

 とキリスト紀元の世界化を自賛するが、むしろそれはキリスト教が世界布教の過程で異教世界を侵略し、異教文化を破壊してきた歴史の裏返しではなかったか?

 明治政府は明治5年に改暦を断交し、太陽暦を導入したが、キリスト紀元は認めなかった。政府公認の官暦は明治16年からは神宮司庁が発行するようになるのだが、「神宮暦」には神武天皇即位紀元の皇紀と一世一元の元号とが併記されている。

 ところで、キリスト紀元は復活再計算の副産物として生まれ、その復活祭は農耕民の祭りに由来するというのがまだ面白いのだが、詳しくは次回に譲る。

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「殉教の地」長崎に異論あり──カステラを食べ損ねた話 [キリスト教]

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「殉教の地」長崎に異論あり
──カステラを食べ損ねた話
(「神社新報」平成11年9月13日)
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 ポルトガル人宣教師フロイスが430年前(平成11年時点)、日本に伝えたのが最初といわれる南蛮菓子の金平糖(こんぺいとう)がいまでは靖国神社の神饌になり、非命にも戦陣に散り、戦禍に斃(たお)れた英霊たちのよき慰めになっている、と前回、ご紹介したら、

「カステラはどうなんだ?」

 と読者から指摘を受けた。春と秋の例大祭などに同社で授与される、桜の枝と白鳩と鳥居があしらわれ、脳裏に浮かんできた。同社の説明では、

「神饌ではなくて、土産物として社頭でお頒けしている」

 とのことだが、今年も終戦記念日には頭が割れそうになるほど蝉時雨がさんざめき、5万人の参拝者で埋め尽くされた境内の片隅で、文明堂が出張販売していた。

 こうなれば、とことん追及するしかない。カステラの元祖といったら、どうしたって長崎丸山遊郭の入り口、思案橋と見返り松がある、粋な「山ノ口」の、店構えも古風な福砂屋だろう。

 というわけで、さっそく長崎に飛んだ。


▢ 貿易と信仰をめぐる駆け引き
▢ キリシタンが破壊した神社仏閣

 長崎はカトリックにとって忘れがたい「殉教の地」である。いま記念館と記念碑が建つJR長崎駅正面の「西坂の丘」で、26人のキリシタンが処刑されたのは、慶長元(1597)年のことである。

 一昨年(平成9年)2月には、長崎県立体育館に教皇特使を迎え、6千人が参列する「殉教400年」のミサが行われた。

 分からないことがいくつかある。

 たとえば、「殉教」のいきさつだが、上智大学中世思想研究所が編集に携わる『キリスト教史5』は次のように説明する。

 日本でのカトリック布教はポルトガルの「布教保護権」(教皇がスペイン・ポルトガル諸侯に与えた。異教世界を植民地化し、支配し、交易するための独占的権限)のもとに進められたのだが、ポルトガルとスペインとの境界線は確定していなかった。

 1494年のトリデシリャス条約で決まった境界線は、日本列島の四国を通過することから、その後、スペインの日本進出の気運が高まった。

 そこで宣教師ヴァリニャーノは従来通り日本宣教がイエズス会に委ねられるのが妥当として上申した結果、1585年のグレゴリウス13世の勅書で、イエズス会にのみ託されることが明確になった。

 ところが、フランシスコ会が進出して、禁教下の日本で公然と活動し、目立った活動を控えていたイエズス会との協調を欠いた。

 さらに文禄5(1596)年、四国に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員の言葉から誤解が生じ、事態を悪化させた。

 秀吉は、宣教師がスペイン国王の手先として日本征服をもくろむと非難し、6人のフランシスコ会士、3人のイエズス会士ほかが長崎で十字架刑に処せられた──というのである。

