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天皇はなぜ「米と粟」を捧げるのか? ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」4 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月21日)からの転載です

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天皇はなぜ「米と粟」を捧げるのか?
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」4
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 日本の稲は栽培種であり、帰化植物である。日本列島に自生する稲はない。粟がエノコログサを原種とする穀物であるのとは異なる。

 植物遺伝学者・佐藤洋一郎氏の「日本稲の南北2元説」によれば、日本の稲には遺伝学的に2つの源流があるという。ひとつは東南アジアの島々から伝わってきた陸稲的な熱帯ジャポニカで、そのあと、もう一つの中国・揚子江流域を起源とする水稲的な温帯ジャポニカが伝来した、と説明されている。

 面白いことに、両系統の稲は本来は晩生で、秋冷の早い東北地方などでは稔らない。ところが、両者が交雑すると不思議にも早生が発生する。佐藤氏は、両系統の稲が日本列島で自然交雑して早生が発生し、稲作は北部日本にまで瞬く間に北上することができた、と推理している(『稲のきた道』、1992年など)。

 2000年前には寒冷な青森にまで稲作は北進した。日本の早生稲が誕生したからだ。

 鶺鴒に学んで諾冉二神が婚姻し、国が生まれたとする国生み神話のように、自然の法則に従って、異なるものがひとつになり、新しい価値が生まれるという歴史は、稲だけにとどまらない。稲作起源神話も同様である。

 記紀には2つの稲作起源神話が描かれている。1つは女神の遺体から五穀の種が得られたという類型であり、もうひとつは天孫降臨に際して天照大神が稲穂を授けられたとする斎庭の稲穂の神勅である。

 神話学者の大林太良氏によれば、2つの神話は系譜が異なるという。

 女神の死体から作物が出現するという死体化生型神話は、きわめて広い地域に分布するらしい。そのなかで日本の神話は粟など雑穀を栽培する焼畑耕作の文化に属し、その源郷は東南アジアの大陸北部から華南にかけてで、縄文末期に中国・江南から西日本地域に伝えられた、と推理されている(『稲作の神話』『東アジアの王権神話』など)。

 実際、この神話に登場するのはすべて焼畑の作物である。稲は例外にも見えるが、焼畑で栽培される畑稲もある。熱帯ジャポニカこそこれであった。死体化生型神話の主役である大気津比売は粟の女神だったともいう。

 もうひとつの稲作起源神話で興味深いのは、皇室発祥の物語である天孫降臨とともに語られていることである。前述の神話では五穀が葦原中国に起源するのに対して、この物語では高天原から稲がもたらされる。

 天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせるという天降り神話は、朝鮮の檀君神話が有名だが、朝鮮にとどまらない。モンゴルの伝承やギリシャ神話とも類似する。インド・ヨーロッパ語族の神話がアルタイ語族を媒介として、朝鮮半島経由で日本に渡来した可能性があると大林氏は述べている。

 ただ、母神が授けるのは、朝鮮やギリシャの神話では麦であって、稲ではない。ならば稲の要素はどこから来たのか。天照大神から稲穂が授けられるとするモチーフは、天降り神話と元来は無関係であり、東南アジアの稲作文化に連なる、と大林氏は説明する。

 朝鮮から内陸アジアに連なるアルタイ系遊牧民文化に属する天降り神話と東南アジアに連なる稲作神話が接触融合し、天孫降臨神話ができあがった、と大林氏は推理している。

 日本の早生稲の成立と同様に、日本の稲作起源神話は大陸系と南方系の融合だと説明されているのである。

 日本民族の成り立ちもまた同様である。人類学者の埴原和郎氏は、先住の縄文人と渡来系弥生人が混血同化し、「本土日本人」が成立したと説明している。埴原氏は混血同化は現在も進行中だと指摘する(『日本人と日本文化の形成』、1993年)。

 とすれば、天皇による米と粟の神事はどのように考えるべきなのか。

 古代の日本にはさまざまな氏族がいて、それぞれの暮らしがあった。それぞれの神があり、信仰があった。先住の焼畑農耕民もいれば、新参の水田稲作民もいた。国と民をひとつに統合する統治者たる天皇は、皇祖神のみを拝するのではなくて、それぞれの民が信仰するさまざまな神々に祈ることを選択したのではないか。そのような祭り主を統治者とすることをわが祖先たちは選んだのではなかろうか。

 その結果、歴代天皇は毎年、実りの秋に、そして御代替わりには大がかりに、価値多元的な複合儀礼を行い、国民統合の平和的意義を確認し合うことになったのではなかろうか。それは平和的共存のための知恵といえるだろう。今日、世界各地で頻発する、宗教の違いに由来する衝突の悲劇を見れば、容易にその意味が理解される。(つづく)


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神嘉殿新嘗祭の神饌は「米と粟」 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」3 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月14日)からの転載です

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神嘉殿新嘗祭の神饌は「米と粟」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」3
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 歴代天皇は日々の祈りを欠かせられなかった。清涼殿での石灰壇御拝がそれだが、皇室第一の重儀とされてきたのは新嘗祭である。新穀を捧げて祈るとされているが、新穀とは稲ではない。稲だけではない。

 昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫・元宮内省掌典は、「この祭りにもっとも大切なのは神饌である」と指摘し、「なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊(かし)いだ、米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥と、新米をもって1か月余を費やして醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の新酒である」と解説している(前掲「皇室祭祀百年史」)。

 案外、知られていないが、宮中三殿での祭祀は米のみを神饌とする。宮中三殿での新嘗祭は米が供され、他方、神嘉殿の新嘗祭のみ米と粟である。神嘉殿での新嘗祭の特異性がうかがえる。それなら粟とは何であろうか。なぜ粟なのか。

 当然ながら、御代始に斎行される、天皇一世一度の大がかりな新嘗祭である大嘗祭も、同様である。ただ、祭式の詳細は公には伝わっていない。「大嘗会者、第一之大事也、秘事也」(卜部兼豊「宮主秘事口伝」、元治元年=1415年)だからだ。

 秘儀とか秘事とされるのは、密室の空間でオカルト的な宗教儀式を行うという意味ではない。新帝が神前で人知れず、ひとり行うのが秘事なのであり、もっとも中心的な儀礼は、「凡そ神国の大事ハ大嘗会也。大嘗会の大事ハ神膳に過ぎたることハなし」(一条経嗣「応永大嘗会記」、応永22年=1415年)といわれるように、大嘗宮での神人共食の儀礼、すなわち神饌御親供、御告文奏上、御直会にある。

 神道学者たちの多くは「稲の祭り」といいたがる。しかし神饌は稲だけではない。

 もっとも詳しいとされる『貞観儀式』には「亥の一刻(午後9時ごろ)、御膳(みけ)を供(たてまつ)り、四刻(10時半ごろ)これを撤(さ)げよ」と記しているだけだ。登極令附式は大嘗宮の儀の詳細な祭式を省略している。宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)には、秒刻みで祭儀の進行が記録されているが、「天皇陛下が神饌を御親供になった」などと記述するのみである。

 昔も今も秘儀であることに変わりはない。

 平成元年暮れ、政府は閣議で、概要、「大嘗祭は稲作中心社会に伝わる収穫儀礼に根ざしたもの」という理解を口頭了解したが、誤りであろう。

 天皇の祭祀は一子相伝とされ、詳細を知るのはごく一部の人たちだけである。一条兼良の「代始和抄」(室町後期)には、「秘事口伝さまざまなれば、たやすくかきのする事あたはず。主上のしろしめす外は、時の関白宮主などの外は、会てしる人なし」とある。

 いまも祭儀に携わる関係者は、実際の祭式や作法について、先輩から口伝えに教わり、備忘録を独自に作成し、「秘事」の継承に務めてきた。むろんこれらは公開されない。

 しかし実際には、研究者たちによって、秘儀の中身は存外、知られている。

「儀式」「延喜式」「後鳥羽院宸記」など、多くの文献は漢字だらけで簡単には読めないが、なかには仮名交じりで記録されたものもある。それによると、秘儀中の秘儀である大嘗宮の儀において、新帝が手ずから神前に供し、御告文奏上ののち、みずから御直会なさるのは米と粟の新穀であることが一目瞭然である。

 京都・鈴鹿家に伝わる「大嘗祭神饌供進仮名記」(宮地治邦「大嘗祭に於ける神饌に就いて」=『千家尊宣先生還暦記念神道論文集』昭和33年所収)には、

「次、陪膳、兩の手をもて、ひらて一まいをとりて、主上にまいらす。主上、御笏を右の御ひさの下におかれて、左の御手にとらせたまひて、右の御手にて御はん(筆者注。御飯。読みは「おんいい」が正しいか)のうへの御はしをとりて、御はん、いね、あわ(ママ)を三はしつゝ、ひらてにもらせたまひて、左の御手にてはいせんに返し給ふ......」

 などと、枚手と御箸を用いる米と粟の献饌の様子が、生々しく記述されている。

 とすれば、神嘉殿の宮中新嘗祭、大嘗祭の大嘗宮の儀は間違いなく、稲の祭りではなくて、米と粟の祭りである。それなら、なぜ米だけではないのか。

 天孫降臨神話および斎庭の稲穂の神勅に基づき、稲の新穀を捧げて、皇祖神に祈るのなら、粟は不要である。なぜ粟が必要なのか。おそらく皇祖神のみならず、天神地祇を祀るからであろうが、それなら、なぜ天神地祇なのか。

