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天皇はなぜ「米と粟」を捧げるのか? ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」4 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月21日)からの転載です

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天皇はなぜ「米と粟」を捧げるのか?
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」4
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 日本の稲は栽培種であり、帰化植物である。日本列島に自生する稲はない。粟がエノコログサを原種とする穀物であるのとは異なる。

 植物遺伝学者・佐藤洋一郎氏の「日本稲の南北2元説」によれば、日本の稲には遺伝学的に2つの源流があるという。ひとつは東南アジアの島々から伝わってきた陸稲的な熱帯ジャポニカで、そのあと、もう一つの中国・揚子江流域を起源とする水稲的な温帯ジャポニカが伝来した、と説明されている。

 面白いことに、両系統の稲は本来は晩生で、秋冷の早い東北地方などでは稔らない。ところが、両者が交雑すると不思議にも早生が発生する。佐藤氏は、両系統の稲が日本列島で自然交雑して早生が発生し、稲作は北部日本にまで瞬く間に北上することができた、と推理している(『稲のきた道』、1992年など)。

 2000年前には寒冷な青森にまで稲作は北進した。日本の早生稲が誕生したからだ。

 鶺鴒に学んで諾冉二神が婚姻し、国が生まれたとする国生み神話のように、自然の法則に従って、異なるものがひとつになり、新しい価値が生まれるという歴史は、稲だけにとどまらない。稲作起源神話も同様である。

 記紀には2つの稲作起源神話が描かれている。1つは女神の遺体から五穀の種が得られたという類型であり、もうひとつは天孫降臨に際して天照大神が稲穂を授けられたとする斎庭の稲穂の神勅である。

 神話学者の大林太良氏によれば、2つの神話は系譜が異なるという。

 女神の死体から作物が出現するという死体化生型神話は、きわめて広い地域に分布するらしい。そのなかで日本の神話は粟など雑穀を栽培する焼畑耕作の文化に属し、その源郷は東南アジアの大陸北部から華南にかけてで、縄文末期に中国・江南から西日本地域に伝えられた、と推理されている(『稲作の神話』『東アジアの王権神話』など)。

 実際、この神話に登場するのはすべて焼畑の作物である。稲は例外にも見えるが、焼畑で栽培される畑稲もある。熱帯ジャポニカこそこれであった。死体化生型神話の主役である大気津比売は粟の女神だったともいう。

 もうひとつの稲作起源神話で興味深いのは、皇室発祥の物語である天孫降臨とともに語られていることである。前述の神話では五穀が葦原中国に起源するのに対して、この物語では高天原から稲がもたらされる。

 天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせるという天降り神話は、朝鮮の檀君神話が有名だが、朝鮮にとどまらない。モンゴルの伝承やギリシャ神話とも類似する。インド・ヨーロッパ語族の神話がアルタイ語族を媒介として、朝鮮半島経由で日本に渡来した可能性があると大林氏は述べている。

 ただ、母神が授けるのは、朝鮮やギリシャの神話では麦であって、稲ではない。ならば稲の要素はどこから来たのか。天照大神から稲穂が授けられるとするモチーフは、天降り神話と元来は無関係であり、東南アジアの稲作文化に連なる、と大林氏は説明する。

 朝鮮から内陸アジアに連なるアルタイ系遊牧民文化に属する天降り神話と東南アジアに連なる稲作神話が接触融合し、天孫降臨神話ができあがった、と大林氏は推理している。

 日本の早生稲の成立と同様に、日本の稲作起源神話は大陸系と南方系の融合だと説明されているのである。

 日本民族の成り立ちもまた同様である。人類学者の埴原和郎氏は、先住の縄文人と渡来系弥生人が混血同化し、「本土日本人」が成立したと説明している。埴原氏は混血同化は現在も進行中だと指摘する(『日本人と日本文化の形成』、1993年)。

 とすれば、天皇による米と粟の神事はどのように考えるべきなのか。

 古代の日本にはさまざまな氏族がいて、それぞれの暮らしがあった。それぞれの神があり、信仰があった。先住の焼畑農耕民もいれば、新参の水田稲作民もいた。国と民をひとつに統合する統治者たる天皇は、皇祖神のみを拝するのではなくて、それぞれの民が信仰するさまざまな神々に祈ることを選択したのではないか。そのような祭り主を統治者とすることをわが祖先たちは選んだのではなかろうか。

 その結果、歴代天皇は毎年、実りの秋に、そして御代替わりには大がかりに、価値多元的な複合儀礼を行い、国民統合の平和的意義を確認し合うことになったのではなかろうか。それは平和的共存のための知恵といえるだろう。今日、世界各地で頻発する、宗教の違いに由来する衝突の悲劇を見れば、容易にその意味が理解される。(つづく)


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神嘉殿新嘗祭の神饌は「米と粟」 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」3 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月14日)からの転載です

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神嘉殿新嘗祭の神饌は「米と粟」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」3
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 歴代天皇は日々の祈りを欠かせられなかった。清涼殿での石灰壇御拝がそれだが、皇室第一の重儀とされてきたのは新嘗祭である。新穀を捧げて祈るとされているが、新穀とは稲ではない。稲だけではない。

 昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫・元宮内省掌典は、「この祭りにもっとも大切なのは神饌である」と指摘し、「なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊(かし)いだ、米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥と、新米をもって1か月余を費やして醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の新酒である」と解説している(前掲「皇室祭祀百年史」)。

 案外、知られていないが、宮中三殿での祭祀は米のみを神饌とする。宮中三殿での新嘗祭は米が供され、他方、神嘉殿の新嘗祭のみ米と粟である。神嘉殿での新嘗祭の特異性がうかがえる。それなら粟とは何であろうか。なぜ粟なのか。

 当然ながら、御代始に斎行される、天皇一世一度の大がかりな新嘗祭である大嘗祭も、同様である。ただ、祭式の詳細は公には伝わっていない。「大嘗会者、第一之大事也、秘事也」(卜部兼豊「宮主秘事口伝」、元治元年=1415年)だからだ。

 秘儀とか秘事とされるのは、密室の空間でオカルト的な宗教儀式を行うという意味ではない。新帝が神前で人知れず、ひとり行うのが秘事なのであり、もっとも中心的な儀礼は、「凡そ神国の大事ハ大嘗会也。大嘗会の大事ハ神膳に過ぎたることハなし」(一条経嗣「応永大嘗会記」、応永22年=1415年)といわれるように、大嘗宮での神人共食の儀礼、すなわち神饌御親供、御告文奏上、御直会にある。

 神道学者たちの多くは「稲の祭り」といいたがる。しかし神饌は稲だけではない。

 もっとも詳しいとされる『貞観儀式』には「亥の一刻(午後9時ごろ)、御膳(みけ)を供(たてまつ)り、四刻(10時半ごろ)これを撤(さ)げよ」と記しているだけだ。登極令附式は大嘗宮の儀の詳細な祭式を省略している。宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)には、秒刻みで祭儀の進行が記録されているが、「天皇陛下が神饌を御親供になった」などと記述するのみである。

 昔も今も秘儀であることに変わりはない。

 平成元年暮れ、政府は閣議で、概要、「大嘗祭は稲作中心社会に伝わる収穫儀礼に根ざしたもの」という理解を口頭了解したが、誤りであろう。

 天皇の祭祀は一子相伝とされ、詳細を知るのはごく一部の人たちだけである。一条兼良の「代始和抄」(室町後期)には、「秘事口伝さまざまなれば、たやすくかきのする事あたはず。主上のしろしめす外は、時の関白宮主などの外は、会てしる人なし」とある。

 いまも祭儀に携わる関係者は、実際の祭式や作法について、先輩から口伝えに教わり、備忘録を独自に作成し、「秘事」の継承に務めてきた。むろんこれらは公開されない。

 しかし実際には、研究者たちによって、秘儀の中身は存外、知られている。

「儀式」「延喜式」「後鳥羽院宸記」など、多くの文献は漢字だらけで簡単には読めないが、なかには仮名交じりで記録されたものもある。それによると、秘儀中の秘儀である大嘗宮の儀において、新帝が手ずから神前に供し、御告文奏上ののち、みずから御直会なさるのは米と粟の新穀であることが一目瞭然である。

 京都・鈴鹿家に伝わる「大嘗祭神饌供進仮名記」(宮地治邦「大嘗祭に於ける神饌に就いて」=『千家尊宣先生還暦記念神道論文集』昭和33年所収)には、

「次、陪膳、兩の手をもて、ひらて一まいをとりて、主上にまいらす。主上、御笏を右の御ひさの下におかれて、左の御手にとらせたまひて、右の御手にて御はん(筆者注。御飯。読みは「おんいい」が正しいか)のうへの御はしをとりて、御はん、いね、あわ(ママ)を三はしつゝ、ひらてにもらせたまひて、左の御手にてはいせんに返し給ふ......」

 などと、枚手と御箸を用いる米と粟の献饌の様子が、生々しく記述されている。

 とすれば、神嘉殿の宮中新嘗祭、大嘗祭の大嘗宮の儀は間違いなく、稲の祭りではなくて、米と粟の祭りである。それなら、なぜ米だけではないのか。

 天孫降臨神話および斎庭の稲穂の神勅に基づき、稲の新穀を捧げて、皇祖神に祈るのなら、粟は不要である。なぜ粟が必要なのか。おそらく皇祖神のみならず、天神地祇を祀るからであろうが、それなら、なぜ天神地祇なのか。

 最古の地誌とされる「風土記」には粟の新嘗が記録されている(『常陸国風土記』)。とすれば、粟を神聖視する民が古代の日本列島にいたことが分かる。いや、話は逆であって、柳田国男が繰り返し書いているように、日本列島はけっして米作適地ではないし、したがって日本人すべてが稲作民族ではない。柳田は「稲作願望民族」と表現している。

 むしろ粟こそ、古代日本人たちの命をつなぐ聖なる作物ではなかったか。

 わが祖先ばかりではない。文化人類学の知見によれば、畑作農耕民である台湾の先住民には粟はとくに重要な作物で、粟の神霊を最重視し、粟の餅と粟の酒を神々に捧げたという(松澤員子「台湾原住民の酒」=『酒づくりの民族誌』所収、1995年)。

 台湾では粟の酒はいまもふつうに売られている。民俗学者に聞いたところでは、日本でも大正のころまで、粟や稗の酒がごくふつうに自家醸造されていたという。各地の神社では粟の神事が行われていたに違いない。だが、いずれもいまは聞かない。いつの間にか消えたのである。そして大嘗祭が米と粟の儀礼であることも忘れられている。(つづく)