 これではよく分からないから、もう少し詳しく時代状況を眺めてみる。

 近代の代表的キリスト者(プロテスタント)で、新聞人でもあった徳富蘇峰によれば、九州の大名にとって、重要なのは貿易であった。大名はキリスト教をエサに貿易を釣ろうとし、宣教師は貿易をエサにキリスト教を釣ろうとした。

 駆け引きがもっとも赤裸々に展開された舞台が、平戸である。

 なにしろ種子島に漂着したポルトガル船は、中国で2500両で仕入れた品物を日本で売りさばき、12倍の利益を上げた。それを聞いたポルトガル船が先を争って日本に来航した。やがて天然の良港である平戸が知られるようになる。

 イエズス会の宣教師ヴィレラは

「神社やお寺は天狗だ」

 と笑い、

「改宗すれば珍しいものを進呈しよう」

 と誘った。無知な民衆は欲に任せて改宗し、平戸に教会が建てられた。

 永禄4(1561)年、些細なことでポルトガル船員と平戸の町民とが仲違いし、刃傷沙汰に発展、船長ら14人が殺害された。

 平戸の領主・松浦隆信は貿易の利が失われることを恐れ、キリスト教保護をあらためて表明したが、宣教師トレーは本心でないことを見抜いて、容易には応じなかった。

 そのとき現れたのが松浦氏のライバル、大村の領主・大村純忠である。

 純忠は、教会建設、税金免除などの好条件を示し、領内の横瀬浦にポルトガル船の入港を求めた。トレーが快諾したのはいうまでもない。

 純忠の目的はもちろん貿易で、6万石の小大名はたちまち九州屈指の富裕大名となる。だが、朱に交われば、で永禄6年、重臣26名とともに受洗する。

 その日、兄・有馬義真の出陣の門出に、魔利支天堂の神像の首をはね、神社に放火して、そのあとに十字架を立てて先勝を祈った。戦に勝つと、神社仏閣をことごとく破壊し、祖先の位牌さえ火中に投ずるにいたる。

 宣教師は満足したが、領民は驚愕し、内乱となる。

 この内乱を煽ったのがライバルの松浦氏で、その結果、ふたたび平戸が貿易で潤うことになる。

 隆信は平戸にフロイスを招いたが、隆信の目的があくまで貿易にあることを知るフロイスは、あえて船を港外に停泊させる。隆信はそれまでの冷淡な態度を陳謝するが、フロイスはなお荷揚げを拒む。

 結局、隆信は宣教師の平戸居住、教会建設を承諾し、ようやく貿易の果実を得る。

 しかしその後も隆信の冷淡は変わらなかった。家臣は反抗的で、しばしば宣教師と衝突した。やがて宣教師はポルトガル船を大浦領内に移動させた。隆信は軍艦50隻で追跡し、力尽くで引き戻そうとするが、逆に撃退される。

 宣教師の妨害で平戸は敬遠され、元亀元(1570)年に純忠が長崎を開港するに及んで、長崎が南蛮貿易とキリスト教布教の中心地となる(徳富蘇峰『近世日本国民史』)。


▢ 26人が処刑された理由
▢ きっかけはスペイン船漂着

 天正8(1580)年、大村純忠は長崎・茂木をイエズス会に寄進する。同会は長崎に本部を置き、長崎は軍事力を伴う自治都市となった。住民はすべてキリシタンであった。

 京都外国語大学の松田毅一教授によると、天正10年の本能寺の変のあと、天下人となり、13年に関白となった秀吉は、大阪城でバテレン一行を引見する。

 おりから島津氏が九州の全域を掌握しようとしていた。キリシタン大名の大友は崩壊寸前で、長崎は島津氏が支配していた。大村、有馬は島津の敵ではなかった。島津氏の九州制覇はキリシタンにとって死活の問題でもあった、という。

