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「貞観儀式」の「譲国儀」を訓読する ──第2回式典準備委員会資料を読む 6 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年4月30日)からの転載です

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「貞観儀式」の「譲国儀」を訓読する
──第2回式典準備委員会資料を読む 6
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 宮内庁が第2回式典準備委員会に提出したリポート「歴史上の実例」の批判を続けます。

 リポートは、(1)光格天皇譲位の実例、(2)今回の「退位」との比較に続いて、(3)「『貞観儀式』による譲位の儀式次第」の3つについて説明しています。これから(3)の妥当性を公正に吟味したいのですが、今回は手始めに、譲位の儀式について説明する「譲国儀」の訓読を試みることにします。

『貞観儀式』は、宮内庁のリポートに説明されているように、譲位の次第を既述した最古の儀式書です。赤堀又次郎の『御即位及大嘗祭』(御即位記念協会、大正4年)に「御即位及大嘗祭の儀式を記したる古書の中、其詳なることは、貞観儀式に超えたるものなく」と解説されていることはすでにお話ししました。それだけ重要な史料です。

 いまでは国立公文書館のデジタルアーカイブで、インターネットによって誰でもいつでも、オリジナルの資料に触れることができます。同館に所蔵されている『貞観儀式』は紅葉山文庫旧蔵本、内務省旧蔵本など何種類かあるようですが、ここではネットで公開され、10巻がそろった荷田在満校訂、内務省旧蔵のものを読むことにします。

「譲国儀」は巻5にあり、6ページにわたっています。宮内庁のリポートは、この記述に基づいて、「譲位の儀式次第の大綱」を説明しているのですが、原文は漢字だらけで、私のような素人には歯が立ちそうにありません。

 幸い、内田順子「『譲国儀』の検討」(岡田精司編『古代祭祀の歴史と文学』所収。1997年)や藤森健太郎『古代天皇の即位儀礼』(2000年)、佐野真人「『譲国儀』儀式文の成立と変遷──新帝の上表を中心に」(「神道史研究」平成29年10月)など優れた研究業績がありますので、参考にさせていただくことにします。

 概観すると、一条兼良「代始和抄」に「毎度のこと」として書かれている「警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀」のうち、宣制を中心に記述されていることが、すぐに理解されます。

 もう1点、気づかされるのは、藤森先生が指摘しているように、「『儀式』では、譲位の宣命が読み上げられる時点を境にして、それまで皇太子として扱われていた新君主の表記が天皇としての表記に変わる」ことです。それだけ宣制が重要だということでしょう。

 宣制ののち皇太子は「今帝」「皇帝」「今上」となられ、そして剣璽が渡御するのです。

 しかし今回は、「宣命および宣命使による宣読は行われない」(宮内庁リポート)とされています。これが「皇室の伝統の尊重」を基本方針の柱とする御代替わりの実態なのです。そのことを最初に指摘しておきます。

