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「大嘗祭は第一級の無形文化財」と訴えた上山春平 ──第2回式典準備委員会資料を読む 13 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月16日)からの転載です

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「大嘗祭は第一級の無形文化財」と訴えた上山春平
──第2回式典準備委員会資料を読む 13
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 政府は、大嘗祭について、「稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」であり、「皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式」だと理解しています。

 この解釈には、何度も申し上げたように、2つの問題点があります。(1)大嘗祭を「稲作の儀礼」と解釈すること、(2)稲作儀礼と皇位継承儀礼とを直結して理解すること、の2点です。

 誤った理解の原因はいうまでもなく、稲と粟の新穀を捧げる儀礼を稲の祭りと見るところにあります。

 なぜそう理解するのか、30年前の議論を、これからしばらく振り返ってみることにします。

 ヒントになるのは、岩井利夫元毎日新聞記者の『大嘗祭の今日的意義』(昭和62年)です。「近来における大嘗祭論議」と題する一章に、何人かの大嘗祭論を紹介しています。

 最初に取り上げられているのは、30年前、政府のヒアリングにも招かれた上山春平元京大教授(同名誉教授。哲学)です。


▽1 なぜ収穫儀礼が皇位継承儀礼となるのか

 岩井氏の本では、上山氏が昭和59年11月に朝日新聞に「皇位継承儀礼は京都で出来るか」を書き、これを受けて週刊新潮が翌月に「Xデー」特集を組んだことを取り上げ、以下のような主張を紹介しています。

(1)大嘗祭は収穫儀礼から皇位継承儀礼となった世界にも例のない貴重なものである
(2)今日、旧典範や登極令の法的根拠がなく、現憲法下では「内廷の祭祀」として行うのがよい
(3)費用は国民の募金で補ってもよい
(4)もしやれるなら京都御所の旧地が相応しい

 上山氏といえば、西洋哲学から日本文化論へと関心を広め、『神々の体系』(正続)、『天皇制の深層』などの著書を残しています。大嘗祭をテーマとした何本かのエッセイは著作集の第5巻に収められています。ここではそのエッセイを読んでみることにします。

「大嘗祭のこと」はまさに昭和59年11月、朝日新聞に掲載されたエッセイです。中身はすでに触れましたが、問題は論拠です。

 上山氏が大嘗祭を収穫儀礼と考えるのは、「この祭祀が、もともと稲の収穫にかかわりがあり、収穫された新穀を、自らも召し上がることを中心とする」ものだからです。

 案の定、粟の存在が忘れられています。宮中三殿の祭祀は稲の収穫儀礼だとして、神嘉殿での宮中新嘗祭、大嘗宮での大嘗祭は米と粟の祭儀であることについて、上山氏は正確な情報を持っていなかったのでしょうか。

『常陸国風土記』には粟の新嘗のことが書いてあり、古代において、少なくとも民間において、粟の新嘗祭があったことが分かります。記紀神話を読み込んだ上山氏がそのことに気づかなかったはずはないと思います。

 もし宮中新嘗祭・大嘗祭が稲の収穫儀礼ではなく、米と粟の複合儀礼であることに気づいたならば、天皇が天神地祇を祀り、米と粟の複合儀礼を年ごとに、そして御代替わりには大規模に、厳修することの意味、つまりなぜ収穫儀礼が皇位継承儀礼となり得たのか、をお考えになったはずです。

 なぜそうはなさらなかったのでしょうか。


▽2 見落とされた戦後史

 上山氏の天皇論で重要なのは、国家機関の二重構造のデザインです。古代中国から律令制を導入したけれども、古代日本ではご本家とは異なり、太政官と神祇官が並立する国家制度が創られたと上山氏は鋭く指摘しています。

 上山氏のこのエッセイによると、二重構造は明治の時代にも採用され、国務法の憲法と宮務法の皇室典範による二本立てとされたのでした。

 だとすれば、近代立憲君主の儀礼たる即位式は国務に属し、伝統的な皇位継承儀礼たる大嘗祭は宮務に属すると解釈してもいいはずなのに、なぜか即位式と大嘗祭は一括して皇室典範に定められることとなったのです。

 ところが、登極令が定められる段階になると、即位式と大嘗祭は不可分の形で完全に国務的な観点から規定された、と上山氏は指摘するのでした。

 なぜそうなったのか、という点についてはさておき、じゃあ、今度はどうするのか、と上山氏は話題を転じ、戦後の皇室典範には即位式の規定も大嘗祭の規定もないと解説し、もし大嘗祭を存続させるなら、即位式と大嘗祭を分離するほかはないと主張されるのでした。

 たとえば、即位式は内閣の関与のもとに行われる「天皇の国事」、大嘗祭は内閣が関与しない「内廷の祭祀」と解するという方法です。

 しかしここでも、上山氏は重要な戦後の歴史を見落としていることが分かります。

 それは当メルマガですでに指摘しているように、(1)皇室典範の改正過程で、占領中ながら、当時の政府は御代替わりの儀礼にいささかも変更はないと答弁していること、(2)昭和22年5月の依命通牒で、登極令や皇室祭祀令の附式が存続してきたこと、(3)昭和50年8月に依命通牒の解釈・運用の変更が密室で行われたこと、です。

 依命通牒は廃止の手続きが行われていないと、のちに宮内庁高官が国会で答弁しているのですから、即位式・大嘗祭は依命通牒に従い、京都で斎行されるべきだ、と上山氏は主張してもよかったのです。


▽3 依命通牒3項を知っていれば

 大嘗祭がどのような形で行われるべきか、上山氏はけっして教条的な立場ではなかったようです。平成の大嘗祭を秋に控えた平成2年1月、京都新聞に掲載されたエッセイでは、以下のように述べています。

「現行憲法が皇位の世襲を認めているかぎり、世襲に伴う儀礼は伝統的な形で継承されるべきだろう。大嘗祭を国事で行うか、それとも宮廷の公的行事もしくは内廷の祭祀として行うかは、さしあたり問う所ではない」

 この前年の11月に「即位の礼準備委員会」の求めに応じて行われた報告でも、上山氏は同じような趣旨で、現実的方法論を訴えたようです。

「皇位継承儀礼は、たとえ成文の規定がなくても、千年以上の伝統を有する不文の慣習として、当然、踏襲されるべきであろう」

「大嘗祭は、伝統的皇位継承儀礼の一環として、現行憲法の第7条第10項に該当する国事として挙行されるべき儀式である、と考えられる」

「今回の大嘗祭は、第2次大戦以来、最初の大嘗祭である。……大嘗祭中断のおそれもないわけではない。今回は国事として行うことに固執せず、宮廷の公の行事であれ、内廷の行事であれ、可能な限り世論の支持を得やすい形で行う道を選ぶほかはあるまい」
(以上、「弘道」平成3年2月)

 上山氏は「皇室の伝統の尊重」を訴えているのですが、依命通牒3項の存在を知っていれば、迂遠な議論は必要なかったのではありませんか。


▽4 目からウロコの史実

 上山氏のエッセイには目からウロコが落ちるような史実と見方が散りばめられていますので、最後に紹介します。

「『養老律令』の『神祇令』とそれに対応する『唐令拾遺』の『祠令』を比較してみると、ほんとうにびっくりします。律令や都城をはじめ、あれだけ唐文明を忠実に受け入れたようにみえるのに、国の祭祀についてはほとんど何も受け入れていないのです」

「(大嘗宮は)本来はクジ(亀卜)で当たった国の中のクジで当たった郡、その郡の住民が造ったんです。その人たちが作ったお米を『抜穂儀』で集めて、それを都まで運ぶ。運ぶ途中も大変な賑わいだったと思います」

「大嘗宮も、同じ人びとが、同じようにして作るのです。祭りの7日前に作り始めて、数日で仕上げることになっています」

「朝廷の一部の官僚たちだけでやっている祭りじゃない」

「祭りのひと月前、10月の末に御禊(ごけい)というのが京都の加茂川あたりであったようですが、それも大勢の人が見物したようです。……京都中の人が、葵祭のときのようにおしかける」(以上、「大嘗祭について」=「神道宗教」神道宗教学会、平成3年3月)

「奈良朝から平安朝初期にかけては、即位礼も大嘗祭も大極殿とその前庭で行われていた。ところが、16世紀あたりから、即位礼と大嘗祭は内裏の紫宸殿とその前庭で行われるようになり、そのしきたりは幕末までつづいた」

「明治の『皇室典範』とその施行規則『登極令』の制定に伴って、……即位礼は旧例通紫宸殿で行われたが、大嘗祭の方は全く前例のない仙洞御所で行われた。……幕末以前は紫宸殿の南庭に大嘗宮を建てていたのである。……大嘗祭の7日前から着工され、祭式がすめば焼却されることになっている」

「幕末以前には、即位礼と大嘗祭のあいだには少なくとも3か月以上の間隔があったので、紫宸殿の南庭で即位礼をすませた後、ゆっくりと間をおいて同じ場所に大嘗宮をつくることができた」(以上、「天皇の即位儀礼」=「学士会会報」平成元年1月)

「私は、かねがね、大嘗祭こそは国の第一級の無形文化財ではないか、と考えている。……これほど重要度の高い文化財の保存について、文化財保存一般に格別の熱意を示す人びとさえも、異議をとなえるのは、なぜだろうか。それは、大嘗祭の解釈をめぐるイデオロギー的な側面に目を奪われて、文化財としての側面への認識がくもらされた結果ではあるまいか」(以上、「2つの無形文化財について」=「文化時報」平成3年5月)
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近代の神祇行政 (略年表) by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 5 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月15日)からの転載です

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近代の神祇行政 (略年表) by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 5
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▽1 仁孝天皇の仏式追祭と神式例祭

・弘化三年一月二十六日崩御、四年二月六日一周聖忌を般舟三味院・泉涌寺で営む。
・文久二年二月二日から六日に十七回聖忌、清涼殿で懺法会、常御殿前庭に下御、泉涌寺山陵を遥拝。
・明治三年一月二十六日 仁孝天皇二十五年祭を神祇官で執行、明治天皇は賢所南庭で山陵遥拝、山陵に勅使差遣、祭典執行、また泉涌寺・般舟三昧院に中山慶子を差遣・代香、以後両寺の勅会法事を廃す。
・明治四年一月二十六日 神祇官神殿で例祭
・同年十月 「四時祭典定則」制定※により、仁孝天皇祭を式年の大祭とする。
 因みに、同時に後桃薗天皇祭と光格天皇祭も大祭とされたことにより、後の皇室祭祀令に規定された「先帝以前三代の式年祭」(大祭)、「先帝以前三代の例祭」(小祭)へと繋がることになり、また神武天皇祭と孝明天皇祭は元始祭・皇大神宮遥拝・新嘗祭とともに天皇親祭の祭祀とされ、これまた皇室祭祀令に採り入れられていることはいうまでもない。

※「四時祭典定則」(及び「地方祭典」)については、改めてここで詳論するつもりはないが、これが皇室祭祀・神宮祭祀・神社祭祀の原型となる近代初の体系的国家祭祀の嚆矢であることはいうまでもない。


▽2 明治初年の神祇行政

(1)神祇官再興と神仏分離に向けての立案と実施
→津和野派国学者と平田派・守旧派公家層との軋礫・構想 (拙著『明治維新と国学者』大明堂、平成 5年、参照)。
・慶応三年十二月九日 王政復古の大号令 幕府・摂関制の廃止、諸事「神武創業」、三職(総裁・議定・参与)による新政府の樹立。
・慶応四年一月七日 神祇事務科 総督有栖川宮、中山忠能、白川資訓 掛 六人部是愛、樹下茂国、谷森善臣→津和野派(亀井茲監、福羽美静、大国隆正)は未だ登場せず。
・同二月三日 三職八局制 神祇事務局の設置(督白川、輔亀井、吉田良義、判事平田鉄胤、権判事植松雅言、谷森、樹下、六人部)→津和野藩主亀井の登場により、津和野派と平田派(矢野玄道等)との軋轢・主導権争い激化。
・同三月十四日 天神地祇誓祭→木戸孝允、福羽美静等の連携により天皇親祭体制を創出。
・同三月十五日 キリシタン邪宗門禁制の高札→浦上キリシタン問題による国民教化政策、信教自由問題が出現する端緒となる。
・同三月十七日 別当・社僧の還俗令。
・同三月二十八日 仏号による神号廃止、仏像の神体廃止。
・同四月十日 神仏分離による社人の粗暴を戒め、廃仏毀釈の趣旨ではないことを告知。
・同四月二十二日 浦上キリシタン処分を説諭で行うことを告知。
・同四月二十四日 菩薩号廃止。
・同閏四月四日 キリシタン宗門と邪宗門を改めて区別して禁制を掲示。
・同閏四月四日 還俗の別当・社僧は神主・社人と称し、還俗しない者は神社退去
・閏四月十七日 キリシタンの諸藩お預け
・閏四月二十一日 政体書神祇官の成立(律令二官制ではなく、太政官を議政・行政・神祇・会計・軍務・刑法の七官に分ける)→古代の神祇官・太政官再興を目指す守旧派勢力と志士官僚・津和野派等との駆け引き・抗争がこれ以降激化する。
・同六月二十二日 真宗各派に神仏分離は「廃仏」ではないことを改めて告知。

※戊辰戦争、大阪行幸、即位式、改号(一世一元の制・「明治」)、東京行幸、氷川神社御親祭など明治元年には多くの出来事があり、かつ未だ国内は不安定な時期であったのであり、各府藩県の地方官が中央政府の意向を無視した政策・行政を執行した
→各地の「廃仏毀釈」も地方官の行政を無視しては語れないことに注意。東京行幸、東京の「帝都化」(武蔵一宮氷川神社御親祭の有する意義)、東京・京都の主導争いを巡る神道家・国学者同士の角逐が神祇・宗教行政にも影響を与える。
 これは、明治二年まで持ち越され、再度の東京行幸 (途中、史上最初の神官親拝)と戊辰戦争の終結により、ようやく新政府は少しく安定した体制となる。