 大阪城の秀吉のもとに伺候したバテレンたちを、秀吉は歓待し、布教を許可する允許状を2通も与えた。

 翌14年12月、秀吉は九州に軍旗を進める。

 この九州征伐の帰途、秀吉は

「20日以内に国外に退去せよ」

 とバテレン追放を命じる。15年6月19日付の文書には、

「日本は神国であり、邪法をもたらしたのはよくない」

「神社仏閣を破壊したのは前代未聞」

 などとある。

 九州のキリシタン大名の領内では、領民の多くが事実上、強制的に改宗させられ、神社仏閣のほとんどが破壊されていたのだ。

 天正16年、秀吉は長崎・茂木・浦上のイエズス会領を接収し、直轄地とする。

 26人の処刑のきっかけは、文禄5(1596)年に起きた、スペインの豪華船サン・フェリペ号の四国漂着である。

 このとき1人の船員は、世界地図を示し、奉行にスペインの強大さを誇る。奉行が多くの領土を得た経緯を問うと、船員は、

「バテレンを派遣してキリスト教徒を作り、その後、スペイン軍が攻め込む」

 というような発現をする。

 秀吉はこの直後、積み荷の没収を命じ、2か月後には大阪・京都の宣教師とキリシタンの死刑を命じる。

 26人の処刑後、船の積み荷の返還と処刑囚の遺骸引き取りを求めてきたフィリピン総督への返書に、秀吉はこう書いている。

「往年、バテレンが当国にきて異国の宗教を説き、国風を乱し、国政を害したので予はそれを禁じた。しかるに貴国より来た僧侶は帰国せず、異国の法を説いてやまぬので誅戮(ちゅうりく)せしめたのである。聞くところによれば、貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲しているという……」

 カトリック布教の危険性を秀吉は確信していたものらしい(松田『南蛮のバテレン』など)


▢ 諏訪神社のキリシタン合祀説
▢ 小説『沈黙』の舞台に鎮まる神社

 長崎・諏訪神社の松本亘史禰宜の10数年にわたる研究によると、その後、意外にも、長崎ではキリスト教はかえって盛んになる。

 開港後に建てられた「岬の教会」は、慶長6(1601)年に改修され、「被昇天のサンタマリア教会」と改称される。東洋一の規模を誇り、日本宣教の中心に位置づけられたという。

 慶長10年、全国の信徒数は75万を数えた。キリスト教隆盛のなかで、慶長14年、長崎の諏訪・森崎・住吉の3祠が破却される。

 徳川幕府は慶長17年、禁教令を発令し、キリシタン弾圧が始まる。慶長19年秋、長崎の諸教会は破壊され、キリシタンは壊滅的打撃を受ける。宣教師が追放され、元和8(1622)年にはキリシタン55人が西坂で処刑される。

 諏訪神社がのちに初代宮司となる青木賢清によって再興するのは、寛永2(1625)年である。

 興味深いのは、森崎神社である。

 諏訪神社は相殿に森崎神社と住吉神社を祀っているが、森崎神社はいま県庁がある森崎の地にかつて祀られていたということ以外は不明の、謎の神社だ。

 純心女子短期大学の越中哲也教授は、森崎の地にあった「被昇天のサンタマリア教会」が破壊され、その跡地に建立された社祠だとする、注目すべき説を12年前(昭和62年)に発表している。

 越中教授は、

①破壊後、祟りを恐れて、同社が建立された

②かつての教会を偲んで、信徒が社祠形式に改めて祀った

③諏訪・住吉の2社が勧請されたとき、すでに教会跡に祀られていた祠を、長崎の氏神と解釈して合祀した

 ──と推測している。

 けれども、異論もある。異論の主はほかならぬ諏訪神社の宮司である。

 長崎岬の突端の森崎は人の住まない森で、開港以前は神社はなかった、と推論する越中教授に対して、上杉千郷宮司は、神社の創建は人家の有無とは無関係だ、と反論するのである。実際に、漁師が信仰する森崎社が渚に鎮まっていたとする記録もあるという(「神道文化」創刊号など)。

