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やっと巡り会えた見識ある改元論 ──大石眞京大名誉教授の論考を読む [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年10月14日)からの転載です

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やっと巡り会えた見識ある改元論
──大石眞京大名誉教授の論考を読む
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 久しぶりに優れた論考に出会いました。大石真京大名誉教授の「元号制度の諸問題」(「法律時報」1989年1月=『統治機構の憲法構想』2016年に所収)です。

 今日はこの大石論文のご紹介をしたいと思いますが、その前に直近の動きについて触れます。

 政府は12日の閣議で、「天皇陛下の御退位と皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会」(委員長=安倍晋三首相)を設置を決定し、閣議後、初会合を開き、官房長官を本部長とする式典実施連絡本部を発足させました。これにあわせて、宮内庁は同日、大礼委員会を設置しました。

 公表された情報によると、式典実施連絡本部に出席した安倍首相は、会議の冒頭、「天皇陛下の御退位は約200年ぶりのことであり、憲政史上初めての出来事です」「天皇陛下の御退位と皇太子殿下の御即位が国民の祝福の中でつつがなく行われるよう連携を密にし、準備に万全を期してください」と挨拶しました。

 政府はあくまで「退位」と「即位」が分離した、皇室の伝統を顧みない、前代未聞の御代替わりを推し進めようとしています。もはや後戻りはできませんが、ほかならぬ保守長期政権下で、なぜこのような現象が起きてしまったのか、検証する必要があるでしょう。


▽1 改元は「皇室の大事」か「大権の施行」か

 さて、目下、私の問題関心は、御代替わりに伴う改元について、です。皇室の歴史と伝統を尊重しつつ、とりわけ改元日をいつに設定することがふさわしいのか、です。

 これまで見てきたように、平安期以降、践祚の翌年に代始改元が行われる踰年改元が続きましたが、明治42年の登極令は、一世一元の制とともに践祚同日改元を法制化しました。大石論文はこれを「古来の伝統をそのまま尊重したものというより、むしろ意識的な変更、新しい選択の産物であった」と解説しています。

 大正と昭和の改元は登極令にもとづいて行われましたが、大石先生によると、大きな相違がありました。

「大正」の場合は、首相が旨を受けて元号勧進の内容を有識者に作成させました。ところが、「昭和」では、内閣が元号案を提出する前に、宮内大臣の命を受けて、宮内省が勧進案を別途に検討し、これを首相に提出しています。「昭和」はこの宮内庁案に含まれていました。

 先生は言及していませんが、大正末期の人びとは、元号案作成への朝廷の歴史的な関わりを復活させようとしていたのでしょうか。

 その一方で、もうひとつ注目されるのは、改元詔書の副書です。新元号は践祚当日、首相以下、各大臣の副書を経て、詔書が作成され、官報号外に掲載されました。

 この場合、「皇室の大事」を宣告する詔書の場合は、宮内大臣と首相のみが副署することとし、「大権の施行」に関する場合は、首相および国務各大臣の副書が求められていました(「公式令」明治40年)。

 大正と昭和の場合は首相および各国務大臣の副書が行われていた、ということは、大石先生がご指摘のように、改元は「大権の施行」に関するもの、つまり「皇室の大事」たる宮務ではなくて、政務(国務)に属することと理解されていたことになります。改元が宮務法たる皇室典範および登極令に規定されていたにもかかわらずです。

 大石先生はそう解説したあとに、美濃部達吉の分析(『憲法撮要』1932年)を引用しています。

「元号を建つるはこと直接に国民の生活に関し、性質上純然たる国務に属することはもちろんにして、もとより単純なる皇室の内事にあらず。ゆえに、これを憲法に規定せずして、皇室典範に規定したるはおそらくは適当の場所にあらず。その皇室典範に規定せられたるにかかわらず、大正または昭和の元号を定めたる詔書が宮内大臣の副書によらず、各国務大臣の副書をもって公布せられたるは、けだし至当の形式なり」

 建元大権のことは皇室典範ではなくて、憲法に定められるべきものだというのが美濃部の考えのようですが、だとすると、現代憲法下ではこれをどう考えるべきなのでしょうか。朝廷が元号を定めたのは遠い過去の歴史に過ぎず、いまや改元の権限は当然、政府に属すると理解すべきなのかどうか。今度の御代替わりでは、政府は践祚前1か月の新元号事前公表を予定しています。新元号の決定は天皇から完全に離れ、政府が握っています。


