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価値多元主義の潮流に逆行 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」10 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年9月1日)からの転載です

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価値多元主義の潮流に逆行
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」10
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 今回の御代替わりについて、政府は、「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重」「平成の前例踏襲」という「基本方針」を示しているが、既述したように、さまざまな不都合が指摘される。

 それらが「1強」と呼ばれる保守長期政権によって招来されていることに、私は長嘆息を禁じ得ない。敗戦後、社会党政権下でさえ、天皇の祭祀は粛々と行われていたのに、である。

 なぜこんなことが起きるのか。

 けれども、今回の御代替わりについて、本質的議論を加えるべき時機はもはや逸している。戦後70年間、本格的議論ができなかったことが返す返すも悔やまれる。

 皇室のあるべき儀礼とはいかなるものか、あるべき天皇制とはどのようなものか、国の法体系とはどのようにあるべきか、将来に向けた、抜本的な検討が求められていると思う。

 アメリカでは2001年の9・11同時多発テロの3日後、ワシントン・ナショナル・カテドラルで犠牲者追悼のミサが行われ、各宗教の代表者が祈りを捧げた。03年のスペース・シャトル「コロンビア号」の事故でも、同様に多宗教的儀礼がここで行われた。

 同聖堂は国家が祈りを捧げる「全国民の教会」とされ、100年余の歴史を誇る。大統領就任ミサを始め、しばしばホワイト・ハウスの依頼でミサが行われ、現職ならびに歴代大統領ほか政府高官らが参列し、費用は政府が実費を負担しているという。

 カテドラル関係者は「儀式は当然、宗教的だ。祈りは宗教的行為以外の何ものでもない」と明言するが、政教分離原則に違反するとは考えられていない。政教分離主義の源流とされるアメリカは、みずからの宗教的伝統に従って、国事を執り行っている。

 キリスト教世界では大航海時代とはうって変わり、とくに第2バチカン公会議以降、多宗教的、多元的な価値を積極的に認めるようになっている。ローマ教皇は何度もイスタンブールのブルーモスクで和解と平和の祈りを捧げている。

 しかし、宗教の平和的共存、価値多元主義の容認は、むしろ日本の天皇制こそその先駆けではなかったか。「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(神祇令)とされ、歴代天皇は稲作民の稲と畑作民の粟による儀礼を継承し、国と民のために祈りをつむぎ続けてこられた。

 天皇の祭りこそは信教の自由を保障するものだろう。なぜ一神教世界由来の政教分離の対象とされなければならないのだろうか。

 ところが現代の日本人には問題意識が乏しい。私たちは近代化の末に、文明の多元的価値を見失っている。そればかりでなく、世界の価値多元主義的潮流に逆行している。天皇とは何だったのか、私たちはいま一度、謙虚に問い直すべきではなかろうか。(終わり)

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「祭り主」は過去の遺物となった ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」9 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月25日)からの転載です

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「祭り主」は過去の遺物となった
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」9
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 昭和天皇が亡くなり、皇位は皇太子殿下(いまは太上天皇)に継承された。しかし政府は何の準備もなかった(前掲永田インタビュー)。戦後の皇室典範は「即位の礼を行う」「大喪の礼を行う」と定めるだけで、皇位継承という国と皇室の最重要事に関して、具体的な法規定がなかった。法治国家として最悪の事態である。

 幸いというべきか、日本国憲法施行時の依命通牒は生きている。「廃止の手続きは取っておりません」(平成3年4月25日、参院内閣委)という宮内庁幹部の国会答弁からすれば、依命通牒第3項によって、登極令附式に準じて、御代替わりの諸儀式は行われていいはずだが、そうはならなかった。

 最大の問題は大嘗祭だった。石原信雄元内閣官房副長官は自著で「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」と回想している(『官邸2668日──政策決定の舞台裏』、平成7年)。急先鋒は内閣法制局だったという。

 政府は段階的に委員会を設け、御代替わり儀礼の中身について検討した。そして、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とが対立的に捉えられ、皇室の伝統のままに行うことが憲法の趣旨に反すると考えるものは、国の行事ではなく、皇室行事とされた。判断基準はむろん政教分離原則だった。

 平安期以来の践祚と即位の区別は失われ、立法者たちが想定しない「大喪の礼」が行われた。「即位の礼」は皇室の伝統儀礼とは似て非なるものとなり、もっとも中心的な「大嘗祭」は「宗教性」ゆえに「国の行事」とはなれなかった。

 御代替わりの諸儀式は、全体的に皇室および国の最重要事であり、国事のはずだが、最高法規たる憲法の政教分離原則によって因数分解され、国の行事と皇室行事とに二分された。宗教性があるとされる儀式は非宗教的に改称、改変された。

 皇位継承ののち、天皇陛下(太上天皇)は、皇后陛下(皇太后)とともに祭祀について学ばれ、正常化に努められたという。即位以来、陛下は、皇室の伝統と憲法の理念の両方を追求される、とことあるごとに繰り返し表明された。

 けれども在位20年を過ぎて、ご健康問題を理由に、ふたたび祭祀の簡略化が平成の官僚たちによって敢行された。

 宮内庁によるご公務ご負担軽減策が講じられたものの、ご公務件数は逆に増えた。一方で、祭祀のお出ましは文字通り激減した。祭祀がご負担軽減の標的にされたのだ。ご負担軽減策は、天皇の聖域たる祭祀に不当に介入しただけで、不成功に終わった。

 要するに、古来、天皇第一の務めは祭祀とされてきたが、こうした天皇観はすでに過去の遺物とされている。近世までの天皇は装束を召され、薄化粧されて御簾のかげに端座される祭り主だった。近代の天皇は祭り主であると同時に、行動する立憲君主だった。

