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「祭り主」は過去の遺物となった ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」9 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月25日)からの転載です

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「祭り主」は過去の遺物となった
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」9
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 昭和天皇が亡くなり、皇位は皇太子殿下(いまは太上天皇)に継承された。しかし政府は何の準備もなかった(前掲永田インタビュー)。戦後の皇室典範は「即位の礼を行う」「大喪の礼を行う」と定めるだけで、皇位継承という国と皇室の最重要事に関して、具体的な法規定がなかった。法治国家として最悪の事態である。

 幸いというべきか、日本国憲法施行時の依命通牒は生きている。「廃止の手続きは取っておりません」(平成3年4月25日、参院内閣委)という宮内庁幹部の国会答弁からすれば、依命通牒第3項によって、登極令附式に準じて、御代替わりの諸儀式は行われていいはずだが、そうはならなかった。

 最大の問題は大嘗祭だった。石原信雄元内閣官房副長官は自著で「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」と回想している(『官邸2668日──政策決定の舞台裏』、平成7年)。急先鋒は内閣法制局だったという。

 政府は段階的に委員会を設け、御代替わり儀礼の中身について検討した。そして、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とが対立的に捉えられ、皇室の伝統のままに行うことが憲法の趣旨に反すると考えるものは、国の行事ではなく、皇室行事とされた。判断基準はむろん政教分離原則だった。

 平安期以来の践祚と即位の区別は失われ、立法者たちが想定しない「大喪の礼」が行われた。「即位の礼」は皇室の伝統儀礼とは似て非なるものとなり、もっとも中心的な「大嘗祭」は「宗教性」ゆえに「国の行事」とはなれなかった。

 御代替わりの諸儀式は、全体的に皇室および国の最重要事であり、国事のはずだが、最高法規たる憲法の政教分離原則によって因数分解され、国の行事と皇室行事とに二分された。宗教性があるとされる儀式は非宗教的に改称、改変された。

 皇位継承ののち、天皇陛下(太上天皇)は、皇后陛下(皇太后)とともに祭祀について学ばれ、正常化に努められたという。即位以来、陛下は、皇室の伝統と憲法の理念の両方を追求される、とことあるごとに繰り返し表明された。

 けれども在位20年を過ぎて、ご健康問題を理由に、ふたたび祭祀の簡略化が平成の官僚たちによって敢行された。

 宮内庁によるご公務ご負担軽減策が講じられたものの、ご公務件数は逆に増えた。一方で、祭祀のお出ましは文字通り激減した。祭祀がご負担軽減の標的にされたのだ。ご負担軽減策は、天皇の聖域たる祭祀に不当に介入しただけで、不成功に終わった。

 要するに、古来、天皇第一の務めは祭祀とされてきたが、こうした天皇観はすでに過去の遺物とされている。近世までの天皇は装束を召され、薄化粧されて御簾のかげに端座される祭り主だった。近代の天皇は祭り主であると同時に、行動する立憲君主だった。

 だが、いまや洋装で憲法上の国事行為を行う特別公務員とされている。はたして、それでいいのだろうか。

 今回の御代替わりでは、前回の批判的検証もあればこそ、前例踏襲が基本方針とされている。政府の発表によれば、践祚の前日に前代未聞の「退位の礼」が行われ、譲位(退位)と践祚(即位)が分離される。前回は3日間の賢所の儀のあとに行われた朝見の儀が、今回は践祚当日になる。そもそも政府は祭祀について、検討した気配がない。皇室の伝統について十分な検証を怠っている。これで済まされるのだろうか。(つづく)


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「私事」のまま放置する不作為と改変 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月18日)からの転載です

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「私事」のまま放置する不作為と改変
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8
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 敗戦は当然、天皇の祭祀にも大きな影響を及ぼした。

 昭和20年12月に、「目的は宗教を国家より分離することにある」とする、いわゆる神道指令が発せられると、宮中祭祀は国家的性格を否定され、「皇室の私事」として存続することを余儀なくされた。掌典職は内廷の機関となった。