▽2 踰年改元では遅いというのなら

 大石先生が論考のなかで説明しているように、さまざまな議論の末に、昭和54年に元号法が成立しました。問題点の1つはまさに憲法の国民主権主義との関係です。

 日本国憲法は国事行為以外の天皇の権限を認めていません。天皇の「建元大権」を現行憲法は否定しています。現行憲法下では改元の権限は国権の最高機関たる国会に属しています。そのうえで、どのような改元のあり方を国民は選択すべきなのでしょうか。

 大石先生は具体的な問題点をふたつ指摘しています。

 1つは、新元号の選定手続きです。政府の要綱では宮内関係者の関与は排除されています。制度的には、天皇は改元の政令を公布するのみです。

 先生は言及していませんが、「平成」の場合は、践祚後、新帝に改元案が示されたと伝えられます。その程度でいいのかどうか、皇室の歴史と伝統を活かす方法はほかにないものでしょうか。憲法上の限界があるとするなら、憲法自体を見直すべきですが、そのためには憲法の国民主権主義にまさる皇室の存在価値を国民が自覚できなければなりません。

 2つ目は、ほかならぬ改元の時期です。元号法の制定過程では示されず、現行の改元手続要綱にも言及がありません。

 大石先生によれば、大きく2つの考え方に分かれます。

1、改元の決定と施行を同時に行う。大正、昭和のように践祚即日決定、即日施行とする。

2、改元の決定・公布と新元号の施行時期を区別する。施行については、(イ)踰年改元と、(ロ)翌日施行とがある。

 大石先生は、1は改元決定に要する時間を考えると、先帝崩御の前に手続きを開始し、同時に新元号の遡及する日時を示す必要があるので、2の方式が妥当と考えられると説明し、そのうえで2の(イ)を明瞭に主張する所功教授の提案を紹介しています。

 所先生は、当メルマガでも書いたように、30年前、新元号をできるだけ速やかに決定・公布し、施行は翌年元日からとする「2段階方式」を主張していました。

 30年経ったいまも、傾聴すべき提案だと思いますが、大石先生は欠点も指摘しています。「1、2月といった早い時期に改元事由が生じた場合、残りの長い日月をずっと旧い元号で通すというのも、現在の国民生活には多少なじまないように感じられるから」です。

 今回は、大正、昭和、平成のいずれとも異なり、諒闇践祚ではなく、受禅践祚です。突然に改元事由が発生したわけではなく、準備期間は十分にありますが、それでも1の践祚同日改元となると無理が生じます。となると、選択肢は2になります。

 平成の場合は(ロ)の翌日改元でしたが、IT社会の現在となっては冒険的です。かつて所先生が提案された(イ)の踰年改元の方が現実的です。しかしそれでは遅すぎるというなら、即位の礼当日に合わせる第3の方法が考えられますが、大石先生はいかがお考えでしょうか。

 最後に申し上げますが、いまの時代、大石先生のような見識ある知識人はきわめて貴重です。しかしながら、その存在が広く知られているわけではありません。紹介した論考も読者が限られた法律雑誌だし、約30年後に出版された書籍も一般書店では容易には手に入らないでしょう。すでに秒読み段階となった今度の御代替わりですが、先生のような方に、もっともっと活躍の場が広がることが求められています。

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共有すべき問題意識が見えない齊藤智朗教授の発題 ──「周回遅れ」神社関係者の御代替わり論議 2 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年10月8日)からの転載です

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共有すべき問題意識が見えない齊藤智朗教授の発題
──「周回遅れ」神社関係者の御代替わり論議 2
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▽4 天皇祭祀と神社祭祀の一体化

 9月3日付神社新報によると、浅山神社本庁総合研究部長心得に続いて、齊藤智朗國學院大学教授が「近代における皇室制度と御代替」と題して発題しました。

 記事によると、発表のポイントは以下の通りです。

1、明治の即位礼・大嘗祭の特徴は、「復古」と「維新」の理念のもと、「伝統」と「近代」の両立が図られるとともに、近代国家形成に向けた、全国的で国民的な性格をもって斎行されたと捉えられる

2、岩倉具視らの尽力により、皇室典範をはじめとする近代の皇室制度が整備され、とくに践祚・改元・即位礼・大嘗祭・大饗・親謁を中心とする皇位継承儀式は登極令によって確定した

3、大正・昭和と平成の御代替わりには変更点があり、登極令附式に基づいて即位礼の際に立てられる「万歳旛」の意匠が改められ、「頭八咫烏形大錦旛」は掲げられず、代わりに「菊花章大錦旛」が用いられた