 だが、いまや洋装で憲法上の国事行為を行う特別公務員とされている。はたして、それでいいのだろうか。

 今回の御代替わりでは、前回の批判的検証もあればこそ、前例踏襲が基本方針とされている。政府の発表によれば、践祚の前日に前代未聞の「退位の礼」が行われ、譲位(退位)と践祚(即位)が分離される。前回は3日間の賢所の儀のあとに行われた朝見の儀が、今回は践祚当日になる。そもそも政府は祭祀について、検討した気配がない。皇室の伝統について十分な検証を怠っている。これで済まされるのだろうか。(つづく)


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「私事」のまま放置する不作為と改変 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月18日)からの転載です

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「私事」のまま放置する不作為と改変
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8
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 敗戦は当然、天皇の祭祀にも大きな影響を及ぼした。

 昭和20年12月に、「目的は宗教を国家より分離することにある」とする、いわゆる神道指令が発せられると、宮中祭祀は国家的性格を否定され、「皇室の私事」として存続することを余儀なくされた。掌典職は内廷の機関となった。

 神道指令は駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷だった。政府は、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図ることを方針とせざるを得なかったとされる。異論はあったが、敗戦国の政府が占領軍に楯突くことは不可能だった。

 さらに2年後、22年に日本国憲法が施行されると、皇室令は全廃された。皇室典範を中心とする宮務法の体系が国務法に一元的に吸収され、新しい皇室典範は一法律と位置づけられた。宮中祭祀は明文法的根拠を失い、近代以前に引き戻された。

 ただ、祭祀の形式は、ほぼ従来通り存続した。

 同日に宮内府長官官房文書課長による依命通牒が発せられ、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされ、宮中祭祀令の附式に準じて、祭式はかろうじて存続することになった。

 けれどもその後、今日に至るまで、皇室令に代わる宮務法の体系は作られることはなかった。宮中祭祀の法的位置づけは「皇室の私事」のまま、変わることはなかった。

 それどころか、さらなる試練が生じた。国民の目の届かないところで、占領前期への先祖返りが起きたのだ。

 昭和40年代に入って、万年ヒラの侍従から、瞬く間に侍従長へと駆け上がった入江相政は依命通牒を無視して、祭祀を「簡素化」する「工作」に熱中した。無法化の始まりである。名目は昭和天皇の高齢化だった。

 毎月1日の旬祭の親拝は5月と10月だけとなり、皇室第一の重儀であるはずの新嘗祭は簡略化された。昭和天皇のご健康への配慮であるかのように「入江日記」には説明されているが、疑わしい。それならそれで、なぜ正規のルール作りを怠ったのか。

 そして、富田朝彦宮内庁次長(のちの長官)が登場した。冒頭に書いたように、50年8月15日の宮内庁長官室の会議で、毎朝御代拝の変更が決められた。

 国会答弁(平成3年4月25日の参院内閣委)などによると、依命通牒第4項の「前項の場合において、従前の例によれないものは、当分の内の案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること」をあわせ読んだ結果であり、政教分離原則への配慮と推定される。占領前期の厳格主義への人知れぬ先祖返りである。

 侍従は天皇の側近というより公務員であり、したがって特定の宗教である宮中祭祀への直接的関与から離脱することとなった。天皇=祭り主とする天皇観は崩壊した。

 改変の中心人物と目される富田は、いわゆる「富田メモ」で知られる元警察官僚だが、無神論者を自任していたといわれ、側近ながら祭祀に不参のことが多かった(前掲永田インタビュー)。富田らによる一方的な祭祀変更は次々に起こり、いまに尾を引いている。

 御代替わりの中心儀礼である大嘗祭もしかりであった。

 昭和54年4月、元号法制化に関する国会答弁で、真田秀夫・内閣法制局長官は「従来のような大嘗祭は神式だから、憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか」と述べた。

 戦後の混乱期には「祭祀は皇室の私事」という憲法解釈を便宜上、取らざるを得なかったにせよ、その後、正常化が図られ、34年の皇太子御成婚では、賢所大前での御結婚の儀は「国の儀式」と政府決定された。だが法制局は、大嘗祭は神道儀式と断定したのだ。(つづく)

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アメリカが見た鏡のなかの「軍国主義」 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」7 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月10日)からの転載です

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アメリカが見た鏡のなかの「軍国主義」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」7
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 近代化の道をひた走った末に、日本はほとんど世界を相手に戦争し、ポツダム宣言を受け取れ、敗戦国となった。尊い人命が数多く失われ、国土は焦土と化した。宣言の受諾を国民に伝える詔書には「五内爲ニ裂ク」と無念が表明されている。

 日本に降伏を迫るポツダム宣言には、「軍国主義」「世界征服」の言葉が登場する。

「われらは、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず」(日本語訳文の原典は漢字片仮名交じり)

 この「軍国主義」「世界征服」とは、具体的に何を指すのだろう。

 戦中からアメリカは、「国家神道」が「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えたという。なぜそう考えたのか。

 たとえば、日米開戦後、アメリカ陸軍省が製作した、新兵教育、戦意昂揚のための「Why We Fight」シリーズというプロパガンダ映画がある。「最高傑作」とも評価される一連の作品の多くを手がけたのはフランク・キャプラである。生涯に3度のアカデミー賞を受賞し、アカデミー会長をも務めた名匠であった。

 キャプラが最後に監督し、製作されたのが「Know Your Enemy ; Japan」(1945年)である。キャプラは「敵国」日本の何を、「軍国主義」と考えたのだろうか。

 実写フィルムを巧みにつないだ約60分の映画には、神道、日本軍、天皇、八紘一宇、靖国神社などをキーワードにして、日本の「軍国主義」の残忍さ、妖怪ぶりが描かれている。そのなかでも、とくに注目されるのは「田中メモランダム(田中上奏文)」である。「世界征服の原案・設計図」として真正面から取り上げられている。

