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「退位の儀式など歴史にない」と明言した有識者は皆無 ──第2回式典準備委員会資料を読む 11 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年6月25日)からの転載です

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「退位の儀式など歴史にない」と明言した有識者は皆無
──第2回式典準備委員会資料を読む 11
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 有識者ヒアリングの2番目の設問は、「天皇陛下の御退位に伴う式典のあり方」でした。

 これに対して、政府がまとめた資料によれば、4方とも共通して「国事行為として、国の儀式とする」「剣璽を安置する」と述べ、園部、所、本郷の三氏は「退位の事実を広く明らかにする儀式とする」「陛下のお言葉がある」いう意見で一致し、さらに石原、園部、所の三氏は「平成31年4月30日昼に実施」で一致したのでした。

 誰一人として、所、本郷両氏の2人の歴史家も含めて、皇室の長い歴史において「退位の礼」などないと明言した有識者はいませんでした。歴史上、あったかのように政府と口裏を合わせ、権力におもねった歴史家風の知識人がいるだけです。

 そんな有識者ヒアリングに何の意味があるのでしょうか。そんなことで、文明の本質に関わる御代替わりのあり方を決めていいのか、私は暗澹たる思いに駆られます。


▽1 「退位の儀式」は既定の事実?

 まず石原信雄氏の場合は、「退位の儀式」はもはや既定の事実となっているかのようで、「退位の儀式は国事行為として『国の儀式』として行うべきだ」「即位の儀式と同日というのは無理だ」「国事行為は明るい時間に行うものだ。国事行為のスタイルで行うべきだ」と確信的です。

 さらに、注目すべきは、「剣璽は神器ではない。政教分離とも関係ない」と言い放っています。皇室の歴史と伝統への敬意が、少なくとも私にはほとんど感じられません。御代替わりを論じる以前の問題です。

 もともと歴史家でもない石原氏に期待しても無理なのかも知れませんが、石原氏とって、「国の行事」とは何でしょう。国費を支出してやるから、つべこべ文句は言うなという調子のことなのでしょうか。それが125代続いてきた御代替わりなのでしょうか。

「内閣の助言と承認」のもとに、皇室の歴史にない「退位の礼」なるものを、陛下はなぜ在位の最後に無理強いされなければならないのか。皇室の儀式がなぜそこまで政治的干渉を受けなければならないのですか。そもそも国事と国事行為とは別物ではないのですか。

 次に園部逸夫氏は、「国民主権原則に沿うこと、政教分離原則に反しないことなどが求められる」「光格天皇の例などを参考にすることが大切である」「中心儀式として『退位を公に宣明されるとともに、国民の代表が感謝の挨拶をする儀式』として実施してはどうか」などと述べました。

 しかし、憲法の原則を持ち出すなら、摂政を置けばいいのであって、「退位」は否定されるべきです。「光格天皇の例を参考に」というのなら、「退位の礼」などあり得ません。結局、歴史に学ぶのはポーズに過ぎず、新例の創作に暴走せざるを得ないのでしょう。

 もともと譲位とは皇太子に皇位を継承することであり、譲位の「宣明」は国民に対してではなく、皇太子に対して行われるべきであって、践祚の式として連続して執り行われるべきではないのでしょうか。

 しかし歴史家でもないお二人には、糠に釘なのでしょう。問題は皇室の歴史に詳しいはずの残るお二人の意見です。


▽2 ヒアリングで豹変する態度

 つづいて所氏ですが、やはり「退位の儀式」が当然あるものとして意見が述べられています。

「退位を認識できる儀式は国事行為としなければならない」「そのためには4月30日の昼が相応しい」「退位の儀式と朝見の儀が考えられる」「前者は宮内庁長官が退位の趣旨を申し上げるだけでよい」「剣璽を帯同されるべきだ」などという具合です。

 すでに何度も申し上げてきたように、皇室の歴史において譲位即践祚であって、独立した「退位の儀式」などあり得ません。皇室研究家ならそんなことは常識でしょうが、所氏はなぜかそういう重大な指摘はなさらないのでした。

 以前、ご紹介した所氏の論考「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』」(「藝林」昨年4月号)は、貞観儀式の「譲国儀」や「光格天皇実録」を取り上げ、歴史上の「譲位・受禅」の儀式には、内裏を離れられる遷御、清涼殿での宣命、新主への祝賀の3段階があったと解説していました。

 光格天皇の譲位は仁孝天皇の践祚と一体的に、同じ日に、同じ場所で行われたことを所氏の論考は正しく指摘しています。ところが、政府のヒアリングではそのような客観的な史実が語られることはありませんでした。

 論文とヒアリングで歴史への態度が豹変するのは、なぜなのでしょう。「退位に伴う朝見の儀」を執行するというアイデアはどこから出てくるのでしょう。新儀の創出は歴史家として政府の要求に応えたことになるのでしょうか。歴史家として相応しい態度なのですか。


▽3 有識者とは「燃えないガソリン」か?

 最後は本郷氏ですが、やはり期待外れというべきものでした。

「退位の儀式は、即位の礼と同様、法律で定まった退位の事実を、儀式を通じて国内外に明らかにするという意義を持つと考えられる」と最初から「退位の礼」あるべしで固まっています。

 それにしても、皇室典範に「即位の礼」が規定されているから、「退位の礼」もあってしかるべきだというような論理はまったく非歴史的であって、歴史家の採るべき態度ではないでしょう。

 譲国儀は皇嗣に皇位が間断なく、安定的に引き継がれることが趣旨であって、譲位を「内外に明らかにする」ことではないはずですが、本郷氏は歴史の事実を語るより、今回の御代替わりに対する意見がもっぱら披瀝されています。

 いわく、「即位の礼が国事行為なら、退位の儀式も国事行為とするのが整合的だ」「今回は初めての事例であり、退位のお言葉を陛下が述べられるという形式がよろしい」「ご高齢の両陛下に、ご負担がかからないような配慮が欠かせない」などなど。

 半面、本郷氏が皇室の歴史に言及し、歴史家たる面目を保ったのは、政府の資料によれば、わずかに2点のみでした。

 1点は「過去の譲位は、天皇の崩御や政治的な事情等から準備期間をもうける余裕がなく行われることも多く、その手続きは、本来複雑なものではない」こと、2点目は「歴史的には、天皇をめぐる儀礼について、女性の参画を禁忌とする原則はなかったと考えられる」ことです。

 前者についていえば、光格天皇の場合は譲位の表明は10か月前でした。譲位の日時は約40日前に通達され、1か月前に内侍所で臨時御神楽の儀が行われ、光格天皇が出御されました。譲位前日には三関が封鎖され、当日は朝から総勢700人以上に及ぶ遷御の行列が仙洞御所まで続いたのでした。

 本郷氏が言うように「複雑なものではない」にしても、けっして「単純なものではない」でしょう。仙洞御所までの遷御の模様を描いた、上下巻合わせて40メートルを超える華麗な絵巻物が伝えられていることを、本郷氏が知らないはずはないでしょうに。

 後者についていえば、即位礼に男女の庶民が多数拝観していたことが近年、分かってきました(森田登代子『遊楽としての近世天皇即位式』)。明正天皇の「御即位行幸図屏風」(宮内庁所蔵)には、紫宸殿で挙行される即位礼を間近に拝観しながら、乳飲み子に授乳する女性2人が描き込まれているほどです。

 歴史を語らない歴史家とは、前号で論考を寄せてくださった佐藤雉鳴氏の表現を借りればまさに「燃えないガソリン」でしょうか。政府の人選が誤りなのか、逆に政府の意図を「忖度」できる、適材過ぎる適材なのか。それとも有識者と呼べる人材がそもそもこの国にはいないのか。それがゆえの今日の混乱なのか。

 歴史家たるものが、後世、歴史的な批判を受けることがないよう、祈るばかりです。
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皇室典範特例法を批判する by佐藤雉鳴 ──取り戻さなければならない皇室の歴史と伝統 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年6月24日)からの転載です

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皇室典範特例法を批判する by佐藤雉鳴
──取り戻さなければならない皇室の歴史と伝統
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▽1 天皇陛下のおことばの衝撃

 平成29年6月9日、皇室典範の特例法が成立しました。さらに平成29年12月13日には、その施行期日を、二年後の平成31年4月30日とする政令が公布されました。平成の代がその日をもって終わるということです。昭和、平成と生きていた私には、いろいろ思うところがありました。