(2)神祇官・宣教使による神道政策
・明治二年七月八日 神祇官・太政官再興
→神祗官は祭典・諸陵・宣教・祝部・神部を管掌することになり、古代の神祇官と異なり、山陵祭祀と神道(惟神の大道)を国民(キリシタンは無論)に教導する宣教という新たな使命を有して発足(伯・中山、大副・白川、少副・福羽、大祐・北小路隋光、権大祐・植松、少祐・小野述信、平田延胤)。
 ただし、この時点では守旧派と津和野派等の痛み分けであり、これ以降、祭政一致体制を巡って激烈な主導権争いが展開する。
・同年九月十七日 諸陵寮設置→後の宮中三殿の皇霊殿と共に山陵祭祀による皇室の「敬神崇祖」の基盤となる。
・同年九月二十九日 宣教使官員設置→次官・福羽美静が主導権を握り、宣教使教官として多数の国学者を動員するが、教義・思想・学問的系統の相違等で内部統一が不能となり、国民教化を実施するまでに至らなかった。これが、仏教勢力を動員した国民教化政策への転換の要因となる。
・明治三年一月三日 神祇官神殿(東座・天神地祇、中央・八神、西座・歴代神霊)で祭典を執行し、「宣布大教詔」が出される。※明治五年からの元始祭の原型となる。
・同年八月九日 民部・大蔵を分省し、民部省に社寺掛を設置→同年閏10月 20日 に寺院寮と改制。
・明治四年一月五日 社寺領上知令。
・同年五月十四日 神社は国家の宗祀であり、社家の世襲禁止。社格制定。
・同年七月四日 郷社定則、氏子取調規則(六年二月二十九日施行停止)。
・同年七月十二日 神宮改革(内外両宮の差等、御師大麻廃止等)。
・同年八月八日 神祇官廃止、神祇省設置。宮中祭祀要員として大中少掌典等を置く。
・同年九月十四日 神器・皇霊の宮中遷座(近代皇室祭祀の原点)。
・同年十月二十九日「四時祭典定則」制定。
・同年十一月 大嘗祭、東京で斎行。
・同年十二月二十二日 神宮大宮司による神宮大麻の頒布。同日、左院は伊勢神宮の神器奉遷や教部省設置などを建議。宗教は教部省、祭祀は式部寮に分掌することが狙い。なお、左院が主張する神宮遷座論はその左院が廃止されるまで執拗に唱えられた。

※明治元年(慶応四年)三月の神仏分離以来、各地で廃仏毀釈が勃発し、それに危機感を抱いた各宗の僧侶たち(福田行誡・鵜飼徹定など)が明治元年12月に「諸宗同徳会盟」を結成したことは辻善之助以来著名であるが、その辻は「神仏分離・廃仏毀釈」に触れて、以下のように述べている。

「神仏分離に伴ふ廃仏は、その弊害ばかりでなく、一面に於て多少の利益をも齎したといはねばならぬ。即ち僧侶の不健全なる分子を篩ひ落し、之を淘汰した。之により、教界における一種の浄化作用が行はれた。僧侶は惰眠より覚めたのであつた。
 若しかの処分がなかつたとするならば、その結果は如何であつたであらうか。生温い保護を明治政府が仏教界に与へて居たとしたらば、如何であらうか。仏教界は全くその活動力を失ひ、中風患者の如くなつたであらう。江戸時代における僧侶は、最早世間より全く厭き果てられ、棄て去られ、心ある者よりは指弾せられ、軽賤侮蔑の的となつて居たのであるから、明治時代になつては、尚甚だしく、全く世に歯せられざるに至り、仏教の衰微の極に達したであらう。」(『明治仏教史の間題』、立文書院、昭和24年)

 これに対し、柏原祐泉はこう述べている。

「また翌年(三年)八月、浄土宗浄国寺徹定の公挙議案中に、「朝命」で各宗学徳端潔な者二、三名を選び、「暁諭師」として巡廻、策励させることなどの文献をみると、朝権による教団再建の意図が明らかにうかがえる。
 したがって、会盟の議題の多くに再出発の理想的な項目が並んでいても、その主体的・自主的な実体化への努力は期待しがたく、特に旧態からの脱皮による自覚的仏教の確立などはのぞむべくもなかった。
 したがって所詮は護法・護国・防邪の一体観に集約されることになるが、しかし近代の出発点に当って、まず諸宗が連帯した会合で、右のようないくつかの自省的議題を懸げえたことは、近代仏教の刺戟となったことを認めてよいであろう。」(『日本仏教史 近代』、吉川弘文館、平成2年)

 このように、「諸宗同徳会盟」の意義についてはそれなりの評価がなされているのであるが、いわゆる狂信的な神道家・国学者による「神仏分離」=「廃仏毀釈」=「法難」という図式的理解で、明治初年の宗教政策が割り切られるものではないことだけは明らかであろう。


▽3 教部省・式部寮による国民教化運動と国家祭祀再編成

 左院建議などを受けて、明治五年三月十四日に設立された教部省が、我が国におけるはじめての近代的かつ本格的な宗教行政専門官衙であったことはいうまでもないが、その最大の歴史的意義は、教導職制・大教院体制による神仏宗派(教団・宗教団体)の近代的再編及び創設であろう。

 また教部省設置とともに旧神祇省の祭祀関係事務を継承した式部寮が明治八年制定の「神社祭式」制定に尽力したことは、周知の通りである。

(1)国民教化運動関係
・明治五年三月 神祇省廃止・教部省設置、祭祀関係事務は式部寮管轄
・同年四月二十五日 教導職設置。
・同年四月二十九日 神官教導職東西に区分。
・同年四月三十日 神仏各教宗派に教導職管長設置。
・同年六月十日 神宮大麻頒布の地方官関与を督励。
・同年八月八日 すべての神官、教導職兼補。
・同年十一月二十四日 大教院建設、全ての神社・寺院を小教院として氏子・檀家を教導。
・明治六年一月七日 法談・説法を「説教」に改称。
・同年一月十五日 梓巫市子憑祈祷狐下げの禁止。
・同年一月三十日 神道東西部廃止、一般に「神道」と呼称。
・同年二月十日 神官・僧侶以外も教導職に薦挙。
・同年二月二十二日 切支丹宗禁制等の高札撤去。
・同年三月十四日 大教院事務章程・教導職職制制定。
・同年十月二十日 大教院規則を制定し、「敬神」の実を挙げるため、教院に造化三神・天照大御神を奉祀。

※以後、教部省は大教院での神仏教導職による三条教則の合同布教を推し進めようとしたが、島地黙雷らの強力な反対運動などにより、明治8年5月3日には4月30日付け教部省宛太政大臣三条実美の発書を受けて大教院での神仏合同布教が差し止められ、同年11月27日には神仏各管長宛に「信教自由の口達」が発出された。

 この大教院解散により神仏教導職は各派独自の布教体制を布くことになり、神道教導職は神道事務局を創建、明治9年1月には三部(第一部大教正千家尊福、第二部久我建通、第三部稲葉正邦)、同年10月23日には第四部を設け、大教正田中頼庸を引受(管長)とした。

 また同日付けで黒住講社を神道黒住派、修成講社を神道修成派として別派特立を許可した。これらの一連の措置によって、教部省はその役割を終え、信教自由・政教分離論が台頭する中、十年一月にはその事務を内務省社寺局が継承することになるのである。

 なお、教部省時代の宗教政策については、かつて「日本型政教関係の形成過程」(井上順孝・阪本是丸共編著『日本型政教関係の誕生』、第一書房、昭和62年)で、やや詳細に触れたことがある。

 私の結論としては、明治初期における政府の宗教政策の基本は、仏教を排斥するものではなく、あくまでも啓蒙的専制主義とでもいうべきものであったと理解すべきである。

 無論、政府といっても、一枚岩ではなく、政府内部の力関係によって、当の宗教政策や行政が揺れ動いたことは事実である。

 実際、その「事実」を検証することなく、あたかも政府(国家)が明治維新以来、「直線的な神道国教化」政策を推進し、神祇官時代には「廃仏毀釈」、教部省時代には「信教自由・政教分離無視」の政策と行政を進めてきたかのような論が存在したのであるが、政府部内には「神道一辺倒」だけではない分子やグループも存在したのであり、それを考慮した考察が必要であろう。

 さらにいうならば、教部省時代の政策が仏教の「伝統的しきたり」を打破するものが多 かったことは事実であるが、それを「神道寄りの政策・行政」と一概に決め付けることはできない。

 例えば、明治五年三月二十七日の「女人結界廃止・登山参詣自由」や同年四月二十五日の「肉食妻帯蓄髪自由」、六月十二日の「神宮・神社、僧尼参詣自由」などの布告は、当時の「開化政策」を抜きにしては語れない。「宗教史」の観点だけでは限界があろう。

(2)国家祭祀制度関係
・明治五年三月十八日 元神祇省鎮座の天神地祇・八神を宮中に遷座 (当分の間、賢所御拝所に鎮座)。
・同年六月十二日 神宮・神社祭典への僧尼参詣許可。
・同年六月十八日 大祓再興、祓式制定(大正三年時とは相異あり)。
・同年十一月九日 太陰暦を太陽暦に変更、以後祭日等に影響す。
・同年十一月十五日 神武天皇即位日を祝日とし、祭典執行を布告(六年一月消滅)。
・同年十一月二十七日 宮中八神殿の天神地祗・八神両座を合併、神殿と称す。
・明治六年一月四日 祝日改定、五節供を廃し、神武天皇即位日・天長節を祝日とす。
・同年二月十五日 神宮を除き、官幣諸社祭典には式部寮官員参向せず地方官参向とす。
・同年三月七日 神武天皇即位日を紀元節と称す。
・同年三月 式部寮、官幣諸社官祭式制定。
・同年七月二十日 改暦により歴代皇霊・神宮以下諸社祭日及び祝日改定。
・明治八年三月 式部寮神社祭式制定、近代国家祭祀の雛型となったことは周知の通りである。


以下、おまけ。明治後期・大正期・昭和前期の神社関係法令等(抄出)

・明治三十九年 官国幣社経費に関する法律、府県社以下神社の神饌幣帛料供進に関する勅令
・明治四十年 神社祭式行事作法
・明治末年から大正初年にかけての神社合祀
・明治四十一年 皇室祭祀令
・明治四十二年 登極令
・明治四十五年 神宮神部署官制(三十三年の神部署官制を改正)
・大正元年 神官神職服制
・大正二年 神社の祭神・神社名・社格等に関する総合的法令、神職奉務規則、宗教局を文部省に移管
・大正三年 神宮祭祀令、官国幣社以下神社祭祀令、官国幣社以下神社祭式
・昭和三年 神宮大麻及暦頒布規程
・昭和七年 学生生徒児童の神社参拝
・昭和十四年 招魂社を護国神社と改称、掌典職官制
・昭和十五年 宗教団体法施行(制定は前年)、神祇院官制
・昭和二十年 神道指令、宗教法人令(二十一年二月「神社」追加)
・昭和二十一年 神社本庁設立、神社新報創刊(現在に至る)。(完)


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。
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近世における皇室と幕府と神社の制度 by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 4 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月14日)からの転載です

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近世における皇室と幕府と神社の制度 by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 4
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▽1 信長・秀吉・家康と神社

 織田信長、そして豊臣秀吉の出現によって、ようやく長い戦乱の時代にも「天下統一」による平和な社会への兆しが見え、日本の歴史は確実に新しい時代へと動きつつあった。いわゆる織豊時代は短期間ではあったが、それまでの中世的社会を大きく変換させ、約二百年にも亘る「封建時代」の幕開けを準備した時代であった。

 神道と神社の歴史も、織豊時代の到来によって一大画期を迎えた。

 このことについて、近代における「神道史学」を樹立したと評価される近代切っての神道史学者宮地直一は、「戦国の末期に出でて覇業を樹てし織田氏と、その後を承けて之を完成せし豊臣氏との二代は、その間三十年の短日月に過ぎざりしも、後に徳川氏の巧妙なる政策を産むに至らしめし準備の期に属し、その史上に於ける価値や甚だ軽からざるなり。」と述べている。

 次いで、信長、秀吉の伊勢神宮など神社に対する「敬神」の念があったことを指摘しつつも、秀吉が旧来の有力神社・社家の勢力を削ぐ政策を採ったことを、筑前・宗像社、肥後・阿蘇社を例に挙げて論じ、これを一種の「政教分離策」としている。

 そして、この「政教分離策」は土地制度の変革に明瞭に示され、「由来久しき庄園の制も亦事実上その終を告げて、近代の知行制度に地位を譲」ったことにより、旧来の社寺の政治的社会的勢力は大幅に低下することになったと宮地は述べている。(『神祇史綱要』明治書院、大正八年)

 信長、秀吉の出現によって、神社の制度は大きく変容を余儀なくされ、その実力は昔日の比ではなくなったのであるが、他方では神道・神社の新しい在り方を齎した。その象徴が「英雄」を祀る神社 (霊廟)の出現であり、豊国廟や東照宮※の創建・建立がそれである。

※幕末の慶応元年二月、孝明天皇は徳川家康三百五十回遠忌に際して奉幣され、宣命を認めておられる。その宣命には家康の功績を称え、「天皇朝廷が宝位動き無きこと・文教倍盛・武運長久」をお祈りになる文言が認められている。
 家康の式年の遠忌 (「祭礼乎修行」である!)ですら孝明天皇は大切にされたのであり、神武天皇以来の歴代に対する「追孝の叡慮」が皇霊祭祀として神式で執行されたとしても何ら不自然ではないだろう。

(1)豊国廟の建立と退転
慶長三年(1598) 豊臣秀吉死去。
同四年 方広寺東方阿弥陀雅峰西麓に廟所仮殿完成、遺骸を山頂に埋葬。廟所を方広寺の鎮守とし、後陽成天皇から「豊国大明神」と神位正一位を贈られる。
同九年 秀吉七回忌に際し、盛大な臨時大祭を執行。
※豊国社社務には吉田兼見、神主にはその孫萩原兼従が就任し、その弟梵舜は神宮寺の社僧となった。社領は一万石、社域は二十万坪と盛大・栄華を極めたが、元和元年(1615)に豊臣氏が滅亡してからは社殿の方広寺移転、社殿大破、修理不許などにより、明治維新に際して再興されるまで退転したままであった。