 神道指令は駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷だった。政府は、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図ることを方針とせざるを得なかったとされる。異論はあったが、敗戦国の政府が占領軍に楯突くことは不可能だった。

 さらに2年後、22年に日本国憲法が施行されると、皇室令は全廃された。皇室典範を中心とする宮務法の体系が国務法に一元的に吸収され、新しい皇室典範は一法律と位置づけられた。宮中祭祀は明文法的根拠を失い、近代以前に引き戻された。

 ただ、祭祀の形式は、ほぼ従来通り存続した。

 同日に宮内府長官官房文書課長による依命通牒が発せられ、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされ、宮中祭祀令の附式に準じて、祭式はかろうじて存続することになった。

 けれどもその後、今日に至るまで、皇室令に代わる宮務法の体系は作られることはなかった。宮中祭祀の法的位置づけは「皇室の私事」のまま、変わることはなかった。

 それどころか、さらなる試練が生じた。国民の目の届かないところで、占領前期への先祖返りが起きたのだ。

 昭和40年代に入って、万年ヒラの侍従から、瞬く間に侍従長へと駆け上がった入江相政は依命通牒を無視して、祭祀を「簡素化」する「工作」に熱中した。無法化の始まりである。名目は昭和天皇の高齢化だった。

 毎月1日の旬祭の親拝は5月と10月だけとなり、皇室第一の重儀であるはずの新嘗祭は簡略化された。昭和天皇のご健康への配慮であるかのように「入江日記」には説明されているが、疑わしい。それならそれで、なぜ正規のルール作りを怠ったのか。

 そして、富田朝彦宮内庁次長(のちの長官)が登場した。冒頭に書いたように、50年8月15日の宮内庁長官室の会議で、毎朝御代拝の変更が決められた。

 国会答弁(平成3年4月25日の参院内閣委)などによると、依命通牒第4項の「前項の場合において、従前の例によれないものは、当分の内の案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること」をあわせ読んだ結果であり、政教分離原則への配慮と推定される。占領前期の厳格主義への人知れぬ先祖返りである。

 侍従は天皇の側近というより公務員であり、したがって特定の宗教である宮中祭祀への直接的関与から離脱することとなった。天皇=祭り主とする天皇観は崩壊した。

 改変の中心人物と目される富田は、いわゆる「富田メモ」で知られる元警察官僚だが、無神論者を自任していたといわれ、側近ながら祭祀に不参のことが多かった(前掲永田インタビュー)。富田らによる一方的な祭祀変更は次々に起こり、いまに尾を引いている。

 御代替わりの中心儀礼である大嘗祭もしかりであった。

 昭和54年4月、元号法制化に関する国会答弁で、真田秀夫・内閣法制局長官は「従来のような大嘗祭は神式だから、憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか」と述べた。

 戦後の混乱期には「祭祀は皇室の私事」という憲法解釈を便宜上、取らざるを得なかったにせよ、その後、正常化が図られ、34年の皇太子御成婚では、賢所大前での御結婚の儀は「国の儀式」と政府決定された。だが法制局は、大嘗祭は神道儀式と断定したのだ。(つづく)

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アメリカが見た鏡のなかの「軍国主義」 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」7 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月10日)からの転載です

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アメリカが見た鏡のなかの「軍国主義」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」7
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 近代化の道をひた走った末に、日本はほとんど世界を相手に戦争し、ポツダム宣言を受け取れ、敗戦国となった。尊い人命が数多く失われ、国土は焦土と化した。宣言の受諾を国民に伝える詔書には「五内爲ニ裂ク」と無念が表明されている。

 日本に降伏を迫るポツダム宣言には、「軍国主義」「世界征服」の言葉が登場する。

「われらは、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず」(日本語訳文の原典は漢字片仮名交じり)

 この「軍国主義」「世界征服」とは、具体的に何を指すのだろう。

 戦中からアメリカは、「国家神道」が「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えたという。なぜそう考えたのか。

 たとえば、日米開戦後、アメリカ陸軍省が製作した、新兵教育、戦意昂揚のための「Why We Fight」シリーズというプロパガンダ映画がある。「最高傑作」とも評価される一連の作品の多くを手がけたのはフランク・キャプラである。生涯に3度のアカデミー賞を受賞し、アカデミー会長をも務めた名匠であった。