 思い出せば平成28年の8月8日午後、私は新宿にいました。あの日の夕方、友人と新宿で会食の予定がありました。それで少し早めに出て、天皇陛下のビデオ・メッセージを家電量販店の大きなディスプレィで拝聴することにしたのです。

 午後3時、メッセージは「象徴としてのお務めに関する天皇陛下のおことば」として放映されました。ディスプレィの前には私一人しかいませんでした。月曜日の午後3時ということも関係していたかもしれません。途中、一組の東洋系外国人カップルが通りすがりに5〜6秒立ち止まりましたが、すぐに歩き去りました。

 さてメッセージを拝聴して、私は少なからぬ衝撃を受けました。皇室典範に関する重要事項が含まれていたからです。会食後、帰宅してすぐに録画を繰り返し繰り返し確認しました。最後に陛下は「国民の理解を得られることを、切に願っています」と仰せられました。

 私たち国民が理解すべきこととは、いったい何なのでしょうか。


▽2 見えにくい特例法成立までの経緯

「天皇陛下のおことば」からあれよあれよの間に特例法が成立しました。断片的な報道はあったものの、私には特例法が成立するまでの経緯がよくわかりませんでした。いま、公開された資料を基に整理すると、主な流れがわかります。

平成28年8月8日「象徴としてのお務めに関する天皇陛下のおことば」
平成28年10月17日「天皇の公務の負担軽減に関する有識者会議」の設置
平成29年1月21日 安倍総理の施政方針演説
平成29年3月17日 衆参正副議長によるとりまとめ
平成29年4月21日 有識者会議最終報告
平成29年6月9日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」成立
平成29年12月13日 施行期日を定める政令公布
平成29年12月20日「天皇陛下お誕生日に際し」
平成30年1月9日 式典準備委員会設置
平成30年3月9日 特例法施行令公布

 この間、もちろん国会での議論もありました。しかしこの歴史をゆるがす皇室典範の特例法について、激しい論戦はありませんでした。本当に十分な議論がなされたのでしょうか。やはり検証する必要があると思います。


▽3 「おことば」から浮かび上がる譲位

 まず、「天皇陛下のおことば」の内容について、今一度整理してみます。ここでは正確を期すために、宮内庁のサイトから引用します。

「本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います」

「既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています」

「また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」

「始めにも述べましたように,憲法の下(もと),天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。
 国民の理解を得られることを,切に願っています」

 畏れ多くも、陛下の「おことば」を総合すると、「譲位」が浮かび上がってきます。


▽4 「退位」と言い換えたメディア

 しかしこの「譲位」について、テレビや新聞ではわかりやすく報道されなかったように思います。ほとんどのメディアは「退位」と表現しました。

 これまで125代のうち、譲位された天皇は59名と云われていますが、退位された天皇は一人も存在しません。皇位は天皇の崩御と同時に践祚が行われ、新帝に承け継がれました。あるいは譲位と同時に受禅があって、皇位は継承されました。前者を諒闇践祚、後者を受禅践祚とする言い方もあるようです。即位の儀式は然る後に行われました。

 この践祚という言葉は、旧皇室典範にあって現皇室典範にはありません。

旧皇室典範第十条「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」

 つまり一瞬たりとも皇位の空白が起きないように、践祚ということが規定されていたのです。

 現皇室典範では即位のみで、践祚、神器はありません。

現皇室典範第四条「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」

 また、どちらの皇室典範にも譲位はありません。旧皇室典範では、皇位継承に関する「権臣の強迫」、いわば政治的恣意性による混乱を避けるため譲位は排除されました。これは伊藤博文『皇室典範義解』に記されています。現皇室典範もこの考え方が基礎となっています。さらには退位もありません。これは我が国の歴史に一貫しています。

 ここで譲位と退位の概念を整理してみます。譲位には、譲位する側とされる側があって成立します。退位はたんに「位を退く」ことであり、位の継承者は念頭にありません。

 今上陛下は「そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました」と仰せられました。ですから「おことば」は明らかに譲位を意味しているのであって、退位だけを意味するものではないと思います。


▽5 成立した皇室典範特例法も「退位」

「天皇のおことば」から約十か月後の平成29年6月9日、国会では「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が成立しました。法律名には譲位ではなく退位が用いられています。「おことば」からすると、やはり違和感を禁じ得ません。

 ではこの特例法の内容はどんなものでしょうか。ポイントを要約します。

第一条
(1)御高齢になられた天皇陛下が、今後の御活動を深く案じておられること
(2)国民は、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること
(3)現下の状況に鑑み、天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定める

第二条
天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位するものとする

第三条
退位した天皇は、上皇とするものとする

第四条
上皇の后は、上皇后とするものとする

第五条
この法律による皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太子の例によるものとする

附則第三条
天皇の退位等に関する皇室典範特例法は、皇室典範と一体を成すものであるとの規定を新設する

 以上のように、この特例法に譲位はありません。また「皇嗣となった皇族」とあるように、皇位継承者について、皇太子のような特定の皇族を表現していません。

 なぜこのような特例法となったのでしょうか? まず有識者会議の中身を眺めてみます。


▽6 「天皇の公務の負担軽減に関する有識者会議」の設問

 有識者会議は、その第3回目から順次、20名の外部識者にヒアリングを行いました。全員に同じ質問を設定しましたが、その内容を官邸のサイトから引用します。

「聴取項目 以下の項目について、ヒアリング対象者から20分程度意見の陳述を受け、 10分程度の意見交換を行う。
(1)日本国憲法における天皇の役割をどう考えるか。
(2)(1)を踏まえ、天皇の国事行為や公的行為などの御公務はどうあるべきと考えるか。
(3)天皇が御高齢となられた場合において、御負担を軽くする方法として何が考えられるか。
(4)天皇が御高齢となられた場合において、御負担を軽くする方法として、憲法第5条に基づき、摂政を設置することについてどう考えるか。
(5)天皇が御高齢となられた場合において、御負担を軽くする方法として、憲法第4条第2項に基づき、国事行為を委任することについてどう考える か。
(6)天皇が御高齢となられた場合において、天皇が退位することについてどう考えるか。
(7)天皇が退位できるようにする場合、今後のどの天皇にも適用できる制度とすべきか。
(8)天皇が退位した場合において、その御身位や御活動はどうあるべきと考えるか。」


▽7 「ご負担軽減」が「退位」に豹変した最終報告

 このヒアリング等を経て、有識者会議は平成29年4月21日付けで「最終報告」を出しました。これも官邸のサイトから読んでみます。この有識者会議が検討事項とした内容は、この目次に表れています。

目次

「はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

(1)最終報告の取りまとめに至る経緯・・・・・・・・・・・・2

(2)退位後のお立場等・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
1退位後の天皇及びその后の称号・・・・・・・・・・・・・・・4
2退位後の天皇及びその后の敬称・・・・・・・・・・・・・・・7
3退位後の天皇の皇位継承資格の有無・・・・・・・・・・・・・7
4退位後の天皇及びその后の摂政・臨時代行就任資格の有無・・・7
5退位後の天皇及びその后の皇室会議議員就任資格の有無・・・・8
6退位後の天皇及びその后の皇籍離脱の可否・・・・・・・・・・9
7退位後の天皇が崩御した場合における大喪の礼の実施の有無・・10
8退位後の天皇及びその后の陵墓・・・・・・・・・・・・・・・11

(3)退位後の天皇及びその后の事務をつかさどる組織・・・・・12

(4)退位後の天皇及びその后に係る費用等・・・・・・・・・・13
1退位後の天皇及びその后に係る費用・・・・・・・・・・・・・13
2天皇の退位に伴い承継される由緒物への課税の有無・・・・・・13

(5)退位後の天皇の御活動のあり方・・・・・・・・・・・・・14

(6)皇子ではない皇位継承順位第一位の皇族の称号等・・・・・15
1称号・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
2事務をつかさどる組織・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
3皇室経済法上の経費区分・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
4その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18

おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20

 最終報告ではあるものの、「退位」の文字が目立ちます。「天皇の公務の負担軽減」から「天皇の退位」へ豹変したのです。

 有識者会議の設置から三か月後の平成30年1月20日、安倍総理は国会において施政方針演説を行いました。その冒頭の発言です。

「まず冒頭、天皇陛下の御公務の負担軽減等について申し上げます。現在、有識者会議で検討を進めており、近々論点整理が行われる予定です。静かな環境の中で、国民的な理解の下に成案を得る考えであります」