 最古の地誌とされる「風土記」には粟の新嘗が記録されている(『常陸国風土記』)。とすれば、粟を神聖視する民が古代の日本列島にいたことが分かる。いや、話は逆であって、柳田国男が繰り返し書いているように、日本列島はけっして米作適地ではないし、したがって日本人すべてが稲作民族ではない。柳田は「稲作願望民族」と表現している。

 むしろ粟こそ、古代日本人たちの命をつなぐ聖なる作物ではなかったか。

 わが祖先ばかりではない。文化人類学の知見によれば、畑作農耕民である台湾の先住民には粟はとくに重要な作物で、粟の神霊を最重視し、粟の餅と粟の酒を神々に捧げたという(松澤員子「台湾原住民の酒」=『酒づくりの民族誌』所収、1995年)。

 台湾では粟の酒はいまもふつうに売られている。民俗学者に聞いたところでは、日本でも大正のころまで、粟や稗の酒がごくふつうに自家醸造されていたという。各地の神社では粟の神事が行われていたに違いない。だが、いずれもいまは聞かない。いつの間にか消えたのである。そして大嘗祭が米と粟の儀礼であることも忘れられている。(つづく)


補注 この記事を書いたあと、日吉大社(滋賀県)の「粟津の御供」のことを知りました。詳細は先般、当メルマガに書いたとおりです。


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古代律令は「すべて天神地祇祭れ」 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」2 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月6日)からの転載です

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古代律令は「すべて天神地祇祭れ」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」2
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 天皇の役割とは何なのか。何だと考えられてきたのか。

 奈良時代に成立した、日本最古の正史である『日本書紀』には、欽明天皇13(552)年10月の出来事として、仏教公伝の歴史が記述されている。

 記事によると、崇仏派の蘇我大臣稲目宿禰は「西蕃(にしのくに)の諸国、ひたすらに皆これを礼(うやま)ふ。豊秋日本(とよあきつやまと)のみ豈ひとり背かむや」と仏教の受け入れを主張した。

 これに対して、排仏派の物部大連尾輿・中臣連鎌子が「我が国家(みかど)の、天下に王(きみ)とましますは、恒に天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそかみ)を以て、春夏秋冬、祭拝(まつ)りたまふことを事(わざ)とす」と反論、反対したことになっている。

 渡来人との関わりが深い蘇我が、仏教の受容はグローバル・スタンダードだと訴えたのに対して、在来の神道儀式に関わる物部らが、多神教的儀礼を行うのが天皇の務めだと主張している点が注目される。

 北部インドで発生し、西域、中国南朝、百済を経由して、日本に伝えられたのは、一切衆生の救済を主眼とする大乗仏教であった。古代中国の梁では仏教文化が最盛期を迎え、国家儀礼は儒教ではなくて、仏教形式だった。三国時代の朝鮮では、仏教は律令制度の整備と関連して、国家理念として機能したといわれる。仏教が受容されると既成の信仰は排除され、国家儀礼は仏教形式に一本化したものらしい。

 けれども、日本ではそうはならなかった。仏教が国家的に移入されたのちも、従来どおり、既成の信仰は共存した。天皇の国家儀礼は仏教オンリーに変質することはなく、多神教的、多宗教的宗教空間が維持された。

 仏教が国家的に受容されたのは推古天皇の時代で、天皇は仏教の外護者となられた。日本最初の官寺・四天王寺が建立された。

 氏姓制からの脱皮が図られ、中央集権化が推進された。仏教思想に基づく十七条憲法が制定され、為政者たちの道徳的規範が示された。けれどもその第一条には「和を以て貴しと為し」と、儒教もしくは日本古来の「和」の思想が宣言されていた。中国、朝鮮とは異なり、既成宗教が排除されず、共存した。

 天皇は祭り主であり、みずから神前に神饌を供え、御告文を奏上し、直会なさる。天皇の祭祀は、仲取持たる神職を介在する神社祭祀とは異なる。各神社の祭祀はそれぞれの地域共同体や血縁共同体が前提だが、天皇の祭りは国家儀礼である。そして、天皇の祭祀は特定の信仰に偏しない複合儀礼というべきものであった。

 たとえば、皇極天皇の時代に始まった、天皇が元日の早暁に行われる四方拝は、『書紀』では雨乞いとされているが、道教由来の儀式と指摘される。

 この時代に儀式が定まったといわれる、皇室第一の重儀とされる新嘗祭や天皇一世一度の大嘗祭は、一般に稲作儀礼と理解されているが、後述するように、天皇は米と粟の新穀を皇祖神ほか天神地祇に捧げられる。稲作民の祭りと畑作民の祭りの複合とみるべきだろう。

 中国皇帝は天壇を祭る。天壇を祭ることが皇帝の特権であり、皇帝の皇帝たるゆえんであった。ローマ教皇なら、絶対神のみを拝する。「あなたには私のほかに神があってはならない」(モーセの十戒)と命ずる唯一神の教えは絶対であり、当然である。しかし、天皇は皇祖神のみを祀らない。祈りの対象は特定されず、皇祖神ほか天神地祇が祀られる。

 天皇の祭祀は多神教的のみならず、多宗教的でさえある。孝謙天皇は皇位継承後、一代一度の大仁王会を営まれ、これが即位式、大嘗祭とともに御代替わり儀式として位置づけられた。やがて出家ののち、藤原仲麻呂の乱を経て重祚されると、天皇の神社である伊勢の神宮に神宮寺が造立され、仏像が建てられた。

 その一方で、孝謙天皇の治世に施行された養老律令は、官僚機構に宮中祭祀を司る神祇官と国政を統括する最高機関の太政官が並立する二官八省が採用された。令には「神祇令」と「僧尼令」が並んでいるが、「神祇令」には「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(即位条)と記されている。

 歴代天皇は仏教に帰依されたのちも、天神地祇を祀ることをお務めとされた。特定の神のみを祀ることをせず、民が信奉する、あらゆる多元的価値を保障し、国と民を統合することが天皇の務めとされたと考えられる。

 順徳天皇が「およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にす。旦暮(あさゆう)、敬神の叡慮、懈怠なし。白地(あからさまにも)神宮ならびに内侍所の方をもって御跡(みあと)となしたまはず」と『禁秘抄』に著されたのは承久3年、承久の変の前夜だった。のちに後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇のお三方が遠流の身となる皇室存亡の危機にあって、敬神、崇祖、神祭りが皇位の本質だと断言されたのである。

 そして歴代天皇はこの祭祀優先主義を実践された。祈りはいまも継承されている。(つづく)


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戦後30年の歴史的転換点 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」1 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月1日)からの転載です。

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戦後30年の歴史的転換点
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」1
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 昭和50年8月15日は戦後30年の終戦記念日であった。気象庁の記録では、東京の最高気温33・4度、平均湿度72パーセント。蝉時雨がかまびすしい、うだるような、例年どおりの鎮魂の日だったらしい。

 だが、この日が、古来、天皇第一のお務めとされる宮中祭祀にとって、きわめて大きな歴史的転換点だったことは、案外、知られていない。

『入江相政日記』や『卜部亮吾侍従日記』など側近が残した記録によると、この日、宮内庁長官室に幹部たちが集まり、会議が開かれた。議題は宮中祭祀の祭式の変更であった。

 最大の変更は毎朝御代拝だった。卜部は「問題の毎朝御代拝は……」と書いている。

 変更は9月1日から実施された。『昭和天皇実録』には、「9月1日 月曜日 この日より、毎朝及び旬祭の御代拝方法が改められる」とある。

 毎朝御代拝は、平安期の宇多天皇に始まる、天皇みずから毎朝、清涼殿で伊勢の神宮ならびに賢所を遥拝された石灰壇御拝に連なる歴史ある重儀とされる(八束清貫「皇室祭祀百年史」=『明治維新神道百年史第1巻』1984年所収)。

 明治以降、天皇に代わって当直の侍従を烏帽子、浄衣に身を正させ、馬車で宮中三殿に遣わし、殿内で拝礼させ、ご自身は御所で慎まれることとなったが、これを昭和天皇の側近たちは、洋装のモーニング・コートで各殿の木階下から拝礼する形式に改めた。

 このほか小祭および新嘗祭の御代拝、2月11日(かつての紀元節)と11月3日(かつての明治節)の臨時御拝の御代拝は、侍従ではなくて、新設された掌典次長が務めることが決められた(『昭和天皇実録 第十六』)。

 会議の出席者や内容など、詳細は分からない。宮内庁には公的な議事録は残されていないという。側近たちは、天皇・皇族に相談することもなく、皇室の伝統に関わる祭式の変更を、自分たちの一存で、密室で決めてしまったものらしい。

 宮中祭祀という天皇の聖域に、いったい何が起きたのか。

 当時を知るOBによると、宮内庁は一般事務職のほか、医師、料理人、大工、鍛冶屋、植木屋、音楽家など、さまざまな職種の人たちで構成され、さながらひとつの町のようであり、以前は陛下を中心に家族的な雰囲気があったが、昭和40年代以降、「大きな時代の波に洗われていた」(「左遷された『昭和天皇の忠臣』」永田忠興元宮内庁掌典補インタビュー=「文藝春秋」2012年2月号所収。聞き手は斎藤吉久)という。