「田中上奏文」は、昭和2年に、田中義一首相が昭和天皇に、「世界征服」の手順を極秘で報告した、とされるもので、日本では当初から偽書と一蹴され、今日、歴史的評価はほぼ定まっているが、当時のアメリカでは事実と信じられたらしい。

 皇祖神を絶対化し、「現人神」天皇のもと、侵略地に次々と神社を建て、新たな国民にも参拝させ、学校では教育勅語を奉読させ、急速に領土を拡大していった「八紘一宇」の勇猛は、キリストの教えとローマ教皇の勅書に基づき、異教世界を侵略し、異教徒を殺戮、異教文明を破壊した大航海時代以降のキリスト教世界の暗黒史と二重写しだ。

「教育勅語」の一節「之を中外に施して悖らず」は「日本でも外国でも間違いがない道だ」と解釈されており、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(新約聖書)というキリストの言葉とダブって聞こえても不思議はない。

 たとえば、占領軍の教育・宗教を担当したCIE(民間情報教育局)の政策に大きな役割を果たしたR・K・ホールは、教育勅語が「国家神道の神聖な教典」であったと理解していたという(貝塚茂樹『戦後教育改革と道徳教育問題』、2001年)。

 とすれば、一神教的に擬せられた近代日本とあくまで一神教的なキリスト教世界との軍事対決は避けられず、一神教的「国家神道」は主たる攻撃目標に設定されざるを得ない。彼らはまるで鏡に映る自分に戦いを挑んだかのようである。

 それは多神教文明と一神教文明の衝突ではなくて、一神教と一神教の対決だった。

 靖国神社は占領軍内部では爆破焼却の噂がもっぱらだったという。アメリカは、靖国神社の宮司らが世界征服戦争を実際に陰で操っている、と本気で考えていたらしい。

 キリスト教世界では、絶対神と救世主イエスの存在があり、聖書があり、聖職者がいて、教会がある。同様に、日本の「国家神道」もまた、皇祖神と天皇、教育勅語、神道家たち、靖国神社があると見えたのだろうか。

 皇祖天照大神は至高至貴ながら絶対神ではない。神道には布教の概念すらない。宮中祭祀には教義も教団もない。しかし文部省編纂の『国体の本義』(昭和12年)には「天皇は現御神であらせられる」と明記された。天皇は個人崇拝ではないし、昭和天皇は神格化を嫌っておられたのに、である。

 欧化思想の席巻を憂える明治天皇の思召しに始まった教育勅語の作成は、井上毅らによって、非宗教性、非政治性、非哲学性が追求された。しかし、完成後は教育勅語それ自体が政治主導で神聖化され、宗教的扱いを受けることとなった。ドイツ留学から帰国したばかりの哲学者・井上哲次郎による解説本作成は、国民教育の必要性を強く訴えるものとなっており、明治天皇ご自身、不満を示されたが、叡慮は反故にされた。

 文部省は教育勅語の神聖化をさらに進め、御真影とともに教育勅語の謄本を納める奉安殿の設置が全国展開された。当初の目的と構想を外れ、のちに教育勅語は「国家神道」の聖典として批判されこととなり、敗戦後は国会で排除・失効確認がなされるのである。

 ところが、戦後の嵐は瞬く間にやんだ。占領後期になると、「国家神道」敵視は急速になりを潜め、神道形式による松平参院議長の参院葬、皇室喪儀令に準じた貞明皇后大喪儀、吉田茂首相による靖国神社参拝さえ認められた。靖国神社は爆破焼却どころか、宗教法人として存続した。

 渦中のGHQ職員はのちに、占領軍の宗教政策が厳格主義から限定主義(教会と国家の分離)に変更されたことを公にしているが、いつ、だれが、なぜ変更したのかについては明らかにされていない(ウイリアム・ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4、昭和31年12月)。

 この政策変更は「国家神道」をめぐる最大のテーマであり、歴史の謎である。もしや彼らは自分たちが幻影を見ていたことに気づいたからではあるまいか。(つづく)


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アインシュタインの絶賛と憂い ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」6 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年8月4日)からの転載です

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アインシュタインの絶賛と憂い
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」6
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 日本の近代化を、憂いをもって見つめ、警告した1人が、相対性理論で知られる物理学者のアルバート・アインシュタインである。

 大正11年に来日したアインシュタインは、九州から東北まで、各大学で相対性理論を講演したほか、各地の著名神社などに参詣し、皇后陛下に謁見、能楽や雅楽を鑑賞し、庶民と気軽に交わり、「日本のすばらしさ」に魅せられたことを旅日記に記録している。

 それによると、まず感動したのは美しい日本の自然であった。彼は各地で日本の「光」に惹かれた。しかし自然以上に輝いていたのは、日本人の「顔」であった。「日本人は他のどの国の人よりも自分の国と人々を愛している」「欧米人に対してとくに遠慮深かった」と絶賛している。

 そうした国民性はどこに由来するのか、アインシュタインは自問し、自然との共生と見抜いた。さすがは天才というべきだろう。

「日本では、自然と人間は一体化しているように見える。この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じて与えられたものと密接に結びついている」

 とくに「自然と人間の一体化」を示すものは、日本の神道と神社建築であった。

 日光東照宮は、「自然と建築物が華麗に調和している。……自然を描写する慶びがなおいっそう建築や宗教を上回っている」。厳島神社では、「優美な鳥居のある水の中に建てられた社殿に向かって魅惑的な海岸を散歩する。……山の頂上から見渡す瀬戸内海はすばらしい眺めだった」。

 アインシュタインの探求心は天皇にまで及んだ。

 草薙剣を祀る熱田神宮の参詣では「国家によって用いられる自然宗教。多くの神々、先祖と天皇が祀られている。木は神社建築にとって大事なものである」と印象を述べ、京都御所では「私がかつて見たなかで最も美しい建物だった。……天皇は神と一体化している」と感想をつづっている。