「静かな環境の中」とはどういうことでしょうか。もちろん皇位継承に関することですから、騒々しい環境は相応しくありません。ただ、密室での議論に聞こえなくもない気がします。また有識者会議の報告に反論をしないでほしい、そんなニュアンスも感じられます。


▽8 「皇太弟」を定めない「衆参正副議長のとりまとめ」

 有識者会議が進む中、平成30年3月17日衆参正副議長から「とりまとめ」が発表されました。後に成立した特例法の内容とほぼ同じです。そして気になる点は「天皇の退位後の文仁(秋篠宮)親王殿下に関連する規定」と法案要綱の対比表です。

 秋篠宮親王殿下の呼称について、法案要綱では「呼称を設けない」とされています。徳仁親王殿下の即位に伴って、皇位継承順位の第一位は秋篠宮親王殿下となります。しかし徳仁天皇の弟君ですから、皇太子とは称されません。皇室典範に表現はありませんが、歴史的には皇太弟があります。

「日本後紀」によれば嵯峨天皇・淳和天皇が皇太弟でした。また「大日本史料」等によれば村上天皇・近衛天皇・順徳天皇・亀山天皇が皇太弟と称されていました。有識者会議のヒアリングでは本郷恵子東京大学史料編纂所教授が、この皇太弟を主張しましたが、特例法には記載がありません。

 そして国会ではこの件に関し、民進党(当時)の奥野総一郎議員から質問主意書が提出されました。衆議院のサイトから引用します。

「皇太子及び皇太孫が不在の場合、皇位継承順位第一位となる皇族は、同条同項の条文上は皇籍離脱でき得ることとなる。仮に同条同項の趣旨が『皇位継承順位第一位の者が皇籍離脱することを認めない』(同旨「皇室法概論」園部逸夫著)であるならば、規定の趣旨に合致しないこととなり、制度の不備ではないか」

 皇室典範の規定に皇太弟はありません。皇太子・皇太孫だけです。したがって皇嗣という一般名称では「皇籍離脱」の可能性が考えられます。それで「皇籍離脱の制限」は制度の不備ではないかとの質問でした。ちなみに皇室典範の規程は以下の通りです。

第十一条第二項「親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王は、前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる」

 これに対する衆議院大島理森議長の答弁です。

「皇室典範第十一条第二項において『親王』から『皇太子及び皇太孫を除く』としているのは、『親王』のうち皇位継承の順位が第一位であって天皇の直系の子孫である方については、『やむを得ない特別の事由があるとき』であっても皇族の身分を離れることができないとするものであって、御指摘のように、一般的に『皇位継承順位第一位の者が皇籍離脱することを認めない』という趣旨であるとは解していないことから、そのような趣旨であることを前提としたお尋ねについてお答えすることは困難である」


▽9 不安定な「皇嗣」の皇位継承

 あいまいでよく分かりません。結局のところ、皇太子・皇太孫ではない皇嗣の即位については、自動的に皇位継承となるのではなく、皇室会議の議を経る可能性があると考えられます。もしそうなら、これは安定的な皇位継承にとって、まさに一大事であると言わなければなりません。

 皇室会議を構成する議員10名のうち皇族は2方で、あとは衆・参両院の議長・副議長、内閣総理大臣、宮内庁長官、最高裁判所長官・同判事1人です。反天皇の政権がないとは限りません。皇位継承に政権が関与することは危険です。皇位継承は皇室の家法(成文法は旧皇室典範)で決定されるべきものです。

 また参議院において、特例法についての附帯決議も可決されました。

「一 政府は、安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について、皇族方の御年齢からしても先延ばしすることはできない重要な課題であることに鑑み、本法施行後速やかに、皇族方の御事情等を踏まえ、全体として整合性が取れるよう検討を行い、その結果を、速やかに国会に報告すること。

二 一の報告を受けた場合においては、国会は、安定的な皇位継承を確保するための方策について、「立法府の総意」が取りまとめられるよう検討を行うものとすること。」

 小泉政権における有識者会議で話題とされた女性宮家創設論が、またぞろ復活です。「安定的な皇位継承のための」女性宮家とは「燃えないガソリン」と同じです。矛盾です。皇位継承とは一切関係ありません。


▽10 特例法の「退位」を「譲位」と改めよ

 特例法の成立後、平成29年12月13日には「施行期日を定める政令」が公布されました。そして同年12月20日、宮内庁は「天皇陛下お誕生日に際し」を公開しました。

「この度,再来年4月末に期日が決定した私の譲位については,これまで多くの人々が各々の立場で考え,努力してきてくれたことを,心から感謝しています。残された日々,象徴としての務めを果たしながら,次の時代への継承に向けた準備を,関係する人々と共に行っていきたいと思います」

 ここで初めて天皇陛下から「譲位」という言葉が発せられました。やはり平成28年の「象徴としてのお務めに関する天皇陛下のおことば」のポイントは譲位に関するものだったと考えてよいと思います。

 しかし特例法に譲位の言葉は一つも用いられていないのが現実です。そしてこの特例法に定められた皇嗣には不安が残ります。皇室典範の規定になぜ皇太弟が付け加えられなかったのか。皇太弟という自動的な皇位継承者の存在こそ、安定的な皇位継承につながります。

 また、附帯決議の問題です。女性宮家創設と皇位継承は関係ありません。これは女系天皇を実現するための一歩です。女系天皇は皇統史にありません。天皇はそもそも「歴史的大御位」です。歴史を重要視すれば、女系天皇はこれも「燃えないガソリン」で矛盾です。

 結局、
(1)皇室典範特例法の「退位」を「譲位」とすること
(2)皇室典範特例法で、皇室典範に「皇太弟」を追記し文仁親王殿下を皇太弟とすること
(3)皇室典範特例法の附帯決議を削除すること

 これらが必要なのではないかと、疑問を持たずにはいられません。


▽11 「女性宮家」創設論のトンデモ根拠

 この附帯決議の女性宮家創設論は女系天皇につながります。そして女系天皇論の根拠のひとつに大宝令・継嗣令の解釈が深く関係しています。継嗣令の条文と註は以下の通りです。

「凡皇兄弟皇子、皆為親王(女帝子亦同)」

 つまり本文は、「天皇の兄弟と皇子は、皆親王とせよ」との内容です。そして問題はこの註です。

(女帝子亦同)を「女帝の子もまた同じ」とする解釈がひとつ。「ひめみこも、帝の子は、また同じ」と解釈するのがひとつです。つまり皇女も内親王とせよ、との解釈です。どちらが正解か。インターネットに珍説があったので、それで説明します。

 第42代文武天皇には姉に氷高内親王(のちの元正天皇)、妹に吉備内親王(長屋王の妃)がおられました。この吉備内親王について、内親王とされたのは母が元明天皇だったからだという説です。「女帝の子」だから内親王とされたとの説です。

 たしかに文武天皇の父は草壁皇子で即位はしていません。いわゆる皇女ではありませんから、「女帝の子」は正しいように聞こえます。

 では第47代淳仁天皇の場合はどうでしょうか。妹の室女王と飛鳥田女王は、淳仁天皇の即位後、それぞれ内親王と称されました。淳仁天皇の父は舎人親王で即位はしていません。母も即位はしていません。ではなぜ内親王とされたのでしょうか。

「続日本紀」には淳仁天皇が、父の故舎人親王を崇道尽敬皇帝と称えた上で、「兄弟姉妹ことごとに親王とまをせ」と宣言されたとあります。当時、継嗣令本文の兄弟には姉妹を含み、兄弟姉妹と理解されていた証拠です。

 以上を含め、継嗣令の本文と註を、註は「皇女も(皇子と同じように)親王(内親王)とせよ」として現代語訳すると、以下のようになります。

「天皇の兄弟姉妹と皇子・皇女は、皆それぞれ親王・内親王とせよ」


▽12 継嗣令を誤って解釈した6人の有識者

 つまり氷高内親王・吉備内親王と室内親王・飛鳥田内親王に共通するのは、天皇の姉あるいは妹だったことです。これで継嗣令の註の解釈と歴史の事実が整合します。「女帝の子」だから内親王とされた訳ではありません。