 もっとも興味深いのは、上杉宮司の体験談である。

 昭和57年、御鎮座360年の社殿改修で本殿の遷座祭が執行されたとき、御船台に納められた森崎神社の御霊代は諏訪・住吉両社とは異なり、宮司1人では捧持できないほど大きく、重かったというのである。

 もしかしてヨーロッパのキリスト教史と同様、まず森の中の神社があり、それが破却されたあとに教会が建てられたのではないか。その教会が禁教で破壊され、今度はキリシタンが追憶、慰霊、鎮魂の目的で祠を置き、やがて諏訪神社再興のときに相殿に祀られたとも十分に考えられる

 キリシタンの神社は突拍子もないものではない。

 上杉宮司、松本禰宜と訪れた、遠藤周作の小説『沈黙』の舞台ともいわれる外海町黒崎には、海を望む山中に枯松神社がひっそりと鎮まっていた。

 宣教師ジワンを祀るとされ、殿内には「サン・ジワン神社」と刻まれた石祠がある。周辺には「祈りの岩」と呼ばれる磐座(いわくら)があり、古くからの聖地であることをうかがわせる。

 上杉宮司は

「神仏習合により栄えてきた神社が、切支丹をも内包する懐の大きさ」

 を強調する。キリスト教は自分たちの信仰を唯一絶対と信じて、異教の神々を冒涜し、信仰を踏みにじったが、日本人はキリシタンの信仰を神道形式で400年間、守ってきた。

 森崎神社はその歴史を暗黙裏に語っているのかも知れない。

 さて、忘れてはいけない。肝心のカステラだが、キリシタンの取材に夢中になっているウニとうとう食べ損ね、念願の福砂屋のカステラを手にしたのは、福岡空港の売店であった。

 創業は諏訪神社再興と時を同じくするというだけあって、昔懐かしい手作りの味がした。

タグ:キリスト教
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失われた「善きキリスト者」の前提──一変した戦後巡幸の美談 [キリスト教]

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失われた「善きキリスト者」の前提
──一変した戦後巡幸の美談
(「神社新報」平成10年6月8日から)
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 昭和21年6月、昭和天皇は関西御巡幸のおり、キリスト教女子教育で関西においてもっとも古い歴史を持つ学校にお立ち寄りになり、ご昼食を取られた。

 大金益次郎侍従長の『巡幸余芳』によると、陛下が御座所に入られると、立ち去りかねた生徒たちが窓の下から芝生の校庭にかけて佇んでいた。

 陛下はブラインドを開けて、窓の下をご覧になる。生徒たちはそれを認めて、窓を見上げてうれしそうに笑っている。陛下もお笑いになったのか、生徒たちが続々と窓の方に寄ってくる。

 美しい君民の交わりである。

 御出発となり、玄関にかかられたとき、生徒たちは校庭に並び、「祖国」と題する讃美歌を歌った。

「わが大和の国をまもり あらぶる風をしずめ 代々やすらけくおさめ給え わが神」

 清らかな歌声は心を打たずにはおかなかった。陛下はポーチにお立ちになったまま動かれない。校長が敬礼して何度、促しても動かれない。讃美歌は二度、三度と繰り返された。

 そのうち歌声はくもり、生徒たちの頬に涙が伝わり始めた。陛下の御眼にも光るものが浮かんできた。大金氏は、

「この親和、この平和の境地」と記している。

 ところが、20年ばかり前(昭和51年)に刊行されたこの学校の『百年史』では、まるで違う話になっている。

 天皇の車の前後は多くのジープやトラックに分乗して銃を構え、肩を怒らせた米兵が取り囲んでいた。ある学生はこみ上げてくる腹立たしさを感じ、それまでの

「天皇は戦争の責任のゆえに潔く退位すべきだ」

 という持論を放棄した。戦後の天皇巡幸は軍国主義日本の主権者の変身の場であったというのである。

 また、ある大学教授は先導する院長がシルクハットにモーニング姿なのに、天皇はソフトに背広姿だったのが印象的だった。生徒が讃美歌を歌い、天皇も感慨深げであられたというエピソードそのものが、