 美しい自然とその自然に育まれた日本人の国民性を高く評価し、天皇制にまで考察を広げたアインシュタインだが、他方で、伝統と西洋化の狭間で揺れる日本の近代化の苦悩を察知していた。

 であればこそ、旅の途中で書いた「印象記」のなかで、「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいる」日本に理解を示しつつも、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにいて欲しい」と訴えることを忘れなかったのだろう(『アインシュタイン、日本で相対論を語る』、2001年など)

 四季折々の多彩な美しさのみならず、ときには荒ぶる自然と共生してきた日本人は、その自然観に基づく、多神教的、多宗教的文明を創りあげ、天皇制という国民統合のシステムをも編み出した。

 けれども、日本の近代化こそは、国を挙げて、太陽暦、法律、官僚、軍隊、貨幣、学校、鉄道など一元主義的なキリスト教世界の文化を精力的に受け入れることだった。皮肉にも、その先頭に立ったのが皇室であった。

 維新以来、政府がもっとも重視したのは、不平等条約の改正だった。列強に対抗するには近代化を急がなければならない。基本方針とされる五箇条の御誓文(慶応4年)には「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」とあったから、海外に学ぶことが優先され、社会システムの欧風化が急速に進み、欧化思想が社会を席巻していった。

 価値多元主義の文明が、世界基準であるキリスト教世界の一元主義的文化を積極的に受容し、アジアで最初の近代国家を打ち立て、列強と肩を並べるレベルにまで到達したのは歴史的壮挙のはずだが、その先には未曾有の悲劇が待ち受けていた。(つづく)


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近代化で変質した宮中祭祀 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」5 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月28日)からの転載です

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近代化で変質した宮中祭祀
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」5
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 幕末・明治維新期は日本の宗教および宮中祭祀の一大転換点だった。

「諸事、神武創業之始ニ原(もとづ)キ」と謳う、慶応3年の王政復古の大号令の翌年には、祭政一致、神祇官再興が表明され、諸神社、神官らは神祇官に付属されるべきことが布告された。明治天皇は紫宸殿に神座を設え、天神地祇を祀り、五事の誓約(五箇条御誓文)を行われた。

 僧形の別当・社僧の復飾が通達され、さらに「権現」「牛頭天王」など仏語を神号とする神社の改称、仏像の御神体、鰐口、梵鐘、仏具の撤去が布告された(『明治天皇紀』など)。

 神仏分離令による年来の神仏習合の清算は、激しい廃仏毀釈へと転化した。いち早く嵐にさらされたのが比叡山延暦寺・日吉社(山王権現社)だった。

 過激な廃仏毀釈の原因は何だったのか、辻善之助東京帝国大学名誉教授(日本仏教史)は、復古的革命的な気運と明治政府の方針とを挙げ、さらに遠因として、国学の勃興、排仏論の影響、僧侶の堕落を指摘している。

 本来、神仏判然は仏教排撃を意味しない。明治元年の本願寺、興正寺などへの達には朝廷の本意は廃仏毀釈ではないと明示され、行政官布告にも神仏混淆禁止は破仏の意味ではないと弁明され、みだりに復飾を願い出ることが牽制された。他方でトラブルもなく、神仏分離がスムーズに実施されたケースもあるという(『明治維新神仏分離史料』など)。

 だが改革はさらに続き、社寺領の上知が布告された。神社は「国家の宗旨」とされ、神宮・神社の神官・社家の世襲が廃された。宗門人別帳が廃止され、氏子取調に代わった。新生児は産土社で守札を受け、死亡後は返納された。天社神道(陰陽道)の布教が禁じられ、虚無僧の一派や修験宗が廃止された。托鉢が禁止され、女人結界が廃され、僧侶の蓄髪・妻帯は自由になった(『明治維新神道百年史』など)。

 宮中の年中行事も激変した。

 年始の金光明会、後七日御修法、正月8日の大元帥法、18日の観音供、2月と8月の季御読経、3月と7月の仁王会、4月8日の灌仏会、5月の最勝講、7月の盂蘭盆供、12月の仏名会など、皇室の仏事は明治4年をもってすべて廃止された。幕末の宮中では仏教や陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたのである。

 一方で、以前は神嘗祭、新嘗祭、歳旦祭、祈年祭、賢所御神楽のほか四方拝、節折、大祓が定められていたが、天長節、紀元節、春秋の皇霊祭など、新たな祭祀が生まれ、石灰壇御拝は毎朝御代拝に代わった。端午、七夕など五節句は廃され、やがて宮中三殿が成立し、皇室祭祀が整備、確立されていった(前掲八束「皇室祭祀百年史」)。

 宮中三殿が現在地に遷座された明治22年1月からひと月後、信教の自由を明記する大日本帝国憲法が発布された。アジアで最初の近代憲法だった。キリシタン禁制の高札撤去から16年、とりわけキリスト者の喜びはひとしおで、当時の新聞報道によると、記念の讃美歌を作る動きもあった。翌年には長崎で、日本・朝鮮両管区長の宗教会議と浦上の信徒発見25年祭が開かれ、聖体行列が整然と行われたという。

 それだけではない。有史以来、漢字や仏教、雅楽など海外文化受容のセンターとして機能してきた皇室は、近代以後は文明開化の先頭に立たれ、キリスト教文化をもっとも積極的に受け入れられた。古代、仏教の外護者だった皇室は、近代においては赤十字運動などキリスト教の社会事業を物心両面から支援された。信徒の側近も増えていった。

 22年には明治憲法制定と同時に、皇室典範が勅定された。皇位継承の基本が近代法として明文化された。41年には皇室祭祀令が、42年には登極令が制定された。

 皇室典範は「即位の礼および大嘗祭は京都においてこれを行う」(第11条)と定めていた。明治天皇の思召しとされている(関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』、大正4年)。

