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神道人の議論はなぜ始まったのか ──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 1 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年12月24日)からの転載です

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神道人の議論はなぜ始まったのか
──葦津珍彦vs上田賢治の大嘗祭「国事」論争 1
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▽1 知る人ぞ知る論

 御代替わりの儀礼、とりわけ大嘗祭は国事なのか否か、しばらく考えてみたいと思います。材料となるのは、昭和天皇の晩年、前回の御代替わりが近づいたころ、神道人たちのあいだで展開された、知る人ぞ知る論争です。

 以前にも取り上げた岩井利夫・元毎日新聞記者の『大嘗祭の今日的意義』(昭和63年、錦正社)には、昭和59年に、大嘗祭のあり方をめぐって、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦先生と上田賢治・國學院大学教授(神道神学)とのあいだで交わされた、この論争が紹介されています。

 岩井氏の著書では、「大嘗祭が国事であるか、宮務であるかについて、なお貴重な論争がある」ということで、葦津先生の見解に対して上田先生が反駁された「論争」として紹介され、葦津先生が「大嘗祭を国事とはせずに公事とせよ」と主張し、上田先生は「皇室祭儀は国事たるべし」と反論したことになっています。

 とくに葦津先生の主張は「大嘗祭公事論」ということにされ、前回、そして今回の御代替わりで、大嘗祭が「国の行事」とはされないけれども、その公的性格を認め、国費支出が相当であるとするための法的根拠の1つともなっており、重要な議論です。

 しかし、この論争には、とくに3つの見逃せない論点が指摘されます。(1)憲法改正をめぐる時代背景の違い、(2)一次情報へのアクセスが困難だった時代といまの違い、(3)「国事」の意味の違い、の3点です。そして、もう1点付け加えるとすれば、今回がまさにそうであるように、かまびすしい議論とはおよそ無縁の神道人による、めったにない論争はなぜ生まれたのか、です。

 こうした問題点を踏まえたうえで、大嘗祭のあり方について、あらためて原典に振り返って、考えてみたいと思います。


▽2 書斎の研究者ではなかった葦津先生

 論争の起点である葦津先生の記事は、「皇室の祭儀礼典論──国事、私事両説解釈論の間で」と題され、昭和59年2月10日付の中外日報に載りました。タブロイド新聞の8面、9面の両面ぶち抜きでは足らずに、10面にまでまたがるボリュームでした。

 メインタイトルのほかに、「天皇がお祭りをしても“私事”なのか」「内廷費中『神事費』の所在」「『宮務法上の重儀』やっぱり“国務圏外”?」「同感できぬ『国事論』」といった見出しが紙面に散りばめられています。

 これが、いうところの「大嘗祭公事論」とされ、大嘗祭=非「国の行事」=「皇室行事」論の論拠ともされているのですが、結論からいうと、そのような解釈は誤りだろうと私は思います。葦津先生の文章は研究者のそれとは異なるからです。

 第1に、なぜ中外日報なのか、です。中外日報は明治30年創刊の、日本でもっとも歴史ある、仏教に主軸を置いた宗教専門紙です。

 葦津先生の肩書きは、論考では「元神社本庁教学委員、史家」とされていますが、社家の家系に生まれ、神社本庁設立の中心人物であり、神社新報の事実上の主幹だった葦津先生が、生涯のテーマとした宮中祭祀論に関して、なぜ神社界の専門紙である神社新報ではなく、中外日報に発表したのでしょうか。

 古巣の神社新報への掲載をわざわざ避けようとした真意は何だったのでしょう。

 第2に、葦津先生は神道思想家といわれますが、一介の野人を貫きました。82年の生涯で70冊以上といわれる書籍を著しましたが、書斎の研究者ではありません。戦中は東條内閣の統制政策と真っ向から対峙し、呂運亨を支持して朝鮮独立工作に関わり、戦後は紀元節復活、靖国神社国家護持、剣璽御動座復古、元号法制定などに中心的な役割を果たした闘う民族主義者です。

 とすれば、この中外日報の論考も字面だけで読むべきではない。単純な「大嘗祭公事論」と読むべきではない、ということになります。

 それならどう読むべきなのでしょう。


▽3 弱体だった自民党政権

 葦津先生が関わった元号法制化で、法案が国会で可決されたのは昭和54年の初夏、第一次大平内閣のときでした。当時はいまとは異なる弱体政権でした。

 直近の51年12月の34回衆院総選挙では、自民党は511議席のうち過半数割れの249議席しか獲得できず、52年7月の11回参院通常選挙の結果でも自民党は249議席中124議席を占めることしかできませんでした。

 昭和以後も「昭和」を存続させるとか、法制化ではなく内閣告示で、という選択肢も取り沙汰されるなか、53年11月に福田内閣は法制化を決定し、法案が作成され、同年暮れに大平内閣に替わって、翌54年4月には自民、公明、民社、新自クの賛成で法案が可決し、同6月には参院本会議で同様に可決、元号法は成立しました。

 元号法は成立しましたが、「元号は、政令で定める」という条文は、元号制定権の所在を曖昧にするものでした。

 大嘗祭の挙行は難問でした。憲法の政教分離問題が横たわっているからです。

 当メルマガの読者なら周知の通り、昭和49年11月に無神論者を自任する富田朝彦宮内庁次長が登場して以降、厳格な政教分離主義によって宮中祭祀の祭式は変更されました。52年7月の津地鎮祭訴訟最高裁判決では、合憲判断が下されたものの、現実には行政の神道儀式離れが促進されました。

 54年4月には衆院内閣委員会で、元号法に関する質疑が行われたとき、真田秀夫・内閣法制局長官は、「従来の大嘗祭は神式のようだから、憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか……」と答弁しています。


▽4 内閣法制局は政教分離問題に強硬

 元号法とは異なり、大嘗祭は憲法問題と直結しています。憲法を改正するには、制度上、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が発議したのち、国民投票で過半数の賛成が必要ですが、当時の議席配分ではギリギリでした。それどころか、内閣法制局は政教分離問題に関してきわめて強硬でした。

 そうした政治情勢では、皇室の伝統のままに大嘗祭を挙行することは無理かも知れないという声も囁かれていたことでしょう。そんなとき葦津先生は、事態の打開のため何を考えていたのでしょうか。

 良識ある神道人に信頼して、まっとうな議論を喚起し、問題点を浮き彫りにする必要があると考えたのではないか、というのが私が想像するところです。議論には学問的な裏付けが必要です。学問は1人でするものではないというのが葦津先生の考えでした。

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