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マザー・テレサ没後10年の追悼式 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年9月9日日曜日)からの転載です

マザー・テレサ(神の愛の宣教社会HPからⒸmotherteresa.org)

motherteresa.jpg
 イギリスのBBCが伝えるところによると、マザー・テレサの没後10年にあたる先週の9月5日、インド・コルカタ(カルカッタ)にある、マザーが創立した「神の愛の宣教者会」の墓所で追悼式が行われ、スラム街の人々など数百人が参列したそうです。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/6979228.stm

 またAFPによれば、宗教宗派を超えた追悼式典に、イスラムやヒンドゥーの聖職者がそれぞれの祈りを捧げたそうです。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2277598/2095119

 マザーは1910年、現在のマケドニアに生まれました。インドの貧しい人たちのために精力的な活動を展開し、79年にノーベル平和賞を受賞し、96年にはアメリカ名誉市民となりました。97年に亡くなったあと、わずか6年後という異例な早さで2003年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって福者に列福されました。

 熱心な崇敬者は「スラムの聖者」といわれるマザーが「聖人」に序せられることを願ってやみません。カトリックでは、「聖人」に叙せられるかどうかは、神ご自身が「奇蹟」によって証明すると考えられています。AFPによると、マザーが福者とされたのは、あるインド女性がマザーの奇蹟によってガンが治ったからで、さらに聖人に叙せられるには二度目の奇蹟が必要だとされています。

 ちなみに、日本およびアジアで最初の聖人である「二十六聖人」の場合、殉教から7年後の慶長8(1603)年に京阪地域のキリシタンから「列聖」の嘆願書が提出され、1616年に教皇庁の調査が始まり、それから十数年後、「殉教者」のためのミサを挙げることが許可され、「福者」に叙せられました。しかし聖者とされたのは殉教からじつに265年後の1862年でした(レオン・パジェス『日本廿六聖人殉教記』昭和6年)。

 なぜそんなに時間がかかったのか。フランシスコ会トマス・オイテンブルク神父の『十六〜十七世紀の日本におけるフランシスコ会士たち』によると、17世紀初頭の教皇庁は多くの列福訴訟を審議中で、多忙を極めていたのだそうです。けれども二百数十年を経て、日本が安政元(1854)年に門戸を開き、同6年に宣教師の再入国を許可した結果、「列聖」が促進されたのだと説明しています。

 つまり、日本が鎖国から開国へと転換したことが、殉教から二百年以上も経ったあとの「列聖」の理由だというのですが、果たしてそれだけなのかどうか。

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「アムネスティを支援するな」と枢機卿が声明 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年6月15日金曜日)からの転載です

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 CNNが伝えるところによると、バチカンのマルティーノ枢機卿は13日、国際的人権保護団体のアムネスティ・インターナショナルに対して、教会も信徒も支援すべきではない、と声明しました。理由はアムネスティが人工妊娠中絶を容認したため、とされます。
http://www.cnn.co.jp/world/CNN200706140039.html

 人工妊娠中絶について、バチカンが編纂した信仰と教理の解説書『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会発行、2002年)は次のように書いています。

「人の命はどんなことがあっても、受胎のときから尊重され、保護されなければなりません……」

「教会は1世紀から、あらゆる妊娠中絶は倫理的に悪いものであることを宣言してきました。この教えは変わったことがありません。不変のままです。目的または手段と指定とされた直接の妊娠中絶は、道徳律への重大な背反です」

「妊娠中絶に直接に協力することは大罪です。教会は人の命に対して行われるこの犯罪に、教会法上の破門罰を科しています……」

「胎児は受胎のときから一個の人格として取り扱われなければなりません……」

 カトリツクの教えからすれば今回の措置は当然ともいえますが、その影響はけっして小さくないかも知れません。たとえば日本の教会指導者たちは、しばしばアムネスティと提携して社会活動を展開してきたからです。

 とくにマルティーノ枢機卿は正義と平和協議会の議長の立場にあります。福音と教会の社会教説に即した正義と平和の実現を促進するローマ教皇庁の機関ですが、これに対応して日本カトリック司教協議会、社会司教委員会のもとに設立された正義と平和協議会(正平協)にとって人権保護は活動の大きな柱の1つです。

 近年の教会指導者たちによる政治的暴走の本丸ともいわれる正平協のホームページを見ると、リンク先として部落解放同盟や狭山事件、慰安婦歴史館などとともに、アムネスティが載っています。
http://www.jade.dti.ne.jp/~jpj/jp-link.html

 今後も協力関係が続けば、「破門罰」を覚悟しなければならないことになります。
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「迫害」はあったのか [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年6月10日日曜日)からの転載です

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 メルマガを読んでくださっているクリスチャンの読者から、戦前のキリスト者が受けた「迫害」について、何度かメールをいただきました。たいへんありがたいことです。正直にいえば、私も以前はこの読者と同様に、キリスト者たちがつらい体験をした、という歴史をほとんど疑いもなく信じていました。

 けれども、戦時中、著書が発禁処分になるなど、当時の代表的神道人が受難を経験していたということを知り、歴史の事実は常識論的に考えているのとだいぶ違う、と思うようになりました。取材でお世話になったイスラム教の代表者にいたっては

「戦前の迫害なんて聞いたこともない」

 と断言していましたが、いろいろ調べてみると、さらにとんでもないことが分かってきました。

 先日、都心のあるカトリック教会で、東京大司教の特別講演がありました。テーマは日本宣教についてでしたが、大司教はその半生を振り返り、もう20年近く前のことでしょうか、赴任した埼玉・浦和で戦前を知る古い信徒から

「(お祭りで)神輿を家にぶつけられた」

 というような「迫害」の体験をさんざん聞かされた、と語り、戦前・戦中を迫害の時代と見る従来通りの歴史観を繰り返しました。

「神輿をぶつけられた」というのは非常に興味深い事件です。しかし、本人にとってはつらいことだとしても、体験は歴史そのものではありません。これを「迫害」と見るべきなのかどうか、慎重を要します。

 問題点は二つです。具体的にいつの時代なのか、そして具体的に何があったのか。

 戦前といっても、明治以降、禁教は解かれ、明治憲法は信教の自由を認めています。皇室がキリスト教会の社会事業を支援してきたことは、いまさらいうまでもありません。キリスト教文化から生まれた赤十字運動の日本での中心は、昔も今も皇室です。

 第一次大戦後には世界的な軍縮の時代がやってきます。例の上智大学生靖国神社参拝拒否事件は、軍縮の時代に起きています。戦争拡大の時代に事件が起きた、というような教会指導者の説明は誤りです。日中戦争、日米開戦となれば、話はまた変わります。神輿事件はいつの時代なのでしょうか。

 迫害とは一般に、国家による政治的、政策的迫害という意味でしょう。一定の法的根拠をもとにした、公的機関による公権力発動としての行為だとすれば、間違いなく迫害であり、信教の自由を認めていた明治憲法に違反する行為として断罪されなければなりません。

 たとえば、日中戦争勃発後の昭和13年の大阪憲兵隊事件で、「わが天皇とキリスト教の関係」など13カ条の質問を突きつけられ、チャペルに神宮大麻をまつるよう求められたことが「受難」とされています。

 憲兵などによる質問や大麻奉斎要求は明らかな権限逸脱でしょうが、『神戸女学院百年史』(1976年)などをみると、

「教会堂では葬式も行うが、それでもいいか」

 と質問すると、大麻のことは沙汰やみとなり、そればかりか、特高課長と副院長との間に個人的関係が生まれた、と記述されています。神戸女学院側の知恵はさすがというべきです。終わりのない戦争はないわけで、「迫害」を喧伝するのは知恵の無さをみずから暴露するものです。

 それなら、神輿事件はどうでしょう。年に一度のハレの日の無礼講にかこつけて、器の小さな人間が日ごろの鬱憤を晴らす陰湿な嫌がらせを行ったというのであれば、国家による迫害という表現は不適当です。嫌がらせならいつの時代でも、どこの世界でも、あり得ます。

 いつの時代に、どんな具体的な事実があったのか、教会指導者の歴史検証はじつに不十分で、迫害された側の証言ばかりが独り歩きしています。

「国家と国家神道が一体となって戦争に邁進する中で……」
「国家による宗教統制が強まる中で……」(信教の自由と政教分離に関する司教団メッセージ)

 の迫害というような歴史叙述は、あまりに観念的、抽象的すぎます。迫害された側はともかく、迫害した側の検証が完全に抜け落ちています。これではまともな歴史検証とはいえません。

 実際、「迫害」では説明できない事実もあります。ほかならぬ浦和の教会のホームページには次のような歴史の事実が紹介されています。

 1934(昭和9)年 プラシード・メーラン神父らの宣教師が知事舎や信徒宅でミサを始める。
 1938年 埼玉師範付属小学校跡地の一部払い下げを県から許可されて、聖堂建設の土地が確保された。
 1939年、浦和地牧区創設に伴い、教区長座教会となる。
 1940年、「幼きイエズスのみ心・聖テレジア教会」が司祭館とも竣工し、献堂された。
 http://www.urawa-catholic.net/rekisi.html

