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米倉から生まれた神社──タイ北部で見た日本の神社そっくりの農家 [神社建築]

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米倉から生まれた神社
──タイ北部で見た日本の神社そっくりの農家
(「農業経営者」平成11年6月号)
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 日本のどの村にも町にも神社があります。その数は約8万社といわれます。四季折々にそこで行われるさまざまな祭りは、農業の営みを抜きにしては語れません。古来、人々は生きるために祈り、大地を耕し、自然の恵みによって命を長らえ、尊い命を連綿として子孫に伝えてきました。神社の祭りは民族の生の証であり、自然と生きる農業こそは民族の命を支えるとともに、崇高な精神文明を築き上げてきました。

 農業の危機ともいうべき現代、日本人の信仰と農業の関わり合いをあらためて見つめ直してみたい。たとえば、神社とはどのように発生したのか。

 数年前のことです。タイ北部を旅行していた僕は、ラオスとの国境に近いチェンライ県の村で意外なものを見ました。

 小学校のそばに農家があって、若夫婦がヤマハのバイクに麻袋入りの米1俵をのせ、これからどこかへ出かけようとしていました。ウソのように暑い日で、主人は上半身裸です。荷台が小さくてバランスよく積み荷を載せることができません。どういうわけか、通りすがりの僕が手伝う羽目になりました。重い米の袋を載せ終えると、夫婦はお礼の言葉もなく、二人乗りでヨロヨロしながら家を出て行きました。

 意外なもの、というのは、日本の神社そっくりのかたちをした農家の建物です。母屋が高床式の木造家屋なのは北部タイでは珍しくありませんが、わらぶき屋根の納屋は、屋根の両端に千木(ちぎ)がつき出し、尾根のところには鰹木(かつおぎ)のような重しが見えます。伊勢神宮の洗練された美しさには遠くおよびませんが、基本構造は驚くほど似ています。

 民家だけではありません。北部第一の都市で、バンコクに次ぐ観光都市・古都チェンマイでは、由緒正しい仏教寺院や、博物館の近代建築、あるいはバス停の屋根にまで、火炎のかたちをした千木があしらわれています。

 千木や鰹木といえば、日本の神社だけかと思っていたのですが、どうもそうではありません。けれどもよりによって、タイ北部に神社に似た建物があるのはどういうわけなのでしょうか。

 ある人類学者によると、中国・長江(揚子江)流域の低湿地で発生した高床式住居が、のちに水田稲作とともに各地に伝わり、漢の時代までに中国南部全域、東南アジア、西南日本にまで広がったといいます。

 面白いのは、古代中国・前漢の時代、高床倉庫は稲倉であるだけでなく、祭りの場であったらしいことです。インドネシアのボルネオでは、葬儀のときに仮設の高床家屋が登場します。高床は天上世界のひな形であり、穀霊、死霊、祖霊をまつる祭場でもあるといわれます。

 3年前(平成8年)、「御鎮座2000年」を迎えた、伊勢神宮の内宮(皇大神宮)に御稲御倉(みしねのみくら)とよばれる殿舎が、杉木立のなかにひっそりとたたずんでいます。

 皇室の祖神・天照大神(あまてらすおおかみ)をまつる神宮は全国8万社の神社の頂点に位置します。日々、おこなわれる神宮の祭りは天皇の祭りであり、稲の祭りです。とくに10月中旬に行われる神嘗祭(かんなめさい)は神田で収穫された稲の初穂を大神にお供えする、1年でもっとも重要な祭りなのですが、このとき収穫される抜穂(ぬいぼ)を収める米倉がこの御稲御倉です。

 しかし単なる倉庫ではありません。御稲御倉神をまつる、れっきとした社殿なのです。古人は稲を神と見なし、守護神をまつりました。その守護神とは稲の神霊つまり穀霊そのものです。

 稲の神霊である穀霊が米を収める米倉に宿るという信仰が派生し、米倉がやがて神が住まわれる社殿へと転化していったというのではなくて、むしろ高床の米倉が最初から穀霊に関わる祭りの場であった、と考えた方が理解しやすいでしょう。

 素朴な自然崇拝の時代、日本人は山や滝、巨岩などを信仰の対象とし、神殿を必要としませんでした。しかしやがて高床建築が稲作とともに伝わり、これが神殿に発展し、神々は神殿に常住する、と人々は考えるようになったのではないでしょうか。稲作が日本の神社を発生させたと見て、たぶん間違いないのでしょう。

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