(2)東照宮の建立
元和二年(1616) 徳川家康死去。遺言により久能山に神葬、翌年「東照大権現」の神号が贈らる。次いで翌年日光山に社殿を造営、遺骸を日光山に移して正遷官を執行。
寛永十二年(1635) 家光により大造営が行われる。
正保二年(1645) 後光明天皇の宣旨により東照社を東照宮と改称。
同三年 臨時奉幣使が差遣され、以後「日光例幣使」として幕末に至る。
明暦元年(1655) 輪王寺宮門跡創設、後水尾天皇皇子尊敬(守澄)親王が上野と日光の門主として下向。以後、慶応三年の最後の宮門跡能久親王まで続いた。
※宮地直一は日光東照宮建立と家光の大造営の意義について、以下のように特筆大書している(前掲『神祇史綱要』)。
「そもそも本社の創立は平々坦々たる三百年の治下に於て、最も目醒ましき唯一の事件なり。山水の景勝と相俟ちて建築の秀麗華美を極めたる、朝幕の待遇の鄭重にして上下の畏敬したる、将たその経済上他に冠絶せる位置に居る等、之を何れの点よりするも他に比儔(人偏に壽)あるを見ざるなり。
 蓋しこの事たる豊國廟の故事に倣つて起り、秀吉の遺策をして果を結ばしめし感なきに非ずと雖も、かく全力を尽くして経営せられたる未曾有の壮観に対しては、自から人心も吸引せられ、諸侯も威圧せられしなるべく、以て三代将軍の敬虔なる真情に伴ふ政策の一端をも窺知するに足るものあるべし」


▽2 朝儀復興・神社政策をめぐる朝廷と幕府

 後陽成天皇から後水尾天皇 (上皇)の時代は、徳川幕府もようやく安定期に入り、天皇・朝廷との安定的関係を模索した時期であったが、それはあくまでも幕府主導による朝廷統制を主眼とする関係の構築であった。禁中並公家諸法度の制定はその具体的政策であった。

 幕府は二代将軍秀忠の女(むすめ)和子を後水尾天皇に入内させ女御・皇后としたが、後水尾天皇は未だ三十半ばの在位二十年足らずでその所生の興子内親王(明正天皇)に譲位し(寛永六年)、幕府(武家)の朝廷統制に対する抗議の意思を表明したことは良く知られている。

 しかし、 天皇の真意・意図はともかくとして、中世以来衰微していた天皇・朝廷が幕府の存在によつて安定したことは朝廷自身も認めざるを得ない事実であり、元和三年に徳川家康に「東照大権現」の神号を贈り、「天下昇平・海内静謐」を祈願した。

 以降、朝廷と幕府は持ちつ持たれつの関係で推移したが、結果的には天皇・朝廷の権威が幕府の権力を凌駕して明治維新に至ったことはいうまでもなかろう。

 いずれにせよ、以後の朝幕関係の推移を考える上で、八十五歳という当時としては稀な長寿を保った後水尾天皇(上皇)の存在意義は大きかったと言えよう。

 因みに、稀と言えば、後水尾天皇の皇子女のうち明正(第二皇女)・後光明(第四皇子)・後西(第人皇子)・霊元(第十九皇子)の四人の各天皇が即位しているというのも稀有であるが (通算在位約六十年)、いずれの天皇も文化・学芸に長じ、朝儀復興にも尽力していることは周知の事実であるが、ここでは省略に従う。

(1)禁中並公家諸法度の制定(元和元年。1615)
1条 天皇の務めは第一に学問をすること、
2条 親王の座位は太政大臣・左右大臣の下とすること、
3条 清華家の大臣辞任後の座位、
4条・5条 三公・摂関の任免、
6条 女縁養子の禁止、
7条 武家官位を公家当官の外とすること、
8条 改元のこと、
9条 天皇以下公家の礼服のこと、
10条 公家諸家の昇進のこと、
11条 公家の罪刑のこと、
12条 名例律による罪の軽重のこと、
13条 摂家・宮門跡の座位、
14条・15条 僧正・門跡等の叙任、
16条 紫衣勅許の制限、
17条 上人号の制限
一 天子御藝能之事。第一御學問也。不學則不明古道。而能致太平者未有之也。貞観政要明文也。寛平遺誡雖不究経史。可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶。雖為綺語。我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄。御修學専要侯事。

(2)後水尾天皇(上皇)と「敬神」
一、敬紳は第一にあそはし候事候條、努々をろそかなるましく候、禁秘抄発端の御詞にも、凡禁中作法、先神事、後に他事、旦暮敬神之叡慮無解怠と被遊候歟、佛法又用明天皇信しそめさせ給候やうに、日本紀にも見え候へは、すておかれたく候 (「後水尾上皇宸筆教訓書」)
一、禁中は敬神第一の御事侯へは、毎朝の御拝、御私の御懈怠、且以不可有之事 (同上)
※後水尾天皇は、慶長元年(1596)に後陽成天皇の第三皇子として誕生。同十六年(1611)即位、寛永六年(1629)紫衣事件を契機に譲位し、明正天皇(女帝・第二皇女)が即位。同二十年、後光明天皇即位 (第三皇子)、明暦二年(1656)後西天皇即位(第七皇子)、寛文三年 (1663)霊元天皇即位 (第十八皇子)、延宝八年(1680)崩御。

『後水尾院当時年中行事』
「順徳院の禁秘抄、後醍醐院の仮名年中行事などいひて、禁中のことどもかかせ給へるものあり。 寔(まこと)に末の亀鑑也。
 されど此頃のありさまに符合せず。其ゆゑいかなれば、世くだり時うつり、且は應仁の乱より諸國の武士おのれおのれ力をあらそひて、社領、寺領、公私の所領を押領する事、かぞふるにいとまあらず。
 これより此方、宮中日々に零落して、ことごとく保元建武のむかしに似るべくもあらず。……御禊大嘗會其外の諸公事も次第に絶えて、今はあともなきが如くになれば、再興するにたよりなし。
 何事も見るがうちにかはり行く末の世なれば、せめて衰微の世のたたずまひをだに、うしなはでこそあらまほしきに、それだに亦おぼつかなくなりもてゆかん事のなげかしければ、見て知り、聞きて知る人の、たどたどしき事にはあらねど、思ひ出づるにしたがひて、書きつけ侍りぬ。うとき人には、ゆめゆめ見せしむまじきものにこそ。」(序)
「四月朔日……此月諸社の祭多けれど、今は然せる神事も無し。後奈良院御記天文の頃等迄は、日吉の祭の神事なり等見えたれど、此頃は紳事の沙汰も無し。賀茂の祭の日は社司共葵を献ず。葵七葉を連ねて、桂の枝に付けて簾の壺に挿す也。一?に二處づつ懸くるなり。
 五月八日 今宮の祭なれば、安家物忌の符を進上す。
 六月七日 祇園會なれば安家の物忌の符を進上す。」(上)
「一 禁秘抄賢所云、白地以神宮並内侍所方不為御跡云々。今以堅守らるる一ヶ條也。
 一 佛神に供したる物参らず。」(下)

(3)中絶祭祀の再興
正保四年(1647) 伊勢例幣使再興(前年に日光例幣使)
延宝七年(1679) 石清水社放生会再興
貞享四年(1687) 東山天皇大嘗祭再興(次の中御門天皇は不執行)
元禄七年(1694) 賀茂祭再興
元文三年(1738) 桜町天皇大嘗祭、以後、今上天皇に至る。
同五年(1740) 天皇親祭新嘗祭
延享元年(1744) 上七社(伊勢・石清水・賀茂下上。松尾・平野・稲荷・春日)奉幣再興、宇佐・香椎奉幣再興

(4)諸社蒲宜神主法度の制定(寛文五年。1665)
一 諸社之禰宜神主等、専学神祇道、所其敬之神体、弥可存知之、有来神事祭礼弥可勤之、向後於令怠慢者、可取放神職事
一 社家位階従前々以伝奏遂昇進輩者、弥可為其通事
一 無位之社人、可着白張、其外之装東者、以吉田之許状可着事
一 神領一切不可売買事 附、不可于質物事
一 神社小破之時、其相応常々可加修理事、附、神社無懈怠掃除可申付事
 右条々可堅守之、若違犯之輩於有之者、随科之軽重可沙汰者也


▽3 吉田家の神社・神職支配

 室町時代末期の吉田兼倶以来、吉田家は神祇伯家白川家と共に「神祇道の家元・神祇管領長上」として明治維新まで全国の神社の上に君臨した。殊に、上記「諸社禰宜神主法度」の発布以降、その勢力を増大させ、しばしば白川家と争った。

 吉田家はその神道思想や活動をめぐって近世には毀誉褒貶の著しい家であるが、全国各地の神社・神主を天皇・朝廷と結び、天皇尊崇の念を普及させた功績は大いに評価されて然るべきであろう。

(1)神道裁許状・宗源宣旨
・武州入間郡川越村氷川明神之禰宜山田丹後掾久次 恒例之神事参勤之時 可着風折烏帽子狩衣者 神道裁許之状如件
  寛文元辛丑年間八月十九日
神道管領長上卜部朝臣兼連
・宗源 宣旨
 正一位氷川明神
     武州入間郡川越町
右奉授極位者 神宣之啓状如件
  享保元年八月十六日 神部伊岐宿禰宜
神祇道管領勾当長上従二位卜部朝臣兼敬
・武蔵国一宮氷川大明神之巫女墨田 恒例之神事神楽等勤仕之時 可着舞衣者 神道裁許之状如件
  延宝四年五月廿二日
神祗長上

(2)吉国家執奏による天皇宣旨
・延宝四年、氷川女体社神主武笠豊良に風折烏帽子・狩衣の裁許状
・宝永三年、嘉隆が東山天皇より従五位下、丹波守の宣旨を受けている。
・武州足立郡氷川神社之神主佐伯嘉隆 今度丹波守従五位下 勅許 冥加之至也 弥国家安泰之御祈祷不可有怠慢者 神道啓状如件
  宝永三年四月三日
    神祗道管領長上従二位卜部朝臣
・宝永三年四月九日付けで、嘉隆は吉田家家老に宛てて「今度以御執 奏 丹波守従五位下首尾能 勅許 冥加之至奉存候」と御礼言上している。

(3)吉国家以外の公家による執奏
・全国の神社の多くは吉田家や白川家の支配下にあったが、これ以外の有力大社など少数の神社は諸公家が執奏していた。例えば、宇佐八幡宮は鳥丸家、石清水八幡宮は廣橋家、出雲大社は柳原家、香取神宮は一条家など (『雲上便覧大全』、慶応四年)。
 しかし、明治維新に際して新政府の神祇事務局は慶応四年(明治元年)三月十八日「神社執奏支配之儀自今於神祇事務局取扱被 仰出候間執奏之儀被止候事 但神宮賀茂伝奏此迄通之事」と達し、同十九日には諸公家に対し「是迄諸神社執奏被成来之御家来より其社名御書記し来る二十二日限り弁事局へ御申達被下度事 但別当之神社も不洩様御申達被申候事」と達した。これによって、吉田家等による全国の社寺支配は終止符を打ち、神仏分離政策とともに近世の神社制度は崩壊したのであった。

(4)幕末期神社における「神仏併存」状態
・石清水八幡宮、北野天満宮等の宮寺は勿論の事、近世の多くの神社は所謂「神仏習合」の形態・状況にあり、多くの神社に神宮寺等があって別当・社僧なども奉仕していた。
 明治元年十月に明治天皇が行幸・親祭された武蔵一宮氷川神社も同様で、元禄頃には岩井、東角井・西角井の社家の他に、一寺四院(観音寺・大聖院・愛染院・宝積院・常楽院)があり、社領は300石であった。
 その内訳は、125石が修理料、40石が本地堂灯明料、75石が社家(25石づつ)、60石が供僧(観音寺20石、他は10石づつ)であった。
 因みに、石清水社の「神号」は「八幡大菩薩」が一般的であったが、社名に関しては「石清水八幡宮」と記される場合もあった。
※京都廬山寺蔵の後伏見天皇の元亨元年十月四日の石清水社への「宸筆御願文案」には、「かけまくもかしこきいはし水のくわう(皇)」大神のひろまへに、おそれみおそれみも申したまはくと申、胤仁わが神ながれをうけて、あまつ日つぎいまにたへず、そ(祖)王のしやうちやく(正嫡)として」云々とある。
「神が主、仏が従」であることは歴代天皇の「大御心」としての大原則であり、まず七社(伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日)が先であり、七寺(仁和寺・東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺・東寺・広隆寺)が後なのである。(つづく)


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。
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「現神」としての歴代天皇の敬神 by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月11日)からの転載です

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「現神」としての歴代天皇の敬神 by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 3
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▽1 もしも神仏判然令がなかったら

 約百五十年前の明治維新によって日本の政治・経済・社会・文化・宗教などあらゆる分野・側面で大きな変革がなされたことは疑間の余地がない。それは我が神社や神道にとっても例外ではないことは今更いうまでもない。

 だが、だからといって近世と近代は切断されて非連続の日本の国家・社会が出来上がったというわけでは勿論ない。

 確かに、神社から仏教的要素が消滅し、別当や社僧などの僧形奉仕者もいなくなるなど、一見するところ、明治維新以前と以後では神社の形態ひとつ取っても大きな断絶があるようにと思える。

 歴史にもしもは禁物とされるが、もしも明治初年の神仏判然令が新政府から出されていなければ、今のような神社の姿でなかったと考えることは可能であろう。だが、問題とすべきは、神仏判然・神仏分離は何も神社から仏教的要素さえ排除すれば足りるといった単純な理由から行われただけのものなのか、ということである。

 もしそうであるならば、明治維新以降昭和二十年までの神社の国家管理時代は消滅したのだから、一私法人たる宗教法人として明治維新以前の姿に戻ることは可能であるし、そうしたいのならすれば良いだけの話である。