「あわれ大御代におくれで進み おみなのまさみち たどりていそしまん」

 という天皇礼賛の「学院歌」が歌い続けられている理由を物語っている、と書いている。

「キリスト教主義教育を維持するという名目上、つねに国家権力に妥協することを余儀なくされ、その限りにおいて天皇制に対する態度はいつも曖昧であった」

 というのである。

 この落差はいったい何だろう。御巡幸の美談がそもそもフィクションなのか。

 学校を創設したアメリカ女性が来日した明治初年、日本では禁教令高札が撤去されたばかりであった。

 長崎の「二十六聖人」が「列聖」するのは「殉教」から約300年後の1862(文久2)年で、日本はキリシタン迫害国として西欧では広く知られていた。

 キリスト教が邪教視される「暗黒の国」にはるばる伝道にやってきた勇気と開拓者魂には脱帽せざるを得ない。

 創設者は西洋かぶれを排して「キリスト教魂を持つ日本風の女性」を育てることを教育目標としたといわれ、それだけに生徒たちの皇室尊崇の念が強かったとも伝えられる。

『五十年史』は皇室との関わりについて、大正11年に皇后陛下(貞明皇后)が九州行幸の途中、職員生徒一同に「菓子料」金200円を下賜され、学校では聖旨を記念して懸賞論文「地久節論文」の基金を設立したことを記している。

 ところが昭和30年に刊行された『八十年史』は、創設者が学園生活を過度にアメリカ風になることを好まず、庶民の水準に合わせたのは卒業生が庶民の世界に飛び込んでいって福音を伝えるための「じつに周到な用意」と説明している。

 大正13年に排日移民法案がアメリカ議会を通過したとき、この学校が抗議の決議案を発表したのには敬意を表する。戦時中、大阪憲兵隊による行き過ぎた宗教干渉を経験したことは同情に値する。

 それにしても、である。

「厳格なる正義の準備なきところにキリストの福音の栄えた例はない……日本においてももっとも善きキリスト者は厳格な武士の家に起こった……純潔なる儒教と公正なる神道とはキリストの福音の善き準備であった」とは内村鑑三の言葉(『全集27』)であるが、キリスト者は敗戦とともに善きキリスト者の前提を忘れてはいないか。

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「二十六聖人殉教」の背景──秀吉が見抜いたキリスト教の“侵略性” [キリスト教]

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「二十六聖人殉教」の背景
──秀吉が見抜いたキリスト教の“侵略性”
(「神社新報」平成10年4月13日号から)
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「愛媛玉串料訴訟」最高裁判決から1年が過ぎた。

 判決文に

「わが国では……国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた」

 というくだりがある。

 驚いたことに、同じような表現が昭和52年の「津地鎮祭訴訟」最高裁判決にもある。「国家神道」が宗教迫害の元凶だとする論が“判例”となっているのだ。

「厳しい迫害」で思い出されるのは、キリシタンの受難である。

 おりしも昨年(平成9年)2月、長崎では「二十六聖人殉教400年祭」が行われたが、なぜ26人は「殉教」し、「列聖」したのだろうか?

「カトリック新聞」を読み返してみたが、「殉教」の理由は連載「26聖人長崎への道」に「認識のズレ」とあるばかりである。はたして「ズレ」程度のことなのだろうか?