 さて、以下が訓読です。[ ]はオリジナルの割り注、( )内は私の註釈です。


「譲国の儀」

 天皇、予め本宮(内裏)を去りたまふ。百官、従ひて、御在所に遷る(行幸)。
 先立つこと3日、諸関(鈴鹿関、逢坂関、不破関)を固める使ひを遣はす[勅符、官符、木契(ぼくけい)を造る。および緘(糸篇に咸。かん)封等別にその儀あり](警固・固関)。
 当日平旦(夜明けごろ)、太政官、式部省を召し、刀禰(とね。六位以上を指す)を集会(会集)せしむべきの状を仰す。大臣、内記(書記官)を召し、譲位の宣命を作らしむ。
 訖(お)はりて、まづ草案をもって内侍(ないし)に就け、奏覧し[もし損益すべきものあらば、勅の処分によって筆す]、返したまふ。大臣、本の所に復(かへ)りて、黄紙(おうし)に書かしめ、書杖(文ばさみ)に挿して、祗候(伺候)す。
(節会については言及がない)
 式部、親王以下、行立の版を置く。中務、宣命の版を尋常の版の北に置く。諸衛、中儀を服す。主殿寮、御輿、便所(びんしょ)に候す。式部、百官の人を南門の外に計列(列立)す[参議以上、門内に候す]。
 皇帝(天皇)、南殿(紫宸殿)に御す(国立公文書館のサイトに公開されている内務省旧蔵の「貞観儀式」巻4「譲国儀」では、紅葉山文庫旧蔵本と異なり、「皇帝、南面に御す」と記されている)。
 内侍、檻に臨み、大臣を喚(め)す。大臣、称唯(いしょう)して、宣命の文を執る。および、宣命に堪ふる参議已上(以上)を定む。内侍に付けて、これを執り、奏覧す。大臣、立ちて、階下に候す。
 皇太子、坊を出で、入りて、殿上の座に就く。次に大臣、また升(昇)りて、座に就く。左右の近衛の将曹各一人、近衛各二人を率ゐて、南門を開く。大臣、舎人(とねり)を喚す。および親王已下、参入等の儀、常の如し[親王已下五位以上、門内に列す。六位以下は門外に列す]。
 立ちて定む。大臣、宣命の大夫を喚し、宣命の文を授く。これを受けて(宣命の大夫は)殿を下り、暫く便所に立つ[大臣、殿を下りて、庭中の列に就くを侍つ]。大臣、同じく階を下りて、庭中の列に就く。ここに宣命の大夫、進みて版に就く。
 皇太子、座を起ち、而立したまふ。宣命の大夫、宣制して、いはく、明神(あらみかみ)と大八洲(おおやしま)の国知らす天皇が御命らまと詔(の)たまふ。大命を親王ら王ら臣ら百官の人ら天下の公民衆聞食と宣(の)る。親王已下、称唯して再拝す(ときに臨みて宣命定詞あることなし)。大臣已下、称唯・拝舞す。訖はりて宣命の大夫、還りて本列に就く(以上、宣制について詳述されている)。
 次に親王已下、退出す。次に中務の丞、参入して版を取りて退出す。近衛、門を閉づ。
 訖はりて今帝(新帝)、南階より下りて、階を去ること一許丈(約3メートル)、拝舞したまふ。訖はりて歩行す。列に帰りたまふ。内侍、節剣(宝剣)を持ち、追従す。所司、御輿を供奉す。皇帝(新帝)、辞して駕したまはず。
 衛の陣、警蹕す。少納言一人、大舎人らを率ゐて、(神璽が納められた)伝国璽の櫃を持ちて、追従す。次に少納言一人、大舎人・闈(門がまえに韋)司(いし)らを率ゐて、鈴印鎰(金偏に益。れいいんやく。駅鈴、内印、関鎰の総称)を持ちて、今上(新帝)の御所に進づる。次に近衛の少将、近衛らを率ゐて、供御の雑器を持ちて、同所に進づる(剣璽渡御)。
 訖はりて今上、春宮坊に御す。諸衛、警蹕・侍衛は常の如し(新主の御所の儀については詳しくない)。

 以上ですが、宮内庁のリポートは読み方の上で重大な相違があることが分かります。そのことが今回の御代替わり儀式のあり方にも大きな影響を与えているものと思われますが、詳しくは次回、お話しします。
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宮内庁は混乱している。これが「伝統の尊重」か ──第2回式典準備委員会資料を読む 5 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成30年4月22日)からの転載です

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宮内庁は混乱している。これが「伝統の尊重」か
──第2回式典準備委員会資料を読む 5
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 宮内庁が作成したリポート「歴史上の実例」は、光格天皇譲位の実例を振り返ったあとで、今回の「退位」の儀式とを比較していますが、宮内庁による歴史的検討の混乱ぶりはいよいよ明らかです。
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 政府は「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したものとする」を御代替わり儀式の「基本的な考え方」とすることを4月3日に閣議決定していますが、不正確な歴史理解の上に「伝統の尊重」などあり得ないでしょう。

 具体的に見ると、宮内庁による比較のポイントは、「場所」「内裏から仙洞御所への行幸」「参列者」「皇太子の参列」「御退位事実の公表」「剣璽」の6点です。以下、それぞれについて検討してみることにします。


1、場所

 宮内庁のリポートでは、光格天皇の譲位の儀式が行われた場所は仙洞御所(桜町殿)で、今回の御譲位の儀式(案)では宮殿松の間になると説明されています。「仙洞御所未整備」と括弧付きで書き添えられているのは、その理由と読めます。

 しかし不正確です。

 前回、指摘したように、ほかならぬ宮内省がまとめた「仁孝天皇実録」には「清涼殿に於いて受禅あらせらる」と記録されています。光格天皇の譲位すなわち仁孝天皇の践祚の儀は仙洞御所ではなく、清涼殿で行われたのです。