 東京遷都以後、京都の町が寂れていくのを天皇は嘆かれた。その後、ロシア皇帝の戴冠式が旧都モスクワの宮殿で行われることを知り、「大礼は古風を存し、旧儀のままに」と思われたことがきっかけになったという。

 しかし叡慮は裏切られ、国家主義的な昂揚を内外に誇示するものに変質していった。

 大嘗祭はかつて大極殿または紫宸殿の前庭に、悠紀国・主基国の国人が大嘗宮の儀の七日前に舗設し、数日間で仕上げられ、祭儀のあと焼却された。だが登極令以後、大嘗宮の規模はかつてないほど壮大になった。このため紫宸殿前庭では収まらず、仙洞御所の北側を拓き、設営されることになった。もはや古風、旧儀とはいえない。

 江戸後期の桜町天皇の大嘗宮は東西16間、南北10間の柴垣をめぐらして設けられたが、大正の大嘗宮は東西60間、南北60間を板垣で囲い、建てられた。むろん数日で設営できるようなものではなくなった(岩井利夫『大嘗祭の今日的意義』、昭和63年など)。

 また、近世の民衆にとって皇位継承の儀礼は、近代以後とは違い、身近なものだった。

 現代人には想像しがたいことだが、近世の人々は即位式を間近で、自然体で拝観していた。明正天皇の「御即位行幸図屏風」(宮内庁所蔵)には、即位式の最中に、胸をはだけて授乳する2人の女性が描き込まれている。拝観者にはチケット(切手札)が配られたらしい(森田登代子『遊楽としての近世天皇即位式』、2015年)。

 さらに哲学者の上山春平氏が指摘したように、悠紀国・主基国から都に運ばれた御料を大嘗宮に運び入れる標山や加茂川で新帝が行う御禊には見物人が殺到したといわれる(「大嘗祭について」=「神道宗教」神道宗教学会、平成3年3月など)。

 つまり、近代化によって、御代替わりの儀礼は素朴な古風を失い、同時に民衆から縁遠い存在になっていったのである。なぜそうなったのだろうか。

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天皇はなぜ「米と粟」を捧げるのか? ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」4 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月21日)からの転載です

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天皇はなぜ「米と粟」を捧げるのか?
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」4
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 日本の稲は栽培種であり、帰化植物である。日本列島に自生する稲はない。粟がエノコログサを原種とする穀物であるのとは異なる。

 植物遺伝学者・佐藤洋一郎氏の「日本稲の南北2元説」によれば、日本の稲には遺伝学的に2つの源流があるという。ひとつは東南アジアの島々から伝わってきた陸稲的な熱帯ジャポニカで、そのあと、もう一つの中国・揚子江流域を起源とする水稲的な温帯ジャポニカが伝来した、と説明されている。

 面白いことに、両系統の稲は本来は晩生で、秋冷の早い東北地方などでは稔らない。ところが、両者が交雑すると不思議にも早生が発生する。佐藤氏は、両系統の稲が日本列島で自然交雑して早生が発生し、稲作は北部日本にまで瞬く間に北上することができた、と推理している(『稲のきた道』、1992年など)。

 2000年前には寒冷な青森にまで稲作は北進した。日本の早生稲が誕生したからだ。

 鶺鴒に学んで諾冉二神が婚姻し、国が生まれたとする国生み神話のように、自然の法則に従って、異なるものがひとつになり、新しい価値が生まれるという歴史は、稲だけにとどまらない。稲作起源神話も同様である。

 記紀には2つの稲作起源神話が描かれている。1つは女神の遺体から五穀の種が得られたという類型であり、もうひとつは天孫降臨に際して天照大神が稲穂を授けられたとする斎庭の稲穂の神勅である。

 神話学者の大林太良氏によれば、2つの神話は系譜が異なるという。

 女神の死体から作物が出現するという死体化生型神話は、きわめて広い地域に分布するらしい。そのなかで日本の神話は粟など雑穀を栽培する焼畑耕作の文化に属し、その源郷は東南アジアの大陸北部から華南にかけてで、縄文末期に中国・江南から西日本地域に伝えられた、と推理されている(『稲作の神話』『東アジアの王権神話』など)。

 実際、この神話に登場するのはすべて焼畑の作物である。稲は例外にも見えるが、焼畑で栽培される畑稲もある。熱帯ジャポニカこそこれであった。死体化生型神話の主役である大気津比売は粟の女神だったともいう。

 もうひとつの稲作起源神話で興味深いのは、皇室発祥の物語である天孫降臨とともに語られていることである。前述の神話では五穀が葦原中国に起源するのに対して、この物語では高天原から稲がもたらされる。

 天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせるという天降り神話は、朝鮮の檀君神話が有名だが、朝鮮にとどまらない。モンゴルの伝承やギリシャ神話とも類似する。インド・ヨーロッパ語族の神話がアルタイ語族を媒介として、朝鮮半島経由で日本に渡来した可能性があると大林氏は述べている。

 ただ、母神が授けるのは、朝鮮やギリシャの神話では麦であって、稲ではない。ならば稲の要素はどこから来たのか。天照大神から稲穂が授けられるとするモチーフは、天降り神話と元来は無関係であり、東南アジアの稲作文化に連なる、と大林氏は説明する。

 朝鮮から内陸アジアに連なるアルタイ系遊牧民文化に属する天降り神話と東南アジアに連なる稲作神話が接触融合し、天孫降臨神話ができあがった、と大林氏は推理している。

 日本の早生稲の成立と同様に、日本の稲作起源神話は大陸系と南方系の融合だと説明されているのである。

 日本民族の成り立ちもまた同様である。人類学者の埴原和郎氏は、先住の縄文人と渡来系弥生人が混血同化し、「本土日本人」が成立したと説明している。埴原氏は混血同化は現在も進行中だと指摘する(『日本人と日本文化の形成』、1993年)。