 慶応大学の高瀬弘一郎先生(キリシタン史)によると、こうだ。

 大航海時代、カトリックの布教はポルトガル・スペイン両国王室の後援によって推進された。海外布教は国王の信仰に発するものではなくて、教会法に基づいていた。ローマ教皇は両国諸侯に「布教保護権」を与え、未知の世界に航海して武力で異教世界を奪い取り、植民地としてこれを支配し、交易などをする独占的な権限を与えた。

 こうして両国の海外進出はカトリック世界の拡大をもたらし、地球は両国によって2分割される。

 天文18(1549)年のザビエルの来日以来、日本はイエズス会の宣教によってポルトガルの「布教保護権」がおよぶ。1575年設定の「マカオ司教区」には日本が含まれていることが、グレゴリウス13世大勅書に明記されている。このとき日本教会の保護者はポルトガル国王であり、日本は潜在的なポルトガル領と法的に定まった(高瀬『キリシタンの世紀』など)。

 日本は知らぬ間にポルトガルの領土にされていたのである。

 キリシタン大名の大友、有馬、大村、高山氏の領地では、領民の多くが領主から事実上、強制的に改宗させられ、社寺が破壊された。バテレンにとっては、たとい強制的であっても、キリスト教への改宗は神の御旨にかなうことであったが、当然ながら秀吉には「邪教」と映った。

 九州征伐の帰途、天正15(1587)年に、秀吉はバテレン追放を命じる。禁教令には

「日本は神国なり、邪法をもたらしたのはよくない」

「神社仏閣を破壊したのは前代未聞」

 さらに

「日本人を明、朝鮮、南蛮に売り渡すことを禁止する」

 とも記されている。

「カトリック新聞」によると、8年後の文禄5(1595)年、スペインの豪華船サン・フェリペ号が暴風のため、土佐の浦土沖合に漂着した。スペインは日本と国交はなかったが、フランシスコ会のバウチスタ神父を「大使」として置いていることから、乗組員と積み荷は安全が保証されるものと考えていた。

 一方の秀吉は、同国との通商の保障として「人質」となって留まることを申し出ている同神父を日本にとどめて置いた。ところが、そのうち乗組員から

「領土を得るのに宗教は役立つ」

 という「不用意な発言」が飛び出す。報告を受けた秀吉は激怒した。

「カトリック新聞」の連載はここに「認識のズレ」があるというのだが、はたしてそうだろうか?

 フロイス「日本史」全12巻の共訳者として知られる京都外国語大学の松田毅一先生によると、難破船の積み荷と殉教者の遺骸の引き取りを要求してきたフィリピン総督に対する返書に、秀吉はこう書いている。

「バテレンが異国の宗教を説き、国風を乱し、国政を害したので、予はそれを禁じた。しかるに僧侶たちは帰国せず、異国の法を説いてやまぬので、誅戮せしめた。聞くところによれば、貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲している……」(松田『豊臣秀吉と南蛮人』など)

 天下を統一し、朝鮮征伐どころか明への遠征までも考えていた秀吉であればこそ、キリスト教の“侵略性”に敏感であり得たのではないか?

「迫害」には「認識のズレ」どころではない、それ相当の理由があった。

タグ:靖国問題
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キリスト者にとっての慰霊──内心に潜む神道信仰 [キリスト教]

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キリスト者にとっての慰霊
──内心に潜む神道信仰
(「神社新報」平成10年3月9日から)
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「愛媛玉串料訴訟」の最高裁判決から、まもなく1年になる。

 どうにも理解しがたいのは、

「元来、わが国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきている」から「政教分離規定を設ける必要が大であった」とする判決理由である。

「一元的」「単層的」な宗教など、世界のどこにあるだろうか?

 たとえばキリスト教はどうだろう?

「ヤスクニ闘争」を指導してきたキリスト者はこう語る。

「どこの教団にも戦没者を慰霊する宗教施設はあるんです」

 靖国神社だけが特別扱いされるべきではない、という論理である。

 少数者の信仰を保護すべきだ、とする意見に異論はない。しかし、本来、キリスト教の教義は慰霊鎮魂とは無関係のはずである。

 キリスト教会の戦没者慰霊施設とは、いったい何だろう? ましてキリスト教徒ではない、絶対多数の戦没者の慰霊と、キリスト教信仰とはどう結びつくのであろうか?

