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やっと巡り会えた粟の神事 ──滋賀・日吉大社「山王祭」の神饌「粟津御供」 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年6月20日)からの転載です


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やっと巡り会えた粟の神事
──滋賀・日吉大社「山王祭」の神饌「粟津御供」
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 粟の神事にやっと巡り会えました。

 探しに探し続けて、もう何年になるでしょうか。宮中新嘗祭、大嘗祭では古来、神饌に粟が登場します。祭りが天孫降臨神話に由来するのなら、皇祖神に米の新穀を捧げれば足りるはずなのに、米だけではなく、粟が捧げられるのはなぜでしょう。粟とは何でしょうか。

 古代において、民間に粟の新嘗があったことが知られています。民俗学者によると、大正時代の人たちは粟や稗の酒を自家醸造し、ごくふつうに飲んでいたそうです。飲み過ぎるとたちまち悪酔いしたとも聞きます。

 であるなら、各地の神社に粟を用いた祭礼が伝わっていていいはずなのに、意外にも聞きません。いつの間にか消えたのでしょうか。いや、きっとどこかに歴史の断片が残っているはずだと思い、資料を探し続けましたが、残念ながら見つかりません。

 それが昨年の新嘗祭に、都内での集まりでその話をしたところ、「滋賀県大津市の日吉大社にある」と聞き、勇んで文献を探しまくりましたが、やはり見つかりませんでした。

 すっかり落胆し、あきらめかけていたところ、先日、ほかならぬ滋賀県の神社関係者から「粟津の御供」があるということを直接、教えられました。日吉大社御遷座の歴史物語を再現する山王祭に、まさに御鎮座の故事に深く関わる粟飯が登場するというのです。

 私は心の中で快哉を叫びました。


▽1 膳所五社が毎年交代で

 比叡山の麓、大津市坂本には、全国3800社あまりともいわれる日吉神社、日枝神社の総本宮・日吉大社が鎮座しています。約13万坪の広大な境内には、多くの社殿が建ち並び、凜とした空気が張り詰め、大木が林立するなかを巡拝すると、玉砂利を踏む音に境内を流れる谷川や社殿をめぐる水路の水音が共鳴します。

 中世には「社内百八社」の社殿がひしめいていたようですが、もっとも中心的なお宮は西本宮(大宮)と東本宮(二宮)です。

 歴史的により古いのは、地主神・大山咋神(おおやまくいのかみ)をまつる東本宮です。西本宮は、天智天皇が667年に都を近江大津京に遷されたおり、大和国の三輪山から大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請されたと伝えられています。

 1か月半にも及ぶ、勇壮豪快な山王祭のなかで、粟の神饌が登場するのは「粟津の御供献納祭」です。4月中旬の申の日、夕刻に行われます。

 その昔、大己貴神は琵琶湖の八柳の浜に現れました。そのとき沖合を通りかかったのが、膳所(ぜぜ)の漁師・田中恒世の舟で、恒世が大神に、粟を混ぜて炊いた粟飯を差し出すと、大神はことのほか喜ばれました。

 唐崎の地に着いた大神は琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)に、「年に一度、あの粟飯が食べたい」とおっしゃいました。宇志丸は日吉社社家の始祖とされ、この故事が粟津御供の始まりといわれます。

 祭りでは、七社の御輿を乗せた御座船による、七本柳から唐崎への船渡御が行われます。琵琶湖の唐崎沖で、膳所五社の当番神社や日吉大社の宮司らを乗せた一艘の小舟が近づき、接舷すると、湖上で献納祭が始まります。

 小舟には膳所五社が毎年交代で用意した七社分の神饌が整然と並んでいます。献饌の中心となるのが、正方形に成形された、粟飯なのです。

 祝詞の奏上、大御幣の奉幣のあと、日吉神社の宮司が御座船に乗り移ると、御供舟は御座船から離れていきます。その後、粟津の御供は次々と湖上に投げ入れられます。他方、御座船は比叡辻の若宮港に向かい、七基の御輿は大御幣とともに、西本宮へと帰還されるのです。

 こうして献納祭は終わります。

 以上は、地元にお住まいのフリーカメラマン・山口幸次さんがまとめた『日吉山王祭』(サンライズ出版、2010年)のつまみ食いです。さすが山王祭の御輿をかつぐ駕輿丁を長年務められてこられただけに、写真の素晴らしさもさることながら、詳細な祭りの紹介には頭が下がります。


▽2 かつては粟だけだった?

 蛇足ながら、神饌の粟飯について、私の想像を、以下、何点か書き連ねてみます。

 1点は、粟飯の調理法です。山口さんの説明では「雑穀の粟を混ぜて炊いた御飯」とされていますが、山口さんの写真では、白い米の御飯のうえに、黄色い粟の御飯が乗る、二層構造をしているように見えます。

 とすると、「混ぜて炊いた」のではなく、別々に炊いたのち、整形するのではないでしょうか。

 2点目は、「炊く」という調理法ですが、現在、私たちが知る炊飯法の意味だとすると、いまはともかく、古代は別の方法、つまり「蒸す」方法だったのではないかと想像されます。

 というのも、現代の炊飯法は、平安期に始まったとされる、大量のお湯でボイルする煮飯の調理法から進化したものだからです。炊き干し法と呼ばれます。繊細な調理法で、電気炊飯器が発明される前は、主婦にとっては煩いの種でした。

 西本宮が遷座した7世紀の当初から献納祭が始まっていたとすれば、粟飯は「炊く」のではなく、蒸して作られたのではないでしょうか。

 3点目は、「粟飯」は本来、米と「混ぜて」ではなく、粟だけだったのではないでしょうか。

 宮中神嘉殿の新嘗祭や大嘗祭の大嘗宮の儀では、米の御飯(おんいい)と御粥(おんかゆ)、粟の御飯と御粥が、天皇みずからの手で、ともに捧げられます。御飯は蒸して作られ、御粥は煮て作られます。より古い形は、むろん御飯の方です。

 とするなら、山王祭の「粟飯」は、もともとは粟と米の混ぜ御飯ではなくて、粟の御飯、つまり粟の蒸し飯だけではなかったでしょうか。

 4点目は、山口さんが粟を「雑穀」、粟飯を「粗末なもの」と説明されていることへの疑問です。

 粟津御供の始まりを説明する社伝は、恒世が粟飯を大己貴神に捧げた物語と宇志丸が粟津御供を始めるにいたる物語の二部構成になっています。神饌のルーツを考えるなら、より重要なのは前者です。

 日本最古の神社といわれ、大和国の三輪山を神体山とする大神神社(奈良県桜井市大三輪朝)に祭られているのが大己貴神です。山の神にふさわしいのは焼畑農耕の作物であり、米よりも粟であり、粟は神聖な命の糧だったはずです。

 だからこそ、大神は粟飯を心から喜ばれたのでしょう。祭神と神饌にはきわめて密接な関係があります。

 大己貴神を祭るのが西本宮なら、より古い地主神の大山咋神を祀るのが東本宮で、これまた山の神です。古書には「日枝の山」に祀られると記されているようです。

 とすれば、焼畑農耕の粟こそ、日吉大社の山王祭にはふさわしいということになります。

 最後に、貴重な資料を提供していただいた日吉大社の馬渕宮司さま、ご多忙のなか境内を親切に案内してくださった菱川権禰宜さまに、心からお礼を申し上げます。


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