 信徒の家に神輿をぶつけられたのが満州事変以前のことなのか、それとも日米開戦後なのか、分かりませんが、日米開戦後ならキリスト教国と戦火を交えているわけですから、相手国の宗教に対する偏見がわき上がるのは、日本もアメリカもお互い様であり、仕方がないことでしょう。

 しかし、日中戦争勃発後に公有地の払い下げを受け、日米開戦前夜に教会が竣工し、それ以前は知事公舎でミサがあげられていたという事実は、「国家による迫害」という見方とは完全に矛盾します。

 ホームページにはこの年表が教区の年五十年記念誌を出典としているという説明でしたので、1989(平成元)年に発行された記念誌(浦和教区史誌編集委員会編)を見てみました。B5サイズ、90ページ弱の記念誌は、教皇庁メッセージや福音宣教省長官のメッセージが冒頭に載り、そのあと司教の「二十一世紀を目指して」という挨拶文が載っています。

 司教は翌年、長崎大司教となるのですが、その文章は

「殉教者の血潮で清められた北関東の地に」

 で始まり、

「第二次大戦中、宣教師と外国人司祭たちは、政府による迫害の矢面に立ち」

 というような記述が続いています。案の定、迫害史観です。あってはならない戦争ですが、「第二次大戦中」なら、「外国人収容所に収容された」ということなら、「敵国人」に対する国際法で認められた合法的措置でしょう。宗教的な「迫害」ではありません。

 しかし、興味深いことに、短くまとめられた各教会の歴史を見ると、浦和の教会は、外国人宣教師の時代に、信徒だった旧制高校教授の斡旋で、師範附属小学校の跡地の払い下げが県から許可され、と書かれています。これは迫害どころか、行政的な優遇というべきです。

 要は、支援する人もいたし、嫌がらせをする輩もいた、というのが公平なものの見方ではないでしょうか。迫害史観は歴史の公平な見方とはいえません。

 さらに興味深いことに、同じ編集委員会が一年後、発行した『北関東のカトリック』と題する270ページほどの史誌があります。巻頭の「編集要旨」によれば、司教の提案で群馬、栃木、茨城、埼玉の400年間の教会史をまとめたもので、信仰者と信仰共同体の足跡を忠実に記録することが編集方針だとされます。

 ところが、その内容は、忠実な記録どころか、一方的な迫害の記録に終始しているといっても過言ではなく、驚くべきことに、五十年記念誌には描かれていた浦和の教会用地払い下げの歴史は見当たりません。支援者のカゲが消えてしまったのです。

 これでは迫害史観にあわせた、つまみ食いの歴史ではありませんか。

 つまみ食いをしたのは誰なのでしょうか。

『北関東のカトリック』の巻末には資料原稿執筆者・編集協力者の一覧が載っています。その筆頭に記されているのは、浦和の初代司教の名前です。

 戦前、ローマで司祭に叙階され、戦後になって帰国、20年以上、浦和教区長を務め、上智大学神学部の教壇にも立ちました。特筆すべきは、第二バチカン公会議で典礼の刷新を提唱したことです。ラテン語の典礼文を各国語に移行させることをラテン語で訴えたといわれます。

 しかし、それこそが今日の典礼の混乱の始まりという指摘もあります。

 キリスト教支援の歴史が消えているのはこの本だけではありません。

 昭和初年の古いカトリック新聞には、貞明皇后が御殿場のハンセン病療養所・神山復生病院をたびたび財政的、精神的に支援されたことが記事になっていますが、今日、病院のホームページにはほとんどその説明がありません。

 創立間もない女子フランシスコ会経営の聖母病院を援助するため、慈善音楽会に皇族方がお出ましになったという記事もありますが、同病院のホームページを見るかぎり、いまでは皇室の支援は影も形もありません。

 天皇・皇室批判を強める教会の指導者たちにとって、支援を受けていたという歴史はよほど具合が悪いのでしょうか。

 歴史の書き換えは教会の外部にも広がっています。

 長崎県は、県内の教会群を世界遺産として登録しようと名乗りを上げ、県をあげて運動を展開していますが、県などがまとめた提案のコンセプトには、秀吉のバテレン追放令に始まる迫害史観が羅列され、他方、荒っぽい宣教で領民が強制的に改宗させられ、神社仏閣が破壊され、領民が奴隷として売りさばかれるなど、迫害を受けるようになった教会内部の要因は無視されています。
http://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/

 優れたキリシタン史研究で知られる慶応大学の高瀬弘一郎教授は

「大方のキリシタン史像は美化された殉教史であった」(『キリシタンの世紀』)

 と指摘していますが、これは行政によって改竄された歴史というほかはなく、偽史に基づく世界遺産登録運動がいずれ歴史に禍根をもたらすことは明らかでしょう。

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大司教文書が書き換えられた理由 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年6月6日水曜日)からの転載です

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 先月、「書き換えられた東京大司教の文書」を書きました。信教の自由と政教分離をテーマに、日本のカトリック教会の指導者が昨秋来、発行した小冊子シリーズとそれらをもとにして今年3月に出版された合本を比較すると、大司教の文書の根幹部分が書き換えられていることを指摘したのでした。

 大司教の文書は信徒の靖国神社参拝を認めた1936年のバチカンの指針を再考察したもので、時代が変わったから、

「そのまま適応されるべきではない」

 とその有効性を否定したのです。けれども、指針を発した当のバチカンは、といえば、戦後になって1951年の指針を発し、靖国参拝を追認しています。この事実はきわめて重要で、小冊子では補注で戦後の指針に言及していました。ところが合本ではすっかり消えています。

 なぜ消えたのか。大司教はつい最近、ある講演で、信徒の質問に答える形で、その理由を概要、次のように説明しています。

「司教の文書は文責は各司教だが、原稿は委員会が作ったもので、合本化するに当たって、自分が検証できていない部分は削った」

 つまり1951年の指針に関する事実関係については大司教は検証を行っていない、ということを集まった信徒の前でみずから表明したことになります。これが本当だとすれば、驚くべき事実で、同時に教会の責任者としてじつに無責任な態度といわねばなりません。

 なぜなら信徒の靖国参拝を認めた1936年の指針の有効性を議論するに当たって、戦争が終わり、時代が変わってもなお、この方針を追認した1951年の指針を検証することは絶対に避けてはならないことだからです。

 1951年の指針をあわせて検証することなしに1936年の指針を考察し、公の文書を発表することはあるべきことではありません。1951年の指針について十分な検証もせずに、司教団が合意して、バチカンの指針に疑義を差し挟む司教団メッセージが発表されたのだとすれば、日本の司教団の権威を疑わざるを得ないことになります。

 逆にそれなら、1936年の指針当時の大司教ご自身の歴史検証は十分なのでしょうか。講演では1936年の指針が出されるきっかけとなった昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件の時代は戦争の時代であり、教会にとっては迫害の時代であった、と従来通りの説明が繰り返されていましたが、まったくの間違いです。

 カトリック新聞の昭和7年1月3日号の一面には、のちの枢機卿・田口芳五郎師による軍縮をテーマにしたエッセイが載っています。上智大学生事件の渦中の人である丹羽孝三幹事が大学の六十年史に書いているように、事件の発端を作った配属将校の軍事教練は軍縮時代の将校の失業対策として生まれたのでした。事件は戦争の時代に起きたのではなく、軍縮の時代に起きたのです。

 大司教の講演では、戦前、家に神輿がぶつけられたという埼玉の信徒の「迫害」の思い出が紹介されましたが、これももっと具体的にどのような事件だったのか、検証されずして「迫害」と呼ぶことはできないはずです。たとえば、ある法的根拠があって、そのようにするよう警察が指導していたというのならば、明らかに「国家による迫害」で、もってのほかというべきですが、実際はどうなのか。

 事件が日米戦争後のことだとすれば、キリスト教国家と戦火を交える日本としてはキリスト教憎しの国民感情が生まれるのは仕方がないことでしょう。アメリカでは誤解に満ちた神道憎しの議論がわき上がり、戦後の神道指令につながっていきます。

「迫害」の主張と矛盾する事実もあります。日中戦争勃発後の昭和13年に、同じ埼玉・浦和の教会が県の公有地の一部払い下げを許可され、日米開戦前夜の15年に教会と司祭館が竣工しています。
http://www.urawa-catholic.net/rekisi.html

 支援する人もいれば、嫌がらせするものもいた、というのが公平なものの見方ではないのでしょうか。個別の陰湿な嫌がらせなら、これまた、いつの時代でも、どこの国でもあり得ます。

 体験者の信者にとってはつらい思い出でしょうが、歴史と体験は同じではありません。個人の体験に謙虚に耳を傾けることは重要ですが、体験は歴史のごくごく一部に過ぎないことを認める謙虚さも同時に必要でしょう。まして自分が体験していない過去の時代を公正に理解するにはどこまでも事実に対する謙虚な態度が求められます。

 まして、教会指導者の小冊子とそれらを基礎にした司教団メッセージは、日本の歴史、とくに神道の歴史をするどく批判し、自民党の憲法改正の動きを牽制しています。他者を批判するには可能な限り客観的で実証的な歴史検証が不可欠です。そうでなければ、誹謗中傷といわれても仕方がありません。