 かく言えば、身も蓋もないような話に聞こえるかもしれないが、それで良いのだという人には、恐れ多くも天皇・皇室もそうなさるべきだと言うべきだろう。


▽2 「百二十代」と記された光格天皇の宸翰

 前近代の天皇・皇室が神仏ともに大事にされたことは常識に属するが、だからといって、それを神仏習合であり、まして神仏混清の状態が当たり前とされていたわけではなかろう。

 今の皇室に直接繋がり、しかも「譲位」をなされた最後の天皇である光格天皇も「何分自身を後にし、天下萬民を先とし、仁慈・誠仁の心、朝夕昼夜に不忘却時は、神も佛も、御加護を垂給事」、あるいは「神も佛も大慈悲の御事」云々と認められており、あたかも神仏同等に敬する叡慮であるように見える (寛政十一年七月二十八日「後櫻町天皇の御教訓に奉答の宸翰御消息」)。

 しかしその全文を読むならば、「か様に大めで度事有之候も、ひとへに神々の御加護」、「敬神・正直・仁慈を第一にいたし候へば、何事も安穏の道理に候」とある。

 また別の「後櫻町天皇の御教訓に奉答の宸翰御消息」には、「扨賀茂臨時祭の事に付、……此議私十六七歳の時より、臨時の祭、再興いたし度物と、兼々申居候事にて候、賀茂再興候へば、石清水も同事に候、……所司代も上り候うへ、ゆるゆると談じ候はば、外之事とちがいちがい、宗廟敬紳の事候へば、いかやふとも、申方有之べき義と存じまいらせ候」などとある。

 このように、既に賀茂社、石清水社の恒例祭祀再興がされてはいても、平安時代以来の 伝統ある両社の臨時祭再興をも念じておられる (詳細は「賀茂石清水雨社臨時祭御再興の宸翰御趣意書」に認められており、それには自分が即位出来たのも「誠に神明・社稷の擁護蔭福なり。然らば則ち偏に神事を再興するを以て先務と為す」とある。またその最後には「百二十代 (御花押)」とある。)。


▽3 皇祖皇宗の末裔としての自覚

 以上ざっと記したように、前近代の天皇・朝廷が神仏共に敬されたことは事実であるが、それは決して同等でもなければ、況や神仏習合・神仏混清と呼べるようなものではない。

 神武天皇以来百二十代であるという光格天皇の自覚が必然的に「敬神」の念の具現である祭祀の最重要性を齎したのであり、それは歴代天皇による日本の国柄 (国体)の再確認の産物でもあった。

 その近世の端緒ともいうべきが後陽成天皇であり、近世における文芸復興の先駆けとなった天皇であったことは良く知られている事実であり、『日本書紀』など所謂慶長勅版の刊行もその証左である。

 前にも触れたように、その後陽成天皇もさまざまな震翰に「従神武百數代末孫和仁」、 「従神武天皇百數代末孫太上天皇」と宸翰等に認めておられるように、自分は皇祖皇宗の末裔としての天皇であるとの意識が強烈に存したのである。

 この意識があればこそ、前記したように後代の光格天皇が「百二十代」と記されたのである (因みに、現在では光格天皇は第百十九代の天皇であるが、当時は『本朝皇胤紹胤録』などで神武天皇以来第百二十代の天皇とされていた)。

 こうした神武天皇以来の「現神」として日本の国をしろしめすのが「祭」であり「政」であるとの信念は脈々と継承されて、幕末維新期の孝明天皇、明治天皇へと至るのである。

 故に、近代の国家祭祀の形成・構築もこの歴史を抜きにしては語れないのであるが、その詳細な過程についてはここでは省略する。


▽4 近世における神道研究の成果

 やや唐突かつ端的に言うならば、古代の神道 (だけではないが)の基本的史料・丈献が存在し、またそれを巧究する人物がいなければ現代の神道に関する研究も有り得なかった、とまでは言わないが、その進展ははるかに時間がかかっていただろう。

 この意味を余りにも無視している、というより考えもしない研究者が少なからず存在する。要するに、現代の神道研究も、そして現代の「神社」や「祭祀」があるのも近世があってこそ、という簡単な歴史的事実が蔑ろにされているのではないのか。

 例えば、以下のように自問したとき、どのような自答が出来るだろうか。

[思想面]本居宣長がいなかったら、『古事記』は今のように親しみある古典として存在していたであろうか。

[制度面]現代でも神社本庁が神社祭祀で最も重要な恒例の大祭と規定している例祭・祈年祭・新嘗祭の原型が古代にあるとしても(神祇官の職掌・神祇令の規定・延喜式等の細則)、 それが大事であることを認識し、後世の人々にも認識させた史料・資料は何時の時代の誰によって「共通の史料・資料」として今日に残されていたのだろうか。

 以上の仕事を成し遂げ、我々にその成果を残してくれた時代は「近世」であり、その時代に生きた様々な人々の「御蔭」なのである。

 無論、それらも中世以前の人々の努力の結晶があればこそであるが、中世から近世への転換には一朝にしてそれを破壊することも可能であった時代があったことは忘れるべきではない。

 その忘れてはならないことを自覚し、それを「当時」に活かすことに努力した人々がいた時代、それが「近世」なのである。

 明治維新以来の神道もこれを抜きにしては語れない。以下は、「近世」における神道に係るほんのスケッチであるが、少しは参考に供するものと思慮して敢えて備忘として記したものである。


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。

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民のために祈られた歴代天皇の「大御心」 by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 2 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月10日)からの転載です

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民のために祈られた歴代天皇の「大御心」 by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 2
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▽1 今上陛下「国民の安寧と幸せを祈る」

 今上陛下は、「祈り」について次のように語られている。以下は平成28年8月 8日の「おことば」よリー部抜粋したものである。

「私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、 人々とともに過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては時として人の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。
 天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。
 こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。
 皇太子時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、 その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」


▽2 皇太子殿下「国民を思い、国民のために祈る」

 次に、皇太子殿下が平成29年2月21日の「お誕生日に際し」て記者会見で語られたお言葉から一部抜粋する。

「象徴天皇については、陛下が繰り返し述べられていますように、また私自身もこれまで何度かお話ししたように、過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして日本国民統合の象徴であるという憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。
 陛下は、おことばのなかで、「天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」と述べられました。
 私も、阪神淡路大震災や東日本大震災が発生した折には、雅子と共に数度にわたり被災地を訪れ、被災された方々から直接、大切な人を失った悲しみや生活面での御苦労などについて伺いました。
 とても心の痛むことでしたが、少しでも被災された方々の痛みに思いを寄せることができたのであればと願っています。
 また、ふだんの公務などでも国民の皆さんとお話をする機会が折々にありますが、そうした機会を通じ、直接国民と接することの大切さを実感しております。
 このような考えは、都を離れることがかなわなかった過去の天皇も同様に強くお持ちでいらっしゃったようです。
 昨年(平成28年)の8月、私は、愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に、戦国時代の16世紀中頃のことですが、洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が、苦しむ人々のために、諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。……
 私自身、こうした先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下が、まさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむということを続けていきたいと思います。
 私がこの後奈良天皇の宸翰を拝見したのは、8月 8日に天皇陛下のおことばを伺う前日でした。時代は異なりますが、図らずも、2日続けて、天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます。」

 上記引用文からも理解されるように、天皇陛下・皇太子殿下ともども、天皇の第一の務めは、「国民の安寧と幸せを祈る」ことにあることを強調されている。そして、そのお気持ち──国民の安寧と幸せを祈ること──は歴代天皇もみな同じであったと認識されているのである。


▽3 祈りは祭祀として執行される

 このお気持ちが歴代を通じての「大御心」であることは言うまでもない。ただ、ここで考うべきは、その祈りの発露・具現化する形態如何、ではないのか。

「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務め」は、単に被災地や地方への実情視察を通してのことだけを意味しているのではなく、その祈りはまず第一に皇祖皇宗をはじめとする天神地祇の神々に対する祈願・報謝の祭祀として執行されている、と解すべきではないだろうか。

 かく言えば、それは神道人・神社人だからそう手前勝手に解釈しているだけのこと、との批判 (非難)も当然あろう。だが、それが的外れであることは現実的にも歴史的にも明らかである。

 齢八十を超えられた天皇が今なお明治四十一年に制定された皇室祭祀令に則った祭祀・祭儀において親祭あるいは出御・拝礼されていることは周知の通りであろう。この祭祀の執行こそが天皇の祈りの具現化の主柱であり(「祭」)、その祈りの社会的具現化が広義の「政」(しろしめす。しらす。きこしめす) なのである。

 今どき、「祭政一致」などといえば時代錯誤との謗りもあろうが、「国政」のみが「政事 (まつりごと)」ではなく、まさしく「時として人の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なこと」という「おことば」こそが「しらすこと」であり、「きこしめすこと」なのである。これを「祭政一致」と称したからといって、何ら不都合はない。


▽4 國の力の衰微を思ふ故なり

 皇太子殿下も引いておられる後奈良天皇にしても、単に「都をはなれることがかなわなかった」から飢饉等で苦しむ人民のために般若心経を書写されて諸国の一宮などの神社・寺院に奉納されたわけではない。

 そもそも大永六年(1526)の践詐以来、即位式、大嘗祭の執行もままならぬ政治・社会情勢である時代を憂えられてのことからであった。そのことは、天文十四年八月の後奈良天皇宸筆宣命案を一読すれば了解されることであ る。

 宣命案の冒頭部分に「掛けまくも畏き伊勢太神宮に、恐み恐みも申さく」とあり、そ の内容は「天皇は大永六年践詐の後、十年を経て、天文五年に即位の式は挙げさせ給うたが、その後更に十年を経て、同十四年に至るも、未だ大嘗會を行はせ給ふこと能はざるを遺憾とし給ひ、これを大神宮に謝せられた宣命案である。

 御文中に敢て怠れるに非ず、國の力の衰微を思ふ故なりと仰せられて、民の疲弊を珍念あらせられ、また下剋上の心盛にして、暴悪の凶族所を得、國の守護たる武士の恣に御料所を押領し、為に諸社の神事も退転し、諸王諸臣も衰微せるを慨かせられ、偏に神明の加護に依つて、祈願成就、宝祚長久、併せて大嘗會の遂行を祈らせ給うたのである。」というものである (帝国学士院編『宸翰英華』第一冊、昭和十九年)。

 なお、宣命案の末尾には、「上下和睦し、民戸豊饒に、弥宝祚長久に、所願速に成就することを得しめて神冥納受を垂給へと恐み恐みも申」とある。


▽5 天皇の祈りを具現化する制度

 周知のように、二代前の後上御門天皇の大嘗祭執行以後、先代の後柏原天皇及びこの御奈良天皇と大嘗祭執行が叶わぬ政治的社会的情勢が到来し、大嘗祭の再興ははるか後世の貞享の東山天皇の時代を俟たなければならなかった。後奈良天皇から数えても正親町、後陽成、後水尾、明正、後光明、後西、霊元の各天皇は、大嘗祭は執行するを得なかったのである。

 しかし、この後奈良天皇の宣命案に示される「祈り」の具現化としての祭儀再興への歴代のお気持ちは変ることなく継承され、結果的には現代の皇室祭祀へと繋がるのである。

 歴代天皇の祈りとその具現化への長い道程を、今こそ今上陛下及び皇太子殿下の「おことば」などから我々は思い、考えるべきだろう。

 ここで、やや早急に結論的なことを述べておく。

 それは、幕末維新期から明治・大正期に至る近代日本の国家的祭祀制度は、前記後奈良天皇に象徴される歴代天皇の国家・国民の安寧を祈られるお気持ちと行動を徐々に、しかし着実に君民が継承し、構築されていったものであり、ひとり古来の神宮や特定の皇室ゆかりの神社だけでなく、全国に鎮座するあらゆる神社をも対象とする天皇の祈りの具現化としての神社祭祀の制度化によって「天皇の祈りと天皇への祈りの場」が実現されたのでては、ということである。

 そして、その制度を形成した基盤・背景には、さまざまな思想・イデオロギーが鬩ぎ合ひながらあるべき制度実現に向けてのさまざま運動(闘争も含む)があった(幕末維新期の国学者にしても多様な「祭政一致」観があった)。(つづく)


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。

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訳知り顔の「神聖天皇」批判を批判する by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 1 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月7日)からの転載です

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訳知り顔の「神聖天皇」批判を批判する by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 1
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 平成二十八年人月八日、天皇陛下は「退位 (譲位)の意向が強く滲み出ている」とされる「おことば」を、国民に向けて発表された。それから一年有余が経ち、すでに(平成30年)六月には「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」も成立、公布された。

 一部の報道によれば、政府はこの九月中にもこの法律の施行日 (退位期日)を政令で定める方針とのことであつたが、現時点 (九月十八日現在)では政府に特段の動きはない。その動きについては、ここで触れるつもりはないが、既に神社界からも特例法を前提とする改元を含む一連の譲位 (退位)関係の行事・儀式の具体案も提示されている (神社新報社内に設置された「時の流れ研究会」の見解が九月十一日付けの神社新報号外に掲載されている)。

 本研修会では、この一年間の政府や民間、特に神社界の「譲位 (退位)」 をめぐる動きについて触れる余裕はないが、明治天皇の武蔵一宮氷川神社御親祭に象徴されるように、時恰も明治維新百五十年を迎える秋(とき)に際し、小生の前口上として「特例法」制定の決定的な契機となった「おことば」から受けた小生個人の想いを吐露することにする。


▽1 来たるべきときがきた

 小生が「おことば」を拝して、瞬時に想起したのが、これは幕末維新期をも含む「近代」及び現時点までに至る皇室制度の抜本的見直しを示唆されているのではないのか。だとするならば、戦後もなお実質的には存在し、機能してきた近代的皇室祭儀 (祭祀のみではない)をはじめとする近代の神宮・神社の総合的体系的祭儀制度の根本的再検討の必要性を迫るものではないのか、ということであつた。