 光格天皇は、「貞観儀式」の定めに従い、御譲位に先立って、仙洞御所に行幸になったのでした。誤った歴史理解との比較検討自体、無意味です。

 リポートには、「日本無双の才人」と呼ばれた一条兼良の「代始和抄」に「毎度のことなり」と解説されている、御代替わりに先立って行われる「警固・固関」についての言及もありません。光格天皇御譲位の日から「三箇日」にわたって行われたと記録されている「内侍所御神楽供進」すなわち賢所の儀も無視されています。

 御代替わりに際して、皇宮警察がいにしえの装束を身にまとい、皇居の各御門を固めたら、日本の歴史の深さを内外に示せるでしょうに。


2、内裏から仙洞御所への行幸

 リポートは、光格天皇のときの行幸は「あり」とし、「パレードではない」と注意書きしています。これに対して、今回は、「御所から宮殿へ御移動」になると説明しています。

 宮内庁の説明は、既述したように、仙洞御所が未整備で、行幸のしようがないということなのでしょう。

 しかし、「貞観儀式」の「譲国儀」の冒頭に、「天皇予去本宮、百官従、遷於御在所」と仙洞御所への行幸について記述されているのは軽視すべきことでしょうか。むろん「パレード」ではありませんが、剣璽とともに仙洞御所に遷られることは意味があるのだろうと私は思います。

 今回、仙洞御所が未整備なのは事実ですが、「退位」までまだ1年以上もあるのです。工事を急げば、行幸を200年ぶりに復活させることはけっして不可能ではないでしょう。


3、参列者

 リポートでは、光格天皇の際には、「関白、左大臣ほか」が参列したとし、「儀式書『貞観儀式』においては、親王以下五位以上の参列者は門内に列立し、六位以下の参列者は門外で列立した」と説明しています。

 これに対して、今回は、供奉の皇族方のほか、三権の長らが配偶者を含め、約300人が参列するとされています。

 すでに指摘したことですが、ここでいう参列とは、光格天皇の譲位が行われたとする仙洞御所での儀式なのでしょうか。譲位の儀は仙洞御所ではなくて、清涼殿で行われたのであり、比較はまったく意味がありません。

 また、服装についての説明がありませんが、今回はモーニングでしょうか。


4、皇太子の参列

 宮内庁のリポートは、光格天皇の事例では「皇太子(恵仁親王)は譲位儀に参列しない」「内裏内の東宮御在所から清涼殿にお出まし」と解説し、今回は「皇太子殿下は、他の皇族方とともに、天皇陛下に供奉して松の間に入られる」と説明しています。

 一方で、「『貞観儀式』では、天皇と皇太子がそろって儀場の上皇御所にお出ましになり、譲位が執り行われることとされていた。光格天皇の以前に行われた譲位儀(後桜町天皇から後桃園天皇へ。47年前)においても、譲位は天皇と皇太子がおそろいで行われた(場所は紫宸殿)」と注意書きを加えています。

 すでに申し上げたように、光格天皇から仁孝天皇への譲国の儀は、仙洞御所ではなくて清涼殿で行われたのであり、皇太子恵仁親王も当然、お出ましになっています。

 宮内庁の説明はまったく間違っています。

 今回、陛下は退位後、皇太子殿下の即位の儀式に出席(参列)なさらないご意向だとの報道が伝えられていますが、剣璽渡御の儀(剣璽等承継の儀)にお出ましにならないということなら、皇位継承の本質からみて、あり得ません。


5、御退位事実の公表

 宮内庁のリポートは、光格天皇のときには宣命使に譲位の宣命を宣読させたが、今回は宣命および宣命使による宣読は行われず、総理の奉謝と陛下のお言葉によって、御退位が内外に明らかにされる、と説明しています。

 一条兼良の「代始和抄」に、「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」と書かれてあるように、宣命は重要ですが、今回の場合、そもそも天皇の発意による「譲位」ではなく、国民の意思に基づく「退位」だとされるのなら、「宣命」は認められないことにもなります。

 また、リポートには節会についての言及がありません。はじめから想定していないということでしょうか。これが「皇室の伝統の尊重」でしょうか。


6、剣璽

 リポートには、光格天皇の際は「譲位儀に引き続いて、剣璽が新天皇の下に移される(桜町殿→内裏清涼殿)」とされ、今回は「剣璽は、御退位の儀式当日(平成31年4月30日)には承継されない。剣璽等承継の儀は、新天皇陛下が御即位になる5月1日に行われる」と説明しています。

 しかし、これも完全に間違いです。

 光格天皇の譲位の儀が仙洞御所で行われたのではなくて、仙洞御所から清涼殿ヘ剣璽渡御が行われたのち、清涼殿で光格天皇から仁孝天皇への譲位即践祚の儀礼が行われ、剣璽が新帝に遷られたのです。