補注 この記事を書いたあと、日吉大社(滋賀県)の「粟津の御供」のことを知りました。詳細は先般、当メルマガに書いたとおりです。


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古代律令は「すべて天神地祇祭れ」 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」2 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月6日)からの転載です

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古代律令は「すべて天神地祇祭れ」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」2
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 天皇の役割とは何なのか。何だと考えられてきたのか。

 奈良時代に成立した、日本最古の正史である『日本書紀』には、欽明天皇13(552)年10月の出来事として、仏教公伝の歴史が記述されている。

 記事によると、崇仏派の蘇我大臣稲目宿禰は「西蕃(にしのくに)の諸国、ひたすらに皆これを礼(うやま)ふ。豊秋日本(とよあきつやまと)のみ豈ひとり背かむや」と仏教の受け入れを主張した。

 これに対して、排仏派の物部大連尾輿・中臣連鎌子が「我が国家(みかど)の、天下に王(きみ)とましますは、恒に天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそかみ)を以て、春夏秋冬、祭拝(まつ)りたまふことを事(わざ)とす」と反論、反対したことになっている。

 渡来人との関わりが深い蘇我が、仏教の受容はグローバル・スタンダードだと訴えたのに対して、在来の神道儀式に関わる物部らが、多神教的儀礼を行うのが天皇の務めだと主張している点が注目される。

 北部インドで発生し、西域、中国南朝、百済を経由して、日本に伝えられたのは、一切衆生の救済を主眼とする大乗仏教であった。古代中国の梁では仏教文化が最盛期を迎え、国家儀礼は儒教ではなくて、仏教形式だった。三国時代の朝鮮では、仏教は律令制度の整備と関連して、国家理念として機能したといわれる。仏教が受容されると既成の信仰は排除され、国家儀礼は仏教形式に一本化したものらしい。

 けれども、日本ではそうはならなかった。仏教が国家的に移入されたのちも、従来どおり、既成の信仰は共存した。天皇の国家儀礼は仏教オンリーに変質することはなく、多神教的、多宗教的宗教空間が維持された。

 仏教が国家的に受容されたのは推古天皇の時代で、天皇は仏教の外護者となられた。日本最初の官寺・四天王寺が建立された。

 氏姓制からの脱皮が図られ、中央集権化が推進された。仏教思想に基づく十七条憲法が制定され、為政者たちの道徳的規範が示された。けれどもその第一条には「和を以て貴しと為し」と、儒教もしくは日本古来の「和」の思想が宣言されていた。中国、朝鮮とは異なり、既成宗教が排除されず、共存した。

 天皇は祭り主であり、みずから神前に神饌を供え、御告文を奏上し、直会なさる。天皇の祭祀は、仲取持たる神職を介在する神社祭祀とは異なる。各神社の祭祀はそれぞれの地域共同体や血縁共同体が前提だが、天皇の祭りは国家儀礼である。そして、天皇の祭祀は特定の信仰に偏しない複合儀礼というべきものであった。

 たとえば、皇極天皇の時代に始まった、天皇が元日の早暁に行われる四方拝は、『書紀』では雨乞いとされているが、道教由来の儀式と指摘される。

 この時代に儀式が定まったといわれる、皇室第一の重儀とされる新嘗祭や天皇一世一度の大嘗祭は、一般に稲作儀礼と理解されているが、後述するように、天皇は米と粟の新穀を皇祖神ほか天神地祇に捧げられる。稲作民の祭りと畑作民の祭りの複合とみるべきだろう。

 中国皇帝は天壇を祭る。天壇を祭ることが皇帝の特権であり、皇帝の皇帝たるゆえんであった。ローマ教皇なら、絶対神のみを拝する。「あなたには私のほかに神があってはならない」(モーセの十戒)と命ずる唯一神の教えは絶対であり、当然である。しかし、天皇は皇祖神のみを祀らない。祈りの対象は特定されず、皇祖神ほか天神地祇が祀られる。

 天皇の祭祀は多神教的のみならず、多宗教的でさえある。孝謙天皇は皇位継承後、一代一度の大仁王会を営まれ、これが即位式、大嘗祭とともに御代替わり儀式として位置づけられた。やがて出家ののち、藤原仲麻呂の乱を経て重祚されると、天皇の神社である伊勢の神宮に神宮寺が造立され、仏像が建てられた。

 その一方で、孝謙天皇の治世に施行された養老律令は、官僚機構に宮中祭祀を司る神祇官と国政を統括する最高機関の太政官が並立する二官八省が採用された。令には「神祇令」と「僧尼令」が並んでいるが、「神祇令」には「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(即位条)と記されている。

 歴代天皇は仏教に帰依されたのちも、天神地祇を祀ることをお務めとされた。特定の神のみを祀ることをせず、民が信奉する、あらゆる多元的価値を保障し、国と民を統合することが天皇の務めとされたと考えられる。

 順徳天皇が「およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にす。旦暮(あさゆう)、敬神の叡慮、懈怠なし。白地(あからさまにも)神宮ならびに内侍所の方をもって御跡(みあと)となしたまはず」と『禁秘抄』に著されたのは承久3年、承久の変の前夜だった。のちに後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇のお三方が遠流の身となる皇室存亡の危機にあって、敬神、崇祖、神祭りが皇位の本質だと断言されたのである。

 そして歴代天皇はこの祭祀優先主義を実践された。祈りはいまも継承されている。(つづく)


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戦後30年の歴史的転換点 ──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」1 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年7月1日)からの転載です。

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戦後30年の歴史的転換点
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」1
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 昭和50年8月15日は戦後30年の終戦記念日であった。気象庁の記録では、東京の最高気温33・4度、平均湿度72パーセント。蝉時雨がかまびすしい、うだるような、例年どおりの鎮魂の日だったらしい。

 だが、この日が、古来、天皇第一のお務めとされる宮中祭祀にとって、きわめて大きな歴史的転換点だったことは、案外、知られていない。

『入江相政日記』や『卜部亮吾侍従日記』など側近が残した記録によると、この日、宮内庁長官室に幹部たちが集まり、会議が開かれた。議題は宮中祭祀の祭式の変更であった。

 最大の変更は毎朝御代拝だった。卜部は「問題の毎朝御代拝は……」と書いている。

 変更は9月1日から実施された。『昭和天皇実録』には、「9月1日 月曜日 この日より、毎朝及び旬祭の御代拝方法が改められる」とある。

 毎朝御代拝は、平安期の宇多天皇に始まる、天皇みずから毎朝、清涼殿で伊勢の神宮ならびに賢所を遥拝された石灰壇御拝に連なる歴史ある重儀とされる(八束清貫「皇室祭祀百年史」=『明治維新神道百年史第1巻』1984年所収)。

 明治以降、天皇に代わって当直の侍従を烏帽子、浄衣に身を正させ、馬車で宮中三殿に遣わし、殿内で拝礼させ、ご自身は御所で慎まれることとなったが、これを昭和天皇の側近たちは、洋装のモーニング・コートで各殿の木階下から拝礼する形式に改めた。

 このほか小祭および新嘗祭の御代拝、2月11日(かつての紀元節)と11月3日(かつての明治節)の臨時御拝の御代拝は、侍従ではなくて、新設された掌典次長が務めることが決められた(『昭和天皇実録 第十六』)。

 会議の出席者や内容など、詳細は分からない。宮内庁には公的な議事録は残されていないという。側近たちは、天皇・皇族に相談することもなく、皇室の伝統に関わる祭式の変更を、自分たちの一存で、密室で決めてしまったものらしい。

 宮中祭祀という天皇の聖域に、いったい何が起きたのか。

 当時を知るOBによると、宮内庁は一般事務職のほか、医師、料理人、大工、鍛冶屋、植木屋、音楽家など、さまざまな職種の人たちで構成され、さながらひとつの町のようであり、以前は陛下を中心に家族的な雰囲気があったが、昭和40年代以降、「大きな時代の波に洗われていた」(「左遷された『昭和天皇の忠臣』」永田忠興元宮内庁掌典補インタビュー=「文藝春秋」2012年2月号所収。聞き手は斎藤吉久)という。

 戦前からの生え抜き職員が定年退職し、戦後教育を受けた職員が増えた。元華族が減り、ほかの官庁からの横滑り組が増えていった。そして職員たちの意識が変わり始めた。オモテとオクの区別も厳格になった。最大の変化が宮中祭祀だった。

 永田氏は「憲法が定める信教の自由を掲げ、『なぜ祭祀に、公務員が関わらなければならないのか』という意見が口々に出て、祭祀が敬遠されるようになった」と証言する。

「戦後世代の職員たちは『陛下にお仕えする』というよりも、『国家公務員である』という考え方が先に立ちました。皇室の歴史と伝統についての理解は乏しく、逆に、『国はいかなる宗教的活動もしてはならない』という憲法の政教分離規定を、字義通り厳しく解釈・運用する考え方が、まるで新興宗教と見まごうほどに蔓延し、陛下の側近中の側近である侍従さんまでが祭祀から遠のき始めました」(同インタビュー)。

 宮内庁のみならず行政全体に、政教分離の厳格主義が浸透し、そして宮内庁では、にわかに宮中祭祀の祭式の変更が断行されたのである。

 市井では、津地鎮祭訴訟が争われていた。津市が主催した市体育館の起工式(地鎮祭)に公金が支出されたことの適法性が争われたのであった。2年後の52年7月に最高裁は合憲判決を下したが、かえって行政の神道儀礼離れが促進されていった。

 古来、祭祀こそ天皇第一の務めとされてきた。だが側近らはそうは考えなかった。皇室の伝統より、憲法の規定が優先された。憲法は文字通り「最高法規」なのだった。

 側近たちにとっては、宮中祭祀は神道儀礼であり、神道は特定の宗教だと考えられた。したがって公務員たる職員の関与は憲法に抵触すると怖れたらしい。

 憲法はむしろ宗教の価値を認めているのに、である。従来、政教分離の厳格主義より限定主義的解釈・運用が行われてきたのに、である。天皇の聖域たる祭祀への宮内庁幹部たちの介入は、それこそ政教分離違反の可能性さえ疑われるのに、である。

 側近たちが憲法の規定を優先させ、厳格主義に走り、皇室のみならず日本の歴史の基本に関わる宮中祭祀を改変させた背景には何があるのか、あらためて考えることにする。


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御在位30年。毎日、読売、産経社説への違和感 ──象徴天皇、国民主権、平和主義、そして宮中祭祀 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年3月4日)からの転載です