 戦前からの生え抜き職員が定年退職し、戦後教育を受けた職員が増えた。元華族が減り、ほかの官庁からの横滑り組が増えていった。そして職員たちの意識が変わり始めた。オモテとオクの区別も厳格になった。最大の変化が宮中祭祀だった。

 永田氏は「憲法が定める信教の自由を掲げ、『なぜ祭祀に、公務員が関わらなければならないのか』という意見が口々に出て、祭祀が敬遠されるようになった」と証言する。

「戦後世代の職員たちは『陛下にお仕えする』というよりも、『国家公務員である』という考え方が先に立ちました。皇室の歴史と伝統についての理解は乏しく、逆に、『国はいかなる宗教的活動もしてはならない』という憲法の政教分離規定を、字義通り厳しく解釈・運用する考え方が、まるで新興宗教と見まごうほどに蔓延し、陛下の側近中の側近である侍従さんまでが祭祀から遠のき始めました」(同インタビュー)。

 宮内庁のみならず行政全体に、政教分離の厳格主義が浸透し、そして宮内庁では、にわかに宮中祭祀の祭式の変更が断行されたのである。

 市井では、津地鎮祭訴訟が争われていた。津市が主催した市体育館の起工式(地鎮祭)に公金が支出されたことの適法性が争われたのであった。2年後の52年7月に最高裁は合憲判決を下したが、かえって行政の神道儀礼離れが促進されていった。

 古来、祭祀こそ天皇第一の務めとされてきた。だが側近らはそうは考えなかった。皇室の伝統より、憲法の規定が優先された。憲法は文字通り「最高法規」なのだった。

 側近たちにとっては、宮中祭祀は神道儀礼であり、神道は特定の宗教だと考えられた。したがって公務員たる職員の関与は憲法に抵触すると怖れたらしい。

 憲法はむしろ宗教の価値を認めているのに、である。従来、政教分離の厳格主義より限定主義的解釈・運用が行われてきたのに、である。天皇の聖域たる祭祀への宮内庁幹部たちの介入は、それこそ政教分離違反の可能性さえ疑われるのに、である。

 側近たちが憲法の規定を優先させ、厳格主義に走り、皇室のみならず日本の歴史の基本に関わる宮中祭祀を改変させた背景には何があるのか、あらためて考えることにする。


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やっと巡り会えた粟の神事 ──滋賀・日吉大社「山王祭」の神饌「粟津御供」 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年6月20日)からの転載です


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やっと巡り会えた粟の神事
──滋賀・日吉大社「山王祭」の神饌「粟津御供」
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 粟の神事にやっと巡り会えました。

 探しに探し続けて、もう何年になるでしょうか。宮中新嘗祭、大嘗祭では古来、神饌に粟が登場します。祭りが天孫降臨神話に由来するのなら、皇祖神に米の新穀を捧げれば足りるはずなのに、米だけではなく、粟が捧げられるのはなぜでしょう。粟とは何でしょうか。

 古代において、民間に粟の新嘗があったことが知られています。民俗学者によると、大正時代の人たちは粟や稗の酒を自家醸造し、ごくふつうに飲んでいたそうです。飲み過ぎるとたちまち悪酔いしたとも聞きます。

 であるなら、各地の神社に粟を用いた祭礼が伝わっていていいはずなのに、意外にも聞きません。いつの間にか消えたのでしょうか。いや、きっとどこかに歴史の断片が残っているはずだと思い、資料を探し続けましたが、残念ながら見つかりません。

 それが昨年の新嘗祭に、都内での集まりでその話をしたところ、「滋賀県大津市の日吉大社にある」と聞き、勇んで文献を探しまくりましたが、やはり見つかりませんでした。

 すっかり落胆し、あきらめかけていたところ、先日、ほかならぬ滋賀県の神社関係者から「粟津の御供」があるということを直接、教えられました。日吉大社御遷座の歴史物語を再現する山王祭に、まさに御鎮座の故事に深く関わる粟飯が登場するというのです。

 私は心の中で快哉を叫びました。


▽1 膳所五社が毎年交代で

 比叡山の麓、大津市坂本には、全国3800社あまりともいわれる日吉神社、日枝神社の総本宮・日吉大社が鎮座しています。約13万坪の広大な境内には、多くの社殿が建ち並び、凜とした空気が張り詰め、大木が林立するなかを巡拝すると、玉砂利を踏む音に境内を流れる谷川や社殿をめぐる水路の水音が共鳴します。

 中世には「社内百八社」の社殿がひしめいていたようですが、もっとも中心的なお宮は西本宮(大宮)と東本宮(二宮)です。

 歴史的により古いのは、地主神・大山咋神(おおやまくいのかみ)をまつる東本宮です。西本宮は、天智天皇が667年に都を近江大津京に遷されたおり、大和国の三輪山から大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請されたと伝えられています。

 1か月半にも及ぶ、勇壮豪快な山王祭のなかで、粟の神饌が登場するのは「粟津の御供献納祭」です。4月中旬の申の日、夕刻に行われます。

 その昔、大己貴神は琵琶湖の八柳の浜に現れました。そのとき沖合を通りかかったのが、膳所(ぜぜ)の漁師・田中恒世の舟で、恒世が大神に、粟を混ぜて炊いた粟飯を差し出すと、大神はことのほか喜ばれました。

 唐崎の地に着いた大神は琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)に、「年に一度、あの粟飯が食べたい」とおっしゃいました。宇志丸は日吉社社家の始祖とされ、この故事が粟津御供の始まりといわれます。

 祭りでは、七社の御輿を乗せた御座船による、七本柳から唐崎への船渡御が行われます。琵琶湖の唐崎沖で、膳所五社の当番神社や日吉大社の宮司らを乗せた一艘の小舟が近づき、接舷すると、湖上で献納祭が始まります。

 小舟には膳所五社が毎年交代で用意した七社分の神饌が整然と並んでいます。献饌の中心となるのが、正方形に成形された、粟飯なのです。

 祝詞の奏上、大御幣の奉幣のあと、日吉神社の宮司が御座船に乗り移ると、御供舟は御座船から離れていきます。その後、粟津の御供は次々と湖上に投げ入れられます。他方、御座船は比叡辻の若宮港に向かい、七基の御輿は大御幣とともに、西本宮へと帰還されるのです。

 こうして献納祭は終わります。

 以上は、地元にお住まいのフリーカメラマン・山口幸次さんがまとめた『日吉山王祭』(サンライズ出版、2010年)のつまみ食いです。さすが山王祭の御輿をかつぐ駕輿丁を長年務められてこられただけに、写真の素晴らしさもさることながら、詳細な祭りの紹介には頭が下がります。


▽2 かつては粟だけだった?

 蛇足ながら、神饌の粟飯について、私の想像を、以下、何点か書き連ねてみます。

 1点は、粟飯の調理法です。山口さんの説明では「雑穀の粟を混ぜて炊いた御飯」とされていますが、山口さんの写真では、白い米の御飯のうえに、黄色い粟の御飯が乗る、二層構造をしているように見えます。

 とすると、「混ぜて炊いた」のではなく、別々に炊いたのち、整形するのではないでしょうか。

 2点目は、「炊く」という調理法ですが、現在、私たちが知る炊飯法の意味だとすると、いまはともかく、古代は別の方法、つまり「蒸す」方法だったのではないかと想像されます。

 というのも、現代の炊飯法は、平安期に始まったとされる、大量のお湯でボイルする煮飯の調理法から進化したものだからです。炊き干し法と呼ばれます。繊細な調理法で、電気炊飯器が発明される前は、主婦にとっては煩いの種でした。

 西本宮が遷座した7世紀の当初から献納祭が始まっていたとすれば、粟飯は「炊く」のではなく、蒸して作られたのではないでしょうか。

 3点目は、「粟飯」は本来、米と「混ぜて」ではなく、粟だけだったのではないでしょうか。

 宮中神嘉殿の新嘗祭や大嘗祭の大嘗宮の儀では、米の御飯(おんいい)と御粥(おんかゆ)、粟の御飯と御粥が、天皇みずからの手で、ともに捧げられます。御飯は蒸して作られ、御粥は煮て作られます。より古い形は、むろん御飯の方です。

 とするなら、山王祭の「粟飯」は、もともとは粟と米の混ぜ御飯ではなくて、粟の御飯、つまり粟の蒸し飯だけではなかったでしょうか。

 4点目は、山口さんが粟を「雑穀」、粟飯を「粗末なもの」と説明されていることへの疑問です。

 粟津御供の始まりを説明する社伝は、恒世が粟飯を大己貴神に捧げた物語と宇志丸が粟津御供を始めるにいたる物語の二部構成になっています。神饌のルーツを考えるなら、より重要なのは前者です。

 日本最古の神社といわれ、大和国の三輪山を神体山とする大神神社(奈良県桜井市大三輪朝)に祭られているのが大己貴神です。山の神にふさわしいのは焼畑農耕の作物であり、米よりも粟であり、粟は神聖な命の糧だったはずです。