4、大嘗祭の教学上の問題として、「祭神」「神社─奉幣と祭祀」の2つがあり、祭神については、先行研究によれば、井上毅が草案を書き、伊藤博文名で発表された『皇室典範義解』が公的な注釈書としての性格を持つようになった。『大正天皇実録』『昭和大礼要録』などの公的記録にも、天照大御神とともに、「天神地祇」が記され、今日も政府の見解となっているとみることができる

5、神社については、古代以来の例にかんがみ、神宮および官国幣社への班幣が大正・昭和の御代替わりで実施されたが、平成の御代替わりでは勅祭社のみに限られた

6、これらは今後のあり方をめぐって、神道神学上の重要課題の1つといえる

7、神社奉幣や祭祀には古代以来の歴史的伝統があり、御代替わりと神社祭祀を通じた一体化が表されるものと捉えられる。したがって、御代替わりにおける天皇祭祀と神社祭祀との一体化を、今後、より明確にしていくことが教学的にも重要と考えられる


▽5 近代との違いは「万歳旛」の意匠程度か

 神社本庁の上杉千郷長老が最晩年、病の床で、「斎藤君、神社人を批判しなさい」と遺言されたのを胸に、以下、あえて批判させていただきます。

 齊藤教授は宗教学、近代神道史が専攻で、著書に『井上毅と宗教──明治国家形成と世俗主義』などがあります。井上毅といえば、近代日本の典憲体制、教育勅語渙発に中心的役割を果たした人物です。

 齊藤教授がご専門とする神道史の歴史理解について、間違いはないだろうと思いますし、あるはずもないでしょうが、歴史の専門家として、来春に御代替わりが迫ったいまこのときに、神社関係者が共有すべき問題意識とは何か、少なくともこの記事からは、見えてきません。

 明治維新後、欧米列強に抗して近代国家建設を急いだ日本が、皇室典範と憲法の二本柱による典憲体制を構築したのと、未曾有の大戦と敗戦のあと、宮務法の体系を失ったまま、平成の御代替わりを迎えたのとでは、議論の前提がまるで異なります。

 齊藤教授は、近代と現代の皇位継承儀式の違いについて、もっともっと具体的に踏み込んで語られるべきではないでしょうか。少なくとも記事からは、まだまだ抽象論議にとどまっているように私にはみえます。

 たとえば、近代以前と近代、戦後の皇位継承儀礼の違いは、記事にあるような、万歳旛の意匠の違い程度のものでしょうか。次の御代替わりを来春に控え、政府の基本方針もすでに定まっているときに、その程度の言及で済むのでしょうか。

 平安期以来の践祚と即位の違いが前回の御代替わりでは失われました。日本国憲法施行とともに発せられた依命通牒によって、登極令や皇室祭祀令による祭式は守られてきたはずなのに、前回は即位礼と大嘗祭の法的位置づけは区別され、大嘗祭は国の行事ではなく、皇室行事とされました。今回も平成の悪しき先例が踏襲されます。


▽6 国民統合のための天皇の祭祀

 なぜそうなのか、端的にいえば、大嘗祭ほか天皇の祭祀が日本国憲法が禁じる国の宗教的活動と認識されているからでしょう。剣璽渡御の儀などは非宗教的に改称されました。問題の本質は政教分離問題です。憲法問題です。

 次の御代替わりでは、譲位(退位)と践祚(即位)が分離されます。賢所の儀ほか登極令が定めた祭祀について政府はまったく検討もしていません。

 改元についていえば、近代の一世一元の制の確立とともに、登極令で践祚同日改元が定められ、今回も政府はこれを踏襲しようとしていますが、「平成」以降、天皇は元号の制定過程に関われずにいます。近代との制度的違いを、教授は指摘すべきではないですか。

 齊藤教授は、大嘗祭について、祭神論と神社祭祀との関連について言及し、天皇の祭祀と神社祭祀の一体化を明確にすることを訴えていますが、私には意味がよく分かりません。

 古代律令に「およそ天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」(神祇令)とされ、歴代天皇が大嘗祭、宮中新嘗祭において皇祖神ほか天神地祇を祀り、万民のために祈りを捧げられたのはなぜなのでしょうか。

 いま御代替わりの天皇の祭りが国事とされず、さまざまな干渉を受けているのはなぜなのか、それを学問的に解明せずに、天皇の祭祀と民間の神社祭祀との一体化などといえば、時代錯誤と思われないでしょうか。