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御在位30年。毎日、読売、産経社説への違和感
──象徴天皇、国民主権、平和主義、そして宮中祭祀
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 先月24日、陛下の御臨席のもと、政府主催の御在位30年記念式典が開かれた。翌日、読売や毎日などの全国紙がお言葉などについて、社説で取り上げているので、読んでみたい。陛下が仰せの「象徴天皇」などについて、各紙の捉え方にどうしても違和感を禁じ得ないからだ。

 最初にお断りするが、ここで扱うのは毎日と読売、産経の三紙である。30年式典は御代替わりを直前にした大きな節目だが、なぜか朝日や日経は社説に取り上げなかった。

 陛下のお言葉は、8分以上におよんだ。

 祝意への感謝に始まり、「戦争を経験せぬ時代」ながら「困難に満ちた」30年を振り返られ、「グローバル化する世界の中」での日本の未来を展望された。また、「憲法で定められた象徴」天皇像への模索について言及され、支持してくれた国民への謝意を表明された。そのあと、被災地の人々や内外の支援者への思いを語られ、最後に国内外の人々への祈りの言葉で結ばれた。


▽1 陛下にとっての「象徴」

 毎日の社説はずばり、「象徴天皇としての責務を自らに課してきた信念と、国民への感謝の気持ちが強く伝わるおことばだった」とつづった。

 社説によれば、「陛下は、象徴天皇制の現憲法下で初めて誕生した天皇である」。陛下は、御即位のときに「『皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす』と表明」されたのであり、「国民主権の時代に『象徴』とはどうあるべきか」「象徴像を懸命に問い続けてきた」のである。

 また、社説によれば、陛下は「平和を求める気持ちを改めて示した」のだった。この30年間は、お言葉にあるように、「近現代において初めて戦争を経験せぬ時代」なのである。

 毎日の社説は、平成の御代を、明治憲法下の戦前期、あるいは昭和の時代とは本質的に異なる新時代だった、という暗黙の前提のもとで書かれていることが明らかである。

 であればこそ、「自分の後継者について『次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています』と語った」ことにされている。

 毎日の社説にとっては、今上陛下は、日本国憲法、国民主権主義、象徴天皇制、平和主義の使徒なのである。

 なるほど一見するとお言葉はそのように読めそうだが、陛下がおっしゃりたいのは違う、と私は思う。重要な部分が抜け落ちているからである。


▽2 歴代天皇の祈りが抜けている

 陛下はただ単に「象徴天皇像を模索」されてきたのではない。

 陛下はお言葉で「即位して以来今日まで,日々国の安寧と人々の幸せを祈り,象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました」と語られたし、お言葉の最後はやはり「我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」という「祈り」であった。

 しかし、社説にはこの「祈り」が完全に抜けている。

 陛下が即位後朝見の儀で語られたのは、「大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし,いかなるときも国民とともにあることを念願された御心を心としつつ,皆さんとともに日本国憲法を守り」であって、単に「憲法を守り」ではない。

 つまり、陛下はご即位以来、歴代天皇と同様に、つねに国民の幸福を祈りつつ、同時に、憲法の遵守を誓ってこられたのである。毎日の社説には、お言葉への国語的読解力とともに、千年を優に超える歴代天皇の祈りの蓄積への認識がまったく欠けている。

 その結果、社説の中身は一面的なものとなっているのではないか。

 社説が指摘するように、陛下はお言葉で「これから先,私を継いでいく人たちが,次の時代,更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め,先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています」と語られ、その前日、御年59歳となられた皇太子殿下は記者会見で「その時代時代で新しい風が吹くように、皇室のあり方も時代によって変わってくると思います」と述べられた。

 毎日の社説はこれをもって、「象徴像は時代状況によって変わる。次の時代にふさわしい象徴像を、新天皇とともに築くのは、主権者の国民である」と結論づけるのだが、「主権者の国民」は125代続いてきた天皇の祈りの重みを理解できないほど愚かなのだろうか。

 陛下が仰せの「象徴像」、そして殿下が仰せの「新しい風」には、何代もの御代替わりを経てきた歴史の重みあるのに、日本でもっとも古い歴史をもつ新聞でさえ、それが理解できないか、理解しようとしない。それこそがまさに、陛下が仰せの「困難」に通じていると思う。

 平成の御代替わりののち、宮内庁は「平成流」を流行らせようとした。そのため、当時、私が関わっていた総合情報誌の編集部に、宮内庁幹部が盛んにアプローチを試みていた。けれども、そのあと陛下ご自身が「平成流」を否定された。今度は「新しい風」なのか。


▽3 「新たな息吹」と憲法との整合性

 読売の社説は、冒頭で「平和の尊さ」を指摘し、式典で陛下の琉歌が披露されたことに言及した。お歌はハンセン療養所でのご体験に基づいている。読売は、毎日が歌が生まれた経緯の解説にとどまったのとは異なり、ハンセン病患者に寄り添う皇室の古来の歴史に触れている。

 歴代天皇と同様に、国民に寄り添い、安寧を祈ることが、「象徴天皇としての姿を体現されてきた」と読売の社説は理解している。毎日とはここが違う。

 読売は他方、皇太子殿下が前日のお誕生日に際して、「国際親善とそれに伴う交流活動も皇室の重要な公務の一つ」と会見で述べられたことに触れ、「平成の象徴像を継承し、新たな息吹ももたらされるだろう」と指摘しているが、憲法との関係について掘り下げることはしなかった。

 日本国憲法は皇室外交を予定していない。憲法に規定される、天皇の国事に関する行為は、「外国の大使及び公使を接受すること」のみであり、積極的な外交上の行為は期待されていない。実際、戦後、天皇の御外遊は答礼として始まった。憲法論議を回避するためだった。

 読売は皇室外交と憲法の規定との整合性をどう考えているのだろう。憲法の規定にはない皇室外交の積極的展開を、手放しで支持するのだろうか。

 そうだとすると、社説が他方で、御代替わり儀式の伝統と憲法の規定との整合性について、厳しく指摘していることと矛盾しないだろうか。

 社説はこう書いている。

「重要なのは、皇室の伝統儀式と憲法の整合性だ。皇位を証す剣や曲玉などを、天皇陛下が皇太子さまに直接、渡したと映らないよう、政府は『退位礼正殿の儀』と『剣璽渡御の儀』を分離した。
 天皇自らが皇位を譲る形式を排したのは、天皇の政治的権能を否定している憲法を踏まえた結果だ。合理的な判断である」


▽4 譲位と即位の分離を憲法は要求しているのか

 読売の社説によれば、国民主権主義と整合させるために、政府は皇室の歴史にない退位の礼なるものを創作したことになる。宮内庁はそのために、貞観儀式などの古典解釈をねじ曲げ、ありもしない退位の儀式を歴代天皇が行ったかのようにリポートしたことになる。

 表現の自由、信教の自由の保障を謳っている日本国憲法は、皇室の歴史の改竄や儀礼の新作をはたして要求しているのだろうか。

 皇室の歴史において、譲位(退位)と践祚(即位)は一体である。剣璽は古代から皇室に伝わる神聖な御物であって、国民を代表する政府に帰属するものではないはずだ。読売の社説によれば、退位の礼ののち、剣璽は総理官邸にでも遷されるのだろうか。

 今回の御代替わりについて、政府は憲法の規定に沿うとともに、皇室の伝統を守ることを基本方針としている。日本国憲法は天皇の政治的権能を認めていない。というより、そもそも天皇の権能とは権力政治を超越したところに存在するのであって、政治を超えた天皇の御位が皇太子に譲られる行為は政治的なのだろうか。

 皇室の伝統に従って皇位継承が行われないことを日本国憲法が求めているのだとしたら、改められるべきはむしろ憲法の規定ではないだろうか。従来、憲法改正の必要性を主張してきた読売は、むしろ問題提起すべきではなかろうか。

 読売は最後に、「新元号」に触れている。「平成改元時の選定手続きを踏襲し、即日公布される。政府は、国民生活の混乱を最小限に抑えるよう、万全の手立てを講じてもらいたい」というのだが、事実認識に誤りはないか。

 手続きだけならまだしも、「平成」の場合は「即日」ではなく、「翌日」の改元だった。近代以後、いや平安以後、歴史上、「即日」改元は「昭和」しかない。登極令に基づく初例となった「大正」の改元は、じつのところ明治天皇崩御の翌日であった。

 今回の場合、「即日」改元なら前例踏襲にはならない。なぜ「即日」でなければならないのか、社説には何の説明もない。


▽5 せっかく祭祀に言及したのに

 産経の社説は、毎日や読売と違い、「国と国民の安寧と幸せを祈る天皇の務め」を強調し、「全身全霊で果たされてきた陛下に感謝を申し上げたい」と述べている。さすがの見識だと思う。

 サイパンやペリリュー、沖縄での祈りに言及し、「沖縄への思いは、昭和天皇から引き継がれている」と指摘したのは、二紙とは一線を画している。

 さらに、「宮中祭祀についても、もっと知っておきたい」と筆を進めたのは立派だが、「陛下は、収穫を祝う新嘗祭などを、厳格に心を込めて執り行ってこられた」は、正確さに欠けるのではないか。

 歴代天皇と同様に、今上陛下が祭祀を厳修されたのは事実だろう。だが、新嘗祭はけっして「収穫祭」ではないと思う。皇祖天照大神への収穫の祈りなら米の神饌で足りるし、実際、賢所での祭祀は稲の祭りである。だが、新嘗祭や大嘗祭は米と粟が同時に捧げられる。

 米だけではないのは、粟の民、粟の神、粟の信仰が前提になっているからであり、米と粟を大前に捧げ、直会なさるのは、収穫を祝う宗教儀礼というより、米の民と粟の民のために祈る国民統合の儀礼だからではなかろうか。なぜ御代替わりに「収穫の祝い」を執り行わなければならないのか、教えてほしい。

 陛下はお言葉で、「グローバル化する世界」についてお話になり、国の将来を見据えられたが、日本はすでに移民社会に仲間入りしている。民族的多様性が急速に現実化するなかで、皇室が果たすべき国民統合の役割はますます増していくということだろうか。

 とすれば、その観点からこそ、天皇の祭祀は再認識されるべきではないか。「収穫の祝い」では話にならない。

 もうひとつ、今上陛下が御即位後、皇后陛下とともに祭祀について学び直され、祭祀の正常化に努められたのは事実だろうけど、御在位20年ののち、側近らの建言をきっかけに祭祀簡略化が起きた。昭和の祭祀簡略化の再来だった。