 だからこそ、大神は粟飯を心から喜ばれたのでしょう。祭神と神饌にはきわめて密接な関係があります。

 大己貴神を祭るのが西本宮なら、より古い地主神の大山咋神を祀るのが東本宮で、これまた山の神です。古書には「日枝の山」に祀られると記されているようです。

 とすれば、焼畑農耕の粟こそ、日吉大社の山王祭にはふさわしいということになります。

 最後に、貴重な資料を提供していただいた日吉大社の馬渕宮司さま、ご多忙のなか境内を親切に案内してくださった菱川権禰宜さまに、心からお礼を申し上げます。


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「皇室の伝統」は国民主権主義と対立するのか ──朝日新聞の「新元号」関連企画を読む [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年4月21日)からの転載です

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「皇室の伝統」は国民主権主義と対立するのか
──朝日新聞の「新元号」関連企画を読む
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▽1 いまごろ決まった「賢所の儀」

 先週15日の月曜日、宮内庁で第6回大礼委員会が開かれ、践祚の式(賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀)の時刻および式次第が決まりました。

 御代替わりでもっとも重要と思われる儀式が、いつ、どのように行われるのか、一連の「退位の礼」が始まったいまごろになってようやく決まるとは、じつにお粗末です。宮内庁が真っ先に決めるべきことではなかったでしょうか。そして案の定、中身にもまた綻びが見えます。

 公表されているところによると、5月1日午前10時半、ちょうど正殿松の間で剣璽等承継の儀が行われる時刻に、掌典長による御代拝が行われ、御告文が奏され、そのあと掌典次長による皇后の御代拝が続くことになりました。続いて、皇霊殿神殿に奉告の儀が行われます。

 すでに指摘してきたように、今回の御代替わりは譲位に基づき、同日午前0時をもって皇位が継承されるのですから、御代拝ではなく新帝みずから、朝のなるべく早い時刻に賢所の神事は行われるべきでしょう。そして3日間続く賢所の儀のあと、朝見の儀は行われるべきです。

 宮内庁は「前例踏襲」と説明していますが、「前例踏襲」でもありません。前回は諒闇践祚であり、服喪中でした。それでも朝見の儀は3日間の賢所の儀ののち執り行われました。いったい誰が、何を基準に、国家の一大事である皇位継承の儀礼を変更させているのでしょうか。

 さて、遅ればせながら、改元について考えます。

 今月1日、「平成」に替わる新しい元号「令和」が閣議で選定公表された翌日、朝日新聞は「平成から令和へ 新元号のメッセージ」と題する、3人の識者による座談会を載せました。同時に、4回シリーズの連載「退位改元」が始まりました。

 いずれも朝日新聞としては当然なのか、基本スタンスを現行憲法の「国民主権」主義に置いています。つまり、「天皇主権」対「国民主権」という前世紀的な対立図式を前提とし、その結果、千年を超える皇室の伝統に基づく元号とは何だったのか、今後、如何にあるべきか、を掘り下げきれずにいるのではないかと思いました。


▽2 「天皇の大権は存在しない」

 座談会には「日本と中国の古典や歴史に詳しい」3人が登場しています。辰巳正明・国学院大学名誉教授(国文学)、水上雅晴・中央大学教授(中国哲学)、磯田道史・国際日本文化研究センター准教授(歴史学)の3人で、司会は塩倉裕・編集委員です。

 リードにはずばり「天皇主権から国民主権になった今の憲法下では2度目の改元」と指摘されています。テーマは「元号」ではなくて、「国民主権下の元号」なのです。125代続く天皇の「改元」ではなくて、1・5代象徴天皇制での「2度目の改元」なのです。

 つまり、改元の主体は天皇ではなく、国民であり、元号を建てる権限は天皇ではなく、国民にあるというのが前提で、座談会はこれをあたかも自明のこととして進められています。

 そのことは、論点のひとつとされた「元号の決め方」、つまり、決定手続きと天皇の関与、公表の時期などに如実に現れています。

 今回の改元は、有識者会議が開かれ、皇位継承の1か月前に臨時閣議で元号を決定し、「退位」が予定される今上天皇が政令に押印し、公布されるという手続きが採られています。IT社会、ネット社会への現実的対応はむろん必要ですが、皇室の関与なき事前選定・公表は新帝即位に起因する「代始改元」の変質といわねばなりません。

 とくに、前回も同様ですが、皇室の不関与は、もはや建元大権が否定されているかのようです。下剋上の末に朝幕関係を逆転させ、元号は武家が決めるのが当然と主張した徳川家光をも想起させます。いや、明確に否定されているのです。

 朝日の連載「退位改元2」(担当は大久保貴裕、田嶋慶彦、二階堂友紀記者)は、首相が2月に天皇陛下および皇太子殿下に経過説明を試みたことを取り上げ、以下のように「元号について天皇の許しを得ることはあり得ない」と断言しています。

「かつて元号の決定は『天皇大権』で、明治憲法時代の旧皇室典範では明確に謳われていたが、戦後、国民主権の新憲法で天皇が『国民統合の象徴』となり、天皇の政治関与は禁じられた。旧元号制も廃止された」

「元号存続を危ぶんだ神社界など保守派は、戦後に元号法制化運動を展開。1979年に元号法制化にこぎ着けたが、憲法にのっとる形で、法律は『元号は政令で定める』と規定した。天皇大権が存在しないことは明確になっている」

 けれども、首相の行動は、支持基盤の保守派への配慮であるとか、新元号事前公表の認否をめぐる保守派との軋轢の投影というようなもので説明されるべきでしょうか。より本質的な問題は、元号など皇室の長い伝統は、憲法が定める国民主権主義、象徴天皇制と相対立すべきことなのか否か、ということでしょう。

 もし対立しないと考えるなら、首相のような弥縫策ではない、根本的な制度改革が必要になります。靖国問題も拉致問題もポーズだけの首相にできるでしょうか。


▽3 元号を皇室に戻すべきではないか?

 朝日の座談会では、元号の選定方法に関連して、国学院大の辰巳名誉教授が驚くべきアイデアを提案しています。「ネットで案を公表し、国民の意見を聞いてもいいのではないか」というのです。さらに、「天皇と切り離して元号を考えた方がいいと思う。譲位が決まった時点で、次の元号を公表してしまえばいい」とも述べています。

 国民の、国民による改元の提案ということでしょうが、そこまでして、元号を存続させる意味はあるのでしょうか。「天皇と切り離」された元号は元号というべきでしょうか。

 もしかすると、朝日新聞としては、戦前の皇典講究所を前身とする国学院大の名誉教授が主張していることを読者にアピールしたいのかもしれませんが、論より証拠、すでに「天皇と切り離」された改元は、逆にマスメディアに露出し、SNSに投稿を繰り返す「首相のはしゃぎすぎ」現象を生み、批判を浴びています。

 保守政権でさえこうなのですから、かつてのような民主党系の左派政権なら、どんな不都合が起きるのか分かりません。辰巳さんは一方で「政府が統制を進めることの恐ろしさ」を警告していますが、今回の選考過程で漏れ聞こえてくる、さまざまな不具合は、政権のあり方次第ではより深刻さを増すのではないかと危惧されます。すべての国民が使いやすく、政治臭さを拭い去るには、元号を皇室に戻すべきではないでしょうか。

 元号の事前選定公表について、辰巳さんは、「譲位が決まった時点」での公表を提案していますが、事前公表が何をもたらすのか、はすでに事実が証明しています。報道によれば、新しい元号が決定公表されて以降、まだ施行前だというのに、社名に「令和」を用いる企業が続々と現れています。明らかに「退位予告改元」の弊害です。

「一世一元」に関連して、「踰年改元」に言及しているのは歴史学者の磯田さんでした。「踰年改元というやり方もある。この議論が今回、どこまで尽くされたか」「次の改元では、今回のようなやり方をするか、踰年改元にするかの議論はあっていい」と指摘しています。同感です。

 朝日の連載「退位改元4」が言及していますが、共同通信の情報公開請求にもとづいて、2月に開示された公文書によると、前回の改元では、(1)崩御の元日にまで遡る遡及適用、(2)政令公布の即日適用、(3)翌日改元、(4)崩御翌月の踰月改元、(5)踰年改元の5案があり、(2)と(3)に集約されていたようです。

 結局、前回は(3)の翌日改元でしたが、30年前と異なり、IT化が大きく進んだ今日では、現実的に見て、政府が基本方針とした「前例踏襲」はとうてい無理です。とすれば、今回、(4)(5)が検討されてもいいはずですが、磯田さんの指摘どおり、議論が尽くされたとはいいがたいと思います。

 何しろ当初から「退位と改元」がセットで議論され、「退位の翌日改元」が当然視されてきたのでした。そして一方、皇室の伝統重視を掲げる保守派は非現実的な「践祚同日改元」に固執するばかりでした。30年前の政府の方がはるかに柔軟でした。

 そして、政府は「事前公表」という前代未聞の決め方を採ることになったのです。


▽4 なぜ対立すると考えるのか

 そもそも元号とは何だったのでしょうか。

 朝日の座談会では、中国哲学者の水上さんが、「周辺国が模倣し、統治権の正統性をアピールする政治的な道具として用いるようになった。日本もその流れの中で使うことになった」と概説しています。

 しかし以前、井上清「元号廃止論」批判(2018年9月16日)に書いたように、漢字導入や仏教公伝などと同様に、単なるモノマネではありません。模倣なら千年以上も続きません。