 200年前の事例にならうなら、今上陛下の退位の礼と皇太子殿下の践祚の式、すなわち剣璽等承継の儀は、5月1日に連続して、一連の儀式として、行われるべきではないでしょうか。

 政府は、退位と即位とを何が何でも分離したい意向のようですが、そのこと自体、譲位即践祚という伝統に反していると私は思います。

 それにしても、私のような素人でも分かるような間違いを、宮内庁はなぜ犯しているのでしょうか。200年ぶりの譲位とも、憲政史上初めてともいわれる譲位に基づく御代替わりに、こんな瑕疵があっていいものでしょうか。

 それとも私がとんでもない読み違いをしているのでしょうか。できれば、そうあってほしいとさえ思います。私はタチの悪い冗談を聞かされているような気がしてなりません。
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宮内庁は史実のつまみ食いをしている!? ──第2回式典準備委員会資料を読む 4 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成30年4月9日)からの転載です

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宮内庁は史実のつまみ食いをしている!?
──第2回式典準備委員会資料を読む 4
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 式典準備委員会による検討を踏まえて、陛下の譲位等に関する基本方針が決まりましたが、政府・宮内庁は退位(譲位)と即位(践祚)の分離という、皇室の歴史と伝統に反する重大な過ちを犯していないかと心から心配しています。
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 政府は「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重」を基本的な考え方としていますが、陛下の「御退位に伴う式典」と皇太子殿下の「御即位に伴う式典」を別立てとすることは「皇室の伝統」とはいえないでしょう。

 宮内庁はじつのところ、そのことを知っています。宮内庁が2月の式典準備委員会に提出した「歴史上の実例」と題する6ページのリポートには、「(貞観儀式の)『譲国儀』では、譲位と践祚を一連の儀式とする次第が定められている」と明記されているからです。

 古来の慣例をふり返り、とくに200年前の光格天皇の事例に学び、その上で今回の退位(譲位)のあり方を考えるのは当然であり、重要です。そして宮内庁は当然、平安期の儀式書も、200年前の光格天皇の事例でも「譲位即践祚」の原則が貫かれていることを認識しているのですが、それでも結局、「皇室の伝統」は尊重されていません。

 陛下のご意向とされる退位の実現に重点が置かれてきた結果、退位と即位の分離は既定路線とならざるを得なかったのでしょうか。辻褄合わせの史実のつまみ食いさえ行われています。「皇室の伝統尊重」は画餅に過ぎません。


▽1 宮内庁による皇室用語の乱れ

 宮内庁がまとめた「歴史上の実例」、とりわけ「光格天皇の例」は、宮内庁作成とは思えない不思議な内容でした。

 第1に、皇室用語の乱れです。「旧天皇」「新天皇」「前天皇」と、およそ「歴史」的ではない新語が並んでいます。歴史用語と新語の混在はまるでキメラのようで、異様です。

 一般的には、宮内庁こそは皇室の歴史と伝統を守る砦と考えられているでしょうが、現実はそうではありません。

 用語の乱れが注目されるのは、皇室制度の基本に関わるからです。

 たとえば、宮内庁のサイトには「ご日程」が公表されていますが、「天皇陛下のご日程」ではなく「両陛下のご日程」とされています。本来、「陛下」は天皇のみの敬称であり、民間から入られた皇后は「見なし皇族」というお立場ですが、もはや「上御一人」から「一夫一婦」天皇制に変質したかのようです。

 そして譲位と践祚の分離です。


▽2 譲位儀が仙洞御所で行われた?

 2月の会合には宮内庁作成のリポートが2本提出されています。「歴史上の実例」と「両陛下の平成御大礼時の御日程について」です。

 まず前者ですが、御退位と御即位に伴う式典準備委員会に提出されたリポートですから、古来の譲位に伴う御代替わりについてまとめられたのかといえばそうではありません。200年前についていえば、もっぱら光格天皇の譲位のみが取り上げられています。

 即位に関する史的考察は後者で、「即位礼・大嘗祭関係」「地方行幸啓等」の日程がまとめられています。即位のあり方は平成の前例踏襲で足りるのであり、譲位に伴う歴史上の即位のあり方を検証する必要はないという姿勢でしょうか。

 しかしほんとうにそれで済むのでしょうか。ここでは、宮内庁が『光格天皇実録』『仁孝天皇実録』(書陵部蔵)をもとに表にまとめた、200年前の御代替わりについて考えてみます。「 」内が引用です。少しだけ、表現を読みやすく編集してあります。