 実際、信徒の間からも、外部からも、歴史理解に対する重大な疑義が提起されています。それでもなお教会指導者が非実証的な歴史理解ですませているのは、歴史の事実に対する謙虚さが感じられないばかりでなく、多くの信徒をあずかる司牧者としての責任を果たしていることになるのかどうか、基本的に疑われます。

 講演では「殉教」という言葉も聞かれましたが、信徒が教えのために命を捨てなければならないという事態はけっして賞賛されるべきことではないし、回避できることなら回避すべきです。過去の殉教について、著名なキリシタン史研究者の高瀬弘一郎氏は

「大方のキリシタン史像は美化された殉教史であった」(高瀬『キリシタンの世紀』)

 と指摘していますが、歴史検証をプロパガンダのレベルに置くことは殉教者の命を軽んじることにもなるでしょう。

 歴史の検証はどこまでも謙虚に行われるべきです。「自分で検証していないことは削った」では済まされません。不十分な歴史検証は歴史をゆがめ、偽りの歴史をつくることになります。「偽証してはならない」と聖書は教えており、安易な態度は教会の教えに反します。


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ふたたび岡田東京大司教様へ──なぜそんなに日本批判に血道を上げるのですか? [キリスト教]

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ふたたび岡田東京大司教様へ
──なぜそんなに日本批判に血道を上げるのですか?
(「正論」平成19年6日号から)
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 岡田武夫東京大司教様、前回の手紙はお読みいただけたでしょうか? 近年の教会指導者の政治的言動には見過ごせない疑問点が多々あり、杞憂(きゆう)であればと願いつつ書簡をしたためた次第です。けれども懸念はけっして私だけではないようで、ある信者の方から届いたお便りにはこう書かれていました。

「拉致(らち)被害者の家族を支援するならまだしも、主権を侵している北朝鮮の側に立った発言を繰り返す司教様もおられます。責任あるお立場の宗教者の発言とは思えません」

 なるほど

「教会に『憲法九条を世界に』の幟(のぼり)が立ち、信者の大学教授は拉致実行犯とつながっている」

「共産党員の司祭が誕生した」

「毛沢東礼賛の講演が行われる」

 などの噂を聞けば、

「受洗するんじゃなかった」

 と信者が怒り出すのも不思議ではありません。

 ましてカトリックの教義では、

「政治に直接介入することは聖職者ではなく、信徒の任務である(『カトリック教会のカテキズム』日本カトリック司教協議会教理委員会訳・監修、カトリック中央協議会発行、2002年)

 とされていますから、司教様方の政治運動は教義に反することになります。

 なぜ政治に走るのかという疑問は当然です。


▢1 東京教区から始まった

 教会指導者の政治的暴走は、昭和40年代に東京大司教区が靖国神社国家護持反対を大会決議したのが最初でしょう。戦前から東京教区長の地位にあった日本初の枢機卿・土井辰夫師が45(1970)年に亡くなり、後任に昭和生まれの白柳誠一大司教(現枢機卿)が就任します。そして翌46年暮れ、第一回東京教区大会が開かれ、靖国法案について論議されたのでした。

 靖国神社を宗教団体から国の管理に移す靖国法案は、この年、国会に3度目の提出が行われたものの、初夏には廃案となっていましたが、教区大会の代議員会は

「法案は憲法に違反」

 とする反対決議案を採択します。こうして憲法を盾に靖国反対を訴える政治運動は新世代の大司教のもとで始まりました。

 48年春には衆参両院に反対署名が提出されました。5度目となる法案提出のあと、教区内に靖国問題委員会が設けられ、白柳大司教は自民党総裁に法案反対の文書を送付しました。翌年には東京カテドラルで教区公認の反対集会が開かれます。わずか数年で教会は圧力団体と化したのです。

 かつてない事態に矛盾を感じる信者は少なくなく、大司教に代わって濱尾文郎補佐司教(現枢機卿)が見解を発表しました。

「戦後、宗教法人になった靖国神社の国家管理がふたたび取り上げられているが、教会は過去の苦い体験をもとに、国家と宗教の問題を深めている。第二バチカン公会議は信教の自由を宣言し、宗教が国家と結びつくことを否定した」

 などという説明でしたが、ここに今日の教会指導者による日本批判の問題点がすべて出揃っていることは注目されます。

 項目的にいえば、

①不正確な近代史理解に基づく戦前批判、

②とくに教会の戦争体験を迫害と信じて疑わない硬直的な歴史理解、

③信者の靖国参拝を認めたバチカンの指針の曲解、

④バチカンも採用しない絶対的平和主義の発想、

⑤他者を厳しく批判する一方で教会の世界宣教史の誤りを省みない独善性、

⑥緩やかな政教分離の受益者でありながら完全分離主義を主張し、他者を追及する言行不一致、

⑦信仰より憲法を重視する非宗教的発想

 です。

 専門委員会を設置し、政治メッセージを為政者宛に発表する運動の手法もこのとき産声を上げたようです。


▢2 間違いだらけの説明

 濱尾補佐司教の説明を、もう少しくわしく見てみます。

 濱尾氏は、白柳大司教の依頼を受け、過去の資料を調査し、その結果を「靖国神社に対する教会の態度は変化か?」と題して、74年4月の教区ニュースに発表しました。〈http://www.tokyo.catholic.jp/text/diocese/kyoukunews.htm

 論点は次の4つです。

 第1点(戦前・戦中の靖国参拝に関する教会の姿勢)。昭和の初期に、高校の生徒が靖国神社参拝を国家によって強制され、信者はもちろん、ミッションスクール全体が苦境に陥った。弾圧から救うため、教区長は文部省およびバチカンの意見をたずね、靖国参拝は宗教行事ではないというバチカンの返答を得て、信者の靖国参拝を許可した──。

 濱尾氏の説明はこのあと、参拝を許可した1936年のバチカンの指針を引用していますから、ここでは昭和7年の上智大学生参拝拒否事件について説明しているものと理解されますが、そうだとすれば、まったく事実関係が間違っています。大学の資料によって明らかですが、事件の当事者は「高校生」ではないし、「国家による参拝強制」事件でも、まして「弾圧」でもありません。

 第2点(当時の教会)。明治維新後、宗教的神道の特定の神社が国営化され、次第にその儀式が国家行事となり、軍国主義の政権に利用された。当時の東京教区長シャンボン大司教らは参拝が信仰上の良心に反しない道を見出そうと努力した。軍国主義国家の迫害が避けられない事態にあって最大限の努力だった──。

 この説明も、靖国神社の歴史を語っているのだとすれば、間違いです。靖国神社は一般の神社とは起源も性格も異なります。バチカンはそこをよく理解し、国家神道神社(靖国神社)での国家的な儀礼と宗教としての神道の礼拝との区別を認めています。靖国神社は軍の管理下にあり、一般神社は内務省の管轄です。靖国神社の儀礼は、非宗教的な国民的儀礼だからこそ、バチカンは参加を許したのです。

 第3点(今日の教会の姿勢)。戦後、宗教法人になった靖国神社の国家管理がふたたび取り上げられているが、教会は過去の苦い体験をもとに、国家と宗教の問題を深めている。第二バチカン公会議は信教の自由を宣言し、宗教が国家と結びつくことを否定した──。

 前回の手紙でくわしく書きましたが、戦前・戦中の「苦い体験」=「迫害」というなら、これも間違いでしょう。また、信教の自由、政教分離の原則はカトリックの教えから生まれたのではなく、逆にヨーロッパのカトリック批判から生まれたものであり、論理が逆さまです。異教の宗教儀礼を排除しない1936年の指針は第2バチカン公会議の精神を先取りしたものと理解されます。

 第4点(昭和戦前期と現在の教会)。教会は靖国法案が信仰の自由への脅かしを内蔵していることを予見し、過去の苦い経験を繰り返さないことを求めている。宗教が国家権力からまったく自由であることなしには真の平和はあり得ない。だからこの法案に反対していこうとしている──。

 あとで書きますが、日本の教会は緩やかな政教分離主義の受益者であり、国家の宗教的無色中立性を求める絶対分離主義は自分の首を絞めることになります。いずれの国であれ、それぞれの宗教伝統を大切にしています。厳格な政教分離主義の本家本元と考えられているアメリカには、「全国民のための教会」と位置づけられる聖堂さえあります。国家に絶対的非宗教性を要求することは革命国家の発想であり、宗教者のすることではないでしょう。

 以上のように、濱尾氏の靖国論は間違いだらけに見えます。誤りだらけの歴史認識や他宗教理解に基づいて、正しい結論が導かれるはずはありません。

 はじめて日本にキリスト教を伝えたイエズス会は、学問を武器とする「神の軍隊」でした。学問を禁じた修道会もありましたから、じつに画期的な考えです。ところが濱尾司教の説明には、このイエズス会の学問的伝統がうかがえません。

 しかし、この非学問的反ヤスクニ論こそが教会指導者による反ヤスクニ運動の理論的出発点でした。


▢3 反天皇への転換点

 それから20年後の御代替わりに、政治運動はピークを迎えました。標的は天皇・皇室です。年号の変わり目に、司教たちは天皇観を一変させたのですが、転機を導いたのは、約1年前の昭和62年秋に鳴り物入りで開かれた第1回福音宣教推進全国大会でした。