 さらに現皇室典範です。

第七条「王が皇位を継承したときは、その兄弟姉妹たる王及び女王は、特にこれを親王及び内親王とする」

 これは旧皇室典範に遡ります。

第三十二条「天皇支系ヨリ入テ大統ヲ承クルトキハ皇兄弟姉妹ノ王女王タル者ニ特ニ親王内親王ノ号ヲ宣賜ス」

 これもまた継嗣令に遡ることができるのは、「皇室典範義解」の解説に明らかです。「女帝の子」はまったく関係がありません。継嗣令の註は内親王の規定です。

 皇室典範特例法の有識者会議において、ヒアリングを受けたのは20名です。このうち、その著作、所属団体が掲載した雑誌論文、インターネット放送、あるいは小泉政権の有識者会議等において、継嗣令の註を誤って解釈し、そのうえで自分の主張をしていた人が少なくとも6名います。

 園部逸夫、所功、大原康男、百地章、八木秀次、新田均の各氏です。この人たちの説では、淳仁天皇の妹たちが内親王とされた事実を説明できないはずです。つまり皇位継承に関する重要な歴史認識を誤っているのです。本当に皇位継承問題に関するヒアリングの対象者として適任だったのでしょうか、疑問です。


▽13 式典準備委員会の伝統軽視

 平成30年1月9日には式典準備委員会が設置されました。昭和から平成への御代替わりのときもそうでしたが、式典についても、歴史と伝統が軽視されているように思えてなりません。ここは当メルマガの斎藤吉久氏の主張されている通りです。

 斎藤氏の問題提起「大嘗祭を『国の行事』に」は歴史と伝統への深い敬意があります。天皇は歴史的大御位です。歴史を重視した皇位継承の式典を、いま、私たち日本人は取り戻さなければなりません。


[筆者プロフィール]
佐藤雉鳴(さとう・ちめい) 昭和25年生まれ。国体論探求者。著書に『本居宣長の古道論』『繙読「教育勅語」─曲解された二文字「中外」』『国家神道は生きている』『日米の錯誤・神道指令』
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有識者たちに望みたい天皇・皇室論の学問的深化 ──第2回式典準備委員会資料を読む 10 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年6月17日)からの転載です

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有識者たちに望みたい天皇・皇室論の学問的深化
──第2回式典準備委員会資料を読む 10
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 第2回式典準備委員会の資料を検証する作業を続けます。

 前々回から、大嘗祭について考えています。前回は番外編的に「御代替わり諸儀礼を『国の行事』とするための『10の提案』」を呼びかけましたが、今回はもう一度、践祚に戻ります。

 御代替わり時のさまざまな問題が浮き彫りになったところで、政府のヒアリングに招かれた有識者たちの発言をあらためて検証してみたいからです。

 結論的にいえば、天皇・皇室論をもっと学問的に深めるべきではないでしょうか。


▽1 御代替わりの実務や皇室の歴史・制度に詳しい方々

 政府の説明によれば、ヒアリングの趣旨は以下のようなものでした。

「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典の検討に当たっては、平成の御代替わりの際の実績を検証するとともに、皇室の伝統を踏まえ、現行の日本国憲法の趣旨に沿った在り方を検討する必要があることから、平成の御代替わりにおける実務や皇室史・皇室制度に詳しい有識者からヒアリングを行い、今後の検討の参考とする」

 この趣旨に沿って、以前の「公務負担軽減等に関する有識者会議」で意見を述べた有識者のなかから、石原信雄元内閣官房副長官、園部逸夫元最高裁判事、所功京産大名誉教授、本郷恵子東大史料編纂所教授の4人が選ばれています。

 実務家としては石原氏が招かれ、ほかのお三方は皇室の歴史や制度に詳しいということなのでしょう。実際のところはどうなのか、検証したいのです。

 ちなみにヒアリングの項目は次の4点でした。

(1)御代替わりに伴う式典全般についての留意事項
(2)天皇陛下の御退位に伴う式典の在り方
(3)平成の御代替わりに際して行われた式典に対する評価、見直すべき事項
(4)文仁親王殿下が皇嗣になられることに伴う式典の在り方

 とりわけ注目したいのは(1)から(3)までです。


▽2 国費を支出すれば「国の行事」なのか

 まず、(1)です。政府の資料によれば、全員が「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したものとする」と政府が期待する模範解答を述べたことになっています。

 問題は「伝統尊重」の中身です。

 個別意見を述べたのは所氏と本郷氏で、所氏は「国内外の通念とも調和しうるような在り方とする」ことを主張し、本郷氏は「『伝統の継承』とは、時勢にあわせて最適にして実現可能な方法を採用することである」と述べました。

 お二方の前に、石原氏の意見に耳を傾けてみます。

 石原氏は前回の御代替わりのキーパーソンですが、「前回は、各式典が、憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したものとなるよう検討を行った」と各儀式の分解方式、さらに「国事行為として行う行事」と「皇室行事」との二分方式を採用したことを自賛しています。

 結局、石原氏にとって、「国の行事」とは国費を支出するという程度の意味であり、その場合の物差しは「政教分離の観点」だったのでしょう。憲法89条は公金の支出の制限を規定しています。

 しかし、天皇の祭祀は憲法が禁止する宗教的活動でしょうか。皇室は特定の宗教団体でしょうか。たとえば大嘗祭の中身と意義について、どこまで掘り下げられたのでしょうか。最初から稲作の儀礼だ、宗教だと決め付け、国民統合の儀礼としての意義を理解しようとしなかったのではありませんか。

 戦後の混乱期に制定された皇室典範に「践祚」の用語がないことから、平安以来の「践祚」と「即位」の区別を失わせたことは、歴史的禍根以外の何ものでもないでしょう。今回も悪しき前例が踏襲されます。石原氏はそれでいいとお思いなのでしょうか。


▽3 皇室の儀礼は聖域ではなかったのか

 所氏の意見は2点にまとめられています。

「特例法に基づき決定された事項が、皇室の方々にも一般の国民にも十分に理解され満足されるような形で実現しうる式典の在り方を熟慮しなければならない」

「そのためには、約200年前まで行われていた伝統的な『譲位』『践祚』の儀式を参考にしながら、戦後の現行憲法と諸法令に適合し、当今の国内外における通念とも調和しうるような在り方を工夫して、形作る必要がある」

 つまり、御代替わりの儀礼はもともと皇室の聖域であり、時の政府が介入し、「形作る」ような領域ではない、とは述べられませんでした。皇室は権力政治とは別次元の世界であることを歴史家である先生は百も承知でしょうに。

 ついでに指摘すれば、所氏が仰せのように、200年前の光格天皇までの儀式が「伝統」だとすると、近代以後の登極令および附式による践祚のあり方は非伝統主義であり、かつ現代には通用せず、「尊重」されなくていいということでしょうか。

 もし明治人が英知を結集した皇室令が古臭い、現代には似合わないと批判されるなら、戦後70年、宮務法の体系を未整備のまま放置してきた現代人はなおのこと批判されるべきではないでしょうか。


▽4 天皇が祭祀をなさる論理とは何か

 本郷氏は、事務局によると、4つの論点を指摘しています。

「各種の式典・儀式を挙行するのは、天皇位をめぐる重要な節目を明確にし、内外に披露するためにほかならない。特に今回のお代替わりは、日本の歴史を見渡しても前例のない点が多いため、これらの式典・儀式を通じて、現代における天皇制の意義及び天皇位継承を支える論理を、国内外の多くの人々に伝え、共有をはかることができるよう留意しなければならない」

 御代替わりには古来、践祚、即位礼、大嘗祭の三本柱があることが指摘されていますが、本郷氏のいう「内外に披露する」のは即位礼であって、践祚ではありません。

 本郷氏のいう「論理」も、皇室には皇室の論理が古来、あるのであって、国民や政府によって付与されるものではないでしょう。むしろ仏教伝来以前にさかのぼり、天皇の祭祀に込められてきた皇室の価値多元主義の「論理」こそ、現代に通じるのではありませんか。

「天皇をめぐる儀礼について、長年月にわたって継承されてきた枠組みがあるのは確かである。それはしばしば『伝統』という言葉で表現される。ただし『伝統の継承』とは、過去の儀礼をそっくりそのまま繰り返すことではなく、歴史と先例を踏まえたうえで、時勢にあわせて最適にして実現可能な方法を採用することを意味する。今回の式典挙行にあたっても、現代の事情を十分勘案し、同様の姿勢をもって臨むべきだろう。様々な変化に柔軟に対応することを辞さなかったからこそ、『皇室の伝統』の存続が可能になったのである」

 皇室の原理は「伝統」オンリーではなく、「伝統と革新」こそが皇室の原理ですが、伝統の何が尊重され、どのような新例が開かれるべきかは慎重さが求められます。そのためには天皇の祭祀の中身と意義が深く探求されなければなりません。


▽5 時勢に合わせて「退位」と「践祚」を分離する?