1、譲位までの経緯

「文化13(1816)年5月16日、光格天皇が翌年3月に譲位なさることを仰せ出される」

 10か月前の表明ということになります。今上陛下の場合、「退位のご意向を強くにじませた」とメディアが伝えたビデオ・メッセージは、平成28年8月8日でした。

「文化14年2月14日、譲位の日時を広く通達される」

 約40日前の通達でした。今回、政府が退位特例法の施行日を「平成31年4月30日」と閣議決定したのは、29年12月8日です。

2、賢所の儀

「文化14年2月20日、光格天皇が内侍所臨時御神楽の儀に出御される」

 譲位の1か月前に賢所の儀が臨時で行われ、天皇がお出ましになりました。宮内庁はこの史実を認識していますが、今回、少なくとも政府、宮内庁が賢所の儀を行うことについて検討している気配がありません。

 なお、光格天皇のときは御神楽の儀ですが、先帝崩御を前提とする明治42年の登極令では、諒闇践祚ゆえ、掌典長によって天皇の御代拝が奉仕され、賢所の儀が3日間、行われることと定められていました。平成の御代替わりでも、賢所の儀は行われました。

 さらに蛇足ながら、「実録」によれば、3月13日、光格天皇は稲荷、梅宮両社において、御譲位・御受禅行幸の御祈祷を修せしめたのでした。「神事を先にす」が皇室の伝統ですが、リポートには言及がありません。

3、警固固関(けいごこげん)

「文化14年3月21日、警護担当等に命じて宮城の警護を行わせ、また三関(伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、近江国逢坂関)の閉鎖を命じる儀式を行う」

 警固固関という歴史用語がありますが、リポートでは使われていません。なお警固固関は登極令にはありません。今回、検討された気配はまったくありませんが、このようにリポートには登場しています。

4、行幸

「文化14年3月22日、光格天皇は卯刻(午前5〜7時)過ぎに装束を召され、内裏の紫宸殿より御退出になり、上皇の御在所(仙洞御所)となる桜町殿に行幸になる。辰半刻(午前8時)過ぎ、桜町殿御着」

「同日(時刻は不明)、皇太子(恵仁(あやひと)親王)は東宮御在所(内裏御涼所(おすずみどころ)北)から新天皇の御所(清涼殿)に行啓になる。皇太子は、譲位儀には参列されていない」

 ご承知の通り、光格天皇が剣璽とともに仙洞御所に移られるときの模様を描いたとされる「桜町殿行幸図」が残されており、ネットで公開されています。

 この行幸について、リポートは、「光格天皇は、譲位儀当日、内裏から鳳輦により、上級官人約80人の供奉で仙洞御所に移られ、このとき、各上級官人の従者や警護の武士など大勢のものもいっしょに動いた。この際、築地の内の公家や所司代の関係者からお見送りを受けたもので、公衆に披露する御列(パレード)ではない」と註釈しています。

 行幸図が残されているほど大がかりなものなのに、国民主権主義的な性格はないというような理由で否定的なのには違和感があります。国民主権主義とは次元が異なりますが、皇室行事はけっして閉鎖的ではないからです。最近の研究では、近世、即位礼の拝観が庶民に許され、チケットが配られていたことが明らかになっているほどです。

 リポートは行幸時の装束について言及していますが、今回の退位の儀で陛下は装束を召されるのでしょうか。検討はされたのでしょうか。

 また、「新主」「新帝」という用語がありますが、宮内庁の資料では「新天皇」です。

5、譲位儀

「同日、光格天皇は桜町殿弘御所(ひろごしょ)御帳内にお出ましになり、皇太子への譲位儀を行われる」

 リポートでは仙洞御所で譲位儀が行われたことになっています。また、皇太子が参列されなかったことについて、異例とされています。

 リポートは、「『貞観儀式』では、天皇と皇太子がそろって儀場の上皇御所にお出ましになり、譲位が執り行われることとされていた。光格天皇の以前に行われた譲位儀(後桜町天皇から後桃園天皇へ。47年前)においても、譲位は天皇と皇太子がおそろいで行われた(場所は紫宸殿)」と注記しています。

 しかし資料の誤読ではありませんか。譲位儀の儀場は仙洞御所(リポートでは上皇御所)ではないはずです。

「貞観儀式」は、天皇が紫宸殿に出御され、皇太子が紫宸殿の座に就き、宣命使が譲位の宣命を読み上げ、皇太子が新帝となられると記していますし、何よりも宮内省がまとめた「仁孝天皇実録」が明確に、「清涼殿に於いて受禅あらせらる」と記録しています。