 実行委員の一人として準備段階から参加された大司教様の論攷によると、

「生活と信仰の遊離」

「社会と教会の遊離」

 を克服するため、

「開かれた教会づくり」

 を目指すことが会議の目的でした(「『遊離』はあるのか?」=雑誌「福音宣教」昭和62年11月号、オリエンス宗教研究所など)。

 第2バチカン公会議(1962〜65)を受けて、信仰と宣教のあり方が見直されたのでしたが、注目すべきは会議の手法です。

 司教団の呼びかけに応じて各教区から刷新のための提案が寄せられ、課題が決定され、聖職者、修道者、一般信者代表が同じテーブルで討議し、司教団への答申がまとめられました。聖職者と信者の垣根が取り払われ、教会は「民主化」されたのでした。

 しかし第2バチカン公会議の文書に「民主化」を示唆するものはなく、明らかな逸脱でした。その象徴は若者によるフォーク・ミサで、どんちゃん騒ぎのなか、一般信者が司祭に聖体を授けました。

「開かれた教会づくり」

 はいわゆる解放の神学の影響を受け、俗を聖化する「刷新」ではなくて、神聖なる典礼を俗化し、教会に革命的変革をもたらす転換点となったのです(澤田昭夫『革新的保守主義のすすめ─進歩史観の終焉』PHP研究所、1990年)。

 そして「民主化」された教会が最初に攻撃したのが天皇でした。昭和天皇が崩御になり、多くの国民が悲しみに暮れた64年1月7日の当日、司教たちは耳を疑うような内容の談話と文書を発表しています。

 司教といえば、全国を16に区分する、教皇と直結した司教区の最高責任者ですが、司教たちの組織である司教団から信者宛の談話は、冒頭にたった一行の弔意を表したあと、掌を返すように、昭和が「相次ぐ戦争」の時代で、

「アジア太平洋地域で二千数百万人が犠牲になった」

「戦争は天皇の名において行われた」

 と批判し、さらに「昭和の過ち」に対する神の裁きを予告し、諸行事において天皇の神格化、絶対化などが行われることを戒めています。

 一方、司教たちの常設機関である司教協議会による聖職者宛の文書には弔意の表明すらなく、冒頭から

「明治以降の天皇制と結びついた国家神道」

 を批判し、要するに

「教会としては関わるな」

 と呼びかけています。

 2日後には司教協議会がきわめて直截(ちょくさい)に、諸儀式に信教の自由と政教分離の原則が厳守されることを首相に要望し、さらにこの年の秋には、「天皇の即位の儀式」に国費の支出はまかり成らん、と主張しています。

 ここには2つの問題があります。

 まず天皇・皇室に対する姿勢です。教会の教義は、人間は指導者を尊敬する義務がある、共同体には権威が必要である、と教えています。天皇こそは有史以来の日本の統治者であり、最高の権威ですが、「憲法教」の宣教師さながらに憲法擁護に熱心なはずの教会指導者は、憲法第1章に定める天皇の権威を認めようともしません。

 雑誌「福音宣教」掲載の論攷(「『天皇制』について」=「福音宣教」平成元年3月号)で大司教様は

「天皇制に代表される日本文化の欠点は閉鎖性、排他性、独善性にある」

 と指摘し、

「教会としては偶像崇拝に通じる天皇・天皇制の絶対化に反対する。侵略されたアジアへの償いと関係を深める過程で天皇・天皇制の意味と役割は相対化される。日本の福音化の最大の課題は天皇制の福音化である。そのとき神の国は完成する」

 と表明しています。

 大胆にも宮中祭祀のキリスト教化さえ主張されています。

 しかし皇室は排他性どころか、漢字、仏教、雅楽、そしてキリスト教など海外文化受容の中心でした。日米開戦後、東条内閣は皇祖神を絶対化するような合理主義的神道論を正統としましたが、これに在野の神道人が猛然と反対したという知られざる歴史もあります。

 歴史の一時期に見られた天皇の絶対化は日本の文化的伝統ではなく、欧米のキリスト教文化の影響と理解されます。司教たちの天皇批判は教義的にも歴史論としても間違っています。

 もう1点は政教分離ですが、教会は緩やかな政教分離主義の受益者であって、絶対分離主義の主張は自分の首を絞めることになるでしょう。

 たとえば、岩手県奥州市(旧水沢市)にあるキリシタン領主・後藤寿庵の館跡はいまでは市有地ですが、ここには昭和初年に建てられた寿庵の廟堂があり、毎年、キリスト教式の大祈願祭が地元教会の主催で行われます。市長は交際費からご祝儀を支出します(市公式サイトなど)。

 また、今年2月に焼失した長崎・五島の江袋教会は官民の協力で明治の創建時の姿が復元されることになったと伝えられます。〈http://www.city.oshu.iwate.jp/icity/browser?ActionCode=genlist&GenreID=1147308219906

 公機関が文化財保護などの観点から支援するのは望ましいことですが、司教たちが主張する絶対的分離主義に立てば、これらは完全な違憲行為です。つまり、日本の教会指導者はみずからの行為には蓋をし、二枚舌で「裁き主」を演じています。

 そもそも国家に無色中立性を要求するのは宗教の否定につながる自殺的行為でしょう。

 自己矛盾の政治的態度が従来といかに異なるかは、古いカトリック新聞をひもとけば明らかです。

 たとえば昭和2年元日号は、大正天皇の崩御に際して、一面トップに

「忠誠なる精神をもって皇室および国家のために祈願、黙祷するのみ」

 という哀悼の辞と祈祷文を載せています。翌年の昭和天皇の即位大嘗祭当日にはシャンボン東京大司教奉献の大ミサが挙行され、奉祝行事が行われました。

 戦後、「迫害」のくびきを脱した教会が反天皇に豹変(ひょうへん)したわけではありません。それどころか、教会こそ天皇制存続のキーマンでした。焼却が噂されていた靖国神社を救ったことで知られる上智大学のビッテル神父(教皇使節代行)は、昭和天皇の戦争責任追及に執念を燃やすキーナン検事とたびたび面談し、天皇制存続および訴追断念を認めさせたといわれます(『マッカーサーの涙──ブルノー・ビッテル神父にきく』朝日ソノラマ編集部編、1973年)。

 司教たちの天皇批判は戦前のみならず、教会の戦後史をも否定します。

 歴史の区切り目にビッテル神父が大きな役割を果たせた背景には、皇室と教会との密接な関係がありました。

 明治以来、キリスト教会を陰に陽に支えたのが皇室です。社会事業の最大のパトロンだったし、司教たちが戦前の「迫害」の象徴と考える昭和7年の上智大学生事件を解決させたのも皇室の権威でした。

 お側に仕える信者もいます。

「軍服の修道士」と呼ばれた山本信次郎海軍少将は、昭和天皇の皇太子時代に御用掛となり、御外遊に随行し、即位後にわたって近侍しました。各地で講演し、御日常と御盛徳を語っています(山本正『父・山本信次郎伝』中央出版社、1993年)。皇室の藩塀であり、随一の広報マンでした。

 しかし、今日の指導者は敬意や感謝のかけらもなく、一面的な歴史理解で皇室を攻撃しています。一方、教皇ヨハネ・パウロ2世の追悼ミサには天皇の名代として皇太子殿下が参列されました。

 無遠慮に難癖をつけながら利用する。愚弄行為は神に仕える者のすることとは思えません。


▢4 白柳大司教の戦争責任告白

 平成の時代になると、日本の教会指導者たちは反戦平和運動に傾斜していきます。先駆けとして顔を出すのはやはり白柳大司教でした。

 昭和61年のアジア司教協議会連盟総会に際する東京カテドラルでのミサ説教で、白柳・日本司教協議会会長は

「戦争責任の告白」

 を行いました。

「日本の司教は、日本が大戦中にもたらした悲劇について、神とアジア太平洋地域の兄弟たちに赦しを願う。戦争に関わったものとして、この地域の二千万を超える人々の死に責任をもっています。いまも痛々しい傷を残していることについて深く反省します」

 大司教の本心はどこにあるのでしょうか。カトリックの教義は

「人を殺すな」

 と戒める一方で、正当防衛は義務だとも教え、条件つきで防衛戦争を容認しています。

 歴史を振り返れば、日中戦争の発端となった盧溝橋事件は中国軍による挑発があったことが知られています。真珠湾攻撃に始まる日米戦争を連合国は侵略戦争と認定しましたが、日本政府には経済的挑発に対する自衛戦という大義名分がありました。マッカーサーは戦後、日本の戦争目的が防衛のためだったとアメリカ議会で証言しています。

