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古代律令は「すべて天神地祇祭れ」 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」2 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月6日)からの転載です

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古代律令は「すべて天神地祇祭れ」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」2
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 天皇の役割とは何なのか。何だと考えられてきたのか。

 奈良時代に成立した、日本最古の正史である『日本書紀』には、欽明天皇13(552)年10月の出来事として、仏教公伝の歴史が記述されている。

 記事によると、崇仏派の蘇我大臣稲目宿禰は「西蕃(にしのくに)の諸国、ひたすらに皆これを礼(うやま)ふ。豊秋日本(とよあきつやまと)のみ豈ひとり背かむや」と仏教の受け入れを主張した。

 これに対して、排仏派の物部大連尾輿・中臣連鎌子が「我が国家(みかど)の、天下に王(きみ)とましますは、恒に天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそかみ)を以て、春夏秋冬、祭拝(まつ)りたまふことを事(わざ)とす」と反論、反対したことになっている。

 渡来人との関わりが深い蘇我が、仏教の受容はグローバル・スタンダードだと訴えたのに対して、在来の神道儀式に関わる物部らが、多神教的儀礼を行うのが天皇の務めだと主張している点が注目される。

 北部インドで発生し、西域、中国南朝、百済を経由して、日本に伝えられたのは、一切衆生の救済を主眼とする大乗仏教であった。古代中国の梁では仏教文化が最盛期を迎え、国家儀礼は儒教ではなくて、仏教形式だった。三国時代の朝鮮では、仏教は律令制度の整備と関連して、国家理念として機能したといわれる。仏教が受容されると既成の信仰は排除され、国家儀礼は仏教形式に一本化したものらしい。

 けれども、日本ではそうはならなかった。仏教が国家的に移入されたのちも、従来どおり、既成の信仰は共存した。天皇の国家儀礼は仏教オンリーに変質することはなく、多神教的、多宗教的宗教空間が維持された。

 仏教が国家的に受容されたのは推古天皇の時代で、天皇は仏教の外護者となられた。日本最初の官寺・四天王寺が建立された。

 氏姓制からの脱皮が図られ、中央集権化が推進された。仏教思想に基づく十七条憲法が制定され、為政者たちの道徳的規範が示された。けれどもその第一条には「和を以て貴しと為し」と、儒教もしくは日本古来の「和」の思想が宣言されていた。中国、朝鮮とは異なり、既成宗教が排除されず、共存した。

 天皇は祭り主であり、みずから神前に神饌を供え、御告文を奏上し、直会なさる。天皇の祭祀は、仲取持たる神職を介在する神社祭祀とは異なる。各神社の祭祀はそれぞれの地域共同体や血縁共同体が前提だが、天皇の祭りは国家儀礼である。そして、天皇の祭祀は特定の信仰に偏しない複合儀礼というべきものであった。

 たとえば、皇極天皇の時代に始まった、天皇が元日の早暁に行われる四方拝は、『書紀』では雨乞いとされているが、道教由来の儀式と指摘される。

 この時代に儀式が定まったといわれる、皇室第一の重儀とされる新嘗祭や天皇一世一度の大嘗祭は、一般に稲作儀礼と理解されているが、後述するように、天皇は米と粟の新穀を皇祖神ほか天神地祇に捧げられる。稲作民の祭りと畑作民の祭りの複合とみるべきだろう。

 中国皇帝は天壇を祭る。天壇を祭ることが皇帝の特権であり、皇帝の皇帝たるゆえんであった。ローマ教皇なら、絶対神のみを拝する。「あなたには私のほかに神があってはならない」(モーセの十戒)と命ずる唯一神の教えは絶対であり、当然である。しかし、天皇は皇祖神のみを祀らない。祈りの対象は特定されず、皇祖神ほか天神地祇が祀られる。

 天皇の祭祀は多神教的のみならず、多宗教的でさえある。孝謙天皇は皇位継承後、一代一度の大仁王会を営まれ、これが即位式、大嘗祭とともに御代替わり儀式として位置づけられた。やがて出家ののち、藤原仲麻呂の乱を経て重祚されると、天皇の神社である伊勢の神宮に神宮寺が造立され、仏像が建てられた。

 その一方で、孝謙天皇の治世に施行された養老律令は、官僚機構に宮中祭祀を司る神祇官と国政を統括する最高機関の太政官が並立する二官八省が採用された。令には「神祇令」と「僧尼令」が並んでいるが、「神祇令」には「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(即位条)と記されている。

 歴代天皇は仏教に帰依されたのちも、天神地祇を祀ることをお務めとされた。特定の神のみを祀ることをせず、民が信奉する、あらゆる多元的価値を保障し、国と民を統合することが天皇の務めとされたと考えられる。

 順徳天皇が「およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にす。旦暮(あさゆう)、敬神の叡慮、懈怠なし。白地(あからさまにも)神宮ならびに内侍所の方をもって御跡(みあと)となしたまはず」と『禁秘抄』に著されたのは承久3年、承久の変の前夜だった。のちに後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇のお三方が遠流の身となる皇室存亡の危機にあって、敬神、崇祖、神祭りが皇位の本質だと断言されたのである。

 そして歴代天皇はこの祭祀優先主義を実践された。祈りはいまも継承されている。(つづく)


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