 宮内庁はあろうことか、宮内省作成の記録を内容的に否定しています。退位と践祚を分離したい一心で、仙洞御所での譲位儀があったかのように、歴史の捏造におよんだのでしょうか。そんなことがあり得るのでしょうか。

6、宣命と節会

「巳半刻(午前10時)、宣命使に譲位の宣命を宣読させる。庭上の参列者は、宣命文の段落の切れ目ごとに「おお」と声を出して応答(称唯。いしょう)し、拝礼する。宣命が読み終えられたら、称唯し拝舞する」

 仙洞御所では節会も行われましたが、宮内庁の資料ではどういうわけか、抜けています。史実を客観的に、正確に検証する姿勢ではないとの疑いが晴れません。

 室町期の一条兼良『代始和抄』には「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」とありますから、節会は重要なはずです。「実録」に引用されいる「寛宮御用雑記」などにも、「所司代於桜町殿節会拝見」とありますが、宮内庁は無視しています。

 そもそも宮内庁は、「簡にして要を得たる」(赤堀又次郎)と評される「代始和抄」を、史的検討のうえで参考にしていません。

7、剣璽渡御

「同日、未刻(午後1時)ごろ、前天皇が桜町殿弘御所昼御座(ひのおまし)にお出ましになる。
 関白が御前に候し、公卿は南の庭に列立する。
 内侍2人が剣璽を執り、南庇に出る。中将2人がそれぞれ剣・璽を受け取り、捧持して桜町殿弘御所南庇より筵道を進み、新天皇の御所(清涼殿)に向かう。
 公卿らが供奉する[桜町殿→陽明門代→建春門→日華門→(紫宸殿の西側)→清涼殿]」

「未半刻(午後2時)前、剣璽が清涼殿の東階前にお着きになる。
 供奉の公卿は紫宸殿西側の弓場(ゆば)付近に西面して列立する。
 新天皇が清涼殿昼御座(ひのおまし)にお出ましになる。
 中将2人が剣璽を捧持して東階を昇り、内侍に授ける。
 関白も東階を昇り、広庇(ひろびさし)で控える。供奉の公卿らは退出する。
 未後刻(午後3時)頃、内侍は剣璽を清涼殿の夜御殿(よんのおとど)に奉安する」

 ほかの項目と比較すると異常なほど、宮内庁は剣璽渡御について詳細にリポートしています。他方、剣璽渡御の開始時に、すでにして「前天皇」と表現されているのは不自然さを禁じ得ません。むろん剣璽が継承されるのは清涼殿でのことでした。

 結局、御代替わりに先帝から新帝に皇位の印である剣璽が継承されるのではなくて、譲位と即位とを分離し、先帝が剣璽を「手放す」のが退位だという発想が原因なのでしょう。しかし桜町殿では剣璽を「手放す」ことは行われていません。

 宮内庁による光格天皇譲位の事例研究はここで終わっています。肝心要の譲位即践祚について、宮内庁のリポートはまったく解説していません。歴史を検証する政府・宮内庁の目的は、退位であって、即位ではないのでしょう。したがって、リポートは「代始和抄」に「毎度のことなり」とされている「新主の御所の儀式」に言及していません。


▽3 桜町殿で行われたのは宣命の作成

 それなら、あらためて桜町殿で、そして新主の御所で何がどのように行われたのでしょうか。宮内庁のリポートは具体的に、何にフタをしたのでしょうか。

 参考にすべきはむろん「実録」で、この日の出来事を詳細に記録した「日次案」(日誌)が10ページほど引用されていますが、漢字だらけでとても歯が立ちません。幸い、所功先生が訓読されたものがありますので、以下、感謝の意を込めつつ、引用させていただきます(「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』=「藝林」昨年4月号)。

 まず、仙洞御所での儀式です。

 宮内庁のリポートにあるように、この日、光格天皇は桜町殿に行幸になりました。日次案は、80名におよぶ参加者の役職と名前を克明に記録したあと、桜町殿での様子を次のように伝えています。