 率直な感想は、とうとう来るべき事態が到来したのだ、に尽きる。

「譲位(退位)は光格天皇以来二百年振り」などという、これまではほとんどの国民が知る由もなかった歴史的事柄が報道・流布された。これを契機に、長い天皇制の歴史からいえば「譲位」が当たり前のものであつたのであり、譲位を否定した終身在位制はたかだか二百年、しかも明治の皇室典範制定の際に伊藤博文が「譲位」の採用案を一蹴して決まった制度に過ぎない、とさも訳知り顔の論が噴出したのである。

 だが、小生に言わせれば「象徴天皇制」とて、たかが七十年の制度ではないか。年月の長短で歴史的価値判断を加味するのなら、「神仏習合は千年以上続いた、それに対して神仏分離はたかだか百五十年」、と同じ論理である。

 五十年以上の昔、「明治百年にかけるか、戦後二十年にかけるか」といった踏み絵的二者択一の議論があったが、天皇制度の問題を戦前の「神聖天皇制」か、戦後の「象徴天皇制」かに大別してその採否を追る論法が今般の「譲位」問題に関連して声高に出現している (片山杜秀・島薗進『近代天皇論──「神聖」か、「象徴」か』、集英社新書、2017年1月、等)。


▽2 「上からのナショナリズム」

 とりわけ、以下に引用するような物言いが「おことば」を一種の「権威」として語られる時、改めて小生なりの「応答」をしておく必要性を痛感する (実際にはこの四十年近くやってきたつもりではあるが、如何せん非力であったことは慙愧に耐えない)。

島薗 戦前の国体論が国家神道と不可分の関係にあり、神的な由来をもつ神聖天皇への崇敬を求めるものだったことを思い起こせば、こうした文脈で「国体」が、宗教的な意味を含んで語られていることは明らかです。
 つまり、神話的な始原に遡る神的天皇という宗教的観念です。生前退位を認めないと主張する論者たちは、生前退位が天皇の神聖性を脅かすという理由に重きを置き、そう主張しているのです。
 彼らは戦後の天皇が神聖性を薄めて、国民とともにある人間君主であることが、まちがったことだと考えているのです。

片山 有識者会議のヒヤリングで櫻井氏が「求められる最重要のことは、祭祀を大切にしてくださるという御心の一点に尽きる」と述べたこととも一致しますね。

島薗 そうです。彼らの主張は、尊い「国体」を護るという神聖国家の信念に基づいています。ただ、祭祀を大切にするのが伝統だと言っても、戦前にあった一三の皇室祭祀のうち一一は明治期につくられたものです。つまり新しい伝統をフィクションとして創造した「上からのナショナリズム」です(前掲書)。


 今更、この程度の対話本にむきになることはないと悩みもし、躊躇もするが、本発表も「阪本の単なる想い付きのアジテーション」と思われるのも癪なので、多少の学問的批判を加えておく。

 島薗氏は「神話的な始原に遡る神的天皇という宗教的観念です。生前退位を認めないと主張する論者たちは、生前退位が天皇の神聖性を脅かすという理由に重きを置き、そう主張している」と述べている。



▽3 学問的根拠なき思いつき

 同書によれば、そうした主張の代表者は加瀬英明、櫻井よしこ、小堀桂一郎などの各氏であるらしいが、小生に言わせれば「生前退位 (譲位)」を「認める。認めない」の話ではない。

 そもそも「譲位」制度であれ、「終身在位」制度であれ、少なくとも近世に入ってからの最初の天皇とされる後陽成天皇の後水尾天皇への譲位の宣命においても大宝(養老)以来の「明神(現神)と大八洲国所知す天皇」云々の定型文言(公式令詔書式)は使用されていたのである。

 後陽成天皇が後水尾天皇に譲位された時の慶長十六年二月の宣命にも「現神と大八洲國所知す天皇」云々とあり(慶長十六年二月)、またそれに対応して後水尾天皇は「天照坐皇太神の廣前に恐み恐みも申賜はくと申す」と、後陽成天皇の譲位を受けての即位の由を伊勢の神宮に奉告・奉幣されて「寳位無動・天下昇平・海内静謐」をお祈りになつている。

 このように、「譲位」されようがされまいが、天皇であるかぎり天皇は「現神(あきつみかみ)として大八洲国をしろしめされている」という観念は少なくとも近世においても一貫した「観念」である。

「生前退位を認めないと主張する論者たちは、生前退位が天皇の神聖性を脅かすという理由に重きを置き、そう主張しているのです」との島薗の物言いは、こうした歴史的背景を無視している。

 因みに、近世初の女帝であった明正天皇の後光明天皇への譲位の際の宣命 (でさえ)も「現神止大八洲國所知須倭根子天皇我詔良麻止勅命乎」とあるのを知っている者にとっては、「戦前の国体論が国家神道と不可分の関係にあり、神的な由来をもつ神聖天皇への崇敬 を求めるものだったことを思い起こせば」などという言は学問的根拠を欠いた単なる想い付きとしか評しようがない。


▽4 古来の山陵祭祀があったればこそ

 次に、「祭祀を大切にするのが伝統だと言っても、戦前にあった一三の皇室祭祀のうち一一は明治期につくられたものです。つまり新しい伝統をフィクションとして創造した『上からのナショナリズム』です」という指摘について。

 島薗氏が言う十三の祭祀とは、明治四十一年に制定された皇室祭祀令でいう大祭の、(1)元始祭 (一月三日)、(2)紀元節祭 (二月十一日)、(3)春季皇霊祭 (春分日)、(4)春季神殿祭 (春分日)、(5)神武天皇祭 (四月三日)、(6)秋季皇霊祭 (秋分日)、(7)秋季神殿祭 (秋分日)、(8)神嘗祭 (十月十七日)、(9)新嘗祭 (十一月二十三日・二十四日)、(10)先帝祭(毎年崩御日に相当する日)、(11)先帝以前三代の式年祭(崩御日に相当する日)、(12)先后の式年祭 (崩御日に相当する日)、(13)皇妣たる皇后の式年祭 (崩御日に相当する日)を指す。

 確かに、これら十三の大祭のうち、(8)の神嘗祭と(9)の新嘗祭を除けば、他の十一の大祭は「明治期につくられたもの」であり、そのうちの大半を占める(3)(5)(6)(10)(11)(12)(13)の七つの祭祀は皇霊祭祀系統であり、(1)は皇位の大本、(2)は神武天皇創業、(4)(7)は天神地祇に関する祭祀である。

 幕末期の孝明天皇の御世の年中行事を記した勢多章甫の『嘉永年中行事』に記載・説明されている祭祀と比べるならば、誰しもがその「前近代」と「近代」の相異に気付くであろうことは確かである。

 だが、皇霊祭祀系統について簡単にいうならば、歴代の天皇を葬る山陵での祭りについては、律令制時代にも治部省諸陵司 (みささぎのつかさ)で「正一人。掌らむこと、陵の霊祭らむこと」とあり、また延喜式の諸陵寮では神代三陵を筆頭に初代神武天皇以来の山陵等が記載され、「凡毎年十二月奉幣諸陵及墓」と規定されている(荷前の奉幣)。

 この律令や延喜式に規定された山陵での皇霊祭祀が存在したからこそ、近世における山陵調査・復興運動や幕末期の山陵修造事業が遂行されたのであり、結果的には近代的な皇霊殿・山陵での皇霊祭祀として形成されたとするのが歴史的展開であったと考えるべきである。


▽5 天皇の祭祀に何の不都合があるのか

 初代の天皇である神武天皇関係の(2)及び(5)の祭祀にしても、この歴史的背景・脈絡を無視しては語れないだろう。

 そのことは、近世最後の天皇であり、近世から近代への橋渡しをされたといっても過言ではない孝明天皇の文久三年(1963)二月の「神武天皇山陵修造の宣命」を見れば明らかなことであり、前記『嘉永年中行事』だけでは決して読み取れない歴史的展開の実態が窺えよう。

 そこには 「天皇我詔旨良麻止掛巷母畏伎畝火山東北陵爾申給波久止申須高天原爾事始給比志神漏岐神漏美乃命持氐吾皇御孫尊乃長御代乃遠御代止天津日嗣乎彌継継爾所知食来斯御代乃中爾波甚伎世乃乱逆毛有氐諸陵寮乃官人毛何時志加絶果氐」云々とあるように、元始祭や神武天皇関係祭祀に直結する思想・観念を示す語句が鏤められている。

 こういつた思想・観念が近世を通してますます強化・普及し、その具現化としての近代皇室祭祀へと結実したのである。

 これをして、島薗氏はいとも簡単に「新しい伝統をフィクションとして創造した『上からのナショナリズム』です」と一蹴しているが、だとするならば後陽成天皇も慶長二年 (1597)の時点で「仮名文字遣」の奥書に「慶長二稔孟子春下澣 従神武百数代末孫和仁 廿七歳」などとは認められなかった筈である。

 たとえ島薗氏が近代の皇室祭祀を「フィクション」と言おうとも、今なお御不例などがない限り、今上天皇は元始祭や皇霊祭、神殿祭を親祭されているし、平成二十七年の神武天皇二千六百年式年祭の山陵の儀でも拝礼・御告文を奏されている。

 これが歴代天皇の大御心を体してのことであることはいうまでもなかろう。そこに天皇の神聖かつ象徴的なお姿を拝することに何の不都合があるというのだろうか。


▽6 補注「現神と大八洲國所知す天皇」

 天皇を「明神。現神。現御神」(あきつみかみ)と形容することは孝徳天皇大化元年七月の高麗使への詔に見える。

 その後天武天皇十二年正月の「天瑞に依り大赦及び課役免除の詔」の「明神御大八洲日本根子天皇勅命者(あきつみかみとおほやしましろしめすやまとねこすめらみことのおほみことのりにませ)」、あるいは文武天皇元年八月の「即位宣命」などに使用されて以来、明治天皇までの即位などの宣命に一貫して用いられてきた。

 慶応四年八月の明治天皇即位の際の宣命にも、「現神と大八洲國所知す天皇が詔旨らまと宣ふ勅命を、親王、諸臣、百官等、天下公民衆聞食と宣ふ (あきつみかみとおほやしまくにしろしめすすめらがおほみことらまとのりたまふおほみことを、みこたち、おみたち、もものつかさびとたち、あめのしたのおおみたからもろもろきこしめせとのりたまふ)」とある。

 また即位の際のみならず、前記したように譲位の宣命においても「現紳と大八洲國所知す天皇」云々の定型文言は使用されていた。

 このように、天皇が「神聖」視されたのは何も近代天皇制において始まったわけではない(むしろ、大正天皇や昭和天皇の即位式の勅語に見られるように、「現神」等の使用から「惟神の宝詐」など「惟神」の語の採用に注目すべきである)。

 因みに、帝国憲法第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」の規定を以て、天皇=神聖=神 (現御神、現人神)とされたと理解する向きがあるが、憲法義解に「君主は固より法律 を敬重せざるべからず而して法律は君主を責問するの力を有せず獨不敬を以て其の身體を 干涜すべからざるのみならず併せて指斥言議の外に在る者とす」とあるように、当時の君主国に一般的であった君主に関する規定の踏襲にすぎない。

 無論、この定説的な法解釈が昭和十年の天皇機関説問題・国体明徴運動以降に退けられて「天皇現人神 (あらひとがみ)」 説の根拠とされたことがあったことは事実である。

 しかし、戦後においても上田賢治氏が本居宣長の「さて人の中の神は、先かけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり」(『古事記伝』三)を引用して、「天皇は文字通り、民族国家の理想を体現なさる御存在であり、常に我が国の歴史を負ふて、私なく、国の政事を知らし、祭祀に仕へ奉られる御存在なのである。現御神にあられずして、他にいかなる申し上げやうがあるだらうか」と述べている (『神道神学』神社新報社、平成二年)。

 この上田氏の指摘は今日においてはますます深刻に考えるべき課題であると思慮するものである。(つづく)


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。
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政府の「期待」に応えて余りある有識者ヒアリング ──第2回式典準備委員会資料を読む 12 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月1日)からの転載です

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政府の「期待」に応えて余りある有識者ヒアリング
──第2回式典準備委員会資料を読む 12
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 有識者ヒアリングの批判を続けます。ヒアリングの第3問は「平成の御代替わりに際して行われた式典に対する評価、見直すべき事項」でした。


▽1 石原元副長官の非宗教主義

 まず、石原信雄元内閣官房副長官です。

 石原氏は「前例踏襲が基本」だと宣言しています。30年前のキーパーソンですから、そう答えるのは当然で、理解できますが、御代替わりの諸儀式が「国の行事」と「皇室行事」とに二分されたこと、平安以来の「践祚」の概念が失われたことなど、さまざまな不都合があったことへの自覚と反省が感じられないのは残念です。

 践祚の式について、注目したいのは、古来、皇室第一のお務めとされてきた宮中祭祀を一顧だにしない非宗教主義、非伝統主義です。

 石原氏は、「剣璽等承継の儀と即位後朝見の儀では、中1日を空けたが、これは、御喪儀等の準備があったからであり、今回はそのような事情にないのだから、日を空ける必要はないのかもしれない」と述べています。

 光格天皇から仁孝天皇への御代替わりでは、「今日より三箇日内侍所神饌供進」(「寛宮御用雑記」)と記録され、文化14年3月22日の践祚の日から賢所で神事が行われたことが分かります。国事中の国事なれば当然です。

 旧登極令(明治42年)は第1条に賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀について規定し、その附式には「三日間、之を行フ」と定められていました。大正、昭和の御代替わりはむろん、これに基づいて行われています。

 平成の御代替わりでは、昭和天皇が亡くなったあと、1時間半後に賢所の儀が行われ、3日間、斎行され、3日目の日に朝見の儀が執り行われました。皇祖神への挨拶が済んでから、国民の代表者とお会いになるのが順序でしょう。

 しかし石原氏の説明によれば、30年前の御代替わりは、御大葬の準備のための現実的対応に過ぎなかったというのですから、驚きです。ほんとうなのでしょうか。

 当時のことを知る関係者によれば、違うといいます。朝見の儀に携わる担当者と御大葬関係の担当者は異なる。担当が異なるのだから、「中1日を空ける」という対応との関連性はあり得ないと説明しています。ご高齢の石原氏の記憶は正確なのでしょうか。