 侵略か自衛か、大司教の告白は判断を避け、日本がもたらした戦争ではなく悲劇について反省したのですが、それなら

「戦争責任」

 とはいえません。戦争は相互殺戮、相互破壊ですから、

「日本がもたらした悲劇」

 だけの告白は不公正です。

 すでに戦争は講和条約と賠償によって半世紀も前に終わっているのに、根拠も不明な

「2000万を超える死」

 についての責任をなぜ一方的に表明しなければならないのですか。

 けれども司教たちは、この大司教の告白を継承発展させ、戦後50年という節目に、公式に過去の歴史を反省し、平和への決意を宣言したのでした。

 平成7(1995)年2月、その名も

「平和への決意」

 と題する司教団教書は、絶対的平和主義の立場に立ち、日本人と教会の戦争責任をそれぞれ指摘し、

「日本軍は朝鮮半島や中国、フィリピンなどで、人々の生活を踏みにじった」

「残虐な破壊行為で無数の民間人を殺した」

「強制的に連行されてきた朝鮮人や元従軍慰安婦は、日本が加害者だったことを示す生き証人だ」

 などと追及しています。

 この教書が発表されることになった理由を、教書は、教皇ヨハネ・パウロ2世が

「教会は過去の誤りなどを悔い改めて、みずからを清めるよう、その子らに勧めることなくして、新しい千年の敷居をまたぐことはできない」

 と語った使徒的書簡「紀元2000年の到来」に求めています。

 しかし教皇は信仰の完成を呼びかけたのであって、悔い改めに名を借りた戦争責任追及とは無縁です。

 また、歴史の真実を見極めるというなら、

「強制連行された朝鮮人や従軍慰安婦」

 は削除されるべきでしょう。

「朝鮮人の強制連行」説は北朝鮮系の研究者による政治的プロパガンダが典拠であり、史実でないことが研究者の間では常識となっています。数年前、在日韓国人組織が日本人の歴史認識を正すことを目的に発行した小冊子などは強制連行への言及がありません。まして強制連行が立証された慰安婦が一人でもいるのでしょうか。

 しかし歴史を見極めるどころか逆に歪める司教団教書は政治運動本格化のジャンプ台でした。教書にはその後の慰安婦問題の謝罪要求、原発反対、自衛隊海外「派兵」反対などを予感させる7つの実現項目が並んでいます。


▢5 本格化する日本批判

 先兵は左傾化の本丸とされる正義と平和協議会(正平協)です。司教協議会、社会司教協議会のもとで社会問題に取り組んでいる正平協は、司教団教書の2カ月後、

「新しい出発のために」

 という声明を発表します。

「天皇制国家主義が支配した日本がアジア太平洋地域で侵略戦争を推し進め、2000万人以上の兄弟姉妹を殺し、労働と性労働に強制連行した。日本は日清戦争以来、侵略を行った。日本の教会は侵略戦争に手を貸した」

 これが宗教家の文章かと思うほど、露骨な表現で、天皇批判、侵略戦争批判が始まりました。

 前年に枢機卿となった白柳師は、教皇が昭和56年に広島で語った

「過去を振り返ることは将来に対する責任を負うことです」

 を引用し、戦争協力の歴史の反省が教皇の意向であるかのように説明していますが(『歴史から何を学ぶか──カトリック教会の戦争協力・神社参拝』カトリック中央協議会福音宣教研究室編著、1999年)、教皇がアピールしたのは核兵器廃絶であって、

「日本による侵略戦争」

 の告発ではありません。

 しかし正平協は、なぜ戦争が引き起こされたのか、というもっとも基本的な歴史検証を欠落させたまま、観念的で非実証的な日本批判を展開し、さらに戦後の「経済侵略」、自衛隊の「海外派兵」にまで矛先を向けています。

 悲しいかな、人類の歴史は戦争の歴史です。日本人が「戦後」と呼ぶ60年間にも世界では殺戮と破壊が続いたし、中国の軍備増強や北朝鮮の核開発は世界的関心事です。

 60年前の戦争を特別視するのは、目の前の事象から目をそらすことになりますが、もしやそれが司教たちの目的でしょうか。

 正平協は、戦後日本のアジア進出を「搾取」「経済侵略」と決めつけていますが、それならコロンブスの新大陸発見以来、カトリック信者による身の毛もよだつような殺戮と破壊が行われ、植民地支配の続いた中南米地域で、日本が「侵略」した地域以上に発展した国があるでしょうか。正平協の批判は客観性に欠け、偽善的です。

 けれども、司教たちの日本批判はさらに具体的にエスカレートします。たとえば慰安婦問題です。平成8年、司教協議会社会司教委員会は、

「日本帝国陸軍が作った慰安所制度は国際法に違反する。政府は法的責任を認めよ」

「被害者に補償せよ」

「謝罪せよ」

 と迫る国連人権委員会クマラスワミ勧告の受け入れを首相に要望しました。

 しかしこの勧告は挺身隊と慰安婦を混同し、総数を20万とし、大部分は殺された、とリポートするなど、ずさんな部分があることが指摘されています(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社、1999年など)。類似の制度はドイツやイタリア、アメリカ、イギリス、ソ連などにもあったことが知られており、日本だけが謝罪し、賠償することは公正を欠きます。

 しかも戦争中、朝鮮および朝鮮人はもっとも協力的な戦友であり、慰安婦も同様でした。慰安婦出身の女兵伝説さえあるといいます。けっして

「性の奴隷」

 ではありません。

 また、個人補償問題は国交正常化によって日韓間では解決済みです。日本が補償を拒んだ事実もありません。正常化交渉で日本は個人補償を繰り返し提案しましたが、韓国政府が同意しなかったのです(高崎宗司『検証・日韓会談』岩波書店、1996年)。

 日本が謝罪していないわけでもありません。宮沢首相も村山首相もお詫びを述べています。

 最初に慰安婦問題が火を噴いた15年前、宮沢首相は抗議デモが荒れ狂う韓国で

「謝罪」

 を迫られました。首相訪韓は以前から予定され、北朝鮮の核武装や南北統一問題を協議するはずでしたが、本題はすっかりかすんでしまいました。

 日韓が連携するアジア外交の完全な失敗で、誰が漁夫の利を得たのかは明らかです。

 国連人権委のあるジュネーブでは日本人修道女が長期間、組織的にロビー活動をしたといわれます。

 慰安婦問題を断罪した「2000年女性国際戦犯法廷」の主催団体は発足当初、カトリック中央協議会や正平協と同じ住所に連絡先があった、団体の発起人の一人は正平協のメンバーで、「戦犯法廷」は人脈的に北朝鮮の中枢につながっている、とも指摘されますが、日本の教会は神の館を隠れ蓑にした北朝鮮の工作機関なのでしょうか。


▢6 侵略戦争史観にこり固まる

 教会指導者の日本批判は国旗・国歌にも向けられました。国旗・国歌法が成立、施行されたのは平成11年夏ですが、正平協はその約半年前、法制化反対を表明し、同法成立後はカトリック学校に対して国旗掲揚・国歌斉唱の再考を促しています。

 正平協は、日の丸に関しては

「アジア太平洋地域の人々にとって軍事的侵略のシンボルとして位置づけられている。日本は侵略・植民地化の責任を認めず、戦後補償もしていない」と非難し、君が代に関しては「歌詞そのものが天皇を日本の統治者として讃美するもので、主権在民の原則に反する」

 と主張しています。これほどまでに「侵略」戦争史観、反天皇にこり固まっているとは驚きです。

 キリストは罪の追及ではなく、赦しを教えています。

 平和条約締結後、フィリピンが真っ先に日本人戦犯の赦免・減刑に動き出したのはこの精神からでした。キリノ大統領はある日本人が戦犯赦免を願い出たとき、

「多くの国民は日本人を赦せないと思っている。しかしキリスト教精神で何とか赦そうとしている」

 と涙ながらに答えたといいます。大統領は戦争で妻子を失っていました。

 崇高な赦しの精神を正平協はなぜ語ろうとしないのでしょう。

「侵略」のシンボルとしての日の丸がどうしても認められないなら、同じ論理で異教文明破壊のシンボルとしての十字架も認められないことになります。

 かつて新大陸で展開されたキリスト教徒による先住民殺戮がどれほど残虐を極めたかは、ラス・カサス神父が『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波書店、1976年)に詳細に記録しています。

 救われるのは信者の良識です。

 昭和天皇が戦後の地方巡幸で訪れたカトリック系社会施設では公然と国旗が掲揚されていました(大金益次郎『巡幸余芳』新小説社、1955年)。20年前の教皇来日のとき、広島、長崎の信者は日の丸の小旗を振って、歓迎しました。今年2月、バチカンに詣でた日本人信者たちが日の丸を手に教皇に謁見したことは外国プレスも報道しています。

「君が代」についての正平協の理解は単純すぎます。

 君が代の歌は古今集に「詠み人知らず」として収められているほど古く、広く知れ渡っていた賀の歌です。君が代の「君」は天皇とは限らず、朝廷に用いれば聖寿万歳をことほぐ意味になり、民衆に用いれば年長者の長寿を祝う歌ともなりました。神事や仏事、宴席で盛んに歌われ、歌い継がれ、それゆえ近代において国歌の地位を自然に獲得したのでした(山田孝雄『君が代の歴史』宝文館、1956年など)。

 司教たちは近年、ますます過去への執着を深め、日本批判を募らせています。一昨年、司教団は

「戦後60年平和メッセージ、非暴力による平和への道」

 を発表しました。

 メッセージはこの年春に中国や韓国で高まった反日運動を取り上げ、その背景に日本の歴史認識や首相の靖国参拝、憲法改正論議などの問題があると指摘し、さらに政教分離原則を緩和する憲法改正の動きを戦前の復活になりかねないと牽制しています。