 古代中国の皇帝と日本の天皇は異なります。「うしはく」と「しらす」の違いです。中国皇帝はただひとり天壇を祀り、日本の天皇は皇祖神のみならず天神地祇を祀ります。中国では権力は上帝に由来し、皇帝が掌握しましたが、日本では権力は天皇から太政官に委任されました。

 天皇は古来、権力的な支配者ではなく、いちだんと高い立場で国と民をひとつに統合する統治者です。スメミマノミコト、スメラギなどと呼ばれたのはその意味でしょう。

 天皇の建元大権とはそういうものであって、憲法の国民主権主義と対立するものではないと思います。天皇主権か国民主権かという旧い図式にいつまでもとらわれるべきではありません。

 災いを避け、民に幸あれ、と願って建てられる元号はけして国民主権主義と対立するものではないでしょう。さも対立するかのように考えられている背景に何があるのか、をこそジャーナリズムは掘り下げるべきではありませんか。


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皇室祭祀は宮務法上の「皇室内廷の重儀」!? ──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年4月7日)からの転載です

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皇室祭祀は宮務法上の「皇室内廷の重儀」!?
──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 3
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 新しい元号が先週月曜日に閣議決定され、同日、新元号を定める政令に今上陛下が署名押印されました。何度も申し上げてきましたが、事前公表など歴史上あり得ません。これでは代始改元ではなく、さながら退位予告改元です。

 今回の御代替わりで、政府は皇室の伝統の尊重を基本原則の1つに謳い、安倍総理はこの日の会見でも「日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく」と述べていますが、新元号の事前決定公表は皇室の伝統に則するものといえるでしょうか。

 遠く平安時代の「大同」以後、「明治」まで踰年改元が連綿と続き、明治の登極令に基づく践祚同日改元は正確には「昭和」のみで、現行の元号法は践祚同日改元を規定していません。「平成」は践祚翌日改元でした。いまさらながらですが、践祚同日決定、即位礼当日施行がふさわしいと私は考えています。


▽1 天皇は「支配者」ではない

 また、総理会見によれば、今回、閣議決定ののち、宮内庁を通じて今上陛下および皇太子殿下に伝えられたとのことですが、元号選定の過程に皇室が関与しない手続きにも改善の余地があるでしょう。元号制定の権限は歴史的に見て、そもそも天皇に属するからです。

 総理の発議に始まり、閣議による元号の決定は天皇から元号制定権を奪うことになりませんか。年号は武家が定めるべきだと豪語したという徳川家光の時代をも想起させます。

 といえば、現行憲法の国民主権主義に抵触するといった批判が聞こえそうですが、日本の歴史は国民主権の思想が生まれたキリスト教世界の歴史と同じではありません。

 古代中国に起源を持つ元号は「皇帝による時の支配」という考えに基づいていると解説されがちですが、日本の天皇は古代中国の皇帝とは異なります。

 古代の天皇がもっとも重んじた「金光明経」という仏典は「国を治むるに正法をもってし、たとい王位を失っても、生命に危害が及ぼうとも、悪法を行ずるなかれ、善をもって衆生を教化せよ、そうすれば国土は安寧を得る」と教えています。

 古来、天皇は支配者というより、奉仕者なのです。その事を端的に示しているのが、養老律令の「およそ天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」(神祇令)という条項ではないでしょうか。

 さて、久しぶりに葦津珍彦先生と上田賢治教授との間で闘わされた大嘗祭論争について取り上げます。前回の御代替わりを目前に控えた昭和59年に繰り広げられた知られざる論争です。

 これまで当メルマガは、「神道人の議論はなぜ始まったのか」(昨年12月24日)および「葦津先生は『神社本庁イデオローグ』ではない!?」(今年1月30日)を書いてきました。

 神社関係者なら知らない人はいない両先生による論争が、とくに葦津先生の理論が単純に大嘗祭「公事論」とは見るべきでないこと、その根拠として、ホームベースの神社新報ではなく、中外日報に発表されたこと、葦津先生が「神社本庁イデオローグ」ではないことをくどいほど弁明していること、などを指摘しました。

 異常に長い前置きのあと、葦津先生はようやく「皇室の祭儀礼典」(大嘗祭ではない)について書き始めるのですが、果たせるかな、「過去のことについて書く」「将来のことではない」と断りながら、論考は目前に迫りつつある大嘗祭を間違いなく見据えているのでした。

 そして案の定、大嘗祭「公事論」として論争が始まり、その影響を今日に至るまで及ぼし続けることになるのです。


▽2 国務と宮務を区別する井上毅の論

 葦津先生が本論で何を主張しているのか、岩井利夫元毎日新聞記者が著書の『大嘗祭の今日的意義』(昭和63年)で、要点を10点にまとめているので、以下、長くなりますが、引用することにします。

 まず先生は、皇室の祭儀に関する、神社本庁内での過去の議論を取り上げ、その公的性格を指摘します。

(1)「皇室祭儀」について、神道人共通の考え方として、それを「天皇陛下の内廷における私事」と説明してきた政府の一般的解釈論には反対である。初代神社本庁の宮川宗徳総長(注、正確には事務総長)は、講話直後頃、皇室典範を改正し、「皇室の祭儀」を国の法律で国事としたら良いという私見を発表した。

(2)しばらくして吉田茂総長(事務総長)が、皇室典範の改正には同感しがたい。今の時代では不文のままで伝統を守る道を求めた方が良いという修正意見を出した。

(3)いずれにしても神社本庁はこの問題で公式見解を出したことはないが、実際問題として、東宮殿下の賢所での神式結婚式が政府で国事として発表された。政府は「皇室祭儀」を「内廷の私事」と発表することがあるが、陛下のお祭りは陛下個人の御一代の私事ではなく連綿として公に継承されるべきものである。

 次に、先生の議論は、国事、公事、私事の概念の違いへと進み、井上毅の論を紹介して、国務と宮務の区別に議論を発展させます。

(4)国事とか公事とか私事の概念が一般に定まっていない。国の経費を支出することが国事だとするなら、社会公共の事業の多くは国事になってしまう。国費支出が国事というなら今でも皇室祭儀は国事といえる。しかし、国事とはその事を行う主体が国である場合、陛下が象徴という国務上の国家機関として執行なさることが国事だと厳密に規定するなら明治立憲以来、皇室の祭儀礼典は国務上の国事ではなく、宮務法上の「皇室の内廷の重儀」だとする井上毅の説が正しいのではないか。

(5)明治憲法制定の際、第28条(信教の自由)と皇室祭儀との関連でいろいろ議論があり、伊藤(博文)が多数決で可決したため、神祇制度上問題点が残った。明治23年10月10日付で井上毅は意見書を出し、神祇のことを国務上の法律で決めるのは憲法の主義に反する。君主は国務の首長にして、また社会の師表でもあるから、国務は政府に任じ、礼典のことは王室の内事に属すべく混ずべきではないというロジックである。すなわち国政国務は政府と国会との協同によって処理するが、皇室のことは国務圏外の事とし、宮内省は内閣の圏外において国務と宮務の別を立て、この基本方針によって皇室典範が制定された。

(6)明治帝国の法制は国務と宮務を全的に切断し得ない事情があった。伊藤や井上は神器継承、即位礼、大嘗祭などの重儀を国務圏外の事とし、「王家の内事」と感じていたのは明らかである。皇室祭祀令、登極令など皇室祭祀礼典は皇室内の機関によって決められたのは確かで、国政、国務機関としての政府や帝国議会の制作する法律の権限の外にあった。

(7)井上は日本固有の精神を重んじながらも国務論理では徹底してレイカルな国家を目標とした。彼は世俗国家論者ではあったが、その国家を包囲する日本人社会の精神的文化伝統には深い敬愛を表した。彼は皇室の厳たる礼典の法が世俗的国政の場としての国会の法律で定められることを好まなかったのだろう。


▽3 国事でも私事でもない

 葦津先生によると、いまの官僚たちが考える「内廷のこと」と井上毅のいう「世俗圏外の事」とは異なるのでした。そして皇室の祭儀は国事でも私事でもないと結論づけ、国務の排除を訴えるのでした。

(8)「皇室の祭儀礼典は国務上の国事にあらず」との法理論は、現行法の「祭儀は内廷の事」とするのに相通ずるともいえるが、現代の官僚は「内廷の事」を国事ではない小さな私事として解しようとする。これに反し、井上は「世俗的国務圏外」のもの、権力国家の国務を超えた遥かに高貴にして神聖な天下の重儀──公共社会の事と解したのではないか。

(9)祭祀に関する法学説は、いつの時代にも学者間に諸説相対立するが、神道人にとっては祭祀がいかなる心と礼をもって執行されるかという精神事実が第一義で、それを根底に有しない法学形式論は無意味である。

(10)皇室祭儀私事説は理論的にも貧弱で、祭儀を重んずる精神からしても同感しがたい。さればとて、それを国政国務の国事説で堅めるのも適切とは思わない。社会公共の天下の重儀と解するも良く、皇室尊貴の大事と解するも良いではないか。問題は国務の干渉するところにあらざる祖宗の制を厳守する精神の問題である。