 前回は、昭和22年5月の依命通牒第3項に基づき、登極令附式を準用して、践祚3日目に朝見の儀が行われたのでしょう。石原氏が「前例踏襲」を仰せなら、「日を空ける必要はない」はあり得ず、賢所の儀などへの配慮は不要だという姿勢は改められるべきです。

 ただ、正確にいえば、登極令附式には「賢所の儀ののち」とは規定されていません。それでも大正、昭和の御代替わりでは3日間の賢所の儀ののち朝見の儀が行われ、先例が踏襲されてきたのです。


▽2 園部元最高裁判事の歴史への無関心

 園部逸夫元最高裁判事の発言で注目されるのは2点です。

 まず、朝見の儀です。石原氏と同様、「その後の日程も勘案し、剣璽等承継の儀と同日に行われることがふさわしいのではないか」と仰せです。

 園部氏は法律家だそうですが、前回はなぜ3日目だったのか、その法的根拠はどこにあるのか、ご存じないのではありませんか。依命通牒の存在、登極令の中身、古来の皇室の歴史について、まったく関心がおありでないのではありませんか。

 2つ目は、御代替わりに伴う剣璽渡御です。

 園部氏は「今回の御退位に伴う御即位の際の剣璽等承継の儀は、新天皇が御即位の当日、新天皇主宰の国の儀式として、前天皇(上皇)が御臨席されることなく行われることがふさわしい」と述べています。

 200年前の光格天皇から仁孝天皇への譲位では、宮内省がまとめた実録によれば、文化14年3月22日に清涼殿で、光格天皇の譲位の宣命が宣読され、その瞬間に皇太子は践祚され、そののち剣璽は渡御しています。

 園部氏のいう「新天皇主宰の国の儀式」とは、国の行事=国の儀式=国事行為という発想でしょうが、剣璽渡御の主宰者は、歴史的観点でいえば、皇祖神でしょう。

 御代替わりの諸儀礼をバラバラにして法的位置づけを考えようとするから、混乱が生じるのでしょう。ましてや今上天皇の御臨席がない剣璽渡御などあり得ないと私は思います。


▽3 所名誉教授の非歴史主義

 3人目は所功京産大名誉教授です。いつものことながら、歴史家らしからぬ意見が開陳されています。注目すべきところだけ取り上げます。

 1点目は、皇室典範に記される「即位の礼」全般についてですが、「前例と同じく、『剣璽等承継の儀』と『即位後朝見の儀』及び本格的な『即位礼』を含み、いずれも新天皇の国事行為として実施できる」と仰せです。

 前回の問題点の1つは、平安期以来の践祚と即位の区別が失われたことです。現行皇室典範には「践祚」の用語がありません。

 であればなおのこと、歴史家ならば、践祚と即位の歴史的区別を説明し、践祚の儀の復活を訴えるべきでしょうに、所氏はそうはなさいません。皇室の歴史ある用語の使用を訴えようともなさいません。「女性宮家」「生前退位」などと同様です。

 2点目は、践祚の式です。所氏は、「即位後朝見の儀は剣璽等承継の儀の後、5月2日の昼間がふさわしい」と仰せです。

「前例と同じく」と仰せなら、践祚3日目になるはずですが、なぜ践祚の翌日なのか、少なくとも政府発表の資料には根拠が説明されていません。歴史的解説も抜けています。

 さらに、「即位後朝見の儀が午前中ならば、同日午後、新天皇と新皇后の両陛下が、長和殿のベランダへ出られ、参賀の国民に挨拶されるような新儀も加えて頂きたい。また後日、お揃いで宮内記者会の人々と即位後初の会見も実現してほしい」とも仰せですが、践祚と即位の違いをお忘れではないでしょうか。

「剣璽等承継の儀と即位後朝見の儀は当座の小規模な即位式であるから」という説明がありますが、宮中三殿で斎行される賢所の儀や皇霊殿神殿に奉告の儀については、歴史家として意見をお述べにならなかったのでしょうか。

 3点目は法的位置づけですが、退位の儀、退位後朝見の儀、剣璽等承継の儀、即位後朝見の儀、即位の礼、祝宴は、「天皇の国事行為(国の儀式)でなければならない。しかし、大嘗祭は平成2年と同様、『皇室の公的行事』として厳粛に実施されたい」と述べています。

 皇室研究家であり、法制史家であるならば、御代替わり全体が国事そのものであると訴えるべきではないでしょうか。「国の行事」とはいかなるものであるべきか、豊富な知識と深い見識をもって語られるべきではないでしょうか。


▽4 本郷教授も非歴史主義

 最後は、本郷恵子東大史料編纂所教授です。2点だけ指摘します。

 1点は、「前例踏襲」です。

 本郷氏は「新天皇に関わる平成の儀式は、基本的に踏襲して良いものと思われる」と仰せですが、歴史家であるなら、践祚と即位の歴史的区別の喪失、立法者の想定とかけ離れた「即位の礼」のあり方など、指摘してほしかったと思います。

 2点目は、太上天皇についてです。

 本郷氏は、「太上天皇については、太政官制度上の明確な位置付けがなく、譲位後に行われる儀式に出席するということはなかった。今回も、ご高齢の陛下のご負担を考えれば、皇位継承関連儀式への上皇としてのご出席は必要ではないと思われる」と述べていますが、歴史の理解は正確でしょうか。

 光格天皇についていえば、『光格天皇実録』によれば、文化14年3月22日の譲位ののち、次のように記録されています。めぼしいところのみ抜き出します。

文化14年3月24日、太上天皇の尊号を受けさせらる。この日、吉書御覧あり。
文化14年9月21日、仁孝天皇、即位の礼を行はる。よって禁裏に御幸あらせらる。
文化14年11月23日、御代始の御能御覧のため、禁裏に御幸あらせらる。
文化15年正月1日、四方拝、出御あらせらる。朝餉において御歯固を行はる。
文化15年正月18日、和歌御会始を行はる。出御、御製あらせらる。
文化15年2月20日、和歌当座御会始を行はる。出御あらせらる。
文化15年4月22日、改元定院奏あり。弘御所に出御あらせらる。
文政元年11月10日、禁裏に御幸あらせられ、仁孝天皇に大嘗会神饌の御伝授あらせらる。
文政元年11月21日、大嘗祭なり。よって禁裏に御幸あらせられ、悠紀殿に渡御あらせらる。

 このほか禁裏への行幸、諸社への参拝などがたびたびあったことが宮内省がまとめた実録に記載がありますが、「皇位継承関連儀式への上皇としてのご出席は必要ではない」と判断される根拠は何でしょうか。

 前回も申し上げましたように、皮肉を込めていえば、この有識者ヒアリングは、非宗教主義、非伝統主義の立場を取る政府にとって、きわめて好都合な人選であり、4人の方々は政府の期待に十二分に応えられたことが分かります。
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「退位の儀式など歴史にない」と明言した有識者は皆無 ──第2回式典準備委員会資料を読む 11 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年6月25日)からの転載です

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「退位の儀式など歴史にない」と明言した有識者は皆無
──第2回式典準備委員会資料を読む 11
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 有識者ヒアリングの2番目の設問は、「天皇陛下の御退位に伴う式典のあり方」でした。

 これに対して、政府がまとめた資料によれば、4方とも共通して「国事行為として、国の儀式とする」「剣璽を安置する」と述べ、園部、所、本郷の三氏は「退位の事実を広く明らかにする儀式とする」「陛下のお言葉がある」いう意見で一致し、さらに石原、園部、所の三氏は「平成31年4月30日昼に実施」で一致したのでした。

 誰一人として、所、本郷両氏の2人の歴史家も含めて、皇室の長い歴史において「退位の礼」などないと明言した有識者はいませんでした。歴史上、あったかのように政府と口裏を合わせ、権力におもねった歴史家風の知識人がいるだけです。

 そんな有識者ヒアリングに何の意味があるのでしょうか。そんなことで、文明の本質に関わる御代替わりのあり方を決めていいのか、私は暗澹たる思いに駆られます。


▽1 「退位の儀式」は既定の事実?

 まず石原信雄氏の場合は、「退位の儀式」はもはや既定の事実となっているかのようで、「退位の儀式は国事行為として『国の儀式』として行うべきだ」「即位の儀式と同日というのは無理だ」「国事行為は明るい時間に行うものだ。国事行為のスタイルで行うべきだ」と確信的です。

 さらに、注目すべきは、「剣璽は神器ではない。政教分離とも関係ない」と言い放っています。皇室の歴史と伝統への敬意が、少なくとも私にはほとんど感じられません。御代替わりを論じる以前の問題です。

 もともと歴史家でもない石原氏に期待しても無理なのかも知れませんが、石原氏とって、「国の行事」とは何でしょう。国費を支出してやるから、つべこべ文句は言うなという調子のことなのでしょうか。それが125代続いてきた御代替わりなのでしょうか。

「内閣の助言と承認」のもとに、皇室の歴史にない「退位の礼」なるものを、陛下はなぜ在位の最後に無理強いされなければならないのか。皇室の儀式がなぜそこまで政治的干渉を受けなければならないのですか。そもそも国事と国事行為とは別物ではないのですか。

 次に園部逸夫氏は、「国民主権原則に沿うこと、政教分離原則に反しないことなどが求められる」「光格天皇の例などを参考にすることが大切である」「中心儀式として『退位を公に宣明されるとともに、国民の代表が感謝の挨拶をする儀式』として実施してはどうか」などと述べました。

 しかし、憲法の原則を持ち出すなら、摂政を置けばいいのであって、「退位」は否定されるべきです。「光格天皇の例を参考に」というのなら、「退位の礼」などあり得ません。結局、歴史に学ぶのはポーズに過ぎず、新例の創作に暴走せざるを得ないのでしょう。

 もともと譲位とは皇太子に皇位を継承することであり、譲位の「宣明」は国民に対してではなく、皇太子に対して行われるべきであって、践祚の式として連続して執り行われるべきではないのでしょうか。

 しかし歴史家でもないお二人には、糠に釘なのでしょう。問題は皇室の歴史に詳しいはずの残るお二人の意見です。


▽2 ヒアリングで豹変する態度

 つづいて所氏ですが、やはり「退位の儀式」が当然あるものとして意見が述べられています。

「退位を認識できる儀式は国事行為としなければならない」「そのためには4月30日の昼が相応しい」「退位の儀式と朝見の儀が考えられる」「前者は宮内庁長官が退位の趣旨を申し上げるだけでよい」「剣璽を帯同されるべきだ」などという具合です。

 すでに何度も申し上げてきたように、皇室の歴史において譲位即践祚であって、独立した「退位の儀式」などあり得ません。皇室研究家ならそんなことは常識でしょうが、所氏はなぜかそういう重大な指摘はなさらないのでした。

 以前、ご紹介した所氏の論考「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」(「藝林」昨年4月号)は、貞観儀式の「譲国儀」や「光格天皇実録」を取り上げ、歴史上の「譲位・受禅」の儀式には、内裏を離れられる遷御、清涼殿での宣命、新主への祝賀の3段階があったと解説していました。

 光格天皇の譲位は仁孝天皇の践祚と一体的に、同じ日に、同じ場所で行われたことを所氏の論考は正しく指摘しています。ところが、政府のヒアリングではそのような客観的な史実が語られることはありませんでした。

 論文とヒアリングで歴史への態度が豹変するのは、なぜなのでしょう。「退位に伴う朝見の儀」を執行するというアイデアはどこから出てくるのでしょう。新儀の創出は歴史家として政府の要求に応えたことになるのでしょうか。歴史家として相応しい態度なのですか。


▽3 有識者とは「燃えないガソリン」か?

 最後は本郷氏ですが、やはり期待外れというべきものでした。

「退位の儀式は、即位の礼と同様、法律で定まった退位の事実を、儀式を通じて国内外に明らかにするという意義を持つと考えられる」と最初から「退位の礼」あるべしで固まっています。

 それにしても、皇室典範に「即位の礼」が規定されているから、「退位の礼」もあってしかるべきだというような論理はまったく非歴史的であって、歴史家の採るべき態度ではないでしょう。

 譲国儀は皇嗣に皇位が間断なく、安定的に引き継がれることが趣旨であって、譲位を「内外に明らかにする」ことではないはずですが、本郷氏は歴史の事実を語るより、今回の御代替わりに対する意見がもっぱら披瀝されています。

 いわく、「即位の礼が国事行為なら、退位の儀式も国事行為とするのが整合的だ」「今回は初めての事例であり、退位のお言葉を陛下が述べられるという形式がよろしい」「ご高齢の両陛下に、ご負担がかからないような配慮が欠かせない」などなど。

 半面、本郷氏が皇室の歴史に言及し、歴史家たる面目を保ったのは、政府の資料によれば、わずかに2点のみでした。

 1点は「過去の譲位は、天皇の崩御や政治的な事情等から準備期間をもうける余裕がなく行われることも多く、その手続きは、本来複雑なものではない」こと、2点目は「歴史的には、天皇をめぐる儀礼について、女性の参画を禁忌とする原則はなかったと考えられる」ことです。

 前者についていえば、光格天皇の場合は譲位の表明は10か月前でした。譲位の日時は約40日前に通達され、1か月前に内侍所で臨時御神楽の儀が行われ、光格天皇が出御されました。譲位前日には三関が封鎖され、当日は朝から総勢700人以上に及ぶ遷御の行列が仙洞御所まで続いたのでした。

 本郷氏が言うように「複雑なものではない」にしても、けっして「単純なものではない」でしょう。仙洞御所までの遷御の模様を描いた、上下巻合わせて40メートルを超える華麗な絵巻物が伝えられていることを、本郷氏が知らないはずはないでしょうに。

 後者についていえば、即位礼に男女の庶民が多数拝観していたことが近年、分かってきました(森田登代子『遊楽としての近世天皇即位式』)。明正天皇の「御即位行幸図屏風」(宮内庁所蔵)には、紫宸殿で挙行される即位礼を間近に拝観しながら、乳飲み子に授乳する女性2人が描き込まれているほどです。