 司教たちの批判はつねに日本にだけ向けられています。このメッセージも、中韓両国の反日の原因は日本だと理解するばかりで、中国国内の権力闘争の道具として靖国問題が利用されてきた側面を見落としています。

 中曽根内閣時代、首相の公式参拝に中国が批判したのは、改革派の胡耀邦に反発する保守派が靖国参拝をたたくことで胡耀邦の追い落としをはかったからだといわれます。

「反日」江沢民と異なり、対日重視政策をとる胡錦涛は政権成立後、歴史問題を後景化させる方針でしたが、対日強硬派は小泉参拝をきびしく批判し、胡錦涛政権を弱腰と攻め立てました(清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文藝春秋、2003年など)。

 つまり中国の靖国問題は中国の内政問題としての側面をもっています。

 となると、この年秋の小泉首相の靖国参拝、昨年の終戦記念日の小泉参拝に対する司教たちの抗議文は中国の対日強硬派を元気づけるものです。

 ビッテル神父が

「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う義務がある」

 とマッカーサーに進言したように、国家が殉国者を慰霊するのは当然です。現教皇ベネディクト16世はイラクで落命したイタリア人兵士を

「わが息子」

 と称え、追悼しました。

 バチカンの方針と一致しない異端化した靖国参拝批判は日本の国益のみならず、アジア地域の平和に反します。


▢7 平和とは正義の実現である

 過去40年近く、司教たちは教会が戦争に協力した過去を反省するのに熱心ですが、あってはならない戦争とはいえ、ひとたび戦端が開かれれば、祖国防衛のため国民は立ち上がらざるを得ません。

 教会が反省すべきは開戦後の戦争協力ではなく、それ以前の戦争回避への努力不足でしょう。

 ビッテル神父は昭和12年秋、近衛首相の要請を受けて渡米し、アメリカ人に日本人の武士道という道徳観を説き、戦争回避を訴えました。

 日米開戦前夜、来日したアメリカ・メリノール宣教会のウォルシュ司祭とドラウト神父は

「戦争は何としてでも阻止しなければならない」

 と真剣に論じたといいます(前掲『マッカーサーの涙』)。二人の来日こそ、日米交渉の幕開けでしたが、交渉は成功しませんでした(須藤眞志『日米開戦外交の研究─日米交渉の発端からハル・ノートまで』慶応通信、1986年など)。

 当時、日米の経済関係は親密でした。サイデンステッカー・コロンビア大学名誉教授によれば、アメリカ人の対日観はけっして悪いものではなく、大正末期の排日法もカリフォルニア・ロビーの議会工作がなければ成立しなかったといわれます(「アメリカ人は日本をどう見てきたか」=『日米の昭和』アステイオン、ディダラス国際共同編集、TBSブリタニカ、1990年)。

 日米関係が急速に悪化した一因は、蒋介石の巧みな政治工作でした。

 日中戦争で劣勢に立つ蒋介石は宋美齢夫人の長兄、キリスト者でハーバード大卒の親米派・宋子文をワシントンに派遣して、援助獲得交渉に乗り出し、夫人も流暢な英語でアメリカの孤立主義的世論を中国支援へと変えたのです。

 今日の慰安婦をめぐるアメリカ議会工作を彷彿させます。

 さて、最後になりました。岡田大司教様、平和とは何でしょう。

 教皇ベネディクト16世は

「平和は単なる武力紛争の不在ではなく、正義の実現である。神の恵み、賜物であり、その実現を妨げているのは偽りである」

 と訴えています(2006年新年メッセージ)。

「20世紀には常軌を逸したイデオロギーと政治体制が計画的に真理を歪曲し、夥しい人々を搾取、殺害し、家族や共同体を抹殺した」

 とも述べていますが、司教様方はその前世紀を引きずり、意図的に歴史を歪め、常軌を逸した日本批判を繰り返していませんか。偽りの政治運動が平和どころか、危機をもたらすことは明らかでしょうに。

 それとも危機をお望みなのですか。

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書き換えられた東京大司教の文書 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年5月31日木曜日)からの転載です

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 きのう、来日した台湾の李登輝・前総統が靖国神社参拝を検討している、と伝えられます。
http://www.asahi.com/international/update/0530/TKY200705300170.html

 前総統は熱心なクリスチャンといわれます。クリスチャンの靖国参拝といえば、大平首相の参拝が思い起こされますが、李登輝さんの参拝が実現すれば、マスコミが報道しているように、中国の反応が注目されるだけでなく、日本のキリスト教界に少なからぬ影響を及ぼすものと予想されます。

 というのも、雑誌論攷などで何度か書いてきましたように、たとえばカトリック教会の場合、信者の靖国参拝には問題がある、という公的メッセージを信徒に対して示してきたからです。そんなときに世界的に著名なクリスチャンに公然と参拝されたのでは示しがつきません。

 問題はなぜ参拝に反対しているのか、ですが、資料をあらためて読み返して、見てはならないものを発見してしまいました。靖国問題に関する教会指導者の文書が書き換えられているのです。

 歴史的にさかのぼって考えると、戦前はバチカンの方針、いわゆる1936年の指針によって靖国参拝が許されていました。すでにご承知のように、昭和7年に上智大学生靖国参拝拒否事件というのがありました。配属将校が軍事教練で学生を靖国神社まで引率した折、信者の学生数人が参拝を「拒否」したことから大騒動に発展したのでした。

 大学側の求めに応じて、バチカンの布教聖省は1936年に指針「祖国に対する信者のつとめ」を発し、靖国神社の儀礼に参加することを国民儀礼として許可したのです。戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民の義務だという判断です。

 ところが、反靖国的姿勢を募らせる日本の教会指導者は最近になって、このバチカンの指針はそのまま適応できない、と主張しています。

 日本の教会指導者たちは昨秋来、信教の自由と政教分離に関する小冊子を4冊、発行しました。

「自民党新憲法草案の検証」
「『国是』と迫害」
「戦前・戦中と戦後の教会の立場」
「信教の自由と国家」

 がそれぞれのテーマで、これらを基礎に司教団は今年2月に「信教の自由と政教分離に関する司教団メッセージ」を採択し発表しました。信教の自由と政教分離を定めた憲法二十条の墨守を訴え、その改正の動きを牽制する政治的メッセージです。

 東京大司教によってまとめられた小冊子は「戦前・戦中と戦後の教会の立場」と題され、ずばり副題に示されているように、1936年の指針に再考察を加えています。結論は、くり返しになりますが、

「信者の参拝は指針にかなった相応しい行為とはいえない」というものです。

 3月末になって、指導者たちは『信教の自由と政教分離』を発行しました。4冊の小冊子とメッセージを合本としてまとめ直したものですが、合本化にあたって大司教の文書が一部変更されています。もちろん加筆補正がなされることは世の常で、批判すべきことではありませんが、文章の根幹部分で、教会にとって重要な位置づけをもつバチカンの文書に関する記述が消えているとなれば話はまったく別です。

 大司教としては、信者による靖国神社参拝が相応しくない、と主張したいわけですから、参拝を許可した1936年の指針の無効性を証明しなければなりません。このため、当時は戦乱拡大の時代で、教会は弾圧と迫害にさらされていた、カトリック学校の学生たちも国家神道神社への参拝を要求された、しかしその後、時代は変わった、という論理を展開しています。

 上智大学生事件のころは軍拡ではなく軍縮の時代であり、当時の上智大学といえば大学令に基づく一般の大学であって宗教学校ではない、など、大司教の事実認識に致命的な誤りがありますが、それはともかくとして、見過ごせないのは、小冊子には戦後、バチカンがあらためて靖国参拝を認めた1951年の指針が言及されていたのに、合本では消えていることです。

 くわしく見てみると、小冊子では補注というかたちで、神社参拝について1946年に教区長会議で1936年の指針にふれ、新しい見解を発表した、これに対して布教聖省は、1951年に駐日教皇大使宛の手紙で1936年の指針が有効である、と確認した、しかし憲法が変わり、第2バチカン公会議も経験した、教会内の思索の発展もあるので、指針はすでに乗り越えられている、というのが私たちの見解である──と書かれてありました。

 ところが、合本では、1951年の指針についてまったく言及が無く、1936年の指針は教会の宣教の姿勢を述べたものであり、今日も有効である、仏教の葬式や神道式の結婚式に参加しても差し支えないが、国家神道であった靖国神社については国家神道の神社ではなくなったのだから、そのまま通用しない、というのが私の見解である──に変わっています。

 国家神道の神社に対する参拝許可の前提が失われたから1936年の指針はそのまま有効ではない、という論理だとすると、大司教にとっては、戦後の1951年に参拝許可を追認したバチカンの指針の存在に言及するわけにはいきませんから、合本では消したということなのでしょうか。

 なぜこんな小細工までして、靖国参拝を否定しなければならないのか、理解に苦しむところです。歴史的考察が誤っているだけでなく、バチカンの指針を見直す論理がすでにして破綻しているということではありませんか。