「前近代の天皇位継承は、現天皇が次の天皇を指名し、権威を与える方式であったが、今回は皇室典範が定める皇位継承順に従った手続きであり、このような形での代替わりは、わが国の歴史上初めての事例である。したがって今回の継承(天皇だけでなく、新皇嗣への継承も含めて)が、どのような論理で行われるのかを、あらためて国民が認識することが大切と考える」

 近代以前の譲位は、天皇の指名によって、新帝に権威を与えるものだという見方は一面的でしょう。皇位継承者を指名して譲位しなければ、安定的な皇位継承ができなかったとはいえないからです。安定的な御代替わりこそが践祚の機能でしょう。

 また、今回の御代替わりは、古来、認められてきたものの、明治以後、終身在位制の採用によって認められなくなった「譲位」が近代法的に実現されるということであって、「歴史上初めて」を強調しすぎてはならないと思います。

「天皇位の継承においては空白期間が生じないようにすることが、前近代を通じての原則であった。今回も特例法においてその点は措置されている。一方、退位・即位の儀礼は、それぞれの事実を広く示すためのものなので、両儀式のあいだに時間単位での空白があっても問題にはならないだろう」

「貞観儀式」の「譲国儀」に明らかなように、譲位の宣命が宣読された瞬間、皇太子が新帝となるというのが伝統的論理であり、譲位即践祚であって、「退位」と「即位」の儀礼の分離などあり得ません。

 歴史にない「退位の礼」を新設し、「退位の礼」と践祚の式について、それぞれ「退位」と「即位」の「事実を広く示す」という新奇な「論理」で説明しなければならない理由が理解できません。それが「時勢に合わせた最適な方法」なのでしょうか。

 長くなりましたので、今回はこの辺で。
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御代替わり諸行事を「国の行事」とするための「10の提案」 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年6月10日)からの転載です

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御代替わり諸行事を「国の行事」とするための「10の提案」
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関係者各位

拝啓 皆々様にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

さて、次の御代替わりまで、早くも一年足らずとなりました。

政府は「前例踏襲」を基本としており、古来の儀礼が非伝統的、非宗教主義的に変更された前回同様の不都合が繰り返されます。次がそうなら、次のまた次も同様であり、いまのままでは「伝統尊重」とは懸け離れた御代替わりのあり方が確定されます。

きわめて憂慮すべき事態であり、国民的な議論が大いに喚起されるべきですが、残念なことに問題意識さえ十分に共有されていないのが現実です。

他方で、来年度予算の概算要求の時期が迫ってきました。予算が確定すれば、もはや後戻りはできません。今が最後の正念場です。皆々様のお力添えがどうしても必要です。

昨春の問題提起から1年あまりが過ぎました。一縷の望みをかけて、ここにあらためて、関係各位に謹んで、以下、「10の提案」を呼びかけさせていただきます。

斎藤吉久拝


             


1、御代替わりの諸行事すべてを「国の行事」と位置づけてほしい

「御国譲りは天下の重事」(一条兼良「代始和抄」)であり、御代替わりは全体として国家の大事、国事です。関連する儀式を「国の行事」と「皇室行事」とに二分する前回の方式は改められるべきです。

 前回は、皇位継承に関する践祚の式のうち、政教分離の趣旨に照らして、「国の行事」とすることが困難とされた賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀については「皇室行事」とされ、剣璽渡御の儀は剣璽等承継の儀と非宗教的に改称されました。

 しかし昭和34年、賢所大前で行われた皇太子明仁親王殿下(今上天皇)の結婚の儀は「国の儀式」(天皇の国事行為たる儀式)と閣議決定されています。平成5年の皇太子徳仁親王殿下の結婚の儀も同様です。

 皇太子の結婚の儀が「国の儀式」なのに、天皇の御代替わり儀礼の中心たる大嘗祭などが「国の行事」とされないのは矛盾です。

 関連する儀式をバラバラに分解し、法的位置づけを区別すること自体、皇室行事への不当な介入であり、「皇室の伝統尊重」に悖るのではありませんか。


2、「国の行事」であることの意味を深く探究してほしい

 御代替わりは国事であると同時に、皇室の重儀です。世俗権力の介入が許されない皇室の聖域であり、本来なら、そのあり方は政府が決めることではありません。

 明治の近代化以後、かつては皇位の継承について、皇室典範以下、宮務法に細かく規定されていましたが、戦後は宮務法の体系がすべて失われました。しかも憲法を「最高法規」とする現行の法体系には抽象的規定しかありません。70年間、具体的な法規定を未整備のまま放置してきた戦後の法体制のあり方にこそ、問題があります。

 政府は前回、御代替わりの中心行事である大嘗祭について、宗教行事だから「国事行為」としては行えないが、きわめて重要な皇位継承行事であり、公的性格があるから、その費用は宮廷費から支出することが相当であるとし、今回もこの考え方を踏襲しています。

 国事と「国事行為」とは別のはずですが、政府のいう「国の行事」とは、憲法に規定される、「内閣の助言と承認を必要」とする「国事行為」の意味で、その中身は国費が直接に投じられ、国家機関が参与する程度のことなのでしょうか。


3、歴史的概念、歴史用語を尊重し、使用してほしい

 政府が御代替わり儀礼について、「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重」を基本的考え方としていることは、十分、理解できるし、同意しますが、「伝統尊重」ならば、皇室伝統の考え方や用語が採用されるべきではないでしょうか。

 前回の御代替わりでは、「践祚」の概念が消え、平安時代の桓武天皇以来といわれる、皇位継承を意味する「践祚」と、それから日を隔てて、皇位継承を内外に表明される「即位」との区別が失われました。旧皇室典範と異なり、敗戦後の混乱期に制定された現行皇室典範には「践祚」の用語がありません。

 しかし、帝国議会で皇室典範改正が議論されたとき、政府は、改正案には「践祚」の文字は消えたが中身に変更はないという趣旨で答弁しています。

「践祚後朝見の儀」と表現することに何か不都合でもあるのでしょうか。


4、祭祀最優先の皇室の伝統を尊重し、関連する祭祀に配慮してほしい

 古来、皇室は「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇「禁秘抄」)という祭祀優先主義を固持してこられました。祭祀こそ天皇第一のお務めです。

 たとえば200年前の光格天皇から仁孝天皇への譲位では、作法に従い、譲位の日から3日間、内侍所で祭祀が斎行されたことが記録に残されています。

 昭和の御代替わりでは、登極令附式に基づき、践祚後3日間、賢所の儀が行われ、践祚後朝見の儀はその翌日に行われました。平成の御代替わりもほぼ同様でした。

 しかし今回は、即位(践祚)の当日に、剣璽等承継の儀に引き続いて、即位後朝見の儀が予定されています。それどころか、政府は御代替わりに関連する祭祀についてまったく検討していません。皇室最大の伝統である祭祀の斎行が完全に無視され、結果として践祚の式の次第が変更を余儀なくされています。

 占領中でさえ、日本国憲法施行後、占領後期ともなれば、いわゆる神道指令の解釈・運用は限定主義に変更され、松平恆雄参議院議長の神道形式による参議院葬、貞明皇后の旧皇室喪儀令に準じた大喪儀が認められています。

 今回はなにゆえの占領前期への先祖返りでしょうか。少なくとも朝見の儀は3日間つづく賢所の儀のあとに行われるべきでしょう。皇室の儀式に干渉し、圧迫することは、政教分離の厳格主義の立場なら、なおのこと許されません。


5、退位(譲位)と即位(践祚)の儀式を分離しないでほしい

 政府は今回の御代替わりを「天皇陛下の御退位と皇太子殿下の御即位」と、2つに区分していますが、本来、譲位即践祚であって、皇位継承の儀式は連続して行われるべきであり、譲位の儀式と践祚の儀式が分離して行われることなど、あり得ません。

 今回、宮内庁がまとめたリポートに、光格天皇の譲位の儀式が、仙洞御所(桜町殿)で行われたかのように説明されており、分離方式の論拠とされているもようですが、資料の誤読かと思われます。