 とすれば、天皇による米と粟の神事はどのように考えるべきなのか。

 古代の日本にはさまざまな氏族がいて、それぞれの暮らしがあった。それぞれの神があり、信仰があった。先住の焼畑農耕民もいれば、新参の水田稲作民もいた。国と民をひとつに統合する統治者たる天皇は、皇祖神のみを拝するのではなくて、それぞれの民が信仰するさまざまな神々に祈ることを選択したのではないか。そのような祭り主を統治者とすることをわが祖先たちは選んだのではなかろうか。

 その結果、歴代天皇は毎年、実りの秋に、そして御代替わりには大がかりに、価値多元的な複合儀礼を行い、国民統合の平和的意義を確認し合うことになったのではなかろうか。それは平和的共存のための知恵といえるだろう。今日、世界各地で頻発する、宗教の違いに由来する衝突の悲劇を見れば、容易にその意味が理解される。(つづく)


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神嘉殿新嘗祭の神饌は「米と粟」 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」3 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月14日)からの転載です

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神嘉殿新嘗祭の神饌は「米と粟」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」3
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 歴代天皇は日々の祈りを欠かせられなかった。清涼殿での石灰壇御拝がそれだが、皇室第一の重儀とされてきたのは新嘗祭である。新穀を捧げて祈るとされているが、新穀とは稲ではない。稲だけではない。

 昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫・元宮内省掌典は、「この祭りにもっとも大切なのは神饌である」と指摘し、「なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊(かし)いだ、米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥と、新米をもって1か月余を費やして醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の新酒である」と解説している(前掲「皇室祭祀百年史」)。

 案外、知られていないが、宮中三殿での祭祀は米のみを神饌とする。宮中三殿での新嘗祭は米が供され、他方、神嘉殿の新嘗祭のみ米と粟である。神嘉殿での新嘗祭の特異性がうかがえる。それなら粟とは何であろうか。なぜ粟なのか。

 当然ながら、御代始に斎行される、天皇一世一度の大がかりな新嘗祭である大嘗祭も、同様である。ただ、祭式の詳細は公には伝わっていない。「大嘗会者、第一之大事也、秘事也」(卜部兼豊「宮主秘事口伝」、元治元年=1415年)だからだ。

 秘儀とか秘事とされるのは、密室の空間でオカルト的な宗教儀式を行うという意味ではない。新帝が神前で人知れず、ひとり行うのが秘事なのであり、もっとも中心的な儀礼は、「凡そ神国の大事ハ大嘗会也。大嘗会の大事ハ神膳に過ぎたることハなし」(一条経嗣「応永大嘗会記」、応永22年=1415年)といわれるように、大嘗宮での神人共食の儀礼、すなわち神饌御親供、御告文奏上、御直会にある。

 神道学者たちの多くは「稲の祭り」といいたがる。しかし神饌は稲だけではない。

 もっとも詳しいとされる『貞観儀式』には「亥の一刻(午後9時ごろ)、御膳(みけ)を供(たてまつ)り、四刻(10時半ごろ)これを撤(さ)げよ」と記しているだけだ。登極令附式は大嘗宮の儀の詳細な祭式を省略している。宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)には、秒刻みで祭儀の進行が記録されているが、「天皇陛下が神饌を御親供になった」などと記述するのみである。

 昔も今も秘儀であることに変わりはない。

 平成元年暮れ、政府は閣議で、概要、「大嘗祭は稲作中心社会に伝わる収穫儀礼に根ざしたもの」という理解を口頭了解したが、誤りであろう。

 天皇の祭祀は一子相伝とされ、詳細を知るのはごく一部の人たちだけである。一条兼良の「代始和抄」(室町後期)には、「秘事口伝さまざまなれば、たやすくかきのする事あたはず。主上のしろしめす外は、時の関白宮主などの外は、会てしる人なし」とある。

 いまも祭儀に携わる関係者は、実際の祭式や作法について、先輩から口伝えに教わり、備忘録を独自に作成し、「秘事」の継承に務めてきた。むろんこれらは公開されない。

 しかし実際には、研究者たちによって、秘儀の中身は存外、知られている。

「儀式」「延喜式」「後鳥羽院宸記」など、多くの文献は漢字だらけで簡単には読めないが、なかには仮名交じりで記録されたものもある。それによると、秘儀中の秘儀である大嘗宮の儀において、新帝が手ずから神前に供し、御告文奏上ののち、みずから御直会なさるのは米と粟の新穀であることが一目瞭然である。

 京都・鈴鹿家に伝わる「大嘗祭神饌供進仮名記」(宮地治邦「大嘗祭に於ける神饌に就いて」=『千家尊宣先生還暦記念神道論文集』昭和33年所収)には、

「次、陪膳、兩の手をもて、ひらて一まいをとりて、主上にまいらす。主上、御笏を右の御ひさの下におかれて、左の御手にとらせたまひて、右の御手にて御はん(筆者注。御飯。読みは「おんいい」が正しいか)のうへの御はしをとりて、御はん、いね、あわ(ママ)を三はしつゝ、ひらてにもらせたまひて、左の御手にてはいせんに返し給ふ......」

 などと、枚手と御箸を用いる米と粟の献饌の様子が、生々しく記述されている。

 とすれば、神嘉殿の宮中新嘗祭、大嘗祭の大嘗宮の儀は間違いなく、稲の祭りではなくて、米と粟の祭りである。それなら、なぜ米だけではないのか。

 天孫降臨神話および斎庭の稲穂の神勅に基づき、稲の新穀を捧げて、皇祖神に祈るのなら、粟は不要である。なぜ粟が必要なのか。おそらく皇祖神のみならず、天神地祇を祀るからであろうが、それなら、なぜ天神地祇なのか。