 1936年の指針は雑誌論攷にも書きましたが、冒頭に1659年の指針を引用しています。中国に布教する宣教団に対して、異教文化を排しない布教戦略を示したのでした。当時のイエズス会は他の修道会とは異なり、中国語で説教し、中国流の礼儀作法を採用し、中国皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝に参加することを認め、布教に成功しました。同様の政策はベトナムやインドでも採用されたといわれます(「新カトリック大事典」)。

 この適応政策はほかの修道会による人間くさい反発を買い、典礼論叢を巻き起こし、結局、イエズス会は解散させられましたが、二十世紀になってよみがえります。日本の教会に対しては1936年の指針で靖国参拝が認められ、中国に対しては39年の指針で孔子廟での儀式参加が許されたのです。これは第2バチカン公会議の理念を先取りするものといえます。

 それをいまになって、見え透いた策を弄してまで、バチカンの方針とは異なる、公的メッセージに便乗した「私の見解」を、なにゆえ信徒に伝えなければならないのでしょうか。

 日本の司教たちが靖国参拝を問題視するメッセージを発したのと前後して、この4月にバチカン大使が伊勢神宮を表敬しました。このため、信徒の間では司教たちに説明を求める声がでています。来週はある教会で大司教の講演があるそうですが、答えが示されるのかどうか。
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ローマ法王庁大使の伊勢神宮表敬 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年5月14日月曜日)からの転載です

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 カトリック教会指導者たちの政治的暴走については、雑誌「正論」などで何度か問題提起を書きましたが、いかにも左翼チックな政治的言動に誰よりも心を痛めているのは信徒です。熱心な信徒であればあるほど、憂慮は募ります。教会の教義では政治に直接介入することは聖職者ではなく、信徒の任務だとされていますから、危惧は当然です。

 頬白親父さん(ネット上のハンドルネーム)もその1人で、ご自身のブログ「頬白親父の一筆啓上」で何度も異議申し立てを行ってきました。
http://blog.livedoor.jp/kasahara_7524/
 
 その頬白親父さんがつい最近、駐日ローマ法王庁大使の伊勢神宮表敬について書いています。

 都心に出かけた折、しばしばお詣りしている靖国神社に足をのばし、神社界の専門紙を手にしましたのですが、そこには驚きの記事が載っていました。法王庁大使のカステッロ大司教とカデロ・サンマリノ共和国大使らが伊勢の内宮と外宮を参拝したというのです。
http://www.jinja.co.jp/article/001-001943.html

 日本の教会指導者たちは、

「信徒が靖国神社に参拝することは相応しい行為であるとは到底いえない。靖国神社に限らず、信者は、たとえ社会的儀礼であっても、よく吟味し、福音の精神に合致しているかどうか、判断しなければならない」(パンフレット・シリーズ「信教の自由と政教分離」)

 と主張していますから、バチカン大使らの表敬参拝は日本の教会指導者にとっては「面目丸つぶれ」というわけです。

 当然というべきか、カトリック中央協議会が発行するカトリックの専門紙にはこのニュースは載っていないようです。載せようがないということでしょうか。

 日本の司教団は信徒の靖国参拝を疑問視しているのに、ローマ法王庁の大司教は伊勢参宮をしている。

「司教団はきちんと説明すべきだ」

 と頬白親父さんは迫っています。

 教会指導者が問題としているのは靖国神社であり、大使が表敬したのは伊勢神宮ですから、厳密にいえば、話は別なのですが、じつは教会指導者の論理が靖国批判から一般的な神社批判へと巧みにすり替えられているのです。

 教会指導者は昨年秋、信教の自由と政教分離をテーマとする3冊の小冊子シリーズを発表しました。「戦前・戦中と戦後のカトリック教会の立場」と題する、東京大司教による冊子(No.1)は、450年の教会の歴史を振り返り、とくに昭和7年の上智大学生靖国参拝拒否事件を戦前の「迫害」のシンボルとして取り上げました。

 大司教様によると、事件を契機に国家神道神社(靖国神社)への参拝の是非が教会にとって大きな問題となりました。このときバチカンは、日本の教会の問い合わせに対して

「国家神道神社の儀式に参加することは許される」

 と回答します(1936年の指針「祖国に対する信者のつとめ」)。靖国神社の儀式は愛国心の印とみなされている、社会的意味しか持っていないので、信者の参加は許される、というのがバチカンの判断でした。

 ところが、問題は信者個人による神社参拝の是非に発展していった、というのです。

 1936年の指針は厳しい時代の教会に与えられた回答であり、時代も変わったのだから、現代ではそのまま適用されるべきではない。つまり、信徒が靖国神社に参拝することは相応しい行為であることは到底いえない。靖国神社に限らず、信者は、たとえ社会的儀礼であっても、よく吟味し、福音の精神に合致しているかどうか、判断しなければならない、と大司教様は訴えています。

 ここでは靖国問題が中心です。ところが、この冊子を受けて、今年2月に発表された「信教の自由と政教分離に関する司教団メッセージ」では、

「教会は靖国神社参拝の是非をめぐって問題を突きつけられた。バチカンの指針に基づいて『神社で行うよう政府から命じられた儀式は宗教的なものではない』として参拝を許容し、戦争協力に向かった」

 となっています。ここでは靖国参拝ではなく、神社参拝として一般化されているように見えます。意図的な読み違えとも映ります。

 上智大学生事件自体が「迫害」でないことは当事者の回想から明らかですが、それはともかく、バチカンの指針はどのようなものだったか、といえば、指針の要点は三つでした。

 まず指針は、大前提として、国家神道神社(靖国神社)での国家的な儀礼と宗教としての神道の礼拝との区別を認めています。靖国神社は軍の管理下にあり、一般神社は内務省の管轄です。公立学校などでは宗教教育と宗教儀式が禁じられています。靖国神社の儀礼は、非宗教的な国民的儀礼だからこそ参加が許されたのです。

 第2は、他の宗教に由来するものであったとしても、社交の範囲で、葬儀や結婚式など私的な儀礼への参加を許可すること、第3は、議論を避けて指針に素直に従うべきことを指針は強調しています。

 靖国神社は名前からすれば「神社」ですが、一般の神社とは起源も性格も異なる、従来の神社に該当しない、新しい神社でした(小林健三、照沼好文『招魂社成立史の研究』)。それが唯一、別格官幣社という新しい制度のもとに置かれた所以でしょう。

 司教団メッセージが指摘する「神社参拝の強要」は、戦時体制下に行われた国民精神総動員運動に関するものなのでしょう。戦前の新聞を読むと、盧溝橋事件以後、「遥拝」「黙祷」の記事が格段に増えています。祝祭日の遥拝式が国民儀礼化され、戦没者に対する国民儀礼としての黙祷が陸軍によって推進されたのです。

 余談ですが、現在も行われる黙祷の廃止がこの当時、神祇院によって検討されたという知られざる歴史があります。というのも、黙祷がキリスト教の形式だからです。西洋思想の流れをくむ黙祷を廃し、日本式に変えるべきだという意見があったのでした。

 しかし結局、黙祷は継続します。関係機関の協議により、

「黙祷は日本人の日常生活に融合、慣習化されている。国民全体が敬神感謝の意を表する適切な形式である」

 という見解がまとまったからです。その結果、靖国神社の臨時大祭に合わせた国民こぞっての黙祷が捧げられました。

 日本の陸軍が、そして靖国神社が、戦時体制下にあって、キリスト教という異教に由来する文化を受け入れていたのです。第2バチカン公会議よりはるかに進んでいます。
http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/SRH1802mokutou.html
 
 話をもとにもどすと、戦前のバチカンは靖国神社の性格を正しく理解し、靖国神社参拝を、もちろん異教の神への拝礼としてではなく、国民儀礼として認めたのでした。戦後においても、バチカンは1951年の指針においてこの方針を確認しています。

「戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民儀礼と見なされてきた。この数世紀間に儀式の意味は変化した。だから靖国参拝は許可され、教皇特使は(昭和12年に)参拝したのだ」

「数世紀間に」とあるのは、1936年の指針が言及しているように、カトリックは300年も前から中国大陸で異教文化を排除しない宣教戦略を展開し、皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝を認めることによって信者獲得に大成功していたのでした。近年の日本の教会指導者は第2バチカン公会議を強調しますが、異教文化の尊重はもっと古い歴史を持っています。

 さて、もう一度まとめ直しますと、バチカンは、殉国者をまつる靖国神社の儀礼への参加は国民儀礼であるとして、認めています。一方、一般の神社や寺院、あるいは異教儀礼による葬儀や結婚式に私的に参加する場合はどうかといえば、社会的礼儀として許されるということになるのでしょう。

 以上のような問題を考えなければならないのはいうまでもなく、キリスト教が唯一神を信仰する一神教だからですが、現教皇が昨年暮れ、トルコのブルー・モスクを表敬されたのも、今回、法王庁大使が伊勢神宮を参拝したのも、もちろん信仰ではなく、あくまで社会儀礼としてであり、そのことは誰の目にも明らかです。

 そんな当たり前のことが、日本の教会指導者たちに理解できないはずはありません。司牧者はキリスト教本来の信仰を信徒に伝える宗教活動にこそ情熱を注ぐべきであって、

「政治に介入することは聖職者ではなく、信徒の役目である」

 という教会の教えに反してまで、なぜ異教批判に血道を上げなければならないのか。指導者たちが靖国反対や神社批判を叫ぶのは、バチカンの教えとは異なる、別の意図と目論見があると疑うのは私だけでしょうか。