 最古の儀式書「貞観儀式」(平安前期)には一連の儀式とされており、ほかならぬ宮内庁がまとめた「仁孝天皇実録」にははっきりと「清涼殿に於いて(光格天皇から)受禅あらせらる」と記録されています。光格天皇の遷御ののち、桜町殿で行われたのは宣命草案の作成でしょう。

 まさに「貞観儀式」に示されているように、古来、天皇の譲位の宣命によって、その瞬間に皇太子は新帝となり、そののち剣璽は渡御したのです。宣命の宣読と剣璽渡御の儀の分離挙行は、歴史に禍根を残すでしょう。

 来年5月1日に、退位(譲位)と即位(践祚)の式は一体的に挙行されるべきではないでしょうか。


6、高輪皇族邸の改修を急ぎ、遷御を復活させてほしい

 最古の儀式書である『貞観儀式』に記載された「譲国儀」は冒頭、「天皇、予め本宮(内裏)を去りたまふ。百官、従ひて、御在所に遷る」に始まり、(1)天皇遷御、(2)宣命草案の奉見、(3)天皇出御、(4)宣命再覧、(5)宣制、(6)群臣拝舞、(7)新帝拝舞、(8)剣璽・伝国璽等渡御、(9)新帝上表の9段階からなる次第が記されています(土井郁麿「『譲国儀』の成立」)。

 光格天皇の譲位では、まず仙洞御所(桜町殿)への遷御が行われました。総勢700人以上からなる華麗な行列を、上下巻合わせて40メートル以上に及ぶ絵巻物に描いた「桜町殿行幸図」が伝えられ、国立公文書館のサイトで公開されています。

 今回、政府は「御退位の儀式の場所については、光格天皇の譲位時には、新たな上皇の御在所で行われた。今回は、上皇の御在所は未整備で、考え方案のとおり、宮殿松の間で行われることが望ましい」(山本宮内庁長官)と説明しています。

 光格天皇の譲位の儀が仙洞御所で行われたという歴史理解は間違いですが、譲位の意思を示される遷御は重要です。仙洞御所となる今の東宮御所の整備はともかく、仮住まいとされる高輪皇族邸の改修に1年もかかるでしょうか。


7、即位の礼は大嘗祭と一体的に挙行してほしい

 前回の即位の礼は皇室伝統の即位礼とは似て非なるものでした。

 明治の皇室典範、登極令では即位の礼と大嘗祭は不可分でした。登極令附式第2編は「即位礼及び大嘗祭の式」について、具体的かつ詳細な次第を定めていました。

 しかし現行の皇室典範は第24条に「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」というごく簡単な規定があるだけです。このため前回は内閣に委員会が段階的に設置され、その中身が検討されたのですが、注目すべきことに、反対派と目される識者が皇室典範改正時の議論に言及し、誤った情報に基づく意見を述べたことが記録されています。

「皇室典範制定に際して、金森徳次郎国務大臣が『即位の礼』の予定しているところは信仰に関係のない部分であり、大嘗祭は含まれない旨、答弁している」というのですが、議事録には逆に皇室行事の体系はいささかも変わらないとの政府の認識が示されています。

 金森大臣は、改正案に大嘗祭の記述がないのは、信仰面を含むことから明文化は不適当と考えられたからだと述べています。つまり大嘗祭の挙行が不適当だと考えられたわけではありません。当時はいわゆる神道指令が絶対的効力を持つ占領前期でした。

 結局、政府は皇室典範24条を法的根拠に、「即位の礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」の3つを「即位の礼」とし、大嘗祭を含めず、逆にあろうことか、践祚の式の一部を含める前代未聞の決定を行いました。そして今回も「前例踏襲」により、即位の礼と大嘗祭は概念的に分離され、法的位置づけも区別されることになりました。

 太古以来の国風を伝える大嘗祭は「国の行事」とはされず、古代中国や朝鮮との交流の結果、即位の盛儀を内外に示すため導入されたといわれる「唐制風」(関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』)の即位礼が「国の行事」とされているのは、望ましいことでしょうか。


8、大嘗祭は稲作儀礼ではなく、国民統合の儀礼と解釈を変更してほしい

 御代替わりでもっとも重要な大嘗祭について、政府は平成元年12月の閣議口頭了解を踏襲し、稲作社会の収穫儀礼と解釈しています。とすれば、稲作信仰=宗教儀礼=政教分離に抵触=国の行事に相応しくない、という論理が成り立ち得ます。

 けれども大嘗祭は稲の祭りではありません。宮中新嘗祭と同様、稲だけでなく、米と粟が捧げられ、御直会なさるのが大嘗祭の中心儀礼だからです。粟が抜けています。

 台湾の先住民は粟を神聖視し、粟の餅と粟の酒を神々に捧げました。台湾では粟の酒がふつうに売られています。日本では新嘗祭の文献上の初出は『常陸国風土記』で、そこに描かれているのは、米の新嘗ではなく、粟の新嘗です。天皇による粟の供饌は、稲作以前の畑作農耕民の儀礼を今に伝える残照でしょうか。

 宮中新嘗祭・大嘗祭は、異なる宗教的ルーツを持つ、稲作民の米と畑作民の粟を同時に捧げる、天皇だけが行う国民統合の儀礼と解されるべきではないでしょうか。

 多様なる民の存在を前提とし、多様なる暮らしや価値観を同等に認め、「国中平らかに、安らけく」(「後鳥羽院宸記」)と祈る国民統合の儀礼を、天皇が御代替わりごとに斎行することは、むしろ「国の行事」に相応しいのではありませんか。

 教義もなく、布教の概念もなく、特定の教団があるわけでもない天皇の祭祀が、国民の信教の自由を侵しかねないと曲解し、「国の行事」とされないのは愚かです。

 ただ、近代以後、巨大化した大嘗宮の規模は再考されるべきでしょう。本来、「秘事」(卜部兼豊)とされる大嘗祭の参列者の数も制限されるべきではないでしょうか。


9、改元は来秋の即位の礼当日か、思い切って再来年元日にしてはどうか

 明治人は宮中の祭儀を近代法的に整備するに当たって、旧例墨守を批判し、「ひとえに実際に就くを旨」(『明治天皇紀』)としました。以前は各忌日に斎行された皇霊祭祀が春秋の皇霊祭にまとめられたのは、現実主義的対応の典型です。

 30年前とは比較にならないほど、ICT(情報通信技術)の利活用が広範囲に展開され、コンピュータが必須アイテムとなった今日、政府が予定するように、即位(践祚)1か月前の新元号公表で、システム切り替えに伴うトラブルの発生は回避できるでしょうか。

 旧登極令(明治42年)は「天皇践祚ののちは直ちに元号を改む」(第2条)と定めており、昭和の改元は践祚の当日でしたが、前回は翌日改元でした。元号法(昭和54年)には「直ちに」とはありません。

 登極令を準用したいのなら、すでに書いたように、ほかにもっと望まれる場があるでしょう。市民生活を重視したいなら、より現実的、合理的な対応が望まれます。ちなみに200年前の仁孝天皇の践祚による改元は1年以上ものちのことでした。


10、参加、参列を強制しないでほしい

 天皇の祭祀は仏教伝来以前から、価値多元主義的社会の中心であり、宗教的共存の要として機能してきました。

 しかしそれでも、とくに唯一神の信仰者にとっては、熱心な信仰者であればあるほど、御代替わりの異教的儀礼に公務員として参加し、国民の代表として参列することを耐えがたいと感じるかも知れません。

 バチカンは、たとえ異教儀礼に由来するとしても、時代の経過によって社会的儀礼へと性格を変えた行事に参加することは、信徒の務めだと教えています(1936年の指針、51年の指針)が、教会指導者のなかにさえ強い抵抗を感じる人がいます。

 少数者の内心の自由を十二分に確保するため、強制の排除が確認されるべきでしょう。


 以上が私からの提案です。皆々様のご意見をお聞かせください。
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大嘗祭は稲の祭りではなく、国民統合の儀礼である ──第2回式典準備委員会資料を読む 9 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年6月5日)からの転載です

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大嘗祭は稲の祭りではなく、国民統合の儀礼である
──第2回式典準備委員会資料を読む 9
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 平成の御代替わりには様々な不都合が指摘されましたが、これを基本的に前例踏襲する次の御代替わりも当然にして、同様の不都合が指摘されます。次もそうなら、次のまた次も同様でしょう。不都合なる事態が固定化しないよう一縷の望みをかけて、あえて批判を続けます。