 最古の地誌とされる「風土記」には粟の新嘗が記録されている(『常陸国風土記』)。とすれば、粟を神聖視する民が古代の日本列島にいたことが分かる。いや、話は逆であって、柳田国男が繰り返し書いているように、日本列島はけっして米作適地ではないし、したがって日本人すべてが稲作民族ではない。柳田は「稲作願望民族」と表現している。

 むしろ粟こそ、古代日本人たちの命をつなぐ聖なる作物ではなかったか。

 わが祖先ばかりではない。文化人類学の知見によれば、畑作農耕民である台湾の先住民には粟はとくに重要な作物で、粟の神霊を最重視し、粟の餅と粟の酒を神々に捧げたという(松澤員子「台湾原住民の酒」=『酒づくりの民族誌』所収、1995年)。

 台湾では粟の酒はいまもふつうに売られている。民俗学者に聞いたところでは、日本でも大正のころまで、粟や稗の酒がごくふつうに自家醸造されていたという。各地の神社では粟の神事が行われていたに違いない。だが、いずれもいまは聞かない。いつの間にか消えたのである。そして大嘗祭が米と粟の儀礼であることも忘れられている。(つづく)


補注 この記事を書いたあと、日吉大社(滋賀県)の「粟津の御供」のことを知りました。詳細は先般、当メルマガに書いたとおりです。


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古代律令は「すべて天神地祇祭れ」 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」2 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月6日)からの転載です

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古代律令は「すべて天神地祇祭れ」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」2
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 天皇の役割とは何なのか。何だと考えられてきたのか。

 奈良時代に成立した、日本最古の正史である『日本書紀』には、欽明天皇13(552)年10月の出来事として、仏教公伝の歴史が記述されている。

 記事によると、崇仏派の蘇我大臣稲目宿禰は「西蕃(にしのくに)の諸国、ひたすらに皆これを礼(うやま)ふ。豊秋日本(とよあきつやまと)のみ豈ひとり背かむや」と仏教の受け入れを主張した。

 これに対して、排仏派の物部大連尾輿・中臣連鎌子が「我が国家(みかど)の、天下に王(きみ)とましますは、恒に天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそかみ)を以て、春夏秋冬、祭拝(まつ)りたまふことを事(わざ)とす」と反論、反対したことになっている。

 渡来人との関わりが深い蘇我が、仏教の受容はグローバル・スタンダードだと訴えたのに対して、在来の神道儀式に関わる物部らが、多神教的儀礼を行うのが天皇の務めだと主張している点が注目される。

 北部インドで発生し、西域、中国南朝、百済を経由して、日本に伝えられたのは、一切衆生の救済を主眼とする大乗仏教であった。古代中国の梁では仏教文化が最盛期を迎え、国家儀礼は儒教ではなくて、仏教形式だった。三国時代の朝鮮では、仏教は律令制度の整備と関連して、国家理念として機能したといわれる。仏教が受容されると既成の信仰は排除され、国家儀礼は仏教形式に一本化したものらしい。

 けれども、日本ではそうはならなかった。仏教が国家的に移入されたのちも、従来どおり、既成の信仰は共存した。天皇の国家儀礼は仏教オンリーに変質することはなく、多神教的、多宗教的宗教空間が維持された。

 仏教が国家的に受容されたのは推古天皇の時代で、天皇は仏教の外護者となられた。日本最初の官寺・四天王寺が建立された。

 氏姓制からの脱皮が図られ、中央集権化が推進された。仏教思想に基づく十七条憲法が制定され、為政者たちの道徳的規範が示された。けれどもその第一条には「和を以て貴しと為し」と、儒教もしくは日本古来の「和」の思想が宣言されていた。中国、朝鮮とは異なり、既成宗教が排除されず、共存した。

 天皇は祭り主であり、みずから神前に神饌を供え、御告文を奏上し、直会なさる。天皇の祭祀は、仲取持たる神職を介在する神社祭祀とは異なる。各神社の祭祀はそれぞれの地域共同体や血縁共同体が前提だが、天皇の祭りは国家儀礼である。そして、天皇の祭祀は特定の信仰に偏しない複合儀礼というべきものであった。

 たとえば、皇極天皇の時代に始まった、天皇が元日の早暁に行われる四方拝は、『書紀』では雨乞いとされているが、道教由来の儀式と指摘される。

 この時代に儀式が定まったといわれる、皇室第一の重儀とされる新嘗祭や天皇一世一度の大嘗祭は、一般に稲作儀礼と理解されているが、後述するように、天皇は米と粟の新穀を皇祖神ほか天神地祇に捧げられる。稲作民の祭りと畑作民の祭りの複合とみるべきだろう。

 中国皇帝は天壇を祭る。天壇を祭ることが皇帝の特権であり、皇帝の皇帝たるゆえんであった。ローマ教皇なら、絶対神のみを拝する。「あなたには私のほかに神があってはならない」(モーセの十戒)と命ずる唯一神の教えは絶対であり、当然である。しかし、天皇は皇祖神のみを祀らない。祈りの対象は特定されず、皇祖神ほか天神地祇が祀られる。

 天皇の祭祀は多神教的のみならず、多宗教的でさえある。孝謙天皇は皇位継承後、一代一度の大仁王会を営まれ、これが即位式、大嘗祭とともに御代替わり儀式として位置づけられた。やがて出家ののち、藤原仲麻呂の乱を経て重祚されると、天皇の神社である伊勢の神宮に神宮寺が造立され、仏像が建てられた。

 その一方で、孝謙天皇の治世に施行された養老律令は、官僚機構に宮中祭祀を司る神祇官と国政を統括する最高機関の太政官が並立する二官八省が採用された。令には「神祇令」と「僧尼令」が並んでいるが、「神祇令」には「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(即位条)と記されている。