 キャプラが最後に監督し、製作されたのが「Know Your Enemy ; Japan」(1945年)である。キャプラは「敵国」日本の何を、「軍国主義」と考えたのだろうか。

 実写フィルムを巧みにつないだ約60分の映画には、神道、日本軍、天皇、八紘一宇、靖国神社などをキーワードにして、日本の「軍国主義」の残忍さ、妖怪ぶりが描かれている。そのなかでも、とくに注目されるのは「田中メモランダム(田中上奏文)」である。「世界征服の原案・設計図」として真正面から取り上げられている。

「田中上奏文」は、昭和2年に、田中義一首相が昭和天皇に、「世界征服」の手順を極秘で報告した、とされるもので、日本では当初から偽書と一蹴され、今日、歴史的評価はほぼ定まっているが、当時のアメリカでは事実と信じられたらしい。

 皇祖神を絶対化し、「現人神」天皇のもと、侵略地に次々と神社を建て、新たな国民にも参拝させ、学校では教育勅語を奉読させ、急速に領土を拡大していった「八紘一宇」の勇猛は、キリストの教えとローマ教皇の勅書に基づき、異教世界を侵略し、異教徒を殺戮、異教文明を破壊した大航海時代以降のキリスト教世界の暗黒史と二重写しだ。

「教育勅語」の一節「之を中外に施して悖らず」は「日本でも外国でも間違いがない道だ」と解釈されており、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(新約聖書)というキリストの言葉とダブって聞こえても不思議はない。

 たとえば、占領軍の教育・宗教を担当したCIE(民間情報教育局)の政策に大きな役割を果たしたR・K・ホールは、教育勅語が「国家神道の神聖な教典」であったと理解していたという(貝塚茂樹『戦後教育改革と道徳教育問題』、2001年)。

 とすれば、一神教的に擬せられた近代日本とあくまで一神教的なキリスト教世界との軍事対決は避けられず、一神教的「国家神道」は主たる攻撃目標に設定されざるを得ない。彼らはまるで鏡に映る自分に戦いを挑んだかのようである。

 それは多神教文明と一神教文明の衝突ではなくて、一神教と一神教の対決だった。

 靖国神社は占領軍内部では爆破焼却の噂がもっぱらだったという。アメリカは、靖国神社の宮司らが世界征服戦争を実際に陰で操っている、と本気で考えていたらしい。

 キリスト教世界では、絶対神と救世主イエスの存在があり、聖書があり、聖職者がいて、教会がある。同様に、日本の「国家神道」もまた、皇祖神と天皇、教育勅語、神道家たち、靖国神社があると見えたのだろうか。

 皇祖天照大神は至高至貴ながら絶対神ではない。神道には布教の概念すらない。宮中祭祀には教義も教団もない。しかし文部省編纂の『国体の本義』(昭和12年)には「天皇は現御神であらせられる」と明記された。天皇は個人崇拝ではないし、昭和天皇は神格化を嫌っておられたのに、である。

 欧化思想の席巻を憂える明治天皇の思召しに始まった教育勅語の作成は、井上毅らによって、非宗教性、非政治性、非哲学性が追求された。しかし、完成後は教育勅語それ自体が政治主導で神聖化され、宗教的扱いを受けることとなった。ドイツ留学から帰国したばかりの哲学者・井上哲次郎による解説本作成は、国民教育の必要性を強く訴えるものとなっており、明治天皇ご自身、不満を示されたが、叡慮は反故にされた。

 文部省は教育勅語の神聖化をさらに進め、御真影とともに教育勅語の謄本を納める奉安殿の設置が全国展開された。当初の目的と構想を外れ、のちに教育勅語は「国家神道」の聖典として批判されこととなり、敗戦後は国会で排除・失効確認がなされるのである。

 ところが、戦後の嵐は瞬く間にやんだ。占領後期になると、「国家神道」敵視は急速になりを潜め、神道形式による松平参院議長の参院葬、皇室喪儀令に準じた貞明皇后大喪儀、吉田茂首相による靖国神社参拝さえ認められた。靖国神社は爆破焼却どころか、宗教法人として存続した。