 以上、忠実な引用を試みたあとで、岩井氏は次のように批判しています。

(1)葦津氏はもっぱら「神道人」の立場から論じている。

(2)皇室祭儀(大嘗祭に絞っても良い)が国事というも私事というも適切ではない、あえていえば「天下の重儀」「皇室尊貴の大事」で、要は祖宗の大事の制を守り、祭儀を重んじる精神事実にあるという葦津氏の論を否定するつもりはないが、「神道人」ではない一般国民にとっても「天下の重儀」はすなわち「国家の重儀」ではないのか。

(3)そう考えることが祭祀の精神的意義を解しない一般世俗の短絡だと葦津氏が思うなら、遺憾ながら井上毅を持ち出しての葦津論には賛同できない。葦津説は神道人の一部しか納得させられないだろう。

(4)葦津氏のいう「公事」とは具体的にどういうことを指すのだろうか。たとえば、国民から寄付を募り、公益法人の事業とするのか。その場合、大嘗祭の国事性はどうなるのか。


▽4 大嘗祭論ではなく皇室祭儀論

 長くなってしまいましたので、今回は簡単に指摘したいと思います。

 まず、ひとつは定義です。国事とは何か、という葦津先生の問いかけはきわめて重要だと思います。

 今日の議論では往々にして、国事=天皇の国事行為となり、国費の支出問題に転化しています。そのため、憲法の公費支出禁止条項と関わり、政府の介入による皇室祭儀の非宗教化という伝統の改変さえ起きています。

 だから、私事でも国事でもないという新たな論理が必要となるわけですが、結局のところ、天皇にとっての国事と近代国家論における国事とは異なるということではないでしょうか。「天皇に私なし」とする原則からいえば、天皇の一挙手一投足すべてが国事です。

 一昨年6月の衆院議院運営委員会で横畠裕介内閣法制局長官は「天皇の交代という国家としての重要事項」と表現し、御代替わりが全体として国事であるという認識を示していますが、実際には御代替わり全体が「国の行事」とはされていません。

 蛇足ながら、昭和34年の皇太子御成婚における賢所大前の儀は「国の儀式」(憲法7条の「儀式」に該当)と閣議決定されました。「国事」とされたと解する葦津先生の認識は正確ではありません。メディアが「国の儀式」を「国事」と単純化して報道し、そして議論は混乱したのです。いまとは異なり、政府の一次情報に国民がアクセスできない時代でした。

 2つ目は、葦津先生は「皇室の祭儀礼典」について論じているのであり、大嘗祭について論じているのではないということです。

 ところが、葦津説は「大嘗祭公事論」として受け止められることとなりました。そして、前回および今回、大嘗祭には公的性格が認められるという理由から、「皇室行事」という位置づけで国費の支出が行われる、ひとつの論拠ともなったのです。

 その一方で、皇室祭祀のなかの大嘗祭とほかの祭儀一般とのあいだの法的地位の区別、御代替わり行事全般における国の行事と皇室行事との無用の区分というものが生じることになったのは、じつに不幸なことでした。

 なぜそのような議論に曲がっていったのか、今後のためにしっかり検証しなければならないと私は思います。元号も同様ですが、皇室伝統の大嘗祭が行われるのは良かった、では済まないはずです。葦津先生が指摘するように、大切なのは伝統の形式ではなく精神だからです。

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問われているのは民主主義のあり方だ ──御代替わり儀礼違憲訴訟はどこまで正当か 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年3月24日)からの転載です

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問われているのは民主主義のあり方だ
──御代替わり儀礼違憲訴訟はどこまで正当か 3
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 ずいぶんご無沙汰ですが、昨年暮れに御代替わり儀礼違憲訴訟を東京地裁に提訴した市民団体の言い分は妥当なのか、検証を続けます。誤りがあるなら、何が原因なのか、深く掘り下げるのは意味があることだと、私は考えています。

 ご存じのように、この訴訟は裁判所によって二分され、国費支出の差し止めに関しては、門前払いとなりました。東京地裁は口頭弁論も開かないまま、2月上旬、納税者として支出差し止めを要求できるとする原告側の主張に対して、憲法はそのような権利を保障していないとして、却下しました。

 他方、損害賠償の請求に関しては、2月下旬に口頭弁論が開かれ、裁判が進められています。


▽1 何が「明らか」なのか?

 前回は、原告団が作成しているパンフレットの序文について、考察しました。今回は「Q1 『代替わり』ってなに?」です。

 パンフレットは、天皇が交代することが「代替わり」であること、近代天皇制では天皇の死によってしか「代替わり」があり得なかったことなど、皇位継承の基本について、表現がきわめて無機質的であることをのぞいて、正しく理解されています。

 トーンが変わるのはこのあとで、前回の御代替わりについて説明し、「『大喪の礼』と『剣璽等承継の儀』『即位後朝見の儀』『即位礼正殿の儀』は国事行為として行われ、また皇室行事として行われた『大嘗祭』にも国の特別予算が支出されるなど、明らかな政教分離違反が行われました」と述べられています。

「明らかな政教分離違反」とはいうものの、何が「明らか」なのか、あまりにも舌足らずで意味不明です。

 序文では、御代替わり儀礼のうちのいくつかが「まぎれもない宗教的な儀式」とされ、したがって「違憲」と指摘されていました。憲法は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と規定しているからでしょうが、御代替わりの諸儀式、とくにQ1で例示された儀式が、憲法の禁ずる「宗教的活動」に該当するか否かは議論が必要です。けっして「明らか」とはいえません。

 たとえば、占領中に行われた貞明皇后の大喪儀は準国葬と位置づけられましたが、このときの事情について、昭和35年1月、内閣の憲法調査会第三委員会で、宮内庁の高尾亮一・造営部長は次のように証言しています。

「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。ところが、占領末期のせいもありましたが、占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました。貞明皇后の信仰が神道であったならば、神道でやり、国の行事として、国の経費をもって支弁していっこう差し支えない、という解釈を下したことがございます」


▽2 キリストの教えに反しないか

 占領軍は「国家神道」を敵視しましたが、占領後期になると宗教政策も一変し、皇室の祭儀を「憲法違反」などと否定してはいません。むしろ存続を認めました。

 憲法は宗教の価値を否定してはいません。むしろ逆です。原告団にはキリスト者もいるようですが、まさか宗教の価値を否定したいのでしょうか。自己矛盾に陥っていませんか。

 パンフレットのQ1は続けて、前回、「コンサート・芸能などの『自粛』キャンペーンや天皇批判の言論への右翼テロや政治弾圧など、民主主義の根幹に係わる問題も多く発生しました」と厳しく指摘しています。

 皇位の継承が行われる御代替わりは国家の最重要事のはずですが、原告たちにはその認識が欠けているようです。原告団にはキリスト教の牧師先生が参加され、それどころか原告団の事務局は所属する教会に置かれているようですが、キリスト教世界の君主制国家では「自粛」はないのでしょうか。

 数年前、プミポン国王が亡くなって、タイの国民は深い悲しみに暮れましたが、不健全なことなのでしょうか。

 カトリック教会の場合は、人間は指導者を尊敬する義務がある、共同体には権威が必要である、と教えています。先帝崩御の悲しみ、新帝即位の喜びを共有しようと思わないなら、キリストの教えに反しないでしょうか。

 原告たちには、天皇が日本の国と民にとって、歴史的な最高の権威であるというような認識はまったくないようですが、それは原告たち自身の、日本の歴史に対する理解度の問題ではないのでしょうか。

 また、前回は、指摘された「右翼テロ」のほかに、過激派による忌まわしいテロ活動が起こりましたが、Q1には言及がありません。「民主主義の根幹に係わる問題」とは考えないということでしょうか。図らずもテロリストたちとの思想的共通性を浮き彫りにします。


▽3 天皇制は民主主義より劣るのか

 Q1は最後に、今回の御代替わりの経緯について、「民主主義が問われてい」ると批判しています。

「明仁天皇の『生前退位』によって、天皇の死によるのではない『代替わり』が始まっ」たことについて、「天皇自身がそれを発意し、さまざまな意見の違いはあっても、まわりが天皇の意思を忖度して動くことは当たり前になってい」るのは、「国の制度である天皇制が何であるかを決めてよいのは天皇ではありません」というわけです。

 いまだに「生前退位」という表現をとるのは驚きですが、それはともかく、今回の御代替わりは、陛下が「私は譲位すべきだと考えています」と参与会議でおっしゃったことが発端といわれます。

 しかし、現在の法制度では「譲位」は認められておらず、同時に憲法は天皇の「国政に関する権能」を認めていません。このため国会が決議した特例法による「退位」が実現することになりました。

 国会では、衆院は自由党をのぞいて全党賛成、参院では全会一致で特例法が可決されましたが、それは政治家や国民の「忖度」の結果でしょうか。「忖度」だとするなら、「忖度」を導いている背景には何があるのでしょうか。

 憲法は、天皇の地位について、「主権の存する日本国民の総意に基づく」と定めていますが、その国民とは現在、この世に生を享ている国民に限られるべきではありません。憲法は皇位の連続性、国の永続性を認めています。問われているのは逆に民主主義のあり方です。