 ご健康問題、ご公務ご負担軽減が理由とされたが、結果として祭祀のお出ましばかりが削減され、いわゆるご公務の件数は逆に増えていった。ご負担軽減は大失敗だったが、宮内官僚の責任は問われなかった。それどころか、ご負担軽減問題は、皇室の歴史にない「女性宮家」創設のための理由にすり替えられた。

 陛下が「譲位すべきだと思う」とのお考えに至った背景には、ご自身しか携われない四方拝や新嘗祭の簡略化問題があったのではなかろうか。

 毎日や読売と違って、古来、天皇第一の務めであるとされてきた祭祀のついて、真正面から言及した産経としては、ぜひその点を指摘し、掘り下げ、問題提起してほしかった。そこが御代替わり最大のテーマのはずだから。

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近代の神祇行政 (略年表) by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 5 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月15日)からの転載です

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近代の神祇行政 (略年表) by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 5
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▽1 仁孝天皇の仏式追祭と神式例祭

・弘化三年一月二十六日崩御、四年二月六日一周聖忌を般舟三味院・泉涌寺で営む。
・文久二年二月二日から六日に十七回聖忌、清涼殿で懺法会、常御殿前庭に下御、泉涌寺山陵を遥拝。
・明治三年一月二十六日 仁孝天皇二十五年祭を神祇官で執行、明治天皇は賢所南庭で山陵遥拝、山陵に勅使差遣、祭典執行、また泉涌寺・般舟三昧院に中山慶子を差遣・代香、以後両寺の勅会法事を廃す。
・明治四年一月二十六日 神祇官神殿で例祭
・同年十月 「四時祭典定則」制定※により、仁孝天皇祭を式年の大祭とする。
 因みに、同時に後桃薗天皇祭と光格天皇祭も大祭とされたことにより、後の皇室祭祀令に規定された「先帝以前三代の式年祭」(大祭)、「先帝以前三代の例祭」(小祭)へと繋がることになり、また神武天皇祭と孝明天皇祭は元始祭・皇大神宮遥拝・新嘗祭とともに天皇親祭の祭祀とされ、これまた皇室祭祀令に採り入れられていることはいうまでもない。

※「四時祭典定則」(及び「地方祭典」)については、改めてここで詳論するつもりはないが、これが皇室祭祀・神宮祭祀・神社祭祀の原型となる近代初の体系的国家祭祀の嚆矢であることはいうまでもない。


▽2 明治初年の神祇行政

(1)神祇官再興と神仏分離に向けての立案と実施
→津和野派国学者と平田派・守旧派公家層との軋礫・構想 (拙著『明治維新と国学者』大明堂、平成 5年、参照)。
・慶応三年十二月九日 王政復古の大号令 幕府・摂関制の廃止、諸事「神武創業」、三職(総裁・議定・参与)による新政府の樹立。
・慶応四年一月七日 神祇事務科 総督有栖川宮、中山忠能、白川資訓 掛 六人部是愛、樹下茂国、谷森善臣→津和野派(亀井茲監、福羽美静、大国隆正)は未だ登場せず。
・同二月三日 三職八局制 神祇事務局の設置(督白川、輔亀井、吉田良義、判事平田鉄胤、権判事植松雅言、谷森、樹下、六人部)→津和野藩主亀井の登場により、津和野派と平田派(矢野玄道等)との軋轢・主導権争い激化。
・同三月十四日 天神地祇誓祭→木戸孝允、福羽美静等の連携により天皇親祭体制を創出。
・同三月十五日 キリシタン邪宗門禁制の高札→浦上キリシタン問題による国民教化政策、信教自由問題が出現する端緒となる。
・同三月十七日 別当・社僧の還俗令。
・同三月二十八日 仏号による神号廃止、仏像の神体廃止。
・同四月十日 神仏分離による社人の粗暴を戒め、廃仏毀釈の趣旨ではないことを告知。
・同四月二十二日 浦上キリシタン処分を説諭で行うことを告知。
・同四月二十四日 菩薩号廃止。
・同閏四月四日 キリシタン宗門と邪宗門を改めて区別して禁制を掲示。
・同閏四月四日 還俗の別当・社僧は神主・社人と称し、還俗しない者は神社退去
・閏四月十七日 キリシタンの諸藩お預け
・閏四月二十一日 政体書神祇官の成立(律令二官制ではなく、太政官を議政・行政・神祇・会計・軍務・刑法の七官に分ける)→古代の神祇官・太政官再興を目指す守旧派勢力と志士官僚・津和野派等との駆け引き・抗争がこれ以降激化する。
・同六月二十二日 真宗各派に神仏分離は「廃仏」ではないことを改めて告知。

※戊辰戦争、大阪行幸、即位式、改号(一世一元の制・「明治」)、東京行幸、氷川神社御親祭など明治元年には多くの出来事があり、かつ未だ国内は不安定な時期であったのであり、各府藩県の地方官が中央政府の意向を無視した政策・行政を執行した
→各地の「廃仏毀釈」も地方官の行政を無視しては語れないことに注意。東京行幸、東京の「帝都化」(武蔵一宮氷川神社御親祭の有する意義)、東京・京都の主導争いを巡る神道家・国学者同士の角逐が神祇・宗教行政にも影響を与える。
 これは、明治二年まで持ち越され、再度の東京行幸 (途中、史上最初の神官親拝)と戊辰戦争の終結により、ようやく新政府は少しく安定した体制となる。

(2)神祇官・宣教使による神道政策
・明治二年七月八日 神祇官・太政官再興
→神祗官は祭典・諸陵・宣教・祝部・神部を管掌することになり、古代の神祇官と異なり、山陵祭祀と神道(惟神の大道)を国民(キリシタンは無論)に教導する宣教という新たな使命を有して発足(伯・中山、大副・白川、少副・福羽、大祐・北小路隋光、権大祐・植松、少祐・小野述信、平田延胤)。
 ただし、この時点では守旧派と津和野派等の痛み分けであり、これ以降、祭政一致体制を巡って激烈な主導権争いが展開する。
・同年九月十七日 諸陵寮設置→後の宮中三殿の皇霊殿と共に山陵祭祀による皇室の「敬神崇祖」の基盤となる。
・同年九月二十九日 宣教使官員設置→次官・福羽美静が主導権を握り、宣教使教官として多数の国学者を動員するが、教義・思想・学問的系統の相違等で内部統一が不能となり、国民教化を実施するまでに至らなかった。これが、仏教勢力を動員した国民教化政策への転換の要因となる。
・明治三年一月三日 神祇官神殿(東座・天神地祇、中央・八神、西座・歴代神霊)で祭典を執行し、「宣布大教詔」が出される。※明治五年からの元始祭の原型となる。
・同年八月九日 民部・大蔵を分省し、民部省に社寺掛を設置→同年閏10月 20日 に寺院寮と改制。
・明治四年一月五日 社寺領上知令。
・同年五月十四日 神社は国家の宗祀であり、社家の世襲禁止。社格制定。
・同年七月四日 郷社定則、氏子取調規則(六年二月二十九日施行停止)。
・同年七月十二日 神宮改革(内外両宮の差等、御師大麻廃止等)。
・同年八月八日 神祇官廃止、神祇省設置。宮中祭祀要員として大中少掌典等を置く。
・同年九月十四日 神器・皇霊の宮中遷座(近代皇室祭祀の原点)。
・同年十月二十九日「四時祭典定則」制定。
・同年十一月 大嘗祭、東京で斎行。
・同年十二月二十二日 神宮大宮司による神宮大麻の頒布。同日、左院は伊勢神宮の神器奉遷や教部省設置などを建議。宗教は教部省、祭祀は式部寮に分掌することが狙い。なお、左院が主張する神宮遷座論はその左院が廃止されるまで執拗に唱えられた。

※明治元年(慶応四年)三月の神仏分離以来、各地で廃仏毀釈が勃発し、それに危機感を抱いた各宗の僧侶たち(福田行誡・鵜飼徹定など)が明治元年12月に「諸宗同徳会盟」を結成したことは辻善之助以来著名であるが、その辻は「神仏分離・廃仏毀釈」に触れて、以下のように述べている。

「神仏分離に伴ふ廃仏は、その弊害ばかりでなく、一面に於て多少の利益をも齎したといはねばならぬ。即ち僧侶の不健全なる分子を篩ひ落し、之を淘汰した。之により、教界における一種の浄化作用が行はれた。僧侶は惰眠より覚めたのであつた。
 若しかの処分がなかつたとするならば、その結果は如何であつたであらうか。生温い保護を明治政府が仏教界に与へて居たとしたらば、如何であらうか。仏教界は全くその活動力を失ひ、中風患者の如くなつたであらう。江戸時代における僧侶は、最早世間より全く厭き果てられ、棄て去られ、心ある者よりは指弾せられ、軽賤侮蔑の的となつて居たのであるから、明治時代になつては、尚甚だしく、全く世に歯せられざるに至り、仏教の衰微の極に達したであらう。」(『明治仏教史の間題』、立文書院、昭和24年)

 これに対し、柏原祐泉はこう述べている。

「また翌年(三年)八月、浄土宗浄国寺徹定の公挙議案中に、「朝命」で各宗学徳端潔な者二、三名を選び、「暁諭師」として巡廻、策励させることなどの文献をみると、朝権による教団再建の意図が明らかにうかがえる。
 したがって、会盟の議題の多くに再出発の理想的な項目が並んでいても、その主体的・自主的な実体化への努力は期待しがたく、特に旧態からの脱皮による自覚的仏教の確立などはのぞむべくもなかった。
 したがって所詮は護法・護国・防邪の一体観に集約されることになるが、しかし近代の出発点に当って、まず諸宗が連帯した会合で、右のようないくつかの自省的議題を懸げえたことは、近代仏教の刺戟となったことを認めてよいであろう。」(『日本仏教史 近代』、吉川弘文館、平成2年)

 このように、「諸宗同徳会盟」の意義についてはそれなりの評価がなされているのであるが、いわゆる狂信的な神道家・国学者による「神仏分離」=「廃仏毀釈」=「法難」という図式的理解で、明治初年の宗教政策が割り切られるものではないことだけは明らかであろう。


▽3 教部省・式部寮による国民教化運動と国家祭祀再編成

 左院建議などを受けて、明治五年三月十四日に設立された教部省が、我が国におけるはじめての近代的かつ本格的な宗教行政専門官衙であったことはいうまでもないが、その最大の歴史的意義は、教導職制・大教院体制による神仏宗派(教団・宗教団体)の近代的再編及び創設であろう。