 なぜ不都合なる事態が起きるのか、その原因を、2月に開かれた第2回式典準備委員会に提出された資料のなかから探り出す作業をこれまで行ってきました。前回までは、退位(譲位)から即位(践祚)に到る御代替わりについて検討し、宮内庁資料の誤りなどを指摘してきました。

 今回からは大嘗祭について、考えます。


▽1 30年間、進歩しない知的怠慢

 わずか40分という短時間の第2回式典準備委員会では、「御退位に伴う式典」の検討のあと、「御在位30年記念式典」「文仁親王殿下が皇嗣となられることに伴う式典」について、急ぎ足で検討されたあと、「大嘗祭」がテーマとなりました。

 2つの資料が提出され、事務局が説明しました。1つは「平成の御代替わりにおける大嘗祭の整理」で、もうひとつは「平成の御代替わりに伴う儀式に関する最高裁判決」です。

 まず、「平成の大嘗祭の整理」です。即位礼・大嘗祭の挙行に関する「平成元年12月21日閣議口頭了解」と宮内庁資料で、「下記のように整理」されているとして、前例踏襲の方針が宣言されているのと同時に、この30年間における学問的な進展が顧慮されていない知的怠慢が読み取れます。
H300220平成の大嘗祭の整理.jpg

 当メルマガの読者ならすでにご存じのように、30年前、この大嘗祭の挙行こそ最大の問題でした。石原信雄元内閣官房副長官は自著で「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」と回想しているほどです。

 で、当時の政府がどう考えたのか、3点にまとめられています。

 1点は「大嘗祭の意義」、2点目は「儀式の位置づけおよび費用」、3点目は「大嘗宮の儀及び大饗の儀」についてです。

 要約すれば、大嘗祭は稲の祭りであり、伝統的皇位継承儀式としての性格を持つ。したがって宗教儀式だから国事行為としての挙行は困難である。しかし公的性格に鑑みて、費用を宮廷費から支出することが相当であると閣議で決定されたのです。

 そして、国事行為たる「即位の礼」のあと、平成2年秋に1000名の参列者が予定され、皇居内に大嘗宮が設営されることとなり、皇室行事として斎行されました。


▽2 新嘗祭と大嘗祭の神饌は米と粟

 歴史的には中断した時代もありますが、古来、続いてきた皇位継承の中心的儀礼が現代において滞りなく挙行されたことは、間違いなく大きな成果でした。けれども誤った理解に基づいていることもまた事実であり、30年後のいまになっての「前例踏襲」には異議を申し立てざるを得ません。

 すでにご承知の通り、大嘗祭を稲の祭りとすることには大きな疑念があります。

 誤解の主因は情報不足です。天皇がみずからお務めになる宮中祭祀は、ローマ教皇の典礼とは異なり、公開を前提としない秘事とされてきました。

 室町期の才人・一条兼良による「代始和抄」は、「大嘗会は、一代一度の大神事なり」とした上で、もっとも中心的な大嘗宮の儀について、「秘事口伝さまざまなれば、容易く書き載すること能はず。主上の知しめす外は、時の関白、宮主などの外は、かつて知る人無し」と書いています。

 しかし誤解に誤解を呼んでいる現状では、事実を公開することがむしろ必要だろうと思います。「秘事」とされてきたのは、新帝が皇祖神ほか天神地祇と相対峙する神聖さの保持が目的であり、その目的のためには逆に正確な事実が示されるべきではないでしょうか。

 大嘗祭は、政府が理解しているような稲の祭りではありません。稲の祭りならば、宗教儀式→憲法の政教分離原則に抵触→国の行事にはできない、という論理が成立しますが、前提が違えば、当然、結論も変わります。

 大嘗祭が稲の祭りとされる根拠は神前に新穀の稲が奉られるからでしょうが、稲だけが供されるわけではありません。天皇の祭祀は、宮中三殿では稲だけですが、神嘉殿で行われる宮中新嘗祭、大嘗宮で行われる大嘗祭では、米と粟なのです。

 これらのことは実際、祭祀に携わっている人たちには常識というべきことですが、「秘事」ゆえに文献には現れません。

 赤堀又次郎が「その詳らかなることは貞観儀式に超えたるものなく」(『御即位及大嘗祭』大正4年)と解説する『貞観儀式』は、大嘗宮の儀の神饌御親供について、「亥の一刻(午後9時ごろ)、御膳(みけ)を供(たてまつ)り、四刻(10時半ごろ)これを撤(さ)げよ」と書いているだけです。

 明治42年の登極令附式も、「次に神饌御親供。次に御拝礼御告文を奏す。次に御直会」とのみ規定し、詳細な定めは省略されています。

 このため祭儀に携わる掌典職の人たちは、実際の祭式や作法について、先輩から口伝えに教わり、備忘録を独自に作成し、「秘事」の継承に務めてきたのでした。むろんこれらは公開されません。


▽3 なぜ米だけではないのか

 けれども、こうした備忘録は古くからあり、研究者たちによって広く知られるようになっています。そのひとつが京都・鈴鹿家の「大嘗祭神饌供進仮名記」です。

「次、陪膳(はいぜん)、兩の手をもて、ひらて(枚手)一まいをとりて、主上(新帝)にまいらす。主上、御笏を右の御ひさの下におかれて、左の御手にとらせたまひて、右の御手にて御はんのうへの御はしをとりて、御はん、いね、あわ(ママ)を三はしつゝ、ひらてにもらせたまひて、左の御手にてはいせんに返し給ふ……」(宮地治邦「大嘗祭に於ける神饌に就いて」昭和33年)

 毎年秋に行われる宮中新嘗祭も同様ですが、米と粟の新穀を神前に供せられ、みずから御直会をなさるのです。稲の祭りではありません。稲による宗教儀礼ではないのです。

 問題は米と粟による儀礼の意味です。現代人にとって、天皇による米と粟の祭りがいかなる意味を持つのか、です。なぜ米と粟なのか、なぜ米だけではないのか、粟とは何か、です。

 新嘗祭、大嘗祭が天孫降臨神話に基づく稲の祭りならば、賢所で皇祖天照大神に稲を捧げれば十分です。米だけではなく、粟が捧げられるのは、皇祖神だけが祀られるのではないからです。粟を神饌とする、稲作以前の神々が祭られるからではありませんか。

 稲作以前の神々とは、畑作の神であり、縄文以来の神々なのでしょう。天皇が「国中平らかに、安らけく」と祈るのは、水田農耕民だけを想定しているのではなく、焼畑農耕民の存在を意識し、前提としているはずです。

 もっとも古い新嘗祭の記録は『常陸国風土記』で、そこには「新粟新嘗」「新粟嘗」と記されています。古代の日本には粟の新嘗祭がたしかにあったのです。正月に米の餅を食べない「芋正月」が全国的に分布することも知られていますから、日本人を一様に稲作民族と呼ぶことはできません。日本列島には水田農耕民もいれば、焼畑農耕民もいたのです。

 粟を主要作物とし、粟の神霊を神聖視し、神々に粟の餅と酒を捧げて祈る焼畑民の平安をも天皇が祈るのなら、国と民を統合するお役目の天皇には、米だけではなく、米と粟の神事こそが相応しいでしょう。


▽4 統合の儀礼は国の行事に相応しい

 新嘗祭・大嘗祭は、天皇だけがなさる米と粟の儀礼であり、国と民をひとつの統合する国民統合の儀礼です。人々の信仰を平等に認め、国民の信教の自由を保証するものであり、これを年ごとに、そして御代替わりごとに行うことは、むしろ国の行事に相応しいといえませんか。

 宗教の違いが世界的な対立を誘発、激化させる現代において、天皇による米と粟の祭りの意義はますます大きく感じられます。

 政府は大嘗祭=稲の祭りとする解釈を改めるべきでしょう。宗教儀礼だから国の行事にできないという考えも改めるべきです。

 1日に一粒の米さえ口にしない日本人さえいるらしい現代ですが、だからこそ多様性のなかの統合を中心的に担ってきた天皇の祭祀について再検討する必要がありませんか。
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藤森、佐野、土井先生、どうすればいいんですか? ──第2回式典準備委員会資料を読む 8 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年6月3日)からの転載です

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藤森、佐野、土井先生、どうすればいいんですか?
──第2回式典準備委員会資料を読む 8
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 前回までに指摘したように、宮内庁がまとめた「歴史上の実例」には、見逃しがたい、正確とはいえないところがあります。