 古来、天皇は国と民のために祈ることを第一のお務めとされてきました。ご自分が統治する国に飢えた民が1人でもいるのは申し訳ないとのお思いから、毎食ごとに行われた「さば」の行事もありました。民のために祈り、民と命をも共有する天皇のあり方は、多数決原理によって、ときに国を二分させる民主主義より劣る、と原告たちは考えるのでしょうか。

 キリスト者である原告の1人は、かつて天皇の名のもとに戦争政策に協力させられた歴史を批判しているようですが、もっと長い歴史に目を向けてほしいものです。

 天皇の歴史がすべて良かったわけではないけれども、一時の不幸な時代を根拠にすべての歴史を否定すべきではありません。忌まわしい大航海時代の悲劇をもって、キリスト教の歴史を全否定すべきでないのと同じです。

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「退位の礼」はどうしても必要なのか? ──退位と即位の儀礼を別々に行う国はあるだろうか [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年3月10日)からの転載です

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「退位の礼」はどうしても必要なのか?
──退位と即位の儀礼を別々に行う国はあるだろうか
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 先週8日、宮内庁の大礼委員会が開かれ、今上陛下の譲位(退位)に関する諸儀礼の式次第が決まった。もっとも重要なはずの賢所大前の儀はずっと後回しにされてきたが、ようやく4月30日午前10時から斎行されることに定まった。

 ということで、あらためて退位の礼について考えてみたい。


▽1 歴史に存在しない「退位の礼」

 大礼委員会の決定によれば、譲位関連の儀式は、3月12日の「賢所に退位およびその期日奉告の儀」に始まり、4月30日の「退位礼当日賢所大前の儀」「退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀」「退位礼正殿の儀」まで、11の儀式が行われる。

「正殿の儀」のみが「国の行事」、すなわち天皇の国事行為として行われ、ほかは皇室行事となる。いずれにしても、過去の歴史にない新例である。

 4月30日当日の流れを大まかに見てみると、次のようになる。

午前10時 黄櫨染御袍を召された天皇陛下が出御される。掌典長が前行し、侍従が御剣を捧持する。
陛下が賢所内陣で御拝礼、御告文を奏上される。このとき内掌典が御鈴を奉仕する。皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下の拝礼が続く。
この間、皇族方ほか参列諸員は幄舎での参列となる。これが賢所大前の儀である。
ひき続いて、皇霊殿に奉告の儀、神殿に奉告の儀が執り行われる。いずれも御親祭となる。
午後5時 天皇陛下が皇后陛下を伴われて、宮殿松の間にお出ましになる。侍従が剣璽等を捧持し、皇太子殿下ほか成年皇族方が供奉する。総理大臣による国民代表の辞のあと、陛下のお言葉があるのが退位礼正殿の儀である。

 三殿での儀礼は御親祭であることをのぞいて、おおむね翌日に予定される践祚の式(登極令附式)に準じて式次第が定められていることが分かるが、以前から指摘しているように、そもそも「退位の礼」など歴史に存在しない。

 政府は、憲法の趣旨に沿い、かつ皇室の伝統を尊重することを基本方針としながら、「御退位の事実を広く国民に明らかにする」などの趣旨で、退位の式典を創作した。政府の決定に先立って行われた有識者ヒアリングには歴史の専門家も加わっていたが、皇室の伝統の喪失を指摘する歴史家はいなかったらしい。

 その結果、貞観儀式の「譲国儀」などには一体の儀礼として定められている譲位(退位)と践祚(即位)が分離することとなり、30年前、践祚と即位の歴史的区別が失われたことに加えて、皇位継承儀礼は皇室の伝統からかけ離れ、混迷の度をますます深めることとなったのである。

 問題点はいくつか指摘できるが、前にも書いたように、退位礼当日賢所大前の儀は陛下の御親祭とされるのに対して、翌日の践祚に伴う新帝の賢所の儀は御代拝とされるのは、著しくバランスを欠く。

 先帝崩御に基づく諒闇践祚なら服喪による縛りがあるが、受禅践祚なら御親祭であるべきだろう。新帝が賢所の儀は御代拝とし、剣璽等承継の儀(剣璽渡御の儀)にはお出ましになるというのでは、話にならないのではないか。

 5月1日の賢所の儀は、いまだ斎行の時刻が決まっていない。剣璽等承継の儀は午前10時半に始まることが1月の式典委員会で決定しているが、賢所の儀および皇霊殿神殿に奉告の儀はこれに先立って、御親祭で行われるべきではないかと思う。


▽2 皇室の伝統尊重が基本方針なら

 国家の最重要事にこのような混乱が生まれた理由は、といえば、いまさらこんな話をしても始まらないのだが、今上陛下の思召しに始まって、「退位」の認否とその方法論について、法的議論が集中してしまったことに原因があるのではないか。

 とりわけ政府は、「天皇は国政に関する権能を有しない」と定める憲法との整合性に腐心し、お言葉をスタートラインとする皇室典範特例法の立法ではなくて、国民の代表たる国会がみずから天皇の「退位」を実現するという論理の逆転を図った。

 同時に、天皇が皇太子に「譲位」するのではなくて、あくまで特例法に基づく「退位」であるとの姿勢にこだわってきた。国会は皇位継承の特例法ではなく、「退位」等に関する特例法について審議し、内閣は「天皇陛下の御退位と皇太子殿下の御即位」の検討を進めてきた。

 たとえば、菅官房長官は一昨年6月1日の衆院議院運営委で、「陛下のお言葉を今回の立法の端緒として位置づけた場合には、天皇の政治的機能の行使を禁止する憲法第4条第1項に違反するおそれがある」と述べている。こうして退位と即位は最初から分離していたのである。

 とすれば、皇位の御印である剣璽は、剣璽等承継の儀で、今上から新帝に継承されるのではなく、前日の退位の礼で今上が「手放す」こととなり、翌日の剣璽等承継の儀で新帝が「承継」することとなるのである。もはや剣璽は皇室に伝わる御物ではないかのようである。

 これは日本国憲法を「最高法規」とする理屈の世界である。法匪たちの憲法論への傾斜が皇室の伝統を侵し、前代未聞の混乱を生んだのである。

 しかし、「退位の礼」はどうしても必要なのだろうか。

 今回の御代替わりは、皇室典範特例法という法律によって実現されるが、法は法、儀礼は儀礼である。憲法も皇室典範も皇位の連続性を認めている。退位と即位の分離はかえって違憲・違法の疑いを生まないだろうか。皇位の連続性を示すには連続した儀礼こそが望ましい。

 宮内庁は譲位(退位)と践祚(即位)の分離を正当化するために、古典解釈をねじ曲げ、過去に退位の儀礼が行われていたかのような犯罪的な歴史の捏造にまで手を染めているが、連続した譲位=践祚の儀式が行われたとしても、皇位継承は天皇の政治的権能によるのではなくて、法律が根拠なのだから、憲法に抵触することにはならないはずだ。

 皇室の伝統を尊重するのが政府の基本方針なら、譲位と践祚の分離はあってはならない。世界に目を向ければ、君主制の国は少なくないし、近年は高齢の君主が退位するというニュースも聞かれるが、退位と即位の儀礼を別々に行う国があるだろうか。


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御在位30年。毎日、読売、産経社説への違和感 ──象徴天皇、国民主権、平和主義、そして宮中祭祀 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年3月4日)からの転載です

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御在位30年。毎日、読売、産経社説への違和感
──象徴天皇、国民主権、平和主義、そして宮中祭祀
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 先月24日、陛下の御臨席のもと、政府主催の御在位30年記念式典が開かれた。翌日、読売や毎日などの全国紙がお言葉などについて、社説で取り上げているので、読んでみたい。陛下が仰せの「象徴天皇」などについて、各紙の捉え方にどうしても違和感を禁じ得ないからだ。

 最初にお断りするが、ここで扱うのは毎日と読売、産経の三紙である。30年式典は御代替わりを直前にした大きな節目だが、なぜか朝日や日経は社説に取り上げなかった。

 陛下のお言葉は、8分以上におよんだ。

 祝意への感謝に始まり、「戦争を経験せぬ時代」ながら「困難に満ちた」30年を振り返られ、「グローバル化する世界の中」での日本の未来を展望された。また、「憲法で定められた象徴」天皇像への模索について言及され、支持してくれた国民への謝意を表明された。そのあと、被災地の人々や内外の支援者への思いを語られ、最後に国内外の人々への祈りの言葉で結ばれた。


▽1 陛下にとっての「象徴」

 毎日の社説はずばり、「象徴天皇としての責務を自らに課してきた信念と、国民への感謝の気持ちが強く伝わるおことばだった」とつづった。

 社説によれば、「陛下は、象徴天皇制の現憲法下で初めて誕生した天皇である」。陛下は、御即位のときに「『皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす』と表明」されたのであり、「国民主権の時代に『象徴』とはどうあるべきか」「象徴像を懸命に問い続けてきた」のである。

 また、社説によれば、陛下は「平和を求める気持ちを改めて示した」のだった。この30年間は、お言葉にあるように、「近現代において初めて戦争を経験せぬ時代」なのである。

 毎日の社説は、平成の御代を、明治憲法下の戦前期、あるいは昭和の時代とは本質的に異なる新時代だった、という暗黙の前提のもとで書かれていることが明らかである。

 であればこそ、「自分の後継者について『次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています』と語った」ことにされている。