 また教部省設置とともに旧神祇省の祭祀関係事務を継承した式部寮が明治八年制定の「神社祭式」制定に尽力したことは、周知の通りである。

(1)国民教化運動関係
・明治五年三月 神祇省廃止・教部省設置、祭祀関係事務は式部寮管轄
・同年四月二十五日 教導職設置。
・同年四月二十九日 神官教導職東西に区分。
・同年四月三十日 神仏各教宗派に教導職管長設置。
・同年六月十日 神宮大麻頒布の地方官関与を督励。
・同年八月八日 すべての神官、教導職兼補。
・同年十一月二十四日 大教院建設、全ての神社・寺院を小教院として氏子・檀家を教導。
・明治六年一月七日 法談・説法を「説教」に改称。
・同年一月十五日 梓巫市子憑祈祷狐下げの禁止。
・同年一月三十日 神道東西部廃止、一般に「神道」と呼称。
・同年二月十日 神官・僧侶以外も教導職に薦挙。
・同年二月二十二日 切支丹宗禁制等の高札撤去。
・同年三月十四日 大教院事務章程・教導職職制制定。
・同年十月二十日 大教院規則を制定し、「敬神」の実を挙げるため、教院に造化三神・天照大御神を奉祀。

※以後、教部省は大教院での神仏教導職による三条教則の合同布教を推し進めようとしたが、島地黙雷らの強力な反対運動などにより、明治8年5月3日には4月30日付け教部省宛太政大臣三条実美の発書を受けて大教院での神仏合同布教が差し止められ、同年11月27日には神仏各管長宛に「信教自由の口達」が発出された。

 この大教院解散により神仏教導職は各派独自の布教体制を布くことになり、神道教導職は神道事務局を創建、明治9年1月には三部(第一部大教正千家尊福、第二部久我建通、第三部稲葉正邦)、同年10月23日には第四部を設け、大教正田中頼庸を引受(管長)とした。

 また同日付けで黒住講社を神道黒住派、修成講社を神道修成派として別派特立を許可した。これらの一連の措置によって、教部省はその役割を終え、信教自由・政教分離論が台頭する中、十年一月にはその事務を内務省社寺局が継承することになるのである。

 なお、教部省時代の宗教政策については、かつて「日本型政教関係の形成過程」(井上順孝・阪本是丸共編著『日本型政教関係の誕生』、第一書房、昭和62年)で、やや詳細に触れたことがある。

 私の結論としては、明治初期における政府の宗教政策の基本は、仏教を排斥するものではなく、あくまでも啓蒙的専制主義とでもいうべきものであったと理解すべきである。

 無論、政府といっても、一枚岩ではなく、政府内部の力関係によって、当の宗教政策や行政が揺れ動いたことは事実である。

 実際、その「事実」を検証することなく、あたかも政府(国家)が明治維新以来、「直線的な神道国教化」政策を推進し、神祇官時代には「廃仏毀釈」、教部省時代には「信教自由・政教分離無視」の政策と行政を進めてきたかのような論が存在したのであるが、政府部内には「神道一辺倒」だけではない分子やグループも存在したのであり、それを考慮した考察が必要であろう。

 さらにいうならば、教部省時代の政策が仏教の「伝統的しきたり」を打破するものが多 かったことは事実であるが、それを「神道寄りの政策・行政」と一概に決め付けることはできない。

 例えば、明治五年三月二十七日の「女人結界廃止・登山参詣自由」や同年四月二十五日の「肉食妻帯蓄髪自由」、六月十二日の「神宮・神社、僧尼参詣自由」などの布告は、当時の「開化政策」を抜きにしては語れない。「宗教史」の観点だけでは限界があろう。

(2)国家祭祀制度関係
・明治五年三月十八日 元神祇省鎮座の天神地祇・八神を宮中に遷座 (当分の間、賢所御拝所に鎮座)。
・同年六月十二日 神宮・神社祭典への僧尼参詣許可。
・同年六月十八日 大祓再興、祓式制定(大正三年時とは相異あり)。
・同年十一月九日 太陰暦を太陽暦に変更、以後祭日等に影響す。
・同年十一月十五日 神武天皇即位日を祝日とし、祭典執行を布告(六年一月消滅)。
・同年十一月二十七日 宮中八神殿の天神地祗・八神両座を合併、神殿と称す。
・明治六年一月四日 祝日改定、五節供を廃し、神武天皇即位日・天長節を祝日とす。
・同年二月十五日 神宮を除き、官幣諸社祭典には式部寮官員参向せず地方官参向とす。
・同年三月七日 神武天皇即位日を紀元節と称す。
・同年三月 式部寮、官幣諸社官祭式制定。
・同年七月二十日 改暦により歴代皇霊・神宮以下諸社祭日及び祝日改定。
・明治八年三月 式部寮神社祭式制定、近代国家祭祀の雛型となったことは周知の通りである。


以下、おまけ。明治後期・大正期・昭和前期の神社関係法令等(抄出)

・明治三十九年 官国幣社経費に関する法律、府県社以下神社の神饌幣帛料供進に関する勅令
・明治四十年 神社祭式行事作法
・明治末年から大正初年にかけての神社合祀
・明治四十一年 皇室祭祀令
・明治四十二年 登極令
・明治四十五年 神宮神部署官制(三十三年の神部署官制を改正)
・大正元年 神官神職服制
・大正二年 神社の祭神・神社名・社格等に関する総合的法令、神職奉務規則、宗教局を文部省に移管
・大正三年 神宮祭祀令、官国幣社以下神社祭祀令、官国幣社以下神社祭式
・昭和三年 神宮大麻及暦頒布規程
・昭和七年 学生生徒児童の神社参拝
・昭和十四年 招魂社を護国神社と改称、掌典職官制
・昭和十五年 宗教団体法施行(制定は前年)、神祇院官制
・昭和二十年 神道指令、宗教法人令(二十一年二月「神社」追加)
・昭和二十一年 神社本庁設立、神社新報創刊(現在に至る)。(完)


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。
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近世における皇室と幕府と神社の制度 by 阪本是丸 ──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 4 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月14日)からの転載です

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近世における皇室と幕府と神社の制度 by 阪本是丸
──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 4
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▽1 信長・秀吉・家康と神社

 織田信長、そして豊臣秀吉の出現によって、ようやく長い戦乱の時代にも「天下統一」による平和な社会への兆しが見え、日本の歴史は確実に新しい時代へと動きつつあった。いわゆる織豊時代は短期間ではあったが、それまでの中世的社会を大きく変換させ、約二百年にも亘る「封建時代」の幕開けを準備した時代であった。

 神道と神社の歴史も、織豊時代の到来によって一大画期を迎えた。

 このことについて、近代における「神道史学」を樹立したと評価される近代切っての神道史学者宮地直一は、「戦国の末期に出でて覇業を樹てし織田氏と、その後を承けて之を完成せし豊臣氏との二代は、その間三十年の短日月に過ぎざりしも、後に徳川氏の巧妙なる政策を産むに至らしめし準備の期に属し、その史上に於ける価値や甚だ軽からざるなり。」と述べている。

 次いで、信長、秀吉の伊勢神宮など神社に対する「敬神」の念があったことを指摘しつつも、秀吉が旧来の有力神社・社家の勢力を削ぐ政策を採ったことを、筑前・宗像社、肥後・阿蘇社を例に挙げて論じ、これを一種の「政教分離策」としている。

 そして、この「政教分離策」は土地制度の変革に明瞭に示され、「由来久しき庄園の制も亦事実上その終を告げて、近代の知行制度に地位を譲」ったことにより、旧来の社寺の政治的社会的勢力は大幅に低下することになったと宮地は述べている。(『神祇史綱要』明治書院、大正八年)

 信長、秀吉の出現によって、神社の制度は大きく変容を余儀なくされ、その実力は昔日の比ではなくなったのであるが、他方では神道・神社の新しい在り方を齎した。その象徴が「英雄」を祀る神社 (霊廟)の出現であり、豊国廟や東照宮※の創建・建立がそれである。

※幕末の慶応元年二月、孝明天皇は徳川家康三百五十回遠忌に際して奉幣され、宣命を認めておられる。その宣命には家康の功績を称え、「天皇朝廷が宝位動き無きこと・文教倍盛・武運長久」をお祈りになる文言が認められている。
 家康の式年の遠忌 (「祭礼乎修行」である!)ですら孝明天皇は大切にされたのであり、神武天皇以来の歴代に対する「追孝の叡慮」が皇霊祭祀として神式で執行されたとしても何ら不自然ではないだろう。

(1)豊国廟の建立と退転
慶長三年(1598) 豊臣秀吉死去。
同四年 方広寺東方阿弥陀雅峰西麓に廟所仮殿完成、遺骸を山頂に埋葬。廟所を方広寺の鎮守とし、後陽成天皇から「豊国大明神」と神位正一位を贈られる。
同九年 秀吉七回忌に際し、盛大な臨時大祭を執行。
※豊国社社務には吉田兼見、神主にはその孫萩原兼従が就任し、その弟梵舜は神宮寺の社僧となった。社領は一万石、社域は二十万坪と盛大・栄華を極めたが、元和元年(1615)に豊臣氏が滅亡してからは社殿の方広寺移転、社殿大破、修理不許などにより、明治維新に際して再興されるまで退転したままであった。

(2)東照宮の建立
元和二年(1616) 徳川家康死去。遺言により久能山に神葬、翌年「東照大権現」の神号が贈らる。次いで翌年日光山に社殿を造営、遺骸を日光山に移して正遷官を執行。
寛永十二年(1635) 家光により大造営が行われる。
正保二年(1645) 後光明天皇の宣旨により東照社を東照宮と改称。
同三年 臨時奉幣使が差遣され、以後「日光例幣使」として幕末に至る。
明暦元年(1655) 輪王寺宮門跡創設、後水尾天皇皇子尊敬(守澄)親王が上野と日光の門主として下向。以後、慶応三年の最後の宮門跡能久親王まで続いた。
※宮地直一は日光東照宮建立と家光の大造営の意義について、以下のように特筆大書している(前掲『神祇史綱要』)。
「そもそも本社の創立は平々坦々たる三百年の治下に於て、最も目醒ましき唯一の事件なり。山水の景勝と相俟ちて建築の秀麗華美を極めたる、朝幕の待遇の鄭重にして上下の畏敬したる、将たその経済上他に冠絶せる位置に居る等、之を何れの点よりするも他に比儔(人偏に壽)あるを見ざるなり。
 蓋しこの事たる豊國廟の故事に倣つて起り、秀吉の遺策をして果を結ばしめし感なきに非ずと雖も、かく全力を尽くして経営せられたる未曾有の壮観に対しては、自から人心も吸引せられ、諸侯も威圧せられしなるべく、以て三代将軍の敬虔なる真情に伴ふ政策の一端をも窺知するに足るものあるべし」