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キリスト教の論理と天皇精神 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年5月13日日曜日)からの転載です


 5月12日はナイチンゲールの誕生日で、それを前にして先日、近所の赤十字病院で看護学校の生徒たちによるナイチンゲール祭が行われました。

 夕刻、生徒たちは手分けして入院患者一人一人に手作りのカードを手渡したあと、照明を落とした病院のロビーに集合しました。キャンドルサービスが行われ、

「われはここに集いたる人々の前に、おごそかに神に誓わん」

 というナイチンゲール誓詞が唱和され、先生が赤十字の歴史を語りました。

 そのあと白衣の天使の卵たちはキャンドルを手に、「エーデルワイス」や「荒野の果てに」などを歌いながら、各病棟をまわり、病気やケガで入院している人々に癒しを与えました。

 この行事を見てあらためて思うことは、ナイチンゲールの活動やデュナンによる赤十字運動がヨーロッパのキリスト教の伝統を受け継いでいること、そして日本がこのキリスト教文化を完全に受容していることです。

 近年、日本のキリスト教指導者のなかには

「天皇制に代表される日本文化の欠点は閉鎖性、排他性、独善性にある」

 と指摘し、露骨な天皇・天皇制批判を展開していますが、まったくの見当違いといわねばなりません。閉鎖性、排他性、独善性はむしろ鏡に映ったキリスト教指導者自身の姿なのかも知れません。

 有史以来、漢字や仏教、雅楽など、海外文化受容の中心は皇室であり、赤十字運動も例外ではありません。

 日本の赤十字運動は西南戦争時に設立された博愛社に始まるといわれます。しかし明治政府は、敵味方の区別なく救護活動を行うという博愛社の精神を当初、理解しませんでした。博愛社の佐野常民らは征討総督の立場にあった有栖川宮熾仁親王に設立を願い出、許可されたという経緯があります。

 やがて博愛社は日本赤十字社と改称され、西欧の王室にならって、皇室が赤十字運動の指導的立場に立たれました。日本赤十字の名誉総裁は皇后様で、日赤大会は明治神宮の杜で開かれます。明治天皇の皇后・昭憲皇太后のお名前を冠した基金は創設から百年近く、いまも世界の赤十字活動を支えています。

 なぜ有栖川宮親王は博愛社の意義を理解し、設立を許可したのでしょうか。それは敵味方の区別なく、という赤十字の精神は一視同仁という天皇精神と通じるからでしょう。

 たとえば、東大紛争当時、警視庁の治安警備担当課長だった佐々淳行氏は『東大落城』にこう書いています。

 ──安田講堂の攻防が決着したあと、秦野章警視総監が内奏のため参内した。昭和天皇から御嘉賞のお言葉があれば、機動隊員の士気昂揚につながると期待されたが、帰庁した秦野氏はけげんそうな表情を浮かべていた。

「天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。……『双方に死者は出たか?』と御下問があった。幸い双方に死者はございませんとお答えしたら、たいへんお喜びでな、『ああ、それは何よりであった』と仰せなんだ」

 昭和天皇はすべての国民を赤子ととらえ、機動隊と学生の攻防を自分の息子の兄弟げんかのようにみておられたのでしょう(加藤雅信『天皇』)。天皇には敵も味方もないということになります。

 ここがキリスト教と日本の天皇との違いかと思われます。

「敵を愛しなさい」
「敵をゆるしなさい」

 と教えるキリスト教は、神と悪魔の二元論に始まり、敵と味方の存在を論理の前提としています。しかし日本の天皇はその前提がなく、

「国平らかに、民安かれ」

 と、たとえ刃向かう者のためにさえ、日々、絶対無私の祈りを捧げ続けています。

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来日百年、ヴォーリズ平和礼拝堂が完成 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年4月20日金曜日)からの転載です

画像は常陸宮殿下とヴォーリズ

(ヴォーリズライブラリから)

常陸宮とヴォーリズ.jpg

「イエス・キリストを模範とする人間教育」を建学の精神とする滋賀県八幡市の近江兄弟社学園に、このほど創始者ウイリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)の来日百年を記念する「ヴォーリズ平和礼拝堂」が完成しました。来月には諸宗教の代表者を招き、世界平和を祈る式典が行われると伝えられます。

 ヴォーリズはアメリカ・カンザス州に生まれました。建築家を志していましたが、学生時代にキリスト教の講演に感動し、外国伝道を決意します。大学卒業後、明治38(1905)年に滋賀県立商業高校の英語科教師として来日しました。放課後、下宿で聖書研究会を開くことが条件で、たちまち学内にYMCAが結成されるほど、子供たちを感化したのですが、その熱心さを快く思わない人たちもいて、ヴォーリズは2年後、失職します。

 その後、ヴォーリズは建築事務所を開き、明治学院礼拝堂や大丸百貨店大阪店、山の上ホテルなどの建築に関わり、一方でメンソレータムの販売権を取得し、さらに近江基督教伝道団(近江ミッション、のちの近江兄弟社)を結成し、伝道活動を行いました。メンソレータム販売の利益は大部分が伝道資金になり、近江ミッションの財政を支えました。ハモンドオルガンを日本に初めて紹介したのもヴォーリズで、讃美歌の作詞作曲も手がけています。

 大正8年に子爵・一柳末徳の三女・満喜子と結婚、満喜子はその後、教育分野の発展に寄与し、これがのちの近江兄弟社学園に発展します。

 昭和16年の日米開戦前夜、ヴォーリズは日本に帰化し、一柳米来留(めれる)と改名します。

「アメリカから来たりて留まる」

 という意味の洒落だといわれます。ヴォーリズは近江八幡を「世界の中心」と考え、この地を終生、愛しました。戦争中は、収容された軽井沢から故国アメリカに戦争の終結を訴え、終戦後にはマッカーサーと近衛文麿の会談を仲介したといわれます。

 昭和29年、社会公共事業の功績が認められて藍綬褒章を授与し、33年には近江八幡市の名誉市民第1号に推挙されました。さらに36年には建築界における功績で黄綬褒章を受けました。

 信仰を伝え、1600を超える作品を残し、ヴォーリズは83歳でこの世を去りました。葬儀は近江市民葬と近江兄弟社葬との合同で行われたといわれます。
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長崎で来月、教会復元支援慈善コンサート [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年4月14日土曜日)からの転載です

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 長崎では、教会群とその関連施設を世界文化遺産にしようという運動が、県をあげて展開されています。
http://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/

 その対象の1つで建物の傷みが目立つ国指定の重要文化財「旧出津(しつ)救助院」(長崎市)と、県内最古の木造教会で今年2月に焼失した「江袋教会」(新上五島町)の修復・復元を支援するチャリティー・コンサートが来月、長崎市西出津町の出津教会で行われる、と西日本新聞が伝えています。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/nagasaki/minami/20070414/20070414_001.shtml

 コンサート会場となる出津教会がある旧外海(そとめ)町は、隠れキリシタンの里として知られ、遠藤周作の『沈黙』の舞台ともなりました。

 最近は過疎化が深刻だといわれますが、以前、地元の神職さんにつれられて、うかがったころのデータでは、世帯数4000戸のうちカトリックが540戸、昔(隠れ)キリシタンが400戸と聞きました。禁制時代の信仰をいまも守り続けている方がいると聞いて、驚いたものです。宣教師ジワンをまつるとされる枯松神社もあります。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/nagasaki_suwa_jinja.html

 この町の偉人といえば、フランス人宣教師ド・ロ神父です。1840年、フランス・ノルマンディーの貴族の家に生まれた神父は、開国したばかりで、まだ禁教が解かれていない幕末の慶応4年(1868)、長崎に上陸しました。6月9日。奇しくもその日は浦上のキリシタン全員に流罪の太政官達が出された日でした(片岡弥吉『ある明治の福祉像─ド・ロ神父の生涯』など)。

 やがて神父はこの地に教会を建て、さらに漁業や農業の近代化に貢献したほか、海難事故で夫を失った貧しい未亡人などのために、私財を投じて救助院(授産場)の「至風木舎(しそうきしゃ)」を設け、算術を教え、織物や染色、パンやマカロニの製造を教えたのでした。

 その試みは政府に認められ、明治43年、内務省は助成金200円を贈りました。神父が病に伏したのはその翌年で、大正3年、帰らぬ人となりました。しかし神父が伝えた「ド・ロ様ソーメン」はいまでは地域の特産品です(『外海町誌』など)。

 これが国の重要文化財(建造物)に指定されている旧出津救助院のあらましです。建物は明治初期の西洋建築として貴重なものとされていますが、西日本新聞の記事によると、雨漏りが深刻で修復費用は6億4000万円。このうち所有者である修道会が1億4000万円を負担することになるのだそうです。

 慈善コンサートの会場となる出津教会はむろんド・ロ神父が聖堂を建てたのが歴史の始まりです。長いキリシタンの信仰を土台に、この土地から田口、里脇両枢機卿をはじめ、数多くの聖職者が生まれているのはきわめて異色といわなければなりませんが、過疎の波が容赦なく襲いかかっています。

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