 毎日の社説にとっては、今上陛下は、日本国憲法、国民主権主義、象徴天皇制、平和主義の使徒なのである。

 なるほど一見するとお言葉はそのように読めそうだが、陛下がおっしゃりたいのは違う、と私は思う。重要な部分が抜け落ちているからである。


▽2 歴代天皇の祈りが抜けている

 陛下はただ単に「象徴天皇像を模索」されてきたのではない。

 陛下はお言葉で「即位して以来今日まで,日々国の安寧と人々の幸せを祈り,象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました」と語られたし、お言葉の最後はやはり「我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」という「祈り」であった。

 しかし、社説にはこの「祈り」が完全に抜けている。

 陛下が即位後朝見の儀で語られたのは、「大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし,いかなるときも国民とともにあることを念願された御心を心としつつ,皆さんとともに日本国憲法を守り」であって、単に「憲法を守り」ではない。

 つまり、陛下はご即位以来、歴代天皇と同様に、つねに国民の幸福を祈りつつ、同時に、憲法の遵守を誓ってこられたのである。毎日の社説には、お言葉への国語的読解力とともに、千年を優に超える歴代天皇の祈りの蓄積への認識がまったく欠けている。

 その結果、社説の中身は一面的なものとなっているのではないか。

 社説が指摘するように、陛下はお言葉で「これから先,私を継いでいく人たちが,次の時代,更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め,先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています」と語られ、その前日、御年59歳となられた皇太子殿下は記者会見で「その時代時代で新しい風が吹くように、皇室のあり方も時代によって変わってくると思います」と述べられた。

 毎日の社説はこれをもって、「象徴像は時代状況によって変わる。次の時代にふさわしい象徴像を、新天皇とともに築くのは、主権者の国民である」と結論づけるのだが、「主権者の国民」は125代続いてきた天皇の祈りの重みを理解できないほど愚かなのだろうか。

 陛下が仰せの「象徴像」、そして殿下が仰せの「新しい風」には、何代もの御代替わりを経てきた歴史の重みあるのに、日本でもっとも古い歴史をもつ新聞でさえ、それが理解できないか、理解しようとしない。それこそがまさに、陛下が仰せの「困難」に通じていると思う。

 平成の御代替わりののち、宮内庁は「平成流」を流行らせようとした。そのため、当時、私が関わっていた総合情報誌の編集部に、宮内庁幹部が盛んにアプローチを試みていた。けれども、そのあと陛下ご自身が「平成流」を否定された。今度は「新しい風」なのか。


▽3 「新たな息吹」と憲法との整合性

 読売の社説は、冒頭で「平和の尊さ」を指摘し、式典で陛下の琉歌が披露されたことに言及した。お歌はハンセン療養所でのご体験に基づいている。読売は、毎日が歌が生まれた経緯の解説にとどまったのとは異なり、ハンセン病患者に寄り添う皇室の古来の歴史に触れている。

 歴代天皇と同様に、国民に寄り添い、安寧を祈ることが、「象徴天皇としての姿を体現されてきた」と読売の社説は理解している。毎日とはここが違う。

 読売は他方、皇太子殿下が前日のお誕生日に際して、「国際親善とそれに伴う交流活動も皇室の重要な公務の一つ」と会見で述べられたことに触れ、「平成の象徴像を継承し、新たな息吹ももたらされるだろう」と指摘しているが、憲法との関係について掘り下げることはしなかった。

 日本国憲法は皇室外交を予定していない。憲法に規定される、天皇の国事に関する行為は、「外国の大使及び公使を接受すること」のみであり、積極的な外交上の行為は期待されていない。実際、戦後、天皇の御外遊は答礼として始まった。憲法論議を回避するためだった。

 読売は皇室外交と憲法の規定との整合性をどう考えているのだろう。憲法の規定にはない皇室外交の積極的展開を、手放しで支持するのだろうか。

 そうだとすると、社説が他方で、御代替わり儀式の伝統と憲法の規定との整合性について、厳しく指摘していることと矛盾しないだろうか。

 社説はこう書いている。

「重要なのは、皇室の伝統儀式と憲法の整合性だ。皇位を証す剣や曲玉などを、天皇陛下が皇太子さまに直接、渡したと映らないよう、政府は『退位礼正殿の儀』と『剣璽渡御の儀』を分離した。
 天皇自らが皇位を譲る形式を排したのは、天皇の政治的権能を否定している憲法を踏まえた結果だ。合理的な判断である」


▽4 譲位と即位の分離を憲法は要求しているのか

 読売の社説によれば、国民主権主義と整合させるために、政府は皇室の歴史にない退位の礼なるものを創作したことになる。宮内庁はそのために、貞観儀式などの古典解釈をねじ曲げ、ありもしない退位の儀式を歴代天皇が行ったかのようにリポートしたことになる。

 表現の自由、信教の自由の保障を謳っている日本国憲法は、皇室の歴史の改竄や儀礼の新作をはたして要求しているのだろうか。

 皇室の歴史において、譲位(退位)と践祚(即位)は一体である。剣璽は古代から皇室に伝わる神聖な御物であって、国民を代表する政府に帰属するものではないはずだ。読売の社説によれば、退位の礼ののち、剣璽は総理官邸にでも遷されるのだろうか。

 今回の御代替わりについて、政府は憲法の規定に沿うとともに、皇室の伝統を守ることを基本方針としている。日本国憲法は天皇の政治的権能を認めていない。というより、そもそも天皇の権能とは権力政治を超越したところに存在するのであって、政治を超えた天皇の御位が皇太子に譲られる行為は政治的なのだろうか。

 皇室の伝統に従って皇位継承が行われないことを日本国憲法が求めているのだとしたら、改められるべきはむしろ憲法の規定ではないだろうか。従来、憲法改正の必要性を主張してきた読売は、むしろ問題提起すべきではなかろうか。

 読売は最後に、「新元号」に触れている。「平成改元時の選定手続きを踏襲し、即日公布される。政府は、国民生活の混乱を最小限に抑えるよう、万全の手立てを講じてもらいたい」というのだが、事実認識に誤りはないか。

 手続きだけならまだしも、「平成」の場合は「即日」ではなく、「翌日」の改元だった。近代以後、いや平安以後、歴史上、「即日」改元は「昭和」しかない。登極令に基づく初例となった「大正」の改元は、じつのところ明治天皇崩御の翌日であった。

 今回の場合、「即日」改元なら前例踏襲にはならない。なぜ「即日」でなければならないのか、社説には何の説明もない。


▽5 せっかく祭祀に言及したのに

 産経の社説は、毎日や読売と違い、「国と国民の安寧と幸せを祈る天皇の務め」を強調し、「全身全霊で果たされてきた陛下に感謝を申し上げたい」と述べている。さすがの見識だと思う。

 サイパンやペリリュー、沖縄での祈りに言及し、「沖縄への思いは、昭和天皇から引き継がれている」と指摘したのは、二紙とは一線を画している。

 さらに、「宮中祭祀についても、もっと知っておきたい」と筆を進めたのは立派だが、「陛下は、収穫を祝う新嘗祭などを、厳格に心を込めて執り行ってこられた」は、正確さに欠けるのではないか。

 歴代天皇と同様に、今上陛下が祭祀を厳修されたのは事実だろう。だが、新嘗祭はけっして「収穫祭」ではないと思う。皇祖天照大神への収穫の祈りなら米の神饌で足りるし、実際、賢所での祭祀は稲の祭りである。だが、新嘗祭や大嘗祭は米と粟が同時に捧げられる。

 米だけではないのは、粟の民、粟の神、粟の信仰が前提になっているからであり、米と粟を大前に捧げ、直会なさるのは、収穫を祝う宗教儀礼というより、米の民と粟の民のために祈る国民統合の儀礼だからではなかろうか。なぜ御代替わりに「収穫の祝い」を執り行わなければならないのか、教えてほしい。

 陛下はお言葉で、「グローバル化する世界」についてお話になり、国の将来を見据えられたが、日本はすでに移民社会に仲間入りしている。民族的多様性が急速に現実化するなかで、皇室が果たすべき国民統合の役割はますます増していくということだろうか。

 とすれば、その観点からこそ、天皇の祭祀は再認識されるべきではないか。「収穫の祝い」では話にならない。

 もうひとつ、今上陛下が御即位後、皇后陛下とともに祭祀について学び直され、祭祀の正常化に努められたのは事実だろうけど、御在位20年ののち、側近らの建言をきっかけに祭祀簡略化が起きた。昭和の祭祀簡略化の再来だった。

 ご健康問題、ご公務ご負担軽減が理由とされたが、結果として祭祀のお出ましばかりが削減され、いわゆるご公務の件数は逆に増えていった。ご負担軽減は大失敗だったが、宮内官僚の責任は問われなかった。それどころか、ご負担軽減問題は、皇室の歴史にない「女性宮家」創設のための理由にすり替えられた。

 陛下が「譲位すべきだと思う」とのお考えに至った背景には、ご自身しか携われない四方拝や新嘗祭の簡略化問題があったのではなかろうか。

 毎日や読売と違って、古来、天皇第一の務めであるとされてきた祭祀のついて、真正面から言及した産経としては、ぜひその点を指摘し、掘り下げ、問題提起してほしかった。そこが御代替わり最大のテーマのはずだから。

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