▽2 朝儀復興・神社政策をめぐる朝廷と幕府

 後陽成天皇から後水尾天皇 (上皇)の時代は、徳川幕府もようやく安定期に入り、天皇・朝廷との安定的関係を模索した時期であったが、それはあくまでも幕府主導による朝廷統制を主眼とする関係の構築であった。禁中並公家諸法度の制定はその具体的政策であった。

 幕府は二代将軍秀忠の女(むすめ)和子を後水尾天皇に入内させ女御・皇后としたが、後水尾天皇は未だ三十半ばの在位二十年足らずでその所生の興子内親王(明正天皇)に譲位し(寛永六年)、幕府(武家)の朝廷統制に対する抗議の意思を表明したことは良く知られている。

 しかし、 天皇の真意・意図はともかくとして、中世以来衰微していた天皇・朝廷が幕府の存在によつて安定したことは朝廷自身も認めざるを得ない事実であり、元和三年に徳川家康に「東照大権現」の神号を贈り、「天下昇平・海内静謐」を祈願した。

 以降、朝廷と幕府は持ちつ持たれつの関係で推移したが、結果的には天皇・朝廷の権威が幕府の権力を凌駕して明治維新に至ったことはいうまでもなかろう。

 いずれにせよ、以後の朝幕関係の推移を考える上で、八十五歳という当時としては稀な長寿を保った後水尾天皇(上皇)の存在意義は大きかったと言えよう。

 因みに、稀と言えば、後水尾天皇の皇子女のうち明正(第二皇女)・後光明(第四皇子)・後西(第人皇子)・霊元(第十九皇子)の四人の各天皇が即位しているというのも稀有であるが (通算在位約六十年)、いずれの天皇も文化・学芸に長じ、朝儀復興にも尽力していることは周知の事実であるが、ここでは省略に従う。

(1)禁中並公家諸法度の制定(元和元年。1615)
1条 天皇の務めは第一に学問をすること、
2条 親王の座位は太政大臣・左右大臣の下とすること、
3条 清華家の大臣辞任後の座位、
4条・5条 三公・摂関の任免、
6条 女縁養子の禁止、
7条 武家官位を公家当官の外とすること、
8条 改元のこと、
9条 天皇以下公家の礼服のこと、
10条 公家諸家の昇進のこと、
11条 公家の罪刑のこと、
12条 名例律による罪の軽重のこと、
13条 摂家・宮門跡の座位、
14条・15条 僧正・門跡等の叙任、
16条 紫衣勅許の制限、
17条 上人号の制限
一 天子御藝能之事。第一御學問也。不學則不明古道。而能致太平者未有之也。貞観政要明文也。寛平遺誡雖不究経史。可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶。雖為綺語。我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄。御修學専要侯事。

(2)後水尾天皇(上皇)と「敬神」
一、敬紳は第一にあそはし候事候條、努々をろそかなるましく候、禁秘抄発端の御詞にも、凡禁中作法、先神事、後に他事、旦暮敬神之叡慮無解怠と被遊候歟、佛法又用明天皇信しそめさせ給候やうに、日本紀にも見え候へは、すておかれたく候 (「後水尾上皇宸筆教訓書」)
一、禁中は敬神第一の御事侯へは、毎朝の御拝、御私の御懈怠、且以不可有之事 (同上)
※後水尾天皇は、慶長元年(1596)に後陽成天皇の第三皇子として誕生。同十六年(1611)即位、寛永六年(1629)紫衣事件を契機に譲位し、明正天皇(女帝・第二皇女)が即位。同二十年、後光明天皇即位 (第三皇子)、明暦二年(1656)後西天皇即位(第七皇子)、寛文三年 (1663)霊元天皇即位 (第十八皇子)、延宝八年(1680)崩御。

『後水尾院当時年中行事』
「順徳院の禁秘抄、後醍醐院の仮名年中行事などいひて、禁中のことどもかかせ給へるものあり。 寔(まこと)に末の亀鑑也。
 されど此頃のありさまに符合せず。其ゆゑいかなれば、世くだり時うつり、且は應仁の乱より諸國の武士おのれおのれ力をあらそひて、社領、寺領、公私の所領を押領する事、かぞふるにいとまあらず。
 これより此方、宮中日々に零落して、ことごとく保元建武のむかしに似るべくもあらず。……御禊大嘗會其外の諸公事も次第に絶えて、今はあともなきが如くになれば、再興するにたよりなし。
 何事も見るがうちにかはり行く末の世なれば、せめて衰微の世のたたずまひをだに、うしなはでこそあらまほしきに、それだに亦おぼつかなくなりもてゆかん事のなげかしければ、見て知り、聞きて知る人の、たどたどしき事にはあらねど、思ひ出づるにしたがひて、書きつけ侍りぬ。うとき人には、ゆめゆめ見せしむまじきものにこそ。」(序)
「四月朔日……此月諸社の祭多けれど、今は然せる神事も無し。後奈良院御記天文の頃等迄は、日吉の祭の神事なり等見えたれど、此頃は紳事の沙汰も無し。賀茂の祭の日は社司共葵を献ず。葵七葉を連ねて、桂の枝に付けて簾の壺に挿す也。一?に二處づつ懸くるなり。
 五月八日 今宮の祭なれば、安家物忌の符を進上す。
 六月七日 祇園會なれば安家の物忌の符を進上す。」(上)
「一 禁秘抄賢所云、白地以神宮並内侍所方不為御跡云々。今以堅守らるる一ヶ條也。
 一 佛神に供したる物参らず。」(下)

(3)中絶祭祀の再興
正保四年(1647) 伊勢例幣使再興(前年に日光例幣使)
延宝七年(1679) 石清水社放生会再興
貞享四年(1687) 東山天皇大嘗祭再興(次の中御門天皇は不執行)
元禄七年(1694) 賀茂祭再興
元文三年(1738) 桜町天皇大嘗祭、以後、今上天皇に至る。
同五年(1740) 天皇親祭新嘗祭
延享元年(1744) 上七社(伊勢・石清水・賀茂下上。松尾・平野・稲荷・春日)奉幣再興、宇佐・香椎奉幣再興

(4)諸社蒲宜神主法度の制定(寛文五年。1665)
一 諸社之禰宜神主等、専学神祇道、所其敬之神体、弥可存知之、有来神事祭礼弥可勤之、向後於令怠慢者、可取放神職事
一 社家位階従前々以伝奏遂昇進輩者、弥可為其通事
一 無位之社人、可着白張、其外之装東者、以吉田之許状可着事
一 神領一切不可売買事 附、不可于質物事
一 神社小破之時、其相応常々可加修理事、附、神社無懈怠掃除可申付事
 右条々可堅守之、若違犯之輩於有之者、随科之軽重可沙汰者也


▽3 吉田家の神社・神職支配

 室町時代末期の吉田兼倶以来、吉田家は神祇伯家白川家と共に「神祇道の家元・神祇管領長上」として明治維新まで全国の神社の上に君臨した。殊に、上記「諸社禰宜神主法度」の発布以降、その勢力を増大させ、しばしば白川家と争った。

 吉田家はその神道思想や活動をめぐって近世には毀誉褒貶の著しい家であるが、全国各地の神社・神主を天皇・朝廷と結び、天皇尊崇の念を普及させた功績は大いに評価されて然るべきであろう。

(1)神道裁許状・宗源宣旨
・武州入間郡川越村氷川明神之禰宜山田丹後掾久次 恒例之神事参勤之時 可着風折烏帽子狩衣者 神道裁許之状如件
  寛文元辛丑年間八月十九日
神道管領長上卜部朝臣兼連
・宗源 宣旨
 正一位氷川明神
     武州入間郡川越町
右奉授極位者 神宣之啓状如件
  享保元年八月十六日 神部伊岐宿禰宜
神祇道管領勾当長上従二位卜部朝臣兼敬
・武蔵国一宮氷川大明神之巫女墨田 恒例之神事神楽等勤仕之時 可着舞衣者 神道裁許之状如件
  延宝四年五月廿二日
神祗長上

(2)吉国家執奏による天皇宣旨
・延宝四年、氷川女体社神主武笠豊良に風折烏帽子・狩衣の裁許状
・宝永三年、嘉隆が東山天皇より従五位下、丹波守の宣旨を受けている。
・武州足立郡氷川神社之神主佐伯嘉隆 今度丹波守従五位下 勅許 冥加之至也 弥国家安泰之御祈祷不可有怠慢者 神道啓状如件
  宝永三年四月三日
    神祗道管領長上従二位卜部朝臣
・宝永三年四月九日付けで、嘉隆は吉田家家老に宛てて「今度以御執 奏 丹波守従五位下首尾能 勅許 冥加之至奉存候」と御礼言上している。

(3)吉国家以外の公家による執奏
・全国の神社の多くは吉田家や白川家の支配下にあったが、これ以外の有力大社など少数の神社は諸公家が執奏していた。例えば、宇佐八幡宮は鳥丸家、石清水八幡宮は廣橋家、出雲大社は柳原家、香取神宮は一条家など (『雲上便覧大全』、慶応四年)。
 しかし、明治維新に際して新政府の神祇事務局は慶応四年(明治元年)三月十八日「神社執奏支配之儀自今於神祇事務局取扱被 仰出候間執奏之儀被止候事 但神宮賀茂伝奏此迄通之事」と達し、同十九日には諸公家に対し「是迄諸神社執奏被成来之御家来より其社名御書記し来る二十二日限り弁事局へ御申達被下度事 但別当之神社も不洩様御申達被申候事」と達した。これによって、吉田家等による全国の社寺支配は終止符を打ち、神仏分離政策とともに近世の神社制度は崩壊したのであった。