 渦中のGHQ職員はのちに、占領軍の宗教政策が厳格主義から限定主義(教会と国家の分離)に変更されたことを公にしているが、いつ、だれが、なぜ変更したのかについては明らかにされていない(ウイリアム・ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4、昭和31年12月)。

 この政策変更は「国家神道」をめぐる最大のテーマであり、歴史の謎である。もしや彼らは自分たちが幻影を見ていたことに気づいたからではあるまいか。(つづく)


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アインシュタインの絶賛と憂い ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」6 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月4日)からの転載です

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アインシュタインの絶賛と憂い
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」6
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 日本の近代化を、憂いをもって見つめ、警告した1人が、相対性理論で知られる物理学者のアルバート・アインシュタインである。

 大正11年に来日したアインシュタインは、九州から東北まで、各大学で相対性理論を講演したほか、各地の著名神社などに参詣し、皇后陛下に謁見、能楽や雅楽を鑑賞し、庶民と気軽に交わり、「日本のすばらしさ」に魅せられたことを旅日記に記録している。

 それによると、まず感動したのは美しい日本の自然であった。彼は各地で日本の「光」に惹かれた。しかし自然以上に輝いていたのは、日本人の「顔」であった。「日本人は他のどの国の人よりも自分の国と人々を愛している」「欧米人に対してとくに遠慮深かった」と絶賛している。

 そうした国民性はどこに由来するのか、アインシュタインは自問し、自然との共生と見抜いた。さすがは天才というべきだろう。

「日本では、自然と人間は一体化しているように見える。この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じて与えられたものと密接に結びついている」

 とくに「自然と人間の一体化」を示すものは、日本の神道と神社建築であった。

 日光東照宮は、「自然と建築物が華麗に調和している。……自然を描写する慶びがなおいっそう建築や宗教を上回っている」。厳島神社では、「優美な鳥居のある水の中に建てられた社殿に向かって魅惑的な海岸を散歩する。……山の頂上から見渡す瀬戸内海はすばらしい眺めだった」。

 アインシュタインの探求心は天皇にまで及んだ。

 草薙剣を祀る熱田神宮の参詣では「国家によって用いられる自然宗教。多くの神々、先祖と天皇が祀られている。木は神社建築にとって大事なものである」と印象を述べ、京都御所では「私がかつて見たなかで最も美しい建物だった。……天皇は神と一体化している」と感想をつづっている。

 美しい自然とその自然に育まれた日本人の国民性を高く評価し、天皇制にまで考察を広げたアインシュタインだが、他方で、伝統と西洋化の狭間で揺れる日本の近代化の苦悩を察知していた。

 であればこそ、旅の途中で書いた「印象記」のなかで、「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいる」日本に理解を示しつつも、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにいて欲しい」と訴えることを忘れなかったのだろう(『アインシュタイン、日本で相対論を語る』、2001年など)

 四季折々の多彩な美しさのみならず、ときには荒ぶる自然と共生してきた日本人は、その自然観に基づく、多神教的、多宗教的文明を創りあげ、天皇制という国民統合のシステムをも編み出した。

 けれども、日本の近代化こそは、国を挙げて、太陽暦、法律、官僚、軍隊、貨幣、学校、鉄道など一元主義的なキリスト教世界の文化を精力的に受け入れることだった。皮肉にも、その先頭に立ったのが皇室であった。

 維新以来、政府がもっとも重視したのは、不平等条約の改正だった。列強に対抗するには近代化を急がなければならない。基本方針とされる五箇条の御誓文(慶応4年)には「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」とあったから、海外に学ぶことが優先され、社会システムの欧風化が急速に進み、欧化思想が社会を席巻していった。

 価値多元主義の文明が、世界基準であるキリスト教世界の一元主義的文化を積極的に受容し、アジアで最初の近代国家を打ち立て、列強と肩を並べるレベルにまで到達したのは歴史的壮挙のはずだが、その先には未曾有の悲劇が待ち受けていた。(つづく)


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