 釈迦に説法でしょうが、天神地祇を祀る天皇の祭祀とそれぞれの神社の祭祀は基本的に異なります。祭神だけではありません。皇室の祭祀は天皇みずから神事を行われ、神社の祭祀は仲執持たる神職が司ります。神饌も異なります。稲作民の稲と畑作民の粟をともに捧げる大嘗祭は国民統合の祭りであり、各神社の祭祀は各共同体の祭りです。各共同体の天皇観、神観はけっして1つではありません。

 教学的に求められているのは、皇室と神社の祭祀の一体化ではなくて、仏教やキリスト教をも含めた国民統合のための天皇の儀礼について、正しく理解し、多くの国民と共有することではないでしょうか。

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「翌年元日」改元か、それとも「践祚の翌月」改元か ──30年で一変した所功先生「改元論」の不思議 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年10月7日)からの転載です

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「翌年元日」改元か、それとも「践祚の翌月」改元か
──30年で一変した所功先生「改元論」の不思議
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 平安時代以降、代始改元は践祚の翌年に行われる踰年改元が習わしでした。「同じ年に、臣下が二君に仕えるのは忍びがたい」(『日本後紀』)とされたからです。ところが、明治維新期に一世一元の制が採用され、さらに明治42年の登極令では「践祚ののちは直ちに元号を改む」(第2条)と明文化され、践祚同日改元に改められることとなりました。

 千年以上続いてきた踰年改元の制度が、どのような経緯で践祚同日改元に改められたのか、年号の歴史に詳しい所功先生の『年号の歴史』(増補版。平成元年)や共著『元号』(平成30年)を読んでみましたが、一世一元の制はともかく、践祚同日改元については説明が見当たりません。明治の皇室制度制定に「伊東巳代治が熱心に取り組んだ」と書いてあるだけです。

 所先生ともあろう方が、一世一元の制はまだしも、践祚同日改元には関心がないということなのでしょうか。そんなことはないだろうと思って、さらに調べていくと、意外な事実が判明しました。


▽1 井田敦彦論考が説明する「践祚同日改元」の歴史

 国会図書館調査及び立法考査局憲法課に井田敦彦さんという方がおられ、「改元をめぐる制度と歴史」(「レファレンス」2018年8月。国会図書館)や「天皇の退位をめぐる主な議論」(「調査と情報」2017年2月。同)などを書いています。

 国会議員の調査研究に資するのが国会図書館の設立目的ですが、菅官房長官が次の御代替わりに伴う改元を「5月1日を軸に検討」と表明したのが昨年暮れですから、改元制度の歴史に関する井田さんの論考は政府の表明のかなりあとにまとめられたことになります。

 政府の政策を調査面で基礎づけたいなら先後関係が完全に逆で、泥縄的ですが、たぶん調査の目的は別なのでしょう。

 今年5月になって、政府は来年4月1日に新元号を事前公表することを決め、これに対して保守系国民運動団体の日本会議関係者が強硬に異議を申し立てました。そのため政府は遅まきながら理論武装の必要に迫られたということではないでしょうか。

 それなら改元の時期はどのように決められてきたのか、明治の践祚同日改元は誰がどう決めたのか、井田さんはどう説明しているのでしょうか。

 井田さんの論考では、登極令に基づき、大正、昭和の改元は皇位継承の当日に行われたが、その理由としては、登極令は「すべて(践祚という)事実に従うものとなし」、践祚後直ちに元号を改めることとしたということ(上杉慎吉「登極令謹解」大正6年)、「天皇の御在位年間の記号となす趣旨を徹底せしめられた」(井原頼明『皇室事典』昭和13年)ということがいわれていると記されています。

 また、解釈として、「古例におけるごとく時日を稽(とど)め延ばすことを得ず」(登極令制定関係者である多田好問の『登極令義解』草稿)とされ、「天皇崩御の瞬間は、すなわち旧元号の終わりて、同時に新元号の始まる瞬間」であるので、「改元の詔書はつねに先帝崩御の瞬間にまで遡りてその効力を生ずべきもの」(美濃部達吉『憲法撮要 改訂版』1946年)とも解されていたというのです。

 目下、政府が進める践祚同日改元の理論的根拠となり得る分析といえます。


▽2 国会図書館で検索されない所先生の論文

 注目されるのは、古来の踰年改元を否定する新しい考え方が多田好問の『登極令義解』草稿に示されているということ、そして井田さんによると、驚いたことに、ほかならぬ所先生がそのことについて以前、雑誌論考に書いていると説明していることです。