(4)幕末期神社における「神仏併存」状態
・石清水八幡宮、北野天満宮等の宮寺は勿論の事、近世の多くの神社は所謂「神仏習合」の形態・状況にあり、多くの神社に神宮寺等があって別当・社僧なども奉仕していた。
 明治元年十月に明治天皇が行幸・親祭された武蔵一宮氷川神社も同様で、元禄頃には岩井、東角井・西角井の社家の他に、一寺四院(観音寺・大聖院・愛染院・宝積院・常楽院)があり、社領は300石であった。
 その内訳は、125石が修理料、40石が本地堂灯明料、75石が社家(25石づつ)、60石が供僧(観音寺20石、他は10石づつ)であった。
 因みに、石清水社の「神号」は「八幡大菩薩」が一般的であったが、社名に関しては「石清水八幡宮」と記される場合もあった。
※京都廬山寺蔵の後伏見天皇の元亨元年十月四日の石清水社への「宸筆御願文案」には、「かけまくもかしこきいはし水のくわう(皇)」大神のひろまへに、おそれみおそれみも申したまはくと申、胤仁わが神ながれをうけて、あまつ日つぎいまにたへず、そ(祖)王のしやうちやく(正嫡)として」云々とある。
「神が主、仏が従」であることは歴代天皇の「大御心」としての大原則であり、まず七社(伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日)が先であり、七寺(仁和寺・東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺・東寺・広隆寺)が後なのである。(つづく)


[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など

 以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。
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リアリティなき御代替わり。日本人は変わった!? ──式典準備委員会決定「基本方針」の「案の定」 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年4月1日)からの転載です

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リアリティなき御代替わり。日本人は変わった!?
──式典準備委員会決定「基本方針」の「案の定」
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 3月半ばにまとめられると伝えられていた陛下の退位(譲位)等に関する政府の基本方針が、半月遅れでようやく発表されました。3月に開かれる予定とされていた第3回式典準備委員会は、ギリギリの30日金曜日に開かれました。朝の7時45分から、という慌ただしさでした。
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 森友騒動の対応に追われ、官邸は退位どころではなかったということでしょうか。御代替わりは国家の最重要案件であり、したがって、その検討は「静かな環境」で進められることが重要だと何度も強調されてきたはずですが、現実は正反対です。


▽1 名ばかりの伝統尊重

 しかも、委員会が決定した基本方針の中身は案の定というべきもので、「皇室の伝統の尊重」は名ばかりです。

 公表された資料によると、平成の御代替わりの考え方、内容が基本的に踏襲されます。事務は、式典委員会(内閣)および式典準備連絡本部(内閣府)が統括します。「退位の礼」と剣璽渡御の儀(剣璽等承継の儀)は分離して行われ、践祚(即位)後朝見の儀は「剣璽等承継の儀後、同日に」行われます。

 つまり、悪しき先例が踏襲され、かつての大礼使のような特別組織は設置されません。「譲位即践祚」が儀式の上で表現されることはなく、3日間におよぶ賢所の儀のあとに朝見の儀が行われるという昭和、平成までの方式は破られることになります。天皇第一のお務めとされてきた祭祀については、政府は関知しないという頑なな姿勢が現れています。

 長期保守政権下において、このような非宗教主義、非伝統主義が採用されることは何にもまして、事態の深刻さを示しています。

 125代続く「祭り主」天皇の考え方は顧みられず、日本国憲法を最高法規とし、とりわけ政教分離原則を厳守する、1・5代象徴天皇論に基づく御代替わりの方式が確定することになります。次の次の御代替わりも、そのまた次もこの形式が続くことでしょう。

 唯一の救いは、御代替わりに伴う祭祀が皇室行事とされるため、政治的な介入、干渉、圧迫を受けずに済むことですが、私の目には敗北主義としか映りません。

 守られるのは、宗教性があるとされ、「国家神道」のカゲがちらつく天皇の祭祀であり、米と粟による国民統合儀礼ではなく、稲の祭りとされる大嘗祭だからです。無理解はいっこうに正されず、「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇「禁秘抄」)と歴代天皇が信じ、実践された皇室の歴史と伝統への偏見を是認するものだからです。


▽2 生々しさを失った天皇意識

 なぜそうなるのか、結局のところ、およそこの半世紀の間に、日本人が変わってしまったということではないでしょうか。

 メディアは「憲法の理念に忠実に」と訴え、式典準備委員会に呼ばれた有識者は1人として天皇の祭祀に言及せず、それどころか、憲法の理念に反する宗教性の否定を要求しています。他方、「祭祀重視」を訴える国民の声がとくに聞こえてくるわけでもありません。

 天皇の祭祀は、宗教関係者は別にして、国民にとってはリアリティを失っています。日本人の天皇意識から生々しさが消えてしまっています。

 かつて日本人の天皇意識は、皇室が建築技術や養蚕・機織りなどを教えてくださったというような古代に連なる祖先の記憶や郷土の物語とともに、暮らしに密着したものでした。その名残を留める神社が各地に残されていますが、いまや現代人にとって、郷土や祖先とのつながりは、きわめて希薄です。

 現代の日本人にとって、天皇とは憲法上の抽象的で観念的な存在です。生々しいリアリティは新たに創造されたのであり、今上陛下が皇后陛下とともに、国民と親しく交わられる、憲法の規定にもない、地方行幸やご訪問、お見舞いなどによるものです。陛下が「全身全霊で」ご公務に打ち込んでこられた結果、天皇意識に現実感が与えられたのです。

 そのことは逆に、現代日本人の天皇観がバーチャルで不安定であることの何よりの証拠ともなります。

 大正時代、明治神宮創建の指揮を執った伊東忠太は、モダンな時代にふさわしい斬新な建築様式を望む革新的な意見に抗して、日本人の精神はいささかも変わっていないと反論し、流れ造による伝統形式の社殿が建てられました。

 しかし、いまの時代はどうでしょうか。側近中の側近までが天皇の祭祀を敬遠し、歴史にない女系継承容認=「女性宮家」創設を推進し、宮中祭祀=「皇室の私事」論を各地で講演して回り、そして今日の事態を招いたのです。

 日本人が変わってしまったのだとして、あらためて考えていただけないものでしょうか。私たちの祖先が編み出した、価値多元主義に基づく、天皇を祭り主とする国家制度は、世界的に争いの絶えない現代において、価値の低い過去の遺物というべきものなのかどうか。
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御代替わり諸儀礼は皇室の伝統と憲法の理念を大切に ──朝日新聞の社説「憲法の理念に忠実に」を批判する [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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御代替わり諸儀礼は皇室の伝統と憲法の理念を大切に
──朝日新聞の社説「憲法の理念に忠実に」を批判する
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 朝日新聞は今月16日、「天皇即位儀式、憲法の理念に忠実に」と題する社説を掲げ、「危うい空気が漂うなかで進む代替わりに対し、憲法の原則や理念からの逸脱がないよう、目をこらし続ける必要がある」と訴えました。

 しかし、じつのところ、危ういのは、古来、125代続いてきた天皇の価値を理解できない、もしくは理解しようとしないジャーナリズムの方ではないのでしょうか。ジャーナリズムが歩むべき道を踏み外さないよう、私たちは監視し続ける必要がありそうです。


▽1 なぜ憲法重視なのか

 朝日新聞の社説が問題にしているのは、政府が検討を進めている御代替わりの儀式と憲法との関係です。「最も重視すべきは憲法との関係である。改めて言うまでもない」と述べ、政教分離問題に言及しています。

 しかし、なぜ憲法重視なのでしょうか。なぜ皇室の伝統ではなくて、憲法の理念なのか。なぜ皇室の伝統と憲法の理念を対立化させ、一方を選択するのではなく、同時に追求することを求めようとしないのでしょうか。

 少なくとも今上陛下は、皇位継承後の朝見の儀で仰せになったように、「大行天皇の御威徳に深く思いを致し」「憲法を守り」と両方の価値を求めておられます。皇室の伝統と憲法の規定の重視は、その後もことあるごとに明言されています。当然のことです。

 社説を書いた論説委員は、歴史的天皇の存在にもともと関心がないのか、もしくは価値を認めないのか、考えようという意思がさらさらないのでしょうか。千数百年以上続いてきた天皇の伝統的価値とはそれほどに低いものなのでしょうか。

 おそらくや政治部出身であろう論説委員には、思いもおよばぬことなのかも知れません。縦割りジャーナリズムの限界でしょうか。

 社説は、大嘗祭訴訟の合憲判断に言及しつつも、「安易に踏襲することなく、一つ一つ点検する姿勢が肝要だ」と訴えるのですが、憲法は宗教の価値を否定しているわけではまったくありません。むしろその逆です。

 論説委員は大嘗祭を単なる宗教儀礼だとお考えなのでしょうか。「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定める憲法に抵触する特定の宗教であるとお思いなのでしょうか。そのような儀礼が千年を超えて引き継がれると信じておられるのでしょうか。


▽2 30年間、進歩がみられない

 聞くところによると、カトリックの信仰篤き女性が何十年も前から天皇の祭祀に携わっていると聞きます。「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」という絶対神の戒律を固く守るカトリック信徒が宮中祭祀を奉仕している事実があるとすれば、天皇の祭祀は信教の自由を侵さないことの何よりの証明ではないでしょうか。

 それどころか、バチカンは300年以上も前から、たとえ異教的儀礼であっても、信仰心や道徳に反しないかぎり、変更を求めてはならないという指針を示しています。

 むろん、宗教性が否定されない儀式などに国はいっさい関われないとするほど、日本国憲法は完全中立主義、非宗教主義を採用してはいません。

 朝日の社説は御代替わり諸儀礼を、無慈悲にもバラバラに分解して点検せよと要求していますが、むしろ逆に、全体として国の行事とされるべきでしょう。ごく当たり前のことです。

 そして本来なら、皇室の歴史と伝統、同時に憲法の理念に照らし合わせて、どのような儀礼が相応しいのか、英知を集め、時間をかけて、整備し直すべきなのではありませんか。日本国憲法施行以来、政府が宮務法の整備を怠ってきたことこそ、批判されるべきでしょう。

 朝日新聞は昭和天皇崩御の3日後、やがて国の儀式として行われる大喪の礼が政教分離原則に反しないないようにするよう政府に要求する社説を載せましたが、あれから30年、ジャーナリズムとしての進歩がまったく見られません。


▽3 なぜ宗教性否定なのか

 今回の社説は、践祚後の剣璽渡御(剣璽等承継の儀)についても噛みついています。

 三種の神器に含まれる剣璽の継承儀式は、神話に由来し、宗教的色彩が濃いのだから、国事行為には相応しくないという主張ですが、なぜ宗教性を否定しなければならないのでしょうか。