 聖書によれば、亡父の葬儀に出席しようとした弟子に、イエスは、

「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と語っている(マタイ伝8章22節)。

 信仰を持たない者は「死人」同然だと語っているのである。つまり、非キリスト者の戦没者をキリスト者が慰霊することは何の意味もないことになる。

 また、現代日本の代表的キリスト者である渡部昇一氏の『アングロサクソンと日本人』には、次のような逸話が載っている。

 のちに聖ボニファチウスと呼ばれるイギリス人宣教師が8世紀初頭、いまのオランダ周辺でキリスト教を布教した。教えに共鳴し、受洗したラードボードという酋長がこう尋ねた。

「われわれは死んだら天国に行くが、入信せずに死んだ親はどうなるのか?」

 宣教師が答える。

「洗礼を受けなければ天国には行けません」

 酋長は憤然として、

「乞食坊主の話を聞いて損をした。地獄だろうと何だろうと、俺は先祖のいるところへ行く」

 と語り、宣教師を追放する。

 たとえ故人が受洗者だったとしても、年祭に当たる「記念会」は故人の神の恵みを讃え、神の栄光を仰ぐことが目的であり、故人を礼拝することではない。だから、霊璽や遺影を拝することは禁じられる。

 ましてキリスト者が異教徒の死者を慰霊することは、唯一絶対神への信仰とはまったく異なるといわねばならない。

 とすれば、キリスト者にとっての慰霊行為とは何だろう?

 おそらく日本のキリスト者の深層に潜む、伝統的な宗教的感情が作用し、慰霊行為を行わしめているのではないか?

 日本の宗教伝統である神道がいかにも原始的で幼稚な宗教であるかのように語るキリスト者もいるが、日本人であるかぎり、古来の祖先崇拝を引き継いでいることは十分に推測される。

 たとえば、毎日新聞の対談「宗教に聞く」で、カトリック信徒で、作家の田中澄江氏が、カトリック大司教の白柳誠一師に語っている。

田中「私は山が好きですが、山が神だから拝むという気も全然ありません」

白柳「キリスト教の世界観では自然を賛美しても、それを神としてあがめるのは(しません)」

田中「こんなにも美しい山を神様は人間のためにつくられた、その神様に対して『ありがとうございます』と。……神を感じ、感謝するのです」

 もとよりキリスト教と神道は神概念が異なるが、田中氏は間違いなく、自然の神霊に魂を揺り動かされている。ただ、神霊の存在を拒絶している。というより、一神教の厳格さから、認めたくても認められないということではないのか。自然な宗教感情が、知性によって抑えられているのだろう。

 カトリックではいま2000年の「大聖年」を前にして各種行事が目白押しらしい。露払いとなったのは、昨年(平成9年)2月の「二十六聖人殉教400年祭」である。

 殉教の地・長崎で教皇特使を迎え、6000人が参列して催された「荘厳ミサ」では、床に巨大な十字架が浮き彫りにされ、「二十六聖人」を象徴する26本のロウソクが壇上に掲げられた。

 紛うことなきキリスト教儀礼だが、木の十字架やロウソクの灯はキリスト教以前の古代ヨーロッパの自然崇拝に淵源するといわれる。

 キリスト教はゲルマンやケルトの宗教を否定し、浸透していったが、自然崇拝と祖先崇拝を引き継いでいることは間違いない。

 そして翻って、日本のキリスト者が木の十字架やロウソクの光に法悦の涙を流すとすれば、それは彼らのなかに、間違いなく、日本古来の神道信仰が息づいていることの証明ではないか?

 宗教の多元性、重層性は日本の宗教だけではない。欧米のキリスト教も同じである。

 一神教と多神教との「積極的共存」が望まれる今日、日本のキリスト者は、日本の宗教伝統をかたくなに拒否するのではなく、むしろ内心の声に静かに耳を傾けるべきではないだろうか?

 とりわけ、国に一命を捧げた戦没者の真の慰霊のために……。

タグ:キリスト教
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