 歴史を語らない歴史家とは、前号で論考を寄せてくださった佐藤雉鳴氏の表現を借りればまさに「燃えないガソリン」でしょうか。政府の人選が誤りなのか、逆に政府の意図を「忖度」できる、適材過ぎる適材なのか。それとも有識者と呼べる人材がそもそもこの国にはいないのか。それがゆえの今日の混乱なのか。

 歴史家たるものが、後世、歴史的な批判を受けることがないよう、祈るばかりです。
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皇室典範特例法を批判する by佐藤雉鳴 ──取り戻さなければならない皇室の歴史と伝統 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年6月24日)からの転載です

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皇室典範特例法を批判する by佐藤雉鳴
──取り戻さなければならない皇室の歴史と伝統
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▽1 天皇陛下のおことばの衝撃

 平成29年6月9日、皇室典範の特例法が成立しました。さらに平成29年12月13日には、その施行期日を、二年後の平成31年4月30日とする政令が公布されました。平成の代がその日をもって終わるということです。昭和、平成と生きていた私には、いろいろ思うところがありました。

 思い出せば平成28年の8月8日午後、私は新宿にいました。あの日の夕方、友人と新宿で会食の予定がありました。それで少し早めに出て、天皇陛下のビデオ・メッセージを家電量販店の大きなディスプレィで拝聴することにしたのです。

 午後3時、メッセージは「象徴としてのお務めに関する天皇陛下のおことば」として放映されました。ディスプレィの前には私一人しかいませんでした。月曜日の午後3時ということも関係していたかもしれません。途中、一組の東洋系外国人カップルが通りすがりに5〜6秒立ち止まりましたが、すぐに歩き去りました。

 さてメッセージを拝聴して、私は少なからぬ衝撃を受けました。皇室典範に関する重要事項が含まれていたからです。会食後、帰宅してすぐに録画を繰り返し繰り返し確認しました。最後に陛下は「国民の理解を得られることを、切に願っています」と仰せられました。

 私たち国民が理解すべきこととは、いったい何なのでしょうか。


▽2 見えにくい特例法成立までの経緯

「天皇陛下のおことば」からあれよあれよの間に特例法が成立しました。断片的な報道はあったものの、私には特例法が成立するまでの経緯がよくわかりませんでした。いま、公開された資料を基に整理すると、主な流れがわかります。

平成28年8月8日「象徴としてのお務めに関する天皇陛下のおことば」
平成28年10月17日「天皇の公務の負担軽減に関する有識者会議」の設置
平成29年1月21日 安倍総理の施政方針演説
平成29年3月17日 衆参正副議長によるとりまとめ
平成29年4月21日 有識者会議最終報告
平成29年6月9日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」成立
平成29年12月13日 施行期日を定める政令公布
平成29年12月20日「天皇陛下お誕生日に際し」
平成30年1月9日 式典準備委員会設置
平成30年3月9日 特例法施行令公布

 この間、もちろん国会での議論もありました。しかしこの歴史をゆるがす皇室典範の特例法について、激しい論戦はありませんでした。本当に十分な議論がなされたのでしょうか。やはり検証する必要があると思います。


▽3 「おことば」から浮かび上がる譲位

 まず、「天皇陛下のおことば」の内容について、今一度整理してみます。ここでは正確を期すために、宮内庁のサイトから引用します。

「本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います」

「既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています」

「また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」

「始めにも述べましたように,憲法の下(もと),天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。
 国民の理解を得られることを,切に願っています」

 畏れ多くも、陛下の「おことば」を総合すると、「譲位」が浮かび上がってきます。


▽4 「退位」と言い換えたメディア

 しかしこの「譲位」について、テレビや新聞ではわかりやすく報道されなかったように思います。ほとんどのメディアは「退位」と表現しました。

 これまで125代のうち、譲位された天皇は59名と云われていますが、退位された天皇は一人も存在しません。皇位は天皇の崩御と同時に践祚が行われ、新帝に承け継がれました。あるいは譲位と同時に受禅があって、皇位は継承されました。前者を諒闇践祚、後者を受禅践祚とする言い方もあるようです。即位の儀式は然る後に行われました。

 この践祚という言葉は、旧皇室典範にあって現皇室典範にはありません。

旧皇室典範第十条「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」

 つまり一瞬たりとも皇位の空白が起きないように、践祚ということが規定されていたのです。

 現皇室典範では即位のみで、践祚、神器はありません。

現皇室典範第四条「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」

 また、どちらの皇室典範にも譲位はありません。旧皇室典範では、皇位継承に関する「権臣の強迫」、いわば政治的恣意性による混乱を避けるため譲位は排除されました。これは伊藤博文『皇室典範義解』に記されています。現皇室典範もこの考え方が基礎となっています。さらには退位もありません。これは我が国の歴史に一貫しています。

 ここで譲位と退位の概念を整理してみます。譲位には、譲位する側とされる側があって成立します。退位はたんに「位を退く」ことであり、位の継承者は念頭にありません。

 今上陛下は「そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました」と仰せられました。ですから「おことば」は明らかに譲位を意味しているのであって、退位だけを意味するものではないと思います。


▽5 成立した皇室典範特例法も「退位」

「天皇のおことば」から約十か月後の平成29年6月9日、国会では「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が成立しました。法律名には譲位ではなく退位が用いられています。「おことば」からすると、やはり違和感を禁じ得ません。

 ではこの特例法の内容はどんなものでしょうか。ポイントを要約します。

第一条
(1)御高齢になられた天皇陛下が、今後の御活動を深く案じておられること
(2)国民は、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること
(3)現下の状況に鑑み、天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定める

第二条
天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位するものとする

第三条
退位した天皇は、上皇とするものとする

第四条
上皇の后は、上皇后とするものとする

第五条
この法律による皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太子の例によるものとする

附則第三条
天皇の退位等に関する皇室典範特例法は、皇室典範と一体を成すものであるとの規定を新設する

 以上のように、この特例法に譲位はありません。また「皇嗣となった皇族」とあるように、皇位継承者について、皇太子のような特定の皇族を表現していません。

 なぜこのような特例法となったのでしょうか? まず有識者会議の中身を眺めてみます。


▽6 「天皇の公務の負担軽減に関する有識者会議」の設問

 有識者会議は、その第3回目から順次、20名の外部識者にヒアリングを行いました。全員に同じ質問を設定しましたが、その内容を官邸のサイトから引用します。

「聴取項目 以下の項目について、ヒアリング対象者から20分程度意見の陳述を受け、 10分程度の意見交換を行う。
(1)日本国憲法における天皇の役割をどう考えるか。
(2)(1)を踏まえ、天皇の国事行為や公的行為などの御公務はどうあるべきと考えるか。
(3)天皇が御高齢となられた場合において、御負担を軽くする方法として何が考えられるか。
(4)天皇が御高齢となられた場合において、御負担を軽くする方法として、憲法第5条に基づき、摂政を設置することについてどう考えるか。
(5)天皇が御高齢となられた場合において、御負担を軽くする方法として、憲法第4条第2項に基づき、国事行為を委任することについてどう考える か。
(6)天皇が御高齢となられた場合において、天皇が退位することについてどう考えるか。
(7)天皇が退位できるようにする場合、今後のどの天皇にも適用できる制度とすべきか。
(8)天皇が退位した場合において、その御身位や御活動はどうあるべきと考えるか。」


▽7 「ご負担軽減」が「退位」に豹変した最終報告

 このヒアリング等を経て、有識者会議は平成29年4月21日付けで「最終報告」を出しました。これも官邸のサイトから読んでみます。この有識者会議が検討事項とした内容は、この目次に表れています。

目次

「はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

(1)最終報告の取りまとめに至る経緯・・・・・・・・・・・・2

(2)退位後のお立場等・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
1退位後の天皇及びその后の称号・・・・・・・・・・・・・・・4
2退位後の天皇及びその后の敬称・・・・・・・・・・・・・・・7
3退位後の天皇の皇位継承資格の有無・・・・・・・・・・・・・7
4退位後の天皇及びその后の摂政・臨時代行就任資格の有無・・・7
5退位後の天皇及びその后の皇室会議議員就任資格の有無・・・・8
6退位後の天皇及びその后の皇籍離脱の可否・・・・・・・・・・9
7退位後の天皇が崩御した場合における大喪の礼の実施の有無・・10
8退位後の天皇及びその后の陵墓・・・・・・・・・・・・・・・11

(3)退位後の天皇及びその后の事務をつかさどる組織・・・・・12

(4)退位後の天皇及びその后に係る費用等・・・・・・・・・・13
1退位後の天皇及びその后に係る費用・・・・・・・・・・・・・13
2天皇の退位に伴い承継される由緒物への課税の有無・・・・・・13

(5)退位後の天皇の御活動のあり方・・・・・・・・・・・・・14

(6)皇子ではない皇位継承順位第一位の皇族の称号等・・・・・15
1称号・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
2事務をつかさどる組織・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
3皇室経済法上の経費区分・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
4その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18

おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20

 最終報告ではあるものの、「退位」の文字が目立ちます。「天皇の公務の負担軽減」から「天皇の退位」へ豹変したのです。

 有識者会議の設置から三か月後の平成30年1月20日、安倍総理は国会において施政方針演説を行いました。その冒頭の発言です。

「まず冒頭、天皇陛下の御公務の負担軽減等について申し上げます。現在、有識者会議で検討を進めており、近々論点整理が行われる予定です。静かな環境の中で、国民的な理解の下に成案を得る考えであります」

「静かな環境の中」とはどういうことでしょうか。もちろん皇位継承に関することですから、騒々しい環境は相応しくありません。ただ、密室での議論に聞こえなくもない気がします。また有識者会議の報告に反論をしないでほしい、そんなニュアンスも感じられます。


▽8 「皇太弟」を定めない「衆参正副議長のとりまとめ」

 有識者会議が進む中、平成30年3月17日衆参正副議長から「とりまとめ」が発表されました。後に成立した特例法の内容とほぼ同じです。そして気になる点は「天皇の退位後の文仁(秋篠宮)親王殿下に関連する規定」と法案要綱の対比表です。

 秋篠宮親王殿下の呼称について、法案要綱では「呼称を設けない」とされています。徳仁親王殿下の即位に伴って、皇位継承順位の第一位は秋篠宮親王殿下となります。しかし徳仁天皇の弟君ですから、皇太子とは称されません。皇室典範に表現はありませんが、歴史的には皇太弟があります。

「日本後紀」によれば嵯峨天皇・淳和天皇が皇太弟でした。また「大日本史料」等によれば村上天皇・近衛天皇・順徳天皇・亀山天皇が皇太弟と称されていました。有識者会議のヒアリングでは本郷恵子東京大学史料編纂所教授が、この皇太弟を主張しましたが、特例法には記載がありません。

 そして国会ではこの件に関し、民進党(当時)の奥野総一郎議員から質問主意書が提出されました。衆議院のサイトから引用します。

「皇太子及び皇太孫が不在の場合、皇位継承順位第一位となる皇族は、同条同項の条文上は皇籍離脱でき得ることとなる。仮に同条同項の趣旨が『皇位継承順位第一位の者が皇籍離脱することを認めない』(同旨「皇室法概論」園部逸夫著)であるならば、規定の趣旨に合致しないこととなり、制度の不備ではないか」

 皇室典範の規定に皇太弟はありません。皇太子・皇太孫だけです。したがって皇嗣という一般名称では「皇籍離脱」の可能性が考えられます。それで「皇籍離脱の制限」は制度の不備ではないかとの質問でした。ちなみに皇室典範の規程は以下の通りです。

第十一条第二項「親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王は、前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる」

 これに対する衆議院大島理森議長の答弁です。

「皇室典範第十一条第二項において『親王』から『皇太子及び皇太孫を除く』としているのは、『親王』のうち皇位継承の順位が第一位であって天皇の直系の子孫である方については、『やむを得ない特別の事由があるとき』であっても皇族の身分を離れることができないとするものであって、御指摘のように、一般的に『皇位継承順位第一位の者が皇籍離脱することを認めない』という趣旨であるとは解していないことから、そのような趣旨であることを前提としたお尋ねについてお答えすることは困難である」


▽9 不安定な「皇嗣」の皇位継承

 あいまいでよく分かりません。結局のところ、皇太子・皇太孫ではない皇嗣の即位については、自動的に皇位継承となるのではなく、皇室会議の議を経る可能性があると考えられます。もしそうなら、これは安定的な皇位継承にとって、まさに一大事であると言わなければなりません。

 皇室会議を構成する議員10名のうち皇族は2方で、あとは衆・参両院の議長・副議長、内閣総理大臣、宮内庁長官、最高裁判所長官・同判事1人です。反天皇の政権がないとは限りません。皇位継承に政権が関与することは危険です。皇位継承は皇室の家法(成文法は旧皇室典範)で決定されるべきものです。

 また参議院において、特例法についての附帯決議も可決されました。

「一 政府は、安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について、皇族方の御年齢からしても先延ばしすることはできない重要な課題であることに鑑み、本法施行後速やかに、皇族方の御事情等を踏まえ、全体として整合性が取れるよう検討を行い、その結果を、速やかに国会に報告すること。

二 一の報告を受けた場合においては、国会は、安定的な皇位継承を確保するための方策について、「立法府の総意」が取りまとめられるよう検討を行うものとすること。」

 小泉政権における有識者会議で話題とされた女性宮家創設論が、またぞろ復活です。「安定的な皇位継承のための」女性宮家とは「燃えないガソリン」と同じです。矛盾です。皇位継承とは一切関係ありません。


▽10 特例法の「退位」を「譲位」と改めよ

 特例法の成立後、平成29年12月13日には「施行期日を定める政令」が公布されました。そして同年12月20日、宮内庁は「天皇陛下お誕生日に際し」を公開しました。

「この度,再来年4月末に期日が決定した私の譲位については,これまで多くの人々が各々の立場で考え,努力してきてくれたことを,心から感謝しています。残された日々,象徴としての務めを果たしながら,次の時代への継承に向けた準備を,関係する人々と共に行っていきたいと思います」