「左大臣・権大納言・右衛門督、萬里小路中納言・左衛門督等、仗座に着く。大臣、官人をして膝突を敷かしむ。
次に職事来りて勅使のことを仰す。大臣、官人をして弁を召し仰せしむ。
次に内記、宣命草を進り、大臣披見し、弓場代に就きて奏聞す。畢りて返し賜ひ、清書すべき由を内記に仰す。
次に内記、清書を進り、大臣披見し、弓場代に就きて奏聞す。畢りて返し賜ひ、次に大臣、還り仗座に着き、宣命を賜ふ。
天皇、御帳の中の椅子に着きたまふ。近仗、階下に陣し、内侍、檻に臨む。
次に大臣、宣命に御笏を取り副へ、昇殿して兀子に着く。
次に門を開き、#(門がまえに韋)司、座に着く。
次に内弁、舎人を召して版に就く。
次に内弁、刀祢を召し、少納言、称唯して出し召す。
次に外弁、標の下に参列す。
次に内弁、宣命使を召す。授る(ママ)宣命使、これを賜り、殿を降りて軒廊に立つ。
次に内弁、殿を降りて列に加はる。
次に宣命使、版に就き、宣制一段、群臣再拝す。
次に宣命使、本列に復す。諸卿、退出す。
入御したまふ。近仗退出す」

 桜町殿での儀式の中心は宣命ではなくて、宣命の作成であり、このあと節会が行われたようですが、これらは宮内庁のリポートにいうような退位の儀式と理解すべきなのでしょうか。


▽4 政府の説明は当を得ていない

 節会が終わったあと、天皇は新主の御所に移られ、剣璽渡御が行われました。

「節会訖りて、剣璽を新主の御所に渡さる。昼御所を出御したまふ。
関白、御簾を#(ウ冠に寒の下が衣。ふさ)ぎ、御前の円座に着く。
次に公卿以下、簾中に立つ。内侍二人、剣璽を執りて南庇に出づ。あらかじめ筵道を敷く。左右の大将、簀子に候す。
次に近衛二人、参進し、南階より昇りて当間に入り、剣璽を取りて階を降り、筵道を歩き、新主の御所に到る。公卿以下、前後に供奉す。
次に殿上の侍臣、昇りて御衣の案を御前に立つ。五位蔵人、仰せを奉りて、新主の御所に持参す。
この間、御帳以下の調度を渡し、入御したまふ」

 以下は略しますが、所先生の解説によれば、こうです。

「未刻ころ、剣璽が下御所(桜町殿)を出てから、建春門を入って清涼殿ヘ渡御される。左大臣以下は紫宸殿脇の仗座に就き、宣命が出来上がると奏聞する。そこで天皇は御帳の椅子に着かれ、内弁から宣命を受け取った宣命使が、版位に就いて『宣制』すると、いったん入御された。
 さらに節会のあと、剣璽を『新主』(仁孝天皇)へ渡すため、天皇が清涼殿の昼御所を出られると、内侍が剣璽を執って新主の御所(御常御殿か)に到った。
 その後、子半刻ころ、関白が殿上の座に就き、御前で仁孝天皇の『仰せ』を奉り、『折紙』を院司に給ると、院司は中門の外で『賀』を奏してから退出した。ついで、あらためて関白以下が参入して『賀』を申し、『御祝儀』を進めている」

 所先生の説明では、宣命が読み上げられたのは、宮内庁のリポートが譲位儀が行われたとする仙洞御所ではなくて、清涼殿なのでした。剣璽渡御も同様で、むろん新帝もお出ましになっています。

 とすれば、光格天皇の譲位儀は仙洞御所で宣命使に宣命を宣読させたが、今回の退位の礼では宮殿松の間で総理大臣の奉謝、陛下のお言葉によって退位が内外に明らかにされるという政府の説明はまったく当を得ていないことになりませんか。

 ほかならぬ保守長期政権下で、皇室の歴史と伝統がねじ曲げられ、御代替わりの儀礼が歪められるのは、なにか悪い夢でも見ているような気分です。できれば思い過ごしであることを願うばかりですが、たとえば今回、有識者のヒアリングに応じた1人でもある所先生は、この現実をいかがお考えでしょうか。それでも、譲位(退位)と践祚(即位)は分離されるべきでしょうか。
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リアリティなき御代替わり。日本人は変わった!? ──式典準備委員会決定「基本方針」の「案の定」 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年4月1日)からの転載です

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リアリティなき御代替わり。日本人は変わった!?
──式典準備委員会決定「基本方針」の「案の定」
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 3月半ばにまとめられると伝えられていた陛下の退位(譲位)等に関する政府の基本方針が、半月遅れでようやく発表されました。3月に開かれる予定とされていた第3回式典準備委員会は、ギリギリの30日金曜日に開かれました。朝の7時45分から、という慌ただしさでした。
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 森友騒動の対応に追われ、官邸は退位どころではなかったということでしょうか。御代替わりは国家の最重要案件であり、したがって、その検討は「静かな環境」で進められることが重要だと何度も強調されてきたはずですが、現実は正反対です。