 宮中の祭祀は、教義もなく、宣教師も信者もいません。憲法の政教分離原則に抵触する特定宗教ではありません。

 憲法が定める国事行為は天皇の政治的権能を否定しているのであり、他方、政教分離規定は国民の信教の自由確保が最大の目的でしょう。

 今上陛下の御成婚のとき、賢所大前での結婚の儀は「国の行事」(天皇の国事行為)と閣議決定されましたが、朝日新聞は反対運動を展開したのでしょうか。

 社説はまた、剣璽等承継の儀に女性皇族が立ち会わなかったことを「排除」と表現し、問題視していますが、皇位継承資格者が参列すれば足りるのではないのでしょうか。

 それとも論説委員は、皇位継承権を男系男子に限定する現行憲法を改めよと主張されるのでしょうか。もしそうなら、この社説のタイトルに「憲法の理念に忠実に」は相応しくありません。

 社説は、時代に相応しい御代替わりのあり方を再検討し、国民に説明すべきだと政府に求めていますが、ジャーナリズムこそ天皇の歴史と伝統の価値を学び直すべきではありませんか。


▽4 皇室の歴史と伝統の意味

 社説はまた、自民党内に旧憲法を懐かしみ、天皇を神格化する空気が根強いことに懸念を示していますが、思想・良心の自由は現行憲法で認められています。

 もっとも後者についていえば、戦後唯一の神道思想家と言われた葦津珍彦が書いているように、天皇は古来、祀られる神ではなくて、みずから神々を祀るお立場なのです。古代の律令には「およそ天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」と明記されています。昭和天皇は現人神とされることに否定的でした。

 懸念されるのは、天皇の神格化ではなくて、天皇が多神教的祭祀を行われることの歴史的意義が十分に理解されず、価値多元主義的意味が見失われていることではないでしょうか。朝日新聞の社説はまさにその典型です。

 今日、天皇・皇室のあり方をめぐって議論が混乱する理由のひとつは、そうした皇室の歴史と伝統が理解されず、その一方で、憲法の国民主権主義との衝突が過度に強調されるからです。この社説はその一例に過ぎません。

 社説は明治憲法にノスタルジアを感じる保守派を牽制しますが、日本国憲法とてけっして「不磨の大典」ではあり得ません。

 明治人は国務法と宮務法を別体系としましたが、現行憲法では両者が一元化され、皇室典範は下位法と位置づけられています。それでいて、日本国憲法施行とともに全廃された皇室令に代わる明文法は、70年経ったいまなお整備されていません。これでは混乱した議論が収束するはずはありません。

 国のあるべき姿を、先入観ぬきで、歴史的に、多角的に、謙虚に検討し直していただくことはできないでしょうか。
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国事行為しか認めない憲法にこそ問題がある ──朝日新聞発行月刊誌掲載の横田耕一論考を読む [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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国事行為しか認めない憲法にこそ問題がある
──朝日新聞発行月刊誌掲載の横田耕一論考を読む
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 明けましておめでとうございます。
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 陛下の譲位(退位)がいよいよ来春に迫りました。政府は来週にも、今上陛下の退位と皇太子殿下の即位に向けて準備組織を発足させると伝えられます。即位の礼・大嘗祭の日程も具体的に聞かれるようになりました。

 事態は先へ先へと進んでいますが、年の初めに当たり、改めて、今回のご譲位問題を振り返り、検証することは意味のないことではないでしょう。少なくとも千数百年におよぶ天皇の歴史に何が起きているのでしょうか。


▽1 「憲法の原点に立ち返れ」

 今回は考える材料として、朝日新聞社が発行する月刊誌「Journalism」一昨年11月号(特集「いまこそ考える天皇制」)に載った横田耕一九大名誉教授(憲法学)の「務め過多の象徴天皇像を前提とせず──憲法の原点に、いま一度立ち返ろう」を取り上げます。

 一昨年夏の陛下のビデオ・メッセージのあと、そのご真意を探り、象徴天皇のあり方を根本的に考えようとする企画で、寄稿を求められた4人の筆者の論考の1つです。

 横田先生は私とは異なる思想的お立場なのでしょうが、それゆえに、より根源的に考えるヒントを与えてくれそうです。

 先生のご主張は、要するに、日本国憲法は国事行為以外の公的行為を認めていないにもかかわらず、天皇は能動的な活動を行い、政府も国民もこれを容認し、受け入れてきた。それで公務が多すぎるというのなら、憲法の原点に帰り、憲法に反する天皇の行為を見直すべきだ、ということのようです。

 天皇の「お気持ち」には、憲法上、説明しがたい「務め」が多すぎること、天皇ご自身の「あるべき象徴天皇像」がそれをもたらしていることがうかがえる。したがって、「生前退位」問題を考えるには、その是非は別にして、それらの「務め」が必要不可欠なのか、憲法の原点に立ち返るべきではないか、と訴えておいでです。


▽2 国民は知っている

 先生の論考はWEBRONZAで全文を読むことができますので、ご興味のある方はそちらにアクセスしていただきたいと思います。URLは以下の通りです。
http://webronza.asahi.com/journalism/articles/2016102800006.html

 指摘したいことはいくつかありますが、1点だけ申し上げます。それは、先生は「憲法上の疑念」を指摘されますが、むしろ憲法にこそ問題があるのではないか、ということです。天皇に国事行為「のみ」を認め、政治的権能を認めない、日本国憲法の限界です。

 じつのところ、そのことを、多くの国民は百も承知なのでしょう。今回の一連の経緯を振り返ると、私にはそのように思えます。

 先生は、議論の出発点を一昨年8月8日のビデオ・メッセージに置いています。しかし、陛下が「譲位」のご意向を最初に示されたのは、8年も前の平成22年7月の参与会議といわれます。

 近代以降、終身在位制度が採られ、譲位は認められていません。しかも、憲法は天皇の政治的権能を認めておらず、天皇のご発意に基づいて、政府や国会が皇室制度の改革を進めることは憲法に抵触します。

 したがって側近たちは、職を賭してでも、陛下を説得し、思い留まっていただくべきだったと思いますが、逆に、退位の仕組み作りに走り出しました。そして、ご意向が物語の始まりだった事実関係を逆転させ、憲法の国民主権主義が出発点となるように、無理矢理ストーリーを書き換える荒技に打って出たのでした。

 関係者によるリークと思われるNHKのスクープは、メディアを利用して世論を喚起する仕掛けであり、さらにテレビを通じた「お気持ち」の表明は、国民の総意に基づく退位の気運を創出するための世論工作だったことが容易に想像されます。


▽3 放置してきた為政者の不作為

 宮内庁は陛下の「お気持ち」を国民に対して、正式に説明することさえしませんでした。あくまで起点は「国民の総意」でなければならないからでしょう。「生前退位のお気持ちを強くにじませた」という枕言葉付きで「お言葉」を伝えたのは、宮内庁ではなくて、メディアでした。

 現実を憲法に力尽くで整合させた不自然な運用のあり方は、そのようにしなければならない憲法の規定にこそ、むしろ問題があることを示しています。けれども国民はみな知り尽くしています。

 多くの国民にとっての天皇は、先生が仰せの、国事行為しか認められないという日本国憲法的な存在ではなく、たとえば王朝文学に親しみ、雛祭りを祝ってきたというような、憲法だけでは語れない多面的な存在です。先生は「(日本国憲法上)明仁天皇は2代目の天皇である」と仰せですが、国民にはあくまで125代続く歴史的な天皇なのです。

 国民が支持している象徴天皇とは、日本国憲法が定める象徴天皇ではなくて、歴史に基づく象徴天皇なのです。

 国と民のために祈られ、国民と親しく接せられる天皇像は、横田先生には憲法違反と映るかも知れませんが、多くの国民が圧倒的賛意を示していることは、古来、さまざまな形で天皇と民の間に深い絆が築かれてきた日本の歴史の反映です。

 そのような関係性に目を向けない、日本国憲法原理主義こそ改められるべきでしょう。ご譲位問題をめぐって疑念の対象とされるべきなのは、国事行為以外を認めないとする憲法のあり方でしょう。

 さらなる問題は、より望ましい憲法体制もしくは天皇制度が模索されてしかるべきなのに、戦後70余年、放置してきた政治の不作為です。これが陛下のお悩みの真因だろうと私は思います。

 とくに、「皇室の私事」とされている宮中祭祀の位置づけは、見直されるべきでしょう。

 先生は、憲法上、天皇は「国民統合の象徴」と規定されているけれども、「国民統合」を積極的に果たすことを期待されるわけではないと解説しておられますが、「国中平らかに、安らけく」と祈られ、国と民をまとめ上げてきたのが、古来の天皇です。


▽4 たちの悪い官僚社会

 横田先生の論考には、お言葉にある「何よりも国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて」という陛下の祭祀への言及が抜け落ちています。先生が「私事」と切り捨てる祭祀こそ、皇室の伝統からすれば、皇室第一のお務めです。

 敗戦後の神道指令で、宮中祭祀=「皇室の私事」とされたことに、占領期の政府は不満で、「いずれは法整備を図る」という方針だったようですが、独立回復後も実現への動きはなく、それどころか、いまや側近たちは「私事」説に先祖返りしているようです。

 そして、陛下のご高齢とご健康問題を理由として、ご公務ご負担軽減が求められ、その結果、昭和の悪しき先例を踏襲する祭祀簡略化が敢行され、一方でいわゆるご公務は減るどころか、逆に増えました。

 先生は日本国憲法が求める「象徴天皇像」が脅かされることを危惧しておられますが、祭り主たる伝統的天皇像の否定こそ、むしろ憂慮されます。

 先生は、限界が不明確なまま「公的行為」が大幅に拡大していることを問題視しています。まさにその通りですが、具体的には何が増えているのか、ご存じですか。

 宮内庁がもっとも気にしていたのは「拝謁」の多さでした。春秋の勲章受章者の拝謁などはほぼ延べ1週間にもわたって続きます。宮内庁といえば外務省OBが幅を効かせる組織ですが、ご負担軽減策にもかかわらず、外務省関連の「お茶」はいっこうに減りません。

 先生は「過多であれば制限すればよい」と簡単に仰せですが、たちの悪い官僚社会の現実と問題提起すらままならない政治の不作為を打ち砕くのは容易ではありません。

 法的基準の不明確な拝謁やお茶を削減できるなら、「生前退位」だ、皇室典範改正だと騒ぎ立て、国民的議論をあおる必要はありません。ところが、ご多忙なご公務を婚姻後の女性皇族にも分担していただくためと称して、皇室の歴史にない「女性宮家」創設論さえ飛び出しています。議論すべきテーマはほかにあります。
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