 歴代天皇は仏教に帰依されたのちも、天神地祇を祀ることをお務めとされた。特定の神のみを祀ることをせず、民が信奉する、あらゆる多元的価値を保障し、国と民を統合することが天皇の務めとされたと考えられる。

 順徳天皇が「およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にす。旦暮(あさゆう)、敬神の叡慮、懈怠なし。白地(あからさまにも)神宮ならびに内侍所の方をもって御跡(みあと)となしたまはず」と『禁秘抄』に著されたのは承久3年、承久の変の前夜だった。のちに後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇のお三方が遠流の身となる皇室存亡の危機にあって、敬神、崇祖、神祭りが皇位の本質だと断言されたのである。

 そして歴代天皇はこの祭祀優先主義を実践された。祈りはいまも継承されている。(つづく)


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戦後30年の歴史的転換点 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」1 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月1日)からの転載です。

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戦後30年の歴史的転換点
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」1
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 昭和50年8月15日は戦後30年の終戦記念日であった。気象庁の記録では、東京の最高気温33・4度、平均湿度72パーセント。蝉時雨がかまびすしい、うだるような、例年どおりの鎮魂の日だったらしい。

 だが、この日が、古来、天皇第一のお務めとされる宮中祭祀にとって、きわめて大きな歴史的転換点だったことは、案外、知られていない。

『入江相政日記』や『卜部亮吾侍従日記』など側近が残した記録によると、この日、宮内庁長官室に幹部たちが集まり、会議が開かれた。議題は宮中祭祀の祭式の変更であった。

 最大の変更は毎朝御代拝だった。卜部は「問題の毎朝御代拝は……」と書いている。

 変更は9月1日から実施された。『昭和天皇実録』には、「9月1日 月曜日 この日より、毎朝及び旬祭の御代拝方法が改められる」とある。

 毎朝御代拝は、平安期の宇多天皇に始まる、天皇みずから毎朝、清涼殿で伊勢の神宮ならびに賢所を遥拝された石灰壇御拝に連なる歴史ある重儀とされる(八束清貫「皇室祭祀百年史」=『明治維新神道百年史第1巻』1984年所収)。

 明治以降、天皇に代わって当直の侍従を烏帽子、浄衣に身を正させ、馬車で宮中三殿に遣わし、殿内で拝礼させ、ご自身は御所で慎まれることとなったが、これを昭和天皇の側近たちは、洋装のモーニング・コートで各殿の木階下から拝礼する形式に改めた。

 このほか小祭および新嘗祭の御代拝、2月11日(かつての紀元節)と11月3日(かつての明治節)の臨時御拝の御代拝は、侍従ではなくて、新設された掌典次長が務めることが決められた(『昭和天皇実録 第十六』)。

 会議の出席者や内容など、詳細は分からない。宮内庁には公的な議事録は残されていないという。側近たちは、天皇・皇族に相談することもなく、皇室の伝統に関わる祭式の変更を、自分たちの一存で、密室で決めてしまったものらしい。

 宮中祭祀という天皇の聖域に、いったい何が起きたのか。

 当時を知るOBによると、宮内庁は一般事務職のほか、医師、料理人、大工、鍛冶屋、植木屋、音楽家など、さまざまな職種の人たちで構成され、さながらひとつの町のようであり、以前は陛下を中心に家族的な雰囲気があったが、昭和40年代以降、「大きな時代の波に洗われていた」(「左遷された『昭和天皇の忠臣』」永田忠興元宮内庁掌典補インタビュー=「文藝春秋」2012年2月号所収。聞き手は斎藤吉久)という。

 戦前からの生え抜き職員が定年退職し、戦後教育を受けた職員が増えた。元華族が減り、ほかの官庁からの横滑り組が増えていった。そして職員たちの意識が変わり始めた。オモテとオクの区別も厳格になった。最大の変化が宮中祭祀だった。

 永田氏は「憲法が定める信教の自由を掲げ、『なぜ祭祀に、公務員が関わらなければならないのか』という意見が口々に出て、祭祀が敬遠されるようになった」と証言する。

「戦後世代の職員たちは『陛下にお仕えする』というよりも、『国家公務員である』という考え方が先に立ちました。皇室の歴史と伝統についての理解は乏しく、逆に、『国はいかなる宗教的活動もしてはならない』という憲法の政教分離規定を、字義通り厳しく解釈・運用する考え方が、まるで新興宗教と見まごうほどに蔓延し、陛下の側近中の側近である侍従さんまでが祭祀から遠のき始めました」(同インタビュー)。

 宮内庁のみならず行政全体に、政教分離の厳格主義が浸透し、そして宮内庁では、にわかに宮中祭祀の祭式の変更が断行されたのである。

 市井では、津地鎮祭訴訟が争われていた。津市が主催した市体育館の起工式(地鎮祭)に公金が支出されたことの適法性が争われたのであった。2年後の52年7月に最高裁は合憲判決を下したが、かえって行政の神道儀礼離れが促進されていった。

 古来、祭祀こそ天皇第一の務めとされてきた。だが側近らはそうは考えなかった。皇室の伝統より、憲法の規定が優先された。憲法は文字通り「最高法規」なのだった。

 側近たちにとっては、宮中祭祀は神道儀礼であり、神道は特定の宗教だと考えられた。したがって公務員たる職員の関与は憲法に抵触すると怖れたらしい。

 憲法はむしろ宗教の価値を認めているのに、である。従来、政教分離の厳格主義より限定主義的解釈・運用が行われてきたのに、である。天皇の聖域たる祭祀への宮内庁幹部たちの介入は、それこそ政教分離違反の可能性さえ疑われるのに、である。

 側近たちが憲法の規定を優先させ、厳格主義に走り、皇室のみならず日本の歴史の基本に関わる宮中祭祀を改変させた背景には何があるのか、あらためて考えることにする。


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