▽1 名ばかりの伝統尊重

 しかも、委員会が決定した基本方針の中身は案の定というべきもので、「皇室の伝統の尊重」は名ばかりです。

 公表された資料によると、平成の御代替わりの考え方、内容が基本的に踏襲されます。事務は、式典委員会(内閣)および式典準備連絡本部(内閣府)が統括します。「退位の礼」と剣璽渡御の儀(剣璽等承継の儀)は分離して行われ、践祚(即位)後朝見の儀は「剣璽等承継の儀後、同日に」行われます。

 つまり、悪しき先例が踏襲され、かつての大礼使のような特別組織は設置されません。「譲位即践祚」が儀式の上で表現されることはなく、3日間におよぶ賢所の儀のあとに朝見の儀が行われるという昭和、平成までの方式は破られることになります。天皇第一のお務めとされてきた祭祀については、政府は関知しないという頑なな姿勢が現れています。

 長期保守政権下において、このような非宗教主義、非伝統主義が採用されることは何にもまして、事態の深刻さを示しています。

 125代続く「祭り主」天皇の考え方は顧みられず、日本国憲法を最高法規とし、とりわけ政教分離原則を厳守する、1・5代象徴天皇論に基づく御代替わりの方式が確定することになります。次の次の御代替わりも、そのまた次もこの形式が続くことでしょう。

 唯一の救いは、御代替わりに伴う祭祀が皇室行事とされるため、政治的な介入、干渉、圧迫を受けずに済むことですが、私の目には敗北主義としか映りません。

 守られるのは、宗教性があるとされ、「国家神道」のカゲがちらつく天皇の祭祀であり、米と粟による国民統合儀礼ではなく、稲の祭りとされる大嘗祭だからです。無理解はいっこうに正されず、「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇「禁秘抄」)と歴代天皇が信じ、実践された皇室の歴史と伝統への偏見を是認するものだからです。


▽2 生々しさを失った天皇意識

 なぜそうなるのか、結局のところ、およそこの半世紀の間に、日本人が変わってしまったということではないでしょうか。

 メディアは「憲法の理念に忠実に」と訴え、式典準備委員会に呼ばれた有識者は1人として天皇の祭祀に言及せず、それどころか、憲法の理念に反する宗教性の否定を要求しています。他方、「祭祀重視」を訴える国民の声がとくに聞こえてくるわけでもありません。

 天皇の祭祀は、宗教関係者は別にして、国民にとってはリアリティを失っています。日本人の天皇意識から生々しさが消えてしまっています。

 かつて日本人の天皇意識は、皇室が建築技術や養蚕・機織りなどを教えてくださったというような古代に連なる祖先の記憶や郷土の物語とともに、暮らしに密着したものでした。その名残を留める神社が各地に残されていますが、いまや現代人にとって、郷土や祖先とのつながりは、きわめて希薄です。

 現代の日本人にとって、天皇とは憲法上の抽象的で観念的な存在です。生々しいリアリティは新たに創造されたのであり、今上陛下が皇后陛下とともに、国民と親しく交わられる、憲法の規定にもない、地方行幸やご訪問、お見舞いなどによるものです。陛下が「全身全霊で」ご公務に打ち込んでこられた結果、天皇意識に現実感が与えられたのです。

 そのことは逆に、現代日本人の天皇観がバーチャルで不安定であることの何よりの証拠ともなります。

 大正時代、明治神宮創建の指揮を執った伊東忠太は、モダンな時代にふさわしい斬新な建築様式を望む革新的な意見に抗して、日本人の精神はいささかも変わっていないと反論し、流れ造による伝統形式の社殿が建てられました。

 しかし、いまの時代はどうでしょうか。側近中の側近までが天皇の祭祀を敬遠し、歴史にない女系継承容認=「女性宮家」創設を推進し、宮中祭祀=「皇室の私事」論を各地で講演して回り、そして今日の事態を招いたのです。

 日本人が変わってしまったのだとして、あらためて考えていただけないものでしょうか。私たちの祖先が編み出した、価値多元主義に基づく、天皇を祭り主とする国家制度は、世界的に争いの絶えない現代において、価値の低い過去の遺物というべきものなのかどうか。
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