 井田さんによると、多田好問の資料に言及した所先生の論考「昭和の践祚式と改元」が『別冊歴史読本』(1988年11月)に載っているということでしたので、国会図書館の検索エンジンで確認してみることにしました。

 ところが、おかしいのです。国会図書館オンラインで所先生の論考を検索しても、「データは見つかりません」という素っ気ない返事しか返ってきません。そんなことがあるんでしょうか。1988(昭和63)年11月に発行された同誌13巻20号が存在することは確かなのにです。

 巻号タイトルが「図説天皇の即位礼と大嘗祭」であることは突き止めました。ないはずの論考はこれに載っていそうです。さっそく雑誌を手に入れました。はたせるかな、所先生の論考は182ページから6ページにわたって掲載されています。なぜ国会図書館オンラインでは検索できないのでしょうか。

 さて、所先生の論考は、まさに明治の改革について説明しています。

 多田好問は御用掛の1人で、『岩倉公実記』の編纂者です。登極令制定に寝食を忘れて尽力し、『登極令義解』をまとめ上げました。その草稿(原本。大正3年)が宮内庁書陵部に伝存しており、最近、全文の複写を頒けていただいた、と所先生は解説しています。

 登極令制定者たちは、上古以来の所伝などを十分に調査したうえで、本義を活かしながら、近代国家に相応しい儀式次第を作り上げたといえるというのが先生の評価です。

 それなら、践祚同日改元について、先生はどうお考えなのかといえば、意外や意外なのでした。


▽3 登極令の「践祚同日改元」を杓子定規と酷評

 登極令第2条は践祚同日改元を定めていますが、所先生によれば、多田の『登極令義解』草稿には、「元号は天皇の一世を表示せらるるものたるを以て、よろしく践祚の後直ちにこれを改むべし。古例におけるごとく時日を稽延することを得ず」と説明しているのでした。

 これについて、所先生は、このような規定の仕方は、明治改元の際も、『皇室典範』制定時にもなかった考え方であって、天皇の在位期間イコール年号の実施期間とする杓子定規な解釈といわざるを得ないと厳しく批判しています。

 そして、登極令に基づく大正、昭和の改元をふり返り、践祚同日改元には無理が重なりやすく、慎重なるべき代始改元のあり方としては、必ずしも適当とはいえない。平安以来の伝統と国民の現実的便宜を考慮すれば、新年号は践祚後慎重に案を選び、審議を尽くして決定公布し、施行は翌年元旦からとする方がよいのではないか、と提案されています。

 所先生がこの論考を執筆されたのは昭和63年8月でした。いまから30年前は、先生は踰年元日改元を主張されていたわけです。だとすると、いま政府が新元号の事前公表、践祚同日改元を進めていることについて非難されてもいいはずですが、そうはなさらず、むしろ最近では、践祚日に新元号公表、1か月後施行に、お考えを一変されたように報道されています。

 先帝の御代に事前準備することは「不穏当」だと強く否定された先生としては、まさに君子は豹変す、です。むろん考えが変わるのが悪いことではありませんが、なぜ改めるのか、釈明されてしかるべきでしょう。みずからは政府批判を回避し、逆に政府攻撃に突き走る日本会議たたきに役割を見いだし、営業方針を転換したというようなレベルではないことを祈ります。

 最後に蛇足ながら付け加えると、多田好問の『登極令義解』草稿について、所先生は、平成元年に発行された『続・大嘗祭の研究』(皇学館大学出版部)で、約70ページにわたって詳しく紹介しています。これによると、多田は践祚同日改元について、正確には次のように記述しています。

「元号は天皇の一世を表示せらるるものたるを以て、宜しく践祚の後直ちにこれを改むべし。古例における即位の礼訖(お)わりたる後に元号を改められたるがごとく、時日を稽延することを得ず。これ一世一元の制を立てられたるの故を以てなり」

 少なくとも多田は、一世一元の制と践祚同日改元を表裏一体のものとして考えていたことが分かります。いずれも近代主義の産物なのでしょうが、所先生が仰せのように、杓子定規で無理が重なりやすい、この践祚同日改元が現代のIT社会に相応しいのか、がいま問われていると思います。

 歴史に埋もれていた資料を発掘し、紹介された所先生のご努力には心から敬意を表しますが、それならばなおのこと、践祚同日改元について、近著『元号』で、史的検証を加えるべきだったのではありませんか。

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