 1つは、200年前の光格天皇から仁孝天皇への譲位儀が「上皇の御在所(仙洞御所)」で行われたと誤解していることです。ほかならぬ宮内庁がまとめた『仁孝天皇実録』には「清涼殿に於いて受禅あらせらる」と記録されています。

 2つ目は、平安期の儀式書『貞観儀式』の「譲国儀」冒頭に記された「天皇、予め本宮を去りたまふ。百官、従ひて、御在所に遷る」の「御在所」について、「新たな上皇のお住まい」と解釈している点です。

「天下の大事」とされる御代替わりなのですから、より正確な歴史理解が求められます。

 今回の御代替わりは、今上陛下の「譲位」のご意向が出発点でした。特例法で「退位」が認められ、期日も来春と定まりました。関係者各位のご尽力には敬意を惜しみませんが、「退位の礼」あるべしとされ、御代替わりの儀式が連続して行われないのは再考されるべきではないでしょうか。


▽1 宮内庁は資料を読み誤っている

 前回は藤森健太郎群馬大教授(日本史)や佐野真人皇學館大助教(神道史)の研究を参照しましたが、今回は土井郁麿氏(中央大学大学院)の論考「『譲位儀』の成立」(「中央史学」平成5年3月)を取り上げます。

 土井氏はこの論考でまず、平安期の儀式書『儀式(貞観儀式)』『西宮記』『北山抄』をもとに譲位儀の次第を概観し、以下のような流れを示しています。

(1)天皇遷御
(2)固関使の発遣
(3)宣命草案の奉見
(4)天皇出御
(5)宣命再覧
(6)宣制(皇太子のみ起立)
(7)群臣拝舞
(8)新帝拝舞
(9)剣璽・伝国璽等渡御
(10)新帝上表

 まず(1)天皇遷御です。

 土井氏は宮内庁書陵部編『皇室制度史料 太上天皇二』を根拠に、「退位の意を表す遷御は、平城天皇の譲位時(斎藤注、以下同じ。大同4=809年)から、定着したとされる」と説明し、「宇多天皇の譲位時(寛平9=897年)からは、一旦は、内裏内の別殿舎へ遷御され、しばらくしてから、内裏外へ遷御される例が始まる」と注記しています。

 宮内庁のリポートは「天皇は、譲位に先立って、あらかじめ内裏(お住まいの御殿)から出られ、臣下を従えて、新たな上皇のお住まいにお移りになる」と解説していますが、ほかならぬ宮内庁の文献がこれを否定していることになります。

 また、前回、ご紹介したように、藤森先生の『古代天皇の即位儀礼』(2000年)では、遷御される「御在所」は「平安初期の実例では大体別院」と注記され、さらに「ただし、光仁天皇(天応元=781年に譲位)から平城天皇(大同4年に譲位)までの譲位の際には、内裏で挙行されたものと思われる」と補足されています。

 佐野真人皇學館大助教(神道史)の「『譲国儀』儀式文の成立と変遷」(「神道史研究」平成29年10月)でも、より明確に、「儀礼の会場が『儀式』では、事前に天皇は本宮(内裏)から御在所に遷御される。清和天皇(天安2=858年に即位)以前の譲位の儀式は内裏以外で行われており、『儀式』の規定でも内裏以外で行うことを想定している」と説明し、ただ、『西宮記』(源高明撰述)では内裏が儀場とされていたことが考えられると記しています。

 なぜ宮内庁リポートは、「上皇のお住まい」(仙洞御所)と断定しなければならなかったのでしょうか。

次に、(4)天皇出御です。

 土井氏は、「天皇が出御される儀場については、『南殿』(『儀式』)とあるのみで、とくに指定されていないが、平城(809年)・嵯峨(弘仁14=823年)・仁明天皇(嘉祥3=850年)の譲位は、あらかじめ遷御された別院にて行われたので、『南殿』とは遷御された御所の殿舎のことを指すとみてよいだろう」と解説しています。

 宮内庁のリポートにある「天皇が、儀場となる上皇のお住まいの正殿の殿上にお出ましになる。殿上にしつらえた南側を向かれる御席に御着席になる」は誤りだということです。

 藤森先生の著書では、「『儀式』の場合は内裏の紫宸殿ではなく、『御在所』の正殿を想定しているはず」と説明されています。

 さらに、10世紀以降になると、『西宮記』によれば、儀場は内裏に変わっていると藤森先生は指摘し、「(天慶9=946年に)朱雀天皇は内裏で『譲国儀』を行った」「(897年の)宇多天皇から醍醐天皇への譲位のときから、内裏における『譲国儀』が常例になった」と指摘しています。

 時代がくだり、200年前の光格天皇から仁孝天皇への譲位儀は、冒頭に書いたように、清涼殿で、すなわち内裏で行われています。宮内庁による『貞観儀式』の解釈も、歴史の実例の理解も誤りなのです。


▽2 自画自賛する政府

 2月に開かれた第2回式典準備委員会では、山本宮内庁長官が、この不正確なリポートについて説明し、次のように語ったと議事概要に記録されいています。

「宮内庁は、光格天皇の前例など調査を行い、内閣官房と緊密に協議してきた」

「御退位に伴う式典の考え方について、光格天皇の譲位儀との対比を踏まえ、次の通り意見を述べたい」

 しかし、そもそも退位の礼などあり得ません。退位(譲位)と即位(践祚)の分離などあり得ません。

「儀場については、光格天皇の譲位時には、新たな上皇の御在所で行われた。今回は、上皇の御在所は未整備で、考え方案のとおり、宮殿松の間で行われることが望ましい」

 宮殿で行われるのは当然ですが、光格天皇の譲位の儀が仙洞御所で行われたという事実はありません。ただ、歴史的にいえば、譲位の意思を示す遷御は重要です。1年もあれば、いまどき仙洞御所の整備は不可能ではありません。仙洞御所の未整備は理由になりません。

「参列者については、『貞観儀式』に親王以下の儀場への参入の定めがあり、光格天皇譲位時には関白、左大臣ほかが参列している。今回は、考え方案の通り、皇族方が供奉され、三権の長ほか国民を代表される方々が参列されることが望ましい」

「皇太子の参列については、光格天皇譲位時には皇太子は参列しなかったが、『貞観儀式』では参列されることとされており、また、光格天皇以前に行われた儀式でも参列されている。今回は、考え方案の通り、皇太子殿下もご参列になることが望ましい」

 光格天皇の譲位儀なるものが史実でない以上、参列者の範囲、皇太子の参列の有無など、議論の価値がありません。

「御退位事実の公表については、光格天皇譲位時には宣命使に譲位の宣命を宣読させた。今回は、考え方案のとおり、総理の奉謝、天皇陛下のお言葉により、御退位が内外に明らかにされることが望ましい」

 土井氏によれば、平安時代、譲位儀の中心は宣命であり、宣命の作成には天皇の直接の意向が尊重され、反映されるよう配慮されました。宣命が宣読されるときには皇太子だけが起立したのです。退位の礼ではなく、御代替わりの儀式として連続して行われるべきではないでしょうか。

「剣璽については、光格天皇譲位時には、譲位儀に引き続いて、剣璽が新天皇のもとに移された。今回は、考え方案の通り、退位の儀式が重儀であることを踏まえ、剣璽等を捧持することが望ましい」

 光格天皇の譲位時には、「仁孝天皇実録」によれば、光格天皇が仙洞御所(桜町殿)に遷御され、そこから剣璽渡御の儀があったと説明されています。部分的にも平安絵巻を再現することはできないでしょうか。

 問題山積の山本長官の説明ですが、出席した委員からは以下のような自画自賛の発言しか聞かれませんでした。

「御退位の礼は、古来、仙洞御所や宮殿で粛々と行われてきており、説明のあった考え方案の内容は、伝統の基本骨格を大事にしたものとなっており、皇室の伝統等を尊重し、また、今の時代に相応しいものとなっているのではないか」

 政府・宮内庁はなぜ、「伝統の尊重」といいつつ、歴史上あり得ない、退位(譲位)と即位(践祚)の分離を強行しようとするのですか。なぜ連続した御代替わりの儀式とはしないのでしょうか。

「皇室の伝統を尊重」が謳われる政府の基本方針には同意しますが、だとすれば、次の御代替わりはどのように進められるべきなのか。御代替わりに詳しい藤森、佐野、土井のお三方はいかがお考えでしょうか。

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