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「私事」のまま放置する不作為と改変 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月18日)からの転載です

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「私事」のまま放置する不作為と改変
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8
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 敗戦は当然、天皇の祭祀にも大きな影響を及ぼした。

 昭和20年12月に、「目的は宗教を国家より分離することにある」とする、いわゆる神道指令が発せられると、宮中祭祀は国家的性格を否定され、「皇室の私事」として存続することを余儀なくされた。掌典職は内廷の機関となった。

 神道指令は駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷だった。政府は、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図ることを方針とせざるを得なかったとされる。異論はあったが、敗戦国の政府が占領軍に楯突くことは不可能だった。

 さらに2年後、22年に日本国憲法が施行されると、皇室令は全廃された。皇室典範を中心とする宮務法の体系が国務法に一元的に吸収され、新しい皇室典範は一法律と位置づけられた。宮中祭祀は明文法的根拠を失い、近代以前に引き戻された。

 ただ、祭祀の形式は、ほぼ従来通り存続した。

 同日に宮内府長官官房文書課長による依命通牒が発せられ、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされ、宮中祭祀令の附式に準じて、祭式はかろうじて存続することになった。

 けれどもその後、今日に至るまで、皇室令に代わる宮務法の体系は作られることはなかった。宮中祭祀の法的位置づけは「皇室の私事」のまま、変わることはなかった。

 それどころか、さらなる試練が生じた。国民の目の届かないところで、占領前期への先祖返りが起きたのだ。

 昭和40年代に入って、万年ヒラの侍従から、瞬く間に侍従長へと駆け上がった入江相政は依命通牒を無視して、祭祀を「簡素化」する「工作」に熱中した。無法化の始まりである。名目は昭和天皇の高齢化だった。

 毎月1日の旬祭の親拝は5月と10月だけとなり、皇室第一の重儀であるはずの新嘗祭は簡略化された。昭和天皇のご健康への配慮であるかのように「入江日記」には説明されているが、疑わしい。それならそれで、なぜ正規のルール作りを怠ったのか。

 そして、富田朝彦宮内庁次長(のちの長官)が登場した。冒頭に書いたように、50年8月15日の宮内庁長官室の会議で、毎朝御代拝の変更が決められた。

 国会答弁(平成3年4月25日の参院内閣委)などによると、依命通牒第4項の「前項の場合において、従前の例によれないものは、当分の内の案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること」をあわせ読んだ結果であり、政教分離原則への配慮と推定される。占領前期の厳格主義への人知れぬ先祖返りである。

 侍従は天皇の側近というより公務員であり、したがって特定の宗教である宮中祭祀への直接的関与から離脱することとなった。天皇=祭り主とする天皇観は崩壊した。

 改変の中心人物と目される富田は、いわゆる「富田メモ」で知られる元警察官僚だが、無神論者を自任していたといわれ、側近ながら祭祀に不参のことが多かった(前掲永田インタビュー)。富田らによる一方的な祭祀変更は次々に起こり、いまに尾を引いている。

 御代替わりの中心儀礼である大嘗祭もしかりであった。

 昭和54年4月、元号法制化に関する国会答弁で、真田秀夫・内閣法制局長官は「従来のような大嘗祭は神式だから、憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか」と述べた。

 戦後の混乱期には「祭祀は皇室の私事」という憲法解釈を便宜上、取らざるを得なかったにせよ、その後、正常化が図られ、34年の皇太子御成婚では、賢所大前での御結婚の儀は「国の儀式」と政府決定された。だが法制局は、大嘗祭は神道儀式と断定したのだ。(つづく)

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