 ここで初めて天皇陛下から「譲位」という言葉が発せられました。やはり平成28年の「象徴としてのお務めに関する天皇陛下のおことば」のポイントは譲位に関するものだったと考えてよいと思います。

 しかし特例法に譲位の言葉は一つも用いられていないのが現実です。そしてこの特例法に定められた皇嗣には不安が残ります。皇室典範の規定になぜ皇太弟が付け加えられなかったのか。皇太弟という自動的な皇位継承者の存在こそ、安定的な皇位継承につながります。

 また、附帯決議の問題です。女性宮家創設と皇位継承は関係ありません。これは女系天皇を実現するための一歩です。女系天皇は皇統史にありません。天皇はそもそも「歴史的大御位」です。歴史を重要視すれば、女系天皇はこれも「燃えないガソリン」で矛盾です。

 結局、
(1)皇室典範特例法の「退位」を「譲位」とすること
(2)皇室典範特例法で、皇室典範に「皇太弟」を追記し文仁親王殿下を皇太弟とすること
(3)皇室典範特例法の附帯決議を削除すること

 これらが必要なのではないかと、疑問を持たずにはいられません。


▽11 「女性宮家」創設論のトンデモ根拠

 この附帯決議の女性宮家創設論は女系天皇につながります。そして女系天皇論の根拠のひとつに大宝令・継嗣令の解釈が深く関係しています。継嗣令の条文と註は以下の通りです。

「凡皇兄弟皇子、皆為親王(女帝子亦同)」

 つまり本文は、「天皇の兄弟と皇子は、皆親王とせよ」との内容です。そして問題はこの註です。

(女帝子亦同)を「女帝の子もまた同じ」とする解釈がひとつ。「ひめみこも、帝の子は、また同じ」と解釈するのがひとつです。つまり皇女も内親王とせよ、との解釈です。どちらが正解か。インターネットに珍説があったので、それで説明します。

 第42代文武天皇には姉に氷高内親王(のちの元正天皇)、妹に吉備内親王(長屋王の妃)がおられました。この吉備内親王について、内親王とされたのは母が元明天皇だったからだという説です。「女帝の子」だから内親王とされたとの説です。

 たしかに文武天皇の父は草壁皇子で即位はしていません。いわゆる皇女ではありませんから、「女帝の子」は正しいように聞こえます。

 では第47代淳仁天皇の場合はどうでしょうか。妹の室女王と飛鳥田女王は、淳仁天皇の即位後、それぞれ内親王と称されました。淳仁天皇の父は舎人親王で即位はしていません。母も即位はしていません。ではなぜ内親王とされたのでしょうか。

「続日本紀」には淳仁天皇が、父の故舎人親王を崇道尽敬皇帝と称えた上で、「兄弟姉妹ことごとに親王とまをせ」と宣言されたとあります。当時、継嗣令本文の兄弟には姉妹を含み、兄弟姉妹と理解されていた証拠です。

 以上を含め、継嗣令の本文と註を、註は「皇女も(皇子と同じように)親王(内親王)とせよ」として現代語訳すると、以下のようになります。

「天皇の兄弟姉妹と皇子・皇女は、皆それぞれ親王・内親王とせよ」


▽12 継嗣令を誤って解釈した6人の有識者

 つまり氷高内親王・吉備内親王と室内親王・飛鳥田内親王に共通するのは、天皇の姉あるいは妹だったことです。これで継嗣令の註の解釈と歴史の事実が整合します。「女帝の子」だから内親王とされた訳ではありません。

 さらに現皇室典範です。

第七条「王が皇位を継承したときは、その兄弟姉妹たる王及び女王は、特にこれを親王及び内親王とする」

 これは旧皇室典範に遡ります。

第三十二条「天皇支系ヨリ入テ大統ヲ承クルトキハ皇兄弟姉妹ノ王女王タル者ニ特ニ親王内親王ノ号ヲ宣賜ス」

 これもまた継嗣令に遡ることができるのは、「皇室典範義解」の解説に明らかです。「女帝の子」はまったく関係がありません。継嗣令の註は内親王の規定です。

 皇室典範特例法の有識者会議において、ヒアリングを受けたのは20名です。このうち、その著作、所属団体が掲載した雑誌論文、インターネット放送、あるいは小泉政権の有識者会議等において、継嗣令の註を誤って解釈し、そのうえで自分の主張をしていた人が少なくとも6名います。

 園部逸夫、所功、大原康男、百地章、八木秀次、新田均の各氏です。この人たちの説では、淳仁天皇の妹たちが内親王とされた事実を説明できないはずです。つまり皇位継承に関する重要な歴史認識を誤っているのです。本当に皇位継承問題に関するヒアリングの対象者として適任だったのでしょうか、疑問です。


▽13 式典準備委員会の伝統軽視

 平成30年1月9日には式典準備委員会が設置されました。昭和から平成への御代替わりのときもそうでしたが、式典についても、歴史と伝統が軽視されているように思えてなりません。ここは当メルマガの斎藤吉久氏の主張されている通りです。

 斎藤氏の問題提起「大嘗祭を『国の行事』に」は歴史と伝統への深い敬意があります。天皇は歴史的大御位です。歴史を重視した皇位継承の式典を、いま、私たち日本人は取り戻さなければなりません。


[筆者プロフィール]
佐藤雉鳴(さとう・ちめい) 昭和25年生まれ。国体論探求者。著書に『本居宣長の古道論』『繙読「教育勅語」─曲解された二文字「中外」』『国家神道は生きている』『日米の錯誤・神道指令』
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有識者たちに望みたい天皇・皇室論の学問的深化 ──第2回式典準備委員会資料を読む 10 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年6月17日)からの転載です

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有識者たちに望みたい天皇・皇室論の学問的深化
──第2回式典準備委員会資料を読む 10
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 第2回式典準備委員会の資料を検証する作業を続けます。

 前々回から、大嘗祭について考えています。前回は番外編的に「御代替わり諸儀礼を『国の行事』とするための『10の提案』」を呼びかけましたが、今回はもう一度、践祚に戻ります。

 御代替わり時のさまざまな問題が浮き彫りになったところで、政府のヒアリングに招かれた有識者たちの発言をあらためて検証してみたいからです。

 結論的にいえば、天皇・皇室論をもっと学問的に深めるべきではないでしょうか。


▽1 御代替わりの実務や皇室の歴史・制度に詳しい方々

 政府の説明によれば、ヒアリングの趣旨は以下のようなものでした。

「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典の検討に当たっては、平成の御代替わりの際の実績を検証するとともに、皇室の伝統を踏まえ、現行の日本国憲法の趣旨に沿った在り方を検討する必要があることから、平成の御代替わりにおける実務や皇室史・皇室制度に詳しい有識者からヒアリングを行い、今後の検討の参考とする」

 この趣旨に沿って、以前の「公務負担軽減等に関する有識者会議」で意見を述べた有識者のなかから、石原信雄元内閣官房副長官、園部逸夫元最高裁判事、所功京産大名誉教授、本郷恵子東大史料編纂所教授の4人が選ばれています。

 実務家としては石原氏が招かれ、ほかのお三方は皇室の歴史や制度に詳しいということなのでしょう。実際のところはどうなのか、検証したいのです。

 ちなみにヒアリングの項目は次の4点でした。

(1)御代替わりに伴う式典全般についての留意事項
(2)天皇陛下の御退位に伴う式典の在り方
(3)平成の御代替わりに際して行われた式典に対する評価、見直すべき事項
(4)文仁親王殿下が皇嗣になられることに伴う式典の在り方

 とりわけ注目したいのは(1)から(3)までです。


▽2 国費を支出すれば「国の行事」なのか

 まず、(1)です。政府の資料によれば、全員が「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したものとする」と政府が期待する模範解答を述べたことになっています。

 問題は「伝統尊重」の中身です。

 個別意見を述べたのは所氏と本郷氏で、所氏は「国内外の通念とも調和しうるような在り方とする」ことを主張し、本郷氏は「『伝統の継承』とは、時勢にあわせて最適にして実現可能な方法を採用することである」と述べました。

 お二方の前に、石原氏の意見に耳を傾けてみます。

 石原氏は前回の御代替わりのキーパーソンですが、「前回は、各式典が、憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したものとなるよう検討を行った」と各儀式の分解方式、さらに「国事行為として行う行事」と「皇室行事」との二分方式を採用したことを自賛しています。

 結局、石原氏にとって、「国の行事」とは国費を支出するという程度の意味であり、その場合の物差しは「政教分離の観点」だったのでしょう。憲法89条は公金の支出の制限を規定しています。

 しかし、天皇の祭祀は憲法が禁止する宗教的活動でしょうか。皇室は特定の宗教団体でしょうか。たとえば大嘗祭の中身と意義について、どこまで掘り下げられたのでしょうか。最初から稲作の儀礼だ、宗教だと決め付け、国民統合の儀礼としての意義を理解しようとしなかったのではありませんか。

 戦後の混乱期に制定された皇室典範に「践祚」の用語がないことから、平安以来の「践祚」と「即位」の区別を失わせたことは、歴史的禍根以外の何ものでもないでしょう。今回も悪しき前例が踏襲されます。石原氏はそれでいいとお思いなのでしょうか。


▽3 皇室の儀礼は聖域ではなかったのか

 所氏の意見は2点にまとめられています。

「特例法に基づき決定された事項が、皇室の方々にも一般の国民にも十分に理解され満足されるような形で実現しうる式典の在り方を熟慮しなければならない」

「そのためには、約200年前まで行われていた伝統的な『譲位』『践祚』の儀式を参考にしながら、戦後の現行憲法と諸法令に適合し、当今の国内外における通念とも調和しうるような在り方を工夫して、形作る必要がある」

 つまり、御代替わりの儀礼はもともと皇室の聖域であり、時の政府が介入し、「形作る」ような領域ではない、とは述べられませんでした。皇室は権力政治とは別次元の世界であることを歴史家である先生は百も承知でしょうに。

 ついでに指摘すれば、所氏が仰せのように、200年前の光格天皇までの儀式が「伝統」だとすると、近代以後の登極令および附式による践祚のあり方は非伝統主義であり、かつ現代には通用せず、「尊重」されなくていいということでしょうか。

 もし明治人が英知を結集した皇室令が古臭い、現代には似合わないと批判されるなら、戦後70年、宮務法の体系を未整備のまま放置してきた現代人はなおのこと批判されるべきではないでしょうか。


▽4 天皇が祭祀をなさる論理とは何か

 本郷氏は、事務局によると、4つの論点を指摘しています。

「各種の式典・儀式を挙行するのは、天皇位をめぐる重要な節目を明確にし、内外に披露するためにほかならない。特に今回のお代替わりは、日本の歴史を見渡しても前例のない点が多いため、これらの式典・儀式を通じて、現代における天皇制の意義及び天皇位継承を支える論理を、国内外の多くの人々に伝え、共有をはかることができるよう留意しなければならない」

 御代替わりには古来、践祚、即位礼、大嘗祭の三本柱があることが指摘されていますが、本郷氏のいう「内外に披露する」のは即位礼であって、践祚ではありません。

 本郷氏のいう「論理」も、皇室には皇室の論理が古来、あるのであって、国民や政府によって付与されるものではないでしょう。むしろ仏教伝来以前にさかのぼり、天皇の祭祀に込められてきた皇室の価値多元主義の「論理」こそ、現代に通じるのではありませんか。

「天皇をめぐる儀礼について、長年月にわたって継承されてきた枠組みがあるのは確かである。それはしばしば『伝統』という言葉で表現される。ただし『伝統の継承』とは、過去の儀礼をそっくりそのまま繰り返すことではなく、歴史と先例を踏まえたうえで、時勢にあわせて最適にして実現可能な方法を採用することを意味する。今回の式典挙行にあたっても、現代の事情を十分勘案し、同様の姿勢をもって臨むべきだろう。様々な変化に柔軟に対応することを辞さなかったからこそ、『皇室の伝統』の存続が可能になったのである」

 皇室の原理は「伝統」オンリーではなく、「伝統と革新」こそが皇室の原理ですが、伝統の何が尊重され、どのような新例が開かれるべきかは慎重さが求められます。そのためには天皇の祭祀の中身と意義が深く探求されなければなりません。


▽5 時勢に合わせて「退位」と「践祚」を分離する?

「前近代の天皇位継承は、現天皇が次の天皇を指名し、権威を与える方式であったが、今回は皇室典範が定める皇位継承順に従った手続きであり、このような形での代替わりは、わが国の歴史上初めての事例である。したがって今回の継承(天皇だけでなく、新皇嗣への継承も含めて)が、どのような論理で行われるのかを、あらためて国民が認識することが大切と考える」

 近代以前の譲位は、天皇の指名によって、新帝に権威を与えるものだという見方は一面的でしょう。皇位継承者を指名して譲位しなければ、安定的な皇位継承ができなかったとはいえないからです。安定的な御代替わりこそが践祚の機能でしょう。

 また、今回の御代替わりは、古来、認められてきたものの、明治以後、終身在位制の採用によって認められなくなった「譲位」が近代法的に実現されるということであって、「歴史上初めて」を強調しすぎてはならないと思います。

「天皇位の継承においては空白期間が生じないようにすることが、前近代を通じての原則であった。今回も特例法においてその点は措置されている。一方、退位・即位の儀礼は、それぞれの事実を広く示すためのものなので、両儀式のあいだに時間単位での空白があっても問題にはならないだろう」

「貞観儀式」の「譲国儀」に明らかなように、譲位の宣命が宣読された瞬間、皇太子が新帝となるというのが伝統的論理であり、譲位即践祚であって、「退位」と「即位」の儀礼の分離などあり得ません。

 歴史にない「退位の礼」を新設し、「退位の礼」と践祚の式について、それぞれ「退位」と「即位」の「事実を広く示す」という新奇な「論理」で説明しなければならない理由が理解できません。それが「時勢に合わせた最適な方法」なのでしょうか。

 長くなりましたので、今回はこの辺で。
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